エルサルバドル年表

2010.12.31 パソコンのスピードアップに伴い、分散していたページをひとつに統合しました。

2011.10.16 やはり見にくいので、中米年表からエルサル関係分をこちらに移します。中米年表と重複記載になります。

 

1800年   1900年   マタンサス   オソリオ政権   リベラ政権   サッカー戦争   モリーナ政権   ロメロ政権  若手将校の反乱

1981年  1982年  1983年  1984年  1985年  1986年  1987年  1988年  1989年

1990年   1991年   1992年   1993年   1994年   1995年   1996年   1997年    1998年   1999年

 事実の重大な異同についてのコメント
1530年までの歴史は文献による異同があまりに多く、出典を明らかにし、その信頼性をコメントしながらでないと何も言えないほどです。
これはエルサルに限ったことではなく中米史全般について言えることです。

一般にこの手の問題が発生したときはスペイン系の論文は信用できません。好き嫌いは別にして、アメリカ人の書いた文章で、後ろに参考文献や引用がズラーッと並んでいる文章でなければなりません。

ウィキペディアも、一般的に信用することは出来ません。やはり論文としてきちっとしていないとだめです。

私自身がきわめてだらしない性格なので、大きなことは言えませんが、これだけ問題が紛糾すると、出典を明らかにしながら書いていかなければならないと思います。

どんな文献があるのか。

とりあえずエルサルについて各説の比較を行います。

あくまで相対的なものですが、ネットで利用できるものとしては、まずはアメリカ国会図書館の文献が一番たしかだと思います。

まずはこれで年表を起こしてみたいと思います。

つぎにウィキペディアの「エルサルバドルの歴史」の記載を明朝体で追加記載します。

ついでウィキペディアの関連項目の中に埋まっている事項を、1ポイント小さい明朝で追加します。さらにインターネット上の記事で、出所が明らかで、かつ比較的信頼度が高いと判断されるものも、1ポイント小さい明朝で追加します。

最後に、いまとなっては出典不明ながら、私のこれまでのファイルの中に存在する事項を1ポイント小さいゴシックで記載します。

その後、各項目の突き合わせをやります。その結果を注釈としてイタリックで書き込みます。

これがうまく行くようなら、ニカラグア、ホンジュラス、エクアドルにもこの方式を適用したいと思います。

 

スペイン人による征服以前のエルサルバドル

この地での主要な先住民はピピル(Pipil)族だった。ピピル族はナウア(Nahua)人といわれる遊牧民族のサブグループである。

ナウア人は紀元前3000年頃にメキシコ方面から中央アメリカに移ってきた。そして徐々にマヤ帝国の支配下に入るようになった。

マヤ帝国の支配は9世紀まで続き、その後衰退した。ピピル文化はマヤ帝国の水準までは到達しなかった。

ピピル族の国家は11世紀に登場した。それは二つの連邦に組織されたが、その連邦は小規模な都市国家からなっていた。

これがウィキペディアでは下記のようになる。

現在のエルサルバドルは3つの先住民国家といくつかの小国からなっていた。

東部地域はレンカ国(Lenca)、北部レンパ川上流の地域はマヤ人系のチョルティ(Chorti)国となっていた。

二つをあわせると、エルサルがどういう構造になっていたかが分かる。それはそれでよいのだが、カントリースタデイでは「二つの連邦」の名前が分からない。ウィキペディアではそもそも二つの連邦があったことさえ記載されていない。

当時のエルサルバドルにはピピルPipils族とトシュトゥヒル族が住み,前者は西部グアテマラよりに,後者は東部から南部の海岸部に勢力を持っていた.

これが私の元ファイル。レンカとトシュトゥヒルは同じものをさしている。両者を突き合わせれば、トシュトゥヒル族が建てた国がレンカ国ということになるが…

Lenca で検索するとウィキペディアで Lenca people という項目が出てくる。これは相当詳しい。

レンカは国の名前ではなく「レンカ人」という概念だ。ホンジュラス南東部とエルサル東部に集団として存在している。現人口は約10万人とされているが、スペインの征服により50万人以上が殺されたと推定されている。ホンジュラスの先住民抵抗運動を率いたレンピラがレンカ人の代表。

ということで、レンカ国は存在しなかった可能性が高い。トシュトゥヒルはとりあえず正文からは抹消しておいたほうがよい。なお Ch'orti' は基本的な生活範囲はグアテマラ・ホンジュラス国境地帯で、あえて取り上げる必要はない。

ピピル族は紀元前3千年頃メキシコから南下したトルテカ,ナウアNahua 族の末裔.その後9世紀にはマヤ帝国の支配下に入った.11世紀にはマヤの支配を離れ,クスカトランとアトラカールの二つの連合王国に再編されていた.

二つの連邦国家の名前が出てきた。しかしウィキペディアにはアトラカールという国名はまったく出てこない。存在そのものが怪しい。抵抗運動の指導者アトラカトルと混同したのではないか。

ピピル族は基本的には農耕民族であったが、多くの大きい都市を建設した。その幾つかは、現代の都市に発達している。たとえばソンソナテでありアウアチャパンである。

 

ピピル族は勇敢な民族であった。南方へと進出を図るスペイン人に対して決然と対抗した。

その最初がペドロ・デ・アルバラードの率いるスペイン軍との闘いだ。

1524年6月、侵入したスペイン軍は大規模な会戦で敗北し、グアテマラへの撤退を余儀なくされた。

ピピル族抵抗のリーダーの名前はアトラカトル(Atlacatl)で、エルサル人の間では伝説上の英雄として扱われている。

次にウィキペディアの Atlacatl の項目

クスカトラン国の軍を率いた英雄。アルバラード軍がアテウアンに到着しアトラカトルに降伏をもとめた。アトラカトルは住民すべてを山にこもらせた上で、アルバラドを待ち受けた。アルバラド軍が山に侵入したとたん四方から攻撃を受け、軍勢は総崩れとなった。かくして7月4日、アルバラド軍は撤退を余儀なくされた。

2年後の26年8月、ゴンサロ・デ・アルバラド(ペドロの親類に当たる)がサンサルに基地を建設。周囲を徐々に制圧した。

最後に28年にディエゴ・デ・アルバラドが総攻撃をかけた。アトラカトルは捕らえられ絞首刑に処せられた。

ここまではさほど問題となることはない。問題は以下の記載である。

8月 いったんグアテマラに戻ったアルバラドは態勢を立て直し再び出撃。ピピルと同盟を結びトシュトゥヒル族を殲滅.

12 アルバラード,ピピル族のクスカトラン,アトラカール両王国を制圧.ピピル族は山岳部に入り抵抗を続けたため,アルバラードはいったんイシュムチにもどり部隊を再編.

これはかなり眉唾である。深手を負ってグアテマラに引き下がったアルバラードがわずか2ヶ月で前線に復帰し、数ヶ月の戦いの末にピピルを制圧したとは考えにくい。翌年になってもアルバラードは戦闘の指揮を腹心にゆだねているのである。

また、ここでもトシュトゥヒル族が出てくるが、文章を素直に読むと、トシュトゥヒルはひとつの国家であり、ピピルの東ではなく西側、グアテマラとクスカトランの間に存在したと考えたほうがよさそうである。

1525年、第二回目の侵入が行われた。そして1528年に3回目の侵入が行われ。エルサルはスペインの手に落ちた。

1525年に、彼は再び侵攻し、メキシコのアウディエンシアの支配の下に置くことに成功した。

2回目の侵攻はペドロ・デ・アルバラードが直接率いたわけではない。誤解を招く表現である。エルサル征服史に登場するアルバラードは4人いる。一人はペドロその人、二人目はゴンサロで、ペドロの親戚とされるがどういう関係かは不明。しかしこのゴンサロがエルサル征服を実際に行った人物である。三人目がディエゴ(ペドロの弟)。この人が28年に征服の総仕上げを行った。そして同じ28年、4人目のホルヘがサンサルの町を再建した。これら4人の関係については諸説紛々で、追究するのがあほらしくなってしまう。

アルバラードは、この地域をエル・サルバドルと名づけ、最初の知事となり、1541年に死亡するまでその地位にあった。

混乱の最大の元が見つかりました。

下記のサイトはワシントンのエルサル大使館のホームページです。ここにHistory of El Salvador というページがあるのですが、これが間違いだらけなのです。

http://www.elsalvador.org/embajadas/eeuu/home.nsf/

29a8e24e84ab372085256af80057bb56/

6da61722b49b5a3785256b09006eb2b5?OpenDocument

 

24年6月にペドロがクスカトランに侵攻したというのはいいのですが、17日間の血戦のすえ、アトラカトルは戦死、アルバラドも負傷しグアテマラに撤退、と記載されています。

そして弟のゴンサロが戦闘を継続。いとこのディエゴが25年の4月にサンサルを建設したとあります。そしてサンサルの地をスチトト市の近くのラ・ベルムーダと呼ばれる場所だったと書いています。

この記載はきわめてユニークなもので、他の記事とも矛盾が多いものです。正確な記載を要求したほうがよいかもしれません。

観光案内を見ると、どうもラ・ベルムーダは関係のない記載のようです。28年に再建されたサンサルは現在はシウダ・ビエハと呼ばれるところです。その前25年に建設された場所は、いまはどこか分からないようです。

ラベルムーダには建国直後に作られたアシェンダがあってそこも観光名所になっているようです。

 

1524年

5月 アルバラド,スペイン人250人とインディオ6千人を従えさらに南下を続ける.海岸平野沿いにエルサルバドルに侵入.さらにピチウアテオカン(現サンタアナ)、ソンソナテへと進撃する。

6.06 現在国境となっているリオ・パス川を越えてアウアチャパン県に入る。

6.08 アルバラド、アカフトラ(Acajutla)近郊のアカフアル(Acaxual)に到達。

6.08 アカフトラの闘い。アトラカトルが率いるピピル軍の前に敗退。アルバラードも左脛に一生残る傷を負う。アトラカトルは「綿の鎧」を着て長い槍を携えていたといわれる。

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Senorio de Cuzcatlan before Spanish Conquest 1524

 

8月 いったんグアテマラに戻ったアルバラドは態勢を立て直し再び出撃。ピピルと同盟を結びトシュトゥヒル族を殲滅.

12 アルバラード,ピピル族のクスカトラン,アトラカール両王国を制圧.ピピル族は山岳部に入り抵抗を続けたため,アルバラードはいったんイシュムチにもどり部隊を再編.

1525年 

3月 アルバラードの命を受けた,従弟のゴンサロ・デ・アルバラードとディエゴ・デ・オルギンがエルサルバドルに侵入.ピチウアテオカン(現サンタアナ),アウアチャパンを制圧.

4.01 ソンソナテおよびベルムーダ(スチトト近郊)の2市を建設.ディエゴ・デ・オルギンをベルムーダ市長に任命.

5 アルバラード,グアテマラのカビルドの承認を受けベルムーダをビジャ・デ・サンサルバドルと改称する.

サンサルバドルは四方を山に囲まれた盆地にあり、ピピル人はサルコアチタンと呼んだ。これはハンモックのことであり、スペイン人も最初ハンモックの谷(El Valle de las Hamacas)と呼んだ。クスカトラン王国の首都が近くにあったとされるが、現在は位置不明。クスカトラン (Cuzcatlán)とはピピル語で「宝石の地」を意味する。

25年 エルサルバドルに進出したアルバラード、ニカラグアに進出してきたコルドバと境界について合意。ヒル・ゴンサレスは両者の合意を知りニカラグア征服を断念しホンジュラスに退却。

1528年

28年 パナマを放棄しニカラグアに進出したペドラリアス,パナマに対抗してニカラグア領内を通る両洋間ルートの開設を提唱.ペドラリアスの部下マルティン・エステテとガブリエル・デ・ロハスが太平洋岸をエルサルバドルまで探索.ニカラグア領を宣言.

28 ホルヘ・アルバラド,ペドラリアスに対抗してエルサルバドルに進出.ピピル族の抵抗のため,いったん放棄したサンサルバドルを再建.エルサルバドルの支配権を確定.ふたたび本国にわたり,自らの版図を認めさせる.

再建されたサンサルは最初の場所より南で、アセルアテ川流域の肥沃な場所だった。

28年 エルサルはグァテマラ総督領の一部となり、スペインによる植民地統治が始まる。カカオ栽培、バルサム(香油)、藍(染料)製造が営まれた。原住民が奴隷貿易の対象となった形跡は認められていない。

30年 アルバラードの部下ルイス・デ・モスコソ,エルサルバドル東部にサンミゲルを建設.

38年 エルサルバドル、新設されたパナマのアウディエンシアに編入される。

42 サンサルバドル,地味不良のため南西40キロのラス・アマカス(Hamacas)渓谷に移設(一説に45年).

45年 パナマのアウディエンシアが廃止され、グアテマラのアウディエンシアに編入される。

46.9.1 サンサルバドル,エルサルバドル州の首都に決まる.

58 エルサルバドル,グアテマラ総督領に編入(当時の国名はサンサルバドル).総督府は先住民の多い西1/4を,ソンソナテ自治区とし,総督府の直轄下におく.現在のソンソナテ,サンタアナなど,ピピル族がイサルコと称していた地域.

70 エルサルバドル西部のイサルコを中心にカカオ栽培が盛んとなる.製品はグアテマラやメキシコに輸出され,グアテマラの仲買人が財をなす.

1600

00 エルサルバドルのカカオ栽培,労働力不足からカラカスやグアヤキルに押され衰退.これに代わりインディゴ(藍)の生産が盛んとなる.

35 エルサルバドル東部にサンビセンテの町が開かれる.インディゴの集散地として発展する.

36 インディゴ,タバコの輸出がさかんとなる.この年から農産物に関税がかけられる.

1700

70 グアテマラ総督領にインテンデンシア制導入.グアテマラ,エルサルバドル,コマヤグア(ホンジュラス),レオン(ニカラグア),チアパスの4インテンデンシア,およびコスタリカ・プロビンシアに分割.

86 中米にインテンデンテ制導入.それまでグアテマラ総監領はコマヤグア(ホンデュラス),レオン,ソコヌスコ,コスタリカの四つの総督領(ゴベルナドーラ)と,サンサルバドル,シウダ・レアル,テグシカルパなど九つのアルカルデ・マヨール領,ケサルテナンゴ,テトニカパン,アティトランなど19のコレヒドール領に分割されていた.これをあらためてグアテマラのアウディエンシア直轄領と,チアパス,コマヤグア,サンサルバドル,レオンの四つのインテンデンシア領,コスタリカなどのプロビンシアに再編.

 

1800年

1811年 

11.05 独立運動家の逮捕をきっかけにサンサル蜂起が始まる.当初の指導者はサンサルバドル生まれの教区司祭ホセ・マティアス・デルガドだった。

11月 デルガドの甥マヌエル・ホセ・アルセ中佐が独立軍を組織。サンチアゴ・ホセ・セリス,ペドロ・パブロ・カスティージョなどの将校が加わる.グアテマラの修道士たちも参加.インディゴ輸出業者が支援.

11月 サンサルバドルの参事会はアルセを大統領に擁立しサンサルバドル独立を宣言.1ヶ月にわたり政権を掌握するが、グアテマラの総督軍の前に敗れる。

1812年

3 エルサルバドル独立派,総督軍により鎮圧,デルガドは投獄される.ホセ・デ・アイシネナ(Aycinena)がインテンダンテに任命される.グアテマラのベレン,ニカラグアのレオンでも蜂起が起きるが,いずれも総督軍により鎮圧される.

1814年

1.22 サンサルバドルで二回目の反乱。前回より規模も拡大するが,総督の弾圧も強まる.指導者アルセは捕らえられ4年間の獄中生活を送る。

1821年

9.08 エルサルバドル州はサンサルバドル会議でイグアラ憲章の下の独立の意思を表明するが、採択に至らず。

9月18日 ガインサ総督、メキシコ摂政のアグスティン・デ・イトゥルビデにグアテマラ総督領の独立を通告。

9.21 グアテマラでの独立宣言の後、ペドロ・バリエールが最後のエルサル代官となる。

9.30 マヌエル・ホセ・アルセらが経済諮問評議会の選挙をもとめる。バリエールは独立派指導者の一斉逮捕で応える。アルセ, Domingo Antonio Lara, Juan Manuel Rodríguez, Manuel Castillo, Mariano Fagoaga らが捕らえられグアテマラに護送される。グアテマラ新政府のエルサル知事となったホセ・マティアス・デルガド神父は、護送中の独立派をサンタアナで釈放。

12月 ビセンテ・フィリソーラ軍がグアテマラ市に進駐。ガインサ政権に代わり、中央アメリカ連邦共和国の大統領を宣言する。

1822年

1.11 アルセの率いるエルサルバドル政府、メキシコの支配に反対し中米連合から脱退。

2.10 エルサルバドルでフィリソーラを支持する併合派の反乱が起きる。ニカラグア,コスタリカでも両派の紛争が発生.

5月 グアテマラのフィリソーラ軍はマヌエル・アルスーの部隊をエルサルバドルに送る。アルスーはサンタアナとソンソナテを制圧しサンサルに向かう。

6.03 アルスーはサンサルバドルに入りマヨル広場に到着。アルセ軍と9時間にわたる市街戦。多数の犠牲者と家屋の焼失をもたらす。

10月 アルセはエルサルバドルで武装軍を組織,抵抗運動を開始.

12.02 エルサルバドルの自由党、米国に併合を要請。アルセが米国に赴く。

1823年

1 エルサルバドル議会が米国への併合を求める決議.

4.01 メキシコ帝国の崩壊にもとづきグアテマラ市に5州の代表が集まり中米会議開催.議長にデルガドを据える.「中央アメリカ連合州」として独立することを決定.チアパス州は,メキシコ残留を表明.ソンソナテ自治区はエルサルバドルに編入される.

独立当時の中米
人口は約130万人(グアテマラ65万,エルサルバドル25万,ニカラグア20万,ホンジュラス15万,コスタリカ七万).白人はペニンスラール・クリオージョあわせ5%未満で,コスタリカを除き先住民が圧倒的多数.
自給自足的農業のほか,カカオ・インディゴなどの輸出用作物をわずかに栽培.

23年前半 アルセ、米国からメキシコに移り、キューバ解放軍を組織しようとするが挫折。

1824年

3.15 アルセ、中米連合の三頭の一角となるポストを受け入れ、祖国への復帰を決意する。

10.24 三頭政治が終了。アルセはニカラグアの内紛を最小限の暴力で沈静化させることに成功し、名声を勝ち取る。

11月 最初の中米連合の立憲大統領にマヌエル・ホセ・アルセが就任。

1826年

12月 アルセ大統領,奴隷制廃止を宣言.エルサルバドルはこれを大統領の越権行為として反乱を起こす.

1828年

3.23 エルサルバドルの自由主義者が蜂起。アルセはマヌエル・デ・アルスー将軍の率いる連邦軍2千名にエルサルバドル占領を命じる。連邦軍はアラソラの戦いでエルサルバドルの自由党軍を破りサンサルバドルを制圧。

10.23 ホンジュラスから侵入したモラサン軍、サンサルバドルに勝利の行進。ただちにグアテマラ進軍の準備に取り掛かる。

1829年

1.30 エルサルバドル知事にホセ・マリア・コルネホが就任。

4.13 モラサン軍がグアテマラ市内に進軍。アルセ大統領、アイシネーニャ知事、マリアノ・ベルトラネーニャら政権幹部は獄につながれる。

1832年

1.06 エルサルバドルのホセマリア・コルネホ知事の反対により、モラサンはサンサルバドルからの撤退を余儀なくされる。コルネホとマヌエル・ホセ・アルセは中米連邦からの脱退を宣言。

2.28 ホンジュラスで兵力を補強したモラサン、連邦軍最高司令官としてエルサルバドルに出動。サンミゲルの町を占領。

3.28 モラサン軍、サンサルバドルに入りコルネホ軍を壊滅に追い込む。コルネホが捕らえられ、モラサンがみずからエルサルバドル知事となる。

4.03 モラサン、エルサルバドル憲法制定会議選挙を招集しマリアノ・プラードを知事に、ホアキン・デ・サンマルティンを副知事に選出する。

12月 アキノが強制徴兵制と不当な貢納制に反対して反乱開始.数千の原住民が決起.一時サンビセンテを占拠しサンサルバドルを目指すが敗退.

アナスタシオ・アキノ(AnastasioAquino): 先住民の首長でクリスチャン.エルサルバドル中部のノヌアルコス(LosNonualcos)でインディゴ農場を営む.

34年 グアテマラ・シティーの保守派の影響力を嫌うグアテマラ知事マリアノ・ガルベスが首都をソンソナテに移動するようもとめる。モラサンはこれを承認。(ソンソナテはエルサル西部の町。そこに首都が存在することはほとんどなく、年内にはサンサルに移動している。31年説もあるが、おそらく間違いであろう)

35年 エレーラ、エルサルバドルの知事に選出されるが就任を辞退。その後38年(57歳)には政界を引退し、その後50年に死亡するまでサン・ビセンテ(サルバドル)で教師として働く。

35 サンサルバドルが,中米連邦の連邦区に指定される.

1836年

2.01 ディエゴ・ビヒル・コカーニャがエルサルバドルの知事となる。

3月 リセンシアド前知事とニコラス・エスピノサ将軍がエルサルから国外に追放される。リセンシアドの持っていたBenemerito de la Patriaの肩書きは剥奪される。

12月 エルサルバドルでもコレラの流行が始まる。エスキプラス巡礼者が持ち込んだコレラが国の全ての住民まで広がった。

1837年

1.08 エルサルバドル立法議会は年間の予算を可決した。政府は公共の従業員を除いて全ての支払いを止め、流行と戦うことに資産をつぎこむ。サンミゲルの町に水道の導入。

5.23 エルサルバドルのサカテコルカとコフテペケで先住民の反乱。グアテマラ,エルサルバドル,ニカラグアの各地で大規模な反乱があいつぐ.

5.23 エルサルバドル知事ビヒルの任期が終了。ティモテオ・メネンデスがエルサルバドル知事に就任。

6月 エルサルバドルのサンタアナでも大規模な反乱が発生。辛うじて鎮圧に成功。

7.07 ビヒルがエルサルバドル知事に戻る。反乱参加者に対し大赦を与え、事態の鎮静を図る。

1838年

1.06 ビヒルがエルサルバドル知事を辞任。ティモテオ・メネンデスは、再び国家元首になった。

2.01 モラサン、グアテマラ進攻の準備のため大統領を辞す。ビヒルが後任副大統領に就任し大統領職を代行。

7 エルサルバドルの中米連邦軍,グアテマラに派遣されるが,ロスアルトス地方でのたたかいでカレラ軍に敗れる.

1839年

2.19 ビヒル副大統領が、中央アメリカの連邦共和国の暫定大統領として残務整理に当たる。

4.06 エルサルバドルのエスピリト・サントで反連邦派の反乱。エルサルバドル軍と衝突。

7.13 自由党の知事ホセ・フランシスコ・バルンディアが率いるエルサルバドル、モラサンをあらためて「大統領」に選出。中米連邦の復活を恐れるラファエル・カレラとグアテマラ保守党は、エルサルバドルとの戦いを宣言する。同時にエルサルバドルの民衆にモラサンとの戦いを呼びかける。

7月 モラサン、エルサルバドル国内の反乱鎮圧に成功。

9月 ニカラグアとホンジュラスの反モラサン派が、Francisco Ferrera, Nicolas de Espinosa, Manuel Quijano将軍を司令官とする連合軍を結成。2千の軍勢でエルサルバドルに攻め込む。

9.25 San Pedro Perulapanの闘い。モラサンはわずか600のエルサルバドル軍を率い連合軍を撃破する。

11月 その後San Salvador, Las Charcas,とエルサルバドル領内で戦闘を重ねる。連合軍は300人以上の死者を残し逃げ帰る。

1840年

3.27 モラサン、「これ以上エルサルバドルの人々に揉め事を引き起こそうとは思わない」と宣言。軍本部をホセ・アントニオ・カナス司令官の手に引き渡す。

3.31 エルサルバドルは連邦を解消。ビヒル暫定大統領の任期は終わった。

40年 モラサン出国にともないエルサルバドルで大統領選.カレーラとつながる保守派のフランシスコ・マレスピンが当選.アルセ元中米連邦大統領,帰国し立起するが敗北.

1841年

2.02 サンサルバドル,カレラ軍から派遣されたマレスピン将軍の圧力を受け、中米連合崩壊を認め独立を宣言。暫定政府を樹立.中米連邦は最終的に消滅.大統領にはホンジュラス保守派の大立者フアン・リンドが就任。(ここまで国名は首都名と同じサンサルバドルであったが、便利なのでそのままエルサルバドルと表記した)

41年 フアン・リンド、エルサルバドル大学の創設を指示。すべての村落に学校を設けるよう命令。

41年 エルサルバドルは米国への併合を希望し請願するが拒否される.

1842年

1月15日 モラサンはエルサルバドルに戻り、英国の干渉に対する共同防衛を呼びかける。

当時イギリスはグアテマラの海岸部(現ベリーセ)、ホンジュラスからニカラグアにかけてのモスキート海岸に進出し、事実上の植民地としていた。

2.16 モラサン、「私が戻ったのは、それが義務と考えたからであり、祖国を愛するもののやむにやまれぬ熱情によるものだ」と語る。しかしエルサルバドル政府はこの提案を拒否。

2月 フアン・リンド、大統領を辞しホンジュラスに戻る。

4月 フアン・ホセ・グスマンが第二代大統領に就任。

9月 エルサルバドルを中心に,中米連邦再建の動き.ニカラグア,エルサルバドル,ホンデュラス3国,チナンデガ協定を結び連邦制度を復活.

9月 カレーラはエルサルバドルに干渉し超保守派のフランシスコ・マレスピン将軍を大統領に据える.

42年 ホセマリア・サン・マルティン(ホアキン・デ・サン・マルティンの息子)、マレスピンに対してクーデタを試みるも失敗。ホンジュラスに逃れる。

42年 ビヒルはニカラグアのグラナダに定住し、1845年に亡くなった。カバーニャスは生き延びてエルサルに移り、後にホンジュラス大統領となる。

 

1844年

2.07 フランシスコ・マレスピン将軍がみずから大統領に就任する。マレスピンはカレーラと同じラディーノ出身で、強力なバックを持たないため聖職者の威光に頼る。ホンジュラスのフェレーラ大統領とともにリベラルの弾圧を強化。

4月 アルセ、エルサルバドルに潜入しフランシスコ・マレスピン将軍を放逐しようとするが失敗。ホンジュラスに逃げる。

12.01 エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアの連合のこころみが流産に終わる。

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44年 マレスピン、グアテマラに反旗を翻し戦闘開始。ホアキン・エウフラシオ・グスマン副大統領が臨時大統領を勤める。(JEグスマンはJJグスマンとは別人。コスタリカのカルタゴ出身)

45.2.02 マレスピン、ニカラグアとも戦闘開始。グスマン大統領はマレスピンに対し反乱、これをホンジュラスに追放する。

1845年半ば アルセ、サンサルに戻り政治生活を終える。47年11月28日に困窮の中で死を迎える。

1846年

2.01 JEグスマンに代わりエウヘニオ・アギラールが大統領に就任。ホンジュラスから戻ったJMサンマルティンが財務相兼軍事相に就任。

11.25 ホンジュラスから侵攻したマレスピン,敗れ暗殺される.

48.2.07 自由党のバスコンセロス(Doroteo Vasconcelos Vides y Ladrón de Guevara)が大統領に就任。

1850年

50 バスコンセロス大統領,中米連合の再建をはかる

51.3.01 バスコンセロス政権がカレーラに打倒される.

51 カレーラ,グアテマラ大統領に再選.エルサルバドル,ホンデュラス連合軍はこれに介入するが,カレーラ軍に敗れる.

53.12 JMサンマルティン、大統領に就任。

54.4 サンサルバドルに大地震.10キロ離れたサンタ・テクラ(一説にCojutepeque)に遷都。ヌエバサンサルバドルと名づける。

56 ラファエル・カンポが大統領に就任。サンマルティンは軍事相として引き続き影響力を行使する。

57 ニカラグアを除く中米4カ国は,ウオーカーを撃ち破るための連合軍を結成,「国民戦争」を宣言する.イギリスはこれに軍事援助を行う.

57.8.12 エルサル軍を率いて戦闘に参加したJMサンマルティン、コレラに感染し死亡。

58.2 コレラが蔓延する中でカンポが退陣。ミゲル・サンティン・デル・カスティージョが大統領に就任。

58 コーヒー栽培開始.エルサルバドル政府,共有地の三分の二の面積においてコーヒー栽培がおこなわれないならば,その土地は国家のものになるという布令を出す.

59 自由派の軍人で「国民戦争」の英雄ヘラルド・バリオス・エスピノサ,大統領に選出.衰退したインディゴ栽培に代わりコーヒー産業の育成につとめる.首都がサンサルバドルに戻る。

59 サンサルバドルの復旧が終わり。首都が再びサンサルに戻る。

1860年

60年 教権の分離などモラサン主義の復活をめざすバリオスに聖職者がいっせいに反発.

60年 バリオス、グアテマラを訪問し関係修復を図る。しかしその後もカレーラはエルサル保守派を支持してバリオスへの攻撃を繰り返す。

1863年

6.19 グアテマラ軍がエルサル侵攻。

10.26 グアテマラ軍が首都サンサルを占拠。カレーラの支持を受けたフランシスコ・ドゥエーニャス(Dueñas)が政権を樹立。バリオスはサンミゲルに撤退しさらに抵抗を続ける。

1865年 大統領選挙が実施されドゥエーニャスが当選。独立後初めて安定した政権となる.

7.27 ニカラグア潜伏中のバリオスが捕らえられる。

8.10 エルサルの軍事法廷、バリオスに死刑判決。29日に処刑される。

67 ドゥエニャス大統領,第二期目の大統領に就任.国中でエヒードの分離を命じた.地域に密着した土地所有に法的な承認,保護を提供する一方,エヒード以外の土地は私有制を推進.これによりラディーノの土地支配が進行.

1970年

70 抗議の高まりの中で,共有地に対する先住民の権利が確認される.

71.4.15 グアテマラの自由党勝利に呼応し,サンチアゴ・ゴンサレス将軍が反乱。保守党政権の駆逐に成功する.

72.1.24 エルサルとグアテマラ、友好支援協定を締結。

75 藍の生産業が価格暴落により崩壊。これに代わりコーヒーがエルサルバドル最大の輸出品となる.

1876年

2.01 アンドレス・デル・バジェが大統領に就任。副大統領にサンチアゴ・ゴンサレスが就く。グアテマラのバリオス大統領は、引き続き実権を握るゴンサレスがグアテマラとの戦争をたくらんでいると見る。

3.20 グアテマラがエルサルと断交。26日にはエルサルもグアテマラとの関係を絶つ。

3.27 エルサル軍がグアテマラ領内に侵攻。グアテマラはバリオスに全権力を集中する。

4.15 エルサルに侵攻したバリオス軍8千人、アパネカでロペス・ウラガ(メキシコ人)の率いるエルサル軍と衝突。重大な敗北を喫しアティキサヤに後退。

4.17 グアテマラ軍の半分はホンジュラスを経由してエルサル東部に侵入。各都市は寸断され、エルサル兵800人が死亡。残党200人がサンミゲルに逃げ込む。政府はサンサル防衛のため残党を呼び戻す。

4月 西部戦線ではアウアチャパンでのセマナサンタの戦闘で兵力は2600に減少。さらにサンタアナの兵も3500まで減る。エルサル軍は900の兵士でチャルチュアパ奪還作戦を行うも撃退される。

4.25 チャルチュアパで休戦協定が結ばれる。バジェ大統領は辞任。

5.01 自由党のラファエル・サンディバール,グアテマラの支援を受け大統領に就任,2期9年間にわたり大統領を務める.この間に「コーヒー革命」が進行.先住民の共有地は収奪され,コーヒー農場に変わる.

79 ソンソナテ県イサルコで土地取り上げに反対するインディオ共同体の反乱.

1880年

81.2 政府,インディオの入会い権が認められた公有地制(エヒード)を廃止.によりエヒードは消滅し,いわゆる14家族が形成されていくこととなる.

82.6 ソンソナテとアカフトラの間に最初の鉄道が開通。綿花・コーヒー・砂糖の輸出が盛となる。

85.4.01 グアテマラのバリオス大統領は,みずからの支配下での中米統合をめざしエルサルバドルに侵略する.チャルチュアパからサンタアナに入ったバリオス軍には,サンタアナ,ナウイサルコ,アティキサヤなどからエルサルバドル自由党民兵500人が参加.指導者はフランシスコ・メネンデス,ラファエル・メサ,ロサとマヌエル・パカス兄弟.一方,西部のラディーノ・エリートは,大統領を支持してたたかいに参加.

85 バリオス,チュルチュアバでの最初の戦闘で敗れみずからも負傷し戦死.バリオスの敗北と死により,自由党は追い込まれる.フィゲロア将軍の率いる政府軍が,野蛮な鎮圧作戦をとる.

6.21 内戦の中メネンデス将軍が勝ち抜く。サルディバル政権は崩壊.西部自由党のメネンデスが大統領に就任.独裁政治を行いながら,さらにコーヒー輸出型経済構造への転換を推進.総輸出の7割をコーヒーが占めることとなる.

85 グアテマラ,エルサルバドル,ホンデュラスの三国,モンロイ会議で中米同盟の設立に合意.

86 村落共同体を解体する法律の施行.反対闘争に対して農村武装警察が創設.

89 土地取り上げに反対する原住民の反乱.

90.6.22 カルロス・エセタ将軍,独裁者となったメネンデス政権を打倒し、自ら大統領の座に就く.

94.6.09 エセタ政権,先住民も加わる反乱により崩壊.保守派のラファエル・アントニオ・グティエレス将軍が大統領の座に.大地主の巻き返しが強まる.

95.6 中米諸国,大中米共和国建設について検討開始.ニカラグアのセラヤとホンデュラスのボニージャ,エルサルバドルのラファエル・アントニオ・グティエレスは中米合衆国(Republica Mayor de Centro America)の創設に同意.

1898年

11.13 中米大共和国の構想に反対するトマス・レガラド将軍,グティエレス政権を打倒.国外の政治犯に恩赦を与え、文治政治に道を開く。レガラドはサンタアナの牧場主で、エセタ政権をグティエレスとともに倒した同志。これにより大中米共和国は流産.

11.14 イサルコの先住民が土地取り上げに抗議.指導者16人をふくむ80人あまりが暴動を起こす.政府の土地取締官を殺害.この事件で27人が逮捕される.

 

1900年

03.3.01 レガラードの後継者ペドロ・JoseEscalon将軍が大統領に就任.

1906年

5月 グアテマラのカブレーラ独裁に反対するバリャ,エルサルバドル,ホンデュラスの支持を受け侵入.グアテマラとエルサルバドル,ホンデュラス間に戦争状態.

6.11 エルサル軍を率いたレガラード前大統領、グアテマラ軍との戦闘に敗れ死亡。

07.3.01 フェルナンド・フィゲロア(軍人)が政権につく.このあと31年まで,軍・保守派による支配が続く.

07 農地法制定.貧しい農民が土地を離れることを禁止.事実上の農奴制.

07 ニカラグア,ホンデュラスに侵攻,保守党政権を打倒.次いでエルサルバドルに侵攻するも失敗.ワシントンにおいて中米5カ国会議,ホンデュラスを永世中立とする平和条約を締結.

08 ホンデュラスの親セラヤ政権に対する反乱軍,エルサルバドルより侵入するが鎮圧される.

1910年

11月 大統領選挙。民間人で外科医師のマヌエル・エンリケ・アラウホ,フィゲロア大統領の支持を受け大統領に選出(45歳)

10年 初の組合「商業被雇用者組合」発足.

1911年

3月 アラウホ大統領、軍備増強に力を注ぐ。一方で社会立法の制定に乗り出す.

11年 サンサルバドルで,第一回中米労働者会議開催. 

12年 アラウホ、自らの身辺を護衛する組織として国家警察(guardia nacionales)を組織する。

12 政府,地主層の出資のを受け農村武装警察を改組し地方警備隊創設.退役兵からなるパトロール隊(patrullas cantonales)が農園周囲を監視し,農民の離散を取り締まる.また密告者の情報網を作り、農民組合の運動を弾圧。

13.2.04 アラウホ,サンサル市内の公園でコンサートを鑑賞中に撃たれる。5日後に死亡。軍の仕業とされるが犯人不明。

13年 コーヒー寡頭支配階級(14家族)の代表カルロス・メレンデスが大統領に就任.以後の15年間,メレンデス家出身のの6人がいれかわり大統領を務める.この間にコーヒー栽培面積は1.5倍となり,輸出総額の92%を占めるにいたる.米国資本への従属を強めながら,農業の近代化を進める.

14 エルサルバドル労働組合連盟(COS)結成.労働運動の高揚.

19.3 ホルヘ・メレンデスが大統領に就任。

1920年

20 自治大学の学生で地主層出身のアグスティン・ファラブンド・マルチ,共産主義に基づく活動を開始.当局によりグアテマラへ追放される.

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Augustín Farabundo Martí Rodríguez

 

20 オスミン・アギレ,右翼の立場からメキシコのPRI類似の組織づくりに着手.

23年3月 大統領に就任したアルフォンソ・キニョネスは,メレンデスの路線を継承しながら労働者との融和政策を打出す.

25 エルサルバドル東部労働者・印刷工地域連盟結成,ニカラグア護憲戦争の影響を強く受けながら労働運動は大きく左傾化.

25 グアテマラで中米社会党創立.傘下に中米労働者連盟を結成.ファラブンド・マルチを先頭とするエルサルバドルの左派活動家も結集.

25年 マルティ、エルサルに戻り、国際赤色救援会を組織し影響を拡大。

26 鉄道労働者,手工業者,教員などによりエルサルバドル労働者地域同盟(FRTS)結成.左翼知識人代表アルベルト・マスフェレルは「パトリア」紙を通じ,政治・経済・社会の変革を呼びかける.

27.3 キニョネスにかわりピオ・ロメロ・ボスケが大統領に就任。寡占層支配体制の下で民主化への道を探る。

27 マルチ,サンサルバドルで中米社会党エルサルバドル支部を組織中に逮捕.

1928年

1月 軍によるクーデター,失敗に終わる.全土に戒厳令公布.

4 マルティ,共産党に入党.

6 マルチ,ニカラグアに潜入.サンディーノの部隊に加わる.やがてサンディーノの信を受け,個人秘書となり,メキシコのコミンテルン支部との連絡を任される.

マタンサス

1930年

2 サンディーノとマルティの関係が決裂.サンディーノは「この共産党の宣伝マンは,わたしを計画に引き込めないことがわかると引き揚げていった」と語り,共産主義と一線を画する.

3 マルチ,エルサルバドル共産党を結成.イロパンゴで第1回党大会(一説に29.3)中米労働者同盟より分離したエルサルバドル労働者同盟はこの時点で8万人を結集.ソンソナテは農民運動の拠点となる.

5 サンサルバドルでメーデーに8万人が参加.アルベルト・マンスフェレル,労働者党要綱を発表.労働戦線の中間的潮流の結集をはかる.ピオ・ロメロ・ボスケ大統領,共産党に対する本格的弾圧を開始.

1931年

1 大統領選最初の自由選挙となる.大地主出身のアルトゥーロ・アラウホが,マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス将軍と労働党を味方につけ,工業化と税制改革を訴え大統領選に勝利.エルナンデスは副大統領兼国防相となる.

3月 アラウホが大統領に就任。社会改革をめざす労働党の憲法草案を承認するが,大地主と軍部の抵抗に会い動揺を繰り返す.大恐慌によりコーヒー暴落.国家収入は4年前の半分,労働者の賃金は半分以下になるなかで権威失墜,財政も崩壊.

3月 マルティ、エルサルに戻り、アルフレド・ルナ、マリオ・サパタらとともに運動の組織に着手。

5 ソンソナーテで農民デモに警官が発砲,サラゴーサでも衝突で12人が死亡.寡頭勢力はアラウホへの攻撃を強める.基盤である労働党は腐敗を繰り返したため,これを非難する共産党が急速に影響力を拡大.

12 アラウホ政権,労働農民運動の激化の中で崩壊.アラウホはエルナンデスを後任大統領に指名.エルナンデスは翌年1月の地方選挙を公約する一方,ただちに左翼勢力に対する弾圧を開始.共産党は武装蜂起の準備に集中.学校教員を中心としてエルサルバドル赤軍を組織,農村での教宣を強める.

1932年

1.5 地方選挙実施.共産党候補が大量当選するが,政府はこれを認めず.共産党シンパの将校による反乱計画,失敗に終わる.

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Maximiliano Hernandez Martinez

 

1.20 共産党は22日の一斉蜂起を予定するも事前に発覚.エルナンデス,ファラブンド,フェリシアノ・アマ,モデスト・ラミレスら共産党指導者を一斉逮捕.指導者を失ったサンタアナ,アウアチャパン,ソンソナテの農民はマチェテを持って武装蜂起.その後軍部による報復で,ソンソナテ県イサルコ地方を中心に3万人が犠牲となる(マサンタス).

2.1 ファラブンド,蜂起の責任者として処刑.13年にわたるエルナンデス独裁の時代が始まる.

33.7.28 エルナンデス政権,コーヒー保護法を制定.

34 エルナンデス,「満州国」を承認,神秘主義に没頭するなど奇行が続く.

44 反エルナンデス派によるクーデター発覚,首謀者全員が処刑

オソリオ政権

1944年

4 “brazos caidos”のストライキと呼ばれる自然発生的ゼネストにより経済マヒ.知識人,学生がストを支持したことから広範な反政府運動に発展.サルバドル・カエタノ・カルピオも製パン職人組合指導者として参加.共産党,非合法下に再建.アベルとマックスのクエンカ兄弟が指導.

5.8 エルナンデス・マルティネス大統領,辞任.13年にわたる独裁政治が終焉を遂げる.

10 暫定政府,14家族の巻き返しにより打倒される.以後クーデタが続く.

45 カスタニェーダ・カストロ,大統領に.実質的にエルナンデスの政策を継承.

46 統一委員会の指導によるゼネスト,敗北に終る

47 労働組合再編委員会発足,漸進的政策を掲げる.

48.12.12 クーデターにより,カスタニェーダ追放.オスカル・オソリオ少佐による政権成立.オソリオは革命政府委員会を結成し,メキシコをモデルとした工業育成を重点に据える.一説に,オソリオはエルナンデス時代の警察長官といわれる.

49 暫定大統領となったオソリオは,労働組合を合法化して,住宅を改良して,産業の,農業の開発を進める.

50 大統領選,オソリオはメキシコに学び,翼賛政党として民主統一革命党(PRUD)を結成.新憲法を公布し婦人参政権,労組の一部自由化,社会保障制度の開始などを打ちだす

1951年

3.9 オソリオ,共産党の政府転覆陰謀が発覚したとして非常事態を宣言.

10.14 エルサルバドルの招請で中米5ヵ国外相会議開催.「サンサルバドル憲章」を採択.中米5ヵ国機構(ODECA)が発足する.

52.9.26 オソリオ政権,米国の反共政策を受け反動化.労働組合再編委員会弾圧.カルピオなど共産党幹部1千2百名を一斉逮捕.1カ月にわたる非常事態宣言.

55 呉羽紡績,伊藤忠の仲介でエルサルバドルに合弁会社を設立.企業進出のはしり,のちに中米共同市場の基幹として発展.

56 伊藤忠と東洋紡の共同出資でエルサルバドルに紡績織布工場「ユサ」建設.中米一の企業に成長.

56 オソリオの後継者としてホセ・マリア・レムス登場.カリスマ性に欠け,腐敗と労働者弾圧のため,国民の支持をうしなう.

58 AFL・CIOのきもいりで,労働組合総評議会(UPD)発足.

59 カルピオ,3年間のモスクワ留学のあとキューバ経由で帰国.青年学生層の組織にあたる.

 

1960年

10 キューバ支持の学生デモが警官隊と衝突.学生1人が死亡,逮捕された女子学生が警官に暴行を受ける.レムス軍事政権,学生デモなどのたかまりのなか戒厳令を公布.

10.20 連日のデモのなか,民族派将校のクーデターによりレムス政権崩壊.左翼革命委員会(軍事評議会)が政権を握る.セサル・ヤネス・ウリアス大佐が議長に就任.

60 中米共同市場(MCCA)成立.エルサルバドルは域内大国として急速な経済成長を遂げる.

リベラ政権

1961年

1.11 フリオ・アダルベルト・リベラ中佐の逆クーデターにより革命委員会打倒.クーデターには米海兵隊も介入.軍人2人,民間人3人からなる執政委員会を組織し,開発型政策を展開.共産主義者の台頭を抑えるため、国家治安局(ANSESAL)を創設。腹心のホセ・アルベルト・メドラーノが長官に就任。

61年 ORDENの母体となる地方「自警団」組織,CIAの指導を受け発足.共産主義者に対する暴力的抑圧を組織.

61 共産党,合法組織として革命行動統一戦線(FUAR)を結成,平和革命路線をとる.

1962年

4 リベラ中佐,PRUDに代わる翼賛政党としてエルサルバドル国民協和党(PCN)を結成,大衆弾圧と不正選挙により,大統領選挙に勝つ.公認野党として,キリ民党や改革主義政党を合法化.

9 ホンデュラス農地改革法制定.土地所有を自国民に限り,エルサルバドル農民の流入阻止を図る.これを機にエルサルバドルとの関係悪化.

10 リベラ,英国系鉄道を国有化.

1963年

7 サンサルバドルでモンカダ襲撃10周年を記念してキューバ派学生の集会.当局の弾圧により250人が逮捕.

63 60年革命委員会の民間人メンバー(薬学者)であったファビオ・カスティージョ・フィゲロア,国立大学学長に就任.大学改革を推進.この間に学生運動は急成長.

63年 リベラ大統領、メドラーノ国家治安局長官に命じ、国家民主主義機構(ORDEN)を結成.貧困農民層を結集し,自らの権力基盤として育成をはかる.

64 キリ民党のドゥアルテ,サンサルバドル市長選に圧勝.カルピオ,共産党書記長に就任.親キューバ路線に転換.

64 中米防衛会議(CONDECA)設立.

63年 ホンジュラスでオスワルド・ロペス・アレジャーノ大佐の率いる軍事独裁政権が成立。反共産主義を掲げて労働組合や農民組織を厳しく弾圧する。

1965年

65 「進歩のための同盟」のショウケースとして,MCCAをターゲットとする開発5か年計画開始,以後急速な経済発展をとげる.外国資本受入れのためスト制限令制定.

65 農村労働者に対する最低賃金法制定.農園主は対抗措置として,労働者をロックアウト.土地なし農民がいっきょに増大.

65 共産党の指導下に全国教員会議(ANDES)結成.東欧がえりのマリダ・アナヤ・モンテスが書記長に就任.

1966年

66 ホンデュラス,エルサルバドルから流入した農民の追出しを図る.域内貿易不均衡も加わり,これを機に両国間の緊張強まる.

66 共産党の指導の下に,資本との対決を訴える労働組合総連合(FUSS)結成,ANDESを中心に勢力を拡大.

66年 ORDEN,農村自警団(市民防衛部隊)を組織し,農民活動家に対するテロを開始.援助のため米軍グリーンベレー10人が,顧問としてエルサルバドルに派遣され,要人暗殺マニュアルを伝授する.

66 陸軍学校卒業生を核とした反共エリートグループ「タンドーナ」創設.国軍の中枢をにぎり,後の死の部隊のバックボーンとなる.

66 エルサルバドルの元独裁者エルナンデス・マルティネス,ホンジュラスの自分の農場で,争議中の労働者により暗殺される.

1967年

5 ホンジュラスの国境警備隊,2人のエルサルバドル将校と39人の兵士を逮捕.彼らのトラック部隊は,国境から数キロほど侵入していた.6月にも同様の事件が発生.

67 総評議会と総連合による統一スト.3万5千人が参加.カルピオはパン焼き職人組合を中心に強力なストライキに成功.

67 三井系各社の50%出資により繊維会社インシンカ社設立.最盛時には1千名以上の従業員をかぞえる.

67 大統領選.リベラの後継者フィデル・サンチェス・エルナンデス大佐が当選.共産党は公然組織改革行動党(PAR)をつくり国立大学学長ファビオ・カスティージョをたて大統領選をたたかう.14.4%を獲得,サンサルバドルでは29%を獲得し3位となる.

1968年

1 政府,PARを非合法化.FUSSの活動家マルティネスとコントレーラス,当局により虐殺.労働運動に対し,軍部による拉致・殺害事件が続発.

8 メデジン会議の路線に共感するルイス・チャベス大司教の下に基礎共同体(CEBs)運動広がる.農村の組織化進む.

68年 AIFLDの肝いりでエルサルバドル協同組合(UCS)が結成される.軍事政権を支持し,農民の組織の破壊を目指す地主の自衛組織として発足.その後急速に左傾化.

68年 メドラーノ国家治安局長官,政府の公的機関としてORDENを再編成.共産主義者を秩序破壊分子として取り締まりに当たらせる。その後メンバーは5万ないし10万まで膨れ上がる.事実上、国家テロの組織となる。

 

1969年  サッカー戦争

1月 オレジャーノ、「農業改革」を実施。休眠中の土地改革法を口実に,エルサルバドルからの不法移民が耕している土地(法的には「公有地」の扱い)を接収すると発表。この時点で約30万人のエルサルバドル人が,国境を越え(不法入国),ホンジュラス領内で農業を営んでいた(不法占拠および不法就労).

1 ホンジュラス政府,67年に締結された入国協定の継続を拒否.この協定は両国国民の国境通過を管理するもの.アレジャーノ大統領は,エルサルバドルの不法占拠者を追いたて国から追放.

4 ホンジュラス全国農業協会(INA),「ホンジュラス生まれの人間以外は,土地改革で手にした土地を手放すよう求める」決定.マスコミは「カリブ海岸沿いに働くエルサルバドル人が失業の低賃金の原因となっている」とのキャンペーンを開始.

5月後半 エルサルバドル人入植者と労働者,故国への帰還を開始.8万人が失業者となって本国へと強制帰還される。エルサルバドル国内では,ホンジュラス軍による追い立ての模様が報道され,国民の怒りを呼ぶ.

6.08 ワールドカップの地区予選.エルサルバドルとホンジュラスが三回戦を争うことになる.第1回戦がテグシガルパで行われ、地元ホンジュラスが1対0で勝利する。その後、スタジアムは険悪な雰囲気となる.

6.08 エルサルバドル・ホンジュラス戦をテレビで観ていたアメリア・ボラニオスというエルサルバドル人の娘はゴールが決まった時にショックのあまりピストル自殺。

6.09 アメリアの葬儀はテレビ中継されて大統領も参列する。

6.15 サンサルバドルで第2回戦。スタジアムは機関銃を持ったエルサルバドル軍精鋭部隊によって警備され、ホンジュラス・チームは装甲車で入場する。

6.15 試合は3対0でエルサルバドルが勝利。試合後、応援に来ていたホンジュラス人が群衆から暴行を受けて2人が死亡、国旗と国家は侮辱される.スタジアム周辺は暴動状態となり、自動車150台が焼かれる。

6.15 両国の国境が閉鎖される。テグシガルパではエルサル副領事数人に暴行が加えられるなど,エルサル人への嫌がらせが,さらに激しくなる.このためさらに数万人がエルサルバドル本国に逃れる.

6.23 メキシコシティで第3回戦。3対2でエルサルバドルの勝利に終わる。棍棒を持ったメキシコの警官が5000人、スタジアム内に配備される。

6.25 エルサルバドル,ホンデュラスとの国交を断絶.

6.27 ホンジュラスがエルサルバドルに対して国交断絶を宣言.

7.03 エルサルバドルとホンジュラス両軍が国境で砲撃戦.両国間で戦闘状態に入る.各地で小競り合いが始まる.

7.14朝 エルサルバドル空軍,テグシカルパ空港などホンジュラス領の4つの都市に爆撃を開始.

午後6時 エルサルバドル陸軍部隊も国境を越えてホンジュラス領内への進撃を開始する。パンアメリカン・ハイウエイ沿いに進撃.フォンセカ湾のホンジュラス諸島に上陸.

7月15日夕方 エルサルバドル陸軍部隊、国境から8キロ奥の地点まで進出し,県都ヌエバ・オコテペケを確保.ホンジュラス陸軍主力部隊との交戦を開始する。

7.15 ワシントンでOAS緊急理事会開催.紛争の平和的解決を決議.

7.16 ホンジュラス空軍が反撃.地上にいたエルサルバドル空軍機2機を撃破する。両軍ともコルセアやマスタングなど第二次世界大戦の時にアメリカ軍が使っていたレシプロ機で、敵味方の区別に困るようなことがあったという。

7.17 空中戦が発生。ホンジュラス軍のフェルナンド・ソト大尉が、エルサルバドルのコルセア2機、マスタング1機を撃墜。エルサルバドル空軍は地上でも2機を失い壊滅。

7.17 ホンジュラス空軍機が制空権を確保.石油などの供給基地に甚大な損害を与える.エルサルバドル軍は燃料,弾薬不足に陥り,戦闘は泥沼化の気配を見せる.

7.17 OAS緊急理事会.即時停戦とエルサルバドル軍の撤退を求める.エルサルバドルは追放されたエルサルバドル人に対する補償,残っているエルサルバドル人の安全保証を要求.

7.18 停戦合意が成立.戦闘期間の短さから「百時間戦争」と呼ばれる。

7.20 停戦協定が発効.最終的に批准されたのは80年.

7.29 OAS,エルサルバドルに対する経済制裁を審議.OASは経済制裁をちらつかせるいっぽう,残留エルサルバドル人の安全を保証するためオブザーバーを派遣することを約束.エルサルバドル,OASとの撤退交渉開始に合意.

7.29 エルサルバドル軍部隊、ホンジュラス領からの撤収を完了。

8.05 OASとエルサルバドルとの間に撤退合意が成立.

サッカー戦争の顛末: この戦争でホンジュラス人2千ないし6千が犠牲となり,負傷者は1万2千人を数える。数千が家を失った.一方ホンジュラスを追われたエルサル人は10万におよんだ.エルサルバドルはその後,失業者の増大と中米市場閉鎖による景気後退に苦しむ.この戦争を批判したイノセンシオ・アラス神父に対しては「カトリックは共産主義の温床」と攻撃.

8月 ハンダルら共産党中央委員会と政治局は,サッカー戦争を「愛国的戦争」として承認.排外主義を批判するカルピオらは少数派に転落.

69 共産党,旧PARにかわる大衆組織として民族民主連合(UDN)を結成.議長にマリオ・アギナーダ・カランサが就任.キリ民党や社会民主党に統一を呼びかける.パレスティナ移民のシャフィク・ホルヘ・ハンダル,共産党書記長に就任.カストロ主義に同調するカルピオ元書記長,ANDESの指導者モンテス中央委員らは,これに反発し離党.

69 農民同盟の連合体としてサルバドル農民キリスト者連盟(FECCAS)結成.その後,一時衰退するが,ルティリオ・グランデ神父などの努力により,70年代中盤にはエルサルバドル最強の農民組織に成長.チャラテナンゴやウスルタンではFPLの影響下に農村労働者組合(UTC)として再編される.

 

ゲリラ闘争開始

1970年

4.01 カルピオ(通称マルシアル),モンテス(通称アナマリア),クララ・エリザベス・ラミレスら,ファラブンド・マルチ人民解放軍(FPL)結成.反帝反オリガルキーのスローガンの下ベトナム型の長期人民戦争路線を打ち出す.北部のチャラテナンゴを中心にゲリラ拠点を形成.モンテスはひきつづきANDESを通じて労働戦線の強化を,クララは大学で学生の組織に力を注ぐ.活動家の多くはサルバドル全国教員協会(ANDES)とサルバドル・キリスト緒者農民同盟(FECCAS),農村労働者組合(UTC)から結集.

70 ORDENの創始者で国家治安局(ANSESAL)長官のメドラーノ,「貧困農民の救済と共産主義ゲリラ阻止」を口実にクーデターを企てるが失敗.

1971年

71 モンテスの指導するANDES,待遇改善を要求しスト.国立大学で闘争に連帯する学生スト.

71 国立大学のスト指導部は「エル・グルポ」結成.共産主義青年同盟の一派と,キリ民党青年部,キリスト教行動グループが中心となる.セバスチアン・ウルキーヤ,カルロス・ウンベルト・ポルティーヨ(通称マリオ・ウラジミル・ローゲル)らが指導.毛沢東思想を指針とし反モスクワ,反キューバの路線をとり過激な直接行動に訴える.エルネスト・レガラードを誘拐・暗殺するなど,当初よりテロ活動を開始.

71 国民革命運動(MNR)党首ギジェルモ・ウンゴの仲介により,キリ民党,MNR,UDNの3者の統一なる.確認団体として,国民抵抗同盟(UNO)を結成.大統領候補にドアルテ,副大統領候補にウンゴ.極右の農業戦線(アレーナのフロント組織)はメドラーノを擁立.

モリーナ政権

1972年

2 大統領選挙,選管はいったんドアルテ勝利を発表するが,政府の干渉により敗れ,国民協和党のアルトゥーロ・アルマンド・モリーナ大佐が就任する.

3.25日朝 ベンハミン・メヒア大佐(ヒメネス?)ひきいる陸軍将校団,クーデター決行.ドゥアルテをかつぐ.大統領公邸を占拠しサンチェス大統領を確保.空軍は現政権に忠誠を誓う.陸軍も大半は動かず.

 午前 米政府,現政権支持の態度を明らかにする.米軍事顧問団が軍司令部に陣取り,モリーナ派兵士を動員する一方,ワシントン駐在のカルロス・グスマン・アギラール大佐が鎮圧作戦の指揮にあたる.CONDECA協定に基づきニカラグア,グアテマラ軍機が首都爆撃.

 正午 ドゥアルテ,メヒア大佐のもとめに応じラジオ放送.内容は爆撃地域からの一般市民の避難を呼びかけるにとどまる.

 夕方 大統領派がサンサルバドル市内の実効支配を回復.ドゥアルテはベネズエラ大使館の一等書記官のもとに身を潜めるが,公安に突き止められる.部隊は外交官の家に侵入し,ドゥアルテを銃尻で殴り,蹴りつけたあと連行する.

26日 反乱は鎮圧される.死者数百名,負傷者千名以上.ドゥアルテは拷問を受けたあとグアテマラへ追放.さらにベネズエラに渡る.クーデターに参加したファビオ・カスティージョはコスタリカに亡命,平和路線をとる共産党から離れる.

7 政府軍,国立大学に侵入.メンヒバル学長,カスティージョ医学部長ら8百名を逮捕,大学を2年間にわたり閉鎖.

9 FPL,最初の武装行動として,アルゼンチンERPゲリラの虐殺事件に抗議し,同国大使館を襲撃.

72 イエズス会のルティリオ・グランデ神父,サンサルバドル県北部のアギラレスで基礎共同体運動を始める.

1973年

2 共産党のテロ謀議に参加したとのかどで,数百名の左派政治家,組合指導者を逮捕.

7 国会,尋問中に警察がおこなう拷問に関して調査をおこなうことを決議.国際世論の高まりに対するポーズ.

12 エル・グルポ,平和的政権獲得は不可能とし,銀行襲撃などゲリラ闘争を開始.軍事部門をホアキン・ビジャロボス・ウエソ(通称レネ・クルス)が指導.国民的詩人で共産党中央委員のロケ・ダルトン,13年間のキューバ亡命より秘密裏に帰国.エル・グルポに参加,政治部門の指導に当たる.人民の思想的準備の必要性を強調するいっぽう,他のグループとの幅広い統一を目指す.

73年 エルサルバドル農村協同組合(UCS),左派が主導権を握り,土地改革と農村近代化運動に共感を示すようになる.AIFLDはUCSに対する援助を停止.その後も米国の技術援助は継続される.ORDENのテロにより左派活動家は駆逐され,79年にはAIFLDの支配の下に復帰.

 

1974年

5 セロン・グランデ湖に臨むクスカトラン県スチトトで,イノセンシオ・アラス神父の下に,1万5千人が犠牲となるダム建設に反対する農民闘争起こる.この闘争を支援するなかでFECCASのよびかけで,学生,労働者,教師の諸組織が結集し,人民連合行動戦線(FAPU)発足.ルティリオ・グランデ神父,ホセ・アラス神父が中心メンバーとして活動.共産党はこれに加わらず,MNRとの共同を進める.

10 FAPU,各派の思惑からわずか半年で空中分解.

11 サン・ビセンテで,農民による土地占拠闘争.軍の弾圧により6人が死亡,13名が「行方不明」となる.このほかラ・カジェターナ,サンフランシスコ,トレス・カジェス,チナメキタで農民の蜂起.これを機にFPLの指導下に農村労働者連合(UTC)結成.ウスルタン,チャラテナンゴを中心に影響力を拡大.

74 モリーナ政権,農牧業の多様化,工業開発の促進をはかる.サン・バルタロ地域を保税加工貿易地区に指定.低廉な労働力をもとめメキシコからの企業参入あいつぐ.さらに遊休地の強制借り上げや,接収をもふくむ土地改革法を提案するが,議会で否決される.モリーナは民族民主機構(ORDEN)を自らの権力基盤として育成をはかる.70年代後半には10万人に達し,反共の准軍事組織として,地方でのテロ活動を展開.

 

1975年

4 エル・グルポ,都市ゲリラ行動の評価,FAPUの総括をめぐり混乱.ロケ・ダルトン,エルネスト・ホーベル・フネス(弁護士)らとウルキーヤら創設者グループとの対立が深刻化.

5.10 エル・グルポ軍事部門指導者のビジャロボス,ロケ・ダルトンとアルマンド・アルテアガを修正主義者,CIAおよびキューバのスパイとして「粛清」(ホーベルによればビジャロボスが直接手を下す).反ソ・反キューバ・親中国の路線を明確にし軍事組織として再編.人民革命軍(ERP)をなのる.ERPには学生,専門職を中心に,中間層が参加.多くの女性活動家や外国人活動家を結集.FDRのスポークスマンを勤めたアナ・グアダルーペ・マルティネスもERPに所属.

6 ダルトン派は大衆闘争との結合を訴え,エルグルポより離れ国民抵抗派(RN)を結成.軍事機構としてエルサルバドル国民抵抗武装勢力(FARN)を組織.ホーベルのほか,元共産主義青年活動家で美術・建築史教授エドワルド・サンチョ・カスタネダ(通称フェルマン・シエンフエゴス),フリア・ロドリゲス,アナベル・ラモスらが率いる.マルクス主義を自称するが,国内的には軍部リベラル派,国際的には中道派や社会民主主義勢力と太いパイプを持つ.ERPはホーベルにたいし死刑宣告.

7.30 学生ら5万が,大学への警察の介入,ミス・ユニバース大会への公費助成に抗議してデモ.デモ隊が市内中心部に達したとき,第一歩兵師団の装甲車が,高校生を中心とするデモ隊に突入.軍の発砲により12名が死亡し,20名以上が行方不明になる.

8月 大聖堂占拠事件

8.1 政府の弾圧に抗議し国防相の辞任を要求する大規模なデモ.デモ隊の一部は大聖堂を占拠.FPLを中心にFARN,ERPの一部も加わり統一行動組織「7月30日共闘委員会」を結成.軍部は大聖堂を取り囲む市民の抗議により突入を果たせず.

8.6 チャベス・イ・ゴンサレス大司教の仲介により,政府と委員会のあいだに和解成立.大聖堂占拠は終了.

8月 闘争総括の中で,キリスト教・無党派系とFPLとの矛盾激化.FPL系は独自の統一戦線組織として人民革命ブロック(BPR)を結成.FECCASとUTCが統合.地方労働者連合(FTC)を結成しBPRに合流.BPRは9つの農民組織,6万人からなる大組織となる.ほかにANDESなどよりなる.ファクンド・グアルダード,フアン・チャコン・バスケスが指導.「合法,非合法をとわず,暴力的,平和的か否かにかかわらず,階級闘争を前進させる」と宣言.78年以降はFPLからメリダ・アナヤ・モンテスが指導に入る.

8月 FARNが指導権をにぎったFAPUは,プロテスタント教会のアウグスト・コト牧師が議長に就任.ほかにサウル・ビリャルタ,エドワルド・カリェス,ホセ・ナポレオン・ロドリゲス前国立大学副学長などが指導.サルバドル労働者全国統一連合(FENASTRAS)のほか各地の教会基礎共同体(CEB)が加盟.スチトトを中心に影響力を広げる.占拠闘争に加わったERPの一部は,あらたにPRTCの結成に動く.

 

1976年

1.26 サンホセにおいて中米労働者革命党(PRTC)結成.ERPを脱退した一派がエルサルバドル活動家の中心となる.その他グアテマラ,ホンデュラスの亡命者が結集.ファビオ・カスティージョが党首に就任.コスタリカ,グアテマラにも支部を置く.トロツキストの影響を強く受けるが,第4インターには加盟せず.

4 モリーナ大統領は農地改革を再提案.サンミゲルとウスルタンに6万ヘクタールの農業改革地区を設定し,1間に2千の家族に分配する構想を打ち上げる.14家族を先頭とする寡頭層は,この微温的な改革にも猛反対.民間企業国民協会(ANEP)はこの件で最高裁に提訴し,反政府キャンペーンを展開.次期大統領に事実上内定していたカルロス=ウンベルト・ロメロ・メナ国防相は,もし農地改革をおこなえばクーデターをおこなうと脅迫.この過程で開発派軍人は権力喪失,極右派が軍部の主導権をにぎる.この頃からファランヘ,白色戦闘同盟(UGB)など,グアテマラ極右派の支援を受けたテロ団体が公然化.

10.11 FPL,サンサルバドル西方のサンタ・テクラで軍と衝突.この闘いでクララ・エリザベスが死亡.

 

ロメロ政権

1977年

1 大統領選挙.前国防相のロメロ大佐が立起.反政府勢力はUNOを結成し参加.ドゥアルテの再立起を拒まれたUNOは,エルネスト・クララモーン・ロゼビーユ(Claramount Rozeville)退役大佐を候補とし選挙に参加.副大統領候補にはキリ民党のホセ・アントニオ・モラレス・エールリッチ.激しい選挙妨害と投票の不正操作により,選挙参加は無意味となる.

1 ERP,資産家誘拐.ナンバー2のアナ・グアダルーペの釈放と百万ドルの身代金を獲得した後殺害.

2.02 FARNと共産党の離脱者,コスタリカ在住の亡命エルサルバドル人が結集.中米革命的労働者党(トロツキスト組織)のエルサルバドル支部を結成.国立大学学生フランシスコ・ホーベル(通称ロベルト・ロカ)を中心に学生のあいだに影響力を拡大.

2.03 教会保守派のロメロ司教,ルイス・チャベスの後任としてバチカンより大司教に任命.リベラ・イ・ダマス司教を先頭とする改革派は一歩後退.

2.28 大統領選,ロメロとホセ・アントニオ・モラレスとの決選投票となる.ロメロが不正選挙で大統領に.UNOはサンサル市内の自由広場でクララモーンもふくめ1万人を結集し抗議集会.軍が発砲したため50人が射殺される.救急車に乗せられたクララモンは,テレビに向かい「これは終わりではない.ただの始まりに過ぎない」と叫ぶ.

3.01 戒厳令公布.共産党は合法的政権奪取を断念,武装闘争へ向け準備開始.

3.12 ルティリオ・グランデのアギラレス神父,「死の部隊」により暗殺される.米国の非難に対し,政府は軍事援助拒否で応酬.ロメロ大司教は,この事件をきっかけに人民の側に大転回.

4 FPL(FARN?),ボルゴノボ外相を誘拐,殺害.

5 軍部,イエズス会聖職者に国外追放を宣告.アギラレス地方で掃討作戦.数百名が「行方不明」に.

7.12 サルナス元エルサルバドル大統領,サンサルバドルで射殺される.

7 ロメロ大司教,アギラレス事件に抗議し大統領就任式への出席を拒否.一気に左旋回し,国民抵抗のシンボルとなる.

10 戒厳令解除.

11 公共秩序防衛・保障法,議会を通過.政府に対するあらゆる批判を禁止.この法律により,市民への暴力に対する法的制限は実質上消失.カーター政権はこれを期にエルサルバドル政府に対し批判的立場を強める.

12 政治囚や,行方不明者の母親たち,「モンセニョール・ロメロ母親委員会」結成

77 ERPを母体にサルバドル革命党(PRS)創立大会.FPLなど他組織の批判にこたえ,大衆からの遊離を深刻に総括.ペドロ・ホアキン・ビジャロボスが指導権をにぎる.テロ至上主義のセバスティアン・ウルキーヤ,カルロス・ウンベルト・ポルティーヨを除名.組織内の軍事主義を清算し大衆路線に転換.大衆組織として,学生を中心に2月28日人民同盟(LP-28)結成.街頭行動に専念.

 

1978年

2.26 ERP、ニカラグア大使館に爆弾テロ。

3 首都近郊のサンペドロ・ベルパランでORDENによる住民虐殺.数千名が逃亡,行方不明となる.

5.18 FARN,日本との合弁企業インシンカ社の松本不二雄社長を誘拐,

5.20 FARN,松本氏誘拐事件の犯行声明.政治犯釈放と身代金を要求.松本氏は銃撃戦に巻き込まれ死亡.その後,スエーデン,イギリスをあいついで誘拐.

6.14 FARN,スウェーデン系電話会社のシエル・ビョルキ社長を誘拐.日本の新聞二紙に「政治宣言」掲載を要求.

8.10 ERP、サンタアナの富豪アルマンド・モネデロを、身代金目的で誘拐。

8.24 シエル・ビョルキ社長,無事解放される.

8 ロメロ大司教,農民の闘争を公然と擁護.

9.16 ルベン・アルフォンソ・ロドリゲス前国会議長,FPLに射殺される.

10.06 松本社長,サンサルバドル郊外の土中から死体で発見. 

11 FARN,オランダ・フィリップス社のサンサルバドル総支配人フィリッツ・マハイトマを誘拐,世界の有力紙に声明を発表.

11 FPLに参加したバレラ神父,軍により射殺.

12.08 FARN,インシンカ社の鈴木孝和取締役を誘拐.6社450人を数えた邦人企業は一斉引き揚げを開始.

12.12 FARN,日本経済新聞に声明文発表.外国人企業家誘拐作戦を「唯一の残された手段」として今後も続けると発表.

12.15 FARN,ロメロ大司教らを人質解放交渉の仲介者に指名.

12.21 サンサルバドルのテレビ局をFPLが占拠.

12.24 ロメロ大司教,FARNに鈴木氏らの解放を呼びかけ.

12.30 FARN,誘拐していたオランダ人実業家を解放.

12月 FARN,共産党は日毎に頽廃と衰退の道を歩んでいると批判.ERPは,武装行動に批判的な労組幹部の共産党員を暗殺.

 

1979年

1 OAS人権擁護委員会,秘密監獄での拷問の実態を暴露.

1 国警隊,神父5名を射殺

1.16 数十人のゲリラ部隊がメキシコ大使館,OAS代表部,赤十字社を占拠.人質の解放とメキシコへの政治亡命を認められる.

2 ERP,サンサルバドル市内で政府・軍事施設を狙った一連の爆弾テロ.多くの市民が巻添えに.

3.21 FARN,リエベス・イスラエル名誉総領事を「処刑」

3.21 鈴木氏誘拐事件で,ロメロ政権はFARNの要求を受け政治犯44人を釈放.鈴木氏は推定10億円の身代金を払い,10日後に114日ぶりで釈放.

4 共産党第7回大会,武装闘争路線を採択,解放武装勢力(FAL)の組織を開始.軍事指導はリゴベルト・ロペスが担当.ゲリラ戦の幹部をソ連・東欧,キューバなどに派遣・養成.FALの都市ゲリラとして革命行動グループ(GAR)を組織.同時に,UDNの中にFALを支援する大衆組織,人民解放運動(MLP)を結成.実際の活動はフンタの解体以後に持ち込む.アンダルは,戦略的には都市での蜂起を重視する点でERPに近い立場といわれる.

5.4 フアン・チャコンBPR書記長逮捕に抗議して,FPLゲリラがフランス,コスタリカの大使館を襲撃.両国大使らを人質に占拠.

5.8 大使館占拠を支援する大聖堂前でのBPR集会に集った人たちに警官が発砲,死者24人を出す.この模様はテレビで全世界に放映される.

5.11 BPRの決死隊,ベネズエラ大使館を占拠.支援するデモに発砲.14人が死亡.

5 FPL,エレラ・レポージョ教育相を報復殺害.スイス代理大使の誘拐に失敗し殺害.政府,30日間の非常事態宣言発令.ロメロ大司教,2千5百人の信者を前に軍政糾弾.

6.1 ロメロ政権,仏政府の要請によりBPRの要求を受諾.BPRは仏,ベネズエラ両大使館を解放.

7.03 FARN,ロンドン南米銀行同国支店のマッシー支配人,チャタートン副支配人を7ヵ月ぶりに解放.

7 ホンデュラスでPRTC第二回大会.トロツキスト的傾向を一掃し,各国での闘争に加わることを決定.指導部のマヌエル・フェデリコ・カスティジョ,FSLNに加わり戦死.

7.19 ニカラグア革命勝利

9 ベイキー国務次官補,下院において,ロメロを見離す方針を発表.

9.14 5千人のデモ.発砲により,死者多数.

9.25 BPR,労働省を占拠.ゲリラ部隊による国会襲撃.政府軍と市街戦を展開.国内騒然となる.資本家は争って国外逃亡.

 

1979年10月 若手将校の反乱

10.15 軍部若手将校のアドルフォ・アルノルド・マハノ(FARNシンパといわれる),ハイメ・アブドル・グティエレス(保守派)両大佐によるクーデター成立.カルロス・ウンベルト・ロメロ大統領は国外に亡命.

10.15 軍事評議会,暴力と腐敗の一掃,人権活動の保証,富の公平な分配のための施策,外交関係の見直しなどを,政策目標に掲げる.

10.16 新政権,工場占拠の労働者を襲撃,18人が殺害.マハノは警察本部に留置者を釈放させる.

10.16 ERP,FPLは一斉蜂起するが,ただちに戦車とヘリで鎮圧される.

10.17 第一次軍民評議会発足.メンバーは,マハノ,グティエレス両大佐,キリ民党のロマン・マヨルガ・キロス(UCA学長),MNRのウンゴ,経済界代表のマリオ・アンディーノの5名.ほかに,ルーベン・サモラが官房長官,弟のマリオ・サモラが法相に就任.寡頭制の代表で,モリナ政権時代の農相,エンリケ・アルバレスが農相に.共産党=UDNもガジェゴスを閣僚(労相)に送る.

10.18 軍民評議会,82年2月に自由な選挙を行うと公約.また土地所有を最高100ヘクタールに制限する農地改革法を制定すると発表。ほかにニカラグア政府との連帯,キューバとの国交回復,ロメロ派の裁判,などを訴える.

10.19 LPー28,新政権支持を表明.

10.24 政治犯の釈放を要求する武装集団が労働省と経済省を占拠.労働組合はストライキを決行.

79年11月

11.06 マハノ,ORDENとANSESAL(国家保安局)の非合法化を宣言.サンティバニェスANSESAL長官はグアテマラに亡命.結局「行方不明者」の査問委員会は,全員の死亡を確認したのみで終結.マハノ派の軍内部での権威失墜が明らかになる.実権は右派のガルシア国防相の手に移行.

11.28 ダン南アフリカ大使,武装ゲリラに誘かいされる.

11 軍部,LPー28のデモに発砲.死者86人を出す.

11月 ANSESAL副長官のロベルト・ダビュイッソンは,グティエレス大佐の指示を受け破壊分子リストを持ち逃げ.有産階級から支援を受け、民間人として準軍事組織の創設に踏み出す。軍とのつながりを生かし、大量の武器と情報を引き出す。

11 FPL,独立した軍事組織として人民解放軍(EPL)創設.民兵組織は人民解放武装勢力(FAPL)として別個に組織.

11 PRTC,亡命先のコスタリカより潜入.トロツキスト的傾向を一掃し,他組織との共闘を求める.武装組織として人民解放革命武装勢力(FARLP)を,大衆組織として人民解放運動(MLP)を結成.ファビオ・カスティージョは次第に闘争から離れる.これにかわる指導はフランシスコ・ホーベル(通称ロベルト・ロカ)が担当.”ルイス”がMLP書記長に就任.他にカミロ・トゥルシオス,アルレン・シウ,マリオ・ゴンザレス,イスマエル・ディマス,ニディア・ディアス,パブロ・ウリベなどが指導部を構成.

79年12月

12.06 法令43号が公布される.土地所有を最高100ヘクタールまでに制限するもの.また銀行の国有化法も制定される。

12.18 農民が占拠した農場二カ所などを軍が急襲.少なくとも35人が死亡.

12 亡命先のグアテマラでサンドバルとCALの全面支援を受けたダビュイソン,拡大国民戦線(FANのちのARENA)と名前をかえ旧ORDEN分子の再結集をはかる.テレビで新政府内の破壊分子を告発.テロ活動を再開し数人を暗殺.ダビュイソンはパナマの軍事学校卒業生でウルグアイの対ゲリラ戦にも参加.

12 エルサルバドル軍部,米大使館の仲介により,民間人の排除,ドゥアルテとの連合に合意.

12 ハバナでゲリラ諸派の統一に向けた話し合いが始まる.FALのハンダル,FPLのカルピオ,アナマリア,FARNのホーベル,シエンフエゴスらにより会談.大衆革命調整委員会(Coordinadora Revolucionaria de Masas: CRM)を設立.

12.28 サマヨア教育相,アルバレス農相ら,農民虐殺に抗議し辞任.サマヨアはFPLへの参加を表明.

 

1980年

80年1月

1.02 軍民評議会の右翼化に抗議し,ギジェルモ・ウンゴ,ロマン・マヨルガら民間代表3人が辞任.翌日さらに6閣僚が辞任.最終的には11閣僚のうち10人が辞任.政府は崩壊する.

1.10 評議会の民間代表,モラレス前副大統領候補,キリ民党のエクトル・ダダ,私企業代表のホセ・アバロスがあらたに加わる.キリ民党内に政権参加を批判する声が強まる.

1.11 BPR(LP28?),パナマ大使館に侵入,仲間7人の釈放を要求.

1.11 大衆革命統合評議会(Coordinadora Revolucionaria de las Masas--CRM)結成.BPR,LP-28,UDN,FAPUの四つの大衆組織が参加.「革命民主政府」綱領を発表.MNRもCRMの宣言を承認.MLPも参加を申請するが,FAPUが難色を示したため保留.

1.13 第二次軍民評議会発足.キリ民党のサモラ兄弟は,なお留任し第2次評議会に参加.

1.22 コーディナドーラの呼びかけで15万人の大デモが行われる.軍は大聖堂前でデモ隊に発砲。死者67人,負傷250名を出す.その後デモは激減,多くはゲリラに参加.

1.31 LP−28,キリ民党本部を占拠.ほか大衆に紛れ込んだFPL、ERPを中核とする武装集団が放送局を占拠、新聞社((La Prensa Grafica and El Diario de Hoy)に爆弾を仕掛ける。軍幹部を狙った誘拐・殺害、軍駐屯地への攻撃を繰り返す.

80年2月

2.05 LP−28,スペイン,パナマ両大使館を相次いで占拠.政治犯釈放を要求.

2.06 フランク・デヴァイン米大使,「ロメロ政権の最悪時と同じだ.いまや死の軍団はふたたび武装し、軍との同盟を待ち受けている.彼らによって切り刻まれた死体が道端に捨てられている」と,国務省に報告.

2.11 政府軍,LP−28が占拠中のキリ民党本部を急襲.ゲリラ4人を殺害・逮捕し人質12人を解放.

2.11 軍民評議会,農地改革や銀行国有化等を目的とする憲法改正案を発表.

2.17 合衆国,エルサルバドル政権に武装ヘリ10機を供与.

2.17 ロメロ大司教,「この国を支配しているのはフンタでもキリ民党でもない.それは軍隊だ.軍隊は野放図に権力を行使し、大衆を抑圧している。彼らは寡頭制の利益を擁護することしか念頭にない」とし,カーターにたいし軍事援助の中止を要求.極右勢力はロメロに「死の脅迫」を開始.

2.18 カトリック教会の放送局,爆弾により破壊.新聞はロメロ大司教を「デマと暴力を事とする大司教、聖堂からテロをあおる」と非難、「軍は、みずからの兵器に油を入れ始めなければならない」と書き立てる。

2.22 マリオ・サモラ法相(国家主席法律顧問)の自宅で開かれたキリスト教民主党の会合に,白色戦闘同盟(UGB)による極右テロ.サモラらが殺害される.数日前にダビュイッソンがテレビで暗殺を予告.難を逃れた弟のルベン・サモラは,抗議の意を込め閣僚を辞任.キリスト教社会大衆運動(Movimiento Popular Social Cristiano−MPSC)を結成.

2.25 国家拡大戦線(Frente Amplio Nacional:FAN),マリオ・サモラは破壊組織のメンバーであったと声明.事実上の犯行声明.

2 グリーベレー6名からなる移動訓練チーム,エルサルバドル国境地帯でホンデュラス軍訓練を開始.

80年3月 ロメロ大司教の暗殺

3.03 左翼ゲリラ,国家警備隊本部を襲撃.戦闘は二日間にわたる.7人が死んだほか,市内でテロによる13人の死体発見.

3.03 カーター,人権外交の一環として,ハト派のホワイト大使を発令.共和党のレーガン大統領候補,シカゴで演説.「エルサルバドルでは,ハバナとモスクワに支援された全体主義マルクス主義者の革命家たちが民主的政府の発展を妨げている.われわれは,グレナダやニカラグアやエルサルバドルが「あらたなキューバ」となり,ソ連の戦闘旅団の新しい足場となるのを許してよいのだろうか.北のグアテマラに向けて急進し,さらにそこからメキシコに,また南ではコスタリカやパナマに急進するのを座視すべきであろうか」

3.06 第3次軍民評議会発足。ドゥアルテが帰国し評議会議長に就任。30日間の戒厳令.その後定期的に更新.

3.07 農地改革基本法発表,金融改革法公布.

3.09 ドゥアルテを担ぐキリ民党幹部会はダダ・イセリ(Dada Hizeri),ルベン・サモラらを党から追放.党員の大部分はドゥアルテと離反.

3.10 マリオ・サモラを追悼するミサ。ロメロが説教を予定していた説教壇の後ろの祭壇から,爆弾入りのアタッシェケースが発見される.爆弾は不発に終わり、警察が用いる爆薬と起爆装置であることが判明する。

3.13 人権擁護委員会と,独立系新聞社に爆弾テロ,捜査に入った警察は,全書類を没収.

3.17 ホンジュラス政府当局、スンプル川の国境を越えてホンジュラスに流入した難民に対し、帰還を命令。一群の避難者はこれに応じ、対岸のアラダス村に戻る。

国境非武装地帯: 国境をはさむ幅3キロは、70年のサッカー戦争の後、緩衝地帯に指定された。両国軍は地域内に進入できず、米州機構の視察代表団により監視されていた。内戦が激しくなるにつれ、エルサルバドル農民の多くがスンプル川を渡り対岸に難民キャンプを作った。難民の多くは農地改革を求める農村労働者連合(Federacion de Trabajadores del Campo)に組織されていた。FPRによるゲリラ闘争が始まると、これらのキャンプはゲリラの出撃基地とみなされるようになった。これに対し、ホンジュラス政府も神経を尖らせていた。

3.22 ホワイト大使の証言(84年2月)によれば,この日,ダビュイソンを中心に,ロメロ暗殺の具体案が決定される.ダビュイソンは暗殺実行役にアルバロ・ラファエル・サラビア元大尉とエドアルド・アビラを指名.これにフェルナンド・サグレラとマリオ・モリナを加え暗殺チームを編成。

3.24 真実委員会によれば、この日、Eduardo Avila大尉がサンサル市内のアレハンドロ・カセレス邸を訪ね、ロメロがミサを行うことを報告。同席したダビュイソンはこれを好機と捉え、サラビアに作戦実行を命じた。

ガライの証言: 87年11月,サラビアの運転手アマド・アントニオ・ガライはつぎのように証言した.
ロメロ暗殺の当日,サラビアの命令を受け,赤の4ドアのフォルクスワーゲンを運転.チャペルの反対側、カミノ・レアル・ホテルの駐車場に入った.見知らぬ髭の男が乗り込んだ。犯行現場に達すると、彼はガライにうずくまって、何かを修理しているふりをするよう命令した。「銃声がし、硝煙の匂いが漂った。振り返ると右側後部ドアのところで、髭男が銃を構えているのが見えた。彼は車に戻ると、“ゆっくり,気楽に走れ”と命令」した.サラビアのところに戻ったあと,髭男は「任務は完了した」と報告した.三日後ガライはサラビアをダビュイソンのところに送った.サラビアは「ロメロ大司教殺害計画は完了した」と報告した.
後に髭男はダビュイソンの護衛役エクトル・アントニオ・レガラドであることが判明。ダビュイソンはレガラドともう一人の男Walter Antonio "Musa" Alvarezに1000コロンを支払うよう命じた。「ムサ」は81年9月に行方不明となり、まもなく死体となって発見された。
(別の報告によれば,暗殺者は国家警察のリナレス刑事をリーダーとする4人組)

3.24 18:25 ロメロ大司教,ラ・ディビナ・プロビデンシア病院に付設したチャペルで聖週間のミサ.ミサの最中に,至近距離から狙撃され死亡.死の直前に兵士に対し「わたしは乞う,願う,神の名において命令する.民衆抑圧をやめよと!」と説教した.ダビュイッソンは数日前にテレビで死を予告.

殺害状況: 弾丸は22口径の高速ライフル弾で、一発のみで致命傷を与えた。弾丸は左胸から入り、貫通することなく体内に飛び散る。このため内蔵の損傷は激しく、これによる失血が死因となる。

3.27 ロメロ暗殺事件の捜査に当たった第4刑事裁判所のアティロ・ラミレス・アマヤ判事,自宅で暗殺団に襲われる.アマヤは判事を辞し,海外亡命.

3.28 農村部各地で武装反乱が続発.少なくとも23人が死亡.

3.29 MNR,MPSC,人民解放運動 (Movimiento de Liberacion Popular-MLP),企業家をふくむ市民団体が民主戦線(FD)を結成する.

3.30 大司教暗殺抗議集会に8万人が参加.葬儀の間にサンサルバドル大聖堂の外で爆弾が破裂.右翼が機銃を乱射.これにより27ないし40名が死亡,2百名が負傷.教会の発表によれば,3月中の死者は588名に達する.

80年4月

4.02 民主革命戦線(Frente Democratico Revolucionario--FDR)結成.コルディナドーラを中核とし,民主戦線,全国カトリック連合(UNCA)のロマン・マヨルガなどが参加.21の政党大衆組織,49の労働組合,いくつかの学生グループが結集.エンリケ.アルバレス前農相が議長に就任する.綱領に「反帝反寡頭制」をうたい,武装闘争を容認.ウンゴ,サモラたちはメキシコに飛び,西欧社会民主主義政党の中に政治的・道徳的支持を広げる.

4.03 ダビュイッソン,米国を訪問し保守派議員と懇談.カーター外交を非難する.さらにマハノを共産主義者と攻撃,クーデターを示唆する発言.

4.10 FPL,チャラテナンゴで三つの村を確保.解放区を宣言.

4 ホンデュラス共産党から人民革命連合(URP)分裂.FPLの影響を受けモラサン解放戦線(FMLNH)を結成する.一部はニカラグアの援助のもとにロレンソ・セラヤ国民戦線結成.いずれもエルサルバドル=ニカラグア回廊部分の支配を目的とする.ほかにシンチョネーロス人民解放運動(CMPL),実体はERPの亡命者支援組織.

4 米議会,ホンデュラスに対する軍事援助強化を決定.米国南方軍の使節がテグシカルパを訪問.国境地域でのゲリラの活動を抑えるため,エルサルバドル軍との共同行動をうながす.

4 教会の発表によれば4月の死者は480名.

4 国警隊の第一派遣部隊、二度にわたりチャラテナンゴ県北部の国境非武装地帯に侵入。スンプル川付近を強行偵察。

80年5月 マハノの最後の賭けと敗北

5.02 ロメロ元大統領やイラヘタ元国防相らによるクーデター計画が発覚.革命評議会,ロメロ派の軍事クーデター計画を粉砕と発表.

5.05 ホンジュラス紙の報道によれば、エルサルとホンジュラスの両軍代表が国境地帯で会見。ゲリラのホンジュラスからの侵入を防ぐ方針を討議したとされる。その数日後にホンジュラス兵が難民をエルサル領内に追い出す。

5.08 マハノ派の部隊,ダビュイソンのサンルイス農場を急襲し,軍人12人,一般人12人を逮捕.多量の武器及び死の軍団の資金に関する文書を押収.マハノはダビュイソンを反逆罪の容疑で裁判にかけるよう主張.

主な押収文書: @アルバロ・ラファエル・サラビア元大尉の日記。多量の武器と弾薬の購入と配布リスト、ロメロ暗殺作戦の関係者のリストがふくまれる。A「エルサルにおける反マルクス主義組織の全般的構成」は、サンルイス・グループの目標と作戦を示している。目標はエルサルの政治権力を獲得すること。作戦としては「戦闘活動ネットワーク」による直接行動。そこには「選ばれた個人への攻撃」を含む。B「南米の情報提供者」による、「オスカル・アルヌルフォ・ロメロ(サンサルバドルの大司教)に対する告発リスト」

5.09 全国将校会議,マハノを司令官から解任.グティエレスをあらたに司令官に指名.

5.10 ガルシア大佐,マハノを最高司令官の座からはずし,グティエレスが単独で最高司令官となると発表.その後軍内でのマハノ派粛清が始まり,9月までにほぼすべてのマハノ派が一掃される.

5.13 裁判所,証拠不十分としてダビュイソンを釈放.サンルイスで押収された文書は,裁判所へはいっさい提出されずに終わる.

リオ・スンプルの大虐殺

5.13 国警隊の第一派遣部隊(司令官はリカルド・アウグスト・ペーニャ・アルバイサ大佐)とORDENよりなる混成部隊,1月頃からチャラテナンゴ県に対する攻撃を強化.ホンジュラス軍と共同し、国境地帯のゲリラを挟撃する作戦を開始。多方面からの同時攻撃により、付近の住民をスンプル河畔のラ・アラダ(Aradas)村に追い込む。

5.14 ラ・アラダ村を2機のヘリで爆撃。砲弾を打ち込んだ後,部隊が一斉に侵入.女性を凌辱し,子供を射撃の的とするなどの残虐行為.住民はホンデュラス国境を流れるリオ・スンプル川に向かう.

5.15 エルサルバドル軍部隊,リオ・スンプル沿いに避難を始めた難民を襲撃.6百名を虐殺.ホンジュラス軍は,国境対岸の町グアリータに兵力を集結.川をわたり逃げてくる住民を押し返す.

スンプル川の虐殺に関する報道: 最初は「1年後に,現地のファウスト・ミラ司祭の証言がイギリス紙により暴露」としていたが、実際には事件直後から報道はされていた.最初の報道は5月21日、コスタリカのRadio Noticias del Continenteの朝のニュース。
その数日後に、「ティエンポ」紙が、サンタロサ・デ・コパン司教区(ホンジュラス)のロベルト・ヤラガ(Yalaga)神父の発言を報道。これによれば、@少なくとも325人がエルサル軍によって殺された、Aホンジュラス軍はスンプル川に非常線を張り、エルサル軍の虐殺を助けたことが明らかにされる。
このあと2人の外国人ジャーナリスト(Gabriel Sanhuesa and Ursula Ferdinand)がホンジュラス川からアラダス村に潜入し、現場を視認。生存者からの証言を集め、リーフレットを発表している。

5.22 主要なゲリラ・グループが,統一革命指導部(Direccion Revolucionario Unificada−DRU)の下で統一されたと発表.ニカラグア革命の影響を受けたERPは,反ソ反キューバ路線を捨て統一路線に転換.FAL,FPL,FARN,ERPのゲリラ組織指導者がハバナに結集し,各組織から5名づつの「統一革命指導部」(DRU),1名からなる統合司令部を結成.本部をマナグア近郊に置く.

5.29 保安隊と第二歩兵旅団の52人からなる部隊が、サンタアナ県メタパン郡ベレン・グイハト(Belen Guijat)村のサンフランシスコ・グアホヨ(Guajoyo)協同組合に到着した。部隊は農場の中央広場に農民と組合職員を集め、12人を虐殺した。そして遺体にかぶせた毛布に、「裏切り者」と殴り書きし、FMLNの仕業に見せかけた。

サンフランシスコ・グアホヨ(Guajoyo)協同組合はサルバドル土地改革協会の手により1977年に設立された。260家族が加入していた。軍と保安隊は当初から協同組合をゲリラの仲間と非難し敵視していた。79年ころから日常的に弾圧が強まっていた。

5 MLP,CRMへの加入を承認される.

5 米議会,ホンジュラスへの軍事援助を決定.まもなくエルサルバドル・ホンジュラス両国は米国の強い圧力の下に国交回復.

5 教会の発表によれば,5月の死者は千2百名.ただし,スンプル川の死者は含まれず.

80年6月

6.19 サンタロサ・デ・コパン司教区、38人の聖職者の署名したスンプル川虐殺事件の報告書を発表。自らの目撃証言と、関係者の証言を集める。報告書はホンジュラス政府と軍の事件への関与を非難。さらにOASも事件のもみ消しにかかわっていると批判。

6.20 FARN,エルサルバドル駐在の主要国際通信社記者4人にたいし暗殺の脅迫.

6.25 FDRの組織したゼネスト成功.企業の90%が運営中止.

6.27 政府軍,国立大学に突入.学生16名が死亡,大学閉鎖.

80年7月

7.01 ホンジュラス司教会議、サンタロサ・デ・コパン司教区のスンプル川虐殺事件に関する報告を承認。テグシガルパのエクトルE.サントス大司教が報告書を発表。

7.01 ホセ・ギジェルモ・ガルシア国防相、スンプル大虐殺の報道を否定。サンサルバドルの大司教区はサンタロサ・デ・コパン司教区の報告を承認し、訴えに同調する。

7.01 ホンジュラスのポリカルポ・パス大統領と軍部も、サンタロサ・デ・コパン司教区の報告を「否定的で無責任なもの」と声明。クリストバル・ディアス・ガルシア官房長官は、「国境の向こうで虐殺があった。しかしそれはホンジュラスとは無関係である」とし、調査委員会の設置を拒否。

7.01 OAS監視団団長のアルフォンソ・ロドリゲス・リンコン大佐、告発は「活発すぎる想像力の賜物」と嘲笑する所感。「我々は事件を知らなかった。それは確認済みだ」とする。(後に真実委員会は、事件についてのかなり正確な報告が存在していたことを確認)

7 ERP,商店に連続爆弾テロを実行.

7.23 政府,非常事態宣言.重要公共施設を軍管理下におく.

80年8月

8.12 FDRの提起した3日間のゼネスト,24時間送電ストップに成功するが,全体としては不発に終る.期間中,ルイスMLP書記長が行方不明となる.弾圧による死者は129人.以後,指導部は地下に潜行.

8 人民教会全国調整委員会(CONIP)結成.FDRを人民代表組織として承認.

80年9月

9.4 CAL年次総会.アルゼンチン,ボリビア,パラグアイ3国の大統領の他,各国軍事政権幹部が参加.アルゼンチンの弾圧の徹底ぶりをほめたたえ,その経験を中南米全域に広げていく方向で一致.エルサルバドルからはダビュイッソンが代表として参加.各国からの援助と軍事指導をとりつける.

9.04 ダビュイソンはグアテマラに滞在し、マリオ・サンドバル・アラルコン、ルイス・メンディサバル、リカルド・ラオら右翼の大立者と共同計画を練る。

9 民主集中制を基盤とする組織統一と,カルピオの指導性の承認,ERPに対する評価をめぐりDRUで議論.FARNはDRUから脱退.

9.17 FARNの対ERP強硬派のエルネスト・ホーベル,FAPU議長のアウグスト・コトとともに飛行機事故で死亡.妻はERPによる暗殺と主張.

9 マハノ派将校,グティエレス,ガルシアの独断で軍中枢より放逐.マハノ派は基地に立てこもり抵抗するも敗れる. 

80年10月

10.13 DRUの三派,組織統一を決定.PRTCも加わり,ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)を結成する.FDRは主として外交部門を担当することとなる.

10.15 評議会,1982年に制憲議会選挙,1982年に大統領選と総選挙を実施すると発表.

10.23 FARN,フェルマン・シエンフエゴス(カスタニェーダ司令官)がホーベルにかわって指導部に就任.DRU復帰を決定.

10.29 PRTC,各国で独自に行動することを決定,単一党としては事実上解散.

10.30 米国の調整の下にリマでエルサルバドル=ホンデュラス和平協定締結.これによりFMLNの拠点となっていた6ヶ所420平方kmの国境未確定地帯でのエルサルバドル軍の侵攻が可能となる.

10 米国でエルサルバドル国民との連帯委員会(CISPES)を結成.米国共産党が全面的に支援し,シャフィク・ハンダルの弟ファリドが中心的役割.全米に2百の支部を組織.

10 ウリョア国立大学学長,死の軍団により射殺される.

10月 ドゥアルテ大統領、カナダの出版社とのインタビュー。スンプル川で戦闘があったことを認める。そして「この戦闘で300人が死んだが、彼らはすべて共産主義ゲリラだった」と述べる。

80年11月

11.08 レーガン,大統領に当選.アルゼンチン,50名を越える軍事顧問団をエルサルバドルへ派遣.

11.11 建築家協会理事長トニ・ハンダル,軍に捕らえられ行方不明となる.

11.17 ゲリラ取り締まりの全国責任者カルロス・ソト大佐を暗殺.

11.27午前 ウリョア学長葬儀のために帰国した,FDRのアルバレス・コルドバ議長ら幹部6名,記者会見の席上,「死の軍団」により襲撃・誘拐される.

真相委員会報告: 6人は市内中心部のイエズス会のコレヒオ・サンホセに宿泊していた。午前10時ころ、侵入した先発隊が無線で連絡を取り、その後トラックに乗った重武装の兵士10数名が建物に押し入り、公衆の面前で6人を拉致した。

11.27午後 拷問・射殺された6人の遺体が発見される.発見場所はサンサルバドルから車で一時間のリゾート地、イロパンゴ郡アプロ市の郊外。犠牲者はエンリケ・アルバレス・コルドバ(FDR議長)、ファン・チャコン(BPR書記長)、エンリケ・エスコバル・バレーラ、マヌエル・デ・ヘスス・フランコ・ラミレス、ウンベルト・メンドーサとドロテオ・エルナンデスの6名。

11.27 殺されたFDR幹部に代わり、MNRのウンゴがFDR議長に,国立大学農学部長のカイエスが副議長に就任.

11.30 「マキシミリアノ・エルナンデス・マルティネス記念反共旅団」,FDR幹部らの虐殺について犯行声明.

11 マハノ,右翼の銃撃者によって狙われるが難を逃れる.

11 エルサルバドルーホンジュラス「平和条約」締結. 

80年12月 米国人修道女虐殺事件

12.02 「死の軍団」を名乗る国警隊兵士,米国人修道女4人Ita Ford, Jean Donovan, Dorothy Kazel and Maura Clarke)を誘拐,レイプしたうえ射殺.

真実委員会報告: 午後7時過ぎ、イタ・フォードとモーラ・クラークは、チャラテナンゴで活動していた。ニカラグアの出張から戻りコマパラ国際空港に到着。ドロシー・ケイゼルとジーン・ドノヴァンは、ラ・リベルタから二人を迎えにきていた。4人は空港を出たところで国警隊に拉致された。
拉致にあたったのは空港に近接する国家警備隊分隊に所属するルイス・アントニオ・コリンドレス・アレマン伍長と5人の部下。コリンドレスはサンルイス・タルパの駐屯地に到着。司令官に対し、「不穏ないくつかの雑音を聞くだろうが、我々がとる行動の結果生ずるものなので、無視すべきだ」と警告。その後部下に対し、「上級からの指示」に従い殺害を命令。

12.03 遺体が路傍で発見される。地元の居住者は治安判事の指示を受け、発見現場の近くに埋葬。

12.04 ロバート・ホワイト大使が遺体発見現場に行き、治安判事との交渉を経て死体を発掘。サンサルバドルに送る。法廷医は「手術用マスクがない」との理由で検死を拒否。

12.04 政府評議会、公式の調査委員会の設置を決定。ロベルト・モンテローサ大佐を委員長とする。国家警備隊のカルロス・エウヘニオ・ビデス・カサノバ総司令官は、これとは別に捜査班を編成。リサンドロ・セペダ少佐を責任者に任命。二つの調査チームは実際にはコリンドーレスと国軍関与の事実を隠匿するために活動した。

翌年6人が捕らえられ,84年には五人に対して30年の刑(この国の最高刑)が課せられる.しかしこの虐殺を命じたもの(エドガルド・カサノバ大佐)に対しては,一切言及なし.
93年の国連真実委員会の報告によれば,事件後ホセ・ギジェルモ・ガルシア国防相とカルロス・エウヘニオ・ビデス・カサノバ国警隊長官は,事件のカバーアップを組織し,指示した.ビデス・カサノバはエドガルド・カサノバのいとこに当たる.ビデスは後に国防相にまで上り詰めた.89年引退後は,米国永住権を得て,フロリダに住む.
後の公開文書によれば,トーマス・ピカリング米国大使は,85年2月,修道女虐殺事件について,国務省あてに以下の内容を打電.ガルシア国防相は,「私は事件を聞いて直ちに,エドガルド・カサノバ大佐を疑った.カサノバ大佐は,当時事件のあった一帯の軍事司令官であり,事件の前にも,この地域で似たような手口の事件が発生していたからである」と大使に語った.また現国防次官ラファエル・フロレス・リマ大佐は,「カサノバ大佐は事件を知っており,それを命じた可能性もある」と語った.

12.06 カーター政権は経済援助を停止(わずか12日間).軍事援助はその後も中断.

12.06 ロジャーズとバウドラーを団長とする米国務省調査団がサンサルバドルに入る。3日間の調査では、犯罪の直接証拠もエルサルバドル当局の関与を示す証拠も発見されず。なんらかの殺人の隠蔽活動が行われたと判断。FBIの出動をもとめる。その後、米国務省の指名したハロルドR.タイラー, Jr判事が米国独自の調査を実行。

12.13 評議会はキリ民党のドゥアルテを大統領に「選出」する.副大統領はグティエレス.

12.14 軍民評議会,パナマ訪問中のマハノを解任.

12.15 国連総会,エルサルバドルの人権侵害を非難する動議を可決.

12.21 ドアルテ,大統領に就任.米に軍事面より経済面の援助を要請.

12.27 死の部隊の元メンバー10人がサンチアゴ・デ・マリアで殺害される.情報を知りすぎた彼らを消すため,エクトル・アントニオ・レガラドが指示したといわれる.レガラドはダビュイソンの一の子分。サンチアゴ・デ・マリアに自らの暗殺団を組織する一方、首都圏におけるダビュイソン系暗殺団員の訓練主任を勤める。

12 80年のみでテロによる犠牲者は,約1万名となる.同じ月,米国人フリージャーナリスト,ジョン・サリバン失踪.死体は83年に発見.ホワイト大使はダビュイソンを人殺しの病理学者と名付ける.

  

1981年

81年1月

1.04 農業改革研究所長ロドルフォ・ビエラ,研究所内の不正行為を公然と告発.その直後に,エルサルバドル政府の顧問米人2名とシェラトン・ホテルで会合中に,ともに右翼の手により射殺される.この事件を頂点として,全国で農業改革の推進者が暗殺される.後に、国家警備隊調査課(SU)内に作られた暗殺班が実行したことが明らかになる。

1 FMLNとFDRとの調整機関として「政治外交委員会」設置

1.10 FMLN,ファラブンド・マルチ蜂起の記念日に総攻撃を開始,モラサン県都のサンフランシスコ・ゴテラが一時陥落.西部ではメナ・サンドバルらマハノ派将校が決起しゲリラに合流.サンタアナでは守備隊の反乱.

1.11 政府,「少なくとも500人の過激派が死亡した」と発表.軍は戒厳令に加え夜間外出を禁止.破ったものはすべてその場で射殺命令が下される.

1.12 一斉攻勢は結局,都市蜂起が得られず失敗.持久戦にはいる.FMLN内ではビジャロボスの総蜂起路線を押さえ,カルピオの長期人民戦争路線が優勢となる.FPLはチャラテナンゴを,ERPはモラサンを拠点としゲリラ活動開始.

1.14 FMLN-FDR,メキシコシティーで最初の公式声明を発表.

1.14 カーター,辞任を3日後に控えエルサルバドル軍事援助を再開.「われわれはキューバなどの社会主義国から秘密の武器,訓練,指導を受けているマルクス主義テロリストに対抗し現政権を守らなくてはならない」と声明.

1.17 レーガン,大統領に就任.

1.22 レーガン,新たに6千万ドルの軍事援助を決定.54人の軍事顧問団を送り込む.

81年2月

2.1 ロバート・ホワイト米大使解任される.

2.19 大司教区の法律援助事務所,1ヵ月で168名が禁止令違反で射殺されたと報告.

2.20 米国務省,「エルサルバドルに対する共産主義の干渉」(エルサルバドル白書)を発表.ハンダル共産党書記長の仲介で2百トンの武器が,社会主義国から国内へ搬入されたとするデマ.のちにでっちあげであることが元CIA職員により暴露

2.20 マハノ,「現政権はいかなる手段を用いても打倒されなければならない」とよびかけ逮捕.国外追放される.

2.22 ミース大統領顧問,「キューバがエルサルバドル支援を続けるなら,キューバ海上封鎖を行う可能性も否定できない」と発言.

2.24 ポルティーヨ・メキシコ大統領,米のエルサルバドル政策を非難.

2.27 ヘイグ国務長官,「問題の根源に対処するため」強硬方針をとると言明.

2.28 米政府,海軍訓練チーム(非戦闘要員)6人の派遣を発表.

2月 政府調査委員会のモンテローサ、国軍が犯罪に関与した可能性は否定されたと発表。実際にはコリンドーレスが関与した証拠を握りつぶしていた。セペダ少佐も国家警備隊のメンバーが尼僧を処刑したことを否定する報告。

81年3月

3.02 米国務省,軍民政権に米軍事顧問20人増派と2,500万ドルの軍事援助追加を決定と発表.

3.03 ドゥアルテ大統領,土地改革の「凍結」を発表.

3.03 アレハンドロ・シスネロス大佐の指揮する国軍が、ERPの活動するモラサン県北部への掃討作戦を開始。カルロス・ナポレオン・メディナ・ガライ大尉の率いるソンソナテ駐屯部隊も作戦に参加。市民防衛隊と協力し、カカオペラ郡の平定作戦を担う。

3.03 メディナ・ガライ大尉の率いる部隊が、カカオペラ郡エル・フンキージョ(El Junquillo)村に入る。村に残っていたのは女性、幼児と老人のみ。

3.12 メディナ・ガライ大尉、エル・フンキージョ村民から期待した情報が集まらないことに憤激。村民皆殺しを命令。家、トウモロコシ畑と納屋に火をつける。

3 ヘイグ国務長官,4人の尼僧は銃火の中を車で潜り抜けようとし,交通事故によって死亡したと議会で証言.ワシントンでエルサルバドル介入に抗議する十万人の反戦デモ.全米司教会議,軍事顧問の派遣を非難.

3.9 政府,コスタリカのカラソ大統領の提案したOAS調停の受け入れを拒否.

3.10 ダビュイッソン,レーガン政権から軍事政権樹立のためのクーデターの承認を得たと記者会見.米国はただちに否定.ダビュイッソンは翌日米大使館に銃撃を敢行.

3.16 ホンデュラス国境地帯でゲリラ掃討作戦.住民8千人は追手を逃れホンジュラスへの逃亡を図る.

3.17 国境を流れるレンパ川で,渡河を図った難民を空と陸から攻撃.4千5百名がホンデュラス側の宗教団体難民キャンプに収容されたが,残りは行方不明となる.推定では二百人が死亡.(第1次レンパ虐殺)当日早朝,現場でビンズ在ホンデュラス米大使の存在が確認されている.難民たちは「外国からの支援者や医療要員がいたから死亡者が少なくてすんだ」と証言.

3.20 レーガン新政権,2千5百万ドルの軍事援助,6千3百万ドルの経済援助を決定.56人の軍事顧問派遣,顧問団長にはベトナムでの大量殺りくで勇名をはせたエルドン・カミングス大佐をあてる.

3.24 FMLN,ロメロ大司教の1周忌で24時間の一方的停戦を実施.

3.25 米大使館,3月に入って4回目の襲撃を受ける.FPLが犯行声明.米軍が派遣した軍事顧問54人の中に,特殊部隊指導のグリーンベレー15人が含まれていることに抗議.議会には戦争のベトナム化に対する危惧が広がる.

3月 対ゲリラ戦に特化した「迅速展開歩兵大隊」 (BIRI)の最初の組織として,アトラカール大隊が創設される.以後,米軍顧問の指導の下に,アトナール大隊(1982年1月),ベリョーソ大隊(1982年5月)があいつぎ創設される.

3 FPL,米国大使館をロケット砲攻撃.

3 93年公開文書によれば,CIAは安全保障担当補佐官リチャード・アレンに「ダビュイソンは自己中心的で,無慈悲で,おそらく情動不安の状態にある」と報告.

81年4月

4.1 エルサルバドル・ゲリラへの武器供給を理由にニカラグア経済援助打ちきり.

4.03 FMLN,社会主義諸国からの武器調達の事実を認める.

4.6 ディーン・ヒントン新大使赴任.エルサルバドル当局にコリンドレスらの犯罪関与の証拠を提供。尼僧の乗ったバスに残された一味の指紋など。

4.7 輸出入管理警察,無抵抗の若者20人を捕え射殺. 

4 ダビュイッソン,グアテマラで記者会見.FANをARENAと改称し公然化.グアテマラのFLNに範をとり,「神,祖国そして自由」をスローガンに政権獲得をねらう.

4.25 FMLNのアナマリア最高司令官,和平提案を行う.

4.27 LAのカトリック教会最高指導者ら,米国のエルサルバドルへの軍事介入を糾弾する声明文を発表.

81年5月

5.1 米国民主党下院議員11人,エルサルバドル介入中止を要求しワシントン連邦地裁に提訴.

5 国連難民高等弁務官,「国を去ったすべてのエルサルバドル人は事実上亡命者とみなされるべき」と発言.

81年6月

6.12 ゲリラ,各地で攻勢.政府軍に死傷者多数を出す.

6 ワシントン・ポスト,「白書」の信憑性について,重大な疑問を発表.

6 サンタナ・チリノ,米国亡命を拒否され強制送還.2ヵ月後,首を切られた死体がアマプラパで発見.

81年7月

7.4 教会の経営するラ・ベルムダの国内難民センターで,女性と子供からなる2千名の難民が,強制的に刑務所に連行.25名は移送途中に「失踪」する.

7.17 米軍事顧問団のプランにもとづきエルサルバドル,ホンデュラスの両軍3千5百名がチャラテナンゴの国境地帯で最大規模の狭撃作戦をおこなうが失敗に終わる.

7 PRS(ERP),中央委員会を開催.過去2年間の闘争総括と当面の情勢を討議.政治局員にビジャロボス,アナ・グアダルーペ・マルティネス(FDR広報担当),アナ・ソニア・メディナ・アリオーラ(通称マリアーナ),メルセデス・デル・カルメン・レトーナ(通称ルイーサ,ラジオ・ベンセレーモス局長),クラウディオ・ラビンドラナト・アルミージョ(同フランシスコ),フアン・ラモン・メドラーノ(同バルタ,西部線戦司令官),ホルヘ・メネンデス(同ホーナス)の7名を選出.

81年8月

8 治安機関,アテオスの高級食肉工場で若者と子供83人を斬首.サンタアナ郊外に遺棄.事件を報告したジャーナリストは死の脅迫を受け国外退去.

8 政府軍,モラサン県で6千名の兵員を動員して大規模な掃討作戦開始.民間人の大量殺りくのほか,みるべき戦果なし.

8.14 ホンデュラスで中米6ヶ国会議.ホワイト前駐エルサルバドル大使「中米紛争の原因を探るのにキューバやソ連に行く必要はない.ここに原因はある.それは失業,飢え,不公正である」と発言.

8.15 FDR=FMLN,革命政権樹立を発表.

8.28 フランスとメキシコ,FMLN=FDRの合法性と政治的代表権を認知.

81年9月

9 ドゥアルテ,米国訪問.随行したカサノバ国警隊長官が全日程を監視.

81年10月

10.1 FMLN=FDR指導部,米国で記者会見し和平交渉に応じる用意があると発言.

10.13 ロサレス病院入院中のカステジャノス,警察により拉致.頭部を撃たれ排水溝に投げ込まれる.

10.20 レンパ河流域で軍の平定作戦.10日間にわたる攻撃で,未成年者44人を含む住民147名が虐殺される.(第二次レンパ虐殺事件)

10 フランスのミッテラン大統領,メキシコを訪問し共同声明を発表.この中でFMLN=FDRを政治的代表勢力と認め,政治解決のため交渉への参加を求める.

10 FMLN,蜂起作戦を突出させる方針を決定.ERPはモラサンで攻撃開始.FPLは首都北方38キロのグアサパ地区に戦線を開くため,ビルヒニア・ペーニャ(スサナ司令官)を責任者に指名.

10 フレデリック・ウェナー准将があらたに軍事顧問として派遣される.ウェルナーは「軍事援助団報告」の中で,「極右のテロと機関による権力乱用をやめるよう勧告するが,軍部は聴こうとしなかった」と述べる.ワシントンポスト紙によれば,NSC内でエルサルバドルを担当するニール・リビングストンは,「たとえどんなに不愉快でも,死の部隊は,テロや革命勢力と戦ううえでのきわめて効果的なツールだ」と語ったという.

81年11月

11.10 国連,エルサルバドル国内で1月から6月のあいだに9250人が殺害されたと発表.

11月 カバーニャス県で,軍による掃討作戦.ホンジュラス領に逃げ込もうとした住民千名が13日間にわたり包囲され,攻撃にさらされる.約百名が殺害されたものと推定される.

11 ガルシア国防相,79年以来3万人が死亡.うち2万5千人が非戦闘員と発言.

81年12月 エル・モソテの大虐殺

12.08 ドミンゴ・モンテローサ・バリオス中佐の指揮するアトラカール大隊と,第三歩兵旅団,サンフランシスコ・ゴテラ特殊部隊訓練センター,モラサン県北部でゲリラ掃討のための「救援」作戦.ラ・グアカマヤにあるといわれるゲリラのキャンプ兼訓練センターを破壊することを目標とする.作戦総指揮は第三旅団のハイメ・フローレス・グリハルバ司令官.

12.09 政府軍とゲリラとのあいだに最初の衝突.アトラカールの一中隊はアランバラの町で町民を広場に招集.女性と子供を教会に閉じ込め,男を広場に寝かせる.多くがゲリラ協力者と疑われ拷問される.うち三人は刺し殺される.

12.10 アトラカールの一隊,クマーロの村に入る.同じような召集,拷問が行われるが,死者は出なかった.

12.10午後 アトラカール大隊,ゲリラとの遭遇戦の後エル・モソテ村に入る.住民は抵抗なしに部隊を迎え入れるが、部隊は外出禁止令を発し、村民全員を屋内に拘留.

12.11早朝 大隊は村民全員を広場に集め,男性をチャペルと「修道所」に監禁.次々に拷問を加えたすえ,殺害する.

12.11正午 男性の殺害を完了した大隊兵士は,女性を集め子供から切り離す.何人かのグループに分けたうえ,機関銃弾を浴びせ殺害.最後に子供を「修道所」に押し込み,窓から機関銃を乱射して皆殺しにする.遺体はそのまま放置される.全ての住民を絶滅した後に,兵士は建物に火をつけた.犠牲者数は最終的に200人以上に達する。

12.11 アトラカール大隊の別働隊、ラ・ホヤ(La Joya)村を襲い20人以上が虐殺される.

12.12 エル・モソテで一夜を明かしたアトラカール大隊は,2キロ離れたロス・トリレスに移動.逃げ遅れた村民を,道に並ばせ,機銃掃射により殺害.

12.12 アトラカールの別隊,ラ・ランチェリアの村に移動し住民30人を殺害.

12.13 アトラカール大隊,ホコテ・アマリジョ,セロ・パンドの村でも集団虐殺を繰り返す.これらの作戦で犠牲者の総数は500人以上に達する。

12.16 国連総会で,西ドイツ,フランスなどの強力なバックアップにより,米国の軍事援助中止,政府とFMLNの交渉を要請する決議を採択.

12 クリスチャン・リーガル・エイド,81年度の犠牲者は12,501名と報告.サルバドル開発基金(FUSADES)によれば81年に国外に逃れた人は16万4千人にのぼる.

12月 米政府の圧力を受けたカサノバ総司令官、新たな調査チームを編成することを決定。ホセ・アドルフォ・メドラーノ少佐を責任者に指名する。

 

1982年

82年1月

1 FMLNは「国土の1/4を解放」と発表

1.04 サンサルバドル市内で,左翼ゲリラによるとみられる同時多発爆弾テロ.

1.27 FMLN,サンサルバドルバドル郊外の国内最大の軍事基地,イロパンゴ空港を攻撃.内通者の手引により6機のUH-lHヘリ、Ouragan航空機5機、C-47輸送機3機を破壊.9人を殺害.被害総額は12億ドルに上る.

1.27 NYタイムス(レイモンド・ボナー記者),ワシントン・ポスト(アルマ・ギジェルモ・プリエト記者)が,別個にエル・モソテ虐殺事件の視察報告を発表.エルサルバドル当局は大虐殺を型通りに否定.政府もしくは軍によるいかなる調査も拒否。

1.28 レーガン,2千6百万ドルの通常援助に加え,X73を6機,O24を4機など5千5百万ドル相当の緊急軍事援助を承認.

1.31 航空機の支援による地方都市平定作戦.ヌエバ・トリニダーとチャラテナンゴで併せて150人の民間人が殺される.

1 NGOにより昨年エル・モソテで起きた集団虐殺が明らかにされる.国連報告によれば女性と子供を中心に5百人以上が殺された.レーガンはこの報告を左翼によるデマ宣伝と否定.エンダース国務次官は「虐殺されたとの証拠はまったくない」と議会で証言.

82年2月

2.02 ヘイグ,エルサルバドル政府転覆阻止のためにはいかなる手段もとるむね発表.

2.02 FMLN(ERP),全土で攻勢.第5の都市サン・ビセンテを数日にわたり包囲.グアサパでも,政府軍を撃破.ラジオ・グアサパが放送開始.ホンジュラス国境付近の戦闘では政府軍兵士100人を殲滅.

2.10 尼僧殺害に関し、コリンドレスの部下の一人が犯行を自白。これに基づき6人全員が告発される。ドゥアルテ大統領はテレビで「犯罪が解決された」とのメッセージを発表。Colindresと彼の部下が上級からの指示なしに犯行を行ったとする。

2月 Colindresの直属の上役のダゴベルト・マルティネス軍曹、FBIによる尋問に答える。彼はコリンドレスから犯行を打ち明けられたが、上司から聞かれない限り何も話さないよう警告した。命令が上層部からのものであったことについては気づかなかったと証言する。

2.16 レーガン米大統領,ニカラグア新駐米大使フィリョスと会見.エルサルバドル左翼ゲリラに対するニカラグアの支援に懸念表明.

2.18 レーガン米大統領,エルサルバドルに戦闘部隊を派遣する考えはないと表明.

2.18 FMLN,地下放送で全土総決起を予告.2ヶ月で経済施設439箇所の爆破・破壊活動を実施.米大使館によれば、これらの破壊活動による被害は約9800万ドルにのぼる.

2.24 ラファエル・フロレス参謀長,アルゼンチンを訪問.人民弾圧に対するアルゼンチンの「技術援助」に感謝し,さらに援助を要請

2 米国内において,エルサルバドル兵の対ゲリラ戦闘訓練を開始.エルサルバドル国内では6つの旅団すべてに米軍事顧問が割り当てられ,連隊規模でも10連隊に軍事顧問がつく.情報担当顧問もほとんどの旅団に配属される.

2 国務省,パーシー上院議員の質問に答え「ダビュイソンがロメロ暗殺に関与していたという情報がいくつかある」ことを認める.「しかしこれらの情報は限定的で不十分である」とし追及を拒む.

82年3月

3.02 政府軍とゲリラ軍との衝突で100名以上が死亡.

3.07 オランダのテレビ取材班、サンサルバドルのマリオナ刑務所を取材。ゲリラの疑いで収容されている受刑者とのインタビュー。受刑者は取材に感謝し、拷問の傷跡を示すなど協力。

3.03 FMLN=FDR,ポルティーリョ・メキシコ大統領の平和解決提案を受諾する用意があると発表.

3.08 FMLN,大統領選挙妨害のため,サンミゲル,ウスルタンなど都市部を猛攻.この作戦で36人が死亡.

3.10 サン・エステバーン・カタリーナで,戦闘を逃れようとした農民5千人に,軍のヘリが砲撃.

3.10 「反共同盟」を名乗る組織が,「軍隊の信用を傷つけた」34人について,死刑を宣告する声明文を発表.そのほとんどがジャーナリスト.

3.11 財務省警察のフランシスコ・アントニオ・モラン長官、オランダのテレビ取材班のコース・コスターを召喚し、FMLNとの関係について尋問(のちにモランは、釈明)。コスターはテロリストのいかなる関係も否定。

3.12 エルサルバドル各紙、オランダのテレビ取材班がFMLNと接触しているといっせいに報道。これによれば「ウスルタンで戦死したゲリラJorge Luis Mendezの背嚢に、取材班の連絡先を書いたメモが残されていた」とされる。

3.14 ラジオ・ベンセレーモス,国民に総決起を呼びかける.

3.15 FMLNゲリラ,首都サンサルバドルバドル市内3ヵ所で政府軍と激戦.

3.17 軍の暗殺部隊,オランダの取材班メンバー4人を待ち伏せし虐殺.彼らはサンサルバドルからFMLN活動家とともに出発。チャラテナンゴのFMLN支配地域の取材に向かっていた。後に真実委員会の調査で、事件は第4歩兵師団司令官のマリオ・レジェス・メナ大佐が直接命令したものであったことが判明。

3.18 FMLN,ドゥアルテ政権に対し交渉開始をよびかけ.

3.20 米国務省,カストロが1981年12月,エルサルバドルへの武器援助強化を指令したと発表.

3.26 ERPは5百人の兵力で東部の町ウスルタン周辺を攻撃.ウスルタンの南14キロのプエルト・パラダを制圧.作戦中に制圧した町は三つとなる.

3.28 制憲議会選挙.米国に後押しされたキリ民党は40.3パーセントを獲得し,第一党となるが,ARENA(29.3パーセント),PCN(19パーセント)を初めとする右翼5党は60%の得票率を獲得.ARENAの脅迫を受けたドゥアルテはベネズエラに亡命.

3.28 ホンジュラス陸軍,エルサルバドル・ゲリラの侵入を警戒し,国境地帯に2,000人の増援.

3.30 ARENAを中心とする極右派5党の連立政権成立.改革派最後の拠点であった農業改革研究所もARENAの制圧下に.

3.30 政府軍,激しい市街戦の末ウスルタン市を制圧.その後政府軍は,大規模な掃討作戦.ERPは深刻な被害を受け大衆蜂起による革命の路線を修正,軍事作戦行動に比重を移す.モラサンに精鋭部隊ラファエル・アントニオ・アルセ・ザブラ軍団(BRAZ)を編制.

3 メキシコで,24カ国千七百人の参加のもとに,「エルサルバドル連帯世界戦線」発足.

82年4月

4.12 新政権からキリ民党を排除しようとするARENAにたいし,米国大使ディーン・ヒントンは2千5百万ドルの援助凍結を切札に干渉.ARENAはキリ民党,右派との連立政権組織に合意.

4.20 ラジオ・ベンセレーモス,メーデーを期して一斉ほう起を呼びかけ.

4.29 制憲議会発足.民主行動党(AD)のアルバロ・マガーニャを暫定大統領とする.三人の副大統領は,ラウル・モリナ・マルティネス (PDC), ガブリエル・マウリシオ・グティエレス・カストロ (ARENA) とパブロ・マウリシオ・アルベルグ (PCN).ダビュイソンは国会議長にまわる.副議長の二人はPCNが占める.

82年5月

5.04 テレビ取材班と同行し難を逃れたFMLNゲリラの“マルティン”、オランダにおいて暗殺の経過を証言。取材班がサンサル北方のサンタリタでFMLNメンバーと接触した直後、ライフルで狙撃されたという。

5.01 メーデー蜂起,不発に終わる.その後,事実上都市蜂起の可能性は消滅.

5.24 米州人権委員会、パンチマルコ県プエルタ・デル・ディアブロで,「死の軍団」の秘密墓地が発見されたと発表。150人の暗殺犠牲者の死体が投げ捨てられていた.

5.27 エル・プラヨンの秘密墓地でキリ民党員6名の死体が発見される.ドゥアルテ前大統領は,一連の虐殺事件で「彼らは何百人ものキリ民党員の殺害に責任を持っている」と公式に極右を非難.

5 モラサンとチャラテナンゴに,数千の政府軍が侵入.ジェノサイドを繰り返す.FMLNは政府軍550人を死傷させ,数機のヘリコプターを撃墜し,モラサンで前線視察中のカスティージョ国防次官のほか百名以上を捕虜とするなど陣地の維持に成功.シンケーラで政府軍捕虜のうち悪質分子を処刑.政府はFMLNの虐殺と大宣伝.

5月 立法府の主導権を握ったダビュイソンは,暗殺実行部隊「反共軍」(ESA)を結成.議事堂を死の軍団の根拠地に変える.ダビュイソンの右腕レガラドは、国会議長付きの警護主任となり、議長オフィスから暗殺団に指令を下すようになる。

7 ホンデュラス軍2千名,エルサルバドルとの共同作戦で,国境を越えゲリラ攻撃.

82年8月

8 サンサルバドルバドルのRN地下活動指導者サウル・ビリャルタ,行方不明となる.

8.03 マガニャ大統領,主要4政党とアパネカ(Apaneca)協定に調印.経済再建,総選挙実施,人権擁護等を公約.下院法令6号公布.農地改革のフェーズIIIの実行を停止.

8.20 政府軍,サンビセンテ県北部のLos Cerros de San Pedro地区を対象として、「マリオ・アセノン・パルマ中佐」作戦と呼ばれる平定作戦を開始.中核となるアトラカール軍団は、急速配備歩兵大隊(BIRI)と呼ばれる最新装備の対ゲリラ作戦部隊。この他に、航空兵力、砲兵部隊など延べ6千人が動員される。。

8.22 アトラカール軍団、アマティタン・アバホ村のカラボソ(El Calabozo)部落に近隣の農民を追い込んだ上、女性,子供,老人2百人を集め虐殺.作戦全体で300ないし400の民間人を殺傷。

8.22 リベラ・イ・ダマス大司教,最近2週間で270人が殺されたことに関して政府軍と極右暗殺部隊を非難.

8.31 「困窮難民救済のための全国委員会」(CONADES),国内難民の数が226,744人に達したと報告.この時点でラテンアメリカ諸国への亡命者は20万から30万人と推定される.

8月末 クリスチャン・リーガル・エイド,1月から8月までの内戦犠牲者は約3千名と発表.米大使館は,確認された死者の数が合計5,639人に達したと報告.半数はゲリラ,残りの半数が民間人と推計.

9.08 ワシントン・ポストにおいて、カラボソ虐殺事件の概要が報告される。ガルシア国防相は、「軍として調査を行ったが、虐殺があったとする証拠は見つからなかった」と反論する。

82年10月

10.26 FMLN=FDR,無条件対話をよびかける「5項目提案」を発表.政府はただちに拒否.

10 FMLN,「十月作戦」開始.モラサン州のほぼすべて,チャラテナンゴ州の北半分を支配下におく.

10 駐エルサルバドル大使ディーン・ヒントン,「死の軍団」を批判する談話を発表.レーガン政府は「ディーン談話は公式に確認されたものではない」と否定.ヒントンに対し,批判的言動を慎むよう訓辞.

11.06 FMLN,サンサルバドルバドルで都市ゲリラ攻勢開始.

11.12 政府軍5千名,サンサル北方のホンジュラス国境で,10日間にわたる左翼ゲリラ掃討作戦.「四つの地区を回復し,232人のゲリラを殺害,政府軍にも20人の犠牲者」と発表.

11 PRTC,コスタリカで日本人ビジネスマン,テツイ・コスガを誘拐しようとして失敗.

12.03 レーガン米大統領,中南米諸国を歴訪したあとマガニャ大統領と会談.

12月 リーアグ・エイド,82年度の民間人死者は5,962人.「彼らのほとんどは,戦闘に関与していない民間人に対する,政府機関職員の不当な行動の結果,犠牲となった」と指摘.

 

1983年

83年1月

1.10 北部地帯でゲリラの反撃作戦が開始される.

1 極右派のオチョア対ゲリラ戦司令官,米国追随のガルシア国防相辞任を求め反乱,カバーニャス県を封鎖する.

1 ホンデュラス空軍,モラサンのFMLN支配区を空爆.

1 FPL中央委員会開催.「中米のホーチミンをきどる」カルピオの独自路線に対し,他のゲリラとの組織統合を主張する意見が多数を占める.PRTC,第三回大会を開く.5派の統合司令部結成を提起.

83年2月

2.03 ウスルタン県山間部の町ベルリン,FMLNの手に落ちる.政府軍,ベルリン市を空爆.FMLNは戦略的撤退.

2.4 カークパトリック米国連大使,中米事情を視察し,対エルサルバドル軍事援助増額を大統領に進言.

2.6 シュルツ国務長官,FMLNを武力で権力をねらう集団と非難,交渉を拒否.

2.22 サンサルバドルバドル北方グアサパで,ゲリラと政府軍とが激戦を展開.

2.22 カルロス・アルフォンソ・フィゲロア・モラレス大尉の指揮するジャガー大隊、ソンソナテ県サンアントニオ・デル・モンテ郡のラス・オハス(Las Hojas)村で作戦を展開。16人の無抵抗な農民活動家を射殺し、Cuyuapa川に投げ込む。

2.28 レーガン大統領、カークパトリック国連大使の進言を受け,83年度対エルサルバドル軍事援助の6千万ドル増額(総額2億5千万ドル)を議会に要請.

83年3月

3.01 政府軍,ゲリラが呼びかけたローマ教皇訪問中の一時停戦を拒否.

3 ローマ法王ヨハネ・パウロ二世,エルサルバドル訪問.右翼の期待を裏切り,アルトゥーロ・リベラ・イ・ダマスをエルサルバドル大司教に任命.

3.3 米国務省,在エルサルバドル軍事顧問を20名増員.

3.06 マガニャ大統領,年内に大統領選挙実施と発表.

3.08 FMLN,各地で攻勢再開.

3.10 レーガン米大統領,エルサルバドルへの1億1000万ドルの緊急軍事援助を発表.

3 FMLN5派に統合軍事司令部設置の動き.この提案に対し,FPLのカルピオは自派優先の立場から抵抗.政府との停戦交渉にも反対の立場に固執.FPL第2の指導者アナ・メリンダ・モンテス(通称アナマリア)は統一派の先頭に立つ.

83年4月

4.6 軍事統合路線に傾いた,アナマリア司令官(アナヤ・モンテス),保安・情報関係の責任者ロヘリオ・バサグリア(マルセロ司令官)により査問の上殺害される.ナイフとアイスピックで殺されたという.バサグリアはカルピオの信奉者と目されており,査問には5人の「同志」も立ち会ったとされる.

4.08 FMLN総司令部,政府軍に対する総攻撃を指令.

4.9 カルピオ,外遊先のリビアからマナグアに戻り,アナマリアの葬儀に参加.

4.11 バサグリアはアナマリア殺害がカルピオの指示によるものであったことを自白.ニカラグア当局はカルピオを自宅監禁し尋問.その直後,カルピオはカダフィ大佐からもらった拳銃で胸を撃ち自殺.遺書の中でカルピオはアナマリア殺害への関与を否定,彼を追い込んだ小ブル急進派の陰謀を批判したという.一説によれば旧友ボルヘ内相の圧力を受けたのが引き金となったという.

4 米国追従派のガルシア国防相,極右派包囲の中で辞任する.後任にダビッソン直系のエウヒニオ・ビデス・カサノバ将軍,新設された統合参謀本部議長にはアドルフォ・O・ブランドンが就任.

4月 FPL内のカルピオ派は主流派の「拡大参加政府」構想に反対しFMLNから離脱.「カエターノ・カルピオ革命的労働者運動」(MOR)を結成.そのコマンド部隊「サンサルバドルバドル都市戦線」の一部は「クララ・エリザベス・ラミレス戦線(FCER)」を名乗り,米軍事顧問や軍幹部,反動政治家を誘拐するなどの作戦を展開.

4 FMLNと政府,初めての直接交渉.

83年5月

5.01 ギャラップ調査で,米政府のエルサルバドル政策支持が44%と上昇,レーガンの支持率も47%(前回42%)に達する.

5.04 制憲議会,政治的行動に参加した民間人に対し恩赦を認める法案を可決.死の軍団関係者が刑を免れることになる.

5.11 米下院外交委員会,エルサルバドルへの軍事援助継続を承認.同政府とゲリラ側との交渉を条件とする付帯決議.

5.24 FMLN,北部国境チャラテナンゴ県に地域統治評議会を設置.同県に革命政府を樹立すると発表.

5.25 FCER,米海軍軍事顧問一人を暗殺.

5.27 対中米強硬派の圧力により,エンダース米州担当国務次官補更迭.

5.29 ディーン・ヒントン駐エルサルバドル大使更迭.

83年6月

6.09 FMLN,内戦終結のため米国と直接交渉を提案.

6.17 マガーニャ暫定大統領訪米.

6.20 PRTCのマルドケオ・クルス,サンサルバドルバドルに地下戦線を再建中戦死.

83年7月

7.07 ストーン米大統領中米特使,エルサルバドル反政府勢力との対話のため中米諸国歴訪.ルベン・サモラFDR代表と会見するなど対話の道を探るも失敗.

7.30 マガニャ大統領,年内予定の大統領選を1984年に延期すると発表.

7.31 ジーン・カークパトリック国連大使がエルサルバドル訪問.大使公邸にダビュイソンらを招き,ディーン大使とともに会食.

7 ケイシーCIA長官,エルサルバドルを訪問.財務警察長官ニコラス・カランサ大佐と会談.キリ民党を「やっつける」(knock it off)よう指示.解禁された上院情報委員会文書によれば,CIAはカランサ大佐をエージェントとし,年間9万ドルを支給.カランサの手兵は「死の軍団」のなかでももっとも凶暴な部隊と恐れられていた.

7 政府軍「サンビセンテ平定作戦」を展開,FMLNはサンビセンテからの撤退に追い込まれる.

8.29 政府側平和委員会とFDRの代表がボゴタで初の会談.ベタンクール大統領の斡旋による.

83年9月

9.03 ERP,サンミゲル市周辺で大攻勢,政府軍兵士15人が死亡.

9.13 FPL中央委員会開催.レオネル・ゴンザレスを書記長に選出.ゴンサレスはアナマリアのもっとも強力な支持者でERPとも良好な関係.当時エルサルバドル国内で闘っていたため,事件には無関係.軍事指導には第二書記のバレンチン・ディマス・ロドリゲスがあたる.ナンバー3には都市戦線を指導するナポレオン・ロメロ・ガルシア(ミゲル・カステリャノス司令官),リカルド・グティエレス,サルバドール・ゲーラなどが指導部に選出.新指導部はFMLNへの結集を基本路線とすることで意思統一,ERPのビジャロボスを最高司令官とする統合軍事司令部の設置を受け入れる.いっぽうでFCERを除名.この決定に服従しない司令官7人が粛清されたといわれる.

9 FMLN(ERP),連続的大攻勢を開始.次々に政府軍の戦略基地を打破する.攻撃規模も従来の小体規模から,500名を動かす作戦能力を獲得.サンビセンテの旧支配区奪回のほかウスルタンにも浸透.かなりのFPL兵士がERPに移籍.

10 死の部隊による暗殺,ふたたび活発化.

10 CIA,「エルサルバドルでの右翼テロに関するブリーフ」を提出.軍内の「死の部隊」支持者の一人としてポンセをあげる.

11.01 ERP,東部で大攻勢.二日間の戦闘で政府軍兵士90人が死亡.

11.12 米議会,6480万ドルの対エルサルバドル軍事援助を条件つきで承認.

11月 制憲議会,12月の大統領選挙を翌年3月に延期することで合意.

83年12月

12.11 ブッシュ,新憲法の公布を前にエルサルバドルを訪問.NSCのオリバー・ノースも同行.死の軍団の行動をチェック.

12.15 新憲法が公布される.米国はこれを機に議会でエルサルバドル援助正式決定.エルサルバドル訪問中のブッシュ副大統領は,極右軍人排除の方針を指示.対象となる軍人を名指しで指示.ガルシアに代わりビデス・カサノバが国防相に就任.

12 FMLN,統合軍事司令部を設置.ゲリラ戦と正規戦を結合させる「軍事闘争」路線を確認,定式化.ベトナム解放闘争を規範とする.首都での活動は政治的な面に限り,テロ活動は行わないと声明.
全国を5つの戦線に分ける.(1)フェリシアーノ・アモ西部戦線:アワチャパン,リベルタ,サンタアナ,ソンソナテ県 (2)モデスト・ラミレス中央戦線:クスカトラン,サンサルバドルバドル,カバニャスとラパス県の一部 (3)アナスタシオ・アキノ中部周辺戦線:カバニャス,ラパス,サンビセンテの各一部 (4)フランシスコ・サンチェス東部戦線:ラ・ウニオン,モラサン,サンミゲル,ウスルタンの各県 (5)アポリナリオ・セラノ北部戦線:チャラテナンゴ県.

各構成組織の動向: 最大組織FPLは北部,中部,西部の戦線で活動.25人余りの司令官からなる総司令部が戦闘を指揮,政治指導は革命評議会=中央委員会=政治局があたる.軍事機構はEPL(解放人民軍)と呼ばれ,「前衛部隊」「ゲリラ部隊」「都市戦線」に分けられる.共産党の軍事組織FALもグアサパ地方に拠点を持つが,主要な作戦はFPLとともに北部,中部で展開.
ERPは政治組織としてエルサルバドル革命党(PRS)を持ち,9人の司令官からなる総司令部が指導.軍事機構はラファエル・アルセ・サブラ旅団(BRAZ)と呼ばれ,東部戦線で活動.BRAZはそれぞれいくつかの部隊を持つ二つの連隊に分かれる.
FARNは主要な根拠地をグアサパ火山の山麓地帯に置き,軍事機構を民族抵抗(RN)と称する.FARNの書記長と副官たちが指導部を構成する.
PRTCは軍事機構として革命的人民解放武装勢力(FARLP)を構成.単独での行動はなく,他のゲリラと共同して戦闘に参加している.FARLPとは別に,マルドケオ・クルス都市ゲリラ部隊がサンサルバドル市内でサボタージュとテロ活動を展開.

12.30 FMLN,チャラテナンゴ県エルパライソの第4大隊基地を襲撃.3百人を殺傷,1週間にわたり確保.

12 ブッシュ副大統領,エルサルバドルを訪問.「死の軍団」を厳しく批判し,人権違反と関係する特定の軍・保安部将校の除去を要求.当局に悪質軍人のリストを手渡す.

1984年

84年1月

1.1 FMLN,レンパ川にかかる要衝クスカトラン橋を攻撃,爆破.BRAZ,新たに西部戦線にも配置.

1 中米問題超党派委員会(キッシンジャー委員会),「戦争は長い目でみれば,ゲリラ側に有利な状況」と報告.軍事援助の増強を訴える.

84年2月

2.03 エルサルバドル前大使ロバート・ホワイト,ワシントンポストのインタビューに答え,「ダビュイソンがロメロ殺害を指示した.彼は誰がロメロを殺害するかを選んだ.レーガン政権は,それを知っていて隠している」と述べる.目撃者の話を米大使館は聞いていたという.

2.19 政府軍機,ゲリラに撃墜され数十人が死亡.

2 FMLN=FDR,「暫定政府構想」提案.

3.24 大統領選.過半数を制する候補者なく,ドゥアルテとダビュイソンの決選投票に持ちこまれる.FMLN,各地で選挙妨害作戦を展開.

3.31 前エルサルバドル軍特殊情報部長ロベルト・サンティバネス大佐と財務警察総監のニコラス・カランサ大佐,米上下両院議員の前で証言.ダビュイソンが死の軍団の実質的指導者であることを明らかにする.カランサはCIAの情報提供者として年9万ドルの報酬を得ていた(79〜84).

3月 ダビュイソンがテレビで選挙演説。FMLN司令官の一人「ペドロ・ロボ」が、ロメロ暗殺に加わったと告白したと語る。そして「証拠」となる録音テープを流す。またロボが79年から81年まで一般刑事犯として収監されていたと付け加える。

4.05 米上院本会議,エルサルバドル政府軍とコントラに対する緊急軍事援助法案を可決.

4.13 レーガン,下院での承認を待たず,エルサルバドル緊急軍事援助を強行.これをテコにエルサルバドル政府軍内でのドゥアルテ支持を求める.

4 ダビュイソン,米大使暗殺を企てるも失敗.

84年5月

5.06 決選投票の結果,ドゥアルテ候補が米国のテコ入れによりダビュイソンに辛勝,「大統領」に就任(CIAより140万ドルがドゥアルテに).

5.08 クリスチャン・サイエンス・モニター紙,エルサルバドルの政府筋からの情報として,「CIAとペンタゴンの顧問は,軍と情報機関に働きかけ,死の部隊と拷問を組織した」と報道.

5.09 レーガン,ドゥアルテ勝利を受け,エルサルバドルやコントラへの援助をさらに増強すると演説.

5.17 大統領就任を前にしたドゥアルテ,ホンジュラス,コスタリカ,グアテマラを訪問し会談.このあとアメリカを訪問.ドゥアルテと会見したレーガンは,1億3250万ドルの対エルサルバドル軍事援助を約束.

5.21 国際アムネスティー,暗殺部隊により過去5年間に4万人が殺されたとの報告書を発表.

5.24 尼僧殺害事件の実行犯、実刑で30年の刑に処される。

6.01 ドゥアルテ,大統領に就任.

6.24 米民主党のジャクソン大統領候補,パナマ市でFMLN=FDR代表と会談.

6.25 ジャクソン,エルサルバドルを訪問しドゥアルテと会談.このあとキューバへ向かう.

6 ダビュイッソン,ヘルムズ上院議員とともにCIAの選挙買収工作を非難.ピカリング米大使をCIAエージェントと糾弾.暗殺を画策.

84年7月

7.14 サンサルバドルバドル近郊で列車爆破.死者20人.

7.15 ドゥアルテ,欧州・米国を歴訪開始.

7.23 ドゥアルテ,訪米しレーガンと会談.米国の中米政策を支持するむね表明.

7 政府軍,FMLN「支配区」に無差別爆撃開始.また米国AIDの資金援助のもとに,村落に対する無差別攻撃をやめ,住民を移住させたうえで攻勢をかける戦略村作戦を導入.以後,戦況は膠着状態に.

8.02 武装ゲリラ,サンサルバドルバドル郊外の銀行を占拠するが,翌日には投降.

8.14 ドアルテ大統領,「ニカラグア政府のゲリラ支援を非難する文書を国際司法裁に送った」と国会演説で発言.

84年10月

10.05 米上院情報委員会,「死の部隊は当初,財務警察,国家警備隊,警察によって作られ,保安・軍関係の何人かの高官が運営し,多数の現職スタッフが参加している」との報告.報告の中で,ロベルト・サンティバネス(78年から79年までANSESAL長官)の証言が明らかにされる.証言によれば,サンティバネスは自ら死の部隊の活動に従事し,CIAを通じて米国との関係を持っていた.ニコラス・カランサ大佐も,アレーナや国家和解党などと広い人脈を持ち,同じようにCIAと関係していた.

10.8 ドゥアルテ,国連総会で和平対話の開始を提案.寡頭勢力を代表する経済団体の民間企業国民協会(ANEP)は提案を歓迎.ダビュイソンのほか,第二師団司令官シギフリド・オチョア,空軍司令官ブスティリョ将軍などは強硬に反対,ドゥアルテ辞任を求める.

10.09 FMLN=FDR,ドゥアルテ提案を受諾.

10.15 ドゥアルテ大統領とFMLN=FDRの直接交渉がゲリラ支配区のチャラテナンゴ県ラ・パルマ市で開かれる.FDRからウンゴ,サモラ,FMLNからシエンフエゴス(FARN),ニディア・ディアス(PRTC)が参加.ドゥアルテ大統領,ゲリラに対する無制限恩赦等を含む10項目の和平案を提示.両者,合同委員会の設置と第2回会談の開催に合意.

10 台湾がえりのドミンゴ・モンテローサ中佐に率いられたアトラカール旅団,北部制圧作戦を展開.モラサン県北部のFMLN拠点ペルキンを奪取.モンテローサはホアテカ(Joateca)でラジオ・ベンセレーモスを破壊したと記者会見.数日後にはゲリラの反攻により撤退.モンテローサ司令官はヘリにしかけられた爆弾により死亡(一説にゲリラにより撃墜).同乗したエRソン・カリート,ホセ・アルマンド・アスミティア少佐など幹部多数をうしなう.

84年11月

11.30 アヤグアロでの第2回和平交渉.FMLN,平和と国家再建のための基本的提案を発表.クリスマス休戦に合意.会談はゲリラ軍事組織の存廃をめぐり決裂.

11 人権団体国際会議開催.113の団体から300人の代表が出席.エルサルバドル政権を非難.

84年12月

12.11 24−26日のクリスマス停戦,31日−1月2日の新年停戦を実施すると声明.

12.25 FMLN,クリスマス休戦を一方的実施.政府軍は攻撃続行.クリスマス休戦2日目で戦闘再燃.米国の全面的テコいれを受けた政府軍は大攻勢に移る.政府軍,ラパルマを占拠,FMLN兵力は急減,支配区をほぼ喪失.ドゥアルテ訪米,交渉打ちきりを声明.同時にニカラグアの「干渉」を非難.

12 PRTC,都市コマンドとして”マリオ”司令官の下に「マルドケオ・クルス部隊」を編成.

12.30 FMLNの地下活動指導者ジャネット・サムール,マキシマ・レイエス,捕らえられ行方不明となる.

12月 この時点で国内難民は50万人,国外難民は245,500人に達する.

 

1985年

1.02 下院情報委員会,情報機関と死の軍団の関係を調査.情報機関は「直接,死の軍団の活動を指導・援助するようなことはなかった.しかし何人かは死の軍団関係者と関係していたかもしれない」との年次報告.CIAが死の部隊による暗殺を「気づいていた」ことを示唆する.

1.23 軍事的劣勢に追い込まれたFMLN各派,テロ活動を強化.選挙妨害のため極右派候補を暗殺.

2月 CIA秘密報告(後に公開).「アレーナは合法的な見かけをとっているが,実体はダビュイソンの率いるテロリストの連合体である.構成員の主体は現役あるいは退役将兵であり,死の部隊「秘密反共軍」が中核となっている」

85年3月

3.23 ORDEN創設者のホセ・アルベルト・メドラーノ将軍,ゲリラの手により暗殺される.メドラーノは84年以来病気入院中だった.政府軍スポークスマンのシエンフエゴス大佐もゲリラにより暗殺.

3.31 「国会選挙」おこなわれる.米国のドル攻勢のもとでドゥアルテ陣営が過半数をしめ勝利.軍を代表しカサノバ国防相が選挙不介入を宣言.ARENAは分裂し,ダビュイソンは一時引退する.

3 FMLN,劣勢の中で方針転換.組織的結合をさらに強め独自の党の結成をめざす.戦略的には,「解放戦争路線」を放棄し小部隊中心の戦闘を余儀なくされる.一部は正規戦を捨てゲリラ戦主体の作戦に復帰.

85年4月

4.11 FPLナンバー3で「首都戦線」書記長のナポレオン・ロメロ・ガルシア(ミゲル・カステリャノス司令官),ラパス県のオロキルタ(Olocuilta)捕らえられる.

4.18 PRTCのニディア・ディアス司令官,サン・ビセンテ県サン・エステバン・カタリーナ近郊の農村セロス・デ・サンペドロ(アンゴストゥーラ基地)で作戦中,キューバ人傭兵フェリス・ロドリゲスの指揮する軍のヘリ攻撃にあい負傷逮捕される.FALのマリオ・アルギニャダは捕らえられた後行方不明に.

4.20 パナマのホテル・カピタリーノでFMLNのサルバドル・サマヨアとマリオ・アギニャーダが軍部と3時間にわたる非公式接触.FMLNはニディア・ディアス,サムール,カステリャノスの逮捕を認めるよう迫る.

4.21 FMLN総司令部,ラジオ・ベンセレーモスを通じてジャネト・サムール,ディアス,カステリャノス司令官の逮捕を認めるとともに,軍部およびドゥアルテに対し虐待をやめるよう警告.

4.25 カステリャノス,テレビに出演.エルサルバドルではすでに民主主義の過程が開始されており,ゲリラの存在理由はもはやなくなったと表明.

5.14 ドゥアルテ,3度目の訪米(大統領としては二回目).レーガンと会見し6千2百万ドルの緊急軍事援助を要請し認められる.米国の指示を受けたドアルテは,帰国後,マリオ・デニス・モラン中佐,ニコラス・カランサ大佐を解任.モランは米政府派遣の労働問題担当顧問2人がシェラトン・ホテルで殺害された事件の首謀者.カランサは財務警察部(最悪の治安機関)の責任者でダビッソンの暗殺隊に実行部隊を送っていたとされる.

85年6月

6.12 ニカラグアのFDN,ARDEと反政府野党がサンサルバドルバドルで会談.ニカラグア反政府連合(UNO)を結成する.

6.18 マルドケオ・クルツ部隊,「米国の侵略者よ,第二のベトナムが待っているぞ」作戦を決行.サンサルバドルバドル市内の繁華街ソナロッサのバーを襲撃.米大使館付きの海兵隊員4人を含む13人を殺害.FDRのウンゴは「民間人をまきこむ作戦はわれわれの方針に反する」と声明.部隊はその後の弾圧で壊滅.

6.25 FMLN,国内駐留米軍人に対し「宣戦布告」.

6 FMLN,千名でサンタアナ攻撃.通信施設などを破壊.

6.26 PRTC幹部アルレン・シウ・グアサパ,サンミゲル県北部の戦闘で死亡.

85年7月

7 極右の大物エドウィン・コー,エルサルバドル大使に就任.3年の任期中に徹底した都市ゲリラ殲滅作戦を指示.ほぼ壊滅に追込む.

7 4百人からなるFMLNコマンド,サンサルバドルバドル市内の刑務所を襲撃,政治犯13名を含む104名を解放.

8.9 FALナンバー2のウーゴ司令官,オクタビオら逮捕される.

9.10 PRTC(一説にFAL系)のコマンド,”ペドロ・パブロ・カスティージョ”部隊,ドゥアルテ大統領の長女イネス嬢を官邸近くで誘拐.

85年10月

10 FMLN,大統領令嬢と引き換えに34人のFMLN捕虜と29人の政治囚の釈放を要求.さらに逮捕した市長など政府側の地方幹部23人と,負傷した捕虜96人の交換を提案.ドゥアルテの要請を受けたリベラ大司教とエジャクリア神父,スチトトのアグアカヨでFMLNのファクンド,ルシオ,ロヘリオ,エドワルド,アルミホ司令官と会見.

10.10 FMLN,結成5周年を記念して各地で一斉攻撃.ホルヘ・メレンデス司令官(ホーナス),およびマリオ・アルベルト・ミハンゴのひきいるERP部隊は,ラ・ウニオン港から2キロの陸軍軍事訓練基礎センターを攻撃.アルセ,ヒボア,第一旅団などのエリート部隊千9百の駐屯する基地への攻撃で272人を死傷,兵営を破壊し大量の武器を捕獲することに成功.

10 FMLN,政府軍のオマール・アバロス大佐を拉致.地方の軍幹部は,令嬢釈放をめぐるドゥアルテの軟弱姿勢に一斉に反発.交渉は暗礁にのりあげる.

10.20 パナマで14時間にわたる捕虜交換交渉.FMLNからはサマヨア,マリオ・アギニャダ.立会いとしてリベラ大司教,グレゴリオ・ロサ・チャベス,イグナシオ・エジャクリア神父が列席.

10.24 ドゥアルテ大統領の娘との捕虜交換で,ゲリラと政府との交渉成立.ニディア・ディアス(PRTC),アナ・グアダルーペ・マルティネス(ERP),ファクンド・グアルダード(FPL),フェリペ・フィアロス(FPL),マヨ,マルコス,ガリアら司令官など96名のFMLN負傷捕虜と3名の政治囚が交換に釈放され,ハバナに脱出する.

10 ダビュイッソン,ARENA党首を辞す.後任にフレデリック・クリスティアーニ.実権はいぜんダビュイッソンが掌握.

85年12月

12.24 政府とFMLN,1月2日までのクリスマス停戦に合意.前線指揮官はこの指令を無視.オチョア大佐は公然とクーデターをよびかける.

12 国立自治大学主催による第2回平和行進.ウンゴとアンダルは共同でメッセージをおくり,すべての社会勢力の参加する暫定政権の樹立を訴える.

 

1986年

1月 政府の「犯罪行為調査団」(CIHD)、ロメロ暗殺事件の調査を開始する。

2 ドゥアルテの黙認の下に全国労働者連合(UNTS)結成,50万人の労働者を網羅.ERPはべつに労働者人民同盟(LPO)を結成.

3.12 ハビブ米大統領特使,エルサルバドル訪問.

4 FDRのサモラと政府のプレデス文化相,ガルシア大統領の仲介でリマで会談.

5.01 UNTS,メーデーに十万人を動員,ドゥアルテ支持の人民民主連合やエルサルバドル労働者センターも参加.AFL-CIO国際部長でCIAエージェントとして知られるアービング・ブラウンも,組合幹部への死の部隊による攻撃を非難.「暴力的抑圧をやめ,人権状況を改善する」よう要求.

6.02 ウンゴFDR議長,ドアルテ大統領の和平会議再開の呼びかけに応じると言明.

6.18 FMLN,サンミゲルで85年以降最大の作戦を展開.政府軍46人が死亡.

7月 米大使館と米州人権委員会の要求を受け、ラス・オハス虐殺事件(83年2月)の再審が開始される。作戦主任のゴンサレス・アラウホ大佐、レオン・リナレス少佐、直接指揮者のフィゲロア・モラレスが起訴される。1年後、結局無罪となる。

8.18 メキシコで和平会談予備会議,ダマス大司教を仲介に開始.FMLNからはサマヨア政治外交委員が出席.

8.21 FMLN,停戦のための対話を受け入れると表明.サンサルバドルバドル近郊のセソリで第3回和平会談をおこなうことで合意.

9.19 政府とFMLNとの第3回和平会談.安全性が確保されないとするゲリラ側の欠席のため失敗.

86年10月

10.10 サンサルバドルバドルを中心に大地震.千5百人が死亡,30万人に被害.

10.11 FMLN=FDR,地震のため一方的停戦を実施,ドゥアルテは停戦拒否.

11 イロパンゴ空軍基地が,コントラの出撃基地になっていることが,ハーゼンファス事件で暴露.

86年12月

12 UNTS,「内戦につながる米国のすべての援助の中止」を決議.

12 ドゥアルテ,震災に対する援助を国連に訴え

12 ドゥアルテの結成した御用組合の全国労働者農民同盟,地震後の物価騰貴と土地改革挫折の中で急速に左翼化.民主人民連合(UPD)に続きUNTS支持を表明.

12 政治囚8百人,弾圧法撤廃を要求しハンスト

12.28 国連第3委員会,エルサルバドルの深刻かつ頻繁な人権侵害を告発する決議を採択.

 

1987年

87年1月

1.8 ドゥアルテ,「極右によるクーデターの危険がある」と訴え.

1.9 FMLN,攻勢開始.北部,東部への交通路を遮断.

1.17 「国家主権税」という名の戦争税創設,ドゥアルテは財界もふくむ猛反発を受け孤立.UNTS,社会諸勢力による新政府の樹立を訴えデモ.4万人の動員に成功.

1.22 政府の経済政策の転換をもとめて24時間ゼネスト実施.商業機能90%が停止.

1 ワシントン駐在武官にとばされたオチョア大佐,クーデターを計画するも発覚し未遂に終わる.

2 FMLNの要求した負傷捕虜の釈放,アバロス大佐との交換により実現.

87年3月

3.11 チャラテナンゴで,FMLNによる攻勢開始.

3.28 ブランドン参謀総長,「ゲリラの戦力は1万2千から4千人に減少,軍事的勝利の展望を喪失」と発表.

3.31 8百人のFMLNゲリラ,チャラテナンゴのエルパライソ基地を襲撃.米軍事顧問一人を含め百人近くが死亡.

4 ニディア・ディアス,「メリダ・アナヤ・モンテス記念サルバドル女性解放同盟」議長および人権保護推進委員長に就任.

5.1 FMLN,サンフランシスコ・ゴテラの陸軍基地を襲撃.兵士12人が死亡.

87年8月

8.7 エスキプラス合意成立

8.12 ドゥアルテ,停戦交渉再開のよびかけ.FMLN,8年にわたる内戦の終結に向けて政府との対話を受け入れると発表.

8.14 エスキプラス合意にもとづき国民和解委員会設置.教会代表としてレネ・ロベロ大司教,政府代表カスティーヨ副大統領,野党代表としてARENAのクリスティアーニ,民間著名人としてマガーニャ前大統領が参加.

9.15 コスタリカで予備交渉.ドゥアルテはFMLNの5司令官全員の出席を要求.

9.22 FMLN,ドゥアルテの提示した条件での交渉を受諾.

87年10月

10.4 サンサルバドルバドルにて和平交渉再開,5司令官が集結.エスキプラス合意を停戦会談の基調とする,交渉のために二つの委員会を設置することで合意.

10 ドゥアルテ,米国訪問.中米問題への米国の干渉を控え,自主的解決に任せるよう訴える.

10.21 政府とFMLNの第2回交渉.停戦合意には至らず.

10.26 軍部,和平会談の妨害を計るため人権擁護委員会のエルベルト・アナヤ委員長を暗殺.数千人が抗議のデモ.アナヤはエルサルバドル人権委員会の8人の創設者のうちの,ただ一人の生き残りだった.暗殺に先立つ脅迫のあいだ,ドゥアルテも米政府もなんらの対策を講じなかった.

10.28 恩赦法成立.ロメロ暗殺犯と今回のアナヤ暗殺犯は対象から除かれる.FMLNは交渉拒否,戦闘強化を宣言.FDRは交渉継続を主張し,FMLNとのあいだにくいちがいを生じる.

87年11月

11.5 政府,恩赦法を制定.15日間の一方的停戦を実行.軍部は,この指令を無視して戦闘を続ける.軍内では,低水準戦争戦略に反対し全面戦争に入るべきとする強硬派(タンドナ派)が中枢をにぎる.タンドナ派は,1966年国立軍事学校卒業生を中心とするグループ.レネ・エミリオ・ポンセ大佐を頂点とする.

11.10 政府軍,チャラテナンゴで掃討作戦開始.

11.22 FDRのウンゴとルベン・サモラ,メキシコより帰国.国内活動にはいる.FMLN,ウンゴらの帰国にあわせ,24日から3日間一方的停戦に入ると発表.国民にFDR幹部の安全監視を訴える.キリ民党,「死の部隊」告発キャンペーンを開始.背景に米国の圧力.ウンゴらの帰国に対し,民主的なポーズで孤立を避ける狙い.

11.20 アマド・アントニオ・ガライ、ロメロ暗殺事件の全貌について証言。検察当局は裁判所に証言と暗殺犯の人相書きを提出。

11.24 裁判所、サラビア元大尉の逮捕を命令。中央選挙管理委員会にダビュイソンの議員免責の停止と出廷を要請。サラビアは人身保護令状を提出し、出廷を拒否。

87年12月

12.18 ドゥアルテ大統領,リベラ大司教が呼びかけたクリスマス休戦に応ぜず.

12 FDRの構成メンバーであるMNRとMPSCに社会民主党(PSD)を加え民主的変換(CD)結成.PSDは86年に結成された中道左派の小政党.サモラは「民主的選挙を実施するための暫定政権の受け皿づくりが目標」と語る.

12 米国,次年度予算に7億ドルの新規援助を計上.内戦開始後の総計は32億ドルに達する.

12 FMLN,87年度の戦果を発表.昨年より23%増の7千4百人に損害を与える.

 

1988年

1 米国の人権団体により,FBIの「エルサルバドル人民連帯委員会」に対する不法捜査が暴露される.

2.04 NYタイムス,「ニカラグアのエルサルバドルへの革命輸出」は米政府によるでっち上げだと報道.これによれば,1986年,米政府がノリエガの協力を得て,ニカラグアからエルサルバドルへ武器を供給する偽装作戦を行ったという.

88年3月

3 サモラのMPSC,選挙法に基づく政党登録の準備を開始.FMLNのテロ戦術をめぐり両者の意見が食い違いを見せる.

3.20 議会選挙と統一選挙実施.ARENAが議会で過半数を制す.キリ民党は過半数を割る大敗.投票率はわずか35%.軍部でも,親米派にかわり極右が主導権をにぎる.

3月 PDC、敗北を機にフリオ・レイ・ブレンデス派,フィデル・チャベス・メネの両派に分裂.影響力は急速に減退。

88年4月 大規模な白色テロ作戦の再開

4.3 ダマス大司教,米国の中米介入を強い調子で非難.

4 FMLN,各地で攻勢を強化.ビジャロボス司令官,「われわれは首都包囲作戦を進行中で,交渉次第では都市での蜂起もありうる」と声明.追い込まれた軍部は都市での白色テロを強化.UNTSの活動基盤は狭められ,指導者はテロを恐れ地下に潜行.

4月 アレーナ,議会ビルの5階を閉鎖.ここを全国本部として,84年ブッシュ訪問以来休眠していた各種テロ組織の再活性化に乗り出す.

5月 ホルヘ・アルベルト・セラノ・パナメノ判事,死の部隊により射殺される.

5 「パン,土地,職,自由を求める運動(MPTL)」発足.反帝,反独裁,反寡占を掲げ活動.

6.01 ドゥアルテ,アメリカで肝臓ガンの手術.

7.11 ドゥアルテ,手術のあと帰国し政務に復帰.ガンの事実は伏せられる.

7.21 UNTSのよびかけで1万人の反政府デモ.

9.13 FMLN,エルパライソの第4歩兵旅団を砲撃.

9.21 サンセバスチアン郡サンフランシスコ村で、ヒボア大隊(Jiboa)が村民10人を拘留。第五旅団調査部長マウリシオ・ヘスス・ベルトラン・グラナドスは彼らを尋問した後、全員を射殺するよう命令。

9 教会のイニシアチブで「和解を目指す国民的討論のための恒久委員会」が結成される.

9月 アメリカズウォッチ,軍による市民暗殺が急速に増えていると警告.87年1年の暗殺数が72人であったのに対し,88年上半期だけですでに52人に達していると述べる.

10.06 ワシントンポスト紙,「死の部隊は活発化し,毎月数百名が暗殺されている.レーガン政権とCIAは,死の部隊にますます依存するようになっている」と批判.

10.09 政府,ドアルテ訪米の目的はがんの治療であったことを明らかにする.

10.24 ビジャロボス司令官ら,コスタリカ大統領アリアスと会見.停戦交渉の斡旋を依頼.

10.26 アムネスティー,エルサルバドルの人権状況を報告.政府関係の情報部からメディアあてに「ブラックリスト」が配布されている.暗殺件数は前年同期の三倍に達している.

10 大統領選への参加を目指す合法左翼政党が合流し,「民主的転換」(CD)を結成.参加した政党はMNRの他,キリスト教社会主義人民運動(MPSC),社会民主党(PSD)国民和解党(PCN),民族民主連合(UDN).大統領候補としてウンゴを指名.

12 最高裁、「ガライの証言は事件後7年以上を経過しており、信憑性に乏しい」として、採用を否定する。

12 FMLN,88年度の戦果を発表.政府軍8千人を死傷,うち3千人は9月からの作戦によるもの.「88年は,対ゲリラ計画の敗北した年であり,人民戦争が決定的な時期に入った年である」と総括.「全国民は蜂起に備えよ」とよびかける

 

1989年

89年1月

1 ルーテル教会の経営する,ラパス県の難民キャンプに爆弾テロ.6人が死傷.

1.16 合同演習「テレンシオラ89」「アワスタラ3」始まる.米兵2千が参加,エルサルバドル国境のサンロレンソ空軍基地の拡張を始めとする各種作戦に参加.

1.24 FMLN=FDRのアナ・グアダルーペ,サマヨア両司令官がメキシコで記者会見し,6項目の新和平提案を発表.選挙法の改正,不在者投票権の保護,軍隊の大幅削減などを要求.これまで掲げていた権力の共有,軍事組織の統合などを取り下げるなど柔軟化.投票の6カ月間延期,軍の弾圧を排し選挙活動の自由を保障する,CDへの安全保障の強化,国際組織による投票監視などを条件に選挙に参加すると声明.米国務省は新提案を「真剣で実質的な検討に値するもの」と評価.

89年2月

2.03 キリ民党,FMLNの6項目提案を受諾と発表.ARENAも,FMLNに議会演説させるため72時間の恩赦を与えるよう提案.

2.03 クエール米副大統領,エルサルバドル訪問.和平への動きを強めるよう訴える.

2.10 エルサルバドル与野党一三党による会談,13日にサンサルバドルバドルでFMLNとの会談を持つことで合意.

2.13 サンサルバドルバドル南東方65キロのラパス県コスタデルソル(テソロ・ビーチ)で中米首脳会議開催.「コントラを90日以内にホンデュラス領内から追放する」ことで合意.同時にニカラグア総選挙の繰上げも要求.ブッシュは合意に反対し,人道的援助を続行すると声明.

2.17 FMLN,裏切り者ナポレオン・ロメロ(通称ミゲル・カステジャノス)を暗殺.

2.20 メキシコで,FMLNの他8政党が参加し,選挙実施のための予備会談.FMLNからはフランシスコ・ホーベル(通称ロベルト・ロカ:PRTC)とシャフィク・アンダルが出席.投票日を4〜6ヶ月延期することでいったん合意するが,双方の軍事力削減の規模,保安部隊の縮小で折り合わず,物別れに終わる.

2.21 サンサルバドルバドル市内の第一歩兵師団司令部の前で自動車爆弾が爆発.アポパ,サカテコルカでゲリラの襲撃により20人以上が死亡.

2.26 ドゥアルテ,大統領選延期提案を受入れると声明.2ヵ月の延期を逆提案.FMLNはこれを拒否.3月4,5日サンサルバドルで和平会談を開催するよう呼びかける.

2.28 政府軍,FMLNとの戦闘を3月1日からドアルテの任期の切れる6月1日まで一方的に停止すると宣言.

89年3月

3.02 FDRのウンゴ議長,訪米.ワシントンで国務省,議会当局者と会談.

3.08 FMLN代表,メキシコで記者会見.選挙強行に抗議し政府との対話拒否.投票をボイコットすると声明.

3.16 FMLN,最終攻勢の準備を呼びかける.ゲリラがサンサルバドル市内の国警隊兵舎を襲撃.

3.19 エルサルバドル大統領選.投票率は50%以下.FMLNとの全面戦争を掲げるARENAのアルフレド・クリスティアーニ・ブルクハルドが53%を獲得し当選,キリ民党のフィデル・チャベス・メナは36%,CDは3.8%の得票に終る.オランダ人記者をはじめ,外国紙ジャーナリスト3人が取材中に暗殺.

3.19 FMLNの大規模攻勢.およそ20の町を同時多発攻撃.

3.20 FDRのウンゴ,CDの敗北を認めるとともに,FMLNのボイコット政策に不満の意を表明.

89年4月

4.6 FMLN,新政権を憲法制定のための選挙管理内閣とするよう提案,クリスティアーニは無視.

4.7 クリスティアーニ,訪米しブッシュと会談.ARENAに対する米国の支持を確認.ブッシュは人権に対する配慮を要請.

4.15 政府軍、PRTCが運営する移動病院を攻撃。病院があったのはサンビセンテ県サン・イルデフォンソ郡エル・トルトゥガル村のカタリナ農場。最初に飛行機と武装ヘリで爆撃した後、降下部隊が病院を襲う。三人のサルバドル人のほかアルゼンチン人医師Jose Ignacio Isla Casaresと、フランス人看護婦Madeleine Marie Francine Lagadecが殺される。

4.19 FMLN,検事総長を暗殺.

5 ドゥアルテ,末期肝臓癌の宣告を受け入院する.

6.01 クリスティアーニが大統領となる.統合参謀本部議長に軍内最強硬派のレネ・エミリオ・ポンセ・トレス大佐が就任.タンドナ派が6つの旅団のうちの5つ,7つの連隊の内の5つ,保安部隊の3つを支配することとなる.

6.01 FMLN,クリスティアーニの大統領就任に抗議し,送電塔の爆破など一連の破壊活動.これにより全土の9割が停電.

6.09 FMLN,サンサルバドル市内で大統領府長官ホセ・アントニオ・ロドリゲスを暗殺.

6.23 FMLNが全国で政府軍に攻撃をかける.双方に数十人の死傷者.

7.4 米大使館で独立記念日祝賀パーティー.ダビュイソンも招かれる.この直後CIAの報告で彼のクリスティアーニ暗殺計画が明らかになる.

89年9月

9.14 国連の仲介のもとにメキシコ市で和平交渉.FMLNからはハンダル,ビジャロボス司令官が出席.

9.15 サンホセで和平交渉再開.政府は無条件の敵対行為中止を求めるのみで具体的成果なし.交渉の定期化で合意するほかは成果なし.

9.20 FMLN,サンミゲルの第三歩兵師団司令官を襲撃.

89年10月

10.15 FMLN,サンミゲルで軍幹部へのテロ作戦を展開.極右組織はルベン・サモラの自宅を爆弾攻撃.

10.16 フェリス・ロドリゲス,マイアミヘラルド紙と会見.「もっともだいじな戦利品はゲバラのパイプとニディア・ディアスのブラ」と発言.

10.18 政府とFMLNによる第2回和平会談,サンホセで開催されるが決裂.

10.20 ホンジュラス当局,ニカラグアからエルサルバドルに運び込まれようとしたトラックを検問,武器を押収したと発表.エルサルバドル軍はニカラグアがゲリラ支援を継続していると厳しく非難.

10.22 ルーベン・サモラ宅に極右による爆弾テロ.本人は無事.ゲリラは統合参謀本部のビルをロケット砲撃.

10.31早朝 「政治囚,行方不明者母の会」(Comite de Madres y Familiares de Presos Politicos, Desaparecidos y Asesinados de El Salvador Monsenor Oscar Arnulfo Romero: COMADRES)事務所入り口に爆弾.子供をふくむ4人が負傷。COMADRESは77年12月にロメロ大司教の提唱で設立された民間組織。

10.31正午 車爆弾,サルバドル労働者連合全国委員会(FENASTRAS)本部前で爆発.幹部十名が死亡,30人が負傷する.FENASTRASは1974年につくられた独立系労働組合連合。25,000人の加盟メンバーと16の加盟労働組合を持つエルサルバドル最大の産業労働組合連合。常に当局により弾圧され、テロの対象となってきた。2.22と9.05にも爆弾が投げつけられていた。

10.31午後 FMLNは爆弾テロに抗議し,政府との和平交渉の停止を発表.11月に予定されたカラカス会談を破棄.

89年11月:「最終攻勢」

11.02 爆弾による犠牲者の葬儀デモ.UNTSはストを組織.軍のヘリコプターが威嚇する中,リベラ大司教を先頭に数千名が参加.

11.03 軍が全国ラジオ局「ラジオ・クスカトラン」を開設。視聴者参加の番組はエジャクリア神父を告発し、その死をもとめる声を放送。

11.11 FMLN,「最終攻勢:ファシスト出て行け!」作戦を開始。首都サンサルバドルバドルを中心にサンミゲル,ウスルタン,サンタアナ,ラパス,モラサンの4つの都市で4千名の大攻勢.大統領公邸および私邸,国会議長公邸、第一、第三、第六歩兵旅団(Brigadaとあるが、おそらく連隊規模と思われる)基地、国家警察本部に攻撃。軍放送局,空軍基地に爆弾攻撃をかけるなど,2週にわたり市内で抵抗.過去9年間の内戦で最大規模の戦闘が展開される.ゲリラの一部は中米大学構内に突入。

11.12 クリスチアーニ大統領,非常事態を宣言し、30日間の夜間外出禁止令を布告.

11.13 参謀幕僚会議、「最終公正」に対する保安措置としてコマンド部隊の設置を決定。中枢地区の保安に当たることとなる。部隊は統合参謀本部議長のレネ・エミリオ・ポンセ大佐が統括し、軍事学校長のベナビデス・モレノ大佐が司令官に任命される。

この「中枢地区」には、面白いことに、政府官庁は含まれない。軍事大学、国防省、統合参謀本部、国家情報局(DNI)などの軍事施設。アルセ街とパレルモ街(高級軍人の住宅地)、米国大使公邸、そして中米大学である。

11.13 政府軍,「ジャカルタ作戦」を開始.貧困者の住宅密集地に空襲,ロケット砲撃するなど無差別攻撃.680人が死亡,5万人が家を失う.ゲリラは市内高級住宅街エスカロン地区に侵入し抵抗を続ける.軍部隊はゲリラ200人の立てこもる中米大学を封鎖し、周囲を包囲。

11.15 18:30 ラファエル・ウンベルト・ラリオス・ロペス国防相、参謀本部と各軍司令官の合同会議を召集。FMLNの攻勢に対する対応を協議。ポンセ参謀総長は、FMLN、労組その他の指導者を「除去」する方針を承認。FMLN支配地域への空爆、砲撃、戦車の使用を決定。

11.15 合同会議の終了後、同じ軍事学校内で,ポンセ参謀総長が緊急非公式会議を召集.イエズス会士殺害計画を決定(93年公開資料).

出席者は空軍司令官フアン・ラファエル・ブスティージョ大佐,第一旅団長フランシスコ・エレナ・フエンテス大佐,ほかにファン・オルランド・セペダ大佐、イノセンテ・オルランド・モンタノ大佐.計画を提出したのはブスティージョ空軍大佐であった。提案を受けたポンセ参謀総長は、軍事学校長ギジェルモ・アルフレード・ベナビデス・モレノ大佐を呼び入れ、指揮を委ねる。さらにアトラカール大隊を実行部隊とするよう指示。

11.16 AM0時 クリスティアーニ大統領、最高司令部と会見。クリスティアーニは騎兵連隊の装甲部隊と砲兵隊を新たな作戦に向けることを承認。クリスティアーニの後の証言によれば、このとき中米大学襲撃についての説明はなかった。

11.16深夜 ベナビデス大佐、配下の将校を招集。「イグナシオ・エジャクリア神父を除去し、証人を残すな」との参謀本部命令を伝達。会議にはカルロス・カミロ・エルナンデス・バラホーナ少佐、ユッシー・レネ・メンドーサ中尉など約10名が参加。ベナビデスはエルナンデス少佐に部隊の編成を指示。

11.16深夜 エルナンデス少佐はアトラカトル旅団のホセ・リカルド・エスピノサ中尉に兵士を選抜するよう指示。軍事学校のユッシー・レネ・メンドーサ中尉に作戦への参加を指令。FMLNから捕獲したAK-47小銃を使用するよう求める。

11.16深夜 エルナンデス少佐の指示を受けたエスピノサ中尉は、ゴンサロ・ゲバラ少尉を指揮官に指名。

11.16早朝 エスピノサ中尉の率いるアトラカール部隊内の四,五十名が、2台のトラックに分乗し、ホセ・シメオン・カナス名称中米カトリック大学に到着。ゴンサロ・ゲバラ少尉の突入部隊が司牧館を襲撃.聖職者6名と家政婦,その娘(16歳)を虐殺。その後、住居に機銃を打ち込み手榴弾で破壊。現場に「我々は密告者を処刑した。勝利か死か:FMLN」と書いた紙を残す。

6名の犠牲者: イグナシオ・エジャクリア学長,イグナシオ・マルティン・バーロ副学長兼世論研究所長(スペイン人),セグンド・モンテス中米大学人権問題研究所長,中米大学教官のアマンド・ロペス、ホアキン・ロペス・イ・ロペス、フアン・ラモン・モレノ。

11.16 虐殺直後にCIAの連絡将校が中米大学に入り、遺体を検分するが,国務省へは報告せず.この事実を米政府に内通したのはダビュイソンであったとされる.

11.16午前 エルナンデス少佐、ホセ・ヴィセンテ・エルナンデス中尉がポンセの下に報告に赴く。ポンセは証拠隠滅を指示。二人は軍事学校内で証拠を破壊。エスピノサ・ゲラ大尉は部隊に戻り、アトラカトル旅団の司令官オスカル・アルベルト・レオン・リナレス中佐に報告。

11.16午前 神父虐殺の報告を受けたクリスティアーニ大統領は、犯罪行動捜査委員会 (CIHD)に事件の捜査を委ねる。ベナビデス大佐はCIHD議長のマヌエル・アントニオ・リバス・メヒア中佐に事件の真相を打ち明け、援助を求める。メヒアは、弾道テストに備えるため、犯行に用いた武器を破壊し新たな武器と取り替えるよう指示。

11.18 政府,バチカンにたいし外国人司教の退去を求める.FMLNによる犯行と判断したクリスティアーニ大統領は、聖職者虐殺に抗議し,葬儀に参列.

11.19 FMLNの総攻撃,終了.総死者は1週間で千人にのぼる.

11.19 ソアレスOAS事務総長,政府とFMLNとの停戦調停のためサンサルバドルに到着.

11.20 米議会,8千5百万ドルの軍事援助継続を可決(開戦以来の累計は35億ドルに達する).

11.21 政府軍,リベラ大司教を初めとする聖職者の事務所,家宅を立入り捜査.

11.21 グアルダード司令官の率いるFMLNコマンド,シェラトン・ホテルを占拠.当時ソアレスOAS事務総長が宿泊していた.その夜,捕虜としたグリンベレーを身代りに脱出に成功.

11.22 FMLN,国連監視下での即時停戦と政府との直接交渉を提案するも政府側は拒否.

11.23 中米各国の司教50人,和平交渉再開を大統領によびかける.

11.25 マナグア近郊のモンテリマールを飛び立った軽飛行機がエルサルバドル東部で故障のため墜落.機体からニカラグア人パイロットとキューバ人乗組員の遺体の他,地対空ミサイルが見つかったとされる.

11.26 クリスティアーニ大統領,ニカラグアとの国交,通商関係を無期限停止すると発表.

11.28 最高裁長官,暗殺.

11月 神父殺害事件の際、アトラカル部隊の隊員が大学構内に進入したとの目撃者が三人(警官一人、兵士一人、大学職員一人)現れるが、いずれもCIHDの取調べの後に証言を翻す。

89年12月

12.1 オルテガ大統領は,エルサルバドル政府への敵対行動はとらないとし,国連事務総長の仲介によるエルサルバドル政府とFMLNとの和平交渉開始を提案.FMLNは,オルテガ提案を「現実的でもなく実践的でもないもの」と批判.

12.10 サンホセで中米首脳会議開催.FMLNの攻勢を非難するとともにコントラの解体促進を主張.オルテガ大統領は「クリスティアーニ政権への代わらぬ支持」をうたうサン・イシドロ・デ・コロナド宣言を受け入れる.

 

1990年

90年1月

1.02 米軍事顧問のエリック・ウォーレン・バックランド少佐、@ベナビデスが神父殺害作戦を組織し、アトラカトル旅団からの選抜部隊が実行した、Aリバス・メヒア調査委員長はベナビデスに依頼され、犯罪を隠匿している、との情報を入手。カルロス・アルマンド・アビレス・ブイトラーゴ大佐が、ロペス・イ・ロペス大佐から聞き出した情報をリークしたものとされる。

1.02 バックランド少佐の報告を受けた米国軍事使節団長のウィリアム・ハンター中佐は、ポンセ大佐のオフィスでバックランドとアビレスを直接対面させた。アビレスは、バックランドにそのような情報を与えたことを否定した。

1.04 国防大臣の下に神父殺害事件を捜査するための特別名誉委員会が設立される。メンバーは5人の将校と2人の一般人からなる。委員会はCIHDの捜査内容をチェックした後、アトラカトル大隊の30人あまりのメンバーに質問した。さらにベナビデス大佐とメンドーサ・バジェシージョス中尉を含む軍事大学の将校にも調査が行われた。エスピノサ大尉、メンドーサ少尉、ゲバラ少尉らは名誉委員会に彼らの犯罪を自白した。

1.07 クリスティアーニ大統領,英,西,米の警察関係スタッフの援助を得て捜査した結果,軍部が神父殺害に関与していたことが明らかになったと発表.ギジェルモ・アルフレド・ベナビデス大佐の他中佐4人を逮捕.ベナビデスは「ヘラルド・バリオス将軍記念軍事学校」の校長であり,ポンセ統合参謀本部議長と同期.彼らの期は「タンドーナ」(大物の期)と呼ばれていた.

1.11 ベナビデス、特別名誉委員会から最初の調査を受ける。彼は中米大学を含む地域の保安責任者だったにもかかわらず、これまで犯罪行動捜査委員会からの審問はなかった。

1.12 参謀本部の法律顧問ロドルフォ・アントニオ・パーカー・ソトは、4人の将校と5人の兵士が殺害に関与したとし、証言から上級幹部の命令の部分を削除した上で、大統領あてに報告を提出。

1.12 MNR幹部でウンゴの後継者と目されたエクトル・オケリ・コリンドレス指導部員、グアテマラ空港で当局者により誘拐される。

1.14 エクトル・オケリの遺体が、同行していたギルダ・フロレス・アレバロ(グアテマラ社会民主党)とともにハルパタグア郡サンホセ・エル・ココで発見される。サンホセはエルサル国境から5キロのグアテマラ領内の村。

1.19 政府,司祭殺害を指揮したベネビデス大佐ら現職将校4人を含む軍人47人を逮捕.犯罪行動調査委員会の責任者マヌエル・アントニオ・メヒア中佐は報告書提出を拒否.軍内には同期生を裏切ったとしてポンセに対する非難が高まる.米大使は「聖職者虐殺はFMLNによるもので,軍の責任ではない」と発言.

1 FMLN,国連事務総長の仲介により,30日以内に和平交渉を再開することに同意すると発表.

2.23 ドゥアルテ前大統領,癌のため死亡.

2.27 FMLN,闘争強化を表明.

3.30 デクエヤル国連事務総長,政府軍とFMLNが交渉再開に同意したと発表.

4.04 デクエヤル国連事務総長の仲介で,ジュネーブでARENAとFMLNによる和平準備会談が再開される.

4.20 準備会談で大筋合意.クリスティアニ大統領,和平交渉を5月3日再開すると発表.

90年5月

5.05 FMLNと,ARENA,キリ民党,MNRなど8政党とが,メキシコ市内で会談再開.

5.21 カラカスでの和平会談,FMLNは「91年中旬までに内戦終結させるための和平案」を提起.「9月までの政治合意」を確認.

90年6月

6.15 中米首脳会談開催.セレソ,クリスティアーニは交渉進展への意志を表明.

6.17 チャモロの大統領就任を受け,ニカラグアとエルサルバドルが国交を回復.

6.19 メキシコで和平会談再開.政府軍の処理をめぐり集中論議されるが,物別れ.

6.23 FMLN提案の受入れを要求し,サンサルバドルでデモ.

7.26 サンホセで和平会談再開.「人権侵犯行為の中止」と国連エルサルバドル監視団(ONUSAL)の創設で合意.FMLNは18項目の「清浄化」要求を提案.軍の2百人の将校のパージ,死の部隊などの準軍事組織の解体をふくむ.政府により拒否される.

7月 CIA,「ポンセは,イエズス会士虐殺の責任を追及するための要請を繰りかえし拒否している」と報告.

8月 密入国の疑いで逮捕された元エルサルバドル軍第一旅団の情報将校ホヤ・マルティネスの裁判.裁判の中でマルティネスは,死の部隊の隊員だったことを明らかにし,彼の部隊が89年4月から7月までのあいだに74人を暗殺したことを認める.「二人の米人顧問が部隊に対して1万か月分の資金を与えた」と証言.また彼の部下だった一人の女性(オスカルMarianoアマヤ・グリマルディ)は,「6人の人々に関する情報を提供したが,その人たちは,みな殺された」と証言.

8.17 サンホセの第4回和平交渉が開始される.軍部,和平交渉中に新たに反政府要人殺害を実行.FMLNは態度を硬化.進展ないまま終了.

9.15 サンホセにおいて第五回和平交渉開始.FMLNは民主的な選挙法の制定,選挙活動の自由の保証を条件に来年3月の選挙に参加する意志を表明.サンサルバドルでは交渉支持の2万人のデモ.

9.19 米国連邦裁,ホヤ・マルティネスに対し密入国の罪で禁固6ヶ月の判決.ホヤ・マルティネスは政治亡命を要請.

9.10 スペイン人医師Begona Garcia Arandigoyen(24歳)、第二歩兵大隊第4中隊により逮捕、殺害される。彼女は89年9月にエルサルに入り、サンタアナ県のFMLN部隊で医療に従事していた。

10.11 政府軍,FMLN支配区に空爆を含む攻撃開始.

10.17 FMLN,サンサルバドル付近で軍基地などを連続攻撃.

10.26 ペドロ・チカス・ロメロの刑事告発に基づき,エル・モソテ裁判が始まる.判事は遺体の発掘を命令,政府に将校のリストの提示を求める.政府はそのような文書はないと回答.

11.13 5日間にわたり,エル・モソテの犠牲者の発掘調査が行われる.調査団は「遺体の8割以上は12歳以下の子供であり,平均年齢は6歳である.彼らはほぼ同時期に死亡しており,その時期は1981年を下るものではない.彼らを殺害した武器はM−16ライフルであり,その銃弾は米国政府のためにミズーリ州レークシティーで製造されたものである」と報告.

11 FMLN,89年に続き全土で一斉攻勢.地対空ミサイルにより政府軍に甚大な被害.

12月 クリスティアーニ政権、5カ年をスパンとする「経済社会開発計画」を発表。市場経済に基盤を置きながら、自由主義的な経済政策を進めることをうたう。マクロ経済の目標数値としては、成長率を2%、インフレーションを10%におく。

90 この年,ダビュイソンはクリスティアーニを暗殺し,メリノ副大統領を昇格させる計画を立案(CIA93年公開文書)

 

1991年

1.2 サンサルバドル東方で政府軍ヘリがFMLNの地対空ミサイルにより撃墜.米軍事顧問3人が死亡.

91年2月

2 ニカラグア軍幹部による地対空ミサイルのFMLNへの横流し事件発覚.政府はオデル・オルテガら4人を逮捕し,FMLNに返還を要求.FMLNはメキシコ大使館を通じて返却に応ずる.

2.19 サンホセで和平交渉が再開される.

2.28 ウンゴ,メキシコ市内の病院で病死.サモーラがCD党首となる.

91年3月

3.10 国際監視団の下で総選挙.FMLNは実効支配地域以外についてはボイコットを呼びかけず,投票日をはさんで3日間を停戦すると発表.ARENAは84議席中43議席を獲得し過半数に達する.キリ民党が27,民主社会和解連合9,左翼三党で構成するCDは13%8議席を獲得し第四党に.PCの流れをくむ国民民主連合も1議席を獲得.

3.18 FMLN,政府軍の軍備縮小,憲法改定と5月30日までの停戦実現をめざす和平案を提示.

3.24 サンサルバドルでロメロ暗殺11周年記念集会開催.70団体5千人が参加.ダマス大司教は一連の虐殺の背後に存在する企みの一掃を訴える.

91年4月

4.4 メキシコ市で国連の仲介による和平会談再開.FMLNは30日までの憲法改正,5月すえまでに停戦の実現の新提案.政府軍は交渉を前に大規模な掃討作戦を実行.左翼候補者の殺害や,サポテ村農民15人の虐殺をおこなう.

4.7 サンサルバドル司教補のロサ・チャベス,メキシコで記者会見.停戦交渉に関してFMLNの実効支配の事実を否定する政府の見解を批判.

4.8 パウエル統合参謀本部議長,湾岸戦争後初の行動として中米歴訪,親米政権の軍部との協議をすすめる.エルサルバドル交渉決裂の際は軍事介入もあり得るとの考えを示唆.

4.12 サンミゲル県北部で地上部隊援護中の政府軍ヘリ,FMLNの地対空ミサイルにより撃墜.兵士3人が死亡.

4.13 CDとキリ民党,開票の遅れと不正操作に抗議し街頭デモ.

4.27 和平交渉,軍の文民政権への従属を規定した憲法改定案と,当局による人権侵害を調査する「真相委員会」の設置で合意.極右・軍部の人権侵害を究明する「真相委員会」の設置でも合意.アンダル司令官は「構造的な変化をうむ機会となるだろう」と論評.

91年5月

5.16 CDの指導者イサク・マルティネス,サンタアナ県で死の部隊により誘拐.拷問のうえ虐殺.

5.25 和平交渉,ベネズエラにおいて再開.政府側代表はサンタマリア司法長官,FMLN代表はビジャロボス.

6.02 カラカスで行われていた和平対話,歩みよりなく物別れ.

6 ブッシュ,クリスティアーニ政権に対する軍事援助再開を決定.これを条件に交渉成立へ圧力をかける.

91年8月

8.11 FMLN,国連監視団(ONUSAL)の国内での活動について合意.その後FMLN武装部隊のあつかいについて暗礁に乗り上げる.

8.29 和平交渉,デクエヤル事務総長の直接の仲介により再開を決定.

9.25 国連本部でFMLNのハンダル司令官とサンタマリア法相とのあいだに合意書締結.デクエヤルの強力な仲介で和平プロセスを監督する平和促進全国委員会(COPAZ)の設置,軍改革など和平達成のための条件と保障処置をもりこむ.FMLNの武装解除については,軍への合流ではなく,デクエヤルの提案した,あらたに創設される国家警察軍への編入で妥結成立.

9.26 89年のイエズス会司祭集団虐殺事件で,事件に係わった軍人10人のうち5人について陪審裁判.五人の陪審員の身元は秘密にされる。

ベナビデス大佐は全ての殺人について、メンドサ・バジェシジョス中尉は娘(セリーナ・マリセス・ラモス)の殺害について懲役30年を宣告される。さらに二人はテロリズム行為を扇動し共謀した罪で有罪とされる。エスピノサ中尉とゲバラ・セリトス中尉はテロリズム行為を扇動し共謀した罪で懲役3年となる。エルナンデス中佐は共犯とされた。このうちベナビデスとメンドーサを除くものはそのまま保釈され、ふたたび軍務につく。ベナビデスとメンドサも18ヶ月後に赦免される。

91年11月

10.12 和平対話,メキシコシティーに場所を移し再開.

11.14 FMLN,内戦終結のため一方的に停戦に踏み切ると発表.

11.16 FMLN,全土で一方的停戦に入る.

11.21 政府,FMLNの一方的停戦措置に呼応し,政府軍の空軍作戦と砲撃を中止するよう指示.

11月 国連開発計画(UNDP)の資金援助を受け、「国家再建計画」の作成が開始される。

12.31 ニューヨークでの最終交渉.新たな国家市民警察の創設,軍の政治・民間への干渉の禁止など和平協定で合意.停戦発効は1992年2月1日と定められる.また旧支配区での農地改革の実績も尊重されることとなる.

 

1992年

1.14  国連安保理,約1,000人の国連平和維持活動要員のエルサルバドル派遣を決定.

1.16 メキシコ市郊外のチャプルテペクで和平協定調印.@人権擁護弁務官と人権侵害の真相解明委員会の設置,A政府軍の全面改組縮少(5万から1万に)と政府への従属,DINAの解散,文民統制下におかれて治安維持の任務を果たす国家警察の創設と警察の再編.BFMLNの武装解除と政党への転換,ゲリラ戦士の社会復帰と人権の尊重,(4)土地改革の実施,国家再建計画のための経済社会協約会議の設立などで合意.

2.1 協定発効.この日を期して「恒久停戦過程」に入る.内戦は事実上終結.FMLN,武装闘争の時代の終了を宣言.政治・市民運動により民主主義革命を深化させる方向を明らかにする.ここまで12年の内戦で7万5千人が死亡,百万人が亡命.FMLN内にも1万4千の犠牲者.米国は十年間で60億ドルを投下するが勝利を収めることは出来ず.

2.27 和平協定に基づき人権オンブズマン制度が発足.初代オンブズマンにカルロス・モリーナ・フォンセカが就任.

2 ダビュイソン,癌により死亡.

4月 国際金融機関やFMLNとの対話を経て、「国家再建計画」の最終案が発表される。全体の費用総額は14億2,800万ドル。緊急措置として、国内難民1万2千世帯、FMLN戦闘員・家族など2万6千人、戦闘地域に居住する80万人の貧困農民の救援。中長期の目標として、インフラストラクチャーの整備に約6億ドルをあてる。

6.30 FMLN,クリスティアニ政権との和平協定に基づき武装解除を開始.

7.13 国連の事務総長の委任した真実委員会が業務を開始.7千人の犠牲者にかかわって,2千人の関係者からの証言を集める.

92年9月

9 国際司法裁,エルサルバドル・ホンジュラスの国境画定案を提示.係争地域の2/3をホンジュラスに帰属させること,現住するエルサルバドル人の権利が認められることで両国が合意.フォンセカ湾についてはニカラグアもふくめた三国の共有水面とし,エル・ティグレ島はホンジュラスに帰属させることとなる.

9 クリスティアーニ,虐殺者集団アトラカール軍団の解散を延期すると発表.FMLN,武装解除を一時停止.

10.28 国連,アトラカール部隊の解散にあわせ,FMLNの武装期限を延長する提案.クリスティアニ大統領はこれに反発し,政府軍の機構改革を中断すると国連事務総長に通告

92年12月

12.15 FMLNの武装解除完了.内戦状態,正式に終結を宣言される.FMLNは合法政党として再出発.

12 米陸軍情報部によれば,一部将校と富裕な保守層のあいだに,反クリスティアーニのクーデター計画が立てられる.首謀者は軍情報部責任者のロベルト・ピネダ・ゲラ大佐(93年公開文書)

12 ビジャロボス,「封建的大土地所有制は実質的に崩壊し,いまや経済的成功こそが革命的任務である」と発言.FPLなどとの違いが明らかになる.

 

1993年

2.21 サンサルバドル県メヒカノス市でFMLNの市長候補フレディ・トレス・ポルティジョ,暗殺される.

1.08 真実委員会、最高裁判所から尼僧殺害事件に関するすべての資料を獲得。これに基づき、真相委員会は、@事件が上層部の指示により事前に準備されたものであったこと、A軍上層部は一致して事件のもみ消しに当たったこと、を明らかにする。

93年3月

3.15 ガリ国連事務総長,真相究明委員会を代表し,人権問題について報告.ARENAのダビュイソンがロメロ暗殺を計画し準備したと断定.これを受けポンセ国防相は進退を大統領に一任.

3.20 恩赦法,議会で可決.委員会の報告書に記載された軍人の罪はいっさい問われないこととなる.

3.26 米国内潜伏中の元死の部隊メンバー,セサル・ビールマン・ホヤ・マルティネス,米官憲により逮捕される.ブッシュ政権は殺人容疑で身柄をエルサルバドルに引き渡す.ビールマンは,みずからの暗殺行為がポンセ国防相らの指示による任務の遂行であったと主張.真実委員会はビールマンの主張を認める.

4.1 服役中のベナビデス,恩赦により釈放.

4月 ウォールストリート・ジャーナル,「エルサルバドルを混乱させたのはカストロに支配された共産主義ゲリラ」とするデマ記事を三回にわたり連載.

6.4 CDの予定候補ホセ・オスカル・ミランダ,暗殺される.

7 ポンセ国防相をはじめとする軍高官,更迭される.

93年10月

10.25 PRTCの元司令官でFMLNの国会議員候補者ダロル・フランシスコ・ベリス・カステリャノス,サンサルバドルの街頭で2才の子供を保育園に送る途中,二人のガンマンにより射殺される.

10.27 クスカトラン県グアサパで元ゲリラ戦士の夫婦オレジャナが自宅を襲われ殺害される.

10.31 元ERP司令官で農地改革委員,「1月16日基金」の創設者エレノ・エルナン・カストロ,サンサルバドル郊外の路上で射殺される.ビジャロボスは葬儀の席で「一部同志たちがふたたび武器を取らないとは保障できない」と発言.米国務省は殺害事件に抗議し,FBIの捜査協力を申し出る.

93年11月

11.01 CD議員,イエズス会神父,二人のFPL元司令官がチャラテナンゴでハンガー・ストライキを開始.その後全国8カ所で150人以上がハンガー・ストライキにはいる.

11.03 サンミゲル県サンホルヘの教師でFMLN地区委員(ERP)ホセ・ガブリエル・キンタニージャ,登校途中を3人のガンマンに襲われ殺害される.

11.03 ガリ国連事務総長,安保理あてにエルサルバドルでの死の軍団復活への憂慮を表明.ONUSALにたいし真実委員会の諮問に基づき速やかに実態を明らかにするよう要請.FBI,国連の要請に基づきエルサルバドル国内での死の軍団捜査を開始.引き続きスコットランド・ヤード,スペイン警察も捜査に参加する予定.

11.08 国務省,国防省,CIAが3年前に下院に提出した1万2千通のエルサルバドル「死の軍団」関連文書が公開される.現役軍人の人権侵害を報告した国連文書の真偽を問うため,下院が文書公開を求めたもの.トリセリ下院外交委員会西半球小委員会委員長は「80年代前半当時,政府に偽証がなかったかどうかについて再検討を始める」と発言.

公開文書で明らかになった事実: ニューヨーク・タイムスによれば,現副大統領のフランシスコ・メリノが死の軍団の組織者の一人として数千名の反対派暗殺にかかわったとされる.また誘拐計画の一つがサンサルバドル市長カルデロン・ソルの家で作成されたことも判明.さらに前国防相のレネ・エミリオ・ポンセ将軍が,交通警察長官だった80年代早期に,死の軍団を指揮していたことも判明.

11.08 マヌエル・デ・ヘスス・アセベド,射殺体となって発見される.現場で二人の国警隊員が目撃される.アセベドはサンサルバドル県ソヤパンゴの活動家でホーベル(PRTC)の護衛を務めた。

11.08 二人の元ゲリラ兵士の死体がゴミ運搬トラックから発見される.

11.10 国務省のアレクサンダー・ワトソン中南米担当次官補,エルサルバドルを訪問.公開された文書は伝聞に基づくものであり,厳密な捜査の結果ではないと弁解.クリスティアーニ,カルデロン・ソル,メリノらは揃って容疑を否定.

11.12 ラ・リベルタ県ルールデスでFPLの元戦士ホセ・ミランダの死体が発見される.直前に,彼は死の脅迫を受けていた.

11.15 中米大学でも6人の聖職者虐殺を記念してハンガー・ストを開始.

11 FMLN,最初の党大会を開催.大会は単一な政党を目指すということで合意,FPRのサンチェス・セレンが委員長に選出される.ERPのビジャロボスとアナ・グアダルーペ・マルティネス,「FMLN指導部は変化を恐れ,ドグマにしがみついている」と非難.FMLN内部の変革と民主化,マルクス・レーニン主義の放棄を主張.民主革命戦線(FDR)のウンゴやサモーラらは,FMLNと別れ極右と妥協する道を選ぶ.

93年12月

12 死の軍団を調査するための「共同委員会」(Grupo Conjunto),真実委員会の仕事を引き継ぎあらたに発足.ONUSAL人権部のディエゴ・ガルシア・サヤン,検事総長,人権オンブズマンのカルロス・モリーナ,独立派の法律家ホセ・レアンドロ・エチェベリアなどから構成.停戦後あらたに発生した百件以上の殺人事件を捜査.

12.14 NYタイムス続報,米軍が死の軍団の訓練にあたっていたと報道.米軍将校の訓練を受けた「富裕な民間人」50〜60人が,第一歩兵師団のフランシスコ・エレナ・フエンテス大佐の下で指導に当たったという.サモラ候補はNYタイムスの記事に対し「われわれがこれまで主張してきたことが確認されただけのこと」と発言.「もし死の軍団を根絶しようとするなら,軍や警察からこれらの人物を追放しなければならない」と強調.

12.24 エレナ大佐,民間人を訓練したことは認めるが,彼らがゲリラから身を守るのを手助けしただけであると強弁.

12 FMLN,CDと統一.ルベン・サモラを候補に決定.MNRも参加を決定.サンチョとビジャロボスはキリ民党創始者の一人で法律家のアブラム・ロドリゲスを推す.

 

1994年

1.31 米国の軍事顧問マイク・ロペス少佐,酒に酔った上,米大使館の警備員クレセンシオ・ディアスを射殺.米大使館は証拠隠滅を図り,外交特権を使いロペスを海外に逃亡させる.エルサルバドル政府は出入国法違反の疑いで米大使館に抗議.最高裁長官は外務省が犯人逃亡にかかわったと批判.米大使館は「ロペスは米国内において裁かれるだろう」と発表.

94年2月

2 選挙を前に死の部隊の活動強まる.1ヶ月で32人が暗殺される.

2.02 クスカトラン県スチトトで,市長候補のホルヘ・リバスが誘拐される.彼は3日間拘留され立候補を取りやめるよう脅迫される.届け出の期限が切れる直前に解放される.

2.04 サンサルバドル県クスカタンシンゴのチャンガンガ川で女性の首なし死体が発見される.

2.05 ウスルタン県エレグアキンではPDC党員のアダン・ガルシアがアレーナ党員の手にかかり殺害.グアサパ県カントン・サンタバルバラではFMLN幹部のミゲル・アンヘル・エルナンデスが襲われる.

2.07 CDスポークスマンのエクトル・シルバ,政府資金の中から3百万ドル以上がアレーナ候補のキャンペーンに使われたと非難.

2.08 ソンソナテ県ナウイサルコのFMLN活動家イスマエル・ベルナルディノ・シオン,自宅をガンマンに襲われ殺される.サンサルバドル県プラネス・デ・マリオナではサロモン・ガルシアが暗殺される.

2.16 国連選挙監視団(ONuSAL),第一次中間報告を発表.大統領選,84からなる国会議員選,262の市長選が闘われると述べ,大統領選の候補者はアレーナのアルマンド・カルデロン・ソル(サンサルバドル市長),PDCのフィデル・チャベス・メナ,CD=MNR=FMLNのルベン・サモラ,国民連帯運動(MSN)のホルヘ・マルティネス,キリスト教真正運動(MAC)のリナ・デ・レイ・プレンデス,国民和解党(PCN)のロベルト・エスコバル・ガルシアが届け出を済ませたと発表.

2.21 アレーナのレネ・フィゲロワが西部のロサリオ・デ・モラで襲われ,支持者一人が死亡.ラパスではPCN候補のロベルト・グスマンが,自宅に手榴弾を投げつけられ死亡.ダビュイソン二世で国会議員のロベルトも自宅前で撃たれ,足を負傷.

2.24 FMLNのサンビセンテ地区候補マルタ・バジャダレス(通称ニディア・ディアス)の車にマシンガン攻撃.バジャダレスの護衛一人が重傷.バジャダレスは襲撃の直前に下車していたため難を逃れる.

94年3月

3.08 日本政府,PKO協力法に基づき,エルサルバドルの大統領選挙と総選挙に,選挙監視団を派遣することを決定.監視要員は女性4人を含む15人.

3.20 国連監視の下に選挙実施.右翼の報復を恐れる人々が棄権したことから,投票率は50%にとどまる.ARENAが39/84で第1党となり,市長選挙でも8割を獲得する.FMLNは21議席で第二党に進出.

3.24 大統領選第一次投票.アレーナのアルマンド・カルデロン・ソルが49%を獲得.FMLN,CD,MNRの支持するサモラは25%を獲得.

94年4月

4.18 ビジャロボス,FMLN政治局名で和平二周年の声明を発表.「イデオロギーを排し,よりリアルでプラグマチックな計画を」と訴え,NAFTAの受け入れも示唆する.

4.24 大統領を決める決選投票.カルデロン・ソルが68%を獲得し当選.左派連合のルベン・サモーラは32%を獲得.

4.28 国連安保理,大統領・国会選挙が公正かつ民主的に行われたと評価.国連監視団(ONUSAL)の任務終了を宣言.

94年5月

5.16 人民改革の声(Expresion Renovadora del Pueblo :旧ERP)のビジャロボスと国民抵抗(RN)のエドワルド・サンチョ(通称フェルマン・シエンフエゴス)はFMLN内の地位に不満をもち離脱.ARENAとの交渉に入る.FMLN21議員のうち7議員が新党への移行の意思を表明.フランシスコ・ホーベル元司令官は「選挙民のFMLNへの期待に対する裏切りであり,容認できない」と批判.

5.16 FMLN全国評議会緊急会議.サンチョとビジャロボスは欠席.会議は7人の議員をFMLN代表として承認しないことを決定.FMLN党員資格を停止するとともに党の決定に立ち戻るよう呼びかける.

5.20 何者かがサルバドル女性運動(MSM)とマデレイネ・ラガデク人権センターに侵入.警備にあたっていたPRTC活動家が射殺される.

5.30 国家市民警察,配備を14の県庁所在地すべてに拡大することを決定.

5 元政府軍兵士30名が,サルバドル農業改革局(ISTA)本部を占拠.ロベルト・モリーナ総裁に対し和平協定に沿った土地の分配を要求.

5 PDC,臨時大会開催.臨時政治局を選出し路線問題の検討にはいる.

94年6月

6 新たな暗殺者集団「ドミンゴ・モンテローサ部隊」,市民活動家や聖職者からなる「死のリスト」を送りつける.アルトゥーロ・リベラ・ダマス枢機卿にも脅迫状が送りつけられる.

6.7 ビジャロボス,公衆の面前で名誉を傷つけたとして訴えられる.訴えたのはコーヒー農園主オルランド・デ・ソラで,死の軍団のパトロンと非難された.デ・ソラの父は75年ERPにより誘拐され,多額の身代金と引き替えに解放された経験を持つ.

6・10 国民抵抗(RN),人民改革党(ERP),国民革命運動(MNR)の三党書記長,「エルサルバドル建設のための社会民主主義的路線で合意」と発表.ビジャロボスとエドワルド・サンチョは「この合意はFMLNの分裂を促進させるのではなく,現時点での政治的スタンスを自ら明らかにしたもの」と言明.

6.10 国会副議長フリオ・ガメロにたいする誘拐未遂事件発生.

6.12 ラ・リベルタ県サカコヨのFMLN責任者ルイス・アントニオ・メンデス,M16で武装した4人組により射殺される.アレーナは軍の治安出動を主張.FMLNの国会副議長アナ・グアダルーペ・マルティネスは「軍の出動は時間を20年間後戻りさせるものであり,国家市民警察の人員,装備の充実が先決」と主張.

6.16 カルデロン・ソル,国家公務員の賃金を10%引き上げると発表.

6.22 FMLN全国評議会開催.共産党はERPなどの「三党路線」への合流に傾くが,FPLとPRTCはFMLNの団結と左翼勢力の結集を主張.議論の結果93年大会の決定があらためて確認され,PCES,FPL,PRTCの三組織が,単一の政党として統合することで合意.独自の執行機関は解体され,FMLN党の中央委員会に結集.これと並行して綱領を和平後の状況に即応して改訂.FPLは「左翼民主党」の結成を提案.

94年7月

7.01 カルデロン・ソル,大統領に就任.

カルデロン・ソルの経歴  同志7名でネオファシスト組織を結成.その後テロリスト部隊サルバドル国家運動(MNS)に参加.MNSが81年にアレーナと合併した後は,ダビュイソンの支持を受け私的秘書となる.

7月 議会,国連真実委員会の要求にこたえ、新たな最高裁判事を選出.国連安保理はカルデロン・ソルの要請に応え,監視団(ONUSAL)の6ヶ月間駐留延長を決定.

7.07 元兵士と軍関係者数百人が,マチェテで武装し国会を占拠.経済的要求が認められなければ放火すると脅迫.政府は補償金支払いを約束し,当日夜には解放される.92年末までに和平協定により軍兵士と政府関係者が大量解雇されたが,退職金は未払いとなっていた.

7.15 近く発足予定の国家市民警察のロドリゴ・アビラ長官,2日間連続で襲撃される.

7.28 共同委員会が「死の軍団にアレーナが関与していた」との調査報告を発表.アレーナや軍,国家警察,財務省警察などの当事者の名前は特定せず. ただし国連とカルデロン・ソル大統領には「私的な形で」調査すべき対象者のリストが渡されたという.カルデロン・ソルは「報告には新しいものはない」と発言.

調査報告の要旨
死の軍団は犯罪組織に再編成されつつあり,依然政治犯罪を犯す能力を保持している。彼らは世界反共連盟や国内のオリガルキーから財政支援を受けており,グアテマラやコスタリカで戦闘訓練を受け,軍や警察の庇護の下にある。その幹部は依然軍,警察,司法,行政の中枢部に地位を確保している。

米国のアラン・ネアン記者による解説 現内相のロベルト・アングロ,内務次官ウーゴ・バレラ,議員団長のグロリア・サルゲロ,サンサルバドル県知事オスカル・エウセビオ,サンサルバドル市長のマリオ・バリエンテ,中米議会議長のフランシスコ・メリノが黒幕として挙げられている。
CIAとのフィクサーはエクトル・レガラドと目される.彼はダビュイソンの腹心であり,ロメロ大司教暗殺事件の指揮を執ったとされる.80年代に彼は米大使館に射撃教官として雇われている.もう一人のエージェントはニコラス・カランサ大佐.CIAは年俸9万ドルを払っていたとされる.かれは「死のリスト」の選定にあたった一人である. 

7 国家警察幹部の関与する大規模な銀行強盗事件があいついで発生.1カ月でギャング事件による死者は4人,負傷者は18人にのぼる.政府,5人が犠牲となった銀行強盗事件に参加した国家警察の高級将校を逮捕.国家警察廃止の世論が高まる.国家警察は10月には解体の予定.

94年8月

8.19 ONUSAL,3〜6月の政治的暴力事件を報告.

8.28 FMLN全国評議会.ERPとRNはFMLNを連合組織にとどめること,アレーナとも積極的に連合を図ること,総じて「より現実的な路線」に転換することを主張.FPLとPRTCは連合党を解消し単一政党へと進むことを主張.共産党はFPLよりながら動揺的,宥和的態度に終始.結局,会議は,連合体から統一した思想に基づく単一政党への方向を打ち出す.

94年9月

9.26 旧軍人,公安関係者,准軍事組織要員ら数百人が,三回目の国会占拠.議員29名を人質にして3日間にわたり立てこもる.国連駐留団の仲介で軍.政府関係者と交渉.

9.29 ERPのビジャロボス,国会占拠事件には「国民的議論のための恒久委員会」を空転させたFPLにも責任があると指摘.FPLはビジャロボスを「嘘ばかり述べるただの政治的オポチュニストにすぎず,信用できない人物」と非難.両者の対立は決定的に.

9 記録的旱害により,トウモロコシ,豆,米の収穫は50%以下に終わる.議会は非常事態を宣言し貧農,低所得者への緊急融資を開始.

9 国家市民警察発足.元国家警察官20%,元ゲリラ20%,市民からの選抜が60%の構成.初代長官にはエウロヒオ・ゲラ・パイスが就任.人権団体はこの人選に反対.

94年10月

10.04 カルデロン・ソル新大統領とFMLNとのあいだに合意成立.カルデロン・ソルは和平協定を順守することを声明.

10 アレーナ全国総会,新指導部の選出で難航.アレーナのクリスティアーニ派,財界を中心にアレーナから独立の動き.極右派も創立者ダビュイソン路線への復活を目指しキリオ・ワルド・サルガドを中心に新党結成の動き.新たな政党づくりに向け自由民主主義協会(ILYD)を設立.

11.30 PDC再建大会開催.新綱領を決定.

12 FMLN全国総会.

 

1995年

95年1月 

1.24 PNC,政府軍退役兵士の会(ADEFAES)のデモ隊に発砲.一人が死亡,数人が負傷.ADEFAESは悪名を馳せた公安部隊や市民パトロール隊の元隊員もふくまれる.この間,土地と資金を求め各地で暴動.国会や政府の建物を占拠し人質を取って立てこもる.地方では主要道路を実力封鎖.

1月 カルデロン政権、自由化を柱とする新経済対策を提案。ヒンディプランと呼ばれる。

95年2月

2.07 国家警察が最終的に解体され,国家市民警察に引き継がれる.

2.8 マンダリン・インタナショナル社では労働組合を結成しようとした労働者千名以上を解雇.サンマルコス自由貿易地帯の労働者のほとんどが結集して抗議デモ.

2.24 JATEX工場,労働組合に所属していることを理由に65人を解雇.

95年3月

3月 5つの組織を解散し単一のFMLN党が結成される。ERP and RN の多くのメンバーがFMLNに戻った。

3.20 国家民間警察,FENASTRAS(サルバル労働者全国同盟)のフアン・ホセ・ウエソ書記長を逮捕.当時彼はサンサルバドル西方サンタテクラにあるエル・プログレソ自由貿易地帯(マキラドーラ)のJATEX工場で労使交渉中であった.

3.26 ホアキン・ビジャロボスとエドワルド・サンチョ,「非妥協的で極左的な」FMLNを離れ全国革命運動党に合流すると発表.

3.31 ガリ国連事務総長がエルサルバドル訪問.協定の実施状況を観察.10月31日を監視団の最終期限とすることで合意.

3 ゲラ国家市民警察長官更迭.後任にはフランシスコ・ベルトラン・ガリンドが就任.

4 国連監視団,引き上げを完了.

5 ERP,RNは民主党に合流.アレーナと「サンアンドレス合意」を結ぶ.民主党はこの合意の中で付加価値税の引き上げを承認.一方FPLを中核とするFMLNは,民間経営協会(ANEP)や右翼の国家和解党(PCN)とも手を結び,付加価値税とサンアンドレス合意反対の闘争を展開.

7 サンミゲルを荒し回った盗賊「ソンブラ・ネグラ」が摘発される.幹部4人は警察官.

95 国連真実委員会,修道女殺しの犯人隠匿に当時の国警隊長官エウヘニオ・ビデス・カサノバと国防相ギジェルモ・ガルシアがかかわっていたと認める.

95年 この年の国内総生産(GDP)成長率は、6.2%に達する。製造業が5ポイント程度の増加を示す一方、農業はGDPに比率を10ポイント下げる。一人当たりGDPは2,000ドルを超え中進国に分類される。しかし所得の不均衡は著しく、全国平均で全人口の58.6%が貧困層、この内20.8%が極貧層に分類される。

1996年

6.26 ロベルト・ダウビッソンを記念する新たな死の部隊「FURODA」が結成される。

10 PNC,元ゲリラでFMLN党員のフランシスコ・マンサナレスを射殺.

10 15,000人に上る公務員の大量解雇を定めた法案が可決される。

12 和平合意の進捗状況を検証するための国連エルサルヴァドル監視団(ONUSAL)が任務を完了。すべての監視団が引き上げる。

12 この時点で全労働人口の6割が完全・不完全失業状態.

96年 FMLNは正式に分裂。右派は和平合意により民主主義的課題は達成されたとし、中道、中道右派との連携を主張。FMLNから分裂して民主党(PD)を結成。

96年 海外からの送金額が11億7,900万ドルに達する。これは10年前の10倍に上り、対GDP比で11.2%に達する。年間の貿易赤字額は14億3,600万ドルで、その8割強を、海外からの送金で補填していることになる。海外移民の数は推定約100万人とされる。

 

1997年

2.05 ヨハネ・パウロ2世、グアテマラ、ニカラグア及びエルサルバドルを訪問。

3.16 和平合意後初めての国会議員・中米議会議員・地方首長選挙.事前の世論調査ではFMLNがARENAを抑え一位を占める.しかし開票の結果では、ARENAが39から28議席に減らしたものの、第一党の座を確保。FMLNは14から27議席に躍進。ただし前回選挙では21議席を確保していたが党分裂により減少していた.ほか国民協和党(PCN)が11,キリ民党(PDC)10など.

3.16 地方首長選挙。市長選ではFMLNがサンタアナなど53の市町村で勝利.首都サンサルバドル市長にはCD,統一運動(MU)との統一候補エクトル・シルバが当選.シルバは医師の資格を持ち、内戦中にFMLNの武装闘争路線とは距離を置いていた。

5月 カルデロン大統領、「国民各層の声を反映した国家開発計画を作成する」ための諮問委員会の設置を発表。委員の一人にはFMLNのサルバドル・サマヨアも入る。

8 放送記者のロレーナ・サラビア,サンサルバドル北方15キロのブエノスアイレス農場内で射殺死体となって発見される.殺し方は後ろ手に縛ったあと頭を射抜く,死の軍団の典型的なやり口.

9.13 台湾の李登輝総統が,エルサルバドルで中米6ヵ国の首脳と会談.中米開発資金として台湾が2億4千万ドルを出資するなどの方針を発表.

10 裁判所,PNCのアレバロ,リナレスらをマンサナレス殺害で有罪判決.さらにPNC幹部4人を逮捕して捜査.

 

1998年

1 公安庁の発表によれば,97年の殺人事件は8,281件.

1.19 ホンジュラスとの首脳会談で,1年以内に国境を確定することで合意.

1月 諮問委員会、「国家計画の基本」(Bases para el Plande Nacion)を公表。経済マクロではなく、エルサルヴァドルの将来についてグランドデザインを描いたもの。

4 人権法律家委員会,収監中の修道女虐殺犯から事情聴取.虐殺が上層部からの命令によるものだったとの証言を得る.

7.05 80年の修道女殺害事件に関する最終弁論.フェルナンド・サエンス・ラ・カジェ大司教は,歴史的な真実が明らかにされなければならないと,断固として主張.

7 米国務省のエルサルバドル関連ファイルが公開される.事件当時ガルシア国防相がピッカリング米大使に渡したメモには,カサノバ長官が事件にかかわっていた事が示唆されている.また犯人の一人コリンドレス軍曹が軍上層部から口止めされていた事を示すテープも公開される.

7 エルサルバドル電電公社が国際競売にかけられる.FMLNの努力により株式の25%は国家に,10%が労働者に分配されることになる.

8.15 FMLN大会,大統領候補の選出に失敗.前の人権オンブズマンのビクトリア・アビレスを推す派と,サンサルバドル市長エクトル・シルバを推す派が対立.最初の投票では441対431票でアビレスが勝利するが,過半数に達せず.

8.25 第二回目投票の直前にシルバが立候補辞退を表明.

8.29 FMLN大会再開.国会議員団はキリスト教社会党とも図った上で内部調整することを提案.アビレス支持派は全党員による直接投票で決するよう提案.選挙管理委員会は,とりあえずアビレスに対する信任投票というかたちで再投票するよう提案し,認められる.信任票は1回目のアビレス票を下回り,2/3が投票をボイコット.

8.29 サエンス・ラカジェ大司教は「候補者撰びに時間がかかるのは民主主義が行われている証拠」と励ます.

9月 FMLN,路線の違いが埋まらないままファクンド・グアルダード(Facundo Guardado)書記長を次期大統領候補に決定。副大統領候補にはニディア・ディアス。

エクトル・シルバと党内右派に引きずられたファクンド: 解放闘争を戦った党主流は、Schafik HandalとSalvador Sanchez Cerenを中心に“Coriente Revolucionario y Socialista”(革命的社会主義派)を形成、“Renovadores”(新生運動)の右傾化とneoliberalismに対するあいまいな態度を批判。Guardadoはカリスマ的な前FPL指揮官であったが、共産主義者の歴史的なリーダーシップを批判しイデオロギーの刷新を求めた。結局彼はFMLN支持者のベースを失った。

 

1999年

2.08 死の軍団,ふたたび活動を強化.首都近郊で少年ギャングを虐殺.大司教は死の軍団復活に警戒を強めるよう声明.

2.09 民間シンクタンク「エルサルヴァドル経済社会開発基金」による社会調査。年間殺人発生件数は平均7,700件。人口10万人あたりの殺人発生率では120から140で、コロンビアを抜いて中南米最悪の水準。調査世帯の27.5%が何らかの犯罪被害に遭っていた。そのうち89%は警察に被害届を出していなかった。全犯罪に対する犯人検挙率はわずか3%。回答者の46%が、自警団による犯罪者への報復行為を肯定。

2.11 ニカラグア警察,マナグア市内でFMLNの秘密武器庫を摘発.

3.07 エルサルバドル大統領選.ARENAのフランシスコ・フローレス(現国会議長)が,第一次投票で52%を獲得し圧勝.FMLN−USC連合のファクンド・グアルダードとのコンビは29%を獲得.第3位にはCDU(中道民主連合)のルベン・サモラが7.4%を獲得.キリ民党は5.7%,国民和解党は3.8%.有権者の2/3近くが棄権.

3.07 国会議員選挙。FMLNは候補選出過程での党内対立などで出遅れるが,引き続き議会の1/4(27議席)を確保,ARENAと1議席差に迫る.サンサルバドルを含め半数近く(54)の自治体首長を獲得する.

3.10 クリントン,エルサルバドル議会で演説.80年代中米戦争に対する米国の責任には触れず.ミッチ被害に対する援助も新たなものはなし.米国内のサルバドル難民の強制送還問題についても前進的な回答なし.

3.15 ファクンド・グアルダード,党書記長および政治局員を辞退すると声明.彼はハンダルを非難して「党内の権力主義者が彼を辞退させた.彼らは再び政府との武力対決を行おうとしている」と非難.引き続き「参加型,抱合型,民主的,複数的」政党作りを目指し党内で活動すると決意表明.暫定書記長にフランシスコ・ホーベル,副書記長にビオレータ・メンヒバル.ホーベルはこれまでもグアルダードが大統領候補としての活動中,書記長代行を務めてきた.

3.16 暫定議長フランシスコ・ホーベル,開かれた党に向け「改革」を求める.「戦線は拡大されなくてはならない.それは人民に向かって開かれていなければならない.そして人民へのあらたな接近法を生み出さなくてはいけない」と述べる.二つの潮流が存在する.ひとつは穏健な改革派,代表はファクンド・グアルダードとフリオ・エルナンデスで国際路線はよりプラグマチックである.もうひとつは革命的社会主義を唱える流れで主流派である.FMLN書記長のレオネル・ゴンサレスとシャフィク・アンダルが指導する.この流れはより革命的,社会主義的変革を唱える.

3.23 エルサルバドルのカルデロン大統領,キューバと国交を持たないため,メキシコ政府を通じてクルースの減刑を要請.

5.08 FMLN,選挙を総括する全国会議.敗因として,@アレナの圧倒的な財政的優位.Aフローレスの下にすべての右翼勢力が集中したこと,BFMLN候補者の知名度の不足を挙げる.またFMLNのもっとも強固な基盤がミッチの影響で,大統領選に集中できなかったとする.候補者撰びで党内が二つに割れたこと,最終候補が二人とも元ゲリラ司令官だったことが大衆に不安感を与えたなどの意見も上げられる.いっぽうで,議会ではアレナに1議席差まで迫り,地方自治体の半数近くを確保.さらにこの間,勢力拡大運動を続けてきたラ・ウニオンなど東部地方で,得票を大幅に増加できたことは大きな成果と総括.

6.01 フローレス,大統領に就任.演説で当面の目標を景気回復と雇用拡大に置く.フランシスコ・フローレスは前国会議長,選挙期間中は過去からの決別と変革を訴えるが,就任演説ではうってかわりダビュイソンを褒め称える.チャベス大司教は国内における組織暴力問題に触れていないと大統領を批判.

7.25 FMLN,党大会を開催.元エルサルバドル大学学長のファビオ・カスティージョを新委員長に選出.党内はレオネル・ゴンサレス,アンダルらの「革命的社会主義派」が多数派となる.党分裂を回避するため,政治委員会15人のメンバーは主流派8人に対して,ファクンド,フリオ・エルナンデスらの「改革派」に七人が割り振られる.

7.27 国際開発銀行(IDB),経済「自由化」に向けた法的整備と機構改革を条件に融資に合意.政府は公共サービスの圧縮と5万人首切りを提示.

10,26 エルサルバドル衛生当局,出血性デング熱で4人が死亡し32人が感染と発表.

10 フローレス政権,公共サービスのほぼすべてを民営化する計画を発表.医療・教育・水道などがふくまれる.この計画により公共労働者5万人が馘首されることになる.さらに計画は労働者や労組の権利を大幅に制限.事実上の失業者が75%を数えるこの国では,民営化により国民のほとんどが医療や教育を受けられなくなることになる.

11.15 社会保障局医師労組(SIMETRISSS)と社会保障局労組(STISSS)は,民営化に反対して無期限ストにはいる.フローレスは指導者221人の解雇を発表.

11.16 イエズス会司祭集団虐殺10周年記念集会.

 

2000年

1.14 社会福祉労組のストを支援するデモに1万5千人が参加.

1.27 司法当局,ストを違法と認定.221人の解雇を合法とする.

2.09 フローレス,非常事態を宣言.機動隊と警察特殊部隊に命じ,社会保障局のビル前に戦車を出動させる.

2.10 全国医療労連,社会保障局労組への連帯のため,全国10カ所以上の国立病院を休止.

2.11 軍が全国の国立病院を管理下におく.その後三カ所については労組が奪回.

2.17 国家民警(PNC),昨年の殺人事件による犠牲者数は2278人と発表.前年の2487人に比べ8%減少したが,1日平均で6人が殺害された計算.

3.12 国会議員の中間選挙.FMLNが31議席を獲得.ARENA を2議席上回り第1党に躍進する.与党 ARENAは 右派 PCN (国民和解党)および中道右派 PDC(キリ民党)の3党連合で議会過半数を維持.

3.12 地方首長選でも262のポストのうち70をFMLNが獲得する. 市長選挙では,FMLNが 14 県のうち 8 県で県庁所在地の市長ポストを獲得.首都サンサルバドル市長選ではFMLNの現職市長エクトル・シルバが大差で再選される.サンサルの衛星都市で左派の拠点サンタ・テクラでは、オスカー・オルティスが当選。

アンダルは「わが国の市民のあいだに巨大な変化が起きている」と述べる.

9月 議会,「通貨統合法」を可決.経済のドル化政策を進めることとなる.

11.03 フロリダ州ウエスト・パームビーチの連邦地裁,80年12月の修道女レープ殺害事件で,ときのカルロス・エウヘニオ元国防大臣と軍指導者カサノバ、ギジェルモ・ガルシア将軍に無罪の判決.裁判は被害者の家族と米国人権法律家協会が起こしたもの.2人は1989年以来アメリカに永住している。

11.30 エルサルバドル議会,49対35票で通貨統合法(ドル通貨法)を可決.FMLNのアンダルは,国家の自立にとって自殺行為であると非難.サマーズ財務長官は「この法律はエルサルバドルの金融的安定と経済成長に寄与するだろう.そしてグローバル経済への統合に向かうだろう」と歓迎の発言.

 

2001年

1.01 通貨統合法実施.

1.13 エルサルバドル大震災.震源はサンサルバドル南東25キロでマグニチュード7.6.死者は844人,負傷者は4千人以上,被災者は116万人,被害総額は10億ドルに上る.サンサル西方12キロのサンタテクラ市ラス・コリーナス地区では地滑りで260軒の家が埋まる.

2.13 エルサルバドルで第二の大地震.マグニチュード6.6を記録.さらに237人が死亡.

2月 米国、大地震に対する支援策として、4年間の時限つきで、約5万人のエルサルバドル人の米国内在留を受け入れる。

01年 二年の内部の混乱ののちRevolutionary Socialist Currentが党の主流を握る。GuardadoはFMLNリーダーを攻撃し、党の決定に敵対する行動を行い放逐される。

 

2002年

12.26 サンサルバドルの警察本部の広場から大量の人骨が発掘される.内戦時代に国家警察軍が虐殺した市民の遺骨と見られる.

3月 2年ぶりの国会議員選挙。FMLNは内部分裂により議席を減らし、第1党の座を与党ARENに譲る。

2003年

3.16 国会議員選挙でFMLNは34.0%を獲得し、84の議席中31議席を確保。政権党ARENAの27議席を抜いて、ふたたび第1党になる。

3月 Guardadoは自身の政党としてRenovadoresをつくろうとしたが大衆の支持を得られず、政界を引退する。

2004年

3.21 大統領選挙。FMLNのシャフィク・ハンダル候補は35.6%、マスコミとの対立の表面化等により自滅する形になる。ARENAは、元スポーツ記者でもあり若く清新なイメージを打ち出したアントニオ・サカ候補を擁立、圧倒的な得票を集め勝利。

6月 アレーナのエリアス・アントニオ・サカが大統領に就任。

8月 サカ大統領、1年間のイラク派兵延長を決定。背景に本国の3分の1にあたる約220万人が米国で暮らしていること、彼らの仕送りが約21億 ドルに達すること(これはGDPの15%に相当する)。

10.07 AFP通信、アメリカの警備会社が、エルサルバドルの元軍人らを訓練し、月4000ドルの「美味しい」報酬でイラクに派遣していると報道。

10.11 FMLN、提案に対する政府側の回答もなく非生産的だとして、政府との対話を中止すると発表。サルバドール・サンチェスは、「国民が直面している問題に対して国家的な合意を創り上げていく」決意を明らかにする。

04年 5人のFMLN立法議会議員はFMLNを去り、民主革命戦線(Frente Democratico Revolucionario)を結成。主要なリーダーは、Ileana Rogelとフランシスコ・ホーベル(Francisco Jovel)であった。

 

2005年

1.10 米ニューズウィーク誌、国防総省がイラクに「死の部隊」を作ることを計画中とする。この作戦名は「オプション・サルバドール」(The Salvador Option)と呼ばれ、クルド人やシーア派の戦士に特殊訓練を受けさせて、スンニ派の反乱者を弾圧する目的。エルサルバドルの「死の部隊」にあやかったものとされる。イラク米国大使ネグロポンテ(コントラの創設者)は、イラクでの米軍の活動は自分の管轄外と語る。

2.18 サンタアナの労組活動家マウリシオ・ポルティリョが自宅付近で暗殺される。彼は社会保障協会労働者(STISSS)サンタアナ支部長だった。

2.24 サンサルバドルで「犯罪組織との戦いに関する国際会議」が開かれる。FBIと中央アメリカの警察組織が参加。サカ大統領は、「スーペルマノ・ドゥーラ」(厳しいスーパーハンド)計画にしたがって、5000人以上の組織員を逮捕したことを明らかにする。同時に「マノ・アミーガ」(友人の手)や「マノ・エクステンディーダ」(差し伸べた手)などの更正計画も進めている。

エルサルバドル犯罪集団: エルサルバドルには30のグループ、10500人のメンバーがいる。最もよく組織化されているのは、「マラ・サルバトルーチャ」(MS13)という暴力団。南カリフォルニアで中米出身者を中心に結成された。まもなく米国内から追放され、メキシコ・中米諸国で活動するようになった。

3.23 米州人権裁判所、82年にチャラテナンゴで起きた、政府軍兵士による2人の女児誘拐事件に関し有罪の判決。セラーノ・クルス家の二人の娘エルネスティーナとエルリンダが行方不明となり、後に政府軍兵士による犯行であったことが明らかになる。エル・サルバドル政府は謝罪を拒否し、「遺憾の意」を表すに止める。

3.24 エル・サルバドルのカトリック教会、ロメロ大司教の暗殺から26年を機に、記念行事を展開。中央アメリカ大学人権研究所(idhuca)は、エル・サルバドル検事総局に対し、事実の調査と責任者の処分を求める。

4.05 エル・サルバドルの警察長官ロドリゴ・アビラ、「マラス」に対する国際対策会議で演説。「中米だけで少なくとも8万人の組織犯罪者がいる。国際レベルで適切な手法を適用しなければ、マラスは戦闘組織に変わり、地域の安定と治安を脅かすだろう。もし我々が戦争の概念を適用するなら、ここの犯罪組織は2ヶ月間で消滅する」エル・サルバドルには1万人のマラスがおり、一日9件の殺人が起こり、多くがマラスの仕業である。

6.13 サンサルバドルの中央アメリカ大学人権研究所(idhuca)、内戦時代の人権被害者家族に対する告発受け付けを開始。

10.31 ニコラス・カランサ元大佐、テネシー州メンフィスで、人権迫害の疑いで起訴される。カランサは79年から81年まで国防次官で、1983年から84年まで警察幹部をつとめた。判事は少なくとも4人の原告の証言を有効とし、カランサが「強大で組織的な」拷問と殺人を推進したと判断。

11.25 サカ大統領は、暴力組織マラスに対応するため、「犯罪事件の高い地域に、治安のための軍・警察を投入する」と発表。国内で少なくとも1万2千人のマラスの組織員がいると見られる。人権組織は、治安対策より貧困対策に力を入れるべきだと主張。

12.10 首都西部にあるディスコで警官2名が車からの銃弾で殺害される。「マラ18」や「サルバトゥルーチャ」に殺害された警察関係者は、年初から13人にのぼる。サカ大統領は、軍のパトロールを強化すると言明。

 

2006年

1.09 米連邦控訴審、前判決を覆しギジェルモ・ガルシアとカルロス・エウヘニオ元国防大臣に対し有罪判決。80年代の内戦における3人の拷問被害者に、5460万ドルの保証金を支払うよう命じる。2人は2000年、4人の米国人尼僧の殺人で無罪となっている。

3.06 中米諸国の先頭を切ってアメリカとの自由貿易協定が発効。これに抗議して、数千人がデモ行進。衝突により6人が負傷。

3.16 議会選挙(84議席、一院制)。ARENAが34,FMLNが32議席。この他「国家和解党」が8,「キリスト教民主党」が4、「民主変化党」が2を獲得。

3.16 サン・サルバドル市長選挙では、FMLNのビオレータ・メンヒバル候補が44票差で当選。最初の女性市長となる。サンタテクラをはじめ数百の自治体で勝利する。

3.16 FDRはNejapaの現職の市長Rene Canjuraを除き当選者なし。Rene Canjuraはすでに3期を勤め、FMLN規約では出馬資格がなかった。それで、彼はFMLNを去って、FDR候補として出馬し当選した。

3.23 チャベス大統領、地方選挙でFMLNが勝利した市に対して、安価な石油を供給する協定に調印。エル・サルバドル側は価格の60%を30日以内に支払い、残りは金利1%で23年以内に払うことになる。

3.29 米州人権裁判所、1982年にチャラテナンゴで起きた兵士による2人の女児行方不明事件に関し有罪判決。エル・サルバドル政府は謝罪を拒否し、「遺憾の意」を表すに止める。

4.05 エル・サルバドルで米、墨、中米各国の警察が、犯罪組織「マラス」に対する対策会議を開催。「国際レベルで適切な手法を適用しなければ、地域の安定と治安を脅かす存在となるだろう」とする。中米だけで少なくとも8万人が組織され、その大半がグアテマラ、エル・サルバドル、ホンジュラスにいるとされる。エルサルでは一日9件の殺人が起こり、多くがマラスの仕業である。

4.05 米州開発銀行(BID)、2005年にラテンアメリカ出身の移住者からの送金額は530億ドルに達したと発表。前年に比べると17%の増加で過去最高。国外移住者は推定約2500万人に達する。メキシコが最も多額で200億ドル。

2007年

 

 

2008年

 

2009年

 1.18 立法府選挙。FMLNは42.6%を獲得し35議席を確保。しかしサンサルバドルの市長選挙では敗れる。

3.15 大統領選挙。FMLNのMauricio Funes候補が勝利。

6月 Mauricio Funesが大統領に就任。

2010年

104日、フネス大統領が初めてキューバを訪問した。FMLN政権発足後、14ヵ月経っていた。

125日、キューバのロドリゲス外相が、出席したイベロアメリカサミット開催地のマルデルプラタからエルサルバドルに入り、7日まで滞在、フネス大統領との会談や議会での演説などをこなした。

 

2011年