インドシナ戦争年表

1930年  1935年  1940年  1945年  1946年  1950年  1954年  1955年  1960年

 この年表はディエンビエンフーの決戦とジュネーヴ協定締結、南ベトナム解放民族戦線の創設までをあつかっています。
その後のアメリカとの「ベトナム戦争」は第二部第三部に記載されています。
ラオス・カンボジア関係は茶色で表記しています。

 

 

1925年

7月 ホーチミン、モスクワから中国に移動。貴州で新聞社に勤めた後、孫文の政治顧問ボロディンの知遇を得、黄埔軍官学校のベトナム人訓練班の講師に就任。広東で「青年」を発行。短期講習学校を開きベトナム人青年200人以上を指導。

ホーチミン(胡志明)は1890年ゲアン省の生まれ。本名はグエン・シン・クン。一説ではグエン・タッ・タイン(阮必成)。1911年、サイゴンから船員として海を渡りロンドンに上陸、カールトン・ホテルでエスコフィエの下で働いたという。1918年、フランスに移り活動を開始し、1920年のフランス共産党創設に参加。その後24年にソ連に移り、モスクワでコミンテルンの仕事に携わる。当時はグエン・アイコク(阮愛国)を名乗っていた。「胡志明」は1942年に中国に潜入するために作った名だと言われる。この年表ではすべてホーチミンの表記に一本化する。

9月 ホーチミン、在中国ベトナム人の政治結社「タムタム(心心)社」の9人のメンバーを選抜し、ベトナム革命青年同盟(通称同志会)を結成する。創立時のメンバーはホ・トゥンマウ、レ・ホンソン、レ・ホンフォンなど。ファン・バンドンも、この年広州に逃亡し、同志会に加入している。

1927年

4月 上海で蒋介石による反革命が成功。中国共産党員は迫害される。広東の同志会中央委員会はイギリス領の香港に移動する。

5月 ホーチミン、上海を離れソ連に入る。

1928年

7月 ホーチミン、ヨーロッパ経由でシャムに戻る。シャム在留ベトナム人を「ベトナム相互扶助協会」に組織し、「ル・ユマニテ」新聞を発行し運動を再建する。

8.07 コミンテルン第6回大会。植民地・半植民地における革命勢力の中核としての共産党樹立の緊急性を確認。「インドシナにおける共産党の最重要かつ絶対的緊急の任務」としてインドシナ共産党の設立を指示。

1929年

1.23 香港(一説にベトナム北部)でベトナム青年革命同志会の全国代表大会準備会が開かれる。7人からなる共産主義者指導グループが結成される。

3月 ハノイにトンキン・グループと呼ばれる共産主義グループが結成される。(トンキンは元来ハノイの別称であったが、仏領支配下では北部ベトナム全体を指すようになった)

5.01 青年革命会が、マカオ(一説に香港)で第1回全国代表大会を開催。大会に参加したトンキン・グループは、青年革命同志会の解散とインドシナ共産党の即時結成を提案。大会はこの提案を否決。トンキン・グループはこれを不満として退席。

6月 トンキン・グループ、コミンテルンの方針に忠実に行動することを唱え、革命同志会を脱退。インドシナ共産党を設立。

10.07 コミンテルン東方局幹部会が「インドシナ共産党結成に関して」と題する書簡を作成。階級対決の見地から革命会の大会決議を批判。青年革命会の両派と新ベトナム革命党(ベトナム南部を基盤とする民族主義左派グループ)を中軸に統一組織としてのインドシナ共産党を結成する方向を打ち出す。

10.30 青年革命会(アンナム派)が解散を宣言。アンナム共産党を名乗る。新ベトナム革命党はインドシナ共産主義連盟を名乗る。東方局は、革命会の解散を受けて、みずから共産党の組織化に乗り出す。

11.28 東方局の書簡、コミンテルン執行委員会政治局政治委員会で承認される。「人種・民族にかかわらず、インドシナ共産党はインドシナのすべての労働者の党」として位置づけられる。この時点で三組織合わせた党員数は1700名に達する。全国に各級の支部、中間組織が形成される。

12.23 シャムでコミンテルンの派遣員として活動していたグエン・アイコク、シャムから広州に渡る。この動きは東方局とは無関係であったとされる(栗原)。

1930年

1.06 グエン・アイコク、広州でインドシナ共産党、アンナム共産党の代表と会談。ベトナム革命の路線や任務を提起し、旧青年革命会両派の統一に動く。派遣員の資格と権限については諸説あり。

グエン・アイコクの主張: 国家の独立、人民の自由、社会主義への前進を三つの柱とし、組織の統一を訴える。名称については共産党、革命青年同盟のいずれも可とする。討議の結果、ベトナム共産党の名称を採択。

30年2月

2.03 ホー・チ・ミンがベトナム国内の複数の急進的社会主義政党の代表を招集し、香港の九龍で統一会議を開催。ベトナム共産党への一本化を決め、「暫定綱領」を採択。臨時中央委員会を選出する。名称は「ベトナム共産党」とされる。会議にはインドシナ共産党とアンナム共産党が参加した。インドシナ共産主義同盟は会議には欠席したが、後に結集した。

モスクワ版「世界の共産党」: インドシナ共産党〔東洋共産党〕は、いくつかの共産主義団体が合同して、香港大会で組織された。香港大会を指導したのは胡志明と彼の戦友レ・ホンフォン(1940年に植民者当局に銃殺された)であった。共産党はインドシナ諸民族の広範な解放運動の先頭に立っていた。

2.09 グエン・タイ・ホック(阮太学)の率いるヴェトナム国民党、ハノイの北西イエンパイ(安沛)のフランス軍兵営を襲撃。蜂起は失敗に終わり、指導者は逮捕され、断頭台の露と消える。

2.18 ホーチミン、自らの名で「インドシナ共産党成立のアピール」を発表。当面のスローガンとして①フランス帝国主義と封建主義の打倒、②インドシナの完全独立、③労働者・農民・兵士の政府の樹立を掲げる。この時点でベトナム共産党の党員数は211名。内訳はインドシナ共産党85名、アンナム共産党61名、インドシナ共産主義連盟11名、海外共産主義者グループ54名とされる。

2月 コーチシナのフーリエンにあるミシュランのゴム農園で3千人の参加するストライキ。ほかにナムディン(トンキン)の織物工場で4千人のスト、ベントイ(アンナム)のマッチ工場と製材所で400人のスト。

4月 コミンテルン東方局から派遣されたチャン・フー(陳富)が、「書簡」を携えベトナムに入る。チャン・フーは革命会から派遣され、クートベ在籍中に、東方局のインドシナ共産党結成案作成に参加した。統一会議の方針に従い行動を開始していた現地組織は、「書簡」の路線に抵抗を示す。

30年5月

5.01 ベントイでインドシナ史上初のメーデー。共産党の指導の下、マッチ工場、鉄道整備工場の労働者が中心となる。さらにフングエン県の農民も多数参加する。植民地当局は軍隊を動員してデモを鎮圧。デモ参加者7名が射殺される。

ベントゥイ: ゲアン省の省都ビン市の郊外フングエン県の工場町。共産党はベントゥイのマッチ工場、チュンティ鉄道整備工場などの労働者に浸透し、さらに県下の中小農民へも影響力を広めていた。

5.01 ゲアンで鉄道とマッチ工場の労働者がストライキに入る。労働者は農村に入り蜂起の準備を開始。

5月 メーデー事件に抗議して、各地の炭鉱や鉄道労働者がストライキを決行。タイビン省のクアンハイ、ハナム省のビンロクでは農民が抗税デモを敢行。コーチシナではジアディン、ショロン、ミト、ビンロン、ナデク、ベンチェ省の農民が役所に押しかけ減税を要求した。

30年9月

9.02 ゲアン省ナムダン県とフングエン県の農民2万人が結集し、米よこせのデモ行進。地域の中心地ビン市の役所に減税要求の請願行動。植民地政府は航空機を出動させ、デモ隊に機銃掃射や爆撃をあびせる。さらに陸軍と警察隊をさしむけて非武装の群衆を包囲、攻撃する。これにより217人が死亡、126人が負傷する。

9.22 ゲアン省とハティン省(その後ゲティン省に統合)の農民は共産党の指導と労働者の支持の下に武装蜂起。ナムダン、タンチュオン、フオンソンなどの県を占拠し、権力機関を解体してソヴィエト政権を樹立する。ソヴィエト政権は地主の土地・財産を没収し、貧農に分配した。

ゲティン・ソビエト運動: 武装蜂起した農民が数ヶ月間にわたり権力を掌握。地主から土地を没収し貧農に分配。負債を破棄し税金を廃止する。また労働自衛隊を組織し植民地政府と闘う。翌年半ばには激しい弾圧の中で崩壊・消滅。

9月 植民地政府はゲアンとハチンに大部隊を投じてソヴィエト政権の制圧作戦を展開。いっぽうで朝廷や土着官吏、長老、カソリック教徒などを利用して大規模な反共キャンペイン。

9月 共産党ゲアン省委員会は白色テロに反対する運動や反革命分子を罰する運動を進める。中部ヴェトナム(アンナン)地方委員会、「すべての知識分子・地主・長老を根絶せよ」とのスローガンを掲げる。これにより孤立を深める。(この記述はちょっと眉唾)

30年10月

10月 統一共産党、ホンコンにおいて第2回(第1回?)中央委員会を開催。白色テロ反対・ソヴィエト支持の運動を呼びかけるいっぽう、ソヴィエト指導部に対し、階級的粛正や武装自衛組織について指示を与える。また富農を赤色農民組合に加入させない原則を支持する。その際、すでに参加している富農を「説得によって自発的に脱会」させるよう促す。

「労働党闘争30年史」での評価: 中央委員会の指示はゲティン党委員会の誤りを正し、ブルジョア民主革命における農村地帯での党の正しい階級路線を反映していた。しかし、党中央委の指導にも、ゲティンの運動を広範な社会的基礎をもつ反帝民族統一戦線に発展させるという積極的意欲が欠けていた。そのためソヴィエト運動は局地的なものにとどまり、強大な植民地権力にたちむかい、民族独立を獲ちとる方向には向かわなかった。

10月 ベトナム共産党第1回中央委員会。「ヴェトナム、カンボジア、ラオスのプロレタリアートは、言語・習慣・人種の違いにもかかわらず、政治・経済的に密接な関係にある」という理由で、党名をインドシナ共産党と改称。コミンテルンは、ヴェトナム共産党統一会議で採択された「暫定綱領」について、「若干の補足・修正の必要」と称して、党の管轄範囲をインドシナ全域に拡大するよう勧告していた。当時の人口はカンボジア600万、ラオス300万に対してベトナム3100万であり、とくに労働者の数においては圧倒的であった。

10月 中央委員会、チャン・フウを書記長に選出。チャン・フウの起草した「ブルジョア民主主義革命に関するテーゼ」(一般には「政治綱領」と呼ばれる)が採択される。

「政治綱領」の要点: インドシナ革命は封建遺制を一掃し、フランス帝国主義を打倒し、インドシナの完全独立を達成する「ブルジョア民主主義革命」である。これを達成するためには「労農ソヴィエト政権」を樹立しなければならない。ソヴェト建設後、インドシナは資本主義の発展段階を経ずして直接社会主義へ進むであろう。

30年11月

11.13 コミンテルン、「ゲティン・ソヴェト」を評価し、労農同盟の強化を指示。武装蜂起の準備に対しては否定的見解をとる。クアンガイを中心とする中部海岸、サイゴンを中心とする南部でもストライキなどの戦いが高揚。31年冬にはメコンデルタの最深部ウミンの森に根拠地の形成を始める。

12.09 インドシナ共産党、グエン・アイコクを批判する文書を配布。「この同志はなんら明確な計画を持たず、コミンテルンの計画にそぐわない多くの誤りを犯した」とする。

30年末 共産党、反帝国主義・反対建闘争を訴え、炭鉱などの企業内に「赤色労働組合」を拡大。党員1500人、同調者10万を越える組織に成長。

30年末 この頃までにゲティン・ソヴェトはほぼ消失。約3千人が逮捕され、うち83人が死刑、546人が無期懲役に処せられる。その後も31年4月までに1千500人が逮捕される。

30年 バーチェットによれば、この年ホーチミンの提唱を受けて「反帝国主義連盟」が創設される。

1931年

3月末 サイゴンでインドシナ共産党の第二回中央委員会総会。党中央は、トンキン地方委員会の自由分散主義と暴力志向を批判。「知識人分子、守旧派分子」を更迭し「労働者・貧農分子」を送り込むと強調。

4.17 インドシナ共産党がコミンテルンに4月書簡を送る。統一会議を、「中国における合作時代の右派政策の流れを組むものであり、根本的な問題で共産主義的路線と矛盾する」と批判。採択された諸文献は一切無効であると宣言。コミンテルンの階級対決路線に沿った転換を計る。

4.19 サイゴンのフランス当局、共産党に対する一斉弾圧を開始。チャン・フー書記長を逮捕・虐殺。6月までに中央委員全員が逮捕され、党組織は壊滅状態に陥る。ホーチミンも香港でイギリス当局により逮捕される。

5月 西部コーチシナで最初のトロツキスト組織が結成される。その後フランス帰りの留学生を迎え勢力を拡大。壊滅状態の共産党に取って代わる勢いを示す。

6.06 ホーチミン、ホンコンにおいて、仏当局の意をうけた英当局の手によって逮捕される。

バーチェット「17度線の北」(岩波新書)はこの間の事情に関してきわめて詳しく記載している。これによれば、ホーチミンは「ソ連スパイ」として逮捕された。香港在住の弁護士ローズビーと本国の労働党幹部クリップスの献身的努力によって、いったん釈放された。ホーチミンは英国に密航を企てるが、シンガポールでふたたび逮捕され、香港に送還される。ローズビーはホーチミンを脱獄させ九竜に匿った。ホーチミンは実業家に成りすまし療養の傍ら活動を再開した。ただしバーチェット説は逮捕の年を31年ではなく33年と記載するなど、「異説」の雰囲気が強い。

イギリス人弁護士ローズビーが身柄の保護に奮闘したとされる(一説に33年)

6月 コミンテルン、4月書簡を批判。統一会議問題は過去のものであるとし、ホーチミンへの攻撃を中止するようもとめる。

31年末 ここまでに政治犯の数は1万人に達する。共産党は中央委員全員が逮捕され、組織は壊滅状態に陥る。コミンテルンやフランス共産党はインドシナ共産党の極左偏向を厳しく批判。

1932年

6月 クートベ帰りの若手活動家チャン・ヴァン・ジャウが、サイゴンで共産党の再建に着手。33年初めにはサイゴンに地方委員会を樹立し、機関誌「赤旗」や理論誌「共産主義評論」を発行し活発な運動を展開。反帝国主義同盟コーチシナ支部や各種互助会(例えば冠婚葬祭、収獲、家屋改築などの互助会)、スポーツ団体、読書会などを組織。

9.08 パリ留学中のバオ・ダイ、帰国してアンナム(安南)皇帝に即位。人民の福祉の向上や立憲君主制度の樹立、官僚・司法制度の改革等に対する意図を明らかにし、ユエ朝廷の機構改革に着手する。ゴ・ジン・ジェム(当時32才)が内相および機構改革委員となる。

32年 出獄者を中心に共産党の再建に着手する。民族民主革命の綱領を再確認する一方、武力闘争から合法・非合法手段による日常闘争へと戦術転換をおこなう。当面の行動綱領を決定。①勤労人民のための民主的自由の獲得、②政治犯に対する死刑の即時徹廃、特別裁判所・軍事法廷の廃止、③塩やアヘン、酒の専売制度の廃止などを柱とする。

32年 タ・チュウ・チャウらトロツキスト「闘争派」は、ベトナムの植民地闘争のために共産党との統一戦線を主張する。トロツキーが、社会民主主義者と共産主義者(トロツキストも含めて)に、反ナチス統一戦線を結成すべきことを提唱したことに呼応したもの。いっぽう、ホー・フウ・チュオンら「十月派」は共産党との共闘に反対した。

1933年

4月 タイのバンマイで共産党再建会議が開かれる。アンナンでも互助会やスポーツ団体をとおして党の組織づくりが始まるが、壊滅状態のトンキン地方からの代表は一人も参加せず。

4月 サイゴン市議会選挙を前に、共産党とトロツキスト「闘争派」との間に統一戦線が結ばれる。選挙綱領として、民主的自由や労働者のための福祉政策をかかげ、「労働者リスト」の中の八名の候補者を推薦した。またサイゴン居住の進歩的仏人を法的責任者として、機関紙『闘争』を発行。

チャン・ヴァン・ジャウを先頭とするコーチシナの共産党指導部は、トロツキストや革命的民族主義者をも含めた統一戦線戦術を打出した。トロツキストも革命的であり、植民地権力の弾圧の対象となっており、反植民地闘争の一翼を担いえるとの評価。コミンテルンや仏共産党はこれを痛烈に批判。「ヴェトナム労働党闘争三十年史」は、「或る同志達は原則を欠ぎ、トロツキストと提携した。彼らはトロッキスーのサボタージュや反革命的性格を見失い、真理と誤謬の区別をつけることができなくなった」と批判。

5月 サイゴン市会議員選挙で、「労働者リスト」の一位グエン・ヴァン・タオ(ジャーナリスト・共産党系)と二位チャン・ヴァン・チャ(大学教授・トロツキスト)が当選。当局はただちに当選を無効と宣言し、「闘争」紙を廃刊に追い込む。

9月 バオダイ改革、フランスの干渉により挫折。ゴ・ディン・ディエムはフランスに抗議して辞任。

10月 サイゴン統一戦線の『闘争』紙(仏語)が復刊される。政治犯の釈放や普通選挙にもとづく立法機関の設立、一般教育の実施、公共計画の樹立等を要求する。また知識分子や労働者の階級的自覚を高め、安易な政治的態度を打破するよう訴える。

11月 ホーチミン、起訴を免れ、釈放された後、モスクワにわたる。(その後の数年間は、スターリンの大弾圧を逃れ、潜んでいたと思われる)

1934年

6.14 コミンテルンの指示を受け、壊滅した中央委員会に代わり、マカオにインドシナ共産党海外指導委員会が設立される。委員長にコミンテルン執行委員会委員をつとめたレ・ホンフォンが就任。クートベを修了したハ・フイタップが執行委員に入る。

レ・ホン・フォン(LeHongPhong): ゲアン省出身。ベントゥイのマッチ工場で労働争議を指導。その後タイから中国に移り、革命青年同志会の創立メンバーとなる。黄捕軍事学校を卒業、引き続きレニングラードの軍事学校に学ぶ。32年以降中国共産党員として活動しつつ、インドシナ共産党組織の再建を図る。

9月 ラオスの首都ヴィエンチャンのほか、サワンナケート、タケーク、パクセーなどでベトナム人社会を中心に党組織が結成される。これらの組織を母体にインドシナ共産党ラオス地方委員会が結成される。ラオス人の結集に成功せず、1年後には事実上崩壊する。

1935年

3.27 マカオでインドシナ共産党の第1回党大会が開催される。参加者は10名。コーチシナ、アンナンの代表に加え、再建されたトンキン地区の代表、ラオスの代表も参加する。「広範な大衆を基盤とする反帝統一戦線の結成」を提起した行動綱領が採択される。

大会で採択された行動綱領: ①企業、農園、交通機関、軍隊の中に党員を増やす。②共産主義青年同盟、赤色労働組合、赤色農民組合、赤色救援・自衛隊などを組織する。とくに少数民族、婦人層などに力を入れる。③反帝国主義統一戦線を樹立し、すべての合法・半合法的方法を利用する。④帝国主義戦争に反対しソ同盟・中華ソヴィエトを支持する。これら問題はインドシナ人民の権利や利益と無関係ではないことを人民に理解させること。『ヴェトナム労働党闘争三十年史』は「全世界に押し寄せるファシズムの危険性について明確な分析を欠いていた」と批判。

3.31 党大会が閉幕。レ・ホン・フォンが書記長に選出される。(一説ではレ・ホフォンは名目上の指導者にとどまったとされる)レ・ホン・フォン、ハ・フイ・タップ、フン・チ・キエンら9人からなる中央執行委員会を選出する。中央委員会の所在地をサイゴンへ移すことも決められるが実施は先送りされる。ハ・フイ・タップがインドシナ共産党海外指導部の責任者となる。

8.20 コミンテルン第7回大会。ファシズムとの戦争危機に対して、人民戦線の結成を呼びかける決議を採択。大会に参加したレ・ホンフォンは執行委員に選出される。

35年 伝記によれば、ホーチミンは党大会に前後して、中国国内某所より党組織に書簡を送る。①当面もっとも危険な敵は日本である。②要求は高すぎてはいけない(例えば民族独立、議会設立など)。言論・集会・結社の自由、政治犯の釈放など合法的活動実現を目指して闘え、③進歩的フランス人、民族ブルジョアジーを味方につけ、これらをふくむ広範な民主戦線を目指せ。

1936年

5.03 フランスで人民戦線の勝利。レオン・ブルム政権が成立。ルネ・ロバン総督を更迭して、ジュル・ブレヴィエを新総督に任命した。政治犯の大赦令も発布され、チュオン・チン、ボアン・クオク・ヴィエトら約1300人の政治犯が釈放される。

6月 フランス人民戦線内閣の成立に伴い、インドシナ共産党が合法化される。

7.26 マカオの海外指導部を中心に第三回中央委員会を開催。コミンテルン第七回大会の決定をうけ入れ、帝国主義打倒や土地改革の実現を踏み絵とする、第一回党大会以来の「分派的誤謬」を改める。合法活動を強化し反帝人民戦線の設立に向け勢力を集中させることを決議。

7.26 第三回中央委員会。ハ・フイ・タップが正式に党書記長に就任。統一戦線対策はファン・バンドンとボー・グエン・ザップが中心となる。

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HaHuyTap(1906-1941)

 

ファン・バンドン: 独立運動に参加し、25年中国に逃亡。広州でホーチミンと出会う。青年革命同志会に加入し黄塘軍官学校に学ぶ。26年に国内に潜入したところを捕らえられ、カムラン沖のコンドル島で重労働六年の刑に服した。
ボー・グエン・ザップ: 32年出獄後、学校教師を勤めながら社会・経済情勢、国際問題に関する多数の寄稿を行っていた。またチュオン・チンとの共著で「農民問題」を発表した。

8.13 サイゴンで共産党の主催する合法的大衆集会。約1千人を組織する。フランスからの調査委員会に対し民主的要求を請願するための「インドシナ大会」の開催を決定。労働者、農民、婦人の各代表をふくむ18人の委員が選出される。インドシナ大会に向け、各地に数百の活動委員会が組織される。

8 サイゴン兵器廠(1100人)でストライキ。これを皮切りにコーチシナ鉄道(1400人)、トンキン炭鉱(約二万人)が相次いでストに入る。

9.20 ユエで、活動委員会に各分野から1千人を結集。26名からなる暫定委員会を選出し、10の課題別小委員会を設置する。

36年 サイゴンとハノイを結ぶ鉄道が完成する。

1937年

3.20 インドシナ共産党第4回中央委員会会議。あらゆる状況を利用して合法・非合法の形態で人民戦線の強化を図ることを決定。赤色救援会を人民救援会とし、「赤色労働組合」や「赤色農民組合」を「互助会」に再編成し、「共産主義青年団」を「インドシナ民主青年団」に代えることを決定。その後の1年間で党員数を60%拡大。

6.14 フランスで人民戦線内閣が崩壊。トロツキスト「闘争派」のタ・チュウ・チャウ、「来たるべき戦争は双方の側において反動的である」として、インドシナ共産党の人民戦線政策を批判し、たもとを分かつ。

37年 ホーチミン、ベトナムでの闘争に参加することをもとめ、ソ連から延安に入り共産党軍と行動を共にする(一説に38年)。なおこのときのペンネームはリンだった。(このあたりのホーチミンの行動は謎が多い)

9.02 ジアディン省バ・ディエム(ホクモン?)で中央委員会。ハノイのグエン・バン・ク(当時25歳)が中央執行委員に選出される。(ベトナム語ウィキペディアの記載)

1938年

3.29 インドシナ共産党中央委員会第5回会議、トロツキストの脱退した反帝人民戦線を、「インドシナ民主統一戦線」(略称は民主戦線)と改称。いっそうの大衆化を計る。また、共産党の合法性獲得をめざして闘うことを決定。

インドシナ民主統一戦線: 共産党参加の諸団体だけではなく、北部インドシナ社会主義者連盟、コーチシナ社会主義者連盟などフランス社会党系の組織、民主党(37年成立。指導者はサイゴンの著名なヴェトナム人医師グエン・ヴァン・チン)など改良主義民族政党も加わる。

3月 ハ・フイ・タップ、書記長を解任され、執行委員会や書記局などすべての役職から外れる。中央委員にはとどまる。これに代わりグエン・バン・クーが書記長に就任。(レ・ホンフォンからタップ、そしてクーへの権力異同については、時期・理由について諸説あり、真相は不明。ただしクーはあまりにも若く、“当て馬”だった可能性がある。三人ともにナムキゴイキアの直前に逮捕されており、実際に蜂起を指導したのはチャン・バン・ザウだった)

4月 フランスで急進党ダラディエ内閣の成立。ドイツ政府とのミュンヘン協定を締結するなど大きく右旋回。

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NguyenVanCu(1912-1941)

 

5.01 ハノイのメーデーでは民主戦線の集会に約五万人が参加。民主的自由・生活改善の要求やフランス人民戦線支持のスローガンを掲げる。

9.16 アンナンの「人民代表会議」(地方議会)、議会の安定多数を占める民主統一戦線が中心となり、フランスが提出した人頭税法案を廃案に追い込む。トンキンでも民主統一戦線が「人民代表会議」のうち15議席を獲得する。

秋 ホーチミン、華南へ派遣された軍事顧問団とともに中国南部に入る。桂林の八路軍弁事所に拠点を構え、ベトナム入りの機会をうかがう。この間、インドシナ共産党と連絡をはかり指導・指示を与え続ける。

11.14 フランス人民戦線政府が崩壊する。

38年 メコンデルタを洪水と飢饉が襲う。共産党は各地で米よこせデモを展開。これを期に土地の集中がさらに進む。6,200の地主が水田の45%を占有。北部ではさらに土地集中が進み、紅河デルタでは2%の大地主が水田の40%を占有する。

 

1939年

2月 日本軍、海南島に進出。3月には南シナ海の新南群島を占領する。

4.30 「コーチシナ植民地会議」の選挙。トロツキー派の同派のタ・チュウ・チャウ、チャン・ヴァン・チャ、プノム・ヴァン・フムが「第二選挙グループ」の投票総数の80%を獲得し、民主戦線派やその他諸派の候補を圧倒。トロツキストはナイゴンを中心にコーチシナにおいてもともと強固な地盤を持ち、ダラディエ政権の反動化を激しく非難することで、選挙民の共感を得た。

6月 レ・ホンフォン、サイゴンで逮捕される。5年の刑を宣告されコンダオ島に送られる。

9.01 ドイツ軍がポーランド侵攻。第二次世界大戦が勃発。インドシナにも総動員令が公布される。

9.26 フランス、共産党や植民地の革命勢力を戦争遂行上の障害とみなし弾圧政治を再開する。インドシナ民主統一戦線による合法的民主改革運動も不可能となる。

9.29 インドシナ共産党、「当面の政治路線」を発表。反植民地主義、反封建の主張を緩め、日本ファシズムをさしせまった最大の敵と規定する。

10月 共産党員やトロツキストの逮捕・投獄が始まる。地下組織の備えを怠っていたトロツキストは致命的打撃をうけた。共産党は活動の拠点を都市から農村に移すことで難を逃れる。

11月 インドシナ共産党、ジアディン省ホクモン(現在はホーチミン市の北西部)で中央委員会第六回会議を開く。民主統一戦線に代え「インドシナ反帝民族統一戦線」を提起。諸階層、諸民族を網羅することを目指す「活動綱領」を決定する。

活動綱領: 「インドシナ諸民族を日本の侵入の脅威、フランス帝国主義者および現地の封建領主との闘争へと結集する」ことを目標としつつも、ファシズムとの闘いを前面にすえ、フランス帝国主義打倒と土地改革の方針を事実上取り下げる。
 
「すべての革命の問題は、土地問題でさえ、この目的に従う。当面、ブルジョア民主革命は、民族的利益を裏切った地主の土地没収だけにとどめる」とする。そして、「労働者・農民・兵士によるソヴィエト権力の樹立」を迂回し、「インドシナ民主共和国連合」の樹立のために闘うことを決議。

 39年 親日派がクオン・デ侯を担ぎ、「復国同盟」を結成。

 

1940年

1月 グエン・バン・クー書記長、就任後2ヶ月で逮捕される。この後4月にはコーチシナ党組織の指導者ブ・バンタン、7月にはレ・ホンフォンの妻で党幹部のグエン・チミン・カイが相次いで逮捕される。

2.08 ホーチミンが、雲南省の昆明でインドシナ共産党の連絡に成功。海外部を設置する。

5月 ファンバンドン、ボーグェンザップが昆明を訪れホーチミンと会合。インドシナ共産党海外部に加わる。

40年6月

6.17 フランスがナチス・ドイツに降伏。ペタン内閣が成立、政府機能をビシーに移動する。。ドゴール将軍はドイツとの戦闘継続を宣言。植民地当局はビシー政権への忠誠を誓う。フランスの弱体化を見た共産党は、サイゴンとメコンデルタで大規模な反乱を起こす。官庁などを襲撃するが、2日後にはフランス軍により鎮圧される。残党はメコンデルタに散らばる。

6.19 日本政府、インドシナ政庁に対し、「援蒋ルート」の閉鎖を求める。インドシナ総督力トルーはこれに応じ、仏印・中国間の鉄道や道路を封鎖する。

6.22 日本が枢軸国の一員として、仏領インドシナの後見役に当たることとなる。日本は東南アジア進出の跳躍台としてベトナムを最重点目標に位置づける。

6.29 日本軍、国境地帯を監視するための監視団(団長は西原一策少将)をハノイに送り込む。

6月末 インドシナ共産党中央委員会、「インドシナのきわめて危険な内部情勢と外的脅威の切迫にかんがみ、共和政府の樹立をめざす武装蜂起の準備を進め、その政府を中国抗日戦線やソ同盟、世界革命に結集する」ことを決定。

40年7月

7.02 日本はビシー政権に対し、援蒋ルートの遮断を目的とする中国国境監視員の派遣を認めさせる。

7.20 ビシー政権、極東艦隊司令長官ドクー提督をインドシナ総督に任命。フランス資本の権益を守るため、日本に対する妥協や譲歩を重ねる。カトルーはのちに英国に移りドゴール派に加わる。

7月 南部で蜂起の準備が進む。共産党は人民大衆への活発な宣伝活動を進め、フランス帝国主義と日本ファシズムに反対してたちあがるよう呼びかけ。ヴィンロン、チャヴィン、パクリュウ、ラクジアの各省で大衆デモが展開される。

南部では50ヘクタール以上の土地を所有する2.5%の地主層が、45%の土地を占有していた。これに5ヘクタール以上の土地を所有する中農を加えると、25%の人口が82%を占有していた。

8.30 フランス政府、日本軍の仏印領内通過、仏印領内飛行場の使用、日本軍のための各種便宣の供与などを認める。日本軍はハノイに6千人を進駐させ、ハイフォンに輸送基地、ジアラムとラオカイ、プーランチュオンの三飛行場を使用することとなる。

40年9月

9.04 共産党コーチシナ地方委員会、各地の党組織に対し反日武装蜂起を指示。

9.13 日本の支援を受けたタイ政府、ラオスとカンボジアに対しメコン河左岸の「返還」を要求。

9.22 日・仏印軍事協定が締結される。ドイツ同盟国として日本軍がインドシナ北部と中国国境に進駐。

9.22 日本軍、協定の発効を待たず、中国広西省の国境地帯から侵攻。ランソンの仏印軍守備隊に武力攻撃を加える。守備隊は惨敗し、紅河デルタ地帯に逃走。

9.27 中国国境地帯バックソン地方の少数民族タイ族は、チュウ・バン・タンのもとに反乱部隊を組織。ランソンから敗走するフランス軍を襲い武器を奪う。共産党トンキン地方委員会はチャン・ダン・ニンを派遣し蜂起を指導。ヴーランでベトナム救国軍を樹立する。部隊はブーニャイ基地を占拠、ランソンの日本軍兵営に対しても攻撃をかける。その後フランス軍の反撃を受け敗退。ドンチュウの密林に退きゲリラ部隊を編成。

9.27 日独伊三国同盟が成立。これを見たイギリスはビルマ経由での中国軍援助を再開する。

9.28 タイ軍、メコン河左岸に侵攻。11月28日には戦争状態に発展する。

40年10月

10.11 バクニン(北寧)省のハノイ近郊チュウソンで共産党第七回中央委員会会議。日本とヴィシー政権を主敵とする反ファシズム統一戦線を再確認。バクソンのゲリラ闘争を支援することを決定。一方、南部委員会から派遣されたファン・ダン・ルウが南部蜂起を主張するが、時期尚早として退けられる。しかし現場では中央委員会を待つことなく、蜂起の準備が進む。(39年11月の6中総から、この7中総までのあいだで中央委員会がサイゴンからハノイに移動したことになる。この理由については不明)

10月 ジアディン、サイゴン、ミト、カント、パクリュウ、ラクジアなどで共産党が一斉蜂起を計画。主力は、仏印軍内のヴェトナム兵士と貧農など約3千人であった。

ミト: サイゴンから南西約70キロのメコンデルタ低地にあり、ティエンジャン省の省都。もとは湿地だったが、現在は排水が行われ、稲作・ココナツなどが生産される。観光コースに組み込まれ、小船で渡った対岸の土産物屋でいろいろ買わされます。工芸品はホーチミンで買ったほうが安いが、いくつかお勧めの品もあるそうです。

10月 ホーチミン、昆明から桂林に移り、「ベトナム独立同盟弁事所」を創設する。あらたに「中越文化工作同志会」を結成するなど活動を強化する。

10.25 ハ・フイ・タップ前書記長が逮捕され、懲役5年の宣告を受ける。

40年11月

11.23夜 「南部蜂起」(ナムキコイギア)が発生。ミト省を中心にコーチシナ8省で一斉蜂起。ミトとカオランでは、赤地に五稜の金星の民主戦線旗が翻る。この旗(金星紅旗)は45年の独立に際し国旗となる。蜂起は10日後に敗北。2万人が捕らえられる

フランスによる植民地化以前、ベトナムはバクキ(北圻)、チュンキ(中圻)、ナムキ(南圻)に分けられていた。フランス植民地政府はこれをトンキン(東京)、アンナム(安南)、コーチンシナ(交趾支那)と読んだ。(NamKyKhoiNghiaは今ではサイゴン市内の地名として有名です)

40年12月

12.08 蜂起がほぼ鎮圧される。ジョン平野では植民地軍が住民を村落に押し込め爆撃、大量虐殺を行う。約6千人が逮捕され、コーチシナの共産党組織も壊滅。レ・ホンフォン書記長も植民者当局に銃殺される。刑務所は満杯となり、サイゴン川に浮かぶはしけまで臨時収容所として利用されたという。

12月 南部蜂起で敗れた共産党系の活動家は、メコンデルタ先端のウミンの森にこもり組織の再建にとりかかる。

12月 南部蜂起に続きカオダイ教徒と日本と結託した復古勢力が武装蜂起。ドクー総督は飛行機や大砲まで動員して弾圧。6千人以上が殺害されたとされる。教祖のファン・コンタクはモザンビーク沖のコモロ諸島に流刑となる。

 

1941年

 

 

洞窟を探検するホーおじさん
(決してただの善人ではないのだが…)

 

 1.01 日本軍の支持を得たシャム軍がカンボジアに侵入。

1.23 ゲアン省ドールン(ドルオン)で農民の武装蜂起。失敗に終わる。インドシナ共産党は南部蜂起の失敗を総括。①蜂起の条件の成熟を待つ。②まず農村を固め、それから都市へ。③敵軍内の愛国的兵士にだけ頼ってはならず、むしろ労農大衆と人民に依拠すべき、とする。この後共産党は蜂起路線を保留し、大衆組織に重点を置く。

1.31 タイ・仏印戦争が日本政府の調停により停戦。フランスはメコン河西岸をタイに割譲する。

2.08 ホーチミン(胡志明)、ベトナム国内に潜入。カオバン省(高平省)の山中パクボに司令部を置く。各地で救国会の結成と組織拡大を指示。(一説では1月28日。バクボは漢字では「北部」だが、一般名詞ではなく固有名詞。カオバン省をふくみ国境へとつながる北部山岳地帯はベトバク(越北)と呼ばれる)

3.25 ナムキゴイキアに対する裁判。グエン・バン・ク、ハ・フイ・タップ、ボ・バンタン、グエン・チミン・カイらに死刑が宣告される。(グエン・チミン・カイはレ・ホンフォンの奥さん)

3月 南部蜂起の後捕らえられたインドシナ共産党の南部責任者、チャン・バン・ザウらが脱獄に成功。サイゴンで地下活動を再開。南部蜂起の失敗を総括し、都市労働者の闘争を中心にすえるよう主張。そしてサイゴン市内に地下組織を拡大し、これが45年8月のサイゴン蜂起へと結びついていった。ただしチャン・バン・ザウの古典的プロレタリア革命路線は、農村派の強い批判を浴びたとも言われる。

5.06 日・仏印経済協定が結ばれる。インドシナにおける日本の経済上の支配的地位を確定。総督をはじめフランスの植民地支配機構は残される。

5.10 カオバン省パクボでインドシナ共産党第八回拡大中央委員会が開かれる(19日まで)。ホーチミンが議長を務める。ファン・バン・チュウ、チュオン・チン、ホアン・クオク・ヴィエト、ファン・バンドン、ファン・バンファンなどが結集。中国共産党の政策綱領の方向で闘争方針を再編成。チュオン・チンが第4代の書記長に選ばれる。(コミンテルン資料では、3月、中国領内広西省聊州で開かれたとあるが、ベトナム側記録によれば、この頃すでにホーチミンはベトナム入りしている)

5.17 第八回拡大中央委員会、越南独立同盟(ベトミン:越盟)の創設を決定。ホーチミンは「第二次世界大戦の終り間近になれば、フランスと日本による熾烈な覇権争いが始まり、ベトナムに政治的真空状態が一時的に訪れる」と予見。この真空状態に乗じて、超党派を結集し、政権を取奪することを目標とする。

第8回中央委員会の決定: インドシナは仏・日ファシストによる二重抑圧のもとにおかれた。いまや党派的、階級的利益は民族問題に従属されねばならない。さまざまな勢力を仏・日帝国主義反対の闘争に結集するため、「ヴェトナム独立同盟」を組織し、民族解放のスローガンを高くかかげ、武装蜂起の準備を進めよう。土地改革は部分的のものに止める。後にボーグエンザップは「地主階級をあまり高く評価しすぎていた」と反省している。

5.19 ベトミンが結成される。①仏・日ファシスト打倒と独立の達成。②反ファシズム勢力との同盟。③ベトナム民主共和国の樹立、をスローガンとする。大衆組織は「労働者救国会」、「農民救国会」などの救国会に再編成される。その軍事部門としてベトナム人民軍が結成される。ベトミンの文化面をチュオン・チンが担当する。(モスクワ版「世界の共産党」では、3月、華南の広西省聊州でベトミン創立大会が開かれたと記載されている)

5月 南ではボー・バン・キエト、チャン・バン・ザウらの指示でウミンなど各地に軍事訓練と武器製造の基地が作られる。

5月 日本軍は中南部のニャチャンに進駐。植民地政府を統制の下に置く。

7.28 「仏印防衛協定」が締結される。日本軍が南部仏印への「平和進駐」を開始する。民族主義のクオン・デ派、新興宗教のカオダイ教、ホアハオ教などの団体を利用し「大東亜共栄圏」思想の普及をはかる。

7.28 日本軍、インドシナ駐留のフランス軍(ビシー政権)と共同防衛協定を締結。ベトナム全土がフランスと日本の二重支配下に置かれる。フランスは従来どおりベトナムの行政をとりおこない、日本軍は静謐方針の下、ベトナムに駐留して東南アジアで軍事行動を展開した。

駐留日本軍: 日本軍の大半は陸軍で、主力部隊は南方総軍司令部(サイゴン駐屯ののち中部高原のダラットに移駐、東南アジア全域を統括)、第38軍(ハノイに司令部、仏印派遣軍統括部隊)、第21師団(討兵団、同、北部管轄)、第34独立混成旅団(育兵団、フエに司令部、中部管轄)、第2師団(勇兵団、サイゴンに司令部、南部管轄)であった。海軍も若干の部隊(第10方面艦隊など)を駐屯させていた。

8.28 南部蜂起の指導者が銃殺される。

10.28 ノロドム・シアヌーク、カンボジア国王に即位。

11月 日本軍、コーチシナにも進駐。ギャング集団「ビンスエン」を治安維持のための手兵として利用。

12.08 真珠湾攻撃。太平洋戦争がはじまる。日本軍がタイに進駐。

41年 米OSS、日本軍へのかく乱作戦と墜落米機のパイロット救出を行うため、ベトミンと手を結ぶ。

1942年 

8.29 ホーチミン、中国人民軍と接触を図るため潜入するが、広西省の国民党地方政府により逮捕される。

9.06 レ・ホンフォン元書記長、コンダオ監獄で獄死。

9.10 ホーチミン、蒋介石軍による拘留から解放される(一説に16日)。背景に、日本軍の後方錯乱と蒋介石軍への支援ルート開拓を狙う、米国情報機関OSSの口利きがあったとされる。その後ただちにベトナム国内に戻ったという説と、45年3月まで昆明にとどまったという説がある。

10.10 ベトミンがフランス人に訴えるビラ。「フランスの兵士へ、フランスに忠実なフランス人へ! インドシナは日本の植民地であり、ドゥクーらはミカドの番犬である。…フランスはナチス追随者によって裏切られた。われらは手を携え、共同の敵ファシズムに対して闘うべきであろう」

11月 インドシナ派遣日本軍がインドシナ駐屯軍として再編される。軍司令部はサイゴンに置かれる。

1943年

2.25 第9回中央委員会、常任委員レベルでの会議となる。ベトミンを強化するとともに、日仏のファシストに反対する「インドシナ民主戦線」の創設を決定。愛国的知識人や民族ブルジョアジーの政党としての「ベトナム民主党」の結成、反ファッショ派のフランス人、抗日華僑などの組織化を目指し準備に入る。

2.25 インドシナ共産党常務会議、「より幅広い統一戦線の形成のためには、党の中に文化専門の幹部が必要である」として、幅広い知識人を結集するために、ハノイ、サイゴン、フエなどの都市を中心に、半公然の文化救国会を発足することを決めた。

文化綱領: 知識人への呼びかけとして、チュオン・チンが中心となって、「ベトナム文化革命綱領」が作成された。綱領では、文化を、政治経済と同様に、一つの戦線とみなした。なぜなら、「文化活動をしてこそ、党は世論に影響を与えることができ、党の宣伝効果を生む」からである。そして、文化活動の柱として、民族化、科学化、大衆化の三原則を掲げた。

6.03 ドゴール将軍ら、アルジェでフランス国民解放委員会を組織。

7月 松井石根大将、サイゴンで「ベトナムはフランスから解放されるべきである」と演説。

1944年

3月 文化綱領にもとづく活動を展開するため、文化救国会が秘密裏に発足。ト・ホアイ、ナム・カオ、グエン・ディン・ティなどの著名な作家が加入する。

5.07 ベトミン中央が「総蜂起の準備」を指示する。

6.04 ベトミンがフランス人に訴えるビラ。「インドシナのドゴール派は許すべからざる沈黙を守っている。彼らが反ファシストの義務から逃れようとしても、われらの呼びかけに応える反ファシスト分子が多数現れるであろう。フランス解放万歳!」

8.10 共産党中央委員会、「武器を確保し、共通の敵を駆逐せよ」とのアピールを発表。

8.25 パリが解放される。ビシー政権は崩壊し、植民地政府は本国からも孤立する。植民地政府は枢軸側の不利を知り、ひそかにドゴールと連絡をつけていたという。

11.13 ベトバクで「ディンカの武装蜂起」が発生。全国に反響を巻き起こし「武器を確保し、共通の敵を駆逐する」運動が強化される。中国から戻ったホーチミンは、個別的蜂起を冒険主義として強く批判。蜂起の延期を指示する。

ホーチミンの指示: ①蜂起はベトバクの情勢のみにもとづく判断である。②省レベルでのゲリラ戦は敵の集中攻撃を招き失敗するだろう。③まず政治活動を強化し、その後に蜂起を論ずるべきである。

11月 ベトナム北部を記録的な暴風が襲い、米作に壊滅的打撃を与える。その後、翌年春にかけてヴェトナム中部以北を厳冬と飢饉が襲う。

12.22 ベトナム人民軍の武装宣伝小隊が創設される。これが公式には人民軍創設日とされている。隊長をボー・グエン・ザップ(武元甲)がになう。

武装宣伝小隊: ホーチミンの指示によりボーグエンザップが編成。カオバン省の戦闘自衛隊から34人が選抜され、33丁の小銃とサブマシンガン1丁が準備された。戦闘より大衆組織に重点をおくため、この名称が与えられた。北部のカオ・バン、バク・カン、ラン・ソン各省で活動。

12.24 武装宣伝隊がファイカット基地を奇襲。機略により守備兵全員を捕獲。武器を取り、30分後に姿を消す。同様の手口でナガン基地も攻略する。

 

1945年

1月 フィリピンが陥落。日本軍はあらたに二個師団をインドシナに投入。仏印軍および作戦上必要な機関に対し、日本軍の指揮下に入るようもとめる。ドゥクー総督はこの要求を拒否。

45年3月

3月初め 共産党政治局、ベトバクから進出し、ハノイ北方30キロのバックニン省ディンバン村にアジトを構える。「米と衣料を! モミの徴発反対、税金の公正! 革命権力を人民へ!」のスローガンで大衆を組織。備蓄米倉庫を襲うなどの小規模な蜂起を展開。

3.09 日本軍が明号作戦(実施直前までマ号作戦と呼ばれた)を発動。新たに支那派遣軍の2個師団を派遣し、ベトナム全土を制圧。フランス軍7万人を武装解除し、フランス人政府と諸機関を接収する。バオダイ(保大)帝を元首に、チャン・チョン・キム(陳重金)を首相に就任させる(仏印処理)。

3.09 第10回中央常任委員会会議(拡大政治局会議)。ディンバンで緊急会議を開く。ホーチミンは「フランス植民地主義者は日本軍に駆逐され、当面の敵対勢力ではなくなった」とし、日本ファシストの撃退を主要スローガンとした武装蜂起の準備を指示する(この時点でホーチミンは中国領内昆明にいたものと思われる)。ボー・グエン・ザップによれば、この時点でベトミン武装組織は数千のゲリラ部隊に成長していた。

3.10 日本軍、カンボジアやラオスにも独立を促す。

3.11 バオダイ帝、「ヴェトナム国」の独立を宣言する。3.13にはシアヌーク国王が「カンボジア」の独立を、4.08にはルアンプラバン国王シーサワンウォンが「ラオス」の独立をそれぞれ宣言する。ベトミンはバオダイ政府をファシストのカイライとして激しく攻撃。

3.12 インドシナ共産党中央委員会、「日仏の衝突とわれわれの行動」と題する指示。①政治的危機が深まり、敵の手は拘束され革命に立ち向かうことが出来なくなっている、②飢饉が広がり、侵略者に対する人民大衆の憎悪が頂点に達している、③世界戦争は日本ファシストの運命を決する決定的段階に移行している、と情勢を判断。日仏を「二つの敵」とした情勢から、日本を「主敵」とするに至った情勢の変化をとらえ、逃亡フランス兵やドゴール派フランス人の日本軍に対する決起を呼びかける。

3.14 ドゴールがインドシナの解放を訴えるラジオ演説。ベトミン側からの共闘の呼びかけに対しては黙殺。

3月 日本軍憲兵隊、カオダイ教徒を予備警察隊に編成。チャン・クアンビンを隊長に任命。

3月 クアンガイ省バトゥで,捕らえられた政治犯が兵士を扇動し反乱。ゲリラ部隊を結成する。

3月 ファム・ゴク・タク(医師)、サイゴンで「青年前衛隊」を組織。青年20万人を結集する。

45年4月

4.16 第11回中央常任委員会会議が開かれる。ベトミン中央本部の指令として、各級地方機関に「臨時政府」の受け皿となる民族解放委員会を結成するよう指令。

4.20 ベトミン中央本部、ベトナム北部革命軍事会議を招集。武装宣伝隊や救国軍などの武装組織を統一し、ベトナム北部解放軍を結成することを決定。ボー・グエンザップ、チュウ・バンタン、バン・ティエンズンが司令部を形成。

5.15 ベトミンと逃亡フランス兵の抵抗により、日本軍の制圧作戦は挫折。

45年6月

6月 厳しい飢饉がハノイ周囲の地域を襲う。ベトミンの発表では200万人が餓死したとされる。ベトミンは米一揆を呼びかけ実力闘争を展開。全国に影響力を拡大する。

「日本軍によるベトナムにおける200万人餓死」については、反論がある。①200万という数字はベトナムの初代国家主席ホー・チ・ミンが独立宣言に盛り込んだものに過ぎず、その他の明確な根拠を欠いている。②ベトナムはフランスに支配された植民地であり、日本軍は間借り人に過ぎなかった。③米の集散は事実上、華僑の手中にあり、200万人分の米を奪うような徴発は不可能だった(②については論者の誤認であろう)。また、フランス軍が反日感情をあおるため、人為的に米不足を作り出したという、うがった説もある。
これに対しては古田元夫らがベトナムとの共同調査にもとづいて再反論している。①基本的要因は米作付けのジュートへの強制切り替え、南部からの米輸送の停滞、それ以前から進行していた農村窮乏化の三つである。②45年初頭段階ですでに米備蓄は250万人分が不足しており、“飢えを分かち合った”としても10万人単位の餓死者、その数倍の飢餓関連死が出ることは自然である。③日本政府の公式見解通り「諸物資の大量徴発」はあった。“200万人分の米を奪う”ような徴発がなくても、崖から突き落とす効果は十分ある。

6.15 インドシナ共産党機関誌「解放の旗」、「日仏の衝突とわれわれの行動」に関する論説をチュオン・チンの署名で発表。「日本ファシストに反対する任務を最優先とし、連合軍が上陸しなくても、人民とともに抗戦を続ける」と述べる。

6月 カオバン、ランソン、タイグエンなどベトバク6省を包括する「解放区」が正式に発足する。

45年7月

7.26 ポツダム会談。日本軍の武装解除に伴うベトナムの分割占領を決定。北緯16度線を境界とし、北側を中国、南側を英国が担当することになる。フランスはインドシナ植民地全土の回復を要求し、承認される。

7月 ベトミンがフランス戦略使節団に覚え書き。最小5年最大10年以内にベトナムを独立させ、それまでフランス総督が大統領の職を執行するようもとめる。

45年8月

8.11 ハ・ティン省で人民蜂起が勃発。現地の解放委員会は蜂起の指令を発する。

8.12 農民がタイ・グエン市を包囲。地方の解放委員会は中央の指令を待たず蜂起を開始。

8.13 クアンガイ省でも人民蜂起が発生。

8.13 インドシナ共産党、北部トゥエンクァン省(現ハトゥエン省)ソンズオン県のタンチャオで第二回全国代表大会。チュオン・チン書記長は「連合軍が到着する前に日本帝国主義から権力を奪取し、国の主人として連合軍を迎えなければならない」と強調。イギリスと中国の連合軍が来る前に総蜂起を行うことを決定。

8.13 共産党全国代表大会の決定を受けたベトミンは、中央本部内に蜂起委員会を結成。

このあたり、文献により相当の異同があります。4月の共産党=ベトミン指令を受けて各地に解放委員会が組織され、これがタンチャオ会議を機に全ベトナム解放委員会に統合され、事実上の臨時政府となったとされますが、労働党史ではベトナム民主共和国臨時政府が樹立され、その下に全国蜂起委員会が組織されたとなっています。

8.13 夜11時、蜂起委員会は軍令1号を出し、一斉蜂起の開始を指示する。この時点で兵士は800人、銃は90丁に過ぎなかった。

8.15正午 日本が連合国に対し無条件降伏。

敗戦時の仏印派遣軍: 総兵力は約9万、うちベトナムに8万人。ほかに数千人の民間人がいた。1946年末にインドシナに残留していた日本人(圧倒的多数は軍人・軍属)の総数を約800人と推定。うち独立戦争参加者は約600人とされる

8.15午後 ハノイに革命軍事委員会が樹立される。ベトミン代表団がフエ王朝のトンキン代表を訪れ、バオダイの引退と政権の引渡しを要求。

8.16 タンチャオで共産党の全国代表会議に引き続き人民代表大会が開かれ、北部、中部、南部の代表合わせて60人が出席する。総蜂起の開始で合意。ベトミンの「10大政策」を承認し、ホーチミン主席を委員長とする民族解放委員会の設立を決定。国旗と国歌を定める。(「第2回ジェンホン会議と呼ばれる」との記述があるが、これは共産党の会議のことか? ホーチミンの名はこのとき初めて公式に用いられたとされる)

8.16 ハノイ市内の各劇場で、「打倒日本ファシスト、解放ベトナム」を掲げるベトミンの集会が開催され、日本降伏の事実が大衆に知らされる。

8.16 ハノイの革命軍事委員会、日本軍に対し中立の立場をとるよう申し入れる。日本軍は独立の動きに対しなんらの対応もせず放置。

8.16 フエの日本軍、明号作戦で仏印軍から押収した武器をト・ヒューの率いる蜂起委員会に提供。

井川省少佐(ベトナム名レ・チ・ゴー 李志呉): 第34独立混成旅団の参謀。ベトミン軍幹部のグエン・ソン将軍と親交を結び、クァンガイ省の第5戦区司令部に加わる。46年4月、プレーク付近でフランス軍の待ち伏せ攻撃を受け死亡。井川の遺志を継いだ中原少尉らはクアンガイに軍事学校を設立。高級将校の育成に当たる。校長はグエン・ソン。なお当時の第五戦区の政府代表はファン・バン・ドン。

8.17午前 バオダイ政権、ハノイ市立劇場前広場でチャン・チョン・キム首相を擁護し「救国委員会」を推進する決起集会を組織。公務員を中心に1万人を動員する。

8.17午後 政府擁護のハノイ集会にベトミン支持派が2万人を動員し、集会そのものを乗っ取り、完全独立支持の集会に切り替える。市内各地でデモが展開され、労働者はストライキに入る。日本と傀儡政権の官憲はこれに手出しせず。

8.17 ドゴール政府、第二装甲師団と第9植民地歩兵師団をインドシナに派遣すると発表。インドシナ最高司令官にジャック・ルクレールを、高等弁務官にダルジャンリュウ提督を任命。ドゴールはダルジャンリュウに「インドシナ全域にフランスの主権を再建する」よう求める。

8.18 ハノイ郊外の各村に人民権力が樹立される。ベトミンの戦闘自衛隊がハノイ市内の要所を押さえ、蜂起の準備に入る。企業・機関・商店のほぼすべてが閉鎖され、市内は真空状態に陥る。


ラオスの独立をめぐる動き

日本語版のラオス地図

 

ラオス地図

 

8.18 ペサラート首相を中心に独立を目指すラオ・イサラ(自由ラオス)委員会が設立される。ラオスの独立運動には、東北タイで活動したラーオ・セーリー、南部のラーオ・ペン・ラーオ、タケークの救国戦線などがあり、これらの独立運動を総称し「ラーオ・イサラ」(自由ラオス)と呼ぶ。

8.30 シーサワンウォン国王は引き続きフランスの保護領にとどまると宣言。翌々日、ペサラートが独立を再確認する宣言を行う。

9.02 フランス、降下部隊の一部をルアンパバーンへ派遣する。

9.14 フランス軍、チャンパーサックのブン・ウム(BounOum)殿下の協力により、パクセーを占拠。

9.15 ペサラート首相がラオスの統一を宣言。

10.06 ホーチミンの援助を受けたスパーヌウォン(Souphanouvong)殿下、ベトナム護衛兵と共にサワンナケートに到着。ウン・サナニコーンと共にタケークで南ラオス解放委員会を設立。名誉委員長にペサラート、委員長にスパーヌウォン、副委員長にウン・サナニコーンが就任する。

10.10 シーサワンウォン国王、ペサラート首相を解任。

10.12 ペサラート首相、プーマ、スファヌボン3兄弟殿下(ブンコン副王の子息)らが、ビエンチャンでラオ・イサラ(自由ラオス)人民代表会議を招集する。独立と臨時政府樹立を宣言。シーサワンウォン国王を解任し「人民共和国」に向けた暫定憲法を採択する。

10.30 スパーヌウォンとベトミン、軍事協定締結。このあとスパヌウォンはヴィエンチャンに戻り、ラーオ・イサラ政府の外務大臣、国防大臣兼総司令官に就任。

11.10 シーサワンウォン国王、退位を承諾しラーオ・イサラ政府を認める。


45年8月 続き

8.19 民族解放委員会がハノイ蜂起を決行。大衆集会に20万人が結集し、戦闘自衛隊が各政府機関を次々に接収する。日本軍は、抵抗することなく全権力をベトミンへ委譲する。保安隊や警察もベトミン側の支持に回る。

トンキン、アンナン、コーチシナの三地域における単一民族国家意識は、ベトナム語を母語とするという文化地理的事実のみによるものではない。古田によれば、少数民族もふくめて「8月革命の蜂起の熱狂を共有」する中で、発見されたものとされる。

8.21 サイゴンでトロツキストのゴ・バン・スエト(NgoVanXuyet)に率いられた集会とデモ。

8.22 フエで革命軍事委員会が樹立される。バオダイ政権に対し政権禅譲を求める。

8.22 ルクレールがセイロンに到着。キャンディーで英東南アジア軍のマウントバッテンと会談。連合国軍がベトナムを南北に分割し進駐したことを知らされる。

8月23日

8.23 ダルジャンリュウの下でインドシナ南部代理に任命されたジャン・アンリ・セディール大佐、英軍機からパラシュートで降下。タイニン省で日本軍に捕らえられ、サイゴンに連行される。

8.23 連合軍、インドシナの当面の占領政策について議論。国土を北緯16度線で分け、北部を中国、南部をイギリス・インド軍が分担することで合意。

8.23 マウントバッテン司令官が声明。「連合国軍は、仏領インドシナをその管理下におき、北緯16度線を境として南北二地域に分け、それぞれ英国軍、中国軍によって責任を分担する」ことを明らかにする。

8.23 フエの革命委員会が市内の全権を掌握。バオダイに退位を迫る。

8月24日

8.24 フエのキエン・ツエン宮殿のバオダイ帝、ベトミンの政権奪取を受け退位の意向を表明。ハノイのベトミン中央はチャン・フイ・リエウをフエに派遣し、政権の受け渡しに備える。

8.24 セディールが解放され、南部革命委員会と接触。「フランスはベトナムの独立も統一も認めない」と通告。現地フランス人を組織して情報委員会を設置。兵力の確保と独立運動抑圧の準備に入る。

8月25日

8.25 バオダイ、チャン・フイ・リエウらのベトミン代表団と会見し、退位を確約する。

8.25 サイゴン民族解放委員会が100万人の大集会を開催し、各省庁を手中に収め権力奪取に成功。(サイゴン解放については諸説ある。異説についてはそのつど加える)

8.26 ホーチミンがハノイ市内に入る。行政機関を日本軍の手から接収。

8.27 サイゴンに南部暫定抵抗行政委員会が樹立される。チャン・ヴァン・ザウ(インドシナ共産党の南部責任者)が議長に就任。

8.28 民族解放委員会、全国での人民政権の樹立状況を判断し、ベトナム民主共和国臨時革命政府の樹立を宣言する。ホーチミンが大統領に就任。

8月29日

8.29 セディール大佐、サイゴン市内でベトミンに対抗し、親仏ベトナム人を巻き込んで臨時人民革命委員会を立ち上げる。

8.29 ベトナム解放軍の最初の連隊が結成され、首都ハノイの治安維持に当たる。

8.30 バオダイ帝は「自らも祖国のためにその一身を犠牲にする」と述べた「退位勅書」を発する。バオダイの名を捨て、一市民として幼名グエン・ヴィン・トゥイ(阮永瑞)を名乗る。チャン・フイ・リエウがバオダイから王剣と金の玉璽を受け取る。

退位勅書: 私自身、20年の在位のあいだ、多くの苦汁を味わった。いまや独立国の自由な一市民の喜びを感じている。わが国人を惑わすために、何人といえども私の名前や王族の名前を用いることを許さない。ベトナム独立万歳! われらが民主共和国万歳!

45年9月

9.01 ホ一・チ・ミン及びボー・グェン・ザップが、独立宣言を前にしてOSSベトナム駐留チームの責任者アーキメデス・パッティ(ArchimedesLA.Patti)と会見。反植民地主義を掲げる米国に対し、ベトナム独立への支援をもとめるが、トルーマン政府はこの要請を無視。

パッティの回想: ホーチミンは、「ベトミンはベトナムのあらゆる革命的な政党を包含する民族主義運動である。英明なルーズベルト大統領の開明的指導の下にある米国は、ベトミンに不安を抱くべきではない。インドシナ共産党員はまずもって民族主義者である」と語る。ボー・グエン・ザップはこれに付け加え、「ベトナムにフランスに代わる別の外国権力をおく意図はまったくない」と強調した。

9月02日

9.02 ハノイのバディン広場で数十万人が参加して建国大会。ホーチミンがベトナム民主共和国の独立を宣言。「ベトナム全人民は、この自由と独立の権利を守るため、あらゆる精神的、物質的な力を動員し、生命と財産を捧げることを決意する」と結ぶ。

アメリカ独立宣言の影響: 宣言にはアメリカの独立宣言から多くが引用された。最初の言葉はこうなっている。「我々は真実を保持する。それはすべての人間が平等に形づくられること、彼らは創造者によって固有の変えがたい権利を付与されていること、その権利とは、彼らの人生において自由と幸福を追求する権利であること。これらは否定できない真実である」 これはOSSがホーチミンに提供した資料に基づくものとされる。このときホーチミンは、トルーマン大統領に8通の独立支援の手紙を送るが、無視されたという。

9.02 サイゴンで、ベトナム南部行政委員会が主催して人民大会が開催される。50万人が参加する独立祝賀デモのあいだ、各所でフランス人邸宅が襲撃を受ける。暴徒に対して日本軍が発砲。47人が死傷する。

9.02 ルクレール、東京湾上ミズーリ号での降伏文書調印式に列席し、フランス代表として署名。その後のマッカーサーとの会談で、フランスのインドシナ再支配に向けた行動への賛成を取り付ける。

9月03日

9.03 日本軍の武力行使の報を受けた連合軍は、英領インド軍の緊急配備を決定。

9.03 民主共和国臨時政府が第一回目の閣議を開催。祖国の完全独立などを盛り込んだベトミンの10大政策を確認し、当面5つの重点政策を推進する。①米の増産と飢餓の救済、②文盲撲滅運動、③普通選挙の実施、④勤・倹・廉・善の励行、⑤人頭税、市場税などの廃止とアヘンの禁止。

9.06 ダグラス・グレーシー将軍の率いる英印軍司令部スタッフがサイゴンに空路到着。日本軍の武装解除を宣言するとともに一般市民の武器を回収。

9.07 サイゴンの南部行政委員会、メンバーに反ベトミン派も加え、事態の収拾を図る。

9.11 第一方面軍司令官慮漢(ルー・ハン)将軍率いる15万人の蒋介石軍は、8月末、国境から徒歩でベトナム北部に入る。この日ハノイに到達。

9.12 グルカ兵を主体とする空挺部隊が到着。部隊にはフランス軍先遣隊も含まれていた。進駐軍は日本軍の武装解除を執行。一説では民衆からの武器回収も行なわれた。

9月13日

9.13 英印軍、サイゴン街頭を示威行進した後、南部行政委員会の庁舎を接収。旧コーチシナ知事庁舎にフランス国旗を掲げさせる。

9.13 英印進駐軍は日本軍の捕虜収容所に入れられていたフランス軍兵士1400人を解放。

9.15 中国軍、ハノイに入り残留日本軍の武装を解除。一部は市内で略奪を開始。途中の村落でも略奪を繰り返したという。また中国の支援を受けた「国民党軍」が共和国政府に対する反革命闘争を活発化させる。

9.16 グレーシー将軍、インドシナの内政には一切干渉しないと宣言。統治をフランス軍にゆだねる。

9.19 セディール、「ベトミンは人民の要望を代表していないし、治安を維持する能力もない」とし、旧植民地の秩序を再建する方針を明らかにする。記者会見では、ベトナム人の団結も集会も認めない態度を明らかにする。さらに「アンナム人はその指導者に欺かれており、それはちょっとした軍事行動を企てれば証明されるであろう。そうすればベトミンは四散し、悪い羊飼いは孤立化されるであろう」と語る。

9.20 英印軍、全南部地区に戒厳令を施行。連合国軍人以外の兵器の携帯を禁止し、夜間外出禁止・消灯命令。

9月21日

9.21 英海軍艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸。

9.21午後 英仏軍、南部行政委員会の警察機関を強制接収。ベトミンは無抵抗でこれを受け入れる。

9月22日

9.22夜 フランス軍が市内各所に展開。ベトナム人とのあいだに衝突があいつぐ。

9.22 ベトミンはイギリスとの交渉をもとめるが、トロツキスト、仏教徒、新興宗教教徒、一部の共産党グループが自然発生的な蜂起。市内の労働者街に立てこもる。

9.22 ホー・チ・ミンはスターリンあてに書簡を送り、インドシナ情勢の重大な変化(バオダイ帝の退位と民主共和国臨時政府の成立)を報告するとともに,飢饉に直面したトンキン人民への支援要請やフランスによる再侵略行動の違法性などを訴える。ソ連側からの回答はなし。

9月23日

9.23朝 英仏軍、サイゴン市内を武力制圧。各公共建物の占拠を完了。南部行政委員会の本部のある旧市庁舎を占領し、行政委員会のメンバーを逮捕する。(一説では旧日本軍も作戦に参加したとあるが9月2日の事件との混同であろう)

9.23 フランス兵はイギリス占領軍の黙認の下、サイゴン市内でベトミン活動家や市民を殺害するなどの妄動。これに2万人のサイゴン在留フランス人も合流する。

9月24日

9.24 サイゴンでベトミンがゼネストを組織。全商業施設が閉鎖され、電力・水道もストップする。サイゴン郊外では、秘密結社「ビンスエン」のメンバーが、子どもをふくむ150人のフランス人を虐殺する。

ビンスエン(平川): 元々はメコンデルタの旧ビンスエン省を根城とするギャング集団。ウィキペディアは「20世紀の北半球における最大の組織暴力」と記載する。ビンスエンの一派ル・バン・ビエンはサイゴンに進出し暗黒街を仕切っていた。進駐した日本軍に協力し急成長。フランス軍も後にビンスエンを手兵として利用した。

9.24 フランス政府、レジスタンスの英雄フィリップ・ルクレール将軍(Philippe Leclerc De Hauteclocque)を極東軍総司令官に任命。インドシナの権益維持の姿勢を明らかにする。

9.25 体制を整えたフランス軍、ベトミンに対する本格的な掃蕩作戦を開始。ベトミンはサイゴンを撤収し、フランス軍とのあいだにゲリラ戦を開始する。

9月26日

9.26 英印軍のグレーシー司令官、停戦会談を調停する。ベトミンのファム・ゴクタック代表とセディール大佐が、1週間にわたる停戦協議。

9.26 ホーチミン主席、南部の人民に「我々は奴隷として生きるよりも死を選ぶ」と訴える書簡を送り、抗戦の開始、全国の援助を呼びかける。ハノイの臨時政府は、南部をフランス人植民地主義者から解放するため、「南部進軍」を組織する。

9.26 OSSのピーター・デューイ中佐、フランス将校と間違えられ、ベトミンに殺害される。デューイは死亡直前、米国が「東南アジアから出て行くべきである」という報告を送っていた。

45年10月

10.02 グレーシー司令官、双方に対し戦闘中止を申し入れ。

10.03 フランス本国からの増援軍の第一波が上陸を開始。(三梯団のうちの第一梯団所属の植民地歩兵第五連隊)

10.05 フィリップ・ルクレール将軍の率いるフランス軍3万5千人が南ベトナムに到着。ルクレールは「1ヶ月以内にコーチシナの秩序を回復する」と宣言する。

10.08 臨時政府、人民教育部を設置。人民教育学校や学級で、老人も子供も一緒に文盲撲滅運動を開始する。その後の一年間で、7万五千のクラスが作られ、9万5千の教師により250万人が読み書き可能となる。

10.25 フランス軍、ミトに進出。28日には船でメコン河口までくだりゴーコンを制圧。さらにメコンをさかのぼり29日にはデルタの中心部ビンロンを、30日にはカントを占領する。これによりメコン河左岸の「イグサ平原」(Plaine des Joncs)がフランスの支配下に入る。パサック河からカマウにいたるメコン河右岸地帯は、依然ベトミンが影響力を保持する。

45年11月

11.09 フランス軍、サイゴン北方に進出。タイニンを占領し国道13号線をカンボジア方面に向かう。

井川の著作によれば: ホーチミン市西北部のホクモン県アンフードン村の水田には、村の守り神として大切にされている二つの大きな墓碑がある。それらは1946年2月の仏軍来襲に際し、全く戦闘経験のない村のゲリラ集団を逃がすために単独で白兵戦を試みて殺された日本兵2名(うち一人は「ハンチョー(班長)」と自称していたから下士官と思われる)の墓である

11.10 文化救国会の機関紙『ティエンフォン』第1号が創刊される。

11.11 インドシナ共産党中央委員会、「インドシナ戦争をより広範な基盤の上で展開するため」党を解散すると宣言。ベトミン(ベトナム独立同盟会)に合流する。

解党の裏側: ホーチミンは共産党では多数票が得られないと判断し、共産党を自発的解党し選挙に臨んだ。党は「インドシナ・マルクス主義研究会」という名称で定期的に会合を開催したが、この事実は党史には記載されていないという。

11.16 ルクレールとグレーシーのあいだで協定が成立。インドシナにおけるフランスの諸行動の尊重とイギリスの「中立」を定める。イギリス軍はルクレールに権限を委譲し出国。

11月 フランスで共産党も加わる連立政権が成立。副首相となった「人民の子」モリス・トレーズ共産党書記長は、「ベトナムが独立し自由になれば、アメリカの支配に入るだろう」とし、ベトミンに対する軍事行動に敢えて積極的に異議を唱えようとはしなかった。

12.01 フランス軍、カンボジア領内に入り、メコン河畔のクラティエを占領。

12月 45年末の時点で、インドシナ駐留フランス軍は4万人に達した。英印軍はこれを輸送・補給などの手段により支援した。

 

1946年

46年1月

1.06 フランスの干渉と闘いながら、ベトナム民主共和国の初の国会選挙。憲法が承認される。南北全土での投票率が90%以上、国家主席ホーチミンへの投票率は98%にのぼる。ベトミンは政治的配慮からベトナム革命同盟会やベトナム国民党と協力して連立政権を樹立。

1.25 フランス軍、西部高原に対する制圧作戦を展開。パラシュート部隊がダラトに入り制圧。その後の1週間で、国道11号線、国道21号線沿いに進出し、主要部分の占領を完了。

1.26 フランス本国で、ドゴール政権に代わりグアン社会党政権が登場。民主共和国に対する武力制圧方針を見直す。

1.28 インドシナにおける連合国軍の作戦任務が、英東南アジア軍からフランス軍に移管される。東南アジア軍司令部は「3月5日以降、インドシナ南部は東南アジア軍の統括下から離れ、インドシナ当局の管轄下に入る」と声明。

1月 カムラン湾岸の村で、日本兵の率いるベトミン・ゲリラが仏軍1個小隊を奇襲して、ほぼ全員を倒す。仏軍は加茂と五十嵐を巨額の懸賞金つきで捜索。

1月 ハノイの啓蒙主義グループ「自力文団」派の指導者ニャット・リンが「ベトナム民主共和国」臨時政府の外相として入閣。その後ホー・チ・ミンと対立し、共産主義を批判する論調を深める。

46年2月

2月初め 海軍陸戦隊がメコン河左岸のパーリヤからサンジャック岬のフランス海軍基地までの海岸一帯を確保する。

2.04 ダルジャンリュウ高等弁務官、コーチシナ弁務官セディール大佐の発議によるコーチシナ諮問委員会の創設を承認。高等弁務官の承認するフランス人4名、ベトナム人8名より構成される。

2.05 ルクレール将軍、「秩序の回復」を宣言。「インドシナ南部全域とインドシナ中部の南部地区の秩序が完全に回復され、北緯15度線以南の地域にフランスの主権が確立された」と述べる。

2月半ば ドイツ人よりなる外人部隊第一梯団がサイゴンに上陸。北部への進出に備える。

2.19 政府方針を受けたダルジャンリュウ高等弁務官、ハノイでの民主共和国との交渉にジャン・サントニ少佐を任命。①フランス連合内におけるインドシナ連邦の枠内におけるベトナム自治政府、②トンキンへのフランス軍進駐、③戦闘停止と交渉開始、の三点を提示する。民主共和国側の交渉代表はホーチミン自身とブ・ホン・カイン。

2.28 フランス・中国協定が締結される。蒋介石は三月末までの北ベトナムからの撤退に同意。フランスはこれと交換に、上海と広州湾の租借地など中国における利権の放棄に合意。

2月 バオ・ダイ、新政府の「最高顧問」に任命されるが、外交代表団の一員として訪中時に亡命。その後香港に居を構える。

2月 ホーチミン、中・米・ソ・英各国政府あてに親書をそれぞれ送り,民主共和国の承認と国連加盟に対する支持を求める。

2月 ベトミン機関誌『真理』、中国情勢がベトナムの戦局の好転に繋がると期待する論文を掲載。しかし、この時点でホー・チ・ミンが最も期待を寄せていたのは米国であった。

 

46年3月

3.04 北緯16度線以南のインドシナ、連合国の承認の下、インドシナ高等弁務官府の管轄に移行。

3.06 ハノイで停戦予備協定が調印される。ホーチミンは強硬派の反対を押し切り、フランス連合内での自治政府、フランス軍のハノイ進駐などの条件を認める。

予備協定の柱: ベトナム民主共和国は「フランス連合内の自由な国家」として承認される。トンキンとアンナンではベトナム民主共和国による自治を認め、コーチシナの帰属は住民投票で決めることとなる。また北部、中部、南部の統一は将来の国民投票に委ねること、1952年までに軍事基地を除いてフランス軍は撤退することが合意される。しかしこの協定はフランスによる北ベトナム軍事制圧までの時間稼ぎでしかなかった。

3.17 フランス軍はサワンナケートを占拠。パクセーからビエンチャンに向け北上を開始する。

3.18 ルクレール将軍は第二機甲軍団を率いハイフォンに上陸。予備協定にもとづきハノイ進駐を開始する。中国軍は撤退を開始。

3.21 カムアン県のタケークで市街戦(Battle of Thakhek)。スパーヌウォンとウン・サナニコーンの指揮するラーオ・イサラ勢力は敗退。スファヌボンは戦闘で重傷を負い、ハノイに逃れる(一説ではタイ)。

3.26 フランス人植民者が、「コーチシナ共和国」を立ち上げる。初代首相に大地主でトンキン経済・財政会議代表のグエン・バン・ティンが就任。(経過については「コーチシナ共和国」のページが非常に詳しい)

コーチシナ共和国: コーチシナはフランスの利権が多数存在していたため、ベトナム民主共和国からの分離を狙う。コーチシナの有力者や華僑の間でも、貧しい北部との統一を望まず、豊かなコーチシナだけで独立したいという声があった。フランスもコーチシナ住民にだけフランス市民権を与えるなどの差別を行った。

3月 フランス軍が南部ベトミンの根拠地ウミンを攻撃。フランス海兵隊のほかモロッコの外人部隊、ホアハオ教、カオダイ教徒の私兵も参加し2千の大軍がクリークをさかのぼる。ベトミンは森の奥深く潜み、敵斥候部隊を待ち伏せ攻撃。この年だけで数千の青年が隊列に加わり、三年後には敵と拮抗する勢力に成長する。

46年4月

4.16 事態の打開を図るため、フアン・バンドンがパリに入る。親善と下工作活動を続ける。

4.18 中部高原のダラトで本会議の開催に向けた予備会談が開かれる。完全独立を求める民主共和国側に対し、フランス側は共和国を北部に限定し、コーチシナ、カンボジア、ラオス、西部高原州からなるインドシナ連邦に組み入れる案を提示。

4.24 フランス軍がビエンチャンを占領。シーサウォンをふたたび国王に立て、名目的な自治を認めつつ植民地支配を再開。ラオ・イサラ政府はタイに亡命。

4月 中国軍20万人が北ベトナムから撤退。共和国軍はこれに合わせ国内の反革命集団「国民党軍」を掃滅。

46年5月

5月 中部海岸のクアンガイで、ベトミンによる陸軍中学が創設される。加茂ら元日本軍将兵30名が総数約400名のベトナム人学生を教練する。

卒業生はこの学校で学んだ(日本伝統の)尚武精神の影響を受け、(卒業後も)頭を丸坊主にして勇敢に戦い、同僚から「日本人の弟子」というニックネームで呼ばれていた。フランス軍とフランス傀儡政権の軍隊は、その名を耳にしただけで(彼らの指揮する部隊を)恐れ、戦闘を避けた。

5月 コーチシナ分離派の有力者グエン・バン・スアンが訪仏し、トレーズ副首相と会談。トレーズはインドシナからの撤退に反対し、「フランス連合の隅々にまで三色旗が翻ることを願ってやまない」と語ったという。

5月中旬 独立をめぐるダラト交渉が決裂。パリのファン・バンドンの工作も手詰まり状態に陥る。フランスは南部の分割統治を主張し、全面独立と祖国統一に関していかなる言質も与えず。

5.31 ホーチミン、ハノイを出発しパリに向かう。出発にあたり「南部の兄弟はベトナム市民である。フランス人、中国人、その他の外国人がベトナム国民と密接に生活し幸福を全うするのが私の理想である」と声明。フエン・トゥク・カンが主席を代行する。

46年6月

6.01 フランス高等弁務官、自ら任命した地元有力者9人とフランス人4人からなるコーチシナ協商委員会を組織。予備協定を無視し、「住民投票が実施されるまでの臨時政府」として「コーチシナ自治共和国」を建国。グエン・バン・ティン(阮文盛)を首班に置く。

グエン・バン・ティンの名セリフ: 初代大統領に据えられたグエン・バンティンは、ベトミン支持者から「民族の裏切り者だ!」と批判にさらされ続け、半年弱で自殺した。「私は喜劇を演じるように言われたが、自分を絞首刑にすることに決めた」と言い残したという。

6.16 ホーチミン、パリに到着。ファン・バンドンと合流。

一説に、「本協定締結のためフランスを訪問。いったんフランス政府と協定を確認するが、「コーチシナ自治共和国」成立の報を受けたホーチミンは署名を拒否し帰国」とあるが、これは多分間違いでしょう。パリ到着時にはすでにコーチシナの「独立」の情報を知っていたはずです。

46年7月

7.07 両国政府の公式会談がパリ郊外のフォンテーヌブローで開かれる。

7.18 フィリップ・ルクレール将軍、北アフリカ総監に任命されインドシナを去る。これに代わりエティエンヌ・バリュイ(EtienneValluy)がインドシナ軍総監に就任。

7月下旬 ダルジャンリュー高等弁務官、「フォンテーヌブロー会議はベトナム代表のみを相手としたものでインドシナ連邦設置問題の解決にはならない」とし、ダラトでコーチシナ、ラオス、カンボジアの代表会議を開く意向を表明。

7月 スパーヌウォン、ハノイに向かいヴィエトミンと接触。

46年8月

8,06 ダラトでダルジャンリューの召集した代表会議が開かれ、フランス連合ならびにインドシナ連邦案が支持される。

8.18 パリでの交渉が暗礁に乗り上げる。フランス代表のマリウス・ムーテ植民地大臣、南部はフランス植民地であると宣言。

8.27 フランス、シサバン・ボンをルアンプラバンに引き戻し、フランス・ラオス暫定協定を締結。ラオスはフランス連合内でルアンパバーン王の下に統一される。ネオ・ラオ・イサラ幹部の多くは戦線から離脱し、王国政府の下に結集。残党は山間部に撤退しゲリラ闘争を続ける。

8月 ベトナム北部に進出したフランス軍部隊と民主共和国とのあいだで武力衝突。フランス軍は報復爆撃を加える。

8月末 フランス植民地当局当局、「ベトミンのゲリラ活動が盛んになったため住民投票が実施不可能になった」とし、コーチシナ共和国を恒久化。

9.06 フランス政府、情勢緩和のため暫定協定を締結したいと提案。民主共和国はこれをただちに受諾。

9.14 ホーチミンとムーテのあいだで暫定協定が調印される。①民主共和国の権限は多くの制約を受ける。②コーチシナについては現状を認めたうえで政治的自由を保障する。協定は10月30日を持って発効予定となる。

9.18 フランス政府、ベトナムとの暫定協定を閣議決定する。10月30日をもって効力を発揮するものと定められる。

46年9月

9.23 フランス軍、バン・フエイサイ(Ban Houei Sai)を奪う。東部ラオス抗戦委員会は国道7号線で軍事活動を開始する。

46年10月

10月 フランス軍がハイフォンに上陸。ハイフォンに税関事務所を設置し、ベトナム政府の財源を奪う。

10月 フランス軍、カンボジアに進駐。独立派のソン・ゴク・タン政権を打倒し、シアヌーク国王にフランスヘの忠誠を誓わせる。

46年11月

11.12 ダルジャンリュウ、「南部はフランスの領土であり、その地位を決定できるのはフランス国民議会のみである」と述べ、統一に関する一切の交渉を拒否する。

11.20 ランソンで両軍が衝突。フランス軍は態度を硬化し本格対決の動き。

11.21 フランス進駐軍とベトミン治安部隊がハイフォンで武力衝突。

11.24 フランス軍艦、ハイフォンへ艦砲射撃。市民6千人が殺害される。(艦砲射撃だけで6千人も死ぬだろうか?)

上記の疑問に対する解答が、英語版ウィキペディアの「Etienne Valluy」の項目に記載されている。フランス軍は巡洋艦スフレン(Suffren)号による艦砲射撃に加え、航空機による市街地爆撃、地上からの砲撃も行った。市外に逃れる難民の列にも砲撃を加えたという。当然、ベトミン拠点地区への無差別攻撃であろう。その後、しらみつぶしの掃討作戦を展開している。6千人という数はバリュ将軍が記者の質問に「犠牲者は最大に見積もって6千人であろう」と応えたことによる。ベトミンは2万人という数を上げている。当時のハイフォン地区委員長だったVuQuocUyは、1981年、「犠牲者は500ないし1千人」と述べている。

11月末 フランス軍のハノイ侵攻を予想したホーチミンはハノイを離れ、北部山岳地帯のベトバク(越北)へ脱出する。共和国政府の主要機関も移される。

11.28 ビドー内閣が総辞職。レオン・ブルム社会党政権が成立する。対ベトナム強硬策を避ける方針を明らかにする。この方針はベトナム現地ではまったく無視される。

11月 クアンガイの陸軍中学、抗仏戦争の開始を受け、学校を閉鎖。教官・学生は北部山岳地帯へ移動。他にも日本兵766人がベトナムに残留し、現在でも約450人が消息不明だという。

46年12月

12.17 ハノイ市内でフランス兵3人が、ベトミン民兵によって殺害される。これを引き金に市街戦が開始。ハン・ボン通りでは市民数百名が犠牲となる。(地図にはハンヴォン通りはない。ハンヴァイ通り だろうか?

12.17 バリュイ将軍、ハイフォン港に上陸。「間抜けどもが戦いたいなら、やって見ろ」と語る。

12.18 フランス軍6千名、40台の戦車を先頭にハノイに侵入。ベトナム政府の大蔵省を奪取。フランス軍は北ベトナム全土で10万人を動員し、ベトナム民主共和国の統治機構を破壊。

12.18 民主共和国のハノイ連隊、2千人の青年と1千400丁の旧式銃で決起。ハノイ市民は市内各所にバリケードを築き、フランス軍と対峙する。6千500人、戦車40両、装甲車数百両、飛行機30機からなるフランス遠征軍を相手に60日間にわたる戦闘を展開。

12.18 ホーチミン、ブルム内閣あてに戦闘を止めさせるように要請する電報を打電。ブルムからの返答はなし。

12.18午後 フランス軍司令部、ベトナム共和国軍の武装解除と、ハノイ全市のフランス軍による統制を促す最後通牒を送る。これを受けたインドシナ共産党は全国的規模の抗戦を決定。

12.19 20:04 ベトミン兵力がイェンフ発電所を攻撃。ハノイは停電で漆黒の闇となる。ベトミンに組織された民衆3万人が蜂起。フランス軍と衝突。2千人が市街戦に参加し2ヶ月にわたりフランス軍と対峙。フランス軍は500人の戦死者を出す。これを機にベトミンとフランスの衝突が全土に拡大。第一次インドシナ戦争が勃発。

12.20 ベトナム民主共和国政府、ホー・チ・ミンの名で「ベトナム人民、フランス人民と連合国人民へのメッセージ」を発表。全国民に長期抗戦への決起を訴えるとともに、フランスとの友愛と平等を訴える。

ホーチミンのメッセージ: 我々は平和を望み譲歩した。しかし彼らはふたたびわが国を略奪しようと決意している。断じて許さない、我々は絶対に奴隷となることに甘んじない。独立と自由を失うならばむしろ死を選ぶ。

12.22 インドシナ共産党、全国の党組織に抗戦を指示。

12.23 激しい市街戦の末、共和国軍は敗退。深夜に紅河を徒渉し仏軍の包囲網を突破。中央諸機関とともにベトバック(越北)山岳地帯へ逃れた。

ベトバク(越北): 中国と国境を接する北部山岳地帯はベトバクと呼ばれる。民主共和国政府や共産党・軍の中枢機関は、フランスの攻撃を避けるために、トゥエンクアン(宣光)省タンチャオを中心に1ヵ月~3ヵ月毎に移動しながら,分散して設営されていた。

12.31 ベトミン軍司令官ヴォー・グエン・ザップ、「我々の抵抗は長く苦しく続くだろう。しかし我々には大義があり、必ず勝利するだろう」と述べる。これに対しフランス軍司令官のエティエンヌ・バリュイは、「彼らが戦いを望むなら、我々はその戦いに勝利するだろう」と述べる。

チュオン・チンは8月革命の勝利の要因を①注意深い準備、②迅速性と適時性、③全人民の決起に成功の三点にまとめている。一方その弱点として、①全国的決定の不平等、②日本軍の完全武装解除の欠如、③反革命分子抑圧の強硬性の欠如、④インドシナ銀行差し押さえの失敗、をあげている。

 

1947年

1.07 ホーチミン、「フランス政府、国民議会と人民への書簡」を発表。予備協約と暫定協定が両国人民の友好親善に重要な役割を果たす協定であること、フランス植民地主義者がこれを反故にしてしまったこと、ベトナム人民はあくまでフランス人民との戦闘を好まず、フランス連合内の一員として独立と民族統一を欲していると訴える。

1月 マリウス・ムーテ海外領土相を団長とする調査団がハノイ入りする。フランスの全土支配を確認するためのもので、民主共和国との接触はなし。

2.13 第4共和制の初代首相に就任したポール・ラマディエ、就任会見で「ホーチミンとベトナム政府を相手にせず」と宣言。暫定協定を実質的に破棄し、平和解決の道を閉ざす。

2.17 ハノイ連隊がベトバクに撤退。それまでの戦闘で、フランス軍に死者500人、負傷者1千500名の犠牲を与える。

3.06 フランス国民議会、自治連邦としてのインドシナを設立するラマディエ政権の方針を承認。外交と防衛をフランス本国が引き続き掌握する。ダルジャンリュウに代わり急進社会党の大物議員エミル・エドゥアール・ポラエールが高等弁務官に任命される。

3.15 ラオス制憲議会が開催される。ラオス王国立憲政府の初代首相にスバナラトが就任。

3.19 議会第一党のフランス共産党は、47年度軍事予算案に「棄権」する。ラマディエ首相は「フランスの団結を保持せんとする勇気あふれる行動」だと賞賛。

4.15 ポラエール、ハノイで着任の演説。①フランスはインドシナにとどまる。インドシナ各国はフランス連合の一員となる。②インドシナ住民は自らの望む政府を選出し、自らの問題を自主的に処理できる。③すべての当事者が平和回復の手段を討議するよう期待する、と述べる。事実上、ベトナム民主共和国の権威を否定し、一政治勢力として扱う。

5.04 ラマディエ政権、共産党閣僚を排除し右傾化。

5.11 ラオスで新憲法に関する国民投票。立憲君主制をうたった憲法が成立する。

5.18 ポラエール、ホーチミンの下にポール・ミュス特使を派遣。民主共和国の武装解除を降伏を迫る。民主共和国はポラエールに反論し、「一党独裁ではなく、政党に選出された代表からなる全ベトナム人民を代表する機構」と強調する声明を発表。

6月 ベトミンが各地でゲリラ攻勢を強化。フランス軍の軍事的優位は失われ、駐留軍10万は海岸沿いの主要都市に孤立。

7月 ハノイ駐在アメリカ領事オサリバン、「アメリカがベトミン政府と理性的な関係を取り結べる可能性は大いにある、少なくともベトミンが共産陣営に完全に帰属するのを防止するだけの影響力をアメリカが行使する余地は十分ある」と打電する。

9.10 ポラエール、ハノイ近郊のハドンで新インドシナ政策を提案。ベトミンとの交渉を最終的に拒否し、バオダイ帝引き出しの方向を明らかにする。

9.23 コミンフォルム第1回協議会第2回会議。フランス共産党代表デュクロは,インドシナ情勢に関して「ラマディエ政府は、20年間共産主義者であったホー・チ・ミンを排除して,バオダイ前皇帝を権力に復帰させようという意図がある」と述べ、ホーチミンに対する認識不足をあらわにする。

10.07 エティエンヌ・バリュイ将軍の率いるフランス軍1万5千名、「レア作戦」を開始。飛行機40機、装甲車輌800両を投入し、2ヵ月半にわたり中国国境地帯でベトミンの掃討作戦を実施。4号道路とロー川方面から挟撃。さらに落下傘部隊を投入して掃討作戦。タトケ、ボンラウ、ブニャイ、チュンサ、チョモイ、チョドン(トゥエンクァン、バクカン、ランソン)で遭遇戦を展開。

10.11 ラオスで、フランス連合の一員として立憲君主制をとる統一国家と定めた新憲法が公布される。

11月 コミンフォルムが創設される。ジダーノフが米ソ対立を鮮明にした「二大陣営論」を展開。ベトミンの闘争を「植民地と隷属国における強力な民族解放運動」であると評価する。

歴史家のマクレーンは、「モスクワは、世界問題について戦闘的ポーズをとり始めたにもかかわらず、植民地の革命家には依然として単に『共感』を示すにとどまっていた」と記載。

11月 ラーオ・イサラ亡命政府を支持する部隊が、ラオス西部から東部に徐々に移動する。ラオス東部での抗仏闘争に、タイ亡命中のシンカポ(Singkapo)とプーミ・ノサワン(PhoumiNosavan)が参加。

12.22 「レア作戦」が終了。フランス軍は死者3千300人、負傷者4千人を出し撤退。舟艇38隻、装甲車輌255両が破壊され、8千の各種兵器を損失する。ベトミンは遊撃戦と奇襲作戦により、9千人の犠牲者を出しながらも、2ヶ月の戦闘を耐え抜き、4万人の兵力を温存することに成功。ホーチミンは発見される寸前隠れ穴に潜み、難を逃れたという。

12月 ポラエール、香港在住のバオダイと会談。擁立の条件を探る。

47年 チュオン・チンが論文「抗戦は必ず勝利する」を発表。強大な敵を相手に戦うには、人民の力を総動員して長期戦に持ち込まなくてはならないと強調。毛沢東の「持久戦論」を下敷きにした「長期人民戦争」の戦略を明らかにする。

47年末 ボー・グエン・ザップによれば、この時点でゲリラの闘いは都市での機動戦を主体とする第一段階を終え、第二段階(均衡段階)に入る。小規模な攻撃を繰り返す本格的なゲリラ戦に入る。

47年末 バンコクにソ連領事館が設置される。バンコクのベトミン代表部との接触を試みたと思われるが詳細は不明。

 

1948年

1.23 第一次王国政府への態度をめぐり、ラーオ・イサラ亡命政府内が分裂。

1月 ベトナム労働党,自らを「ソ連を先頭とする民主陣営」の一員と位置づける。

3月 コーチシナ政府のベトナム人幹部が香港を訪れバオダイと会談。対仏交渉権の一任を前提に、ベトナム臨時中央政府の樹立を提案する。

5.27 フランス、トンキンやアンナンも含めたベトナム全域を管轄する政府としてベトナム臨時中央政府を発足させる。コーチシナ共和国のグエン・バン・スワン大統領が首相兼国防相となる。グエン・バン・スアン(阮文春)はフランス現地軍の隊長上がりの人物。

6.05 ポラエールとバオダイ、スワンがハロン湾上のフランス軍艦で会談。ハロン湾協定を締結。ベトナム全域がフランス連合内の自治国として独立することを承認する。実体としてはコーチシナに、アンナンとトンキンの点と線だけのフランス支配区を加えたもの。

臨時中央政府の内紛: 正式な政府を作るにあたって、王政復古派、親仏=共和派、コーチシナ共和国の存続と単独独立を目指す「コーチシナ国民運動」派が三つ巴の対立を繰り返す。

6月 民主共和国政府、臨時中央政府を否認。さらに独立を実現する唯一の道は解放戦争以外の何者でもないと強調する。

7月 第2回全国文化会議がヴェトバク(越北)地方で行われた。総勢80名の文芸家が集まり、文化綱領が掲げた三原則(民族化、科学化、大衆化)を確認。チュオン・チンは「マルクス主義とベトナム文化」を発表。ホーチミンの言葉、「詩の中にも鉄があった方がよい」、「詩人も進撃しなければならない」をとりあげる。同時に社会主義リアリズムを根幹とすることでも合意。

8.28 ベトミン主力軍の中核である第308師団が編成される。48年後半から49年にかけて正規軍部隊の編制が活発化する。

8月 インドシナ共産党の第五回中央幹部会議。ソ連と「新民主主義諸国」を中心とした「反帝民主陣営」が「反民主帝国主義」よりも強力であり、「インドシナ諸民族の国は帝国主義に反対する民主陣営の隊列に身を置く」ことが明確にされる。また米国は「帝国主義陣営の筆頭」とされ、厳しく糾弾された。会議は東アジアと東南アジア諸国の共産党間の連携強化を強調。「東アジアの友党間の連絡委員会」の結成を提唱。

11.22 ホー・チ・ミン政権、再度、国連加盟を申請する。

12.19 抗戦二周年記念のアピール。勤勉、倹約、廉直、正義の四つの革命道徳を強調。

48年 フランスは、「インドシナの問題は民族独立の戦いではなく、東南アジアを赤化(共産主義化)するためのもの」という声明を発表。これがアメリカのインドシナ介入のきっかけとなった。

 

 1949年

1.14 党中央第6回幹部会議。チュオン・チン総書記、「中国革命の偉大な成功と、その成功の、我が抗戦にたいする影響によって、われわれは対峠段階を短縮することが可能になった。われわれは積極的に第三段階=総反攻を準備しなければならない」と述べる。チュオン・チンはこれに前後して、論文『抗戦はかならず勝利する』を発表。ベトナム革命戦略の公式文書とされる。撤退・対峙・反攻の三段階に分け、総反攻へ移行するための条件を分析する。

1.20 カイソーン・ポムウィハーン、「ラサウォン団」(Raxavong)を結成し武装抵抗闘争を開始。カイソンはインドシナ共産党に所属するラオス人でベトバクに結集していた。

Kaysone Phomvihane: 1920年南部サワンナケートにヴィエトナム人の父とラオス人の母の間に生まれる。中等学校からヴィエトナム人学生のナショナリスト運動に積極的に参加、高等教育はハノイで受け、ハノイ大学在学中に共産主義活動に身を投じ、ヴィエトミンと共に革命運動を行う。ハノイのリセではヴォー・グエン・ザップ(VoNguyenGiap)が教師だったとも言われており、ヴィエトナム指導層との繋がりが深い。

2月 スパーヌウォン、イサラゲリラ左派の政治組織、「進歩的人民機構」を形成。

3.08 バンサン・オリオール大統領、エリゼー宮殿でフランス亡命中のバオ・ダイ帝と会談。仏連合内での独立と統一を認める「エリゼー合意」を結ぶ。「協同国」(Etat associe)としてフランス連合に加入することがうたわれる。軍事・外交・司法・経済の全分野で主権は制約を受ける。当初フランス議会はこれを批准せず。

4.21 中国人民解放軍が総攻撃の命令。揚子江の渡河に成功。

4.29 フー・トー作戦。

5.16 スパーヌウォン、ラーオ・イサラ亡命政府から離脱。

6.14 フランス政府、バオダイを臨時中央政府のカイライ元首にすえる。ベトナム臨時中央政府は解散され、バオダイを国家主席とするベトナム国が発足、コーチシナ共和国もこれに編入されて消滅。フランスは軍事援助を開始する。

49年7月

7.02 フランス、ベトナムとラオスを「フランス連合」内で「独立」させる。サイゴンに「ベトナム国」が成立。19日にはラオス、11月にはカンボジアも「独立」。

7.13 紅河デルタ北部のバクニン、バクジアン省でベトミンの攻勢作戦。8.18にはビン・エンとフク・エンで交戦。

7.19 ビエンチャンにプイ・サナニコーン政権が成立。反仏・完全独立を掲げて活動してきたラーオ・イッサラ(自由ラオ)運動が、「独立」協定の評価をめぐり分裂。

7月 劉小奇が解放軍代表としてモスクワを訪れ、スターリンと会談。スターリンは、「将来は中国がベトナムなどの国の革命を援助すべきだ」と語る。

8.13 スファヌボンは、ラーオ・イサラ亡命政府からの離脱を宣言、「人民進歩機構」を立ち上げる。

秋 人民軍総司令部、中央諸機関の集中するベトバック根拠地を守るため、「ベトバック連区」を設定。参謀部には駒屋俊夫ら3名の日本人スタッフが入る。ベトミンの待ち伏せ作戦により、ランソン・カオバン間の国道4号線は寸断され、フランス兵から「喜びなき道路」(RuesansJoie)と呼ばれるようになる。

49年10月

10.01 中国内戦が終結。「中華人民共和国」(以下中国)が成立。

10.21 フランスの駐ソ大使、バオダイを元首とする政府の成立とその合法性を説明。グロムイコ第一外務次官は、「バオダイ政府は実体のない傀儡政権であり承認することはできない」との判断を示す。

10.24 ラーオ・イサラ亡命政府が解散。スワンナ・プーマ(SouvannaPhouma)を筆頭にほとんどの指導者はヴィエンチャンに戻るが、ペサラート殿下はバンコクに留まる。

10.26 フランス軍、紅河デルタ南部のカトリック居住地帯ブイ・チュウ、ファト・ジエムで平定作戦。

49年11月

11.08 カンボジア、フランス連合内における独立を認められる。

11.16 劉小奇が「アジア大洋州労働組合会議」で演説。「中華人民共和国を樹立した道は、多くの植民地・半植民地人民が歩まなければならない道である」と断言し、4つに定式化する。①反帝・民族統一戦線の道、②共産党の指導の確保、③大衆と緊密に結びついた共産党の組織、④武装闘争こそ民族解放闘争の主要な闘争形態である。

11月 スパーヌウォン、ベトバクに入り、ホー・チ・ミンと会談。

11月末 インドシナ共産党、北京に特使を送り、援助を要請。

中国側資料によれば、1月上旬に「インドシナ共産党中央は中国共産党に戦防砲弾1千200発、米国製30歩兵銃および機銃の弾丸42万発、英式30機銃の弾丸9万1千発、車両20台の供与を要請し、劉小奇はこれを全て承諾した」

11月末 共産党軍に追われた約3万の国民党軍が、広西省と雲南省から越境し北ベトナムに入る。これらはフランス軍によって武装解除された。

49年12月

12月初め ホーチミン、西側ジャーナリストと会見。「米ソ戦争が勃発してもベトナムが中立を保つことは可能だ」と語る。また「フランスとの間で交渉による紛争解決の可能性も残されている」とほのめかす。

12.14 中国人民解放軍主力がベトナム国境に達する。この時点で両省には約20万の国民党軍が残存していたとされる。

12.22 ニン・ジアン、フンエンで交戦。

12.30 米政府、「アジア政策の目的は共産主義の拡大阻止にある」と宣言。これまでのフランス植民地主義への批判を切り替える。

 


ホーチミンの北京・モスクワ訪問(ほとんど中国側文献による)

12月中旬 ベトナム共産党の第三次全国代表大会。「正規軍の欠乏,とくに大型の武器の欠乏,高速の通信手段の欠乏、戦闘幹部の不足」が困難をもたらしていると分析。主力部隊の形成に向け、中国への援助を求めることを決定。

12.16 ベトミン政府閣議、リー・ビク・ソン(リー・バン)とグエン・ドゥク・トゥイを北京に派遣。「速やかに中越両国の外交関係を樹立する」ことをもとめる。

12.28 中国共産党、ホー・チ・ミンあてに、外交関係樹立を認める電報。

12.31? 第三次全国代表大会の決定を受けたホーチミン、チャン・ダン・ニン(陳登寧)政治局員ら6名と共に出発。フランスの目を避けながら17日間徒歩で移動。中越国境まで到達する。(1月初め出発という説もある。栗原によれば、行程はこれまでの通説よりすべて10日ほど遅いようである)

12月 ベトミン支配区内で、中国の革命建設を学習するキャンペーンが展開される。

 

1950年

50年1月

1.11 中国人民解放軍、雲南省の中越国境を全面制圧。

1.14 ベトミン外相ホアン・ミン・ザム、「全ての国と外交関係を樹立することを希望する」と発表。バンコクのベトミン代表部を通じソ連と中国に国交樹立を要請。

1.18 中国はベトナム民主共和国を正統政権として承認。毛沢東は中国外交部にホー・チ・ミンの声明を「ソ連と新民主主義国家」に送付するよう指示。

1.19 ホーチミン、野良着姿に手ぬぐいのいでたちで、徒歩で国境を越え中国に入ったという(張広華の証言)。代表団にホーチミンが参加していることは伏せられ、公式にはチャン・ダン・ニンを団長とする訪問団とされる。

1.19 人民日報、一面にホ一・チ・ミンの写真つきでベトミン承認を報道。ベトミン外相ホアン・ミン・ザムは、「中国による承認は、抗仏戦争が勃発して以来、ベトナムにとって最大の外交的勝利である」と声明。

1.24 ホーチミン、北京に到着。毛沢東・周恩来がモスクワを訪問中のため、劉少奇が迎える。劉少奇は「ベトナム支援は中国人民の尽くすべき国際主義的責任だ」と語る。

1.31 ソ連もベトナム民主共和国を正統政権として承認。引き続き朝鮮民主主義人民共和国、チェコが国交を樹立。

1.31 アメリカ国務省東欧局長ヨスト、ソ連のベトナム承認は、南アジアの革命指導権をめぐる中ソの角逐に関係していると分析。(この分析は、おそらく劉少奇論文から中国の影響力を過大評価したことによる誤りであろう)

50年2月

2.01 アチソン米国務長官は「クレムリンによる、インドシナにおけるホ一・チ・ミンの共産主義運動の承認は驚きである。ソ連がこの運動を認めたということは、ホ一・チ・ミンの目的が『民族主義的』であるという幻想を一掃せしめ、彼がインドシナ住民の不倶戴天の敵であるという本性を暴露するものである」と激しく反発する。

2.03 ホーチミン、北京を汽車で出発しモスクワに向かう。モスクワ着は13日頃。

2.13 ホーチミンがモスクワに到着。モスクワ滞在中の毛沢東・周恩来と会見し支援の約束を取り付ける。毛沢東は「広西省がベトナムの直接的な後方となる」と述べる。ホーチミンはさらに、スターリンと会談し、ソ連の直接援助を取り付けることを目指す。

毛沢東の回想: スターリンはホーチミンがどのような人物なのか知らず、「彼がマルクス主義者なのかどうかさえ分かっていない」と告白した。そこで私は、「ホーはマルクス主義者に間違いありません。彼に会われたほうが良いでしょう」とスターリンに勧めた。こうしてスターリンはホーと会ったのである。
一説によれば、スターリンはホーチミンと会見しようとしなかった。理由は①ホーチミンが民族主義者であり、第二のチトーになる危険性があること、②フランス人と戦うことは、ヨーロッパにおけるソ連の活動の妨げになること、である。

2.16 ホーチミンが毛沢東同席の下に、スターリンと会見。ホー・チ・ミンは10個歩兵師団と1個高射砲連隊への各種装備提供を要請する。

スターリンは「国際分業」を強調する。「中国はすでにアジアの革命の中心になっている。中国がベトナムの必要としているものを援助する。中国にないものについては,ソ連の対中援助物資を転用すればよい。その分はソ連が穴埋めをする」
またスターリンはベトナムにおける「土地革命」の遅れを批判し,インドシナ共産党の民族統一戦線政策の内容の見直しを迫る。封建地主との闘いの重要性を力説し、ホーチミンに大きな影響を与えた。

2.17 ホーチミンはモスクワから北京に戻る毛沢東・周恩来の特別列車に同乗し、繰り返し支援を迫ったという。(これは作り話の可能性が高い。ホーチミンはモスクワに到着したばかりであり、ほかにもすべきことがあったと思われる)

2.18 チュオン・チン総書記、機関誌『真理』誌上で、「ベトナム民主共和国はいまや中欧から東南アジアにまで連なる民主社会主義陣営に属している」と踏み込む。

中立から社会主義ブロックへ: それまでベトミンは特定の陣営に帰属せずに中立の姿勢を守ることを強調してきた。ソ連などの報道機関が、「ベトナム民主共和国は米帝国主義と戦う世界民主主義戦線の一翼」と報じた時も沈黙を貫いてきた。

2月 ホーチミン、北京に帰着。スターリンから提起された土地改革について、中国の実践を学ぶ。ベトミン対外連絡部の責任者ホアン・バン・ホアンによれば、「中国は解放されたばかりなので、過大な期待をかけることはできそうにない」と語ったという。

2月 中国、援越政治顧問団の派遣を決定。「フランス植民地主義者が国民党残余部隊および中越国境付近の土匪と結託して、雪南、広西地区の安寧をおびやかしている」ことを理由とする。羅貴波が党の中央連絡代表の職責でベトナムに派遣される。

50年3月

3.09 インドシナ共産党中央政治局会議、羅貴波を加え開催。広西省に接するベトナム東北部のカオバン一帯を奪取し広西省と連結させる作戦を採用。

3.11 ホー・チ・ミン、北京を出発して,ベトナムに向かう。

50年4月

4.10 党活動者会議、ホーチミンが帰国報告。「われわれが土地革命を遂行しなければならない時がきた。中国は大動員と土地改革の実行に関する経験を提供して、われわれを援助することを約束している」と語る。

4.17 中国共産党中央軍事委員会、ベトミン軍正規部隊の建設強化と作戦指導を主たる二大任務とする数百名規模の軍事顧問団の結成を決定。これと並行して、ベトミン支配区の財政、税制、運輸、公安などを指導する政治顧問団も編成される。

4月 中国が武器援助を開始する。ソ連からは中国への供与という形でトラック、バズーカなどが送られる。ベトナムは鉱産物・米・木材などで支払いの形をとる。

4月 中国領内の雲南省蒙自に、ベトナムの軍人を校長とするベトナム軍官学校が開設される。ベトナム人民軍308師団所属2個連隊と312師団所属1個連隊が、中国側から武器の供与と軍事技術の講習を受ける。

 ここまでホーチミンの北京・モスクワ訪問


 

1950年

50年1月

1.29 フランス議会、内外の圧力を受け「エリゼ協定」を批准。

50年2月

2.03 フランスのオリオール大統領、ベトナム・カンボジア・ラオスの独立に関する協定批准書に調印。①領事の任命権、②フランス軍の有事統帥権、③政府主要ポストの任命権、③フランス人への治外法権はフランスの手に残される。

2.03 米政権、パオダイ政府承認に踏切る(正式発表は7日)

2.08 タイビン平定作戦。

2.07 アメリカとイギリスがソ連・中国に対抗し、南ベトナムのバオダイ政権を承認。フランス政府は米国政府に対し「バオダイ政権への軍事援助」を要請。実体としてはベトナム駐留フランス軍への援助。

2.16 アンリ・ボネ駐米大使がアチソン国務長官と会談。インドシナへの支援を訴える。

2.27 フランス外務省、インドシナの共産軍を討伐するための軍事援助をアメリカに要請したと発表。

50年3月

3.16 アメリカの空母一隻と駆逐艦2隻が、初めてサイゴン港に入港。

3.27 フランス、アメリカに武器支援を要請。中国革命を機に「自由主義と共産主義の対決」を外交の基本とするようになった米国は、ベトナムを反共の前線と捉える。

4.21 ハドン省のバン・ディン地区、ニンビン省で交戦。5.21にはフーリーで平定作戦。

50年5月

5.01 米国、2100万ドルの対仏援助を開始。54年のフランス敗戦時には戦費の8割をまかなうにいたる。

5月初め 羅貴波はボー・グェン・ザップの案内でベトミン軍を視察。

羅貴波の回想: ベトナム軍の実情がこれほどまでに惨憤たる有り様だとは夢にも思わなかった。油どころか部隊の全てで食糧にも事欠き、兵士の体力は衰弱していた。衣服はポロポロでほとんどの者は裸足であった。装備となると更にお粗末きわまりなく、しかも銃の規格がまるでバラバラだったので、弾薬の補充にはだいぶ苦労しそうだと予想できた。彼らは大規模な戦争をしたことがなく、陣地攻撃戦の経験に欠けていることであった。規律も弛緩していた。

5.08 パリでアチソン国務長官とシューマン仏外相が会談。アチソンは「インドシナ諸国およびフランス」に対する軍事援助の供与を確認。

5.19 “社会主義諸国”の支援を受けたホーチミン、フランスに対する「総反攻」を宣言。6ヶ月にわたる国境作戦(レ・ホン・フォン作戦)を開始する。

5.25 アメリカ、相互防衛援助法に基づきインドシナへの軍事ならびに一般経済援助を開始。初年度総額は3千万ドル。

50年6月

6.19 カンボジア臨時抗戦政府が樹立される。ソン・ゴク・ミンが議長に就任する。

6.25 北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻。朝鮮戦争が開始される。

6.27 毛沢東、劉小奇、朱徳らがベトナム派遣軍事顧問団および政治顧問団幹部と接見。毛沢東は、「帝国主義者どもは機会があれば直接我々に狙いを定めてくるであろう。唇を失えば歯が寒くなる。ベトナム共産主義者同朋を援助することは、我々自身の安全にもつながるから一挙両得だ。我々が顧問を派遣するのはまさにこの点にある」と語る。劉小奇は「ベトナム革命に早期の勝利は望めそうにない。少なくとも準備に3年はかかる」と語り、短期決戦を戒める。

6.29 アメリカは軍事使節団と35名からなる軍事顧問団のベトナム派遣を決定する。これとともに戦車、飛行機重砲などの兵器がベトナムに流入。

50年7月

7.26 アメリカ、ベトナム駐留フランス軍に1千5百万ドルの軍事援助を開始する。インドシナ戦争の全経過を通じてアメリカは全戦費の半分にあたる36億ドルを援助。

7月 葺国清を団長とする中国「華南工作団」(実体は軍事顧問団)、7月上旬から8月にかけてベトナムに潜入する。交通手段は専ら馬と徒歩だった。これと平行して、国境地帯を確保し国民党残党を駆逐する「辺界戦役」を計画。司令官として陳廉西南軍区副司令官を送る。

7月頃 中国軍事顧問団、ベトミン軍の欠点、とくに組織の体質上の問題点を厳しく指摘。(中国軍事顧問団援越抗法闘争史実) 

批判の骨子: ①政治工作が軽視され、幹部と兵士の政治意識が低い。 ②統一的規律もなければ、明確な制度もない。組織が不適当なほど肥大し、しかも複雑に入り組んでいる。非戦闘員もやたら多すぎる。 ③部隊の軍事能力もそれほど優秀とはいえない。幹部には正規作戟を組織し指揮する能力が欠落している。 ④部隊の戦闘方法は、あまりに形式にこだわっており、それでいてゲリラ戦の悪習にひどく毒されている。民主的な気風に乏しく、管理教育も不十分で、幹部と兵卒の関係も冷たい。

7月 ラオスに戻ったスワンナ・プーマが進歩党を結成。プイ・サナニコーン首相の独立党と対抗。

 

 

世界年鑑 1951年版より
「コーチシナ共和国」のページから転載

 

50年8月

8.02 米軍、サイゴンにインドシナ軍事援助顧問団(MAAG)を設置。(一説に10月)

8.10 軍事物資を積んだ最初の米艦がサイゴンに到着。

8.13 スパヌヴォン殿下らの「人民進歩機構」とカイソンの率いる「ラサウォン団」が合同。ネーオ・ラオ・イッサラ(ラオス自由戦線)を結成。スパーヌウォンを議長に20人の中央委員を選出する。

8.13 ヴィエトミン支配地域のサムヌア(シェンクアン)で第一回人民代表者大会を開催.パテト・ラオ(抗戦政府)の樹立を宣言する。①ラオスの神聖な独立と統一、②帝国主義者の干渉反対、③インドシナ三国人民の団結、④世界の人民との連帯、をスローガンに掲げる。中国やソ連を含め、諸外国の承認は得られず。抗戦政府の国防大臣にはカイソンが就任。軍事面のトップを握る。

8.28 ベトミン正規軍最初の師団である第308師団が創設される。部隊は文山(雲南省)で中国人民解放軍による訓練を受ける。国共内戦で捕獲した自動武器、モルタル、曲射砲、トラックを含む大量のアメリカ製重火器がベトミンの手に渡る。

50年9月

9.10 ベトナム人民軍最高司令部、国境地帯の完全解放を目指す「レ・ホン・フォン2号作戦」の実施を決定。中国では「辺界戦役」と呼ばれる。

9.13 陳廉、フランス帝国主義者が国民党残党3千余、広西省の土匪とともにベトナムと広西の交通を切断しようとしていると述べ、フランス軍攻撃を合理化する。(当時フランスにそのような意図はなかった)

9.16 人民軍、国境地域の重要5都市、17の町に攻撃を開始。カオバンとランソンを結ぶ4号線上の戦略拠点ドン・ケを攻撃。飛躍的に拡充された装備で、10個連隊からなるフランス軍守備隊を圧倒。

9.18 バズーカ砲、迫撃砲、無反動砲などを駆使した攻撃の前に、ドン・ケ仏軍基地が陥落。これを皮切りに第308師団、第174連隊、第209連隊を中軸とする約3万のベトミン軍が、4号線上のフランス軍駐屯地への攻撃を続ける。

9.27 サイゴンのMAAGがバオダイ政府軍に対する指導を開始。

50年10月

10.14 ホーチミンがスターリン宛てに書簡。「社会主義諸国の大きな支援のおかげで,私たちの国境反攻作戦の第一段階は成功裏に終了しました」と述べる。中国人顧問の献身的な活動を賞賛。また「ベトナム労働党」の党大会開催についても言及する。

10.17 フランス政府、ルトゥルノー海外領土相とジュアン陸軍参謀総長を長とする委員会をベトナムに派遣。

10.18 中国国境の拠点ランソンがベトミンの手に落ちる。

10.28 国民議会の共和主義連盟(ドゴール派)は、「もはや軍事的勝利によって問題を解決することは不可能である。政府は真剣に和平の道を探求すべきである」という決議案を提出、左翼および中道左派の賛成で採択される。

10月中旬 柳州から南寧を経て中越国境の鎮南関に至る鉄道の建設が開始される。

50年11月

11.08 ベトナム調査団の勧告を受けたフランス政府、第一軍司令官ドゥ・ラトル・タッシニをインドシナ軍司令官として派遣。

11月 フランスは国境地帯からの全面撤退を決定。

50年12月

12.12 フランス軍、国境地帯からの撤退を完了。ラオカイ、タト・ケ、カオバン、ランソンなどの基地を撤収、トンキン湾沿岸のモンカイからラオス国境に至る中越国境一帯が、ほぼ完全にベトミンの支配下に収まる。ボーグエンザップ将軍は、それまでのゲリラ部隊を軽歩兵5個師団、重歩兵一個師団に編成する。

フランス軍の被害: 6週間の戦いで兵員6千人と450門の大砲、940丁の機関銃など大量の装備を失うとある。別の説では「死者は合計8千人に達し、8千600人がベトミンの捕虜となった」とあるが、これはディエンビエンフーとの混同か?

12.17 ドゥ・ラトルが高等弁務官兼遠征軍最高司令官としてサイゴン着任。①航空機を中心とする装備の強化、②カイライ軍の強化と戦争の現地化、③紅河デルタにドゥ・ラトル線を敷き、無人のベルト地帯を設営することにより防衛を強化する、などの政策を打ち出す。

12.23 米・仏とインドシナ三国の間で相互防衛援助協定調印.その後、インドシナ戦争における総援助額は30億ドルに達し、フランス軍の全戦費の80%をまかなうようになる。

50年末 ウミンの南部ゲリラに海上から武器が届くようになる。ベトミンはウミンの森全体を解放区とする。

 

1951年

51年1月

1.13 ベトミン軍、紅河デルタ地帯での総攻撃作戦(チャン・フンダオ作戦)を展開。ハノイ北西ヴィンフック省の省都ヴィンイェン(VinhYen)でフランス軍基地への攻撃を開始。4日間にわたり4個師団3万人が投入される。

1.16 JeandeLattredeTassigny将軍の率いるフランス軍千人は航空機、機甲部隊を前面に立て反撃。ベトミン軍は6千人の死者を出し敗退。フランス軍は紅河デルタ地帯にド・ラトゥル線を構築し防御を固める。

1月 ディエム元首相、米国に亡命。一説ではベトミンの脅迫を受けたためとされる。

51年2月

2.11 インドシナ共産党、ベトバクのトゥインクワン(宣光)で第二回党大会を開催。インドシナ共産党の解散(1945年)が再確認され、ベトナム・カンボジア・ラオスの三つの党として発足。「毛沢東の道」の受容が公然と宣言され,毛沢東思想にはマルクス・レーニン・スターリン主義と並ぶ地位が与えられる。

第二回党大会の概要: ラオス共産党はラオス人民革命党に改称。ベトナム共産党はベトナム労働党に改称して再発足。同時にベトミン・自由クメール・パテトラオがインドシナ民族統一戦線を結成し、対仏統一闘争の姿勢を固める。

2月 第二回労働党全国代表大会。ホーチミンが政治報告を行う。土地問題について、①減租・減息、②フランス植民地主義者とベトナム反動分子の土地の没収、③貧農への没収地の暫定的配分を指示する。(この日にちにいては、当面保留扱いとします)

51年3月

3.03 インドシナ共産党の解党に引き続き、ベトナム労働党が発足。「革命代表者会議」を開催。ベトナム労働党内では、ホー・チ・ミンが書記長の地位を離れ、党主席に就任。党務・軍務・政務の一線を外れ、ベトナムの精神的指導者となる。チュオン・チン(長征)が書記長に就任。

3.06 労働党、救国諸団体の統合組織であるベトナム国民連合会(リエンベト)を結成。ベトミンも自らを解散しリエンベトに参加したが、その後も独立勢力の総称としてベトミンの通称が用いられた。

リエンベト綱領: 長期抗戦を前提として、「抗戦の勝利獲得に必要な活動を主要任務」とする。①労農・精神労働者の同盟を基礎とし、あらゆる愛国的諸階層を結集する。②長期武装抗戦とそのための国家建設を平行して進める。③生産と人民の生活水準を向上させ、労資両階級の共同をすすめる。④ラオス・カンボジアとの連帯、世界の平和・民主運動との連帯。

3.23 ベトミン軍、ハイフォン近郊のマオケ(MaoKhe)基地を攻撃。フランス海軍の銃砲と空襲の前に3千人の死者を出し敗退。

3月 ベトミンとバテトラオ、両軍の共同作戦協定を結ぶ。

4.20 ラトル将軍、メデューサ作戦を展開。

5.29 ベトミン軍、ハノイ南東のフランス軍基地を攻撃。フランス軍の爆撃と艦砲射撃の前に1万人の死傷者を出し敗退。

5月 シンガポールでインドシナ情勢を検討する米・英・仏三カ国会議。ベトナム北部を反共基地として重視し、共同防衛する協定を結ぶ。

6.09 ボ・グエン・ザップ将軍、トンキン湾デルタからの撤退を指示。この後、ベトミン軍はゲリラ戦主体の戦闘に戻る。

51年9月

9.07 米国・ベトナム国政府直接経済援助協定調印。アメリカはフランスを通すことなく,「ベトナム国」への直接援助を開始する.

9.30 インドシナ共産党カンボジア臨時地方委員会がインドシナ共産党から分党して、クメール人民革命党を創立。人民革命党を中心とするクメール・イサラク左派は、べトミンの支援を受けて武装闘争を継続する。

これは訳の分からない記述ですが、①クメール人民革命党とクメール・イサラクの幹部活動家は、ジュネーヴ協定後もカンボジア国内に戻れず、ハノイで活動していた。②これに対しプノンペンで地下の人民革命党支部が形成され、徐々にハノイの党中央とは別の路線をとるようになった。③そこにポルポト、イエンサリ、キューサムファンらの留学帰りが流入し、事実上の別党コースをたどる。 というのが実体だったようです。

9月 ジャン・ド・ラトル将軍、ペンタゴンからのさらなる援助をもとめワシントンへ旅立つ。アメリカの軍事援助は、この年5億ドルに達する。

10月 フランス軍、ターイ族の土地ギアロでの攻勢を強める。

51年11月 ホア・ビン作戦

 

ホア・ビン周辺(この辺の地名は地図を見てもまったく分かりません)

 

11.10 ジャン・ド・ラトル将軍、ハノイ南西の省都ホア・ビンを奪回する「チューリップ作戦」を発動。ベトミン軍を平原におびき出し機動戦を強いることが目的だったといわれる。この1年間にフランス軍は9万人を越える犠牲者を出す。(このあたり、フランス側情報とベトミン側情報が錯綜していますが、フランス側に“おびきよせる”ほどの余裕はなかったのではないでしょうか?)

11.10 フランス軍はチョ・ベンにつながる街道を制圧し、地方道21号線を越えて支配地域の拡大を狙う。北部機動部隊と第一空挺大隊がチョ・ベン西方に降下。ベトミン軍第164地方大隊はチョ・ベンの確保を断念し撤退。山間部でのゲリラ戦に切り替える。

11.12 チョ・ベンを制圧したデ・ラトル、ホア・ビン攻撃に着手。北からの機動部隊は黒河に沿って南方に進出、南からの機動部隊はホア・ビンに降下した空挺部隊と結合することとなる。

11.14 パラシュート部隊がホア・ビンを制圧。ベトミンの抵抗はほとんどなかった。

11.19 ベトミン軍、ホアビン作戦に対抗し北部国境地帯でふたたび大攻勢。

11.20 ジャン・ド・ラトル将軍、ガンを患いラウル・サラン将軍と交替。

11.21 ヴォー・グエン・ザップ将軍、第304および第312師団を紅河沿いに進出させ、ホアビン奪還作戦を開始する。フランス軍の補給線をかく乱し、ホアビン周囲のApDaChong,ApPhuTo,DanThe,LaPhu,RocherNotre-Dame,XomBuandTuVu駐屯地に対し攻撃。(一説では第308,315,320師団も参加)

11.21 スワンナ・プーマが、ラオス王国政府首相に就任。

51年12月

12.09 ベトミン軍第88連隊、黒河河畔のTuVu基地を攻撃。戦車を擁するモロッコ人2個中隊により撃破される。(ベトナム側によれば、ヒットエンドラン攻撃で敵の出方を伺う作戦。こちらのほうが正しいよう)

12.11 ベトミン軍、ホアビンとの連絡の要衝ApDaChongに攻撃を集中。フランス軍はThuPhap駐屯地に第一植民地空挺大隊を派遣。

12.14 フランス軍1個中隊がベトミンの待ち伏せ攻撃を受け敗退。多くの犠牲者を出す。

51年 ホー・チ・ミン、「文化・芸術は一つの戦線である。文芸工作者もその戦線の戦士である」とし、前線で銃を持って戦う兵士と同様に、文化という前線で作家・芸術家はペンで戦う戦士と位置づけた。

51年 フエのトゥーダム寺院が中心となり、越南仏教統一教会が結成される。

51年 日本政府、南ベトナム政府と平和条約を締結。

 

1952年

52年1月

1.01 ド・ラトルに代わる新司令官 Gonzales de Linares (一説にはサラン将軍)が着任。高等弁務官にはルトゥルノーが着任。重砲と航空機の援護を受け、6号線の逐次前進・確保を目指す。ヴォー・グエン・ザップは、三個師団をホアビンにつながる植民地道6号線周囲に集中。連絡の遮断を目指す。

1.11 de Lattre de Tassigny、パリでガンのため死亡。ド・ラトルはベトミンとの3回の戦闘(Vinh Yen, Mao Khe and Yen Cu Ha)に勝利し、北部の防衛に成功した。

1.12 ベト・ミンは、北部からホアビン西方へのルートを確保。黒河に沿ったホア・ビンへの補給路がベトミンによって切断される。国道6号線も各所で寸断される。

1.29 フランス軍、ベトミンの激しい抵抗を受けながら、6号線の拠点 Dong Ben, Xom Pheo, Bai Lang, Xuan Mai, Kem Pass and Ao Trach の確保に成功。しかしフランス実効統制下の地域は、ハノイからスアンマイまでにとどまる。

1.30 ベトミン軍が Suc Sich で攻勢に出る。第8植民地パラシュート大隊の一個中隊と正面戦。2万人の兵力で、Don Goi とホアビン間の道路に激しい圧力を加える。

52年2月

2.22 Salan 将軍は、ホア・ビンから撤退することを決定。フランス軍残存勢力は3万発の砲弾で援護されながら血路を開く。

2.27 ホア・ビンのフランス軍、撤退を完了。作戦は5日間にわたり、双方合わせ5千の死者を出す。三ヶ月にわたるホアビン作戦で、フランス軍は2万を越える死傷者を出し、ド・ラトル線までの後退を強いられる。フランス軍は正面戦を仕掛けたが、ベトミンは挑発に乗らずゲリラ戦と包囲作戦に徹し、フランス軍撃退に成功した。

52年3月

3.23 ベトミン部隊がベトバクにおいて集中攻撃作戦。30の戦区で一斉攻勢を行う。後方かく乱戦を中心とする。1ヶ月の作戦でフランス軍に1万5千の損害を与え、メコンデルタ以北の山間部を解放。一部では平野部にも進出する。

3月 フランス軍、紅河デルタハノイ上流のハナム、ナムディン、ニンビン省で掃討作戦を展開。

3月 オン・チュウからウォンビ(いずれも名称不明、省ではない)にかけての海岸で、海岸防衛線破壊作戦。

4月 フランス軍、ハイフォン北のタイビン(太平)、ハノイ北のバクニン省で掃討作戦を展開。

4月 ベトミン軍とパテトラオ、北部ラオスで作戦を展開。フランスは「ホーチミンのラオス侵略」と非難。

6.15 シアヌーク国王、国会を解散し全権を掌握。フランスとのあいだで完全独立を目指す交渉を開始する。

7月 米国政府、4億ドルの追加軍事援助を決定。

9月 ベトミン軍、1ヶ月にわたり大規模なタイバク(西北)作戦を展開。北部山岳地帯からラオスに至る地域を解放。

52年10月

10.05 ホーチミン、ソ連邦共産党第19回党大会に参加。スターリンとの面会は出来ず。

10.11 ベトミン軍が紅河と黒河にはさまれたFanSiPan山地を攻撃。ド・ラトル線からのフランス軍の誘導と殲滅を図る。

10.14 ベトミンによるタイバク作戦、北部山岳地帯からラオスに至る地域を奪取。ラオスへの回廊が開ける。

10.29 フランス軍、ロレイン作戦を開始。ベト・バク地域のベトミン補給拠点への打撃を目標とする。ベトミン軍は衝突を避け、黒河流域に転進。

52年11月

11.14 フランス軍、ChanMuongでベトミンの待ち伏せ攻撃を受け敗退。その後ロレイン作戦を中止し、ド・ラトル線まで後退。

11.19 ホー・チ・ミン、スターリン宛ての書簡で,土地改革に努力する決意を表明。

 

1953年

1.20 アイゼンハワーが大統領に就任。「ドミノ理論」を強調。フランス軍に対し、MSA協定にもとづく4億ドルの軍事援助に加え、大統領勧告により4億ドルが追加される。

1月 ベトミン軍、中部海岸地帯に進出。フエ、ダナン、クイニョンなどの都市を手中に治める。占領した各地で土地革命を実施。農民の支持を勝ちとる。

1月 第4回中央委員会。小作料引き下げ闘争に引き継ぐ土地改革の必要性を決議する。

3.05 スターリンが死亡。

4月 ベトミン軍、南部との連絡をもとめ、西北部のディエンビエンフーからラオス北部に進出。

4.08 パテトラオはベトミン軍とともにラオス北部で武装行動を展開(トゥン・ラオス作戦)。サムヌア(SamNeua)を解放、バン・ナム・バックに達する。ジャール高原やルアンプラバン方面では仏軍を包囲、大打撃を与える。CIAはフランス機を装い軍事物資の空輸に当たる。(パテート・ラーオの拠点は、正確にはフアンパン県サムヌアから約24㎞のヴィエン・サイ)

5.08 アンリ・ユージン・ナバル将軍がフランス軍司令官に就任。「1年以内に共産側を圧倒し、敵の心臓部に戦争を持ち込み、最後の決着をつける」と宣言。強力な機動力を持つ遠征軍の編成に着手。

ナヴァル・プラン: ①諸部隊の再編成と機動部隊の編成、②現地人部隊の増強による戦闘の「現地化」、③占領地帯の背後の徹底的掃討、④「解放区」の突破とその背後の破壊、の4本の柱からなる。ディエンビエンフーは第一の柱と第四の柱を結合した作戦として位置づけられた。

5月 「ナヴァル・プラン」が実行に移される。三段階18ヶ月でベトナム人民軍を壊滅させる計画。このため占領地の確保には現地軍54個大隊を当て、さらに「ベトナム国軍」を再組織。遠征軍機動部隊はアメリカの援助を得て装備を強化。砲兵26大隊、飛行機528機、海兵隊390部隊をふくむ84個大隊25万人(一説に32万人)に拡充。

6.03 インドシナ休戦を主張するマンデス・フランスがいったん首班に指名されるが、国民議会の信任を得られず退陣。戦争継続派のラニエルが首相に就任する。

7.27 朝鮮戦争が休戦。

8月 人民軍がハノイ南方のナムディン省、ニンビン省で作戦を展開。9月にはハノイ北方のタイグエン、フンエン省でも軍事行動を展開。

8月 ホ一・チ・ミン、「八月革命」記念日に寄せ抗仏闘争を総括。ソ連からあまりめぼしい援助が到来しなかったことを示唆。

9月 ビン・チ・ティエン中部三省(クアンビン、クアンチ、トアティエン)でベトミン軍が陽動作戦。

9月 アメリカはフランスに4億ドルの追加軍事援助を行う。戦費の60%をアメリカがまかなうようになる。フランス軍は一日あたり1千万ドルの戦費を費やして紅河デルタで掃討作戦を展開。

10.08 周恩来首相がベトナム和平の提案を行う。これを受けてフランス国内での反戦の動きが強まる。

10.26 フランス国民議会、「インドシナ戦争解決のため、中国とも交渉する」ことを決議。28日にはさらに、「軍事的勝利によって問題を解決することは出来ない」とのドゴール派議員提出の決議案を採択する。

10月 ヴェトナム労働党第5回中央委、土地改革綱領を決定。「土地の封建的所有制を消滅させ、地主階級を廃絶し、耕すものが所有する」一種の社会革命とする。第1回全国幹部会議を経て発表される。

53年11月

11.08 連立与党の民主社会主義抗戦同盟(UDSR)が党大会。「戦争終結と交渉開始」を主張するミッテラン派が勝利。国防相を勤めるプレヴァン委員長は辞任を迫られる。

11.09 カンボジアがフランスから独立。フランスはカンボジアに軍事権を委譲する。

11.20 仏軍外人空挺連隊3千名が、ライチャウ省ディエン・ビエン・フーに降下。ベトナム軍とラオスの革命勢力との連携を遮断するとともに、ベトナム人民軍主力をおびき出して殲滅することを目標とする。

ディエン・ビエン・フー(奠辺府): ハノイ西方450キロ、ラオス国境に近い谷あいの町。ラオス領を通じて中国につながる要衝となっていた。南北10キロ東西6キロの細長い盆地の中央に旧日本軍の飛行場があった(バーチェットは南北19キロ幅6キロと記載している)。タイ族1万3千が9つの集落に分かれて暮らし、周辺の山間部には少数民族が焼畑を営んでいた。

11.20 タイ族住民のうち9千名が捕らえられ、二つの強制収容所に入れられた後、基地建設のための強制労働に狩り出される。

11.24 フランス国民議会、「敵の無条件降伏を目標とせず、つねに和平提案を受け止める」ことを決議。

11.26 ホー・チ・ミンがスウェーデン紙とインタビュー。和平に応じる条件を示す。

ホーチミン談話: フランス国内での和平の動きを歓迎する。もしフランス政府が,この数年来の戦争から教訓を引き出し,交渉によって休戦にいたることを希望し,平和的手段によってベトナム問題の解決をしたいのであれば,ベトナム民主共和国の人民と政府はこの希望に応ずる用意がある。
アメリカ帝国主義がインドシナ戦争の継続を迫っているが、アメリカからの資金で戦争を続ければフランスは弱体化し、アメリカ帝国主義によってフランスの独立も危うくなる。

11.27 労働党書記局は通達を出し、ホーチミンの声明について補足説明。交渉によるインドシナ戦争の解決を受け入れる用意があることを示す。

11.29 インドシナ担当相マルク・ジャッケ、「ホーチミン提案に関心はあるが、交渉の土台とはならない」と声明。中国、ソ連は和平促進をうったえるキャンペーンを強化する。

11月末 空挺部隊が1200メートル級の滑走路を開いたあと、輸送機のピストン輸送により40門以上の大砲、2ヶ所の飛行場、兵員1万6200名(外人部隊7個大隊、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊を擁する一大要塞となる。クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐が司令官に任命される。外人部隊の多くは第二次大戦中にドイツ軍に加わって戦った連中だった。

53年12月

12月初め 第三回民主共和国国会が開催される。これにもとづき、土地改革法が可決される。土地改革委員会の設置を決定。各村落ごとに農民代表者会議と農会執行委員会を設置することを決定。地主に対する統制のため、県レベルでの司法機関を設けることも決まる。

12.06 ベトナム労働党政治局はデイエンビエンフー作戦の開始を決定。ボー・グエン・ザップ将軍に率いられたベトミン軍主力約四個師団強(約4万人)が周囲の山間部に集結。仏軍を包囲下におく。

両軍戦力の比較: 戦記によれば、ベトミンは兵力のみならず、重砲をふくむ火力においても圧倒していた。また航空機による攻撃に対しても、対空砲100門以上を有し、戦闘終了までに62機を撃墜した。

12.08 米英仏の三国が外相会議。翌月にソ連を招いて4カ国外相会議を開くことで合意。

12.10 人民軍とパテトラオ、ライチョウを攻撃。2日間の戦闘後陥落させる。ライチョウはディエンビエンフー北方ラオス領内のタイ州都、タイ族居住地帯の中心地でフランス軍の前進拠点だった。

12.10 フランス軍、ライチョウに代わりディエンビエンフーをタイ州の州都にする。

12.10 ラオスのプーマ首相、アメリカの圧力を受け、国連にベトミンのラオス侵入を非難する提訴。

12.22 ベトミンとラオス自由戦線(パテトラオの前身)がラオス中部で共同作戦。国道9号線を制圧する。18日(一説に27日)にはタケクを解放。30日からはラオス南部のポロペン高原を攻撃し、中心のアトプーの町を制圧。フランス軍は兵力の分散を強いられる。

12.28 ド・カストリ司令官の参謀長ギュット中佐、北部峡谷を視察中に砲火を集中され戦死。他に設営部隊への待ち伏せ攻撃が相次ぐ。

 

1954年

1.17 ヴォー・グエン・ザップ、ムオン・ファンの森林地帯に前線指導部を置く。

1.25 ベルリンで米英仏とソ連による4カ国外相会議が開催される。主題はヨーロッパの平和体制構築であったが、朝鮮戦争とベトナム戦争の戦後処理についても協議される。戦後処理のために中国(中共)を加えたジュネーヴ会議を開催することを決定。ダレスはこの会議に対し強い難色を表明。

1.26 ベトミン軍前線指導部、「速戦速勝」方針を捨て、「着実に戦闘、着実に進攻」方針に変更。ディエンビエンフーを最終決戦とする構えを取る。

1.26 第五戦区軍、中部高原のコントゥム省の省都コントゥムに攻撃を開始。

1月 パテトラオとベトミン、ラオスの王都・ルアンプランを攻撃。

2.17 第五戦区軍、3週間の戦闘の後コントゥムを占領、さらにプレイク攻撃に回る。さらにビンディン、クアンガイ、クアンナムの3省に攻撃を開始。カンボジア領内と南部ラオスにも戦線を拡大する。

2.22 インドのネルー首相、インドシナ即時停戦とジュネーヴ会議での決着を求める。

2月 ハノイ=ディエン・ビエン・フーの陸上ルートは、すべてベトミン・ゲリラにより遮断される。いっぽう基地配備の要員は1万6千に増加し、アメリカの提供した100機の双発輸送機が補給を支え、150機の対地攻撃機が周辺を防衛する。

54年3月

3.12 ベトナム民主共和国軍、ディエン・ビエン・フーへの攻撃を開始。最初は主滑走路への砲撃を集中。縦横に塹壕を掘り目標へ接近。

ディエン・ビエン・フーの勝利は、あげてボー・グエン・ザップの功績に帰せられているが、どうであろうか。制空権を持たない弱点を塹壕戦で補うこと、高地をいち早く確保し重砲攻撃で敵を制圧する戦法は、朝鮮戦争、とくに鉄の三角地帯での中国軍得意の戦法である。中国軍のベテランが戦闘指揮に参加していると見るのが自然ではないだろうか?

3.13夕方 要塞の東北に位置するベアトリス陣地に105ミリ榴弾砲による砲撃が開始される。大隊規模の守備隊(外人部隊第13准旅団)が崩壊し、6時間後に陥落。司令官ゴーシェ中佐は戦死する。

3.14 ベアトリス陣地に続いてガブリエラ陣地が夜間攻撃を受けて陥落。

3.15早朝 第1外人空挺大隊の2個中隊、第5ベトナム人空挺大隊による反撃が開始されるが、両陣地を奪回できないまま撤退。

3.25 連隊規模の守備隊(第3外人歩兵連隊)が守るアンヌ=マリ基地がベトミン軍の猛攻を受ける。基地の一角となるラレーヌ陣地が大激戦の末に陥落。

3月 アンヌ=マリ基地からベトナム人兵士の脱走が相次ぐ。タイ族現地兵、アルジェリアやモロッコの植民地兵も戦意を喪失。フランス軍は基地を放棄して後退。ついでベトミン軍は、司令部のあるイザベル基地とディエンビエンフーの交通を遮断する。

3月中旬 アメリカの直接介入を要請するため、フランス陸軍参謀総長のポール・イーリー将軍がワシントンへ派遣される。

3.29 ダレス国務長官、エリ参謀総長らとの1週間にわたる会談後に記者会見。①フランス軍があと1,2年戦闘を継続するあいだに、ベトナム人の反共軍を編成する。②インドシナは朝鮮よりはるかに重要である。ベトナムで負ければ東南アジアに連鎖反応がおき、日本やオーストラリアなどの親米諸国も脅威を受けるだろう。

3.29 エリ参謀総長、フランス議会で証言。ドイツ・アルジェリアから増援部隊3万を派遣するとともに、紅河デルタを放棄し、海岸地帯に兵力を集中させると述べる。

3月 ラドフォード米統幕議長は「ハゲタカ作戦」と命名される核兵器使用作戦を検討。

禿げ鷹作戦: 公式には「インドシナで原子兵器を上手く使用する技術的・軍事的実行可能性」計画と呼ばれる。地上部隊を投入する代わりに、60機のB-29でベトミン陣地を大量爆撃し、続いて中国とディエンビエンフー現地に原爆3発を落とすという内容だった。統合参謀本部では、リッジウエイを除く全員が支持した(さすがリッジウエイです)。ダレス国務長官、ニクソン副大統領、ルイス・ストラウス原子力委員会議長は熱烈に計画を支持した。
アイゼンハワーはフランスとイギリスの同意を条件にこの計画を支持した。しかし両国がこの計画に同意しなかったため流産に終わる。チャーチルはドミノ理論そのものに異議を唱えた。フランスのビドー外相は、「我々も敵と同様の被害を受ける可能性がある」として反対した。

3月 トンキン・デルタでも人民軍の攻勢が強まる。ハイフォンのカト・ビとハノイのジャラム空軍基地が相次いで襲撃される、カト・ビで60機、ジアラムで18機が破壊され使用不能となる。

54年4月

4.01 ベトミン軍塹壕の先端が滑走路に達する。飛行場が使用不能となったことにより、ハノイから送られる増援部隊と物資の補給は空からの落下に頼ることになる。

4.07 アイゼンハワー、記者会見で東南アジアにおける「ドミノ理論」を展開。「最初の駒が倒れたら、最後の駒にいたるまでのスピードは極めて早い」と述べ、「ベトナム国」を軍事・経済両面で支え続ける決意を強調。

4.10 リーゼンフェルト少佐の率いる第2外人空挺大隊の700名が、クロディーヌ陣地に降下する。さらに第3外人歩兵連隊、第5外人歩兵連隊からの志願者、数百名が夜間に降下。

4.15 ベトミン軍が滑走路の北半分を制圧。南部陣地が孤立する。

4.15 ベトナム労働党が第6回中央委員会総会、ベトナム統一に向けた新たな路線を策定。チュオン・チン第一書記が、統一選挙の実施とその勝利に向け大衆動員することを求める。

4.24 フランス軍、滑走路の奪回を目指し反撃を試みるが敗退。南部陣地が陥落する。

4.26 スイス・ジュネーブのパレ・デ・ナシオで停戦会議が開始される。ソ連の提案により、9ヶ国(安保理五大国とベトナム民主共和国、ベトナム国、ラオス王国、カンボジア王国)が参加する。台北政府は排除され、中華人民共和国が参加する。実際の討議が始まるのは5月8日から。

4.28 セイロンの首都コロンボで、セイロン、インドネシア、ビルマ、インド、パキスタンの5カ国首脳が会談。インドシナ休戦、中国の国連加盟を訴える。会談に参加したビルマとインドネシアは、アメリカ主導の反共同盟である東南アジア条約機構(SEATO)への参加を拒否。

4.29 周恩来首相がインドを訪問。ネルー首相とのあいだで「平和五原則」で合意。(一説に6月25日)

4月 ダレス米国務長官、アメリカは「共産ロシアとその同盟、共産中国の政治体制が東南アジアに押し付けられること」を容認しないと述べる。ダレスはフランス軍の苦境を救うために共同行動を英国に打診したが拒否される。

4月 ケネディ上院議員、インドシナ戦争のさなかにベトナムを訪問。「インドシナにおいてどれほどアメリカが軍事援助をしても、民衆の共感とひそかな支持を得ている。神出鬼没の敵を倒すことはできない」と警告。

54年5月

5.01 ディエンビエンフーへの最終攻撃が始まる。前哨基地はすべて陥落し、滑走路も砲撃により使用不能となる。フランスは57日間の激戦の末、事実上の壊滅状態に陥る。

5.07 最南端のイザベル陣地以外の全要塞が陥落。

5.08午前 ベトミン兵が司令部に突入。ド・カストリ司令官が全面降伏。フランス軍の戦死行方不明は2700名、負傷4400名。捕虜は1万人近くに達する。ベトミン側の人的被害は、戦死7900名、負傷1万5000名といわれる。(7日午後5時30分とする文献もあるが、ワシントン時間か?)

5.08 フランス軍捕虜は、60日をかけ、500マイル離れた捕虜収容所まで徒歩で移動。その半数が移動・収容中に死亡したといわれる。

5.09 ジュネーヴ会議が始まる。ディエンビエンフー陥落を受けて、第一次インドシナ戦争は終結に向かう。この時点でベトミンは国土の4分の3を支配。

5.25 ジュネーブ会議における労働党代表のファン・バンドンは、北緯13度での分割を主張。ダナン周辺からクイニョンまでの第5戦区の確保を目指す。フアン・バンドンは、もしフランスが自由選挙に賛成するなら,ハノイ・ハイフォンの保持だけでも良い。もし,フランスが自由選挙に反対するならば,分割案を受け入れる方向で考えていたという。

5.30 周恩来が労働党に秘密電。①16度線を境界とする、②ハイフォンをフランスに一定期間使用させる、③ハノイ,ハイフォン回廊を共同使用し,非武装地帯にする、の三案を提示。(周恩来提案は、当時の戦闘の状況から見て、フランスに対する過度の譲歩と見られるが、その理由は不明)

5.31 マルク・ジャッケがビドー外相との不一致を理由にインド関係相を辞任。

5月 ベトミンは「自由クメール」(クメール・イッサラ)とパテト・ラオの会談参加を要求。アメリカとカンボジア王国政府がこれに猛反対。

54年6月

6.01 ワシントンで英、米、仏、濠、ニュージーランド5カ国による軍事会議。ベトナム北部における戦線の建て直しに関して議論。

6.01 米政府、サイゴン軍事施設団(SMM)を創設。団長にエドワード・ランズデール空軍大佐が就任。「敵に対する半軍事作戦と政治・心理戦争を実行すること」を目的とする。ランズデールはハノイにルシアン・コネイン中佐の率いる特殊部隊を送り、工場・施設等の破壊を試みる。

6.04 ベトナム労働党中央委員会、周恩来に回答を送る。①16度線を境界とするが、国道9号線まで下がっても良い。②ハイフォンをフランスに一定期間使用させることも受け入れる。さらにホンゲイ,カンフーの権利を譲っても良い。③ハノイ・ハイフォンと国道5号線は譲れない。政治の中心を持てなくなる。この回答では、ファン・バン・ドン案については何ら言及されていない。

6.08 周恩来は,再びベトナム労働党申央委員会に秘密電。「ベトナムの案は,目標が高すぎる。もう少し譲歩しなくてはならない」とし、ハイフォンの(フランスにとっての)軍事的役割を認める。しかしハノイは拠出しない、との提案。

6.12 フランスで Goseph Laniel内閣が議会の不信任決議を受け総辞職。インドシナ休戦の世論が高まる。

6月中旬? 労働党政治局は周恩来に回答。①16~17度線での分割とダナン(当時はトゥーラン)および国道9号線の確保、②ハイフォンを一定の範囲内,一定の期間の問使用させ、ホンゲイ,カンフーについて譲歩、③5号線の共同使用と非武装化、④ハノイの絶対確保を提案。

6.17 マンデス・フランスが議会での投票でビドーを大差で破り、「7月20日までの休戦」実現を目指す新内閣が成立。

6.20 マンデス・フランスが国会で就任演説。インドシナ完全休戦を主張し,「7月20日までに,インドシナで停戦できなければ辞職する」と宣言する。このあとジュネーブ会議は急速に進展する。

6.24 ベルンにおいて,マンデス・フランスと周恩来の会談。ベトナムの領土内に「2つの政府」があることを初めて承認。周恩来は,ベトナム国とベトナム民主共和国の2つの政府間で,直接交渉によって解決されるべきであると主張する。マンデス・フランスは早期の選挙実施には反対し,周恩来も固執しなかった。

6.24 イーデンとチャーチルがワシントンを訪問。アイゼンハワー,ダレスと共に,インドシナ問題に対する対応を協議する。イギリスはジュネーヴ会議のあいだインドシナへのアメリカの介入を控えるよう要望。アメリカも了承する。両国は「受け入れることが可能な結果」を明らかにし,フランスに送付する。

米英要求の内容: ①ラオス,カンボジアの領土保全とベトミン軍の撤退。②ベトナムを南北に分割し,その南半分を維持、できればデルタ地帯に飛び地を確保。③分割線は,ドンホイ(18度線と17度線の中間に位置する)より北に引くこと。④南ベトナムの共産化阻止のために軍備の維持、共産主義活動の制限。しかし平和的手段によって最終的にベトナムが統一される可能性を除外しない(可能な限り先延ばし)。

6.25 ゴ・ディン・ジェム(当時53歳)がサイゴンに入る。バオダイの要請を受けたもの。

ゴ・ディン・ディエム(呉廷琰): バオダイ帝の下で内相を務めたが、仏植民地統治当局と対立して辞任。45年のベトミンからの協力要請も拒否して渡米。ニュージャージー州のレイクウッド神学校で研究生活を送るいっぽう、ダレス国務長官らと親交を深める。

6月 ジュネーブで休戦交渉が続く。ベトミン代表のファン・バン・ドンはベトナムの即時独立、外国軍の退去など八項目を主張したが、フランス側と対立。

ベトナム側の要求: 具体的には、
①ラオスとカンボジアの抵抗勢力の代表がラオス王国政府、カンボジア王国政府の代表と同等の資格で会議に参加するようもとめ、ラオス、カンボジアの抗戦勢力にそれぞれ2ヵ所の集結地域を要求したが、ラオスのパテトラオにのみフオンサリ(PhongSaly)、サムネワ(SamNeua)の2地域が認められ、カンボジアの抗戦勢力には認められなかった。
③バオ・ダイ政権はフランスの傀儡にすぎず、会議への参加は認められないと主張したが、南ベトナム支配権はバオダイに委ねられる。
④暫定境界線を北緯13度線であるべきと主張したが、中国は16度線を主張し、最終的には17度線にまで後退した。
⑤統一選挙は速やかに、具体的には6ヶ月以内に実施されるべきであると主張したが、中国は2年以内とすることを主張。結局、選挙は行われないままになる

54年7月

7.03 ジュネーブ会議代表のフアン・バンドン、ベトナム労働党中央委員会に「4分割案」を提示。国道9号線以北を「民主共和国」、9号線からダナンまでを南、ダナンからトゥイボア(Tuy Hoa)までを「民主共和国」飛び地、トゥイホア以南を南とするもの。第5戦区の拠点確保を目的とする。フアン・バンドン派実際にフランス代表団のショーベルに案を提示したといわれる。

7.03 周恩来とホー・チ・ミンが3日間にわたり柳州で会談。ベトナム側からボー・グエン・ザップとホアン・バン・ホアン(Hoang Van Hoan)が参加する。ベトナム側はインドシナでの軍事状況を説明。アメリカが介入しなければ,3年から5年でフランスを打ち破ることができるとする。

7.03 中国側は,アメリカが軍事援助を強めている現在,軍事的手段よりも平和的手段(統一選挙)のほうが望ましいと主張。周恩来は「暫定的な分割を受諾し,二年後の統一自由選挙を待つ」よう提案する。その上で,まず16度線で主張し,必要ならば17度線まで譲歩するよう提案。

7.05 ベトナム労働党中央委員会、フランスの政権交代により情勢が有利になったと判断。軍事境界線を設定し,ベトナムを分割する案で合意する。16度線で分割する案のほか、「4分割案」も検討される。16度線案では、ダナンと国道9号線を非軍事目的の条件付でフランスに使用させる妥協案も出される。

7.07 「ベトナム国」にゴ・ディン・ディエム(人民労働革命党)を首班とする内閣が成立。アメリカはランズデールを後見人につけ、ディェムに権力を与える。

ゴ・ディン・ディエムは落下傘政治家であり、もともとフエ出身で南部に地盤はなく、親仏勢力の強いサイゴンでは反感を持たれていた。兄弟・親族を除けば周囲のすべてが非友好的勢力であった。ディエムは一方でアメリカの財力と軍事力、他方では北から逃れたカトリック教徒を基盤として影響力を伸ばしていった。

7.09 労働党中央委員会、4分割案を採用することを決定。ホー・チ・ミンはジュネーヴ代表団に,4分割案を進めるよう司令を送る。

7.10 周恩来、4分割案は問題が複雑になり,アメリカの介入を招き、協定締結が困難になると反対。16度線案にプラスしてダナンと国道9号線を非軍事目的の条件付でフランスに使用させる案を提起。マンデス・フランスが宣言した7月20日までに,ジュネーブ協定を締結するようせまる。

7.10 周恩来の提起を受けたベトナム労働党、周恩来の提案を受諾。ハイフォン・ハノイ回廊の開放は拒否する。

7.11 ファン・バン・ドンが,マンデス・フランスと初めて直接交渉を行う。ファン・バン・ドンは,軍事境界線を13度線から14度線に引き上げることを明らかにする。マンデス・フランスはドンホイで軍事境界線(18度線)を引き,軍事境界線内に飛び地を設置しないことを表明。

7.13 第二回目のマンデス・フランスーファン・バン・ドン会談が行われる。ファン・バン・ドンは軍事境界線を14度から16度線まで引き下げると通告。マンデス・フランスは,トゥーラン(ダナン)とフエが確保できず,クアンチからラオスのサバナケットへの道路を確保することができないとし、これを拒否。

7.15 ベトナム労働党中央委員会が第6回拡大会議を開催。ジュネーヴ会議での決定の受け入れを決定。全権をフアン・バンドンにゆだねる。①平和の実現、統一・独立・民主の達成。②軍備の増強。③土地革命推進による生産力向上。を三つの任務として提起。

ホーチミンの報告: 休戦協定に伴う地区の整理は分断をもたらすものではなく,祖国を統一するための一時的な措置である。今は、アメリカがインドシナの戦争に介入することを回避することが大切だ。アメリカ帝国主義が直接干渉しインドシナ戦争を長期化し拡大したりしないように,われわれは平和の旗をしっかり握らねばならず,われわれの政策も変化する。平和のための戦いが長く複雑な過程であることを理解しない左翼的偏向に屈すれば、われわれはわが人民から浮き上がり、世界の人民からも孤立し、結局失敗するであろう。
チュオン・チンの発言: 朝鮮での停戦後,アメリカ帝国主義は,インドシナ戦争への干渉を促進している。党が採用する路線は,平和路線であり,インドシナの平和の回復である。それは世界の平和を愛する人民の要求に応じるものである。

7.18 第6回拡大中央委員会が決議を採択。「祖国統一のための方針と戦略について重要な変更があったが,革命のための目的は一つ」であるとする。「アメリカ帝国主義とフランス好戦主義者に闘争の矛先をむけ,すでに勝ち取った勝利を基礎にして,インドシナの平和を実現するため奮闘し,アメリカ帝国主義のインドシナ戦争ひきのばしと拡大の陰謀を粉砕して平和を強化し,統一を実現して独立を完成し,全国において民主主義を実現する」ことを確認。

7.19 ベトナム民主共和国,中国,ソ連が会談。北緯16~17度線の間に軍事境界線を引くことに同意。

7.20 17時25分 ソ連代表モロトフが、軍事境界線を17度線にすることを提案し,各代表団が賛成する。軍の再集結の期間は300日以内とする。ベトナムとフランスのあいだで、2年後に統一選挙を行うことで合意。(フルシチョフは、17度線以北を確保したことは望み得る最大級の勝利だったと回想している)

7.21午後3時 インドシナ休戦協定(通称ジュネーブ協定)が調印される。①フランス軍とベトミン軍の停戦と相互撤退。②北緯17度を停戦実施のための暫定的軍事境界線とする。居住地選択のため、300日間の南北往来の自由が認められる。③2年後に全土での普通総選挙の実施し南北を統一。8年間の戦闘で双方あわせ40万人が死亡。フランス軍も死者・行方不明をあわせ17万2000名に達する。

7.21 ジュネーブでの交渉に参加した諸国が「最終宣言」を採択。アメリカ,ベトナム国は,最終宣言に署名することを拒否して,単独の宣言を出し,ベトナムでの統一選挙の実施に反対する。また会議への参加を拒否されたラオスとカンポジアの解放勢力は不満の意を表明。

ジュネーブ協定から解放戦線結成に至る経過は、ベトナム戦争の「大義」を知る上で極めて重要だが、ネットでの資料は少ない。木村哲三郎氏の「ベトナム戦争の起源と中ソ」は出色の論文。

7.21 アイク、「米国はジュネーブ会議の決定に参加もしていないし、拘束されてもいない」と言明。(後にアイクは、「選挙が実施されていたなら、おそらく国民の8割はホー・チ・ミンに投票したであろう」と回想している)

7.22 ホー・チ・ミンは,国民に向け演説。「戦闘行為を停止するには,双方の軍隊の地域の調整を行わなければならない。それは停戦を実現し,平和を回復し,さらに,総選挙で国家統一を達成するための過渡的な措置である。それは国土の分断ではない」と強調。

7.22 ジュネーヴ会議が終了した翌日 周恩来が晩餐会を主催。ベトナム国代表に「北京に大使館を開く」よう提案。

7月 周恩来とダレスは、ラオス、カンボジアからのベトミン軍撤退と、既存の親仏政権の国際的承認で合意。パテト・ラオに北部のサムネワとフォンサリ両州を軍の集結地として認める。由由クメールは合法政党「人民党」に結集、人民革命党の指導者の多くは北ベトナムに亡命し、シアヌーク政権との政治闘争を継続する。

54年8月

8.04 アイゼンハワー、「もしインドシナが共産主義者の手に入れば、自由世界は錫とタングステンの重要資源を失うことになる」と述べる。

8.12 米国家安全保障会議、「極東政策の再検討」と題するメモを作成。「ジュネーブ協定は東南アジアを失うことになりかねない、共産主義の大前進を完成させた災厄である」とし、南ベトナムへの直接進出の結論を出す。

8月 労働党第6回中央委員会の決定を南ベトナム各地に徹底するため、幹部が派遣される。南部はレ・ズアンとレ・ドクトが担当。中部(第五戦区)はグエン・ズイチンが担当となる。

8月 ディエムの呼びかけに応え、北ベトナム在住のカトリック教徒70万人が南に移住し反共政権の人的基盤となる。いっぽうで南部のベトミン軍8万7千人(一説に13万人)が北部に移る。なお5万から6万(一説に8千から1万)のベトミン幹部が南に残留したといわれる。

8月 サイゴン政権は軍隊を繰り出し住民を抑圧する。

吉澤南氏の「ベトナム戦争」によれば: 2日トアティエン省キムドイで17人死亡、67人負傷。10日ゴコン省で8人死亡、200人負傷。同日クワンナム省ディエンバン県で3人死亡、11人負傷。9月4日クワンナム省トゥドックで39人死亡、37人負傷、55人投獄、拷問。
9月7日フーエン省トウイアン県で80人死亡、46人負傷、数百人逮捕、拷問。13日ベンチェ省モカイで、数百人死傷、数百人逮捕。

54年9月

9.05 労働党政治局会議、武力闘争の停止を指示。武力解放を綱領に掲げるリエンベトに代えて、「自由な全国総選挙を効果的に準備する」ことを目標とする新たな統一戦線組織の結成を決定。合法的政治活動に一本化する。

集結指令: 武装力の集結指令を南ベトナム各地のベトミン戦士に納得させるために中央から党幹部が派遣された。南部ではレ・ズアンとレ・ドク・ト、第5戦区ではグエン・ズイ・チンが説得にあたった。南では南ベトナム政権と対抗するために独自の統一戦線立ち上げもありうることが示唆される。ジュネーブ協定の完全実施を迫る政治闘争を行なうと同時に、最悪の場合に備えて党組織を非公然とし、地下活動に切換える。南部では6万人の党員が地下活動に移った。

9.05 労働党政治局会議、南ベトナムの機構を改編。これまで南ベトナム全体の指導に当たって来た南部中央局を解散する。南ベトナム南部(旧コーチシナ)は南部党委員会の管轄とする。ダナンからファン・ティエトまでの海岸地帯にタイグエンを加えた第五戦区は中央直属となる。第4戦区(トアティエンとクアンチ)は北ベトナムの第4戦区の指導下に属する。

9.08 米国、マニラに東南アジア8カ国を召集。反共軍事同盟SEATO(東南アジア条約機構)を結成させる。付属文書では、インドシナ三国をSEATOの保護地域に設定。これによりベトナム統一はアメリカとの闘い抜きには不可能となる。

9.18 プーマ内閣のKouVoravong国防相が暗殺される。この後、中立主義に対する右派やアメリカの反対により対立が激化する中でプーマ政権は崩壊する。

54年10月

10.01 ゴ政権はクワンナム省(抵抗戦争中の解放地区)を「共産主義掃滅運動」の模範省と指定。集中的な弾圧を加える。

吉澤南氏の「ベトナム戦争」によれば: 10月3日クワンナム省ディエンバン県で2人殺害。19日ビンディン省アンニョン県で1人殺害。
11月7日、サイゴン・ショロンの平和運動家弁護士逮捕、11日、ロンスエン省ショモイ県で7人死亡、8人負傷、74人逮捕、拷問。12月12日クワンチ省カムロ県、5人死刑宣告。

10.08 フランス軍、ハノイから撤退。コーチシナには引き続け残留し、バオダイ政権の建設を急ぐ。

10.10 ベトミン軍がハノイ入城。ホーチミンがハノイに戻り政権を掌握。ホーチミン直系のファンバンドンが首相に就任。フランスと北ベトナムは文化交流協定を締結。関係修復に向かう。

10.12 アイゼンハワー大統領、米国が直接南ベトナムに、直接援助を提供するとディエムに助言する。

10.23 親仏派のグエン・バン・ヒン参謀総長らがジェム首相の退陣を求める。アメリカはフランスとバオ・ダイに圧力をかけ、ヒン将軍をフランスに亡命させる。これを機にゴ・ジンジエム首相が政権基盤を強化。空軍准将のエドワード・ランズデール(元CIA工作員)が強力に支援する。

10月 アメリカがバオダイ政権への直接援助を開始。

10月 労働党政治局の決定を受け、カマウのチャックバン基地で「ヴェトナム労働党南部委員会」が創立される。レ・ドクトが書記、レ・ズアン、グエン・チ・タイン、ファン・フンらが指導部を形成する。軍事工作の責任者にはグエン・フー・スエン。当初、南部委員会の存在は極秘とされた。

10月 南部党委員会をさらに西部地区、中部地区、東部地区、サイゴン・ショロン地区の4地方(連省)委員会に分割・再編。サイゴン・ショロン地区委員会書記にはグエン・バン・リンがあたる。

54年12月

12.13 アメリカのコリンズ将軍とフランスのエリ将軍、南ベトナム国軍に自主権を与えることで合意。米軍がベトナム国軍の訓練を引受けることとなる。ラドフォード米統幕議長は1955年分として3億ドルの援助を約束。

12.15 クワンチ省で、ベトミンの夫や子息を持つ妻や母に対し「離婚週間」、「親子縁切り週間」などの運動を強行。

54年 ジュネーブ協定。中国、ヴィエトナムと国境を接しているポンサリー、フアパン県がパテート・ラーオの再結集地となる。

 

1955年

55年1月

1.01 アメリカ・オペレーション・ミッション(軍事使節団事務所)がヴィエンチャンに設立される。

1.07 リエンベトの全国代表会議。平和活動への移行と「統一民族戦線を拡大強化」していくことが決定される。

1月 サイゴンに、最初の米軍からの直接援助物資が到着する。さらに米国は南ベトナム軍の訓練にあたることを提案。

1月 中国の軍事顧問団、人民軍を現有の32万から4万削減し近代化。陸軍内に歩兵、砲兵、防空、工兵、戦車の各部隊を編成。さらに空軍と海軍を創設することを提案する。

55年2月

2.08 レ・ドク・ト、ファム・フンら南ベトナム中央局の党幹部と兵士、カマウ半島の港からソ連船に乗り北に向かう。レ・ズアンは南部委員会書記として残留。

2.12 米軍事援助顧問団、南ベトナム軍の訓練開始。

55年3月

3.02 カンボジアのシアヌーク国王は王位を父のスラマリットに譲り、立憲君主制を目指す。4月7日には「人民社会主義共同体」(サンクム)が結成される。

3.03 第7回中央委員会議。統一民族戦線の拡大,強化の方針が確認される。またこの統一戦線は南北ベトナム共通のものであることが確認される。

会議での論争: 南北ベトナムが分断された結果,北ベトナムでは社会主義革命(土地改革)を推進し,南ベトナムでは民族民主革命を推進するという異なった目標が出現したことから、その扱いが議論となる。チュオン・チン書記長は「土地改革のスローガンを綱領からはずすことは、ベトナムの人口の約90%が労農人口であることを考えれば不可能」と主張する。

3.22 パテトラオ支配区でラオス人民革命党(LPRP)の結成大会。ラオス初のマルクス・レーニン主義政党となる。カイソン・プムビハンが書記長に就任。92年の死亡までその座に留まる。カイソンはハノイ大学法学部卒で、在学中からベトミンの闘争に加わった。

3.29 パリ在住のバオ・ダイ、ディエムを「ベトナム人の血を売っている」と非難。コリンズ大使は、南ベトナムの指導者をバオダイ帝からディエムに交代させるよう、ワシントンに勧告。

3月 第5戦区に書記としてチャン・ルウン、副書記としてボー・チ・コンが派遣される。

55年4月

4.18 バンドンでアジア・アフリカ会議。周恩来、ネルー、スカルノ、ウーヌーなど29カ国の指導者が参加。バンドン会議10原則で合意。国家主権と領土保全の尊重、人種の平等と国家の平等の承認、大国の特殊な利益のための集団的防衛協定と他国に対する圧力行使の防止などで合意。

4月 ゴ・ジン・ジェム政権の軍隊とバイ・ビエン将軍の率いるビンスエン団がサイゴン市内で激烈な市街戦を一カ月も続ける。ビンスエンを率いるビエン将軍はギロチンで斬首される。ビンスエンはカジノ・売春宿・アヘン巣を運営する組織犯罪グループで、フランス植民地勢力の庇護の下に、サイゴン・ショロン地区の警察権を握っていた。構成員は4千人といわれる。

南ベトナムにはベトミンのほかに、政府と対立する三つの武装勢力があった。ビンスエン(Binh Xuyen・平川)とカオダイ教(CaoDai・高台)の武装グループ、ホアハオ教徒(HoaHao・和好)のグループである。ディエムはこれらのグループを個別撃破していった。

55年5月

5月初め ソ連船がカマウ半島の港に到着。南ベトナム中央局のレ・ドク・ト書記、ファム・フン、ウン・バン・キエム、ハ・フイ・ザップら幹部が乗り込む。レ・ズアンが幹部として残留。

5.10 南ベトナム政府、米国に対し公式に米国軍事顧問の派遣を要請。

5.15 ディエム大統領、1年間にわたる第一次反共作戦を開始する。トー・コン(訴共)指導委員会が発足。トー・コン委員会は軍隊、警察、情報の担当者で構成され、全土で旧ベトミンの摘発にあたる。労働党幹部、党員、旧抗仏戦士(ベトミン)だけでなく、北ベトナムに集結した身内を持つ家族、旧抗仏戦士と何らかの関係を持つ人も対象となる。

5.16 最後のベトミン軍はクイニョンから撤退。南ベトナムから12万の戦闘部隊と党幹部が北ベトナムに移動する(ベトナム国防省の反米救国抗戦史による)。北でも最後のフランス軍部隊がハイフォンから撤退。

5.16 米国、独立を前にしたカンボジアに対し軍事援助を供与することに同意する。

5月 南ベトナム国軍、メコン・デルタ地方でホアハオ教徒の武装グループを攻撃。多くが降伏するが、バ・カットとナム・ルアの派は抵抗を続ける。

ホアハオ教: メコンデルタを中心とする仏教系の新興宗教。いくつかの軍閥を擁し、最盛時は兵力2万5千を数える。第二次大戦中は日本軍に協力し、インドシナ戦争時は、メコンデルタの覇権を巡りベトミンと激しく争った。

5月 ソ連、ハノイに大使館を設置。モロトフは北ベトナムを社会主義陣営の一員として受け入れるよう提言。一定の援助を与えつつ、南との分断固定化を図る。

55年6月

6.25 ホー・チ・ミン、中国を公式訪問。中国は2億ドルの援助を約束する。援助資金はハイフォンのセメント工場、ハノイ発電所、ナムディンの綿織物工場など18企業の建設にあてられる。

6.06 北ベトナム、10月の統一選挙を前に、南ベトナムに南北統一のための予備会談を申し入れ。

55年7月

7.17 ディエム、「我々はジュネーブ協定に調印しておらず、いかなる意味でもこの協定に縛られるものではない」と声明。全国統一選挙を拒否しジュネーブ協定の廃棄を宣言。ベトナム労働党は,南ベトナム解放政策について行き詰まる。

7.12 ホーチミンがモスクワを訪問。ソ連は機械工場、織物工場など23企業を建設するために1億ドルの援助を約束する。北ベトナムは中ソ両国から経済援助を受け、社会主義化に乗り出す。

7月 南部で民衆の弾圧を目的とする10/59法が制定され、ベトミンに対する徹底的弾圧が始まる。50万人以上が捕らえられ、およそ7万人が殺害されたといわれる。ジュネーブ協定時点で5万人を数えた党組織は、5年間で5千人にまで減少。

7月 北ベトナムで土地改革が開始される。

村落の共有の財産である公田が収用され、個々の農民に分配された。また互助組合と初級合作社が組織された。互助祖は家族単位の経営を前提としつつ必要に応じて労働交換をするための組織であり、初級合作社は集落単位に生産労働を集団化するという違いがあったが、ともに土地は各農民が所有していた。推進役となったチュオン・チン書記長は親中国派といわれ、中国の土地改革を模範とした。

7月 国際監視委員会の勧告にもとづき、フォン・サリ、サムヌア省での停戦が実現。ラオス政府はパテトラオ軍の完全制圧を断念する。

55年8月

8月 労働党中央委員会第8回総会が開かれる。リエンベト(ベトミン)に代わる新たな統一戦線として「ベトナム祖国戦線」の結成を決定。民族統一戦線の政治綱領と,北ベトナムでの土地改革が矛盾しないことが確認される。大量の南ベトナムからの幹部流入を受け、指導部メンバーの拡充が行われる。流入組トップのレ・ドク・トは統一委員会委員長の要職につき、土地改革の後仕末と党の整風運動の責任者となる。

ホー・チミン、チュオン・チン、ファン・バンドン、ボー・グエンザップが4首脳。ついでレ・ズアン、ファム・フン、レ・ドクト、グエン・チ・タン、ホアン・アンの5人が政治局員・兼・書記局員として最高幹部となる。さらに南部出身のレ・バン・ルウン、レ・タイン・ギ、ファム・フン、グエン・ズイ・ティン、ホアン・バン・ホアンの5人が新たに政治局員となる。

8月 第8期の国会が開会。南部から移動したフアム・フンが副首相、南部抗戦行政委員会のファム・ゴク・タク博士が保健相に、ウン・バン・キエムが外相に起用される。

55年9月

9.11 カンボジア総選挙。シアヌークの「社会主義人民共同体」(サンクム)が得票の82%、議席のすべてを獲得する。

9.25 カンボジアがフランスから完全独立。

9月 トー・コン委員会、政府諸機関内の調査に重点を置いた第二波のベトミン取り締まり運動。

9月 8中総決定にもとづき「ベトナム祖国戦線」が設立される。独立と統一、アメリカの介入反対を掲げる。主要な課題は「統一選挙の実施を,南ベトナム政府に要求する」ために政治闘争を行うことであり、武力闘争はまったく想定されていなかった。

55年10月

10.23 国民投票によりゴ・ディン・ジェムが国家主席に就任。これによりバオ・ダイ元首の退位が決定(実質的には追放)される。(一説には4月にバオダイ帝が廃位し、6月14日にはディエムが国家元首に就任し、10月26日に大統領となったとの記載)

ランズデールの回想: CIAは公正な国民投票を実施して元首を決めるよう進言。ランズデールは「私はあなたが99.99%の支持で勝利したというニュースなど見たくない」と警告。投票の結果は98%にとどまった。

10.26 「ベトナム共和国」成立。ゴ・ディン・ジェムが初代大統領に就任。ジェムの弟であるゴディンニュが人民弾圧を指揮。アイゼンハワーはゴ・ディン・ジェム政権への援助を強化。

10月 グエン・ビン・キエム大佐の率いる「自由カオダイ」が決起。南に残ったベトミン兵士幹部も戦いに加わる。

カオダイ教: 五教(儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教)の教えを土台とする新興宗教。サイゴン北西のタイニン省に基盤を置く。独自に私兵団や自治機構を持ち、インドシナ戦争中にはベトミンと戦った。

10月 ボー・グエン・ザップ国防相、軍代表国を率いて訪中。彭徳懐国防相らと会談し、中国軍の施設、部隊、演習を見学する。

55年11月

11.02 ハノイ放送、政府が人民の民主的権利、表現の自由を認め、国会に大幅な権限を与えると発表。

11.13 北ベトナムのゲアン省クインルー地区で、農民が労働党と政府に対して蜂起する。人民軍が制圧するのに3日を要し、1000人以上の死傷者が出る。(一説では6千人以上が殺されたとされるが、強制労働収容所に送られたものまでふくんだ数字の可能性が高い)

11.15 南ベトナム全土で思想取り締まり作戦が本格的に始動。クアンガイ省では、500人定員の監獄に常時5,000人を詰め込んだという。また中部クアンナム省のズイスエン県ではベトミン116人が逮捕され、うち47名が虐殺された。

拷問のスタイル: 石山によれば、「手足を針金で縛られ、喉を切られ、腹を割かれ、舌と耳を切られ、眼球をくりぬかれ、最後に顔にガソリンをかけて燃やされた」とあり、CIAの拷問マニュアルに一致している。拷問マニュアルについてはグアテマラ、チリ年表など参照のこと。

11月 レズアン、南部委員会書記に就任、ベンチェに潜入する。

ベンチェには南部でもっとも強固なベトミン組織が存在した。女性が積極的に政治闘争に参加。その比率は8割を占めた。この女性たちが後にロングヘアー・アーミー(長髪軍)となる。

12.25 国会議員選挙。カタイ・ドン・サソリットの率いる中道派の進歩党が第一党となる。プイ・サナニコンの率いる右派の独立党が第二党となる。両派の対立から安定政権は成立せず。パテト・ラオは選挙をボイコットする。

55年 南ベトナムでは、大土地所有制が維持される一方、ディエムが恐怖政治の下に仏教徒の土地を奪い、カトリック教徒支持者に分配。仏教徒の怒りを買う。

古田によれば、ディエムは政権基盤を創出するため、地主制を復活させる。「土地再配分計画」は表向き小作人に土地を分配することをうたうが、ベトミンの土地改革で土地を手に入れた小農からふたたび土地を取り上げるものとなった。

 

1956年

56年1月

1月 ディエム政権、政令第6号を公布。旧ベトミン勢力への弾圧体制を強化。「保安委員会」が反対者を次々に捕らえ、「逃亡を試みた」として拷問・殺害する。ゴ・ディン・ニュは「フィガロ」紙のインタビューに答え、「南部政権は間もなく噴出する火山の上にある」と述べ、弾圧を合理化する。

1.06 ネオ・ラオ・イッサラ(ラオス自由戦線)、ベトナム国境に近いラオス北部のサムヌーアで大会を持つ。ラオス人民革命党と合体しラオス愛国戦線と改称。武装組織としてパテト・ラオ軍を編成。パテト・ラオは“ラオス国”という意味。

56年2月

2.18 シアヌークが北京を訪問。SEATOの「保護」を受けないと声明。

2月 共産党弾圧作戦が終了。ジェム政権は党幹部、党員、愛国者計93,362人を殺害あるいは監獄に収用した。これにより南部労働党は存亡の危機に瀕する。

2月 カオダイ教徒の反乱が終焉。4月にはホアハオの残存勢力も消滅する。

2月 ソ連共産党第20回大会、アメリカとの平和共存政策を打ち出す。ソ連に依拠した南北統一の可能性は消失。

56年3月

3.04 ディエム、総選挙を実施。制憲議会が発足。

3.31 スバンナ・プーマ(Phouma)が、ラオス国民議会の要請を受け首相に復帰。パテート・ラーオと交渉を開始。

3月 南部党委員会、政治闘争を支援するために軍事闘争を加えた闘争方針案をまとめ党中央に提出する。この「レ・ズアンの14項目プラン」と呼ばれる意見書は党中央によって却下されたため、南部党委員会は、「当面は経済闘争に集中する」ことを決定。(レズアン文書に関しては、存在自体は間違いないが、党としての公式文書ではなく、その時期や“重み”の評価については諸説あり混沌としている)

レ・ズアンの14項目プラン: 現在の南ベトナムでは、政治闘争を支援するためにも、小規模ではあっても主力部隊とその根拠地、それを支える一定の人口と面積を持った解放区が必要である。

3月 中国軍事顧問団が北ベトナムから引揚げる。

56年4月

4.28 仏軍、最高司令部を解散しインドシナから完全撤退。これに代わり米国軍事援助顧問グループ(MAAG)が「ベトナム国」軍の訓練を一任される。

4月 ベトナム労働党第9回中央委員会総会。ソ連はミコヤンをハノイに派遣し平和共存路線を説明。ホー・チ・ミンは閉会演説で「平和的統一の可能性に注目するが、米帝国主義が戦争を準備していることを忘れてはならない」と暗にソ連の路線を批判。

56年6月

6.01 ケネディ上院議員、米=ベトナム友好協会で演説。「我々はベトナムの実の親でないにしても、その名付け親であることは確かだ。その誕生に際し主人公をつとめ、その成長を助け、自らの将来を決定するよう援助しなければならない」と述べる。

6月 ジェム政権、村長および省議会議員の選挙を廃止し、これを任命制にする。地方の有力者はいっせいに反発。

6月 ロバートソン国務次官補、米政府が1年間で国内保安隊の正規軍15万人、機動民警、民間自衛隊、地方防衛部隊を編成し、都市・地方レベルでの破壊活動防止にあたっていると発表。

6月 労働党政治局会議、ジュネーブ協定実施をもとめた2年間の政治闘争を総括。南ベトナム解放政策について自己批判。南において自衛のために、限定的に武力を行使することが認められる。しかしその際も、あくまでも政治闘争による統一選挙の実施を求めることを第一義とする。武力闘争の解禁ではないとされる。

政治局決議: 南部解放に関する党中央の方針は、一般的には正しかったが、具体性にかけていた。南ベトナムに対する党の指導は無体系で,時宜にかなっておらず,具体性にかけて,力がなかった。
南ベトナムにおける当面の最大の任務は党を再建強化し、反米・反ジェムの広範な民族統一戦線を成立させ、南ベトナムに民族民主連合政府を樹立することである。
現在の闘争形式は、統一選挙実現のための政治闘争であって武装闘争ではない。しかし、南ベトナムの闘争は長期の、困難、複雑なものとなるため、一定の状況下では自衛のための武力闘争も否定せず、様々な革命方針、形式を選択しなければならない。

56年7月

7.20 ジュネーブ協定で定められた南北統一選挙の予定が期限切れとなる。サイゴン政府は「共産主義者が支配する北部で自由な選挙を実施することは不可能である」とし統一選挙を拒否。

7月 トー・コン運動の第2段階として「トー・コン(訴共)・ジェット・コン(滅共)作戦が始まる。共産分子を告発するだけでなく抹殺(DietCong=ジェット・コン)することが強調され、増強した国軍が掃討作戦に動員された。

7月 レ・ズアン南部委員会書記、政治局決定を受け、文書の作成を開始。カマウからベンチェ、ミト、サイゴンなどを歴訪し、各地の幹部と討議を重ねる。

7月 レズアン、サイゴン・チョロンの地区委員と会談。政権打倒のためには武力が必要だが、最終的な勝利のためには政治闘争が必要である。サイゴンでの大衆集会に20万人を集める力をつけなくてはならない、と語る。当時のサイゴンでの動員力は3千人程度とされていた。

56年8月

8.05 ラオス王国政府のプーマ首相とパテトラオのスファヌボン議長(Souphanouvong)がビエンチャンで会談。停戦とラオス連合政権の樹立、パテトラオ軍の王国軍編入で合意。

8.18 ホー・チ・ミン、「農民と幹部への手紙」を発表。中央の指導が適切でなかったとして、党と政府は誤りや欠点を厳重に点検し、是正することを約束した。

8月 レ・ズアン、南ベトナム各地幹部の意見をまとめ『南部ベトナムベトナム革命提綱』をまとめる。レ・ズアンは実際には武力革命を想定していたとされる。

南部ベトナムベトナム革命提綱(レズアン文書): 「南ベトナム人民は救国のため、自らの自由のために米・ジェムに反対して決起するしかない。これは革命の道である。他に道はない」とする。政治闘争のみを行う路線から、武力闘争を補助的に用いる政治闘争路線へと変更することを提案。そのために南独自の統一戦線である解放戦線の結成を求める。
①南での闘争は合法的な政治闘争ではなく、ディエム政権を打倒し、民主連合政権を実現する革命闘争である。②そのためには、まず南の人民によって革命闘争を先行させなければならない。③革命は平和的に発展できるが、非合法を余儀なくされる。④南の独自の情勢に見合った広範な統一戦線が必要である。

8月 スファヌボンとの会談後、プーマ首相は北京とハノイを訪れ、ジュネーブ共同宣言の立場を確認。第1次連合政府が樹立される。

56年10月

10.26 労働党第10回中央委員会総会が開催される。北部における土地改革の評価と、南部情勢の評価が二大課題となる。

土地改革に関して: 土地改革の実施に当たっての「重大な数多くの誤り」について自己批判。社会主義建設を急ごうと急進的土地改革を強行したことに過ちの源泉があると総括。特別人民法廷の解散と、不当に処罰された人々の名誉回復を定める。

自己批判の背景: 「経験の少ない幹部が個人的恨みの声に乗せられて、階級分類を間違えた。多数の愛国的地主や富農、中農までもが人民法廷や糾弾集会で処断された」と批判。
一説では、地主たちは「人民裁判」に召喚され、思想改造を要求される。数千人が処刑されたり強制労働収容所に送られたりしたという。一方では、
55-57年は、食料生産が57%増大し、ベトナム農業の黄金期と呼ばれたという。

南部情勢の評価に関して: 党中央は南ベトナム情勢について認識不足だったことを認める。南部からの意見に基づき、南ベトナムの情勢把握を改めて行うことを決定。統一選挙の実現の可能性が事実上消失したもとでの、新方針を探る。

レズアンは「南ベトナム革命路線」を中央に提出。政治闘争に限定していた従来の路線を改め、武力闘争を必要に応じて使うことを主張したといわれる。

人事異動に関して: チュオン・チン書記長は土地改革の誤りの責任をとり辞任。党中央の土地改革委員会と組織委員会の責任者が解任される。ホー・チ・ミン主席が書記長を兼任することとなる。

10月 労働党、第10回中央委員会決定にもとづき誤りを点検し、是正策を検討する。村ごとに調査が行われ、誤りに対して謝罪が行われ、一部では没収した農地の返還も行われた。

10.30 南ベトナムで「法令57号」が公布される。最高100haを個人所有の限界として、土地所有を制限。それ以上は農民(タ・ディエン)に売却されることとなる。農民は6年年賦で支払い。旧地主は地価の10%の現金、90%の政府公債(利子は3%)が与えられる。実施の過程で骨抜きにされ、実効性は無かった。

10月 南ベトナムで国民投票を経て共和国憲法が公布される。

56年11月

11.18 周恩来がハノイを訪問。北ベトナムの土地改革が「挫折」したことについて批判。南部情勢については、いまだ武装闘争に移る時機ではないとの判断をしめす。

11.20 ハノイの文学誌『ザイファム』と新聞『ニャンヴァン』、創作の自由と社会の民主化をもとめて論陣を張る。政府はこれらを発禁処分にし、チャン・ザン、ホアン・カムら関係者を厳重に処罰する。これを機に自由主義文化人への批判キャンペーンが強化される。

11月 北ベトナムで農民反乱が起こる。6千人が殺されるか、追放される。(55年の記載と同一の事項か?) 南ベトナムではゴジンジエムが農地改革を取りやめ、土地を旧地主に戻す。これに対し農民が抵抗を開始、北ベトナムに軍事支援をもとめる。(これも不正確かつあいまいな記載。点検を要する)

12.18 ビエンチャンで両派の共同宣言に署名。サムヌア地方は統一政府に編入され、パテトラオはネオ・ラオ・ハクサット党を結成し、補欠選挙に臨むこととなる。

12月 プノンペンで第2回南部委員会総会。『政治局6月決議』と『南ベトナム革命提綱』の二つの文書を討議。政治局の政治闘争優先の方針を承認する一方で、武力行使が事実上容認される。

武力行使の内容: 南東部の山岳地域・平野部の解放区(ドン・タップ・ムイ、ウミンなど)で武装闘争の準備を開始し、このため武装部隊を組織することとなる。グエン・フー・スエンが南部における武装勢力創設の責任者となり、翌年にかけて30の中隊(Dai Doi)が南部各地に創設される。

56年 南部ではこの1年で5万人が逮捕され、そのうち1万2千人が処刑された(Young)とされる。タイニン省では党細胞の90%が消滅した。

56年 南ベトナムの経済: 人口の約85%を占める農業が全体の27%、工業11%。これに対し商業とサービスを合わせた第三次産業が48%を占める。1人当り国民所得は137ドル。米国の援助は国家予算の約32%、しかもその90%以上が実質的には軍事予算。

 

1957年

1.24 フルシチョフ、南北両ベトナムの分離独立と国連への同時加盟を提案。北ベトナムは国家の分断固定につながるこの提案に強く反発。米国は北ベトナムを認めない立場から、この提案を拒否。ホー・チ・ミン、「スターリンの70%は肯定的な性格をもつものであり,30%が誤りであると考えられるにすぎない」と語る。

1月 ホー・チ・ミンと政治局はボー・グエン・ザップら3人に対して南ベトナム革命に関する15中総の決議草案の作成を命じる。

1月 57年初め頃から、タイニン、ラクザ、チャビン、ビンロンなどで、旧ベトミン勢力が遊撃隊や根拠地自衛隊を編成する。彼らは秘匿していた武器を取り出し武装した。

2.22 ディエム大統領暗殺未遂事件が発生。

2.23 労働党中央委員会は南部委員会に、これまでの労働党の南部政策の評価、祖国戦線の綱領の再評価などと今後の方針に関して15項目からなる質問状を発する。レズアン書記はこれに答え、南ベトナム解放の道を描き出す。

3月 労働党の12中総。ベトナム人民軍の近代化、正規軍化を提起。志願制から義務兵役制にすることが決まる。翌年、陸・海・空軍は国防省の下に統一される。陸軍は歩兵兵力として7ヶ師団、6ヶ旅団、12独立連隊を持つことになった。

4月 サソリット副首相を中心とする議会右派グループ、反中国の立場からプーマ不信任に回る。プーマ政権は総辞職し、第1次連合政府が崩壊する。右派やラオスの左傾化を危惧するアメリカの圧力によるもの。

5.08 ディエムが米国を公式訪問。アイゼンハワーはディエムを「奇跡の人」と呼び賞賛。「自由を守り、米国を守るために、ベトナムは軍事的・経済的に支えられなければならない」と述べる。

5.10 ベトナム作家協会が機関紙『ヴァン』(文)を発行。党機関紙『ホックタップ』(学習)は、ニャンヴァン・ザイファムの影響受けていると批判。58年1月には発刊停止処分を受ける。

5月 ディエムが大統領として初めて米国を訪問。

5月 レ・ズアン、第2回南部委員会のあとハノイの党中央に召還されレ・ズアン文書について報告。

7月 レ・ズアン、労働党書記に任命される。後任の南部委員会書記にはサイゴン・チョロン地区委員会書記のグエン・バン・リンが就任。(時期については1月説、5月説、7月説などさまざま。ウィキペディアでは、チュオン・チンの党第一書記解任に伴う人事とされる)

8月 南ベトナム政府、徴兵制を施行。

8月 南部委員会、二人の代表をハノイに送り、南部解放闘争の開始を申請。

8月 サソリットが政権を放棄、ふたたびプーマ内閣が成立。

10月 南部党委員会、最初の主力部隊の創設を承認。

10月 南ベトナムで旧ベトミン勢力の大規模な反乱。メコンデルタに37の武装中隊が組織され、南ベトナム公安当局者400人以上を「処刑」する。またサイゴン各所で爆弾テロ作戦を展開。MAAGや情報組織で働く米国人13人が負傷する。

解放戦線という広範な統一武装闘争勢力を創設したエネルギーは党からではなく、むしろ南部人民がサイゴン政府の圧迫に抗して作った物であった。北のベトナム労働党はそれを追認する形で南での武装闘争の発動を決した「十五号決議」を採択したのである(古田元夫)。

10月 ダーブロー米国大使、ゴー・ディン・ジエム大統領に面会。次年度の米国の援助額を約4億ドルから、2億4千万ドルに減額すると通告。

11月 ホー・チ・ミンとレ・ズアン、ファム・フンが世界共産党・労働党会議に出席のためモスクワを訪問。会議ではベトナムが統一のために武装闘争を行なうことが、事実上黙認される。

11月 ヴィエンチャン協定。ポンサリー、フアパン県の行政権が王国政府に返還される。

57年末 ジェム政権、国軍を動員したベトコン(越共)掃討作戦。中部党委員会(第5戦区)はハノイに武力闘争解禁と北からの支援を要請。

57年末 北ベトナムで土地改革が基本的に完了。地主の所有する土地80万ヘクタールが接収され、210万戸に分配される。食料生産量は400万トンに達し、戦前水準を大幅に上回る。(HoangVanChiらは、第二次土地改革で5万人が処刑されたと主張する)

 

1958年

1月 北ベトナムは社会主義改造3ヵ年計画を開始。ふたたび農村の集団化に乗り出す。3年後には耕地の69%、農家の85%が農協に組織される。

農業集団化の推移(全戸数に対する比率)

 

1958

1960

1965

独立農家の比率

95%

14%

10%

下級合作社に加入した戸数の比率

5%

73%

25%

上級合作社に加入した戸数の比率

0%

12%

65%

1月 労働党が第13回中央委員会総会を開催。ホー・チ・ミンは「南北それぞれの革命は等しく重要である」と述べ、南における革命闘争の重要性を強調。

1.04 大規模な農民ゲリラがサイゴン北部の農場を襲撃。(詳細不明)

1月 第五戦区のボー・チ・コン、ハノイでレ・ズアン、ホー・チミンと会談。武力闘争の早期開始を訴える。レ・ズアンは南部委員会の合意に基づき中央委員会の開催を求めたが、党内の反対勢力のために遅れていると述べたという。会談を終えたボー・チ・コンは、第五戦区に対し「急いで武装勢力の編制を進める」よう指示。

第五戦区: ベトミンの戦闘区域区分のひとつ。南ベトナムの北部クアンナム、クアンガイ省は、抗仏戦争中に解放勢力の最大の拠点のひとつだった。ジュネーブ協定のベトナム分割案でも、ベトナムを4つに分割して両省を保持する案が出された(福田による)。

1月 党政治局、文芸工作に関する決議を採択。文芸界に整風工作と下放活動を突きつける。

3.07 ウォルター・ロバートソン極東問題担当国務次官補、国務長官に対しMAAG要員数を増やすことをもとめる。要員数はジュネーブ協定により34人を上限とすることが定められていた。このため英国、カナダ、フランス、インドが改定に同意するよう工作することをもとめる。

3.07 北ベトナムのフアン・バンドン首相は、ゴ・ジン・ジェム大統領に親書を送り、軍縮と通商関係樹立を提案。

4.26 ディエム大統領は、「北ヴェトナムが南のような民主的な自由を確立するまで、いかなる議論も拒絶する」とする。

4月 インドネシアでCIAに支持された反乱が失敗に終わる。その後スカルノ大統領は急速に社会主義国との結びつきを強める。

5月 第二次反共作戦が始まる。第一次作戦に比べはるかに大規模で徹底したものとなる。ジェム政権は68,800人の労働党幹部および党員を殺害し、46万6000人を監獄に収容した。また拷問にかけられ不具になった人は68万人に及んだ。(あまりにも膨大なため、別資料による検討を要する)相次ぐ弾圧により、南部の労働党員数は最盛時の6万人から5千人に減少し、武装自衛なしには存立そのものが脅かされる事態にいたる。

6.10 補欠選挙で左派が勝利。進歩党は独立党を併せラオス人民連合を形成。プーマの中立主義に反対し、パテート・ラーオへの強硬路線を主張する若手官僚や右派軍幹部が、政治グループ「国益擁護委員会」を結成。

6月 メコンデルタで武装ゲリラの連合指令組織が形成される。この司令部の下に37の武装中隊が組織される。

7.03 党中央宣伝訓示委員会が「ヴァン」グループを査問。主要メンバーは所属組織からの除名処分を受け、ほぼ全員が地方の労働現場に長期間派遣される。

7.14 MAAG、南ベトナム政府軍内に特殊部隊を創設する方向に動く。ニャチャンに訓練学校が開かれる。

7.20 ラオスで左右の対立が激化する中で、ジュネーブ協定の実施を保証するための国際監視委員会が活動を停止。

7月 ホー・チ・ミンが中国を訪問。中国側は、南ベトナム革命は時期尚早としつつ、ベトナムに対してAK-47ライフル5万丁を提供すると約束。

8.12 「ビンスエン」の武装グループがメコン・デルタのミシュラン・タイア所有のゴム農園を襲撃。政府軍の反撃により30人が殺害される。

8.18 ラオス右派のプイ・サニコーンが首相に就任.愛国戦線閣僚を排除

11月 労働党第14回中央委員会総会。レ・ズアンが世界情勢について、グエン・ズイ・ティンが社会主義改造経済3カ年計画(1958-1960)について、チュオン・チンが土地改革について報告した。14中総の後レ・ズアンは南ベトナムに現地調査に赴く。

12.21 ディエム政権、ジュネーブ協定を廃棄すると発表。南北統一の道は絶たれる。

58年末 第5戦区(中部地区)のチャン・ルウン書記、ハノイに転出。ボー・チ・コンがルウンに代わり書記に就任。

58年末 政府の保有する兵力は、常備軍15万人、民兵6万人、警察4万5千人、地方警備隊1万人に増強する。米軍顧問は3千人を超える。

58年末 フーロイ毒殺事件が発生。サイゴンから33キロのフーロイ中央再教育キャンプで、政治犯6千人に毒入り食物が与えられ、1千人が死亡。

 

1959年

59年1月

1.13 北ベトナム労働党第15回拡大中央委員会が開かれる。ホーチミンの指名にもとづき、レ・ズアンが基調報告を行う。いったん休会し5月の続開総会で決議が採択される(「第15号決議」と表現されるが、15中総決議の意味であろう)

南部革命における目下の任務: アメリカ帝国主義とサイゴン政府の支配から脱し、平和、民主、中立的な南ベトナムを建設するとし、①ゴ・ディン・ジエム独裁を打倒、②南部に民族民主連合政権を樹立、③独立と民主に基づく国家統一を実現、④東南アジアと世界の平和の防衛に積極的に貢献する、などの道筋を明らかにする。
南部革命の性格: 南ベトナム革命の方法は革命的暴力を使うことであるが、政治闘争から発展して政治闘争と武装闘争を結合したものとなり、さらには南ベトナム革命が長期の武装闘争に発展する可能性も予期すべきである。
15中総決議の分析と評価は、きわめて複雑であり、現在もなお議論の対象である。決議そのものは、一言で言えば、武装闘争の開始を望む南部と平和的政治闘争の継続を望む北部との妥協の産物であろう。古田によれば、南ベトナムの人民を主体として、政治的に組織された大衆を主力とし武装勢力がこれを補完する形で総蜂起を行い、ディエム政権を崩壊に追い込むという道筋。アメリカン本格的介入を避けるための方策とされる。

1.27 ホー・チ・ミン、ソ連共産党第21回大会に出席。7月にもホー・チ・ミンはモスクワを訪問。フルシチョフは「農業の強制的集団化は、南ベトナムにおけるホー・チ・ミンの政治的イメージを傷つけ、国の統一を不可能にする」と警告。

1月 労働党政治局、15中総決議を受け党軍事委員会と党中央統一委員会に対して南ベトナム革命支援策を立案するよう指示。

59年2月

2月 党軍事委員会が拡大会議を開催。①南ベトナムに根拠地を建設し増強する、②南ベトナム革命武装勢力を創設する。③ベトナム人民軍を近代化する仕事を一段と早める。④当面、北に集結した幹部や兵士が、南に帰るための準備・訓練を行なう、などを決定する。

2月 15中総の決議の概要を受取った南部委員会書記のグエン・バン・リンは、本部をプノンペンからタイニンの根拠地に移すとともに党中央の指導方針に沿って革命運動を行うよう指示。

2月 北ベトナムと中国が経済技術援助協定に調印する。

59年3月

3月 ホーチミン、ベトナム全土統一のための人民戦争を宣言。労働党政治局は軍事闘争への全面的転換を指示。レ・ズアン第一書記を責任者とする労働党南部中央局の指導の下に南ベトナム解放民族戦線の結成が決定される。

3月 レ・ズアン、党軍事委員会で演説。「我々は戦争をして統一するつもりはないが、アメリカとその手先が戦争を仕かけてくるなら受けて立つ。敵が戦争を起せば、我々が国を統一するチャンスとなる」と述べる。

3月 ジェム政権は南ベトナムを戦争状態下に置くと宣言。

4.04 アイゼンハワー大統領、南ベトナムを独立国家として維持する意向を初めて公式に表明。

4月 第16回ベトナム労働党中央会議、合作社の高級化を決定。ほぼ全ての互助祖が初級合作社になり、さらに初級合作社の多くが高級合作社に移行する。

高級合作社は初級合作社よりさらに集団化をすすめたもので、土地の共有化が行われ、一合作社の管轄範囲も集落から自然村へと広がった。各農民は合作社の下部組織である生産隊に所属した。各農民は作業ごとの労働点数に応じて報酬を受ける。

4月?(59年春) 58年からの農業集団化が困難に直面。数千の裕福な農民が開墾地に追いやられ、地主は例外なく処刑された。さらに数千の党員が不当に党から追放され、ある場合には拷問の末、処刑された。(ボー・グエン・ザップが、ハンガリーからの代表団に語ったとされる言葉)

4月?(59年春) 政治局は南の同志から絶えず、全面的軍事行動をもとめられている。条件はまだ整っていないが、南を長くは待たせられないだろう(ファン・バンドンが、ハンガリーからの代表団に語ったとされる言葉)

59年5月

5.06 ディエム政府、10/59法を公布する。サイゴン、バンメトート、フエの3ヶ所に特別軍事法廷を設置し、共産主義活動にかかわったものに対して死刑もしくは無期懲役の判決を下すと定められる。

5.10 続開中央委員会、人民の政治闘争の高揚と蜂起を補完するという限定つきで武装闘争を承認。ただし総蜂起の機はまだ熟していないとの判断。さらに南の解放は「南の人民の任務である」とし、北からの支援の範囲を限定する。実際には、南はこの決定を武装闘争の承認と読み、本格的準備に着手する。

5.13 15中総決議を受け、レ・ズアン第一書記が南ベトナムに派遣され、労働党南部中央局(公表名は南ベトナム人民革命党)の下に南領内の反政府勢力を糾合。(上記との異同は不明)

5.13 日本、南ベトナムとの140億円の賠償協定に調印。占領時代に大きな被害を与えた北ベトナムに対しては無視。

5.15 ラオス政府、パテトラオ指導者を捕らえ、自宅拘禁とする。パテトラオはラオス北部サムヌア省で武装行動を再開。北ベトナムの援助を受け影響力を拡大。

5.19 ベトナム人民軍、ラオス・カンボジア領内を迂回する南への回廊建設を決定。「559道路」と呼ばれる(5月59年を表す)。

ホーチミン・ルート: おそらく和製英語。ホーチミン・トレイルと表現するのが一般的。抗仏戦争の時代に開かれ、ベトナム戦争の時代に再開された。南北を結ぶ5本の幹線と21本の横断道路からなる。さらに68年8月に始まり、74年2月に完成した送油管もある。

5.19 南部出身者主体の義勇兵組織「559偵察部隊」が発足。チョンソン山脈に沿って北から南へ移動する補給回廊を開拓。南部への軍事物資輸送の任を負う。

559偵察部隊: 「偵察」というのは偽装名で、部隊といっても旅団クラスの大規模な組織。司令官にはボー・バム上佐があたる。部隊内に先遣部隊として第301大隊が組織され、「ホーチミン・ルート」の建設を担う。これは南から集結した幹部戦士440人を集めた精鋭部隊。またベトナム国内ルートとは別にラオス経由の輸送ルート建設もすすめられた。これには第70大隊があたった。さらに支援組織として「青年突撃隊」も創設され、道路建設にあたった。

5.25 米太平洋軍司令官(CINCPAC)、ベトナムで教育・訓練作戦を継続・強化すると発表。このため連隊規模の歩兵・砲兵・機甲部隊、大隊規模の海兵隊を派遣することを明らかにする。

5月 南部労働党が、広範な自衛武装運動を開始。メコンデルタ地帯の800の村落で蜂起し、ディエム政権の末端統治機構を破壊する。南ベトナム政府はこのうち100ヶ所を残して撤収。労働党は「暴力以外の何者をも基盤に持たない南ベトナム政府の組織全体は瓦解した」と評価する。

59年7月

7.07 国防総省、対ゲリラ戦争遂行のため、MAAGに陸軍特殊部隊チームを派遣することを考慮中であることを明らかにする。

7.08 武装ゲリラがサイゴン北方30キロのビエンホア基地に潜入。小火器と手製の爆弾で襲撃。食堂で映画を見ていた第7歩兵顧問分遣隊のデール・ビュイス少佐とチェスター・オブナード曹長が殺され、ベトナム兵一人が負傷する。ディエムは共産主義者の取り締まり強化を命令。

7月 南部出身の元ベトミン兵士4千人が北ベトナムから潜入。(生活習慣・気質すべてを異にする南部の兵士にとって北部の生活は耐えがたいものであり、彼らは一刻も早い南ベトナムの解放を願ったという)

59年8月

8.10 南ベトナム軍将校がマラヤのジョホールに出向。イギリスの「ジャングル戦争学校」で研修。

8.20 301大隊、トアティエン省西部のパリンに第9ステーション(物資集積所)を設置。第5戦区の同志に500kgの物資を引き渡す。ホーチミン・ルートを通じた物資輸送の第一号。

ホーチミン・ルート: アメリカではホーチミン・トレイルと呼ばれる。北ベトナムからラオスに入り、カムアン省東端、サヴァンナケット、サラヴァン、セコン、アタプー省を通る。全長千キロにおよぶルートは無数の小径から成り、あちこちで袋小路になっている。空からの攻撃はタイのウタパオ米軍基地所属の攻撃機、米太平洋軍のB52爆撃機により行われた。

8.28 第5戦区の管轄内でも、クアンガイ省チャボン県で農民の自然発生的蜂起。12の郷で敵の掃討作戦を撃退し、権力を掌握。掃討にあたったサイゴン軍は、闘わず撤退する。当初、第五戦区の労働党組織は蜂起の動きをまったく察知していなかった。その後、地下の労働党県委員会が指導に入る。

人民が先導: 南部の例からも第5戦区の例からも分るように、現場の民衆の運動が中央の決議や決定に常に先行している。ベトナムの場合、北が南を侵略したのではなく、南の革命が北を引き摺り込んでいったのである。(吉崎氏)

8.30 南ベトナムで第2回全国選挙が行われる。投票率は90%に達する。ニューが組繊した与党の国家革命運動が78議席、無所属が36、社会党が4、社会民主党が3、ヴェトナム回復党が2議席を獲得する。(一説では与党、「人格主義労働者革命党」が議席を独占)

8月 ホー・チ・ミンは北京で周恩来と会談。南ベトナムに解放戦線を樹立し、軍事的手段を使って国を統一する意図を明らかにする。周恩来は、年末までに5億ドル相当の武器弾薬装備などの援助を供与すると約束する。

59年9月

9月 ベトミン・ゲリラが政府軍を待ち伏せ攻撃。兵士12人を殺害。

9月 北ベトナムとラオスのパテト・ラオとの間に軍事顧問団を派遣する合意が成立。グループ959が設置されてパテト・ラオ軍と共に作戦行動に従事する。

10月 ゴ・ディン・ジェム、布告10・59号を発令。南部から北部に移住した集結者とその家族に対する迫害を立法化する。年末までに80万人が投獄され、そのうちの9万人が死亡、19万人が身体障害者となる。旧ベトミンばかりでなく宗教団体、少数民族も弾圧の対象となる。

10月 ファム・バン・ドンが北京を訪問。周恩来に軍事援助と中国人軍事専門家の派遣を要請する。

11.10 中国人民解放軍はベトナム支援研究室を設置。現地調査団を派遣する。調査団は2ヵ月にわたり各地を調査、北ベトナムがアメリカとの戦争を意図しているとの印象を持ったという。

11月 南部委員会の拡大会議。グエン・バンリンは「武装闘争を進めれば民衆は我が方に留まる。しかし武装宣伝隊の活動だけでは、敵に打ち勝つには不足である」とし、「武装活動を一段と高める」ことを提起。

 

 

1960年

60年1月

1.17 ベンチェ(BenTre)省のモカイなど三つの県で民衆蜂起(ドンコイ)が開始される。南部抵抗の大きな発火点となる。民衆は政府軍から銃を奪い装備しゲリラ戦を展開した。ベンチェはメコンデルタ入り口の街ミトーからフェリーで30分弱のところにあります。メコン川の中州がそのまま一つの省になっているところです)

1.24 ベンチェの民衆蜂起、5つの県、47郷に波及。ジェム政権の手先となって人民を弾圧している者達を処刑し、サイゴン軍の屯所を囲み、敵の末端における統治機構を壊して多くの村々を解放。各地での蜂起により、ディエム政権の農村支配は一気に弱体化する。(“ベトコン”あるいは“VC”は米兵がつけた蔑称。支持派の住民はジャイフォンと呼んだ。これは“解放さん”という意味)

1.26 南部委員会の総力を挙げて、タイニン省ツアハイのサイゴン軍第21師団の司令部を攻撃。一時占領に成功する。民衆蜂起と武装蜂起が並存する新しい闘争方式と評価される。

1月 ロンアン省でベトミンゲリラが活動を開始。秘密警察の手先と村長らを次々に暗殺。26人が殺害され、残りは村を後にする。

1月 北ベトナム憲法が制定される。大統領ホー・チ・ミン、副大統領トン・ドクタン、首相ファン・バンドン。

1月?(60年初め) レ・ズアン政治局員が率いる党代表団がソ連を訪問。第3回党大会に提出する政治報告草案について意見交換を行なう。ロシア側代表クーシネンは、「15中総決議の主張には同意できない。北ベトナムを強化して初めて統一は可能になる。武装蜂起は問題にならない」と述べる。

1月?(60年初め) レ・ズアン政治局員が率いる党代表団が中国を訪問。中国側は南ベトナム革命の方針に同意するが、武装活動は中隊規模の水準に止めるべきと釘を刺す。

2.15 ラオスでのCIA秘密作戦が暴露され批判を浴びる。太平洋軍司令部、特殊部隊をベトナム現地に投入し民間警備隊を育成することはMAAGのシーリングを犯すことになるとし、反対の意向を明らかにする。

2.19 南ベトナム駐在大使エルブリッジ・ダブローは、反ゲリラ戦争への備えが緊急に必要と主張。特殊部隊顧問が駐在武官として、反ゲリラ訓練に当たるよう提案。エドワード・ランズデールは、ダブロー大使の意向を踏まえ、ジョン・アーウィン国防長官に対し大使館付設の「特殊作戦事務所」(OSO)の開設を求める。

2.27 ディエム大統領、民間警備隊と政府軍の訓練のため、必要な数の特殊部隊要員の派遣を要望。

2月 南政府軍が農村地帯に配備される。多くの農民は有刺鉄線で囲まれた“agrovilles”キャンプに強制移転させられる。これはのちに「戦略村」あるいは「新生活村」と改称される。

3.11 アーウィン国防長官、太平洋軍司令部に対し「特殊部隊が今後漸減され、年内にゼロになるだろう」と通達。

3.30 統合参謀本部、MAAG政策を転換。民間警備隊ではなくベトナム正規軍の中で対ゲリラ能力を開発すべきとする。

60年4月

4月 北ベトナムで例外なし、期限なしの徴兵制が施行される。

4.30 南ベトナムの著名人らによる「進歩と自由のための18人委員会」が、ディエム大統領に嘆願書を送る。このなかでディエム政権の強権路線<Diemocracy>と、親族主義、腐敗が批判される。ディエムは反対派の逮捕と報道機関の閉鎖で応える。

5.05 米政府、ジュネーブ協定に定められたMAAG顧問の上限にはこだわらないと発表。342人のラインは放棄される。

8.09 第二空挺大隊の副司令官コン・レ大尉が、右派のソムサニト皇太子政権に対しクーデター。左右両派に開かれた中道派政権を組織。

8.15 フォウミ・ノサバン将軍は、コン・レを共産主義者と非難する。そしてブン・ウム皇太子を押し立て、サバナケットで反クーデター委員会(革命委員会)をつくる。

8.16 コン・レ、内戦回避のためプーマ首相の中道政府に政権を引き渡す。米国の圧力を受けたタイ政府は、ビエンチャンへの経済封鎖を開始。

60年9月

9.01 MAAG司令官、サミュエル・ウィリアムズ将軍からライオネルC.マクガル中将に交替。

9.16 エルドリッジ米大使、「もしジエムの地位が引き続き悪化するなら、米政府は代わりの指導者を考慮すべきである」と打電。

9.10 ハノイで労働党第三回党大会、北ベトナムが社会主義の過渡期へ入ったと宣言。南ベトナムの解放と北部における社会主義建設が謳われる。全国共通の統一戦線ではなく、南の人民による南ベトナムの解放を目指す「南ベトナム解放民族戦線」の設立を承認。レズアンがホーチミンに代わり第一書記に就任。

南の解放という課題は第一義的には「南ベトナム人民」の事業であると明示し、そのための統一戦線組織として解放戦線を結成することとなった。しかしこれはアメリカとの対抗関係によるのであって、旧コーチシナの地方主義や分離主義に譲歩するためのものではない(古田)。

9月 クメール人民革命党第2回大会。トゥー・サムットが書記長に就任する。ポル・ポトは常任中央委員、イエン・サリは中央委員に選出される。

60年11月

11.09 米大統領選。ケネディが僅差でニクソンを破る。政権交代に伴い、ジエムの後ろ盾となっていたランズデールも更迭される。

11.11 グエン・チャン・チ大佐が率いる約500名の空挺部隊兵士が、大統領官邸をはじめとする政府機関を襲撃。ディエムはかろうじて難を逃れる。

11.13 空挺部隊の反乱、政府軍の反撃に会い鎮圧される。グエン・チャン・チは米国に亡命。ゴ・ジン・ジェム大統領はこの反乱に関し、1万名以上の軍人を含む3万名(一説に5万人以上)を逮捕する。弾圧を恐れ数千人が北ベトナムに逃亡。

60年12月

12.04 ソ連、ビエンチャンのコン・レ軍に対し空からの物資供給作戦を開始。

12.09 プーマ首相、政権維持を断念。コン・レ軍事政権に権力を委譲しカンボジアへ亡命。

12.13 CIAの支持を受けたフォウミ・ノサバンのラオス王党軍は、ビエンチャンに対する攻撃を開始する。

12.16 ノサバン軍、ビエンチャンを制圧。ブン・ウム政権が成立。ノサバンが副首相兼国防相となり実権を掌握。コン・レはジャール平原方面へと撤退し、パテ-ト・ラーオ勢力と合流する。

ジャール平原: ラオ語ではチャンニン平原という。ビエンチャンの東北方、ベトナム国境から西にのびる標高900~1100mの高原地帯。ジャールはフランス語で壷の意味。炊飯器のジャーと同じ。古代の巨大な石壷が散乱していることで有名。

12.20 南ベトナム解放民族戦線結成。会場はサイゴン北方のタイニン省ビエンホア近郊のゴム農園とされる。サイゴンの人権派弁護士グエン・フー・トを議長とする。南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や自由主義者などの一般国民も多数参加。

古田によれば、すでに58年の末には、後の解放戦線中央委員会の核になる知識人グループのあいだで、非合法的政治団体を結成する動きがあった。グエン・バン・ヒューを中心とするこの動きには、労働党サイゴン市委員会の統一戦線担当者フィン・タン・ファトも加わっていた。南の党組織は中央の公式の承認を待つことなく、解放戦線結成の準備を始めていたことは間違いない。

12.23 北ベトナムソ連、経済技術援助協定に調印する。

12月 解放戦線が60年度の成果を発表。「南部の2627の村の内、1383の村で政権側統治機構が崩壊し、自治の行政府が設立された」とする。

60年末 南ベトナムのアメリカの軍事要員数はこの時点で約900人。一方、解放戦線のこの時点での兵力は、米側推計で7千人とされる。

60年末 北部での合作社化が完了。40422の合作社が誕生する。結果的に1959-60年の生産性は低下し、特に高級合作社化したところで生産性が下がった。農民たちは自留地に時間と資金をつぎ込んだ。

60年 カムタイ・シファンドンがカイソーンに代わりパテート・ラーオ軍最高司令官に就任。(シファンドンは98年にラオス首相となっている)

 

1961年以降はベトナム戦争年表