ベトナム戦争 その2

1971年 1972年 1973年 1974年 1975年

ラオスについては茶色、カンボジアについては青色で標記しています

 

1971年

71年1月

1.01 国道4号線上コンポンソム北方61キロで,輸送隊が解放軍に攻撃さる。コンポンソム港はカンボジア第二の首都(シアヌークビル)とも呼ばれ、プノンペンにつながる4号線はカンボジアの生命線となっている。

コンポンソムはプノンペンの人が休日に気合いを入れていく唯一といって良い観光地。そのため、コンポンソムとプノンペンをむすぶ国道4号線は、土日になると家族連れの暴走車があちこちで事故っている。途中(240キロ)、まともな病院はひとつもない。中途半端に事故ってしまったときのため、自決用の毒薬を持参するべきかもしれない。(このブログは名文で読ませる)

1.01 南ベトナムで訓練されたカンボジア政府軍3個大隊がコンポンソム港に空輸された。

1.03 解放戦線、昨年1年の戦果を発表。42万人の敵兵を死傷させたとする。

1.03 Prey Totung南で政府軍と解放軍が激戦。Prey Totungは国道7号線上に位置し、プノムペン北方70キロ、コンポンチャムの西方。

1.04 ニクソン、トンキン湾決議を無効とする議会決議に署名。「終わりが見えてきた」と声明。その一方で限定北爆は今後も継続すると発表。

1.04 Krek近くで南ベトナム政府軍が作戦。クレクは国道7号線上コンポンチャム東方の南ベトナム国境に近い町。

1.05 サナニコン公共事業相,プーマ首相あてに書簡。「ラオスは中立策を捨て,サイゴン,バンコック,プノムペン,ビエンチャン軍事同盟を結成すべきだ」と述べる。

1.05 愛国戦線のソットペトラシ代表は,「われわれは会談に必要な措置として、会談中のシェンクアン州全域の爆撃停止,サムネワからカンカイに至る幅10キロの中立回廊の設定を要求する。これが譲歩の限界であり,あとはプーマ首相の決断にかかっている」と語った。

1.05 メコン河をさかのぼってプノムペンに向う軍用船団がネアクルン南方で待伏せ攻撃を受ける。

ネアクルン: ネアクルンは国道1号線がメコン河と交差する地点。橋はなくフェリーで両岸が結ばれている。どうぞ狙ってくださいというポイント。ネアクルンについては、UPIの一ノ瀬泰造カメラマンのルポが迫力満点。これでは命がいくらあっても足りません。

1.06 ラオス国防省,「ボロベン高原南部の町,バンフェイサイをめぐって戦闘が行なわれ,パテトラオは死者151人をだし,政府軍は2人死亡,10人が負傷した」と発表。

1.06 ニクソン大統領,対外追加援助支出権限法に署名,カンボジアへの2億5千万ドル援助が含まれる。その内,新規援助は1億5千万ドル,この法律には「米地上戦闘部隊と軍事顧問のカンボジアへの派遣を禁ずる」との条項がつけられている。

1.07 クイニヨンの米政府軍弾薬庫爆破さる。

1.07 ウェイアンド南ベトナム派遣米軍副司令官,プノムペン訪問。

1.08 国道4号線奪回作戦に参加するため,南ベトナム政府軍2個大隊がコンポンスプーに到着。

コンポンスプー: プノンペン西方40キロ。ここから先、4号線は南のコンポンソムまでのあいだ、待ち伏せに絶好の山道となる。コンポンスプー州はプノンペンを包むように広がる州で、北西35キロには旧都ウドンもある。

1.08 王国連合政府,米国・タイ・南ベトナムがカンボジアの大陸棚に境界線をひき,鉱物資源石油を略奪していると非難する。

1.11 レアード国防長官、南ベトナムを訪問。5月1日以降もベトナムに地上戦闘部隊を置くと発表。

1.11 南ベトナム政府軍2千人が国道1号線作戦に投入される。この時点でカンボジアに駐留する南ベトナム軍は1万4千人に達する。

1.13 米空軍の支援を受けた南ベトナム政府軍5千300人とカンボジア軍8千人が、国道4号線の奪回作戦を開始。作戦は25日まで続く。

1.13 キ南ベトナム副大統領,プノムペン訪問。

1.14 パリ会談で南ベトナムのラム代表は,北ベトナム捕虜40人の釈放を発表。さらに捕虜813人を釈放の用意ありと提案。

1.14 米国防総省スポークスマンは,ベトナムの米軍が南ベトナム軍をカンボジアに輸送し得ることを明らかにした。

1.14 4号線を進む南ベトナム政府軍、Stung Chay村で解放勢力と激戦。8機のB52が4号線沿いの2ヶ所を爆撃。

1.17 政府軍6,000人,タイニン省北部およびカンボジア領ミモト一帯で作戦開始。

1.17 ガソリン輸送船団がプノムペン到着。

1.17 南ベトナム政府軍,「タイニン省に接するカンボジア領で作戦を開始」と発表。コンポンチャム省メモト一帯(国道7号線をクレクから東に40キロの国境地帯)およびスベイリエン(国道1号線のオウムのクチバシ地区)が作戦地域となる。

1.18 米軍ヘリ部隊、カンボジア領内ホーチミン・ルートの捕虜収容所を急襲。捕虜救出は失敗。

1.18 シアヌーク民族統一戦線議長,同戦線中央委政治局,王国民族連合政府の連名アピールが北京で発表。アメリカの新たな侵略を糾弾する。

1.18 米軍、ラオス・カンボジアの解放勢力に対し戦闘爆撃機による連続爆撃を開始する。サイゴン米軍司令部,「カンボジアでの作戦支援のため空から補給,これにはシャム湾の米第7鑑隊のヘリ空母も参加」と発表。

1.19 サイゴンの公式筋,「米軍がラオスにロケット発射装置を備えた武装ヘリコプターを出動させている」と言明。公式筋がラオス支援の事実を認めたのははじめて。

1.20 レアード米国防長官がサイゴンで記者会見。「5月までに米軍を28万人に削減。撤退促進のためラオス,カンボジアで空軍力を行使する。エーブラムズ司令官の権限を制約することはしない」と言明。

1.20 米海,空軍機がタイとトンキン湾から発進しラオスを爆撃。1月の最初の2週間で共産側のトラック1千台以上を破壊する。「過去5年のラオス爆撃の中で最大の戦果」とされる。

1.20 ロンノル首相がサイゴンを訪問。南ベトナム政府とのあいだに5つの協定を調印する。

1.20 レアード米国防長官,「カンボジアへの地上戦闘部隊派遣を禁止した議会決議は守るが,軍事援助は行なう。また空,海軍力の行使は続ける」と語る。

1.21 パテトラオ特使ボンサク殿下がプーマ首相を官邸に訪問。予備交渉を一時打切ってサムネワに帰ると通告する。プーマ首相はボンサク特使にスファヌボン議長あての親書を託し,カンカイに代る新たな会談場所として王都ルアンプラバンを提案する。ボンサク殿下はソ連機でビエンチャンを出発,ハノイ経由でサムネワへ向かう。

1.21 ロンノル政権,北ベトナムと解放戦線の捕虜と、行方不明になっている外人記者との交換を提案。

1.22 解放勢力がポチェントン空港(現在のプノンペン国際空港)を攻撃。空港施設と軍用機10機を破壊。チュルイチャンバ海軍基地を砲撃。

チュルイチャンバ: チュルイチャンバールは、プノンペン市東を流れるメコン河の港。トンレサップ河にかかるチュルイチャンバール橋は、63年に日本企業が建設したことから、日本橋とも呼ばれる。

1.23 シェムリエプの政府軍3個大隊,国道4号線作戦中の第7旅団など,プノムペン防衛に呼戻される。

1.23 プノムペン市内で南ベトナム大使公邸や警察移民局が爆破さる。

1.23 シアヌーク統一戦線議長,ペン・ヌート団結政府首相はキュー・サムファン国防相に電報を送り民族解放武装勢力のプノムペン空港でおさめた勝利を祝った。

1.23 解放軍,プノムペン南方30キロのSaangを攻撃。サアンはプノンペン南方、国道21号線沿いの田園地帯。

1.25 ビエンチャン南東336キロのムオンファラン、パテトラオの猛攻撃を受ける。政府軍はムオンファランを放棄し撤退。

1.25 米国防総省スポークスマン言明「クーパー・チャーチ修正条項は,カンボジア兵訓練のために米軍要員を派遣することを禁じたものとは解釈していない」

1.25 政府軍20個大隊がプノムペン北西方および西方で反撃掃討作戦を開始。

1.25 プノムペン国際空港再開。

1.25 チュー大統領,ネアクルンの南ベトナム軍を視察。ネアクルンはバナム市街の南方にあった基地。

ローマ字でNeak Loeangと書かれる地域は、プノンペンの東部にあり、ベトナム戦争時代にはプノンペンを外敵から守る巨大な軍事基地としてしばしば報道されたが、すべてネアクルン基地と呼ばれていた。これもそのまま発音すると現地の人には何がなんだかわからない。現地語では[næklu:n]という発音であり、ナックルーンまたはニャックルーンという風に表記されるべきものである。(菅原秀氏)

1.26 解放戦線司令部,26日から29日まで4日間のテト休戦を指令。

1.26 米国防総省カンボジアに対し航空機を供与するとともに軍事援助チームを送り込む。

1.26 シアヌーク・民族統一戦線議長がハノイを訪問。トン・ドク・タン主席の共同声明が発表される。

1.27 米海軍から8隻の河川哨戒艇が引渡される。(「地獄の黙示録」のアレですね)

1.28 プノムペンの公式筋,60人の米軍要員からなる兵器供与チームが数週間内にカンボジアに派遣されると言明。

1.30 米軍9千人と政府軍2万人,デューイ渓谷2号作戦を開始。ケサンに基地を再建する。

1.30 プーマ首相、「ボンサク提案は,共産側の総攻撃の準備をおおいかくすもので,ジャール平原爆撃停止要求は受入れられない」と語る。

 


ラオス侵攻作戦(ラムソン719)の顛末

1.29 ロジャーズ米国務長官が記者会見。ラオス南部における北側の活発な活動に対し、「米軍を守るため、最大限までラオス,カンボジアで空軍力を行使する」と発言する。

1.30 第7艦隊の空母3隻がトンキン湾上に集結。

1.30 B52を含む400機の米軍機が南部ラオスのベトナム国境に接する地帯を猛爆。

1.30 南ベトナム軍地上部隊1万7千に米支援戦力を加えた2万9千人が、ラオス領内に侵攻(ラムソン719作戦)。これにあわせ、B52爆撃機400機がラオスとベトナムの国境地帯を爆撃。

ラムソン719作戦: 国道9号線沿いにラオス領内50qまで進入し、ホーチミン・ルートを切断しようとする作戦。地上戦闘は南政府軍が担当し、輸送、航空支援をアメリカ軍が引き受ける。南軍は機甲機動旅団、第1歩兵師団、第1空挺師団、第2海兵師団という最強の部隊で構成される。アメリカ軍は第101空挺師団の航空部隊に、ヘリコプター725 機が加わる。

71年2月 

2.01 米空軍,ホー・チ・ミンルートへの連続150回目の爆撃を行なった。これにはB52戦略爆撃機30機,戦術戦闘爆撃機など200機が参加した。

2.01 米軍,ランベイに砲撃支援基地を設置。

2.01 愛国戦線中央委、米国と南ベトナム政府軍のラオス侵略を非難する声明を発表。ポンピチト書記長は共同議長国である英国とソ連に緊急メッセージを送る。スファヌボン議長はプーマ首相に緊急メッセージを送り,米国の戦争拡大を阻止するよう要請する。

2.01 プーマ首相、全外国軍の撤退を要求する声明を発表。

2.02 革命政府外務省が声明を発表。「米国は南部ラオスに数万のサイゴンかいらい軍を集結させ,航空母艦3隻を含む第7艦隊を繰出し、のりこんでいる」とアメリカを非難する。

2.04 米軍4万5千が国道9号線を確保。南ベトナム機甲・機動旅団が米航空戦力に防衛されながら国道9号線を西に進み、国境を突破する。右翼(北方)のチュキ、ラトゥオンには降下部隊とレンジャー部隊が進出。左翼(南方)のフコボク山、フコトム山には第一歩兵師団がヘリで進出。

2.04 サイゴンの米軍司令部,ラオス作戦に関する6日間の報道管制を解除。米=南ベトナム軍がベトナム北部で地上作戦を展開中。また、米砲兵隊が南ベトナム領からラオスへ向け砲撃を開始したと発表する。

2.04 ラオス人民解放軍カムタイ・シファンドン最高司令官は全国の武装勢力に対し,侵入した敵をせん滅するよう命令。

2.08 チュー大統領,政府軍に対しラオス進攻を命令したと発表。

2.08 米国務省,ラオス作戦について声明。「この作戦は北側の侵略を阻止するためのもので,戦争の拡大は意図していない。作戦地域は北緯16度と17度線の間のラオス領内に限られる」とする。

2.08 フコボク山で、着陸態勢に入ったヘリを解放勢力が攻撃。ヘリ10機が撃墜される。10日にはチャキでもヘリ23機が撃墜される。1週間で米軍ヘリ700機中88機が失われる。これにより左翼の進出は大幅に遅れる。(石山による)

2.08 地上軍、ラオパオからラオス国内に入り、チュポン占領を目指す。右翼を米軍特殊部隊が、左翼は第101空挺師団が空中からカバーする。

2.08 米政府当局、ラオス侵攻は「米軍撤退を可能にし、残留米兵の生命を守るための限定的作戦」と述べる。

2.08 ウタント国連事務総長、「南ベトナム軍のラオス侵略」を非難する声明を発表。(南ベトナムはラオス侵入を認めていた)

2.10 革命政府が声明を発表。「インドシナ情勢は危険となり,世界の平和は脅威にさらされている。我々はラオス愛国戦線の声明を全面的に支持し、インドシナ各国人民がみずからの運命を決定することを断固もとめる」

2.11 南ベトナム地上軍、チュポン西方30キロのバンドンで北ベトナム軍の激しい抵抗を受け停滞。バンドンからカキ橋方面に後退し、塹壕を掘って陣地戦に移る。(米軍内呼称はブラウン基地)

北ベトナム軍の戦力: 当時ラオス領内には2万2千の北ベトナム軍が展開していたとされる。情報を得て兵力は大幅に拡充。戦闘開始時には4〜5万名を数え、機甲2個連隊(戦車 180台)を有する。またアメリカ軍機に対抗するため、20個大隊を超える対空部隊を備え、対空砲の数は1,000基を上回っていた。指揮にはバン・ティエン・ズン人民軍参謀総長が直接当たる。

2.13 北ベトナム軍、ラトゥオンのレンジャー部隊と降下部隊に猛攻。降下部隊は1時間にわたる戦闘の後降伏する(小隊規模?)。

2.15 北ベトナム軍は戦車数十台を使用し反撃。

2.17 ニクソン米大統領,「ラオス作戦は中国への脅威ではない」と言明。

2.19 ラオス愛国戦線、米=南ベトナム軍のラオス侵略に対し、連隊規模の大反撃を開始したと発表。25日には南ベトナム政府軍の前進基地チュポンに猛攻を加える。

2.19 ケサン西北26キロ(国境から10キロ)の500高地を守る南ベトナム政府軍第39レインジャー大隊、北ベトナム軍によりせん滅される。

2.23 米軍機、数十機規模で北ベトナムのミサイル陣地を爆撃。ニクソン米大統領、インドシナでの米空軍力使用は無制限と言明。

2.23 レアード米国防長官,「今後10日間の間にラオス,カンボジアで北側の激しい反撃があるだろう」と語る。

2.23 ド・カオ・チ政府軍第V軍区司令官(カンボジア作戦司令官)は乗機が撃墜されたため死亡。

2.23 ケサン戦場解放軍指揮部がコミュニケを発表。「2月19日までにケサンで米軍とサイゴン軍1,500人をせん滅し,敵機47機を撃墜破し,軍用車50台あまりを撃破した」

2.25 ラトゥオン西方の456高地を、戦車を伴う北ベトナム部隊が急襲。降下部隊の旅団司令部が占領され、旅団長をふくむ120人が捕虜となる。(一説では「ランベイ北西の31高地」とある)

2.25 解放勢力、国境から24キロの地点にある高地(政府軍空挺部隊陣地)を占領。

2.25 ソ連政府,米国のラオス介入を非難する声明を発表。

2.26 バンドンから30台の戦車を伴う南ベトナム降下兵部隊が進出。456高地の奪回を目指すが、解放勢力の砲火を受け全滅する。戦車17台は破壊され、13台は無傷で北ベトナム軍の手に落ちる。

2.26 南ベトナム政府軍,ラオバオ峠北西16キロの第31高地で壊滅的打撃を受ける。

2.27 フコボク山から進出しようとした第一歩兵師団主力は、1週間にわたり解放勢力と激戦を展開。

71年3月

3.04 解放勢力の攻撃が一段落。南ベトナム地上軍は、左翼の第一歩兵師団主力が殲滅されるなど重大な損害をける。

3.06 米軍が1万名を増派。ヘリに搭載したTOW(ATM)により北ベトナム戦車20台を破壊し、北ベトナム軍の進攻を食い止める。

3.06 南ベトナム政府軍、ヘリボーン作戦により、国道9号線南側にリズ、ロロ、ソフィアの三つの高地を確保。飛び石伝いにチュポン進出を目指す。最も西側のタバン高地(チュポン南西3キロ)では強行着陸しようとしたヘリ16機が撃墜され、確保を断念。ちなみにリズはエリザベス・テーラー、ロロはジーナ・ロロブリジータ、ソフィアはソフィア・ローレンの意味。

3.07 南ベトナム政府、ラオス領のチュポンを確保したと発表。実際には確保することなく終わる。

3.09 ラオス国防省筋、南ベトナム政府軍のラオス進攻作戦に関連して、ラオス空軍が米空軍と共同作戦をとっていることを明らかにする。

3.10 北ベトナム軍、反撃を強化。南ベトナム政府軍の戦線の一部が崩壊し始める。

3.12 最西方のソフィア高地が包囲され降伏。救援ヘリ10機が撃墜され、多くの兵士が捕虜となる。

3.16 北ベトナム軍、約1万名の新戦力を投入。出血を覚悟でロロ高地に猛攻を加える。救出ヘリ28機が撃墜される。

3.17 南ベトナム政府軍はリズ高地撤退を決定。ヘリによる脱出を開始する。パイロットはヘリのそりにグリスを塗って、兵士がすがりつくのを防いだという。

3.18 チュポン東方22キロのバンドン(ブラウン基地)も北ベトナム軍の攻撃にさらされる。パテト・ラオによれば、「インドシナの解放勢力」が、ラオスに侵略した南ベトナム政府軍に対し猛砲撃。

3.20 南ベトナム軍、バンドンを放棄し後退。大型の兵器のほとんどは搬出できず、兵士の一部は戦場に置き去りにされる。北ベトナムとラオス愛国戦線、ラオス侵攻の南ベトナム政府軍が陣地を棄て敗走中であると発表。

3.22 カキ橋東方のフォイサインに集結した南ベトナム軍を、北ベトナム軍が追撃。南ベトナム軍は壊滅する。

3.22午後4時 北ベトナム軍、残された最後の南ベトナム陣地となった550高地に攻撃を集中。夜8時に制圧に成功。

3.22 ニクソン米大統領、「ラオス作戦は勝利し、戦争のベトナム化は成功した」と発表。世論調査でニクソン支持率は50%に低下。ベトナム戦略については支持率が34%に低下する。半数が「ベトナム戦争は道徳的に誤っている」と答える。

3.25 南ベトナム政府軍、部隊がラオスからの撤退を完了したと発表。北ベトナムは多大の犠牲を払い、ホーチミンルートの確保に成功。(ここまでの記述は主として石山に拠る)

ラムソン作戦の決算: 南ベトナム軍はこの作戦で9千人の死傷者を出し壊滅。装甲車の3分の2以上が破壊された。また北ベトナム軍の防空能力の向上により、米軍ヘリ100機以上が撃墜され、600機の航空機が使用不能となる。北ベトナム軍も爆撃により推定2万人の犠牲者を出す。(石山による)
南ベトナム軍の発表では「共産側1万3000人以上を殺し、我が方死亡1,146,負傷4,235,行方不明245」。解放勢力の発表では「1万5400人(うちアメリカ人200人)を殺した」とする。APは「南ベトナム軍の死亡が3,800に達し、投入兵力の45%が戦闘不能に陥った」と報道する。

3.25 愛国戦線中央委,9号道路の全将兵と人民に勝利を祝うメッセージを送った。

 


71年2月(再)

2.01 解放戦線,ダナン米空軍基地を砲撃。

2.03 南ベトナム政府軍がケサンに空輸さる。

2.03 ラオス愛国戦線、ラオス北部で一斉攻撃。ジャール平原の端にあるムオンスイ基地とその他5つの拠点,4っの陣地(ルアンプラバンから10キロ以内のところ)を占領した。

2.04 タイが国境を閉鎖。ラオスのムオンスイが共産軍に占領されたためとされる。タイ軍当局は、北部のチュンライから東部のウボルまでの国境地帯に特殊部隊が配置されたと発表。

2.04 サムトン東北14キロのムアンポトの政府軍前線基地,パテトラオに攻略さる。

2.04 南ベトナム軍とカンボジア政府軍が、「釣り針」地区と「オウムのくちばし」地区で掃討作戦を開始。

2.04 ド・カオ・チ中将指揮のもとに南ベトナム政府軍10個大隊,カンボジア政府軍3個大隊が参加。新規投入された南ベトナム軍2千500人を加えて、コンポンチャム州の「999ゴム園」地帯で作戦開始,

2.04 コンポンチャム北方30キロで南ベトナム政府軍が解放軍と激戦。死者7人,負傷者28人の損害。コンポンチャムはプノンペンの北東120キロ、国道7号線がメコン河に交差する地点に位置する、カンボジア第三の都市(といっても人口6万人)。

2.05 政府軍,ムオンファランを奪回。

2.05 国家非常事態宣言6カ月延長。

2.06 エドワード・ケネディ米上院議員,ラオス難民救済のためのAID(米国国際開発局)の約半分が,CIA(米中央情報局)のラオスでの活動に流用されていると告発する。

告発の要旨: CIAは67年以来この資金をメオ族などの特殊部隊のために使っている。これは難民救済に名を借りた最も悪質なギマン行為である。これはラオスの中立を保証したジュネーブ協定の明白な侵犯である。ハンナAID長官もこの事実を確認した。

2.06 コンポンチャム東南東10キロで南ベトナム政府軍と解放軍が衝突。南ベトナム軍は死者10人,負傷者37人を出す。

2.07 政府軍特殊部隊、1個中隊100人を残してサムトン基地から撤退。

2.08 プーマ首相,南ベトナム政府軍が進入している事実を確認。「責任はラオスの中立と領土を侵してきた北ベトナムにある。しかし他の国の軍隊がわが国に進入することは正当化出来ない。全外国軍隊のラオスからの撤退を要求する。また関係大国がジュネーブ協定の責任を果すよう要請する」

2.08 ロン・ノル首相が病気で倒れる。

2.09 ロンチェン基地北方と,北東方の2地点で政府軍と解放勢力が衝突。メオ族避難民センター,サムトン飛行場の北東約10キロのプーナサイで戦闘が展開される。

2.09 ルアンプラバン=ビエンチャン国道から25キロ〜30キロの政府軍基地シエンデト,ムジョンチムが、パテトラオ軍の手に落ちる。

2.09 南ベトナム政府軍,国道7号線の国境地帯スヌールで解放軍と激戦,死者10人,負傷者28人の損害。

2.09 南ベトナム政府軍4個大隊と軽騎兵連隊が,国道1号線の北方で作戦。

2.09 シアヌーク民族統一戦線議長,ラオス辺境某地でスファヌボン議長と会談,11日共同声明発表。

2.10 プーマ首相,シスク国防相,バンパオ将軍,ゴッドレー大使がトップ会談。ロンチェン基地の防衛について協議。

2.10 政府軍は,国道7号線と17号線が交差する戦略拠点サラプクンに増援部隊を急派。

2.11 英国政府,米,南ベトナム政府軍のラオス進攻を支持。愛国戦線中央委はこれに抗議する声明を発表。

2.12 ラオス政府,全土に緊急事態宣言発令。治安維持が警察の手から軍に移る。プーマ首相は「ルアンプラバン,サムトン,ロンチェンなどの情勢が緊迫したためのもの」と説明。

2.12 プーマ首相、「ラオスだけの個別和平は非常に難しくなった。南ベトナム政府軍がホー・ルートを切断すれば,中国はパテトラオの要求に応じラオスに義勇軍を送るだろう」と警告。また「ラオス王国軍は南ラオスで絶対に南ベトナム軍と合同作戦をしていない」とするが、「タイの義勇兵」の活動については否定せず。

2.13 パテトラオ軍,CIAの秘密基地ロンチェンに対し2日間にわたる大規模な地上攻撃。基地の防衛網に突入し,大損害を与える。

2.13 ロンノル首相が治療のためホノルルへ出国。ロンノルはラジオ声明で「政治軍事の責任をシリク・マタク中将(副首相)に委任」すると発表。

2.13 革命政府が,ベトナム南部人民解放武装勢力統一デー10周年祝賀集会を催す。ファト首相とグエン・チ・ディン副司令官が演説。(解放戦線はラムソン作戦には関与していなかったのかもしれません)

2.14 シスーク国防相、「政府軍は第1,3,5軍管区から5個大隊の増援軍を派遣し,ロンチェン基地を死守する」と言明。

2.15 チュー大統領ブンタウ基地で演説,「1.共産主義者と連合しない。2.ベトコンに領土を割譲しない。3.中立化に反対。4.ベトコンの南ベトナム領内での活動を禁止する」と言明。

2月中旬 米軍はトンキン湾を常時巡航している第7艦隊の艦船を14隻から17隻に増強。沖縄からきた海兵隊1,500人を上陸待機させ、北ベトナムのクアンビン,ハチン,ゲアン3省の沿岸に接近する。3月初め、艦隊は引き揚げる。

2.16 プルサト州知事、暗殺される。

2.17 UPI、タイの志願兵1,600人がロンチェン基地に空輸されたと報道。

2.17 米・カンボジア援助協議,米国は緊急輸入資金として1千万ドルを供与。

2.18 コンツム省とラオス・カンボジァ国境地帯で政府軍新作戦。

2.18 緊急事態宣言がさらに強化される。ビエンチャン市内ではすべてのバー,ダンスホール,レストラン,ナイトクラブなどが午前一時までの営業となり、メコン川上流の航行は夜間ストップ。午後6時以後は,ビエンチャン空港,放送局,発電所,水道局,刑務所,軍関係施設への一般人立入を禁止。

2.19 政府軍,チェポン西方70キロのノンプアラオの重要拠点を放棄。

2.20 サイゴンの米軍司令部、枯葉作戦の一時中止を発表。

2.21 ネアクルン東の国道1号線上の橋が破壊される。

2.21 カンダル(Kandal)州Vihear Suor村で、作戦中の政府軍が攻撃を受ける。Vihear Suorはプノンペンの北東約50キロの村。水牛のレースが有名なようである。

2.22 米軍機がロンチェン基地を包囲中の解放軍を猛爆。

ロンチェン: CIAの秘密基地。ビエンチャンから北へ160キロ、ナムグムダム北の奥深い渓谷にある。1961年1月に基地が創設され、1975年に陥落するまでCIAの秘密作戦の拠点となっていた。CIAはダミー会社「エア・アメリカ」の民間人パイロットを使い、モン族の傭兵を特殊部隊に仕立てた。現在でもこの一帯は一般の人の立ち入りが禁止されている。

2.22 サラバン西方フエイムネの政府軍3個大隊,48時間にわたる集中砲火をあびフエイムネを放棄。

2.23 南ベトナム軍,国道1号線で大攻勢をかける。解放戦線が国境の町Bavetで待ち伏せ攻撃。南ベトナム軍は死者4人,負傷者27人の損害を出す。

2.24 チュー大統領がプレイクで演説。「北進は時間の問題」と語る。

2.24 南ベトナム政府軍1,500人,ネアクルン東で作戦開始。

2.25 カンボジア駐留の南べトナム政府軍は2万4千に増える。

2.27 国道7号線の北鈎針地区で、南ベトナム軍が解放戦線の待ち伏せ攻撃を受ける。死者6人,負傷者53人の損害。

2.28 シリク・マタク首相代理が記者会見。「ロンノル首相は帰国後復職する,北ベトナムは補給に困難を来たしている」と述べる。

2.28 国道1号線、プノムペン東方80キロで,政府軍が解放軍に攻撃され,死者4人の損害を出す。

71年3月

3.01 ワシントンの議事堂で爆弾が爆発。建物の一部が損傷を受ける。

3.01 政府軍,ジャール平原北東部で大作戦開始,特殊部隊とタイ軍数個大隊が支援。

3.02 解放戦線,非武装地帯付近の政府軍砲兵陣地に,1,000発の砲撃を加える。

3.02 解放軍,コンポンソム精油所を砲撃。

3.02 米国はカンボジアとの経済援助協定に調印。@1000万ドルのの緊急輸入,A850万ドルの余剰農産物援助を供与。

3.04 第105回パリ和平会談。南ベトナム軍のラオス進攻で態度を硬化させた北ベトナムは首席代表を欠席させる。

3.04 政府軍,ふたたび国道4号線の打開作戦を開始する。

3.05 ニクソン米大統領記者会見,「南ベトナム軍の北進を支援する計画はない」と述べる。

3.05 ドン首相,第3期国会第7回総会で政治報告。「ニクソンは口先では平和を望んでいるが,実際には戦争の継続と拡大を狙っている。ラオス作戦で米とかいらいは完全に敗北した。われわれの抵抗戦争は長引くかもしれないが、完全に勝利するまで戦う決意をしなければならない」と述べる。

3.05 周恩来がハノイを訪問。「民族的犠牲を払ってでも全面的に支援する」と誓う。

3.08 Chupゴム園南端の南ベトナム政府軍陣地,解放軍に攻撃さる,死者4人,負傷者40人の損害。

3.09 ボロベン高原東部の政府軍重要拠点PS22陣地,解放軍3個大隊の攻撃を受け陥落。

3.15 Vihear Suor南東12キロで戦闘,政府軍死者5人,負傷者10人。

3.16 王政復古を狙うクーデタが未遂に終わる。

3.17 シリク・マタク首相代理、「ラオス作戦により敵は後方を分断され,転覆活動に転じた。今日から人民戦争を全面的に開始する」と宣言。

3.17 Chupゴム園近くのSuong北東6キロで、南ベトナム政府軍が解放軍と交戦,死者8人,負傷者50人を出す。

3.18 Vihear Suorで政府軍と解府軍が激戦。

3.20 政府,戦略村計画を実施,プノンペンとウドンの家族が戦略村に収容。

3.21 ルアンプラバン空港は,解放軍のロケット弾,迫撃砲弾を少なくとも十発うちこまれ,ヘリコプター1機と営舎の一部が破壊される。当局は軍用機以外の航空機の発着を禁止する。バッタナ国王は,ラオス政府軍創設21周年の式典に出席のため,同空港からビエンチャンに向う予定だったが中止になった。

3.22 北ベトナムのクアンビン,ハチン両省の武装勢力が米軍戦闘機6機を撃墜。

3.22 プーマ首相,情勢の把握と飛行場の損害状況を視察するためルアンプラバンに向かう。

3.23 スファヌボン議長、プーマ首相に電報を送り、ルアンプラバン会談開催の提案を拒否する。

3.23 解放軍がルアンプラバンに接近。政府軍は空軍機を中心とした攻撃を開始,タイから出撃した米戦闘機が爆撃を加える。解放軍は死傷者数十人をだし,北東方面に撤退する。

3.24 解放軍,プノムペン空港の輸送キャンプを砲撃。

3.25 第4次撤退計画が完了。南ベトナム残留米軍は317,250人まで減少。

3.25 北ベトナム,革命政府代表,パリ会談ボイコット。

3.25 解放軍,プノンペン南方の国道4号線ピクニル峠で政府軍輸送隊を攻撃。

3.26 米・南ベトナム連合軍約43万がケサンからクアンチまで北緯17度線に沿って集結中,北軍7個師団も集結中。

3.26 ビエンチャン駐在のソット・ペトラシ代表、「王都は中立でなければならない。攻撃はルアンプラバン空港を軍事基地として使用するなという警告」と語る。

3.27 ソ連国防相グレチコ元帥、ボー・グエン・ザップ国防相にラオス南部の大勝利を祝う電報を送る。

3.27 レ・ズアン第一書記を団長とする労働党代表団,ソ連共産党第24回大会に出席のためモスクワを訪問。

3.28 解放戦線,カンチン省のMary Ann砲撃基地を攻撃。米軍死者33人,負傷者76人の損害。

3.29 解放戦線,Duc Duc町を攻撃。

3.31 解放戦線,中部高原で第6号砲撃基地を攻撃。

71年4月

4.01 ソンミ村虐殺事件の判決。カリー中尉だけが終身重労働の刑を言い渡され、残りは証拠不十分で無罪となる。ニクソン米大統領はカリー中尉の即時釈放を命令.カリー中尉はその後、懲役10年に減刑され1974年には仮釈放された。

4.01 南ベトナム政府軍,デルタからカンボジア領へ新作戦開始。

4.03 アーウィン米国務次官,米上院外交委員会公聴会で証言。B52戦略爆撃機が人口密度の高いラオス北部で使用されていることを初めて公式に認めた。

4.05 解放軍,コンポンチャム市周辺の政府軍陣地を攻撃,メコン河東岸Kg.Russeyに200発の砲弾を浴びせ地上攻撃,政府軍死者20人,負傷者100人。

4.06 プーマ政権打倒を狙うクーデターが発覚。政府軍大佐2人を含む十数人が逮捕された。首謀者はタイ在住の元タイ国会議員アンポン・スワンナボン。

4.07 ニクソンがテレビ演説で第5次撤兵計画を発表。11月末までに10万人をベトナムから撤退させると発表。

4.07 解放戦線中央委と革命政府はケサン戦場の幹部,戦士および人民に勝利を祝う電報を送った。

4.07 政府軍と解放軍,国道4号線で激戦,政府軍死者20人の損害。

4.08 中部高原の第6号砲撃基地で解放戦線と政府軍が激戦。

4.08 解放軍、バンナに400発の砲撃を加える。兵士,避難民などに死傷者百数十人をだし陥落する。

バンナはロンチェン基地北東15キロに位置する政府軍の重要拠点。5日に米軍が誤爆事件を起こして以来、動揺が生じていた。7日深夜の砲撃に続き、8日午前には大量の将兵が逃亡し、一挙に瓦解した。

4.09 米国防総省、ベトナム戦争での米軍戦死者は5万4284人に達したと発表(一説では4万5千人)。

4.09 グエン・バンチュウ大統領、ラオス作戦の終結を宣言。

4.10 米国の援助によりファイサーイ(「砲像」と書くようです)飛行場の拡張工事が完成。この飛行場はビエンチャン西北約350キロのメコン河沿いにあり、長さ1400m,幅23mの大型滑走路を持つ。

4.11 北ベトナム第4回国会選挙、7年ぶりの選挙となる。臨時政府の成立にともない、南部代表の議席を削除。

4.12 南ベトナム駐留米軍30万人を割る。

4.12 ロンノル首相,ハワイから帰国。

4.13 政府軍6,000人,中部高原の第6号砲撃基地の奪回作戦。

4.14 米共和党マクロスキー議員,北部ラオスで難民にインタビューしたレポートを発表。爆撃が避難の最大の理由と語る。

4.13 レアード米国防長官記者会見,「ベトナム化の第1段階は予定通り今年夏に完了する。地上展開部隊の撤退後も,空海軍力は引続き東南アで抑止力としての役割を果す」と述べる。

4.15 米軍,北部5省を除いた軍管区における司令部を地方援助司令部に格下げ。

4.15 南ベトナム政府軍の第5レンジャー部隊司令部,解放軍に攻撃される。500発の砲弾がKandol Chramn北西5キロに進んだ部隊に浴びせられる。司令部はサイゴン北西145キロのメコン河東岸、ChupとKrekの間のKandol Chrumに置かれていた。

4.16 南ベトナム政府軍1万,北部アシャウ渓谷で作戦。

4.16 ニクソン米大統領が記者会見。「米軍捕虜の釈放と南ベトナムの自衛力増強が実現しない間は,引続き空軍力を使う。10月半ばには12月以降の撤兵計画を発表する」と言明。

4.16 政府軍,国道4号線打開作戦,ピクニル峠で包囲されている降下部隊1千人の救出のため,9千人のクメールクロム部隊が投入される。クメール・クロムは、南ベトナムのメコン・デルタ地域に広がる大きな民族グループで、ベトナムとカンボジアの二国間関係に大きな影響を及ぼしてきた。

4.18 キ副大統領,「ベトナム化が南を自衛できるまで強くすることを意味するなら20年はかかる。戦争を終らせるには政治解決しかない」と言明。

4.19 アメリカでベトナム反戦運動がふたたび高揚。「戦争に反対するベトナム退役軍人の会」に属する帰還兵1千人が、ワシントンで1週間にわたる抗議行動を展開する。

4.20 米上院外交委員会でベトナム公聴会が開始される。

4.20 ロンノル首相が健康上の理由により辞任を表明。 内閣が総辞職。両院合同会議はロンノル将軍を元帥に指名。

4.23 ワシントンでベトナム帰還兵の反戦集会。

4.23 ロジャーズ米国務長官が記者会見。「米中関係改善が進めば,北ベトナムを話合いに向かわせる効果をもつ」と言明する。

4.23 ワシントンでベトナム参戦国会議,「各国戦闘部隊は引揚げても南ベトナム兵の訓練その他で必要な兵力は残す」との共同声明を発表。

4.23 ロンノル前首相,後継者不在のなか再組閣に乗出す。

4.24 ワシントンでベトナム反戦の大集会。参加者は100万人を越え、史上最大の規模となる(一説では20万人)。警備のため軍隊が待機体制に入る。

4.24 解放軍,プノムペンにロケット砲3発を撃ち込む。

4.26 解放戦線,クィニヨンの政府軍火薬集積所を爆破。

4.26 解放戦線軍司令部,反戦米兵への攻撃停止を命令。

4.27 スファヌボン愛国戦線議長、プーマ首相に親書を送り,ボンサク特使のビエンチャン帰任と、和平交渉の再開を提案。29日に政府は提案に応じると発表。

4.28 国道4号線上Troeung Trayingの政府軍,解放軍と激戦,政府軍死傷者65人。

4.29 ニクソン米大統領記者会見で,「デモ参加者が言うような性急な撤兵をすると太平洋地域全体に危険が生まれる」,「全面撤兵が達成されるには米軍捕虜が釈放され,南ベトナムの自衛力増強が完了することが必要である」と言明。

4.29 ロンノル将軍,再組閣を断念。チェンヘン元首,シリク・マタク氏を後任に指名。

4.30 米海兵隊の最後の戦闘部隊である第一海兵師団がベトナムを離れる。第一騎兵師団、第25歩兵師団の残りの部隊も帰国。

4月 名古屋の国際卓球大会で、米中の卓球チームが接触。中国は米国チームを招待する。「ピンポン外交」と呼ばれた。

71年5月

5.01 シリク・マタクは組閣を辞退。チェンヘン元首はチュオプヘル前元首に組閣を要請するが、チュオプヘルも組閣に失敗。チェンヘン元首はインタム国会議長に組閣要請。

5.02 ユエに平和のための人民戦線成立。

5.03 1万5千人がワシントンでベトナム反戦集会。ベトナム戦争の即時終結を要求するスローガンを掲げる。急進派は政府職員の通勤を阻止する抗議行動。

5.03 1万の連邦軍に支援された警察官5千名が、予告なしの大量逮捕に踏み切る。7千人が逮捕される。翌日さらに2千700人が逮捕される。

5.03 首班指名についての首脳会議,インタム議長はロンノル将軍にふたたび組閣を要請,ロンノルはマタク氏が首相の職務を代行することを条件に受諾。シリク・マタク首相代行により新内閣が発足。ロン・ノルは首相の座を維持。

5.04 ビエンチャン南方350キロのムオンファランは,解放軍の激しい砲撃と歩兵部隊の攻撃により奪回される。

5.05 さらにデモ行進参加者1千200名が議事堂東側の階段で逮捕される。3日間の総検挙者数は1万2千人に達する。反戦デモは全国に波及。ニューヨークでは黒人暴動が激化する。

5.06 ロンノル=シリク・マタク新内閣が国会で信任さる。シリクマタクが演説。「新内閣の任務は,@ベトコンと北ベトナムを追い払う,A新憲法制定,B経済問題を解決する」ことにあると述べる。(A以外はほとんど絶望的な公約)

5.09 米空軍のB52戦闘爆撃機,ラオス南部のボー・チ・ミン・ルートに,この2カ月間で最も激しい爆撃を加える。

5.10 チャビン市に平和のための人民戦線成立。

5.11 「オウムのくちばし地区」で、南ベトナム政府軍があらたな作戦を展開。

5.12 パテト・ラオのウォンサック特使が新提案を携えビエンチャンに入る。爆撃停止後に停戦・連立政府問題を討議するとの提案。政府側はこれに応ぜず。

5.16 キ副大統領が大統領選に立候補すると言明。

5.16 パクセ東方40キロのパクソン,激戦ののち解放軍に制圧さる。

5.17 政府軍,9号道路西側,サバナケト東方60キロのドンヘン町を放棄。

5.18 臨時革命政府のフィン・タン・ファト首相,「チュー政権の打倒」を呼びかける演説。

5.18 米下院のマクロスキー議員ら47議員、米軍捕虜釈放を条件にして12月24日までにインドシナから全米軍を撤退させる決議案を提出。

5.19 タイ政府、東北タイで故ホー大統領誕生日の記念集会を行なっていたベトナム人59人を逮捕する。北ベトナム外務省は両国赤十字社の協定に違反すると非難。

5.19 ラオス政府軍,ボロベン高原の最後の拠点フェイコンを放棄,同高原は共産側が完全制圧。

5.20 国道3号線で政府軍新作戦,Lon Non中佐指揮。

5.21 解放戦線,非武装地帯南の米軍砲兵基地「チャーリー2」など24カ所を砲撃。

5.21 CIA長官が上院外交委員会で証言。ラオスで約5千人のタイ傭兵を使用していることを明らかにした。

5.22 アーウイン米国務次官,プノムペン訪問。

5.23 解放戦線,カムランの米軍補給基地を襲撃。ガソリン400キロリットルが炎上する。

5.24 スファヌボン殿下を団長とするパテト・ラオ中央委員会代表団,1週間にわたりベトナムを友好訪問。

5.26 プーマ首相がスファヌボン議長あてに返書。ボンサク特使に全権を付与することをもとめる。

5.26 解放軍がスヌールの南ベトナム政府軍を攻撃。5日間にわたる激戦となる。

5.27 非常事態宣言,6カ月延長。

5.27 政府軍と解放軍、プノムペン北25キロPreah Prasapで戦闘。

5.29 政府軍6,000人が3週間前から中部高原の共産側秘密基地に新作戦を続行中と発表。

5.30 解放戦線,ダナンなど30カ所にロケット砲攻撃。

5.31 南ベトナム政府軍,カンボジア領スヌールから撤退,

5.31 スヌールの南ベトナム政府軍2千500人が撤退。5日間の激戦で南ベトナム政府軍は死傷300人以上の損害を出し、装甲車,ジープなど80台を放棄,死傷者は240人に達する。増援部隊3千人もスヌールを奪回できず。

5.31 チェンヘン元首が国会で演説。「ベトコン,北ベトナムがクメール共和国の独立,主権,中立,領土保全を尊重し、領土内から撤退するなら交渉に応じる」と述べる。

5.31 アメリカと経済援助協定調印,5000万ドル。

5.31 パリでキッシンジャー米大統領特別補佐官とトク北ベトナム代表が秘密会談。

71年6月

6.01 チュー大統領演説,「1.中立化反対,2.共産側との連立反対,3.領土分割反対,4.共産党の活動反対」を訴える。

6.01 ニクソン米大統領が記者会見。「南ベトナムを共産主義者に引渡すようなやり方で戦争を終結させてはならない」と言明。

6.01 プノムペンの米援助要員宿舎で爆発事件,米人3人負傷。

6.01 政府軍,プノムペン東23キロChamlangおよびPrey Baingで戦闘,政府軍死傷50人。

6.02 ニクソン米大統領、カンボジアへの経済援助として議会に1億1千万ドルを要請,これまでの援助額は軍事援助1億8500万ドル,経済援助7000万ドルに達する。

6.04 米上院のマクガバン、ハットフィールド議員、年末までに米軍の全面撤退を求める決議案を上程する。

6.05 解放戦線,中部高原第5砲撃基地を包囲。

6.05 政府軍と解放軍,メコン東岸Prek Tameak付近で激戦,政府軍死者9人。

6.06 民族団結政府のキュー・サムファン国防相,民族解放軍最高司令官に任命さる。

6.07 米海兵隊の戦闘任務終了。

6.07 米国務省,ラオス内の“義勇軍”を米国が資金援助していると明らかにする。この義勇軍はタイ人とラオス少数部落民である。

6.08 政府軍と解放軍,プノムペン東北20キロプレイトムで激戦,政府軍死傷80人。

6.09 スヌール作戦責任者のグエン・バン・ヒュー第5師団司令官、解任される。

6.10 ボー・グエンザップ国防相、カンプチア王国民族連合政府のキュー・サン・フアン新国防相兼総司令官に祝電。

6.11 ウェストモーランド米陸軍参謀総長,「現在米国の軍部の中に動揺がある。陸軍は危機的な激動期に直面している」と演説。

6.13 ニューヨーク・タイムスが米国防省秘密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)の連載を開始。トンキン湾事件が、ベトナム戦争への本格的介入を目論む自作自演であったことが暴露される。ベトナム政策につき米国政府の内外に対する威信が問われる。

ペンタゴン・ペーパーズ: マクナマラ国防長官の要請で密かに研究・収集された資料集 “The Defense Department History of United States Decisionmaking on Vietnam” につけられたもの。ニューヨーク・タイムズの記者がエルズバーグの手引きでこの報告を入手。

6.14 米上院外交委ラオス問題小委員会のサイミントン委員長、米政府がラオスで秘密のうちに軍事介入を拡大していると批判。ラオスへの軍事経済援助,作戦支援を制限する法案を提出する。ホー・チ・ミン補給路爆撃を除く援助に総額2億ドルの限度を設けるもの。

6.15 ニクソンの意向を受けた司法省、ニューヨーク・タイムズの秘密文書掲載を中止させるよう、連邦地方裁に提訴。地方裁は掲載を中止するよう命じる仮処分。

6.15 ロジャーズ米国務長官が記者会見。「大統領選に中立を保つよう米軍,および米出先機関に指示した。戦争終結後も米は南ベトナムに無期限の経済軍事援助を与える」と言明する。

6.16 米上院、「米軍を年内にインドシナから全面撤退させる」という提案を否決。

6.16 政府軍と解放軍,コンポンスプー州Tram Khnar北西4キロで激戦,政府軍死傷者55人。

6.18 ワシントン・ポスト、ペンタゴン文書の連載を開始。法的論争は連邦最高裁に持ち込まれる。

6.18 解放放送,来る8月の議会選挙,10月の大統領選挙に参加呼びかけ。

6.18 政府軍5千人,メコン東岸ビヒアスオルからモアトクラサスにかけ新たに作戦を開始。Nou Tho准将が指揮をとる。10日後にさらに6千人が増派される。

6.20 サイミントンは、国務省ないし国防総省がラオスにおける米国の行動に関する情報を秘匿するなら、その情報の一部を公表すると語る。

6.22 米上院、政府に対する拘束力を持たない決議を採択。年末までにすべての米兵部隊のベトナムからの撤退をもとめる。決議を主導したマンスフィールド上院議員は、ヴェトナム戦争を「悲劇的な間違い」と呼ぶ。米下院は28日にこれを否決。

6.22 スファヌポン議長,プーマ首相に新2項目和平提案。@米国の爆撃停止と同時に停戦。Aジャール平原とビエンチャンで交互に話合い。

6.24 政府軍,非武装地帯南のフラー基地を放棄。

6.28 解放戦線,クイニョンの政府軍弾薬集積所を破壊。

6.28 ペンタゴン文書のリーク元とされたダニエル・エルズバーク博土が、連邦調査局に出頭。記者会見では「裁判で闘う」と宣言。

6.30 連邦最高裁大法廷、6対3で政府の秘密文書掲載禁止の請求を却下。ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポスト紙を支持する判決。

6.30 韓国軍1個師団が72年6月までに撤退すると発表される。

6.30 米機8機,非武装地帯北側を爆撃。

6月 ジョージ・ジャクソン、ウィリアム・コルビーに代わりCORDSのトップとなり、フェニックス・プランの店仕舞に入る。

71年7月

7.01 第119回パリ和平会談。南ベトナム臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相、従来の10項目(69年5月8日),8項目(70年9月17日)両提案を解明するためとして7項目の和平提案を発表。米軍の全面撤退の期限を明示することを条件に、米軍捕虜の釈放を認める。チュウ政権の排除については譲らず。米側はこれに対し検討を約しながら対案を示すことなく終わる。

7.02 レアード米国防長官言明,「本年末までに兵員を帰国させるだけなら物理的に大きな障害はない,しかしそのような性急な撤兵発表は何十億ドルもの軍事施設を放棄することになろう」

7.02 米B52,連日非武装地帯南フラー基地周辺を爆撃。

7.03 キ副大統領,「臨時革命政府が要求した米軍撤退期日設定について南ベトナム政府としては異論はない」と声明。

7.04 中国が南ベトナム臨時革命政府の7項目提案を全面的に支持すると表明。異例の早さといわれる。

7.04 チヤン・サム国防次官を団長とする軍事代表団、中国政府と1971年度の軍事物資の無償供与協定に調印。

7.05 キ副大統領はキッシンジャー補佐官との会談の後,大統領選に立候補すると発表。副大統領候補にチュオン・ビン・レ氏を指名。キ補佐官はミン将軍とも会談。

7.06 レ・ドク・ト顧問、ニューヨーク・タイムズ記者との会見。「捕虜釈放と米軍撤退の関連は、政治問題と切離して話合える」と言明。

7.06 ニクソン米大統領演説,「米国は西欧,日本,ソ連,中国の4大勢力と指導権をわけあうことになる。経済競争が力と武器による勢力争いにとってかわるだろう。われわれは交渉のチャンネルを積極的に探求し、ベトナム化計画を推進している」とする。また捕虜問題の切り離しを示唆。

7.06 ビン臨時革命政府代表,UPI記者に言明,「必要なら米代表と秘密会談を行なう用意がある。米軍完全撤退の期限は公表されることが望ましいが、固執しない。民族和合政府にはサイゴンの政府と臨時革命政府その他の勢力が含まれる。臨時革命政府側が政権内で少数派の地位を占めることも受け入れる」

7.07 政府軍は,サバナケットから90キロの戦略拠点ムオンファランを奪回。

7.08 政府軍3,000人がカンボジア領おうむの口ばし地区で作戦。

7.08 南ベトナム政府軍3,000人がオウムのくちばし地区で新作戦。

7.09 米軍は非武装地帯沿いの全基地から撤退。政府軍がこれに肩代りする。

7.09 政府軍、ジャール平原を制圧しカンカイ以北に進撃の態勢に入る。部隊の一部はパテト・ラオ司令部のあったシエンクアンの近くまで到達する。

7.15 パリ会談でビン代表言明,「米国が7項目提案を受諾しないのは,チュー政権を温存しておきたいためだ」

7.15 ニクソン、中国の招請を受諾し、翌年2月に中国を訪問すると発表。

7.15 B52爆撃機、ビンリン地区のフオンラプ村を爆撃。

7.16 ビン臨時革命政府外相言明,「中国が臨時革命政府の頭越しにベトナム問題でニクソン米大統領と取決めを達成することはないだろう。中国政府はわれわれの7項目提案を公式に支持している」

7.17 アーリックマン首席補佐官とチャールズ・コルソンが「鉛管工」部隊を組織。エルズバーグの監視とリーク防止を目的とする。コルソンはさらに反ニクソンの著名人200人を「政敵リスト」に載せ、監視を開始する。

7.18 サイゴンで不正選挙反対委員会結成。委員長にチャン・ゴク・リエン弁護士が就任。

7.19 チュー大統領言明,「ニクソン訪中はベトナム情勢に影響しない。軍事的勝利の路線は不変」とする。

7.19 南ベトナム政府、全面停戦と総選挙による南北ベトナム統一を提案。

7.19 3週間の小康状態を破って非武装地帯で解放戦線の砲撃活発化。

7.19 北ベトナムは「ニクソンは社会主義国を分断して、大国間の妥協を図り、小国を大国の取り決めに従わせようとしている」と非難。自主独立路線を強調する。解放放送は,「いかなる道を走り続けようとニクソンは敗北からのがれることはできない」と論評。

7.20 B52,20機が6波にわたり非武装地帯南方を爆撃。

7.21 サイミントン米上院議員,ラオスのタイ雇兵に対する財政援助を停止する法案を提出する。昨年米議会は米国防総省予算を使用することを禁止したが,その後もCIAの予算でタイ雇兵の資金がまかなわれていた。

7.21 南ベトナム政府軍1万人がカンボジア東部クレクに越境作戦。クレクからミモトに至る国道7号線沿いに再び進出。

7.22 チュー大統領,「4つのノー」政策に支持が得られなければ出馬しないと言明。

7.22 メコン・デルタで解放戦線の軍事活動が活発化。タイニン郊外の政府軍司令部を襲撃するなどタイニン省,ビンロン省などで攻勢に出る。

7.22 カンボジア紙、シアヌーク殿下との直接交渉を提起。

7.23 仏教徒学生同盟声明,「解放戦線の7項目提案にすみやかに回答し,現政権支持をやめ,南ベトナム人民自身に政治制度を決定させる」ことを要求する。

7.23 愛国戦線のソット・ペトラシ代表,@新ジュネーブ会議開催は不必要,A米軍がラオス爆撃を停止すれば米軍捕虜は釈放,Bニクソン訪中は米中の内政問題とする。

7.23 ロンノル政権のクン・タイ・リー商工相、経済政策失敗を理由に辞任。

7.24 臨時革命政府外務省が声明を発表。「ニクソン政権は背信的な外交活動を進めている」と非難。「ベトナム問題の解決にはベトナム人民が決定的発言力を持つ」と述べる。

7.24 チュー大統領,選挙出馬を正式表明,副大統領候補にチャン・バン・フォン氏およびチャン・チエン・キエム氏を指名。

7.26 ミン将軍,大統領選出馬を正式発表。副大統領候補に下院第1副議長ホー・バン・ミン氏を指名。

7.26 政府軍5,000人,コンポンチュナン州東側地域で新作戦。

7.28 南ベトナム政府軍3千500人が,おうむの口ばし地区に進攻。カンボジア政府軍はこれに呼応してカンボジア領スヌールで掃討作戦を展開。

7.28 ニクソン米大統領,パリ会談の米側首席代表ブルースの辞表を受理。事実上の更迭。後任にポーター駐韓大使を任命。

7.28 政府軍、昨年6月9日解放軍に占領されたサラバンを再占拠。

7.29 タイニンの政府軍前進基地から米中隊が撤退。

7.31 ビン臨時革命政府外相,「ニクソン訪中でベトナム解決はできない」と批判。また「米軍存在下の選挙は無意味」とボイコットの姿勢を明らかにする。

7.30 政府軍,南部パクセの東約30キロ,国道3号線沿いの拠点を奪回する。

7.31 解放戦線、ダナン南方40キロで米軍アメリカル師団の部隊を攻撃。

71年夏 米軍、枯葉剤の使用を中止。本国ではすでに68年、農務省が使用を禁止していた。ここまでに1千万ガロンのオレンジ剤が散布された。その結果南ベトナム国土の1/7以上が不毛となった。

71年8月

8.01 政府軍,ボロバン高原の要衝パクソンを3カ月半ぶりに奪回。

8.02 米上院、CIAがラオスに3万人の非正規軍を維持していることを指摘。米政府もこれを認める。

8.02 ユエで学生が米兵の運転する車にひき逃げされる。学生,市民が抗議デモ。

8.04 キ副大統領、立候補の届出。

8.04 レアード米国防長官,南ベトナムでの米軍の地上戦闘任務が終了したと発表。

8.05 最高裁,キ候補の立候補を承認せず。

8.06 ビエンチャンでの交渉が不調に終わる。ウォンサック特使はビエンチャンを引揚げサムヌーアにもどる。

8.06 ボンサク特使,。

8.06 米政府、ラオス山岳部族からなるスパイ部隊の中国領内への派遣を中止するよう指示。(ワシントン・ポストの報道)

8.08 政府軍,Lon Non大佐指揮下にTram Khnar,Srang地区で新作戦。

8.09 米国務省、「8万の北ベトナム軍がラオスの中立をおかしている以上、米国はもはや62年ジュネーブ協定にはしばられない」とする。プーマ首相は記者会見で反論。

8.10 解放戦線、サイゴン南西70キロ,カイライ付近の政府軍拠点を攻撃。

8.12 解放戦線,非武装地帯南部の政府軍陣地を攻撃。

8.15 米国、「新経済政策」を発表。金とドルの交換の一時停止、10%の輸入課徴金実施などのドル防衛措置を発表。さらに物価・賃金の凍結を宣言。為替相場は閉鎖、株は史上最大の大暴落。8月の経済白書では、ベトナム戦争の結果インフレが拡大し、公務員・官僚の給料凍結が実施されるだろうと述べる。

8.16 B52,北爆停止以来はじめて非武装地帯南半分を爆撃。

8.17 カンボジア軍事代表団,サイゴンで南ベトナム軍事代表団と戦闘肩代り問題について会談。ネアクルンの南ベトナム政府軍基地閉鎖と撤兵を要求。

8.18 マクマーン豪首相,年内に豪軍の大部分を南ベトナムから撤退させると発表。ニュージーランドも、ベトナム撤退の方針を明らかにする。

8.19 政府軍,非武装地帯南部のサージ砲撃基地から撤退。

8.19 ロンノル政権、新たな掃討作戦を開始。Hou Hang Sin准将の率いる1万5千人の部隊がコンポントム州タンコクで新作戦開始。Fernandez准将の率いる政府軍4千人がコンポンスプー州に進出。

8.20 ミン将軍,大統領出馬辞退を発表。バンカー大使の圧力による。

8.21 南ベトナム大統領選挙が告示される。グエンカオキは不出馬を表明し、副大統領を辞任する。キが出馬を取りやめたことから、グエン・バンチュウに対する信任投票となる。これに反発する軍人が反乱の動きを見せる。

8.25 海兵隊とともにベトナム戦の主軸をになった第173空挺旅団が帰国する。第五歩兵師団第一機甲旅団、第18、第20工兵旅団もベトナムを離れる。

8.23 キ候補は大統領選出馬辞退を表明。正副大統領の辞任,3カ月後に選挙をやり直すこと,その間上院議長が大統領を代行することを提案。

8.23 チュー大統領、予定通り選挙を行なうとの決意を表明。

8.24 サイゴンの米軍,反米騒動に備えるため,警戒体制に。

8.25 カムラン米軍基地で弾薬庫大爆発。

8.25 解放戦線,全国42カ所で一斉攻撃。

8.26 サイゴンの学生協議会,チュー大統領の辞任,バンカー米大使の帰国を要求。

8.29 解放戦線,全国59カ所で一斉攻撃。

8.29 下院議員選挙。

8.29 下院選挙。チュウ派は過半数を確保。

8.31 ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」の連載が開始される。

8.31 日本の外貨準備高、125億ドルに達する。これは米国を抜き西独に次ぐ世界第二位。

8月末 紅河デルタ地帯を建国以来といわれる大洪水が襲う。

71年9月

9.01 カンプチア民族統一戦線の代表団がソ連を訪問。

9.01 ミン将軍,バンカー米大使を非難。

9.02 チュー大統領は大統領選を信任投票にすると演説。

9.02 フアンバンドン首相、洪水で農業などにかなりの損害がでたことを認める。

9.02 統一戦線代表団(ズオン・サム・オル団長)が訪ソ。ソ連はこれを受けて同戦線の綱領を支持するとのコミュニケ発表。

9.06 政府軍1万3千人,非武装地帯南でラムソン810作戦を開始する。

9.09 第128回拡大パリ会談,ポーター米首席代表が初出席する。臨時革命政府代表に秘密会談を提案するが拒否される

9.10 キ副大統領が国民へのメッセージを発表。チュー大統領の辞任と,暫定政権の下での選挙を要求。

9.10 日本共産党代表団(団長宮本書記長)がハノイに来訪。

9.11 チュー大統領発表,「得票が投票総数の50%を越えれば再選されたものと考える,50%を下まわれば辞任する」

9.12 学生が米大使館を襲撃。

9.14 サイゴンとフエで、茶番選挙に抗議する反政府・反米デモが激化する。ユエでは、米兵によるベトナム少年ひき殺しに抗議して学生がデモ。

9.15 チュー大統領言明,米援助が打切られれば辞任。

9.16 仏教会のアンクアン寺派、大統領選挙ボイコットを決定。チェンホア化導院長が大統領選ボイコットを訴える。カトリック協会のチャン・タン・カム司教,カオダイ教のホ・タン・コア師,ホアハオ教のチュオン・カン・ホアン師,統一仏教会代表ミン・トゥック師らで結成する全国宗教会談もチュー大統領の単独選挙を攻撃。

9.16 解放戦線、ウミンの森で作戦中の政府軍に反撃,政府軍死者47人。

9.16 政府軍とタイ軍10個大隊4千人が,米空軍の支援のもとにボロベン高原の要衝パクソンを攻撃。5日間の戦闘の上、パクソンを奪回する。この作戦で,政府軍は死傷・行方不明あわせ1千名以上の大損害をこうむる。

9.20 解放勢力がプノンペン国際空港などを砲撃するなどプノンペン周辺の攻撃を活発化させる。政治的,心理的効果を狙うとともに,国道6号線作戦の牽制を狙ったもの。

9.19 サイゴンで議員,学生らが反政府デモ。ショロンで学生と警官が衝突。

9.20 チュー大統領,ラジオ演説,「再選を望むのは平和を達成するため,平和達成の暁には辞任する,4つのノー政策はその目的達成のための唯一の現実的な政策である。軍事的勝利による和平は3年で達成されよう」

9.20 米機延べ200機が北ベトナム南部を爆撃。

9.20 プノムペン市内の石油貯蔵施設砲撃さる。

9.21 米軍、北ベトナムに対し50波にわたる北爆作戦を行う。北ベトナム・臨時革命政府両代表団は、北爆に抗議して拡大パリ会談をボイコット。

9.21 クアンビン省の軍民が米のジェット機2機を撃墜。これまでの撃墜機総数は3,399機に達する。

9.22 南ベトナム上院、新たに大統領選挙を組織すべきであるとの宣言を採択,定員60人の内出席者は31人,賛成は28人。

9.22 傷病兵連合声明,チュー大統領は辞任して権力を上院に委譲したのち,新しい選挙を実施せよ。

9.23 政府軍全将兵に外出禁止令−各種軍機関に働く非戦闘部隊の将兵25%に都市部への街頭警備出動を命令。全米軍に外出禁止令。

9.23 中国の李先念副総理が訪越。ニクソン訪中に関する事情を説明する。

9.24 ロンノル首相、イン・タム第一副首相を解任。治安不備を理由とする。

9.25 平和のための人民戦線,生活権擁護婦人運動,サイゴン学生連合,傷病兵連合,大団結の力(カトリック)など22団体は連絡事務所を設置。

9.25 解放戦線、タイニン省北部,カンボジア領クレク周辺で攻勢。

9.25 政府軍,7号線上のムオンスイを奪回。

9.26 米大使公邸近くで手投げ弾爆発,米大使館員2人が死亡。

9.29 南ベトナム国民に対するグエン・フー・ト議長の書簡が発表される。(1)チューの支配を維持しようとする不正選挙に断固として反対せよ,(2)都市住民は米国とチューに反対する行動を統一して戦線を拡大せよ。

9.29 チュー大統領,全土の警官に反政府デモ規制のための発砲を許可。

9.30 米上院,米軍捕虜釈放を条件に半年内のインドシナからの米軍撤退を求めたマンスフィールド提案を可決,下院はこれをタナ上げ。

9月 オーストラリア、ニュージーランドに続き、韓国も撤兵の意向を表明。

71年10月

10.01 キ副大統領が出席して大統領選挙非難集会。

10.01 米上下両院議員131人が共同声明を発表。「単独選挙は,南ベトナム人の自決のために果たしてきた米国の努力と犠牲を侮辱するもの」

10.02 解放戦線,カント西方48キロの政府軍陣地を攻撃,政府軍死者18人,負傷者64人の損害。

10.03 大統領選挙が実施される。

10.03 カンボジア領クレク付近で作戦中の政府軍を米機が誤爆,死者11人,負傷者12人。

10.03 南ベトナムで大統領選挙がおこなわれる。ズオン・バンミン将軍・グエン・カオキ副大統領の立候補辞退により、チュウ大統領の信任投票となる。投票率87.9%。チュー大統領は投票総数の94.3%,597万1114票を獲得して再選さる。

10.03 ポドゴルヌイ国家最高評議会議長を団長とするソ連の党,政府代表団がハノイに来訪。無償軍事経済援助および新規借款協定に調印。

10.04 米上院本会議,ラオスに対する米国の軍事,経済援助などの支出を年間3億5000万ドルに制限する「サイミントン法」を承認した。制限の対象には軍事,経済援助のほかCIAの活動費も含まれる。ただし,ホールート爆撃の予算は含まれない。

10.04 クレク北東4キロで政府軍が解放戦線と激戦。政府軍死者10人,負傷者21人。

10.05 マッケーン米太平洋軍司令官,性急な撤兵に警告。

10.05 米上院,「米軍兵力を保護する場合を除きインドシナにおける爆撃を中止する」との提案を否決。

10.08 臨時革命政府,米軍捕虜1名をロクニン地区で釈放。政府軍捕虜4名をフーエン省で釈放。米軍,北ベトナム兵捕虜1名をカンボジア国境で釈放。

10.09 カンボジア国境に近い米軍砲撃基地ペースで米軍部隊が出撃命令を拒否。

10.10 コンポントム州タンコク北東で激戦,政府軍死傷者22人。

10.11 第1空挺騎兵師団ブラボ中隊のGI六名、パトロール出撃を拒否、別の2小隊もこれに同調。

10.18 サイゴン西北95キロのカンボジア国境付近で米機が政府軍陣地を誤爆,死者18人,重傷者7人。

10.18 カンボジア国境付近の米軍砲兵基地南西で激戦,政府軍死者7人,負傷者20人,共産側死者28人。

10.20 ロンノル首相が強権発動を決意するラジオ演説。「われわれには選ぶべき2つの道がある。一つは古くさい自由民主主義の不毛のゲームを続けることであり,一つはこの無政府状態と闘い勝利に導くことである」

10.22 前ラオス王国軍最高司令官のウァン・ラティクーン将軍,総選挙に参加するため政党を設立することを明らかにする。退役高級将校25人からなる。

10.28 南ベトナム政府発表,31日に解放戦線の捕虜618人を釈放。

10.28 ロンノル政権、暫定的に立法権を掌握。国家非常事態宣言を延長する。政府は,主に外貨事情の悪化により変動為替相場を採用。経済全般の建直しを目的とした新経済政策を打出す。

10.31 チュー大統領就任式,チューは「即時停戦,対話の開始、平和協定の調印、南北交流」を提案。また「今後われわれはすべての責任を引受け自力で戦い続けなければならない」と言明。式典にはコナリー米財務長官,日本の松野頼三特使,金鐘泌韓国総理,厳家国府首相ら出席。

10.31 米第23歩兵師団(アメリカル師団)撤退発表。同師団が保持していたチュライ基地は2週閥以内に政府軍に引き渡される。在南ベトナム米軍は20万人を割った。

10.31 最初の解放戦線の捕虜が、サイゴン政府によって釈放される。この時点でほぼ3000人の解放戦線の捕虜が存在していたといわれる。

71年11月

11.02 プノムペン北方110キロ国道6号上のRumlongで激戦,政府軍死傷者250人。

11.03 レアード米国防長官がサイゴン訪問。「自立のための経済力をつけることが最大の問題」と言明。

11.04 第135回会談。ポーター米首席代表は北ベトナム側を非難する語調を強める。

11.06 韓国政府はクアンナム省駐留の韓国軍1万人を来年はじめまでに撤収すると発表。12月9日第1陣1,200人が出発。

11.07 オーストラリア軍の戦闘役割終了。

11.08 北爆が再開される(17度線より225キロから290キロの地点),ゲアン省の軍民はF4型機2機を撃墜。

11.08 コーネル大学の調査団がアメリカの爆弾投下量を推定。第2次大戦で200万トン,朝鮮戦争で100万トン,インドシナでは1971年末までに600万トンの爆弾が投下された。このうち300万トンがニクソン政権以降のものである。

11.09 プノンペン市貯油施設、ブレクトノット・ダム建設現場がカンプチア民族統一戦線勢力の攻撃を受ける。政府側との間の「なれあい」状況は終わりを告げる。

11.09 シアヌーク殿下、「カンボジア問題はニクソンがつくり出したものであり,彼のみが解決できる。他の者が新しいジュネーブ会議を開いても役に立たぬ」と言明。

11.10 プノムペン空港の空軍基地など砲撃さる。

11.10 カンプチア民族統一戦線代表団(団長イエムサリ)がハノイに来訪。副団長はサリンチヤク外相、団員にズオン・サムオル兵器調達相、チアサン法相、チュオンプラシト解放闘争組織相などオールスター・チーム。

11.11 “人民軍”編集部、「アメリカの特別攻撃隊の手口」という小冊子を刊行。

11.11 ビンディン省沿岸で米軍ヘリが政府軍を誤射,政府軍兵士8人が死亡,21人が負傷。

11.12 ニクソン米大統領、第6次撤兵計画を発表。72年1月末までに4万5千人を撤兵させると発表。その時点での残留兵力は13万9千とされる。

11.12 ニクソン米大統領,第6次米軍撤兵計画を発表。1月までに4万5000人を引揚げるとの方針を明らかにした。

11.13 ムーラー米統幕議長、「将来南ベトナムに米軍のどのような部隊を存続させるかは北ベトナムの出方次第である」と言明。

11.13 政府軍,国道6号上のRumlongから撤退。

11.14 プノムペン空港,砲撃さる。

11.16 米第7空軍,フーカット空軍基地からの撤退を開始。

11.17 レアード米国防長官、「駐留米軍を守るため、南北ベトナム,ラオス,カンボジアで米空軍を使用する」と言明。

11.17 プノムペン西方20キロのツオルレアプで激戦,政府軍死傷者100人。政府軍は同地域に1万人の増援部隊を投入する。

11.18 チュー大統領は軍管区司令官を招集してカンボジア支援作戦を協議。

11.19 政府は物価統制措置を発表,投機的商人に対し死刑を適用する。

11.19 周恩来、タイムス紙記者会見。「ベトナム問題は中国自身の台湾問題よりも緊急に解決を要する」

11.19 プレーク西方40kmの南ベトナム軍レンジャー部隊駐屯地が解放軍に砲撃さる,政府軍死者14人,負傷者8人。

11.20 米軍司令部、フバイ駐留の米第101空てい師団のうち1個旅団が近く撤退と発表。

11.20 ファン・バン・ドン首相が訪中。北ベトナム代表団を迎えての周首相の演説,1)インドシナ問題の解決が当面最もさしせまった問題である,2)解決はインドシナ各国人民のものである,3)アメリカ帝国主義は中越共通の敵である,4)ベトナム人民はアメリカ帝国主義に致命的一撃を与えた,5)中国は全面勝利まで支持する。

11.20 ツオルレアプの戦闘が終了。政府軍死者69人,解放軍死者300人。

11.22 戦車の援護をうけた解放軍がムオンファラン周辺の政府軍拠点を攻撃・制圧する。

11.22 南ベトナム政府軍数千人,国道7号線および1号線で作戦開始。

11.22 政府軍,第6次トアンタン作戦を開始。ふたたびカンボジア東部に侵入。第1陣5,000人がカンボジア国道7号線を北上,メコン河流域オウムの嘴地区に向かう。降下部隊はチュプのゴム園東端に砲撃基地を築き,歩兵部隊が待機中。

11.23 ノルウェーとデンマークが北ベトナムと外交関係を樹立。スウェーデン外相は国会でニクソン米大統領のベトナム化政策を非難。

11.24 トアンタン作戦。第2陣数千人が,オウムの嘴地区を国道1号線に沿って進撃。

11.27 プレークからコンツムに至る国境一帯で、政府軍7,000人が作戦開始,米空軍が支援。

11.29 現地編成のアメリカル師団が解散。

11.29 南ベトナム政府軍2,500人,Kg,Trach,ネアクルンに進撃。

71年12月

12.01 政府軍、1年に及ぶウーミン森掃討作戦をいったん終了。1年間の作戦で政府軍は490人,負傷者1,302人の損害を受け,共産側に死者4,903人の損害を与えた。チュー大統領、「ウーミン作戦はいずれ新たに再開されるだろう」と演説。

12.01 ニヤンザン評論員論文、アセアンの東南アジア中立化構想について論評。

論評の骨子: アメリカの侵略政策の協力者であったアセアン機構が中立化を宣言するのは、米国の影響力の弱体化した証拠である。東南アジアの真の中立,平和を実現するためには、米国の干渉,侵略に反対し,東南アジアから全軍隊,戦争手段を撤退させ、ニクソン・ドクトリンを全面的に拒否しなければならない。

12.02 政府軍地方軍がタイニン省フクオン町南西で解放勢力と激戦。

12.02 政府軍,プノムペン北方95キロ,国道6号線上のバライから退却。

12.03 国道6号線沿いのチェンラU作戦終了。シアヌーク殿下は,キュー・サムファン副首相兼総司令官に電報を送り,国道6号線でおさめた勝利を祝った。

12.04 第6次撤兵計画が完了。国防総省の発表によれば、この時点で在ベトナム米軍は15万人あまりに減少。これは65年秋の水準。61年以来の米軍総戦死者は4万5千人に達する。

12.05 南ベトナム政府軍,国道1号線で作戦。

12.05 プノムペン北西25キロのBat Daengで激戦,翌日、政府軍は撤退。

12.06 政府軍,ビエンチャン南東500キロのサラバンから撤退。

12.06 南ベトナム政府軍,チュプに進撃,17日撤退。

12.07 B52がホーチミン・ルートを爆撃中、ミグ21による空対空ミサイル攻撃をうける。

12.07 プノムペン,砲撃さる。

12.08 カンボジア領クレク地方24キロのダンベ村で、政府軍降下部隊と解放勢力が3日間にわたる激戦。政府軍は死者10人,負傷者100人をだしダンベを撤退。(3日間の激戦で死者10人は少なすぎる。死者10人で撤退するのもヘン)

12.10 第7艦隊旗艦エンタプライズ,ベトナム沖を離れる。

12.10 ムジア峠北東約12.5キロの地点のラオス領で,米軍F105戦闘爆撃機が北ベトナム軍地対空ミサイルで撃墜された。70年3月10以来,米軍はラオスで74機を失なっているが、地対空ミサイルで撃墜されたのははじめて。

12.12 クイニョン港を守る米軍陣地131高地,解放戦線に攻撃さる,米兵死者1人,負傷者9人。

12.14 南ベトナム政府軍6千人とカンボジア軍4千人が、チュプのゴム園に展開する解放勢力を攻撃,4日間にわたり激戦が展開される。

12.13 ニヤンザン紙、米軍の北爆拡大の動きに対処するため戦闘準備を強化するよう,全軍民に呼びかけ。

12.13 南ベトナム政府軍6千人とカンボジア政府軍4千人がチュップで掃討作戦開始,4日後に終了。

12.14 祖国戦線が10年ぶりに第3回全国大会を開催。南部からグエン・バン・ゴイ解放戦線中央委員,ラム・バン・テト民族民主平和連盟副議長らの率いる解放戦線代表団と平和連盟代表団が参加。

12.15 政府軍1万人,プノムペン西方で反撃作戦開始。

12月中旬 北ベトナム正規軍、ラオス側から中部高原に入る。戦車、重火器による正規戦を展開するが、激しい空爆を前に2週間ほどで撤退。

12.17 ジャール平原周辺で北ベトナム・パテトラオ軍の攻勢が強化される。例年より2ヵ月早く、防空能力と砲撃力が飛躍的に強化される。

12.18 解放区内で解放戦線創立11周年記念集会が行なわれる。グエン・フー・ト議長は「やがて極めて決定的な戦闘の数々が起るだろう」と演説。

12.18 米機ファントム機がラオス上空でミグ機などに連日撃墜さる。

12.20 解放戦線,サイゴン市内にロケット弾2発を撃ち込む。

12.20 解放軍が1万5千人を投入し、ジャカルタ平原で攻勢。政府軍は死傷者500人を出し撤退。北ベトナム軍の死者も1千500人に上る(ラオス政府軍発表)。

12.23 米軍機、ハノイから120キロの地点を爆撃。

12.24 ペンタゴン、北ベトナムの防空態勢は過去1年間に倍増したと発表。ホー・ルート沿いには,地対空ミサイル130基以上,高射砲450門が配備された。空軍力は245機のうち165機が戦闘機で,そのうち40機はミグ21型機である。アメリカが配備した戦闘爆撃機は以前は1,200機だったが、現在は350機に減少。

12.24 愛国戦線のソット・ペトラシ駐ビエンチャン代表が記者会見。@ジャール平原を奪回した。Aタイ部隊7個大隊,バンパオ将軍の特殊部隊4個大隊が一掃され、ほかの9個大隊にも大きな損害を与えた。B今回のジャール平原攻撃は,訪中するニクソン大統領へのよき贈り物である。

12.25 5日間にわたり延べ1,000機を動員して北ベトナム20度線以南を爆撃。

12.25 ロンチェン北東22キロのパンナ陣地とカンコ陣地が解放軍の攻撃で陥落する。

12.25 シハヌーク、「白色人種のソ連は黄色人種のインドシナ人民の勝利を望まず」と発言。ソ連は猛反発。

12.26 米軍、68年の北爆停止以降、北ベトナムが合意違反を続けているとし、最大規模の北爆を実施する。200機が参加し、軍事施設を中心に30日まで5日間連続の爆撃を敢行。

12.27 レアード米国防長官が記者会見。今回の北爆は現地米軍司令部の要請に基づくもので,ニクソン政権が進めてきた防禦的反撃政策を逸脱するものではないと述べる。

北爆再開の理由: @サイゴンを含む南ベトナムの都市にたいする攻撃の再開。A非武装地帯の侵犯。Bパリ会談の停滞。C米偵察機への攻撃。D米機への攻撃増加。いずれも身勝手な理由。

12.28 南部ボロベン高原のパクソン、解放勢力の攻撃を受け,政府軍は西方に撤退する。

12.29 解放軍,ロンチェン基地西方19キロの政府軍拠点ムオンポワンを占領。

12.30 東部カンボジアで行なわれた政府軍の作戦が終了。見るべき成果なし。歩兵部隊の一部がクレク付近に残り,主力の空てい部隊等は撤退する。

12.30 ソ連政府、北爆を非難。ベトナム防衛力増強のため新軍事援助協定に調印し,ただちに,新型兵器を送り込んだと発表。

12.30 米軍司令部、5日間連続の北爆が終了したと発表。

12月 南ベトナム政府の支配地域が過去最大となる。農民の都市流出もあいまって、解放戦線の支配下の農民はテト前後の52%から22%にまで縮小。

12月 キッシンジャー補佐官が2度にわたり訪中。周恩来に米兵捕虜の釈放問題で迫るが、「インドシナ問題はパリ会談で当事者間で話合われるべきだ」として拒否されたといわれる。

 

 

1972年

72年1月

1.01 解放戦線は3日午前1時まで3日間の新年休戦。南ベトナム政府軍は1日午後6時まで24時間の新年休戦。

1.01  ニクソン大統領が年頭のテレビ会見。「米軍が残るかどうかは米軍捕虜の問題のみにかかっている」と言明。

1.01 政府軍、北軍2個連隊3,500人がコンツム省と,サイゴン北方の国道13号に浸透中と発表。

1.01 政府軍1万人が昨年11月6日以来プノムペン西方および北西郊外15〜25キロで続けてきた掃討作戦が終了,政府軍の死者157人,負傷者545人,解放勢力側の死者は1,253人。

1.02 政府軍,「トアンタン72A」作戦を開始。第III軍区所属の歩兵師団3個を中心に1万5千人が参加。カンボジア東部のクレタ・スオン地区と南ベトナムのタイニン・ビンロン両省を作戦地域とする。ラオスでの敗北以降しらみつぶしの掃討作戦が困難となり、解放勢力の浸透防止と国境警備を主眼とする。

1.02 ニクソン大統領が年頭記者会見。南ベトナム情勢の安定化を背景に,全面撤兵が米兵捕虜釈放のみにかかつていることを明らかにする。

1.03 解放戦線,ダナン米空軍基地にロケット4発を撃ち込む,米機3機破壊。

1.03 ロンカン省メース米軍基地北西15キロをパトロール中の米第11機甲師団第3旅団の部隊は,解放戦線の待ち伏せを受けて激戦,死傷者15人を出した。増援に向かったヘリ4機が撃墜された。

1.03 パテトラオ、ジャール平原およびポロヴェン高原を制圧。さらに政府軍要衝ロンチェンを攻撃。バンパオ将軍は司令部をロンチェン南西の飛行場に移す。米軍のレーダー基地も南160キロまで撤収。

1.05 米機、北ベトナムのタインホアなど2ヵ所を北爆。

1.05 北ベトナム,昨年の戦果を発表する。米軍および衛星国軍2万人を含む敵兵25万名をせん滅,破壊もしくは撃墜した飛行機1,800機,武器1万5千点を捕獲。

1.06 政府軍統合参謀本部、カンボジア作戦を担当する1万5000人の特別機動部隊の編成を承認。レンジャー部隊,ヘリ航空団2個,機甲化騎兵2連隊など精鋭を充当する。

1.06 政府軍、2週間以内にカンボジア内の常駐兵力を引揚げ,ネアクルンなどに設けている恒久基地をカンボジア軍に移管すると発表。

1.06 B52爆撃機,非武装地帯南に300トンの爆弾を投下。翌日には30機が1千トンの爆弾を投下。さらにプレーク南西70キロを2波にわたり爆撃。

1.06 パリ会談,4週間ぶりに再開。

1.07 解放戦線,ビエンホアの米第1騎兵師団に迫撃砲20発を撃ち込む。米兵負傷18人。

1.07 インドが北ベトナムと大使交換を決定。インドは国際監視委員会の議長国を勤めていたが、これまで北ベトナムと国交がなかった。

1.07 エーブラムズ司令官、タイを訪問しタノム首相にラオス派兵をタノム。タノムはロンチェンへの派兵に合意。

1.07 米軍事援助品105ミリ砲36門がプノムペン空港に到着,政府軍が保有する同タイプの砲は150門になる。カンボジアに対するアメリカの軍事援助で武器・弾薬の形で配布された額は71〜72年度2億ドルにのぼる。

1.08 政府軍3,000人,3国国境地帯南方およびダクコ西方一帯でカンボジアへの越境作戦開始。

1.08 パテトラオ、ロンチェン基地に130ミリ砲70発以上を撃ち込だあと突入攻撃。7千人の政府軍と近接戦を展開。

1.09 ゴ・ズー第1軍区司令官、「第23師団とレンジャー部隊がこれまで1カ月以上にわたって3国国境付近のラオス領内で秘密作戦を行った」と語る。

1.10 B52は2波でアシャウ溪谷を爆撃。

1.10 パテトラオ,ロンチェン基地東北12キロのサムトン飛行場を攻略,同基地北東2キロの政府軍陣地も陥落する。

1.10 パテトラオ,ビエンチャン北方170キロのサラプクンを砲撃,地上攻撃,政府軍死者9人,負傷者20人。同拠点の北と南で13号線は切断された。

1.10 政府軍,パクセ東方29キロ国道23号上のバンニクを8日からのパテトラオの攻撃のため放棄,政府軍特殊部隊3個大隊はパクセに撤退,政府軍死傷者130人。

1.11 政府軍,カンボジア領クレク,チュイドン,アルファ陣地から引揚げ。

1.11 パテトラオ,ロンチェン北東2キロの政府軍陣地を奪取,政府軍死者4人,負傷者30人。バンパオ将軍はロンチェン死守のため基地内に復帰。

1.11 カンボジア領内のクレクに進攻していた南ベトナム政府軍,突然撤退。これにともない、クレクを守備していたカンボジア政府軍第22旅団も、基地を放棄し南ベトナム領内に撤退する。クレクはプノムペン東110キロ,国道7号沿いの町。

1.12 米国防総省当局,ホーチミン・ルートを南下する補給活動が,B52の連続的爆撃にも拘らず,かなりの高水準に達していると発表。

1.12 パテトラオ,ロンチェン基地に侵入。

1.13 ニクソン大統領,第7次撤兵計画発表。米軍兵力を3カ月間に7万人減らして5月1日までに6万9千人とすると発表。地上戦闘要員はすべて撤退することとなる。この時点で駐留米兵は13万人。

1.13 レアード国防長官,米軍は戦闘責任を完全に南ベトナムに委譲し、第2段階として空軍と兵たんの責任を委譲しつつあると語る。南ベトナム軍は100万人にまで膨れ上がる。空軍機は現在1千機を越え,ほとんどすべての戦闘支援出撃は南ベトナム空軍によって行なわれているとする。

1.13 米機,クレクを爆撃。(こういうやり方では住民には絶対支持されません)

1.14 タイ政府軍部隊3千人がロンチェン基地に空輸される。

1.14 カンボジア領内に進駐していた南ベトナム政府軍が一斉撤収。西部のチャーリー基地の歩兵部隊4千人が南ベトナム領に引き揚げる。南部の部隊も作戦を終了しAngtassomの仮司令部に引揚げ。

1.16 ソン・ハオ人民軍総政治部長、「政治意識のある人間がいなければ,革命軍はありえないが,近代装備と技術的知識がなければ効果的な軍隊もありえない」と論及。

1.17 B52が中部高原と3国国境地帯を爆撃。政府軍は第2軍区本部を守る第22師団主力をラオス国境に配備し,カンボジアから撤退した空てい部隊など2万5千人を待機させる。

1.18 韓国の劉国防相、「南ベトナムから駐留韓国陸軍2個師団を73年末まで残留させるよう要請された」と言明。

1.18 政府軍歩兵20個大隊,機甲部隊など1万5000人,サイゴン北西70キロのミシェラン・ゴム園一帯で新作戦開始,この地域は従来,米第1騎兵師団が防衛に当っていた。

1.18 政府軍は米機の支援爆撃のもとに,ロンチェン北西の尾根を再占拠し,基地一帯を奪回する。

1.19 米空母エンタプライズ,インド洋からトンキン湾に戻り,ホー・ルート爆撃に参加。

1.19 カンボジアとタイが国境安全保障協定に調印。国境地帯に両国の連合部隊と共同の警察パトロール隊を置き,両国の軍隊,警察が共産軍を追跡して相手国領内に立入ることを許可しあう。

1.20 パテトラオ,ルアンプラバン南東60キロにあるサラプクンの政府軍司令部を占拠。

1.21 北ベトナム外交部,タイのラオス,カンボジアへの介入増大を非難し,これに警告する声明発表。

1.23 米軍,中部高原に対する爆撃を停止。

1.23 マンスフィールド米上院議員は,「パリ会談が失敗に終ったのは,ラオス,カンボジアを除外したからだ」と述べ,両国を加えた全インドシナ和平会談開催を提案する。

1.24 オーストラリアで対ゲリラ戦法の訓練を受けるため,カンボジア政府軍の第1陣70人がキャンベラ到着。

1.25 ニクソン米大統領,6ヵ月以内完全撤退などの8項目和平提案公表.ニクソンはこの演説のなかで、69年8月以来12回の秘密会談が行なわれていたことを明らかにする。

1.26 パリ会談の臨時革命政府代表団、ニクソンの8項目提案を非難する声明を発表。

1.26 南ベトナム臨時革命政府は6項目の行動指針を発表し、国民に決起をよびかける。

1.26 パテトラオ,パクセ北東30キロのケンハオを制圧,同地は政府軍2個中隊が守っていた。

1.27 第142回パリ会談、米・南ベトナムは共同で8項目のニクソン提案を正式提示。キッシンジャーは北ベトナムに25億ドルの復興資金提供をすると提案。北ベトナム側はこれに対抗して9項目の新提案。

1.27 夜,プレクトノット・ダムに80発の迫撃砲弾が撃ち込まれる。被害なし。

1.28 サイゴン北西10キロのクアンチュンの政府軍訓練所近くで政府軍レンジャーが解放勢力と戦闘・解放勢力死者23人。

1.29 解放勢力が非武装地帯南で乾期攻勢を開始。北軍数千が非武装地帯と南ラオスから侵入し、ドンハ北北東,北西の海兵隊,機甲部隊の前進陣地に迫撃砲,ロケットを集中する。

1.29 ルアンプラバン飛行場,砲撃さる。

1.29 シエムリエプ・アンコール地区で,Sar Hor少将指揮下に「アンコール・シェイ」作戦開始。アンコール・ワット寺院に潜むゲリラの掃討に乗り出す。歩兵4個旅団6,000人以上が4方面からアンコール・ワットを包囲。

72年2月

2.02 米上院の有力者マスキー議員、ニクソン提案を批判。全面撤退期限の明示と南ベトナムのすべての政治勢力との和解を提唱する。

2.02 南ベトナム臨時革命政府、2項目詳説を提案。

2.02 政府軍機動部隊2千人が装甲車30台の支援を受けてカンボジア領内への越境作戦を開始。

2.03 臨時革命政府,@米軍全面撤兵の期限の明示,Aチュー政権の即時辞任の2項目を要求する。

2.03 ロジャース国務長官、「暫定政府の構成やチュー大統領退陣の期日については弾力的に臨む」と述べる。

2.03 パテトラオ、ビエンチャン北方40キロのムオンカシを制圧。ムオンカシはビエンチャンとルアンプラバンを結ぶ国道13号線上の要衝。

2.04 解放戦線のテト攻勢に備えて,サイゴンの政府軍・警察が厳重警戒体制に入る。

2.04 政府軍,ビエンチャンとルアンプラバン間の拠点ムオンカシを放棄。

2.06 スアントイ首席代表がCBSテレビ番組で語る。「71年に全面撤退期日明示と捕虜釈放案を出したとき、我々はニクソンがこれに応えることを真に希望していた。すなわち米軍を撤退させ,チューを10月選挙を通じて代えることである。しかしニクソンはこれを拒否した。チュー大統領は依然残っており,米国はベトナム化政策を続けている」と非難。

2.09 解放戦線,ビンディン省のフーミ,フーカット,タムクアンをはじめ全土で43件の攻勢に出る。

2.09 米空母コンステレーションが帰休先からベトナム帰航。コーラルシー,ハンコックと合わせて海軍戦闘機は250機になる。ほかにB52,ファントムがグァム島で出動態勢にある。

2.10 解放戦線,ホイアン東南東13キロの政府軍陣地に82ミリ砲52発を撃ち込んだ後,奇襲攻撃をかける。政府軍死傷23人,解放戦線死者40人。

2.10 米軍、南北ベトナム全域に対し1週間にわたる大規模爆撃を開始。とくに南ベトナム北部の解放戦線支配区への爆撃を集中。B52がダナン西南42キロを6波で爆撃,540トンの爆弾を投下する。

2.10 チュー大統領、「ロジャーズ米国務長官の発言が事実だとすれば,南ベトナムの主権に対する侵害である」と非難。

2.10 政府,アンコール・ワット,アンコール・トム遺跡での戦闘を行なう権利を留保する旨警告。

2.11 レアード国防長官,「南ベトナム空軍が完ぺきな防衛機能を発揮できるようになるまでは米海軍はベトナム海域にとどまる」。

2.11 パリ郊外ベルサイユで「インドシナ人民の平和と独立のための世界集会」開会。

2.11 解放戦線,クイニヨン北50キロフーミの政府軍陣地を攻撃,解放戦線死者100人,政府軍死者13人。

2.11 政府軍12個大隊3千人,ロンチェン基地周辺で反撃作戦開始。(ずいぶん小さな“大隊”ですが)

2.11 政府軍,アンコール・ワット,アンコール・トム遺跡への攻撃を開始。

2.12 B52,コンツム省,トアチエン省ラオス国境などに12波,戦闘爆撃機はクアンチ,コンツム,プレークなどに172波の爆撃。

2.13 政府軍,ムオンカシを奪回。

2.13 B52,19波で3国国境地帯を爆撃。戦闘爆撃機も162回の出撃。

2.14 B52,クアンチ省のラオス国境一帯に10波,プレイク北西,コンツム西部の国境地帯に17波の爆撃。戦闘爆撃機もコンツム省を中心に176回の爆撃。

2.14 米,政府軍,解放戦線,テト休戦入り。

2.14 カンダル州,コンポン・スプー州でNou Tho准将指揮下に“Trapeang Thnot-Tuol Leap”作戦開始,28日終了。解放勢力死者2人,政府軍負傷者19人という情けない戦果。

2.14 ニュージーランド政府,カンボジア軍訓練のため18人の軍事顧問団を派遣。南ベトナムのカムラン近くで、米軍と協力して訓練にあたることとなる。

2.15 アンコール・ワット遺跡付近での軍事衝突が激化。解放軍4,000人,政府軍5,000人が自動火器に限定して戦闘を繰り広げる。連合政府首相ペン・ヌート,アンコール遺跡を守るよう僧侶・人民に呼びかけ。

2.16 米軍機,非武装地帯の北レーツイ地区,ビン・リン地区を爆撃。

2.17 ニクソン大統領,訪中のためワシントンを出発,21日北京到着。

2.18 テト休戦明け,B52は10波,戦闘爆撃機が139波で非武装地帯南部を爆撃。その後非武装地帯北側ビンリン省を5日間にわたり爆撃。北と南ベトナム臨時革命政府代表は北爆強化に抗議して第145回会談を欠席する。

2.18 パテトラオ放送、「今や銃火はいたる所に火をふいている。銃火はムオンカシばかりでなく,ビエンチャン,ルアンプラバン,サバナケット,パクセその他の地域でも火を吹くことは確実である」と予告する。

2.18 政府軍,48時間の激戦の後,アンコール・ワットの西部地区のネアムルプ寺院,アンコール・トムのバイヨン寺院を奪回。

2.19 メコンデルタで解放戦線による4件の攻撃。政府軍は死者57人,負傷36人の損害を出した。

2.21 ニクソン大統領が訪中し毛沢東と会談。平和共存の原則を確認。北ベトナム・臨時革命政府は一切の経過を黙殺。

2.21 解放戦線,27カ所で43件の砲撃作戦。コンツム市にロケット砲6発,ビエンホア米空軍基地にロケット6発を撃ち込む。

2.21 シエムリエプ市北東地区で,「アンコール・シェイ」作戦中の政府軍は解放勢力と終日白兵戦を演じ,死者11,負傷者30人の損害を受けた。

2.24 米機、7日間連続の北爆。パリ会談の南北ベトナム代表、米の爆撃強化に抗議して退場。

2.24 南ベトナム政府軍4千人,デルタのチャウドク省防衛のため,カンボジア領に入り越境作戦を開始。

2.25 解放戦線,デルタのウーミン森近くの政府軍前進陣地を攻撃,政府軍死者5人,負傷者10人,解放戦線死者11人。

2.25 チュー大統領は『ニューヨークタイムス』と会見。東南アジアを中立化するための首脳会談の開催を歓迎すると述べる。首脳会談はサイゴンで開き,北ベトナムの参加も歓迎するとしている。

2.27 カンボジア政府軍と南ベトナム政府軍は共同で,スベイリエン市東,北,タケオ州Angtassom等での作戦開始。

2月 韓国海兵隊がベトナムを離れる。3月にはオーストラリアの機動部隊も撤退。

72年3月

3.01 サイゴンの米軍司令部、米軍兵力は12万4100人,うち米軍地上戦闘部隊は9大隊を残すだけとなったと発表。69年の最高時には112大隊が駐留していた。

3.01 B52,ダナン南方に2波,アシャウ渓谷に4波,西部高原に4波の爆撃。

3.01 解放勢力がコンポントムで反撃に移る。市街南方の政府軍陣地で,10日間の激戦。政府軍死者26人,負傷者90人,解放勢力死者400人。

3.01 西部でも解放勢力の反撃開始。シエムリエプ西方20キロ,32キロの二つの陣地が解放勢力に攻撃され、政府軍死者17人,負傷者20人。

3.02 政府軍1万人が3国国境地帯で作戦開始。ケサン,アシャウ,アルオイ一帯の北軍は2万人とみられる。

3.03 米空軍、カムラン湾空軍基地からの撤収を開始。

3.03 『ニャンザン』紙、初めて米中国同声明について論評。ニクソン米大統領の目論見を非難する。

3.03 軍事法廷、戦闘中捕えられた北ベトナム軍捕虜3人に死刑の判決を下した。戦争捕虜の処遇に関するジュネーブ条約を無視したもの。

3.04 米機,非武装地帯南部に13波の爆撃,6日連続で10波以上の爆撃となる。

3.05 カンボジア王国連合政府代表が北ベトナムを訪問。米帝国主義を非難する共同声明を発表。

3.05 政府軍数個大隊による第二次アンコール・シェイ作戦。2月29日以来の政府軍死者77人,負傷者251人,解放勢力死者105人。(あまりにも正直な“公式発表”です。これでは政府軍に参加しようとする青年などいなくなってしまう)

3.07 政府軍,カンボジア領おうむの口ばし地区と釣針地区に越境作戦を開始,先遣部隊のレンジャー3,700人が越境,進攻部隊は今後2万人にのぼる見込み。

3.07 マーシャル・グリーン米国務次官補がプノムペン訪問,シリク・マタタ首相代行,コン・ヴィック外相と会談し,ニクソン訪中について説明。このあと空港での記者会見で「我々はクメール人の自衛の努力を今後も支持する」「同時に我々は交渉による解決を追及している」と言明。

3.08 パテトラオ軍、パクセとパクソンの間にある政府軍拠点ラオンガムを攻撃。4日間の戦闘が繰り広げられる。政府軍2個大隊は空からの大がかりな支援にも拘らず撤退を余儀なくされる。

3.09 空母キティホークがベトナム水域に到着。ベトナム作戦に配置されている空母は計4隻に増える。

3.10 政府軍5千人がカンボジア領スベイリエンの1号線北側に越境作戦,戦車150台,砲100門が参加,司令官はグエン・バン・ミン将軍,さらに政府軍2万人がタイニン省国境地帯に集結中。

3.10 周恩来がハノイを訪問して経過説明。当初この訪問は発表されず、後にシアヌークの言明により明らかになる。

3.10 第101空挺師団がヴェトナムから撤退する。

3.10 パテトラオ,ジャール平原南部にある政府軍サムトン基地を攻撃。サムトン基地はタイ人部隊4,000人が主力となって守っていた。

3.10 カンボジア新憲法の審議を巡り制憲議会とロンノルが対立。ロンノルは議長(国家元首)を解任し、みずから国家元首に就任。制憲議会の閉鎖を発表,制憲議会は11日に新憲法草案の採決を行なう予定だった。

3.10 南ベトナム政府軍、トアンタン72B作戦を開始。4万人が国境に集結し,6千人がオウムのくちばし地区から国道1号線沿いに侵入。大隊規模の戦闘があり解放勢力40人が戦死,政府軍も10人が死傷。

3.11 トンキン湾に4隻目の空母が増派される。連続11日間北ベトナムを爆撃。

3.11 タケオで戦闘。翌日にはさらにコンポン・チャク付近で4時間の戦闘。解放勢力死者11人,政府軍死者2人,負傷者16人。

3.11 南ベトナム軍の別部隊が釣針地区から侵入。先頭はクレクに到達し,周辺に砲火支援陣地4カ所を再建する。

3.12 パテトラオ,ロンチェン飛行場と、ロンチェン基地を望む尾根に砲弾を降らす。

3.12 大統領制に関する政令公布。ロンノル元首は大統領の称号をとり,その下に内閣と治安会議をもつこととなる。さらにロンノルは3軍総司令官と首相も兼任する。

3.12 政府軍レンジャー部隊,スベイリエン州で戦闘,政府軍死傷18人,解放勢力死者12人。

3.13 カンボジアが大統領制に移行。ロン・ノル大統領の下にソン・ゴク・タン首席大臣等の構成で発足する。カンボジア政府、生活必需品の輸入の確保と民生の安定を目的とした為替支持基金(ESF)を設立。

3.13 ユエ南西30キロで政府軍と解放勢力が大隊規模の衝突。また3国国境地帯に派遣された政府軍空てい部隊は,コンツム省国境地帯の砲火支援基地付近で中隊規模の解放軍と戦闘。解放勢力は非武装地帯南の政府軍歩兵部隊基地アルアァ3に46発の迫撃砲弾を撃ち込んだ。

3.13 パテトラオ、36時間の激戦の後サムトン基地を奪取。

3.14 パテトラオ,ロンチェン基地周辺の3基地を攻撃。翌日には基地を見おろすスカイライン・リッジを制圧。

3.15 解放戦線、各地で41回の一斉攻撃をかける。

3.15 米軍司令部は5,700人の撤退予定を発表。これで米地上戦闘兵力は7大隊に縮少される。13日現在の米軍兵力は11万4500人。

3.16 シリク・マタク前首相代行,ラジオを通じ「政界から引退する」と発表。ロンノル大統領はシンバル駐日大使に組閣を要請するが,シンバルは組閣の意志がないと表明。

3.17 B52,30機以上が南ベトナムの北部・中部を爆撃,750トンの爆弾を投下。

3.18 アシャウ溪谷の解放軍が,ユエを防衛する政府軍の前線基地を攻撃。ユエ南西30キロの政府軍陣地に迫撃砲弾300発が撃ち込まれる。2日間で政府軍死者7人,負傷者75人,解放軍死者230人。

3.18 パテトラオ主力の20個大隊が参加し,ふたたびロンチェン攻撃を開始。基地北方の尾根上のヘリ発着場2カ所を奪取。

3.20 政府,新内閣の閣僚名簿を発表。首相に就任したソン・ゴク・タンは、「北ベトナムはいぜんわが国への侵略を続けている。戦争の終結は赤クメールではなく,北ベトナムの出方にかかっている」と発言。

3.21 B52爆撃機が北ベトナム爆撃に加わる。

3.21 解放軍,プノムペンに200発の122ミリロケット弾,迫撃砲弾を撃ち込む。死者110人,負傷者280人,木造家屋272戸が焼失。またプノムペン空港にもロケット弾30発が撃ち込まれた。国営放送局には決死隊が攻撃を加える。

3.22 ミト市南方15キロのチュクジアンの民兵司令部,警察署などが解放戦線に攻撃される。戦闘は市街戦となり,政府側に死者19人,負傷者28人が出た。またタイニン市西方2キロの政府軍陣地にロケット弾30発が撃ち込まれ,政府軍7人が死亡,7人が負傷,30万リットルのガソリンが炎上する。

3.23 韓国軍が撤退完了

3.23 ニクソン米大統領、北ベトナムが「まじめな交渉」を拒否しているとし、第147回拡大パリ会談の中断を宣言。

3.24 B52,10波で3国国境地帯のケサン高原とアシャウ溪谷を爆撃。

3.24 南ベトナム政府軍の増援部隊3千人がクレクを目ざして越境。

3.25 統一戦線と連合政府,民族解放人民武装勢力の最高軍事司令部と,プノムペン市委員会の構成を発表する。

最高軍事司令部: 議長キュー・サムファン総司令官,副議長サロト・ソル軍作戦部長,同ノン・チェア軍政治部長,同ソ・ワナ軍作戦部副部長。
民族統一戦線首都プノムペン市委員会: 議長ノロドム・フリサラ殿下,副議長チウン・チェウン博士,同キュー・ポナリー夫人。

3.25 解放勢力、コンポン・チャクの南ベトナム軍機甲部隊に122ミリロケット砲200発を撃ち込む。この戦闘で政府軍死者15人,負傷者20人。解放勢力死者15人。コンポン・チャクはカンポト東30キロ。

3.25 政府軍,コンポンスプー州コンポン・チャム東で“Prey Khlar”作戦開始。

3.25 解放軍,プノムペン空港の軍基地にロケット弾を撃ち込む。

3.26 カンポト州コンポン・チャクの南ベトナム軍基地が,ふたたびロケット砲攻撃をうける。カンボジア・南ベトナム合同軍は23〜27日の間に49人の死者を出す。解放勢力の戦死者は75人。

3.28 政府当局,プノムペン市民に対し,解放勢力側の首都攻撃に備えて自ら武装し,家屋の下にざんごうを掘るよう指示する。

3.29 米軍戦闘部隊の全面撤退が完了。

3.29 南部ラオスで米空軍AC130攻撃機が3発の地対空ミサイルの攻撃を受けて撃墜さる。

3.29 ロンノル大統領が,国民向けのメッセージを発表。「私は北ベトナムとベトコンに勝利するパルチザンである。クメール集団が他のクメール集団を踏みつぶしてはならぬ」と訴える。

3.29 政府軍司令部、プノムペン全市に特別布告。「4月3日前後に共産軍がプノムペン市内に大規模な攻撃をかけてくる可能性がある。ナイフ,ライフル銃,剣などをとり,ざんごうを掘って徹底抗戦する」よう要請する。首都周辺には政府軍2万人が防衛線を築く。

3.29 解放勢力、ネアクルンに122ミリロケット砲撃。3日後には プレイベン市も砲撃される。


 

72年3月 春季大攻勢(イースター攻勢)

春季大攻勢: 米側はイースター攻勢と呼んだ。和平交渉に抵抗するチュウ体制に揺さぶりをかけることが目的といわれる。北ベトナム軍は当時保有する戦闘部隊の大部分を動員。クアンチに6個師団、アンロクに3個師団、メコンデルタに2個師団、ほかダナンにも1個師団が進攻した。
大量の戦車・重砲と10万人以上の兵力でクアンチ省を攻撃。同時に中部高原、アンロク周辺のカンボジア国境地帯でも攻勢を開始する。南ベトナム情報筋は非武装地帯からの主要打撃を予測していなかったといわれ、南ベトナム軍は混乱に陥る。

3.30 解放勢力3個師団と機械化部隊3個連隊の計5万人が、ドンハ北方の非武装地帯に集結し、一斉攻勢を開始。

3.30 「解放勢力」が非武装地帯南側の南ベトナム政府軍拠点、一日だけで3千発の砲弾を浴びせる。とくにには500発の砲弾が打ち込まれる。

3.30 解放勢力,非武装地帯南の政府軍の前進基地、ジオリン,ドンハの町など8ヶ所に激しい砲撃を加える。前進基地はアルファ4、チャーリー1,2およびマイロクの4ヶ所。この4ヶ所でこの日だけで政府軍死者35人,負傷者100人を出す。

一斉砲撃: 砲弾は2日間で4千発におよんだ。600発のロケット弾,曲射砲弾を撃ち込まれたマイロク基地は放棄される。チャーリー2陣地には1千発の砲弾が撃ち込まれた。フラー基地,ジオリン西方では激戦が展開された。また中部高原のコンツム西方5号砲撃支援基地にも300発の砲弾が浴びせられた。

3.30 T54、T55戦車160台を先鋒とする北ベトナム軍第304師団が、非武装地帯を越えて省都クアンチを攻撃。フエ駐留の南ベトナム軍は、40キロメートル北上し応戦する。

T54戦車: 乗員4人の中型タンク。気密装置とシュノーケルを装備し、5メートルの深さの川が横断可能だった。

3.31 解放勢力,引き続き激しい砲撃。その後、非武装地帯沿いのケジオ基地,フラー基地,バホ東方の陣地を奪取。夕方にはジオリン付近で激戦,解放勢力死者170人,政府軍死傷者31人。ジオリン一帯の住民300人は南方へ避難。

31日の砲撃: カムロ北6キロのアルファ4基地に1,200発の122ミリロケット砲,ジオリン南5キロのチャーリー1基地に900発のロケット砲,カムロ北5キロのチャーリー2基地に800発のロケット砲を撃ち込む。政府軍はこれらの基地をすべて放棄。ドンハ市にも120発のロケット弾が撃ち込まれ,住民1万人はほとんど避難する。

3.31 南ベトナム軍、キャンプ・キャロルなど5つの基地を放棄し撤退。タイニン省では政府軍の一部が出動を拒否する。

72年4月1日

4.01 解放勢力が全力を挙げて春期大攻勢をかける。南ベトナム全土57ヶ所で砲撃が開始される。攻撃の重点は南ベトナム最北端のクアンチ省、中部高原の要衝コントゥム、フエ西方の国道9号線、中部海岸沿いのビンディン省、サイゴン北のカンボジア国境沿いのアンロク、サイゴン北西ビンフォック省など。サイゴン近くにも北ベトナム戦車が出現する。

4.01 政府軍は非武装地帯沿いの15の拠点のうち10カ所からすでに撤退し,わずかに孤立した砲兵陣地2つと,ドンハ,クアンチ両市の基地を確保する。

4.01 政府軍は非武装地帯南の防衛線を放棄し,約16キロ南へ退ったクアベト川沿いに新たな防衛線を設定。海兵1個師団が増援に向かい,切札の空挺旅団にも待機命令が下される。

4.01 B52,非武装地帯南を爆撃。 ウェイアンド米軍副司令官がダナンに急行。米軍事顧問と大砲の弾着監視員である残留米軍人3〜40人をクアンチ省からユエに引揚げる。これにより非武装地帯周辺の米軍は後方支援の砲兵1個大隊を残すだけとなる。

72年4月2日

4.02 解放勢力はこの日も政府軍に対し,2千発のロケット弾を撃ち込む。2つの前線基地キャンプ・キャロルとマイロクが解放勢力の手に落ちる。

4.02 政府軍は非武装地帯南16キロのドンハと更に南へ12.8キロのクアンチ市に撤収。ドンハ近くでは解放勢力と政府軍の戦車部隊が砲撃戦を展開。クアンチ市の2万2000人の市民の多くは50キロ南のユエに避難しており,ジオリン,カムロ,ドンハなどから5万人の避難民がクアンチ市に流入している。

4.02 解放勢力はサイゴン北西120キロ,国道22号上の砲撃基地ペース(ベトナム名ラクロン)に600発のロケット砲撃を加えた後,地上攻撃をかけて奪取する。

4.02 クアンチ駐留の南ベトナム軍第三師団第56連隊の一部が、解放勢力側に寝返る。農村部では10万人の蜂起により戦略村を破壊、平定作戦を担っていた民間防衛隊を解体する。

4.02 北ベトナム軍が南ベトナム領内の非武装地帯16キロと非武装地帯南側のクアンチ省のほぼ全域を制圧。この戦闘で南ベトナム軍の戦車数十台が全滅する。

北ベトナム軍はAT-3対戦車ミサイル(マリュートカ、NATO名サガー)を使用し大きな戦果をもたらした。このミサイルは第一世代の携帯型有線式ミサイルで、射手が照準器を覗きながらジョイスティックで有線誘導する。一部では新鋭機のSA-2やSA-7も用いられたという。

72年4月3日

4.03 フエ西方のアシャウ渓谷から進出した解放勢力、フエに攻撃を集中。南ベトナム軍と海兵隊が激しく反撃。南ベトナム軍はフエ死守を指示。守備隊4千人に精鋭空挺部隊の増援が加わり、反撃を開始する。

4.03 政府軍,1個師団(1,2万人)相当の海兵,レンジャー機甲部隊をクアンチに派遣。 政府軍8,000人,タイニン市から出撃。 夕方,クアンチ市南西10キロの政府軍海兵隊基地に150発の130ミリ砲が撃ち込まれる。 朝,3国国境地帯にある政府軍砲撃基地に対し,解放勢力2個中隊が攻撃をかけ戦闘,解放勢力の死者350人,政府軍の死者20人,負傷者54人。

72年4月4日

4.04 解放戦線,ユエ近郊に進出。フエの西32キロのアン砲兵陣地を占拠,南西25キロのバストーニュ砲兵陣地を包囲。救援に派遣された政府軍1,200人と5日間にわたり激戦を展開。

4.04 解放戦線5,000人,サイゴン北方100キロのビンロン省都アンロク市を攻撃。アンロク周辺には精鋭のレンジャー部隊3個連隊が配置されていたが,北部にふりむけられ、これに代わり民兵隊が守備を担っていた。

4.04 政府軍、アンロク南方50キロのライケに駐留している第5歩兵師団から1個連隊をアンロク救援に送る。

4.04 非武装地帯南に対する解放勢力の攻勢が一段落する。政府軍はクアンチ市北方13キロのドンハ市南部ドンハ川の南岸に防御ラインをしく。ドンハ河口のクアベトに海兵隊3,000人が上陸。

4.04 20機のB52がクアンチ市南方20キロ付近に500トンの爆弾投下。ユエ市には2万人の避難民,ダナン市にも3,000人の避難民が流入している。

4.04 南ベトナム政府軍のラム司令官が記者会見。「北ベトナムのねらいはクアンチ省とトアチエン省の占領だが、クアンチ市は陥落できないだろう。政府軍と米軍は総力をクアンチ市に配備した。政府軍は北側の戦車50台を破壊した。北側の死者は2千人,負傷者は3千人に達している。これに対し政府軍は死者200人,負傷者1千人に止まっている」

4.04 チュー大統領がテレビ演説。「北ベトナムは29日以来,ドンハを侵攻するために5師団,5万4千人の兵力を送り込み,3国国境でもコンツムを攻撃するために新たに1個師団を増派した。北ベトナムの目標はクアンチ,トアチエン両省を占領し,臨時革命政府の支配地域とするためである。現在は南ベトナムの生存にとって決定的な局面であり,この戦闘が南ベトナムの運命を決めるだろう」

72年4月5日

4.05 解放戦線のクアンチ・トアチエン戦線司令部がアピールを発表。「1週間にわたる戦闘で,政府軍1千人以上を捕虜にし,14の基地を制圧または放棄させた」と述べる。南ベトナム軍第3師団の兵力は半減した。

4.05 B52は6波,戦闘爆撃機は217回にわたりクアンチ省を爆撃。政府軍は第3師団,海兵,レンジャーなど計2万人をクアンチ省支援に振り向ける。を増援。

4.05 政府軍,クアンチ市北東20キロのクアベト川河口の海軍基地、南西10キロのアン火砲支援陣地を放棄。

4.05 解放勢力,ユエ南西20キロの政府軍火砲支援陣地バストーニュを攻撃。政府軍損害50人,解放勢力死者179人。

4.05 米第1空輸機動師団所属の2個中隊がサイゴン近くから北部に急派された。

4.05 解放勢力、サイゴン北120キロのロクニンを攻撃。翌日に制圧する。

4.06 1個大隊規模の解放勢力部隊が国道13号を進撃。サイゴンから60キロの地点に迫る。

72年4月7日

4.07 解放勢力、サイゴン北西ビンロン省の郡都ロクニンを占拠。後に臨時革命政府の首都となる。

4.07 解放戦線、ロクニン北東24キロにある郡庁所在地ドドクを陥落。政府軍のドドク防衛隊数百人は10日ヘリで脱出する。

4.07 解放戦線はさらにアンロクの制圧を目指す。アンロクはビンロン省の省都で、政府軍第5師団が出動した後、2個連隊が防衛にあたっていた。(現在はビンロン省はビンフォク省に統合され、アンロクは省都ではない)

4.07 政府軍、アンロクの第5師団をロクニンに急派するが,解放戦線の妨害にあい進撃をはばまれる。ロクニンから撤退した第5師団の2個連隊はロクニンの南5キロに防衛線を引く。

4.07 解放戦線,メコンデルタのビンビン省,バスエン省,ビンロン省,チュオンチエン省,アンスエン省などで攻勢をかける。メコンデルタの南ベトナム軍は1個師団を非武装地帯南部の戦闘に引き抜かれていた。

72年4月8日

4.08 政府軍第3歩兵師団の部隊,クアベト海軍基地を奪回。

4.08 メコンデルタの中心都市ミトに砲撃。カントのカイラン橋が爆破されサイゴンへ通じる交通がしゃ断される。

4.08 解放戦線,サイゴン西北88キロのヌイバデン米軍無線中継基地に180発の迫撃砲弾を撃ち込む。

72年4月9日

4.09 クアンチ市北2キロで激戦。政府軍は増強された海兵,レンジャー,第3師団などが参加する。政府軍は死者9人,負傷者20人。解放勢力の死者は1千人とされる。

4.09 ユエ西南20キロでも激戦,解放勢力死者40人,政府軍死者40人。

4.09 解放戦線2個大隊2千人がアンロクを攻撃,その他カムラン米軍基地も奇襲をうける。

72年4月10日

4.10 解放戦線、3個師団でチョンタンを攻撃。チョンタンはライケとアンロクの中間にあり、政府軍の第5、第21師団とビエンホアからきた第18師団の1個連隊が駐留していた。

4.10 政府軍、アンロク防衛のためデルタ地帯駐留の第21師団を派遣する。

72年4月11日

4.11 解放戦線最高司令部、将兵に対し,全戦線にわたって攻撃に出ることを命令。「ベトナム化と平定計画を粉砕するため人民戦争を拡大せよ」と訴える。北ベトナム政府、「ベトナム人民はベトナムの場所を問わず米侵略者と戦う権利と義務を持っている」と声明。

4.11 解放軍、アンロクを包囲。アンロク市内は政府軍8,000人が確保。救援に向かった政府軍増援隊1万人は,国道13号を北進し,アンロクから20キロの地点に到達。

4.11 ダナン駐留の米第196軽歩兵旅団の一部が,ユエ南部のフバイ空軍基地に移駐。実戦参加に備える。

4.11 米,政府軍機は24時間で490波の出撃,B52も南領内に19波の攻撃。

72年4月12日

4.12 ハノイ放送,国道9号線沿いのジオリン,カムロを解放したと発表。

4.12 北ベトナム軍、南ベトナムの南北の分断を図るため、中部高原のコントゥムへの攻撃を開始。コンツム北西25キロの政府軍空てい部隊の前進基地を襲う。

4.12 政府軍増援隊,アンロク包囲線を突破して市内の守備隊と合流。

4.12 ビエンホア米軍基地に82ミリ迫撃砲弾14発が撃ち込まれる。

4.12 B52,19波出撃,戦闘爆撃機297波の出撃。

72年4月13日

4.13 北ベトナム軍、戦車を先頭にフエに突撃。市内北部に橋頭堡を築く。B52が空からの爆撃を展開。市民がいち早く避難したため、「盾」を失った解放勢力は苦戦を強いられる。

4.13 解放勢力,アンロクに総攻撃をかける。

4.13 解放戦線,ダナン米軍基地に18発のロケット弾を撃ち込む。

72年4月14日

4.14 北ベトナム軍、補給の困難からフエ制圧をいったん断念。

4.14 政府軍,アンロクから解放軍を撃退したと発表。

4.14 解放戦線,タンソニャト空軍基地を夜襲するなど、107件の攻勢,

4.14 解放戦線、北部での攻勢に呼応して、テト攻勢以来となる大規模攻撃。午前6時までの24時間に、南ベトナム全土の107ヶ所で攻勢をかける。中小都市への小規模攻撃が中心。(テト攻勢の失敗に学んだ?)

4.14 ソ連製の最新兵器である携帯型地対空ミサイルSA-7がヘリを次々に打ち落とす。

SA−7: NATO名グレイル。重さ9.2kgで携帯可能。赤外線ホーミング誘導。二段式個体燃料で射程3キロ。高度千メートルまで到達可能。66年のプロトタイプと、71 年配備のSA−7Bでは飛躍的に性能が向上。導入当初は、米軍の攻撃ヘリコプターや輸送ヘリコプターに対して、33%という驚異的な撃破率を誇り、ジェット機をふくむすべての航空機にとって脅威となる。

72年4月15日

4.15 解放放送、卜議長の人民に対するアピールを放送。「政府軍兵士,官吏,家族などは解放戦線の側に立とう」と呼びかける。

4.15 解放放送、「解放軍が午後1時アンロクを占拠し,アンロク南30キロのチョンタンへの攻撃に移っている」と報道。政府軍は空でい部隊をアンロクに増援,解放戦線はまたサイゴン北西10キロのクアントラン政府軍訓練施設を砲撃。

4.15 解放勢力、ビンディン省のオレンジ基地を攻撃。オレンジ基地はビンディン省北部ボンソンから西に向かった郡都ホアイアンの防衛基地で、ホアイアン北3.2キロ、国道1号から4キロに位置する。政府軍第27師団の1大隊が守備していたが,同師団が中部高原の増援にまわされたため,地方軍が代わって守っていた。

4.15 解放戦線,包囲中のユエ南西16キロの戦略拠点バストーニュに200発の砲撃。

4.16 解放戦線,クイニヨン北90キロの政府軍基地を攻撃。政府軍死傷者41人,解放戦線死者86人。

4.19 午前6時までの24時間に,解放戦線は全土で103件の攻撃。

主要な攻撃: @未明,サイゴン北方37キロのベンカトを攻撃,ベンカトの北3キロにあるライケの補給基地にも迫撃砲弾19発を撃ち込む。Aアンロクを攻撃した解放軍戦車隊は,サイゴン北56キロを南下。B朝、政府軍はビンディン省のオレンジ基地を放棄する。Cプレークとビンディンを結ぶ国道はすでに寸断されている。

4.19 解放戦線はアンロクに対する攻撃を再開し,市内に1,600発のロケット弾を撃ち込む。

4.20 全土での戦闘は102件を数えた。解放勢力の攻勢はコンツム周辺とその東側の海岸地帯で強まっている。その他解放戦線はアンロク南東4キロにある政府軍陣地を攻撃,同陣地を守っていた空てい部隊1個大隊の100人以上を死傷させた。

72年4月21日

4.21 解放戦線,アンロクの政府軍に1,000発の砲弾を浴びせる。またサイゴン北西65キロ,ビンズオン省ダウチエンへも攻勢を強める。

4.21 政府軍空てい部隊,コンツム市北西28キロの砲撃基地デルタを放棄,南方500メートルの別の陣地に撤退。

4.21 デルタのアンスエン省トイビン町近郊の政府軍基地が40発の砲撃をうける。またチュオンチエン省キエンロンの町役場も砲撃さる。

4.21 米機、南ベトナムの戦場地域に641波の爆撃を行う。

72年4月23日

4.23 解放軍地上部隊がアンロクに突入。

4.23 政府軍、解放勢力のサイゴン締めつけに対し防備を強化。ユエ近郊から数千のレンジャー部隊,中部3国国境地帯から一部の降下部隊を引揚げ,サイゴン周辺に配備する。

4.23 B52は24波,米戦闘爆撃機は430回の支援爆撃を行なう。

4.24 中部高原タンカン基地の政府軍第22歩兵師団本部、解放軍戦車隊が攻撃をかけたあと、プレークの第2軍管区本部との連絡を断つ。

72年4月25日

4.25 ダクト市陥落,政府軍はコンツムから15キロの新防衛線まで後退。解放放送はコンツム総攻撃を命令する。政府軍は1個師団がコンツム防衛に当っているほか,バンメトートの第22師団をコンツム一帯に投入し始めている。

4.27 フエ制圧を断念した北ベトナム軍は、クアンチへ攻撃を集中。包囲猛攻の末にソ連製のT54戦車五十数台を突入させる。

4.28 解放軍がクアンチに猛攻。住民はユエに向けて避難をはじめる。政府軍の第3歩兵師団,海兵,レンジャー各部隊(計1万人)がクアンチを守る。

4.28 政府軍はユエ南西20キロのバストーニュ基地を放棄。

4.29 北ベトナム軍、ドンハを制圧。

4.29 ホアイアンの北東10キロの郡都ホアイニヨン(ボンソンの北)が、解放軍3個大隊の攻撃をうけて陥落。

4.30 クアンチ南方10キロの政府軍陣地陥落。クアンチ市は完全に包囲される。市内に1,500発,クアンチ南2キロのラバン村に2,000発の130ミリ砲が撃ち込まれる。

4.30 米軍がクアンチ周辺に猛爆撃。翌日午前6時までの24時間にB52が25波,戦闘爆撃機が720回の爆撃。他にデルタのチュオンチェン省を初めて爆撃。

4.30 米第7艦隊空母ミッドウェーが北ベトナム沖のヤンキーステーションに到着。米空母は5隻となる。

(5月以降はコントゥム以外の大規模な戦闘はほぼ終了するため、通常年表へ)


72年4月(続き)

4.01 パテトラオ,ビエンチャン北方160キロの政府軍陣地を攻撃。

4.01 プノムペン西北30キロのバットデンで政府軍掃討部隊数千人が、解放勢力と衝突。

4.02 ニクソン、第7艦隊に海上から非武装地帯への攻撃を命じる。

4.02 チュー大統領はグエン・バン・ビ国防相から出された休暇願いを受理,キエム首相が国防相を兼務。

4.03 米第7艦隊旗艦オクラホマシチー,空母コンステレーション,駆逐艦1隻が横須賀を出港。米軍司令部は,日本沖の空母コンステレーションおよびマニラのキテイホークに対し,トンキン湾に急行するよう指令。

4.03 チュー大統領,国家安全保障会議を招集する。トン・タト・ジン上院軍事委員長は「政府軍は非武装地帯における圧力を和らげるため,北ベトナムのドンホイに侵攻する計画を立てている。これには米軍も承認を与えた」と言明。

4.03 スカイライン・リッジの政府軍特殊部隊,先週奪回した3陣地のうち2つを放棄。

4.04 ニクソン、非武装地帯を南進する解放勢力に対しB52をふくむ大規模空爆を命令。さらに北ベトナム全土への爆撃再開を指示。在米のB52爆撃機をインドシナに派遣するよう命令。インドシナ爆撃に参加するB52は合計100機以上となる。

4.04 マンスフィールド米上院院内総務、北爆による報復を批判。「北の攻勢に大規模な北爆でこたえることは,米軍機がまた撃墜され,米軍捕虜の数がさらにふえることを意味する。最善の解決策は米軍の完全撤退,パリ会談の再開および拡大にある」

4.06 米軍,限定的北爆を再開したと発表。

4.06 サイゴンの米軍司令部、北ベトナムに対する大規模爆撃を再開したと発表。レアード国防長官は、北爆を続行すると声明。ソ連の北ベトナム支援を非難する。

第二次北爆: 今回の北爆はニクソンの持つ狂気と重なっていた。戦術空軍の三分の一、戦略空軍の半分、空母の半分が動員され、1ヶ月に1千波を越える爆撃が続けられた。爆撃対象は次第に無差別となり、明らかに対人殺傷を狙う非人道的なものとなった。 

4.07 レアード米国防長官、同盟国を見捨てることはしないが、撤兵計画は続行すると表明。

4.07 ケネディ上院議員が演説。「チュー大統領の政治的生命を守ることに価値はない」と主張。

4.07 解放勢力は国道1号と15号をスベイリエン市周辺とプレイベン地区で切断。コンポン・チャクでも戦闘が続く。

4.08 米軍、戦闘爆撃機50機以上からなる3個中隊を南ベトナムに移駐させる。爆撃機のうち2個中隊36機が岩国からダナンに移駐することとなる。岩国の米海兵隊250人もダナンに入る。

4.08 南爆用のデキシーステーションが数年ぶりに復活,巡洋艦2隻が増派される。

ディキシー・ステーション: 北爆に従事する米海軍航空部隊は、トンキン湾上の空母群に所属していた。これをヤンキーステーションと呼んだ。その南180海里の地点に南爆用の空母群ディキシーステーションが設置され常に1-2隻の空母が米軍、ARVN、各MAF軍を支援した。 

4.08 米海軍艦艇,ファンビン省沿岸を砲撃。

4.08 ジーグラー米大統領報道官、「米国の支援は爆撃・砲撃に限られるものではない。但し核兵器が含まれることはない」と語る。

4.08 政府軍、パクセ東方30キロ,パクソンに通じる国道上のバンニク基地を奪回。10日後にはふたたびパテトラオに奪取される。

4.08 政府軍,Tuol Leap北で“sud de Phnom Baset”作戦開始。

4.09 米砲兵部隊など4部隊290人が撤兵計画からはずされる。

4.10 レアード米国防長官,ベトナムで海,空軍力を増強すると発表。「これは残留米軍を守り、撤退計画を予定通り進める決意の反映」と語る。

4.10 パリのビン臨時革命政府外相、米国民にメッセージ。「南北ベトナムにおける爆撃の即時中止を要求する」よう呼びかける。また南ベトナム人民が選挙を通じて和解政府を樹立するべきだと述べる。

4.11 米空母サラトガ、フロリダ州のメイポート基地を出航し,ベトナムへ向かう。

4.11 ムーラー米統幕議長が下院軍事委聴聞会で証言。「戦況が悪化した場合は,北爆の拡大などで対応するが,地上軍の再投入は全く考慮外である」と述べる。

4.14 コンポン・チャクで戦闘続く。1週間で南ベトナム政府軍の死者70人,解放勢力死者100人。

4.15 米軍、ハノイ・ハイフォンへの空襲を開始。ハノイからの組織的疎開が実施される。外交部は,外交官家族や外国人居住者に国外への引揚げを勧告。

2008年、情報公開された文書によれば、450トンの爆弾を投下したとのキッシンジャーの報告に対し、ニクソン大統領は「さぞ見事な攻撃だったに違いない」と満足、「ショック療法で連中を粉砕してやる」といきまいたという。

4.15 政府軍4個大隊,国道13号上のサラプクンを奪回,同地は1月以来,パテトラオに占拠されていた。

4.16 解放戦線と臨時革命政府がアピールを発表。「いかなる爆撃,艦砲射撃も,ニクソン大統領のベトナム化政策の破局を救うことは出来ない」と述べる。

4.16 米軍機200機がハノイ・ハイフォンなど北ベトナム中枢部を490波にわたり攻撃。

4.16 周恩来首相,「戦争エスカレーションはかつても失敗したし,今度もまた失敗するだろう。中国の支援は一貫してやむことなく継続されるだろう」と発言。タス通信は北爆拡大を非難するとともに,交渉こそがインドシナ問題解決への唯一の道であると述べる。

4.16 解放勢力,プノムペン空港,カンボール弾薬集積基地などを砲撃。

4.18 ニクソン大統領、北緯20度線以北の北爆一時停止と北ベトナム南部回廊地帯の北爆減少を命令。

4.18 レアード国防長官,「北が侵略を続ける限り,すべての地域が攻撃の対象となる。ハイフォン港封鎖の可能性も除外されない」と言明。

4.19 北ベトナムのミグ戦闘機が、トンキン湾上のアメリカ艦艇を初攻撃。

4.19 解放勢力はプノムペン南東80キロ,国道1号上のコンポン・チャベクをほぼ占領,国道1号はChiphou,Prey Phdau,Prasauth,コンポン・チャベクなどで解放勢力側に占拠されている。

4.19 解放勢力がタケオに近づく。市の南9キロで戦闘,解放勢力死者35人,政府軍死者5人,負傷13人。解放勢力は戦車,ロケット,対空兵器で装備される。

4.20 キッシンジャー補佐官、モスクワでブレジネフ書記長,グロムイコ外相と懇談。「パリ会談を再開する用意がある」と提案する。

4.20 解放勢力,国道1号上のコンポン・チャベク他6拠点を占領。コンポン・チャベクの政府軍1個大隊は孤立し,大隊司令官が捕虜になった。

4.20 Angkor Chey作戦中の政府軍はSvay Thom-Pradek間で戦闘,死者52人,負傷250人を出した。

4.22 ニューヨークをはじめとする全米10都市でベトナム戦拡大に抗議するデモ。

4.24 パテトラオ,ルアンプラバン北方18キロの政府軍陣地を占拠,同陣地を守っていた200人の政府軍兵士のうち半数が行方不明となった。

4.24 プノムペンの法経学部で憲法批判集会。学生2千人が参加。野戦警察部隊は戦車4台を動員してこれを包囲,法学部内には小銃,手投げ弾で武装した100人の学生がたてこもる。

4.24 スベイリエン市西10キロ,スペアントラムの政府軍前進基地で戦闘。

4.25 ニクソンとキッシンジャーの会談。キッシンジャーは北ベトナムの発電所と港湾に対するB52 攻撃の強化を提案。ニクソンは核兵器の使用を提案したという。

4.26 ニクソン米大統領は全国向けテレビ放送で演説。「@北が南への攻勢をやめない限り北爆を続行する,A南ベトナムからの撤兵続行,B再開パリ会談では北による侵略停止および米軍捕虜釈放を話し合う」との方針を明らかにする。駐留米兵2万人の追加削減(第8次撤兵計画)を発表。

4.26 北ベトナム代表団,「公式会談に出席するが,米国のいう“北ベトナムの侵略”や“1968年の了解事項違反”などの主張は断固退ける」と述べる。

4.27 イースター攻勢と北爆全面再開の状況の下、パリ和平会談が再開される。キッシンジャーは交渉の条件として北ベトナム軍の撤退を要求しないことを明らかにする。

4.27 第148回パリ会談再開,ポーター米代表は、「北ベトナム軍の南からの撤退を拒否するなら会談を開いても効果はない」と述べる。

4.27 大学構内で学生と警官隊のにらみ合いが続く。学生が憲兵のジープに投石。憲兵隊はライフル銃,催涙ガスを突然発射し,学生3人を死亡させる。

4.30 国道1号上の要衝バベトが解放勢力の攻撃をうける。カンボジア政府軍はバベトを撤収して南ベトナム領に避難する。また政府軍はコンポン・チャクからも撤収した。ている。

4.30 カンボジアで憲法草案についての国民投票が行われる。97%強が賛成するといういい加減なもの。

 

72年5月

5.01午前: 政府軍第3師団、クアンチ北4キロのアイツ基地を放棄し,クアンチ市内へ退却。

5.01午後: 政府軍、クアンチを放棄。防衛にあたっていた南ベトナム軍第三師団は敗走。北ベトナム軍はさらに南下の構えをみせる。

5.01夕方: 北ベトナム軍、クアンチ省の省都クアンチとビンディン省郡都タムクアンを制圧。クアンチの住民はユエに避難する。ユエには15万の避難民があふれる。

5.02 コンツム市北側に残っていた政府軍唯一の基地リマが陥落。

5.02 キッシンジャーが,パリでレ・ドク・トと秘密折衝。チュー政権の交代を認めるが、和解政府樹立には応じず。

5.03 クアンチに臨時革命人民委員会が設立される。ダナンの航空部隊は連日クアンチを爆撃。海岸からは第7艦隊が毎日1万発の艦砲射撃を繰り返す。南ベトナム政府軍は1万の兵をクアンチ省に増派する。

5.03 チュー大統領はクアンチ陥落にともなう懲罰人事を発表,第1軍管区司令官ホアン・スアン・ラム中将を解任し,後任に第4軍管区司令官ゴ・クアン・チュオンをすえ,クアンチ防衛の責任を負っていたホ・バン・ジアイ第3師団長を解任。

5.03 チュー大統領,後方の秩序を保つため,騒ぎを引起こす者をその場で射殺する権限を民間と軍の当局者に与える。

5.04 米国と南ベトナム、パリ会談への参加を無期限に中断。

5.05 解放戦線,フォクトイ省ドクタンに82ミリ迫撃砲を撃ち込んだのち,2個大隊の規模で民兵の警戒所を襲撃,政府軍に死傷34の損害,またロンアン省ベンルク南方3キロのロンディン橋,破壊さる。

5.05 ラインバッカーT作戦と呼ばれる空爆作戦が開始される。圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」の遮断を狙う。2週間で2万トンの爆弾が投下され、電力施設の80%、石油備蓄量の25%が損傷を受ける。

5.05 ハノイ,戦闘状態に突入と宣言。レ・タン・ギ副首相は,戦時下の治安と市場統制など経済統制に関する法令を公布。労働党中央委員会と政府は疎開児童の生活と健康を守るよう指示。

5.05 米国防省、撤退米軍を守るため,戦闘部隊を増派することもあり得ると述べた。

5.05 カンボジア学生連合が、学生射殺事件に抗議して反政府デモ。1万人の学生が参加する。

5.06 解放勢力,プノムペン市西部をロケット砲撃,市民37人が死亡,192人が負傷。さらにプノムペン市内のサイゴン橋の西側地区を奇襲攻撃。

5.06 プノムペン中心部から5キロ南,国道2号上のタクマウとの中間にあるチヤクアングレで、100人の解放勢力と政府軍が戦闘,チャクアングレ発電所に被害。

5.07 解放戦線,コンツム市内の政府軍3防衛基地を攻撃。ゴ・ズー司令官によれば,コンツムには民間人がまだ5分の1(5,000人)残っている。

5.08 ニクソン、北ベトナムの全港湾・全河川を機雷封鎖すると発表。投下機雷の総数は5,000〜7,000個に達し、30隻以上のソ連、中国、ソマリア、ポーランド、キューバ、東ドイツなどの商船がハイフォン,ホンゲイ,カンフア,ビン,クアンケ,ドンホイ,タンホアの7港港に封じ込められる。東側諸国から兵器や支援物資を運んできた輸送船が入港不能になる。物資陸揚げのため、決死隊が港と船を行き来したがその殆どが触雷・沈没したという。

5.08 南ベトナム軍の投下したナパーム弾が部落を直撃。やけどを負った裸の少女が逃げ惑う姿が、報道写真となって全世界に配信される。

5.09 解放戦線,コンツム西方24キロにある政府軍レンジャー部隊のレカン基地を攻略,解放戦線,コンツム西北60キロのベンヘト基地に突撃。11日,政府軍がこれを撃退。

5.09 グエン・バンチュウ大統領、全土に非常事態を宣言。ナイトクラブやバーも閉鎖される。チュー大統領はラジオ,テレビで国民に呼びかけ。「わが国は危険状態にある」と述べ、「最大限の支援」を要請する。

5.09 中国の船舶紅旗152号と160号の2隻,米軍機の攻撃で大損害。

5.09 北ベトナム,南ベトナム臨時革命政府両代表団,アメリカの軍事エスカレーションに抗議する声明を発表。

5.09 解放勢力,コンポンチュナン市南15キロのSandan政府軍陣地を攻撃,政府軍負傷19人。

5.10 チュー大統領,全土に戒厳令をしくと発表。

戒厳令措置の内容: @全土で外出禁止時間を午後10時から午前5時までとすること,A各軍司令官はあらゆる物資・専門家を徴発できる,B徴兵年齢をこれまでの18〜38歳から17〜41歳とする,C全大学を閉鎖、全銀行を政府管理下におく。

5.10 解放戦線はビンディン省で,人口20万人の同地域を支配する地方行政機構を設立。

5.10 米機、ハノイ、ハイフォンの紅河堤防を爆撃。北爆は1週間で2千回におよぶ。ハイフォン市街地も爆撃を受け、アンズン地区では200人以上が死傷。

5.10 ハノイ,ハイフォン,ハイフン,エンバン4都市の軍民,米軍機16機を撃墜,現在までの撃墜機数3,558機。

5.10 シリク・マタク中将,大統領特別顧問に任命さる。事実上の首相職。

5.11 解放戦線,アンロクに対する地上攻撃を再開。B52はアンロクに22波の爆撃を加え,2,000トンの高性能爆弾を投下。

5.11 南ベトナム政府、国家総動員令を発令。兵役上限は30歳から40歳に引き上げられる。17歳でも志願すれば兵士になれることとなる。

5.11 B52,プノムペン北方50キロの解放勢力拠点に爆撃。

5.12 ユエ西方10キロのバーミンガム基地近くで激戦,またユエ北西25キロの郡庁所在地ホンジンの政府軍陣地を攻撃。

5.12 解放戦線1個大隊はサイゴン西方42キロのチャンバンを攻撃、一部を占拠する。その後、政府軍に撃退される。

5.13 解放勢力、B52の猛爆の前にフエ奪還を断念し撤退。機雷封鎖により武器・弾薬の不足が深刻となる。

5.13 解放戦線がクアンチ南西10キロの郡都ハイランに進出。政府軍海兵隊2個大隊1,000人が,米第7艦隊空母から米海兵隊のヘリでハイラン南方へ空輸された。空輸には米海兵隊100人も参加。これと同時にハイランの南10キロのミチヤンから別の1個大隊の政府軍海兵隊500人が渡河作戦を開始,

5.13 ハイランで8時間にわたる戦闘。海兵隊はミチャン川まで撤退,この作戦で政府軍58人が死傷,解放勢力の死者は248人。

5.13 ベトナム沿岸沖の米第7艦隊に6隻目の空母「オキナワ」が加わった。

5.13 プノムペン市内に5発の122ミリロケット砲弾が撃ち込まれる。

5.14 解放戦線,コンツム市から2キロの政府軍陣地に戦車で迫る,解放軍死者173人,

5.14 米軍はコントゥムの戦闘で、初めて対戦車誘導ミサイル“TOW”を積載したUH-1Bヘリコプターを投入。TOW(トウ)とは対戦車ミサイルの一種で、この名称はTube-launched、Optically-tracked、Wire-guided の頭文字に由来する。アメリカ軍での制式名称はBGM-71。

5.15 サイゴンのベトナム駐留米軍司令部が廃止される。

5.15 ロンノル大統領、北ベトナム・ベトコン兵士あてにラジオで声明。「北ベトナム・ベトコン部隊が戦争をやめるなら,捕虜として扱い,帰国させる。クメール人ゲリラは帰順すれば進級し,わが軍の隊列に統合される。職につきたいものは補償される」

5.15 解放勢力の突撃隊がタケオ州キリボンの政府軍陣地を夜襲。ロケット砲,迫撃砲で援護される。政府軍はキリボンから撤退。

5.16 政府軍2個師団はB52の援護のもとにアンロクで反撃作戦を開始。

5.16 パリ会談の北ベトナム,臨時革命政府両代表団,機雷封鎖,北爆の即時停止を要求。米代表団はこれを拒否する。

5.16 ロンノル大統領、スイス・テレビとの会見。「我々はクメール・ルージュを敵と考えていない。しかし王制の復活を夢見る北京のシアヌークの仲間には席がない」と述べる。

5.17 コンツム空軍基地にロケット40発が撃ち込まれる。プレーク基地で弾薬庫が爆発,解放軍はプレークとキニヨンを結ぶ国道19号の橋を砲撃し,同国道は不通になった。

5.17 パテトラオ1個大隊がコンセドンを制圧。コンセドンは南部の省都で、稲作の中心地。さらに国道13号沿いに進出を図るが、パクセからきた政府軍救援部隊と12時間戦闘の後撤退する。

5.18 政府軍2個大隊はユエ西方の砲撃基地,ヘレン基地とロング基地を奪回した。

5.20 解放勢力,コンポントム市南西10キロの政府軍陣地を攻撃,政府軍死者9人,負傷9人。

5.22 ユエ北方で解放軍と政府軍海兵隊が激戦。

5.22 ニクソン、モスクワを訪問し首脳会談。ソ連も中国も、米国への配慮から北爆強化に言及せず。北ベトナム政府は両国の対応を「溺れる強盗に浮き輪を投げるようなもの」と非難。

5.23  米国防総省、北爆目標に発電所、工業施設を加えると表明。

5.23 解放戦線,サイゴン南東80キロ,フォクトイ省の郡都ダトドを制圧。

5.24 政府軍海兵隊2,000人,米軍支援のもとにヘリ,上陸用舟艇でクアンチ市北東のクアベト南方地域に強襲上陸作戦。7時間後に撤退を余儀なくされる。クアンチの戦いは9月まで続き、街は瓦礫の山となる。

5.24 政府軍はダナン市南方40キロ,ケソン溪谷にあるアンスアン,ゴダ両前線基地を放棄。

5.24 米国防総省,B52戦略爆撃機を更に増派すると発表。米軍は現在グアムとタイに計140機のB52を集結させている。

5.25 解放軍2個大隊200人(?)が,コンツム市に突入。

5.25 パテトラオ,パクセ南方48キロの郡都フィアファイを制圧。

5.26 解放軍がアンロクを包囲。救援に向かった政府軍はアンロク南方3キロでクギづけになる。負傷兵救出に向かった輸送車23台は待ち伏せ攻撃を受け,半数が破壊され,救援部隊は死傷者200人を出した。

5.26 水利省,4月以来580個の爆弾が各河川の堤防に投下されたと発表。『ニャンザン』紙は「どんな情勢になろうとも農業生産を守り抜こう」と題する社説で,水利施設や堤防の破壊と戦うよう呼びかけ。

5.26 解放勢力,スベイリエン市ならびに周辺の政府軍陣地を砲撃。

5.28 政府軍,コンツム市内の戦闘で,学校などを奪回,解放軍死者168人,政府軍死傷者92人。

5.30 北ベトナム軍、激しい空爆を前に中部高原のコントゥム攻撃を断念し撤退。

72年6月

6.01 政府軍降下部隊1,000人,騎兵一個連隊,数百人の海兵隊はユエ北西の解放軍拠点で新作戦。

6.01 米機、220波の北爆。バクジャン火力発電所を爆撃。

6.02 B52,30機がクアンチ市の西,南,南東地域に爆弾900トンを投下。

6.02 南ベトナム議会上院、チュー大統領の要求した「非常権限法案」を27:21で否決。

6.02 米・北ベトナム間の秘密交渉再開。2日後に米国は、拡大パリ会談の無期限中断を宣言。

6.04 カンボジア大統領選挙。投票総数106万票。ロンノルが再選される。得票率は54.9%と予想をかなり下回る。対立候補のインタム24%,ケオアン21%。

6.05 クメール・ルージュ、プノンペンの大統領私邸および国防省などにロケット砲撃を加える。8日にはプノンペン空港および駅付近にロケット砲撃。

6.06 米軍、北爆をさらにエスカレート。中国とハノイを結ぶ鉄道を破壊。中国国境から16キロの地点に「スマート爆弾」を投下。北べトナム最大の水力発電所、堤防などを爆撃。

6.06 政府軍は12日ぶりにコンツムを奪回。

6.07 解放勢力200人がタクマウ市に夜襲。その他Prek Ho,プノムペンも砲撃を受ける。政府側死者42人,負傷64人。

6.08 解放戦線,ビンディン省フォンダンを制圧。

6.08 タケオ州Paing Kasei政府軍陣地に増援部隊が入る。この基地はそれまでの10日間、解放勢力の攻撃目標となり、死者25人,負傷62人を出していた。

6月上旬 クアンチを除く地区で解放勢力の攻勢が終了に向かう。引き続きゲリラ戦に移行。

6.09 米軍の上級顧問ジョン・ポール・バンがヘリ墜落により死亡。バンはコントゥム防衛作戦の事実上の指揮者だった。

6.09 Wat Thmei陣地にも政府軍増援部隊が到達。Wat Thmei陣地はコンポンチャム州Skoun東7キロの国道7号上の要衝。4日間の解放勢力の猛攻により死者15人,負傷24人を出していた。

6.10 米軍機,ホンゲイを破壊,400人の民間人が死傷。

6.10 北ベトナム外務省が声明。「米軍機が堤防・ダム・産業施設に重大な損害を与えた」と抗議する。

6.11 北ベトナム政府、米・南ベトナム両軍の上陸作戦に備え全士に臨戦態勢を布告。

6.11 ウォーターゲイト事件発覚。ワシントンのウォーターゲー卜・ビル内の民主党全国委員会に盗聴器を仕掛けようと侵入した7人が逮捕される。

6.11 中国外務省、「北爆は中国の安全を脅かす」と言明。

6.11 解放勢力の攻勢は一日で98件を記録。攻勢のほとんどはタイニン省,ハウギア省,メコンデルタ一帯。

6.12 解放勢力,キエンツォン省郡庁ツエンビンを攻撃。

6.14 プレイベン南東5キロでの戦闘で,政府軍は解放勢力を撃退,政府軍死者2人,負傷17人。

6.15 ソ連のポドゴルヌイ議長が訪越。北ベトナムは「冷たい歓迎」で迎える。

6.15 政府軍第4軍区がコンセドン奪回作戦を開始。3日後に同町を奪回する。この後パテトラオの攻勢はいったん沈静化する。

6.16 南ベトナム政府軍第7師団司令官Ng.Khoa Nan少将はスベイリエン州Kg.Roでヘリで作戦指揮中墜落死。

6.16 最後の実戦部隊である米第196歩兵旅団3個大隊のうち1個大隊がダナン基地から撤収開始。

6.16 水利省は,2カ月間に重要堤防が68回爆撃され,堤防32カ所と水利施設31カ所が破壊されたと発表した。

6.17 政府軍、国道7号線の完全確保に成功。解放勢力死者は合計355人,政府軍死者47人,負傷50人。

6.18 南ベトナム軍、アンロクを放棄し撤退。

6.19 チュー大統領,「領土奪回のために」3カ月間の新しい軍事作戦を指令する。

6.19 政府軍、プレークとコンツムを結ぶ国道14号を確保。コンツムは2カ月におよぶ孤立状態から解放される。

6.20 ダナンの米海兵隊飛行中隊、タイの新米軍基地ナムフォンに移り作戦行動を始める。

6.20 エイブラムズ米援助軍司令官、ウェストモーランド将軍の後任として陸軍参謀総長に任命される。

6.22 解放戦線,ユエの政府軍防衛線ミチヤン南西方を戦車で攻撃。

6.22 シアヌーク議長、「カンボジアの国土の80%,人口の70%がすでに解放された」と強調する。

6.23 解放戦線,ミチヤンの政府軍に130ミリ砲130発を撃ち込む。

6.23 南べトナムのクワンチ省とトアティエン省に、米軍はB52・100機,戦闘爆撃機137機を動員し,33波の猛爆撃を繰り返す。投下された爆弾は3千トンに達する。北ベトナム軍は引き続きクアンチを死守。

6.24 解放戦線,ユエ南西20キロのキング基地を迫撃砲攻撃。ミチヤン一帯を戦車で攻撃。米軍はB52・115機を動員してユエ周辺その他に3,000トンの爆弾を投下。

6.24 ロジャーズ米国務長官、「北ベトナムはその攻勢の結果に失望している」と述べる。

6.25 北ベトナム外務省,タイが米のインドシナ侵略の基地として使われているのを非難。

6.26 解放戦線、ユエ北西フォンディェン地域の政府軍陣地に1,300発の砲撃を加え,北方のミチヤンに地上攻撃を加えた。

6.26 ダナンの米戦闘爆撃機7個中隊がタイに移駐。空軍兵力はビエンホア基地のF4・2個中隊,A37軽爆撃機1個中隊だけとなる。

6.27 33の南ベトナムの平和主義者団体,プーロコンドル島の犯罪人収容所の実態を暴露。春季攻勢の開始以来1,500人が送り込まれたとする。またユエ,サイゴンの両都市で100人の学生が逮捕されたと非難。

6.27 グエン・バンチュウ大統領、全権委任法の修正案を抜き打ち可決。非常大権を獲得する。

6.27 米軍機が北ベトナム最大のバク・マイ病院を爆撃。4月10日以降連日、堤防・水利施設を爆撃。

6.27 米民主党政策綱領委,全国党大会に提出する綱領草案を作成。「10月1日までにインドシナ地域の米軍全員を撤退すべき」と主張する。

6.28 政府軍はクアンチ奪回作戦に最精鋭の空てい,海兵,民兵など2万人を投入する。空てい,海兵両師団の1万人がユエ北西30キロ,ミチヤンの防衛線から北進を開始。

6.28 米政府、第9次撤兵計画を発表。現在4万9000人から1万人減らし,9月初めまでに3万9000人にするもの。

6.28 エイブラムズ米べトナム援助軍司令官の後任に、ウエイアンド副司令官が昇格する。

6.29 政府軍海兵隊2個大隊1千人が、クアンチ市東と北東に降下作戦。

6.29 ベトナム海域に空母「オリスカニー」が到着。空母9隻による作戦が展開される(常駐は5隻)。

6.29 ニクソン米大統領、パリ会談を9月13日に再開すると発表。@共産主義者が支配する政府を北ベトナムが南ベトナムに押しつけるのを阻止すること,A南ベトナムに残留する米兵を保護すること,B北に抑留されている米兵の釈放を実現すること。この三点が米政府の目標と言明する。

6.29 政府軍20個大隊、1万人が、米空軍支援のもと、国道1号線の打開作戦を開始,。

6.30 北ベトナム,臨時革命政府代表団が声明を発表。7項目提案と2項目明確化提案の意義を改めて強調する。

72年7月

7.01 クエン・タイ・ビン、サイゴン空港でPANAM機乗取りを企て、米CIAに射殺される。

7.01 プーマ首相,スファヌボン議長に書簡,全権代表団派遣を要請。スファヌボン議長は,ビエンチャンにボンサク特使を再派遣することに同意する。

7.02 解放戦線,ユエ市にロケット,迫撃砲30発を撃ち込む。

7.02 解放勢力,カンポト州Pong Tuk地区の政府軍を砲撃,政府軍死者7人,負傷11人。

7.04 政府軍空てい2個大隊1,500人がクアンチ市南方5キロにヘリで空輸される。部隊はクアンチから2キロ南のマイリン地区に進出。

7.04 政府軍、国道1号のプレイベン州コンポン・チャベク奪回を目ざす“Sbyra”作戦を開始。

7.04 カンポト州Pong Tukで戦闘,政府軍死者7人,負傷11人。

7.05 米機、2日間にわたりハノイ中心部を爆撃。一日200波におよぶ。さらにハイフォンおよび紅河デルタ堤防などを爆撃。迎撃したミグ機がハノイ上空で米軍機を撃墜。保健省は30の保健施設が爆撃を受けたと発表。

7.05 タケオ州Angtassomで解放勢力攻勢,村民等7人死,36人負傷。

7.07 政府軍空てい部隊は,クアンチ市中心部に突入をこころみたが失敗,

7.07 チュー大統領がアンロクを訪問。「アンロクは完全に確保され,クアンチも奪回した,北ベトナム軍の攻撃は完全かつ決定的な失敗であることが証明された」と語る。

7.08 空てい部隊3個中隊がクアンチ南の郊外で解放勢力軍に包囲される。

7.08 チュー大統領、戒厳令に基づいて実施した兵役義務年齢の拡大を撤回する。

7.08 キッシンジャー補佐官、「過去数週間にわたって活発な外交活動が続けられた。北ベトナムは真剣に交渉する用意を整えている。米国側としては軍事問題だけを片づけ,政治問題の解決はベトナム人同士にまかせることになるだろう」と語る。

7.08 米女優ジェーン・フォンダ、ハノイヘ入る。『ベトナムの声』放送に出演し、堤防破壊を「子どもらにどう説明するのか」と米兵に向け訴える。

ハノイ・ジェーン: ジェーン・フォンダは北ベトナム軍の高射砲に座り、ヘルメットをかぶり高射砲を打つポーズ。写真は世界中に配信され、アメリカ軍兵士や家族は「ハノイ・ジェーン」と名づける。のちにフォンダは、「祖国への裏切り行為で判断の誤りだった」と釈明。(しかし「運動の視点」から見れば軽率ではあったが、「道徳的視点」から見れば、それは人道への誠実な行為であった、と私は思う)

7.08 政府軍,タケオ州Angtassom市奪回作戦,政府軍死者10人,負傷者40人。

7.09 チュー南ベトナム大統領、非常大権法を発動。聖職者にも徴兵令を適用する。

7.09 第3軍区米軍事顧問団副司令官のリチャード・トールマン准将,アンロク付近で戦死。

7.10 政府軍、クアンチ市内に攻め込むが、解放勢力側の砲撃を受け,郊外のマイリンに1個大隊の空てい部隊を残して撤退。

7.10 Angtassom町奪回作戦中の政府軍は,解放勢力の砲撃を受け死者12人,負傷35人の損害。

7.11 北ベトナム軍、アンロク制圧を断念し撤退。クアンチがイースター攻勢で獲得した唯一の拠点として残される。

7.11 米駆逐艦ウェリントン、トンキン湾で自軍の機雷に蝕雷し大破。

7.12 解放戦線、24時間に全土で109件の攻勢,6月13日以来の規模となる。

7.12 解放放送,「クアンチ市人民革命委」のメンバーを公表する。

7.12 解放戦線,アンロクの戦闘で捕虜になった政府軍兵士700人を釈放。

7.13 第150回パリ会談,2カ月ぶりに開かれる。相互の主張を繰り返す。

7.14 民主党の大統領候補にサウスダコタ選出のジョージ・マクガバン上院議員が選ばれる。マクガバンはベトナム駐留米兵の即時全面撤退を主張。「大統領就任の日に爆撃をやめ,90日以内に米軍をインドシナから撤退させる」と受諾演説する。

7.14 ハノイで日本共産党の創立50周年を記念する祝賀会が開かれる。

7.15 特使ボンサク殿下がビエンチャンに到着。

7.16 バッタナ国王、改造内閣名簿に署名することを拒否。プーマ首相との会見で憲法順守を強調する。

7.19 南ベトナム軍、ビンディン省で解放勢力への攻勢を強める。

7.19 キッシンジャーとレ・ドク・ト、パリで秘密会談を開始。連合政権の幅をめぐり議論が繰り返される。

7.19 ハノイの「戦争犯罪調査委員会」が報告。米軍機が投下した爆弾の数は4月以来8万3千発、艦砲射撃による砲弾は4万4千発とする。

7.21 政府軍1万人がビンディン省北部のボンソンで失地回復作戦。21日ボンソン奪回,24日タムクアンを奪回。解放勢力は4月29日以来占拠していたビンディン省南西部のホアイアン,北部のタムクアンから撤退。

7.22 政府軍,米海兵隊ヘリでクアンチ市北北東10キロの地点に空輸さる。

7.22 米軍の空からの支援を受けた南ベトナム軍がビンディン省奪還作戦を開始。米海兵隊は南ベトナム政府軍をヘリでクワンチヘ空輸。第三次のクアンチ反攻作戦。ビンディン省と省都クワンチをめぐる激戦が始まる。

7.23 Bailey橋が修復され国道5号(プノムペン〜パタンバン)再開。

7.23  「アンコール・シェイ」作戦中の政府軍に対し,解放勢力が攻撃,政府軍死者1人,負傷者29人。

7.24 ワルトハイム国連総長,「もし堤防爆撃が本当なら何千人が死ぬような大災害となる。これは避けねばならない」と語る。米国務省スポークスマン,堤防爆撃は故意にやっているのではないと強調。

7.24 米機,ハノイを夜間爆撃。

7.24 プーマ、愛国戦線提案の5項目案を交渉の基礎とすることを受け入れる。この間クーデターの動きが何度かあるが、アメリカは一貫してプーマを支持。

7.24 政府軍、コンポン・チャベクの奪回に成功。この作戦で政府軍死者27人,負傷者250人,解放勢力死者302人。

7.25 政府軍空てい部隊、クアンチ市の中心部に突入。中心部の「城跡」に入ったと発表。

7.25 政府軍レンジャー,第7師団,地方軍など3万2000人が,おうむのクチバシ地区で掃討作戦開始。

7.25 米軍機,ハチン省のラ河のダムを破壊。翌日はタイビン省のチャリ河のダムを大型爆弾で破壊。クアンミ水利部次官によると,過去4カ月間に米軍機の堤防爆撃回数は173回。

7.25 米国防総省、中国・北べトナム間の石油パイプラインを爆撃したと発表。

7.25 南ベトナム政府軍3万2000人,ゲインフオン,キエンツオン両省からおうむの口ばし地区にかけて掃討作戦開始,北方からはカンボジア政府軍3個旅団がはさみうちにする。

7.25 政府軍5月10日に解放勢力に奪取されたタケオ市南東30キロKoh Andethを奪回。

7.26 解放軍がふたたび進出。ユエ西南19キロの政府軍のバストーニュ基地を陥落させる。

7.27 政府軍、クアンチ奪還を断念。陣地を放棄して市外に撤退。

7.27 ニクソン米大統領,「唯一の問題は南ベトナムに共産政府を認めよという敵の要求である。このような政権を認めることは不道義のきわみである」と語る。

7.27 ワルトハイム国連事務総長、米軍による北ベトナムの堤防破壊攻撃を批判。ニクソンは米軍機の北ベトナム堤防爆撃を部分的に認めつつ、堤防爆撃は誤爆で偶発的なものとする。

7.27 米商務省、72年上半期の貿易収支は33億ドルの史上最大の赤字を記録と発表。

7.28 ラムゼイ・クラーク米前司法長官らの国際戦犯調査委員会、ハノイに現地視察団を派遣。

72年8月

8月初 サラバン・アトプ省解放区副議長Khamfeuanが政府側に帰順。パテトラオは親北ベトナム派と独立派に分裂していると語る。

8.01 チュー大統領が演説。「北ベトナムは米大統領選挙前に新たな攻勢を見せるだろう」と語る。

8.01 解放勢力,クアンチ周囲に陣取る政府軍の海兵隊基地二ヶ所を攻撃。一つはクアンチ南西1キロ、もう一つは北北西3キロ。

8.01 キッシンジャー補佐官,パリでレ・ドク・ト顧問,スアン・トイ代表と秘密会談。

8.02 米上院本会議,向こう4カ月以内に米軍を全面撤退させるとの決議を可決。米軍捕虜の釈放を唯一の条件とする。

8.03 解放戦線,ダナン米空軍基地に122ミリロケット砲38発を撃ち込む。米兵1人死亡,20人負傷。

8.03 解放戦線、春季大攻勢を総括。「4ヶ月間に22万の敵を殲滅し人民200万人を解放した」とする。

イースター攻勢の結末: 北ベトナム軍は10万人が戦死、戦車・大砲の半分を失ったが、得たものは何もなかった。作戦の指揮をとったボー・グエン・ザップは更迭され、バン・ティエン・ドンが新司令官についた。南ベトナム軍も4万人が死亡した。

8.05 チュー大統領は民間防衛隊設立4周年にさいして演説。「共産側は軍事勝利,部分停戦,人民の総蜂起という3つの目的に失敗した。しかし敵は人民の中にかくれている。幹部だけでなく,共産側への協力者も摘発せねばならない」と強調する。民間防衛隊の数は300万人とされ、そのうち半数が武装している。

8.05 ベトナム人民軍は北爆開始以来米軍機3,797機を撃墜。B52は16機。捕虜となったパイロットは409人と発表。

8.06 解放勢力,クアンチ市から1キロの政府軍陣地を12時間以上にわたって砲撃(700発)。

8.06 解放勢力が同時多発攻撃。プレイベン州コンポン・チャベクの政府軍陣地を戦車を含む2個連隊で攻撃,政府軍2個中隊が壊滅。 

8.06 解放勢力,コンポンチャム州の国道7号上の陣地を攻撃,国道7号はTroeungで切断,政府軍死者2人,負傷21人。 また

8.06 解放勢力,首都近くTrapeang Veng,Pong Toeuk,Angtasekで戦闘,政府軍死者2人,負傷者27人。

8.07 解放勢力,戦車でプノムペン南東90キロのコンポン・チャベク町を攻撃,同町への政府軍の補給はヘリのみで行なわれている。

8.08 解放戦線、プレーク市西方で攻勢開始,@プレーク西方28キロの政府軍前進陣地、Aプレーク西方22キロ,タンアンのタンジアオ地区を攻撃。

8.08 米機、ハイフォン近郊のビン、ドンホイ両市を猛爆。30機のB52爆撃機が延べ300回の爆撃を繰り返す。

8.08 コンポン・チャベクの戦闘続く,解放勢力は政府軍陣地に500発の砲弾をあびせる。 9日も戦闘続く,6日以来政府軍死者98人,負傷者114人,解放勢力死者240人,戦車24台破壊。

8.09 政府軍、プレーク西方の前進陣地を放棄。タンジアオの政府軍もプレーク市内へ引揚げる。

8.09 解放戦線、サイゴン東方27キロ国道15号沿いのロンタン付近の政府軍民兵を攻撃,政府軍兵士100人が死傷。

8.10 米下院,10月1日までに全米軍をインドシナから撤退させるとの決議案を228対178で否決。

8.10 非同盟諸国外相会議、臨時革命政府とカンボジア王国民族連合政府の加盟を承認。

8.11 チュー大統領,北爆停止に反対と声明。

8.11 解放戦線,サイゴン北方50キロのライケ基地を急襲,同基地には政府軍第5師団,第18師団の前進司令部があり,アンロク作戦の後方基地になっている。

8.11 米軍司令部,ダナンの最後の地上戦闘部隊第21師団第3大隊の撤退を発表,軍事顧問団,補給兵たん部隊など支援部隊を残すだけとなる。

8.11 政府声明「@難民の数は南ベトナムでの北の攻勢以来,スベイリエン,プレイベン,カンダル,タケオ,カンポットなどで特に増大している。A8月6日以来,コンポン・チャベク戦で北はソ連製戦車を出動させている」。

8.11 未明,政府軍は解放勢力の反撃にあいアンコール・ワット北西Phnom Bakhenの陣地から撤退。

8.12 サイゴンの米司令部、B52が南ベトナムで30波、北べトナムに13波の爆撃。4千トン近くの爆弾を投下と発表。

8.12 B52,24時間で北ベトナムに対して13波,南ベトナム領内に対して30波の出撃。

8.13 解放戦線,サイゴン北東30キロの米軍ロンビン基地に侵入,弾薬庫を爆破する。

8.14 政府軍、ライケ基地の防衛体制を強化。歩兵,レンジャー部隊計3,000人を投入する。

8.16 解放戦線,クアンチ市周辺の政府軍に1,800発の砲撃を加える。

8.16 キッシンジャー補佐官,サイゴンに到着しバンカー大使、ウェイアンド司令官,チュー大統領と協議。

8.16 パリから帰国の途中モスクワに立寄ったレ・ドク・ト顧問は,キリレンコ政治局員,カツシエフ書記と会談,18日北京で周恩来首相,張春橋中央政治局員と会見。

8.16 米軍機、ハノイ、ハイフォンなど北ベトナム全土を360波にわたり爆撃。

8.16 解放勢力,プノムペンの空港に122ミリロケット6発を撃ち込む。

8.17 「ニャンザン」紙が論文「革命的潮流の勝利」を掲載。中ソの米国に対するあいまいな態度を痛烈に批判。「自国の狭い利益から出発して、米国の打撃を減らすのに手を貸すのは、溺れる強盗に浮袋を与えるようなものである」と批判。

8.17 解放戦線,サイゴン南西45キロ,国道4号線の要所ベンチャンの政府軍前衛基地を攻撃。

8.18 解放勢力,国道5号沿いの各地で攻勢。プノムペン北西140キロKbal Damrei,Trapeang Chanの2政府軍陣地を奪取。同陣地を守備していた180人の政府軍兵士が戦死し,付近の陣地に逃げたのは30人にすぎなかった。(陣地の攻防戦で将兵の9割が戦死することはありえない。政府軍のモラルはそれほど高くはない。投降者を殺害したのか?)

8.19 解放戦線、全土で91件の攻撃。7月26日以来の最高となる。国道13号,国道1号・国道4号が切断される。ダナン南方40キロのケソン、ローズ基地(第2師団司令部)では、政府軍が戦死22,負傷130の損害を出し基地を放棄。

8.19 解放戦線は,クアンチに対し2,000発の砲撃を加える。

8.20 南ベトナム軍、ダナン南方40キロのケソン渓谷の陣地を放棄したことを明らかにする。

8.20 米機、ハイフォン、ビンなどに12日間連続の北爆をおこなう。

8.22 米軍機,ベトナム領海で中国船紅旗151号を攻撃,船長以下5人の中国船員が死亡。

8.22 北ベトナム外務省,傷病捕虜600人を釈放すると発表。

8.22 マイアミビーチの共和党大会に1,500人の反戦デモ、120人が逮捕される。

8.22 政府軍、ジャール平原のシエンカン地区で大作戦を開始する。これに合わせ米軍の爆撃が強化される。

8.23 最後の米軍戦闘部隊となる第21歩兵師団第三大隊がベトナムを去る。

8.23 解放戦線,ダナン市に17発のロケット,迫撃砲を撃ち込む。

8.23 ニクソン大統領が大統領侯補指名受諾演説。「われわれが絶対にやらないこと」として、@米軍捕虜を見捨てない,A南ベトナムに対する共産政権押付けは認めない, B米国の名誉を傷つけない,の3点を公約する。

8.23 解放勢力,プノムペン南40キロ国道3号上のアンタソムを攻撃。

8.23 コンポン・チャベクでの政府軍の作戦続く。5日から23日までに政府軍は死者129人,負傷者305人,不明240人,解放勢力は死者254人,戦車破壊31台の損害。

8.23 政府軍はエリート部隊の「パラ」を投入してRumchekとコンポン・チャベクの間の開通作戦。

8.24 政府軍レンジャー部隊,ケソン基地を奪回。

8.24 米機、北ベトナム沖で中国船を爆撃。船員5人が死亡。

8.26 解放戦線,クアンチ市周辺に1,700発の砲撃を加える,政府軍発表で、解放戦線127人が死亡,政府軍死傷者は34人。

8.26 南ベトナム新聞協会が解散。反政府系紙を中心とした13紙は,22,23日ストに突入。

8.28 ニクソン、73年から徴兵制を廃止すると発表。さらに1万人の追加削減計画(第10次撤兵計画)を明らかにする。べトナム駐留米軍は3万9千人となる。

8.28 太湖周辺国道5号線での政府軍の作戦続く。政府軍はKblal Damrei,Trapeang Chanの奪回とPonley,O Russei Sachでの包囲を解く作戦。

8.28 タケオ州国道2号線では,解放勢力がPrsat Neang Khmauに100発の砲撃を加え,Loveaで政府軍と激戦,政府軍に死者15人の損害,解放勢力死者21人。

8.29 アメリカ軍最後の地上戦闘部隊が南ベトナムから撤収。空軍と警備部隊のみが残留。これを受け、北ベトナム側は南ベトナムの権力構成に関して大幅に譲歩したといわれる。

8.29 ニクソン大統領,第10次撤兵発表。1万2000人減らし,12月1日までに2万7000人にすると発表。

8.29 解放勢力,国道5号線沿いのPonley政府軍陣地を10日間にわたり攻撃の末、奪取する。政府軍100人は行方不明となる。

8.30 夜,解放勢力,プノムペン北方国道5号上のPrek Phneou,Prek Toten,Peam Sathaを砲撃,政府軍死者28人,負傷35人。

8.30 国道5号線、Spean Prek TatenとPeam Satha橋が破壊され不通になる。9月8日に開通。

8.31 解放戦線,ビエンホア基地とその周辺部に50発の107ミリ砲を撃ち込む。

8.31 政府軍、タケオ州Loveaに対する解放勢力の圧力を排除,これまでの戦闘で政府軍死者35人,負傷者62人。

 

107ミリ重迫撃砲

 

72年9月

9.01 解放戦線,ビンディン省の郡都タムクアンの軍本部に600発の砲撃を加える。政府軍死者24人,負傷者23人,タムクアンは1カ月前に政府軍が奪回したばかり。

9.01 解放勢力,プノムペン南方Prey Svar,Put Sarを攻撃。

9.03 カンボジアで国会議員選挙。野党の民主党(イン・タム派)と共和党(シリク・マタク派)がボイコットした結果、与党の社会共和党が全議席を独占する。

9.04 解放戦線,プレーク市西35キロのレミン基地を攻撃。政府軍は24時間の戦闘の後、基地を放棄し撤退。

9.05 解放戦線,プレーク南西20キロの政府軍基地バウカンを攻撃,またコンツム市北西9キロの政府軍砲兵支援基地に250発の砲撃を加えた後,突入する。政府軍死傷者39人,解放戦線死者19人。

9.06 解放勢力,コンポン・チャベク西の政府軍陣地を砲撃,国道1号線は切断される。

9.07 解放戦線,ダナン南65キロのティエンフォクを戦車で攻撃,政府軍の守備兵(正規軍,地方軍各1個大隊)は同町を放棄。解放戦線はまた,サイゴン南西80キロ,カイベ北東6キロにある政府軍第9師団前進司令部を攻撃,政府軍死者22人,負傷者76人。

9.07 韓国政府,韓国軍3万8000人を来年6月までに完全撤収する方針を明らかにする。

9.07 シアヌーク議長はUPI通信社長と会見し,「我々はロンノルとの政治解決は決して認めない」と述べた。

9.08 ロンノル大統領は国民にメッセージを発表。「米のストックは現在十分にあるが,バタンバンからプノムペンへの輸送が,国道5号切断のため不可能である。政府は米補給を円滑にするための措置をとった」

9.08 解放勢力,プノムペン東90キロ,国道1号沿いの政府軍陣地を攻撃。政府軍は陣地8カ所を放棄。

9.09 コンポン・チャベクの戦闘が終わり、解放勢力は撤退。政府軍死者数名,負傷者100名,その他1個大隊が行方不明(逃亡?)となる。

9.10 政府軍海兵隊,クアンチに集中攻撃を再開。

9.10 ビエンホア空軍基地で爆発事件が起き,70機の軍用機が飛行不能となる。

9.10 ビエンチャンのソ連大使館ソロキン1等書記官が米大使館に亡命する。

9.10 タケオ市南東20キロKg.Chrey近くで戦闘,政府軍死者5人,負傷者10人。

9.11 南ベトナム臨時革命政府、「ベトナム戦争を終らせ,平和を打ちたてるための重要声明」を発表。第三勢力を加えた三派による和解政府の創設を提唱する。解放戦線側のイニシアチブによる政権樹立の構想を断念し、チュウ大統領即時辞任の要求をはずす。ジーグラー米大統領報道官は「新声明を検討中」と言明。

9.11 ネアクルン地区掃討のための“Baphnom”作戦が開始される。

9.11 国道5号,O Russei SachとKbal Damrei間の戦闘続く。Phdiekでの戦闘で政府軍死者2人,負傷者12人。

9.11 南ベトナム政府軍が,スベイリエン州の国道1号線で作戦開始。

9.12 南ベトナム外務省,「臨時革命政府の提案した民族和解政府は,“連合政府樹立”の別の形態にすぎない」として拒否。

9.13 米国防総省と中央情報局が最近の状況について報告。「激しい北爆にもかかわらず北から南への兵力および武器の供給は減少しておらず,解放軍は今後2年間にわたって南での戦闘を現在の規模で続行する力を持っている」と分析する。

9.12 ネアクルン近くのKg.Soeung政府軍陣地に対する解放勢力の攻撃続く。政府軍はPhnom Chhoeu Kachから撤退,政府軍死者数人,負傷者100人(兵士家族を含む)。

9.13 米軍、この6ヶ月で10万回以上の爆撃を行なったと発表。北ベトナムは、米国が5ヵ月問に爆弾約10万個を投下したと発表。

9.13 Oudong南東数キロで戦闘,政府軍負傷者30人。

9.15 南ベトナム軍、第4次クアンチ奪還作戦。北爆と機雷封鎖により糧食の尽きた北ベトナム軍は、5千人を越す犠牲者を出し、撤退を迫られる。

9.16 南ベトナム軍がクアンチに入る。

9.17 政府軍、国道5号線の掃討作戦を完了。8月18日から占領されていたPonleyまでの国道を開通させる。政府軍側の損害は死者180人,負傷者230人,行方不明125人。

9.18 プノムペン南東60キロ,メコン東岸で24時間の戦闘。政府軍は死者65人,負傷者266人の損害を出し撤退する。この敗北はメコン河を使った政府軍の補給に支障をきたすものと見られる。

9.19 解放戦線,クアンガイ省郡都バトを陥落さす,またバトの北東25キロの郡都ミドウクでも激戦。

9.19 国道5号線,コンポンチュナン州Pong Ro近郊で、政府軍パトロール隊が襲撃さる。政府軍死者15人,負傷者7人。

9.20 チュー大統領がクアンチの前線を視察。「あらゆる形の連立に反対する。米国が北提案に同意するとは考えたくない」と語る。

9.22 解放戦線,クアンガイ省南部の郡都ドクホ周辺にある政府軍陣地数カ所を攻撃。

9.23 解放戦線,クアンチン省郡都チエンフォック周辺の政府軍陣地を戦車,130ミリ砲で攻撃,その他クアンガイ省の郡都ダクフォの政府軍陣地に300発,その南西の郡都バト周辺の政府軍レンジャー部隊基地に800発の砲撃を加える。

9.25 米上院本会議,チュー大統領が合法的な反対派を弾圧していることを非難する決議を採択。

9.25 サイゴンで韓国軍参戦7周年記念式典、派遣韓国軍はこの時点で3万8千人で、米地上軍を上回る。

9.26 キッシンジャーとレ・ドク・トが18回目の秘密会談,27日も会談続行。

9.26 米軍はB52による爆撃の3分の1をカンボジア南東部のコンポンチャム,プレイベン,スベイリエンに向ける。

9.27 ニクソン米大統領、「南ベトナムは間もなく米国の支援なしに,完全に自国を防衛できるようになろう」と述べる。

9.27 米大使乗用車がプラスチック爆弾に触れ,エンダース代理大使の護衛官ら2人が死亡。大使は休暇で帰国中。

9.29 チュー大統領、「停戦は新たな戦争につながるものではいけない。共産側に利用されないような方式が検討されなければならない」と演説。

9.29 国道2号Samrong Yonで、政府軍と解放勢力が7日間の戦闘,政府軍死者44人,負傷者126人。

9.30 米機、大編隊でハノイ近辺の空軍基地を爆撃、ハノイ上空でミグ戦闘機との空中戦となる。

72年10月

10.02 チュー南べトナム大統領、3者連合和解政府構想を拒否。

10.02 解放勢力が一斉攻勢。24時間に全土で100件の攻撃をかける。

10.02 米空軍最後の戦闘部隊が,最後の出撃を終える。

10.02 解放勢力がネアクルン基地周辺の政府軍陣地に全面的な攻撃を開始。数百発の砲弾が撃ち込まれる。ネアクルンから7キロのロンチェク陣地は戦車隊の攻撃を受け,前しょう地点が陥落,解放勢力死者82人,政府軍死者4人,負傷者30人。

10.03 サイゴン東25キロ,サイゴン川東岸で政府軍と解放勢力が戦闘,政府軍死者1人,負傷6人。

10.03 タイのゲリラ、タイの米軍北爆基地ウボンを迫撃砲で奇襲攻撃。

10.03 ネアクルン近郊Chhoeu Kach,Kg.Soeung,Rumchekでの戦闘で、政府軍死者13人,負傷者38人,解放勢力死者111人。

10.04 サイゴンの全学生が,解放勢力による首都攻撃に備えるため,学校へ集まるよう命令を受ける。

10.05 B52・20機がサイゴン北45キロ,ライケ周辺,ミト周辺などを爆撃。

10.05 ニクソン米大統領。「和平交渉は,プライベートなチャンネルを通じてきわめて包括的に行なわれている。交渉はきわめて微妙な段階にある」と述べる。キッシンジャーがシャトル外交。9項目の和平協定調印に向け動く。

10.06 解放勢力の攻撃件数は100件を記録,そのうち砲撃が76件。サイゴン北40キロのビンズオン省ベンカット周辺で激戦,国道13号の交通が途絶する。B52もサイゴン北方56キロ北西40キロにかけて10波の爆撃。

10.06 政府軍、1カ月ぶりにダナン南のクアンチン省ティエンフォクを奪回する。

10.06 プノンペン市北部に解放勢力の突撃隊数百人が侵入。通称“日本橋"が破壊される。プノムペン北方50キロでは解放勢力が国道5号線を10キロにわたり制圧。南および南西方地域でも軍事行動が活発化。

10.07 解放勢力2個中隊(1個中隊45人)がプノムペン市内に突入攻撃。戦車10台を破壊する。政府側死者23人,負傷者41人,解放勢力死者81人。

10.07 解放勢力,タケオ南国道2号Ton Loapの政府軍陣地を砲撃,政府軍死者3人,負傷者34人。

10.07 解放戦線,ミト市周辺のヘリポートと政府軍連隊司令部を攻撃,政府軍側に30人の死傷を与える。

10.07 解放戦線、一日で105件の攻撃。サイゴン北20〜25キロのビンズオン省フクオン近くでは国道13号沿いの6つの村が攻撃され,国道は寸断される。政府軍増援隊が駆けつけ戦闘となる。

10.08 サイゴン北わずか14キロ,ライチュー付近で戦闘。

10.08 パリでキッシンジャー、レ・ドク・ト秘密会談。北べトナムが9項目和平案を提示したことで、合意への第一歩が踏み出される。第一段階で現状停戦と米軍の撤退・捕虜の釈放を行い、第二段階で南ベトナムの当事者が政治問題を共同で解決するとし、軍事問題と政治問題の切り離しを認める。

10.08 チュー大統領,「臨時革命政府の連合政府構想は、軍事的敗北をごまかし私を追出そうとする共産側の計略だ」と非難する。

10.08 国道5号Sala Lek Pramで戦闘,政府軍死者9人,負傷者19人。

10.09 グエン・チャン・チ,グエン・タイ(前パリ会談南ベトナム政府代表団),ゴ・コン・ドク,ファム・テ・チュクがパリで共同声明を発表。@いずれの勢力にも属さない民衆の声をパリ会談に反映させること,Aチュー政権は政治犯をただちに釈放すること,B米国はチュー政権支援を停止すること,Cチュー政権は権力を放棄すること。

10.09 政府軍,サイゴン北20キロで掃討作戦。8千人といわれる解放勢力の一掃を図る。

10.09 最強の輸送ルートの国道1号が切断される。

10.09 政府軍,タケオ南Kg.Chreyなど3カ所の陣地,トンレアプなど2カ所から撤退。

10.11 米機、ハノイの中心部を爆撃。仏総代表部に直撃弾投下、シュジニ総代表が重傷を負う。パリに移送されたが19日死亡。

10.12 『シカゴ・デイリー・ニュース』,11日の米軍機の爆撃は,米統合参謀本部からの極秘命令によるものだったと報じる。

10.14 ドン首相,「米国は軍事問題と政治の不可分を承認し,選挙前に三派連合政府を作ることを認めた」と語る。

10.12 チュー南ベトナム大統領、3者連合政府案は絶対拒否と言明。

10.12 解放軍、三国国境地帯のベンヘト基地に1千発の砲撃,政府軍は同基地を放棄する。

10.14 ソン・ゴク・タン首相辞任,ロンノル大統領はハン・トゥン・ハック社会共和党書記長に組閣要請。

10.15 人民解放軍最高指揮部が動員令。戦闘を強化して敵に5項目を受け入れさせるよう呼びかける。

10.17 解放戦線,ミト周辺を攻撃。

10.17 キッシンジャー補佐官、パリでレ・ドク・トと秘密会談。北ベトナム側の和平協定案に基本的に同意の意向を明らかにする。米国側は北ベトナム軍の南ベトナム領内での現状在留を黙認。北ベトナムはチュウ政権の現状存続を認めることとなる。

10.17 北上空で撃墜された米機が4,000機に達する。

10.17 愛国戦線と愛国中立派の和平交渉団がビエンチャンに到着し、第一回ラオス和平会談を開始。愛国戦線の5項目を基礎に話し合うことで合意。愛国戦線シパスート団長は@ラオス愛国戦線,A愛国中立勢力および平和独立,中立をとなえる個人,知識人,Bビエンチャン派からなる新臨時民族連合政府と政治諮問評議会を設置することを提案する。

10.18 キッシンジャー補佐官がサイゴンに到着。一週間にわたりサイゴンに滞在。この間チュウ大統領と6回にわたり会談。バンカー大使,エイブラムス陸軍参謀総長が同席。アメリカは、南ベトナムが和平に応じなければ援助を中止し、南政府抜きで北ベトナム、臨時革命政府と講和するつもりだったといわれる。

10.18 ストックホルム国際平和研究所、インドシナでの投下ナパーム弾は、朝鮮戦争での10倍の33万8千200トンにのぼり、戦争による死者の10%がナパームによると発表。

10.19 南ベトナム情報省が声明。「チュー大統領は、国民の承認を経ずにいかなる政治解決にも応じないというかたい立場を再確認した」

10.19 パテトラオが南部でふたたび攻勢。ラオガム交叉路とサラバン,コンセドン両町のタイ兵・政府軍を攻撃,コンセドンを制圧する。

10.20 ニクソン米大統領、「軍事紛争の終りは近い」と演説。北爆、艦砲射撃と機雷敷設を北緯20度以南に限定すると発表。

10.20 政府軍と非正規軍が反撃を開始,22日にはサラバンを,23日にはラオガムを奪回する。

10.20 バンパオ将軍の特殊部隊,ジャール平原南部と南西部および南,西方の高地を占領。

10.20 ハン・ツン・ハク首相は上院議長邸でのパーティーに向かう途中、ピストルで撃たれたが難を免れた。

10.21 南ベトナム政府、サイゴンの各家庭に,“三派連合政府反対”のステッカーを配布する。

10.21 解放軍の突撃隊1個中隊,サイゴン北方25キロ国道13号線上のブンカウ村に進入,政府軍と交戦。

10.21 北京駐在の北ベトナム外交官,「2,3日中に合意が得られなければ、在ベトナム米軍は不愉快な軍事的驚きに直面するだろう」と警告する。

10.22 ラインバッカーT作戦が終了。延べ4千波の爆撃で、12万トンの爆弾が投下される。これによりイースター攻勢は挫折。

10.22 キッシンジャー提案に対し、チュウは北ベトナム軍の無期限残留は断固として認められないと主張。キッシンジャーは援助の全面停止の脅迫をかけるが、チュウは説を曲げず。南ベトナム政府の抵抗で、9項目の和平協定調印は不可能となる。

10.22 サイゴン滞在中のキッシンジャー補佐官,チュー大統領と5度目の会談。

10.22 ニクソン大統領がラジオ演説。「われわれは長く困難だったベトナムへの軍事介入の終りに近づいている」と述べる。

10.22 タイ国政評議会のタノム議長、「米国と北ベトナムとチュー政権との間にある種の合意が達成された。ベトナム停戦が非常に近い将来実現しよう」と語る。

10.22 ハク首相,「政府はクメール・ルージュとの和平会談に原則的に合意に達した」と発表。民族連合政府は,カンボジアの現状停戦論を米帝国主義の陰謀として非難し,「プノムペン売国奴を掃滅する」と声明。

10.22 バタンバンから2,000袋の米を積んだ船がプノムペン到着。

10.23 6回目のキッシンジャー・チュー会談。会談後キッシンジャー補佐官はいったん帰国。 チュー大統領は4軍区司令官および44の省長と協議。

10.23 米大使館が声明を発表。「われわれは進展をみた。米国と南ベトナムとの会談はなお続行される」と述べる。

10.23 ドン首相,『ニューズ・ウイーク』誌で3段階の和平案を説明。

10.23 プノムペンの陸軍参謀本部近くに107ミリロケット弾が撃ち込まれる。夜,タケオ市砲撃さる。

10.24 チュー南ベトナム大統領、テレビ放送でキッシンジャー提案を非難。「停戦は近いが三者連合政府は認めない」と言明。共産主義者の活動,およびその協力者に対する刑罰が極めて重いことについて国民の注意を喚起する。(連合政府は表向きの理由で、北ベトナム軍の駐留拒否が真の理由。チュウにしてみれば至極当然の要求であろう)

10.24 第2回ビエンチャン会談開催,愛国戦線側のシパスート団長は,@米国のラオスに対する侵略と介入の即時停止,A新臨時連合政府樹立,B政治協商会議設置を要求する声明を発表,一方政府側のフォンサバン団長は,@愛国戦線のインドシナ統一戦線からの脱退,A国際監視下の全面停戦,B全外国軍隊の撤退,C行政統合,軍隊統合,総選挙の準備などを要求する提案を行なった。

10.25 解放勢力,ダナン空軍基地に数十発のロケット砲を撃ち込む。同基地内のナパーム弾集積所と燃料タンクが炎上。

10.25 愛国戦線中央常務委と愛国中立勢力同盟常務委,ボンビチット書記長をビエンチャン交渉代表団の特別顧問に任命。

10.26 キッシンジャー、ホワイトハウスでの記者会見で「平和は手元にある。協定は視野に見えている」と強調。

10.26 解放勢力の攻撃件数は一日で113件。第3軍区で38件,第4軍区で46件。

10.26 北ベトナム政府,和平協定草案を暴露し「アメリカが約束を破った」と非難。当初の予定通り、10月末に和平協定に調印するよう迫る。キッシンジャー補佐官は,「協定作成上のあいまいさをはっきりさせるためにもう1回の会談が必要」と釈明する。

10.26 パテトラオはジャール平原中心部から南方10〜15キロのバンフォン,カンセン両地区で,バンパオ特殊部隊と南ラオス特殊部隊,タイ兵の陣地を奇襲,1,200名以上をせん滅。(パテトラオ通信の報道によるもので、その後のフォローがなく眉唾)

10.27 解放戦線、サイゴン周辺の部落12カ所を一斉に夜襲攻撃。

10.27 レアード米国防長官,20度線以北のベトナム爆撃を全面的に停止したことを確認。

10.28 臨時革命政府が声明を発表。「北ベトナムと米国との間で合意された和平協定のすべての条項を厳密に尊重し実行する」と述べる。そして停戦協定が調印されれば,停戦を順守するよう下部に命令する。

10.28 解放戦線、全土で138件の攻勢をかける。サイゴンから25キロのビンディン省都フークオンで国道13号を切断,ハウギア省クチ南東5キロでは国道1号を切断,サイゴンから20キロの部落17を制圧,フォクトイ省とタイニン省でも7つの村落を制圧,政府軍はこの内5つを奪回。

10.28 解放勢力、前日に続きサイゴン周辺で攻勢をかける。

10.29 ロンノル平定相,赤色クメールと接触するための評議会を設置。キュー・サムファンの弟を赤色クメール側に派遣した。

10.30 拡大パリ会談のビン臨時革命政府代表、チュー政権が続く限り民族和解は実現しないと言明。

10.31 アンクアン寺が宣言を発表。当事者が相互譲歩によって早期停戦を行なうようもとめる。またサイゴン政府,臨時革命政府のどちらにも立たないことを明らかにする。

72年11月

11.01 チュー大統領がラジオ演説。「公平な平和と保障された停戦」を実現するため基本原則として「北側」に4条件を要求し、北ベトナムに直接交渉をよびかける。@南ベトナムから全兵力を撤収する。A見せかけの連立政権を樹立するとの提案を捨てる。B解放戦線とサイゴン政権に政治解決をまかせる。

11.01 アグニュー副大統領、「南ベトナムに共産政権ができても妨害するつもりはない」と言明。

11.02 解放戦線,142件の攻勢。アンロク北東5キロ地点で解放勢力1個大隊と政府軍第18師団が戦闘。政府軍死者4人,負傷者28人。

11.02 政府軍,サバナケト南東20キロのケンコクを奪回。

11.02 パテトラオ、ルアンプラバンから6キロ,メコン河沿いのバンダンチョ村を攻撃。さらに6キロ上流のバンパクサンの政府軍陣地を制圧する。 政府軍はルアンプラバンに夜間外出禁止令。

11.02 民族連合政府と武装勢力の国内指導者が解放区で会議を開催。「交渉,妥協,停戦を受けつけず,完全な勝利をかちとるまで,米帝と外国の手先との闘争を最後まで進める」と声明。

11.03 米政府当局者,過去数週間に最低2個連隊の北正規軍が南ベトナム北部から引き揚げたとみられると語った。

11.03 解放戦線,ドクコの政府軍レンジャー部隊基地を10時間以上の戦闘のうえ奪取。

11.03 パテトラオの4個大隊3,000人が、ジャール平原南の政府軍陣地を攻撃。

11.05 サイゴンでカトリック教徒らがチュー大統領支持デモ,2万5000人が参加。

11.06 AFP、「北軍の残留認め,3地域に再編成」で妥協成立と報道。

11.07 米大統領選,ニクソン氏再選さる。

11.07 米大統領選挙。ニクソンが圧倒的大差で再選される。再選後、ニクソンは和平を無視しふたたび攻勢に出る。

11.08 米から南ベトナムへの武器緊急輸送が完了。戦闘機,C130輸送機,ヘリなど500機が供与される。

11.09 ニクソン大統領が記者会見。「我々の関心は戦争を終わらせるだけでなく,将来の影響力を確保することにもある」と語る。

11.09 民族連合政府、「ベトナム和平協定はカンボジアには適用されない。同協定による国際監視委員会はカンボジアで活動する権利がない」と述べる。

11.10 スアン・トイ代表、捕虜を2つのカテゴリーに分け,外国人捕虜は2カ月以内に釈放,南ベトナム民間人については3カ月以内に釈放されると述べる。また3派から成る全国評議会の役割について明らかにする。

全国評議会の役割: 全国評議会はキッシンジャーの説明の通り、「管理機構」(administrative Structure)である。その役割は、@臨時革命政府とサイゴン政府に協定の条項を実施させること,A選挙の諸規則をつくり選挙を施行することである。過渡期の間は臨時革命政府とサイゴン政府の2つの政権が存続する。

11.10 ヘイグ大統領補佐官、サイゴンを訪問し、グエン・バンチュウ大統領と会談。

11.11 ロンビエンの補給基地の南ベトナム軍への引渡し式が行われる。戦争へのアメリカ軍直接参戦の終わりとなる。

11.11 解放戦線,中部海岸のボンソンに300発,北部クアンチに1,000発,サイゴン南東150キロのチュオンチェン省都ビタンに数発の砲撃。

11.11 『ニャンザン』紙,「反グエン・バン・チュー戦線が拡大している」と題する社説を発表。

11.11 パテトラオ,ラオガム町を制圧。

11.11 夜,解放勢力がウドンを包囲。10発の122ミリ砲撃を加える。ウドン市の政府軍は依然包囲されている。

11.12 解放戦線,2回にわたりビエンホア基地を砲撃,弾薬庫1カ所爆破さる。

11.12 パテトラオ1個大隊,タケクを攻撃。

11.13 パテトラオ,ルアンプラバン飛行場周辺に50発の122ミリ・ロケット砲を撃ち込む。

11.13 パテトラオ,ジャール平原南部で攻勢。バンパオ将軍の特殊部隊は南に後退する。

11.14 ラム外相,「北ベトナム軍が部分的に撤退し,残りの兵力は特定地域に集結したのち漸次撤退するという方式には賛成する。評議会の機能は選挙の組織に限定さるべきだ」と言明。

11.14 ニクソン、チュウに親書。北ベトナムが和平協定を犯すときは「すばやく、厳しく報復行動を実行する」と誓う。

11.15 チュー大統領,バンカー大使と会談。パリ会談に南ベトナムも参加することになる。

11.16 パテトラオ2個大隊,南部のサラバンをふたたび奪取。

11.16 政府軍,国道4号のTrapeang Kraloeungを奪回。国道5号も開通。

11.18 解放戦線,クアンチ市北8キロに展開した政府軍に2,800発の砲撃。

11.19 解放勢力,プノンペン北西56キロ,国道5号線上でトラック50両からなる政府軍輸送部隊を壊滅させる。

11.20 パリ秘密会談が再開される。キッシンジャー補佐官はパリ入りしたグエン・フー・ドク南ベトナム大統領顧問と会談。

11.20 米軍、南ベトナムヘの武器供与を終了すると発表。駆け込み援助により、南政府軍の空軍は2千機で世界第4位となる。

11.20 キッシンジャーとレ・ドク・トの秘密会談が再開される。

11.22 カオダイ教幹部のグエン・バン・タン将軍が暗殺される。

11.22 17度〜20度線地域に対する北爆が激化する。B52が15波にわたり出動。その後も連日の北爆が続く。

11.22 夜,プノンペン港へセメントを運ぶ途中の韓国船がトンレサプ川で爆破される。

11.26 政府軍海兵隊,クアンチ市北10キロの解放勢力支配地域に進撃。解放勢力はクアンチ市周辺の海兵隊陣地に1,370発の砲撃を加える。

11.26 解放勢力、サイゴン北西34キロの政府軍大隊陣地を砲撃。

11.27 解放勢力はクアンチ北部の政府軍海兵隊陣地と降下部隊陣地に3,400発の砲撃。クアベト河口に向かった政府軍海兵隊1個大隊700人は,途中で解放軍の反撃にあい,27日未明までに戦車3台を失い,戦死15人,負傷68人の損害をうける。

11.28 『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙、「南ベトナム政府軍の脱走兵数が増加し、最近では毎月2万人が脱走」と報道。

11.29 クメール・ルージュ、ポチェントン空港(プノンペン国際空港の旧称、プノンペン西方)をロケット砲撃。

11.30 ベトナムからの米国軍撤退が完了する。管理業務と南ベトナム軍顧問として1万6千が駐留を続ける。

72年12月

12.01 解放勢力,クアンチ市周辺の政府軍陣地に650発の砲撃。

12.01 中部海岸で政府軍輸送機が墜落。平定化計画の最高責任者チャン・バン・フォン少将が死亡。

12.01 CBS放送の報道によれば、ニクソン大統領はチュー大統領に「和平協定案に反対し続けるなら、すべての援助を停止する」と通告。

12.01 オーストラリアで労働党内閣発足。北ベトナムとの国交樹立、徴兵制の廃止を打ち出す。南ベトナム政府への防衡援助を打ち切り、残留の軍事顧問を即時撤退させる。

12.01 プノンペンの首相府庁舎に107ミリロケット砲2発撃ち込まれる。

12.02 コンツム南西15キロの政府軍レンジャー部隊陣地が解放勢力の猛攻で陥落。

12.04 パリのベトナム和平会談が再開される。キッシンジャーはチュウ大統領の要求した69項目の変更リストを提出。

12.05 第4軍管区住民決起の日と銘うったサイゴン政府支持デモがデルタ各地で行なわれた。参加者の大半は小,中学生,高校生。

12.06 タンソンニャト空港,53発の122ミリ・ロケット砲による砲撃を受ける。死者9人,負傷者54人。

 

122ミリロケット砲

 

12.06 政府軍,パクソンを1年ぶりで奪回。さらにパクソンとサラバンの一部を奪回。

12.07 プノンペン港に停泊中のパナマ貨物船,機雷で爆破さる。同船は米国援助物資を積んで6日夜入港。

12.08 B52による爆撃をふくむ北爆が、北ベトナム全土で全面再開される。

12.09 解放戦線、各地でロケット砲による攻撃を強化。

12.10 B52が90波にわたる北爆。

12.11 ニュージーランドのカーク首相、インドシナ諸国を訪問。3週間以内に軍を引き揚げると言明。18日には撤退完了。これに代わり、南北べトナム・ラオス・カンボジアに約36億円の復興援助を供与すると発表。ニュージーランド首相もクリスマスまでに陸軍訓練隊を引き揚げると言明。

12.12 チュー大統領、上下両院合同会談で演説。「暫定停戦,捕虜釈放,解放戦線との話し合い,非武装地帯確立,北ベトナム軍の完全撤退,国民投票を行ない,その結果にもとづき新大統領を選出する。新大統領は解放戦線を含む国家評議会にはかって新政権を樹立する」との提案を行なう。

12.13 ニクソン、72時間以内に北ベトナムが真剣な交渉を再開しなければ、重大な決意で望むと恐喝。

12.14 サイゴン東方10キロのビエンホア省タントイハ弾薬庫が爆発。

12.15 ジアディン省の米国石油会社の貯蔵所に82ミリ砲13発が撃ち込まれ,ドラムカン30本分の石油類が破壊さる。

12.15 プノンペン港で石油輸送船が爆発で沈没。

12.16 B52,プレーク市西方を12波の爆撃。政府軍,プレーク西方ドクコ近くで解放勢力と戦闘。

12.16 クアンチ南西13キロのアンヌ基地近くで,政府軍と解放軍が戦闘。

12.16 臨時革命政府、「協定が調印されればこれを完全に尊重,実施し,サイゴン政権と協議に入る」と言明。

12.16 北べトナム外務省、米機がハイフォン一帯を爆撃したと非難。

12.16 キッシンジャーが記者会見。秘密交渉は基本的政治問題の不一致により暗礁に乗り上げていると発表。行き詰まりの原因は北側の態度変更にあると強調する。

12.16 米歌手ジョーン・パエズ、北ベトナム入り。

12.16 解放勢力2個大隊,サラバンに1,000発の砲撃。

12.17 南ベトナム臨時革命政府は、アメリカが和平を遅らせていると非難。

12.18 レアード国防長官,北爆制限(20度以北)を解除すると発表。ジーグラー報道官は,ニクソン大統領が全面北爆再開を命令したと発表。「米国は和平交渉が新しい攻勢をかくすために使われるのを許さない」と述べる。

12.18 アメリカ軍、無制限の北爆を再開、クリスマス爆撃(正式にはラインバッカーU作戦)が開始される。この北爆にはソ連・中国のみならず、西側諸国からも非難が集中。

ラインバッカーU作戦: B-52爆撃機延べ700機による夜間絨毯爆撃など、2週間で10万発5万トンの爆弾が投下される(東京大空襲で使われた爆弾は1700トン)。ハノイの繁華街カムティエン通り、アンズオン住宅区、バクマイ病院が全壊。市民3千人が死亡し、ハノイやハイフォンは焼け野原となる。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップする。

12.18 解放勢力,ルアンプラバン飛行場に122ミリ・ロケット33発を撃ち込む。

12.19 スアン・トイ北べトナム代表、「米側は和平協定の全項目にわたり126ヵ所の修正を求めた」と語る。

スアン・トイとレ・ドク・ト: 和平会談における首席代表はスアン・トイであり、レ・ドク・トは顧問に過ぎない。しかしスアン・トイが外務官僚であるのに対し、レ・ドク・トはベトナム労働党の政治局員であり、指導権はレ・ドク・トが握っていた。とくにキッシンジャーが交渉の前面に出るようになってからは、レ・ドク・トがキッシンジャーと“ さし”で話をまとめていった。

12.19 空母エンタープライズがトンキン湾へ入る。

12.20 ハイフォン港のポーランド貨物船、米機の爆撃で沈没、船員6人死亡。

12.20 スウェーデンのクリステル・ウイクマン外相,米の爆撃を盲目的かつ残酷と非難。ニュージーランド首相,デンマーク首相も米国を非難する声明を発表。

12.20 B52が100機、戦闘爆撃機500機以上がハノイ・ハイフォン地区を爆撃。

12.21 ハノイ放送、北爆再開後,B52が15機,その他34機を撃墜と発表。

12.21 171回パリ会談開催。北ベトナム,臨時革命政府両代表は,北爆を非難し,10月協定に直ちに調印するよう要求して退場。

12.21 解放勢力,コンポントム市攻撃,24日も同市から4キロの地点で激戦。

12.22 ハノイのバクマイ(白梅)病院に爆撃。延べ三回にわたり千個の爆弾が投下され、建物は全壊する。

12.22 解放勢力はタケク南40キロのセバンフアイ橋を攻撃し,政府軍守備隊を撃破,国道13号線を切断する。

12.23 スエーデンのパルメ首相、「ナチスの大量虐殺にも匹敵する蛮行」と非難する。米政府はこの発言に抗議。スウェーデンの全政党は、パルメ首相の声明を全面的に支持する共同声明を発表。

12.24 スアン・トイ北ベトナム首席代表、北爆が停止されない限り交渉を拒否すると言明。

12.24 『ニューヨーク・タイムズ』紙、北爆を「人類に対する犯罪」と非難する社説。

12.25 ハノイ放送は、米機がクリスマス休戦中の24日夜もハノイ地区を爆撃したと非難。

12.26 米軍機、爆撃を再開。ハノイに最大規模の爆撃。一晩だけで283人が死亡、民家1700戸が破壊される。

空のディエンビエンフー: 北ベトナムの防空体制も強化され、強烈な電子妨害にもかかわらず、出動した121機のB−52のうち15機が撃墜される。(北ベトナム側は、17機のB-52をふくめ米機47機を撃墜と発表
ボー・グエンザップは回想録でクリスマス爆撃を「空のディエンビエンフー」と呼んでいる。これによれば、撃墜総数は77、内訳はB52爆撃機33、F111戦闘機5、艦載戦闘機24、偵察機3、ヘリコプター1。これに対し米軍側は27機を失ったと発表。ただし8機のB52爆撃機が「破壊または重大な損傷」を受けたことを認めた。

12.26 ハノイ市当局,人口100万のうち40万人が疎開したと発表。

12.27 チュウ政権、政党規制法を公布。休戦後の政治闘争に備え政権基盤の強化拡大に努める。

12.27 グエン・チビンが中国を訪問。中国は熱烈歓迎。

12.27 オーストラリア、対南ベトナム軍事援助を全面的に打ち切ることを決定。

12.29 北ベトナム、アメリカの停戦提案に対する部分的同意の意向を表明。

12.29 アメリカ、ハノイをふくむ紅河デルタ地帯への爆撃を停止。

12.29 米政府,パルメ首相の北爆非難に対してスウェーデン大使の受入れを拒否。

12.29 ハノイ上空で,18日以来34機のB52を撃墜,撃墜総数は79機となる。

12.30 ホワイトハウス,20度線以北の北爆停止を発表。パリ秘密会談は1月8日に再開されることとなる。

12.30 ニクソン大統領、20度線以北の北爆停止を命令。パリ秘密交渉が1月8日再開されると発表。

72年末 この時点でのベトナム駐留米兵数は2万4千人に減少。これに対し南ベトナム領内に進攻した北ベトナム軍は14万人以上とされる。

1972 ジョン・レノンもアメリカにおいて反戦活動を展開。「若者への強い影響力を背景に強硬かつ一方的な」主張(Wikipedia)をおこなったことにより、アメリカ政府から国外退去を命じられる。

なお「Wikipedia」の筆者は、「北ベトナムに同情的な勢力による多くの組織的な反戦運動に対して、ソ連が資金的・物理的援助を行っていたことが戦後当事者の話によって明らかとなっている」と書き、当時我々が行ったベトナム反戦活動が不純であったように描き出そうとしているが、その目論見こそ不純である。

 

1973年

73年1月

1.01 北ベトナムのパリ会談代表団コミュニケ発表。@米国が爆撃中止に合意したので,交渉に合意する。A米国が同様の態度を示せば,戦争終結と平和回復に関する協定の締結が可能である。

 

新年ポスター「英雄ハノイは必ず勝つ」

 

1.01 北ベトナム、72年の撃墜機が732機に達したと発表。うちB52型が54機。

1.02 デンマーク政府、北ベトナムに2億2千万円相当の資金供与。フィンランド政府、北爆被害復興のため1億2千万円を援助すると発表。

1.03 米国、北緯20度以北の機雷封鎖を解除すると発表。

1.04 カント近くの国道4号の橋が爆破される。午前6時までの24時間に,解放戦線側の攻撃件数は116件を記録,3分の2はデルタに集中。

1.04 バンビエンに2発のロケット弾。

1.04 未明,ポチェントン空港近くに122ミリ・ロケット弾12発,民間機1機,損傷,死3,傷30。 解放勢力,プノンペン南40キロ,国道3号上のTram Khnarに侵入。解放勢力は1日から同市を攻撃,兵力4000〜5000人。1日〜4日政府軍死11,傷48,解放勢力死18。

1.05 南ベトナム経済省,赤,青色の繊維輸入禁止。解放戦線旗に使われるのを防ぐため。

1.05 Tram Khnar町で白兵戦。政府軍2個大隊1500人が奪回作戦。解放勢力は同市の半分以上を占拠中。

1.06 国道13号上カシーで兵員輸送中の米ヘリ4機が破壊される。

1.06 プノンペン港桟橋,爆破さる,パナマ船損傷。

1.07 パリの和平会議が再開される。

1.07 オランダのユトレヒトで北爆糾弾の5万人デモ。ボンで2万人の反米・ベトナム支援デモ。アムステルダムでは反戦デモ隊が、米領事館を占拠。

1.07 パテトラオ,二日間にわたりサラバンを攻撃。

1.08 ダナン空軍基地の米軍部隊が反戦行動を起こして政府軍に発砲。米機,ダナン基地を誤爆,300万リットルの燃料炎上,11機損傷。

1.08 B52、北ベトナム南部地帯に15波の爆撃。

1.08 スウェーデンのパルメ首相、「ハノイはゲルニカだ」と述べ、ラインバッカー作戦を強く非難。国王グスターフ六世も国会開会挨拶で北爆非難の演説。

1.08 解放勢力,メコン東岸のPreah Prasapを攻撃。政府軍,同地を撤退,9日同地を奪回,夜,解放勢力,国道2号のSvay Preyを攻撃。

1.08 ロン・ノル大統領,記者会見で言明「政府がシアヌーク殿下と交渉する可能性はない。クメール・ルージュとはあらゆる場所で接触をはかる。北ベトナムがカンボジア領内から撤退した後,共和国憲法を基礎にしてクメール・ルージュと民族統合を図りたい」

1.09 サイゴン北東20キロのロンビン基地,砲撃さる 460キロリットルのガソリン・タンク炎上。

1.09 『ニヤンザン』紙、「交渉が結実することを示唆する兆候はなにひとつない,逆に米側にはむしろ悪い兆候がある」と述べた。

1.09 レ・ドクトとキッシンジャーのあいだで合意が成立。チュウ大統領は北ベトナム軍の残留を受け入れる。

1.09 パテトラオ,ビエンチャンとルアンプラバンを結ぶ国道13号線の大半を制圧,ルアンプラバン南29キロの地点まで進出,政府軍は王都防衛の前進拠点Ban Cunianから総退却。バンビエン北50キロMuong Kassyの政府軍陣地や,ルアンプラバン南東80キロのKiou Cham政府軍陣地も包囲される。

1.09 解放勢力,プノンペン南方18キロの国道2号線上Svay Prey基地を攻撃,政府軍死3,傷10。国道2号はタケオからPhnom Denまで開通。

1.10 SAC(米戦略空軍司令部)は北爆出撃を拒否した機長が軍事裁判にかけられるであろうと発表した。

1.10 政府軍機動2個連隊がサラバンを攻撃。

1.11 ソ連のブレジネフ書記長,「ペトナム戦争は少しずつ終局に近づいている」と言明。

1.11 クレメンツ国防次官,上院軍事委でもしベトナム和平パリ交渉が完全に決裂した場合,米国が北ベトナムに対し核兵器を限定的に使用する可能性を否定するつもりはないと証言。

1.11 北ベトナム外務省スポークスマン,米軍は新たな軍事冒険を準備していると非難。

1.11 国道1号で激戦。政府軍,ネアクルン東のKg.Soeung,ChhoeuKach,Rum Chekから撤退。解放勢力,カンダル州Prek Ho(政府軍死10),タケオ州Thnal Totung(政府死6)等を攻撃。

1.11 国会前に107ミリ・ロケット弾3発。

1.12 政府軍1万人,サイゴン北西60キロの森林地帯で索敵作戦。

1.12 政府軍,ネアクルンから7キロのメコン河西岸にあるプレクデク陣地を放棄。12日の国道沿いの激戦で政府軍死100。

1.14 ニクソンは、北ベトナム全土に対するすべての砲爆撃、機雷敷設の停止を命令。

1.15 ニクソン米大統領,20度以南を含む北ベトナム全土に対する爆撃中止を指令。

1.15 プーマ首相,「政府の構成については議論の余地があるが、北ベトナム軍は徹退すべきである」と語る。

1.15 タケクに18発のロケット砲。

1.16 サイゴンの米軍司令部,北爆停止後もラオス,南ベトナム爆撃は強化と発表。

1.16 政府軍は15日から6000人を動員して反攻を開始。ネアクルンからベトナム国境に至るメコン河沿いの全拠点を奪回。

1.17  チュー南べトナム大統領、和平協定の原則的受諾を表明。

1.18 夜,ルアンプラバン空港にロケット砲33発。Muong-Kassyに政府軍救援隊到着。

1.19 解放軍,サイゴン北北東55キロのビンズオン省チタム東方8キロの政府軍陣地を攻撃,政府軍は2個大隊1,000人を増派,政府軍の死傷・行方不明200人。解放軍死者320人。

1.19 チュー大統領特命の軍事代表団(団長ビン・ロク少将)一行5人,パリに向け出発。

1.20 解放軍,サイゴン北方60キロのビンズオン省チタム,サイゴン北西90キロのタイニン市チャンロン陸軍キャンプを砲撃,軍の燃料庫を炎上さす。政府軍1万人が1週間前からチタム北東のゴム園森林地帯で作戦中。同地には解放軍4個連隊6,000人がいるという。

1.20 ニクソン、二期目の大統領に就任。就任演説で和平実現を示唆。

1.20 シファンドン解放軍最高司令官,攻撃強化を命令。パテトラオは戦車2台でサラプクン北西15キロを攻撃。

1.21 チュウ大統領、和平協定に同意。チュウは「降伏したも同然の協定」とコメント。

1.21 政府軍はサイゴン北北西80キロのタイニン省内で,解放側の輸送車を爆撃,21台を破壊,30台を損傷。

1.21 解放放送は,19日サイゴン北方ビンズオン省ダウチェン方面の戦闘で捕虜となった政府軍兵士400人のうち,130人を22日ダウチェン南9キロで釈放すると発表。釈放されるのは政府軍第5師団第8,第9大隊の兵士130人。

1.21 ハイフォンで米代表団と政府代表団機雷除去作業について協議。米国防総省スポークスマン,機雷撤去に5,000人の兵力を動員と語る。

1.21 シアヌーク殿下,「ベトナム停戦はカンポジアには適用されない。ロン・ノル一派を排除した完全独立しか受け入れぬ。カンボジアの抵抗勢力は独立しており,正規軍は7万2000人を数える。カンボジアが解放されれば,仏・ソにとって損失となろう」

1.22 ジョンソン前大統領、心筋梗塞で死亡。64歳。

1.23 北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案が仮調印される。68年5月のパリ会談開始以来202回にわたる公式会談と24回の秘密会談が持たれた。

合意の内容: 「米正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナムの米軍捕虜の解放」などを柱とする。米軍は直ちに全ての軍事活動を停止させ、60日内に全ての残存軍要員を撤退させる。北ベトナムは、即時の停戦、60日以内に全てのアメリカ人捕虜を解放する。南ベトナム領内に存在する15万人の北ベトナム軍兵士は、軍事活動停止を条件に残留を認められる。

1.23 ニクソン米大統領が「パリで和平協定が調印された。名誉ある合意が成立した。60日以内にインドシナから米戦闘兵が撤兵する」とテレビ演説。一方で「今後とも南ベトナム政府を南ベトナム唯一の合法政府として認め続ける」と語る。

1.24 ホワイトハウス,ベトナム和平協定と議定書を発表。キッシンジャー補佐官が,協定に対する米国の立場を説明。

1.24 チュー大統領は和平協定仮調印に際し、以下のコメントを発表する。「南ベトナム政府は解放戦線側と会談を行なうことになろう。しかし私は南ベトナム臨時革命政府なるものの存在を認めない。南ベトナムには1つの政府,1つの軍隊しか存在しない」

1.24 南ベトナムのラム外相、記者会見で語る。「昨年10月の暫定協定より前進しており,非武装地帯の確立や三派評議会の性格などで北側の主張は通らなかった,しかし北軍の存在については,彼らのいつわりの主張をのまされた」

1.24 韓国,3月末までに派遣軍を撤退させることを決定。

1.24 チャンパサク国防次官、「ラオスの停戦は2月12日から実施される」と語る。

1.24 政府軍,昨年末からパテトラオ・中立左派軍に占領されていたサラプクンを奪回。

1.24 ハク首相,ベトナム停戦協定発効後は北ベトナム,解放戦線,カンボジアのゲリラ軍に対する攻撃作戦を停止すると言明。

1.25 午前6時までの24時間に,解放勢力側の攻撃件数は112件を記録,特に戦闘が激しかったのはクアンチ市付近。

1.25 臨時政府のビン外相がコメント。「臨時革命政府とサイゴンとの間の政治的協議は、できるだけ早く開始すべきである。今後解決すべき問題は,民主的自由の保障,政治犯の釈放,和解一致評議会設置,選挙の4つである」

1.25 プーマ首相,国会で演説。「ラオスからの全外国軍隊撤退という原則が受け入れられた。これからは62年ジュネーブ協定にもとづき,ラオス人の間で解決できるだろう」と述べる。

1.26 解放軍,南ベトナム全土で160ヵ所を攻撃。サイゴン北西のタイニンなどで攻撃。ビェンホア米軍基地に22発の砲撃,米兵1人死亡。ブレーク空軍基地も砲撃される。

1.26 ホアン・ドク・ニャ大統領報道官が最高責任者となって、南ベトナム政府内に「政治戦争最高指導委員会」が発足する。従来の情報省と心理作戦本部の一部が統合され,各省,郡,村までの末端組織が設置される。

1.26 政府・4者ならびに2者合同軍事委の政府首席代表にゴ・ズー中将を任命。米代表団長にはギルバート・H・ウッドワード在ベトナム米軍司令部参謀長が任命される。

1.26 プーマ首相,「停戦後は特殊部隊の一部を政府正規軍に編入,米系航空会社の一部も国営ラオス航空が引受ける。8月末にも総選挙をめざしたい」と語る。

1.27 パリ協定(ベトナムにおける戦争を終結させ、平和を回復するための協定)が調印される。チャン・バン・ラム南ベトナム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者が署名。

1.27 解放軍,サイゴン北西80キロのタイニン市を一時制圧,サイゴン南西74キロのカイライも制圧。

1.27 レアード米国防長官、徴兵制の廃止を発表。

1.27 プラウダ社説、北ベトナムへの支援の実績と戦争終結への貢献を強調する。

1.27 シアヌーク殿下言明「われわれは国際会議には決して参加しない。ベトナム停戦協定での取決めにわれわれは対象になっていない」

1.27 ベトナム停戦協定に関するロン・ノル大統領の声明。「北ベトナム・ベトコンの撤退を助けるため,攻撃作戦を停止する。防衛的軍事作戦と合法的防衛権は行使し続ける」と発表。

ロンノル声明の要旨: 停戦協定はクメール人民の権利の尊重を述べている。北ベトナムは54年ジュネーブ協定を守り侵略をやめよ。クメール領土を秘密に使用したり、武器弾薬を隠したり聖域を維持することをやめよ。、クメール領土で攻撃作戦を行うな。

1.28 政府軍海兵隊,クアベト基地を停戦発効直前奪回。ドンハ町は依然,解放勢力側の支配下にある。

1.28 午前8時の停戦発効までの24時間に解放勢力は,タンソンニャト空港を含む158件の砲撃など,合計334件の砲撃を加えた。

1.28 解放戦線と臨時革命政府は,停戦を厳粛に実施するよう解放軍兵士に共同アピール発表。

1.28 4者合同軍事委の北ベトナム軍事代表19人と臨時革命政府代表1人がパリからハノイ経由で国際管理監視委専用機によりサイゴン入り。続いて政府軍機によりパリからバンコク経由で,臨時革命政府9人,北代表3人がサイゴン入り。臨時革命政府代表は通関・入国手続を拒否。

1.28 国際管理監視委のインドネシア代表団,ハンガリー,ポーランド代表がサイゴン入り。

1.28 B52とファントムの爆撃隊が,ラオス領内のホーチミン・ルートを夜間爆撃。

1.28 サリバン米国務副次官補、「ラオス停戦までの期間,ラオス政府軍への空からの支援を継続する」と言明。

1.29 4者合同軍事委,タンソンニャトで初会合。政府軍からファン・ホア・ヒェプ准将,北からハ・バン・ロイ,臨時革命政府からダン・バン・ツのいずれも次席代表が出席。臨時革命政府代表の一部は依然,機内に残留。

1.29 臨時革命政府外務省、「協定発効後の28日午前9時,サイゴン政権は海兵隊にクアベト河口南方で侵食作戦を命令,軍事委代表団に入国手続を強制して会議への出席を妨害」と非難声明。

1.29 政府軍司令部は,解放勢力側が28日正午から29日午前6時までの間に373件の停戦侵犯を行なぅたと非難。

1.29 ニクソン大統領、ベトナム戦争の終結を宣言。残された米軍2万3000人が撤退計画を開始する。

1.29 停戦協定に基づき、ベトナム国際管理監視委員会(ICCS)が発足。カナダ,インドネシア,ポーランド,ハンガリーの4カ国により構成される。

1.29 南ベトナム政府軍が解放軍に攻撃。北ベトナム政府と南ベトナム臨時革命政府は、政府軍の停戦違反と蚕食作戦を非難する声明。

1.29 ビエンチャン政府軍、パリ協定成立を契機に攻撃を停止。

1.29 解放勢力,コンポントム市の政府軍陣地を攻撃。

1.30 外務省発表,機内の臨時革命政府代表団に対して,入国手続を省略したまま飛行機から降りることを許可。

1.31 国際管理監視委と4者合同軍事委との合同会議。監視委員会は軍事委に対し,@協定の尊重と停戦違反行為の停止,A国際監視への軍事委の協力の2点を要請する。

1.31 サナニコン次席代表とシパスート首席代表、本会談とは別に,停戦に関する特別会談を開催する。

1月 臨時革命政府、ロクニンを暫定首都と宣言。

73年2月

2.01 クアベトの第4海兵大隊は数千発の猛砲撃を受けて100人以上の犠牲者を出し,先週末に引継いだ旧米海軍基地から撤退。

2.01 4者合同軍事委の臨時革命政府首席代表チャン・バン・チャ中将以下28人が,ロクニンから米軍ヘリによりサイゴン入り。

2.01 レ・ドク・ト顧問とグエン・ズイ・チン外相が中国を訪問し、毛沢東と会見。毛沢東は,レ・ドク・トがベトナム人民に対する支援に感謝したのに答えて,「われわれこそ感謝している」と述べる。

2.01 パテトラオ、タケク市に12発のロケット砲。その後地上攻撃を開始し、3日後には8キロの所に迫る。

2.01 パテトラオ、1個大隊規模でラオス西北端バンフェイサイ西北40キロのナムュー特殊部隊基地を攻撃し陥落。

2.02 4者合同軍事委,タンソンニャトで初の公式会談。臨時革命政府のチャン・バン・チャ中将,南ベトナム政府のゴ・ズー中将,米ギルバート・ウッドワード少将,北ベトナムのクアン・ホア少将の各首席代表が出席。

2.02 ホノルルの米太平洋統合軍司令部,B52を含む米機がラオス領内を連続5日間にわたって爆撃したと発表。

2.02 国道4号,Trapeang Kraloeung南西4キロのTalatで切断さる。

2.03 国際管理監視委,7つの地域監視チームを5日派遣することを決定。国際監視チーム,ユエ,ダナン,ブレーク,ファンチェト,ビエンホア,ミト,カントの7カ所に派遣さる。それぞれ地域活動本部を開設。

2.03 ビエンチャンでの和平交渉が本格化。プーミ・ウォンウィチット愛国戦線書記長が、交渉団特別顧問としてビエンチャンに入る。キッシンジャーもビエンチャンに入りプーマと会談。和平の方向を確認する。

2.04 4者会同軍事委と国際管理監視委の各首席代表による初の正式合同会議が,サイゴン市内の国際監視委カナダ代表部公邸で開催。

2.04 戦車をともなった大隊規模の解放勢力が、サバナケト東方190キロのムオンパランを攻撃。政府軍は同地を撤退。

2.04 政府車特殊部隊1万人が参加し,ジャール平原奪回作戦(第2マハラ作戦)を開始,米空軍が支援。サラプクン奪回,さらにその西方50キロのムオンスイも奪回する。

2.04 解放勢力,プノンペン南方87キロのタケオ市周辺の政府軍陣地を攻撃,政府軍死5,傷4,固道2号はタケオ北6キロで切断さる。

2.05 臨時革命政府と南ベトナム政府の第1回予備協議。臨時革命政府からディン・バ・チ次席代表,南ベトナム政府からグエン・フォン・チェプ次席代表代理が出席。6日第2回会議。8日の南ベトナム政府発表によれば,両者は,協議の場所をサイゴンとすること,両者の代表を高いレベルで選ばれる全権委員とすることで合意。

2.05 タケク市に30発のロケット砲。

2.06 ユエからクアンチに向かった監視チームはクアンチ市の手前10キロで解放勢力側の砲撃に阻止された。

2.06 ファム・バン・ドン首相,「今後とも南ベトナム政府を南ベトナム唯一の合法政府として認め続ける」という、ニクソン発言は協定違反である。北部は南部に共産化を押しつけない。南北統一は必ず実現すると語った。

2.06 ボンビチト書記長とシパスート首席代表,プーマ首相と直接会談。愛国勢力側は,米軍の爆撃停止を協定の中に明記するよう要求。

2.06 政府は16日から3月16日までの1カ月間,公務員,警察官を軍当局の指揮下におくことを指示。

2.06 夜,解放勢力,プレイベン州Peam Chor,Prey Khla,Phum Chanを攻撃,政府軍死7,傷12,解放勢力死8。

2.08 タンソンニャト空軍基地で,北ベトナム,臨時革命政府代表から取材しようとした記者団23人が,政府軍憲兵隊に一時逮捕さる。

2.08 1月28日以降,政府軍第21師団の兵士1,000人以上が脱走して故郷に帰った(北ベトナム報道)。

2.08 パテトラオ,パクセ東50キロのパクソンを占領。タイ軍1個連隊が撤退。

2.08 政府軍,ネアクルンからプレイベンに至る国道15号沿いの3つの村から撤退。

2.08 ロン・ノル大統領の停戦宣言以来はじめて,米機がプノンペン北方を爆撃。

2.08 タイ軍事代表団,プノンペン訪問。

2.09 南ベトナム政府軍、和平協定発効後に解放勢力との競合地域で攻撃を続け、ほぼ全体を奪回し、なお攻撃を続行。

2.09 ラオス政府,停戦に備えるため警察・軍・公務員に動員令。

2.09 米軍、カンボジア爆撃を再開。

2.10 キッシンジャーがハノイを訪問。捕虜の相互釈放に関する交渉が開始される。

2.10 最後の米戦闘機部隊である第11戦闘航空団がダナンで解団式。

2.10 解放勢力,プノンペン南東28キロの国道1号沿いKoki周辺の政府軍陣地を攻撃占拠。国道1号は同地で切断さる。

2.10 政府軍,ネアクルン北7キロのBanam市から撤退。ネアクルンを守る数個旅団の政府軍は孤立。

2.11 4者合同軍事委の北ベトナム首席代表レ・クアン・ホア少将は,ブレークとバンメトートで起きた北団員に対する投石事件について,南ベトナム政府および米国を非難し,軍事委の活動を一時停止すると言明。タンソンニャトの宿舎にも催涙ガスがまかれる。

2.11 政府軍,コンポントム市南6キロのTrapeang Veng陣地を,数日間の激戦の後放棄。

2.12 ハノイで米軍捕虜591人のうち第一陣の116人が釈放され,フィリビンのクラーク空軍基地に到着。臨時革命政府からも米軍捕虜27人がロクニンで釈放され,南政府軍捕虜81人もロクニンからビエンホアに向かった。

2.12 政府側に抑留されていた共産側捕虜の1割にあたる250人が、釈放予定地のクアンチ,ロクニンに送られた。

2.12 臨時革命政府、米・サイゴンの協定違反を非難する。@サイゴン軍による停戦違反,Aサイゴン政府のテロ・弾圧政策,Bサイゴン政府は政治犯釈放を遅らせ,政治解決を妨げている,Cサイゴン政府は4者合同軍事委の臨時革命政府・北ベトナム代表団の活動を妨げている,D米国は協定に違反して,軍事基地の解体を拒否し,サイゴン軍にそのまま移管しようとしている。

2.12 バオダイ帝は東京で記者会見し,帰国して第3勢力を指導したいと言明。

2.12 政府軍,パクソン奪回。

2.13 ロクニンでの相互釈放が続けられる。政府軍側は375人,解放勢力側は491人の捕虜を釈放。しかし,クアンチ,ブレークでの釈放はまだ実現していない。

2.13 シスーク国防相代理が戦況報告。「パクソン,サラバン,ムオンファラン,タケクは政府軍の安定支配下に入った。北ベトナム軍は新たに4個連隊がラオスに入り、計5万7000人に達した」と述べる。

2月中旬 クメール・ルージュ、国道1号線に対する攻撃を開始。その後国道2,3,4号線に対しても攻撃。プノンペンに対し軍事的圧力を強める。

2.16 4者合同軍事委,両当事者に対して戦闘行為を即時に停止し,「停戦と合同軍事委に関する付属議定書」の第4条にもとづき,各現地部隊指揮官はできるだけ早く話し合いを始めるよう指示することを決定。

2.16 ビエンホアの4者合同軍事委地域監視所に,北からのカトリック系難民数千人がデモ。

2.16 アンロク付近で米軍ヘリが撃墜さる。

2.16 政府は12日以来合計3,114人の共産側捕虜を釈放したと発表。

2.16 政府軍,10日〜16日国道1号(Dey Eth,Banam等)打開作戦,解放勢力死87,政府軍死29,傷100。

2.17 チュー大統領は,上下両院議員,政党指導者,宗教・職能団体代表,地方議会幹部など3百数十人を招いて「平和擁護と自決権実現のための人民戦線」を結成するとの構想を発表。ミン派とキ派はこの集会に招かれず。

2.17 4者合同軍事委,両当事者最高司令部に即時戦闘停止の緊急アピール。

2.17 ベトナム停戦4者合同軍事委員会、南ベトナム政府と臨時革命政府に戦闘中止を要請。臨時革命政府代表、「サイゴン軍のテロと蚕食行為に対し断固たる自衛措置をとる」と宣言。

2.18 ビエンチャン北35キロで国道13号上の橋が破壊さる。

2.18 米太平洋統合軍,ラオス,カンボジアを爆撃したと発表する。

2.18 夜,解放勢力,カンダル州Seam Reap南を攻撃,傷20。

2.19 国際管理監視委のゴーバン仮議長は「21日から14地点に監視チーム派遣」と発表。

2.19 4者合同軍事委は武器交換の場所について協議し,臨時革命政府の提案したクアンチ省ジオリン,ブレーク省ダクコ,タイニン省サマットの3カ所を了承した。これで和平協定第7条にもとづく交換場所6カ所が確定。

2.19 解放勢力,固道2号を切断。

2.20 ラオス和平協定にプーマ首相とボンビチト全権代表が仮調印。

2.21 人民解放軍最高司令部,停戦命令。愛国中立武装勢力司令部も停戦命令。

2.21 ペン・ポンサヴァン政府全権代表とプーミ・ボンビチト愛国勢力・愛国中立派全権代表が,首相官邸でラオス和平協定に調印。

ラオスにおける平和回復と民族和合に関する協定: 現状位置での停戦のみが合意される。外国軍隊の撤退,暫定国民連合政府および全国政治協議会の設立等協定の具体的実施に関する諸問題はその後の交渉に委ねられる。

2.21 ロジャース米国務長官,米上院外交委で「米軍の爆撃が全面停止される」と言明。

2.21 解放勢力,国道3号を切断。

2.22 チュー大統領は全国の省,市会議員,村長,上下両院議員,宗教,政党指導者ら3,000人を招き,今後の政治闘争に対する方針を説明,「短期に政治解決を達成せねばならぬ」

2.22正午 ラオスで停戦発効。停戦協定調印直後は小規模ながら戦闘が行なわれたが次第に鎮静化し,事実上の停戦が実現した。

2.23 チュウの支持母体として、「平和擁護・自決権確立人民戦線」結成さる。この戦線が民族和解一致全国評議会のメンバーを推薦する」と発表。

2.23 ビエンチャン政府、「パテトラオが東北部と南部で攻勢を開始。南部のパクソンを占頷」したと発表。ジャール平原周辺では政府軍がなだれをうって敗走。愛国戦線は「右派が協定に不満を持ち攻撃を続けようとしているのを隠すためのもの」と反論する。

2.23 プーマ首相、「停戦発効後に解放勢力から29件の停戦侵犯があった。必要があれば米軍の空からの介入を要請する」

2.23 米国防総省発表,B52がラオス南部のパクソンを中心に爆撃。国務省、「共産側の和平協定侵犯が続けば,米軍の爆撃が今後もあり得る」と語る。

2.25 ユエ,ダナンでの反共集会に参加した群集が,両地の4者合同軍事委の北ベトナム代表団宿舎に乱入。

2.25 キッシンジャー補佐官,NBCのインタビューで,「米国は共産主義者が平和的かつ民主的にベトナム全土を支配しても,反対しないだろう」と述べた。

2.25 解放勢力プノンペン南33キロ国道3号上で政府軍2個大隊を攻撃,米機出動。プノンペン南21キロ国道2号上でも解放勢力攻勢,政府軍5個大隊増援。

2.26 ベトナム和平保障国際会議開幕−参加メンバーは米,北ベトナム,南ベトナム,臨時革命政府の4当事者,54年ジュネーブ会議出席の中国,ソ連,英,仏,国際管理監視委のカナダ,ポーランド,ハンガリー,インドネシア,その他ワルトハイム国連事務総長の計13代表。

2.26 ドン・バン・ミン将軍はチュー大統領とパリ国際会議参加各国代表に公開状を発表し,「平和勢力としての第3勢力の存在を認めること」「政治犯の即時釈放」を要求。

2.26 ベトナムに関するパリ国際会議が開催される。協定の4当事者と英,仏,カナダ,インドネシア,ソ連,中国,ハンガリー、ポーランドの各国ならびに国連事務総長の13者の参加。パリ協定に保証を与える。

2.26 ケアム・レト情報相、「友邦に援助を要請する措置を講じる」と発表。

2.27 4者合同軍事委の北ベトナム代表団,米捕虜釈放中止と言明。米軍捕虜釈放の条件として@停戦の厳密な実施,A軍人および民間人捕虜の同時返還,B4者合同軍事委の活動条件改善の保障,を指摘。

2.27 ホワイトハウス,北の米捕虜釈放中止を非難する声明発表。撤兵を一時中止,残留米軍は1万2000人。

2.27 両派が協定調印後初会合。政治と軍事の2つの混合小委設置で合意。

2.28 米,北ベトナム,南ベトナム,臨時革命政府の4外相,捕虜問題解決の緊急会談。北ベトナム代表団言明「米捕虜釈放停止は,臨時革命政府・北ベトナムの合同軍事委メンバーに対して南ベトナム側の挑発・暴行が統発したため」「国際会議は,参加代表の努力によって米・北双方の残る対立点は少なくなっている」

2.28 米,北ベトナム外相会談で,北ベトナムは米国に対し@北ベトナムは米軍捕虜を60日以内に釈放するという和平協定の約束を完全に実行する,A第2次釈放の細目については,4者合同軍事委で直ちに協議を開始すると通告。しかしニクソン大統領はロジャーズ長官に対し,北側が釈放捕虜のリスト,時期を明確にするまでパリ国際会議ボイコットを続行するよう指示した。

2月 カトリック教会のチャン・チン神父、「南ベトナム刑務所施設改善要求委員会」を結成する。右派反対派を結集し、チャン・フー・タン神父が率いる「反腐敗人民運動」につながる。

2月 米軍、トンキン湾に機雷撤去部隊を派遣、総ての掃海艇が参加する。

2月 パリ協定成立後カナダ,オーストラリア,ベネルックス諸国など北ベトナム承認に踏み切る。

73年3月

3.01 4者合同軍事委,ハノイで108人,南で34人の第2次米人捕虜釈放が数日内に行なわれることを決定。

3.01 北ベトナム,ダナン・ユエから4者合同軍事委代表を引揚げ。

3.02 ベトナム和平保障国際会議,参加国代表が「パリ決議」に調印

3.02 米・サイゴン政府当局は,北ベトナム・臨時革命政府代表団宿舎の修復,暴行事件に関係した暴力団の処罰などを約束。

3.02 南ベトナム政府,コンソン島刑務所から政治犯124人を釈放。北ベトナムは「サイゴン政府が数千人の囚人をシャム湾公海上に運び大量虐殺した」と非難。

3.02 ニクソン大統領,記者会見で,北ベトナムへの援助は国防費や対外援助費から支出すると述べた。

3.02 コンポントム空港掃討作戦中の政府軍は同市西2キロで1個大隊の解放勢力と戦闘,政府軍死1,傷27,解放勢力死32。

3.03 解放戦線、南ベトナム政府が数千人の政治囚を虐殺したと報道。

3.03 解放勢力,プノンペン南11キロのタクマウを迫撃砲で攻撃,政府軍はタクマウを基地として国道2号打開作戦中。

3.06 国会,18歳〜35歳の全男子を18ヵ月間義務兵役につける法案を可決。

3.07 4者合同軍事委,捕虜釈放再開で合意,政府側は6,300人の第2次釈放案(第1次は7,000人)を提示,臨時革命政府も1,200人の釈放に応じた。8日から実施。

3.08 解放勢力,タケオ州Samrong Yongを攻撃,政府軍死5,傷7。

3.10 韓国軍首都師団が本国に帰還。

3.11 サイゴンの米軍司令部は「北ベトナムがケサンの地対空ミサイルを撤去したことが確認された」と発表。

3.12 米国防総省報道官言明「3万の北ベトナム軍,250合の戦車,地対空ミサイルなどが,ホールートと非武装地帯をぬけて南下」

3.13 臨時革命政府スポークスマン声明,「革命政府と北ベトナムは協定通り米軍と同盟との捕虜を釈放しているのに,サイゴン政権は今日まで1人の政治犯も釈放していない」

3.14 南ベトナム当事者間の第3次捕虜釈放第1日,サイゴン側はクアンチ市のタフハン川で解放勢力捕虜600人を釈放。

3.14 サイゴンの米軍司令部は14日,北ベトナムが108人の米捕虜を釈放したのに対応して,南ベトナムからの米軍撤退を再開。

3.14 韓国軍撤退事実上完了,残務整理に残った100人も27日頃引揚げの予定。

3.14 解放勢力,タケオ市に8発の81ミリ砲を撃ち込む。政府軍,国道2号打開作戦続行。

3.15 ニクソン大統領言明「米国は南ベトナムに流入しつつある兵器・装備の量に関心をいだいている」「北ベトナムは過去4年間の私の行動に照らしてこの懸念の表明を軽く見過ごすべきではない」

3.15 キッシンジャー、北ベトナムから兵員と武器が南ベトナムに浸透しているとし、ニクソン大統領に北爆再開を進言。ニクソン大統領は、北ベトナム政府に対し警告。

3.15 南ベトナム政府と臨時革命政府、二者合同軍事委員会の設置で合意。

3.15 米・北ベトナム合同経済委員会が設置される。

3月中旬 ハイフォン港の機雷撤去が進む。3千トン級船舶の出入が可能になる。

3.17 カンボジアで政府軍機が大統領官邸を爆撃。ロン・ノル大統領は全土に非常事態を宣言。反政府人士多数を逮捕する。

3.17 ソ・ポトラ元空軍大尉,大統領官邸を襲撃。ロン・ノル大統領は非常事態を宣言。憲法により保証された権利と自由を停止。政府発行のものを除く新聞発行を停止,集会禁止令。

3.18 未明,解放勢力,タクマウ市南部を砲撃。

3.19 パリ郊外のラ・セル・サンクルーで民族和解評議会の第1回会合。南ベトナム政府と臨時革命政府が政治協議を開始。73年末までに34回の会談が重ねられたが、非難と応酬の繰り返しに終わる。

3.19 朝にかけ米B52がプノンペン近郊を爆撃,目標はタクマウ地域とメコン川東岸。グリーン米国務次官補は,米下院外交委東アジア問題小委で「和平交渉をもたらすための鉄けん政策」と証言。

3.20 政府軍,国道2号Chambak,Takeo間を開通,政府軍第3師団による3月8〜20日の間のプノンペン,タケオ間打開作戦で,政府軍死3,傷71,解放勢力死38。

3.20  解放勢力,Sala Lek Pram北を攻撃,国道5号一時不通に。

3.20 メコン川経由で,貨物船3隻,石油輸送船4隻等がプノンペン着。

3.21 政府軍2,000人(連隊規模),11日以来解放勢力に包囲されているサイゴン北方35キロのビンズオン省ラチバプの民兵陣地に対し救出作戦開始。同陣地北方数キロのトンレチャン陣地も解放勢力の支配下にある。

3.21 解放勢力,タクマウ市に30発の砲撃。米機はプレイベン,コンポントム等を爆撃。

3.21 シリク・マタク前首相が監禁される。政府は「陰諜者から守るための措置」と説明。また,共和制政体転覆計画が過去2,3日間にあったと発表,官吏20人を逮補し,100人を軟禁処分にしたことを明らかにする。

3.22 4者合同軍事委のチャ臨時革命政府首席代表,米捕虜の釈放を一時中断と発表。米側がラオスを含むインドシナ全域の米人捕虜の名簿を要求し,その第一陣が現実に釈放されるまで米軍撤退を中止すると通告してきたため。米国は北ベトナムと臨時革命政府に対し,残りの米人捕虜全員の釈放準備が整い,その第一陣が釈教されるまで米軍を撤退させない方針を通告。

3.22 政府軍,4者合同軍事委の存続提案を拒否と発表。

3.23 ハンガリーとポーランドの代表団。デルタのチトンとサイゴン北方のベンカトに駐留している停戦監視団から,安全が脅かされているという理由で,団員を引揚げ。

3.23 猛虎師団が完全撤収。SEATO派兵総数の約四倍にのぼる延べ35万人、最大約5万人以上の兵力がベトナムに投入され、犠牲者は戦死約5千、負傷約2万に上る。各地で住民虐殺や婦女レイプなど韓国軍による戦争犯罪が発生。

3.23 ラオスで暫定国民連合政府の樹立について協議。当面合意に達せず。

3.23 政府軍,国道5号を開通さす。バタンバンから87台の輸送トラックがプノンペン着。コンポンソムからもトラック210台がプノンペン着。

3.24 4者合同軍事委のレ・クアン・ホア北ベトナム代表団首席代表は,北ベトナムは28日の期限切れまでに最後の米人捕虜を釈放すると発表。

3.25 ニクソン大統領,インドシナ全域の米軍捕虜がすべて釈放されるまで米軍がベトナムに駐留するよう命令。駐留米軍は現在6,200人。北ベトナム代表は「ラオスの米人捕虜釈放はパテトラオの権限であり,われわれは関与しない。米軍撤退の延期は重大な協定違反だ」と声明発表。

3.25 解放勢力,ネアクルン付近の政府軍陣地を攻撃,ネアクルンから1キロまで進出。政府軍降下部隊,同町西岸陣地を奪回。

3.26 チュー大統領,国会に大赦法案を提出,それによれば,55年10月26日以来の受刑者は,親共活動容疑者を除いて恩赦をうける。

3.28 4者合同軍事委,最後の首席代表会議。北ベトナム,臨時革命政府代表団は同委の任務完了を宣言。

3.28 民主党全国大会,チュー大統領を議長に,キエム首相,グエン・バン・カン下院議長らを中央執行委員に,チャン・ミン・ツン保健相を書記長に選出。

3.28 愛国戦線,米国人捕虜10人をハノイで釈教,軍人7人と民間人3人(うち1人はカナダ人宣教師)。

3.29 北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜587人の解放が完了する。ニクソン、「我々が、そのためにすべてをあげて働き、祈ってってきたその日が、ついにやってきた」と演説。

3.29 、パリ協定成立後発足した米,南ベトナム,北ベトナム,臨時革命政府の四者合同軍事委員会、米軍の完全撤退にともない解散する。

3.29 四者合同軍事委員会に代り2者合同軍事委発足。南ベトナム政府と臨時革命政府が、支配地域の画定、軍隊の駐留形式,捕虜の釈放について協議を行うことになる。臨時革命政府の首席代表にチャン・バン・チャ中将,南ベトナム政府首席代表にファム・コク・トアン中将。

3.29 チュウ大統領の与党となる民主党が発足する。

3.29 ベトナム駐留米軍の最終部隊2,500人が出国,米援助軍司令部(MACV)解散。ニクソン大統領,「12年ぶりにベトナムがら1人残らず米軍兵士が姿を消す」とのべる。同時に「北ベトナム指導者は協定無視が引起す結果について疑念をもってはならない」と釘を刺す。

3.30 ニクソン大統領は,バンカー駐南ベトナム大使の辞任を受理し,後任に前駐イタリア大使のグラハム・A・マーチン氏を指名。

3.30 解放軍,トンレチャンに1,300発以上の砲撃。

3.30 第4回政治協議。会議に先立ちヒュー代表は「南ベトナムには民間人に変装した1万から2万の米軍事顧間団がいる。彼らの存在は政治協議の進展を妨げている。」「基本的問題が解決されぬ限りサイゴン政府との政治問題解決の具体的日程の話し合いに入っても意味がない」と言明。

3.30 解放勢力,タケオ市砲撃40発。夜,米機,プノンペン西南方のメコン河沿い,国道1号沿い,タケオ周辺などを爆撃。

3.31 臨時革命政府のチャン・バン・チャ代表は,4者合同軍事委終了にあたって声明を発表し,「米国の支援をうけたサイゴン政府の停戦違反に対して,われわれは善意の忍耐を示して来たが,われわれの自己抑制にも限度がある。われわれは解放区に対するすべての軍事攻撃に反撃する権利を保有する」と言明。

3.31 米軍の撤退が完了。サイゴン米軍司令部が解散される。米軍司令部勤務の司令官ポイント・オデル大佐らがタンソンニュット空軍基地を去る(軍事顧問約8千人は残留)。

米軍参戦の決算: ベトナム戦争の延べ従軍兵士数は15年間で300万人。うち50万人が実際の戦闘に参加し、戦死者は5万8千人(一説では戦死47,244人、戦闘外死10,446人)。他に1千人が行方不明。15万人が重傷を負う。 

3.31 ロン・ノル大統領、「パリ協定締結後,北ベトナムは3万人から4万5千人に兵力を増強している。北ベトナム第1師団2個連隊がタケオに戻った。北部のコンポントム州Koh Korにはトラック部隊のルートをつくった」

73年4月

4.01 解放軍,トンレチャン基地のサイゴン軍を攻撃。

4.01 解放勢力,タケオに50発の砲撃。2日も40発の砲撃。

4.02 政府発表,解放勢力がトンレチャン基地に対する攻撃を中止するまで2者合同軍事委をボイコット。

4.02 政府軍第13旅団,キリロム高原奪回。

4.02 軍最高司令部コミュニケ「戦闘を放棄し戦線を離れるものは脱走兵として軍事法廷にかける」

4.03 南ベトナム政府、臨時革命政府との合同軍事委員会を退場。

4.03 夜,B52,2波でプノンペン東数十キロのメコン川沿岸一帯を爆撃。

4.04 カンボジア解放勢力、プノンペンを包囲。ロン・ノル大統領は「危険事態」を宣言。

4.04 上下両院,危険事態宣言を採択。「共和国の敵側の反乱,軍事活動の再然が,政治体制や国家の独立,領土保全に影響を及ぼしている」とし、ラジオ,新聞,集会,住居,通信について統制を敷く。

4.05 チュー大統領はナショナル・プレスクラブで演脱し「南ベトナムは米軍に対し南ベトナムを守るために再び来てほしいと頼むことは今後絶対にしない。共産側が総力をあげて攻勢をかけてきても自力で防衛できる」と言明。

4.05 国際管理監視委カナダ,インドネシア両代表団のホング地区監視要員が,解放勢力の砲撃を受け同地区から撤退。

4.05 解放勢力,プノンペン東13キロのメコン川東岸で政府軍砲艦を砲撃,同艦はネアクルンに弾薬を運ぶ途中。

4.05 チャウ・セン連合政府特命相,「米国は爆撃によってカンボジア人民に彼らの和平を受け入れさせ,倒れかかっているプノンペンの権力掌握者と妥協させようとしている」と非難。

4.05 政府国防委発表,11人の前王家一族を軍事法廷に送ることを決定,王族9人をプノンペン郊外のツオルノク刑務所に投獄。

4.07 国際管理監視委ヘリ,クアンチ省北西ラオバオ上空で撃墜さる。同委要員4人,米国人乗員3人,解放戦線将校2人が死亡。

4.07 政府軍,国道3号上アンタソム町を放棄。

4.07 カンボジア中央部で米空軍偵察機が撃墜さる。

4.08 メコン河をプノンペンに向かう途中立住往していた19隻の補給船団のうち6隻がプノンペンに到着。

4.09 カント南西56キロで,2者合同軍事委ヘリが銃撃され,不時着。

4.09 国道4号開通。

4.10 米機,プノンペンの空輸作戦を開始,米C130輸送機17機が燃料コンテナを積んでプノンペン到着。

4.11 サムヌアでラオス唯一の総合大学開校式,May Souk党中央教育委員長出席。講義はすべてラオ語で行なわれる。

4.12 朝にかけ解放勢力,タケオに50発以上の砲撃。13日米機はタケオ市郊外を爆撃。

4.12 臨時革命政府,サイゴン軍数個連隊がカンボジア侵攻準備のため動員体制に入ったと発表。

4.13 解放勢力,全土で攻勢171件。ユエ市周辺の政府軍歩兵部隊,ボンソン近くの政府軍特殊部隊など攻撃さる。政府軍死者43人,負傷者145人。

4.14 2者合同軍事委捕虜問題小委の臨時革命政府軍事代表グエン・ゴク・ブン女史は記者会見で,捕虜や政治犯への虐待が続いていると発表。

4.15 南ベトナム政府軍、カンボジア国境を越え解放勢力と交戦。

4.15 サイゴン軍レンジャー部隊,サイゴン南西200キロのチンビエンからカンボジア領に越境作戦。その他サイゴン軍歩兵部隊はサイゴン西方150キロのメコン河沿いの町ホング北西5キロで戦闘。同町はプノンペンへの補給船団の出発地点。

4.15 国道6号Taing Kauk南方およびPrakham西方で戦闘,政府軍死18,解放勢力死30。

4.15 米機爆撃の1日当り平均出撃回数は250回,これは昨年の激戦時に南ベトナムに加えられた爆撃回数に匹敵。

4月中旬 チューはニクソンに招かれ訪米。同盟関係の継続をアピールする。

4.16 米国防総省、「ラオス政府の要請を受けB52爆撃機を出動」し、爆撃を再開。18日にはいったん爆撃を中止。

4.16 米太平洋軍司令部、「ラオス政府の要請によりB52などが爆撃作戦を実施」と発表する。7週間ぶりの爆撃。爆撃地点はジャール平原西のタビエン。国防総省スポークマン、「北ベトナムとパテトラオ軍によるタビエン占拠は重要な停戦協定違反」と言明。

4.16 夜,解放勢力,タケオ市を攻撃,その他プノンペン南40キロのTram Khnar町に侵入。

4.17 政府軍,国道1号打開作戦開始。

4.18 外務省スポークスマンは「米国が北ベトナム海域の機雷除去作業を理由無く引き延ばしていると非難する声明を発表。米国防総省も17日,停戦違反を理由に中断を認めた。

4.20 米,北ベトナムの偵察飛行を再開。北ベトナム外務省スポークスマンは,米の偵察飛行を非難。

4.20 日本ホンゲイ炭の輸入を再開。約2,000トン。

4.21 政府軍,プノンペン南24キロのSeam Reapを放棄。20〜21日,米機出動。

4.23 米機,プノンペン周辺を最大規模の爆撃。

4.25 南ベトナム政府と臨時革命政府、パリ会談において非難を応酬。

4.25 解放勢力、タケオ州南ベトナム国境近くのプノンデン基地を解放したと発表。

4.25 解放勢力,タケオ市,シェムリェプ市,コンポントム市等を攻撃。

4.26 政府軍,タケオ北東4キロのBaray奪回作戦,政府軍死9,傷10。

4.26 未明,解放勢力,ポチェントン空港とその周辺に10発砲撃,市民死19,傷55。

4.27 夜,グアム島からのB52が,メコン東岸,プノンベン南部を爆撃。翌日は30機がプノンペン南東23キロを爆撃。

4.28 チャン・バン・チャ中将,クアンチ省解放区で同省解放軍および革命委員会幹部と会談。パリ協定の順守と支配地区に対する敵の攻撃に反撃することを確認。5月1日クアンチ解放1周年記念式典出席。

4.28 解放勢力,Chrui Changwar海軍基地周辺に迫撃砲20発を撃ち込む。

4.28 解放勢力、Kg.Kantuot,Ang Talek,Thmat Pong,Sethboを奪取したと発表。政府軍最高司令部はこれらの拠点は依然として確保していると反論。

4.30 ウォーターゲート事件が発覚。閣僚をふくむ大統領側近4人が辞任。

4.30 解放勢力,メコン左岸チュルイチレイ基地を攻撃,政府軍第2旅団1,800人が全滅したと報道。

73年5月

5.01 米側,経済合同委員会をボイコット。

5.01 解放勢力,タケオ市を60発砲撃。

5.03 国道4号カイライ南西6キロで激戦,解放勢力死59,政府軍死26,傷50。

5.03 解放勢力,コンポンチュナン州コンポンチャク町を解放。

5.04 『ニヤンザン』紙,「ニクソンの外交教書の脅迫は時代おくれである」と非難。

5.04 ポチェントン空港に着陸しようとした米空軍機が飛行場西南の陸軍病院に墜落,患者ら60人が死傷。7日のAKPは解放勢力がプノンペン周辺で米機を撃墜したと報道。

5.04 カンポト空港で民間機が砲撃さる。8日にはカンポト市内も砲撃を受ける。

5.05 政府軍がブレーク省ドクコ局辺に集結。

5.06 プノンペンに入ろうとしたパナマ船籍のタンカー1隻が炎上。

5.10 米下院本会議,74年度国防予算をカンボジア爆撃に流用することを禁止する修正案を可決。政府は4.3億ドルの流用を認めるよう要求していた。15日には米上院歳出委が同様の法案を可決する。ニクソン大統領,「議会の行動は戦闘終結の見通しを傷つけるもの」との特別声明を発表。

5.10 米下院、ラオスとカンボディアでの爆撃続行に抗議し、初めてインドシナ軍事費の削減を決議 (219対188)。上院歳出委は15日、「あらゆる戦費をカンボジア、ラオスでの軍事作戦に用いるのを全面的に禁止する法案」を24対0の全員一致で可決。

5.11 2者合同軍事委の臨時革命政府代表,@双方の軍隊に対する停戦命令,A双方の軍隊の停戦直前の位置への撤退,B停戦モデル地区設置など5項目の提案。

5.11 夜,解放勢力,プノンペン西方25キロのWat Phnom,Thmat Pongを攻撃,政府軍は同陣地を撤退。

5.11 最高政治評議会,イン・タム氏に組閣を要請。

5.12 2者合同軍事委の臨時革命政府代表団スポークスマン言明。「4月以来米国のB52や戦闘爆撃機は解放区を偵察・爆撃している」

5.12 右派が主導権を握る議会は協定の批准を妨害。愛国勢力は議会の動きに抗議。「極右派はビエンチャン協定に国会の承認を求めさせようとしているが,国会は無関係である」と主張する。

5.12 政府軍、タケオで掃討作戦。西方15キロの解放勢力陣地を爆撃,15日にはタケオ南西2キロWat Chhoeutealで作戦,解放勢力62人を戦死さす。

5.14 『ニヤンザン』紙,パリ会談進展のための4条件として@空中偵察の中止,A機雷除去作業再開,B北越米合同経済委員会継総,Cパリ協定の義務実施をあげた。

5.14 Prek Engから来た第7師団兵士20名が給料の支払い遅延に抗議。Chbar Ampeou市場で発砲しながらデモ,Phnom Basetから来た他の兵士一団もプノンペン中心部で発砲。

5.15 ダナン南64キロ省都Tam Kyの映画館で爆発事件,市民・民兵18人死亡。

5.15 夜,米機,カンポト周辺を爆撃。

5.16 イン・タム挙国一致内閣発足。閣僚の政党別構成は,社会共和党10,共和党3,中立派3,軍人3。

5.17 キッシンジャーとレドクトの会談が開幕。1ヵ月後に14項目に合意。

5.17 米上院外交委、国外での紛争に米軍を投入する大統領の権限を制限する法案を15対0で可決。

5.17 石油輸送船6隻がプノンペン着。貨物船1隻が被弾。

5.20 B52を含む米機が,2日間にわたりカンボジアを爆撃。

5.21 解放勢力,国道4号上のO Banteay Prey,Prey Nopを攻撃,プノンペン南西150キロで同国道を占拠。

5.22 2ヶ月にわたったタケオ作戦が終了。解放勢力死387,政府軍死190。

5.23 B52を含む米機がプノンペン周辺を爆撃。

5.23 軍最高司令部,北ベトナム軍第5,第9師団が新たにプレイベン州コンポン・チャベクに進出したと発表。同師団は72年末までChup,Mimotにいた。

5.24 キュー・サムファン副首相、「イン・タム政府は,ハク内閣同様,米帝の侵略の道具である。米帝その手先の和平交渉陰謀を粉砕する」

5.25 政府軍,国道1号のネアクルンStung Slot間を打開。解放勢力,Stung Slotを砲撃。

5.25 パリの連合政府特別相,「連合政府とクメール政府の間には交渉ないし接触はなかった。シアヌークはキ・ト会談でカンボジアが問題になることを拒否した」と発表。

5.27 夜から28日にかけ,解放勢力はサイゴンからプノンペンに向かっていた14隻の船団を攻撃し,貨物船4隻を撃沈。

5.27 情報省,前ハク内閣のもとで北ベトナム占領地域のクメール人との間に接触が企てられたこと,この企ては現在も続けられていると発表。

5.29 停戦発効を前に解放戦線と南ベトナム政府軍が支配領域の拡大を狙い激しく戦闘。カナダが国際監視委員会を脱退。委員会は機能停止状態に陥る。

5.29 シアヌーク,「米国がプノンペンの売国奴を見捨てれば,カンボジア王国と米国とは直ちに和解できる」と語る。イェン・サリ特使,「シアヌーク殿下を議長とする統一戦線の中で大団結を実行する以外に救国は論じられない。歩むべき第3の道もなければ,妥協などあり得ない」

5.31 国際管理監視委,「北ベトナム正規軍の南浸透はパリ協定違反」とのカナダとインドネシアの報告をめぐって意見対立,本会議の開催を無期延期。

5.31 米上院本会議,ラオス,カンボジアの爆撃作戦に国防予算を使用することを全面的に禁止したイーグルトン議員提出の追加支出権限修正案を可決。

5月 南ベトナム政府、8カ年にわたる戦後の国家復興開発基本方針を発表。あわせて向こう半年間の緊急対策として、復興開発特別計画を策定。

73年6月

6.03 政府軍ヘリ,サイゴン北西90キロのタイニンの北でソ連製熱線追跡ミサイルに撃墜さる。

6.03 サイゴン南西80キロ国道4号Cai Lay,Cai Beで戦闘。

6.03 解放勢力,スベイリエン陣地を攻撃。

6.04 政府軍,国道3号Doeum Rokarから撤退。

6.05 『ニヤンザン』紙のホアン・ツン編集長は本多朝日新聞特派員との会見で「われわれは日本との国交樹立を望んでいる,南部の革命政府の承認を国交樹立の条件にしていない」と述べた。

6.05 ロジャース米国務長官,米議会に7月から始まる新年度の対カンボジア軍事援助1.8億ドルを要請。

6.06 未明,解放勢力,国道4号Thnal TotungとAng Snuol間を攻撃。5日夜,解放勢力,国道3号,Kg.Kantuot,国道5号Spean Kruosを砲撃。

6.07 石油輸送船7隻がプノンペン到着。

6.08 米B-52、カンボジアを連続93日にわたり爆撃。

6.08 Kg.Speu東6キロの村民300人,解放勢力に強制移住させらる。

6.09 夜,解放勢力,ポチェントン空港を13発砲撃,バタンバン空港を50発砲撃。

6.12 政府軍,国道4号Ang Snuol,Thnal Totung間で解放勢力と激戦,解放勢力死30,政府軍死20,傷40。

6.13 キッシンジャーとレ・ドク・ト、和平協定の遵守で合意。南ベトナム政府と臨時革命政府をふくむ4者で14項目の共同声明。パリ協定の全条項の厳格な実施のため、南ベトナム両当事者の司令部が休戦を厳格に遵守すべき命令をくだすこととなる。

6.14 日本の大平外相,国会答弁で,北ベトナム要求の賠償には無償援助の形式で応じる考えのあることを示唆。

6.15 南北ベトナムの全土で和平協定にもとづく停戦が発効する。

6.15 政府軍,国道3号Prey Totung町から撤退。

6.16 解放勢力,国道5号をプノンペン北西50キロで切断。スクーン西で国道6号を切断。

6.17 2者合同軍事委で,政府は,臨時革命政府側が要求しているロクニンとサイゴン間の定期補給便を再関することで同意。

6.18 パリで米越経済合同委員会再開。 米国の機雷撤去艦隊がハイフォン港に入港する。

6.19 米議会、大統領の拒否権に対抗して、圧倒的大差でケース=チャーチ修正を可決。8月15日以降、東南アジアのいかなる地域でも、これ以上の軍事的関与を禁じる。

6.27 ニクソン米大統領、カンボジア爆撃禁止法案に拒否権を発動。その後、8月15日までの爆撃続行で議会と合意。

6.28 コンツム市周辺で戦闘激化。解放勢力,政府軍レンジャー部隊基地を攻撃。政府側は23日,コンツム市西のツン・ニア村を20日までに明渡すよう最後通告していた。

6.28 国道3号Kg.Kantuot地区で戦闘,政府軍死7。

6月 北ベトナム政府閣僚会議で73年上半期の国家計画と国家予算計画の実施状況が回顧され,基本的ノルマが確認された旨発表。

73年7月

7.01 米海軍、北ベトナムの港湾・河川で機雷除去作業を施行。

7.01 アムネスティ・インタナショナル、「南ベトナムの政治囚」に関する長文の報告書を発表、世界最大の政治弾圧と非難。

7.01 ニクソン大統領,カンボジア爆撃を8月15日までに停止する法案に署名。

7.02 ニクソン米大統領、カンボジア爆撃を8月15日までに停止する法案に署名

7.02 米軍、カンボジア駆け込み爆撃を強化。南ベトナム軍はカンボジア領内に支援に入り解放勢力と闘う。

7.03 2者合同軍事委臨時革命政府要員8人,ユエ・ダナンに再配置。同委員は2月末ユエなどでおきたデモのため地方本部から引揚げていた。

7.06 ロン・ボレ外相、「クメール代表と,敵対行為停止,国民和解達成のため会談する用意がある」と述べ,6項目の提案を行なう。

7.07 シアヌーク,「ロン・ノル政権への支持をやめるなら対米交渉を拒否せず」と言明。

7.08 国道4号開通。

7.10 連合政府,ロン・ノル政府の6項目提案を拒否。

7.13 キュー・サンファンら,政府軍将兵に決起をよびかけるアピール。

7.13 政府軍,プノンペン南19キロの国道2号Kg.Kantuot,Kg.Tuolから撤退。

7.13 米国防総省,グアム島のB52飛行部隊のうち、1個中隊(15機)を米本土に引揚げると発表。

7.16 米上院軍事委員会、1969-70年の間、カンボジアで行われた秘密爆撃についての審理を開始する。ジェームズ・シュレジンガー国防長官は、「米部隊保護のため、カンボジア領内の北ベトナム軍支配区へ3500回の爆撃が行われた」と証言する。これを受けた議会の一部はニクソン弾劾へと動く。

7.16 最高政治評議会,徴兵制実施を決定。18〜35歳の男性に兵役が課せられる。

7.18 米軍,ハイフォン,ホンゲイ,カムファの各港湾入口と河川からの機雷引揚げ作業の完了を通告。

7.19 国際管理監視委カナダ首席代表,帰国。7月末にはカナダ代表団すべてがベトナムを去る。

7.21 フェルナンデス将軍、「8月15日以降も米国および友好国に,共産側に対する爆撃を続けるよう要請する」と語る。

7.24 ロン・ノル大統領がラジオ演説。「1ヵ月前から北ベトナムとカンプチア民族統一戦線によるプノンペン攻撃が強まった。われわれはさらに防御を固めねばならぬ」と語る。

7.25 解放勢力,ポチェントン空港とその付近にロケット弾30発の砲撃。

7.26 連合政府側の放送では、プノンペンの各大学で強制徴兵に抗議してスト。工場で強制徴兵に反対してゼネスト。

7.27 夜,プノンペン北西8キロで激戦,米B52出動。

7.28 夜,政府軍,プノンペン東南25キロのSaangを放棄。

7.29 ポチェントン空港北3キロで戦闘。

7.31 カナダは,ICCSが休戦管理の十分な機能を発揮し得ないことを理由に脱退。後任としてイランが参加。運営資金の枯渇もあつて有効な調査活動は制約される。

7.31 ラオスにいるタイ軍事筋,8月末までに1万5千人のタイ雇い兵のうち3千人を残して撤兵すると言明。

7月 カンボジア国境付近でベトナム解放勢力とクメール・ルージュとのあいだで激しい戦闘が闘われる。この後ポルポト派は党内の親ベトナム派を粛清。これを逃れたものはベトナムに避難。

7月 アメリカの最後の南ベトナム駐在大使となるグラハム・マーティンが赴任。

7月 労働党中央委員会、テト攻勢の戦略的意義を確認するとともに、「情勢評価における主観主義」があり、当時の状況に見合わない過大な目標を追求したとし、戦争指導の誤りを認める。

73年8月

8.02 解放勢力,国道1号をプノンペン東南20キロで切断。これまで数週間にわたりプノンペンから35キロで切断されていた。

8.03 国防長官、カンボジア・ラオスでの戦闘を14日以降中止するよう命令。

8.05 解放放送、「解放軍の一部がプノンペン市に進入」と報道。プノンペン北30キロの国道6号Taing Kaukを「解放」したとする。

8.06 米軍、カンボジア爆撃を強化。誤爆により政府軍兵士400人が死傷。

8.06 国道1号プノンペンから11キロのベアルスバウで政府軍2個大隊,解放勢力2個大隊と激戦,解放勢力は同地を4日に占拠。

8.06 米機,ネアクルン町の中心街を誤爆,死137,傷368を出す大惨事となる。

8.07 夜,解放勢力,カンボールの国際通信センターを攻撃,国外との連絡途絶。

8.08 統一戦線の声放送アピール「統一戦線部隊はプノンペンに入った。プノンペン市民は武器をとるよう訴える」

8.08 ニューヨーク州連邦巡回高裁,8月15日までのカンボジア爆撃継続を支持。

8.09 中部海岸の漁村サフィンから16キロで戦闘。解放側は国道1号を守備中の政府軍を攻撃。解放側死56,政府軍側死8,傷16。

8.10 シアヌーク,マンスフィールド議員あてに,米国の軍事介入と援助停止を含む和平提案を行なった。

8.10 ペン・ヌート連合政府首相,国内の僧・同胞・武装勢力にメッセージ,スト,デモ,転覆活動を呼びかけ,ロンノル集団との連合政府樹立には応じられないと言明。

8.10 シアヌーク議長,プノンペンに大使館をおく各国政府に対し,大使館の閉鎖と外交員の退去を要求。

8.10 米,カンボジア空軍に軍事輸送機8機,装甲車,トラック,弾薬等を引渡し。

8.11 政府軍,プノンペン南郊の解放勢力が撤退したと発表。

8.11 ロン・ノル大統領がラジオ演説。「私は祖国を見捨てることはない。敵はわが軍を打ち破ることはできない。国民と共に最後の勝利まで闘う」と述べる。

8.12 プノンペン北東56キロのスクーン,スダンチェイ,バコム,プレイトツンが陥落,コンポンチャム市孤立。

8.13 解放勢力,ポチェントン空港西方8キロTuol Leapの政府軍拠点を攻撃。

8.13 シアヌーク,イズベスチヤ論評に関し,ソ連の内政干渉に反論。

8.13 マンスフィールド議員は声明を発表。「シアヌーク提案はカンボジア人同士による平和的解決の基礎となり得る」と述べ、ニクソン大統領に検討を要請する。

8.13 ホワイトハウス、「米,ロン・ノル政権に対し,法の許す範囲であらゆる援助努力を継続」と言明。

8.14 8月15日を目前に、13万人の南ベトナム兵士がカンボジアへ入る。

8.14 ゲイラー米太平洋統合軍司令官,15日午前0時以降のカンボジア爆撃停止を命令。

8.15 ベトナム駐留の米空軍、カンボジアでの爆撃作戦(アークライト作戦およびフリーダム・ディール作戦)を停止。全作戦を終了しベトナムを去る。

8.15 シアヌーク殿下、「8月15日は民族抵抗運動にとって偉大な勝利の日である。」「われわれは 首都プノンペンを解放する」と宣言。

8.15 B52,午前11時の爆撃停止期限を前にスクーン爆撃。

8.16 米国防総省,米軍が爆撃停止後もカンボジア領内で非武装の輸送・偵察飛行を行なったことを確認。

8.16 政府軍,プノンペン南14キロKg.Kantuot町を奪回。政府軍死12,傷18。 

8.17 シュレジンジャー米国防長官、「北がインドシナで大攻勢を始めれば,爆撃再開を議会に要請,ただし地上軍介入はあり得ない」

8.17 国道1号プノンペン=ネアクルン間開通。

8.18 解放勢力,コンポンチャムに迫る。市街から3.2キロ地点で地上攻撃を開始する。

8.20 軍内右派のタオマ将軍が指揮する部隊がクーデターを起こすが失敗に終わる。

8.21 ブレーク周辺で激戦。政府軍死17,解放軍死89。

8.22 ヘンリー・キッシンジャーがウィリアム・ロジャーズに代わり国務長官に任命される。

8.22 政府軍,国道4号上,コンポンスプー市西8〜10キロの3陣地を奪回。

8.23 プーマ首相と29人の将軍が会合。愛国戦線側の議定書案を全面的に受け入れることに反対。同時にプーマ首相の辞任にも反対する。閣議は内閣総辞職を回避し,和平交渉を継続するとの結論に達す。

8.25 解放勢力,コンポンスプー市南で国道4号を切断。

8.25 解放勢力,プノンペン北40キロで国道5号を切断。国道5号は7月以来政府軍の手にあった。

8.26 南ベトナム上院議員選挙。全員政府派候補が当選。

8.26 カンボジア領内で,領土粉争と米の補給問題をめぐって,北ベトナム軍とカンボジア解放勢力が衝突。

8.26 ロン・ノル大統領、「シアヌークは北ベトナム・ベトコンに頼んでわが国を攻撃している。シアヌーク殿下はわれわれを灰にしたいのか」と非難する。

73年9月

9.01 建国28周年記念式典の演説。ファム・ヴァン・ドン首相は,和平回復後短い期間に交通網が復旧され,発電所は修復され戦前の水準に到達,田畑は復旧され生産性はこれまで最高水準に達した,と成果を報告。

9.02 プノンペン西24キロ,国道4号Sala Kruosで戦闘,政府軍死13。

9.06 解放勢力17個大隊がコンポンチャム市に侵入。政府軍と市街戦を展開。市民数万人が脱出する。

9.07 シアヌーク、「ソ連がロン・ノル政権と外交関係を保っている事実は理解に苦しむ」と批判。

9.07 フェルナンデス司令官,コンポンチャム死守を命令。

9.09 愛国戦線代表と政府軍首脳がビエンチャンのブンポーン政府軍最高司令官邸で会談。

9.09 政府軍増援部隊が13隻の舟艇でコンポンチャムに到着。 

9.11 解放勢力,プノンベン西南28キロ国道4号上のThnal Totung町を解放。

9.12 キューバのカストロ首相,党と政府の招きでハノイに来訪。15日には解放区訪問(笑顔が目に浮かぶようです)。

9.12 プーマ政権と愛国戦線のあいだで臨時民族連合政府樹立の合意が成立。14日には協定実施のための議定書が交換される。

9.13 解放勢力,ビヘアスオル東1.5キロのプレイトムを攻略。

9.14 ラオス和平協定実施のための付属議定書が正式調印される。ビエンチャン政府側からフォンサバン全権代表とゴン・サナニコン首席代表,愛国勢力側からボンビチト全権代表とシパスート首席代表が署名。

9.14 米国務省声明,新臨時民族連合政府に対して協力と援助を継続。

9.19 国会常任委,首相に新政府結成に関する特権を付与することに反対。

9.19 政府軍,国道4号開通。同国道は数週間来,プノンペンから22キロのAng Snuolで切断されていた。

9.20 政府軍,コンポンチャムの大学北1キロの陣地を奪回。全市を支配下に置く。8月17日から9月19日までの攻防戦で政府軍死202,傷1,013,解放勢力死225。

9.20 政府軍,Koki奪回。国道1号,ネアクルンまで開通。16日から切断されていた。

9.22 ブレーク市近くのレミン政府軍基地が解放勢力に制圧さる。別な報道では、「南ベトナム軍、Pleikuの近くで北ベトナム軍を攻撃」とある。

9.27 チリでピノチェトによるクーデター。臨時革命政府が在チリ大使館を一時閉鎖。

9.29 解放軍,タイニン省の政府軍第25師団陣地を2日間にわたり砲撃,政府軍死9,傷・行方不明100。

9月 英国、日本などが相次いで北ベトナムとの国交を樹立。

9月 北ベトナム労働党政治局、南ベトナムの軍事制圧をひそかに決定。

73年10月

10.04 政府軍,コンポンチャム市から飛行場への道を確保。

10.04 キッシンジャー国務長官、北京滞在中シアヌーク殿下と会う計画はないと言明,また議会が課した枠内でロン・ノル政府への支援を続けると言明。

10.06 政府軍,プノンペン北西18キロのChrey Loasを奪回。7日,プノンペン北西20キロのBat Deng奪回。

10.10 アグニュー副大統領が辞任。ジェラルドR.フォード(共和党上院院内総務)が副大統領に任命される。

10.10 ソ連が連合政府をカンボジアの唯一の合法政府として承認。

10.10 イン・タム首相兼最高政治評議会員,辞表提出。その後慰留され留任。

10.12 非同盟諸国31ヵ国、ロン・ノル政権を国連から追放し,連合政府に国連代表権を与えるとする共同提案。国連一般委員会は議題採択を可決。

10.12 愛国戦線治安部隊第一陣約20人を含む同戦線要員83人が、ハノイ経由でビエンチャン到着。ビエンチャン中立化を保障するためとされる。

10.13 愛国戦線部隊の第一陣がビエンチャンに入る。

10.14 ベトナム労働党が第21回中央委員会を開催。「革命戦争を継続し、彼らを殲滅し、南ベトナムを解放する以外に方法はない」とする決議を採択。南ベトナムへの軍事制圧路線を確認する。解放軍司令部は南ベトナム政府軍の違反行為に対し強力な反撃を行う」よう指令。

10.15 ロン・ノル大統領,危険事態宣言を6カ月延長する法令を発表。

10.16 キッシンジャーとレ・ドク・トにノーベル平和賞。レ・ドク・トは受賞を辞退。

レ・ドゥクトは労働党政治局に受賞の拒否を認めるよう要請した。「受賞を受け入れることは、攻撃側と反攻撃側を同格にするものだ」というのが理由である。政治局はこの要請を受け入れた。

10.16 Tram Khnar市場で戦闘,政府軍死9,傷16。

10.18 愛国戦線の要員371人とAK47ライフル・軽機関銃・ロケット砲などの物資143トンが、ビエンチャンに到着。

10.18 政府側,「要員のリストと物資の内容が通知されていない」との理由で、愛国勢力側の要員物資輸送中断を要請。

10.18 ソ連代理大使とそのスタッフ,プノンペンを離れる。

10.20 シアヌーク、「連合政府の構成を抜本的に改め,全ポストを国内勢力の指導者達にゆだねる」と発表。

10.23 ブレーク市南西20キロで政府軍歩兵1個大隊が解放軍の攻撃をうけて撤退,政府軍死30,傷12,行方不明65。

10.23 南ベトナム政府、経済閣僚を全員更迭する。オイルショックが広がるなかで、経済基盤の弱い南ベトナム政府は存亡の危機に追い込まれる。物価上昇率は65%に達する。都市労働者の3分の1が失業。都市住民の実質収入は40%前後減少する。軍人は給料だけでは生活できず、タカリやヤミ商売に明け暮れるようになる。解放勢力への物資横流しも横行する。

経済困難の原因: @パリ協定の成立後も南ベトナムでは依然として戦闘が続いた。生産は停滞し外国投資は減少した。A110万人にのぼる軍隊の維持等国防費が国家予算の56%を占め財政を圧迫した。B米軍,米政府関係の購入が1億ドルに激減した。米軍関係雇用者約30万人が失業した。Cオイルショックによる輸入商品の国際価格の高騰。

10.25 解放勢力,サイゴン南西60キロ国道4号沿いのサムジァン周辺の政府軍歩兵基地を攻撃,政府軍死32,解放勢力死40。

10.26 シアヌーク殿下はル・モンド紙との会見で生涯北京にとどまると言明。

10.27 解放勢力,プノンペン北20キロで国道5号を切断。

10.30 米下院司法委員会、ニクソン大統領の弾劾調査を開始。

10.31 米空母ハンコック,トンキン湾を去ってインド洋へ。

10月末 停戦発効から8ヶ月のあいだに「協定違反」が続発。解放勢力側が2万8千400(南べトナム政府発表)、政府側は27万1千件(解放勢力発表)。双方の死者は推定5万。

73年11月

11.01 チュー大統領,独立記念式典で演説「共産側の大攻勢は近く必ずある。彼らは中,ソの援助で大量の兵器を持っている。自力で戦えなくなったら再度米軍の介入を要請する」

11.01 フォンサバン内相、国民議会で報告。ビエンチャン,ルアンプラバン両市の中立化のため,愛国戦線部隊933人と軍需品135トンをビエンチャンに送りこむことを閣議決定したと報告。

11.01 プノンペン南方150キロKepで激戦,政府軍死12,傷50。解放勢力死55。Kepは4月以来解放勢力に占領されていたが,今週政府軍は,解放勢力の軍需物資陸揚げ防止のため奪回作戦を開始していた。

11.02 カンボジア解放勢力、プノンペン南方9キロに接近。

11.04 サイゴン北西180キロ,カンボジア国境近くのBu Prang, Bu Pong南基地,消息を断つ。5日,政府軍3,000人が増援に。

11.04 ニューヨーク・タイムズ、ニクソンの辞任をもとめる社説を掲載。

11.04 解放勢力,Tram Khnar町を解放。

11.05 米政府,対外軍事援助小委でカンボジアに対する緊急軍事援助2億ドルを要求,「政府軍は1日50万〜100万ドルの弾薬を使っており,まもなく必要資金が枯渇する」と訴える。

11.06 解放勢力,ビエンホア空軍基地をロケット攻撃。

11.06 2者合同軍事委臨時革命政府代表,5項目の停戦提案。

11.06 プノンペン西南40キロの固道3号と4号間の拠点スランで激戦の後政府軍撤退。

11.06 政府軍補給船がコンポントム市に到着。また政府軍はコンポンチャム飛行場周辺のPhnom Srei,Phnom Prosを奪回。

11.07 政府軍機,50波でビンロン省ロクニンとフォクロン省Bo Ducを爆撃。9日,臨時革命政府抗議声明。

11.07 南ベトナム議会,戦争権限法を可決。議会の同意なしに大統領が最大限60日間の軍事作戦を行なえる。

11.07 米上下両院、大統領の戦争権限制限法を承認。大統領は海外派兵に当たり、議会の承認を必要とされることとなる。

11.09 来日した祖国戦線代表団のホアン・コク・ヴィエト団長が,大平外務大臣と会見。

11.09 2者合同軍事委政府側代表発表,サイゴン=ロクニン間の連絡ヘリを中断。

11.09 シアヌーク殿下、「王国政府は全部カンボジア国内におかれる。ペン・ヌート首相は暫定的に国外にとどまる。国内ではキュー・サンファン副首相が閣議を主宰する」と発表。

11.09 「中国盲従分子」を主体に日本カンボジア友好協会設立,会長佐ー木更三,理事長坂本徳松,顧問伊藤武雄,黒田寿男,西園寺公一,牧野内武人,松本俊一,藤山愛一郎,山田無文。日本共産党系は排除される。

11.11 グエン・バン・チャン労働党中央委書記を団長とする労働党代表団,日本共産党大会へ出席のため訪日。「日本が平等互恵,内政不干渉の原則にもとづいて援助してくれるなら,われわれは喜んで受け入れたい」と語った。

11.15 解放勢力,ブレーク南西22キロの政府軍レンジャー部隊・歩兵部隊陣地を攻撃,政府軍死8,傷11。

11.18 解放勢力,タケオ市南3キロの政府軍基地を攻撃。

11.19 政府軍の練習機T28,大統領官殿を爆撃。

ノースアメリカン T-28D ノーマッド(Nomad): 原型は射爆練習機だったが、エンジンが2.5倍近くパワーアップし、攻撃機仕様に発展した。小口径弾に耐える装甲を施し、12.7ミリ機銃ポッドが標準装備となり、片翼3箇所づつのパイロンが追加された。南ベトナム空軍に供給されたほか、アジア・アフリカ・中南米など世界各所の紛争地帯で使用された。またタイからラオス・カンボジアで秘密作戦に就いていた。

11.20 サイゴン南西70キロのCai Lay南などで戦闘 政府軍死17,傷14,解放勢力死75。

11.22 『ニヤンザン』紙社説。“絶えず戦闘準備を点検し改善せよ”と訴える。

11.23 政府軍機,サイゴン北西110キロの解放戦線側飛行場を爆撃。

11.23 中央合同委が初会合。この時点でビエンチャン市内にはパテトラオ兵士1千500人が駐屯。

11.28 ユエ南20キロの政府軍基地,砲撃さる。

11.30 政府軍,サイゴン北東30キロのビンズオン省Lai Khe北,Phu Giao西で掃討作戦開始。

11.30 北ベトナム外務省,南ベトナムから民間人に偽装した米軍人2万4千人をただちに撤退することを要求する声明を発表。 

11.30 シュレジンジャー米国防長官,記者会見で言明「戦争権限法にもとづきニクソン大統領は,北軍の新攻勢に対し議会の事前の承認なしに,爆撃再開を指令できる」

11.30 解放勢力,プノンペン東18キロのビヘアスオル町を解放。

11月 ラオス和平協定の実施のための混合中央委員会が開催される。ヴィエンチャン,ルアン・プラバンの中立化で合意。

73年12月

12.03 解放勢力、サイゴン南東15キロのNha Be貯油所(シエル石油会社)を襲撃。1800万ガロンの燃料が流出する。政府軍は飛行機により報復爆撃を行う。

12.03 キュー・サンファン副首相を筆頭とする新内閣が成立。司法相にノロドム・プリサラ殿下が就任。

12.04 クアンドク省キエンドク(サイゴン北150キロ)の政府軍,解放軍の攻撃をうけ撤退。7日抵抗をうけずに奪回。同町はブプランなど11月に解放側の手におちた基地奪還の作戦本部。

12.05 政府軍,プノンペン西60キロのスレクロンから撤退。政府軍死傷30。

12.06 政府軍2個大隊,ディンツオン省国道4号周辺サムジアン西3牛口で解放勢力大隊と戦闘。政府軍は12月初から同地域で大作戦を展開中。

12.06 ジェラルド・フォード共和党下院院内総務が副大統領に就任。

12.06 『ニヤンザン』紙社説“けんめいに働き学びかつ質素な生活を送ろう”と党員の質の向上を呼びかけた。

12.06 解放勢力,タケオ付近の政府軍陣地を攻撃。政府軍死24,傷30。

12.07 外務省,米空母ミッドウエーが北ベトナム沖で挑発活動をしていると非難。米軍,空母ミッドウェー,北ベトナム沖で活動中であることを確認。

12.07 南ベトナム政府のバク外相,キッシンジャー米国務長官と会談。パリ協定調印以後北は10万の軍隊(米側推定2万)と戦車600台,大砲600台を南へ送り込んだと言明。

12.09 政府軍,解放軍の反撃にあいキエンドクを撤退。

12.09 解放軍,サイゴン北西400キロのチャンバン町付近の地方軍陣地を攻撃,守備隊200人のうち73人が行方不明に。

12.10 イン・タム首相が辞任。後任首相にロン・ボレ外相。

12.10 シアヌーク、カンボジア全土解放のため国内に帰る決意を明らかにする。

12.10 解放勢力,国道5号のプノンペン北西22キロのPrek Tatenを攻撃。

12.13 解放勢力,コンポンスプー南部の政府軍陣地に80発の砲弾を撃ち込む。政府軍死7,傷30。

12.14 解放戦線,サイゴン北西60キロのタイニン省郡都キエンハン北西の政府軍陣地を攻撃,政府軍死19,傷48。

12.14 解放勢力,プルサト市西南28キロのレアチ町を解放。

12.15 チュウ大統領、「すでに和平協定はなんの役にも立っていない」とする特別声明を発表。

12.15 カンボジアでロン・ボレ内閣が成立。解放勢力はロンノル政権への軍事的締めつけを強化。

12.15 解放勢力,プノンペンの市内と郊外で砲撃を繰り返す。プノンペン南東14キロの国道1号線ワットダウンサリ基地を攻撃。

12.16 ディンツオン省国道4号沿いのカイベ,カイライ周辺の政府軍第7,第9師団の前哨基地が解放戦線に攻撃さる。

12.16 国道1号線をめぐって激戦が展開。プノンペン東17キロ国道1号上の政府軍陣地のキエンスバイが陥落。国道5号も依然プノンペン北22キロのPrek Tatenで切断。

12.17 政府軍,国道1号のWat ChantaraingseiとKbal Koh間を開通さす。国道4号はPhnom Sabmourを奪回し,打開作戦続行。

12.20 野党議員,労組指導者,アンカン派,カトリック左派など104人,和平協定の完全実施を呼びかける共同声明。

12.21 弾薬輸送中の政府軍ヘリ,サイゴン南西80キロのキエンツオン省ツエンニョンで爆発。

12.23 解放勢力,プノンペンに7発のロケット弾攻撃。24,25日も続く。

12.24 レ・ドク・ト政治局員,フランスのテレビ放送で「米国が南ベトナム内部問題に介入を続けるならばあらゆる手段に訴えてこれに報復する」と語る。

12.25 解放戦線,サイゴン南西176キロのVi Thanh近くの政府軍陣地を攻撃,政府軍1個大隊500人のうち死18,傷81,行方不明42。

12.25 解放勢力,メコン東岸のプノンペン北東17キロのKroch Soeuchを300発砲撃。

12.29 チュー大統頷,ブンタウで演説「共産側は南ベトナムを征服しようとする政策を変えておらず,彼らと交渉してもなんにもならない。このような状況のもとでは,彼らとともに総選挙を行なうことは考えられない」

12.30 解放勢力,大統領官邸,米大使館近くなどにロケット弾攻撃。

73年末 この年の貿易は,輸入額715百万ドル,輸出額60百万ドルと大幅な入超。外貨保有高は73年末143百万ドルに減少。サイゴンの消費者物価は,1年間で65%上昇する。これは65年以来最高のインフレ。

73年末 日本をふくむ66カ国が北ベトナムを承認。

 

1974年

74年1月

1.04 チュー大統領、「支配地域だけでなく,北ベトナム軍の駐留地域にも報復攻撃をかける」と演説。

1.04 トリン・ホアン情報相,「情勢が悪化しても米空軍の介入を要請することはない」と語る。

1.05 サイゴン北70キロ,国道13号上のChon Thanhで政府軍前進基地が迫撃砲攻撃を受ける。政府軍死5,傷20,不明61。

1.07 ロン・ノル最高司令官,首都の各防衛組織に塹壕を掘り,ロケット砲攻撃から守るよう命令。

1.08 解放勢力,タケオ市に100発(米製105ミリ砲)の砲撃。9日も40発砲撃。

1.10 西沙群島のダンカン島付近で南ベトナム,中国両海軍が衝突。

1.10 トリン・ホアン情報相,「連合政府と個人的に接触した」と発言。「赤色クメール軍はたしかに存在するが,その幹部は北ベトナム人である」と述べる。

1.11 中国が中沙、東沙、西沙群島の領有権を主張。20日には全域を制圧。南ベトナム政府軍は南沙諸島の大部分を占領。

1.12 ソン・サン,ロン・ノル大統領の出国と民衆救済委設置を提案。

1.14 政府軍は1万6000人を投入しプレーク西45キロのレミン基地を奪回。レミン基地は昨年9月以来解放戦線が占拠していた。

1.17 南ベトナム海軍部隊,西沙群島のロバート島に上陸。島を占拠していた中国漁民はすでに退去。

1.18 コンツム市北方12キロで戦闘。解放勢力側は政府軍陣地に1千発の砲撃。解放勢力死87,政府軍死31,傷42。

1.23 サイゴンの革命政府軍事代表、「領土の境界線問題は友好的な話し合いで解決すべきだ」と主張。

1.24 中央合同委,2市の中立化で合意。両派がおのおのビエンチャンに2個大隊2400人,ルアンプラバンに2個中隊1200人を駐留させることとなる。政府軍側の一部幹部はなお抵抗を示す。

1.24 カンボジア解放勢力が攻撃を強化。プノンペンを包囲し大統領官邸などに46発の砲撃。翌日にも約30発が打ち込まれる。砲撃による死者54,傷140以上。

1.25 米国務省、「プノンペンには100万人の避難民が満ち満ちており、非戦闘員を目標にした無感覚な砲撃の継続に反対する」と述べる。

1.26 夜,プノンペン南部のバンチポン,ストンミアンチェイ,ポチェントンに105ミリ曲射砲弾145発が撃ち込まれる。死30,傷70。

1.27  ロン・ノル大統領,「外国侵略軍がカンボジア領内で軍事活動を続けている」と非難。

1.28 政府軍,サイゴン南西168キロで待ち伏せ攻撃をうけ死13,解放勢力死10。

1.28 南ベトナム政府、1年間の休戦違反は35,673件で,損害は南ベトナム軍の戦死者が12,803名,共産軍の戦死者が45,202名と発表。

1.28  ニクソン大統領,「カンボジア政府は防衛努力を強化する他ない。アメリカは自衛のため最大限の支援を続ける」と述べる。

1.29 サイゴン北西50キロ,60キロで戦闘,解放勢力死72,政府軍死10,傷25。

1.31 北ベトナム軍が再編強化。テトを機にふたたび南への攻勢を開始する。解放勢力,チャウドク省チトン付近で政府軍1個大隊の守備する基地を攻撃。

74年2月

2月初旬 労働党中央委員会第22回総会および第4期第4回国会が開催される。経済の復興発展に関する任務が定められる。@北ベトナムにおける社会主義建設,A経済と国防の密接な結合、B南ベトナムにおける独立と平和的統一,Cラオスとカンボディアの革命に対する国際義務の完遂を目標に掲げる。

2.02 政府軍,タケク北Pak Hin Bounから撤退。

2.02 未明,解放勢力500人がプノンペン南部に進入,南部,南西部に150発の砲撃,死20,傷70。

2.03 第3勢力代表者がサイゴン郊外で秘密会合。反政府系各団体の大同団結を実現し,パリ協定順守のための新たな平和運動を展開することで合意。

2.04 Tran Van Chon海軍司令官,両院国防委で言明。「西沙群島は現在,中国軍に占領されているが,機会を見て奪い返す」

2.05 解放勢力,プノンペン南東の政府軍哨所を突破,サイゴン橋から500メートルの難民キャンプとタバコ工場を砲撃。

2.06 JMC,8日から捕虜交換再開を発表。政府はロクニンで3506人の民間捕虜と33人の軍人捕虜を,革命政府は224人の民間捕虜と410人の軍人捕虜を釈放。

2.06 解放勢力,プノンペン南西部Phsar Doem Kor地区を105ミリ曲射砲で砲撃55発。死168,傷90。家屋破壊1699。

2.08 プレーク省レミン基地近くで戦闘,政府軍死17,解放勢力死81。

2.12 解放勢力,コンツム市北西18キロの地方軍を攻撃。

2.12 統一戦線の声放送,プノンペン市民に一斉ほう起呼びかけ。

2月中旬 ロンノル軍が反撃に転じ,危機を脱する。解放勢力は首都攻撃をいったん中止し、地方都市への攻勢に転ずる。

2.16 サイゴン南西80キロのアシの平原の南端で,パトロール中の政府軍1000人が解放勢力と戦闘。政府軍は爆撃機と砲兵隊を投入,解放勢力死91。

2.16 解放勢力,プノンペン南東Chbar Ampou地区を米製105ミリ砲で54発砲撃。死5,傷47。

2.17 ロン・ボレ首相、「解放勢力側の下級レベルと接触があったが,唯一の回答は銃によるものだった。米国は中・ソを通じて交渉実現に努力しているが,ハノイが唯一の障害である」と述べる。

2.19 政府,民間人捕虜112人をロクニンで釈放。これで政府が釈放した捕虜数は1240人に。革命政府がこれまでに釈放した数は197人。

2.21 ペトラシ代表、「連合政府の設立には国会の承認を必要としない」と言明。

2.23 将軍15人が解任される。チュー大統領,文官・軍の最高指導者招集,経済の現状と腐敗に対する闘いについて検討。

2.24 ビエンチャン西136キロPak Lai南25キロで戦闘,政府軍死8,傷4。

2.25 解放勢力,サイゴン南西230キロのウミン森の端のTan Phuの歩兵基地を攻撃,政府軍死傷・行方不明60。

2.26 解放勢力,デルタの政府軍2基地を制圧,政府軍死傷,行方不明144。政府軍数百人増援。

2.28 政府軍,サイゴン北方で作戦開始。サイゴン北東40キロで戦闘。

74年3月

3.06 第5次捕虜交換が全日程を終了。両者が公表した捕虜(政府3万1831人,革命政府6065人)は一部を除き全員釈放される。

3.07 夜,解放勢力,カンポト市に75ミリ砲弾37発砲撃。8日も60発。

3.09 解放勢力がサイゴン南西70キロのカイライの小学校を砲撃。死32,傷34。JMC政府代表が抗議。

3.11 政治犯釈放委(アンクアン寺派系)の発表によれば,チホア刑務所で政治犯300人がハンストに入る。

3.12 解放勢力,ライケの政府軍基地と省都フォクビンに対し,85ミリ榴弾砲で砲撃。

3.14 ビエンチャンの警察権,合同警察に譲渡。3台のジープに双方から3人ずつ分乗し夜間パトロールを開始する。

3.17 コンツムで停戦以来最大の激戦。解放勢力はコンツム北方の政府軍陣地6ヵ所に700発の砲撃と地上攻撃。解放側死348,政府軍死72,傷111。

3.18 クレメンツ国防次官、議会で証言。南への軍事援助を増額するよう要請。「政府軍は4月半ばには燃料不足に陥る」と警告する。

3.18 カンボジア解放勢力、プノンペン北方40キロの旧王都ウドンに突入、市街戦となる。三月末には一時制圧。

3.18 解放勢力、穀倉地帯バッタンバンとプノンペンを結ぶ国道5号線を切断。

3.19 ビンビン省カウケ南東5キロのフォンフ村役場が攻撃さる。地方軍・民兵22名が死亡。

3.22 南ベトナム臨時革命政府、政治協議に関して6項目を提案。29日には南ベトナム政府も反対提案。

3.22 ラオス人民革命党のカイソン書記長、党結成19周年を記念する書簡を発表。政治の表舞台に顔を出す。

3.27 解放勢力500人,Duc Hueの北西13キロの政府軍レンジャー部隊基地を砲撃・地上攻撃。解放勢力死34,政府軍死14,傷10。Duc Hueはサイゴン西北50キロのハウギア省に位置する競合地域。

3.27 愛国戦線のボンビチト首席全権代表がビエンチャンに帰任。連合政府樹立のための愛国戦線側の準備はすでに完了していると言明。

3.27 中央合同委,首都・王都中立化のための合同軍隊発足に関して最終的に合意。合同軍事司令部へ防衛権限が委譲される。

3.28 カンボジア愛国政府が外交攻勢を強化。キュー・サムファン・カンボジア連合政府副首相兼国防相を団長とするカンボジア代表団がハノイを訪問。その後アジア・東欧・アフリカ諸国を歴訪する。

3.29 パリ政治協議,和解一致評議会の設置と7月20日総選挙で基本的合意。停戦問題はJMC,ICCS,上院作業委で解決することとする。

3.29 ストックホルムでパリ協定実施のための国際会議が開かれる。

3.29 最高政治評議会解散。代わりに憲政行政委員会設置。新委員会の議長はロン・ノル大統領,副議長にはシリク・マタクが復帰,委員はロン・ボレ首相,フェルナンデス参謀総長。

3.31 解放勢力,ドゥクエ政府軍陣地を砲撃。

74年4月

4.01 キユー・サムファン副首相とイエン・サリ特別顧問が北京入りする。シアヌーク殿下,周恩来首相,葉剣英党副首席らが出迎えるという異例の歓迎。

4.02 横浜で第2回アジア卓球選手権大会が開幕する。革命政府の選手団も参加。

4.03 スファヌボン殿下がビエンチャンに入る。プーマ首相と会談。

4.04 臨時民族連合政府が発足。プーマ首相はビエンチャン政府の職を辞す。バッタナ国王は臨時民族連合政府を承認する勅令に署名。

4.04 クメール・ルージュがふたたびプノンペン包囲作戦を開始。ロンノル大統領は非常事態を宣言。その後ロンノル側の反撃と本格的雨期の到来により戦況は膠着。

4.05 解放勢力の1個連隊、2600人が,アンロク南のChi Linhで攻撃。民兵200人が守備する砲撃支援基地を奪取する。

4.05 プーマ首相と愛国戦線首席代表、暫定国民連合政府樹立で合意。プーマを首班とする第三次連合政府が発足。同時にスパヌウォン殿下を議長とする全国政治協議会が成立する。

4.05 米国務省,現在180人の駐ラオス米大使館付き武官の数を30人に減らすと言明。

4.06 サイゴン東64キロで戦闘が始まる。2日間で解放戦線側に70人の死者を出す。

4.07 約200人の愛国戦線部隊、ビエンチャン南東280キロで攻勢に出る。

4.08 解放勢力、ミシュラン・ゴム園で90人の民間人を誘拐。ゴム工場はこれに抗議して生産停止。

4.09 政府代表、トンレチャン基地の包囲を解き,食糧・医薬品の捕給を可能にするようもとめる。トンレチャン基地はサイゴン北西90キロ。政府軍守備兵259人に対し、解放勢力が13ヵ月にわたる包囲戦を続けていた。また政府は、Duc Hueレンジャー基地,Chi Linh砲撃支援基地への包囲も解除するよう求める。

4.10 連合政府閣議が開かれる。国防相は,愛国戦線の攻勢に抗議,愛国戦線閣僚は作戦の中止を約束する。

4.11 政府軍2000人,カンボジアに通じる国道1号で作戦。

4.12 解放勢力,1個連隊規模でトンレチャン基地を攻撃し占拠。政府軍機,トンレチャン基地,ロクニンなどを爆撃。

4.12 南ベトナム政府,革命政府側の週間記者会見を不許可とする。政府軍は「共産側が停戦協定違反を続けるなら,サイゴン・ロクニン間連絡飛行を停止する」と言明。

4.12 政府軍1千人がラオス南東部の奪回作戦。

4.13 チュー大統領,「第3勢力を名のる者は共産側の手先」と述べる。ラム上院議長は,「いわゆる第3勢力なるものほ存在しない。あるのは侵略勢力と反侵略勢力だけ。我々はトンレチャン基地を奪回する」と述べる。

4.13 革命政府外務省,情勢の深刻化に関する声明。

4.13 政府軍、タケクとサバナケトの間のSe Bang Fai河にかかる橋から数マイルの中隊司令部を放棄。

4.15 解放勢力,ビンロン省都アンロクを15発砲撃。

4.15 政府軍機,連続3日のロクニン爆撃。

4.15 解放勢力3千人が,プレーク周辺で大規模な軍事行動。711基地を砲撃・地上攻撃。解放側死182,政府軍死21,傷58,不明6。またプレーク西10キロの政府軍歩兵連隊司令部も、60発の砲撃を受ける。政府軍死12。

711基地: プレーメ北16キロの高地。プレーメ防衛陣地の一角をなす。政府軍レンジャー部隊1個中隊400人が守備にあたっていた。

4.15 解放勢力はデルタ地帯でも行動を開始。サイゴン南西200キロのバクリェー省の地方軍・歩兵哨所3ヵ所(Phuoc Long地区,チュオンチェン省Cuong Thien,Kien Long 地区)を襲撃,解放側死58,政府軍死2,傷2。

4.16 バック外相、トンレチャン基地攻略を非難。パリ政治協議を拒否すると言明。米国務省も同調する。サイゴンではJMC革命政府代表が,政府側のパリ協議拒否に抗議して退場。

4.16 Nha情報相、「共産側は近く72年春季攻勢規模の首都攻撃をかけるかもしれない」と言明。

4.16 解放勢力,プレーメ711基地に1千発の砲撃を加える。政府軍死61,傷98。解放側も空爆などで死者324人を出す。

4.17 ビンディン省ホアイニョン南方で、国道1号線Bong Son河にかかる橋が爆破さる。

4.18 政府軍機甲,歩兵各1個連隊5000人による711高地奪回作戦。

4.18 解放勢力,スァンロク南方10数キロの政府軍基地を砲撃・地上攻撃。

4.19 JMC政府代表,戦死者運び出しのため711基地での停戦を提案。革命政府側,これを拒否。 

4.19 解放勢力,サイゴン北西60キロの孤立した政府軍基地Duc Hue(ハウギア省)に122ミリ砲25発を撃ち込む。

4.20 解放勢力,包囲中のDuc Hue町近くの政府軍歩兵陣地2ヵ所に300発の砲撃,政府軍傷39,不明20。

4.20 解放勢力,スアンロク近くの政府軍陣地に100発の砲撃。ダナン南48キロでは、国道1号線の舟橋を炎上させる。

4.21 政府軍偵察隊,711基地を奪回。(この記事意味不明です)

4.22 ニャ情報相、「解放側は北部のドンハからサイゴン西方カンボジア国境よりに至る大補給網を完成した」と発表。

4.23 JMC政府代表,北・解放戦線に対し4項目の要求。革命政府チュアン代表は,週2回のサイゴン・ロクニン連絡飛行,毎週の記者会見,北ベトナム・革命政府代表団と外部との電話復旧を要求。

南ベトナム側があげた係争地: 解放勢力が占領した基地として、Cua Viet,Bach Ma,Le Minh,Chi Linh,Tong Le Chan,Duc Hue,Pleime,Bu Prangをあげる。また北ベトナム軍の占領地として、クァンチ省Lao Bao,プレーク省Duc Co,タイニン省Xa Matをあげ、ICCSのチェックを求める。さらに北ベトナムが停戦後、南へ13万人の部隊・タンク600台・600門の砲を持ち込んだとし、その引き揚げを求める。

4.23 サイゴン北西40キロのチャンバン周辺で戦闘。解放側死101。

4.23 政府軍筋,東独船が戦車などの軍事物資を積んでDMZ北西に停泊していると言明。

4.23 愛国戦線閣僚,Paksane,Thakhek間で切断されていた13号国道の封鎖解除に同意。またルアンプラバン・Ban Houei Sai間のメコン河航行に同意する。政府閣議でも全ラオスの通行・通商の自由が承認される。

4.24 解放勢力,クァンチの海兵隊基地を迫撃砲攻撃。80発を撃ち込む。

4.26 解放勢力,サイゴン北15キロのビンズオン省ライチュウの政府軍第5師団訓凍センターを迫撃砲攻撃。政府軍死17,傷118。

4.27 政府軍,プノンペン北西40キロの州都Sala Lek Pramから撤退。

4.28 解放勢力,おうむのくちばし地区南部から戦車を出動させLong Khotを攻撃。Long Khotはサイゴン西93キロ、キエンツォン省Tuyen Binh町近郊の集落。Tuyen Binhの北東7キロに位置し南ベトナム政府軍の国境守備隊が配置されていた。

4.29 政府軍第25師団の戦車連隊3千人,オウムのクチバシ地域南の解放勢力を攻撃。解放勢力死75(うち22は空撃による)。

4.30 政府軍,ハウギア省Duc Hueレンジャー基地救出作戦を実行。3日後にDuc Hueでの戦闘を終え、解放勢力が撤退する。

4月 ロンノル政権のロン・ボレ首相に対する暗殺未遂事件が発生。

74年5月

5.01 ミトでメーデー集会,1千人の労働者参加。

5.03 政府軍当局,解放勢力主力がおうむの口ばし地区に集結していると発表。

5.04 解放勢力,クァンチ省Tam Ky南13キロの地方軍陣地を砲撃,占領。

5.04 政府軍発表によれば、解放勢力はヴィンロン省Song Phu小学校を砲撃する。解放戦線はコメントを拒否。

5.06 米上院,政府が提案した2.66億ドルの追加軍事援助案を拒否。

5.07 政府軍,サイゴン西83キロMoc Hoaで反攻作戦。Moc Hoa北および西で戦闘,解放勢力死150,政府軍死3,傷40。

5.07 ディエン・ビエン・フー大勝利20周年記念式典に、長期間療養していたザップ副首相兼国防相が出席し演説。(テト攻勢後一時失脚状態にあったとも言われる)

5.08 政府軍,Tam Kyで反攻作戦。

5.08 政府軍,2月以来解放勢力が占領していたプレーク南西32キロのLe Ngoc基地を奪回。

5.09 下院、ニクソンに対する弾劾訴訟を開始する。

5.10 JMCの革命政府代表,特権禁止の解除まであらゆる会議に出席しないと宣言。臨時革命政府代表団も2者政治協議に無期限欠席の意思を明らかにする。

5.12 ニャンザン紙、“タイを含む東南アジア諸国と友好関係を樹立するよう努力する。とくにタイとの関係改善は東南アジアの平和に有益であろう”と主張。

5.13 政府軍レンジャー,コンツムで反撃。数週間前,解放勢力に奪われた北14キロの第5陣地を奪回。

5.16 コンツム北85キロのDak Pek政府軍レンジャー大隊基地が陥落。兵士369人、住民4000人が撤退。

5.17 解放勢力,ビンズオン省ベンカット南西1.5キロのAn Dien政府軍地方軍陣地を攻撃,占領。

5.18 ニャンザン紙、“農業生産合作社内では生産成績が分配を決定する”と主張。

5.20 ビンズオン省Phu Giao町が,解放勢力により砲撃さる。Nha Be貯油所では爆破事件。

5.21 解放勢力,ベンカットを砲撃,100発。

5.22 革命政府外務省,パリに常駐代表部を開設すると発表。

5.23 63年以来ラオスに参戦していたタイ人雇い兵が撤退する。

5.24 解放勢力,ウーミン森のはずれキエンフォン近くの政府軍民兵基地を攻撃,政府側死20,傷29。

5.25 解放勢力,カント北西10キロTra Not空港に侵入,ヘリ7機を破損。

5.26 政府軍レンジャー部隊,サイゴン北45キロのベンカト周辺で作戦,1個師団と戦車100台を投入。An Dien村に突入。

5.26 警察が高校を急襲し生徒61人を逮捕。逮捕された教師4人の釈放を求め集会を開いたためとされる。プノンペンの中学・高校生500人が教師と学生の釈放を要求してデモ行進する。

5.27 チュー大統領政治特別顧問のグエン・バン・ガンがスパイ容疑で解任される。政府スポークスマンはこの報道を否定。

5.30 北ベトナムと革命政府,4者合同軍事チーム会議をボイコットすると表明,退席。

5.30 バンメトート北西40キロのTieu-a-Tar基地陥落。住民1000人は事前通告を受け立ち退いていた。チュウアタル基地は山岳民族からなる地方軍133人が守備,72年末以来陸路を断たれていた。

74年6月

6.03 ビエンホア空軍基地に42発の砲弾。弾薬集積所に命中し500発のナパーム弾が爆発。タンヒェプ政治犯収容所にも命中,政治犯など死18。革命政府代表部は「タンヒェプ刑務所砲撃は政府軍によるもの」と弁明。

6.03 サイゴン市東5キロのサイゴン川で、韓国貨物船が爆破される。

6.04 政府軍が4日間にわたる戦闘の末、解放軍2個大隊(400人)をせん滅し,An Dieng村を奪回。政府軍死30,傷105。

6.04 南ベトナム臨時革命政府、油田開発参加外国企業への攻撃の可能性を示唆。

6.04 米軍がラオスにおける活動を停止する。その後も協定を破り米機が解放区に偵察飛行を繰り返す。

6.04 ケオ・サン・キム文相と文部次官の2人が,高校で説得に失敗し殺害される。プノンペン市内で機動隊と学生が衝突,学生死3,傷数人,逮捕100人を出す。

6.04 ロン・ボレ首相は辞表を提出。内閣は総辞職する。

6.05 解放戦線のト議長,タンソンニャト基地内の革命政府代表団特権が回復されれば,交渉の席に復帰と言明。

6.06 解放勢力、2個連隊5千人を動員し,ラオス国境のDakpekレンジャー大隊基地を占領。700発の砲撃の後タンクを出動させて制圧。

6.06 解放勢力,戦車T54を出動させてAn Dieng村を攻撃。解放側死145,政府側死27,傷63。

6.07 JMC政府首席代表ヒェプ将軍,ト議長の発言を受けて、@革命政府代表団と外部との電話連絡 A毎週土曜日の記者会見 B週2回のサイゴン―ロクニン間ヘリ飛行の3点の特権について復活を発表。

6.08 革命政府代表,JMC,JMTに復帰すると発表。

6.08 アメリカの軍事要員がラオスを離れる。最後の軍事要員は30人、民間人はわずか15人に減少。

6.10 クメール系僧侶,キエンジャン省Kien Thanhで徴兵反対のデモ。警官との衝突で4人が死亡する。カント市で100人の僧侶が講義デモ。

6.11 解放勢力,スァンロク市付近の政府軍レンジャー基地を占領。国道1号線を封鎖する。

6.11未明 タイニン省の郡都ヒューチェン北11キロの地方軍基地4ヵ所が砲撃さる。地方軍は基地から撤退。

6.13 サイゴンとロクニン間の飛行が2ヵ月ぶりに再開される。タンソンニャトで4者合同軍事チーム再開。米代表は1千人以上の行方不明者リストと1千200人の未発見死者リストを提出。

6.13 9万リットルの石油を積んだタンカーが,サイゴン北30キロのドンナイ川で爆破さる。

6.13 ロン・ノル大統領,ロン・ボレ首相の辞表を受理した後,政めて同氏を首相に再任。

6.17 政府軍,スアンロクで国道1号線の打開作戦。翌日に開通に成功。

6.18 南ベトナムのカトリック聖職者301人、チュー政権の腐敗と圧政に反対する宣言を発表。8月には、チャン・フー・タン神父を議長とする政治組織「反汚職人民運動」を結成。

6.19 政府軍,クアベト沖で北ベトナム船を撃沈。

6.22 南ベトナム政府軍、サイゴン北40キロの第82基地の奪回作戦。解放勢力は政府軍に1千発の砲撃を加える。

6.23 ユエ南東11キロの弾薬庫、北西15キロの燃料庫で爆発。

6.26 解放勢力,ビエンホア省Long Thanh町北7キロのYen The訓練センターに40発の砲撃。

74年7月

7.05 サイゴンから13キロの省都Phu Cuongが砲撃される。フクオンにはベンカット作戦の前進司令部が置かれている。

7.07 政府軍,ベンカット南西地区を60波で爆撃。解放軍,タイニン省上空で政府軍F5機を撃墜,パイロットを捕虜に。

7.09 解放勢力がサイゴン東80キロで国道1号を切断。政府軍5日後に再開。

7.09 米国の勧告を受けたロンノル大統領、無条件平和交渉を提案。クメール・ルージュは一切の和平提案を拒否すると声明。

7.12 プーマ首相が心臓発作で倒れ、療養のためフランスに向かう。プーマ首相はボンビチト副首相兼外相を首相代行に任命する。閣議は両副首相により決定されることとなる。スファヌボンは王国政府軍将校と対応を協議。ビエンチャンの街ではストライキと右派軍人・官僚の追放を求めるデモが続発。

7.14 市・省議会選挙。解放勢力はこれに合わせ攻勢276件。政府軍死者は70人、うち25がメコン・デルタ。市民の死者も23人を数える。

7.17 解放勢力,カント南東8キロのThanh An村を攻撃。政府側守備隊全滅,死19,傷16。

7.18 解放勢力,Da Trachの政府軍レンジャー部隊(400人)基地を攻撃し翌日に陥落。Da Trach基地はダナン市南方40キロで、An Hoa工業地域に近い。

7.19 解放勢力,ダナン空軍基地に25発の砲撃を加える。

7.25 解放勢力,ダナン市南西30キロの郡都ズクズクから数キロの政府軍陣地に5千発の砲撃。政府軍機も150トンの爆撃を投下する。

7.27 ダナン北西13キロの国道1号線のナムオ橋が爆破さる。

7.29 解放勢力,ダナン一帯で集中攻撃。ダナン空港とその周辺に砲撃70発。ダナン南南西44キロの郡都に1500発の砲撃、その後地上攻撃をかける。Thuong Ducは人口1.4万人、政府軍レンジャー1個大隊と地方軍が守備。

7.29 ダナンに隣接するクァンナム省でも、Duy Xuyen,Duc Duc,Dai Locの3郡都が攻撃を受ける。

7月 ラオスは深刻な外貨危機に見舞われる。政府は為替管理を中心とする新経済措置を発表。物価は国際的インフレの影響を受け前年に比し50%増となる。

74年8月

8.01 解放勢力,ダナン南西45キロで、民兵守備隊が配備された二つの村と二つの基地を占領。政府軍は翌日までに奪回。

8.01 JMC政府代表,解放勢力のThuong Duc,Duc Duc攻撃について抗議書。

8.03 南ベトナム軍最高司令部,「Thuong Duc,Duc Duc,Mongbukの3郡都のうち1つでも陥落すれば,パリ協定を破棄したものとみなす」と言明。

8.06 南ベトナム外務省、「共産側が中部の郡都を占領しても,パリ協定を破棄することはない」と語る。

8.07 Thuong Ducが陥落。

8.08 政府軍,クァンチ,トアチェン両省から空てい部隊1個旅団をクァンナム省に投入することを決定。これまで第1,第3師団からの部隊で対処。

8.09 ニクソンが大統領を辞任。フォード副大統領が大統領に就任。

8.10 ビエンホア空軍基地,122ミリ・ロケット砲撃16発を受ける。F-5A機4機も損傷。

8.10 夜,スヴァイリエン市に122ミリ砲など100発が撃ち込まれる。

8.15 サイゴン北方30キロのビンズオン省フークオン近くで戦闘,解放勢力死100,政府軍死30数人。

8.17 クチのJMC事務所が爆破される。革命政府はJMCをボイコットしてきたが、初めてJMCを攻撃の対象とする。 

8.17 解放勢力,サイゴン北方30キロのベンカトを戦車で攻撃。

8.18 政府軍支配下にあったダナン南方140キロのクァンガイ省郡都Minh Long(人口3500人)が陥落。

8.19 コンツム北東60キロのMang Buk政府軍基地(政府軍1個大隊守備),陥落。

8.20 政府軍100人,タイニン市南西11キロ(サイゴン北西70キロ)のPhuoc Tan陣地を放棄。またタイニン市東南カウコイ基地も放棄。

8.21 クァンチ市,迫撃砲6発を撃ち込まれる。

8.22 合同平和委,捕虜交換を9月12日開始することで合意。

8.23 警察官300人がチャンタブン国警長官の解任,社会正義と生活改善を求める横断幕を掲げてビエンチャン市内をデモ行進。また市役所公務員,米国系航空会社コンチネンタル・エア・サービス,製材会社職員などの間にストが広がる。

8.26 政府,ICCSに対し解放勢力側のThuong Duc,Minh Long,Mang Buk占領を非難する覚書手交。

8.28 政府軍9個大隊(2700人),プノンペン南東バサック川東岸で掃討作戦。(ずいぶん小さな「大隊」です)

8.28 政府軍,アンコールのロルオス遺跡群を奪回。

8.29 プレーク南35キロのPleime付近で戦闘。政府軍死15,傷50,解放側死105。Pleimeは1ヵ月来包囲されている。

8.29 解放勢力,ユエ南方を攻撃。

8.31 JMC政府代表団,革命政府代表団に対し,ダナン南西の戦闘で民間人を捕虜にしていることに抗議。

74年9月

9.01 国道1号,サイゴン東96キロで切断さる。

9.01 サイゴンのカトリック系『ホアビン』紙、政府の言論弾圧に抗議して休刊。政府は大統領を批判したサイゴンの新聞6紙を没収。タン神父らはフエで5000人規模の大衆デモを組織。アンクアン寺派の仏教徒もこれに呼応して政府批判を展開。

9.01 解放勢力,プノンペン西15キロのAng Snuol,同北西18キロのTuol Leap周辺の政府軍陣地を攻撃。

9.07 ユエ南東の政府軍歩兵大隊陣地が占領さる。

9.08 ユエでカトリックを中心に3千人が汚職反対,新聞の自由を要求してデモ。デモ鎮圧に催涙ガスその他強圧手段が使用され、市民の怒りを呼ぶ。

9.09 グエン・バン・ビン下院議員ら,「反汚職救国平和国民運動(PMAC)」の名で,大統領に対する告発第1条を発表。

9.10 ミン将軍,和解運動を国民に呼びかけ。

9.11 ユエ南東19キロのPhu Locで国道1号上の橋爆破さる。

9.14 トアチェン省の12の政府軍基地・陣地が一斉砲撃される。ユエ南24キロのLa Son政府軍陣地,攻撃さる。

9.14 アンクアン寺で民族和解勢力発足式。

9.15 「新聞の検閲・没収に抵抗する委員会」(委員長,ダイザントク紙のボー・ロン・チュー社長)発足。

9.16 ユエ市長Ton That Khien大佐、デモに対する強行対応を批判され更迭される。

9.16 フォード大統領、ベトナム戦争における軍逃亡者と徴兵忌避者のために条件つきの恩赦計画を発表。

9.18 ラオス政府、北ベトナムとの経済協力協定に調印。北ベトナムはラオス産品輸出に港湾を使用することを承認。

9.19 ダナン市で失業者200人が,生活権を要求してハンガー・スト。

9.19 ジャール平原Phou Savanhで捕虜交換。ビエンチャン側はラオス人7人,ベトナム人173人,愛国戦線側はラオス人20人,タイ人150人を釈放。

9.19 夜,コンポンチャム市で市民暴動。数百入の兵士,学生が米屋・雑貨商を襲う。コンポンスプー市でも300人の市民・兵士が商店・市場を襲う。

9.20 カンガイ市南西50キロのGia Vucレンジャー陣地(400人守備),陥落。

9.21 ダナン南西別キロのDa Locで政府軍降下大隊攻撃さる,死14,傷60。

9.21 政府軍海兵隊,ユエ西方で停戦後最大の戦闘,死10傷31,解放勢力死261。

9.22 サイゴンのクアンフォン寺で「飢餓救済国民戦線」結成大会,議長にアンクァン寺のティエン・ファップ師,副議長にカトリックのファン・カク・ツー神父,カオダイ系の反政府紙発行者ホン・ソン・ドン氏,ホアハオ教の下院議員ブー・コン・ミン氏の3人を選出。

9.27 解放勢力,ユエのフーバイ空港とその周辺に173発の砲撃。

9.27 南ベトナム統一仏教会の化導院が平和アピールを発表。チュー大統領の退陣・解放勢力側との交渉再開を要求する。これを報じた4紙が発禁となる。

9.27 南ベトナム統一仏教会、を要求。

9.28 解放勢力,コンポンチュナン市を砲撃,政府軍死109,傷245。解放勢力1万3千人が同市周辺に集結,同市中心部から5キロで戦闘。

9月 米議会、7億ドルのみの南ベトナム軍事援助を承認。南ベトナム軍は維持が困難となり、脱走者が相次ぐ。

74年10月

10.02 北ベトナム軍の大部隊が非武装地帯を越え南下を開始。総数10万人とされる。コンツム市と海岸を結ぶ省道上の郡都Chuong Nghia付近の2陣地が陥落。

10.03 レ・クイ・チュン下院議員,グエン・リュー教授ら15人,チュー大統領の辞任を要求するコミュニケ。「チュウではダメだ」の声が高まる。

10.04 政府軍,ベンカット南西5キロの82陣地を奪回。同陣地はAn Dien村,Rach Bap陣地と共に5月16日陥落,An Dien村は6月4日奪回,Rach Bapはまだ占領されている。

10.04 内務省,「72年の戒厳令は依然有効であり,違反者は処罰される」と発表。

10.04 マウ民族和解勢力議長,チュー中将の辞職を要求する声明。共和党もチュー大統領,フォン副大統領の辞任をもとめる。

10.06 PMACサイゴン北10キロのジアディン省ソムマイ部落のタイビン教会,同省チホア地区のロイフン教会でそれぞれ1500人,2000人を集め,チュウ政権批判集会。 

10.07 北ベトナム外務省、パリ協定が調印されて以来,米とサイゴン政権は民間捕虜を5千人しか釈放していない。依然、数十万人の民間捕虜と約1万5千人の軍人捕虜がまだ拘留されていると訴える。

10.08 臨時革命政府、チュウ政権をもはや交渉相手としないと宣言。

10.10 ブラウン米統合参謀本部議長,「米軍機は3,4時間以内に北ベトナムの攻撃目標を爆撃できる。米空母は数時間以内にトンキン湾に直行できる」と言明。

10.11 ハノイとハイフォンの防空部隊が特別訓練,演習,戦闘準備を行なう。

10.13 PMACジアディン省ホクモンのタンミ教会で1200人を集めてチュー大統領弾劾集会。サイゴン市内では仏教徒を中心とする政治犯釈放委集会。

10.14 Dan Quyen(民権)グループの国会議員22人,新聞法,汚職,インフレに抗議してデモ。

10.14 統一戦線放送、「次の乾期にプノンペンに対し,さらに大規模な攻勢をかける」と予告。

10.15 政府代表Hiep准将言明「共産側は3万人の兵士と7万人の政府側民間人を捕虜にし,南下道路建設に使っている」

11.19 プノンペンで兵士700人が11月分の給料未払いに抗議してデモ。

10.20 カントで大統領の汚職容疑を追及するPMACの集会、1万人を結集。

10.20 サイゴン市内で反チュウ政権のデモ。参加者の一部が国会へ乱入。新聞22紙は弾圧強化に抗議して一斉休刊。

10.26 サイゴン南西140キロの国道4号線にかかる橋が爆破される。

10.30 チュー南べトナム大統領、3軍司令官を解任。情報相ら4閣僚を更迭。反政府派記者40人を逮捕、反政府有力者を自宅軟禁、反汚職デモを鎮圧。

10.31 サイゴンでカトリック系の反政府勢力が警官隊と衝突。タンサチャウ教会にカトリック教徒1200人がたてこもり、チュー大統領の辞任を要求。ベトナム・ジャーナリスト協会では記者ら40人が篭城。警官隊により排除される。

74年11月

11.01 アンクァン寺青年部、「カトリック急進派とチュー大統領辞任要求運動で共闘する」と声明。ミン将軍は「国民に根ざした指導者と政治勢力,軍隊」の創設を呼びかける。

11.06 ホァン・バン・タイ副参謀長が、6年ぶりに公式行事に姿をみせる。

11.07 南ベトナム政府、すべての集会、デモなど反政府運動の規制措置を発表。

11.19 カリー元中尉、刑期を短縮し自宅監禁刑を終了する。

11.20 政府軍,サイゴン北36キロのRach Bap陣地を奪回。

11.29 解放勢力,プレーク南西30キロを攻撃。

11.30 革命政府のJMC代表,「デルタでのサイゴン軍のコメ収奪作戦に対して、適切な懲罰を加えるよう指示した」と発表。

11.30 解放勢力,中部高原補給用のCu Hanh飛行場を砲撃。

11月 プーマ首相が帰国し、政務に復帰する。

11月末 第29回国連総会、カンボディア代表権をめぐり討論。ASEANの和平推進決議案が採決される。民族連合側は非妥協的態度を崩さず。

74年12月

12.01 解放勢力,第2軍区司令部から南西20キロのThanh Anを攻撃。

12.03 キッシンジャー米国務長官、上院財政委の公聴会で証言。北ベトナムヘの援助の全面停止を明らかにする。

12.04 バスエン省Tieu Can郡西北西5キロで地方軍トラック部隊,襲撃さる,死15,傷45。

12.04 ハノイ-ビエンチャン間の航空路が開設される。グエン・ツォン・ラン運輸次官がロイヤル・エアラオ機で,初めてラオスを公式に訪問。

12.05 サイゴン南西11キロの郡都ビンチャン近くの民兵詰所が攻撃さる。

12.05 ザップ副首相兼国防相、軍部首脳および幹部とともに,南部の英雄兵士代表団と会見。

12.06 チュオンチェン省Hong Long郡都,陥落。政府軍空挺部隊が奪回,政府軍死19,傷37。

12.06 サイゴン北西19キロ,ジアディン省のQuang Trung軍事訓練センターにロケット砲8発。

12.07 解放勢力,タイニン北東24キロのSuoi Da陣地に向かう省道上を攻撃,数日間続く。

12.10 サイゴン北東64キロのLong Giao陣地,陥落。

12.10 米空母エンタープライズがダナン沖に停泊。

12.10 革命政府,ソ連と75年度経済援助協定調印。

12.12 政府軍大型ヘリがキエンツォン省で政府軍増援部隊を輸送中,省都モクホア南方15キロで撃墜さる。

12.13 解放戦線中央幹部会が拡大会議を開催。@政治・軍事・外交の闘争促進 Aチュー打倒,パリ協定を守る政権の樹立 B解放区建設の3点を当面の任務とする決定。

12.13 北ベトナム、パリ条約を事実上破棄。サイゴン北方100キロのフォクロン省への攻撃を開始、年末までに全省を掌握する。

12.14 フォクロン省郡都Duc Phong(守備兵1000人)陥落。同町は72年夏季攻勢以後,サイゴンへの陸路を断たれていた。翌日にはDuc Dhong南西30キロのBu Na民兵基地も陥落。

12.15 Chung Tan Cangサイゴン特別区司令官,警戒令発令。

12.16 解放勢力,サイゴン北西32キロのクチを砲撃,130発。

12.16 プノンペン西130キロの国道4号上Kg.Seila政府軍陣地に900発の砲撃。またバタンバン市南西25キロのコクラロール政府軍陣地にも1000発の砲撃。

12.17 ウーミン森に近いチュオンチェン省の郡都Hung Long町が陥落。

12.17 ダナンで政府の米貯蔵所,爆破さる。1000トンの米が灰に。

12.18 労働党政治局会議が開かれる。主流は75年度に中部高原を制圧し、76年に全土攻撃を展開する案を提起。これに対し南部中央局は75年当初より全土で積極的な攻勢を展開することを主張。

12.18 ベトナム労働党政治局会議、「75年に各地で大規模な攻撃に出て、総攻撃の条件を作り、76年に一斉決起し全土を解放する」方針を決定ただし、「もし75年内に好機が到来するなら、ただちに全土を解放する戦いに移る」とする。

12.22 サイゴン北110キロのフォクロン省郡都Bo Duc(民兵守備),占領さる。

12.24 タイ政府はベトナム政府へ,無条件で関係正常化交渉開始を提案。

12.24 バンフェイサイの2個中隊,反乱。

12.25 サイゴン北東112キロのビントイ省の郡都Tanh Linh,24日から3000発の砲撃と地上攻撃を受け陥落。

12.26 サイゴン北80キロのフォクロン省の郡都Don Luan,陥落。これで過去1週間に政府軍が放棄した郡都は5つに。

12.26 ビエンホア空軍基地にロケット砲弾20発。

12.26 北ベトナム軍第7師団、ドンホイを占拠する。年末までに解放勢力は南ベトナム236の県都のうち11を制圧。(日本で言えば省が県であり、県都は郡都にあたる)

12.30 乾期入りとともに,民族連合勢力は再び軍事的圧力を強める。プノンペン南方9キロの地点まで進出。大統領官邸への砲撃を開始。陸路を切断した後、ポチェントン空港およびメコン河の輸送船団に激しい攻撃を続ける。

12月下旬 第4期第5回国会。レタン・ギ副首相が経済報告。「北ベトナム人民が国民経済の発展を積極的に準備するのに有利な条件を提供した」としつつ、「国民経済の増大する要求と較べるならばまだ低く,多くの種類の物資,商品もまだ需要を満していない」と指摘する。

12月 ラオス政治協議会、18項目からなる政治綱領を作成。プーマ首相とスパヌウオン殿下の署名により正式に採択される。

74年 この年の南ベトナム政府軍の死者は、これまで最大の3万名を越える。

 

1975年

75年1月

1.01 北ベトナム軍第7師団、サイゴンの北方136Km、カンボジア国境のフォクロン省の省都フォクビン(一説にドンソアイ)への攻撃を開始。アメリカの対応をみる瀬踏み攻撃だったとされる。

1.01 民族連合王国政府(GRUNK)、プノンペン総攻撃を開始。共和国政府側はメコン河の補給路を遮断され,米国の大規模な空輸作戦に依存することとなる。

1.01 バンフェイサイのパテトラオ軍,24キロ後方の停戦ラインまで後退。

1.03 解放勢力は政府のフォクロン停戦提案を拒否。「情勢悪化は米国およびチュー政権の戦争政策の責任」と糾弾する。米政府は和平協定違反を言葉で非難するだけで、軍事行動には踏み出さず。議会は援助の削減をさらに続ける。

1.03 政府軍第7師団司令部の置かれたプノンペン北西25キロのプノンバセットが陥落。

1.03 解放勢力,プノンペン中央市場に107ミリ砲弾3発を撃ち込む。

1.06 フォクビンが解放勢力の猛攻で陥落。パリ和平協定が成立して以来、省都が軍事攻撃で占拠されるのは初めて。北ベトナム側は攻撃をさらに広げ、フォクロン省全体を制圧。

1.06 サイゴン市西南端フーラムの政府軍レーダー基地に12発のロケット砲撃。

1.06 ポチェントン空港が砲撃される。北西から中国製107ミリ・ロケット43発が打ち込まれるが被害なし。

1.08 べトナム労働党政治局会議、フォクロンの勝利を受けて南部の武装解放路線を決定。当初の二年計画をより積極的に改定し、「春からほぼ二年をかけ総攻撃を断行し、76年中に南全土を解放する」という計画を策定。米軍はなにがあっても絶対にもどってこないと判断を前提にしていたとされる。レ・ズアン書記長は「各地で敵に壊滅的な打撃を与えなければならない」と強調。

1.08 ビエンホア北西6キロのバキエン橋が爆破される。ビンロン省郡都ブンリエン南西7キロのヒューフン橋も爆破される。

1.09 「反汚職運動」が意見書を発表。「フオクロン省陥落は,汚職をはびこらせ軍の士気を低下させたチュー大統領の責任」と非難する。

1.10 チュー大統領がテレビ演説。「フォクロン省占領は,北ベトナムが交渉を放棄し大攻勢に出てきたことの証拠」と述べる。公務員など2万人がフォクビン占領に抗議してデモ。

1.11 David Jones米空軍参謀長がサイゴン訪問。チュー大統領,ビエン参謀総長と会談。

1.13 政府軍機,58波でコンツム北西の解放勢力輸送部隊を爆撃。

1.14 シュレジンジャー国防長官、下院で証言。北ベトナムがパリ条約を犯したとしても、米国は「厳しい報復行動」によってチュウ政権を支えることはしないと述べる。

1.19 サイゴン市長,「平和のための革命人民戦線」の結成集会を禁止。

1.21 フォード大統領、記者会見で「米国はふたたび戦争に入るつもりはない」と述べる。

1.21 南ベトナム政府軍機,カンボジア国境を越え,メコン河沿いの解放勢力を爆撃。プノンペンへの輸送船団出発を助けるためとされる。

1.21 統参本部,退役予定兵の退役を延期。

1.23 政府軍,タイニン近郊のバーデン山の奪回作戦。

1.23 ポチェントン空港,閉鎖。

1.24 米大使館内で10人の米国人が「米国は南への軍事援助をやめよ」と抗議。

1.26 アンクアン寺で平和祈とう集会,ミン将軍,チ・クアン師ら出席。「チュー大統領辞任要求決議」採択。

1.26 パリで第3勢力の会合。米の軍事介入停止,チュー辞任,革命政府と協力できる政府樹立を要求。

1.27 キュー・サムファン副首相,「全土攻勢を開始して1ヵ月が過ぎた。まもなくロン・ノルらの最後の巣くつが攻撃されるだろう。外交官・外国機関は,その家族を外国へ避難させてほしい」と声明。

1.28 フォード大統領,議会に特別教書。南ベトナムへの3億ドル,カンボジアへの2.2億ドルの追加軍事援助を要請する。

1.30 政府,ホアハオ教私兵団の解散を命令。 キエンツオン,ビンロン両省で政府軍とホアハオ教私兵団が衝突。ホアハオ教本部は「信教の自由を踏みにじった」と抗議する。

1.30 メコン川輸送船団,プノンペン到着。

75年2月

2.03 国家警察,新聞編集者,記者ら19人を共産主義者であるとして逮捕。5紙を発行停止処分にする。

2.04 フォンディン省フンヒエプ北西2キロの国道4号上の橋,爆破さる。

2.05 北ベトナム軍、中部高原に攻撃を集中する作戦を決定。5個師団を展開する。バン・チエン・ズン人民軍参謀総長、ひそかに南ベトナムに入る。ベンハイ川を越えて、チョンソン山脈東部に新設された戦略道路を南下。中部高原タイグエン地区に司令部を構える。

2.05 ミン将軍,「専制政治が終わり,自由と民主主義が認められ,和解に必要な政治構造が造られなければ,すべてが崩壊する」と強調。チ・クアン師,タン神父らも同席。

2.05 ロン・ノル大統領布告,「市民は市街戦に備えなければならない。全市民は反乱軍に向って立ち上がれ。兵士は最前戦を守り,市民は銃後を固めよ。各地区を防衛するためざんごうを掘り,軍との連絡を密にせよ」

2.05 プノンペン南東35キロのプレクユンで、メコン川輸送作戦に当たっていた政府軍2個大隊壊滅,首都に撤退。

2.06 シュレジンジャー国防長官、「北ベトナムが武力による制圧策を放棄するまで,我々は援助を続ける」と言明。

2.06 プノンペン北30キロの国道1号沿いで,政府軍2個大隊が全滅する。

2.15 従来のC130輸送機5機による輸送にくわえ、民間航空の大型ジェット貨物機がタイからプノンペンへ物資の緊急輸送開始。

2.15 パテトラオ,シェンクアン省で特殊部隊の米製ヘリ1機を撃墜。

2.17 政府軍2個大隊,ネアクルン南20キロのメコン川要衝ペアムライン島から撤退。

2.19 プノンペン北西24キロの政府軍第7師団司令部,連絡を断つ。

2.20 政府軍、艦艇でプノンペン南東83キロのメコン河沿岸に上陸を試みるが、艦船3隻を撃沈され撃退さる。

2.20 バタンバンからタイに向かう列車,爆破さる。死40,傷50。

2.21 バタンバンで物価高騰に抗議して高校生ら3千人がデモ。暴動に発展し、中国人経営の商店,ホテルが襲われる。

2.25 ズン司令官、中部高原南部タイグエンの前線司令部で、ダクラク省都バンメトート(15万人)への奇襲作戦を立案。バンメトート攻撃に先立ち、プレイク周辺に大部隊集結を偽装する陽動作戦をとる。

プレイクは南軍の第二軍管区司令部が置かれており、北ベトナム軍は当然、プレイクに攻撃をかけるだろうと見られていた。南ベトナム軍は中部高原の第二軍管区で二個師団の兵力を有していたが、バンメトートを守備する主力の第二十三師団がプレイクに転進し、バンメトートには一個連隊強の兵力のみが残留。

2.25 フォード米大統領、緊急に軍事援助をしなければカンボジアは間もなく崩壊すると警告。サイゴンの米大使館はプノンペンヘの緊急輸送作戦を実施。

2.25 キッシンジャー長官,「緊急援助が数週間内に成立しないと,カンボジア政府は降伏を余儀なくされるだろう」と言明。

2.25 州都ウドン陥落。

2.25 プノンペン市内に20発、ポチェントン空港にも13発の107ミリ・ロケット弾が撃ち込まれる。北部戦線では解放軍がプノンペンから12キロのプレクプヌーに迫る。

2.26 ビンビン省で尼僧やカンボジア系の住民ら1千人以上が,寺院の不当捜査に抗議してデモ。警官隊との衝突で尼僧1人が死亡。

2.27 プノンペン西10キロのツオルレアプ,および同北8キロのプレクルオンの二つの政府軍陣地が陥落。

2.27 米国防総省,プノンペンに対する1日15便の空輸を42便に増強すると発表。

2月 プーマが療養を終え首相に復帰。パテート・ラーオとワンパオ軍の間で戦闘が勃発。

2月 メコン河の輸送船団、ポチェントン空港への攻撃が連日続く。これにより共和国軍の補給路は事実上遮断される。

75年3月

3.01 北ベトナム軍第968師団、プレーク=アンケ間で小規模な攻撃。19号線上の監視所2ヶ所を攻撃。バンメトート攻撃を控えた陽動作戦といわれる。南はトゥアンマンの第45連隊を北方に移動。

3.02 米議員団,タンソンニャトで4者合同軍事チームの北ベトナム・革命政府代表と意見交換。北側は交渉途絶の責任は米側にあると主張。

3.05 米海兵隊1500人を乗せた米ヘリ空母「オキナワ」がシャム湾に出動。

3.04 第5軍区の第3師団、アンケの東西で19号線を切断。いっぽう主力の320師団はトゥアンマン周辺に潜入、第10師団はバンメトート南西のドックラップとダクソン付近に潜入し、攻撃に備える。

3.04 南ベトナム軍はバンメトートの主力部隊だった第23師団をプレイクに転進させる。この結果、バンメトートには一個連隊強の兵力を残すのみとなる。

3.06 フォード大統領、インドシナにふたたび介入することはないと声明。マーティン大使、七億ドルの対南ベトナム緊急援助を議会に訴える。

3.07 政府軍司令部,解放側が第2軍区で新たな攻勢に出たと発表する。

3.08 北ベトナム軍320師団、民兵200人が守るバンメトート北方のフボン省郡都トゥアンマンを占領。プレークとバンメトートを結ぶ国道14号線を切断。プレークから南下する南軍の迎撃に備える。

3.09 北ベトナム軍第10師団、バンメトート西方のクアンドク省郡都ドクラップを占領。周辺のダクサク,ヌイルア,ダクソンの3基地も制圧しバンメトートを包囲する。

3月10日 バンメトート急襲作戦

午前2時 北ベトナム軍三個師団2万5千人、南ベトナム軍第23師団の4千人が守る省都バンメトートに砲撃を開始する。

午前4時 北ベトナム軍第10師団、第316師団がバンメトート市内に突入。市内の一角を占拠し飛行場,弾薬庫へ砲撃。続いて北ベトナム軍の戦車が市内に入る。市内では政府軍装甲車が抵抗を続ける。

午前8時 師団司令部へ30分間の砲撃。その後歩兵部隊が切り込み。 

午前9時15分 バンメトートに隣接するホアビンの司令部が解放軍により制圧される。

午前10時30分 政府軍第23師団、司令部を廃棄し脱出。

午後3時 市内での政府軍の抵抗が終わる。北部最大の激戦地だったバンメトートが陥落。飛行場などでの政府軍の抵抗はさらに続く。

北ベトナム軍は陽動作戦で敵主力をコンツム・プレイク方面に惹きつけ、連絡路を遮断し、バンメトートを孤立させた。その後周辺施設を無視して市内の敵中枢部を不意打ちにより占拠した。しかる後に「内側から」攻撃を拡大し周囲の陣地を殲滅した。(バン・ティエン・ズン参謀総長)

3.10 南ベトナム政府外務省が特別声明。「バンメトート攻撃は,停戦協定の新たな重大違反」と非難する。

3.10 解放勢力,クアンチン省のTien Phuoc町南の郡都Hau Ducを占拠。協定後陥落した13番目の郡都となる。

3.11午前 バンメトート周辺で政府軍幹部が次々捉えられる。救援に向かった第21連合大隊も救出を断念。解放軍は戦闘終了を宣言。

3.11 解放勢力,ビンズオン省郡都Tri Tamを攻撃。翌日には陥落。最もサイゴンに近い郡都となる。

3.11 フェルナンデス中将,参謀総長兼総司令官を辞任。プノンペンを離れる。新参謀総長にサクスト・サカン中将就任。総司令官のポストは廃止。

3.12 政府軍,ヘリ空輸でバンメトートに増援歩兵部隊を投入し反撃。レンジャー部隊1個連隊もバンメトート増援に向かう。

3.12 閣議,総動員令を改正。徴兵対象者を拡大する。

3.13 バンメトート北東40キロの郡都ブオンホ陥落。

3.13 ウェストモーランド将軍,フォード大統領と会見。B52による補給路爆撃とハイフォン機雷封鎖を主張。

3.13 シュレジンジャー国防長官、「今年の乾季攻勢で決定的な敗北を喫することはない。76年が決戦の年となるだろう」と言明。

3.13 ポチェントン空港の弾薬貯蔵所にロケット弾が命中。アメリカは安全が確保されるまで空輸を中断。

3.14 政府軍、プレーク放棄を指示。これを受けたプレークの政府軍部隊はパニックに陥る。

3.14 タイニン省南部のBen Cau陣地,Bien Gioi陣地が陥落。

3.15 プレークの第2軍管区司令部は一部をニャチャンに移動,新たな戦術作戦司令部を設定。プレーク東4キロの中部高原最大のチュハン空軍基地からは大半の空軍機が海岸に移動する。

3.15 北ベトナム軍、南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始。総数は30万人といわれる。第一軍は北ベトナム正規軍よりなり、フエ―ダナン―タムキイと海岸沿いを南下。第二軍は北ベトナム軍と解放戦線の混成部隊で、中部高原の南政府軍の拠点を攻撃。最三軍は解放戦線を主力とし、南部デルタ地帯から首都サイゴンへの攻撃を集中する。

3.15 プノンペン政府軍,ツオルレアプを奪回。解放勢力は,3日後にツオルレアプを再占拠。

3.16 チュー南ベトナム大統領、アメリカの援助の削減で兵器や弾薬の補充にも支障が出てきたため、もはや中部高原では戦えないと判断。中部高原と北部2省の放棄を決定。サイゴンに兵力を結集させるよう各地に指令。首都防衛を試みる。

3.17 ロンカン省郡都ディンクアンが陥落。ディンクアンはサイゴン北東80キロ、スアンロク北北東30キロ、国道20号線上に位置する。

3.17 大量の難民により道路は渋滞し、軍の南への移動は不可能となる。政府軍兵士は列を乱し、武器を遺棄し、地崩れ的敗走を始める。潰走の中で6万人が死亡または行方不明(戦線離脱)となる。

3.17 米上院外交委,カンボジアへの8250万ドルの軍事援助追加を認める。

3.18 北ベトナム軍第320師団がフボンを制圧。第968師団はプレイク、コンツムを占領する。国道7号線は解放戦線ゲリラにより寸断され、プレイクから撤退する政府軍は立ち往生。脱走者が続出する。

3.18 北ベトナム軍、攻勢を強め、5月1日までに全面解放を勝ちとることを決定。北ベトナム政府は予備役を動員し、行政や生産の現場を三割削減し、すべて南での戦争へと注ぎこむ。

3.18 政府,プレーク・コンツム・ダルラク3省からの全面撤退を決定。

3.18 アンクアン寺で動員令改正に反対して集会。

3.18 バンメトートでダルラク省人民革命委とバンメトート市軍事行政委が発足。

3.18 ズン将軍、撤退する南軍へのフルスピードでの追撃を全軍に命令。第二軍団の全8個師団10万人が、非武装地帯を越えクアンチへ突入。さらに続いて人民軍20個師団が南ベトナム領内へ展開する。

3.19 北ベトナム軍第二軍団はフエの包囲戦に入る。市内にロケット砲撃。政府当局は住民に避難命令を下す。

3.19 政府軍,ビンロン省都アンロクから撤収。ビンロン省すべてが解放側の手に落ちる。

3.19 サイゴン・ジアディン・ショロンの首都圏地域に特別警備令が発せられる。

3.20 クアンチが陥落。防衛にあたっていた海兵隊はユエに撤退する。政府軍はクアンチ省を放棄し,トアチエン省境のミチャンまで後退。

3.20 政府軍第1師団,ユエ放棄を決定。政府軍は舟艇でユエから撤退。数万の難民がダナンに向け脱出を始める。

3.20 チュー大統領,ラジオ演説でプレーク・コンツム両省放棄を確認。国土防衛のため国民の支持を要望。トアチエン省放棄の報道は否定する。

3.20 ビントイ省郡都ホアイドク陥落。

3.20 解放勢力,ビエンホア空軍基地に122ミリ・ロケット18発。

3.20 政府軍機,プレークおよび近郊の飛行場を爆撃。

3.20 タイニンに向かった政府軍トラック輸送部隊,国道1号線のクチ北西3キロで待ち伏せ攻撃を受け,17台爆破さる。

3.20 サイゴン市長,市民の自衛組織を再建するよう命令。

3.21 解放側,クチ近くの国道1号線沿いを砲撃。これによりタイニンとの陸上輸送がストップする。

3.21 クアンドク省の郡都チェンドクが陥落。

3.21 革命政府が声明を発表。「チュー政権を打倒し,サイゴンに平和・独立・民主・民族和解を希望する政権を成立させる。革命政府はこのような政権といつでも話し合う用意がある」と述べる。

3.22 サイゴン北東180キロのクアンドク省省都ジアギアが陥落。同省は解放側が完全制圧する。

3.22 プレーク省人民革命委発足。

3.23 ロンノル政権の参謀総長が交替。第3次ロン・ボレ内閣の成立。キューサンパンGRUNK副首相は全軍宛書簡でカンボディア全土の解放を強調。

3.24 クアンガイが陥落。政府軍はチュライへ向け撤退。

3.24 クアンチン省の省都タムキが陥落。

3.24 サイゴン北方60キロのタイニン省キエムハン町が陥落。

3.24 首都圏特別軍区司令官チャン・タン・カン海軍中将解任,後任にグェン・バン・ミン中将。

3.25 フエの残留部隊が北ベトナム軍機甲部隊の前に降伏。北ベトナム軍はほぼ無抵抗でフエを落とす。(一説では、翌26日に「ユエ残留政府軍2個大隊が激戦のすえ投降」とあるが、いわゆる「大本営発表」であろう。)

3.25 サイゴンのカオタン工業高校で,生徒1千人がチュー政権の徴兵強化,総動員令に反対して学内にろう城。

3.25 フォード大統領,ウエイアンド陸軍参謀総長急派を発表。帰国中のマーチン大使も同行。

3.25 GRUNKの閣議。米国による和平交渉の策動を拒否し,プノンペンを制圧する旨の決定。

3.26 ダナンは人口50万人に加え流入難民が35万人を数える。

3.26 北ベトナム軍、ダナン攻撃を指示。南ベトナム政府はダナン放棄を決定。

3.27 サイゴン市内に122ミリ・ロケット砲弾が撃ち込まれる。

3.27 ダナンの第1軍区司令部,軍・政府関係者の家族に避難命令。

3.27 タン神父,グエン・カオキら,救国行動委員会結成を発表。

3.28 ダナンへの砲撃が開始される。北ベトナム軍7個師団3万5千人が攻撃態勢に入る。

3.28 ダナンの政府軍第1軍区司令部,ダナン放棄を決定する。米総領事館も閉鎖される。

3.28 クアンナム省都ホイアンの政府軍,連絡が途絶する。

3.28 サイゴン北東150キロのラムドン省で省都バオロクが陥落。

3.28 ビンロン省Chon Thanhで激戦。チョンチャンはサイゴン北70キロで、サイゴンを防衛する第5師団司令部のあるライケから30キロ。

3.28 マーチン大使とウェイアンド参謀総長がサイゴン入り。チュー大統領に,南ベトナム支持を確約したフォード大統領からのメッセージを手交する。

3.29 ダナンの南ベトナム軍司令官が任務を放棄し逃亡。10万人にのぼる軍団が崩壊。多くは大量の兵器を放棄して逃走。北側は50機を超す航空機、100機のヘリコプター、数千トンにのぼる武器、1万トン近い燃料を入手。航空機の一部は国籍マークを塗りつぶして、南ベトナム軍を攻撃し始める。

3.29 米軍、軍事物資と医薬品の緊急空輸開始。

3.29 フォード大統領,ダナンの難民救出のため米海軍の水陸両用船舶4隻に出動を指示。艦船の総動員体制に入る。

3.30 解放側,ダナンを占領。

3.31 労働党政治局、4月中に南ベトナム完全解放を行う決定。これを受けた北ベトナム軍は、サイゴン陥落を目指す「ホーチミン作戦」を開始。この時点で解放勢力は14の省を制圧。800万人を「解放」する。

3.31 ビンディン省省都クイニョン陥落。

3.31 サイゴン北西70キロのチョンタンに砲撃が加えられる。

3.31 グエン・カオ・キ将軍,チュー大統領辞任要求。アンクアン寺派系青年・学生ら500人が徴兵強化に反対する集会。

3.31 連合政府,南ベトナム,カンボジア両国との外交関係の一時停止を決定。両国大使館の閉鎖を両国大使に通告。

3月 タン神父ら、「救国行動委員会」を結成。チュー政権の軍事面での失態や政治面での腐敗を非難。チュー政権にとってかわる反共、非共陣営を糾合した新政権の樹立を目指す。下野していたグエン・カオ・キ元副大統領もこれに同調。


カンボジア「解放」

4.01 ロン・ノル大統領が辞任。大統領代行としてソ・カム・コイ上院議長を指名。夫人,令嬢2人,ロン・ボレ首相らを同行しインドネシアに亡命。

4.01 連合政府閣僚会議、「統一戦線および連合政府が全カンボジア・全プノンペン市を統治する」と宣言。

4.01 ネアクルン陥落。

4.02 解放勢力,プノンペン北西8キロの政府軍防衛線の一部を突破。

4.05 日本大使館一時閉鎖。

4.08 ロン・ボレ首相、インドネシアからプノンペンに帰着。

4.08 解放勢力がブノンペンの包囲に入る。米海兵隊が出動し、米人救出にあたる。

4.10 カンボジア解放勢力、首都防衛線を突破。「クメール共和国」は終焉を迎える。

4.11 フォード大統領が外交演説。対カンボジア援助はすでに手遅れだとし、サイゴン政権への援助と限定軍事介入権限を議会に求める。議会はこれを拒否。

4.11 米海軍、プノンペンから大使館スタッフを立ち退かせるためイーグル・プル作戦を実施。米人引揚げに海兵隊出動。

4.11 ソ・カム・コイ大統領代行,チャウ・サウ民主党党首に組閣要請。

4.12  プノンペンの米大使館閉鎖。ソウ・カムコイ大統領臨時代理も同行してカンボディアを出国。

4.12 プノンペン議会,3ヵ月間の機能停止を決定。軍に全権委譲する。

4.12 サク・スト・サカン参謀総長を議長、ロン・ボレ首相を副議長とする7人構成の暫定最高委員会が設立される。

4.13 キュー・サムファン副首相,暫定最高委打倒を呼びかけ。

4.14 政府軍T28戦爆機,プノンペンの統合参謀本部を爆撃。

4.14 解放勢力部隊,プノンペン市内西部地区に進入。プノンペン空港を制圧。

4.15 プノンペン南方10キロの州都タクマウが制圧される。

4.16 暫定最高委,5項目からなる停戦・政権移譲提案を、国際赤十字を通じシアヌークへ伝達。シアヌークはこの提案を拒否し,最高委のメンバーに出国を勧告。

4.17早朝 クメールルージュが、プノンペン中心部に向つて進入。午前9時30分に大統領官邸を占拠しカンボジア解放を宣言。

4.17 クメールルージュの兵士が、プノンペンのすべての市民の家を訪れて、その日のうちに強制退去を迫る。市民はすべて農村部の強制集団キャンプへ送られ、ロンノル政権の役人と軍人はすべて射殺される。79年1月までに死亡した数はおよそ300万人にのぼるとされる。

4.18 ASEAN諸国、カンボジア王国民族連合政府を承認。

4.22 キュー・サムファン副首相がラジオ演説。解放闘争の完全勝利を宣言。

4.25 カンボジア特別国民会議開催。シアヌークを元首とする王国民族連合政府を正統政府として承認。新政権は鎖国政策をとり,農業増産,戦災復旧作業を主眼とした国内建設を進める。人口300万のプノンペンをはじめ、都市の住民に対し農作と精神革命のため,農村への強制退去を命じる。

 


75年4月01日

4.01 プレイク、アンケから海岸部に進出した解放勢力、クイニョンを陥落。2日にはトイホア、3日にはファンフェイ、カムラン、ニャチャンと次々に陥落。南ベトナム政府軍はサイゴンに向かい潰走を続ける。

4.01 フーエン省省都ツイホア陥落。カンホア省省都ニャチャン(第2軍管区司令部)陥落。

4.01 解放勢力,サイゴン北西56キロの国道1号上の郡都チャンバンを攻撃。

4.01 マウ上院議員,チュー大統領の辞任を要求,「チューがあと2週間その座にとどまれば,大変な事態になろう」と言明。

4.01 臨時革命政府、新解放地域に関する10項目の政策、幹部・職員に対する10項目の行動規範を発表する。

75年4月02日

4.02 南ベトナム上院、チュウ大統領の辞任要求決議案を可決。5年間続いたチャン・ティエン・キエム内閣が退陣。

4.02 ニントアン省省都ファンラン,ビントアン省省都ファンチエト陥落。カムラン陥落。ニャチャンからファンランに逃れた第2軍管区司令部は海上に撤収。

4.02 ビエン参謀総長、全軍に訓示。「われわれに残された道は戦闘の継続以外にない」と命令。

4.02 南ベトナム上下両院、新指導体制を求める決議を採択。

4.02 シュレジンジャー米国防長官、「サイゴンを死守出来るかどうかは月末までに決まる。空軍力行使の可能性は否定しない」と語る。

4.02 ネッセン米大統領報道官、「大統領は爆撃に反対の意向」と語る。

4.02 パリの革命政府代表,記者会見「米国にパリ協定を順守させるためにも当面戦闘以外の道はない」「サイゴンに新政権が出来れば直ちに交渉に入る」

75年4月03日

4.03 政府軍,ファンランを奪回。解放勢力を押し返す。

4.03 スアンロクで戦闘始まる。

スアンロク(Xuan Loc): サイゴン東北東約60キロ、ロンカン省の省都で。国道一号線と中部高原に向かう国道二〇号線との分岐点で、人口は十万。南ベトナム第18師団が防衛にあたっていた。

4.03 サイゴン特別軍管区司令官,デモ禁止等の布告。チャン・フー・タン神父らカトリック500人,タンサチャウ教会でチュー大統領退陣を要求して集会・デモ行進。グエン・バン・ビン大司教はチュー大統領の退陣をもとめる声明。

4.03 フォード米大統領、「法律はインドシナ軍事介入を制限しており、これに従う」と言明。

4.03 米海軍輸送司令部のチャーター船5隻が,3万9千人の難民を収容してカムラン湾から南方へ向かう。

75年4月04日

4.04 米海軍輸送船5隻がファンラン市から難民の引揚げ開始。

4.04 戦災孤児の輸送にあたった輸送機がサイゴン北方で墜落。180人が死亡する。

4.04 解放勢力,2週間の激戦の末、サイゴン北70キロのチョンタン制圧。チョンタンはサイゴンサイゴン防衛の最前線と位置づけられていた。

4.04 メコンデルタの中心カントにロケット砲撃。

4.04 内務省クーデター容疑で軍人を含む多数の反政府分子を逮捕したと発表。

4.04 パリの革命政府代表部、非人道的な強制疎開作戦を直ちに中止するようもとめる。

4.04 キエム首相が辞任。グエン・バ・カン下院議長が組閣に入る。

4.04 チュウ大統領、兵力を再結集し残った地域を守り抜く」

75年4月05日

4.05 人民革命委員会のサイゴン・ジアディン地区委がアピールを発表。「住民各層は力を合わせチュー政権を打倒しょう」と呼びかける。

4.05 フォード大統領,キッシンジャー長官およびウェイアンド参謀総長と協議に入る。

4.06 政府軍,ニャチャンを奪還。

4.07 サイゴン北方70キロのビンロン省郡都チョンタン陥落。

4.07 解放勢力,サイゴン南方8キロのジアディン省郡都ニャベを砲撃。

4.08 第3軍管区副司令官グエン・バン・ヒュー准将,ビエンホアの司令部で砲撃を受け爆死。

4.08 南ベトナム空軍機F5Eが大統領官邸を爆撃。操縦したのは南ベトナム空軍中尉グエン・タン・チュン、解放戦線の秘密連絡員だった。飛行機はその後解放区のフォックロン空港に着陸。

75年4月09日

4.09 スアンロクで正規軍同士の正面戦が始まる。北ベトナム軍第4軍団(第6、第7、第341の三師団)と政府軍第三軍団(第18師団、第3騎兵師団など)が激突。2週間にわたる激しい戦闘を展開。南軍はサイゴン北方にいた第5師団の一部や精鋭のレンジャー、空挺の一部をヘリで投入、事実上最後の決戦となる。

4.09 サイゴン北部のホクビン市が陥落。

4.09 解放勢力,ロンカン省省都スアンロクに2千発の砲撃を加えたあと,市内に突入。

4.09 解放勢力,サイゴン南西30キロのロンアン省省都タンアン周辺を攻撃,国道4号線が一時切断される。

75年4月10日

4.10 解放勢力,戦車を先頭にスアンロク市内に突入。政府軍第18師団が応戦。政府軍は虎の子の第一空挺旅団を投入し押し返す。

4.10 フォード大統領,上下両院合同会議で外交演説,南ベトナムに対する緊急軍事援助として7億2千万ドル,経済・人道援助として2億5千万ドルを要請する。

4.11 米政府、北ベトナムに対して,軍事攻撃をやめるよう通告。

4.11 フォード大統領が外交演説。対カンボジア援助はすでに手遅れだとし、サイゴン政権への援助と限定軍事介入権限を議会に求める。議会はこれを拒否。

4.13 北ベトナム軍、スアンロク攻略を断念。南ベトナム軍第18師団長のレ・ミン・ダオ将軍は南の英雄と評価される。バン・チエン・ズン参謀総長は、「第四軍団は敵の抵抗の頑強さを的確に評価していなかった」と総括する。

4.13 その後、北ベトナム軍は新たなスアンロク攻略計画を立て、空爆の出撃基地となっているビエンホア空港への牽制作戦を強化。同時にスアンロクにつながる1号線、20号線の村落を各個撃破し、ビエンホアとの連絡を遮断する。

75年4月14日

4.14 グェン・バ・カン下院議長を首班とする新内閣が成立する。

4.14 政府軍,北部からの敗残兵で再編した第22歩兵師団をロンアン省に急派。

4.14 タイニンの町に105ミリ砲弾30発が撃ち込まれる。

4.14 ディシツォン省郡都カイライ,前日に続き82ミリ迫撃砲49発を撃ち込まれる。

4.14 グエン・バ・カン新内閣発足。

4.14 パテトラオ部隊,サラプクン付近で、ビエンチャン側部隊の陣地数ヵ所を奪取。サラプクンはビエンチャン北約144キロ、国道13号線と7号線の交差する地点。いったん攻撃を停止した後、17日にサラプクン攻撃を再開。

75年4月15日

4.15 南ベトナム政府、国外渡航の全面禁止令を出す。

4.15 ビエンホア弾薬庫が砲撃を受け炎上。

4.15 スアンロクに1千発の砲弾が打ち込まれる。

75年4月16日

4.16 海岸部を進んできた第二軍団が、ファンラン省都ファンランと空軍基地を占領。政府軍司令官は捕虜となる。18番目の省都陥落。その後さらにファンチェトにむけ南進。

4.16 日本大使館,在留日本人に即時退去勧告。

75年4月18日

4.18 ビントアン省省都ファンチェト陥落。政府軍は海路撤退。

4.18 チャン・バン・ドン国防相、「国家は全く危機敵状況にある.その存続は後何ヶ月かではなく、もはや日、週の問題となっている」と語る。

4.18 米政府、サイゴンのアメリカ人に避難命令を下す。避難作戦指揮のため空母4隻をふくむ艦艇35席と航空機150機が動員される。

4.18 解放勢力,サイゴン南西20〜30キロ(ロンアン省)の政府軍拠点8ヵ所を占拠。

4.18 革命政府、救援船のダナン入港を許可。

4.19 ビエンホア空軍基地周辺に21発の砲撃。

75年4月20日

4.20早朝 北ベトナム軍第二軍団の先陣が、スアンロク東方のラーの森に到達。第4軍団に合流する。

4.20午前 第二軍団の三個師団を加え、合計七個師団の大兵力でスアンロクへの攻撃を再開。スアンロクに猛砲撃を加える。

4.19午後 スアンロクの第18師団、南方への後退を開始。政府軍は,スアンロクから退却する際に窒息爆弾を使用したといわれる。

4.20 グラハム・マーチン大使がチュウ大統領と会見し辞任を迫る。

4.20 米政府、「命知らず作戦」を発動。C130、C141など空軍輸送機を動員し避難作業を始める。アメリカの政府機関や企業に勤めるベトナム人も対象となる。カイライ軍兵士はアメリカ人が先を争って逃亡する光景を見て絶望したという。

4.20 ビントイ省省都ハムタンが陥落する。ハムタンはサイゴン東方120キロのビンツイ省省都。

4.20 解放戦線のグエン・フー・ト議長,ユエ市訪問。

4.20 ビエンチャン軍,サラプクン付近の二つの陣地を放棄。サラプクンで引きつづき戦闘。

75年4月21日

4.21未明 スアンロク守備の政府軍第18師団が連絡を断つ。残兵は残された2号線を通ってバーリア方面に逃亡。途中追撃を受けほとんどの装備を放棄する。北ベトナム軍は5千の死者を出す激戦の末、スアンロクを占領。

4.21 ビエンホア空軍基地に砲撃30発。

4.21 グエン・バン・チュー大統領、テレビ演説で辞任の意を表明。米国を「約束を守らなかった」と非難。これとともに、14日発足したばかりのカン内閣も総辞職。

グエン・バン・チュウ演説のさわり: 共産主義者と協定を結んでの共存など絶対にいやだというと、アメリカは援助を打ち切ると脅してきた。ニクソン大統領は調印さえすれば必要な援助を保証し、もし共産軍が大挙、攻めてくれば、米軍が必ず再介入するとはっきり誓った。アメリカ議会がチュー政権には援助を与えないというのなら、自分はいさぎよく退きたい。

4.21 チュウの後任に、カトリック系無党派市民のチャン・バン・フォン副大統領が就任。

75年4月22日

4.22 レ・ドク・ト政治局員を最高幹部とする前線指揮部がホーチミン作戦の正式計画を最終的に確認。

4.22 ブンタウ特別市とフオクツイ省が陥落。

4.22 朝,サイゴン南20キロの国道4号上ロンアン省郡都ベンルク陥落。

4.22 ビエンホア空軍基地、相次ぐ砲撃のなか閉鎖される。

4.22 ビエンチャン政府と,愛国戦線部隊が、サラプクンでの戦闘を停止。ビエンチャン軍はサラプクンを放棄。

75年4月23日

4.23 10万の北ベトナム軍兵士がサイゴンに向け進軍を開始。部隊は6つに再編される。第4軍団がスアンロクからチャンポムに迫る。第二軍団は東南に周りドンナイ河畔に向かう。第1軍団と第3軍団は北西部と南西部を確保する。

4.23 フォン大統領、即時停戦を提案。南ベトナム外務省は「停戦呼びかけに関する覚書」をパリ国隣会議参加国に送付。臨時革命政府はフオン政権を「チューなきチュー政権」と断じ、一切の交渉を拒否する。

4.23 フォード大統領、ニューオリンズで講演。「米国にとって戦争は終わった。もはやベトナム人を助けることはできない。彼らはどのような運命にも対処していかなければならない」と言明。

4.23 米国、サイゴン沖に艦船43隻を配備、米国人と南ベトナム人の避難空輸を開始。

75年4月24日

4.24 フオン大統領,ミン将軍に組閣を要請。ミン将軍はフオン大統領に辞任要請。

4.24 革命政府,チュー協力者を含まぬ政権の樹立を要求。

4.24 北ベトナム軍の制圧したダナン港が,船舶の受け入れを再開。

4.24 日本大使館,在留邦人約170人全員に最終退去勧告。

4.24 連合政府,南ベトナム臨時革命政府承認を決定。

75年4月25日

4.25 北ベトナム側、サイゴン攻略の総司令部をサイゴン北百キロほどのロクニンの樹林地帯におく。司令部にはレ・ドク・ト政治局員、ファム・フン南部委員会書記も詰める。

4.25 サイゴン北方の防衛線が解放軍3個師団によって突破される。

4.25 マーチン大使は、アメリカ人のサイゴンからの退去を決断。民間人の収容のため”フリクエント・ウィンド“作戦が開始される。第7艦隊の航空母艦など43隻がサイゴン沖に集結。ヘリによる避難空輸を開始。米国人1400人、ベトナム人6千人が海兵隊のヘリで脱出。

4.25 グエンカオキがカトリック教徒の集会で演説。 「国民が一致団結すればまだ生きる道はある。死ぬまで戦うという決意をみせねばならない」と訴える。

4.25夜 チュー大統領とチャン・チエン・キエム元首相ら、ひそかに台湾へと脱出。35万ドル(16トン)の金塊を持ち逃げしたという。

75年4月26日

4.26午後5時 東部戦線で解放軍がホーチミン作戦開始。正規軍18個師団を動員。市内突入は29日早朝とされ、戦闘期間を最小限にするため一挙に敵の心臓部を突く作戦を取る。攻撃目標は大統領官邸、参謀本部、首都特別軍区司令部、国家警察本部、タンソンニュット空軍基地の五カ所にしぼられる。

4.26 ベトナム航空やパンアメリカン航空、シンガポール航空など民間航空会社、タンソンニャットへの運行を全面的に停止。

4.26 フオン大統領,議会に対し,ミン将軍に全権を委譲するよう提案。上下両院合同会談は,自らに代わる人物を選任する権限を与える。

4.26 チュー前大統領とキエム前首相,台北着。この日サイゴンの銀行からは6千万ドルが引き出されたという。

75年4月27日

4.27 上下両院合同議会,フオン大統領の辞任とミン将軍の大統領就任を承認。

4.27 北ベトナム軍、サイゴン包囲を完了。市内への砲撃を開始する。122ミリロケット砲がマジェスティック・ホテルに命中。最上階が吹き飛ばされる。もう一発は国家警察本部近くの住宅密集地に落ち二十数人の死傷者を出す。市内の南ベトナム軍兵士3万人は統制を失い略奪に走る。

75年4月28日

4.28 ズン、最終攻撃に備え、総司令部を出て、さらにサイゴンに近いベンカトの前線司令部へと進む。ここは南ベトナム軍レンジャー部隊基地跡だった。

4.28 南ベトナム海兵隊、サイゴン北方で北ベトナム正規軍と戦闘。このあと組織的な戦闘は終結。

4.28 和平交渉に失敗したチャン・バン・フォン大統領が辞任。後任にはズオン・バン・ミン将軍が就任。仏教徒のブー・バン・マウ上院議員、カトリック系のグエン・バン・フエン前上院議長、弁護士のチャン・バン・チュエン下院議員が入閣。

4.28 ズオン・バンミンが就任演説。「民族和解の精神に基づく停戦を実現し、パリ協定の枠内で紛争の政治解決をはかる」とする。

4.28午後3時 大統領宮殿を爆撃したグエン・タイン・チェンの率いるA37攻撃機5機がタンソンニュット空港を爆撃。逃亡を図る人々はヘリに群がりしがみつく。

4.28 タンソニェット空港、130ミリ砲の集中砲撃により軍用機や空軍の施設が次々に破壊され、空港が使用不能となる。基地は市民の略奪の対象となる。

4.28 ミン将軍が大統領に就任。グエン・バン・フエン自由党党首を副大統領に,ブ・バン・マウ議員を首相に任命。ミン大統領は就任演説で即時停戦を提案。

4.28 カオ・バン・ビエン総参謀長が辞任。

4.28 解放勢力,サイゴン中心部から2キロのニューポート橋を攻撃。サイゴン市内砲撃さる。

4.28 夕方,解放勢力の戦闘機数機が、サイゴン市内中心部を銃爆撃。

75年4月29日

4.29 米大統領,残留米人のベトナムからの撤収を命令。北ベトナム軍はアメリカ政府の要請を受け、アメリカ軍人および民間人が撤退するまで市内突入を保留。

4.29 ズオン・バン・ミン、米国武官事務所の閉鎖と国外退去を要求。政治犯の即時釈放を命令。

4.29 午前5時 解放軍がサイゴンへの最終の総攻撃を開始。人民軍十五個師団、約二十万人の将兵が加わる。

4.29 午前 北ベトナム軍、全軍を各三個師団ほどから成る五軍団に分け、五方向からサイゴンへの総攻撃を開始。サイゴンを防衛する南側の五個師団にそれぞれ猛攻をあびせ、足どめにする。

4.29午後2時 アメリカの最終撤退が始まる。サイゴンの米大使館閉鎖。マーチン大使ら米人1,373人とベトナム人6千人が脱出。米海軍のヘリコプターを総動員して、サイゴン河口近くに停泊する第七艦隊の艦艇へと運ぶ。

4.29 午後8時,タンソンニャト空軍基地制圧さる。

4.29夜 サイゴン・ジアディン地区人民革命委のアピール。「ミン,フエン,マウは植民地主義を維持しようとしている」と非難。和平の可能性は否定される。

75年4月30日

4.30早朝 グエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元副大統領らが、ヘリコプターでアメリカ軍空母に向けて脱出。解放勢力はこれを黙認。大使館には亡命をもとめる市民が押しかけ、次々に敷地内に乱入。

4.30朝 北ベトナム軍がサイゴン市内突入作戦を開始。第一軍団は南ベトナム軍の参謀本部、第二軍団は大統領官邸、第三軍団はタンソンニュット空軍基地の制圧に向かう。

南ベトナム軍の崩壊: サイゴン東方の防衛にあたっていた南ベトナム第18師団、北軍の第二軍団に再び猛攻を受け壊滅。レ・ミン・ダオ将軍は捕虜となる。サイゴン北方50キロの国道13号線上のタイケ基地を守備する南ベトナム軍第5師団、サイゴン防衛にあたるため移動中、北ベトナム軍の第一軍団の猛攻をあびる。戦線は総崩れとなり、師団長のレ・グエン・ビ将軍はその場で自決した。クチ基地に集結していた南軍第25師団は北軍第3軍団に襲われ、粉砕された。リ・トン・バ師団長は投降し、捕虜となった。サイゴン南西のタンアン地区に布陣した南軍第22師団も数倍の規模の北軍に殲滅された。ミトの第7師団、カントの第4軍管区の第9、第21師団は戦闘に参加することなく、サイゴン陥落後に降伏した。

4月30日10:30am ズオン・バン・ミン大統領がラジオを通じて無条件降伏を宣言。 「ベトナム共和国軍すべての将兵に一切の戦闘行為を停止し、現地点に留まる」ことを命令する。また「政府の実権移譲を討議するため革命政府代表との会見を待つ」と述べる。北ベトナムはこれを降伏とは見ず、全軍の進撃を命令。

午前11時30分 第2軍団の戦車が大統領官邸に突入。青と赤の解放戦線の旗が翻る。ズオン・バン・ミン大統領をはじめとする南ベトナム政府の閣僚は、北ベトナム軍に拘束される。

14時30分 北ベトナム軍、ミン大統領を放送局に連行し、用意した降伏声明を読み上げさせる。これに引き続き、解放軍代表が無条件降伏を承認すると発表。その後夕方にかけて、十万人を超える人民軍正規軍がサイゴンに入城する。

ベトナム戦争の死者: この間のベトナム戦争による死者は200万人に上る。米軍は延べ650万人を動員し死者は5万5千人、オーストラリア・韓国の死者も5千にのぼる。これに対し北ベトナム軍の死者は約100万人、解放戦線の死者は25万人といわれる。

4.30 午後、人民解放軍司令部,かいらい機構の解体と秩序の維持を命令。旧政権の全将兵・職員に帰順・登録を命令する。

4.30 人民解放軍布告第1号,秩序・治安維持を呼びかけ。

4.30 革命政府外務省、「南ベトナムにおける全財産は人民の財産であり,今後は革命政府の管理下におかれる」と声明。

4.30 米財務省、南ベトナム政府とベトナム人の全在米資産を凍結すると発表。

4月半ば パテト・ラオ側(左派)とヴィエンチャン側(右派)との軍事的衝突,学生デモ等が発生。国防相,蔵相等の右派要人が国外に脱出する。連合政府内における実質的指導権はパテト・ラオ側に移る。

75年5月

5.01 解放通信、メコンデルタの全省が解放されたと発表。

5.02 サイゴン・ジアディン地区軍事管理委員会,武器と爆発物の収集についての布告第2号,官公庁・銀行などの復旧と管理についての布告第3号を発表。

5.01 革命政府外務省,米艦船の撤収と内政干渉中止を要求。

5.01 米下院本会議,撤収作業に大統領が米軍を用いる権限と,撤収費用ならびに人道援助として3億2700万ドルを求めた法案を否決。

5.01 革命政府外務省、「旧サイゴン政権の在外代表部はその代表資格を失った」と宣言。

5.02 フーコク島が完全解放される。

5.03 サイゴン・ジアディン地区軍事管理委員会の構成が発表される。議長はチャン・バン・チャ大将、副議長はボー・バン・キエト、マイ・チ。

5.03 4千人のベトナム難民を乗せた船が南シナ海で沈没。デンマーク船に救助され,香港へ到着。

5.05 人民革命党中央委員会、右派政治家放逐のためビエンチャンでの大衆蜂起を呼びかける。王族や右派政治家とその家族、外国人などがタイに避難。

5.06 コンソン島政治囚549人を乗せた船がヴンタオ港に入港。

5.06 ビエンチャン北約130キロのカシ,愛国戦線部隊に制圧さる。

5.06 サラプクンを占領したパテトラオは,ビエンチャンとルアンプラバンを結ぶ幹線道路をなんの抵抗も受けず南下,南北60キロを支配下におく。ビエンチャン北方160キロのムオンカシ地区も占領。

5.07 日本政府,南ベトナム臨時革命政府を承認.

5.07 プーマ首相,“ビエンチャン派”の政治軍指導者と会談,政策への支持を取り付ける。

5.07 プノンペン放送「新政権は外国の援助や支配を望まず,農業立国で自立の道を目指す」と宣言。

5.08 サイゴン・ジアディン軍事管理委員会議長,チャン・バン・チャ上将が内外記者団と会見。「ベトナムは一つであり,ベトナム統一は適切な条件の下に実現するだろう」と言明。

5.08 ビエンチャン軍の将軍や元国民議会議長らが,タイ人などとともにタイ側に避難する。

5.09 ビエンチャン北方150キロのバンビエン駐留のチャンタクマ大佐、ビエンチャン軍に対する忠誠を拒絶。プーマ首相の権威のみをみとめると声明。

5.09 ビエンチャン市内で約3千人の学生,青年が、愛国戦線を支持し,右派閣僚の辞任と,すべての米国系機関の引揚げを要求するデモ。 パテトラオはチャンパサク国防相が,クーデターを企て,タイがこの計画を支持していたと非難。

5.09 シスーク・ナ・チャンパサク国防相,ゴン・サナニコン蔵相ら右派閣僚5人は,学生・労働者の圧力で辞任する。

5.09 パテトラオ、バン・パオ特殊部隊の解散を要求。

5.10 ラオス出入管理当局によると,この日だけで2万人以上がメコン川を渡ってタイに脱出した。

5.11 プーマ首相,「右派およびパテトラオ軍は衝突をさけ,現在の位置から動いてならない。国民は平静を保つよう」にとの声明を発表。

5.11 ビエンチャン郊外にあるビエンチャン軍最大のチナイモ基地から約160人の士官候補生が集団脱走,市内のラオス・ドイツ技術大学構内にたてこもる。

5.11 連合政府,右派の支配する南部6州(セドン,アトプー,チャンパサックなど)を連合政府の直接支配地域に併合すると発表。第4軍管区司令官ボンサバン准将が統治にあたる。

5.11 チャンパサク国防相、東部タイのウボン経由でバンコクに逃亡。後任に,カムアン・ブッパー国防次官(愛国戦線側)が国防相代理として任命される。

5.13 北ベトナムの党・政府代表団が,完全解放祝賀式典に参加するため,タンソンニャット空港に到着。団長は南部ロンスエン出身のトン・ドクタン大統領。団員としてレ・ドクト、レ・タンギ、バン・ティエン・ドゥン(人民軍総参謀長)が参加。

5.13 北ベトナム代表団を向かえた南側代表は、ファム・フン南部委員会書記、グエン・フート解放戦線議長、フイン・タン・ファト革命政府首相、チャン・バン・チャ上将、グエン・チビン革命政府外相など。

5.14 最後まで抵抗を続けたワン・パオ将軍、司令官を解任された後タイに逃亡。モン族の根拠地フエイサイも8月には陥落。2万5千人のモン族がタイに逃亡。

5.12 米貨物船「マヤゲス」号、カンボジア沖でカンボジア解放勢力に捕獲される。米海兵隊、カンボジア領コータン島に上陸、カンボジア解放軍との間に戦闘、「マヤゲス」号を奪回。

5.13 合同軍のビエンチャン側新司令官ブンチャン准将は,全ビエンチャン軍将兵に軍隊復帰を命じる。右派のブアトン空軍司令官も,全空軍が連合政府を支持するとの声明を発表。

5.13 旧ビエンチャン政府軍のプンポン最高司令官,ビエンチャンの学生市民団体で構成されている21機関の代表約40人を招き,本日以降,人民のための人民の軍隊となると語る。

5.14 サバナケットで反米デモ。学生が知事官邸に押し入り,居合わせた米国際開発局局員3人を軟禁する。知事は学生の要求をうけいれ,パテトラオ迎え入れにふみ切る。

5.15 ルアンプラバンで大規模なデモが発生。

5.15 米海兵隊がコータン島に上陸。カンボジア側が放棄したマヤゲス号を確保し乗員39人全員釈放。米爆撃機,カンボジア本土のレアム空軍基地を爆撃。

5.16 空軍司令部内で1千人の集会。空軍司令官のブアトン准将の追放を要求する決議。カムァン・ブパー国防相代理は,ブアトン・プチトンサ准将を解任したと発表。

5.17 コンソン島から解放され、本土に上陸した政治囚は1300人に達す。

5.17 連合政府,亡命したラオス人を受け入れないよう近隣諸国に要請。

5.20 パテトラオ軍、メコン川をわたり,サバナケットから30キロのセノの町に入った。兵力は戦車,砲兵を含めて7個大隊2000人。

5.20 サバナケットに司令部を置く政府軍第3軍の管区司令官ヌペット将軍、部隊をひきいて出迎える。将軍はパテトラオ軍の司令官と握手。市民の歓呼に迎えられる。

5.21 ビエンチャンのUSAIDで、ラオス人職員による反米集会。その後学生らも入って建物を占拠,警備の海兵隊2人を監禁する。

5.21 ビエンチャン郊外ノンダのパテトラオ基地に,戦車10台が入る。

5.22 サバナケットで軟禁されていた米国人18人が解放される。在ラオス米大使館は,米空軍機にのってタイに向ったと発表。また連合政府の要請でUSAIDを引揚げると発表。

5.23 米大使館員の家族および,USAID職員ら159人が,チャーター機でバンコックに向かう。

5.25 愛国戦線軍がチャンパサックに無血入城,同町を制圧。

5.27 愛国戦線中央委員会,人民決起をうながし,18項目政治綱領の実施実現をよびかける声明を発表。“反右派,汚職官吏追放”のストライキが激化する。

5月 サイゴン、ホーチミン市へ改名。

5月 右派4閣僚,王国軍首脳,右派要人が相次いで国外に脱出。連合政府内における愛国戦線側の実質的指導権が確立された。

75年6月

6.02 ハビブ米国務次官補がビエンチャンに入り,プーマ首相と会談。

6.02 サバナケット州で,学生,市民,労働者,中堅官僚,警官,婦人など12人で構成する人民解放運動の行政委員会が同州の実権をにぎり,独自の行政委員会を発足させる。

6.04 米国務省,ドン首相が米国との国交正常化を呼びかけたのに対し拒否の態度を表明。

6.06 プーマ首相,愛国戦線と右派軍の統合を促進するため,愛国戦線軍にラオス全土への進撃をみとめる。

6.08 連合政府,外国語の使用を禁止し,外国文化の影響を一掃する運動を進めることを決める。

6.13 米当局者によれば,ベトナム側がカンボジア解放勢力との戦闘の結果,シャム湾沖のコータン島に近いワイ群島を占領。

6.28 学生を中心とした反米デモ隊が,米大使館の付属施設と広報文化局(USIS)図書室を占拠。大使館の半数に近い22人が,タイの米空軍ウドン基地に避難する。

6.28 プノンペン放送,「外国報道機関が流した虐殺事件のニュースはデマ」との連合政府声明を報道。

6月 USAID(米国国際開発局)が機能を停止。USAIDはCIAの隠れ蓑だった。これによりラオスにおける米国のプレゼンスに終止符がうたれる。

75年7月

7.22 プーマ首相,民主化運動21機関の代表と会談。「ラオス国民の再統一は最後の段階に入った。首都をビエンチャンから,ジャール平原とムオンスイのどこかに建設することになる」とのべる。

75年8月

8.05 労働党中央委員会,重要声明を発表。ベトナムの再統一は全国民の焦眉の願いである。統一国家ベトナムを建設するため貢献せよ。

8.13 イエン・サリ副首相府特別顧問が外交担当の副首相に,ソン・セン人民民族解放軍参謀総長が国防担当の副首相に就任。

8.23 ビエンチャンに革命行政委員会が設立さる。

8.25 メコン上流のフアコン州で,メコン川を航行中のタイの軍艦艇とラオス軍部隊の間で銃撃戦。タイ側の2隻が撃沈,1隻が捕獲され、兵士14名が死亡。

8.29 ファム・フン南部党書記、南部代表団の団長としてハノイを訪問。ソ連代表団、カンボジア代表団、ラオス代表団、中国代表団と相次いで会談。

8.30 イエン・サリ副首相(外交担当),住民が空っぽになったプノンペンに,これまで約10万人が戻っていると述べた。シアヌーク殿下,人口はいずれ30万の適正人口に達するだろうと述べる。

8月 愛国戦線、ルアン・プラバーン,ヴイエンチャン両市に人民行政委員会を設置,全土掌握を完了する。

75年9月

9.04 ビエンチャンの刑事裁判所、ブンウム,クープラシット・アバイ,バン・パオら右派の幹部に、被告欠席のまま死刑を宣告。

9.09 シアヌーク国家元首とペン・ヌート首相,キュー・サムファン副首相とともに特別機でプノンペン入り。5年半ぶりに祖国に復帰。

75年10月

10.12 北京に戻ってきたアヌーク側近50人によれば,ロン・ノン将軍はリンチで殺され,ロン・ボレ首相,シリク・マタク元首相らは銃殺刑に処されたと明らかにする。これら側近は帰国を拒否。その後大挙フランスへ亡命する。

75年11月

11.01 イエン・サリ副首相、「中国・北ベトナムを含めいかなる大国の干渉も望んでいない。ASEANなどどんな地域共同体にも加盟する考えはない」と語る。

11.15 サイゴンで,南北ベトナム代表団による政治協議会が開催される。ファム・フン労働党中央委政治局員兼党南ベトナム委書記,チュオン・チン北ベトナム国会常任委委員長をそれぞれ団長とする。76年前半に統一ベトナム国会を選出するための選挙を実施することで合意。

11.26 ビエンサイで合同会議。連合政府,評議会両組織を解体して人民の真の政府をつくること一致する。

11.30 ラオス学生連合の前会長タノンシンシボラ、メコン川を横断しタイに亡命。タノンシンシボラは5月の反米運動で指導的役割を演じ、ビエンチャンの米国際開発局本部を占拠した指導者。

11月 タイによる国境閉鎖。石油,生鮮食料品,生活必需品の極度の不足と売り惜みなど経済的無秩序をもたらす。

75年12月

12.01 全国人民代表者大会をビエンチャンで開催。カイソン・フォンビハン人民革命党書記長が演説。連合政府と政府諮問評議会を解散し、新政府と最高人民会議を設置することを明らかにする。

12.02 ビエンチャンで全人代に並行して「王制存廃に関する協議会」が開始される。国王のほか,中立側からはボンサバン皇太子,プーマ首相。愛国勢力側からスファヌボン政治評議会議長,プーミ・ボンビチト副首相兼外相の4人が参加。バッタナは国王退位を迫られる。

12.03 全国人民代表者大会、「ラオス人民民主共和国」の樹立を宣言する。「ベトナム,カンボディア,その他の社会主義国との協力関係を強化する」とともに,「平和5原則に基づき全ての国と外交貿易関係を結ぶ」ことをうたう。

12.03 「ラオス人民民主共和国」の主要人事が決定される。首相にカイソーン人民革命党書記長、ヌハク・フォンサバンが副首相兼財政相、プーミ・ボンビチトが副首相兼外相に就任する。スファヌボンは暫定的立法機関としての最高人民議会の議長となる(議長は対外的には大統領を称する)。退位したサワン・ワッタナー前王は大統領顧問に、前プーマ首相は新政府顧問となる。

 

1976年7月1日 南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立が宣言される。

1995年8月5日 ベトナムとアメリカが国交を回復。

1995年 マクナマラ、トンキン湾事件がでっち上げであったことを告白。