ホンジュラス年表

中米連合崩壊とホンジュラス独立まではグアテマラ・中米年表 1を参照のこと

1840年  1900年  ユナイテッド・フルーツ社の支配  ロペス・アレリャーノの独裁政治  

アルバレス軍事独裁   本格的ゲリラ闘争の開始  ゲリラ闘争の壊滅

 

1500年 コロンブスの第4次航海

1502年 コロンブスの第4次航海

7.30 コロンブス,Guanajaの島沖に到着."Isla de Pinos"と名づける(現在のホンジュラス沖のベイ諸島か?).

中米に最初に到達した人物については諸説ある。1498年,アメリゴ・ベスプッチが最初のヨーロッパ人として中米に到達しているととの記載がある。またロドリゴ・デ・バスティダスは1501年にはダリエンに上陸している。

8.14 コロンブス,Punta Caxinas(現在の現プエルト・カスティヤ)に上陸.ミサを挙行.

8.17 ドン・バルトロメ・コロン(クリストバル・コロンの弟)、「デ・ラ・ポゼシオン」の河口に到達。アデランタードとしてスペイン領を宣言する。この川はその後リオ・ティントまたはリオ・ネグロと呼ばれるようになる。

9.12 コロンブス,嵐の中Cabo Gracias Diosを回りニカラグアに入る.コロンブスが"Gracias a Dios que hemos salido de estas honduras"と述べたことから,岬をGracias Dios,岬の西側の一帯をホンジュラスと呼ぶようになる.オンドゥラスは深いところという意味.沖合いの海深が深いことから名づけられたという.実際には後の入植者はHiguerasと呼んだ.イゲーラスは当地に住む先住民の名前.

1506年 フアン・ディアス・デ・ソリスとビセンテ・ヤニェス・ピンソン,ブルゴス会議の決定にもとづき探検航海に出発.ベラグアス(ホンジュラス東岸)からダリエン,ティエラフィルメを経てアマゾン河口にいたる沿岸を探索.セバスチアン・デ・オカンポはキューバ島周囲を探索.(この3年にわたる探検・航海はかなりの謎、というより“疑惑”に包まれている)

1523年

23 ヒル・ゴンサレス探検隊の別動隊を率いるアンドレス・ニーニョは、海岸沿いに進みフォンセカ湾に達する.ロドリゲス・デ・フォンセカ司教の名をとり命名.

23 カルロス一世,コルテスに中米両岸を探索し,二つの海をつなぐ水路を発見するよう命じる.コルテスの部下ルイス・マリン,チアパスに進出し,エスピリトゥ・サントの町を建設.

23年 ペドラリアス、ヒル・ゴンサレスを追放後ただちにニカラグア遠征に取り掛かる。エルナンデス・デ・コルドバを司令官とする遠征隊を派遣。副官にエルナンド・デ・ソト。

23年末 メキシコの征服者エルナン・コルテス,パナマのペドラリアスの中米進出に警戒感.ゴンサレス・クリストバル・デ・オリドにホンジュラス植民地の建設を命じる.

1524年 征服者の角逐

1.11 コルテスの命を受けたオリド、5隻のブリガンティン船に360人のスペイン人、22匹の馬を載せホンジュラスに向かう。キューバで物資を補給した後、ホンジュラスに向かうこととなる。

1月 キューバ総督ベラスケスはホンジュラス探検を自らの手で行うと宣言し、オリドを追放。

(当時まだキューバにはコルテスに敵対するベラスケス総督が健在であり、オリドの寄港を妨害したという。あるいはコルテスへの謀反を入れ知恵したのかも知れない)

1月 オリド、キューバから北部海岸イゲーラス地方を目指す.

24年初め ペドラリアスにより放逐されたヒル・ゴンサレス・ダビラ,ニカラグアの支配権を主張.エスパニョーラ島でニカラグア遠征隊を組織。ホンジュラスからのニカラグア入りを目指す。

(ヒルは遠征にあたりヨーロッパ人女性とアフリカ人を伴った。いずれも中米最初といわれる)

24年初め 嵐のためにホンジュラス海岸に漂着。途中船を軽くするため多くの馬を捨てたことから、プエルト・カバジョスと名付ける。この年のホンジュラス先住民人口は40万人と推定されている.

24年初め ヒルはプエルト・カバジョスからいったん西進し、アマティケ湾のリオ・ドゥルセ河口に到達。サン・ヒル・デ・ブエナビスタの町を建設する。(入植者はその後アメティケ近くのネトに移住)

24年初め ヒルはふたたび東方に進路を取り、カボ・デ・ホンジュラスに上陸。ニカラグア侵入を試みる。

5.03 クリストバル・デ・オリド、テラ海岸のトリウンフォ・デラ・クルスに最初の基地を建設.さらにトルヒーヨまで進出。トリウンフォ・デラ・クルスはプエルト・カバジョスの東15リーグに位置する。

5.18 フランシスコ・デ・ラスカサス、トルヒージョの基地を建設。最初のAlcade(市長)にドンファン・デ・メディナを任命。(この記載はどうも時期が合わない)

5月 トリウンフォ・デラ・クルスの上流に金銀の鉱山を発見.独占を狙うオリドはコルテスと絶縁.みずから総督を宣言し、ホンデュラス独立とユカタン併合をはかる.

24年夏 ヒル、ニカラグアの大西洋岸から南方に向け進軍開始。この頃すでにペドラリアスの派遣した部隊がグラナダ、レオンに進出していた。ヒルはトレバの近くでスペイン人小部隊と遭遇、ペドラリアスの部隊がニカラグアに侵入したことを知る。

24年夏 ヒルは、小部隊に撤去を命じる一方、侵攻軍のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにニカラグアを去るようもとめる警告文を送る。

24年夏 コルドバはエルナンド・デ・ソトに小部隊をつけ交渉に赴かせた。ヒルはソトを姦計を用い捕らえるが、その後コルドバ軍の戦力を知り制圧を断念。ソトを解放しプエルト・カバジョスに戻る。

24年夏 オリドの反逆を知ったコルテスは、従弟のフランシスコ・デ・ラ・カサスを派遣しオリドの排除と自らホンジュラスの領有を狙う。

ラスカサスの船団は数度にわたり嵐に遭遇。多くの船を失った挙句に辛うじてトルヒージョ湾にたどり着く。このときオリド軍主力はヒル・ゴンサレスとの衝突に備え内陸部に展開していた。

オリドはわずかの手勢を二隻のカラベルに載せラスカサスの船団を攻撃するが、返り討ちにあい捕獲される。

ラスカサスはオリドの停戦を受け入れ、湾内で待機。この間に嵐が襲い、ラスカサスの船団は乗員の1/3を失う。

その後2日間にわたり戦闘が繰り返されるが、糧食の尽きたラスカサスは降伏。部下はオリドに忠誠を誓い解放されるが、ラスカサスは囚われの身となる。

まもなくヒル・ゴンサレスもオリド軍主力により捕らえられる。

その後オリド軍内部でラスカサスに寝返るものがあり、二人を釈放した。ラス・カサスはオリドを即決裁判で斬首の刑に処す。(一説ではオリドはナコに身を隠し、捜索に来たラスカサスとチャンバラを演じた上殺されたとある。しかしこのときラスカサスはすでに60歳近い)

24年秋 ラス・カサスとヒルはコルテスへの忠誠を示すためメキシコに向かった。

24年秋 留守を託されたロペス・デ・アギレは、プエルト・カバジョスの近郊にトルヒージョの基地を建設した。しかしまもなくこの土地は捨てられ、東方の現在のトルヒージョに新たな町が建設された。

10.17 コルテス,イゲーラスの混乱を前に5千の兵をひきい陸路遠征.不在中の反乱を恐れたコルテスはクアウテモクを帯同するが,進軍中クアウテモクの挙動に不審を抱き,絞首刑に処す.クアウテモク最期の場所はユカタン地方カンデラリア河畔のアカラン・マヤ族の町イツァームカナク.

12月 コルテス,イゲーラスに到着.各派間のトラブルや原住民の犯行を平定.現地における彼の支配権を確立.ラスカサスをホンジュラス総督に、フアン・デ・メディナを暫定総督に任命.

24年末 ラスカサスとゴンザレスがメキシコに到着したとき、コルテスは不在であり、代理人サラザール・デ・ラ・ペドラーダはオリドの殺害を承認せず投獄した。サラザールは二人を処刑するつもりだったが、結局本国に護送することとした。(一説にエストラーダとアルボロノスが逮捕を命じたとある)

1525年

9.08 コルテスの命で,プエルト・カバジョスの近くに「ビリャ・デ・ラ・ナビダ・デ・ヌエストラ・セニョーラ」を設立する。ニカラグアのペドラリアス部隊を牽制するためとされる。これは現在,横断鉄道の基点であるプエルト・コルテスである.

1526年

4 メキシコ市内にコルテス排除の動き.これを知ったコルテスは,従弟のアルバロ・デ・サアベドラ・セロンを総督に任命した後メキシコに戻る.(別の文献ではエルナンド・デ・サアベドラとされる)

5.16 サアベドラは、ウイランチョ(オランチョ)県を設け、フロンテラ・デ・カセレスの町を建設。カスティヤ・デ・オロ(ニカラグア)の知事となったペドラリアス・ダヴィラが繰り返し攻撃を加えたため、町は発展せずに終わる。

7月 サントドミンゴのアウディエンシア、ディエゴ・ロペス・デ・サルセドをホンジュラス初代総督に指名。カルロス一世はこの人事を承認。コルテスの任命したサアベドラは承認されず.

8.30 サルセド、征服者にホンジュラスを退去するよう命じる。コルテス、ペドロ・デ・ロス・リオス、フランシスコ・フェルナンデス・デ・コルドバらは排除される。

10.27 サルセドがトルヒージョに到着.直ちにドン・エルナンド・デ・サアベドラを逮捕。サントドミンゴへ護送する。

26年 ペドラリアス,パナマからニカラグアに進出.コルテスに内通した廉でエルナンデス・デ・コルドバを捕らえ処刑.さらにホンジュラスへの進出を図る.ペドラリアスの去った後,カスティーリャ・デル・オーロの総督にはペドロ・デ・ロス・リオスが就任.

1527年

27年 サルセドの過酷な原住民政策に多くの部族が立ち上がる.またサルセドはニカラグアへの支配権拡大を目指すが,逆に捕らえられてしまう.ニカラグア支配層は自己の主張する境界線を認めさせた上で,サルセドを釈放.

12 グアテマラとニカラグアに総督制の導入が決まる.アルバラードがグアテマラ,ペドラリアスがニカラグア総督に任命される.

28年 王勅により湾岸諸島がホンジュラスに帰属することとなる。

1530年

1.03 ディエゴ・ロペス・デ・サルセドが死亡。アンドレス・デ・セレセーダがホンジュラス知事となる。

30 アルバラード,グアテマラからイゲーラスに侵食.

30 北部ニカラグア,ホンデュラスの中央高地で砂金の採集が盛んになる.グラシアス・ア・ディオス,トルヒーヨ,サンペドロなどが中心地として発展.20年ほどでこの金ブームは終焉.

1531年

10.08 トルヒーリョでディエゴ・メンデスが武装反乱。副総督のバスコ・デ・エレーラを殺害する。セレセーダ知事が出動しメンデスを拘束し処刑。ホンジュラスは原住民狩りや伝染病の結果,ほぼ無人の土地と化す.

31年 ペドラリアス,レオンで死亡.このあとニカラグア政府は弱体化し,混乱が相次ぐ.

32.10.29 王勅によりドン・ディエゴ・デ・アルビテスがホンジュラス知事に指名される。ドン・ディエゴは病を得、トルヒージョ到着の5日後に死亡。セレセーダが引き続き知事職をになう。

34年 スペイン王室,旧ホンジュラスをホンジュラスと西部のイゲーラスに分割する裁可.イゲーラスは実質的にグアテマラの支配下に入る.アルバラードの支配はエルサル,ホンジュラス南部,ニカラグア西部まで及ぶ.アルバラードの指示でニカラグア領内にレアレホの町が建設される.

1536年

5.21 ペドロ・デ・アルバラード、セレセーダの自発的辞職を受けホンジュラス知事を兼務する。

6月 アルバラード、ユカタン半島の支配権を握るフランシスコ・デ・モンテホと協定.アルバラードはモンテホのホンジュラス総督就任を承認し、それと交換にイゲーラスに対する支配権を認めさせる.

6.26 アルバラード、チョロマ流域にサンペドロ・デ・プエルト・カバジョス県を創設。

8.12 アルバラード、スペインに赴く。アロンソ・オルティスがホンジュラス副知事に任命される。

36年 イゲーラス地方山中で金銀の鉱山発見.スペイン人のあいだで分け前をめぐり内紛となる.アルバラードはこれに介入し全権を掌握。部下のファン・デ・チャベスがグラシアス・ディオスを建設する。

36年 アルバラード、クリストバル・デ・ラ・クエバを派遣.グアテマラとイゲーラスとを結ぶ中間にサンペドロ・スーラを建設.

36 レンカ族の首長レンピラ,中部と西部高原の先住民を糾合.反乱を企てる.反乱には最大時3万人が参加したと言う.レンカ族の居住地は現在のErandique地方.(ウィキペディアで見るとレンピラ県エランディケ郡となっています11の村合わせて人口1万ちょっと、すごい田舎です。町の広場にレンピラの像が建っているのが唯一"らしい"ところです)

1537年

12.10 王室,アルバラードとモンテホの合意を追認.モンテホにホンジュラス総督の地位を与える.

37 レンピラが指導して,グラシアス金鉱山での苦役に反抗する原住民の蜂起.通行中のスペイン人三人を襲い殺害.このあとコンゴロン地方コヨクテナ(Penol de Cerquin)山中の要塞に立てこもり,1年にわたり抵抗を継続.これに刺激されインディオ200部落,3万人が次々と立ち上がり,イゲーラ全体が無政府状態となる.反乱はスペイン軍の統制を超えて拡大.Comayaguaは焼き払われ,Gracias, San Pedro de Puerto Caballos and Trujilloが包囲された.

1538年

9.13 トルヒージョに司教区開設.先住民保護官に指名されたクリストバル・デ・ペドラサが,プエルト・カバジョスに上陸。初代ホンジュラス司教として任に当たる.ペドラサは原住民保護に力を注ぐが,スペイン人支配者の抵抗にあいほとんど実効なし.

38 レンピラ,アロンソ・デ・カセレスのひきいるスペイン軍との停戦交渉に臨んだところを謀殺される.レンピラの死後,反乱軍は総崩れとなり反乱は急速に終息.1万5千の原住民がその後の数年間で8千に減少.

38年 モンテホ、アロンソ・デ・カセレスにサンタマリア・デ・コマヤグアの建設を命じる。コマヤグアは両洋間の中央に位置していた。

1539年

39年初め アルバラード,本国に一時帰還.ホンジュラスの利権に絡み王室に工作.スペイン王はアルバラードをグアテマラ知事に任命しホンデュラス西部のグアテマラ編入を認める.

4.04 アルバラードは後妻ベアトリス・デ・ラ・クエバを伴いプエルト・カバジョスに上陸。アルバラドはスペイン人流出を食い止めるため,本国より未婚女性20人を連れ帰る.

4月 モンテホにホンジュラス知事職の引渡しを要求。グラシアスでペドラサを仲介に両者の会談。モンテホがホンジュラス知事を譲る代わりにチアパスの知事となることで合意。この合意は本国でも承認される。

39年 アルバラードはアロンソ・デ・カセレスをホンジュラス副知事に指名した後グアテマラに向かう。カセレスがホンジュラスの事実上の総督となる。

39 コマヤグア渓谷オポテカ鉱山で金鉱が発見される.さらにその後テグシガルパ近郊のGoascoranで銀山が発見.スペイン人は厳しい気候と海賊の危険を受けるイゲーラス海岸部から,内陸部に移動をはじめる.

40年 カセレス副知事、サン・ホルヘ・デ・オランチョ県を創建。ここは砂金を持つ肥沃な谷であった。

42.11.20 王勅により、グラシアスに中米を統括するアウディエンシアが創設される。統括範囲はタバスコ、チアパス、ソコヌスコ、ユカタン、コスメル、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、ベラグアス、パナマまでふくむ広範なもの。

43年 ヒル・ゴンザレス・ダビラ、名誉と権力を回復できないまま死去。同名の息子がメキシコに渡り再起を図る。

43.9.03 アウディエンシアの共同議長としてディエゴ・デ・エレーラ、ペドロ・ラミレス・デ・キニョネス、フアン・ロヘルが指名される。グラシアスのアウディエンシアがホンジュラスの統括も兼務する。

48年 ソテロ・モンカダがロサリオ地域の鉱山の採掘権を獲得。これをエ ンリケ・グティエレス将軍に400ドルで売却する。その後、鉱山はグティエレスと元大統領マルコ・アウレリオ・ソトの共同所有となる。

52年 アウディエンシアが知事職を代行する時代が終わり、ペレス・デ・カブレラがホンジュラス知事に任命される

57.12.20 ホンジュラス各地に鉱山が開発される。首都はオポテカ鉱山近郊のコマヤグアに移動する。

58年 フレイ・ヘロニモ・デ・コレリャ司教がトルヒージョに赴任。文化活動が興隆する。

61年 コレリャ司教、首都コマアグアに司教座を移す。

63年 グラシアスのアウディエンシアは廃止されパナマのアウディエンシアに一本化される。4年後にはグアテマラ総督領地域のアウディエンシアが復活するが、グアテマラのサンチァゴ・デ・ロス・カバジェロスに移される。

1566年 エルナンの息子マルティン・コルテス、ヒル・ゴンザレス・デ・アビラ(息子)、アロンソ・デ・アビラらが副王に対する反乱の陰謀を企てたとして逮捕、処刑される。

78.9.29 テグシガルパの鉱山町が創設される。正式名称はReal de Minas de San Miguel de Tegucigalpa。テグシガルパの金銀はバスク人鉱夫により採掘された。その富はグアテマラ総督の懐を潤すだけに終わった。

80.10.31 王勅によりテグシガルパ周辺の地域が、ヘレス・デ・ラ・フロンテラ・チョルテカとしてグアテマラの直轄を離れる。


1792年 モラサン、テグシガルパで生まれる。

1800年

独立への胎動

01 アントニオ・ゴンサレス・モリネド・イ・サラビア総督が赴任.本国の戦費調達のため,重税が課せられたことと,連続の不作が重なり,厳しい経済不況を迎える.

03 カルロス4世,サン・アンドレス諸島とグラシオス・ア・ディオス岬以南のモスキート海岸を,ヌエバグラナダ副王領に帰属させる決定.

04 スペインと英国との戦闘が始まる.英国の支援を受けたモスキート族が各地で攻勢をかける.

08 グアテマラのアウディエンシア,ゴンサレス=モリネド総督を先頭に,フェルナンド支持の立場を確認.本国のナポレオン支配に対してたたかうことを決議.

08 総督府,大司教の訴えを受け,ガセータ紙編集長シモン・ベルガーニョ・イ・ビジェガスを国外追放.

09 グアテマラのアユンタミエント,スペインの中央フンタの自由主義的傾向に対し異議を唱える.

10年 総督、7人の代表をカディス・コルテスに送る。さらに各地方の代表者会議を召集。

カディス議会の参加者: マヌエル・デ・リャノ(チアパス),アントニオ・ララサバール(グアテマラ),ホセ・アビラ(エルサル),ホセ・モネホン(ホンジュラス),ホセ・ロペス・デラ・プラタ(ニカラグア),フロレンシオ・カスティージョ(コスタリカ)ら.議会はホセ・デ・アイシネナを国家評議会のメンバーに指名.

1811年

11.05 サンサルバドルでスペインからの独立運動。エルサルバドルで独立派活動家の逮捕をきっかけに蜂起が始まる.当初の指導者はサンサルバドル生まれの教区司祭ホセ・マティアス・デルガドだった。

11月 デルガドの甥マヌエル・ホセ・アルセ中佐が独立軍を組織。サンチアゴ・ホセ・セリス,ペドロ・パブロ・カスティージョなどの将校が加わる.グアテマラの修道士たちも参加.インディゴ輸出業者が支援.

11月 サンサルバドルの参事会はアルセを大統領に擁立しサンサルバドル独立を宣言.1ヶ月にわたり政権を掌握するが、グアテマラの総督軍の前に敗れる。

12月 ゴンサレス・モリネド総督,メキシコで発生したイダルゴの反乱鎮圧作戦に出動し戦死する.

12月 ホセ・デ・ブスタマンテ・イ・ゲラが総督に就任.ブスタマンテは本国議会の制定した自由主義的法律を停止,密貿易を厳しく取り締まる(1818年まで).

11年 テグシガルパでスペインの支配に対する反乱.反乱は失敗するが,テグシガルパはコマヤグアからの分離を実現する.

11年 グアテマラ経済協会が再建される.

11年 カディス議会,立憲君主制を採用.自由主義的傾向を強める.

11年 カディス議会,原住民の貢納制を廃止すると決議.総督府は引き続きミタを原住民に強制.

11年 レオンに大学が設立される.

1812年

3 エルサルバドル独立派,総督軍により鎮圧,デルガドは投獄される.ホセ・デ・アイシネナ(Aycinena)がインテンダンテに任命される.グアテマラのベレン,ニカラグアのレオンでも蜂起が起きるが,いずれも総督軍により鎮圧される.

1813年

12月 グアテマラ市で,ベトレヘム会修道士フアン・デラ・コンセプシオンを中心とする秘密運動結成.指導者の逮捕により運動化せず.地方でもトトニカパンでインディオ指導者アナスタシオ・ツルによる蜂起.20日間で敗北.

13年 グアテマラとレオンに地方評議会(Diputaciones provinciales)が開設される.のちにシウダ・レアル(チアパス)にも設立.

13年 グアテマラのベレンで反乱の陰謀が発覚.

1814年

1.22 サンサルバドルで二回目の反乱。前回より規模も拡大するが,総督の弾圧も強まる.指導者アルセは捕らえられ4年間の獄中生活を送る。

14年 フェルナンド七世が復位.1812年憲法を始めフンタのすべての決定を無効と宣言.カディス議会は消滅し、中米の本国議会での発言権もなくなる。

15年 サンフアン・オストゥンカルコ(Ostuncalco)で代官(Alcalde)に対する先住民の反乱.代官が異教信仰を禁じたことがきっかけとなる.

16年 モスキートの王ジョージ・フレデリック二世が,ベリーセで「即位」.ふたたびカリブ海岸に英国の保護領モスキート王国を建てる.

17年 グアテマラに宗教裁判所が再建される.

17年 ブスタマンテ,クリオーリョの抵抗を抑えることができず辞任.後任のカルロス・デ・ウルティア・イ・モントーヤ(Urrutia y Montoya)が赴任.最後のグアテマラ総督となる.

18 アウディエンシア,英国との密貿易を公認.中米に経済ブームが巻き起こるが,織物などの地場産業は壊滅.

19 グレゴール・マグレガー,パナマのポルトベーロを占拠.

20 スペイン本国に自由主義革命起こる.これに呼応してペドロ・モリーナがEl Editor Constitucionalを,ホセ・セシーリョ・デル・バジェが「祖国の友」を創刊.

1821年

21年 グアテマラ総督領のカルロス・ウルティア・イ・モントーヤ総督、病気のため職務を遂行できなくなる。これに代わりガビノ・ガインサ副総監(subinspector)が総督代行を務める.ウルティアはガインサの総督就任に反対したという。

21年初め ホセ・セシリオ・デル・バジェ、グアテマラ市のカビルド議長(市長)に選出される。「賢人」と呼ばれる。

2月24日 アグスティン・デ・イトゥルビデ将軍がイグアラでメキシコの独立を宣言した。"Religion, Independencia y Union"のスローガンの下で、カトリック国家、スペインからの政治的な独立と新しい秩序、全ての社会的・民族的グループの憲法のもとでの平等を掲げる。

4月10日 ガビノ・ガインサ総督は『イグアラ憲章』を非難し、スペイン王政への忠誠を誓う。

8月24日 メキシコ副王ファン・オドノフはイグアラ憲章を受け入れ、コルドバの条約においてメキシコの独立を認めた。

21年9月 第一次独立

9月8日 チアパス州、シウダ・レアル会議でイグアラ憲章を採択し独立を宣言。メキシコの独立運動に参加することを決定.グアテマラ総督領より離脱.

9.08 エルサルバドル州はサンサルバドル会議でイグアラ憲章の下の独立の意思を表明するが、採択に至らず。

9.14 グアテマラ総督ガビノ・ガインサ、チアパスやエルサルバドルでの離脱の動きを受け、中米諸州の代表を集め賢人会議を開催.大司教、軍司令官、グアテマラ市長と市議会有力者らが対応を協議する。

9.15 賢人会議と並行して、市議会が地方代表を召集し人民代表者会議を開催。独立宣言"Acta de Independencia"を採択する。

会議はホンデュラスのホセ・セシリオ・デル・バジェがイニシアチブをとった。バジェは保守派だが法律家として信望を集めていた。
バジェの起草した独立宣言に12人の独立運動家が署名.サンサルバドルの独立派とスペイン本国人官僚,特権商人,教会勢力と結んだグアテマラの保守派が手を握った.

9.15 代表者会議、「暫定諮問会議」を組織し、新政府の立ち上げに動く。諮問会議はガインサと会談し、1822年3月1日に制憲議会を開催すると告知。

9.15 ガインサ総督と諮問委員会の合意が成立。憲法制定議会確立までの間、諮問会議が暫定政府を担う、ガインサは最高権威者"Poder Supremo"として君臨する。

9月18日 ガインサ総督、メキシコ摂政のアグスティン・デ・イトゥルビデにグアテマラ総督領の独立を通告。

9.28 ホンジュラスの首都コマヤグアが市議会を開催。メキシコの自治領として独立すると宣言。スペイン領時代からのホセ・グレゴリオ・ティノコ・デ・コントレーラス知事がそのまま残留。

各州・地方の動向: テグシガルパの市議会(トマス・ミデンセ議長)は、グアテマラで設立される政府に加わり無条件独立を実現すると宣言。
 エルサルバドルはメキシコ併合をはかる動きには反対し、グアテマラで発表された独立宣言を承認.
 レオン,カルタゴはスペインからのみならず,グアテマラからの独立も宣言.
 パナマはスペインからの独立と,グラン・コロンビア共和国への参加を宣言.

10.03 メキシコ、グアテマラ総督領を自らの領土と宣言。

10.19 イトゥルビデがガインサに返書。メキシコとグアテマラの現在の利益は非常に同一で分割できない。中米はその存在または保証を危険にさらすことなく、独立した国であることができない」とし、イグアラ憲章とコルドバ条約に従ってメキシコと併合するよう呼びかける。

10月 イトゥルビデがビセンテ・フィリソーラ(Count de la Cadena)に中米遠征を命令。グアテマラ、パナマとカンペチェの平定を目指す。

11.18 「暫定顧問会議」がイトゥルビデに返書。みずからは決定権を持たないとしながらも、各市と諮って前向きに検討したいと答える。

12.11 ホンジュラス顧問評議会(Junta Consultiva)、「都市」の称号をテグシガルパに授け、市当局を「愛国的な」政権と評価する。

12月 ビセンテ・フィリソーラ軍がグアテマラ市に進駐。ガインサ政権に代わり、中央アメリカ連邦共和国の大統領を宣言する。グアテマラの保守的なリーダーはメキシコ帝国との併合に動く。(ガインサはしかるべき地位を与えるとの約束が反故にされ、メキシコシティーで文無しで死んだといわれる

12月 コマヤグアのティノコ知事はテグシガルパの反対派の押さえ込みにかかった。

1822年

1.05 メキシコのイトゥルビデ,メキシコ帝国への併合を決定.ビセンテ・フィリーソラを総督に任命し、シウダ・レアル,グアテマラ,レオンをそれぞれの首都とする三つのコマンダンシアに分割・再編.

先住民、メスティソの反乱を恐れるガインサとクリオージョ保守派は併合案を支持した。グアテマラはこの決定を支持,エルサルバドルは反対.コスタリカではサンホセ,アラフェラがコロンビア併合案,カルタゴがメキシコ併合案を支持し国内対立.

1.11 アルセの率いるエルサルバドル政府、メキシコの支配に反対し中米連合から脱退。

2.03 ガビノ・ガインサは、テグシガルパの政治指導をディオニシオ・デ・エレーラにゆだねる。テグシガルパはティノコの弾圧と戦うため義勇軍を組織した。エレーラの甥フランシスコ・モラサンもこれに加わった。

2.10 エルサルバドルでフィリソーラを支持する併合派の反乱が起きる。ニカラグア,コスタリカでも両派の紛争が発生.

3.10 メキシコ議会が開かれる。グアテマラ代表の一人ホセ・セシリオ・デル・バジェがメキシコ議会の副議長に選出される。ホンジュラスからはコマヤグアとテグシガルパがそれぞれ議員を送る。

5月 メキシコ制憲議会,イトゥルビデを皇帝に選出する。イトゥルビデはアグスティン1世を名乗る.

5月 グアテマラのフィリソーラ軍はマヌエル・アルスーの部隊をエルサルバドルに送る。アルスーはサンタアナとソンソナテを制圧しサンサルに向かう。

6.03 アルスーはサンサルバドルに入りマヨル広場に到着。アルセ軍と9時間にわたる市街戦。多数の犠牲者と家屋の焼失をもたらす。

8.22 テグシガルパはコマヤグアとの争いに敗れ、メキシコとの併合を承認。

8.24 イトゥルビデ,議会を解散し独裁制に移行.政権の恣意的方針に反対したバジェは、メキシコ政府に陰謀を企んだとして逮捕・拘禁される。

10月 アルセはエルサルバドルで武装軍を組織,抵抗運動を開始.

12.02 エルサルバドルの自由党、米国に併合を要請。アルセが米国に赴く。

1823年

1 エルサルバドル議会が米国への併合を求める決議.

3 メキシコで共和革命が成功。イトゥルビデは戦闘に敗れ亡命.代って3人の軍人からなる臨時政府樹立.メキシコ共和国成立.

3月 メキシコ臨時政府は中米諸国が自らの進路を決める権利を認めた。またデル・バジェを解放し、共和国外相に任命した。

3月 フィリソーラは戦力の維持が困難となり、メキシコに戻る。帰りの旅費はグアテマラが支払ったという。

4.01 メキシコ帝国の崩壊にもとづきグアテマラ市に5州の代表が集まり中米会議開催.議長にデルガドを据える.「中央アメリカ連合州」として独立することを決定.チアパス州は,メキシコ残留を表明.ソンソナテ自治区はエルサルバドルに編入される.

中米連合の旗は青い両洋間の白い大地を表している。両洋間交易により繁栄を実現したいという願望の象徴である。紋章の五つの山はそれぞれの国家を表し、フランス革命の象徴であるフリギア帽が添えられている。

4月 三人の執政からなる暫定執行評議会(フンタ)を結成.メンバーはペドロ・モリナ、アントニオ・リベラ・カベサ、ファン・ビセンテ・ビジャコルタ.憲法制定の準備にはいる.

4月 モラサンはグアテマラでの憲法制定議会で、選挙区、州、県の行政組織のあり方を検討する調査委員会のメンバーに選出される。

23年前半 アルセ、米国からメキシコに移り、キューバ解放軍を組織しようとするが挫折。

7.01 中米連合州(Provincias Unidas del Centro de America )が成立。あらためてグアテマラ総監領の完全な独立を宣言。

7.10 中米連合州,独立政令(第二独立宣言)を公布.「昔のスペインからも,メキシコ,そしてどのような大国からも,自由で独立した新世界にふさわしい国を造ろう」と宣言.奴隷制廃止を宣言.

独立当時の中米
人口は約130万人(グアテマラ65万,エルサルバドル25万,ニカラグア20万,ホンジュラス15万,コスタリカ七万).白人はペニンスラール・クリオージョあわせ5%未満で,コスタリカを除き先住民が圧倒的多数.
自給自足的農業のほか,カカオ・インディゴなどの輸出用作物をわずかに栽培.

9.13 新政府の共和主義的傾向に反対するラファエル・アリサ・イ・トレス大尉による反乱.王政派のホセマリア・マルティネス・ワジョプらの反乱があいつぐ.

10月 第二次の三頭評議会が発足。帰国したデル・バジェは三人からなる臨時執行委員会のメンバーとなり,憲法の起草を受け持つ.

23年 イギリス,ホンデュラス沖のモスキート諸島の保護権獲得.

1824年

3.15 アルセ、三頭の一角となるポストを受け入れ、祖国への復帰を決意する。

9.28 テグシガルパ自由党のディオニシオ・デ・エレーラが初代ホンジュラス知事に選ばれた。副知事にホセ・フスト・ミリャ大佐が就任。エレーラはモラサンを幹事長に任命する。(一説に9月16日)

エレーラの本名はえらく長い。Jose Dionisio de la Trinidad de Herrera y Diaz del Valle 。グアテマラのサン・カルロス大学で法学を習得、このときにフランス革命の影響を受けた。今で言えばアカになった。その後1820年、39歳で故郷テグシガルパに戻り市役所に勤務。

10.24 三頭政治が終了。アルセはニカラグアの内紛を最小限の暴力で沈静化させることに成功し、名声を勝ち取る。

ニカラグア内戦: ニカラグア州統領にリバスの地主で,スペイン革命にも参加したデ・ラ・セルダが就任.反対者を抑圧し,みづから独裁者となる.レオン政府からの分離を主張するグラナダは戦闘を開始.

11月 中米制憲議会がグアテマラ・シティーで開かれる。連邦主義を唱える自由党が過半数を制した。

保守と自由-二つの潮流: 自由党は米国に似た連邦政府を主張した。各州は自治権のある政府を持ち自らの法を定める。しかし憲法とそれを守る連邦政府の指導を受け入れることになった。保守党は全国一律に法と政令が適用される中央集権主義の政府を欲した。

11.22 「神、団結、自由」を標榜する中米連合の新憲法が採択される。自由で独立した内政を認められた五つの州からなる中米連邦共和国に改組.グアテマラを連邦政府の当面の首都と定める.公式名称は中米連邦共和国(Republica Federal de Centroamerica) と改められる。

11月 ロスアルトス州の分離が議会により可決される。グアテマラシティが分離方針に強く反対したため、実施は遅れる。

11月 最初の立憲大統領にマヌエル・ホセ・アルセが就任。

24年 フアン・モーラ・フェルナンデスがコスタリカ統領に選出される.9年間の任期にわたり,コスタリカだけが争いのない時代が続く.

1825年

4月 中米連邦の議会がグアテマラで開かれる。ガビノ・ガインサの私的顧問として平和的独立に尽力したマリアノ・ガルベスが議長に就任。アメリカ合衆国を模範とする自由主義を目ざすことで合意する.

4月 議会議員の投票による大統領選挙。ホセ・セシリオ・デル・バジェが最多得票。自由党員は議会を操作し、バジェが絶対多数をとらなかったことを理由にデル・バジェの就任を拒否。

4.29 やり直し選挙がもたれる。1票差でアルセを大統領に選出する。議会上下両院で自由党員の支持を失ったアルセの指導力は大幅に低下し、聖職者と保守政党の支持で辛うじて政権を運営。政策は大きく右に振れる。

各州知事の動向: 議会と前後して各州の知事が選出された。グアテマラ州統領にディアス・カベサ暫定首班を経て自由党のフアン・バルンディアが就任.ニカラグアではセルダが,コスタリカではモーラが州統領に就任.ニカラグアを除き自由派が統領の地位を占める.

12月11日 エレーラ、最初のホンジュラス憲法を発布。ホンジュラスの国土をコマヤグア、テグシガルパ、サンタバーバラ、ジョロ、オランチョ、チョルテカの6県に再編した。

1826年

10月10日 マヌエル・ホセ・アルセ、連邦議会を解散しようとしコフテペケ会議を招集。暫定議会の選出を図る。ホンジュラスの国家元首ディオニシオ・デ・エレーラはアルセの策謀を拒絶。

10月 アルセ大統領はホンジュラスのエレーラ政権を認めず。エレーラはすでに任期を終えており、その政権は違法であると断罪する。(連邦政府所有のコパンのタバコ農園の利権保護が真の目的だったとされる)

10月 エレーラは退陣し、ディエゴ・ビヒル・コカーニャがホンジュラスの知事となる。ビヒルはモラサンの親戚にあたり、その後一貫して腹心として支える。

12月 アルセ大統領,奴隷制廃止を宣言.エルサルバドルはこれを大統領の越権行為として反乱を起こす.

12月 アルセは自由党の路線を不満とし脱退.グアテマラの保守派と組んで独自の政党を組織,

12月 アルセ、グアテマラ州統領で自由党のフアン・バルンディアを解任.その後安定した州統領は実現せず,事実上連邦政府の直轄統治に.

26年 マリアノ・ガルベスがバルンディア解任に抗議し反乱。中米内戦が始まる。敗れたガルベスは、アウアチャパレでモラサン軍に合流。

1827年

5.10 アルセの意向を受けたホンジュラス副知事フスト・ミリャ大佐が200人の兵とともに反乱。自由党政権は、保守党と結びついたミリャ大佐のクーデターにより崩壊した。ビヒル知事は逮捕され、エレーラは囚人としてグアテマラに送られ、1829年まで収監された。モラサン、レミヒオ・ディアス、ホセ・アントニオ・マルケスらは包囲された首都を抜け出し、テグシガルパで増援をもとめる。(4月9日説もある)

このあと11月まで日付のはっきりしない出来事が続きます(ウィキペディア)。
*テグシガルパから進撃したモラサンらの部隊、牧場『ラ・マラディアガ』でミリャの軍隊と衝突。勝負のつかないまま双方が撤退。
*モラサンはオホホナでラモン・アンギアーノ少佐の部隊に捕らえられ、テグシガルパへ移される。
*フランシスコ・モラサン、テグシガルパを脱走。太平洋岸のラ・ウニオン(エルサルバドル)からメキシコへの入国を図る。
*ランシスコ・モラサン、ラ・ウニオンでマリアノ・ビダウレと会見。ビダウレはエルサル特使としてニカラグアに向かう途中だった。
*ビダウレの説得を受けたモラサンは、レオンに赴き、ニカラグア軍最高司令官のホセ・アナクレート「Cleto」オルドニェスにホンジュラス奪回のための支援をもとめた。
*クレートはモラサンに応え、武装兵士135名からなる部隊を提供した。その部隊はエルサルバドルから来たセペダ大佐の部隊と、ホンジュラスのチョルテカ県から来た義勇兵部隊の混成だった。
*モラサンの部隊がホンジュラスに侵入、サバナグランデに拠点を構える。これを知ったミリャは部隊をテグシガルパに展開し前線本部を置く。

11月11日午前9時 セロ・デ・ラ・トリニダードの闘い。5時間にわたり激戦が展開され、モラサンの率いる自由党軍がミリャの連邦軍を壊滅においこむ。(一説ではホンジュラス、ニカラグア、サルバドルの分離主義者の部隊を打ち破る)

11.27 モラサン、ミリャと残党を追討しながらコマヤグアに入り、ホンジュラス国家元首を宣言する。ビヒル前知事は解放され副知事に就任。

27年 グアテマラ領内ケサルテナンゴで保守派の暴動.バルンディアの代行を務める自由党選出のグアテマラ副統領を殺害.このあとグアテマラ州統領にはマリアノ・デ・アイシネナが選出される.

1828年

3.23 エルサルバドルの自由主義者が蜂起。アルセはマヌエル・デ・アルスー将軍の率いる連邦軍2千名にエルサルバドル占領を命じる。連邦軍はアラソラの戦いでエルサルバドルの自由党軍を破りサンサルバドルを制圧。

4月 フランシスコ・モラサン、エルサルバドルの連邦主義者の支援のためTexiguatで「法の擁護軍」部隊を編成する。この部隊はホンジュラス人、ニカラグア人とエルサルバドル人の小さいグループで編成されていた。各自が自らの武器を携えてやってきた。

6月18日 フランシスコ・モラサン、ディエゴ・ビヒルにホンジュラスの統治を託す。兵士1400名を率いエルサルバドルの連邦主義者の支援に向かう。

6月 モラサン、エルサル東部(現在のモラサン県)に入る。アルスー将軍はビセンテ・ドミンゲス大佐(一説にホセ・ドミンゲス将軍)の率いる討伐軍を派遣。

7.06 『エル・グアルチョ』牧場の戦い。苦戦の末ビセンテ・ドミンゲス大佐の率いる連邦軍隊を破った。その後も連邦軍の派遣部隊を次々に撃破する。

7月 アルスー将軍、サンサルバドルの防衛をモントゥファル大佐にゆだね、自らモラサン部隊の討伐に乗り出す。モラサンはこれを知りいったんホンジュラスに戻り、兵力の増強に努める。

9.10 サンサルバドルの防衛をになったモントゥファル軍が、メヒカノスで壊滅・降伏する。

9月20日 アルスー将軍、500人の部隊を率いレンパ川に沿って索敵行動。このときサンサルバドルの留守部隊が降伏したことを知る。アルスーは病気を装い、アントニオ・デ・アイシネーニャ中佐に軍の指揮をゆだね戦列を離脱。グアテマラに戻ったあとそのまま退役。

10.09 アイシネーニャの率いる連邦軍、ホンジュラスに進軍するが、サンアントニオでモラサン派の部隊に攻撃され降伏。

10.23 モラサン軍、サンサルバドルに勝利の行進。ただちにグアテマラ進軍の準備に取り掛かる。

10月末 モラサン軍、エルサルバドル西部のアウアチャパンでグアテマラ進攻のため兵力の増強に取り掛かる。エルサルバドルの政府は2千の兵を組織。ファン・プレムの率いる師団が進攻舞台となる。

28年 アルセは財政をカバーし戦費を調達するため,イギリスの商社から借金.イギリスは返済のかわりにベリーズ割譲を迫る.

 

1829年

1月初め フレム軍、グアテマラに侵入。チキムラの町を制圧する。グティエレス大佐の指揮下の小部隊がグアテマラ市の近くに展開。遊撃戦で敵戦力のかく乱と分散を目指す。

1月初め グアテマラ市からドミンゲス大佐の率いる600人の部隊が出動。フアン・プレム軍の撃退を目標とする。ドミンゲス部隊は陽動作戦にかかり目標をグティエレス部隊に変更。

1.15 プレムは、サカパからドミンゲス軍の背後を襲い撃破する。さらに1400人の部隊で 首都の近くのサンホセの連邦軍基地を攻撃。

1.30 エルサルバドル知事にホセ・マリア・コルネホが就任。

1月 アンティグアがグアテマラ政府に対し反乱。サカテペケ県全域がモラサンの旗の下に結集する。

2月初め モラサンの「法の擁護軍」本隊がグアテマラに入る。首都の近くピヌラ村に陣取りシウダ・グアテマラの包囲戦に入る。

2.15 モラサン軍主力のカエタノ・デ・ラ・セルダ師団、ミフコ(Mixco)まで進出するが連邦軍に撃退される。モラサンはいったん包囲を解き、アンティグアに向かう。

2月 パチェコ大佐の率いる連邦軍、アンティグアのモラサンを追討するためスンパンゴとテハルに進出。

2月 パチェコの追討軍、サン・ミゲリートに入ったところでモラサンの返り討ちにあう。パチェコは戦線を広げ、戦力を分散させすぎたという。

2月 勢力を回復したモラサン軍はグアテマラ人義勇兵の参加により増強される。

3.07 ビヒル、モラサンに代わりホンジュラス知事となる。カトリックの干渉を排し、いくつかの教会建物を接収。

3月15日 ビジャ・ピヌラに向け進軍を開始したモラサン軍、『ラ・チャルカス』牧場でプラド大佐の連邦軍に進路をさえぎられたが、これを壊滅に追い込む。

3月 モラサン、ピヌラとアセイトゥノを確保し、ふたたび包囲戦に入る。

3月 オランダの中米全権大使ベルベエル(Verveer)将軍が両派の調停を試みるが不調に終わる。

4.12 モラサン軍、サンアントニオの闘いに勝利。グアテマラの主要都市を占領する。グアテマラ知事マリアノ・アイシネーニャ、降伏を宣言。

4.13 モラサン軍がグアテマラ市内に進軍。アルセ大統領、アイシネーニャ知事、マリアノ・ベルトラネーニャら政権幹部は獄につながれる。

6.25 モラサン、グアテマラ平定作戦を完了。上席上院議員ファン・バルンディアにグアテマラ知事職を引き継ぐ。

8月 コスタリカが中米連邦を一時脱退.

12.02 モラサン、ホンジュラスにもどる。ビヒルに代わり政府を掌握。

1830年

5.12 エレーラ、モラサンの支持によりニカラグア知事に就任。自由主義の改革を実行。

5.25 モラサン将軍、ホンジュラスで政府広報(Gaceta del gobierno)を発行。

5月 コスタリカが中米連邦に復帰.

7.28 中米連邦の大統領選挙。モラサンが保守党のホセ・デル・バジェを破る。モラサンはホンジュラス政府知事の職を辞す。

9.16 モラサンが任期4年の中米連邦大統領に就任。「これまで兵士として、市民として擁護してきた憲法を守る。そのためにもっとも危険に任務に身を置くことを誓う」と宣言。

モラサンの施策: 一般教育の充実、宗教の自由、社会的・政治的平等を推進する。共和的政策を進めたため,保守層の強い反発を受ける.またインディオの土地とりあげと重税政策は,インディオの反感をまねく.

9月 モラサン、教会財産を差し押さえ.さらに10分の1税の廃止,教団の非合法化,法律婚のみを有効とする立法化など教会特権を排除.

30 自由党のディオニシオ・エレーラが,ニカラグア州統領に就任.10年間にわたる内戦は収拾に向かう.

30 英国,ホンデュラス沖のベイ諸島を占領.

30 オランダ,中米連邦政府からニカラグア・ルートの運河建設の権利を獲得.ニカラグア運河会社を創立し運河建設を試みるが,ベルギー独立をめぐる内紛のため断念.

30 パナマの分離派,二年間で二度にわたりグラン・コロンビアからの独立を試みるが,失敗に終わる.

1831年

8.28 マリアノ・ガルベスがグアテマラ知事に就任。グアテマラを「啓蒙思想に基づく政策の実験場」とする。学校と道の建設、自由貿易、外資と移民の奨励、非宗教的な結婚と離婚、言論の自由、公共地のコチニール生産への利用、国家と教会の分離、10分の1税の廃止、信仰の自由、教会資産の没収、位階制の抑制、教育の教会からの分離など。これら法律の全てが、グアテマラの寡頭政治の中心に一撃を加えた。スペイン聖職者から特権をはぎとり、権力を削減した。

12月 モラサン、連邦の首都をグアテマラ市からサンサルバドルに移す。(時期・理由については諸説あり)

31年 モラサン、反自由党の牙城となっていたグアテマラ大司教のラモン・カサウス・イ・トレスと教会幹部を国外に追放。彼らは独立に反対し、改革に反対し、反自由党を扇動した。

1832年

1.06 エルサルバドルのホセマリア・コルネホ知事の反対により、モラサンはサンサルバドルからの撤退を余儀なくされる。コルネホとマヌエル・ホセ・アルセは中米連邦からの脱退を宣言。

1月 モラサン、ホンジュラスに戻り兵力を増強。エルサルバドルの奪回を目指す。

2.24 アルセはメキシコのソコヌスコで反モラサンの軍事行動を準備。グアテマラに進出するがモラサン軍に敗れる。

2.28 ホンジュラスで兵力を補強したモラサン、連邦軍最高司令官としてエルサルバドルに出動。サンミゲルの町を占領。

3.14 モラサン軍がホコロ(Jocoro)でコルネホ軍を撃破。

3.17 チャラテナンゴ、メタパンの町があいついで、連邦政府への復帰とコルネホ政権打倒の声を上げる。

3.28 モラサン軍、サンサルバドルに入りコルネホ軍を壊滅に追い込む。コルネホが捕らえられ、モラサンがみずからエルサルバドル知事となる。

4.03 モラサン、エルサルバドル憲法制定会議選挙を招集しマリアノ・プラードを知事に、ホアキン・デ・サンマルティンを副知事に選出する。

12月 アキノが強制徴兵制と不当な貢納制に反対して反乱開始.数千の原住民が決起.一時サンビセンテを占拠しサンサルバドルを目指すが敗退.

アナスタシオ・アキノ(AnastasioAquino): 先住民の首長でクリスチャン.エルサルバドル中部のノヌアルコス(LosNonualcos)でインディゴ農場を営む.

32 スペイン支持派の部隊がオモアを占拠.政府軍により排除される.

1833年

6.24 アキノは捕らえられ殺されるが,残党は約10年にわたり抵抗を続ける.

11月 エレーラ、ニカラグア国内の聖職者・保守党の抵抗により失脚。エルサルバドルに移る。

33 メキシコ保守派の支援を受けたアルセ,再度中米侵攻を試みるが敗退.

33 コスタリカのアラフエラで最初の新聞「Noticioso Universal」が発刊される.

1834年

34年初め モラサンの4年間の任期が終了。議会は次期の大統領を選ぶ選挙を行う。モラサンは大統領を辞し次期選挙に臨む。

34年初め 大統領選挙が実施される。自由主義改革に対する民衆の抵抗を背景に、中道派のJosé Cecilio del Valleが勝利する。

3.02 デル・バジェ、「ラConcepcion」農場からグアテマラ市まで戻る途中に急死。連邦政府は3日間の服喪を定める。

デル・バジェは25年の大統領選挙に敗れた後、政治を引退して文筆業に専念する。サン・カルロス大学の美術学部学部長と「経済協会」の会長を兼任。
30年、モラサンはデル・バジェに対しフランス大使または副大統領への就任を要請。デルバジェはいずれも拒否。

6.02 議会は再選挙を行いモラサンを大統領に選出。

8.06 ガルベス知事、英国の民間企業と契約を結び、イサバル、ラ・べラパス、ペテン、ベリーズ地方の開発・殖民をゆだねる。

34年 グアテマラ・シティーの保守派の影響力を嫌うグアテマラ知事マリアノ・ガルベスが首都をソンソナテに移動するようもとめる。モラサンはこれを承認。(ソンソナテはエルサル西部の町。そこに首都が存在することはほとんどなく、年内にはサンサルに移動している。31年説もあるが、おそらく間違いであろう)

1835年

2.14 ガルベス、第二期のグアテマラ知事に就任。

35年 エレーラ、エルサルバドルの知事に選出されるが就任を辞退。その後38年(57歳)には政界を引退し、その後50年に死亡するまでサン・ビセンテ(サルバドル)で教師として働く。

35 サンサルバドルが,中米連邦の連邦区に指定される.

35 コスタリカのブラウリオ・カリーリョ,保守党独裁政権を樹立.42年まで政権を担当.コーヒー栽培を中心に近代化をめざす.首都を商業の中心地サンホセに定める.カルタゴがサンホセに対し反乱(同盟戦争)

35 イギリス軍,ベリーズの入植地へ進出.グアテマラへの干渉開始.

1836年

2.01 ディエゴ・ビヒル・コカーニャがエルサルバドルの知事となる。

3月 リセンシアド前知事とニコラス・エスピノサ将軍がエルサルから国外に追放される。リセンシアドの持っていたBenemerito de la Patriaの肩書きは剥奪される。

36年後半 チアパスで発生したコレラ,グアテマラ全土をまきこむ大流行となる.マリアーノ・ガルベスの政府は医師・医学生・その他の医療技術者を動員し治療に当たるが、流行を止めるに至らず。

12月 エルサルバドルでもコレラの流行が始まる。エスキプラス巡礼者が持ち込んだコレラが国の全ての住民まで広がった。

36 ニカラグア,コスタリカとの国境地帯グアナカステに侵入.

1837年

1.08 エルサルバドル立法議会は年間の予算を可決した。政府は公共の従業員を除いて全ての支払いを止め、流行と戦うことに資産をつぎこむ。サンミゲルの町に水道の導入。

2月 グアテマラ高地の先住民にコレラが拡大。3千人が感染し1000人が死亡。先住民はコレラの流行を医師のせいと考え,医師をつぎつぎに殺害.

2月 ミタ県の先住民を聖職者がデマで扇動。政府が河川に毒を流し、先住民を一掃した後、外国人を入植させようとしていると宣伝。サンフアン・オストゥンカルコ(Ostuncalco)の先住民は武器をとり白人と自由党員を殺し、その家に火をつけた。

2月 ガルベス知事は軍を送り反乱を鎮圧しようとするが、軍の抑圧的行動は先住民の敵意をさらに煽る結果となった。

5.23 エルサルバドルのサカテコルカとコフテペケで先住民の反乱。グアテマラ,エルサルバドル,ニカラグアの各地で大規模な反乱があいつぐ.

5.23 エルサルバドル知事ビヒルの任期が終了。ティモテオ・メネンデスがエルサルバドル知事に就任。

6月 カレラが「山の戦争」(GuerraMontana)と呼ばれる先住民の抵抗運動の中で頭角を現す。

ホセ・ラファエル・カレラ: Mataquescuintlaの出身。文盲の豚飼いであったがカリスマ性を備えていた。手下のインディオにみずからを「神の子」とよばせるが,教会はこれを無視して強力な支持を与える.

6月 エルサルバドルのサンタアナでも大規模な反乱が発生。辛うじて鎮圧に成功。

7.07 ビヒルがエルサルバドル知事に戻る。反乱参加者に対し大赦を与え、事態の鎮静を図る。

37年後半 カレラと彼の軍勢は教会と保守勢力の支援を得て強化される。モラサンはいたるところで先住民の反乱を抑えたが、ヒット・アンド・ランを繰り返すカレラを捕らえることはできなかった。

カトリックの陰謀: 聖職者は彼が天使ラファエルであるとの託宣を下した。彼は異教徒、自由党員、外国人に対する報復を行い、古代の支配を取り戻すために天国から下りて来た。そして奇跡と呼ばれる集団幻想を生み出すためのさまざまなトリックを用いた。教会で先住民の大規模な集会が開かれると屋根から手紙が舞い降りてきた。それは聖母マリアからの手紙で、カレラにすべてを託し政府に対する反乱を行うよう訴えるものだった。その後「信仰は永遠なり」、「外国人に死を」との叫びが唱和された。

1838年

1.06 ビヒルがエルサルバドル知事を辞任。ティモテオ・メネンデスは、再び国家元首になった。

1月 アンティグア・グアテマラ、チキムラとサラマがガルベス政権への承認を取り消す。保守党のマヌエル・モントゥファル大佐とファン・デ・ディオス・マジョルガに加え、自由党のホセ・フランシスコ・バルンディアとペドロ・モリナもガルベスと敵対するようになる。

2.01 モラサン、グアテマラ進攻の準備のため大統領を辞す。ビヒルが後任副大統領に就任し大統領職を代行。

2.02 ロスアルトスの分離・独立が正式に公布される。連邦政府は6番目の構成国として承認。

2月 ラファエル・カレラの部隊がグアテマラ市に入り、ガルベス退陣と国外退去を促す。

3.03 グアテマラ在留のグレゴリオ・サラザール中米連邦副大統領、カレラの攻撃を受け死亡。

4 連邦政府,財政難を克服し戦費調達を図るため、いったん廃止した農民税を復活.各州に託されていた関税収益の管理を連邦政府に移行しようとする。ニカラグアを先頭とする各州政府はこれに猛反発し連邦離脱の動きを見せる。

4.13 カレラ軍,首都を占拠しガルベス政権を打倒,実権を掌握.自由党政府による改革をつぎつぎに転覆.ガルベス、グアテマラ知事を退陣し、メキシコに亡命。

5.30 連邦議会,中米諸国は自由で独立した主権国家であると宣言.分離・独立の動きを追認し自ら連邦制度に幕を引く.

5月 モラサンを支持するグアテマラの連邦主義者は、西部のケツァルテナンゴを根城にロス・アルトス共和国を宣言.マルセロ・モリーナを統領に選出.連邦国家の維持に向けさらに努力を重ねる.

7 エルサルバドルの中米連邦軍,グアテマラに派遣されるが,ロスアルトス地方でのたたかいでカレラ軍に敗れる.

11.05 ニカラグアが関税徴収に反対し中米連邦から分離。主権国家としての独立を宣言する。これにホンジュラスとコスタリカが続く。

12.23 モラサン軍のアグスティン・グスマン大佐、カレラとRinconcitoで協定を結び事実上の降伏。

1839年

2.01 モラサンの大統領としての任期が完了。議会が解散したため、後継者を指名する法的な基礎が消失する。

2.19 ビヒル副大統領が、中央アメリカの連邦共和国の暫定大統領として残務整理に当たる。

2月 ホンジュラスでは保守派のフランシスコ・フェレーラがカレーラと盟友関係を結び,権力を掌握.8年にわたり支配する.

4.06 エルサルバドルのエスピリト・サントで反連邦派の反乱。エルサルバドル軍と衝突。

4.17 ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカに引き続き、グアテマラも主権国家宣言.正式に連邦政府を離脱。残留国はエルサルバドルのみとなる。

4月 カレーラ,グアテマラ大統領に就任.連邦からの離脱を宣言.モラサンの反宗教法を廃止し,教会勢力と協調.教会税復活など保守色の強い独立国憲法を制定.イギリスの支持を受け,65年まで27年間政権をにぎる.

7.13 自由党の知事ホセ・フランシスコ・バルンディアが率いるエルサルバドル、モラサンをあらためて「大統領」に選出。中米連邦の復活を恐れるラファエル・カレラとグアテマラ保守党は、エルサルバドルとの戦いを宣言する。同時にエルサルバドルの民衆にモラサンとの戦いを呼びかける。

7月 モラサン、エルサルバドル国内の反乱鎮圧に成功。

9月 ニカラグアとホンジュラスの反モラサン派が、Francisco Ferrera, Nicolas de Espinosa, Manuel Quijano将軍を司令官とする連合軍を結成。2千の軍勢でエルサルバドルに攻め込む。

9.25 San Pedro Perulapanの闘い。モラサンはわずか600のエルサルバドル軍を率い連合軍を撃破する。

11.11 ホセ・トリニダ・カバーニャスの率いる連邦軍、トリニダーの戦いに勝利。

11.13 カバーニャスの率いる連邦軍、ラ・ソレダードのエル・シティオでフランシスコ・セラヤyアジェス将軍の軍隊を破る。

11月 その後San Salvador, Las Charcas,とエルサルバドル領内で戦闘を重ねる。連合軍は300人以上の死者を残し逃げ帰る。

39 英国,ベイ諸島とサンフアン・デル・ノルテを占領.

 

1840年

1.31 カバーニャスの率いる連邦軍、ポトレロのロス・リャノの戦いでセラヤ将軍の部隊に敗れる。

3月 モラサン、エルサルバドル軍1300人を動員しグアテマラに向け進軍開始。

3.18 モラサン、グアテマラ市に達する。カレラは少数の駐屯部隊を残し市内から戦術的撤退。

3.19 市内に突入したモラサン軍は、カレラ軍5千に包囲され、四方からの攻撃を受ける。カレラの率いる先住民兵はSalve Reginaを歌い、「カレラ万歳、モラサンに死を」と叫び攻撃。

3.19 モラサンは22時間の戦いの後、辛うじて脱出に成功、エルサルに戻る。

3月下旬 エルサル国内で、モラサンの惨敗に批判が続出。自由党の知事ホセ・フランシスコ・バルンディアもラファエル・カレラ側に寝返る。

3.27 モラサン、「これ以上エルサルバドルの人々に揉め事を引き起こそうとは思わない」と宣言。軍本部をホセ・アントニオ・カナス司令官の手に引き渡す。

3.31 エルサルバドルは連邦を解消。ビヒル暫定大統領の任期は終わった。

4.02 カレラ軍がロスアルトスの首都ケツァルテナンゴを占領。政府指導部の大半が処刑された。その後の10年間に独立を目指す3回の武装蜂起が起こるが失敗に終わる。

4月 メキシコ軍ロスアルトスに介入。ソコヌスコ県をつまみ食いする。ソコヌスコはイサパを中心とし、王室献上カカオの栽培地であった。

4.05 モラサン、一切の公職を放棄する。

4.08 フランシスコ・モラサン将軍、ラ・リベルター(エルサルバドル)の港から、友人と戦友30人とともにスクーナー船イサルコに乗り出発する。ディエゴ・ビヒルもこれに同行。

4月 モラサン、パナマのチリキ県ダビドに立ち寄り家族と面会。仲間の政治亡命者としての保護を獲得。("コロンビアに亡命"とする文献があるが、当時のパナマはコロンビアの一部だったためである。チリキはパナマといってもコスタリカとの国境付近である)

40 パナマ,ヌエバグラナダ共和国憲法にのっとり分離・脱退.2年間にわたり独立国として存在.

40年 モラサン出国にともないエルサルバドルで大統領選.カレーラとつながる保守派のフランシスコ・マレスピンが当選.アルセ元中米連邦大統領,帰国し立起するが敗北.

40 カレーラの支援を受けたコマヤグアの保守党指導者フランシスコ・フェレーラが,ホンジュラス全土の支配を目指す.テグシガルパの自由党は、近郊のエル・ポトレーロでフェレーラ軍を迎え撃つが敗北.

1841年

1.01 フランシスコ・フェレーラがホンジュラスの立憲大統領(Presidente Constitutional)に就任.独立以来,国内の反乱は300回を数える.

2.02 サンサルバドルが独立しエルサルバドル共和国の創設を宣言。これにより中米連邦は最終的に消失。(ここまで国名は首都名と同じサンサルバドルであったが、便利なのでそのままエルサルバドルと表記した)

7月16日 モラサン、カレラとその支持者による暴政を非難する『ダビドの宣言』を発表。

7月 モラサン、コスタリカの自由派から反乱への参加を求められる。

当時のコスタリカ知事ブラウリオ・カリージョは、コスタリカを自由で独立した州と宣言した。そして個人の自由を制限、出版の自由に限度を置いて、1825年の政治的な憲法を捻じ曲げた。そして新憲章「基本法と人権保障」を策定し取り替えた。さらに自らを「終身知事」を宣言した。

7月 モラサン他7人は、コスタリカ自由派の要請をこばみ、さらに南米に向かう。

7月 モラサン、リマに到着。マリスカル・アグスティン・ガマラから軍の指揮をもとめられる。南米諸国の状況を知ったモラサンは軍に加わらず。

当時ペルーはチリと戦争状態にあった。ペルー、ボリビア、コロンビア、チリは、それぞれが12年続く内紛の時代に突入しようとしていた。

12月 ペドロ・ベルムデス将軍の財政的な支持を受けたモラサン、カリャオから出発し中米帰還を目指す。カバーナ将軍とサラビア将軍、5人の士官が行動を共にする。

1842年

1月15日 モラサンはエルサルバドルに到着した。英国の干渉に対する共同防衛を呼びかける。

当時イギリスはグアテマラの海岸部(現ベリーセ)、ホンジュラスからニカラグアにかけてのモスキート海岸に進出し、事実上の植民地としていた。

2.16 モラサン、「私が戻ったのは、それが義務と考えたからであり、祖国を愛するもののやむにやまれぬ熱情によるものだ」と語る。しかしエルサルバドル政府はこの提案を拒否。

2月 モラサン、コスタリカ自由派の要請を受け、「コスタリカの人々の不幸に、決して無関心ではいられない。私自身の生命をかけて救い出す」と宣言。カリージョ政権打倒に乗り出す。

2月 ラ・ウニオン(エルサルバドル)で3隻のボートを借り、アカフトラ、サンサルバドルとソンソナテを回り兵を募る。フォンセカ湾内のマルティン・ペレス島でおよそ500人の部隊を編成し、コスタリカに向かう。

4.07 モラサンの部隊、何の抵抗も受けず太平洋岸のカルデラ港に上陸。これを知ったブラウリオ・カリージョ知事はビセンテ・ビジャセニョール将軍の指揮下に軍隊を組織した。

4.09 モラサン軍、アラフェラ県のホコテで政府軍と対峙する。

4月 迎撃に出動したビジャセニョール部隊とモラサンは、「Jocote協定」を結び、両軍を合体させる。両者はカリージョ一派の追放、憲法制定会議の招集、モラサンの指揮の下に臨時政府を設立することで合意する。

4.13 モラサンの軍隊は、サンホセ市に入った。カリージョは、条約を受け入れることを説得された。彼はモラサンに政府を譲りコスタリカを去る。

4月 モラサン、中米からの政治亡命者に門戸を開く。基本的人権と政治的権利の制限を撤廃し、取引と資産への干渉を取り払った。

4月 モラサンの召集した憲法制定会議、モラサンをコスタリカ知事に任命する。その後の数ヶ月、モラサンは軍の増強に力を注ぐ。

7.17 ニカラグア,エルサルバドル,ホンデュラス3国,チナンデガ協定を結び連邦制度の復活で合意.実施には至らず.

9月11日 モラサンに反対の大衆がサンホセで反乱。ポルトガル人のアントニオ・ピント将軍ソアレスが率いる400人の部隊が、モラサンを警護する40人のエルサルバドル人部隊を攻撃。モラサンと彼の部下は攻撃をはね返して、軍本部へ退く。

9.11 軍本部を包囲する軍勢は1千人に増加。従軍牧師ホセ・カストロはモラサンに降伏を提案するが、モラサンはこれを拒否。

9.15 包囲戦は4日に及ぶ。モラサンは血路を開きカルタゴに脱出しようとする。ホセ・カバーニャス将軍と30人の決死隊が本部を維持し、モラサンは脱出に成功。しかしカルタゴもすでに反モラサン派の手に落ちていた。

9.15 モラサン、旧友のペドロ・マジョルガに支援をもとめる。マジョルガはモラサンを裏切りピント将軍の下に突き出す。ヴィセンテ・ビジャセニョール、ホセ・サラビアとホセ・トリニダード・カバーニャス将軍も連行される。

9月15日 モラサンとビジャセニョールは、サンホセの広場へ移され銃殺された。サラビアはその前に自殺した。

42年 ビヒルはニカラグアのグラナダに定住し、1845年に亡くなった。カバーニャスは生き延びてエルサルに移り、後にホンジュラス大統領となる。

1843年

43 アルセ,中米連邦の再興を訴えるが容れられず.

43 英国,ミスキート王国を保護下に置くと宣言.ベイ諸島とサンフアン・デル・ノルテから撤退.

43 グアテマラ,メキシコのソコヌスコ占領について正式に抗議.

1844年

4月 アルセ、エルサルバドルに潜入しフランシスコ・マレスピン将軍を放逐しようとするが失敗。ホンジュラスに逃げる。

12.01 エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの連合のこころみが流産に終わる。

44 カレラ,大統領に選出される.

1845年

5.22 トリニダド・カバーニャス、コマヤグアでくーに成功。政権は40日で崩壊。フェレーラが再び政権を獲得。

1845年半ば アルセ、サンサルに戻り政治生活を終える。47年11月28日に困窮の中で死を迎える。

12月14日 ホセ・トリニダード・レイズ神父ら、テグシガルパで"Claustro de la Academia Literaria"を組織し、"Academia de Estudios"を設立する。

45 ニカラグアの統領に保守党のトリニダド・ムニョスが就任.51年までかろうじて政権を維持.

1846年

3月10日 ホンジュラス議会、"Academia de Estudios"を母体に「共和国中央大学」を創設する決議。

46 米国とヌエバグラナダの間にビドラック・マリャリーノ協定締結.米国のパナマ地峡の通行権を認めるもの.批准は48年.

46 エルサルのマレスピン大統領が暗殺される.

1847年

2.12 フェレーラが大統領を辞任。議会は保守党のフアン・リンド・セラヤを大統領に選出.リンドは初代エルサルバドル大統領を勤めた保守派の大立者。フェレーラは軍事相として引き続き実権を掌握。

9月13日 ファン・リンド、テグシガルパに"Claustro de la Academia Literaria"を設立する。のちのホンジュラス国立自治大学。

48 英艦プランパー号,トルヒージョを攻撃.

48年 コスタリカ大統領 Jose Maria Castro、個人の遺志に従いモラサンの遺体をエルサルバドルに送る。

49 英国,フォンセカ湾に浮かぶティグレ島を占領.ニカラグアとホンジュラスは英国を牽制するため,米国に支援を要請.スカイア米領事は,チャットフィールドに6日以内の撤退を迫る.

49 英軍,トルヒージョを一時占領.

49 米国,ホンデュラスと条約を締結.運河ルートの太平洋岸出口にあたる,フォンセカ湾のティグレ諸島を海軍基地として確保.

49 英国,リンド政権に対し負債の返還を要求.海軍は一時的にTrujilloの港を占領.港湾資産を破壊し,1,200ペソを地方政府から強奪.

1850年  三年戦争

50 中米連合の再建をはかるエルサルバドルのバスコンセロス大統領,ホンデュラス保守党のリンドと連合.グアテマラに侵入するがカレーラにやぶれる.エルサルバドル,ニカラグア,ホンデュラスのあいだに三年戦争はじまる.

50 リンドの任命したホセ・サントス・グアルディオラ副大統領がテグシガルパで反乱.エルサルバドル,ニカラグアの支援を受けたリンドはこれを鎮圧.

12月 モラサンの腹心トリニダード・カバーニャス将軍、エルサルバドルに移り、エウヘニオ・アギラルとドロテオ・バスコンセロス大統領の政府に協力。軍事大臣となる。

51.2.02 サルバドルのバスコンセロス大統領とホンジュラスのフアン・リンド大統領が同盟を結び、グアテマラに対して宣戦布告。カバーニャス将軍の率いるエルサルバドル軍がグアテマラ領内に進出するが、サンホセ・ラ・アラダのシティオの戦いで敗北を喫する。フアン・リンドはカバーニャスを受け入れる。

1852年

2.01 ホンジュラス,保守党のフアン・リンドから自由党のフランシスコ・ゴメスに政権交代.歴史上まれに見るほど平和的に移行したといわれる.

3.01 カバーニャス将軍がホンジュラス大統領に就任。ペドロ・モリナが副大統領となる。

10.13 テグシガルパで、エルサル、ニカラグア、ホンジュラスの三国が中央アメリカ連邦(Federación de Centro América)の復活を目指す憲法制定会議。はやくも11月10日には破綻する。カバーニャスは副大統領に任命されるが固辞。

6月23日 カバーニャス、スカイア米領事とホンジュラスの大洋間鉄道の建造の契約を結ぶ。オモアとアマパラを結ぶ予定。このオプションを国家主権の喪失の脅威とみなしたカバーニャスはまもなく契約を凍結。

53.5.09 グアテマラのカレーラがホンジュラスに干渉。カバーニャスはフランシスコ・ゴメス将軍に大統領をゆだね、グラシアスで軍事作戦を開始する。

1854年

1.01 フランシスコ・ゴメスに代わり,カバーニャスが大統領に復帰.

7月 ニカラグアのラファエル・カレラ保守党政権がホンジュラスに干渉。カバーニャスはフランシスコ・ゴメス将軍の率いる部隊を送る。

7.25 フランシスコ・ゴメス将軍、前線に着いた直後にコレラにより死亡。

1855年

10月 ウォーカー,グラナダを制圧.トリニダド・カバーニャスはニカラグアのウォーカーに援助をもとめる.

10.06 カレーラ,ホンジュラスに干渉.ファン・ロペス将軍の率いる保守党部隊がニカラグアの支援を受けて国内に侵攻。サンタ・ローザ平野のマサグアラとグラシアスの戦いでカバーニャス軍を打ち破る。

10.18 カバーニャス、大統領を辞任して、エルサルバドルに亡命する。

1856年 ウォーカー戦争

2.17 カレーラ,保守党のサントス・グアルディオラをホンジュラス新大統領につける.

3 ニカラグアを除く中米4カ国の保守党は,ウオーカーを撃ち破るための連合軍を結成,「国民戦争」を宣言する.ホンジュラスは,内紛を一時中断し,グアルディオラを司令官にすえる.

6 ウォーカー,自らニカラグア大統領を宣言.

1857年

5.01 中米軍に追い込まれたウォーカー,米艦に乗りニューオリンズへと向かう.

11 ウォーカー,米艦サラトガの支援を受けサンフアン・デルノルテに上陸,2回目の侵攻を試みるも,2ヵ月後に米国軍に「誤認逮捕」され挫折.

57年 ウォーカーを見限ったカバナスも国民戦争を支持.ホンジュラスに戻りウォーカーとの戦いに参加する。

59 イギリス,米国の圧力によりホンデュラス北部海岸の植民地を返還.ラ・バイア諸島に対するホンジュラスの主権を認めた条約に調印.英国移民はこれに反対し,ウォーカーの援助を求める.

1860年

60年 ウォーカー,プンタ・アレナスに上陸するが,現地の支持を得られず.英軍により捕らえられる(一説に湾岸諸島を経由しトルヒージョに上陸).

9.12 英国からウォーカーを引き渡されたホンジュラス政府は,直ちに銃殺刑に処す.

1860年9月12日 トルヒージョのホンジュラス軍、英国船イカロスの助けを借りウィリアム・ウォーカーを逮捕、銃殺刑に処す。

60 英国とニカラグア,マナグア条約に調印.モスキティア海岸のニカラグア帰属で合意.

61.4.22 英国とホンジュラス,バイア諸島およびモスキティア海岸の,ホンジュラスへの帰属を確認.

62.1.11 グアルディオラ大統領,親衛隊員によって暗殺される.その後,特にグアテマラの干渉により不安定な時代が続く.保守党のホセ・マリア・メディナ将軍は,この10年間に11度大統領となる.

ホンジュラスの大統領
ホンジュラスの大統領の系譜は,ほとんど神秘的です.インターネットで拾った文献の中に,ひどいでたらめな年表が混じっていて,修復に苦労しているところです.真っ赤な嘘も混じっており,よほど注意が必要です.

62 イギリス,「英領ホンデュラス」をジャマイカ総督領に編入

62 ニカラグア,ホンデュラスとエルサルバドルの支持を得て中米連合結成に乗り出すも失敗.

65 セラピオ・シンチョネロに指導された大規模な農民反乱勃発.

66.2.01 ホセ・マリア・メンディーナ,62年以後,五度目の大統領就任.約8年にわたり大統領職を続ける.近代化政策を推進するが汚職と予算不足による横断鉄道建設の失敗で多額の負債.

1866年5月26日 ホセマリア・メディナ将軍、ビクトル・エランとカルロス・グティエレスに全権を託し、両洋間鉄道の建設に着手。実際に完成したのはプエルトコルテスからラ・ピミエンタまでの数キロのみ、莫大な債務が残される。

67 英銀行,ホンジュラスの鉄道敷設のため4年間で600万ドルの融資.このうち建設会社の手に渡ったのは10万ドルに過ぎず.敷設距離はプエルト・コルテスとサンペドロ・スーラ間の90キロにとどまる.この融資は50年間総計3千万ポンドに上る負債として残される.最後に決済されたのは1953年.

1870年

71.6 グアテマラの自由党軍,内乱の末,政府軍を打ち破りグアテマラ市を占拠.カレラ後継のセルナ将軍を追放し,保守派支配を打破.

71 ホセマリア・メディナ大統領,中米連合の結成を訴える.ニカラグア以外の国が賛同.まもなくホンジュラスとエルサルバドルの戦闘が始まり,構想は流産.

72 グアテマラのグラナドス,ホンデュラスの自由党軍支援のため軍をひきい出動.バリオスが大統領を代行.

72 制憲議会,湾岸諸島をホンジュラスの県のひとつとすることを決議.

73.11.23 グアテマラの支援を受け国内に入った,自由党軍のポンシアノ・レイバが大統領を宣言.1ヵ月後にホセ・マリア・メディナは退陣.

73 英国,「通商利益保護のため」オモア港を砲撃.

1876年

6.13 ホセ・マリア・メディナの巻き返しを受けたレイバ大統領,退陣.

8.12 ホセ・マリアが大統領に復帰.これを受けたグアテマラのバリオス,ホンジュラスに武力介入.

1876年8月27日 マルコ・アウレリオ・ソト、アマパラで暫定大統領となる。

8.27 バリオス,ホセ・マりア・メディナを権力から最終的に放逐.自由党のマルコ・アウレリオ・ソトが大統領となる.ソトは7年余りにわたり政権を掌握.国内秩序を再建し,金融・教育・行政の改革にあたる.司法改革・教会との関係整理,軍隊の職業化,通信・教育基盤の整備を実施.

1877年5月27日 臨時の議会、ソトを共和国大統領として承認。

77 ソト政権は農業の改革に着手,コーヒー・さとうきびなど輸出用作物を奨励.このため欧米資本の進出を促す.

77 ラ・セイバの町があらたに建設される.

1880年

8月27日 ソト政権,自由主義的な憲法制定.スペイン時代の法律に代え、民法・刑法・鉱業法を制定。人身保護令、奴隷の完全解放を実現する。さらに信仰の自由、出版の自由も確立される。

80年 アメリカ人バレンタイン兄弟がロサリオ鉱山を買い取り、ニューヨーク・ホン ジュラス・ロサリオ採掘会社を創設。

80 ソト政権,資本の不足から米企業の投資を要請.米企業の進出によりホンデュラスはふたたび金銀鉱山ブームとなる.米資本との合弁で「ニューヨーク・ホンジュラス鉱山会社」が設立される.その資本の9割は米国人の手にあった.

80 保守派の強いコマヤグアからテグシカルパへ首都を移す.

83.10.09 ソト大統領,バリオスとの意見の違いからホンジュラス大統領を辞任.後任には別のバリオス派ルイス・ボグラン・バラオナが就任.8年にわたり大統領を務める.

1883年10月19日 ソト大統領米国から議会宛に辞表を提出し受理される。その後ホンジュラスは無政府状態に陥る。

84 スカイア米領事が引退.後任にはウィリアム・ウェルズ(サムナー・ウェルズの父).

85 グアテマラ,エルサルバドル,ホンデュラスの三国,モンロイ会議で中米同盟の設立に合意.

88 カリブ海岸のプエルト・コルテスから首都へ向かう鉄道,サンペドロ・スラの町に達したとき破産.その結果サンペドロスラは鉄道終着駅となり,産業の集中するホンジュラス第二の都市に発展.

1890年

90 テグシガルパで反ボグラン派の反乱.この後反乱が頻発.

90 ボストン・フルーツ社,大規模なバナナ生産を開始.

91年 ボグランに代わりポンシアノ・レイバが大統領に復帰.保守派の国民党候補となったレイバは不正選挙を繰り返す.

91年 ポリカルポ・ボニージャ,各地の自由主義者を結集し自由党を再建.

91.10 テグシガルパで水道の営業が開始される.

92.5 ボニージャ,選挙による政権獲得を断念.ニカラグアに亡命し,反乱の準備を進める.

92 海岸地帯で黄熱病の流行.すべての貿易が数カ月にわたりストップする.

1893年

93 ニカラグアで自由党のセラヤが大統領に就任.中米連合復活を策す.亡命中のボニージャはセラヤに反乱への援助を求める.

4.18 ドミンゴ・バスケスが大統領に就任.

1894年

2.22 ドミンゴ・バスケス,大統領を辞任.

12.15 自由党軍,ニカラグアからテグシガルパに侵攻.議会はボニージャの大統領就任を宣言.第一期目は5年余りを務める.新政府の国防相にはテレンシオ・シエラ将軍が就任.副大統領にはマヌエル・ボニージャ・チリノス将軍(ポリカルポとの親縁関係は無し)が就任.99年選挙ではテレンシオ,03年選挙ではマヌエルが大統領候補となるという密約を交わす.

95.6 中米諸国,大中米共和国建設について検討開始.ニカラグアのセラヤとホンデュラスのボニージャ,エルサルバドルのラファエル・アントニオ・グティエレスは中米大共和国(Republica Mayor de Centro America)の創設に同意.3年後にエルサルバドル国内の反乱により流産.

95 米作家オー・ヘンリーがトルヒージョを訪れる.

96年 ホンジュラス、ニカラグア、エルサルの三国が中米大連合"República Mayor de Centroamérica"を形成。98年には崩壊する。この頃ホンジュラスの人口は約40万.エルサルバドル人口は70万人.

97 ホンジュラス議会,バナナ農場法を制定.バナナ農園に,半ば治外法権に近いさまざまな特典を与える.

98.11.13 エルサルバドルで,トマス・レガラド将軍の反乱.グティエレス政権は打倒され,中米大共和国の構想は流産.

98 ユナイテッド・フルーツ社が創設される.ホンジュラスではウニフルコ(UNIFRUCO)とよばれる.

99.2.01 ポリカルポの推薦を受けた自由党のテレンシオ・シエラ将軍が大統領に就任.ポリカルポと仲たがいしたマヌエルは,テレンシオと密約し,次期大統領の含みで国防相に就任.

99年 バカロ家,政府からアグアン河流域の広大な土地を借り,バナナを栽培.ニューオリンズに出荷する.

 

1900

00年 「ニューヨーク・ホンジュラス鉱山会社」がホンジュラス国内の鉱山のほとんどを買い占める.テグシガルパ近郊のエル・ロサリオ鉱山は,西半球最良の鉱山と言われ,鉱石輸出の87%を支配.19世紀末に全輸出の45%を占める.

1902年

2.27 マヌエル・ボニージャは国防相を辞し,自由党マヌエル派と保守党員を糾合,国民党を結成し大統領選に臨む.

10月 大統領選挙が施行される。ボニージャは28,850票を獲得.25,118票のアリアスに勝利する.第三位の候補が5千票近くを獲得したため,議会での決選投票に持ち込まれる.テレンシオ・シエラはマヌエルとの約束を無視し,フアン・アンヘル・アリアスを後継者に推す.議会はアリアスを大統領に選出。

1903年

2.01 マヌエルはテグシガルパを離れ,アマパラの町で大統領就任を宣言.アリアスはテグシガルパで大統領宣言.

2.18 二人の大統領が並立し,自由党と国民党による内戦となる.ホンジュラス亡命中のニカラグア保守党は,反セラヤ連合を策し,ボニージャを押し立てて反乱に参加.

3.21 バナナ農場保護のため,米艦隊がカリブ海岸に侵入。

3.23 米海兵隊45人がプエルト・コルテス上陸.1週間にわたり占拠。

4.13 マヌエル軍,自由党とのたたかいに勝利.シエラはエルサルバドルに亡命.

5.05 ボニージャはテグシガルパの議会で改めて大統領就任を宣言.反乱を企てたポリカルポは,二年間にわたり獄に送られる.

1904年

1月 国民党内の旧自由党員と旧保守党員との対立が激化.ボニージャは戒厳令を布告し,両派を弾圧.

1905年

06 ボニージャの圧力を受けた制憲議会,大統領任期を4年から6年に延長.ボニージャは07年からの6年間の大統領に,自らを指名させる.

1906年

1906年12月23日 スペイン国王がニカラグアとの国境紛争の仲裁に入る。

12.23 ディオニシオ・グティエレスの率いる自由党軍,ボニージャに反対するニカラグアの支援を受け,ホンジュラスに侵入.

06 カブレーラ独裁に反対するグアテマラのバリリャ,エルサルバドルとホンデュラスの支持を受けグアテマラ侵入.カブレーラはエルサルバドルとホンデュラスに宣戦布告.ボニージャは侵入したグアテマラ軍と闘う.

06 ニカラグアとホンジュラス,スペインのアルフォンソ13世の調停で協定.調停案はリオ・ココ流域の係争地のほとんどをホンジュラスに帰属させるもの.セラヤはこの境界線を認めず.

06 グアテマラをのぞく中米4カ国がコリント会議を開催.中米諸国間の紛争解決を仲裁裁判所に委ねることで合意.

1907年

2.25 自由党反乱軍、サンマルコスを奪取。ホンジュラスのほぼ全土を制圧.

3.11 ホセ・ドロレス・ペレス将軍の率いるエルサルバドル軍5,000人、ボニヤ政府を支持して介入。ボニージャ,エルサルバドル軍の助けを借りて,反撃を試みるが,撃破される.

3.18 米海兵隊、トルヒージョ、セイバ、プエルト・コルテス、サンペドロ湖、チョロマに上陸。セラヤを危険視する米国はセラヤに圧力をかける.さらにフォンセカ湾アマパラのボニージャ軍最後の拠点を守るため,海軍部隊が配置される.

3.25 ボニーヤ政権が崩壊。暫定的な議会が作られ、親セラヤのミゲル・ダヴィラ副大統領が大統領に昇格。

3.27 ニカラグア軍がテグシガルパに入る。

4.13 アマパラ島で、米海軍司令官の立会いの下にホンジュラス両派の交渉.ボニジャの退陣が確認される.ボニジャは米艦「シカゴ」で出国.グアテマラを経て英領ホンジュラスに亡命.

4.17 ニカラグア軍、テグシガルパから撤退。セラヤは,ダビラ保護のためホンジュラスに10ヵ月にわたり出兵.

5 Tegucigalpaで,米特使の仲介の下で両派の和平会議.ミゲル・ダビラ将軍を大統領とする和解政府の樹立で合意.

8 セラヤ,ホンジュラスからさらにエルサルバドルに侵攻するも失敗.バリリャのグアテマラ侵攻作戦も,結局敗北に終わる.

9.15 この年テグシガルパにはじめて電気がつく.

11 セラヤがエルサルバドルと組んでダビラ追い落とし計画を立てていた事が発覚.米国はワシントンで5カ国会議を招集.会議後「中米包括的平和友好条約」に調印.ホンジュラスの永世中立を確認.

12 海兵隊,ホンジュラスに上陸.セラヤにホンジュラス撤退を迫る.

1907年12月20日 中米5カ国大使がワシントンで平和条約に調印。調停裁判所がコスタリカのカルタゴに置かれることになる。

08年 制憲議会、ミゲル・ダビラを大統領に選出。

08年 ダヴィラ大統領打倒を目指す保守党軍,グアテマラ,エルサルバドルの支援を得て侵入開始.ダビラはセラヤに支援を要請する一方,新設された中米裁判所に提訴.中米裁判所は反乱側に有利な裁定を下すが,反乱軍が敗退したため問題は解決.

1909年

12月 保守党のダビラ将軍への反乱,敗北に終わる.

09年 ロサリオ鉱山会社の労働争議,初のストへと発展.

09年 ダビラ,チリ軍人を招聘し,正規の陸軍士官学校を設立.

1910年

7.22 ゼムレー会社のゼムレー社長は反政府派に軍事反乱を起こさせる.ラモン・オクタビオ・マリン将軍の率いる部隊がプエルトコルテスの政府軍基地を襲撃。

三大バナナ会社: 最大のUnited Fruit社は、グアテマラからホンジュラスへも進出。保守党と結びつく。反政府派に資金を提供し,武装反乱を扇動したことで知られる.ハバード・ゼムレー会社(後のクヤメル・フルーツ社)はゼムレーが創立したもの.北部海岸地帯のクヤメル河流域にバナナ農園5千エーカーを開発.自由党に食い込んだが、ミゲル・ダビラ大統領が特権を与えないのに怒り,マヌエル・ボニージャに資金を提供した.Vacarro Bros (後にStandard Fruitと改称)はダヴィラ政権と最も近く、周囲20キロ以内について競合線敷設を禁止する特典つきで鉄道敷設権を与えられた.この三社がバナナ経営を独占.北部海岸の土地2千平方キロを占有し,バナナ輸出はホンジュラスの全輸出の70パーセントに達する.

10年 グアテマラとの境界線が確定.

1911年

1月 ゼムレーの支援を受けたボニージャ,ふたたび兵を起こし侵入.米国の伝説的な傭兵リー・クリスマスとガイ・マシンガン・モロニーの率いる部隊,ゼムレーの指示を受け,ニューオリンズから出発.

1.20 ホンジュラス議会、戒厳令を公布。

1.25 ボニーヤ軍、ラ・セイバを占領。

1.28 ダヴィラ大統領、米国に介入を要請。

1.31 タフト米大統領、ホンジュラス内戦の調停に乗り出す。

2.08 政府とボニーヤ軍が停戦に同意。

2.11 米国特使としてトーマス・ドーソンが指名される。

2.21 米国軍艦タコマ艦上で停戦交渉が始まる。米特使トマス・ドーソンはダビラに辞任を迫り,保守党のフランシスコ・ベルトランを暫定大統領に推薦.

3.14 停戦交渉が成立。セラヤの後ろ盾を失ったダビラは,辞任受諾を余儀なくされるが,その後も抵抗を続ける.

3.28 ダビラ大統領が正式に辞任。フランシスコ・ベルトランが暫定大統領に就任。ドーソンはリー・クリスマスを警察長官に押し付け,ホンジュラスの関税権を取り上げる.

7.20 戒厳令が解除される。その後も米国の実質的占領状態が続く。

10.29 大統領選挙.国民党のボニージャが,総投票数86千票のうち82千票を獲得するという,でっちあげ選挙で勝利.

11 ワシントンにおいて中米5カ国会議,ホンデュラスを永世中立とする平和条約を締結.隣国に基地をおく革命勢力の禁止,中米司法裁判所の設置を決める.

11年 ハバード・ゼムレー会社をクヤメルフルーツ社と改称.ボニージャ政府と結託し発展.UF社の強力なライバルとなる.

1912年

1.09 米海兵隊,「米国民の財産保護のため」ホンデュラスに上陸,ダビラ派の抵抗を排除.

2.01 マヌエル・ボニージャ,二度目の大統領に就任.副大統領には暫定大統領を勤めた保守党のベルトラン.

2月 新政府,バナナ法を廃止.ボニージャは1万ヘクタールの農地貸与など,クヤメル・フルーツの要求する各種特権をすべて承認.

1913年

3.21 ボニージャ大統領,執務中に急死.ベルトラン副大統領が暫定大統領となる.

ボニージャの行動については,きわめて異説が多く,真相は藪の中というところです.とりあえず”Biographical Dictionary of LA & Caribbean Political Leaders" を基準としましたが,この本の基本的立場は米国政府そのままで,立派な装丁の割には結構うさんくさいところがあります.

7.19 ベルトランが正式に大統領に就任。ゼムレーに代わり保守党と結びついたユナイテッド・フルーツ社が影響力を増大。ホンジュラスで鉄道二路線(テラ鉄道会社とトルヒージョ鉄道会社)と周囲の土地16万ヘクタールの使用権を獲得.大規模なバナナ栽培を開始.

14年 この年の人口は54.5万人.

14年 バナナ価格が低下し始める.

15.7.28 選挙による大統領当選を目指すベルトラン,大統領を辞任し,選挙に臨む.

1916年

2.01 ベルトラン,三度目の大統領就任.彼にとって選挙で大統領に選ばれたのは初めて.

6.10 クヤメル・フルーツ社で最初のストライキが始まる.オモアの首長は不当逮捕された40人を釈放.

17 ホンジュラス,中米諸国連合を提唱.ニカラグアの拒否により流産.

18.7.19 ドイツに宣戦布告.

1916年2月1日 フランシスコ・バートランド大統領、テグシガルパで死去。

1919年

7.22 ベルトラン,再再選を望む.政権居座りに抗議する自由党のラファエル・ロペス・グティエレス将軍が反乱.米国、両者の調停に乗り出す。

9.09 テグシガルパで反政府暴動が発生。10人が死亡。米軍が中立地帯に上陸。ベルトランは混乱の責任をとる形で辞任。

9.17 グティエレス将軍が事実上の支配権を確立。米国は海兵隊を上陸させ,監視下に置く.

10.05 フランシスコ・ボグランが残りの大統領任期を務めることで合意.

10.30 大統領選挙。自由党のロペス・グティエレス将軍が当選。選挙不正が横行.

1920年

2.01 ロペス・グティエレスが大統領に就任.

20年 バカロ兄弟会社で労働者千人が農場を占拠.ラ・セイバの町も制圧.

20年 ホンジュラス,国際連盟に加盟.

1921年

1.19 コスタリカ・ホンジュラス・グアテマラ・エルサルバドル,サンホセ会議で同盟条約を結び中央アメリカ連邦を形成することで合意.

6月 第二次中米連合をめざす暫定連邦評議会が発足。

9.09 コスタリカが脱落。グアテマラ,ホンデュラス,エルサルバドル間に「中米連合国家」同盟条約締結.22年1月には崩壊。

21年 ホンジュラス労働者連盟(FOH)が創立される.

1922年

1.01 フランシスコ・マルティネス・フネスとグレゴリオ・フェレーラ将軍がチナンデガで反乱を開始。

1.14 中米国家連合は,オレリャナの軍事支配下にあるグアテマラの脱退により無力化.

2.04 サルバドルが連邦政府を去る。

2.11 最後に残されたホンジュラスも中米連合を離脱し独立共和国となる.

4.03 議会、戒厳令を宣言。グティエレス大統領は米海軍の配備を要請するが、米政府はこれを拒否。

4.05 エスペランサとオコテペケで政府軍と反乱軍の衝突。反乱軍部隊は50人の死者を出し敗退。

6.10 反乱軍の指導者フェレーラ将軍が35人の部隊とともに捕えられる。

7.16 政府軍、反乱軍の拠点エル・パライソを奪取。

8月 グアテマラ政府、ホンジュラス政府への軍事援助を開始。

8月 エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグアの大統領が,フォンセカ湾に停泊中の米艦「タコマ」艦上で会談.

9.16 政府軍、反乱軍を最終的に殲滅。56人を殺害し、78人を捕らえる。

ユナイテッド・フルーツ社のお抱え大統領

1923年

2.07 ワシントンで第2回中米会議開催.中米平和友好条約を米国もふくめ締結.クーデターあるいは革命によって樹立される政府を承認しないという原則で一致.司法裁判所の再建を決定.軍部の内政干渉を阻止するため,軍備縮小が議題となる.

10.28 大統領選.UF社の推すティブルシオ・カリアス・アンディーノ(国民党)とクヤメル社の推すフアン・アンヘル・アリアス(自由党)が激突.カリアスはUF社の顧問弁護士を務めた人物.米国の支持を得るため,自由党を離れ保守党に鞍替え.この選挙には老雄ポリカルポ・ボニージャも立候補.

1924年 自由党の反乱

1.01 UF社がクヤメル社を買収.バナナ生産の独占権を確立.

1.30 大統領選挙の結果,アリアスが勝利するが,カリアスは一方的に大統領就任を宣言.選挙直後にUF社がクヤメル社を買収したため,カリアスが強気に出たもの.議会はカリアスの大統領就任を拒否.

24年2月

2.01 ロペス・グティエレス大統領、政権委譲を拒み、居座りを図る。

2.13 米国政府、ロペス・グティエレスの政権を認めず、外交関係を断絶。

2.26 グレゴリオ・フェレーラ将軍のひきいる反乱軍がコマヤグアを占領。

2.28 ラ・セイバ近郊で政府軍と反乱軍が激突。50人の死者を出す。

2.28 米海兵隊400人が上陸。テラ、ラ・セイバ、プエルト・コルテスを制圧。(下段の記述と矛盾しています)

2.28 ビセンテ・フェレーラ,グレゴリオ・トスタ両将軍(自由党系),カリアスの横暴に抗議し反乱開始.政府は非常事態を宣言.ラ・セイバでは,米艦デンバーの威嚇にもかかわらず戦闘が続き,米国人1人を含む50人が死亡.200万ドルの損失を生む.海兵隊はこの争いに介入し,1ヶ月にわたりテグシカルパを占拠.

24年3月

3.07 フェレーラ将軍の率いる反乱軍部隊がテグシガルパを占領。

3.10 グティエレス大統領が病死。スニガ・ウエテ(Zuniga Huete)の率いる閣僚会議が政府を統率することとなる。

4.08 米政府、サムナー・ウェルズをホンジュラス特使に任命。

4.23 サムナー・ウェルズの指示によりビセンテ・トスタ・カラスコ将軍が暫定大統領に就任.

24年5月

5.03 アマパラの諸党間会議が合意に達する。米国の調停により,カリアス抜きの再選挙が行われることとなる.

5.22 米政府、政府軍および反乱軍に対し、武器の輸出を禁止。

8.06 グレゴリオ・フェラーラ将軍、ふたたび反乱を開始。

9.10 新憲法が制定される。米政府、ふたたびラ・セイバに海兵隊110人を上陸させる。

10月 政府軍が反乱の鎮圧に成功。この間の戦闘で約千人が死亡。

12.28 議会で大統領選挙の再選挙が行われる.カリアスの指導する国民党のミゲル・パス・バラオーナ(Barahona)が対立候補なしで当選.

24 ホンジュラスでバナナを栽培するバカロ兄弟,古い会社を再編し,スタンダード・フルーツとして再発足.UF社に対抗.

1925年

2.01 パスが大統領に就任.米国は外交関係を再開し、軍事制裁を解く。

1925年2月1日 ミゲル・パス・バラオーナが大統領に就任。累積債務を帳消しにするアルセロ・キング協定を成立させる。ホンジュラスは対外信頼を回復し、デフォールト状況から脱する。

4.10 フェレーラ将軍の反政府反乱が始まる。

4.19 相次ぐ政変に対し海兵隊はバナナ農場の米国人労働者保護を口実に上陸.米艦デンバーからセオドア・カートライト大尉指揮の約165人の海兵隊がラ・セイバに上陸。その後8年間にわたり同国を保護下におく.

25年 ラ・リマで旧クヤメル社のバナナ労働者がストライキ.旧クヤメル系の農場全域に拡大.

27 中米社会党の支部として共産党創設.当初より地下活動を余儀なくされる.

27 グ,エ,ホ三国により対外一致政策の協定が確立.

28.10.28 大統領選挙.自由党のビセンテ・メヒア・コリンドレスが6.2万票を獲得.カリアスは4.7万票にとどまり,またしても大統領の職につけず.

1929年

2.01 ビセンテ・メヒア・コリンドレス,大統領に就任. 

5.01 ホンジュラス共産党の指導によりホンジュラス労働者連合(FSH)が設立される.連合はバナナ労働者に浸透し,職場ごとに「行動委員会」を結成.

11月 UF社,クヤメル社との価格競争に失敗した後,クヤメル社の買収に取り掛かる.クヤメル社の株すべてをUF社が買い取り,ゼムレーはUF社株3千万ドルを獲得,UF社最大の株主となる.これにより,UF社はホンデュラスにおける独占的地位を手に入れる.ホンジュラスのバナナ生産は世界の1/3を占める.この年表だとUF社はクヤメル社を24年と29年の2回買収したことになります.どちらが本当か調べます.

1930年

7 ホンジュラス労働者連合,行動委員会を軸にバナナ農園労働者のストを打つ.大衆的な支持が得られず,まもなく敗北に終わる.スト指導者のフアン・パブロ・ウェインライトはグアテマラに逃亡.

30 グアテマラとの境界紛争.米国仲裁により和解.

30 中米社会党を廃止,各国独自の共産党結成.

30年 この年のホンジュラス人口は85.4万人.

1931年 フェレーラの反乱

5.01 前軍事相グレゴリオ・フェレーラ将軍(自由党系)が反乱を起こす.サンタロサ・デ・コパンを占拠。労働者がトルヒージョとテラの軍基地を襲撃.政府は北部海岸に戒厳令を敷き,これを弾圧.

6.18 反乱軍と政府軍がYojoa湖の近くで衝突。戦いに敗れた反乱軍は急激に勢いを失う。

6 フェレーラの部隊,政府軍の前に壊滅.フェレーラは戦死し,反乱は終結.政府は軍事支出のため,バナナ会社から25万ドルを借用.

31年 政府,左翼や民族主義者の取り締まりに乗り出す.「エル・プログレッソ」紙を閉鎖.

1932年

1.03 テラ鉄道会社の港湾設備で働く労働者180人がストライキを開始.ストはトルヒージョ鉄道会社にも拡大.

11.16 大統領選挙.国民党のティブルシオ・カリアスがパスを破り当選.念願の大統領に就任することとなる.

32 ユナイテッド・フルーツ社,労働組合活動家800名をかく首.これに抗議し「緑の監獄」を拒否する大規模なスト.政府はストを弾圧し指導者をエルサルバドルへ追放.共産党は事実上消滅.

32年 30年ストの指導者ウェインライト,亡命先のグアテマラで暗殺される.

1933年

1933年1月1日 ティブルシオ・カリアス・アンディーノ将軍が大統領に就任。16年にわたる独裁政権が開始される。

1933年1月23日 中米裁判所の調停を受けグアテマラとの国境が画定される。

2.01 カリアス,大統領に就任.経済危機のりきりに言論抑圧,労働運動弾圧など強圧的手段で臨む.ユナイテッド・フルーツ社の強力な支援により48年まで独裁制を維持.

33 リオ・モタグア流域でグアテマラとホンジュラスの国境紛争,特別仲裁裁判所で裁定.

34 国会議員選挙。国民党が55議席、自由党が4議席を獲得。

35 この年の統計では,学齢期児童の就学率は6%.国民の8割が文盲.中学生は2,674人,大学生は157人.

35 トルヒージョでのバナナ栽培は,あまりの多湿のため放棄される.これに伴ないトルヒージョ鉄道会社も閉鎖.

36.4.15 憲法が改正され、カリアスの再選と6年への任期延長が可能となる。自由党は反政府の反乱を起こす。

36.5.27 自由党の反乱が鎮圧される。

37.1 フスト・ウマーナ将軍のクーデター失敗.その後1ヶ月にわたり大暴動が起きるが,政府により鎮圧される.反政府分子に対する大弾圧.

37.2.01 カリアス,二期目の大統領に就任

42 ゼムレー,ホンジュラスに米州農業学校(Escuela Agricola Panamericana)を設立.運営経費はすべてUF社が負担.

43 軍の一部に民間人も参加した反乱計画が摘発される.

1944年

5月 政治囚の釈放を求める婦人グループがデモ.

6月 サンペドロ・スーラで野党活動家数人が暗殺される.

7.05 オコテペケ(Ocotepeque)で反政府派に対する軍の弾圧。数十名が犠牲となる。

7.06 サンペドロ・スーラでカリアス独裁に抗議するデモ。軍が発砲.死者100人以上に達する.

10月 亡命者がエルサルバドルから侵入し,反乱を組織するが,まもなく崩壊する.

11月 カリアス,48年10月に大統領選挙を行うこと,その選挙には自らは出馬しないと発表.子飼いの政党として国民党を結成。フアン・マヌエル・ガルベス・デュロン副大統領を後継に指名し選挙に臨む.

48.10 大統領選挙実施.ガルベスが当選.自由党は選挙をボイコット。

49.1.01 ガルベスが大統領に就任.カリアスは国民党指導者として強い影響力を保持.輸出不振を機に支配層内部の分裂が強まる.

1949年1月1日 ファン・マニュエル・ガルベス・ドゥロンが大統領に選出される。任期中に商法が制定され、農業振興中央銀行が創設される。

1月 ガルベス,コスタリカ型の福祉国家をめざし改革実行.政治亡命者に対する恩赦を実施.初めて労働法が制定され,8時間労働,婦女子の労働規制が盛り込まれる.

51.10.14 中米五ヵ国外相会議,中米機構設置に一致,中米機構憲章に合意.

53.10 ホンデュラスで共産党への一斉摘発.北部海岸のUF社所有地の2カ所のアジトから大量の文書を押収.

 

1954年

4.30 ユ社,ドック労働者への超勤手当て支払いを拒否.バナナ労働者はゼネストを呼びかける.

54年5月 グアテマラのクーデターの余波

5.05 ユ社で農業労働者のゼネスト開始,69日間におよぶ.鉱山労働者,タバコ労働者,男性紡績工なども次々にストに参加,最高時3万5千人におよぶ.途中からグアテマラを逃れた活動家も加わり,闘争の中で12年ぶりに共産党再建.マリオ・モラレスが書記長に就任.

5.07 UF社支配人J. F. Aycock,「労働者がストを続ける限り話し合いの余地はない」と声明.ストはUS社の中心地ラ・セイバに拡大.

5.09 ホンジュラス駐在の米大使,「現在のストライキはグアテマラの共産主義者の影響下にある」と非難.ダレス国務長官はストの背後にアルベンス政府が動いている可能性があると示唆する.

5.10 スタンダード・フルーツ社の労働者1万1千人もストに加わる.スタンダード・フルーツ社代表は労働者との交渉に応じる姿勢を見せる.

5.14 バナナ農園労働者のほか,鉱山,ビール工場,タバコ,繊維労働者にもストライキが拡大.

5.16 ラ・リマ農園で労働者代表とアイコックが会見.労働者側は世界人権宣言を引用しながら,賃金引上げを要求.

5.16 ラ・セイバとプエルト・コルテスで,コカコーラに働く労働者がストライキに突入.

5.17 ガルベス大統領,ストライキを扇動した疑いで,グアテマラ領事二人を国外追放.

5.18 スタンダード・フルーツ社,政府の仲裁を受け,労働者との交渉を開始.

5.20 米・ホンジュラス軍事援助協定調印.ホンジュラスはグアテマラ反革命への支持を迫られる.

5.21 スタンダード・フルーツの交渉は成立し,会社は賃上げと労働条件改善に合意.労働者は職場へ復帰.ホンジュラス史上初めて団交を成功させた経験となる.

5.21 スタンダード・フルーツの交渉成立を受け,UF社労働者の闘争は高揚.系列企業を含め10万人がストライキに参加.

5.25 政府調停団,ラ・リマに入る.労働者側,US社側ともに,調停団を受け入れる姿勢を示す.

5.31 US社の団体交渉,決裂に終わる.

5.31 アルベンス,ホンジュラス政府に対し不可侵条約の締結を申し入れる.ホンジュラスはこの提案を拒否.

54年6月

6.05 労働者側はあらたに交渉団を編成し,団交を要求.US社はこれ以上の交渉には応じない意向を表明.メディア,政治家はスト参加者に同情的な態度をとるようになる.米国内においても前副大統領ヘンリー・ウォーレスが,ストライキを支持する声明.

6.18 CIAの支援によりホンジュラスで組織されたグアテマラ反革命軍,侵攻を開始.

54年7月

7.09 グアテマラの再現を恐れるガルベス大統領は,UF社の圧力に負け,ストをグアテマラ共産主義者の扇動によるものとして非難.指導者を逮捕.ストライキは終焉を迎える.その後,会社側は21%の賃上げ(労働者の要求は72%)を初め,労働者・家族向けの医療施設設置などいくつかの労働条件改善を実施.

10.10 大統領選挙。市民的権利の保障,土地改革,労働者の団結権,UF社との契約改定を訴えた自由党のラモン・ビジェダ・モラレスが、48%を獲得し勝利。過半数に達しないため議会での決選投票に持ち込まれる。

11.15 ガルベス,カリアスの圧力により退陣し国外亡命.事実上のクーデター.前副大統領のフアン・ロサノ・ディアスが大統領に就任.

12.01 大統領を選出するための国会が開かれる。

1954年12月6日 フリオ・ロサノ・ディアスが臨時大統領に就任。2年近くにわたり政権をになう。

12.06 ロサノ・ディアス、国会を解散し権力を握る。

1956年

6 再選を狙うロサノ・ディアス大統領,選挙を延期する一方,議会を諮問機関に格下げ.国民統一党(Partido de Unidad Nacional--PUN)を創設し,他党の活動を制限する.

7 政府,自由党のビジェダ・モラレスら指導者を突然逮捕.飛行機に乗せ海外に追放.ビジェダ・モラレスは進歩的な医師で、ガルベス政権時代に米国大使やOAS大使などを歴任した.

7月 ロサノ・ディアス政権に抗議する首都のデモ.

8.01 サントス・オソルト・パス陸軍大尉の率いる自由党の武装蜂起.政府は400人の軍隊によって鎮圧.26人が犠牲となる。

8.02 ロサノ・ディアス大統領、非常事態を宣言。

10 議会選挙実施.反対派の多くはボイコット.開票の結果,56議席すべてを国民統一党(PUN)候補が占める.

10.21 ロベルト・ガルベス少佐(前大統領の息子)ら陸海軍学校教官が率いる反乱部隊が,無血クーデターに成功.ロサノ・ディアスを追い出し,暫定軍事政権を創設.議会選挙への準備をはじめる.女性にも参政権が与えられる.

1956年10月21日 軍事クーデターにより暫定政権が成立。ロケJ.ロドリゲス将軍、大佐エクトル・カラッシオリ、ロベルト・ガルベス・バーンズ少佐がフンタを形成する。

10.22 民間人代表のロケ・ハシント・ロドリゲスが,大統領選挙までの暫定大統領に就任.軍事評議会議長にはエクトル・カラシオリ(Hector Caraccioli)大佐が就任.コスタリカ、ドミニカ共和国、グアテマラ、パナマ、米国が暫定軍事政権を承認。

11月 憲法改正.国防軍は議会によって指名された総司令官が一元的に支配することとなる.総司令官は軍最高会議にのみ責任を負い,大統領に対しては服従の義務を持たない.

 

1957年

4 ニカラグアとホンデュラスの間に石油資源をめぐり国境紛争.OAS理事会の調停により解決.

9.22 制憲議会選挙施行.自由党が36議席、国民党(PNH)が18議席を獲得。

11.15 制憲議会で大統領を選ぶ選挙.自由党のラモン・ビリェダ・モラレスが,軍部の支持を受けるカリアスを大差で破り当選.学生スト,反米暴動に発展.カリアス,クーデターを試みるが,若手将校の離反により失敗.

12.21 新憲法が発布される。ビジェダ・モラレスが大統領に就任。鉄道の部分的国有化,労働法制定,土地改革の準備などガルベス政権の自由化政策を踏襲.

1957年12月21日 軍事政権が終了。ラモン・ビジェダ・モラレスが大統領に選出される。

57 軍の政治からの独立と職業化を目指し,軍事学校が設立される.

1959年

2月07日 アルマンド・バレアスケス元陸軍参謀総長,政権奪取をめざし反乱.サンタバルバラを占拠。

2.09 政府軍、サンタバルバラを奪回。

7月 国家警察の反乱部隊が決起。政府軍により鎮圧される。

59年 労働組合が完全合法化される.

1960年

2.07 サンサルバドルでグアテマラ・エルサルバドル・ホンジュラス三国協定調印.共同市場発足.

11.18 ニカラグア=ホンジュラス間の3年にわたる国境紛争,国際司法際の調停により和解.

60 この年の統計で,労働人口の7割が農業に従事.小学児童の就学率は67%に達する.

61.5 教会上層部を中心とした反共組織,民主団体連合委員会(CORDEH)結成.

 

ロペス・アレリャーノの独裁政治

1963年

7月初め 大統領選挙に向けてのキャンペーンが始まる。OASは選挙監視団を派遣。9月11日を投票日とする。

9 総選挙を前に軍事クーデターのうわさが広がる.米国は南方軍の高級幹部を派遣して軍部の説得に当たる.ビジェダ・モラレス大統領は市民警察からのカービン銃の回収,憲法改正に反対の意志表明,軍事統帥権の大統領への集中など,クーデター回避のための手段をとる.

10.03夜明け 大統領選を目前に,民主勢力の進出を恐れる軍部によるクーデター.オスバルド・ロペス・アレリャーノ空軍大佐の部隊が,作戦を開始.議会を解散し憲法を停止.予定されていた大統領・議会選挙を中止.大統領と自由党幹部は飛行機で海外亡命.米国はただちに国交断絶.

10.04 アレジャーノ自ら大統領に就任.警察への統制権を確保する.共産党,カストロ主義者,その他の左翼勢力を解散させ,非合法化.全国農業協会(Instituto Nacional Agrario−INA)への資金供与をとめ,事実上農業改革法を無効化.二つの全国的農民組合は弾圧されたが,キリ民党の全国農民組合(Union Nacional de Campensinos--UNC)は黙認される.

10.13 新政府,キューバと断交.

11.23 ケネディ暗殺事件.ジョンソンが大統領に昇格.

12.14 ジョンソン,対軍事政権政策を転換.ドミニカ共和国およびホンジュラスの軍事政権を承認.まもなく軍事援助も再開される.

12 軍事評議会による市民弾圧開始.ホンデュラス蜂起解放運動,テグシガルパの放送局を占拠.反独裁闘争をよびかける.フェルナンド・モンテス,CORDEHの指導権をにぎり,キリ民党運動の拠点にかえる.

 

1965年

2.16 「民政移管」にともなう制憲議会選挙.アレリャーノを支持する国民党が35議席を獲得。自由党は29議席にとどまる。議会での選挙によりアレリャーノが大統領に当選.アレリャーノは准将に昇格し現役のまま大統領に就任する.

6.05 アレリャーノ新政権の下,憲法が制定される.ビジェダ政権のリベラル経済政策を凍結.金融・財政の安定化に取り組む.

8 ゼネスト.アレリャーノ政権はユナイテッド・フルーツ社の要請を受け戒厳令をしく. 

65年 CORDEH,国立大学自治会(FUUD)の主導権を掌握.フィッシャーの指導のもとにキリスト教社会主義学生革命戦線,キリスト教社会主義農民運動などを次々に結成.

66 エルサルバドルの元独裁者エルナンデス・マルティネス,ホンジュラスの自分の農場で,争議中の労働者により暗殺される.

67年5月 ホンジュラスの国境警備隊,2人のエルサルバドル将校と39人の兵士を逮捕.彼らのトラック部隊は,国境から数キロほど侵入していた.6月にも同様の事件が発生.

67年 共産党,正統派と革命派に分裂.ディオニシオ・ラモスの指導する革命派はカストロ路線を採るが,武装闘争は開始せず.革命派からさらに毛沢東派が分裂,PCH=MLを結成.

67年 アレリャーノ,農村協同組合を柱とする限定的な農地改革案を提示.一方で自由市場経済政策が大量の失業者と土地なし農民を生み出す.

1968年

68年3月 ホンジュラス地方選が実施される.暴力と選挙不正によりPNHが勝利する.国民の憤激が高まり,米大使館も懸念を表明.

68年末 カリブ海岸を中心にゼネスト.政府はカリブ海岸労働者連合の指導者を追放するなど強硬手段で鎮圧.

68年 キリ民党(PDCH)が設立される.最高裁は,向こう13年間,合法政党としての登録を禁止する.

 

1969年 サッカー戦争

1 ホンジュラス政府,67年に締結された入国協定の継続を拒否.この協定は両国国民の国境通過を管理するもの.この時点で約30万人のエルサルバドル人が,国境を越え(不法入国),ホンジュラス領内で農業を営んでいた(不法占拠および不法就労).

4 ホンジュラス全国農業協会(INA),「ホンジュラス生まれの人間以外は,土地改革で手にした土地を手放すよう求める」決定.休眠中の土地改革法が口実となる.アレジャーノ大統領は,30日間の猶予つきで,エルサルバドル不法入植者の強制排除を決める.マスコミは「カリブ海岸沿いに働くエルサルバドル人が失業の低賃金の原因となっている」とのキャンペーンを開始.

4 ホンジュラス教員労組を中心とするストライキが始まる.FENAGHは不法入国した30万人のエルサル人入植者の組織化にも着手.

5月後半 エルサルバドル人入植者と労働者,故国への帰還を開始.8万人が強制送還された.エルサルバドル国内では,ホンジュラス軍による追い立ての模様が報道され,国民の怒りを呼ぶ.

69年6月

6 ワールドカップの地区予選.エルサルバドルとホンジュラスが三回戦を争うことになる.最初の試合はテグシカルパで争われ,ホンジュラスが1対0で勝利.副領事数人に暴行が加えられるなど,ホンジュラス在住エルサル人への嫌がらせが,さらに激しくなる.このため数万人がエルサルバドル本国に逃れる.

6 サンサルで行われた第二試合は,エルサルバドルが3対0で勝利.この時エルサルバドルの観衆はホンジュラス国歌にブーイングし,ホンジュラスから来たフアンはもみくちゃにされる.

6.25 エルサルバドル,ホンデュラスとの国交を断絶.

6.27 ホンジュラスがエルサルバドルに対して国交断絶を宣言.

69年7月

7.03 エルサルバドルとホンジュラス両軍が国境で砲撃戦.

7.14朝 エルサルバドル軍が宣戦布告なしに攻撃を開始する。エルサルバドル空軍がテグシカルパ空港などへの爆撃を開始.陸上部隊はパンアメリカン・ハイウエイ沿いに進撃.フォンセカ湾のホンジュラス諸島に上陸.

7月15日夕方 両国地上軍が対決.エルサルバドル軍は8キロ前進し,県都ヌエバ・オコテペケを確保.

7.15 ワシントンでOAS緊急理事会開催.紛争の平和的解決を決議.

7.16 ホンジュラス空軍が反撃.エルサルバドル空軍をほぼ全面破壊し,制空権を確保.石油などの供給基地に甚大な損害を与える.エルサルバドルは燃料,弾薬不足に陥り,先頭は泥沼化の気配を見せる.

7.17 OAS緊急理事会.即時停戦とエルサルバドル軍の撤退を求める.エルサルバドルは追放された農民に対する補償,ホンジュラス領内に残るエルサルバドル人の安全保証を要求.

7.18 OAS決議をうけて,両国が停戦を受諾.ここまでの三日間で約2千人が死亡.

7.26 コスタリカで両国の和平交渉が始まる.

7.30 OAS,サルバドル軍の即時撤退を促す決議.

69年8月

8.03 エルサレバドル軍完全撤退に同意.境界に沿って幅3キロの非武装地帯を設けることで合意.国交は断絶したまま.

9 共産党正統派,第5回大会を開催.テロ活動を非難し,平和的大衆路線を確認.共産党ML派の一分派,キューバ路線をとりフランシスコ・モラサン運動を結成.のちのモラサン民族解放戦線の母体となる.

 

1970年

1 エルサルバドルとホンデュラス,戦争再開.

4 キリスト教社会主義農民運動を母体に,全国農民連合(UNC)結成.CONSIGUAとCONTRAGUA,合併し労働者総連合(CTF)を結成.保守よりの姿勢にもかかわらず政府の抑圧を受け衰退.かわって弾圧を受けながらも自主的な姿勢を貫く全国労働者総連合(FECETRAG)が伸張.土地改革の恩恵を受けた農民を中心に官製組織の農業改革協同組合(FECORAH)が結成される.参加者は地方農民の1割にとどまる.

12 ホンジュラス,中米共同市場との関係を凍結.

70年 サッカー戦争後の深刻な経済問題に対応するため,保守党と自由党の挙国一致内閣が成立.ラモン・エルネスト・クルースが大統領に選出される.穏健野党として改革・連合党(PINU)が結成される.

71.3.28 大統領選挙でPNHのラモン・エルネスト・クルスが勝利。オレリャノは国軍総司令官にとどまる.実権は依然オレリャノが掌握。

1971年6月6日 ラモンE.クルスが大統領に就任。

 

1972年

2 ラ・タランケーラに入植しようとした農民40家族に兵士が発砲.6人が殺される.この事実を暴露したド・アントニオ司祭を11人の僧侶が支援する声明.

11月 アレリャナ将軍,クーデターによりふたたび政権の座に.3人からなる防衛評議会が設置される。

12.04 アレリャーナ,国家主席に就任.人気取りのため,エルサルバドル人から取り上げた土地を配分する,小規模な農地改革を始める.

1974年

1.02 アレリャーノ政権,森林国有化を発表.

9.17 コスタリカ,コロンビア,ホンジュラス,グアテマラ,パナマの政府,「バナナ輸出国機構」の設置で合意.加盟国の利益を守り,適正価格を維持するため,共通の方針で臨むこととする.最大の生産国エクアドルは,機構への不参加を決める.UB社はこれらの国から撤退する方針を示唆する.

9.18 ハリケーン「フィフィ」,ホンジュラス北部海岸地帯に甚大な被害を与える.およそ1万人が死亡.バナナ農園の7割が破壊され,2千万ドルの被害.バナナ輸出額は前年度45百万箱から35百万箱へ,さらに翌年には20万箱まで減少.

1975年 バナナゲート事件とアレリャーノの失脚

2.03 UB社のブラック社長,ニューヨーク市内のパナマ・ビルから飛び降り自殺.

3 ブラックUB社社長の自殺をめぐるスキャンダルが明らかになる.アレリャーノ内閣の蔵相が,ユナイテッド・ブランズ社から150万ドルを収賄したことが発覚.ロペス・アレリャーノは疑惑を否定するが,国内での批判が高まる.

4月 SECの発表によれば,UB社はバナナ輸出税免除を求め,ホンジュラス大統領ロペス・アレリャーノに合計250万ドルの贈賄を行った.UB社の取引は1週間停止され,株主の告訴が相次ぐ.

4.01 国軍,アレリャーノ国家主席から最高司令官の地位を解く.フアン・アルベルト・メルガル・カストロ大佐らによる事実上のクーデター.

4.22 アレリャーノ.国家主席の地位を剥奪される.後任にメルガル・カストロ.腐敗はさらに激しくなり,米企業を要請を受けての労働者弾圧も厳しさを増す.

1975年4月22日 軍最高評議会による決定の結果として、ファン・アルベルト・メルガル・カストロ将軍が国家運営を掌握することとなる。

6 ロス・オルコネス事件発生.農業・牧畜生産者連合(FENAGAH)が軍保守派を抱込んで,農民運動を支援する司祭ら14名を殺害したあと,32名の司祭や修道女を追放.

7 UNC,キリ民党の支援を受け,全国各地からテグシカルパへ「飢餓行進」開始.軍は各地でこれを阻止.フティカルパでは農民組合をおそい5人を殺害,神父ら5人を誘拐の上拷問,殺害.ド・アントニオも追及されるが,国外逃亡.

1976年

7.22 ホンジュラス,エルサルバドル軍が国境を越え攻撃と非難.

8.01 ホンジュラス,エルサルバドルの停戦協定違反を非難する文書をOASに提出.

1977年

2 非合法下に中米労働者革命党結成.国立大学,カトリック草の根組織を基盤に組織拡大.ハバナ大学=ルムンバ大学がえりの医師ホセ・マリア・レイエス・マッタ(パブロ・メンドサ司令官),大学改革戦線(FUR)議長で大学学生連合(FEUH)の委員長をつとめた医学生ウィルフレド・ガヤルドが指導.

10.21 軍内右派による反乱計画が摘発される。

77年 共産党統一大会.革命派のディオニシオ・ラモスが書記長に就任.議会主義のマリオ・ソーサと対立続く.翌年,キューバ派のリゴベルト・パディーリャが抜てきされ新書記長に就任.

77年 軍部,組合活動家二百名を逮捕,拷問.

77年 この年の小学児童の就学率は89%,一人当たりGNPは480$,過去18年間の平均年成長率は1.1%,農業人口は64%,対外債務は6億ドル.貧富の差は拡大し,農村では70%の人々が基礎消費コストをまかなえず.人口の5%が土地の半分以上を独占.

アルバレス軍事独裁

1978

1978年5月31日 国民議会の選挙の手続きが確定する。

8.07 旧アレリャーノ派軍部による無血軍事クーデター.メルガル政権崩壊.ポリカルポ・パス・ガルシア陸軍司令官ら3人の軍人よりなる軍事評議会に権力移行.その後アメリカからの豊富な援助により,国内経済は急成長.

1978年8月7日 第二次クーデター。軍最高評議会が暫定軍事政権をそ組織する。リカルポ・パス・ガルシア准将がフンタ議長に就任。事実上の指導者はドミンゴ・アントニオ・アルバレス・クルス大佐。 

 

1979年

9 国立自治大学(UNAH)でニカラグア革命政府に対する連帯運動高揚.アルメンダレス・ボニラ学長は,ニカラグア復興援助のため学生部隊を派遣すると,サンディニスタ革命への大学としての連帯を表明.

9 反共軍団(ELA),グアテマラの死の部隊であるESAの指導を受け,軍の公衆治安部隊(FUSEP)と秘密警察(DNI)の公認下に結成.国立自治大学の右翼学生組織FUUDを取込みながら発展.

79年 PRTCの合法組織として社会主義行動党(PASOH)結成.委員長には元独裁者ティブルシオ・カリアスの孫でUNAH副学長,経済・社会研究所長のビルヒリオ・カリアスが就任.

79年 労働運動の高揚と政局の混乱.地方でも農村労働者の武装抗議活動.80年4月予定の大統領選挙は無期延期となる.全国農民連合指導者(ANACH)の米国人神父ジェームス・H・カーニー,国外追放となりニカラグアに亡命.

 

1980年

3 米陸軍戦略局長ロバート・シュワイツァー中将,ホンデュラス軍事評議会指導者パス・ガルシア将軍と会見.「ニカラグアでソモサが長年引き受けてきた役割,すなわち中米の反共の砦となること」を要請.

4 共産党書記長リゴベルト・パディーリャ,「伝統的抑圧者に対する市民の反逆には道理がある」と表明.各階層の対話と和解を説く.エルサルバドルのFPLの影響を受けた人民革命連合(URP)が創設.オクタビオ・ペレスが指導し誘拐などテロ活動を展開.

4.20 軍部,労働争議の勃発により制憲議会選挙を延期する。その後アメリカの要請を受け選挙を施行.中道派の自由党が52%を獲得し勝利.しかし獲得議席は71議席中35となり、過半数は獲得できず.

5.14 ホンジュラス軍,エルサルバドル軍がスンプル河で農民600人を虐殺した作戦を支援.

80年7月

7.25 8年ぶりの民政移管をめざし制憲議会召集.パス・ガルシア軍事評議会議長を民政復帰まで1年間の暫定大統領に指名.

7.26 グスタボ(アドルフォ?)・アルバレス・マルチネス大佐が治安警察軍(FUSEP)長官に就任.エルサルバドル介入政策に反対する多くの将校を追放.反乱鎮圧特殊部隊と極右による「汚い戦争」の開始.アルゼンチンとの間に軍事協力協定を締結するとともに,軍事顧問4名の指導を受ける.

アルバレス・マルティネス
ホンジュラス軍の治安活動専門家.アルゼンチンの軍事学校でビデラ将軍の教えを受け,70年代に労組や農民運動の弾圧で名を上げる.「ゲリラ戦略に関する西半球最良のエキスパート」と称せられるアルゼンチン軍大佐オズワルド・リベイロとは軍事学校時代の同級生.

80年8月

8.15 テグシガルパで左翼ゲリラ人民革命連合が米州機構ビルを占拠.

8 軍情報部のトレス大佐,国立自治大学のボニラ学長に対し「死のリスト」を提示.

8 総選挙で中道右派の自由党が勝利.モラサン解放戦線(FMLNH),URPを母体に結成.「選挙は茶番でしかない」と声明を発表.

10.30 米国の調整の下にリマでエルサルバドル=ホンデュラス和平協定締結.「サッカー戦争」が正式に終結。これによりFMLNの拠点となっていた6ヶ所420平方kmの国境未確定地帯でのエルサルバドル軍の侵攻が可能となる.

10.31 弁護士エフライン・ドゥアルテの指導するFMLNHの分派,ロレンソ・セラヤ人民革命軍(FPR),ニカラグアの強力な支援の下に結成.チリと米国の大使館を相次いで爆弾攻撃.

 

本格的ゲリラ闘争の開始

1981年

2 シンチョネーロス人民解放運動(Movimiento Popular de Liberacion Cinchonero - MPLC),テグシカルパの大聖堂の正面に爆弾を仕掛けるとともに,存在を公表.人民革命連合(URP)の軍事組織として結成.シンチョネロは1865の農民反乱のリーダー.実体はエルサルバドル=ニカラグア回廊部分の支配を目的とする,ERPの別動隊.サンペドロ・スラでテキサコ副社長を拉致.

3.17 シンチョネーロス,ホンデュラス航空機をハイジャック.マナグアに強制着陸.アルバレス,FUSEP内に特殊作戦指令部(COE)を創設.長官にアレクサンデル・エルナンデス大尉を任命.私的暗殺部隊の統轄機構となる.

3.26 制憲議会に爆弾テロ,議員3人が負傷.

3.28 パナマで,ハイジャック交渉が解決.ホンデュラス拘禁中のファクンド・グアルダドらエルサルバドル活動家13人の釈放を実現.

4.22 テグシカルパ市内でエルサルバドルのキリスト教組織に属する14名が,国家調査局(DNI)に連行,エルサルバドルに強制送還.

4 アルバレス,訪米しケーシーらCIA幹部と会見.旧ソモサ軍に介入の口実をつくらせ,ニカラグアが反撃すればこれに対し米国・ホンデュラス連合軍が全面介入するという計画を提案.CIAの共感を受ける.

9.23 国会議事堂爆破.米軍事顧問2人が負傷.

9 パディーリャ共産党書記長,「暴力に反対し,国民全階層の参加する対話を通じ,選挙不正,経済危機,民衆抑圧について積極的解決をはかるべき」と表明.

10 軍部,自由・保守両党の大統領候補と会談.民政移管の条件として@安全保障に関する問題は軍の専決事項A軍政期の汚職は調査しないB閣僚任命は軍との事前協議で,の三点を認めさせる.

81年11月

11 国境地帯でホンデュラス軍とニカラグア軍とのあいだにコントラの扱いをめぐり小競り合いが頻発.

11 共産党の影響下に,首都区労働者連合とは別にホンジュラス労働者統一連盟(FUTH)が結成される.IMF勧告の受け入れに反対して強力な闘争を展開.地方では四千の農民が参加する,土地占拠闘争.

11 キッシンジャー腹心のジョン・ネグロポンテ,ホンジュラス大使に就任.ニューズウィークは「ヘイグとエンダースに送りこまれた突撃隊長」と紹介.レーガン政府はホンジュラスに1.5億ドルの軍事援助を注ぎ込み,コントラ支援を強化.CIAは100人を越えるスタッフをホンデュラスに配置.

11.21 選挙を直前にして「ホンデュラス愛国戦線」の活動家17名が逮捕.

11.29 米国の圧力下に民政移管.大統領選で自由党党首のロベルト・スアソ・コルドバ(医師)が54%を獲得し勝利.議会においても過半数を握る.共産党はPCH=ML派,社会主義行動党(PASOH)と連合し,ホンジュラス愛国戦線(FHP)から候補をたてるが,一議席も獲得できず.PINUが3議席,合法化されたキリ民党が1議席を獲得.

12 シンチョネーロス,一連の爆破事件,誘拐事件を展開.

 

1982年

1.19 エルサルバドル,ホンデュラス,コスタリカの3国外相,サンホセで「中米民主共同体」条約に調印.「経済悪化および安全保障上の懸念増大に対応し,中米での民主主義を守る」とし,対ニカラグア軍事同盟の性格をうちだす.

1.27 スアソ,大統領に就任.実権は依然軍部が把握,スアソはこれに対抗してグスタボ・アルバレス・マルティネス大佐を最高司令官の地位に抜てき,4軍を統轄する総司令官に据える.

1.27 米大使ネグロポンテは就任式の場で11項目からなる経済政策案をわたし,新政権は早急にこれを実行すべきであると申し渡したことから,以後ホンデュラスでは「総督」の名で呼ばれることとなる.

1.28 ホンジュラス・ペプシの総支配人(当然,CIAエージェント)のララチ,サンペドロスラで銃撃を受け殺害される.

2.02 FMLN,ホンジュラス国境付近の町を襲撃.この戦闘で政府側兵士ら100人が死亡.

3.05 米国とホンジュラス政府,米軍の国内基地使用をめぐり協議開始.

3.17 ニカラグア北西部のホンジュラス国境付近でサンディニスタ政府軍と右翼ゲリラが衝突,14人死亡.

3.21 ホンジュラス戦闘機3機がニカラグア領内に侵入.ニカラグア国防省は,沿岸警備隊の砲鑑が1機を撃墜と発表

3.28 エルサルバドルで大統領選挙.ホンジュラス軍はゲリラの国境侵犯に備え,国境地帯に2,000人の増援部隊を派遣.

3 エドガルド・パス・バルニカ外相,OASにたいし6項目からなる和平イニシアチブを提案.アルバレスに対抗する自由党の一部が同調するが,米国の黙殺をもって迎えられる.

4 アルバレス,政敵を次々と追放し軍内の独裁体制を確立.米国との連携の下に兵力を2万にまで増強.パス提案に対抗しあらたにニカラグア国境に一大隊を創設.

4 FPLのドゥアルテ,逮捕されたあと当局に屈伏し,グアテマラに亡命.

4 自治大学法学部学生ネルソン・マッケイ・シャバリアが暗殺され,6人の学生が行方不明となる.マッケイは軍隊と協力関係にあったが,行方不明者の所在を明らかにしようとしたために,公安関係者により抹殺された.

7 パディーリャ書記長,摘発をまぬがれ亡命.党を地下に潜入させ,武装闘争を開始すると表明.

8 アルバレス,突如全軍に戦闘準備を命じ,ニカラグア国境地帯に6個大隊を集結させ「国境を侵犯するあらゆる敵を撃破」するよう命令.米国務省はアルバレスの独走を恐れ「ホンデュラスは地域紛争を誘発する立場にないし,米国も地域への軍事介入のための口実を求めていない」と声明,命令を撤回させる.

9.17 シンチョネロス,最初の戦闘としてサンペドロ・スラのホンデュラス商工会ビルを占拠.60名のコマンドが約百人を人質とする.

9.25 シンチョネロス,政治犯釈放に成功.人質全員を釈放しパナマに向け出国.モラサン解放戦線,武装行動を展開,発電所爆破でテグシガルパ市内が停電となる.

9 右翼の脅迫に対し最後までたたかったボニラ学長,不正選挙で右翼に学長職をうばわれる.

11.24 政府、憲法修正条項を交付。軍総司令官の役割を大統領から軍トップに移す。

12.04 レーガン米大統領,ホンジュラス訪問.スアソ大統領,グアテマラのリオス・モント大統領と会談.

12.8 米国のダミーとなる軍事援助国としてアルゼンチンにかわりイスラエルと軍事援助協定.

12 ゲリラCTD,スアソ大統領の令嬢誘拐.アルバレス,軍最高司令官に就任.政敵のアリアス大佐をアルゼンチンに追放.G2とFUSEPを解散.

 

ゲリラ闘争の壊滅

1983年

1.29 ホンジュラス共産党の指導者がサンペドロ・スラで暗殺される.

1 ホンデュラス空軍,モラサンのFMLN支配区を越境空爆.

1 スアソ大統領後援の下にホンデュラス進歩協会(APROH)発足.極右と大地主,アラブ系企業グループ「ファクセ」のほかに官制労組や農民組織を網羅,暗殺部隊への資金源となる.アルバレス将軍が会長に就任し,「マルクス主義政権打倒のためならばあらゆることが道義的」であり「犯罪は犯罪者の除去によってのみ消去可能である」と暴力を是認.

3.19 コントラ兵1,500人,ホンジュラスからニカラグア北部に降下作戦.

3.24 ニカラグア,ホンジュラス軍が越境攻撃と抗議.

4.12 CG外相団,中米紛争の話し合い解決目指し,5ヵ国を歴訪.

4.03 共産党,中米労働者革命党(PRTCH),シンチョネーロス,ロレンソ・セラヤ人民革命軍,モラサン民族解放戦線(FMLNH),CTDのゲリラ6組織が統合,革命運動統合のための全国指導部(DNU=MRH)結成.これに対し国軍の掃討作戦展開.農民運動指導者の多くが犠牲に.アルバレス最高司令官の国政への干渉強まる.

83年5月

5.27 ホンジュラス政府,国内に米軍事訓練センターが設置準備中であることを明らかにする.

5.27 米政府,ホンジュラスへの米機動訓練部隊派遣を決定.これに対して慎重なエンダーズ中南米政策担当国務次官補を更迭.

5 コントラ,大敗北を喫しホンデュラス領内に逃げこむ.ホンデュラス国内にコントラとCIAへの批判広がる.

6 ネグロポンテとアルバレス,大西洋岸のプエルト・カスティーヤにエルサルバドル軍即応展開大隊の短期育成を主目的とする地域軍事訓練センター(CREM)を開設することで合意.翌月から訓練開始.スアソ大統領はアルバレスの決定を呑まされる.ホンデュラス軍部,外務省はアルバレスによる頭越しの決定に反発.経団連会長は「ホンデュラスは七つの軍に占領される」と発言し批判的立場を明確にする.

83年7月

7.17 PRTCH,ゲリラ百名によりオランチョにゲリラ基地を建設する作戦を展開.ジェームス・カーニー神父も闘争に参加.農民運動家のテオフィロ・マルティネスが農民組織に協力.

7.19 オルテガ議長,革命4周年で演説.ホンジュラスとの不可侵条約締結など6項目を提案.

7.20 ニカラグアを除く中米4ヵ国外相,紛争自主解決目指す8項目の和平案を発表.

7.29 米国海兵特殊部隊,ホンジュラス到着.

83年8月

8.27 PRTCホンジュラス・ゲリラ部隊,ニカラグアからオランチョ県に侵入.政府軍の攻撃により壊滅.パブロ・メンドサ司令官が戦死.カーニー神父,テオフィロ・マルティネスら26名が山の中で「行方不明」となる.メンドサの弟ら23名が投降,逮捕される.これらの捕虜は,エルサルバドルのドゥアルテ令嬢誘拐事件で,人質交換の結果釈放される.メンドサ亡き後のPRTC司令官にはガヤルドが.政府は初めて内戦の存在を公式に認め,キューバとニカラグアの干渉を非難する.

8.28 ストーン米国特使,ホンジュラス訪問.

83年9月

9.08 ワインバーガー米国防長官,ホンジュラス訪問.スアソ・ホンジュラス大統領と会談.

9.09 ホンジュラス空軍機がコリント港を攻撃.

9 米下院,コントラ援助法案を小差で否決.一方上院情報委員会はCIAの秘密工作を承認.CIAはコスタリカに本拠をおき,サンホセの放送局を買収,ペドロ・ホアキン・チャモロJr.を編集長にFDNの機関紙「ニカラグア・ホイ」を発行.75万部を発行するコスタリカの有力紙「ラ・ナシオン」を影響下におくなど活発な世論工作を展開.

10.14 ホンデュラスのスアソ大統領,訪問中のキッシンジャー委員会代表団に対し戦争にまきこまれた際の米国との相互安全保障条約の締結と百億ドルの援助を要請.

11.18 アメリカとホンジュラス両軍,合同軍事演習アワスタラ2開始.期間は3ヶ月にわたる.ホンジュラス内に米軍関係者1200人が常駐.ホンジュラス軍への軍事援助は約3億ドルに達し,ホンジュラス軍は2倍に膨れ上がる.

 

1984年

2.02 ホンジェラス領内から飛来した米国制A37型戦闘機が,ニカラグアの軍事基地を空爆.

3.31 中堅・若手将校らによるクーデター.3百万ドルにのぼる汚職を理由にアルバレスの軍籍を剥奪したうえコスタリカに追放.ホンデュラスをコントラ基地としてしか見ないネグロポンテの政策に不満を抱き,一定の国内改革の推進,ニカラグアとの共存,エルサルバドルに対する警戒感を共通認識とする.

4.01 ホンジュラスと米軍の合同軍事演習「グラナデーロ」開始.

4.03 国防軍最高審議会,空軍司令官で穏健派のウォルター・ロペス・レイエスを国軍司令官に選出し,三軍首脳による集団指導体制に復帰する.一連の経過については大統領も議会も事前通告を受けず.

4.12 コントラ,ニカラグア北部に侵入し大規模攻勢開始.

5.10 スアソ大統領、議会を解散。軍に非常事態の宣言を求める。軍は大統領の要請を拒否。

5 企業家団体や労組,農民団体が「社会勢力」を形成.軍部自主派と組んで米国の横暴に対抗する構えを見せる.共産党国内派指導者のマリオ・ソーサ政治局員,「暴力を否定し平和的に権力獲得をめざす」と声明.

8.16 スアソ大統領,経済立直しに向け全閣僚に辞表提出要請.20日には新内閣発足.

8 国防軍最高審議会,CREMの国内での訓練を中止させ6名のアルバレス派閣僚を解任しAPROHを解体することを決定.広範な市民によるアルバレス追放を祝う集会開催.アルバレス将軍の失脚にともない,プエルト・カスティージャのエルサルバドル軍訓練基地は徐々に縮小撤廃されることとなる.

9.11 コスタリカのユナイテッド・ブランズ社のプランテーションで農業労働者が10週間におよぶストを開始.ユナイテッド・ブランズ社は太平洋岸のプランテーションからの撤退を決定.

10.25 自由・保守両党の抗争が進む.保守党が多数を握る国会は,スアソ大統領が麻薬に関与したとして非難決議を採択.スアソは4日間にわたり抗議のハンスト.

11.01 ウェブスターFBI長官,APROHが麻薬取引の金を使いスアソ大統領暗殺とクーデターの計画をくわだてたと摘発.ホンデュラス軍人ら8人を逮捕.政府はこれを受けAPROHを廃止.

 

 1985年

1 ロペス軍部に支持されたパス外相「コントラはただちにホンデュラスから蹴りだされるべきである」と発言.米国はホンデュラスの要請を全面拒否.

2.11 ニカラグア国境地帯でアメリカ,ホンジュラス軍の合同大演習「アワスタラ3」が開始される.3ヶ月にわたる.

3.25 国会議員53人がスアソ大統領派最高裁判事5人の罷免に賛成.自由・保守両党の抗争激化.最高裁が並立する状況を産む.

3.29 軍の治安部隊が反スアソ派のソト最高裁長官を逮捕.

3.30 政府,ソトを反逆罪で告発.

4.01 テグシガルパ刑事裁判所,判事罷免に賛成した議員を国家反逆罪で訴追すると決定.

4.02 議会,スアソ大統領非難の決議を採択.その後,ロペス軍部はカトリック教会と社会勢力の立会いの下に抗争を調停することに成功.

4月 「アワスタラ3」がピークに達する.米兵7千が参加.コントラはホンジュラス領内に15,000人.他におよそ30,000人の「避難民」を抱える.

5.21 レーガン米大統領,スアソ大統領と会談.現政権支持と財政支援を確約.

10 大統領選挙を前に,自由党は候補の絞込みに失敗.一党から複数候補が立起できるよう選挙法の改定をもとめる.

10 軍部,コントラへの援助物資のホンデュラス通過を阻止.米政府は5千万ドルの経済援助を支出停止することでこれに応える.

11 ロペス側近のスニガ中佐,米上院情報委員会で証言したあと暗殺.証言内容はホンデュラス軍特殊情報部隊とFDNを,国内の政治的暗殺に関与したとして逮捕しようとしたとき,CIAの妨害にあったというもの.

11.24 大統領選挙.国民党のラファエル・レオナルド・カジェハスが42%を獲得し第一位となるが,自由党候補の合計がカジェハスを上回る.議会選挙では自由党が過半数を獲得。

12.23 自由党,選挙管理委員会に自党の勝利を申し立て.選挙管理委員会はこの訴えを認め,自由党第一位候補ホセ・シメオン・アスコナ・デル・オヨ(José Simeón Azcona Hoyo)の当選を確定.アスコナの得票率は27%だった.

 

1986年

1.25 軍内クーデター.ロペス司令官,アスコナ大統領就任を目前に失脚.レガラード将軍が新司令官に就任.コントラを対米取り引きのカードとして利用することを断念し国外追い出しをはかる

1.27 アスコナが大統領に就任.親米路線をとりつつも,中米紛争に関してはコンタドーラ路線を支持し,米国とは一線を画す.議会での自由党勢力は大幅に後退.

1 共産党第4回大会.武装闘争路線を堅持しつつ,大衆闘争にも積極的に取り組むことで両派の合意.

2月 米当局とホンジュラス軍幹部,80年代前半にCIAが200人以上の殺人および行方不明事件に関与したことを認める.コントラに対する不安とあいまって,国民のあいだに反米感情が広がる.

3.25 ホンジュラス政府軍,越境したニカラグア軍を撃退するためとして,兵員多数を国境に集結.移送には米軍ヘリなどが使用される.ホンジュラス側によれば,およそ1,500のEPS地上部隊が,ホンジュラスの境界を横切って,ラスべガスの村落の近くでContra勢力と交戦.

3.25 レーガン米大統領,対ホンジュラス緊急軍事援助として2,000万ドルを承認.

12.03 オルテガ大統領,ホンジュラス政府軍との衝突がおきる可能性あると警告,

12.05 ホンジュラス外務省,ニカラグア軍2,000人が4日夜から領内に越境攻撃したと発表.

12.07 ホンジュラス軍,米軍の支援を受け,ニカラグア軍部隊に空から攻撃.

 

1987年

3.10 ホンジュラス軍,ニカラグア側から飛来した国籍不明機を撃墜と発表.

3.13 ロレンソ・セラヤ人民革命軍(Fuerzas Revolucionarias Populares Lorenzo Zeleya - FRP)、サンペドロ・スラで政府軍の攻撃を受け壊滅。

3.16 米軍4個大隊がホンジュラスに緊急派遣される.ニカラグア国営放送は全国民に戦闘態勢を呼びかける.

3.16 米政府,「ニカラグア軍がホンジュラスに侵入,ホンジュラス政府から軍事支援の要請を受けた」と発表.オルテガ大統領は,アスコナ大統領ら中南米諸国首脳と電話会談.緊急会議開催を提案.

3 ハイメ・ローゼンタール副大統領,CBSとインタビュー.スアソ政権期にAIDを通じて供与された米国の経済援助の半分が,汚職やその他の形で浪費されたと発言.

3 単一労働者連盟,「すべての外国軍事勢力撤退」をスロ−ガンに5千人のデモを組織.

6 ホンジュラス政府,ニカラグア軍がみたび越境攻撃を仕掛けたと発表.

10 シンチョネロス,サンペドロ・スラの放送局を一時占拠.

1988年

1.12 人権擁護委員会副委員長ミゲル・アンヘル・パボンが暗殺される.

4.6 米国,ホンデュラス麻薬組織のボスでコントラ密輸にも関与していたラモン・マッタを現地で逮捕.

4.07 DEAのマッタ逮捕に対し,左右両派の2千人が主権侵犯に抗議し米大使館を包囲.一部が建物に放火,この騒乱で市民5名が死亡.

4.08 アスコナ政権,テグシガルバ・サンペドロスラ両市に15日間の非常事態宣言.

4.13 暴動終結.非常事態宣言解除.

7.30 米州人権裁判所,学生運動指導者ベラスケスの失踪に関しホンデュラス政府を有責とし,遺族への賠償支払を命じる.政治的行方不明事件に関し国家を断罪した中南米初の判決.

10 アスコナ大統領,国連総会で演説.コントラの国外への移送を要請.

10.28 公務員三万人が賃上げと待遇改善を求め無期限スト.

12月 モラサン愛国戦線(FPM),平和部隊の事務所を爆弾攻撃.FPMは80年代後半に結成された左翼ゲリラ組織.

 

1989年

2.13 中米首脳会議,サンサルバドルで開催.1990年2月25日までのニカラグア民主化選挙実施で合意.またコントラを本拠地のホンジュラスから一掃することで合意.

4.13 米国議会、ニカラグアの反乱軍を"armed but inactive"の状態に保つため、4980万ドルの「非致命的な」援助を許可。

2 FPM,米軍軍人用バスを攻撃.軍属3人が負傷.

4 FPM,米軍輸送車を襲撃.

7 FPM,ラ・セイバで米兵に手榴弾を浴びせる.7人が負傷.

11.26 大統領選.野党国民党から立起したラファエル・レオナルド・カジェハス・ロメロが,与党自由党のカルロス・フロレスをやぶり当選.議会も国民党が過半数を獲得。カジェハスは大地主で,ホンジュラスを代表する資産家.元APROH幹部の大統領就任に抗議が高まる.レガラード司令官は「軍部を批判するものは民主主義の破壊者である」と発言し,国民の声を抑圧.

89 将軍グスタボ・アルバレス・マルティネス(前ホンジュラス軍司令官)が暗殺される。

 

1990年

1.26 カジェハス,大統領に就任.新自由主義の厳しいプログラムをうち出し,燃料価格を50%引き上げ.国営部門を民営化する.政治亡命者の帰還を呼び掛け,一定数の政治犯に恩赦を与える.

2.27 ホンジュラス政府,ニカラグア反政府ゲリラのコントラに出国を呼び掛け.

3.31 テグシカルパ北西20キロのアマラテカでモラサン愛国戦線(FPM)による米軍バス襲撃.7人の米国人が負傷.

6.23 カジェハス政権,IMFの勧告に伴ない自由貿易計画を実施.為替相場を変動相場制にして、海外からの民間投資を推進.石油をはじめとする輸入品価格が高騰.労働者はこれに抗議する無期限ストを開始.

7月 労働者のストライキは、国内のバナナ栽培者連合(CAGSA)とユナイテッド・ブランズ社の争いに発展。「バナナ戦争」と呼ばれる。

7月 最後のコントラ兵士・難民がニカラグアに帰還.

8.04 500名の政府軍が,緊縮政策に抗議するバナナ労働者のストに介入.ストは42日ぶりに終結.

9月 ホンジュラス,ロシアと国交樹立.その後,東欧諸国との国交も樹立するが,キューバや中国との国交は依然樹立されず.

12月 政府は全ての政治犯への大赦を発表.反テロリズム法は廃止される.カジェハスは,すべての政治勢力の参加する,政治的な議論のためのフォーラムの設立をよびかける.

 

1991年

1.12 革命統一国民指導部の幹部4人,10年間の亡命を終えて帰国.武装闘争の終結を発表.民主統一党(UD)を結成し合法活動を開始.

2.03 フォンセカ湾でホンジュラス警備艇がニカラグア艇に発砲,2人が死亡.

3月 亡命から帰国した農民運動幹部が暗殺される.

10.28 中米議会がグアテマラ市で発足.

10月 Lorenzo Zelaya人民革命軍,政府の平和宣言を受け入れ,武装闘争を放棄.

91年 「ホンジュラス人権防衛委員会」,軍による政治的暗殺と人権侵害を強く非難.

 

1992年

9.11 ICJ(国際司法裁判所),エルサルバドルとホンジュラス間の国境線を新たに画定.係争地6カ所(いわゆるボルソネス)の約60%がホンジュラス領と認められる.両国はこの判決を受け入れる.

92年 カンタレーナ軍最高司令官(Arnulfo Cantarera),人権侵害の容疑で職を解かれる.後任には Luis Discua将軍が就任.

 

1993年

4,16 臓器移植を目的に幼児を誘拐しているとされる犯罪組織の存在が浮上.カジェハス大統領は本格捜査を司法機関に命令.

5月 税関の高級職員が,手数料の不当徴収により,個人的な蓄財を行った事件が暴露される.税関局長は責任をとって辞任.

7.10 師範学校の女学生を暴行・殺害した幹部軍人に実刑判決が下される.被告は事件発覚後に退役していたため,軍事裁判ではなく一般の刑事裁判となる.かつて軍人が裁かれた前例がなかったため,「歴史的な」判決と評価される.

9月 エルサルバドルとの国境確定後,初の住民調査.国境周辺の住民の国籍を確定.

10月 ホンジュラス,非同盟諸国会議へ加盟.

11.28 大統領選挙.経済改革の失敗と汚職・腐敗により,国民の間に不満が拡大.自由党のレイナが56%の得票で国民党のOswaldo Ramos Sotoに圧勝.議会選挙でも自由党が71議席を獲得。いっぽうで,税関汚職の責任者は,国民党から立起し当選.

カルロス・ロベルト・レイナ・イ・ディアケス大統領
人権派弁護士として軍政時代を闘ってきた.選挙では「道徳革命」のスローガンの下,汚職追放に取り組む決意を表明.ネオリベラリズム政策に苦しむ大衆の不満を吸い上げる.

12月  国家人権擁護委員会,80年代中の「行方不明者事件」に関する調査報告書を発表.人権抑圧への軍と政府当局の関与が明らかにされる.国軍最高司令官ディスクアが,当時の対テロ対策部隊「3・16大隊」の司令官であったことから,彼の退陣を求める声が高まる.カジェハス大統領はディスクア擁護の姿勢を貫く.

12月 「検察省創設法」が可決される.秘密警察として誘拐・拷問・虐殺を続けた国家捜査局(DNI)は,警察隊から分離され,解体される.これに代わるものとして,あらたに創設される検察省(MINISTERIO PUBLICO)の下に,DNIに替わる犯罪捜査局(DIC)を設置することとなる.警察隊そのものの改組については引き続き課題として残る.

警察隊は陸海空と並んで軍の一部を構成する.この国の伝統にのっとり,軍は文民支配を受け入れていない.さらにテグシガルパの交通局を自ら所有・運営するなど,経済的にも大きな権力を握っている.

 

1994年

1.22 レイナが大統領に就任.徴兵制の廃止を宣言.検察省の機能を強化.省内に特捜部を設け汚職を摘発.さらに警察を軍からシビリアン・コントロールの下に移すなど,軍の干渉を排除する施策を展開.

1.27 レイナが公約に掲げた「人権委員会」が発足.80年代初期に大量に発生した「行方不明者」の追跡と責任追及を開始.

5月 議会,大統領の徴兵制廃止措置を承認.

6月 政府,都市警察から悪名高い国家捜査局を分離し,解散.それはかつて軍隊の拷問セクションであった.新たに文民統制下の犯罪捜査機構が発足.秘密警察に代わる1500人の捜査官はイスラエル警察およびFBIにより訓練を受ける.

6 ホンジュラスを旱魃が襲う.90ヶ所の村で,6割以上の減収となる.150万人が飢餓に直面,全人口の73%が貧困線以下の極貧状態に置かれる.政府はFAOに9億ドルの緊急援助を要請.

8月 政府,軍の圧力により,欠員7千の補充のため,一時的な徴兵施行に同意.

94年 カジェハス前大統領,公的な資金の背任横領で正式に起訴される.最高裁はカジェハス前大統領に対する不逮捕特権を取り消し,文書偽造と公金の不正支出について証言を求める.

94年 テラ鉄道会社(以前のUF社の一部),ECへのバナナ輸出の落ち込みから,経営が悪化.4つのバナナ農園を閉鎖.三ヶ月で3千人の従業員をレイオフ.組合(SITRATERCO)労働者はストライキ.政府はストを中止するようもとめるとともに,会社に対し操業再開と労働者の再雇用を求める.会社と労組の交渉で,1,200人の労働者が復帰するが,女子従業員約千名は解雇されたままに終わる.

 

1995年

1月 議会,軍の支配する都市警察を廃止.この時点で,国内では毎日の殺人事件で50人以上が殺されていた.

4.05 (ホ)モラサン愛国戦線,外国人記者の住むテグシカルパ・ビルにプロパガンダ爆弾.

4.24 パス外相の身内にあたる政府高官が,パスポートと米国入国ビザ取得の便宜を図り,現金を受け取っていたことが明らかになる.パス外相は責任をとり辞任.レイナ大統領自身も,公金を私的目的に使用したとして捜査を受ける.

4月 議会,徴兵制廃止法案を可決.

7.21 ホンジュラスの退役大佐アレキサンダー・エルナンデス(公安部隊の前監察官),82年のマッケイ暗殺事件に関して告発される.彼は「司令官10」の名で知られ,恐れられていた.

10 検察当局,死の軍団「3ー16旅団」指導者26名を起訴.「3ー16旅団」は,CIAとアルゼンチン軍部の支援を受け,79年から89年までのあいだに左翼活動家184人を消滅した.最高指導者ビリー・ホジャ大尉(Joya)は起訴を逃れ,スペインに逃亡.

1996年

1 基礎生活物資の3割値上げと給料の25%引き上げが同時に実施された.IMFの緊縮財政の強い要請に対し,公的部門を中心に給料引き上げを要求するデモが広がる.

2 カルロス・ロベルト・レイナ大統領,最高司令官マリオ・ウング・パチェコ将軍の推薦した三人を無視し,国防学校校長のホセ・ルイス・ヌニェス・ベネス大佐を国防相に任命.

3月 政府は警察機能の切り離しに加え,軍の定員を大幅に削減.これに抗議する軍人が,大統領府に爆弾攻撃.

7月 軍総司令官,軍の一部に反乱の動きがあったが未然に阻止されたと発表.

1997年

10 テグシガルパの大通りで,民衆400人がコロンブスの銅像を破壊。台座の上にレンピラの像を立てようとし,警察により阻止される.

11.30 大統領選.自由党のカルロス・ロベルト・フローレス・ファクッセが53%を獲得.国民党極右派のNora de Melgar(Nora Castro?)に10%の差をつけて当選.引き続き自由党が政権を担当することとなる.健全財政を維持しつつ,貧しい人々への対応を推進すると宣言.議会選挙で左翼勢力は議席を失う.

97年 この年,経済成長率は5%を達成.中銀の外貨準備は増え,インフレ率は12.8%にまで低下.公共部門の財政赤字も1.1%にまで圧縮.しかしこの時点で国民の8割が極貧生活を送り,一方で228人の地主が国土の75%以上を独占.

 

1998年

1.27 フローレスが大統領に就任.経済・政治の近代化に着手.生活水準と国際競争力の向上を目指す.対外債務問題の解決のため,IMF/世銀と交渉に入る.企業税の軽減と売上税の7%から12%への増加,全面的な民営化推進,緊縮予算により経済の再建を図る.

2月 フローレス,軍と結びついた国民党勢力との間に不可侵協定を結び,挙国一致内閣を作る用意があると述べる.

9.19  議会,参謀本部を廃止し,権限を国防省に委譲する軍機構改革法を可決.来年1月26日から実施へ.

9.22 軍機構改革法が成立.大統領が選んだ国防相が軍を管理することになる.軍の治外法権体制は終了.

9月 エルサルバドルとホンジュラスが国境画定文書に調印。

10.26 超大型のハリケーン,ミッチがホンジュラスを襲う.死者・行方不明者8000人,負傷者1万2000人のほか被災者150万人を出す.被害総額は30億ドルに上る.農産物の7割が失われる.

11月 ハリケーン「ミッチ」,政府は非常事態を宣言.ホンジュラス政府は救済資金の管理において透明との評価を受ける.

12 ホンジュラス政府,スペイン駐在大使に対しホジャへの旅券更新を拒否するよう指示.ホジャはホンジュラスに戻りそのまま拘留される.

 

1999年

1.27 マリオ・ウング・パチェコ司令官が軍の統帥権をフローレス大統領に返上.ホンジュラス軍は41年ぶりに文民統制下に.大統領の下に選任されたエドガルド・ドゥマス・ロドリゲス前駐米大使が前国防相クリストバル・コラレス大佐にかわり軍を統括することとなる.軍最高評議会(CONSUFFAA.50人以上のメンバー)は消滅し,これに代わって6人のメンバーから成る司令部会議が創設される.

1.25 原住民代表3千が大統領と議会に要請行動.住民代表42人の殺害された事件の捜査を開始するよう求める.

2.18 世界銀行と米州開発銀行(IDB),国土再建のために総額4800万ドルの融資を行うと発表.資金は上水道システム,道路の復旧工事に充てられる.

2.11 82年に起きた左翼学生6人の不当逮捕と殺人未遂事件で告訴されていたホジャ大尉,証拠不充分で保釈される.検察は同じ82年に起きたジャーナリストの拘留事件などで,拘留継続を主張.裁判所,ホジャ逮捕をもとめる検察に応じ,テグシガルパ北方の農園で学生らの遺体捜査を指示.

2 水力発電施設(300メガワット)の火災により全土で節電.

3.16 カルロス・フローレス大統領,治安回復のための軍隊1万2000人の導入を発表.

4月 パリクラブがホンジュラスの公的債務11億7000万ドルのうち2/3について返済を免除することを決定。

9 ホンジュラスにふたたび洪水.35人の人々の命を奪って、14,000ヘクタールの農地を荒廃させ,2000万ドルの被害をもたらす.

11月 コロンビアとの境界条約の批准.北緯15度の線が両国の境界となる.ホンジュラスは,ニカラグア海岸沖のサンアンドレスおよびプロビデンシア諸島について,コロンビアの主権を認める.

11月 ニカラグアは約130,000平方kmの領海を失うことになる.ニカラグアとホンジュラスは国境線沿いに軍を出動させにらみ合いに入る.

 

2000年

2 ホンジュラスとニカラグア外相が協議.将来における交渉の昨組みで合意.国境地帯に非武装地帯が設定される.

3月 ホンジュラスとニカラグアの哨戒艇が,フォンセカ湾上で銃撃戦.数回にわたり繰り返される.

8.21 ホンジュラス社会保障協会の医療・管理スタッフ3千人が,民営化法に反対し,無期限ストに入る.ホンジュラス統一労働者連合(FUTH),医療ストを支持して連帯ストを指令.ホンジュラス統一労働者総連合(CUTH)は大幅賃上げを目指し,大規模なストを打つ構え.

9.04 ホンジュラス政府,バスで首都入りしようとしたチョルティ先住民抗議団を拘束.抗議団はその場でハンガーストを開始.コパンでは抗議団が遺跡を封鎖.観光収入の25%還元を要求.ラ・セイバではガリフナ族の抗議団が庁舎を占拠.

9.05 ホンジュラス最高裁,「ガウタマ・フォンセカ保安相の命じた予防拘束は憲法違反」とする意見を受け容れ審査を開始.フォンセカ保安相は自らの措置の正当性を主張.

9.07 ホンジュラス議会,国立農業院に財政投資を承認.この資金はチョルティ先住民の土地購入に当てられる.

9.07 国家保安警察,ヘリを含む100人を動員してコパンの抗議団を排除.大量の催涙ガスが用いられる.指導者20名が逮捕され,十数人が負傷.

12.14 元国家保安部のエルナンデス退役大佐,5年間の逃亡生活のあと裁判所に出頭.82年のマッケイ暗殺事件に関して,5時間にわたり無実を主張する証言.

 

2001年

2.17 80年代にホンジュラス大使として辣腕を振るったネグロポンテが,国連大使に指名される.これに先立ち,米国内に在留するかつての「死の軍団」〔3-16大隊〕兵士数名が,ひそかに国外追放される.

2.28 ホンジュラスの国連代理大使ルイス・アロンゾ・ディスクア,米国務省により外交ビザを抹消される.彼は3-16大隊の最初の司令官だった.代理大使の肩書きは,外交官の不逮捕特権をねらう名目的なもので,ほとんど国連には顔を出していなかった.

9.04 東部のアグアカテ基地(旧コントラ基地)で秘密墓地が明らかにされ,28人の遺体が発見される.司法当局によれば,これらは元コントラ兵士のものと思われる.

11月 大統領選挙で国民党のRicardo Maduro元中銀総裁が、自由党のRafael Pineda Ponceを破る.議会選挙でも国民党が過半数を獲得.

2003年

4.19 ネリ・アニバル・サンチェス・カルバハル,逃亡先の米国で逮捕され,ホンジュラスに送還される.サンチェスはリカルド・マドゥロ大統領の息子,リカルド・エルネスト・マドゥロを,97年に誘拐殺害するなど3件の誘拐殺害の犯人.

9.06 ホンジュラス国営バナナ会社の労組指導者ロベルト・オルティス,エル・プログレソ県ウラコの酒場で射殺される.

10月 ホンジュラスでイラク派兵と公共事業の民営化,公務員の賃金凍結に抗議する抗議行動.全国人民抵抗調整委員会が呼びかける.

11.26 グアテマラ国境の町サンタロサ・デ・コパンの放送局社長ヘルマン・アントニオが射殺される.

12.03 イラクのホンジュラス軍基地にロケット砲が打ち込まれる.

2004年

5月2日 リカルド・マドゥーロ大統領を乗せたセスナ機が、テラで海上に墜落。地元民に無事救助される。

8月 アメリカと中米6カ国が自由貿易協定に調印。

12.23 ホンジュラス北部の都市サンペドロ・スラで武装集団が路線バスに無差別発砲、少なくとも乗客28人(うち子供が6人)が死亡、16人が負傷した。武装グループを乗せた車両がバスの行方をさえぎり、前と後ろからいきなり発砲したという。この犯罪組織マラ・サルバトルーチャは、住民に「保護代」などの名目で金銭を強要していた。

 

2005年

1.08 ホンジュラスのチョルテカ州で、リカルド・マドゥーロ大統領暗殺未遂事件が発生。ホンジュラス警察はニカラグア人ホセ・レオニダス・アルベレスを逮捕。

2.24 アメリカ政府は、サン・ペドロ・スーラのバス襲撃事件でホンジュラス政府から逮捕要求が出ていたエベル・アニバル・リベラを逮捕。またホンジュラスはこの殺人に参加した疑いのある組織員の少なくとも9人を逮捕した。

3.03 テグシガルパに中米5カ国の治安関係閣僚が集まり、麻薬などの犯罪に対する地域の体制を作ることで合意した。ベリースとパナマはオブザーバーの資格で参加した。麻薬に伴う危険が我々の民主主義の危険にもなっているとし、「マラス」への対策強化で一致。専門家の委員会は対策統合のための体制、活動、組織、予算などを決定することになる。

5.05 ホンジュラス、米国から「2000年紀勘定」の資金2億1500万ドルの支援を受け入れる。農業、輸送部門への投資のためにあてられる。リカルド・マドゥーロ大統領は、「アメリカからの年間援助額の7倍、国内総生産の3%に相当する」と感謝する。

「二千年紀挑戦勘定」は貧困国を資金援助するアメリカのプログラムで、市場改革を推し進めると約束した国が対象となる。ホンジュラスはラテンアメリカで最初、世界ではマダガスカルに次ぐ2国目となる。

7.06 テグシガルパ郊外で麻薬対策当局者の死体が発見される。ホンジュラス警察は暴力組織マラスを押さえ込むため「稲妻作戦」を展開。約30人の容疑者を逮捕する。

12.07 ホンジュラス大統領選挙。野党自由党のマヌエル・セラヤ・ロサレスが、与党国民党のポルフィリオ・ロボを破り当選。

 

2006年

1.27 マドゥーロに代わり、マヌエル・セラヤが新大統領に就任。09.

2009年

6.03 ホンジュラスで米州機構(OAS)外相会議、キューバの除名解除で合意

7.08 ホンジュラスのアメリカ大使館、1650万ドルの軍事支援プログラムを中止すると声明。

7.09 コスタリカがセラヤとミチェレッティの交渉を調停。両者の直接交渉が実現しないまま終わる。

7.19 ホンジュラス和解協議が決裂。暫定政権側はセラヤ元大統領の復職を拒絶。

7.21 ミチェレッティ、ベネズエラと外交関係を断絶、大使館員の退去を命令する。

8.18 ミチェレッティ、テグシガルパ駐在のアルゼンチン外交官全員に国外退去を命令。

9.03 アメリカ国務省、セラヤの復権を要求しホンジュラスへの経済支援を停止すると発表。

9.21 セラヤがホンジュラスへ強行帰国。ブラジル大使館に身を寄せる。ミチェレッティ政権は外出禁止令を敷く。

9.27 ミチェレッティ、ブラジル大使館に在留するセラヤの身柄引き渡しを求める。ルラ大統領はセラヤ引きわたし要求を拒絶。

10.05 言論・移動・集会等を規制した緊急法令が撤廃される。

10.29 ミチェレッティ、セラヤの大統領復帰で合意。政治的混乱収束へ向かう。

10.30 サンペドロスラのサッカー場で発砲事件があり14人が殺害される。麻薬密輸組織の犯行とみられる。

11.05 ミチェレッティ、合意を破り和解政権発足を一方的に発表する。

11.29 ホンジュラス大統領選、国民党のポルフォリオ・ロボ元国会議長が当選。

12.02 国会がセラヤ復職の是非を採決、反対が過半数に達し復職を拒絶。

2010年

1.05 ホンジュラス検察、セラヤ追放軍事クーデターで軍上層部6人に逮捕状を請求する。

1.20 ブラジル大使館にこもるセラヤ元大統領、ドミニカ共和国が受け入れることで合意。