中米およびグアテマラ年表その1

1999.9 この年表では北と南からの征服に始まり,グアテマラ総督領が形成されてから,それがスペインからの独立を経て五つの小国に分かれていくまでの経過をまとめてあります.時期は多少の出入りはありますが,1840年前後までです.
分かれた後はそれぞれの国の年表につながっていきます.ただしニカラグアについては,別にニカラグア年表中に記載されています.1840年以後の各国年表に行くには以下のリンクをクリックしてください.

グアテマラ  エルサルバドル  ホンジュラス  ニカラグア  コスタリカ

中米の征服 グアテマラ総督府の創設 1700 独立への胎動 中米連邦 カレラの時代

 

グアテマラの歴史ではコロンブス以前のマヤ文明が重要です.ラテンアメリカ全体の年表の最初にまとめていますが,いずれ分けなければならないと思っています.

そろそろ分けなければならないときがきたようです。マヤ文明史は極めて膨大で、本気でやるならそれだけでひとつの年表を起こさなければなりません。
世界中にマヤ狂いがいてすさまじい量のドキュメントを発表しています。ここではお付き合い程度に (Jul.2007)

 

BC1万年頃 この頃から人類が住み着く。

BC6500年頃 高地地方のキチェ、中部太平洋岸のSipacate, Escuintlaで住居跡の遺跡。

BC3500年頃 太平洋の海岸部とペテンでトウモロコシ耕作が始まる。

BC2500年頃 太平洋岸のTilapa, La Blanca, Ocos, El Mesak, and Ujuxteなどで集落跡と陶器類が発見されている。その後太平洋岸からアンティグア=グアテマラ渓谷に陶器文化が波及。

BC1800年頃 前期前古典期: 太平洋岸のエスキントラ県La Democracia近郊のモンテ・アルトで巨大石頭文化が出現。プレ・オルメク族が担ったとされる。その後オルメク族様式の文化がSuchitepequez県Chocola、Peten県のLa Coronaに拡大。Retalhuleu県のTak'alik A´bajでは最初の古代都市を形成。(レタルレウと聞くとプラヤヒロンに攻め込んだキューバ反革命部隊の秘密訓練基地を思い出してしまいます)

BC1500年頃 中期前古典期: ペテン県北部のミラドール盆地に、初の古代国家「カン王国」が誕生する。Nakbeで宮殿遺跡が発見されている。Richard Hansenによれば、これは中央アメリカでの母文化であり、オルメク文化とは別系統の可能性があるとされる。Hansenはミラドール盆地の文化と太平洋岸のオルメク文明がTak'alik Abajなどで出会い、融合したと示唆する。しかしミラドール文化がマヤの直接の源流だという証拠はない。

BC1000年頃 晩期前古典期: グアテマラ北部に濃密な巨大寺院の遺跡群(El Mirador, Nakbe, Tikal、Tintalなど)。高地にもイサパ文化の影響を受けたサンマルコス県ラ・ブランカの祭壇、グアテマラ・シティーのエル・ナランホ遺跡、バハ・ベラパス県のEl Portonなど、全国にマヤ文化が広がる。

(前古典期の時期については諸説あり、中期をBC900より、後期をBC500年よりとする記載もある)

BC100年 イロパンゴ火山の噴火にともない、先住民はグアテマラペテン低地など低地マヤ地域に避難し、低地マヤ文明を展開。

378年 古典期が始まる。ティカルにメキシコのテオティワカンゆかりの強力な王朝が建てられ、メキシコ、カンペチェ州のカラクムルと「優越王」として覇を争うようになる。グアテマラの高地のカミナルフューもテオティワカンに征服される。

426 テオティワカンの影響下にキニチ・ヤシュ・クック・モーが、モタグァ川流域のコパンに新王朝を興す。

822 コパン王朝が滅亡。

900年頃 ペテン低地のマヤ文明は衰退。祭祀センターは放棄される。

900年頃 メキシコのナワトル人の一部がオルメケス族の追跡から逃れて、エルサルバドルに住み着く。何回かの移住が繰り返されピピル人の原型を構成。元々の住民であるレンカ(LENCA)人を押しのけ、西部地域を支配する。

1000年頃 後古典期が始まる。北方のチチメカ人が侵入し、その影響を受けてキチェー王国やカクチケル王国などが成立する。

1100年頃 メキシコ北部から中央高原を経てこの地に至ったナワトル系のピピル人が定着。

 

中米の征服

 

1500

1400年頃 ソロラ県高原地帯でマヤチチメカ両文明の影響を受けた国家が成立。キチェカクチケルツトゥヒルの三国が覇権を争う。

キチェ人の歴史についてはポポル・ヴフ、カクチケルの歴史についてはカクチケル年代記(ソロラの覚書)に伝えられている。

1500年頃 キチェ(Quiche)王国がソロラ地方を統合。キチェのキカブ王はカクチケル(Cakchiquel)に対し、首都チアバル(現在のチチカステナンゴ)を放棄しイシムチェ(Iximche)へ撤退するようもとめる。カクチケルはイシムチェを拠点として抵抗を続ける。ツトゥヒルは隠忍自重し力を蓄える。

1502 7.30 コロンブス,Guanajaの島沖に到着."Isla de Pinos"と名づける(現在のホンジュラス沖のベイ諸島か?)

12 グアテマラ高地ソロラ県を中心に、アステカと手を結んだカクチケル国と,キチェ国の間に戦争が始まる.

14 グアテマラ内戦,キチェが優位に立つ.カクチケルの首都イシムチェは戦火によりほぼ壊滅.

18年 ファン・デ・グリハルバ、キューバからユカタンの海岸へ到達。植民地建設を目指すも失敗。

19 コルテスのアステカ帝国侵入の知らせを受けたカクチケルとキチェはいったん停戦に合意.

19年 ペドラリアスが太平洋側の拠点としてシウダ・パナマを建設。ここを拠点としてエルナン・ポンセ・デ・レオンとファン・デ・カスタニェーダが海岸沿いに探検。コスタリカ付近まで達する。

21 キチェ国,カクチケルへの攻撃を再開.

22年 パナマを出発したヒル・ゴンサレス・ダビラ,中米西岸を探索しコスタリカからニカラグアにいたる.

1523年

23 ヒル・ゴンサレス探検隊の別動隊を率いるアンドレス・ニーニョは、海岸沿いに進みフォンセカ湾に達する.ロドリゲス・デ・フォンセカ司教の名をとり命名.

23 カルロス一世,コルテスに中米両岸を探索し,二つの海をつなぐ水路を発見するよう命じる.コルテスの部下ルイス・マリン,チアパスに進出し,エスピリトゥ・サントの町を建設.

12月 ペドロ・デ・アルバラド,グアテマラ総監兼総督に任命される.ソコヌスコのインディオ反乱を抑え,さらに南の地方を探るため遠征に出発.砲4門,騎兵135,歩兵3百など420名のスペイン人とトラスカル人同盟軍をひきい,グアテマラ太平洋岸に上陸,高地へ向けて侵入を開始する.キチェ王国の南端セラフを攻撃開始.

1524年:グアテマラ征服

1月 コルテス,パナマのペドラリアスの中米進出に警戒感.ゴンサレス・クリストバル・デ・オリドをイゲーラスに送る.オリドはキューバからホンジュラス入り(一説にメキシコ経由).

(当初ホンジュラスの動向もこの年表に入れていましたが、アルバラードのグアテマラ。エルサルバドル征服と時期が重なり,非常に見にくくなったため、ホンジュラス年表に移します。ニカラグア征服は、部分的には交錯していますが基本的には別な流れになるので、ニカラグア年表に記載してあります。なおモンテホのユカタン征服も、すでにメキシコ年表に移動済みです。 2011年1月)

2月 キチェと長年対立してきたカクチケル王国は,アルバラードと手を結ぶ.

2.20 アルバラード軍,ケサルテナンゴ近郊セラフー(Xelaju)でキチェの精鋭3万人と対決しこれを殲滅.キチェ国のテクン・ウマン将軍は焚刑に処せられる。アルバラードは「主だった人物を殺害した」とコルテスに報告。

グアテマラではこの日がテクン・ウマンの記念日とされている。一説では1960年代の大統領イディゴラスがでっち上げた記念日とも言われ、それほど盛大に祝われているわけでもなさそうである。

4月初め アルバラード、キチェの首都クマルカフ(現ウタトラン)を陥落させる。カクチケル人はアルバラードを自らの首都イシムチェに迎え、共同してツトゥヒルとの戦争を開始。

4.20 ツトゥヒルの首都 ツィキナハが陥落する。

5月 アルバラド,スペイン人250人とインディオ6千人を従えさらに南下を続ける.海岸平野沿いにエルサルバドルに侵入.アカフトラ近郊のアカフアル(Acaxual)に到達。さらにピチウアテオカン(現サンタアナ)、アウアチャパン、ソンソナテへと進撃する。

6.08 アカフトラ(Acajutla)の闘い。アトラカトルが率いるピピル軍の前に敗退。アルバラードも左脛に一生残る傷を負う。アトラカトルは「綿の鎧」を着て長い槍を携えていたといわれる。

7.25 アルバラド,グアテマラ全土をほぼ平定.カクチケル族の首都イシュムチェ近郊のテクパンを首都とし,シウダ・デ・サンチアゴ・デ・ロス・カバジェーロス・デ・グアテマラと命名する.(一説では、その前に現在のシウダ・ビエハ近くに首都を定め、その後テクパンに移ったという。

イシムチェ: ガイドブックには「テクパン郊外の標高2,260mの山岳地帯に急峻な山に囲まれた城砦都市イシムチェの遺跡がある」と記載されている。元々キチェとの戦いに破れ追われたカクチケル人が立てこもったところであるから、とても中米全体を仕切る首都をおくところではないだろう。また、テクパンを首都にしたのはカクチケルの支援を当てにしたからであり、彼らが寝返れば、テクパンは首都として最も不適当な場所になる。

8 アルバラドはピピルと同盟を結びトシュトゥヒル族を殲滅.アカフトラをへてクスカトランに達する.クスカトラン (Cuzcatlán)とはピピル語で「宝石の地」を意味する。

12 アルバラード,ピピル族のクスカトラン,アトラカール両王国を制圧.ピピル族は山岳部に入り抵抗を続けたため,アルバラードはいったんイシュムチにもどり部隊を再編.

1525年 

3月 アルバラード,ふたたびエルサルバドルに侵入.ピチウアテオカン(現サンタアナ),アウアチャパンを制圧.

4.01 ソンソナテおよびベルムーダ(スチトト近郊)の2市を建設.従弟のディエゴ・デ・アルバラードをベルムーダ市長に任命.

(一説ではディエゴ・アルバラードがこの作戦を指揮し、サンサルバドルを建設したとある)

5 アルバラード,グアテマラのカビルドの承認を受けベルムーダをビジャ・デ・サンサルバドルと改称する.

25年 アルバラードの弟ゴンサロ,マヤの支族サクレウを討伐.首都ミシュコ・ビエホ制圧.

25年 エルサルバドルに進出したアルバラード、ニカラグアに進出してきたコルドバと境界について合意。ヒル・ゴンサレスは両者の合意を知りニカラグア征服を断念しホンジュラスに退却。

1526年

26年 パナマを離れレオンに進出したペドラリアス、コルドバをコルテスに内通し反乱を図ったとし処刑。

26年 フランシスコ・デ・モンテホがアルバラードのグアテマラ専断に抗議。アルバラード、本国に戻り政界工作を展開。

26年 アルバラードに協力してきたカクチケル人、圧制に抗議して同盟関係を破棄。仇敵キチェとも共闘し征服に抵抗する。みずから首都イシュムチェを放棄、脱走兵の放火によってイシムチェは破壊される.(小規模な反乱は征服直後から始まっていた)

26 コルテスの部下フランシスコ・デ・モンテホ,国王にマヤ王国遠征を申請しアデランダードの承認を受ける(マヤ王国征服についてはメキシコ年表に)

1527年 カクチケル族の反乱

8 メキシコのアウディエンシアで,アルバラードのグアテマラ専断に関して批判が高まる.アルバラード,政界工作のため本国に戻る.ペドロ・ポルトカレーロが引き続きグアテマラ平定にあたる.

11.22 ホルヘ・デ・アルバラード、アロテナンゴ谷(Alotenango)に遷都。現在のサン・ミゲル・エスコバル付近に相当する。名称はおなじ。現在のグアテマラ・シティーに対しシウダ・ビエハと呼ばれる.(アルモロンガ盆地との記載もある)

12 グアテマラとニカラグアに総督制の導入が決まる.カルロス5世はモンテホの抗議を退け、アルバラードをグアテマラ,ペドラリアスをニカラグア総督に任命する.

1528年

28年 ペドラリアス,パナマに対抗してニカラグア領内を通る両洋間ルートの開設を提唱.ペドラリアスの部下マルティン・エステテとガブリエル・デ・ロハスが太平洋岸をエルサルバドルまで探索.ニカラグア領を宣言.

28 ホルヘ・アルバラド,ペドラリアスに対抗してエルサルバドルに進出.ピピル族の抵抗のため,いったん放棄したサンサルバドルを再建.エルサルバドルの支配権を確定.ふたたび本国にわたり,自らの版図を認めさせる.

28年 エルサルはグァテマラ総督領の一部となり、スペインによる植民地統治が始まる。カカオ栽培、バルサム(香油)、藍(染料)製造が営まれた。原住民が奴隷貿易の対象となった形跡は認められていない。

1530年

30年 カクチケルの3年にわたる反乱を鎮圧したアルバラードは,先住民を奴隷として売り飛ばす.

30年 南海進出を目指すアルバラードは、太平洋岸のプエルト・サンホセで造船を開始.

30年 アルバラードの部下ルイス・デ・モスコソ,エルサルバドル東部にサンミゲルを建設.

30 Pedro de Alvarado,グアテマラからイゲーラスに進出.

30 北部ニカラグア,ホンデュラスの中央高地で砂金の採集が盛んになる.グラシアス・ア・ディオス,トルヒーヨ,サンペドロなどが中心地として発展.20年ほどでこの金ブームは終焉.

1531年

31年 ニカラグア司教区が創設される.

31年 ペドラリアス,レオンで死亡.このあとニカラグア政府は弱体化し,混乱が相次ぐ.

33.3 インディアス枢機会議,パナマとグアテマラの植民者に対し,インディオの奴隷化を認める.

1534年

34年 スペイン王室,旧ホンジュラスをホンジュラスと西部のイゲーラス(HIGUERAS)に分割する裁可.イゲーラスは実質的にグアテマラの支配下に入る.アルバラードの支配はエルサル,ホンジュラス南部,ニカラグア西部まで及ぶ.アルバラードの指示でニカラグア領内にレアレホの町が建設される.

34年 ピサロのインカ帝国征服を聞いたアルバラード,エクアドル征服の旅に発つ.翌年,ベナルカサルに先を越され,失意のうちに帰国.

34年 ニカラグアに続きグアテマラに司教区開設.フランシスコ・マロキン,最初のグアテマラ司教に任命され赴任.

34年 パナマ地方を調査したペドロ・デ・アンダゴヤ,地峡を掘削して水路を切り開くことは不可能と報告.

1535年

35年 ラスカサス,ニカラグアに到着.レオンにドミニコ修道会を開設.

35年 インカ帝国の財宝によりブームとなったパナマにアウディエンシア開設.

1536年

36年 チアパス,トラスカラ司教区の管轄からグアテマラ総督府に移管.

36年 ラスカサス,先住民の扱いをめぐりニカラグア政府と衝突.グアテマラに向かう.

1537年

37 ラス・カサス,グアテマラの未征服地トゥストゥラで布教開始.自らの信念にもとづきスペイン人軍人を同行せずいわゆる「平和的植民計画」を実施.布教に成功したあと地名をベラパス(真の平和)と改称.

37年 アルバラード,本国に一時帰還.ホンジュラスの利権に絡み王室に工作.ホンデュラス総督の兼務を認めさせる.(39年間でスペイン滞在)

38年 インカ帝国の征服にともない,パナマにアウディエンシアが設置される.ニカラグアより南方,ペルーに至る全領土を管轄するものとなる.

1539年

39 1万5千の原住民がその後の数年間で8千に減少.アルバラドはスペイン人流出を食い止めるため,本国より未婚女性20人を連れ帰る.

39 パナマ司教トマス・デ・ベラルガ,コスタリカを植民地にしようと試みるが,先住民の抵抗に合い撤退.

39 アロンソン・カレーロ、カリブ海岸に沿ってノンブレ・デ・ディオスからホンジュラスまで航行・探索.

1540年

40年 ディエゴ・グティエレス,コスタリカを探索.成果を生むことなく帰還.

40年 勅令でグアテマラ中央高地先住民の居留地の設置が決められる。

40年 アルバラード,インドネシアのモルッカ諸島を目指し航海の準備に入る.アカプルコ港で出航の準備中のアルバラード,メンドサ副王のシボラ遠征計画を聞き,予定を変更してメキシコ北部に向かうこととする.

40年 フランシスコ・モンテホ、アルバラードに代わりホンデュラス総督になる。

1541年 アルバラードの死

6.29 ヌエバ・ガリシア滞在中のアルバラード,ミシュトン戦争鎮圧に出動.無鉄砲な攻撃をかけるが敗れ,退却中に事故死.。56歳。遺体はミチョアカン州モレリア近郊のパツクアロに埋葬される。

8.29 グアテマラにアルバラド死亡の知らせが到着.妻ドニャ・ベアトリス・デラ・クエバ,アルバラドの後継となることを宣言.

9.09 サンチアゴ・デ・グアテマラのカビルド,ベアトリスの後継就任を承認.

9.11 ボルカン・デ・アグアの火口湖が地震と豪雨により決壊.シウダビエハは土石流で崩壊.ビアトリスは水害にまきこまれ2日後に死亡.ほかにスペイン人6百人が死亡.生存者はベアトリスの兄弟フランシスコ・デ・ラ・クエバを総督に指名.

1542年

6 水害からの生存者,シウダビエハ北東24キロのエル・パンショイ(Panchoy)渓谷に移り,第三のサンチアゴ(現アンティグア)を建設開始.マロキン司教が再建の中心的役割を果たす.

42 サンサルバドル,地味不良のため南西40キロのラス・アマカス(Hamacas)渓谷に移設(一説に45年).

1543年

3.10 パンチョイ渓谷に作られた町が、同じ名前で首都として発足。現在のアンティグアとなる。新大陸でメキシコ,リマにつぐ第三の街として発展する。

43年 ペルーに新たに,メキシコと並ぶ副王領が設置されることとなる.これにともないパナマのアウディエンシア機能は縮小.

43年 中米地域を統括するアウディエンシア・デ・ロス・コンフィネスの創立が決定される.タバスコ、ユカタン、チアパスからパナマまでを管轄することとなる.

 

グアテマラ総督府の創設

1544年

44 チアパスに司教区が新設される.ラス・カサスがチアパスの司教として赴任.「新法」を実施しようとして現地植民者と衝突.

44 インディアス新法に基づきグアテマラ総督府創設.メキシコ副王領内で自治制をとる.コスタリカを除く中米4カ国およびチアパス州が編入される(一説ではグアテマラ,ベラパス,ホンジュラス,ニカ,コスタリカ,ベラグアを管轄).アウディエンシアはホンデュラスの金鉱の町グラシアス・ア・ディオスに設置されることになる.

 

46.9.1 サンサルバドル,エルサルバドル州の首都に決まる.

47年 グアテマラ中央高地の先住民居留地にソロラとサンティアゴ・アティトランが建設されフランシスコ会ドミニコ会が布教活動を開始する。

49 グアテマラ在住スペイン人の抵抗によりグラシアス・ア・ディオスのアウディエンシア廃止.これに代わりアンティグアにアウディエンシアを設置することが決定.中米全体の首都となる(1565〜70のあいだを除く).

50 グラシアス・ア・ディオスのアウディエンシア,アンティグアに移設.これにともないパナマに,グアテマラと分かれ,新たにアウディエンシアを設定.

50 コントレーラス兄弟はニカラグアでの権利を復活しようと,ニカラグアおよびパナマで反乱を起こす.ペルーから駆けつけたペドロ・デ・ラ・ガスカにより,反乱は鎮圧されるが,ニカラグア領内ではコントレーラスの抵抗が半世紀にわたり続く.

56 カルロス一世,フェリペ二世に譲位.

57 コロンブスの子孫,中米に対するすべての権利請求を放棄.称号と年金を与えられる.

58 エルサルバドル,グアテマラ総督領に編入(当時の国名はサンサルバドル).総督府は先住民の多い西1/4を,ソンソナテ自治区とし,総督府の直轄下におく.現在のソンソナテ,サンタアナなど,ピピル族がイサルコと称していた地域.

58 エリザベス一世が即位.エリザベス女王の時代を通じて,カリブ海での英国私掠船の活動が活発化.

60 タバスコとユカタン,グアテマラのアウディエンシアを離れ,メキシコ副王直轄領に.

61 フアン・デ・カバジョン,初めてコスタリカへの殖民に成功.

62 フアン・バスケス・デ・コロナド,コスタリカ征服を開始.65年に支配を確立し,カルタゴの町を建設.

63 カリフォルニア探検をおこなったフアン・バスケス・デ・コロナド,コスタリカ開発の責任者となり赴任.カルタゴ市を建設,コスタリカの首都となる.息子のゴンサロ・バスケスが,初代のコスタリカ総督に就任.牧畜を広げる.

63 パナマのアウディエンシア,グアテマラを離れペルー副王領に編入.コスタリカはふたたびパナマのもとに復帰.ニカラグアもパナマ管轄下に入る.

63 グアテマラのアウディエンシアがパナマに統合される.総督はそのままグアテマラに残る.(これについては諸説あり,真相は不明.おそらくアウディエンシアの管轄範囲とグアテマラ総督領が異なっているためであろう)

67 グアテマラにアウディエンシアが再設立されることが決まる.実際の開設は70年.管轄はチアパスからコスタリカまで.パナマはグアテマラ総監(カピタン・ヘネラル)領から除かれる.

 

70 エルサルバドル西部のイサルコを中心にカカオ栽培が盛んとなる.製品はグアテマラやメキシコに輸出され,グアテマラの仲買人が財をなす.

71 この年のホンジュラス先住民人口は1万5千とされる.これに対し入植者数は300足らず.この状態は1700年ころまで続く.

73 ニカラグア,コスタリカ,グアテマラ総督領に編入.

73 コマヤグアがホンジュラスの首都となる.

78 ホンデュラス南東部山岳地帯に金鉱発見.テグシカルパ建設.コマヤグアとは分離してテグシガルパ領として支配される(1788年にホンジュラスとして統一).

82 イエズス会,グアテマラで布教活動を開始.

88 スペインの無敵艦隊,イギリス沖で壊滅的敗北.

98 フェリペ三世が即位.

 

1600

00 エルサルバドルのカカオ栽培,労働力不足からカラカスやグアヤキルに押され衰退.これに代わりインディゴ(藍)の生産が盛んとなる.

01 コスタリカでカルタゴと太平洋岸のチリキ間の道路が開通.らばによる輸送が盛んになる.

05 グアテマラの大西洋岸にプエルト・サント・トマス・カスティーリャが開港.プエルト・カバーリョスが海賊により破壊されたのを受けたもの.グアテマラの大西洋岸の港はコロニアル期を通じて数度移設されている.いずれもアマティク湾とゴルフォ・ドゥルセの間に位置する.

10 ニカラグアのレオン市,度重なる地震や火山の噴火を避けるため移設される.

22 コスタリカ,パナマへの統合を求めるが,パナマはこの要請を拒否.

30 イギリスの清教徒が,プロビデンス諸島に殖民.まもなく中米の大西洋岸にイギリス人が木材を求めて来航.

35 エルサルバドル東部にサンビセンテの町が開かれる.インディゴの集散地として発展する.

36 インディゴ,タバコの輸出がさかんとなる.この年から農産物に関税がかけられる.

42 イギリス海賊,38,40にあいついでホンデュラス沿岸諸都市を攻撃したあと,ロアタン諸島(ベイ・アイランズ)に恒久的基地を建設.

43 オランダ人海賊,トルヒーリョを襲撃.スペイン人はトルヒーリョの町を放棄.(1789年再建)

55 英国,ジャマイカを占領.大陸との密貿易の拠点となる.

60 ロッグウッド採集の英国人,ベリーズ川河口付近に定着.

60 ホセ・デ・ピネーダ・イバラ,中米最初の印刷機を導入.

60 海賊がホンジュラスのプエルト・カバーリョスを襲撃.町を焼き払った後,さらに内陸部に進出.サンペドロ・スーラを占拠.

62 オランダ人がニカラグアのブルーフィールズに植民地を建設.

65 モルガンとマンスフィールドの率いるイギリス人海賊が,サンフアン川をさかのぼりニカラグア湖に到達.湖岸のグラナダを焼き払う.さらに太平洋岸まで進出し,レアレホの町も略奪される.一行はさらにコスタリカを目指すが,カルタゴのある中央高地までは達せず.

70 英西条約,海賊行為に対して共同行動をとることで合意.イギリス,ベリーズに対するスペインの主権を認めた上で,ベリーズ川河口地域の使用権と英国人の居住権を獲得.

76 グアテマラにおける大学設置が認められる.81年にアンティグアにサンカルロス神学大学が設立される.

80 中米地方に伝染病といなごの大群があいついで襲来.

83 イギリス,スペインとの合意を批准.ジャマイカ法を布告.ベリーセにおけるスペインの主権を承認する.しかしその後もイギリス人木材業者や海賊の進出が相次ぐ.

97 グアテマラで大衆蜂起.武力により鎮圧される.総督府はあらたに都市警察を編成して,反乱の動きに対処.

97 ユカタン南部のペテン・イツァール湖畔のタヤサル(現フローレス),マルティン・ウルスア・イ・アリスメンディの率いるスペイン軍により制圧.タヤサルは最後の独立マヤ族であるイツァール族抵抗の拠点だった.

98 ウィリアム・ペイターソンの率いるスコットランド人集団が,ダリエンに入植.1年後に断念.

99 グアテマラとユカタンの合同部隊が,ラカンドーネスを攻撃.失敗に終わる.

 

中米独立への動き

1700

18世紀初頭 サント・トマス・チチカステナンゴの修道院で、キチェ語で書かれ た『ポポル・ヴフ』の原文が発見される。聖ドミニカ教派フランシスコ・ヒメネス神父は原文のまま写したうえで、スペイン語訳を付した。

02 スペイン王継承戦争が始まる.

05 スペイン政府,内閣制を導入.

06 トリビオ・デ・コシオ・イ・カンパ(Cosio y Campa)がグアテマラ総督に就任.10年間にわたり産業振興に力を注ぐ.

12 チアパスで征服以来最大規模のツェンダーレ(Tzendale)族の反乱.1年にわたる.

14 ホンジュラス会社が設立される.利益を生むことなく,まもなく破産.

17 グアテマラ全土をマグニチュード7.4の地震が襲う.アンティグア・グアテマラを始めとする都市のほとんどが壊滅.

20 本国政府,ホンデュラスの銀山の本格的開発に乗り出す.テグシカルパを中心に活況を呈する.太平洋岸の藍生産も発達し,フアン・フェルミナンド・デ・アイシネナらグアテマラの仲買商人らがコンスラードを形成し財をなす.

29 グアテマラで最初の新聞「ガセータ・デ・ゴアテマラ」(Gazeta de Goathemala)が発刊される.2年間にわたり発行を継続.

31 グアテマラ王立鋳造所の設置が認可される.33年に最初のコインが発行される.

33 ユカタン州長官アントニオ・デ・フィゲロア・イ・シルバ,ベリーセのイギリス人を駆逐.ほとんどのイギリス人はまもなくふたたびベリーセに戻る.

36 コスタリカのサンホセが開かれる.

39 ジェンキンスの耳戦争.エドワード・バーノン提督の率いる英艦隊がパナマのポルトベーロを破壊.

45 グアテマラ大司教が開設される.総督領全域の司教区を管轄することとなる.

47 ジャマイカ総督に保護されたモスキート族,コスタリカのマティナ渓谷に進出.同地域からスペイン人を放逐する.

48 グアテマラ会社が創設.しかし利益を得ることができず.

51 パナマのアウディエンシアが閉鎖される.パナマはグラナダ副王領の直轄となる.

51 グアテマラのエスキプラスに「黒いキリスト」を称える教会が設立される.

52 アルコールの専売制が導入される.

54 ペテン県の部隊による大規模なベリーセ制圧作戦.失敗に終わる.英国は各所に砦を築き,スペイン軍を撃退.

55 英国,スペイン軍の来襲に備えベリーセに港湾を建設.

56 サンチアゴ・デ・グアテマラで酒の専売法に反対する市民の暴動.

56 スペイン軍,モスキート族に奪われたマティナ渓谷の奪回に乗り出す.この戦闘でコスタリカ州長官が戦死.

59 カルロス三世が即位.一連の改革に乗り出す.

63 パリ条約締結.英国はホンジュラス湾周囲の要塞を放棄することで合意.しかし材木の伐採はひき続き認められる.

66 英国,自由貿易法を制定.中米地域と英領西インドとの密貿易が飛躍的に拡大.

66 スペイン政府,7年戦争で疲弊した財政を立て直すため,植民地に重税を課す.グアテマラでタバコ専売制と税金引き上げに抗議する市民の暴動.

70 スペイン,ホンデュラス湾のオモアに要塞を建設.イギリス人の駆逐に乗り出す.

70 グアテマラ総督領にインテンデンシア制導入.グアテマラ,エルサルバドル,コマヤグア(ホンジュラス),レオン(ニカラグア),チアパスの4インテンデンシア,およびコスタリカ・プロビンシアに分割.

73 アンティグア,フエゴ火山の爆発により壊滅.ラ・エルミタ渓谷に首都再建.その後アンティグアは部分的に再建され、アンテイグア・グアテマラとして現代に続く。

74 ペルー,メキシコ,コロンビアなど新大陸の植民地間の直接交易が許可される.

76.1.01 新首都,ヌエバ・グアテマラ・デ・ラ・アスンシオンと命名される(現グアテマラ・シティー).アウディエンシアも移される.これまでの首都はアンティグア・グアテマラと呼ばれるようになる。

76 スペイン本国で自由通商法が成立.

1779年 ガルベス総督の活躍

79 英西戦争開始.スペイン軍,ベリーセより英国人を駆逐.英植民者はロアタン,モスキート海岸へ避難.英軍はオモアを占領.英国の支援を受けたモスキート族がマティナをふたたび征服.1841年まで実効支配を続ける.本国政府はマティアス・デ・ガルベスをグアテマラ総督として派遣.

80 スペイン,米独立戦争へに対し支援.イギリスは報復行動としてジャマイカより中米各地を襲撃.ニカラグアのサンフアン・デル・ノルテ,ホンデュラスのオモア,カスティヨ・ビエホを占拠.

80 ガルベスはオモアを奪還,反撃に出たイギリス軍を迎えうち撃破.さらにハバナの応援を得てニカラグア遠征.サンフアン川流域に陣取るホレイショ・ネルソン指揮下のイギリス海軍を駆逐.

80 グアテマラ市を中心に痘瘡の流行.中米ではじめて種痘が開始され,流行は収まる.

82 ガルベス司令官,ロアタン,リオティントの英海軍を撃破し入植者を駆逐.モスキートのイギリス軍にも圧力を加える.

83 英西戦争終結,パリ平和条約締結.英国との闘いに勝利したスペインは,中米のカリブ海岸におけるスペイン側旧権利の回復とイギリス人の退去で合意.スペインは英国人の木材採伐権を認める.

86 中米にインテンデンテ制導入.それまでグアテマラ総監領はコマヤグア(ホンデュラス),レオン,ソコヌスコ,コスタリカの四つの総督領(ゴベルナドーラ)と,サンサルバドル,シウダ・レアル,テグシカルパなど九つのアルカルデ・マヨール領,ケサルテナンゴ,テトニカパン,アティトランなど19のコレヒドール領に分割されていた.これをあらためてグアテマラのアウディエンシア直轄領と,チアパス,コマヤグア,サンサルバドル,レオンの四つのインテンデンシア領,コスタリカなどのプロビンシアに再編.

86 ロンドン会議.イギリスはスペインのベリーズにおける主権を承認.ロアタンからの撤退とモスキートにおけるプレゼンスの縮小を呑まされる.ベリーズの木材採伐権は維持.

88 テグシガルパとコマヤグアが単一のインテンデンシアに統合される.

90 グアテマラのエリート,ホセ・アントニオ・ゴイコエチア,啓蒙主義の影響を受け自立への動きを模索.

93 フィリピンとの直接交易が認められる.レアレホとアカフトラが窓口となる.

94 「グアテマラ新聞」(Gazeta de Guatemala)発行.自由主義派の拠点となる.

96 スペイン,フランスと同盟を結び,イギリスに対抗.イギリスはベイ諸島をふたたび占領.セント・ビンセントから大量の黒人奴隷を送り込む.

96 ホセ・ドマス・イ・バリェ総督の指導の下に,王立経済協会「国民の友」設立.啓蒙主義の立場から改革を提言.

96 スペイン軍,イギリスの侵攻に備え,サンフアン川河口のサンフアン・デル・ノルテに要塞を建設.

97 中立国の中米貿易が許可される.これを期に米国の対中米貿易が飛躍的に拡大.英国船も米国籍を装って密貿易を続ける.

98 キー・セント・ジョージ沖でスペイン軍とイギリス軍が衝突.以後ベリーズ領有をめぐり,十数年にわたる戦争状態が続く.

99 急進化したグアテマラ経済協会(Sociedad Economica),王勅により解散.

99 中立国貿易法は破棄される.その後も米国の進出が続く.

99年 旧都サンチアゴ・デ・ロス・カバジェーロス、アンティグア・グアテマラとして再建される。

 

1800年

独立への胎動

01 アントニオ・ゴンサレス・モリネド・イ・サラビア総督が赴任.本国の戦費調達のため,重税が課せられたことと,連続の不作が重なり,厳しい経済不況を迎える.

03 カルロス4世,サン・アンドレス諸島とグラシオス・ア・ディオス岬以南のモスキート海岸を,ヌエバグラナダ副王領に帰属させる決定.

04 スペインと英国との戦闘が始まる.英国の支援を受けたモスキート族が各地で攻勢をかける.

08 グアテマラのアウディエンシア,ゴンサレス=モリネド総督を先頭に,フェルナンド支持の立場を確認.本国のナポレオン支配に対してたたかうことを決議.

08 総督府,大司教の訴えを受け,ガセータ紙編集長シモン・ベルガーニョ・イ・ビジェガスを国外追放.

09 グアテマラのアユンタミエント,スペインの中央フンタの自由主義的傾向に対し異議を唱える.

10年 総督、7人の代表をカディス・コルテスに送る。さらに各地方の代表者会議を召集。

カディス議会の参加者: マヌエル・デ・リャノ(チアパス),アントニオ・ララサバール(グアテマラ),ホセ・アビラ(エルサル),ホセ・モネホン(ホンジュラス),ホセ・ロペス・デラ・プラタ(ニカラグア),フロレンシオ・カスティージョ(コスタリカ)ら.議会はホセ・デ・アイシネナを国家評議会のメンバーに指名.

1811年

10月 メキシコでイダルゴ神父に率いられた独立戦争が始まる。

11.05 サンサルバドルでスペインからの独立運動。エルサルバドルで独立派活動家の逮捕をきっかけに蜂起が始まる.当初の指導者はサンサルバドル生まれの教区司祭ホセ・マティアス・デルガドだった。

11月 デルガドの甥マヌエル・ホセ・アルセ中佐が独立軍を組織。サンチアゴ・ホセ・セリス,ペドロ・パブロ・カスティージョなどの将校が加わる.グアテマラの修道士たちも参加.インディゴ輸出業者が支援.

11月 サンサルバドルの参事会はアルセを大統領に擁立しサンサルバドル独立を宣言.1ヶ月にわたり政権を掌握するが、グアテマラの総督軍の前に敗れる。

11.29 ニカラグアのリバスで独立派の蜂起。これに続きグラナダのミゲル・ラカヨ大佐が反乱.

12月 ゴンサレス・モリネド総督,メキシコで発生したイダルゴの反乱鎮圧作戦に出動し戦死する.

12月 ホセ・デ・ブスタマンテ・イ・ゲラが総督に就任.ブスタマンテは本国議会の制定した自由主義的法律を停止,密貿易を厳しく取り締まる(1818年まで).

11年 テグシガルパでスペインの支配に対する反乱.反乱は失敗するが,テグシガルパはコマヤグアからの分離を実現する.

11年 グアテマラ経済協会が再建される.

11年 カディス議会,立憲君主制を採用.自由主義的傾向を強める.さらに新大陸原住民の貢納制を廃止すると決議.総督府は引き続きミタを原住民に強制.

1812年

1.10 マサヤでドン・ホセ・ガブリエル・オオランにひきいられたインディオの反乱.ついでスブティアバでもインディオ7,8千人がインディオ貢納の廃棄と奴隷制廃止を求め蜂起.一時レオンの地方長官を追い出し奴隷制廃止を宣言.

3 エルサルバドル独立派,総督軍により鎮圧,デルガドは投獄される.ホセ・デ・アイシネナ(Aycinena)がインテンダンテに任命される.グアテマラのベレン,ニカラグアのレオンでも蜂起が起きるが,いずれも総督軍により鎮圧される.

12年 ブスタマンテ総督は,コスタリカの守備隊を投入し,ニカラグアの反乱を鎮圧.その後「ブスタマンテのテロ」と呼ばれる恐怖政治を敷く.この間レオンは王室への忠誠を続ける.

1813年

5月 ニカラグアの独立派,サンカルロスの砦を占拠.反乱はただちに各地に広がり,独立運動へと発展.ニカラグア大司教を独立派総督に押し立てる.総督軍は蜂起に参加した人々を罰しないとして投降を勧めるが,投降者は裏切られ厳しい追及を受ける.

12月 グアテマラ市で,ベトレヘム会修道士フアン・デラ・コンセプシオンを中心とする秘密運動結成.指導者の逮捕により運動化せず.地方でもトトニカパンでインディオ指導者アナスタシオ・ツルによる蜂起.20日間で敗北.

13年 グアテマラとレオンに地方評議会(Diputaciones provinciales)が開設される.のちにシウダ・レアル(チアパス)にも設立.

1814年

1.22 サンサルバドルで二回目の反乱。前回より規模も拡大するが,総督の弾圧も強まる.指導者アルセは捕らえられ4年間の獄中生活を送る。

14年 フェルナンド七世が復位.1812年憲法を始めフンタのすべての決定を無効と宣言.カディス議会は消滅し、中米の本国議会での発言権もなくなる。

15年 サンフアン・オストゥンカルコ(Ostuncalco)で代官(Alcalde)に対する先住民の反乱.代官が異教信仰を禁じたことがきっかけとなる.

16年 モスキートの王ジョージ・フレデリック二世が,ベリーセで「即位」.ふたたびカリブ海岸に英国の保護領モスキート王国を建てる.

17年 グアテマラに宗教裁判所が再建される.

17年 ブスタマンテ,クリオーリョの抵抗を抑えることができず辞任.後任のカルロス・デ・ウルティア・イ・モントーヤ(Urrutia y Montoya)が赴任.最後のグアテマラ総督となる.

18 アウディエンシア,英国との密貿易を公認.中米に経済ブームが巻き起こるが,織物などの地場産業は壊滅.

19 グレゴール・マグレガー,パナマのポルトベーロを占拠.

20 スペイン本国に自由主義革命起こる.これに呼応してペドロ・モリーナがEl Editor Constitucionalを,ホセ・セシーリョ・デル・バジェが「祖国の友」を創刊.スペイン人と職人の支持を受ける.

1821年

21年 グアテマラ総督領のカルロス・ウルティア・イ・モントーヤ総督、病気のため職務を遂行できなくなる。これに代わりガビノ・ガインサ副総監(subinspector)が総督代行を務める.ウルティアはガインサの総督就任に反対したという。

21年初め ホセ・セシリオ・デル・バジェ、グアテマラ市のカビルド議長(市長)に選出される。「賢人」と呼ばれる。

2月24日 アグスティン・デ・イトゥルビデ将軍がイグアラでメキシコの独立を宣言した。"Religion, Independencia y Union"のスローガンの下で、カトリック国家、スペインからの政治的な独立と新しい秩序、全ての社会的・民族的グループの憲法のもとでの平等を掲げる。

4月10日 ガビノ・ガインサ総督は『イグアラ憲章』を非難し、スペイン王政への忠誠を誓う。

8月24日 メキシコ副王ファン・オドノフはイグアラ憲章を受け入れ、コルドバの条約においてメキシコの独立を認めた。

21年9月 第一次独立

9月8日 チアパス州、シウダ・レアル会議でイグアラ憲章を採択し独立を宣言。メキシコの独立運動に参加することを決定.グアテマラ総督領より離脱.

9.08 エルサルバドル州はサンサルバドル会議でイグアラ憲章の下の独立の意思を表明するが、採択に至らず。

9.14 グアテマラ総督ガビノ・ガインサ、チアパスやエルサルバドルでの離脱の動きを受け、中米諸州の代表を集め賢人会議を開催.大司教、軍司令官、グアテマラ市長と市議会有力者らが対応を協議する。

9.15 賢人会議と並行して、市議会が地方代表を召集し人民代表者会議を開催。独立宣言"Acta de Independencia"を採択する。

会議はホンデュラスのホセ・セシリオ・デル・バジェがイニシアチブをとった。バジェは保守派だが法律家として信望を集めていた。
バジェの起草した独立宣言に12人の独立運動家が署名.サンサルバドルの独立派とスペイン本国人官僚,特権商人,教会勢力と結んだグアテマラの保守派が手を握った.

9.15 代表者会議、「暫定諮問会議」を組織し、新政府の立ち上げに動く。諮問会議はガインサと会談し、1822年3月1日に制憲議会を開催すると告知。

9.15 ガインサ総督と諮問委員会の合意が成立。憲法制定議会確立までの間、諮問会議が暫定政府を担う、ガインサは最高権威者"Poder Supremo"として君臨する。

9月18日 ガインサ総督、メキシコ摂政のアグスティン・デ・イトゥルビデにグアテマラ総督領の独立を通告。

9.28 ホンジュラスの首都コマヤグアが市議会を開催。メキシコの自治領として独立すると宣言。スペイン領時代からのホセ・グレゴリオ・ティノコ・デ・コントレーラス知事がそのまま残留。

各州・地方の動向: テグシガルパの市議会(トマス・ミデンセ議長)は、グアテマラで設立される政府に加わり無条件独立を実現すると宣言。
 エルサルバドルはメキシコ併合をはかる動きには反対し、グアテマラで発表された独立宣言を承認.
 レオン,カルタゴはスペインからのみならず,グアテマラからの独立も宣言.
 パナマはスペインからの独立と,グラン・コロンビア共和国への参加を宣言.

10.03 メキシコ、グアテマラ総督領を自らの領土と宣言。

10.19 イトゥルビデがガインサに返書。メキシコとグアテマラの現在の利益は非常に同一で分割できない。中米はその存在または保証を危険にさらすことなく、独立した国であることができない」とし、イグアラ憲章とコルドバ条約に従ってメキシコと併合するよう呼びかける。

10月 イトゥルビデがビセンテ・フィリソーラ(Count de la Cadena)に中米遠征を命令。グアテマラ、パナマとカンペチェの平定を目指す。

11.18 「暫定顧問会議」がイトゥルビデに返書。みずからは決定権を持たないとしながらも、各市と諮って前向きに検討したいと答える。

12.11 ホンジュラス顧問評議会(Junta Consultiva)、「都市」の称号をテグシガルパに授け、市当局を「愛国的な」政権と評価する。

12月 ビセンテ・フィリソーラ軍がグアテマラ市に進駐。ガインサ政権に代わり、中央アメリカ連邦共和国の大統領を宣言する。グアテマラの保守的なリーダーはメキシコ帝国との併合に動く。(ガインサはしかるべき地位を与えるとの約束が反故にされ、メキシコシティーで文無しで死んだといわれる

12月 コマヤグアのティノコ知事はテグシガルパの反対派の押さえ込みにかかった。

1822年

1.05 メキシコのイトゥルビデ,メキシコ帝国への併合を決定.ビセンテ・フィリーソラを総督に任命し、シウダ・レアル,グアテマラ,レオンをそれぞれの首都とする三つのコマンダンシアに分割・再編.

先住民、メスティソの反乱を恐れるガインサとクリオージョ保守派は併合案を支持した。グアテマラはこの決定を支持,エルサルバドルは反対.コスタリカではサンホセ,アラフェラがコロンビア併合案,カルタゴがメキシコ併合案を支持し国内対立.

1.11 アルセの率いるエルサルバドル政府、メキシコの支配に反対し中米連合から脱退。

1月 ニカラグアでは併合を支持するレオン派とグアテマラ連合案のグラナダとが対立する.その後,メスティソ,インディオの反乱を恐れ,両者がメキシコ帝国への併合を支持する方向で合意.

2.03 ガビノ・ガインサは、テグシガルパの政治指導をディオニシオ・デ・エレーラにゆだねる。テグシガルパはティノコの弾圧と戦うため義勇軍を組織した。エレーラの甥フランシスコ・モラサンもこれに加わった。

2.10 エルサルバドルでフィリソーラを支持する併合派の反乱が起きる。ニカラグア,コスタリカでも両派の紛争が発生.

3.10 メキシコ議会が開かれる。グアテマラ代表の一人ホセ・セシリオ・デル・バジェがメキシコ議会の副議長に選出される。ホンジュラスからはコマヤグアとテグシガルパがそれぞれ議員を送る。

5月 メキシコ制憲議会,イトゥルビデを皇帝に選出する。イトゥルビデはアグスティン1世を名乗る.

5月 グアテマラのフィリソーラ軍はマヌエル・アルスーの部隊をエルサルバドルに送る。アルスーはサンタアナとソンソナテを制圧しサンサルに向かう。

6.03 アルスーはサンサルバドルに入りマヨル広場に到着。アルセ軍と9時間にわたる市街戦。多数の犠牲者と家屋の焼失をもたらす。

8.22 テグシガルパはコマヤグアとの争いに敗れ、メキシコとの併合を承認。

8.24 イトゥルビデ,議会を解散し独裁制に移行.政権の恣意的方針に反対したバジェは、メキシコ政府に陰謀を企んだとして逮捕・拘禁される。

10月 アルセはエルサルバドルで武装軍を組織,抵抗運動を開始.

12.02 エルサルバドルの自由党、米国に併合を要請。アルセが米国に赴く。

1823年

1 エルサルバドル議会が米国への併合を求める決議.

3 メキシコで共和革命が成功。イトゥルビデは戦闘に敗れ亡命.代って3人の軍人からなる臨時政府樹立.メキシコ共和国成立.

3月 メキシコ臨時政府は中米諸国が自らの進路を決める権利を認めた。またデル・バジェを解放し、共和国外相に任命した。

3月 フィリソーラは戦力の維持が困難となり、メキシコに戻る。帰りの旅費はグアテマラが支払ったという。

4.01 メキシコ帝国の崩壊にもとづきグアテマラ市に5州の代表が集まり中米会議開催.議長にデルガドを据える.「中央アメリカ連合州」として独立することを決定.チアパス州は,メキシコ残留を表明.ソンソナテ自治区はエルサルバドルに編入される.

中米連合の旗は青い両洋間の白い大地を表している。両洋間交易により繁栄を実現したいという願望の象徴である。紋章の五つの山はそれぞれの国家を表し、フランス革命の象徴であるフリギア帽が添えられている。

4月 三人の執政からなる暫定執行評議会(フンタ)を結成.メンバーはペドロ・モリナ、アントニオ・リベラ・カベサ、ファン・ビセンテ・ビジャコルタ.憲法制定の準備にはいる.

4月 モラサンはグアテマラでの憲法制定議会で、選挙区、州、県の行政組織のあり方を検討する調査委員会のメンバーに選出される。

23年前半 アルセ、米国からメキシコに移り、キューバ解放軍を組織しようとするが挫折。

7.01 中米連合州(Provincias Unidas del Centro de America )が成立。あらためてグアテマラ総監領の完全な独立を宣言。

7.10 中米連合州,独立政令(第二独立宣言)を公布.「昔のスペインからも,メキシコ,そしてどのような大国からも,自由で独立した新世界にふさわしい国を造ろう」と宣言.奴隷制廃止を宣言.

独立当時の中米
人口は約130万人(グアテマラ65万,エルサルバドル25万,ニカラグア20万,ホンジュラス15万,コスタリカ七万).白人はペニンスラール・クリオージョあわせ5%未満で,コスタリカを除き先住民が圧倒的多数.
自給自足的農業のほか,カカオ・インディゴなどの輸出用作物をわずかに栽培.

9.13 ホンジュラス新政府の共和主義的傾向に反対するラファエル・アリサ・イ・トレス大尉による反乱.王政派のホセマリア・マルティネス・ワジョプらの反乱があいつぐ.

10月 第二次の三頭評議会が発足。帰国したデル・バジェは三人からなる臨時執行委員会のメンバーとなり,憲法の起草を受け持つ.

23年 イギリス,ホンデュラス沖のモスキート諸島の保護権獲得.

1824年

3.15 アルセ、三頭の一角となるポストを受け入れ、祖国への復帰を決意する。

9.28 テグシガルパ自由党のディオニシオ・デ・エレーラが初代ホンジュラス知事に選ばれた。副知事にホセ・フスト・ミリャ大佐が就任。エレーラはモラサンを幹事長に任命する。(一説に9月16日)

エレーラの本名はえらく長い。Jose Dionisio de la Trinidad de Herrera y Diaz del Valle 。グアテマラのサン・カルロス大学で法学を習得、このときにフランス革命の影響を受けた。今で言えばアカになった。その後1820年、39歳で故郷テグシガルパに戻り市役所に勤務。

10.24 三頭政治が終了。アルセはニカラグアの内紛を最小限の暴力で沈静化させることに成功し、名声を勝ち取る。

ニカラグア内戦: ニカラグア州統領にリバスの地主で,スペイン革命にも参加したデ・ラ・セルダが就任.反対者を抑圧し,みづから独裁者となる.レオン政府からの分離を主張するグラナダは戦闘を開始.19年にわたり,国内は内乱状態になり,18回の政権交代.少なくとも17回の本格的戦闘,千名以上の死者を出す.

11月 中米制憲議会がグアテマラ・シティーで開かれる。連邦主義を唱える自由党が過半数を制した。

保守と自由-二つの潮流: 自由党は米国に似た連邦政府を主張した。各州は自治権のある政府を持ち自らの法を定める。しかし憲法とそれを守る連邦政府の指導を受け入れることになった。保守党は全国一律に法と政令が適用される中央集権主義の政府を欲した。

11.22 「神、団結、自由」を標榜する中米連合の新憲法が採択される。自由で独立した内政を認められた五つの州からなる中米連邦共和国に改組.グアテマラを連邦政府の当面の首都と定める.公式名称は中米連邦共和国(Republica Federal de Centroamerica) と改められる。

11月 ロスアルトス州の分離が議会により可決される。グアテマラシティが分離方針に強く反対したため、実施は遅れる。

11月 最初の立憲大統領にマヌエル・ホセ・アルセが就任。

24年 フアン・モーラ・フェルナンデスがコスタリカ統領に選出される.9年間の任期にわたり,コスタリカだけが争いのない時代が続く.

24 ベリーズ在住のイギリス人,木材を求めて南方に進出,ニカラグアに到達.モスキティア,ふたたびイギリスの保護領となる(〜60).

24 ニカラグア南部のグアナカステ地方,州政府の反対を押切り住民投票によりコスタリカに帰属.

1825年

4月 中米連邦の議会がグアテマラで開かれる。ガビノ・ガインサの私的顧問として平和的独立に尽力したマリアノ・ガルベスが議長に就任。アメリカ合衆国を模範とする自由主義を目ざすことで合意する.

4月 議会議員の投票による大統領選挙。ホセ・セシリオ・デル・バジェが最多得票。自由党員は議会を操作し、バジェが絶対多数をとらなかったことを理由にデル・バジェの就任を拒否。

4.29 やり直し選挙がもたれる。1票差でアルセを大統領に選出する。議会上下両院で自由党員の支持を失ったアルセの指導力は大幅に低下し、聖職者と保守政党の支持で辛うじて政権を運営。政策は大きく右に振れる。

各州知事の動向: 議会と前後して各州の知事が選出された。グアテマラ州統領にディアス・カベサ暫定首班を経て自由党のフアン・バルンディアが就任.ニカラグアではセルダが,コスタリカではモーラが州統領に就任.ニカラグアを除き自由派が統領の地位を占める.

12月11日 エレーラ、最初のホンジュラス憲法を発布。ホンジュラスの国土をコマヤグア、テグシガルパ、サンタバーバラ、ジョロ、オランチョ、チョルテカの6県に再編した。

1826年

6 中米連邦議会,アーロン・パーマーらの「中米,アメリカ合衆国両洋連絡運河会社」と建設条約を結ぶ.エリー運河の建設技師で,当時ニューヨーク州知事のヴィット・クリントンを設計にあてるが,当初予定した5百万ドルの資金獲得に失敗.財政的困難により挫折.

10月10日 マヌエル・ホセ・アルセ、連邦議会を解散しようとしコフテペケ会議を招集。暫定議会の選出を図る。ホンジュラスの国家元首ディオニシオ・デ・エレーラはアルセの策謀を拒絶。

10月 アルセ大統領はホンジュラスのエレーラ政権を認めず。エレーラはすでに任期を終えており、その政権は違法であると断罪する。(連邦政府所有のコパンのタバコ農園の利権保護が真の目的だったとされる)

10月 エレーラは退陣し、ディエゴ・ビヒル・コカーニャがホンジュラスの知事となる。ビヒルはモラサンの親戚にあたり、その後一貫して腹心として支える。

12月 アルセ大統領,奴隷制廃止を宣言.エルサルバドルはこれを大統領の越権行為として反乱を起こす.

12月 アルセは自由党の路線を不満とし脱退.グアテマラの保守派と組んで独自の政党を組織,

12月 アルセ、グアテマラ州統領で自由党のフアン・バルンディアを解任.その後安定した州統領は実現せず,事実上連邦政府の直轄統治に.

26年 マリアノ・ガルベスがバルンディア解任に抗議し反乱。中米内戦が始まる。敗れたガルベスは、アウアチャパレでモラサン軍に合流。

1827年

5.10 アルセの意向を受けたホンジュラス副知事フスト・ミリャ大佐が200人の兵とともに反乱。自由党政権は、保守党と結びついたミリャ大佐のクーデターにより崩壊した。ビヒル知事は逮捕され、エレーラは囚人としてグアテマラに送られ、1829年まで収監された。モラサン、レミヒオ・ディアス、ホセ・アントニオ・マルケスらは包囲された首都を抜け出し、テグシガルパで増援をもとめる。(4月9日説もある)

このあと11月まで日付のはっきりしない出来事が続きます(ウィキペディア)。
*テグシガルパから進撃したモラサンらの部隊、牧場『ラ・マラディアガ』でミリャの軍隊と衝突。勝負のつかないまま双方が撤退。
*モラサンはオホホナでラモン・アンギアーノ少佐の部隊に捕らえられ、テグシガルパへ移される。
*フランシスコ・モラサン、テグシガルパを脱走。太平洋岸のラ・ウニオン(エルサルバドル)からメキシコへの入国を図る。
*ランシスコ・モラサン、ラ・ウニオンでマリアノ・ビダウレと会見。ビダウレはエルサル特使としてニカラグアに向かう途中だった。
*ビダウレの説得を受けたモラサンは、レオンに赴き、ニカラグア軍最高司令官のホセ・アナクレート「Cleto」オルドニェスにホンジュラス奪回のための支援をもとめた。
*クレートはモラサンに応え、武装兵士135名からなる部隊を提供した。その部隊はエルサルバドルから来たセペダ大佐の部隊と、ホンジュラスのチョルテカ県から来た義勇兵部隊の混成だった。
*モラサンの部隊がホンジュラスに侵入、サバナグランデに拠点を構える。これを知ったミリャは部隊をテグシガルパに展開し前線本部を置く。

11月11日午前9時 セロ・デ・ラ・トリニダードの闘い。5時間にわたり激戦が展開され、モラサンの率いる自由党軍がミリャの連邦軍を壊滅においこむ。(一説ではホンジュラス、ニカラグア、サルバドルの分離主義者の部隊を打ち破る)

11.27 モラサン、ミリャと残党を追討しながらコマヤグアに入り、ホンジュラス国家元首を宣言する。ビヒル前知事は解放され副知事に就任。

27年 グアテマラ領内ケサルテナンゴで保守派の暴動.バルンディアの代行を務める自由党選出のグアテマラ副統領を殺害.このあとグアテマラ州統領にはマリアノ・デ・アイシネナが選出される.

1828年

3.23 エルサルバドルの自由主義者が蜂起。アルセはマヌエル・デ・アルスー将軍の率いる連邦軍2千名にエルサルバドル占領を命じる。連邦軍はアラソラの戦いでエルサルバドルの自由党軍を破りサンサルバドルを制圧。

4月 フランシスコ・モラサン、エルサルバドルの連邦主義者の支援のためTexiguatで「法の擁護軍」部隊を編成する。この部隊はホンジュラス人、ニカラグア人とエルサルバドル人の小さいグループで編成されていた。各自が自らの武器を携えてやってきた。

6月18日 フランシスコ・モラサン、ディエゴ・ビヒルにホンジュラスの統治を託す。兵士1400名を率いエルサルバドルの連邦主義者の支援に向かう。

6月 モラサン、エルサル東部(現在のモラサン県)に入る。アルスー将軍はビセンテ・ドミンゲス大佐(一説にホセ・ドミンゲス将軍)の率いる討伐軍を派遣。

7.06 『エル・グアルチョ』牧場の戦い。苦戦の末ビセンテ・ドミンゲス大佐の率いる連邦軍隊を破った。その後も連邦軍の派遣部隊を次々に撃破する。

7月 アルスー将軍、サンサルバドルの防衛をモントゥファル大佐にゆだね、自らモラサン部隊の討伐に乗り出す。モラサンはこれを知りいったんホンジュラスに戻り、兵力の増強に努める。

9.10 サンサルバドルの防衛をになったモントゥファル軍が、メヒカノスで壊滅・降伏する。

9月20日 アルスー将軍、500人の部隊を率いレンパ川に沿って索敵行動。このときサンサルバドルの留守部隊が降伏したことを知る。アルスーは病気を装い、アントニオ・デ・アイシネーニャ中佐に軍の指揮をゆだね戦列を離脱。グアテマラに戻ったあとそのまま退役。

10.09 アイシネーニャの率いる連邦軍、ホンジュラスに進軍するが、サンアントニオでモラサン派の部隊に攻撃され降伏。

10.23 モラサン軍、サンサルバドルに勝利の行進。ただちにグアテマラ進軍の準備に取り掛かる。

10月末 モラサン軍、エルサルバドル西部のアウアチャパンでグアテマラ進攻のため兵力の増強に取り掛かる。エルサルバドルの政府は2千の兵を組織。ファン・プレムの率いる師団が進攻舞台となる。

28年 アルセは財政をカバーし戦費を調達するため,イギリスの商社から借金.イギリスは返済のかわりにベリーズ割譲を迫る.

28年 ニカラグアの独裁者デ・ラ・セルダ,反対派により狙撃され死亡.

 

1829年

1月初め フレム軍、グアテマラに侵入。チキムラの町を制圧する。グティエレス大佐の指揮下の小部隊がグアテマラ市の近くに展開。遊撃戦で敵戦力のかく乱と分散を目指す。

1月初め グアテマラ市からドミンゲス大佐の率いる600人の部隊が出動。フアン・プレム軍の撃退を目標とする。ドミンゲス部隊は陽動作戦にかかり目標をグティエレス部隊に変更。

1.15 プレムは、サカパからドミンゲス軍の背後を襲い撃破する。さらに1400人の部隊で 首都の近くのサンホセの連邦軍基地を攻撃。

1.30 エルサルバドル知事にホセ・マリア・コルネホが就任。

1月 アンティグアがグアテマラ政府に対し反乱。サカテペケ県全域がモラサンの旗の下に結集する。

2月初め モラサンの「法の擁護軍」本隊がグアテマラに入る。首都の近くピヌラ村に陣取りシウダ・グアテマラの包囲戦に入る。

2.15 モラサン軍主力のカエタノ・デ・ラ・セルダ師団、ミフコ(Mixco)まで進出するが連邦軍に撃退される。モラサンはいったん包囲を解き、アンティグアに向かう。

2月 パチェコ大佐の率いる連邦軍、アンティグアのモラサンを追討するためスンパンゴとテハルに進出。

2月 パチェコの追討軍、サン・ミゲリートに入ったところでモラサンの返り討ちにあう。パチェコは戦線を広げ、戦力を分散させすぎたという。

2月 勢力を回復したモラサン軍はグアテマラ人義勇兵の参加により増強される。

3.07 ビヒル、モラサンに代わりホンジュラス知事となる。カトリックの干渉を排し、いくつかの教会建物を接収。

3月15日 ビジャ・ピヌラに向け進軍を開始したモラサン軍、『ラ・チャルカス』牧場でプラド大佐の連邦軍に進路をさえぎられたが、これを壊滅に追い込む。

3月 モラサン、ピヌラとアセイトゥノを確保し、ふたたび包囲戦に入る。

3月 オランダの中米全権大使ベルベエル(Verveer)将軍が両派の調停を試みるが不調に終わる。

4.12 モラサン軍、サンアントニオの闘いに勝利。グアテマラの主要都市を占領する。グアテマラ知事マリアノ・アイシネーニャ、降伏を宣言。

4.13 モラサン軍がグアテマラ市内に進軍。アルセ大統領、アイシネーニャ知事、マリアノ・ベルトラネーニャら政権幹部は獄につながれる。

6.25 モラサン、グアテマラ平定作戦を完了。上席上院議員ファン・バルンディアにグアテマラ知事職を引き継ぐ。

8月 コスタリカが中米連邦を一時脱退.

12.02 モラサン、ホンジュラスにもどる。ビヒルに代わり政府を掌握。

1830年

5.12 エレーラ、モラサンの支持によりニカラグア知事に就任。自由主義の改革を実行。

5.25 モラサン将軍、ホンジュラスで政府広報(Gaceta del gobierno)を発行。

5月 コスタリカが中米連邦に復帰.

7.28 中米連邦の大統領選挙。モラサンが保守党のホセ・デル・バジェを破る。モラサンはホンジュラス政府知事の職を辞す。

9.16 モラサンが任期4年の中米連邦大統領に就任。「これまで兵士として、市民として擁護してきた憲法を守る。そのためにもっとも危険に任務に身を置くことを誓う」と宣言。

モラサンの施策: 一般教育の充実、宗教の自由、社会的・政治的平等を推進する。共和的政策を進めたため,保守層の強い反発を受ける.またインディオの土地とりあげと重税政策は,インディオの反感をまねく.

9月 モラサン、教会財産を差し押さえ.さらに10分の1税の廃止,教団の非合法化,法律婚のみを有効とする立法化など教会特権を排除.

30 自由党のディオニシオ・エレーラが,ニカラグア州統領に就任.10年間にわたる内戦は収拾に向かう.

30 英国,ホンデュラス沖のベイ諸島を占領.

30 オランダ,中米連邦政府からニカラグア・ルートの運河建設の権利を獲得.ニカラグア運河会社を創立し運河建設を試みるが,ベルギー独立をめぐる内紛のため断念.

30 パナマの分離派,二年間で二度にわたりグラン・コロンビアからの独立を試みるが,失敗に終わる.

1831年

8.28 マリアノ・ガルベスがグアテマラ知事に就任。グアテマラを「啓蒙思想に基づく政策の実験場」とする。学校と道の建設、自由貿易、外資と移民の奨励、非宗教的な結婚と離婚、言論の自由、公共地のコチニール生産への利用、国家と教会の分離、10分の1税の廃止、信仰の自由、教会資産の没収、位階制の抑制、教育の教会からの分離など。これら法律の全てが、グアテマラの寡頭政治の中心に一撃を加えた。スペイン聖職者から特権をはぎとり、権力を削減した。

12月 モラサン、連邦の首都をグアテマラ市からサンサルバドルに移す。(時期・理由については諸説あり)

31年 モラサン、反自由党の牙城となっていたグアテマラ大司教のラモン・カサウス・イ・トレスと教会幹部を国外に追放。彼らは独立に反対し、改革に反対し、反自由党を扇動した。

1832年

1.06 エルサルバドルのホセマリア・コルネホ知事の反対により、モラサンはサンサルバドルからの撤退を余儀なくされる。コルネホとマヌエル・ホセ・アルセは中米連邦からの脱退を宣言。

1月 モラサン、ホンジュラスに戻り兵力を増強。エルサルバドルの奪回を目指す。

2.24 アルセはメキシコのソコヌスコで反モラサンの軍事行動を準備。グアテマラに進出するがモラサン軍に敗れる。

2.28 ホンジュラスで兵力を補強したモラサン、連邦軍最高司令官としてエルサルバドルに出動。サンミゲルの町を占領。

3.14 モラサン軍がホコロ(Jocoro)でコルネホ軍を撃破。

3.17 チャラテナンゴ、メタパンの町があいついで、連邦政府への復帰とコルネホ政権打倒の声を上げる。

3.28 モラサン軍、サンサルバドルに入りコルネホ軍を壊滅に追い込む。コルネホが捕らえられ、モラサンがみずからエルサルバドル知事となる。

4.03 モラサン、エルサルバドル憲法制定会議選挙を招集しマリアノ・プラードを知事に、ホアキン・デ・サンマルティンを副知事に選出する。

12月 アキノが強制徴兵制と不当な貢納制に反対して反乱開始.数千の原住民が決起.一時サンビセンテを占拠しサンサルバドルを目指すが敗退.

アナスタシオ・アキノ(AnastasioAquino): 先住民の首長でクリスチャン.エルサルバドル中部のノヌアルコス(LosNonualcos)でインディゴ農場を営む.

32 スペイン支持派の部隊がオモアを占拠.政府軍により排除される.

1833年

6.24 アキノは捕らえられ殺されるが,残党は約10年にわたり抵抗を続ける.

11月 エレーラ、ニカラグア国内の聖職者・保守党の抵抗により失脚。エルサルバドルに移る。

33 メキシコ保守派の支援を受けたアルセ,再度中米侵攻を試みるが敗退.

33 コスタリカのアラフエラで最初の新聞「Noticioso Universal」が発刊される.

1834年

34年初め モラサンの4年間の任期が終了。議会は次期の大統領を選ぶ選挙を行う。モラサンは大統領を辞し次期選挙に臨む。

34年初め 大統領選挙が実施される。自由主義改革に対する民衆の抵抗を背景に、中道派のJosé Cecilio del Valleが勝利する。

3.02 デル・バジェ、「ラConcepcion」農場からグアテマラ市まで戻る途中に急死。連邦政府は3日間の服喪を定める。

デル・バジェは25年の大統領選挙に敗れた後、政治を引退して文筆業に専念する。サン・カルロス大学の美術学部学部長と「経済協会」の会長を兼任。
30年、モラサンはデル・バジェに対しフランス大使または副大統領への就任を要請。デルバジェはいずれも拒否。

3.10 ニカラグア知事に分離派のホセ・ヌニェスが就任.

6.02 議会は再選挙を行いモラサンを大統領に選出。

8.06 ガルベス知事、英国の民間企業と契約を結び、イサバル、ラ・べラパス、ペテン、ベリーズ地方の開発・殖民をゆだねる。

34年 グアテマラ・シティーの保守派の影響力を嫌うグアテマラ知事マリアノ・ガルベスが首都をソンソナテに移動するようもとめる。モラサンはこれを承認。(ソンソナテはエルサル西部の町。そこに首都が存在することはほとんどなく、年内にはサンサルに移動している。31年説もあるが、おそらく間違いであろう)

1835年

2.14 ガルベス、第二期のグアテマラ知事に就任。

4.23 ニカラグアで連邦派が巻き返し。分離派のホセ・ヌニェスに代わり連邦派のホセ・セペダが知事となる。

35年 エレーラ、エルサルバドルの知事に選出されるが就任を辞退。その後38年(57歳)には政界を引退し、その後50年に死亡するまでサン・ビセンテ(サルバドル)で教師として働く。

35 サンサルバドルが,中米連邦の連邦区に指定される.

35 コスタリカのブラウリオ・カリーリョ,保守党独裁政権を樹立.42年まで政権を担当.コーヒー栽培を中心に近代化をめざす.首都を商業の中心地サンホセに定める.カルタゴがサンホセに対し反乱(同盟戦争)

35 イギリス軍,ベリーズの入植地へ進出.グアテマラへの干渉開始.

1836年

2.01 ディエゴ・ビヒル・コカーニャがエルサルバドルの知事となる。

3月 リセンシアド前知事とニコラス・エスピノサ将軍がエルサルから国外に追放される。リセンシアドの持っていたBenemerito de la Patriaの肩書きは剥奪される。

36年後半 チアパスで発生したコレラ,グアテマラ全土をまきこむ大流行となる.マリアーノ・ガルベスの政府は医師・医学生・その他の医療技術者を動員し治療に当たるが、流行を止めるに至らず。

12月 エルサルバドルでもコレラの流行が始まる。エスキプラス巡礼者が持ち込んだコレラが国の全ての住民まで広がった。

36 ニカラグア,コスタリカとの国境地帯グアナカステに侵入.

1837年

1.08 エルサルバドル立法議会は年間の予算を可決した。政府は公共の従業員を除いて全ての支払いを止め、流行と戦うことに資産をつぎこむ。サンミゲルの町に水道の導入。

1.25 ニカラグア知事ホセ・セペダが死亡.これに代わりホセ・ヌニェスがふたたび知事に就任.

2月 グアテマラ高地の先住民にコレラが拡大。3千人が感染し1000人が死亡。先住民はコレラの流行を医師のせいと考え,医師をつぎつぎに殺害.

2月 ミタ県の先住民を聖職者がデマで扇動。政府が河川に毒を流し、先住民を一掃した後、外国人を入植させようとしていると宣伝。サンフアン・オストゥンカルコ(Ostuncalco)の先住民は武器をとり白人と自由党員を殺し、その家に火をつけた。

2月 ガルベス知事は軍を送り反乱を鎮圧しようとするが、軍の抑圧的行動は先住民の敵意をさらに煽る結果となった。

5.23 エルサルバドルのサカテコルカとコフテペケで先住民の反乱。グアテマラ,エルサルバドル,ニカラグアの各地で大規模な反乱があいつぐ.

5.23 エルサルバドル知事ビヒルの任期が終了。ティモテオ・メネンデスがエルサルバドル知事に就任。

6月 カレラが「山の戦争」(GuerraMontana)と呼ばれる先住民の抵抗運動の中で頭角を現す。

ホセ・ラファエル・カレラ: Mataquescuintlaの出身。文盲の豚飼いであったがカリスマ性を備えていた。手下のインディオにみずからを「神の子」とよばせるが,教会はこれを無視して強力な支持を与える.

6月 エルサルバドルのサンタアナでも大規模な反乱が発生。辛うじて鎮圧に成功。

7.07 ビヒルがエルサルバドル知事に戻る。反乱参加者に対し大赦を与え、事態の鎮静を図る。

37年後半 カレラと彼の軍勢は教会と保守勢力の支援を得て強化される。モラサンはいたるところで先住民の反乱を抑えたが、ヒット・アンド・ランを繰り返すカレラを捕らえることはできなかった。

カトリックの陰謀: 聖職者は彼が天使ラファエルであるとの託宣を下した。彼は異教徒、自由党員、外国人に対する報復を行い、古代の支配を取り戻すために天国から下りて来た。そして奇跡と呼ばれる集団幻想を生み出すためのさまざまなトリックを用いた。教会で先住民の大規模な集会が開かれると屋根から手紙が舞い降りてきた。それは聖母マリアからの手紙で、カレラにすべてを託し政府に対する反乱を行うよう訴えるものだった。その後「信仰は永遠なり」、「外国人に死を」との叫びが唱和された。

1838年

1.06 ビヒルがエルサルバドル知事を辞任。ティモテオ・メネンデスは、再び国家元首になった。

1月 アンティグア・グアテマラ、チキムラとサラマがガルベス政権への承認を取り消す。保守党のマヌエル・モントゥファル大佐とファン・デ・ディオス・マジョルガに加え、自由党のホセ・フランシスコ・バルンディアとペドロ・モリナもガルベスと敵対するようになる。

2.01 モラサン、グアテマラ進攻の準備のため大統領を辞す。ビヒルが後任副大統領に就任し大統領職を代行。

2.02 ロスアルトスの分離・独立が正式に公布される。連邦政府は6番目の構成国として承認。

2月 ラファエル・カレラの部隊がグアテマラ市に入り、ガルベス退陣と国外退去を促す。

3.03 グアテマラ在留のグレゴリオ・サラザール中米連邦副大統領、カレラの攻撃を受け死亡。

4 連邦政府,財政難を克服し戦費調達を図るため、いったん廃止した農民税を復活.各州に託されていた関税収益の管理を連邦政府に移行しようとする。ニカラグアを先頭とする各州政府はこれに猛反発し連邦離脱の動きを見せる。

4.13 カレラ軍,首都を占拠しガルベス政権を打倒,実権を掌握.自由党政府による改革をつぎつぎに転覆.ガルベス、グアテマラ知事を退陣し、メキシコに亡命。

5.30 連邦議会,中米諸国は自由で独立した主権国家であると宣言.分離・独立の動きを追認し自ら連邦制度に幕を引く.

5月 モラサンを支持するグアテマラの連邦主義者は、西部のケツァルテナンゴを根城にロス・アルトス共和国を宣言.マルセロ・モリーナを統領に選出.連邦国家の維持に向けさらに努力を重ねる.

7 エルサルバドルの中米連邦軍,グアテマラに派遣されるが,ロスアルトス地方でのたたかいでカレラ軍に敗れる.

11.05 ニカラグアが関税徴収に反対し中米連邦から分離。主権国家としての独立を宣言する。これにホンジュラスとコスタリカが続く。

12.23 モラサン軍のアグスティン・グスマン大佐、カレラとRinconcitoで協定を結び事実上の降伏。

1839年

2.01 モラサンの大統領としての任期が完了。議会が解散したため、後継者を指名する法的な基礎が消失する。

2.19 ビヒル副大統領が、中央アメリカの連邦共和国の暫定大統領として残務整理に当たる。

2月 ホンジュラスでは保守派のフランシスコ・フェレーラがカレーラと盟友関係を結び,権力を掌握.8年にわたり支配する.

4.06 エルサルバドルのエスピリト・サントで反連邦派の反乱。エルサルバドル軍と衝突。

4.17 ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカに引き続き、グアテマラも主権国家宣言.正式に連邦政府を離脱。残留国はエルサルバドルのみとなる。

4月 カレーラ,グアテマラ大統領に就任.連邦からの離脱を宣言.モラサンの反宗教法を廃止し,教会勢力と協調.教会税復活など保守色の強い独立国憲法を制定.イギリスの支持を受け,65年まで27年間政権をにぎる.

7.13 自由党の知事ホセ・フランシスコ・バルンディアが率いるエルサルバドル、モラサンをあらためて「大統領」に選出。中米連邦の復活を恐れるラファエル・カレラとグアテマラ保守党は、エルサルバドルとの戦いを宣言する。同時にエルサルバドルの民衆にモラサンとの戦いを呼びかける。

7月 モラサン、エルサルバドル国内の反乱鎮圧に成功。

9月 ニカラグアとホンジュラスの反モラサン派が、Francisco Ferrera, Nicolas de Espinosa, Manuel Quijano将軍を司令官とする連合軍を結成。2千の軍勢でエルサルバドルに攻め込む。

9.25 San Pedro Perulapanの闘い。モラサンはわずか600のエルサルバドル軍を率い連合軍を撃破する。

11.11 ホセ・トリニダ・カバーニャスの率いる連邦軍、トリニダーの戦いに勝利。

11.13 カバーニャスの率いる連邦軍、ラ・ソレダードのエル・シティオでフランシスコ・セラヤyアジェス将軍の軍隊を破る。

11月 その後San Salvador, Las Charcas,とエルサルバドル領内で戦闘を重ねる。連合軍は300人以上の死者を残し逃げ帰る。

39 英国,ベイ諸島とサンフアン・デル・ノルテを占領.

 

1840年

1.31 カバーニャスの率いる連邦軍、ポトレロのロス・リャノの戦いでセラヤ将軍の部隊に敗れる。

3月 モラサン、エルサルバドル軍1300人を動員しグアテマラに向け進軍開始。

3.18 モラサン、グアテマラ市に達する。カレラは少数の駐屯部隊を残し市内から戦術的撤退。

3.19 市内に突入したモラサン軍は、カレラ軍5千に包囲され、四方からの攻撃を受ける。カレラの率いる先住民兵はSalve Reginaを歌い、「カレラ万歳、モラサンに死を」と叫び攻撃。

3.19 モラサンは22時間の戦いの後、辛うじて脱出に成功、エルサルに戻る。

3月下旬 エルサル国内で、モラサンの惨敗に批判が続出。自由党の知事ホセ・フランシスコ・バルンディアもラファエル・カレラ側に寝返る。

3.27 モラサン、「これ以上エルサルバドルの人々に揉め事を引き起こそうとは思わない」と宣言。軍本部をホセ・アントニオ・カナス司令官の手に引き渡す。

3.31 エルサルバドルは連邦を解消。ビヒル暫定大統領の任期は終わった。

4.02 カレラ軍がロスアルトスの首都ケツァルテナンゴを占領。政府指導部の大半が処刑された。その後の10年間に独立を目指す3回の武装蜂起が起こるが失敗に終わる。

4月 メキシコ軍ロスアルトスに介入。ソコヌスコ県をつまみ食いする。ソコヌスコはイサパを中心とし、王室献上カカオの栽培地であった。

4.05 モラサン、一切の公職を放棄する。

4.08 フランシスコ・モラサン将軍、ラ・リベルター(エルサルバドル)の港から、友人と戦友30人とともにスクーナー船イサルコに乗り出発する。ディエゴ・ビヒルもこれに同行。

4月 モラサン、パナマのチリキ県ダビドに立ち寄り家族と面会。仲間の政治亡命者としての保護を獲得。("コロンビアに亡命"とする文献があるが、当時のパナマはコロンビアの一部だったためである。チリキはパナマといってもコスタリカとの国境付近である)

40 パナマ,ヌエバグラナダ共和国憲法にのっとり分離・脱退.2年間にわたり独立国として存在.

40年 モラサン出国にともないエルサルバドルで大統領選.カレーラとつながる保守派のフランシスコ・マレスピンが当選.アルセ元中米連邦大統領,帰国し立起するが敗北.

40 カレーラの支援を受けたコマヤグアの保守党指導者フランシスコ・フェレーラが,ホンジュラス全土の支配を目指す.テグシガルパの自由党は、近郊のエル・ポトレーロでフェレーラ軍を迎え撃つが敗北.

1841年

1.01 フランシスコ・フェレーラがホンジュラスの立憲大統領(Presidente Constitutional)に就任.独立以来,国内の反乱は300回を数える.

2.02 サンサルバドルが独立しエルサルバドル共和国の創設を宣言。これにより中米連邦は最終的に消失。(ここまで国名は首都名と同じサンサルバドルであったが、便利なのでそのままエルサルバドルと表記した)

7月16日 モラサン、カレラとその支持者による暴政を非難する『ダビドの宣言』を発表。

7月 モラサン、コスタリカの自由派から反乱への参加を求められる。

当時のコスタリカ知事ブラウリオ・カリージョは、コスタリカを自由で独立した州と宣言した。そして個人の自由を制限、出版の自由に限度を置いて、1825年の政治的な憲法を捻じ曲げた。そして新憲章「基本法と人権保障」を策定し取り替えた。さらに自らを「終身知事」を宣言した。

7月 モラサン他7人は、コスタリカ自由派の要請をこばみ、さらに南米に向かう。

7月 モラサン、リマに到着。マリスカル・アグスティン・ガマラから軍の指揮をもとめられる。南米諸国の状況を知ったモラサンは軍に加わらず。

当時ペルーはチリと戦争状態にあった。ペルー、ボリビア、コロンビア、チリは、それぞれが12年続く内紛の時代に突入しようとしていた。

12月 ペドロ・ベルムデス将軍の財政的な支持を受けたモラサン、カリャオから出発し中米帰還を目指す。カバーナ将軍とサラビア将軍、5人の士官が行動を共にする。

1842年

1月15日 モラサンはエルサルバドルに到着した。英国の干渉に対する共同防衛を呼びかける。

当時イギリスはグアテマラの海岸部(現ベリーセ)、ホンジュラスからニカラグアにかけてのモスキート海岸に進出し、事実上の植民地としていた。

2.16 モラサン、「私が戻ったのは、それが義務と考えたからであり、祖国を愛するもののやむにやまれぬ熱情によるものだ」と語る。しかしエルサルバドル政府はこの提案を拒否。

2月 モラサン、コスタリカ自由派の要請を受け、「コスタリカの人々の不幸に、決して無関心ではいられない。私自身の生命をかけて救い出す」と宣言。カリージョ政権打倒に乗り出す。

2月 ラ・ウニオン(エルサルバドル)で3隻のボートを借り、アカフトラ、サンサルバドルとソンソナテを回り兵を募る。フォンセカ湾内のマルティン・ペレス島でおよそ500人の部隊を編成し、コスタリカに向かう。

4.07 モラサンの部隊、何の抵抗も受けず太平洋岸のカルデラ港に上陸。これを知ったブラウリオ・カリージョ知事はビセンテ・ビジャセニョール将軍の指揮下に軍隊を組織した。

4.09 モラサン軍、アラフェラ県のホコテで政府軍と対峙する。

4月 迎撃に出動したビジャセニョール部隊とモラサンは、「Jocote協定」を結び、両軍を合体させる。両者はカリージョ一派の追放、憲法制定会議の招集、モラサンの指揮の下に臨時政府を設立することで合意する。

4.13 モラサンの軍隊は、サンホセ市に入った。カリージョは、条約を受け入れることを説得された。彼はモラサンに政府を譲りコスタリカを去る。

4月 モラサン、中米からの政治亡命者に門戸を開く。基本的人権と政治的権利の制限を撤廃し、取引と資産への干渉を取り払った。

4月 モラサンの召集した憲法制定会議、モラサンをコスタリカ知事に任命する。その後の数ヶ月、モラサンは軍の増強に力を注ぐ。

7.17 ニカラグア,エルサルバドル,ホンデュラス3国,チナンデガ協定を結び連邦制度の復活で合意.チナンデガ協定を結び連邦制度を復活.グアテマラの干渉により実施には至らず.

9.11 モラサンに反対の大衆がサンホセで反乱。ポルトガル人のアントニオ・ピント将軍ソアレスが率いる400人の部隊が、モラサンを警護する40人のエルサルバドル人部隊を攻撃。モラサンと彼の部下は攻撃をはね返して、軍本部へ退く。

9.11 軍本部を包囲する軍勢は1千人に増加。従軍牧師ホセ・カストロはモラサンに降伏を提案するが、モラサンはこれを拒否。

9.15 包囲戦は4日に及ぶ。モラサンは血路を開きカルタゴに脱出しようとする。ホセ・カバーニャス将軍と30人の決死隊が本部を維持し、モラサンは脱出に成功。しかしカルタゴもすでに反モラサン派の手に落ちていた。

9.15 モラサン、旧友のペドロ・マジョルガに支援をもとめる。マジョルガはモラサンを裏切りピント将軍の下に突き出す。ヴィセンテ・ビジャセニョール、ホセ・サラビアとホセ・トリニダード・カバーニャス将軍も連行される。

9月15日 モラサンとビジャセニョールは、サンホセの広場へ移され銃殺された。サラビアはその前に自殺した。

42年 ビヒルはニカラグアのグラナダに定住し、1845年に亡くなった。カバーニャスは生き延びてエルサルに移り、後にホンジュラス大統領となる。

1843年

43 アルセ,中米連邦の再興を訴えるが容れられず.

43 英国,ミスキート王国を保護下に置くと宣言.ベイ諸島とサンフアン・デル・ノルテから撤退.

43 グアテマラ,メキシコのソコヌスコ占領について正式に抗議.

1844年

4月 アルセ、エルサルバドルに潜入しフランシスコ・マレスピン将軍を放逐しようとするが失敗。ホンジュラスに逃げる。

12.01 エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの連合のこころみが流産に終わる。

44 カレラ,大統領に選出される.

1845年

1845年半ば アルセ、サンサルに戻り政治生活を終える。47年11月28日に困窮の中で死を迎える。

12月14日 ホセ・トリニダード・レイズ神父ら、テグシガルパで"Claustro de la Academia Literaria"を組織し、"Academia de Estudios"を設立する。

45 ニカラグアの統領に保守党のトリニダド・ムニョスが就任.51年までかろうじて政権を維持.

46 米国とヌエバグラナダの間にビドラック・マリャリーノ協定締結.米国のパナマ地峡の通行権を認めるもの.批准は48年.

47.3.21 グアテマラ,中米連邦は永遠に消滅したとし,みずからを独立した共和国であると宣言.

47 ニカラグアと米国との間にハイズ=セルバ協定締結.ニカラグアに於ける米国の権益確保を保障したもの.

47 ホンジュラスでフアン・リンド・セラヤによる保守党政権が成立.自由党の政治活動を許すなど宥和政策をとる.

47 ユカタンでカースト戦争はじまる.53年まで戦いが続く.

48 カレーラ,民衆蜂起とロス・アルトスの脱退の動きに直面し,大統領を辞任.マリアノ・パレーデスが後任大統領となる.

48 英国,ふたたびサンフアン・デル・ノルテを占領.グレイタウンと改称.グレイは当時のジャマイカ総督の名前.

49 カレーラ,軍司令官として復帰.ふたたび権力を握る.大統領はひきつづきマリアノ・パレーデスがつとめる.

49 ニカラグア,バンダービルトに地峡ルートの通行権を譲渡.

49 英国,フォンセカ湾に浮かぶティグレ島を占領.ニカラグアとホンジュラスは英国を牽制するため,米国に支援を要請.

49 グアテマラとコスタリカ,英国と友好・通商条約を締結.

49 コスタリカ保守党のフアン・ラファエル・モーラ,モラサンの処刑後混乱が続いていた国内を平定.その後10年間にわたり政権を維持.

51 サンホセ・デ・アラダの戦い.カレーラの軍が自由党の連邦主義者を撃破する.自由主義者の抵抗はほぼ終焉.

52 ホンジュラス,保守党から自由党に政権交代.歴史上まれに見るほど平和的に移行したといわれる.

54 カレーラ,終身大統領となる.

55 カレーラ,ホンジュラスに干渉.自由党のトリニダド・カバーニャスを退陣させ,保守党サントス・グアルディオラを新大統領につける.

57.5.01 ウォーカー,中米連合軍に降伏.(詳細はニカラグア年表)

58 ニカラグア,運河建設権をフェリックス・ベリーに与える.

59 グアテマラ,ベリーセに対する英国の支配権を承認,境界線について同意.交換にグアテマラ市から英領ホンジュラス領内を通りカリブ海岸に到達する鉄道建設が,英国の手で行われることになる.

59 英国,ベイ諸島をホンジュラスに返還することとなる.その後これらの公約は反故にされる.

59 ヘラルド・バリオスがエルサルバドル大統領に就任.中米における新世代の自由主義者の第一号.

59 モンテアレグレ一族がモーラを追放.9年間にわたりコスタリカを支配.

60 ウォーカー,ホンジュラスのトルヒーリョ近郊で処刑される

60 モスキート居留地が,英国とニカラグアとのマナグア条約により指定される.英国はニカラグア東岸に対する一切の権益を放棄.

62 カレーラの圧力により大統領となったグアルディオラ,反対派により暗殺される.

62 英国の植民地(Settlement)ベリーセ,英領ホンジュラス植民地(Colony)となる.

63 カレーラ,エルサルバドルに侵入.ヘラルド・バリオスを放逐し,保守党のフランシスコ・ドゥエニャスを政権に据える.

63 米国,グアテマラに対しスワン諸島の割譲を要求.

65 カレーラ,死す.後継者ビセンテ・セルナ将軍が保守党政治を継続.

67 セラピオ・クルス将軍,セルナと対抗し「自由革命」を開始する.

70 英領ホンジュラスの議会,自ら解散.

70 コスタリカで自由党のトマス・グアルディアが大統領に就任.12年間の政権在位中に保守派の地主層の力をそぐ.

70 中米政府の間に実証主義者の影響が強まる.物質的進歩に重点をおき,鉄道・港湾の建設を推進.外国からの投資を奨励.教会勢力との対立を深める.

71 エルサルバドルで自由党による革命.ドゥエニャスに代わり,サンチアゴ・ボンサレスが大統領に就任.

71 ミゲル・ガルシア・グラナドスとフスト・ルフィノ・バリオスが自由主義革命に成功.

73 バリオス,グアテマラ大統領となる.ホンジュラスの自由派を支援.

新しい自由主義の特徴 実証哲学の影響を強く受ける.物質的進歩に最大の価値を置く.鉄道・港湾の拡充に力を注ぎ,外資の受け入れに積極的である.また教会権力に敵意を持つ.

73 英国,「通商利益保護のため」オモア港を砲撃.