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ベトナム戦争年表 その1
1960年末に南ベトナム解放民族戦線が結成されたところから「ベトナム戦争」が始まる。1975年4月にサイゴンが陥落するまでの15年にわたる戦闘である。
1945年8月の蜂起から1954年のジュネーヴ協定による休戦までは、「インドシナ戦争」と呼ばれ、区別される。
61年1月
1.01 第一次五ヶ年計画が始まる(65年まで)。@農工間のバランスに留意しつつ、工業部門の発展を最優先する。A工業の中でもとくに重化学工業の発展を重視する。5年間で工業の年平均増加率は13.6%に達する。
1.01 戦場へ兵士を拠出するための装置として合作社が位置づけられ、農業集団化がさらに強力に推進される。北部での合作社化が完了。4万あまりの合作社が誕生する。この結果、生産性は低下し、特に高級合作社化したところで生産の落ち込みが深刻となる。
合作社の失敗の要因: 1)生産資源が不足したままでの突入、2)悪平等が生産意欲を削いだ、3)「老農」の軽視。老農とは教育を受け技術を持つ篤農家層を指す。党・政府は農民を労農同盟の対象者としてとらえ、農業生産における推進力と「階級関係」を正確に規定しなかった。貧農を政治的に重視するあまり、篤農家を生産管理の中心から排除した。
1.01 コン・レ軍、ジャール平原の支配権を掌握。パテトラオと力を合わせ、空中投下されたソビエト軍需物資の供給を受ける。
1.06 フルシチョフ、世界中の「民族解放戦争」をすべて支持すると宣言する。
1.07 ラオス王党軍、優勢な戦力を背景にジャール平原に攻め込むが、制圧に失敗。
1.20 ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国大統領に就任。「自由の生き残りと成功のため、いかなる犠牲も払う」と宣言。アイゼンハワーは彼に、「いずれ東南アジアに兵を送らなければならなくなるだろう」と語ったとされる。
1.28 ケネディは、ヴェトナムにおける対ゲリラ活動計画(CIP)を承認。ゴ・ディン・ディエムへの関与を深める。
ケネディ政権は50年代の大量報復戦略に代わり、「柔軟反応戦略」を打ち出した。政権は民族解放運動の高揚をアメリカへの挑戦と受け止め、これに対抗する「対反乱戦略」を重視し、「特殊戦争」の遂行能力増強に力を注いだ(古田)。
1.31 ソ連、解放戦線との外交関係を樹立。外交使節の派遣は見合わせる。
1月 労働党政治局会議。「都市と農村、政治闘争と武装闘争を結合したベトナム独自の人民戦争を展開する」ことを確認。このための統一指導部として南部中央局を設置。
1月 CIAは、バン・パオの率いるモン族(Meo)を支持し、物資の供給と訓練を行い、"Operation Momentum"を始動させる。
61年2月
2.15 南ベトナム解放民族戦線の武装組織としてベトナム南部解放軍が結成される.チャン・ナム・チュンを解放軍総司令官とする。十分な火器を持つ正規軍も編成される。メコンデルタ地帯およびタイグエン、ビンディン、チティエンなどの地方で戦闘行動を開始。この時点で兵力合計は7,000名(”南“政府の推定)。これに対し南ベトナム政府軍は、正規軍15万名と保安地方軍5万名。
2.20 解放戦線の十項目からなる網領が宣言される。前文で「すべての人民各階層、各階級、各民族、各党派、各団体、各宗教、各愛国者の団結」がうたわれる。@アメリカ帝国主義とゴ・ディン・ジエム独裁政権を打倒する。Aすべての人民の団結を基礎に、進歩的民主制度をめざす民族民主連合政権を樹立する。労働党決議のB統一の問題は外される。
3.15 駐サイゴン大使、エルブリッジ・ダブローからフレデリック・ノルティングJr.に交替。
3.23 ケネディ大統領、「ラオスが中立の立場を失えば、東南アジアの全ての国が危険にさらされる」と演説。
3月 解放戦線、ビエンホアで村落を攻撃。南ベトナム軍により破られる。
61年4月
4.03 南ベトナムとアメリカが経済協力協定に調印。
4.04 辻政信参議院議員がラオスで消息を絶つ。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してジャール平原へ単身向かったことが明らかになる。
4.09 ディエムが南ベトナム大統領に「再選」される。
4.29 ケネディ、ジュネーブ協定に違反して軍事顧問団の増員を決定。南ベトナム軍特殊部隊訓練のため、「特別顧問」として陸軍特殊部隊400名の派遣を承認。「グリーンベレー」と呼ばれた特殊部隊は、国境地帯の山間部に入り、「モンタニャード」と呼ばれる山岳民族に訓練を施し、民間対ゲリラ防衛軍(CIDG)を編成。
61年5月
5.03 ノサバン軍とパテトラオが停戦に合意。ノサバンとCIAの支援を受けるモン族部隊は要衝パドンをめぐり戦闘を継続。1ヵ月後に敗れたモン族が撤退。ロンチェンに新たな基地を建設する。
5.11 ケネディ、国家安全保障行動メモ(NSAM)52号を承認。南ベトナム軍強化のため、ニャチャンに400人の特殊部隊グループを配備することを承認する。
5.13 ジョンソン副大統領がサイゴンを訪問し、南ベトナム政府との共同宣言を発表。共産勢力と撤退的に戦う意志を表明する。ジョンソンは視察報告書の中でベトナムの重要性を強調し、ディエムを「東洋のチャーチル」と呼ぶ。
5.16 ラオスに関する14カ国ジュネーブ会議が開催される。米ソのあいだで安定化と中立化の枠組みが形成される。ブンウム・プーマ・スパヌウォンの三殿下がチューリッヒで会談,連合政府樹立で合意。その後も三派連合政府の閣僚の割当てをめぐって各派の意見が対立し、内戦が続く。
5.19 北ベトナム政府、ディエム=ジョンソン共同声明はアメリカによる内政干渉の新たな段階と非難。
61年6月
6.03 北ベトナム南部クアンビン省に「第一監視グループ」の特殊部隊が、スパイ活動のため降下。直ちに捕獲される。
6.09 ゴ・ディン・ディエム大統領、南ベトナム軍を17万から27万に増員。アメリカ部隊に訓練を要請する。
6.27 米国によるラオス停戦協定違反の疑いが強まる。CIAはモン族に対する軍事援助を停止。
61年7月
7.02 ハノイ南方50キロで、スパイ機C47ダコダ機が撃墜される。
7月 ランズデールがCIAに報告。「軍とCIAの要員50人が特殊部隊の訓練に当たっている。北ベトナム出身者により第一監視グループと呼ばれる特殊部隊が編成され、800人強まで増強される予定。部隊は北ベトナム、ラオスに浸透している。ほかに山岳民族60人のグループ、民間人70人のグループが組織された」
61年8月
8.11 NSAM 65号。南ベトナム軍の20万人増員に向け支援することを承認。
8月 スタンフォード大学のユージン・ステーリーが率いる経済・軍事施設団がサイゴンで1ヶ月にわたり調査。三段階にわたる南ベトナム政府強化政策案を提出。
ステーリー計画: @18ヶ月以内に南ベトナムを平定し、北ベトナム内に基地を形成。A南ベトナムの経済復興と軍の強化、北ベトナムに対する破壊活動の強化、B南ベトナム経済の開発、南政権基盤の確立、その後北ベトナムへ進撃。 9.15 MAAG、「地域ごとに段階を踏んだ全国規模の対ゲリラ活動平定作戦計画」を発表。三段階で農村地帯のベトコンを駆逐するというもの。
9.18 解放戦線、フォクビン基地を攻撃。最初の1千名単位の大規模な作戦となる。軍事力の誇示が主要な目的であったとされる。フォクビンはサイゴンの北方120Km、カンボジア国境のフォクロン省の省都。第21−5特殊部隊グループ(フォート・ブラッグで訓練された最初の特殊部隊)が守備にあたっていた。
9.30 サイゴンで英国顧問団 (BRIAM) が創設される。ロバート・トンプソンが司令官となり、南ベトナム軍に対ゲリラ戦の指導。
61年10月
10.05 国家情報部(National Intelligence Estimate)、ベトコン兵士の8割から9割は、北からの浸透ではなく現地で加入したものと報告。
10.15 ケネディ側近のマクスウェル・テイラーとウォルト・ロストウ、南ベトナムを訪問し、対ベトコン戦略を検討。新たに戦闘部隊を派遣し、南ベトナム軍に対する指導性を強めるよう進言する。
テイラーのケネディ宛 “eyes only cable”: ベトコン・ゲリラは元気で、南ベトナムにおける成功への途上にある。ヴェトナム情勢が進行すれば、東南アジアをこのまま保持することはきわめて難しい。アメリカは軍事顧問を増やし、南ベトナム軍の機動性を向上させなければならない。
そのために、例えば「メコンデルタの水害救援」などの装いの下に、6千から8千の機動部隊を送り込み、「その駐屯地において自衛のため、あるいは地域防衛のため、必要とあらば戦闘を指揮する」ことになるだろう。10.18 ディエム大統領、非常事態を宣言。
10.24 ケネディ、ディエムに親書。「アメリカはベトナムが独立を維持することを支援する決意を固めている」と述べる。
10月 マクナマラ国防長官と統合参謀本部、テイラー案とは別に、ヴェトナムに6個師団、20万人を派遣し勢力を誇示することを提案。ケネディはこれらの提案を保留。
61年11月
11.13 サイゴンのBRIAM責任者ロバート・トンプソン、ディエムに対し「メコン・デルタからベトコンを一掃し、住民の安全を守る」ためのプランを提示。「戦略的で、防衛された村落」と名づける。トンプソンは、「ベトコンを殺すよりも、村落の経済・社会的発展に必要な安全を確保することにより、住民の信頼を勝ち取ることが重要である」と強調したが、それはディエム政権には出来ない相談だった。
11.15 米国家安全保障会議、軍事顧問団を大幅に拡大し、戦闘支援にも参加可能とする決定。ステーリー・テイラーの戦略村構想も承認される。同年中に3千人の軍事顧問を送り込む。その多くは特殊部隊隊員であり、地方での民兵を使ったゲリラ対策に重点をおく。
戦略村計画: 最初に構想を打ち出したのはイギリス顧問使節団のロバート・トンプソンだといわれる。トンプソンは50年代マレー半島で戦略村を実施し共産ゲリラの駆逐に成功していた。トンプソン構想を元に、国務省情報調査局のロジャー・ヒルズマンが計画を立案した。ヒルズマンは「敵の主戦力は、潜在的には南ベトナムの国民自体である。そしてゲリラ戦における真の供給ラインは、南ベトナムの1万6千村落から伸びている」と認めている。 11.21 米政府、新たな米軍部隊「ベトナム軍事援助司令部」の創設を承認。H-21大型ヘリコプターと戦闘機を装備した飛行中隊と軍事顧問団をベトナムに派遣。米軍機による偵察飛行、対ゲリラ戦への米軍ヘリの投入、掃海艇による海岸監視などが開始される。総数はこの時点で1,500名を越える。これにより、民族解放戦線に対する致死的攻撃力は一段と強化される。
H-21: 世界初のタンデムローター式ヘリ。機体がブーメランのように中央で折れ曲がっているのが特徴で、その形から「フライイング・バナナ」と呼ばれる。比較的低速であり、操縦系統や燃料系統は小火器に対して脆弱であったために“ベトコンの槍で撃墜された”という噂まで生まれた。60年代後半には、ボーイング社のタンデム・ローター“CH-47チヌーク”に代わられる。
11.22 ケネディ、NSAM 111を発する。ディエム政権が解放戦線のゲリラに有効に対処できていないとの認識の下に、テイラーの「有限パートナーシップ」勧告を採用する。しかし直接戦闘部隊を送ることには同意せず、軍事顧問の増員と南ベトナム軍への支援強化に止める。
11.30 ケネディ、南ベトナムの「疑わしい地域の森を枯らすため」に除草剤を使うことを明らかにする。
11月 ラオスのプーマ政権が愛国戦線に接近。南ベトナムはラオスに国交断絶を通告する。むしろこれにより、ラオスを経由する解放戦線への支援は順調になったといわれる。
11月 CIAの指揮の下に米特殊部隊が始動。ブオン・エナオ村のモンタニャード民兵を対ゲリラ活動に組織する実験を開始する。米特殊部隊と民兵は30人からなる攻撃チームを編成し、農村部のパトロールに当たる。
61年12月
12.11 米空母「コアー」がサイゴンに到着。ヘリ33機と練習機15機、航空・地上要員200名が配備される。
12.14 ケネディ大統領はジェム大統領に書簡で援助増加を約束する。
12.22 米兵ジェームス・デイビスがゲリラにより殺害される。後にジョンソンは、「自由ベトナムの防衛のために倒れた最初のアメリカ人」と賞賛。
12月 解放戦線、フィン・バン・タム書記長をモスクワに派遣。関係強化を図る。
12月 国防メモ111号にもとづき、ベトナム在留米軍事顧問が急増。61年末に米軍事要員の数は3200人に達する。いっぽう、解放戦線の正規部隊の隊員数は、アメリカ側の推計で1万7千名に達する。このほかにパートタイムの自衛ゲリラも組織される。
62年1月
1.12 チョッパー作戦が開始される。米軍パイロットが南ベトナム軍1千名を運搬し、サイゴン付近の解放戦線拠点を掃討。米軍の最初の戦闘参加となる。
1.12 米軍、ホーチミン・ルートに対して枯葉剤「オレンジ」の散布を開始(ランチハンド作戦)。オレンジ色の金属容器に入れられていたことから、この名が用いられた。最初は国道そばの森林をなくし、解放戦線の待ち伏せ作戦を防ぐ目的だった。
ランチハンド作戦: ビエンホア基地所属のC123輸送機33機にタンクを装着し全土に散布した。計769万リットルの枯葉剤が散布され、総面積は南ベトナムの15%に及んだ。
1月 南ベトナム人民革命党が「創立」される。実体はベトナム労働党南ベトナム中央局(略称・南部中央局)の公表名。
62年2月
2.03 南ベトナム政府、ブイ・バンロンを議長とする戦略村特別委員会(IMCSH)を創設。アメリカの戦略村指揮委員会と農村問題小委員会の指揮の下に入る。実質的にはゴ・ディン・ニュが仕切る。米国は戦略村建設のため5千万ドルを支出する。
2.09 アメリカ軍、50年に設立された「軍事援助顧問グループ」(MAAG)に代わり、「ベトナム軍事援助司令部」(MACV)をサイゴンに設置。ポールD.ハーキンズ将軍が司令官に就任。MAAGも、南ベトナム軍訓練にあたるため残される。
2.09 アメリカ政府は統合参謀本部の要求した戦略村の実施要綱を承認。@軍の増強、Aナパーム弾使用の自由(表向きは森林破壊のため)、B自由爆撃地帯(その地域にいるあらゆる人間は敵と見なされ合法的標的となる)の設置などが含まれる。
2.16 南ベトナム解放民族戦線が第1回代表大会を開催。サイゴンに中立連合政権の樹立をかかげる新綱領を採択.兵員は1万人を突破し、解放戦線への支持が南部全土で広がる。(実際には62年は解放戦線にとって試練の1年であった)
2.27 時代物のAD6戦闘爆撃機2機が、ドンナイのロンタン空港から飛来し、独立宮殿(大統領官邸)を爆撃。建物左側が破壊される。ディエム一族は避難に成功。犯人は空軍将校(ファム・フク・オクとグエン・バン・クウ)だった。(ロンタンは市内から車で約1時間。
デルタ地帯のホーチミンでは高台に位置する)62年3月
3.01 ケネディ、国防総省と統合参謀本部にあて、「われわれの現在の努力が失敗に終わった場合の、対南ベトナム有事計画」を立案するよう指示。ベトナム撤退の方向をひそかに目指す。(マクナマラと統合参謀本部から合意を得たというが、この手のケネディ伝説は鵜呑みには出来ない)
3.19 ディエム、ロバート・トンプソンの提案したデルタ平定化計画を承認する。ただし作戦地域はメコンデルタではなく、解放戦線の浸透が著しいサイゴン北方のビンドゥオン省を中心とする6省とする。
3.23 ビンディン省で最初の戦略村作戦となる「日の出作戦」が実施される。政府軍2個師団が投入され、農民5千人が4つの戦略村に押し込められる。
3月 解放戦線の勢力が1万人を突破。南ベトナム内での戦闘は1日平均10回を数えるまでになる。毎月500人以上の民間人が死亡。
3月 大統領宮殿の防衛に不安を感じたディエムは、建て直しを命令、ローマ優秀賞を受賞した建築家ゴベット・トゥの設計。完成したのは66年で、すでにディエムは死亡。
4.15 サイゴン南西部の平定計画「シャフリー作戦」が開始される。米海兵隊のヘリ戦隊がソクチャン(Soc Trang)に到着し、南ベトナム軍を上空援護する。
4月 南ベトナム国民議会、「戦略村計画」(Strategic Hamlet resettlement program)を承認。その後2年間にサイゴン周辺とメコンデルタを中心に3,235村が完成し、432万人(南ベトナム全人口の25%、農民の30%)が入村する。
4月 左派寄りのキニム外相が暗殺される。三派連合体制は実質的に瓦解。パテト・ラオと中立派・右派連合が対峙して、各地で小規模な戦火が交えられる。
62年5月
5.08 パテトラオと中立派連合軍は、ラオス北西部Nam Thaでフォウミ・ノサバンの駐屯軍を攻撃する。ノサバン軍はメコン河をわたりタイ領内に逃げ込む。ルアン・ナムタはラオス北西部の中心になる町。モン族の中心地でもある。
5.09 マクナマラ国防長官、南ベトナムを訪問。「我々は、戦争に勝っている」とし、65年末までに米軍の関与を段階的に終結させる計画を立案。(マクナマラの“今だから言える”本は、エクスキューズが多く、素直には信じられない。ケネディ時代のマクナマラはラムズフェルドも真っ青のタカ派だった)
5.15 ラオス右派軍の敗北が決定的となる。ケネディはラオスの共産主義者がタイ国境にせまっているとし、駐タイ米海兵隊を5千に増強するよう命令。翌月には新たにジェット戦闘機50機が配備される。英、豪、ニュー・ジーランドのSEATO(東南アジア集団防衛条約機構)諸国も部隊をタイに派遣。
5.23 スバンナ・プーマ、中立主義者を中心にパテトラオと保守主義者をふくむ新しい連合政権をつくる。
5月 中部高原地帯の解放戦線が大隊サイズの編成に組織される。
6.23 中立派のプーマ殿下を首班とする第二次連合政府が正式に成立。タイに派遣されたSEATO軍は撤退を開始。
62年7月
7.17 ジュネーブでラオス和平国際会議が再開される。
7.23 ラオスの中立を維持する宣言と議定書が、アメリカなど13カ国によって署名される。すべての外国軍事要員が10月7日までに国外に退去することが定められる。これにより東部ラオスのホー・チミン・ルートへのアメリカ侵入が禁止される。
7.20 クメール人民革命党のトゥー・サムット書記長が暗殺される。サムットに代わりサロト・サル(ポル・ポト)が書記長代行に就任。
サロト・サル: 王族に連なる名門に生まれ、フランスに留学。共産党の影響を受けた「カンボジア学生協会」でイエン・サリと行動を共にする。帰国後は教師として勤めながら党活動への傾倒を強める。1963年プノンペンを脱出し、ゲリラ闘争に身を投じる。 7.23 マクナマラ、南ベトナム軍に空軍を創設するよう要求する。
7.31 オーストラリア軍の軍事訓練チームがサイゴンに到着。南ベトナム軍の訓練にあたる。
62年8月
8.01 ケネディ大統領、1962年対外援助法に署名。「共産世界との境界にあり、直接の攻撃を受けている諸国への軍事援助」をうたう。
8.14 MACV、「南ベトナム総合計画」(CPSVN)の実施を開始。
8月 ケサンに米軍の特殊部隊基地が建設される。ホーチミン・ルートを通る北ベトナム軍のけん制を目的とする。
8月 年末にかけて15種類の枯れ葉剤が南ベトナムに輸送された。この化学剤は55ガロン(208リットル)のドラム缶に入れられ、いろいろな色で標識されていた。なかでもオレンジ剤はビッグ・キラーと呼ばれ、使われた枯れ葉剤の64%を占めた。
8月 ポル・ポトは党員約20名を集めプノンペンで人民革命党の臨時大会を開催。党をカンプチア共産党(クメール・ルージュ)と改称し、書記長に就任する。まもなく、シアヌーク殿下が「赤狩り」を開始したため、ポル・ボト、イエン・サリらは地下に潜行。
9月 ジエム政府は、農村地帯の人口の3 分の1 以上が「再定住」したと主張。強引な計画は、農村部における反政府の感情を高める。戦略村のうち50あまりは解放戦線の支配するところとなる。米軍パイロットの操縦する南ベトナム政府軍機が、これらの戦略村を爆撃・破壊。
9月 南ベトナムの各地でトレイルダスト作戦が始まる。ランチハンド作戦はこの作戦の一部。散布装置を積んだC123輸送機6機を使用。本格的な使用は1966年から1969年の間で、枯れ葉剤の90%以上がこの間に散布される。
62年10月
10.06 ビエンチャンのアメリカ・オペレーション・ミッションが活動を終了。
10.11 南政府は戦略村完成記念式典を開催。実際にはすでに解放戦線の攻撃により無力化。
10.14 U-2偵察機、キューバ上空でソビエトの核ミサイル基地を撮影。「キューバ・ミサイル危機」が始まる。
11.27 コン・レ軍のドゥアン・スンナラート中尉、ジャール平原のコン・レ軍に輸送を行っていたエア・アメリカ機を撃墜する。これを機にドゥアン派はパテート・ラーオとの協力関係を構築する。逆にコン・レ軍はパテト・ラオへの反発を強める。
12月 第3回文化大会。チュオン・チン、「文芸における党的性格を強化し、人民や革命により多く奉仕する」と題する報告で、文芸政策の転換を促す。「政治と文芸の関係は、政治が文芸を指導するものであり、文芸が政治に奉仕するものである」と述べる。
62年 マンスフィールド上院議員、サイゴンを訪問。ケネディあてに、「アメリカが贈った20億ドルがディエムにより浪費されている」との報告を送る。
62年末 解放戦線の幹部の数は1 万6500 人から2 万3000 人に増え、それを10万人の民兵が支える。当時米政府は、南ベトナム人の半数が解放戦線を支持していると判断していた。
62年末 駐留米軍は1万3千人に増加。年額150億の援助が注ぎ込まれる。解放戦線は米軍の指導する特殊部隊と戦略村作戦の展開により劣勢を強いられる。しかしディエム政権の強権姿勢と腐敗は収まらず。
62年末での数字: 南ベトナム軍、15万名を17万名に増強。双発爆撃機25機、高速艇30隻が米軍から供与され、空挺部隊の増設、特殊部隊(コマンド)も新設される。解放戦線の実数は、初期の不慣れから犠牲が大きく7,000名程度に減少したといわれる。
死者は政府軍側約5,000名、解放戦線側12,100名。またアメリカ軍事顧問団の死者は11名(南政府発表)。62年末 モン族ゲリラの指導者Vang Pao、シェンクアン県ロンチェンに拠点を設立、モン族青年をリクルートし、アメリカCIA によって訓練や武器支援を受けた。
62年 中国、解放戦線への軍事援助を強化。小銃と機関銃あわせて9万丁を供与。解放戦線の武器のすべてが中国製となる。
アプバクの戦闘
アプバク(Ap Bac)の戦い
62.12 ミトから25キロ、タンフー村アプバクに解放戦線二個中隊(解放軍第261大隊第一中隊130人と第514大隊第一中隊120人)が入る。アプバクはサイゴン南西60キロ(一説では100キロ)、国道4号線から北へ3キロ入った水田地帯の一部落。60年9月以来、解放戦線の拠点となっていた。
12月末 南ベトナム情報部、Ap Bacに解放戦線の放送局があるとの判断。解放戦線の兵力は一個中隊100名程度とみなされた。実際には2つの正規兵旅団(旅団514、旅団216)に属する二個中隊と民兵をあわせ約400人。米国製重機関銃1丁、軽機関銃12丁、60ミリ迫撃砲一門からなっていた。司令官はバイデン(またはダン・ミンニャン)で北ベトナムの軍事教練学校出身のエリート軍人だった。(上記項目と細部に異同あり、ここでは併記しておく)
1.01 情報を入手したサイゴン政府軍は攻撃準備に入る。司令官ジョン・ポール・ヴァンは、送信機を押収するよう命令された。軍用ヘリ15機、M113装甲車を備え、51人の米軍事顧問が指導する1個連隊3千名が動員される。(一説では3個大隊1400名)
1.01 一説では当初の目標はアプバク北方のアプ・タントイだった。歩兵一個旅団がAp Bacを攻撃。その間に“Bao An”二個旅団が背後から川岸に沿ってアプ・タントイを攻撃することとなる。さらにLy Tong Ba陸軍大尉の指揮する第7中隊が予備を勤める。
1.02 早朝 サイゴン軍、アプバクへの砲撃と航空機による爆撃を行う。その後H-21ヘリコプター(通称Flying Banana)に乗った歩兵部隊がアプタントイ西方に着陸。部落内への進入を図る。
午前 解放戦線、着陸しようとした軍用ヘリを奇襲。輸送ヘリ5機が撃墜され、11機が損傷。ヘリ操縦士の米軍事顧問3名が死亡する。
正午 M113装甲車13両がアプバクに進入。ゲリラは左翼の大隊を待ち伏せ攻撃。重機銃の掃射により政府軍は甚大な被害を出す。ゲリラ兵士はM113車上に登り、手榴弾を車内に投げ込む。1時間後にサイゴン軍は装甲車6台を失い撤退。
夕方 落下傘部隊員の2つの中隊が増派される。隊員を載せた飛行機がアプバク上空で撃墜され、18人が死亡。残りも水田に中に降下し動きが取れなくなる。
午後8時 戦闘が終了。解放戦線は夜闇に紛れ逃れ去る。政府軍は一日だけで83人の死者、108人の負傷者を出す。5台のヘリコプターと装甲車1台が破壊された。解放戦線側の記録では、政府軍450人が死傷し、米軍時顧問3人が死亡、9台のヘリコプターと3台のM-113装甲車が破壊されたとされる。
1.04 「政府軍は甚大な被害を出し、ベトコン勝利」の報は米国紙の第一面を飾る。
戦闘の数字: 米軍は3名の死者をふくむ13人の死傷者。政府軍は65名が戦死、400名あまりが負傷する。解放戦線側は一個大隊規模400名とされるが、200人、350人など諸説あり。解放戦線側損害は戦死12人、負傷者10人とされる。
2.20 カンプチア共産党が第3回大会を開催。フランス帰りのエリート留学生サロト・サル(ポル・ポト)を書記長に選出する。
クメール・ルージュの由来: シハヌークは国費留学生が共産主義に染まってしまったことを怒り、「クメール・ルージュ」(赤いクメール人)と呼んで非難しました。これがそのままクメールルージュの名の由来になっています。クメールベトミンのナンバー3であったポルポトは、親ベトナムの幹部たちをひそかに暗殺し共産党の実権をにぎります。
2月 アメリカ総合参謀本部は戦闘守則を改正。アプバクの惨敗を機に、ベトナムにおけるアメリカ軍の役割を顧問団(Advisory Group)から顧問軍(Advisory Force)に変える。これによってアメリカ軍人が武器を持って直接敵と交戦することが法律的に可能となる。
2月 コン・レ軍のドゥアン大佐ら中立左派がコン・レの親米姿勢に反発。コン・レの右腕とされるケッサナ大佐を暗殺する。コン・レは右派との連携に動く。
3月 統合参謀本部は3 段階の撤退計画を立案。1964 年までに数千人にのぼる米兵を撤退させ、1967 年までに全面撤退させることとする。ケネディは上院院内総務のマイク・マンスフィールドには、「来年の頭には撤退を開始する」と伝え、ジャーナリストのチャールズ・バートレットには、「ベトナムにい続けても勝ち目はない」と告げる。
4.01 中立左派のキニム外相が暗殺される。これを機に第2次ラオス連合政府が崩壊。
4月 愛国戦線閣僚はビエンチャンを引き揚げる。中立派軍と左派軍の関係は険悪となる。中立派軍の有力将校ケッツアナ大佐やポルセナ外相が相次いで暗殺されたことから、両派の間に戦闘が始まる。
4月 ドゥアン大佐の部隊はパテート・ラーオ側につく。その後、ポンサリー県知事であるカムアン・ブッパ大佐率いる勢力と統合し、愛国中立派を形成する。
63年5月
5月初め 政府部内から仏教徒が排斥され、統一仏教協会に解散命令が出されるなど仏教徒への弾圧が強まる。ほとんどの寺院は閉鎖される。
5.08 仏教徒が釈迦生誕祭に対する取り締まりに抗議して各地でデモ。フエで警察と軍が仏教徒デモ隊を銃撃。女性一人と子ども8人が死亡、14人が負傷。うち何人かは装甲車のキャタピラに踏み潰されたという。僧侶はハンストなどで抵抗。ディエム大統領は「デモはベトコンの仕業」と非難する。
5.10 仏教徒、南ベトナム政府に対し抗議宣言。仏教旗の掲揚の自由、カトリックとの法の下での平等、5月8日の事件の犯人の処罰をもとめる。
5.18 ノルティング大使は、ディエムに仏教徒の要求に応じ、フエ事件の責任を認めるよう説得。
アメリカはディエム政権に対して、基盤強化のための改革を行うようもとめたが、カイライと呼ばれるのを嫌ったディエムはこれに反発し、さらに独裁的性格を強めた(古田)。
5.30 仏教徒幹部350人がサイゴンの国会議事堂前でデモ。
63年6月
6.04 南ベトナム政府、ト副大統領を議長とする委員会を創設。仏教徒問題の解決に乗り出す(ふり)。
6.11 フエのティエンムー(天姥)寺院のティック・クアン・ドック師が、サイゴンのアメリカ大使館前でガソリンを頭からかぶり、焼身自殺。その後も5人の僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぐ。ジエムは「他の僧にもよろこんでガソリンを提供しよう」と述べ、”南“政権の独裁ぶりを強く印象づける。
伊藤の「ベトナム」によれば、師は自家用車を運転しサイゴンに赴き、交差点に車を止めると、車からガソリンを抜いて体にかぶり、火をつけたという。なお伊藤の本では本文でトゥ−ダム寺院のディック・ティウ・ディウ師となっているが、その上の写真の説明にはティエンムー寺院のティック・クアン・ドゥクとなっている
6.16 南ベトナム政府と仏教徒が共同声明を発表。和解の基本線で合意する。しかし5月8日の事件に対する責任には触れられず。
6.17 南ベトナム軍、仏教徒のデモを暴力的に弾圧。
6.27 ケネディ大統領は、フレデリック・ノルティングに代わりヘンリー・カボート・ロッジがサイゴン駐在大使に就任すると発表。
63年7月
7.04 仏教徒のタン・バン・ドン(Tran Van Don)将軍がサイゴンのCIAと連絡をとり、反ディエムのクーデターについて打診。
7.15 ノルティング大使、ディエムと会見。ラジオで仏教徒に譲歩案を発表させることで同意をとりつける。
7.19 アメリカの圧力の下で、ディエムは2分間のラジオ演説を行い、仏教徒への取るに足りない譲歩を冷淡に発表する。
63年8月
8.05 二番目の仏教僧が、ディエム政権の砲火に抗議して焼身自殺する。
8.06 マダム・ヌー、「あれは単なる坊主のバーベキュー料理である」とテレビで語る。マダム・ヌーは本名チャン・レ・スアン。ゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻、ゴ・ディン・ヌーはゴ・ディン・ジェム大統領の実弟。
8.06 マダム・ヌーの発言に対し欧米からは非難の嵐が浴びせられる。マダム・ヌーはドラゴン・レディーの異名を奉られる。ケネディ大統領もこの発言に激怒したと伝えられる。
8.14 ノルティング大使とディエム大統領の最後の会談。ディエムはニュ夫人の批評を公的に拒否することに同意する。
8.15 ディエム、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙とインタビュー。仏教徒との協調は彼の一貫した政策であると述べる。
8.18 サイゴンで、仏教徒の反政府デモに1万5千人が参加。指導者は米政府関係者に、「おろかなディエム政権を支援し続ける」責任をきびしく問う。
8.20 南ベトナム軍幹部、ディエムに戒厳令公布を迫る。これにより仏教徒のサイゴンへの集中を回避し、首都の緊張を緩和することを狙う。
8.21 ジエム政権、全国に戒厳令を公布。サイゴン、フエをはじめとする都市の仏教寺院に対する弾圧。ゴ・ジン・ヌー配下の特殊部隊が仏教寺院を襲撃。1400人の僧侶が暴行され、逮捕され、何人かが殺される。これにより米国のディエム政権への一切の幻想は消失する。
8.22 ヘンリー・キャボット・ロッジ、南ベトナム新大使として戒厳令下のサイゴンに赴任。ジェム大統領に会見を申し出るが拒否される。
8.23 ファン・バンドン将軍の片腕のキム将軍、米使節団のラファス・フィリップスと会見。米国が固い決意を示すならば、軍によるニュの除去は可能であると述べる。
8.24 ジエム政権に反対の学生がデモ。政府は全学校を閉鎖して対抗。
8.24 ロッジ新大使が米国務省に最初の報告。「ディエムの全面的支援を受けたニュは、仏教徒政策の決定権を握っている。ディエムは人心を失っており、危機突破と戦争遂行の妨げとなっている」と述べる。
8.25 ハノイで5万人集会。「南ベトナム人民と仏教徒を弾圧するアメリカとジエムに強く反対する」とのスローガンを掲げる。
8.27 カンボジア、南ベトナムと国交断交。ジエム政権の外相は仏教徒指導部への連帯のしるしに剃髪し、辞任する。
8.29 ドゥオン・バン・ミン将軍、CIAのルー・コネインに接触。「米国は、クーデターに対する支援の証として、ディエムへの援助を中止するとの通告を発しなければならない」と告げる。
ドゥオン・バン・ミン: 巨体のために「ビッグ・ミン」と呼ばれた。南ベトナム出身の仏教徒で、アンクアン寺派や反政府学生組織からも支持されていた。パリ和平協定成立後は第三勢力の指導者として民族和解を唱えた。
8.29 ロッジ大使、ラスクあてに電報。「ディエム政権の下では戦争に勝つ可能性はない。ディエム政権は打倒するしかない。もう体裁のよい後退はない」と述べる。ラスクは「成功する可能性の高いクーデター」を支持すると返電。
ロッジ報告に対する米国務省の反応については諸説がある。ヒルズマン、ハリマン、フォレスタルら国務省幹部は、「米国はニュが権力にとどまり続けることをもはや見逃せない。もしディエムがニュを排除するつもりがないのなら、将軍たちに、米国は経済・軍事援助を停止する用意があり、南ベトナム政府の一時的崩壊を容認する可能性があると告げなければならない」と述べ、ロッジに対して「新しい指導者について緊急に検討し、交替の方法についても詳細な計画を立てる」よう指示したといわれる。これは反ディエムの軍事クーデターを組織するよう示唆したと取れなくもない。事実、ロッジはそう受け取ったようである。
8.31 ミン将軍、サイゴンでは十分な兵力を獲得できないとしてクーデターを断念する。
63年9月
9.03 ケネディ、ウォルター・クロンカイトとのTVニュース・インタビューに出演。南ベトナム政府の根本的改革について言及する。
ケネディ発言の内容: サイゴン政府が国民の支持を得なければこの戦争には勝てない。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている。この政府が人民の支持を回復するためには、政策とメンバーの変更が必要だ。さもなければ、コミュニストがヴェトナムを支配することになるだろう。そしてそれはただちにタイ、カンボジア、ラオス、マレー半島へと波及していくだろう。
9.03 ケネディ、政府関係者らにミン将軍を始めとする共謀者との関係を絶つよう命じる。一説によれば、ケネディは、当初ジエム大統領転覆計画に反対した。ジエム政権の破綻は、米軍撤退の「好機」となるかも知れぬと考えていたからである。
9.10 米軍幹部のクルラック将軍とジョセフ・メンデンホールがベトナム訪問。クルラックは「実戦は成功しており、政治危機はほとんど影響がない」と報告。これに対しメンデンホールは、「ディエム体制への離反が政府崩壊の危機を招いている」と主張する。
9.11 ホワイトハウス、ベトナムへの経済援助の更新を引き伸ばし、ディエム政権に圧力をかける。
9月 統合参謀本部議長テイラーとマクナマラは、ジエムに「これまで説明してきた具体的な措置をとらぬなら、かなり短いうちに軍を撤退する」と警告する。
9月 アメリカ政府、ゴ大統領に退陣を勧告する。ゴはこの提案を拒否。これを受けたCIAは、軍部によるクーデターを画策する。ロッジ大使とペンタゴン、クーデター計画に暗黙の支持を与える。(この項、真偽不明)
63年10月
10.02 ロバート・マクナマラ国防長官とマクスウェル・テイラー将軍、戦争の進捗を確かめるためベトナムを訪問。予告なしの一時援助停止によりディエム政権の出方を伺う。クーデターについては反対するが、ディエムに代わる指導者を見極め養成することを勧告。
10.05 ロッジ大使、軍の長老であるドゥオン・バン・ミン将軍が反乱への保証をもとめて来たと報告。彼を「ビッグ・ミン」と呼び、ケネディの支持を求める。ケネディはこれに賛成の意を表明。サイゴンのルー・コネインCIA支局長は、米国がクーデターの邪魔をしないことをドゥオン・バン・ミンに請合う。
10.06 ケネディ大統領、ロッジ大使にメッセージを送る。「現在のところ、クーデターに激励を与えるような、いかなるイニシアティブもとられてはならない。しかしそれを妨害するような行動もとられてはならない。もし交替可能なリーダーシップが現れるならば、身元を確認し、接触をとらなければならない」
10.11 南ベトナム情報省、「戦略村計画が”成功裡、かつ完全に“終了した」と発表。
10.27 ディエム大統領、ロッジ大使と会談。政策の変化について検討することを拒否。ロッジはワシントンに「事態はすでにベトナム人の手の中に握られており、もはやクーデターを止める力はない」と打電。
10.30 バンディ大統領補佐官からロッジ大使に電報。「クーデターの成功はアメリカ政府の利益にかなうものである」とし、(中立を守るという)制約の範囲内で協力するよう指示。
10.31 ケネディ、「年末までに軍事顧問団を1000人引き揚げる」と発表。マクナマラ国防長官が1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表。混沌としたベトナムの状況下で、軍事顧問団の増強を行っても状況を打破できないとして、段階的撤退の方向に方針を転換。
63年11月 クーデター
11月01日
午前10時 ロッジ大使、大統領官邸を訪問しディエムと会談。12時に会見を終了。
午後1:30 ドゥオン・バン・ミンの部隊が戦車の轟音とともにサイゴン市内に出動。警察本部を制圧し、大統領官邸を包囲する。ディエム兄弟は降伏を拒否し、忠誠派の決起を試みる。
午後2:00 ディエム、ロッジに電話し米政府の態度を問う。ロッジは「ワシントンは午前4時半であり、見解を示すことは出来ないだろう」と応える。同時にディエムの安全に対する懸念を表明する。ディエムは「私は、命令系統を回復させようと試みている」と応えたという。
午後8時 ディエム兄弟は地下トンネルを通って大統領官邸を抜け出し、裕福な中国の商人が所有するチョロンの隠れ家に潜む。
11月02日
午前3時 ディエムの側近が、ドゥオン・バン・ミンに隠れ家を密告する。ディエム兄弟は追っ手を逃れ、カトリックのチャタム教会に移動し潜伏。
午前6時 ディエム、ドゥオン・バン・ミン将軍に電話し、降伏を申し入れる。反乱軍の将校が教会に行き、兄弟の身柄を拘束する。兄弟を乗せた装甲車は、サイゴンに向かう途中に停車。二人の頭部を撃ち殺害する。マダム・ヌーらは、そのまま国外へ亡命する。
午後 ズオン・バン・ミンを首班とした革命軍事委員会が成立。軍事委員会の監督の下に民間人の内閣が置かれる。グエン・コクト副大統領が大統領に就任。
11.05 南ベトナムの新政府が発表される。ミン将軍は大統領と軍事革命評議会の執行委員長を兼務。投獄されていた仏教徒が釈放される。ミン政権は中立志向を持ち、革命勢力との対決よりは対話を求める。米軍部はこれを懸念した。
11.08 米国、新政府を承認。クーデターの発生の報告を受けたケネディ大統領は、アメリカは無関係との声明を出すように指示。(後にマクナマラ国防長官は、ケネディ大統領がクーデターを事実上黙認したと証言)
11.20 マクナマラ、軍司令官らと会談。ベトナムにおける「本格的」秘密作戦を、CIAではなくペンタゴン主導で展開するよう主張する。
11.21 ケネディは暗殺の前夜、国家安全保障会議のマイケル・フォレスタルと会話。「どうやってベトナムにはまってしまったのか、そこにとどまるべきかどうか、全面的かつ相当深い検討を始めたい」と語ったとされる。
11.22 ケネディがテキサス州ダラスで暗殺される。リンドン・B・ジョンソン副大統領が大統領に就任する。国家安全保障行動メモ273において、ジョンソンはケネディ政権の政策継承を確認する。
11.24 ジョンソン、ワシントンでロッジ大使と会見。「ベトナムを失うことはない」と宣言し、南ベトナム新政権への支持を明らかにする。
11.26 ジョンソンは国家安全保障行動覚書(NSAM 273号)を承認。「1965 年の終わりまでにベトナムから米軍要員の大半を撤退させる目標をはっきりと指示した」もの。
11.26 ジョンソンはラオス領内50キロまでの秘密軍事作戦を承認。北ベトナムに対する秘密作戦の立案を命じる。また解放戦線の拠点となっているメコンデルタでの平定の努力を南ベトナム政府にもとめる。
11月 ベトナム全土で187の戦略村が同時に攻撃される。農民の間に戦略村への入村を拒否する動き。
11月 ベトナムのクーデターに警戒を強めるシアヌーク元首、米国の援助を拒否。
63年12月
12.06 メコン・デルタのロンアン省についてのUSOMレポート、戦略村プログラムがほぼ壊滅したと述べる。
12月 マクナマラは、在ベトナム司令官ハーキンス将軍とロッジに秘密作戦の実施を迫る。「アメリカは南ベトナムにおける共産主義の勝利を絶対に容認せず、共産主義打倒のためには戦闘をどんな規模にまでも拡大する」ことを示唆する作戦である。
12月 労働党第9回中央委員会総会。ジエム政権の崩壊とケネディ暗殺を受け、武装闘争の飛躍的強化を決定。フルシチョフの現代修正主義と平和共存路線を厳しく批判。党内親ソ派は弾圧される。同時に毛沢東の主張するソ連との絶縁は拒否。
12月 シアヌーク、貿易や銀行業務の国営化政策を打ち出し、米国の援助を拒否し、中国と北ベトナムに接近する姿勢を示す。また中立を国際的に保障するための国際会議の開催を提唱。
12月 労働党中央委員会。クーデター後の南ベトナム情勢を分析。「長期戦の体制を堅持しつつ、数年のうちに決定的な勝利を獲得する」ことを決定。あわせて中立志向の政権の可能性も追求。北ベトナムからは南部出身者が1万人単位で送り込まれる。ただし古田によれば、武器の92%は南で確保されたものであり、この時点では「北からの侵略」とはいえなかった。
63年末の数字: 解放戦線は支配層の混乱に乗じ息を吹き返す。アメリカ側の推計で、解放戦線の正規部隊の隊員数が2万5千名に達する。自衛ゲリラはこれを上回るスピードで増強される。作戦は、中隊規模(100〜500名)から大隊規模(500〜1,000名)へ拡大。しかし戦闘地域はメコン・デルタと中部が主体で、サイゴン周辺と海岸沿いの都市は攻撃を免れる。
南ベトナム駐留の米軍事顧問は、年末には1万6千人に増加。アメリカ軍属および民間人の数は約10万人に達する。米国の南ベトナム政府に対する援助は年額5億ドルに達する。戦死者はアメリカ軍78名、南ベトナム政府軍8,100名、解放戦線20,600名とされる。
64年1月
1.01 解放戦線第二回大会。グエン・フート議長は「戦術村政策の破綻は、アメリカの特殊戦争の重要な柱が動揺しつつあることを意味する」と報告。
解放戦線による「戦果」: この3年間で1455人のアメリカ人をふくむ25万人を殲滅し、865機の航空機・ヘリを撃墜・撃破する。解放区は国土の3分の2を超え、その人口は700万人に達する。(さすがに誇大であろう。米側の推定では農村部の40%としている) 1.24 ウィリアム・ウェストモーランド中将、MACVの副司令官に任命される。
1.30 軍事革命政府の解放戦線への消極策に反発する軍内強硬派がクーデター。第二軍団(一説に第一軍)司令官グエン・カーン(阮慶)少将がサイゴン市内の各所を占拠。軍事革命委員会の首脳を逮捕し新軍事革命委員会議長に就任.ドゥオン・バン・ミンは自宅監禁の下に置かれる。ミンの中立志向を懸念する米軍部の差し金とされる。
1月 解放戦線は都市部での後方かく乱作戦を開始。サイゴン市内を中心に無差別テロ攻撃を展開する。ターゲットも映画館やレストランやホテル、ディスコにまで広がり、サイゴンはじめ都市部の治安は一挙に悪化。南ベトナム市民の死者が1965年の前半だけで1000人以上にも及ぶ。
1月 MACV内に研究・観察グループ (SOG) が編成される。
1月 テイラー統合参謀本部議長は、南ベトナム側の攻撃と見せかけた米軍による北爆を要請。
1月 ジョンソン大統領、「34A 作戦計画」を承認。統合参謀本部直属の「反乱鎮圧・特殊活動担当補佐官室」が統括・指揮。実際の攻撃は米軍の支援を受けたベトナム人とアジア人傭兵がおこなうこととする。
64年2月
2.01 米軍、「34A作戦計画」を開始。U2偵察機による北ベトナム上空の偵察の飛行、情報収集目的での北ベトナム市民の拉致・誘拐、鉄道・橋梁破壊工作チームの潜入、哨戒魚雷艇による沿岸部攻撃をおこなう。また、北ベトナムから解放戦線への物資援助を阻止するため、ラオスへの爆撃も強められた。
2.08 米国の非難を受けたグエン・カーン、名目的に政権の座をズオン・バン・ミンに戻す。
2月 マクナマラ、ソ連と中国からの支援を断つために、「主要工業施設」と「共産主義中国につながる主要鉄道線路」の爆破を承認するようジョンソンに強く求める。統合参謀本部もCIA も、北ベトナム政府の存続が脅かされない限りソ連政府は介入しないだろうという点で意見が一致していた。
64年3月
3.06 マクナマラが南ベトナムを訪問。グエン・カーン政権に対する「賞賛、敬意そして完全な支持」を表明し、「我々はとどまる、我々は、どんな援助でも提供する。コミュニストとの戦いのために」と語る。
3.15 米国家安全保障会議が開かれる。マクナマラは南ベトナム政府への米軍支援強化と5万人の米軍増派をもとめる。米政府内部にベトナム北進論が台頭。
マクナマラ報告: 状況は明らかに悪化している。領土の4割はベトコンの支配かベトコンの強い影響下におかれている。いまや国民の多くに冷淡、無関心の兆候が見られる。南ベトナム軍と民兵組織の脱走率は高く、増加している。一方でベトコン側は精力的かつ効果的に兵士を補充している。
3.16 グエン・カーンがふたたび政権を奪取。ズオン・バン・ミンはタイへ追放される。
3.17 米国家安全保障会議、ベトナム政策の見直しをおこなう。南ベトナム軍を5万に増強し、経済・政治援助の強化の方針を定める。この時点では北への攻撃、米地上軍の派遣は見送られる。南政府はこれに応じ、民生向上計画を発表。
3.17 ジョンソン大統領、@敵の攻撃に対して72時間の間隔を置いて発動する、北ベトナムへの報復爆撃、A30日間の間隔を置いて開始する全面北爆の計画を立てるよう指示。
3月 ラオス領内のホー・チミン・ルートに対し、CIA傭兵パイロットによる秘密爆撃が開始される。
3月 米軍推定で、南ベトナムの農村の40%が解放戦線の支配下に入る。
64年4月
4.17 統合参謀本部、北爆開始のための「37−64作戦計画」を策定。94ヶ所の爆撃目標を定め、西太平洋に配置された航空勢力を動員して、12日間で完全に破壊する計画。
4.19 第3次連合政府樹立に向けた会談が失敗に終わる。
4月 ビエンチャンで右派のクーデター。首都区司令官のアバイ将軍と国警長官シーホー将軍の率いる国軍革命委員会がプーマ首相を一時拘束。しかし内外の圧力に押されプーマの復職を認める。
4月 プーマは中立策を棄て、右派勢力と合同。右派・中立派軍が統合され、プーマ政権における右派の勢力が強化される。
4月 北ベトナム正規軍が非武装地帯を越えて南への浸透作戦を開始する。
4月 アメリカ、北ベトナム軍のラオス進攻に対抗し、軍事援助を大幅に強化。空母二隻がベトナム近海を哨戒。
4月 レ・ズアン書記長が訪ソ。関係修復を図る。これまでにソ連からの軍事援助は半減する。
5.15 MAAGが解散される。すべての機能がMACVへ移動。
64年5月
5月半ば ジョンソン政権、大統領のヴェトナム戦争政策を支持する決議を上げるよう議会に働きかける。この企画は流産するが、トンキン湾決議の基礎として用いられる。
5.30 ラスク国務長官がグエン・カーン将軍と会談。「通常兵器で戦ってとことん血を流すことは許されない」と述べ、核兵器使用の意図を明確にする。カインは、「アメリカの核使用に異議をはさむ気はまったくない」と応じたとされる。
5月 米軍の航空機を積んだカード号(1万5千トン)がサイゴンで爆弾を仕掛けられ沈没する。
5月中旬 パテト・ラオ軍、ジャール平原で軍事行動を開始。中立派軍を一掃する。コン・レ軍の半分はドゥアン大佐とともにパテトラオにつく。
5月 プーマ首相、米国にパテト・ラオ地区の偵察飛行を要請。またラオス中立宣言に基づいて、関係各国がヴィエンチャンで協議することを要請する。アメリカは政府軍への援助を強化。パテトラオ支配区への空爆を開始する。
5月 バンディ、ラスク、マクナマラ、マコーンCIA 長官、テイラー統合参謀本部議長は、国家安全保障会議の執行委員会を結成。この決定は大統領の承認を受けていなかった。執行委員会は南ベトナムでの戦闘および北ベトナムへの爆撃の強化に焦点をあて「強制的外交」の計画を作成。
5月 共和党のゴールドウォーター大統領候補、戦地司令官に戦術核兵器の使用権限を与えるよう主張。カーティス・ルメイ将軍は、「ベトナムを石器時代に戻すまで爆撃する」ことを要求。ジョンソンはゴールドウォーターを、「やたら銃を撃ちたがる」と批判、自らを「平和の候補者」だと売り込む。
5月 ベトナム空軍によるカンボディア領チャントレア村誤爆事件が発生。その後誤爆事件が相次ぐ。カンボディアは国連安保理事会に問題を提訴するが、調停案が南ベトナム寄りとして拒否。
7月 カンボジア、貿易の国営化を実施。
64年6月
6.20 MACVのポール・ハーキンズ司令官が転出。副司令官のウエストモーランド中将が後任となる。米政府は5千人の新たな増派を発表。駐留米軍は2万1千人に達する。
6月 ジョンソン大統領、北ベトナムに警告。「アメリカの忍耐にも限界がある。ベトコンを指揮しているのは北ベトナムであると理解している。アメリカが戦争拡大やむなしと判断すれば、最大の破壊は当然民主ベトナム共和国自身にもたらされることになる」
6月頃 米軍と南ベトナム政府、戦略村計画を放棄。
6月 国防、国務両長官および統合参謀本部議長などがホノルル会議を開催。東南アジア情勢を検討する。
6月 米、英、タイ、南ベトナム、インド、カナダ六国が参加してヴィエンチャンで協議。即時停戦とパテト・ラオが二月の地点まで撤退するよう呼びかけるプーマ政府支持のアピールが採決された。
6月 パテト・ラオ軍、ジャール平原から撤退。
64年7月
7.01 ヘンリー・ロッジ駐サイゴン大使が辞任。統合参謀本部議長のマクスウェルD.テイラー将軍が後任大使に任命される。
7.06午前2時 高原地帯北部のナム・ドン特殊部隊キャンプ(アメリカ人アドバイザー12名、民兵300名)を、解放戦線800人が攻撃。
ナムドン攻防戦: このキャンプでは、グリーンベレー第5特殊部隊群分遣隊チームA-726の隊員12名が少数民族CIDG約300人を軍事訓練していた。
解放戦線はキャンプを包囲した後、迫撃砲と重機関銃で攻撃。一部が基地に侵入した。米軍は悪天候の中、夜明けとともに28機のヘリコプターを強行着陸させ、93名の兵士、弾薬、医療品をキャンプに送り込み、解放戦線を撃退した。この戦闘で米軍人2名、豪軍人1名、南ベトナム軍兵士55名が殺害される。解放戦線側も62名の死者。7.16 バリー・ゴールドウォーター上院議員が、共和党の大統領候補に選ばれる。ゴールドウォーターは、「自由の防衛における過激主義は悪ではない」と宣言する。
7月末 米軍が供与したラオス軍航空機が北ベトナム農村地帯を越境爆撃。
7.30 米軍、秘密作戦「プラン34A」を強化。米駆逐艦がゲアン沖4キロのホンゲ島、ホアン沖12キロのホンメ島を砲撃。北ベトナムはジュネーブ協定に違反すると抗議。(一説では、米艦ではなく南ベトナム軍艦船、ゲアン省ではなくタインホア省、ホンゲ島ではなくホングー島)
7.31 南ベトナム軍の特別攻撃隊が偽装した快速艇で島に上陸。レーダー・サイト2ヶ所を破壊する。駆逐艦マドックス号もこの作戦に参加。コマンド部隊の作戦を支援する一方、レーダー場所を正確に指摘するため、電子機器による秘密情報収集をおこなう。
7月 解放戦線に、北ベトナムからカラシニコフAK47など最新の武器が送られる。解放戦線は飛躍的に火力を増強。北ベトナム正規兵の補強を受け、兵力は5万6千に増強される。
7月 ニュージーランド部隊が到着。サイゴン東部フォクトゥイ省のオーストラリア軍に合流。
64年8月 トンキン湾事件
8.01 ラオス領内から飛来した米戦闘爆撃機4機が、国境から20キロ離れたゲ・アン州キ・ソン県のナム・カン国境監視所およびノン・デ村を爆撃。ロケット弾により1人が負傷、多数の住宅が破壊される。米国当局は事件そのものを否定。
8.02 マドックス号、トンキン湾沖の「公海上」で水雷攻撃を受ける。マドックスは抗戦後駆逐艦ターナー・ジョイと合流し、南ベトナム海域へと撤退する。
8.02 マドックスの艦長は「異常な天候のために」混乱が起こったかも知れぬとし、報復する前に事態を「完全に把握する」よう求める。マクナマラはジョンソンにそれを伝えなかった。
国防総省当局の発表によれば、アメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」が、海岸から30マイルの公海を航行中に、国籍不明の魚雷艇三隻に攻撃を受ける。さらに37ミリ機関砲の攻撃を受け、空母タイコンデロガの艦載機も加わってこれに応戦。米側には被害は無かったが、魚雷艇の一隻は大破して、海上に停止、他の2隻も損害を受けて退却。「マドックス」号はそれまで6ヶ月間、南ベトナム海軍とともに隠密の偵察行動を続けていた。
いっぽう、北ベトナム側の記録によれば、北ベトナム魚雷艇はマドックス号を南ベトナム艦艇と間違え攻撃したという。8.02 マドックスへの攻撃の報道を受け、アメリカの世論は激昂。(この後の日付は、現地時間によるものとアメリカ東部時間によるものが混在しており、時間的な前後関係は一部不明確です)
8.03 ジョンソン米大統領、魚雷艦群を「北ベトナム海軍」のものと断定。海軍に対し「米軍勢力を攻撃するいかなる勢力も追い払い破壊する命令」を発する。統合参謀本部議長は米軍戦闘部隊を警戒態勢に置き、北ベトナムの選抜された目標に対し爆撃準備態勢に入る。
8.03 マドックス号に別の駆逐艦ターナー・ジョイ号も加わり、北ベトナム領海内での挑発行動を再開。8マイルの領海線上をジグザグ航海して、北ベトナム側を挑発。南ベトナム特別攻撃隊は、海岸線に沿って快速艇による挑発攻撃を繰り返す。
8.03 米国家安全保障会議が開かれる。北ベトナムに抗議文を送り、「このような事件が再び発生すれば、重大な結果を招くだろう」と正式に警告することを決定。
8.03 北ベトナムが公式声明。「北ベトナム領海を公然と侵し、漁船をおびやかしていた米艦を、北ベトナム巡視艇が追い出したものである。このような行為は当然の罰を受けるだろう」と述べる。(第一次事件の場合、公海上であったか領海内であったかが問題となる)
8.04 第二次トンキン湾事件が「発生」する。別の駆逐艦「ターナー・ジョイ」号がふたたび攻撃を受ける。(でっちあげとされるのは、マドックス号の第一次事件ではなく、こちらの方である)
この日は、夕暮までに雷雨となり、電子機器の精度は低下していた。ターナー・ジョイ号の監視装置を担当するクルー・メンバーは、彼らが北ベトナム巡視艇から水雷攻撃を受けたと誤認した。二隻の駆逐艦は暗闇のなかのファントムに向けて銃砲を乱射した。しかし巡視艇は目視されなかった。後に暴露されたペンタゴン文書によれば、このとき駆逐艦長は「攻撃の兆候はまったくない」と打電していた。
また北ベトナム外務省は「トンキン湾事件白書」で、@該当海域に北ベトナム艦船はまったく出動していず、Aダナン港所属の南ベトナム艦船二隻が当日出動していたことが確認されており、B当該時刻に北ベトナム海上で砲声・火炎が確認されている、などから同士討ちの可能性を示唆している。8.04 統合参謀本部は、北ヴェトナムに対する報復爆撃を強くもとめる。
8.04 アメリカの新聞報道は、第二の攻撃を「目撃者の証言」により生々しく「再現」する。しかし艦上にジャーナリストはいなかった。
8.04 ジョンソン大統領は報復のための爆撃を命令。海軍戦闘爆撃機64機が、北ベトナムの魚雷艇基地4ヶ所(ホンゲイ、ロクチャオ、フォークロウ、カンケ)を警告なしに攻撃。停泊中の魚雷艇25隻が撃沈される。北ベトナムの防空隊は2機を撃墜。エヴェレット・アルバレス大尉が最初のハノイ・ヒルトン宿泊者となる。
8.05 米国で緊急世論調査。ジョンソンの北爆決定を国民の85%が支持する。多くの新聞もジョンソンを支持する社説を掲げる。
8.06 上院で「トンキン湾決議」に対する質疑が行われる。オレゴン選出のウェイン・モース上院議員は、ペンタゴンから提供された情報をもとに政府を追及。マドックス号は、実際、南ベトナムのコマンド部隊による急襲を後方支援することにより、北ヴェトナムに対する戦闘行為に参加しており、「いわれのない」攻撃の犠牲者ではないと批判。
8.07 上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決される。上院では反対2、下院では反対0だった。反対したのはSenator Wayne Morse (D-Oregon) and Senator Ernest Gruening (D-Alaska)
トンキン湾決議: 正式名称は「東南アジアにおける行動に関する議会決議」といわれる。ジョンソン大統領への戦時大権を承認。「アメリカ合衆国軍へのいかなる武装攻撃でもはね返し、さらなる攻撃を防ぐために、必要なあらゆる処置をとる」ことをもとめる。
8.07 グエン=カーン首相、非常事態を宣言。
8.16 南ベトナム軍事革命委員会,暫定憲法を採択,グエン・カーン首相が大統領に就任.
8.21 非常事態令を無視し、学生・仏教徒の抗議運動が拡大。サイゴン市街は無政府状態となる。
8.25 グエン・カーン、反対運動により大統領を辞任.暫定憲法も撤回する。革命軍事評議会はニカ月以内の民政復帰を約して解散。暫定最高機関として軍首脳三人からなる暫定指導委員会体制に移行。亡命から戻ったズオン・バン・ミンが議長を務め、文民のチャン・ティエン・キエムとグエン・カーンがメンバーとなる。
64年9月
9.07 ホワイトハウスでジョンソンの召集した戦略会議が開かれ、翌年年明けからの北爆実施の方向で大綱を決定。
9.07 フルシチョフ、トンキン湾事件が発生して以降のベトナム関係を重視し、党中央監査委員のイリヤ・シチェルバコフをハノイ大使に送り込む。
9.13 ゴー・ディン・ジエム派残党のラム・バンパト准将らが無血クーデターを起こす。翌日には失敗に終わり逮捕される。
9月 パリで三派首脳会談が開かれる。14カ国会議の再開で合意するが、それ以上の進展はなし。
64年10月
10.01 第五特殊部隊グループ、特殊作戦を監督するためベトナムに展開する。
10.11 労働党、南部への人民軍投入と正規戦の展開を決断。連隊規模の正規軍戦闘部隊が出動。グエン・チ・タン将軍が作戦の指揮をとる。補給作戦にはレ・チョン・タン少将があたる。これを受けた解放戦線は、64年末から翌春にかけての一連の攻勢を指示。
10.14 プーマ首相、アメリカ空軍のホー・チ・ミンルートへの爆撃を承認。4機のアメリカ空軍F-105 戦闘機、11 機の偵察機と空中警戒待機が攻撃を開始。
10.14 ソ連政府内部で政権移動。フルシチョフが失脚し、ブレジネフが指導者となる。
10.16 中国が初の原爆実験に成功。
10.26 国家評議会が創設され、議長にカオダイ教系無党派の文民であるファン・カク・スー、首相にチャン・バン・フォンが選出される。
10.15 グエン・バン・チョイ(阮文追)が公開処刑される。グエン・バン・チョイは南部農村の出身。共青同盟員で、解放戦線の秘密工作員。サイゴンを訪れたマクナマラ米国防長官を暗殺するため、橋に爆薬を仕掛けようとしたとされる。拷問にも黙秘を貫き、処刑にあたり毅然とした態度を示したことから、解放戦線の英雄となる。妻の書いた本「あの人の生きたように」は世界的なベストセラーとなる。(ただし米国では反戦運動の世界もふくめ、ほとんど無視されている)10月 シハヌーク元首、「再度侵略をうければ米国と断交し、北ベトナムおよび解放戦線を承認する」と発言。
10月 シハヌーク元首が中国を訪問。解放戦線との交渉で国境問題について原則的了解に達する。
64年11月
11.01 解放戦線、夜明け前に米空軍最大の基地ビエンホワを奇襲。米大統領選を前に揺さぶりをかける。迫撃砲による攻撃で5人のアメリカ人、2人の南ベトナム人兵士が死亡、100人が負傷する。B57爆撃機5機が破壊され、15機が損傷を受ける。ビエンホアはサイゴンの12マイル北にあり、南ベトナム政府軍基地ではなく、米軍の直轄する基地であった。(一説では死者、負傷者の全員がアメリカ人であったとされる)
11.04 米軍LST日本人乗組員,ダナンで南ベトナム警官に射殺される.米軍雇用日本人のベトナム戦争参加が問題化される.
11.03 ジョンソンがゴールドウォーターを大差で破る。議会選挙でも民主党が圧勝し「地すべり的大勝利」といわれる。選挙期間中、ジョンソンはベトナム戦争の「デスカレーション」を示唆する。
11月 テーラー大使、ワシントンあての報告書で、「ベトコンは不死鳥のように回復する能力を持ち、士気を維持する驚くべき能力を持っている」と述べる。関係者のあいだに「ビエンホア・ショック」が広がる。
11月 フォン内閣が成立。フォンはサイゴン市長でディエム時代に投獄された経験を持ち、大衆的人気を持つが実際の権限は皆無。グエン・カーンが三軍トップにとどまり実権を掌握。
11月 カンボディアの民社同盟の主催で、南北両ベトナム、ラオスの全政党すべての愛国運動団体が参加するインドシナ人民会議の開催を提案する。「インドシナ各国民の声を世界にきかせ、インドシナ紛争の平和的解決をはかる」ことを目的とする。
64年12月
12.01 ジョンソン新政権のラスク国務長官・バンディ安全保障担当補佐官・マクナマラ国防長官が、コンセンサスとして、米軍事関与の段階的エスカレーション政策を提示。
12.20 グエン・カーン、ふたたび軍事クーデター。空軍若手将校のグエン・カオ・キを正面に立て、民政移管の直前に設置された立法機関である国家評議会を解散。ドゥオン・バンミンらを押さえ実権を掌握。仏教徒弾圧政策をさらに強化する。フォン内閣は実質上執行権を失い、1ヶ月にわたり政府の最高責任者が存在しない状況が続く。
12.21 テイラー大使、若手将校をアメリカ大使館に召喚し、「クーデターにはあきあきした」と厳しく叱責。若手将校の反発を受けたカーン将軍は、「アメリカは植民地主義に復帰しようとしている」と非難する声明。
12.24 解放戦線、サイゴン中心部の米軍将校宿舎のバーで自動車爆弾を爆発させる。米軍人2人が死亡、58人が負傷する。ジョンソン大統領は報復爆撃を拒否。
12.24 フルシチョフに代わるブレジネフ新政権、解放戦線を「忠実な友」と宣言し、常設代表を派遣する。
1964年末での数字: 米軍の「軍事顧問及び作戦支援グループ」、23,300名に達する。南ベトナム政府軍の兵員数は30万名を越える。これに対し解放戦線は、近代兵器(カラシニコフAK47)を装備した正規軍が2.8〜3.4万名、旧式銃の不正規軍が6万〜8万名、総兵員数は15万名に達する。さらにホーチミン・ルートを通じて、最新装備を備えた北ベトナム正規軍約1万名が中部高原に展開したといわれる。
戦死者数は政府軍8,500名、解放戦線1万6千名とされる。アメリカ軍人の死者数は147名。月平均7.5人のアメリカ人が、解放戦線の爆弾テロなどにより殺される。12月 Vang Pao、第2軍管区司令官に就任。CIA の協力で秘密部隊を設立。
12月 ニュ−デリーでアメリカとカンボジアの会談。誤爆事件による関係悪化の打開を図るが不調に終わる。
12月 カンボジア、北朝鮮との外交関係を樹立。
ビンザーの戦い
64年11月
11月初め 「D戦区」のナムボに置かれた解放戦線の前線司令部委員会、乾季攻勢の対象地域を指定。国道2号線のBaria-Long Khanh地域と、国道15号線のBinh Long-Phuoc Long地域に攻勢をかけることを決定。実行部隊として第271、第272連隊、第80砲兵分隊が指名され、Baria-Long Khanh地域への移動を開始する。
11月末 Baria-Long Khanh地域に解放戦線の作戦部隊が集結。第7軍区からの第500、第800大隊、第6軍区から第186大隊、Hoai Duc(ハノイ郊外の町ではなく地元の地名?)の第445中隊も合流。
64年12月
12.04 政府軍、サイゴン南東60qのビンザー村で平定作戦を展開。
12.09 解放戦線、5回にわたる戦闘で政府軍二個大隊と予備大隊を撃破。Hoai Duc地区のDat Do, Long Thanh and Nhon Trachなどの村落を確保。ビンザー攻略を狙う。
12.24 南ベトナム政府軍二個連隊が、ビンザー(ビンザーの森)平定作戦を開始。
ビンザー(Binh Gia): ビンザーはサイゴンから南東に67qの海岸沿い、ビンザー村とその周囲に広がるゴム園、バナナ農園、マングローブのジャングル。この年、解放戦線の最初の正規軍師団である第9師団が創設されるなど、クチと並ぶ解放戦線の拠点だった。武器は北から海路を通じて送り込まれた。
英語版ウィキペディアでは逆に、北から逃れてきたカトリック教徒の作った村であり、神父が地元民兵の司令官でもあったと記載されている。おそらく両方正しいのであろう。
現在ではここも観光コースに入っているが、残念ながら今回は訪問できなかった。なおこれまでビンジアと表記してきたが、観光パンフレットなどではビンザーのほうが一般的であり、変更する。12月28日
早朝 解放戦線第9師団、ビンザー攻撃を開始。第514大隊を先頭に1,500名を越す兵力で政府軍基地を襲撃。地元民兵部隊が応戦するが、次第に圧倒される。
午前 米軍は政府軍の要請に応え、ヘリのピストン輸送により南ベトナム・レンジャー部隊2個大隊をビンザー村に送り込む。政府軍とアメリカ軍初の共同作戦となる。レンジャー部隊は村まで300メートルの地点まで迫るが、解放戦線に撃退される。
12.29 政府軍第30、第31レンジャー部隊が増援に入るが、これも解放戦線により撃退される。
12.30朝 政府軍第4海兵大隊がヘリボーンでビンザーに入る。午後にはビンザーを制圧するが、解放戦線はすでに撤退していた。
12.30 兵員輸送中の米軍ガンシップが、解放戦線により撃墜される。乗員4名が死亡。
12月31日
夜 ビンザー周囲西方を掃討中の海兵隊一個中隊が解放戦線により包囲される。
朝 救援に向かった海兵隊部隊が解放戦線の待ち伏せ攻撃を受ける。さらに増援に向かった第29、第30、第33レンジャー大隊も待ち伏せされ、猛攻を受ける。
午後 この日だけで最終的に35人の将校をふくむ112人の海兵隊員が死亡。
1.01 南ベトナム増援軍が到着。解放戦線は攻撃を停止する。
1.03 解放戦線、1週間にわたる攻防戦のあとビンザーから撤退。戦闘の中核となった第271連隊は「ビンザー連隊」の称号を受ける。
ビンザー攻防戦の決算: 戦死者は政府軍160名、NFL側480名に達する。またこの戦闘でアメリカ軍事顧問5人が死亡、3人が行方不明となる。さらに航空機24機が撃墜され、装甲車37台が破壊されるなど甚大な被害。解放戦線側は政府軍二個大隊が全滅したとするが、やや誇大宣伝であろう。しかし南ベトナム政府が「我が軍勝利」と発表したのに比べればはるかにましである
1.27 ビンザーでの南ベトナム軍の苦戦を受けたバンディとマクナマラ、連名でジョンソンあてのメモ。「アメリカの限定的なベトナム関与政策は成功していない。我々はいま、戦争を本格化させるか撤退するかの分岐点(fork in the road)にいる」と記す。
1月 ビンザーの闘いを総括したベトナム労働党、「サイゴン政権の軍事的崩壊の可能性が出現した」とし、「全国の力を集中して1年以内に決定的な勝利を勝ち取る」構想を提案する。
65年1月
1.01 アメリカの要請を受けた朴正熙政権、最初の海軍部隊を派遣。米国はその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担する。その他日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドルの軍需物資を調達する。
1.04 サイゴンで仏教徒と学生が反政府・反米デモを再開する。その後フエにも拡大。
1.08 韓国、先遣隊2,000名をベトナムに派遣。最終的には歩兵2個師団、海兵隊1個旅団、工兵などの支援部隊と合計5万名を送る。高い反共意識を持つ韓国軍は、西側最強の戦闘力を保ちつづける。
1.20 ジョンソンが大統領就任演説。「我々は二度と“誇り高い孤立”を保ち続けることは出来ない」と強調。
1.22 デモが過激化する。数十人が逮捕される。政府は23日サイゴンに戒厳令を施行、25日にはフエにも戒厳令。
1.27 グエン・カーンがふたたび軍事クーデター。軍事評議会がファン・バン・フォン内閣を更迭し、グエン・カーンが自ら首相の座に納まる。スー立法評議会議長(名目的元首)は残留。グエン・カーンは仏教徒の支持を背景にしていたが、軍主流を握るカトリック教徒と対立していた。
1月 米海軍、「Operation Game Warden」を開始。武装舟艇が内陸部水路を3千海里にわたりパトロールする。
1月 この頃、岡村昭彦『南べトナム戦争従軍記』(岩波新書)、開高健著『ベトナム戦記』(朝日新聞社)が相次いで刊行される。
1月31日 右派軍部内での対立が表面化。ルアンプラバンのノサヴアン将軍(副首相)が右派の全将軍を召集して会議を開催。無名のブーンルート・サイコシー(Bounleut Saycocie)大佐が政府ラジオ局と競技場を占拠する。連合政府には反対せず軍の再組織化を要求するが真意は不明。
65年2月
2.03 ルアンプラバンのノサヴアン副首相とシーホー国警長官が、軍規粛正、前線将兵留守家族の生活保証要求を名分とするクーデターを起こすが失敗。タイに亡命する。これを機に右派内部での指導権が移動。
プレーク急襲事件とフレイミング・ダート(燃える投げ槍)作戦
2.07午前2時 解放戦線(実際は中部軍事司令官ダン・ブ・ヒエプ上将の率いる北ベトナム正規軍)がプレーク基地を奇襲攻撃。カノン砲、57ミリ無反動砲などで至近距離から攻撃。特攻隊が基地内に侵入し、宿舎に火をつけ、航空機10機を破壊。30分後に消え去る。この襲撃で米軍事顧問8人が殺され、76人が負傷。(一説に“政府発表で43機が破壊”とされる)
プレーク基地: 中部高原地帯にある南ベトナム政府軍の基地。第二軍団の司令部がおかれる。アメリカ軍特殊部隊の基地ともなっており、1千人を超える米軍事顧問団が駐屯していた。一説では「プレーク・クイホン基地」(http://www.indochina-war.com/history.htm)とある。 2.07早朝 南ベトナム訪問中のバンディ補佐官、ジョンソンに電話し、「攻撃はアメリカ人を狙ったものであり、直ちに報復しなければならない」と報告。
2.07午前(ワシントン時間で6日午後9時) ジョンソン大統領は、国家安全保障会議を招集。限定北爆の開始を命令する。
ニューヨークタイムスのトム・ウィッカー記者は味のある文章を書いている。「ジョンソンは周囲を見渡した。そして、マクナマラの中に、北爆が技術的に可能であるとの確信を、バンディの中に、それが知的に健全な政策であるとの信念を、ラスクの中に、それが歴史的な必然であるとの保証を見出したのであった」
要するに、ジョンソンは迷える子羊であり、ケネディ・マフィアこそがベトナム戦争の推進役であったことが、そこには浮き彫りにされている。2.07午後3時 空母レンジャー(一説にコーラル・シーとハンコック)を飛び立った艦載機45機が、北ベトナム南部クアンビン省のドンホイ、コンコ島などを爆撃。フレイミング・ダート(燃える投げ槍)作戦と呼ばれる。ドンホイでは、被害は「戦略的要所」にとどまらず病院も爆撃されている。限定北爆直後の世論調査で、ジョンソンへの支持率は70%に達する。
2.10 解放戦線ゲリラ、ビンディン省の省都クイニョンの米軍宿舎に爆弾。米国人要員23人が死亡。
2.11 コスイギン首相を団長とするソ連代表団がハノイを訪問。代表団にはソ連共産党のイデオローグであるアンドロポフ対外連絡部長が同行。コスイギンは、防衛力強化のため必要な手段について北ベトナムと合意に達したと述べる。数週間後に、新型の地対空ミサイルがハノイに到着。
2.11 第二波のフレーミング・ダート作戦が実施される。コスイギン滞在中の攻撃に対し、ドブルイニン駐米大使は「ソ連への挑発行為」と非難。
2.19 ファン・ゴクタオスル(カトリック教徒)によるクーデターが発生。(この人名は詳細不明。日本外務省の文書では「タオ大佐」との表記)
2.21 クーデターは失敗に終わるが、国軍会議でグエン・カーンが度重なる混乱の責任を問われ、3軍司令官を解任される。後任にチャン・バンミン少将が就任。グエン・バン・チューが国軍会議の議長となる。
2.21 国家立法評議会のフアン・カク・スー議長は前政権の外相ファン・フイ・クアトを首相に指名。米政府もこれを認める。(ファン・フイ・クアトの呼び方はまちまちで、ファン・フィアフト、ファン・フイク・アトなどがある。元は内科医でバオダイ帝の下で首相など政府要職を勤めた)
2.22 解放戦線6千人が、ダナンの米空軍基地近くに集結。ウェストモーランド将軍、米国海兵隊の2個旅団にダナン防衛のため出動することを要請。ジョンソンはこの要請を受け入れる。
2.22 サイゴン駐在のテイラー大使は、かつてフランスが“敵意に満ちた”アジアの密林地帯に兵を送り続け、悲惨な結果を招いたことを引き合いに出し、米兵の出動に対し「重大な保留」の意を表明。
2.25 グエン・カーン、フランスへと出国。ウィキペディアでは「アメリカの対南ベトナム政策への不信から南ベトナム解放民族戦線に歩み寄る可能性を示唆したこと」で怒りを買い、「グエン・バン・チューら若手将校によって追放された」とある。
2.26 コスイギン、全国テレビで帰国報告。米国の北爆を非難する。なおコスイギンは中国と北朝鮮にも立ち寄り、ベトナム支援のための統一行動を呼びかけたが、毛沢東はこの呼びかけを事実上拒否する。
2.27 米国務省、北ベトナムの侵略を強調した『ベトナム白書』を発表。
2月 アイゼンハワー元大統領が核使用問題についてのジョンソンらの質問に答える。アイクは、朝鮮戦争当時、北朝鮮と中国に次のように警告したと述べる。「満足できる休戦協定を実現できなければ、戦闘地域と武器使用に関して、われわれが順守している制限を取り除くであろう」
2月 ニューヨーク・タイムズ、「無名の政府高官」によるこの「推測」として、ベトナムでのアメリカの核兵器使用「抑制」は「やがて解除されるかもしれない」と報道。この高官はマクナマラ自身であった。
2月 英国、ICCの共同議長国としてソ連に和平への協力を呼びかける。
65年3月
3.02 本格的な北ベトナム爆撃作戦「ローリング・サンダー」が開始される。6ヶ月にわたり月平均5,000機が参加し、北緯19度線以南の北ベトナム軍事施設、軍港、レーダー基地などを十数回にわたって爆撃。当初は限定的なものとされ、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃は禁止される。
ベトナムはソ連から多数のミグ戦闘機、SAM(地対空ミサイル)を導入し北爆に対抗した。北ベトナムの主力防空ミサイルはソ連製SA-2地対空ミサイル。制式名はV-75ドヴィナ。NATOはガイドライン・ミサイルと呼んだ。マクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出する。その大型さ故に米軍パイロットから「空飛ぶ電柱」と恐れられた。
3月 米軍は南ベトナム内の解放戦線拠点への爆撃も強化。ビエンホア、ロクニン、ダクトなど30の町が繰り返し爆撃される。
3.02 マクナマラ、下院歳出委員会で証言。必要であればいつでも核兵器を使うと述べる。
3.07 アメリカ、北爆強化のためダナンに大規模な空軍基地を建設し、第一軍管区の中核基地とする。第一および第三海兵師団からなる第三水陸両用軍(軍団長クッシュマン中将)が新たに編成され、南ベトナム北部の第一軍管区を統括することとなる。
3.07 パテート・ラーオと北ヴィエトナム軍、サワンナケートにある王国政府軍の訓練所を攻撃。
3.08 海兵隊第三師団第3遠征旅団(2個大隊3,500名)が地上戦闘部隊の第一陣としてダナンに上陸。解放戦線が射程15〜20qのロケット砲を持つため、基地から50〜60qの範囲の地上防衛が必要となる。このため駐留米軍は解放勢力との直接戦闘を前提として配備される。(一説に第9遠征旅団)
米軍の編成: 朝鮮戦争のときは三個大隊で一個連隊を形成、三個連隊で一個師団、2〜3師団で「軍」を形成していた(砲兵・工兵を除き)。この連隊に当たるのが旅団である。しかし「旅団」はその名のごとく一時的なもので、平時では9個大隊が直接師団の統率の下にあった。師団としての機動性の強化のための改革である。
3.11 マーケット・タイム作戦が開始される。米・南ベトナム海軍が協力し、解放戦線への海上補給ルートの遮断を狙う。この後、海上からの補給はほぼ不可能となり、ホーチミン・ルートが唯一の補給路となる。
3.12 ハンフリー副大統領がドブルイニン大使と会談。「中国には屈しないが、南ベトナムが社会主義化してもかまわない」と提案。
3.15 ジョンソン、ベトナム増派と北爆の強化(ローリング・サンダー作戦)を発表。北べトナムが敵対行為を停止しない限り交渉せずと言明。また北爆は集団自衛であり、戦争状態ではないと述べる。
3.16 82歳のアリス・ハース(Herz)がデトロイトで焼身自殺。ジョンソン声明に抗議したもの。ハースはナチの弾圧を生き延びた平和主義者だった。
3.17 CIA、解放戦線勢力を正規兵3万7千、民兵10万と推定する報告。
3.19 米国防総省、北爆にナパーム弾を使用していることを明らかにする。
ナパーム弾: 主燃焼材のナフサにナパーム剤と呼ばれる増粘剤を添加してゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾である。きわめて高温(900〜1,300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊する。非人道兵器とされたため、現在、米軍ではナパームの代替品であるマーク77爆弾が使用されている。
3.20 解放戦線、サイゴンの米大使館の一部を爆破。168人死亡、49人負傷。(一説に30日)他にもサイゴン周辺のアメリカ施設にテロ攻撃を集中。65年の前半だけで1,000人を超える死者を出す。
3.20 米統合参謀本部、解放戦線に対する政府軍攻勢を、米軍と連合軍が先導するよう勧告する。
3.20 中国、ソ連の軍事物資の鉄道輸送を許可。
3.21 韓国、2千人の部隊をベトナムに派遣。派兵を嫌った韓国青年4人が下関に密航。当局に逮捕され強制送還。
3.22 一説によれば、この日、アメリカ軍はベトナム戦争で毒ガスを使用。
3.22 解放戦線、「五項目」提案を発表。@アメリカ帝国主義の排除、A独立、民主、平和、中立の南ベトナムおよび祖国統一の実現、B南ベトナムの解放および北ベトナムの防衛、C世界人民との連携、D敵国アメリカと売国奴に対する決定的勝利、を掲げる。綱領に比べ内容的に急進化。ただし「提案」というよりは「戦いのスローガン」のニュアンスが強い。
3.25 労働党が第11回中央委員会を開催。北爆開始後の緊急情勢と任務に関した討議。「戦争の局面が特殊戦争から局地戦争に転換した」とする。南北ベトナムの全土が戦争状態に突入した。南ベトナムは「大戦線」、北は「大後方」と規定される。
3.31 日本の著名人300人は、ニューヨーク・タイムズ紙にベトナム反戦の意見広告を掲載。
3月 フエで政府軍の一部が反乱を起こす。
3月 カンボディア、国境画定委員会の設置を提案した米国に抗議。米大使館などをデモ隊が襲撃する。(当然やらせでしょう)
3月 ブノンペンでインドシナ人民会議が開催される。南ベトナム民族解放戦線、パテト・ラオ、ベトナム祖国戦線、在仏ベトナム人団体などが参加。米軍の撤退、北ベトナムに対する挑発侵略行為の停止、南ベトナムの民族自決を決議する。
3月 フランス、ウ・タン国連事務総長、インド、ユーゴースラヴィアなどが調停に動く。
3月 ミシガン大学のアン・アーバー校で、最初のティーチイン(セミナーと集会、演説の複合行事)が開催される。その後の数ヶ月に全国100以上の大学に波及。
65年4月
4.01 交渉による平和解決を促した非同盟一七カ国のアピール。
4.01 サイゴンの米軍司令部、樹木を枯らす新兵器を使用中と発表。
4.01 国家安全保障行動メモ(NSAM)328号、ジョンソン大統領は海兵隊二個大隊をふくむ2万人の追加配備を承認する。また「よりアクティブな兵力の使用を承認」し、ダナンの海兵隊に対し、近隣での解放勢力根絶のため武装パトロールを許可する。この決定はその後2ヶ月にわたり発表されなかった。
4.03 アメリカ、北ベトナムの輸送システムへの爆撃を開始。約1ヶ月の爆撃で、鉄橋、鉄道分岐点、トラック集配所、貯蔵施設などが破壊される。
4.03 タインホア省の防空部隊、2日間で米軍機57機を撃墜したと発表。ミグも出動し空中戦でF105戦闘爆撃機2機を撃墜。
撃墜機数の違い: 最大の理由は、米国のカウント方式が「未帰還パイロット」数を機数としてカウントすることにある。パイロットが救出された場合、米軍は撃墜とカウントない。米軍はパイロット救出に全力を挙げるので、海上に出てからパラシュート脱出した場合、かなり救出される可能性が高い。また、無人偵察機が撃墜されても、米軍はカウントしない。
4.05 機関紙協会の金子徳好、外出の際の反戦ゼッケン着用をはじめる(以降1973年までつづける)。
4.07 オーストラリアとニュージーランドが、ベトナムに地上軍の派兵を決定する。
4.07 ジョンソン大統領、ジョンス・ホプキンス大学で講演。「征服なしの和平」と「無条件の対話」を提起。戦争が終われば米国は大量の支援を送り、ベトナムの近代化に貢献するだろうと述べる。北ベトナムはただちにこれを拒否。
4.08 北ベトナム第二回国会。ファン・バン・ドン首相が「四項目」を表明。@アメリカ軍の南ベトナムからの撤退。アメリカ政府の干渉の停止。A南北ベトナムの他国との軍事同盟締結の禁止。B解放戦線綱領を基礎として、南ベトナム問題の人民自身での解決。Cベトナム統一間題のベトナム人民自身による解決。その後の交渉で第三項の「解放戦線綱領を基礎として」が最大の難関となる。
4.09 米機220機が北爆。海南島西南で中国のミグ機と交戦。
4.10 ニューヨーク国連本部ビル前で北爆抗議集会。8千人が参加する。
4.11 第三海兵師団の主力となる二個大隊がフ・バイとダナンに配備される。これに第26、第27海兵連隊などをふくめ、第三水陸両用軍を形成。第一師団がダナンの防衛を担当。第三海兵師団はケサンを中心に非武装地帯の防衛にあたることになる。(この項、不明確。第一海兵師団が配属されるのは66年以降?)
4.12 中国政府、北爆に対応し戦争準備の強化を指示する。
4.15 神戸港湾共闘会議、ベトナム向け軍需品の積込み拒否を決定。
4.15 アメリカが解放戦線の拠点に集中爆撃。1日で1千トンの爆弾が投下される。
4.17 ワシントンで初の大規模なベトナム反戦集会。アリス・ハースの呼びかけに応え、学生ら二万人が結集する。
4.17 ベトナム人民軍総参謀部は中国軍総参謀部に至急電を送り、事前に想定し合意してあった後方支援を正式に依頼。これに応え中国人民義勇工程隊がベトナム入り。北部各地の防御工事、鉄道修復を担当する。
4.20 ホノルルでジョンソンが戦略会議を開催。マクナマラ、ウェストモーランド、ホイーラー、ウィリアム・バンディ、テイラー大使が参加。軍幹部は、「米国と自由な世界のための部隊」17個大隊4万人を追加派遣することを提案。さらにビエン・ホア/ブンタウ、チュライ、クイニョン、クアン・ガイの4ヶ所に旅団規模の基地を建設するよう要請。
4.21 ジョンソン大統領、アメリカ軍戦闘部隊を6万人に増員する計画を発表。
4.22 「べトナムの平和を願う市民集会」 で、谷川俊太郎作詞・武満徹作曲の『死んだ男の残したものは』が初演される。
4.23 南ベトナムを視察した外務省顧問松本俊一、衆院外務委で「北爆の効果は疑問、ベトコンの実態は民族運動」とのべる。米上院外交委は、松本俊一報告をめぐって論議。マッカーサー国務次官は「朝日」、「毎日」に共産主義者が浸透していると証言。
4.24 ジョンソン、ベトナム駐留のアメリカ人は直接戦闘の準備が出来ていると述べる。
4.29 アメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが中国の領空を侵犯し、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜される。
4月 北ベトナムの党・政府は「戦時共産主義」(Chu nghia cong san thoi chien)政策を断行する。農業合作社における従来の「社会主義的分配の原則」つまり農業合作社社員(農民)の労働日と労働点数に応じた分配政策を停止して、「戦時分配政策」つまり社員およびその家族の年齢に応じた定量配給制への転換をおこなう。
4月 ラオス三派首脳会談の事務レベルでの予備的折衝が始まる。
65年5月
5.03 カンボジアのシアヌーク殿下。米国との国交断絶を発表。ニューズ・ウィーク誌のカンボディア王后誹謗記事および米越空軍機のカンボディア領コンポン・チャム州の爆撃事件を直接の契機とする。
5.05 最初のアメリカ陸軍の戦闘部隊、第173空挺旅団の3500人が沖縄からビエン・ホア/ブン・タウに到着。ビエンホア空軍基地と基地周辺の防衛任務に着く。米軍はビエンホア空港を南ベトナムの軍事中枢として強化。オーストラリアの大隊、ニュージーランド中隊などもビエンホアに配属される。。
第173空挺旅団: アメリカ陸軍の中で唯一の独立空挺旅団であり、沖縄の西表島でジャングル戦のトレーニングを積み、米軍の中でも最優秀の部隊だった。 旅団の主力となる第503歩兵連隊は、空挺歩兵4個大隊からなる。
5.09 日本テレビが、「ベトナム海兵大隊戦記第1部」を放映。橋本内閣官房長官がNTV社長に抗議。その後各界の圧力により第2部は放送を中止する。
5.10 米政府、「メイフラワー」と呼ばれる和平工作に着手する。ラスク国務長官が、ワシントン駐在ソ連大使のドブルイニンと会談。和平への仲介をもとめる。65.5
5.11 解放戦線、雨季攻勢を展開。2500人の部隊がソン・ベ(Song Be)の特別部隊駐屯地を攻撃、一時制圧する。ソン・ベはサイゴン北西90キロ、フォクロン省の郡都で、周囲は解放戦線の影響下にあった。米国ではチャールズ・ウィリアムズ少尉の英雄的行動が大々的に宣伝される。
5.12 フィリピン議会、2千人のベトナム派兵法案を可決。ニュージーランドも砲兵部隊の派兵を決定。
5.13 解放戦線第272連隊第5大隊、町の内外で2日間にわたる激戦の後撤退。南ベトナム軍に甚大な被害を与える。また中部高原でも解放戦線が攻勢をかける。政府軍は二個大隊をあらたにフォクロン省都フォク・ビンに派遣。
5.13 ジョンソン大統領、北爆を一時停止し北ベトナムの交渉開始を促す。
5.14 中国が二度目の核実験に成功。「核弾頭をつけたミサイルの発射によるもの」と報道されたが、これはおそらくデマ。
5.15 ホーチミンがラジオ演説。「北爆一時停止は陳腐な計略だ」と非難する。アメリカは翌日より北爆を再開。北爆目標は、タインホア省を越えて北緯20度以北に拡大。
5.15 沖縄の日本人船員,米軍による南ベトナム行き命令を拒否.全軍労などがベトナム徴用に反対する集会.
5.16 ビエンホア空軍基地で大爆発。米軍機40機が破壊され、130人が死傷。
5.19 「ベトナム人民支援日本委員会」結成、1億円の募金運動開始。75年までに5億662万円の募金を達成。
5.20 北ベトナム政府、ふたたび和平を提案。ワシントンはこれを拒否。
5.21 南ベトナムでクーデター計画が摘発される。
5.21 南ベトナム解放通信、米機が7日間連続して有毒化学薬品を散布したと報道。最初の枯葉剤報道。
5.25 政府軍、フォクロン省ドンソアイに特殊部隊基地を建設。解放戦線はこの基地を最大の攻撃目標として準備を開始する。攻撃には第272連隊のほか新たに編成された第273連隊が加わる。
バーザの戦い
5.28 解放勢力、バーザの政府軍基地を攻撃。バーザは中部海岸地方のクアンガイ省にあり、政府軍第51歩兵連隊が防衛していた。
5.28夜 解放勢力、バーザから3キロのロックト駐屯地にロケット砲撃を加える。
5.29朝 バーサから政府軍2個中隊が出動。解放勢力はこれを待ち伏せし、100人を殺害。
5.29夜 解放勢力、バーザ基地に105ミリ砲2門で攻撃を加える。
5.30朝 解放勢力、バーザ基地とハタイン駐屯地に猛攻を加える。政府軍はクアンガイ市から三個大隊を派遣するが、待ち伏せに会い分断される。三時間の激戦により、政府軍は甚大な被害を出す。
5月末 ベトナムの米地上軍兵力が5万1千人に達する。内訳は陸軍2万2千、海兵1万6千、空軍1万、海軍3千人。南ベトナム政府軍は50万人に近づく。
65年6月
6.04 ソ連・北ベトナム援助協定が調印される。
6.07 ウェストモーランド、このままでは南ベトナム軍が崩壊するとし、米国などに35箇大隊の追加配備を要請。さらに9個大隊がいずれ必要になるだろうと述べる。
ウェストモーランドの戦況報告: 南ベトナム軍は1週間にほぼ1個大隊が失われている。ベトコンは4つの軍管区すべてで連隊規模の攻撃を起こす能力を持っている。他方南ベトナム軍の逃亡率はでたらめといっていいほど高い。できるだけ早く米軍を増強する以外に選択はない。 6.08 国務省のマクロスキー報道官、「アメリカ軍は、ベトナム軍とともに、必要に応じて戦いに参加できる」と発表。ウェストモーランド司令官に直接戦闘参加の権限を与えたとのべる。ウェストモーランドは「索敵と撃滅」作戦を指示。米軍スポークスマンは、ベトナム駐留将兵が5万人に達したと発表。
6.08 オーストラリア王立連隊第一大隊が南ベトナムに入る。
6.09 中国軍正規軍よりなる後勤部隊が中越国境を越える。防空任務を帯びた高射砲部隊や通信施設部隊なども含まれる。70年代初めまで中国がベトナムに送った軍人の総数は32万人以上に達する。
6.09 解放戦線、友好諸国に義勇兵を要請する権利があると声明。『人民日報』はそれに応ずる社説を掲載。 ホーチミンは「中国同志に守りを助けてもらい我々は余った兵士を南へ送る」と発言したという。
6.09 米工兵隊、カムラン湾に補給基地の建設を開始。
6.09 最初の社共統一による「ベトナム侵略反対6・9統一行動」が行われ、全国200ヵ所で集会とデモ。東京では10万人が参加。
6月10日 ドン・ソアイの戦い
深夜 解放戦線第9師団第272、第273連隊が、ドンソアイ基地を攻撃。砲撃による支援の下に基地周辺の塹壕と機関銃台座を奪う。ドンソアイはビン・フォック省の省都で人口8万人。ホーチミン市から国道14号線を真北に車で2時間半。ビン・フォック省はベトナム第一のゴムの生産地といわれる。
未明 ドンソアイの特殊部隊顧問のチャールズ・クインシー・ウィリアムズ少尉、すでに基地内に殺到した解放戦線を見て、方面本部の中に防御態勢を編成するよう指示。防御に徹しながら増援を待つこととなる。
早朝 アメリカと南ベトナムの空軍が、ゴム園に篭る解放戦線に向けナパームを投下。
午後 タンソンニャットを発った南ベトナム軍第5師団の一個大隊、解放戦線の砲火により着陸できず。離れた低地に着陸し、徒歩でドンソアイに向かう。米軍の一個大隊はドンソアイの滑走路に着陸することに成功したが、戦闘への直接参加は認められなかった。
夕方 南ベトナム軍第42レンジャー大隊、チャン・ロイに着陸した後、ドンソアイに向け急坂を上る。解放戦線はこれに対し待ち伏せ攻撃をかける。戦闘は夜遅くまで続く。
6.11 解放戦線、夜にまぎれて撤退。ジャングルに消える。南ベトナム軍は800人以上が死亡。アメリカ兵にも35人の犠牲者を出す。第272連隊は「ドンソアイ連隊」の称号を賜る。
6.11 ファン・フイ・クアト首相、内閣改造問題をめぐる内紛が原因となって総辞職。民政が崩壊する。これまで20ヶ月のあいだに9回の政変が発生。
6.14 南ベトナム,国家防衛会議(10人国家指導委)が発足,グエン・バン・チュー少将が議長に就任.チュウはハノイ生まれのカトリック教徒で強烈な反共産主義者であった。
6.16 サイゴン空港ビルで爆発。46人が負傷。
6.16 北ベトナム、米機がハンセン病療養所を爆撃、患者112人が死傷したと非難。8月には病院・結核療養所・師範学校などに無差別攻撃を加えていると非難。また爆撃時に毒ガスも使用していると非難。
6.16 マクナマラ、駐ベトナム米軍兵力を7万5千人に増強すると声明。
6.18 ローリングサンダー作戦の一環としてB-52が爆撃に参加(Arc Light mission)。グァム島より出撃したB-52は、サイゴン近郊の解放戦線支配区に大量の爆弾を降り注ぐ。これにより解放戦線の大規模集結は不可能となる。
解放戦線の幹部チュオン・ニュー・タンの回顧より: ゲリラが耐えてきたもので、あの過酷なB52爆撃テロに匹敵するものはない。1.5キロ先からでも爆撃の轟音で鼓膜が破れ、これでジャングルの住人の多くが永久に耳が聞こえなくなった。1キロ先でも衝撃波を受けたものは気絶した。500メートル以内に一発でも落ちれば、補強されていない防空壕の壁は崩れ落ち、中でうずくまっていた人たちは生き埋めになった。その恐ろしさは徹底していた。頭が、逃げ出せという、分けも判らぬ叫び声をあげるのだが、体の機能は統制不能に陥るのだ。
6.19 国家防衛会議、臨時憲章を発表。グエン・カオ・キ少将(空軍副司令官)を首相に任命。グエン・バン・チュウ議長(国家元首との二人三脚となる。その後2年間の間に13回ものクーデター未遂事件が発生する。
6.19 アメリカ海兵隊、解放戦線と初の単独交戦。索敵行動に出た海兵隊部隊が待ち伏せ攻撃を受け兵士7人が殺される。
6.23 愛国戦線、プーマ首相はアメリカの傀儡であると非難するメモを発表。
6.24 キ首相、中立化構想の提唱者であるフランスと外交関係を断絶すると声明。
6.25 サイゴンの水上レストランに爆弾テロ。米国人をふくめ死者42人、負傷者80人を出す。
6.26 ウェストモーランド将軍、「南ベトナム軍支援のために」、米軍兵力を指揮する権限を与えられる。米軍にサイゴン北西部の解放戦線拠点の掃討を指令。
6.27 第173空挺旅団が、サイゴン北西部の解放戦線の支配区“D”の索敵・掃討作戦を実行。アメリカ地上軍を主体とする最初の攻撃作戦となる。
6.28 サイゴンの米軍司令部、南ベトナム派遣軍が12万5000人に増強されたと発表。あらたに第一騎兵師団が派遣される。
6.29 南ベトナム政府、徴兵制度を強化。20〜30歳のすべての男子を兵役の対象とする。
6月 65年前半だけで、各種テロによる南ベトナム市民の死者が1千人以上に及ぶ。
6月 ワシントンの反戦デモに2万5千人が参加。
65年7月 米軍地上戦闘部隊の大量投入
7.01 解放戦線、ダナン空軍基地へのロケット砲攻撃を行い、3機の航空機を破壊する。
7.02 米機、ハノイ北方の工業地帯を初爆撃。
7.06 米政府、北ベトナムに2ヶ所の地対空ミサイル基地が完成、さらに2カ所が建設中と発表。
7.07 北ベトナム、青年義勇軍の創設を指示。総動員体制に入る。
7.08 テイラー大使が更迭され、ロッジ前大使が再起用される。
7.09 ジョンソン米大統領、南ベトナムへの米軍地上戦闘部隊の大量投入を決断。「ベトナムに必要なだけ兵力を増強する」と言明。ラスク米国務長官は「ベトナム戦争で聖域は存在しない」と述べる。
7月 南部労働党の第2回中央委員会、「アメリカとの愛国抵抗闘争を開始せよ」との決議を採択。
古田によれば、この時点でアメリカへの配慮という解放戦線の基本的存在理由は消失した。解放戦線ゲリラは、その後北ベトナム軍と一体化し、現地組織部隊としての性格を強めていく。しかしそれは「解放戦線」というツールが独自の役割を終えただけで、労働党および解放勢力内での南のイニシアチブの低下をさすものではない。レズアンは依然,労働党の書記長であり続けたし、レドクトは対米交渉を仕切るトップであり続けた。
7.12 第一歩兵師団の第二旅団がベトナムに入る。ベトナム駐留米軍の総員は12万5,000人となる。
7.18 プーマ政権、愛国戦線を排除し国会議員選挙。愛国戦線、プーマ首相はアメリカの傀儡であるとするメモを発表。
7.20 ホーチミン、ジュネーブ協定11周年にあたり、「20年でもそれ以上でも、勝利の日まで闘い続ける」とアピール。
7.20 米軍ベトナム支援司令部(USASCV)にかわり、米軍ベトナム司令部(USARV)が開設される。南ベトナムを四つの軍管区(Corps)に分けた。北部のクアンチ、フエ、ダナン、クアンガイが第一軍。コントゥム、プレイク、バンメトート、ダラトとつながる中部高原は第2軍。サイゴン周辺のロクニン・アンロク、タイニンは第三軍。サイゴンをふくむメコンデルタは第4軍が管轄する。
7.20 ジョンソン、最高幹部を集合し、1週間にわたりベトナム戦略会議をおこなう。ウェストモーランドのベトナム平定戦略が承認される。米軍プラス南ベトナム政府軍と解放勢力の全面的軍事対決に移行。
ウェストモーランド戦略(古田による): 第一段階として戦略的要衝を確保し、サイゴン政権軍を崩壊から救う。第二段階として、敵主力部隊を捕捉してこれを破壊する。第二段階においては、物量作戦により敵の補充能力を超える消耗戦に持ち込む戦術を取る。
7.24 北爆中の米爆撃機が初めて北ベトナムの地対空ミサイルにより撃墜される。
7.28 ベトナム戦略会議の合意を受けたジョンソン大統領、これまでの7万5千人に加え44旅団5万人を増派すると発表。海兵隊に加え陸軍の派遣も決定される。この結果、毎月の召集は1万7千から3万5千人にまで増加する。
7.29 沖縄配属のB52爆撃機30機がメコンデルタを爆撃。沖縄立法院は超党派で抗議決議。
7.29 第101空挺師団の第1旅団がカムラン湾の近くに展開。
65年8月
8.02 6,000人の米海兵隊が、ダナン南方のクワンナム省で焦土掃討作戦を展開。海兵隊は南ベトナム民兵を用い連合行動小隊を編成。戦略村の保安と解放戦線ゲリラの駆逐に当たる。
解放戦線が浸透している地域は「自由爆撃地域」に指定され、農民をサイゴン政府側に強制移動させた。農村の変革で解放戦線と競うよりは、火力で農村自体の存在を危機にさらす戦略が採用されたのである。
解放戦線の戦死者は米側推計で64年の1万7千から、65年には3万5千と倍増した。しかしそれにもかかわらず、戦力は増加の傾向を示した。農村の崩壊は一方では農民を解放戦線へと押し込む結果となった(古田)。8.02 オーストラリア部隊が南ベトナムに入る。
8.03 CBSテレビ、海兵隊のライフル中隊によるダナン近郊村落の破壊の模様を放映。国内に論争を引き起こす。
8.04 ジョンソン大統領、議会に17億ドルの追加支出を要請。
8.04 解放戦線、カムラン湾に上陸した米第101空輸師団に急襲を加える。
8.04 米空軍、中国国境まで48キロのパオハを爆撃。
8.05 解放戦線、ダナンの近くで貯蔵タンクに砲撃。200万ガロンの燃料を破壊する。
8.08 米軍、ダナン近郊の解放戦線拠点チュライ南方への大規模爆撃。
8.11 ロサンゼルスのワッツ地区で黒人暴動発生、州兵が出動し鎮圧。16日までに死者32、逮捕者2,847人、火災2,000件以上。
8.14 沖縄の海兵隊第一師団第7連隊が、中部クアンガイ省チュライ(Chu Lai)海岸に上陸。当地の解放戦線1500人は迎撃作戦を準備。
8.16 解放戦線、国家警察本部を爆破。死者4人を出す。
8.17 解放戦線第一連隊の文書が押収される。これによりチュライの海兵隊基地への攻撃がまぢかに迫っていることが明らかになる。
8.18 作戦が事前に漏れたことから、海兵隊はスターライト作戦を発動。7日間にわたり空と海から解放戦線を攻撃。
解放戦線はチュライ南方のパントゥオン半島に集結していた。海兵隊は海岸から上陸し、掃討作戦を実施した。解放戦線は700人の犠牲者を出す大敗を喫したが、海兵隊も45人の死者、120人の負傷者を出す(解放戦線側の発表では海兵隊900名を死傷したとされる)。また水田にはまった多くの戦車・装甲車が遺棄される。 8.24 解放戦線、ビエンホアの米空軍基地を襲撃。5月に続き2回目の襲撃作戦で、約50機に損害をあたえる。(解放戦線側の発表では航空機68、ロケット・バッテリー8、石油タンク22、戦闘車両30を破壊。米・南ベトナム兵3千人を殺害)
8.31 ジョンソンは、徴兵カードの焼却を違法とする法律に署名する。禁固5年と罰金1千ドルが課せられる。
65年9月
9.05 米軍、南ベトナム・ビンディン省で防空壕に毒ガスを投入、35人が死亡。8日にもクワンガイ省バランアンで毒ガスを使用、78人死亡する。(北ベトナム政府は米軍を非難したが、米軍はこれに応えていない)
9.06 ラオスで新内閣が発表される。プーマが首相、国防相、外務相を一人でこなす。スパーヌウォンが愛国戦線側の副首相に指名される。右派の副首相にはレウアム・インシシンマイ(Leuam Insisiengmay)が就任。
9.12 アメリカ陸軍最強と謳われる第1騎兵師団(15,000名)がクイニョン基地に上陸。主な移動手段として従来の車輌に変えてヘリコプターを用いており、その数は400機を超える。
9.18 中部高原地帯のアンケで解放戦線と米軍が激突。
9.20 中国、海南島上空で米機を撃墜したと発表。
9.30 ベトナム駐留米軍の兵員数が13万人を超える。毎月新たに3万5千人が徴募される。
9.30 インドネシアで、大統領親衛隊長のウントン中佐が率いる部隊が、中央放送局などを占拠。6人の軍最高幹部を殺害する。翌日、スハルト陸軍少将がクーデターを鎮圧。共産党への大弾圧が始まる。
9月 労働党政治局会議、「交渉による解決も、軍事的な解決と同時並行で進める」ことを決定。
レ・ズアンはもともと南部の意向を受けた強硬派であったが、今後、戦争を継続する上で交渉は不可避であると認識するようになった。フアン・フン副首相、グエン・バン・ビン将軍らもこれに同調。
9月 シハヌーク国家首席は、中国、北鮮訪問に出る。
65年10月
10.01 パテート・ラーオを主体としてラオス人民解放軍(Lao People's Liberation Army)が結成される。パテート・ラーオ軍のカムタイ・シファンドンがそのまま最高司令官となる(本年表ではそのままパテト・ラオの呼称とする)。
10.03 3派代表による会談がヴィエンチャンで再開される。
10.05 ライシャワー米大使、「日本の新聞のベトナム報道は偏向している」と発言。大森実毎日特派員らを名指し批判。
10.08 韓国陸戦部隊の最精鋭である猛虎師団の第一陣が、ヴェトナムに到着する。
韓国は73年3月最終撤退するまでに最大時約5万人、延べ35万以上の兵力をベトナムに投入した。公式記録で約4万人を殺害。韓国軍自らも戦死約5000人、負傷約2万人を出す。その残虐さから、アメリカの新聞では悪魔の戦士(Demon-Hunter)と紹介された。
10.13 サムヌアで愛国戦線と愛国中立派による政治協商会議開催。4項目と5原則からなる計画を発表。
10.16 全米40の市で戦争終結をもとめる集会とデモが行われる。反戦の空気が大衆のあいだにも拡大し始める。ロンドン、ローマでも集会が開かれる。
10.17 北爆の規模拡大。タイグエン鉄鋼コンビナートなどが爆撃される。
10月 パテト・ラオと北ベトナム軍が中部ラオスのタケク攻撃。制圧には至らず。
イアドランの戦い
9月 北ベトナム正規軍の第32,33,66連隊が、ホーチミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入。国境から東に向かって下るイアドラン渓谷(Ia Drang)に進出する。国境から11Kmのプレイメ(Plei Me)に米特殊部隊が基地を構えていた。北ベトナム軍はプレイメ後方のフォーチュン山地に拠点を構築する。
10.19 イアドランの戦いが始まる。北ベトナム第33師団がプレイ・メの特殊部隊基地を攻撃。第32師団はプレイ・メ北方でプレイクへの道を遮断。戦闘は35日間にわたる。北ベトナム軍が撤退し、いったん終了。翌年にもふたたび戦闘が行われている。
10.23 プレイクからプレイ・メに向けて米増援部隊が出発。国道14号線を南下し、プレイ・メ制圧を目指す。これに代わる予備部隊としてアンケから1個旅団がプレイクに入る。
10.23夜 プレイクからの増援部隊、プレイ・メ北方で北ベトナム軍第32師団の待ち伏せ攻撃を受ける。
10.25 北ベトナム軍、プレイメへの攻撃をいったん中止。甚大な被害を出し、西方の国境地帯に向け撤退。第66連隊の一部はプレイメイ東方に向け移動し潜伏。
10.26 増援部隊がプレイ・メを制圧。
10月 解放戦線、今度は連隊規模でブレーク米軍基地を正面攻撃。米第一騎兵師団と交戦する。
11月初め 第二次戦闘が始まる。米軍はイアドラン渓谷を撤退中の北ベトナム軍追討を狙う。国境地帯に南ベトナム空挺部隊が阻止線を形成。
11.13 北ベトナム軍が反転し、ふたたびプレイメへの攻撃を開始。最大規模の激戦が18日まで続く。米軍は第一騎兵師団にイアドラン渓谷への出動を命令。空からはB52が支援。
ヘリボーン: 飛行機(エアクラフト)から落下傘で降下する空挺部隊がエアボーンと呼ばれるのと関連して名づけられた。作戦にはベルエアクラフト社の製造したUH-1ヘリコプターが用いられた。
11.14 10:48am 第7航空騎兵連隊第1大隊400名がUH-1ヘリでの「エックス・レイ」に着陸、ヘリポートを確保する。「エックス・レイ」はコード・ネーム。プレイ・メイ東方のイアドラン川河畔に位置し、オルバニー着陸場と呼ばれた。
11.14 待ち構えていた北ベトナム軍第66連隊の数千名が即座に包囲網を敷く。戦闘開始早々、米軍は兵力・地理共に不利な状況に陥る。(第66連隊は予備部隊であった。一説に北ベトナム側の戦力は2個連隊規模とされる)
11.15 米軍増援部隊がエックス・レイ南東のVictor着陸所に到着。孤立した部隊の救援をめざす。
11.17 エックス・レイ北方、イアドラン川の北岸Albany着陸所に進出した米軍部隊、北ベトナム軍の待ち伏せ攻撃を受ける。(14日と同一事実かもしれません)
11.17 孤立した米軍部隊は死者155人、負傷者124人を出し壊滅。(その後も追撃を受け4日間で234人の兵士が死亡したという説があるが、これは鵜呑みには出来ない)
この項は未確定です。多くの記述(11月14日の項)では、この戦闘が記載されないまま「激戦に勝利した」としか書かれていません。日付にも3日〜7日間の誤差があります。双方の死者の数も相当のばらつきがあります。米軍の公式記録は、当初この戦闘を隠していた可能性があります。この戦闘を題材にしたメル・ギブソン主演の「ワンス&フォーエバー」という映画があるそうです。一度見ておかなければならないでしょう。
11.21 イアドランの戦闘が終了。最終的に北ベトナム軍の戦死者は1519人(一説に3,561人)に達し、アメリカ軍も約1000人中305人が戦死し、524人が負傷した。この戦闘自体はアメリカ軍の勝利と言えるが、北ベトナム軍を駆逐し、同地を占領するには至らなかった。
65年10月(続き)
10.22 韓国の最精鋭部隊である「猛虎」師団1万数千がクイニョンに上陸。韓国軍は北ベトナム兵など約4万人を殺害。北ベトナム軍司令官が、韓国軍との戦闘を避けるように通達したという。
10.23 サイゴンの米軍司令部、駐留米兵が15万人に達したと発表。通算の戦死者も1千人に達する。南ベトナム政府軍は70万人に達する。
10.30 解放戦線、タンソニェット基地を襲撃。ガソリン50万リットルが炎上する。
10.30 ワシントンで名誉勲章受賞者5人を先頭に、2万5千人が参加してベトナム戦争支持のデモ行進。
10月 北ベトナムの支援を受けた解放戦線、チュウライで反撃開始。チュライ近郊のビンドン村で、海兵隊駐屯地を奇襲。解放戦線側は250人を殲滅と発表。その後2週間にわたる激戦が展開される。
65年11月
11.02 クエーカー教徒のノーマン・モリソン(31歳)、ペンタゴンの前で焼身自殺。マクナマラは現場を目撃していたという。ロジャー・ラポート(22歳)も国連本部前で焼身自殺。
11.24 ドブルイニン大使、「北爆を3週間停止するなら、ソ連はハノイに影響力を行使する」と発言。
11.25 米空軍前参謀長カーチス・ルメイ将軍、「北べトナムを石器時代に戻してやる」と言明。
11.27 ワシントンで3万5千人がベトナム平和行進。ホワイトハウスを「人間の鎖」で取り囲む。
11.27 解放戦線がメコンデルタのミシュラン・プランテーションを攻撃。南ベトナム軍第7連隊が撃破される。
11.30 マクナマラ国防長官がベトナムを視察。ジョンソン大統領に、今後、毎月千名の犠牲者が出る可能性があると警告。「北ベトナム人は、戦争が長いものであると信じており、時が彼らの味方であると信じており、彼らの持久力が我々より優れていると信じている」と語る。
11月 労働党政治局会議、@戦争のアメリカ化により、解放勢力の政治的優位が明らかになった。A軍事的にも、アメリカ地上戦力の投入にもかかわらず、解放戦線は劣勢に追い込まれてはいない、と評価。「有利なチャンスをつかみ、比較的短期間に決定的な勝利を収める」という「攻勢戦略」の堅持を確認。この路線は12月の労働党中央委員会でも再確認される。
11月 米国政府筋が「北ベトナム軍あるいはヴィエトコンのカンボディア領使用」を非難し、ヴィエトコン捕捉のための「追跡」ないし「自衛のための発砲」を繰り返し示唆する。カンボジアはこの動きに強く抗議する。
65年12月
12.02 原子力空母エンタープライズが第7艦隊に配属され、ベトナム沖に出撃。
12.04 サイゴンの米軍宿舎がゲリラに爆破される。8人が死亡、137人が負傷する。
12.09 解放戦線、クリスマス休戦を発表。
12.09 ニューヨークタイムズ、「広範囲な爆撃にもかかわらず、米国は北ベトナムからの兵士、供給の流れを止めることができていない」と報道。
12.11 北ベトナム、米政府の和平提案を拒否。
12.15 米機、ハイフォン郊外の発電所を爆撃。
12.20 ジョンソン、最高戦略会議を招集。北爆の一時停止と新たな和平提案で合意。
12.20 解放戦線、結成五周年記念日にあたり声明。来春には大勝利を実現させると宣言。
12.21 米軍、「ベトコン地区への枯葉剤散布」を公式に認める。
12.25 二度目の北爆一時停止が発表される。停止期間は1ヶ月あまりにわたる。
12.28 ブルーライト作戦。米第25師団第3旅団が、エアボーンによりプレイクに進出。4月には全師団がプレイクに入る。その後、第25師団は1個旅団を加え、最大規模の師団となる。
12.29 アメリカ、14項目の和平案を提示。これに対しホーチミンは和平4条件をあらためて強調。また米国民への新年メッセージで侵略戦争終結を訴える。
12月 第12回中央執行委員会が開かれる。「軍事・政治闘争に外交闘争を密接に結合させる」新戦略が採択される。
労働党内部では、レズアン第一書記が「限定戦争の中での交渉」という意見、チュオン・チンが「北爆停止と引きかえに、南部の連合政府創設のために交渉」という意見、グエン・チ・タン(南部委員会書記)が「米軍が南部に駐留する限り、交渉は拒否」という強硬路線をとり、紛糾したが、最終的にレズアンの立場が支持されたといわれる。
12月 年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」など計184,300名が南ベトナムに配備される。
1965年末での数字: 米軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」、20万名に達する。南ベトナム政府軍の兵員数は30万名を越える。さらに約2万名の西側援助軍(MAF)も派遣される。これに対し解放戦線は、北から潜入した正規軍兵士3万5千人を加え、近代兵器を装備した正規軍が2.8〜3.4万名、不正規軍が6万〜8万名、総兵員数は15万名に達する。解放戦線は地方の5割近くを何らかの形で支配。
戦闘規模が飛躍的に拡大したことに伴い、政府軍の死者は1万を超え、解放戦線も3万を超える。さらに政府軍からは9万人が戦線を離脱したという。アメリカ軍人の死者数は1369名。
66年1月
1.01 ドゴール大統領、ベトナム問題の解決には武力干渉の中止が不可欠と強調。
1.03 ハンフリー米副大統領,ベトナム和平のための14項目提案.
1.04 北ベトナム外務省、北爆の無条件停止をもとめる。4項目提案を交渉開始の条件から外す趣旨の声明を発表。南ベトナム解放民族戦線は提案をただちに拒否.米軍撤退の方針を示せと迫る。
1.06 愛国戦線設立10 周年を記念する代表者会議開催。第2回全国大会で採択された10 項目を再採択する。
1.08 米軍、クリンプ作戦を開始。8千人の兵を動員する最大規模の作戦となる。サイゴン近郊クチ地区にあるとされる解放戦線の本部を落とすことを目標とする。地区内が捜索され破壊されたが、いかなる解放戦線拠点も発見できずに終わる。
1.12 ジョンソン大統領が一般教書を提出。北が侵略を止めるまでベトナムに留まると述べる。ベトナム戦費として103億ドルを要求。これは予算総額の約10%に当たる。
1.15 ラスク国務長官とハリマン特使が南ベトナムを訪問。南ベトナム政府とのあいだで「平和攻勢中も軍事行動を継続する」との共同声明。
1.19 解放戦線、テト休戦に入る。南ベトナム側も少しだけ値切って休戦。
1.24 ホーチミン、各国首脳に書簡を送る。ベトナム問題の解決のためには、北爆の永久停止と4条件の承認が必要とする。同時に、米国が北爆と全戦闘行為の停止を行えば、それは4項目提案の受諾を意味し、交渉開始の条件となると述べる。
1.24 ティエウ大統領、アメリカと南ベトナムが定期的にラオス領内のホー・チ・ミンルートに爆撃を行っていることを認める。
1.28 米軍、サーチ・アンド・デストロイ方式を採用。4つの索敵・掃討作戦からなる「オペレーション・マッシャー(つぶし屋)」が開始される。ジョンソンは世論に解する懸念から、「白い翼」作戦に改称するよう指令。
1.29 ローマ法王パウロ6世、国連内の中立国によるベトナム問題の平和解決を提唱。ジョンソン米大統領は、ハンフリー提案にもとづき、国連安保理事会に戦争終結のための国際会議開催を要請。
1.31 アメリカ、38日ぶりに北爆を再開。南ベトナムの解放戦線拠点への平定作戦を強化する。ハノイ・ハイフォンの周辺地域まで空爆範囲を拡大。北ベトナムは北爆の永久・無条件停止を要求。和平への動きは途絶する。
66年2月
2.01 国連安保理、米提案にもとづきベトナム問題を議題とすることを決定。北ベトナム、安保理の決議は無効と主張。フランス・中国も国連にベトナム問題に関与する資格はないとの声明。ドゴールは外国の介入中止、ベトナムの中立化、ジュネーブ協定の遵守が条件となると述べる。
2.01 上院外交委員会(フルブライト委員長)、ベトナム政策に関する公聴会を開催。マクナマラは「米国の目的は北ベトナム政府の打倒にあるのではない。南ベトナム政府への攻撃を止めさせることに限定されている」と証言。
2.03 コラムニストのウォルター・リップマン、ジョンソン大統領の戦略を「ジェスチャー、宣伝、そして爆撃に次ぐ爆撃…これではだめだ。犠牲者が増えるほどアメリカは分裂する」と激しく非難。
2.07 ジョンソン大統領とグエン・カオキ首相がホノルルで会談。ハンフリー副大統領、ラスク国務長官、マクナマラ国防長官が参加。南ベトナム側からもチュウ元首、ドー外相が召喚される。平和攻勢の継続を強調した「ホノルル宣言」を発表.南ベトナムは農村再建・民生安定への「共同の努力」を迫られる。北ベトナムは、「民生安定」は侵略強化の手段に過ぎないと非難。
農村平定計画: 破産した戦略村構想に代わるもの。米国はこの計画を半年間かけ策定したという。南ベトナム軍兵力の90%、米軍兵力の1/4が動員される。4万人の平定計画幹部が組織される。
2.11 ジョンソン大統領、ベトナム派兵は20万人まで増強されるだろうと述べる。
2.11 ラオス政府、北ベトナム軍がラオス南部に侵入していると非難する声明。
2.19 パテート・ラーオと北ヴィエトナム軍、ジャール平原北東のCIA の活動拠点ナカン(Nakhang)を攻撃。
2.23 ハンフリー副大統領の要請を受けた朴大統領、現在の2万1千人に加え、南ベトナムへ2万人を増派すると発表。
2月 中越首脳会談が開かれる。ベトナムはベトナム人民支援の国際統一戦線を提起するが、中国はこれを拒否。
2月 宮本書記長を団長とする日本共産党代表団が中国・平壤・ハノイを訪問。国際反帝統一戦線の結成を呼びかけるが、毛沢東はこれを拒否。
2月 白い翼作戦が発動。第一騎兵師団がヘリコプターで直接、ボンソン平原(メコンデルタ)の戦闘地帯にはいり、解放戦線とのあいだで激戦を展開。米側死者228人、負傷者788人。これに対し解放戦線側は1342人の死者。
2月 アメリカ軍、解放戦線殲滅のため、4つの「索敵・殲滅」チームを編成。小規模な衝突が2回あっただけで終わる。
2月 国防総省、1年間の北爆の内容を発表。3万トンの爆弾・ロケット弾が使用され、北べトナム燃料施設の86%、貯蔵量の57%以上を破壊。
66年3月
3.01 米上院、トンキン湾決議を解除するウェイン・モース案を否決。ベトナム戦費として追加支出48億ドルを承認。これは要請額の38%にとどまる。
3.02 解放戦線第9師団第272連隊、ロケ(Lo Ke)の米軍第3旅団の大隊を攻撃する。激しい空爆に妨げられ、ロケ確保を断念。
3.04 米軍機、始めてハノイ以北の地域に爆撃を加える。米国務省は、米機がハノイ・ハイフォン地区に侵入しミグを追撃することを許可。
3.04 米第一旅団と第173空挺師団の一個大隊、連隊規模の解放戦線部隊によって攻撃されるが、砲撃部隊の援護により撃退に成功。
3.09 米政府、解放戦線の支配する村で2万エーカーの農作物が破壊されたと報告。各界に激しい反発を引き起こす。
3.09 ウタント国連事務総長、北爆停止と解放戦線の和平交渉参加を提案。
3.10 キ首相、第一軍団長ティ中将(仏教徒)を解任。南ベトナムの仏教徒はこれに抗議する行動を開始。ティ中将の出身地であるダナン、フエなど中部海岸池方で、仏教徒や学生達が同中将の復職を要求するデモ。デモは次第に民政復帰の要求に発展する。
3.14 チュウ・キ軍事独裁に対する市民の不満が強まる。サイゴンでは仏教徒を中心に2万5千人が政権の辞任を要求しデモ。フエでは労働者がゼネストに立ち上がる。
3.16 フエで仏教徒ら2万人が反政府デモを展開。
3.23 フエとダナンで軍事政権の解体を要求するデモ。「アメリカのベトナムからの撤退」もスローガンに加わる。
3.26 ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、フィラデルフィア、ボストン、サンフランシスコでベトナム反戦集会が持たれる。
3.28 米第25歩兵師団、第三軍管区に配備される。「鉄の三角地帯」南方のクチを基地とする。
3.29 ソ連共産党が第23回大会を開催。ベトナム労働党は中国の反対を押し切って大会参加を決める。レ・ズアン第一書記、グエン・ズイ・チン外相、解放戦線のグエン・チ・ビンが参加し熱烈な歓迎を受ける。
66年4月
4.01 ダナンに本部を置く第1軍団のグエン・チャン・チ軍団長が解任される。サイゴンでこれに抗議するデモ。
4.02 解放戦線、サイゴンの米軍宿舎「ビクトリア・ホテル」を爆破。死傷者150人を出す。
4.02 南ベトナム全土で,統一仏教会と学生が主導する反政府・反米運動が高揚.ダナンでは市民ぐるみで反政府の立場を宣言。全警官がデモに参加.
4.03 メコンデルタの米軍、解放戦線を追い、カンボジア領内に侵入。
4.04 政府は警官隊を動員しデモの鎮圧に当たる。ダナンには政府軍が出動、全市を非常事態下に置く。ダラットで放送局が焼き討ちされるなど、デモは過激化する。
4.05 グエン・カオ・キ首相、ダナンの第一軍団長と会談。政府軍を市内へは入れず、一方で第一軍団も反政府的な動きには与しないことで合意、政府軍同士の内戦という事態は回避される。
4.05 第25師団、クチ北方10マイルの丘で “Circle Pines” 作戦を展開。解放戦線兵士171名を殺害。
僕たちベトコン(解放戦線)は米軍より弱く、北ベトナム(正規)軍兵士ほど武器を持っていなかったから、頭を使う必要があった。罠を仕掛け、待ち伏せし、米軍兵士を1人でも負傷させるか殺すかして、また1日戦えるなら、それが勝利だった。水滴が石に穴を穿つようにアメリカの軍隊を摩耗させるつもりだった。(ベトナム戦争を過ぎて/大石芳野)
4.09 統一仏教会は現政権反対の立場を鮮明にする。サイゴンでの反政府デモでは僧侶を先頭に2000人が参加、アメリカ人を標的に襲撃。アメリカも現政権から距離を置き始める。
4.11 サイゴンの米軍司令部、南ベトナム駐留軍が24万人に達したと発表。
4.12 グアム島のB52爆撃機が始めて北ベトナムのムギア回路へ渡洋爆撃。ビクトリア・ホテルのテロに対する報復攻撃とされる。1機当たり100発の爆弾を搭載し、高度1万メートルから投下する。(南ベトナムの戦闘地帯にはすでに出動済み)
4.13 解放戦線、タンソニュット(Tan Son Nhut)空港を攻撃。
タンソニュット空港襲撃事件: 資料によりこれほど数字がまちまちな事件もそうありません。日にちも多くは13日となっていますが、一部16日となっているものもあります。
@飛行機67機破壊、燃料2千万リットル炎上、兵員300人以上死亡。A決死隊が突入し警備隊に200名近い死傷者を出し、大型航空機28機が完全に破壊される。B空港周囲からの砲撃にとどまり、損壊は米軍機1機、南ベトナム軍機2機のみ。Cヘリ12機と航空機9機を破壊。犠牲者140人。4.14 南ベトナム政府、総選挙施行と民政移管を約束。仏教徒は反政府運動を中止。勝利を祝う街頭デモに2万人が参加。
4.17 米機、ハノイ南方のミサイル基地に対して爆撃。これに対しはじめてミグ21戦闘機が迎撃に出動。
4.18 中国の解放軍報、「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、社会主義文化大革命に積極的に参加しよう」という社説を掲載。(文化大革命の始まりを何時からとするかに関しては諸説あり)
4.20 マクナマラ米国防長官、ベトナムの米軍兵力は24万5千、海上兵力は5万と発表。
4.22 解放戦線、中部高原のプレーク基地を奇襲。米機23機を損壊する。
4.24 米軍が南ベトナム軍に代わり戦闘の前面に進出。解放戦線の掃討を目指す「バーミンガム」作戦を開始。3週間にわたり米兵5千人が動員され、輸送ヘリと装甲車の支援を受け、サイゴン北部のタイニン省を掃討。初めて本格的に「索敵および撃滅」戦術を採用。解放戦線のヒット・アンド・アウェイ戦術に対抗。個別の戦闘は解放戦線側の主導で行われ、解放戦線側の犠牲は100人に止まる。
サーチ・アンド・デストロイ(索敵および撃滅): 戦記によれば、「まず小兵力のパトロール隊を数多く敵の周辺に出し、その部隊が敵と接触すると本隊がすかさずヘリボーンで攻撃する」というもの。当然、おとりになったパトロール隊の被害は大きいが、大部隊同士の戦闘を強要される解放戦線側の被害は深刻となる。
4.26 アメリカ国防総省は、「ベトナム戦争に聖域なし」を再確認。
4.30 ウタントとドゴールが会談。当面、ベトナム和平の見通しは遠のいたとの判断で一致。
66年5月
5.01 タイが、南ベトナムへの派兵を決定。
5.02 マクナマラ、北ベトナムが南に毎月4500人を浸透させていると報告。
5.07 グエン・カオキ首相、総選挙・民政復帰の展望は当面ないとし、軍政の延長を発表。統一仏教会はこれに抗議し、反政府の闘争宣言を発表。2万人が抗議デモを繰り広げる中、僧侶20人がハンストに入る。
5.08 解放戦線、ビエンホア周辺に第一軍(U1)を編制。チャン・コン・アンを軍団長に任命。
5.10 サイゴン市内で解放戦線による爆破事件。パニックに陥った米兵が銃を乱射。市民37人が死傷する。
5.12 米機、これまで最大の1日あたり135波の北爆を展開。中国は漁船がトンキン湾で米機に撃沈されたと抗議。
5.15 キ南ベトナム首相、反政府の軍人・仏教徒が支配していたダナンヘ政府軍海兵隊を空輸。第1軍団司令部を占領し市内を制圧。
5.16 統一仏教会、キ首相の即時退陣を要求。サイゴンの労働者5万人が反政府ストに突入する。
5.19 ダナンで第一軍団の一部部隊が反乱。政府軍と市街戦を開始する。戦いは23日午後まで続く。
5.21 サイゴンで仏教徒1万がダナン事態に抗議しデモ。
5.24 グエン・カオキ首相、9月に制憲議会選挙を行うと発表。選挙法を公布し9月11日を投票日と定める。これにより仏教徒との妥協を目指すが、統一仏教会は抗議活動を継続。
5.25 第一航空旅団がベトナムに入る。
5.26 フエの仏教系学生、米海外情報局図書館と文化センターに放火。31日にはフエの米領事館と宿舎に放火。
5.29 サイゴンで統一仏教会による2万人のデモ。サイゴンで主婦のホ・チ・チエン、フエでは尼僧のタン・クアン(55)が焼身自殺を遂げる。翌日にはダラトで僧のクアン・チエンが焼身自殺。
5.31 南べトナム政権、仏教徒指導者と交渉を開始。政治危機の打開をめざす。
5月末 北ベトナム324B師団、非武装地帯を越え南下。ドンハで海兵隊一個大隊に遭遇。海兵隊第三師団はヘイスティングス作戦を発動。五個大隊5千人を派遣し、海上からの艦砲射撃、空からの爆撃などが加えられ、3週間にわたる戦闘の末、北ベトナム軍を駆逐する。
5月 プレイクの第25師団第3旅団が国境地帯で掃討作戦。
5月 椎名外相、国会で「ベトナムにおける米軍の行動は極東の安全のためであり、日本はこれに協力し施設などを供与する義務がある」と答弁。
5月 サワンワッタナー国王とプーマ首相、ソ連を訪問。
5月 米国、国境監視活動に関するカンボジアの提案を受諾。米国の費用負担により国際監視委員会の活動を強化することとなる。これにともない、カンボジアはハリマン米国特使の訪問を受け入れる。
66年6月
6.02 政府軍のタオ・マ(Thao Ma)将軍、サワンナケート空港を占拠。
6.03 米軍、タイニン省に続きコンツム省ダクト県でも、「ナサン・ヘイル」掃討作戦を開始。12日からはツダウモト省ロクニン県で「エル・パソ」掃討作戦を展開。
6.07 フエで反政府・反米のゼネスト。1万5千人が参加する。
6.11 マクナマラ米国防長官、米兵増派を発表。駐留米兵の総数は28万5千人となる。
6.12 カトリック教徒がサイゴンで仏教徒に対抗し、政府支持のデモ。統一仏教会はさらに態度を硬化させ、反政府デモを再開。鎮圧にあたった政府軍とデモ隊が衝突を繰り返す。デモでは反米のスローガンも叫ばれるようになる。
6.18 ダナンから出動した政府軍部隊、フエを完全に制圧。
6.18 ジョンソン米大統領、北べトナムと解放戦線が「侵略」を停止しなければ米国は「目的達成のために陸海空の軍事力を行使する」とのべ、戦争拡大を示唆する。
6.21 南ベトナム政府軍、統一仏教会を占拠。指導者チ・クアン(Tri Quang)師を逮捕。反政府運動の徹底弾圧に回る。この後仏教徒の抵抗は下火となる。
6.22 解放戦線、ロン・ビンの米軍統合貯蔵基地を時限爆弾で破壊。爆弾と砲弾あわせて4万トンが破壊される。その後も三回にわたり破壊工作が繰り返される。
6.29 米機、これまで聖域とされたハノイ・ハイフォンに攻撃を拡大。停留中の船舶を攻撃し、石油貯蔵施設を爆撃。これに対しソ連・中国は強硬に抗議。これまで親米の立場をとり続けた英国政府も、反対の意思を表明。
6.30 雨季とともに北ベトナム正規軍の南下が増大する。カンボジアにつながる国道13号線で米軍部隊を待ち伏せ攻撃。米軍は空爆と砲撃の集中により、かろうじて全滅を逃れる。
6.30 米国内の反戦集会で、兵士が徴兵を拒否すると宣言。
66年7月
7.01 トンキン湾内に進出した米艦がハイフォン沖で北ベトナム魚雷艇と交戦。三隻を撃沈したと発表。
7.06 ハノイ放送、「米軍パイロット捕虜を乗せた車が、ハノイの街路をパレード。群集のあざけりを受けた」と報道。
7.08 グエン・バン・チュー、地上軍による北ベトナム侵攻を提唱。キ南ベトナム首相も、中国介入の危険を冒しても北ベトナムに侵攻すべしと言明。
7.08 政府軍、パテート・ラーオ支配地域であるルアンパバーン北部のナムバク(Nam Bak)を奪還。
7.10 米国防総省、駐ベトナム米軍兵士が年内に37万5千、翌年春までに42万5千に増強されると発表。
7.11 米軍、ラオス領内を走るホーチミン・ルートへの爆撃を強化。一日あたり100波を越える。
レ・カオダイの本によると、化学兵器も散布されていた。CS(2-Chlorobenzylidene malononitrile=催涙ガス)のドラム缶に信管が取り付けられ、地上に激突したさいに爆発し飛散する。
7.12 ジョンソン大統領、アジア政策を発表。中国との平和共存を訴える。
7.13 北ベトナム軍1万名がクアンチ省への攻勢を強める。米海兵隊と南ベトナム軍、解放勢力の掃討のための「ヘイスティングス」作戦を開始。過去最大の作戦となる。ベトナム戦争は米軍と北ベトナム軍の正面衝突の様相を見せ始める。
7.14 フィリピン、兵士2千人の南ベトナム派遣を決定。
7.17 ホーチミン、「10年、20年、それ以上でも戦い続けよう」と、徹底抗戦を訴える声明を発表。アメリカとの全面対決の意志を明らかにする。北ベトナムは新たな動員計画を発表。
7.24 北ベトナム軍、非武装地帯の南側コン・ティエンに進出。米海兵隊とのあいだに激戦を展開。B52のじゅうたん爆撃の前に1千3百人の死者を出し撤退。
7.26 日本政府、原水禁大会に出席しようとした中国、北朝鮮、南北ベトナムの代表の入国を拒否。
7.30 米国は非武装地帯に対して初の爆撃。
7月 米海軍、メコンデルタの支援パトロールに「シーウルフ」を投入。(HC−1となっており、チヌークのことか?)
7月末 米軍機によるカンボディア領誤爆事件が発生。カンボディアはハリマン特使の来訪を拒否する。
66年8月
8.01 北べトナム、米機が増水期をねらって堤防・水門などを84回も爆撃していると抗議の声明。
8.03 米軍、ヘイスティングス作戦に引き続き、クアンチ省で「プレイスリー」作戦開始。海兵隊が担当したこの作戦は、翌年まで6ヶ月にわたる長期のものとなる。
8.05 ハイフォン港に停泊中のソ連船が被弾。ソ連は米国に強硬抗議。マリノフスキー国防相は、談話の中で空軍による北ベトナム支援の用意があると述べる。
8.06 米第4歩兵師団がクイニョンに上陸。
8.10 オーストラリア軍、サイゴン南東64キロ地点で1ヶ月にわたる「トレド」作戦を開始する。韓国軍はクワンガイ省ビンソン県で掃討作戦を展開。
8.10 米軍機による誤爆が相次ぐ。サイゴン南方で200人、メコンデルタで20人の民間人死傷者を出す。
8.14 ロイター電、南べトナムで米軍が使用するナパーム弾の90%、その他大部分の軍装備品は日本で生産されていると報道。
8.16 南べトナム統一仏教会、制憲議会選挙をボイコットすると声明。
8.19 米下院非米活動委員会、ベトナム反戦運動をチェックする公聴会を開催。反戦活動家の抗議により議場は混乱し、審議打ち切りとなる。
8.26 第196軽歩兵旅団が、ヴェトナムに配備される。12月には第199軽歩兵旅団も配備される。
8.30 ハノイ、中国が経済・技術的な援助を提供すると発表。
8月 ジョンソン大統領、交渉委員会を新設。ハリマンを「平和のための大使」に任命。
8月 米軍のサーチ・アンド・デストロイ作戦により劣勢を強いられた解放戦線ゲリラは、大都市周辺部や平野部での作戦を縮小し、高原地帯へ後退する。
戦記によれば、新たな作戦地域は西部のアンナン山脈の山麓地帯。1,000〜2,000m級の山岳が連なり、完全なジャングルを構成している。したがって重火器の展開には不便で、また航空機での発見も困難である。また、山脈の西側はカンボジア、ラオス領土であるため、アメリカ軍は追討できなかった。
66年9月
9.01 フランスのドゴール大統領がカンボジアを訪問。東南アジアからの米国の撤退を訴える。
9.11 民政移管への第一歩として制憲議会設置のための選挙が実施される。登録者数は528万人、投票率は81%にのぼる。解放民族戦線と統一仏教会はボイコット.(MOFAは「ベトコンの選挙妨害にもかかわらず、この選挙がこのような好結果を得たことは、キィ政府にとって少なからぬ成果となった」と書いているが、白々しい限りである)
9.11 南ベトナム選挙に合わせ、過去最大の北爆。1日500波の空襲が繰り返される。
B52は、通常一回の出撃で4機か8機か16機の編隊で飛んできた。爆撃機1機が、幅1キロ、長さ2.5キロの範囲を破壊できる爆弾を積んでいた。これが1日500波も来れば、当たらなくても気がおかしくなる。
9.14 アトルボロ(Attleboro)作戦が開始される。米第25師団、196旅団と南ベトナム軍2万2千人が、タイニン省の国境地帯(C戦区)で、大規模な索敵・殲滅作戦を展開。6週にわたる戦闘で解放戦線第9師団1千名を殺害し、大規模な武器庫を発見・破壊する。実際には大規模な戦闘はほとんどないまま作戦は終了。この作戦で米兵150人が死亡、 500人が負傷。
9.17 国会が予算を否決、プーマ首相は国会を解散し総選挙実施を決定。
9.20 ハノイ北東654キロで米機と北ベトナムのミグ機が空中戦。
9.22 米国、国連総会に向け新たに三項目の提案を行う。北ベトナム・ソ連はただちに提案を拒否。
9.23 米国、非武装地帯のジャングルに枯葉剤を散布していることを認める。
9月 B52による北爆が最大規模に達する。鉄道、道路、橋などの交通関係施設を標的に1ヶ月で5万トンの爆弾が投下される。
吉澤南氏の「ベトナム戦争」によれば: 米機はボール爆弾など残虐兵器を効果的に使うために、住民の寝込みを襲う。@まず破壊爆弾や風圧爆弾を投下する。死をまぬがれた人々は防空壕に避難する。A 第2波攻撃で、ナパーム弾をまき散らして外へといぶり出す。人々は苦しくなって壕から外へ飛び出す。B第3波攻撃でボール爆弾の雨を降らす。
なお吉澤氏はボール爆弾(CBU・24)を「小球を外皮に埋め込んだパチンコ玉が四散して人体を殺傷する」と記載しているが、ウィキペディアでは「爆弾本体に野球ボール大の子爆弾を300個ほど内蔵し、その子爆弾ひとつの炸裂で600個ほどの金属球を飛散させるもの」としており、今日問題になっているクラスター爆弾そのものである。のちに金属球は金属釘に代わり、いっそう殺傷力が高まった。子爆弾の信管はアルミ製で腐食しないので、不発弾はそのまま対人地雷となる。9月下旬 制憲議会が発足。スー前国家主席が議長に就任。新憲法草案の討議を進める。
9月 ラオス国民議会はプーマ政府提出の予算案を否決。事実上の不信任を突きつける。
66年10月
10.02 第一空挺騎兵師団、アービング作戦の一環としてクイニョン省の山間部を攻撃。
10.03 ベトナムの米軍、32万8千人となり、朝鮮戦争の最高時を上回る。統合参謀本部は、政府に対し予備役68万8,500人の動員を要請する。
10.03 ソ連、北ベトナムに軍事・経済援助を提供すると発表。
10.04 国防総省、核攻撃可能の曲射砲を南べトナムに配備したと言明。
10.05 北朝鮮の金日成主席、労働党の代表者会議でベトナムに義勇軍を送る用意があると述べる。
10.09 マクナマラ国防長官とジョン・マクノートン国家安全保障担当国防次官補、南ベトナムを訪問し軍事情勢を視察。
10.13 韓国軍の総数が5万名に達する。「白馬」、「猛虎」の2個師団と「青竜」海兵旅団から編成される。
10.14 マクナマラ国防長官が帰国後の記者会見。「情勢は安定しており、兵力の大幅増強の必要性はない」と表明。しかし大統領あての「覚書」では、戦争の前途に憂慮を表明。戦線縮小と政治的・軍事的妥協を勧告する。
国防総省覚書: マクナマラが連名でジョンソンあてに送ったもの。
@ローリング・サンダー作戦(北爆)は、北の浸透にそれほど影響を与えていない。A平定計画はむしろ後退している。ゲリラ部隊の数は増えている。攻撃の範囲は拡大し激しさを増している。鉄道・道路の多くが切断され、米の収穫は減少している。B絶対に安全なところはどこにも存在しない。海兵隊前線の背後でも、サイゴンや地方でも、夜は完全に敵に支配されている10.18 サイゴンの米軍司令部、非武装地帯への爆撃を再開すると発表。
10.18 政権内右派のロン・ノル前副首相兼国防相を首班とする新内閣が発足。シハヌーク国家首席は、政府に対する監視および批判の機関として、民社同盟内に、ウン・ホン・サット前国民議会議長を首長とする「影の内閣」を成立させ対抗。
10.21 総評が最初のベトナム反戦スト。54単産がストに参加するが規模は大きくなかった。
10.21 タオ・マ将軍が反乱。ヴィエンチャンの国軍司令部を爆撃したあとタイへ逃亡する。
10.22 南ベトナム仏教会、穏健派と急進派に分裂。
10.24 マニラで第一回参戦国会議。南ベトナムのチュウ国家主席、キィ首相、ドウ外相ならびに米国のジョンソン大統領、ラスク国務長官、韓国の朴大統領、フィリピンのマルコス大統領、タイのタノム首相、オーストラリアのホルト首相、ニュー・ジーランドのホリオーク首相が参加する。
10.25 会議は「アジア・太平洋地域における平和と進歩に関する宣言」を採択。南ベトナムの自由を確保する決意を表明するとともに、北ベトナム軍と同盟国軍の同時撤退を主張。「北ベトナムの撤退後6ヶ月以内にベトナムから撤退する」との共同声明。
10.25 米駆逐艦が、北ベトナム海岸に初めて艦砲射撃を加える。
10.25 北ベトナム、アメリカの全ベトナムからの撤退まで戦うと訴える。解放戦線第9師団、北からの援助により戦列を立て直す。
10.25 アトルポロ作戦。タイニン省の「Cゾーン」で最大規模の掃討作戦「アトルポロ作戦」が開始される。約3万人の米・南軍を投入し。1ヶ月にわたり索敵活動を展開。
戦闘地区C: サイゴン市の北西部、カンボジアと国境を接するタイニン省の「解放区」地域。ホー・チ・ミン・ルートと直接つながる南部の物資集積所となっていた。解放勢力 24,000名が活動し、解放戦線の中枢であるCOSVN(労働党南部中央局=人民革命党)があると考えられていた。
10.26 参戦国会議に参加したジョンソン大統領は、カムラン湾の米軍基地を視察した後帰国。
10月 右派軍将軍間における軋礫からタオマー空軍司令官の率いる空軍部隊が首都ヴィエンチャンの空港等を爆撃する。反乱は失敗に終わり、タオマーはタイに亡命。
66年11月
11.01 解放戦線、初めてサイゴン市内で、ロケット砲を用いた攻撃を実施。
11.10 サイゴンの米軍司令部、駐留兵力が35万人を超えたと発表。統合参謀本部は、さらに15万人増強するよう政府に勧告。マクナマラ米国防長官は、米軍増強は続くが水準は下がると言明。
11.11 アトルポロ作戦の一環として、ラオス領内のホーチミン・ルートにもB52爆撃機が集中攻撃。(このルートは当時 Mugia Pass と呼ばれ、北ベトナムのドンホイとラオスのタケクを結ぶ90キロの山越え道)
11.12 ニューヨークタイムズ、サイゴンに送られる米国経済援助の40パーセントが、盗まれるか闇市場にまわされると報じる。
11.21 愛国戦線と愛国中立派が第2回政治協商会議を開催。
11.24 コン・レ中立派軍司令官、右派との抗争に敗れ、国外に追放される。翌年3月には司令官の地位を解かれる。
11月 南ベトナム政府部内で、南北出身者の間の対立が表面化するが、内閣改造(ポストの分け前調整)により対立は回避される。
66年12月
12.04 解放戦線、タンソンニュット空港を奇襲。
12.06 ソ連の意を受けたポーランドの仲介で、米国と北ベトナム代表がワルシャワ会談を開くことで合意。まもなくハノイ爆撃の強化により流産。
12.06 ジョンソン大統領、ベトナム戦費を100億ドル追加するよう議会に要請したと発表。
12.08 ジョンソン大統領、米軍捕虜の扱いに憂慮を表明。捕虜交換についての議論を提起する。北ベトナムはこの提案を拒否。
12.13 米軍機、ハノイの住宅街にも爆撃を開始。中国大使館も被弾。北ベトナムに聖域はなくなる。ハノイの近くのCaudat村、米軍の猛爆により一面の荒れ野と化す。アメリカは軍事目標に限定されたものであり、無差別爆撃ではないと発表。
12.14 2日間にわたるハノイ爆撃は国際報道により厳しい批判を浴びる。ホーチミンは米国民あてのメッセージで、「我々は武力には屈服しない」との決意を明らかにする。
12.15 愛国戦線中央委員会がサムヌアで開催される。スパーヌウォンが軍事、政治、経済状況を報告。
12.16 第9歩兵師団がベトナムに配備される。
12.22 ジャーナリストから詳細な調査結果を突きつけられた米国防総省、ハノイ爆撃で市民が殺された可能性を認め、遺憾の意を表明する。しかしハノイの軍事目標に対する爆撃は続行すると声明。
12.24 初のクリスマス・正月休戦が実施される。
12.27 米・南ベトナム軍、メコンデルタでのベトコン掃討大作戦にむけ準備を開始。ナパーム弾による猛爆を開始。南ベトナム軍の先鋒が地上作戦を開始。
12.30 ポーランド政府、仲介を断念。
12月 ニューヨーク・タイムズ紙のソールズベリー記者が、北ベトナムを訪問しルポを発表。
12月 ポルポトとイエン・サリが中国を訪問。毛沢東思想に則り11項目の活動原則を宣言。
66年末 解放戦線、国土の5分の4、人口の3分の2を解放したと発表。
1966年末での数字: 米軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」、38万名に達する。南ベトナム軍は73万名、韓国などから6万名近くが参戦する。解放戦線は小火器による狙撃、罠、地雷などで抵抗。アメリカ軍人の死者数は6千名、負傷者は3万名に達する。解放戦線も6万を超える死者を出す。
67年1月
1.01 ラオス総選挙。愛国戦線は参加を拒否。
1.02 戦闘機同士の空中戦(ドッグファイト)が展開される。米軍側では「Operation Bolo」と呼ばれる。F-4ファントム28機と、ミグ21迎撃機がハノイ上空で対決。ミグ7機が撃墜される。北ベトナムのミグ戦闘機は9機を残すのみとなる。ワシントンはミグ空軍基地の攻撃を禁止。(訳の分からない話ですが)
1.02 正月休戦終了。海兵隊はメコンデルタ上陸作戦を開始。
シーダーフォール(Cedar Falls)作戦。
Junction City 作戦(C地区掃討作戦)の立案にあたった第二野戦軍司令官のJonathan O. Seaman中将は、これに「鉄の三角地帯」の破壊作戦も付け加えることを提案。ウェストモーランドはジャンクションシティー作戦に先立ってシダーフォールズ作戦を実施することを決定。
1.04 B52が鉄の三角地帯への爆撃を開始。
1.06 米軍1万6千(第一師団、第25師団、第173空挺旅団、第11装甲騎兵連隊など)と南ベトナム軍1万4千、シーダーフォール作戦を開始。それまで南政府軍が近づかなかったサイゴン北西40キロ、広さ約155平方キロの「鉄の三角地帯」を正面攻撃。単一の地上作戦としてはベトナム戦争史上最大の規模となる。
鉄の三角地帯: 解放戦線の要塞地帯で、南西をサイゴン川、北方をタン・ディエン森、東方をソン・チ・チン川に平行して走る国道13号線にはさまれた東西10km四方。現在「クチ基地」として観光客向けに開放されている。解放戦線は、総延長200kmにも及ぶ地下トンネルを使ってゲリラ戦を展開した。トンネル内には手術もできる医療施設や弾薬貯蔵庫、食堂、寝室が作られており、入り口には特殊なトラップやダミーがもうけられ、毒ガスよけの水密漕などもあった。
1.08 6個旅団が鉄の三角地帯北側にヘリで移動。解放戦線の撤退に向け阻止ラインを形成する。南方のクチ、チャンバンからは機甲部隊が進出し、山麓を封鎖。
1.09 米軍主力は、東方のベン・カトから鉄の三角地帯の中央に突入。この時点で、鉄の三角地帯には解放戦線の主力は存在しなかった。解放戦線の反撃は地雷と物陰からの狙撃のみ。
1.11 米軍が鉄の三角地帯のほぼ全域を制圧。その後、工兵部隊が10日あまりかけ施設の捜索と破壊を行う。
米軍はベトコンを駆逐するだけでなく、ベトコンを支える社会基盤そのものを破壊しようとした。住民は「新生活村」に強制移住させられ、住居は破壊され、全地域に枯葉剤が散布された。作戦開始後は、そこに住んでいるものはすべてベトコンとみなされ、殺害することとされた。いわゆる"free-fire zone"である。
1.27 シーダーフォール作戦が終了。作戦を事前に知った解放戦線は戦わずに分散。解放戦線側の死者は720人にとどまる。米軍兵士72人が、ブービートラップや隠されたトンネルからの狙撃の犠牲者となる。(当時のビデオが見られます)
1.06 米海軍、第117河川機動部隊を組織。第4軍団に所属し、第9歩兵師団のメコンデルタでの作戦を支援。
1.08 米軍司令部、ベトナム駐留米軍が47万人に達したと発表。
1.10 ジョンソン大統領、ベトナム戦争の継続と6%増税を発表。ベトナム戦費は220億ドルに達する。
1.10 米軍が北爆作戦を強化。延べ10万機を動員して、工場・発電所・貯水池・航空基地などを爆撃。投下爆弾は30万トン。これは第二次世界大戦で日本に投下された爆弾の2倍となる。
1.10 モスクワのベトナム大使館で米国のガスリ−代理大使とレ・チャン大使の接触が始まる。
1.23 フルブライト上院外交委員長、「権力の傲慢」を出版。アメリカのベトナム戦争政策を批判し、南ベトナム政府と解放戦線の直接交渉を呼びかける。ジョンソンはフルブライトやロバート・ケネディを批判し、「臆病者」(nervous Nellies)や「日和見愛国者」(sunshine patriots)などとののしる。
1.25 アメリカ統合参謀本部、ハノイの中心から8キロ以内の爆撃を禁止する。
1.26 ベトナム労働党第十三回中央執行委員会、「外交闘争推進」を決議。「戦場における勝利を通してのみ、話し合いの場での勝利を得ることとなる」とする。
1.26 グエン・チ・タンに代わりファム・フンが党南部委員会書記に就任。副責任者にグエン・バン・リン。(グエン・チ・タンが戦死したのは67年6月とされており、その前に交替したのかどうかは不明)
1.27 南ベトナム政府内で政変。グエン・フー・コ国防相が追放される。
1月 ファン・ヴァン・ドン首相、ニュー・ヨーク・タイムス紙ソールズベリー記者と会見。「“四項目”は和平交渉の条件ではなく、問題解決の基礎をなすものであり、話合いの効果的結論である」と述べる。北ベトナム側の和平に対する態度の変化を示唆するものとして注目された。(この発言を受けて下記のグエン・ズイ・チン発言が出てくる)
1.28 グエン・ズイ・チン外相がバーチェット記者と会見。「北ベトナムに対する爆撃と戦争行為が無条件で停止された後初めて、話し合いが可能となる」と述べ、解放戦線の承認など「四項目」を会談の条件としないことを示唆する。その後、この発言が公式言明で繰返し引用される。
67年1月 ラオス総選挙。プーマ首相は南部右派勢力を抑えて過半数を制する。
67年2月
2.01 パテート・ラーオ、ルアンパバーン空港を攻撃。いつでも王都を制圧できるとの示威行動。
2.02 ジョンソン、停戦の可能性を示す兆候は一切ないと断言。
2.06 コスイギン首相が英国を訪問し、ウィルソン英首相と会談。ベトナム和平は北爆停止が前提となるとの認識で一致。国会演説で和平への動きを進めると表明。
英・ソ首脳はこの間、幾度となく往来を繰り返している。後日、ウィルソン英首相は、「このとき我々は和平をほとんどつかみかけていた。しかしジョンソンがぶち壊した」と回顧している。
2.06 アメリカ空軍、枯葉作戦を開始。(開始時期については諸説あり)
枯葉作戦: 詳細については「枯葉作戦とは何だったのか」を参照願います。この作戦は米軍内ではランチハンド作戦と呼ばれ、1100万ガロンのオレンジ剤がベトナム国土の7分の1以上の地域に散布されました。この中には致死性化学物質ダイオキシンの240ポンド分が含まれます。
ダイオキシンを含む除草剤は、68年にアメリカ農務省によって禁止されましたが、オレンジ剤のベトナムでの散布は71年まで続けられました。これは明らかに人道に対する犯罪に相当します。2.08 ジョンソン米大統領はホー・チ・ミン北ベトナム大統領に対し親書を送り、(1)両国が直接の話合いをもつこと、(2)南ベトナムヘの地上や海路による浸透が停止されるとの保証を得られれば、北爆と南ベトナムでの米軍増強を停止することを提案。双方による抑制的行動を話し合い実現の条件とする。ベトナムはこれに激しく反発。無条件の北爆停止を主張する。
2.09 ラスク国務長官、「共産側は対応措置なしに北爆停止を得ようとしているが、北の浸透が続く限り北爆を止めることはない」と言明。
2.13 アメリカ、テト休戦を終え、北爆を再開。南シナ海に進出した第7艦隊が北ベトナム海岸に対し艦砲射撃を展開。ジョンソンは発電所への爆撃、河川への機雷敷設など作戦のエスカレートを承認。B52爆撃機の出撃は月60機から800機へと増加。
2.22 ジャンクション・シティ作戦。米軍、ジャンクション・シティ作戦を開始。今回の作戦は拠点18ヶ所を一挙に破壊しようとするもの。71日間にわたり米、南、MAF軍合計22旅団4万5千の兵力が動員され、ベトナム戦争史上最大の作戦となる。主力は第一騎兵師団、第25歩兵師団など4個師団3万名、南ベトナム政府軍の第一師団、第24海兵旅団の1万4千名などが参加。
米軍の装備は最新型兵器体系を中心とした重装備であるため、その輸送や補給、維持に多くの兵力を咲かなければならない。そのため実際の戦闘員は七人に一人の低い割合にとどまる。
2.24 非武装地帯南側、非武装地帯南のクアンチ、中部のプレイク、ビンディンなどで、6ヶ月ぶりに解放勢力の攻撃が活発化する。米軍は非武装地帯越しに北ベトナムを砲撃。
2.26 第7艦隊、北ベトナムに大規模な艦砲射撃開始。空軍は北ベトナム河川への機雷散布・敷設を開始。B52の延べ出撃機数は月当たり800機に達する。
2月末 ジャンクション・シティ作戦第一期が終了。この作戦で米軍・南ベトナム軍の死者は5000人、解放戦線の死者は2万人に達する。一説では、米軍死者は282人、負傷者は1576人。これに対し解放戦線は死者2728人、捕虜34人とされる、戦闘規模の評価について大きな食い違いがある。
ジャンクション・シティ作戦の成果: 米軍によれば、この作戦で5,000ヵ所以上のトンネル、集会所、住居などを発見し破壊。解放戦線は900トンの食料、100基の大型兵器、500挺以上の小火器などを残し退却。カンボジア領内の「オームのくちばし」地区に本部を再構築。
2月末 ジャンクション・シティ作戦を指揮したジョナサン・D・シメンズ将軍が「解任」される。(石山による)
2月 タイニン省のカンボジア国境地帯でガズデン作戦が実施される。数個旅団が合同で“策的・殲滅作戦”を行う。長距離強行偵察隊が派遣され、多くの戦果を上げたが、犠牲も大きかったといわれる。
2月 吃水の浅いジェット推進の高速艇を多数装備した河川機動軍が創設される。メコンデルタでの掃討作戦に威力を発揮する。
67年3月
3.05 ロン・ノル首相が自動車事故で重傷を負って入院。シハヌークは左派による政府攻撃を再び活発化させる。
3.08 米議会、45億ドルの戦費追加を承認。南ベトナムへの援助は1億5000万ドル増加し、年間7億ドルに達する。
3.01 中立派軍、コン・レに代わりソムプット・ソッファワン(Sompeth Sotfavanh)大佐が司令官に就任。
3.09 ジョンソン大統領、「相互抑制がない限り北爆を停止することはない」と、あらためて言明。
3.12 解放戦線の反撃により、「鉄の三角地帯」で最大規模の戦闘が展開される。米軍司令部は、1週間の戦闘で米軍死傷者が2085人に達したと発表。これは過去最大の数となる。
戦記によれば、解放戦線は千メートル級のアンナン山脈を背に、100名程度の小隊に分散し、夜戦を挑んだ。また戦闘部隊との直接戦闘を回避し、補給、輸送部隊を重点的に襲撃したので、アメリカ・南ベトナム軍は、優勢な機動力を全く発揮できずに終わった。
3.15 ロッジ駐ベトナム大使が更迭される。後任にはバンカーが就任。
3.18 戦闘地区Cにおける第二期掃討作戦が再開される。グァム島から飛来したB-52がじゅうたん爆撃。ついで第173空挺旅団が地区の中心部に降下。西に進みカンボジア国境のカツム村を制圧し、解放戦線の退路を断つ。この後300機以上のヘリで5個大隊がカツムに入る。
それは生理学的な恐怖でした。夜が明けてから日が沈むまで、何年も、最後まで。1キロ先の爆弾では、B52の爆弾の轟音が鼓膜をつんざきます。森の住人の多くは永久に聾唖になってしまいます。半キロ先だったら、衝撃波が打ちのめし、気を失ってしまいます。それより近ければ、補強していない地下壕の壁が崩れます。人々は生き埋めになり、そのまま死を迎えるのです。
3.18 ウェストモーランド司令官、太平洋軍司令部に対し2個師団の早期増強を要請。中部高原で兵力が不足していると訴える。
3.20 ジョンソン米大統領、キ首相とグアムで会談。軍事作戦、平定計画等の進め方について協議を行なう。ジョンソンは「名誉ある平和」の達成まで支持すると約束する一方、社会改革の必要を強調し早期の総選挙実施を迫る。南ベトナム側は北進をふくむ戦争拡大に力点をおく主張。
3.20 米海兵隊、非武装地帯南に上陸開始。
3.21 戦闘地区Cで解放戦線が反撃を開始。その後の3週間で米軍は死傷者5100人を出し、500台の車両と40門の重砲、57機の航空機を失う(石山による)。米軍側報告では、月末の3日間、解放戦線は3千名でアメリカ軍の拠点を攻撃したが、1千名近い戦死者を出して退却している。アメリカ軍の死者は100名に満たなかったとされる。
3.21 北ベトナム、ホーチミンがジョンソンあてに出した返書を発表。ジョンソン書簡を公表するとともに、あらためて直接会談を拒否し、北爆その他の戦争行為の無条件停止のあとでのみ、両国の会談は可能であると述べる。
3.24 グエン・フー・ト解放戦線議長、ホーチミンあての書簡で徹底抗戦の意思を表明。3月 この1ヶ月で北ベトナムに投下された爆弾は8万トン近くに達する。
3.30 ロンノル内閣の二人の閣僚が、外国援助物資払下げをめぐる不正事件で、国会の不信任決議を受け失脚。
3月 ウ・タン国連事務総長、(1)全面的休戦、(2)予備会談、(3)ジュネーヴ会議の再開の三段階による紛争解決を呼びかけた新提案を発表。北ベトナムは北爆停止が前提となっていないとし、これを拒否。
3月 南ベトナム制憲議会、三権分立、大統領制、二院制の立法議会の設置等を骨子とする新憲法を採択。国家指導委員会側もこれを承認。
67年4月
4.01 制憲議会により採択された南ベトナム新憲法が公布される。
4.03 アメリカによる北爆が最高潮に達する。1日で147波の爆撃が繰り返される。国防総省は北爆に関する制限をほぼ全面的に撤廃。死の鳥(ビッグベリー)と言われたB-52戦略爆撃機がハノイ・ハイフォンなど中枢部に対する大規模爆撃を展開。
北ベトナムは空軍基地や飛行場が爆撃を受けて迎撃戦闘機が壊滅したといわれる。いっぽう激しい対空砲火により、北爆開始以来の米機の損失も500機に達する。(8月中旬、北ベトナム軍事筋は「これまでの1年間に米機884機を撃墜した」と発表)
4.04 マルティン・ルーサー・キング、ベトナム戦争は「偉大な社会」計画を蝕んでいるとし、公民権運動とベトナム反戦運動の結合を宣言。青年たちに良心的兵役拒否を呼びかける。
4.05 解放戦線、ウタント国連事務総長の和平提案を拒否。北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相は、北爆停止と引き替えに話し合いに同意しても、「解放戦線が南ベトナム人民の唯一の正統な代表である」という点が承認されない限り、和平は進行しないだろうと述べる。
4.06 解放戦線と北ベトナム軍、クアンチの街を2千5百の軍勢で攻撃。一時占領する。
4.08 全米各地でベトナム反戦週間の一斉行動が展開される。
4.13 米軍、二期にわたるジャンクション・シティ作戦を終了。解放戦線は「鉄の三角地帯」の奪還を断念。各地に分散してゲリラ攻勢を強める。主力を三角地帯に集中していた米軍は、これに対応するため、兵力の逐次分散を迫られる。
これほど戦果が食い違う戦闘も珍しい。米軍司令部発表では米軍・連合軍死者は289人、戦車3台をふくむ21台の車両と5門の大砲が破壊されたのみ。これに対し解放戦線側発表では、米軍死傷者1万3千人、戦車など車両933台、大砲119門を破壊。 4.14 ニクソンがサイゴンを訪問。米国内の反戦運動は戦争を長引かせるだけと強調。
4.15 ニューヨークとサンフランシスコで、50万人のベトナム反戦デモ(一説に20万人)。
4月中旬 カンボジア北西部のバッタンバン州でクメール・ルージュによる反政府武装蜂起が発生。
4.18 東南アジア条約機構(SEATO)、ワシントンで会議を開き、南ベトナムへの支援強化を決議。
4.20 解放戦線が米軍輸送船(LST)をロケット砲攻撃。日本人労務者5人が死傷する。
4.23 1ヵ月半にわたりメコンデルタの湿地帯でマンハッタン作戦。ベン・クイ(Ben Cui)のボイ・ロイ森(Boi Loi)、ホボ森(HoBo)を攻撃。工兵隊がジャングルを次々と伐採し荒れ野に変える。
4.24 米軍、初めてハイフォン港を爆撃するなど北爆をエスカレート。北ベトナムの飛行場のすべてが攻撃対象となる。4月から5月にかけてのノイ・ハイフォン上空での空中戦でミグ戦闘機26機が撃墜され、ミグ戦闘機による迎撃は不可能となる。年末までに北ベトナムのミグ戦闘機基地は壊滅。
4.24 ウェストモーランド司令官、反戦運動は敵に、「軍事的には勝てないが政治的には勝てる」という希望を与えていると非難する。同じ時期、彼はジョンソン大統領に「戦争は無期限に続くだろう」と警告したという。
4.24 ケサン周囲の高地で、北ベトナム軍と海兵隊第三師団の戦闘が激化。北ベトナム軍がケサン基地への補給路を封じ、要塞にロケット弾、手榴弾、追撃砲での攻撃を加える。米兵155人が死亡し425人が負傷。北ベトナム側も940人の死者を出す。
ケサン基地: 非武装地帯から25キロ南、ラオス国境から10キロ東のアッシャウ渓谷に作られた。北の勢力地帯に突出し、ホーチミンルートを妨害するための絶好の位置にある。標高は450メートルで東、北、西の三方を山に囲まれている。
すでに62年、特殊部隊がキャンプを設置していた。米軍は非武装地帯南側の防御を強化するため、67年初めから2千メートル(一説に1200メートル)の滑走路を構築した。海兵隊第26連隊の三個大隊と第9連隊第一大隊など5千名と南ベトナムの第37レンジャー大隊1千名が駐留。さらに周囲のS881高地、861高地、558高地、N881高地の4箇所の前哨基地(一説では5ヶ所)に海兵隊各一個中隊が配備される。また東方27キロ(一説に15キロ)にキャンプ・キャロルを設営し、砲兵部隊を配備。一日185トンとされる兵站の確保も大変で、C130輸送機による空輸が毎日15 便必要とされる。4月 北ベトナム軍が戦車と砲兵連隊で補強された四個師団をケサン周辺に配置。ケサン基地への補給路を封じ、要塞にロケット弾、手榴弾、追撃砲での攻撃を加える。サイゴンの米軍司令部は海兵隊を送り防衛を強化。
ウェストモーランドは、北ベトナムの意図はディエンビエンフーの再現だと考えた。そしてケサン一帯に海兵隊をおとりとして配備した。目的は、「敵にわれわれのごく近くまで集結させ、敵の部隊と兵站ルートをさらけ出させ、敵に軍需品集積所と集合場所を確立させ、思う存分攻囲準備をさせる。そして重爆撃にうってつけの膨大な数の標的を日の目に曝させる」ことである。
4.26 クアンナム省ズイスエン県ズイタン村フーニュアン第二部落ノンサン集落で、米軍が、女性と子ども52人を殺害。翌68年8月15日には、フーニュアン第三部落ビンクアン集落で37人が殺害される。うち16人が老人、21人が子ども。ズイスエン県では67年から70年の四年間に、米軍が行った主な民間人殺害は、ズイタン・ズイホア・ズイチャウの三村で発生した8件。住民の死者は265人に及ぶ。
4.27 ジョンソン大統領とホィーラー統合参謀本部議長、ウェストモーランド司令官が会談。ウェストモーランド司令官は20万人の兵力増強を要求。ホイーラー統合参謀本部議長らもこの要求を支持。ジョンソンはウェストモーランドの際限のない増援要請に対し難色を示したといわれる。
4.28 カシアス・クレイ(25)、イスラム信仰の宗教上の理由から、徴兵入隊を拒否する。裁判所はクレイに禁固5年、罰金1万ドルの判決。世界ボクシング協会は王座を剥奪する。最高裁は4年後にクレイの良心的懲役拒否を8対0で認めた。
4.29 ホイーラー統合参謀本部議長、マクナマラ国防長官宛に覚書を提出。予備役の動員をふくむ新たな増派、「聖域」への戦争拡大、北ベトナム港湾の機雷封鎖などを迫る。
4.30 クメール・ルージュの鎮圧に失敗したロン・ノル内閣が総辞職。シハヌーク元首を閣僚会議議長とし、ソン・サン国立銀行総裁が首相となり臨時内閣が発足。
4月 オーストラリア、第7大隊をベトナム第三軍管区に派遣。最初のオーストラリア実戦部隊となる。
4月 ニューヨークで大規模な反戦デモ行進。
67年5月
5.01 バンカー駐ベトナム大使が更迭される。後任にロッジ前大使がふたたび任命される。
5.01 プーミ・ウォンウィチット愛国戦線書記長、B52 による解放区への爆撃に抗議。
5.02 ウェストモーランド司令官が大統領に60万への増強を要請。
5.05 米軍、ハノイ市街地に対する無差別爆撃。
5.06 北ベトナムの2個師団が非武装地帯を南下。ケサン、ロックパイル、カムロ、ドンハ、コンティエン、ギオリンなどの米軍基地に一斉攻撃を加える。ケサン周辺の881高地では9日間にわたり激戦が展開され、カンボジアから侵入した北ベトナム軍は数百の死体を残し撤去。
5.08 サイゴンの米軍司令部、ベトナム戦における米機損失が1336機に達したと発表。解放戦線の地対空ミサイルによる戦闘ヘリの損傷が甚大なものとなる。航空戦では米国が圧倒。北ベトナム航空兵力の半分にあたるジェット機26機が撃墜されたという。
5.09 ジョンソン大統領、元CIAアナリストのコーマーをMACV副司令官に任命。コーマーは市民の平定を目的とする「革新のための市民行動委員会」(CORDS:Civil Operations and Revolutionary Development Support)を組織。8億5000万ドルにおよぶ食物、医薬品、機械などがCORDSを通じて市民に分配される。
ロバート・コーマー(Robert W. Komer): キューブリックのストレンジラブ博士を地で行く人物。ハーバード出身の俊英で、第二次大戦以来のCIAの生え抜き。バンディの退任後は国家安全保障担当の大統領補佐官を勤めた。CORDSは悪名高いフェニックス作戦の実行役となった。コーマーは後にみずから、フェニックス計画で2万人以上が暗殺されたと証言している。チョムスキーは、コーマーの在任中に6万人が殺害されたとし、彼こそ「最悪の冷戦政治家」であると述べている。
5.10 ストックホルムでラッセル・サルトルらの主催するベトナム戦犯国際裁判(通称ラッセル模擬法廷)、米国に対し有罪を判決。
5.12 解放戦線、米軍施設に対する破壊活動を強化。ビエンホアの空軍基地やダナンのミサイル基地などが、140ミリ砲の標的となる。
5.13 ニューヨーク消防局の指導するベトナム戦争支持のデモ。7万人がパレードを行う。
5.14 ジャンクション・シティ作戦が中止される。ウェストモーランド大将は、作戦の継続を主張していたといわれる。
戦記によれば、4万人という大兵力を投入したにもかかわらず、作戦の結果は成功とは評価できない。3ヶ月の作戦における戦死者がわずか282名であるということは、解放戦線との接触が極めて少なかったことを示している。敵に与えた物質的な損害は少なくないが、軍が引き揚げれば解放戦線が戻るだけである。
事実、Cゾーン、Dゾーンおよびその南方の”鉄の三角地帯“は、度重なる掃討作戦にもかかわらず、南ベトナム陥落の時まで存在し続けた。さらに解放戦線は農村部の約6割を実効支配するに至った。5.18 米海兵隊・南ベトナム軍は、非武装地帯に侵攻し、1週間にわたり掃討作戦を展開。コンチェンでは正面戦が展開される。
5.19 マクナマラとマクノートン(国防次官補)が連名で覚書。「北爆は効果を上げていない」とし、縮小を勧告する。さらに「ベトコンをふくむ連立政権」の受け入れを提唱。
5.22 ジョンソン大統領、平和協議を受け入れるよう公的に北ヴェトナムに主張する。(“公的”の意味は不明)
5.31 統合参謀本部、マクナマラ提案を全面批判。@過去2年以上の努力を無に帰す、Aベトナムでの失敗は自由世界に重大な影響を与えるとする。
5月 労働党政治局会議。米軍の消耗戦略に限界が現れているととらえ、南ベトナムにおける「総攻撃・総蜂起」について具体的に議論。テト攻撃の計画に着手。南部出身のファム・フンが党南部委員会の責任者に就任。副責任者にグエン・バン・リン。
67年6月
6.02 米機がカンファ港を爆撃。ソ連商船トルキスタン号が被害を受ける。ソ連は責任者の処罰を要求。米国は北ベトナムの対空砲火のためと反論する。
6.15 解放戦線、ダナンの米軍基地をロケット砲で攻撃。44機を破壊する。
6.22 サイゴンの米軍司令部、米軍が46万3千人に達したと発表。ほかに韓国軍など参戦国軍が5万4千、南ベトナム軍が約60万、米側推定では「共産側」兵力は19万4千、うち北ベトナム正規軍が5万とされる。
6.23 コスイギン首相がアメリカを訪問し、ジョンソン大統領とグラスボロで会談。ソ連船への爆撃に抗議。ジョンソンは米機がソ連船を爆撃した可能性を認め謝罪。「即時に生産的な交渉が開始されるならば、米国は北爆を停止できる」と述べ、北ベトナムの南部侵攻停止を条件から外す。
6.30 南ベトナム大統領選を控え、国家指導委員会のグエン・バン・チュウ議長が大統領候補となる。副大統領候補にはグエン・カオキ首相が立候補。
6月 河川機動軍が作戦を開始。米海軍の快速艇がメコンデルタの河川を遊弋し、解放戦線の物資供給を阻止。
6月 プーマ首相が内閣改造。南部右派はパテト・ラオに対する閣僚ポスト配分の中止を求める。政府軍内では右派軍による中立派軍の統合が進められる。中立派警察も政府警察へ統合される。
6月 長距離の戦闘・捜索・救難 (CSAR: Combat Search And Rescue) および特殊作戦の支援を行う軍用ヘリとして、シコルスキーHH-53Bが導入される。「スーパージョリー・グリーンジャイアント」と呼ばれるこのヘリは、全長20メートルを越え、最高時速は350キロと飛行機並み。機外増槽や空中給油装置を装備し長距離出動も可能。最大50人の兵士も運搬できる。さらに横転や宙返りまでもこなせる優れた運動性を持つ。2門のミニガンを装備し重装甲を持つ。
67年7月
7.01 レ・ズアン第一書記、労働党南中央局に対し「総攻撃・総蜂起」の準備を指示。「南ベトナムでの革命闘争は、対侵略戦争でもあり、革命内戦でもある。総蜂起が成功するためには、軍事的勝利が基本となる」と述べる。南での軍事的苦境を乗り切るため、北ベトナム正規軍を本格的に投入する。
7.02 解放戦線(北ベトナム正規軍と思われる)が非武装地帯南部のコンチェンを攻撃。1週間にわたり米軍とのあいだに激戦を繰り返す。
7.07 ウェストモーランド将軍、47万人の米軍に加えさらに20万人の増援を要請。(ほとんど政治的自殺行為)ジョンソンはこのうち4万5千について増派に同意(これも自殺行為)
7.07 マクナマラ国防長官、サイゴンを訪れウェストモーランドと会談。事態の打開を図る。5万5千人の増派で両者が妥協、ジョンソンはこの提案を受け入れる。(上記項目の真相は、こちらが正しいようです)
7.07 南部戦区総司令官・南部中央書記グエン・チ・タン将軍がカンボジア領内で心臓発作のため死亡(一説ではアメリカ軍の爆撃によるとされる)。タン将軍は中部トアティエン省の出身で、51年からの労働党政治局員。
7.07 レ・ズアン報告を受けたベトナム労働党政治局、南ベトナムに対する攻勢の拡大を決議。第一段階は国境地帯の攻撃により米軍を市街地から引き離し、第二段階は解放戦線によるサイゴンを初めとする市街地の攻撃であり、第三段階は南ベトナム政府を打倒するための「総蜂起」と、これに呼応した北ベトナム軍の侵攻作戦とされる。
7.15 解放戦線、ダナンの米軍基地を砲撃。(これも北ベトナム軍による作戦の一環と思われる)
7.25 ハノイで米国との秘密接触に関する事前協議。ファン・バン・ドン首相は、@解放戦線の目指す「広範な連合政権」の参加者は過去の経歴を問わない。Aサイゴン政権参加の有無について、北ベトナム政府としては、すべての問題に対して討論する用意がある。B議論には解放戦線の参加が不可欠だが、最初の段階では、解放戦線の参加しない会談もありうる。
7.29 米空母フォレスタル号、トンキン湾で火災を起こし炎上。死者は71人(一説では134人)に達し航空機56機が損壊する。第二次大戦以来最悪の事故となる。
7月 南ヴェトナム政府軍、464,000人まで増強される。しかし地上作戦に使用可能な兵力は5万人にとどまる。
67年8月
8.02 米第7艦隊が北ベトナム海岸に展開。艦砲射撃をくわえる。
8.08 フィリピン、マレーシア、インドネシア、タイ、シンガポールの5カ国が、「東南アジア諸国連合」(ASEAN)を結成。当初はSEATOとつながる反共色の強いものだった。
8.09 議会タカ派が支配する上院軍備小委員会、北爆に関する聴聞会を開催しマクナマラの証言をもとめる。
8.09 ジョンソン大統領、北爆目標の拡大を認める。軍部の要求を入れ、マクナマラを辞任へと追い込む結果となる。
8.11 米機、ハノイのロンビエン大橋を爆撃。(紅河に架かる長大橋で、約100年前に作られた。設計者はエッフェル塔で有名なエッフェル)
8.13 米軍機が中国国境16キロのランソンを爆撃。ジョンソン大統領、北爆の拡大は中国への脅威にはならないと表明。
8.14 米軍の瀬戸際政策をめぐり米議会内での論争が激化。北爆強化を唱える「タカ派」に対し、対北慎重派は「ハト派」と呼ばれるようになる。
8.16 総評幹事会,南ベトナム向け軍需物資の輸送拒否を各国に呼びかけることを決め,国際連帯会議を提唱.
8.19 新記録となる1日209波の北爆が行われる。その後さらにハイフォン港に付属する橋、倉庫等の爆撃、北ベトナム最大のミグ基地であるフクイエン爆撃、ハノイ、ハイフォン地区にたいする連続七日間の爆撃など攻撃がエスカレートする。
8.20 解放戦線の臨時大会、新政治綱領を採択する。@独立、民主、平和、中立、繁栄の南ベトナムの建設。A南北の平常関係の回復と平和的祖国統一を柱とする。
新綱領の特徴: 「戦争において人民が優勢な立場に立っている」とし、大統領選挙に向けて、これまでの行動綱領に加え政策部分を充実したものとなる。また連合政権の樹立に際して、中心的役割を果たしうるような人々を獲得することを重視し、基盤拡大を目的とした姿勢の柔軟さが打ち出される。いっぽう和平問題に関しては五条件を再確認し、非妥協的立場を貫く。
8.21 北爆中の米戦闘爆撃機2機が、誤って中国領空を侵犯。中国防空部隊により撃ち落される。
8.25 キッシンジャーとマイ・バン・ボ在パリ北ベトナム代表、パリで秘密の接触。
8.26 サイゴンの米軍司令部、今年に入ってからの米軍戦死者が6千人(通算1万2千人)、月平均700人に達していることを明らかにする。
8.26 マクナマラ国防長官、下院(上院?)軍事委員会の秘密聴聞会で証言。「アメリカの爆撃が払った犠牲は9億ドルを超えている。しかし北爆は、北ベトナムの戦争遂行の意志と能力に影響を与えていない」と述べる。
8.27 解放戦線、南ベトナムの四つの省都を同時攻撃する。
8月末 大統領選挙を直前に控え、グェン・カオ・キが副大統領として立候補することを受入れる。
67年9月
9.01 南ベトナム解放民族戦線放送,新綱領を公表.
9.01 シハヌーク元首、中国友好協会など諸外国との友好協会を解散する。中国はシアヌークを反動派と非難。クメール・ルージュへの援助工作を活発化する。
9.01 北ベトナムのフアン・バンドン首相、ベトナム人民は戦い続けると発表。ザップ将軍、ハノイ放送で「大きい勝利、大きい作業」と題する演説。テト攻勢の概要を示唆する。米軍はコンティエンに対する砲撃とあわせ、国境地帯からの北ベトナム軍の侵入を予想する。
9.03 南ベトナムにおいて大統領選挙。チュー=キのコンビが全投票数の38パーセントを獲得。ファン・カク・スー元国家元首、ハ・トク・キィ革命大越党書記長等の民間政治家候補者をおさえて当選。投票率は政府発表で83.7%とされる。
9.03 アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎する。北ベトナム政府は「不正選挙である」とし、選挙結果を受け入れず。
9.07 マクナマラ米国防長官、非武装地帯南側の海岸部に地雷原を敷設し、共産主義者の浸透を防止する計画を発表。「マクナマラ・ライン」と呼ばれる。
9.07 愛国戦線のポンヴィチット書記長、アメリカによる解放区への爆撃停止を求める覚書をイギリスとソ連に送る。
9.11 北ベトナム軍、非武装地帯の南3キロのコンティエン(Con Thien)に進出。第3海兵師団第4海兵連隊の駐屯部隊を包囲する。戦闘は10月末まで続く。北ベトナム軍は新たにソ連から供与された長距離砲を初めて使用するなど、4万2千発の砲弾を撃ち込む。米国は28万発の砲弾とB52による空爆で応戦し、包囲網を打ち破る。
9.11 シアヌーク、中国の内政干渉を非難する。親中国派閣僚二名を罷免し北京の大使館を引き揚げる。
9.14 周恩来首相、大使召還の決定を再考するよう要請。シアヌークはこれを受け入れる。その後も内政干渉や「文化大革命の輸出」への非難を続ける。
9.17 非武装地帯の北でB-52機2機が撃墜される。
9.24 仏教徒・学生ら、大統領選の無効を訴えサイゴン・フエ・ダナンなどで抗議デモ。昨年春以来の公然たる反政府運動となる。
9.25 ベトナムでの戦闘のため、第23師団(アメリカル)が創設される。第196軽歩兵旅団に第11、第198旅団を加え編成される。
9.29 ジョンソン大統領、サン・アントニオで演説。「北爆と砲撃の停止が有効な話合いに導かれるときには、進んでこれを停止する。しかし話合いの間も、北爆の停止・制限はしない」と述べる。
9月 カナダのマーチン外相、国連における演説。四段階からなる和平提案を行い、「米国の無条件北爆停止が紛争解決の第一歩となる」と主張する。
9月 タン将軍の葬儀という名目で軍幹部がハノイに集合。主力部隊による通常攻撃の方向で一致。ハノイでテト攻勢の準備が始まる。作戦に反対した高級将校200人が逮捕されたという。
タン将軍は主力部隊による通常攻撃を主張し、ゲリラ戦を主体とするザップと対立していた。それは65年のイア・ドラン渓谷の戦闘で大きな敗北を招いた。しかしザップはタンの死を機に2年間にわたる論争を終え、主力部隊による通常攻撃を是認するようになった。
67年10月
10.02 解放戦線、サイゴン近郊の港湾を襲撃。日本籍の貨物船「大国丸」が砲撃を受け、1人が負傷する。
10.05 北ベトナム政府、米軍が学校を狙い対人爆弾を投下していると非難。
10.12 プーマ首相、ラオス領内に4万の北ベトナム軍がいるとし、ラオスへの軍事介入を非難。これに対し愛国戦線のプーミ・ウォンウィチット書記長は、米国による爆撃に抗議し、解放区への爆撃停止を求める覚書を発表。この年、アメリカはラオス全土に35万トンの爆弾を投下。
10.12 ハイフォンの港湾施設が空爆を受ける。
10.13 プーマ首相、北ベトナムによるラオスへの軍事介入を非難し、国連に訴える。
10.16 米国内30の都市で学生や黒人を中心とする反戦デモ。
10.20 解放戦線が中央委員会幹部会拡大会議を開催。テト攻勢をふくむ向こう半年間の戦闘の内容について議論。
10.21 ワシントンのリンカーン記念堂前で、徴兵中止を求める10万人規模の反戦大会が開かれる。参加者のうち5万人がポトマック川を渡り、国防総省前に座り込み。23日に当局が出動し、作家ノーマン・メイラーやデモの責任者ダビッド・デリンジャーなど600人を逮捕する。
10.21 第198軽歩兵旅団がベトナムに入る。
10.22 南ベトナム下院議員選挙。
10.24 米軍機、2ヶ月ぶりにハノイ爆撃を再開。北ベトナム最大の航空基地フクイエンを爆撃し、ミグ戦闘機を破壊。
10.25 南ベトナム政府、徴兵年齢を18歳に引下げると発表。
10.26 ジョン・マケインの操縦するA4Eスカイホーク攻撃機がハノイ上空を飛行中撃墜される。マケインは73年までホアロ刑務所に収監される。
10.31 南ベトナム新政府が成立。首相にグェン・ヴァン・ロック前軍民評議会議長が任命される。
10.31 北ベトナム軍、アメリカ軍の反撃の前にコンティエンから撤退する。北ベトナム側の死者は2千人以上と推定される。その後大規模な攻撃は一時停止される。
10.31 パテート・ラーオ、タイ軍がラオスに侵入したと主張。
10月下旬 クメール・ルージュがふたたび蜂起。中国からの武器援助により勢力を拡大。
10月 サイゴン北方カンボジア国境のロクニン省で解放勢力の攻撃が激化。
10月 米側文献によれば、この頃、解放勢力内でテト攻勢の発動が決定されたという。
ほとんどあやしい情報: この作戦に反対し「軍事攻勢より米国との交渉を」と主張する幹部は速やかに捕らえられた。党や政府の幹部がそのポストから排除され、200人以上が捕らえられ、一部は処刑された。
ボー・グエン・ザップも一時更迭されたといわれるが、この更迭説は嘘だろう。この期にザップが一線に返り咲いて、テト攻勢の総指揮をとったといわれており、そちらのほうが正しいだろう。10月 ホー・チミン・ルートを通るトラックの数が劇的に増加。それまでの月平均480両から10月には1,116両に達する。11月には3,823両、12月にはさらに6,315両にまで増加。
10月 北ヴェトナム、1968年1月27日から2月3日まで7日間、テト休戦を行うと発表。南ベトナム軍はこれにあわせ、兵力の半分に休暇を与える計画を立てる。
10月 世論調査では米国人の46%が「ベトナムへの軍事的関与は間違いだった」と答える。これを受けた「ライフ」誌は、ジョンソンの戦争政策への支持を取り下げる。
10月 佐藤栄作首相、サイゴンを訪問。南ベトナムへの経済援助を約束する。
67年11月
11.01 カンボジアと中国とのあいだに和解が成立。その後もクメール・ルージュを支援する中国との関係は冷たいまま経過する。
11.02 解放戦線、「冬・春季にさらに大きな勝利を収めよう」とのアピールを発表。
解放勢力はテト攻勢を農村総蜂起の起爆剤と位置づけていた。その根拠として、@三次にわたる大規模な掃討作戦が事実上失敗に終わり、米軍側に次の手がなくなったこと、Aこの頃までに米軍の「平定計画」がほぼ破産したこと。3千の対象農村のうち計画が実施されたのは250にとどまり、村の防衛にあたる南ベトナム軍兵は、解放戦線の攻撃を受けるとただちに逃げ出したという。B南ベトナム軍兵士が、軍を離脱し解放戦線側に帰順する動きが相次いだこと。1ヶ月あたり約1万におよんだといわれる。
しかし総蜂起は起きなかった。朝鮮戦争における旧南労党指導部もそうだったが、一般に現場に近いほど、情勢の見方は主観的要素が強くなり、甘くなるようである。銘ずべき教訓である。11.03 ダクトの戦いが始まる。北ベトナム軍が中部高原のダクト丘陵地帯に進出。ダクトの特殊部隊駐屯地を攻撃。これに対し米第4歩兵旅団第503空挺歩兵部隊が出動。戦いは1ヶ月にわたる。
11.13 バンカー大使、ワシントンで記者会見。「1年前には南ベトナム政府の支配下にある人口は55%だったが、現在は70%に達した。ベトコンの支配下にある人口はわずか17%であり、残りは戦闘地域に住んでいる。ベトコンの兵員補給は次第に減退している」と述べる。
11.14 ケサン第3海兵師団のブルーノ・ホクマス少将、搭乗中のヘリが北ベトナム軍により撃墜され戦死。
11.17 ホワイトハウスにウェストモーランド将軍、バンカー大使、ロバート・コーマーを集め戦略会議。ジョンソン大統領は終了後の全国テレビ放送で、「我々は敵により大きな犠牲を負わせ、前進しつつある」と述べる。
11.19 ウエストモーランド司令官、「私は確信している。1965年には敵が勝っていた。今日、敵は間違いなく敗れている。2年以内に米軍の一部撤退が可能である」と表明。タイム誌とのインタビューでは、「我々は戦いをもとめている。ベトコンよやって見ろ」と語る。
11.19 第101空挺師団(Airmobile)、ヴェトナムに配備される。すでに現地入りした第一旅団に合流する。
11.29 マクナマラ米国防長官が辞任。事実上の更迭。時期を前後して、ビル・モイヤース、マックジョージ・バンディ、ジョージ・ボールらの側近が相次いで辞任する。
11.30 サイゴンの米軍司令部、ベトナム戦争での戦死者が1万5千人を突破、重傷者も5万人に達したと発表。
11.30 民主党内反戦派のユージン・マッカーシー上院議員、大統領選への立候補を表明。「我々は極めて深刻な危機にある。ベトナム戦争の全歴史は間違いと失敗の繰り返しであった」と述べ、「交渉によるベトナム問題解決」を訴える。
11月末 CIAアナリストのジョセフ・ハヴィー、ジョンソン大統領を含む政府幹部に対しメモを送付。今後の数ヶ月の間に北ベトナムが都市への攻撃を行うだろうと予測する。
11月 文革派の指導のもとカンプチア共産党(クメール・ルージュ)が武装闘争を開始。
67年12月
12.03 ダクトの戦いが終わる。北ベトナム軍は大規模な空襲と結合した地上攻撃を前に1,644名の死者を出し撤退。米軍側の死者は289名。ウェストモーランド将軍は「兵士の勇敢さ、粘り強さとともに、空輸作戦の成功がこの勝利の鍵となった」と讃える。(一説では北ベトナム軍死者631人、米軍91人負傷457人とされるが、戦闘の初期段階の数字であろう)
12月 ロクニンの北のブドプで激戦が展開される。
12.06 米政府、ダクソン村で民間人252人がベトコンに虐殺されたと発表。
ダクソンの虐殺: ダク・ソンは中央高地の村で、ホーチミン・ルートの建設・維持のため使役に狩り出された山岳民族が、難民となり隠れ住んだ部落のようである。この事件に関する記事はウィキペディアもふくめ一方的なものしかない。
12.06 ニューヨークなどで「反戦と兵役拒否週間」が実施される。各地で警官隊との衝突を繰り返す。著名な小児科医ベンジャミン・スポック博士をふくむ585人が逮捕される。
12月上旬 米国、シアヌーク政府に「ベトコンの聖域」問題に関する話合いの申し入れ。カンボジアはこれを受諾。
12.19 第11軽歩兵旅団がベトナムに配備される。オーストラリア王立連隊の第三旅団が、第三軍管区のオーストラリア機動部隊に配備される。ニュージーランドも、第三軍管区に歩兵隊中隊を展開する。
12.20 ウェストモーランド、北ヴェトナムが「全国規模の短期集中型攻撃を行う」模様であると報告。これを受けたジョンソン大統領は、非公式に「北ベトナムが絶望的な神風攻撃を行う」可能性を警告。
12.25 パテト・ラオ、ムアン・パランにあるアメリカのレーダー施設を一時占拠。
12.29 北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相、「もし米国が交渉を望むなら、無条件に北爆を停止すべきである」と述べる。北爆停止を条件として交渉に応じることを示唆したものとされる。和平に対する前向きの姿勢を示すものとして反響を呼ぶ。
12.30 グェン・ズイ・チン北ベトナム外相、「米国が北爆をやめた後、ベトナム民主共和国は米国と話合う」と述べる。
12月 パテトラオと北ベトナム軍が、南部のラオガム市を奇襲攻撃。その後数ヶ月にわたりホーチミン・ルート沿いに北部のナムパク、中部のタトム、南部のサラバン、アトプなどを攻撃。
12月 クリフォード次期国防長官、米上院軍事委員会で証言。「共産側の軍事活動は停戦の合意が成立するまで続く。彼らは通常量の物資、弾薬および人員を輸送し続けるであろう。その間われわれはわが軍を維持し、支援し続けるであろう。我々はかれらが北爆停止を利用しないことを要求する」と述べ、ジョンソン大統領の「サン・アントニオ演説」を敷衍する。
12月 国連総会でルーマニア代表が解放戦線の新綱領の配付を行なう。
12月 アメリカの金準備高が1937年以来の最低水準となる。経済層からもベトナム戦争に対する懐疑論が噴出する。
1967年末での数字: 米軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」、48万名に達する。そのほか、大韓民国、オーストラリア、フィリピンなどの同盟国軍将兵約5万人が参戦。解放戦線は北ベトナムからの支援部隊9万人をふくめ32万人。
アメリカ軍人の死者数は約1万名(通算で1万6千名)、戦傷者6万人。南ベトナム政府軍は1万1千名に達する。解放戦線も9万近い死者を出す。
68年1月
1月初め 第十四回中央執行委員会、決定的勝利を獲得するために「総攻撃・総蜂起」を行うとし、テト攻勢の実施を最終的に決定。軍事攻勢を蜂起に結びつけ、南ベトナムにおける連合政権の樹立、米国を追い込む国際・外交活動との関連を強調。
南北の全党・全軍・全人民の総動員で、総攻撃と総蜂起で決定的勝利を獲得することは、新しい時期の重大かつ緊急の任務である。闘いの目標としては、カイライ軍の撃滅、各級カイライ機関の打倒、アメリカ軍の重要な部分の殲滅、これらによりアメリカの干渉を停止させることとする。
1月初め 北ベトナム軍がケサンの米軍基地に対する砲撃を開始。(ケサン作戦はボー・グエン・ザップが直接指揮したという記載があるが、レ・クアン・ダオ中将が直接の指揮者だったという説もある)
北ベトナム軍の戦力: 正規軍4個師団3万5千人が作戦に参加。このうち実戦にあたったのは第304師団と第325師団の2万人。戦闘配置としては、第304師団が基地の西方から、第325師団が基地の北方から攻撃に参加。さらに非武装地帯に予備の1個師団が配置され、ケサン東方にはキャンプ・キャロル砲兵基地との連絡をけん制する1個師団が配備される。米軍はこれに対抗するため戦力の半分以上を国境地帯に移動する。
1.01 北ベトナム、爆撃停止と引きかえに交渉を開始すると提案。 Westmorelandはこの提案から、予想される「北の攻勢」は会談の前に軍事的勝利を得て交渉を有利に運ぶためのものと判断。敵の狙いはケサンと見て準備を始める。
1.03 正月休戦が終了。アメリカは北爆を再開。
1.04 マッカーシー、R.ケネディ、フルブライト、マンスフィールド、モース上院議員ら北爆停止と北ベトナムとの交渉を呼びかける。議会内でハト派とタカ派の対立が深まる。
1.05 サイゴンの米統合広報局(Joint United States Public Affairs Office )、押収したベトコン兵士のノートを発表。このノートがケサン付近で発見されたことから、米軍はこれをかく乱情報と判断し無視した。
押収文書の内容: 「中央司令部は南ベトナムの全軍、全人民に「決定的勝利を勝ち取る」ための総攻撃と総蜂起を指令。強力な軍事攻撃を用いて都市や町を占領し、全部隊が平野部に流れ出すよう命令する。
指示書ではさらに、首都サイゴンの解放に向け行動すること、敵旅団と連隊をわがほうに獲得すること、敵軍幹部とリストされた重要人物をわがほうに獲得するよう努力すること、などが指示されていた。1.05 米軍、ケサンで「ナイアガラT」作戦を開始。基地周囲の北ベトナム軍の動きを探る。
ウェストモーランドは、回顧録で以下のように語っている。
北ベトナム軍と解放戦線ゲリラを聖域からおびき出し、われわれのごく近くまで包囲させて、周辺に集結させ、敵の部隊と兵站ルートをさらけ出させ、敵に軍需品集積所と集合場所を確立させ、思う存分攻囲準備をさせる。そうすれば重爆撃にうってつけの膨大な数の標的が日の目に曝される。1.06 愛国戦線中央委員会、パテート・ラーオ通信社(Khaosan Pathet Lao)を設立したと発表。
1.08 チェスター・ボールズ駐インド大使を代表とする米国代表団がプノンペンに入る。
1.10 米軍の南ベトナム南部軍区司令官ウェイアンド、都市蜂起の動きを警戒し、15個大隊によるカンボジア国境地帯への出動計画を中止し、サイゴン近辺に配置する。
解放戦線の兵士5千人が、テトを祝う農民の服装でサイゴン市内に潜入し各所で再編成された。武器と戦闘服は洗濯屋のトラック、物売りの車、葬儀車などに隠され持ち込まれた。爆竹の音にまぎれて武器の試射が行われた。 Douglas Welsh: The History of the Vietnam War1.12 パテート・ラーオと北ヴィエトナム軍、プーパティ(Phou Pha Thi)のCIAレーダー基地を攻撃。
1.13 パテート・ラーオ、1966 年に失ったナムバック地域を奪還する。
1.16 ウェストモーランド、ワシントンでテレビ会見。「敵が深刻な人員不足に直面しているという情報を握っている」と述べる。
1.16 ベトナムの平和と自由のための市民委員会、「戦争は北爆によっては勝てない」と主張する報告を発表。会員にはトルーマン、アイゼンハワー元大統領らがふくまれる。
1.17 ジョンソン大統領、年頭教書演説で「ベトナムの情勢は有利である。いま試されているのは、我々の力ではなく、我々の意思である」とし、戦争続行を主張。グェン・ズイ・チン発言にふれつつも、和平交渉はサン・アントニオ方式によるべきことを再度確認する。
1.19 マクナマラの後任の国防長官にクリフォードが任命される。実際の就任は3月。
1.21 午前5時30分 北ベトナム軍、ケサンの前哨基地、北861高地に向け大規模な攻撃を開始。ケサンの基地にも迫撃砲、ロケット弾による攻撃で、兵士18人が即死、40人が負傷する。燃料施設、弾薬貯蔵庫などが直撃を受け、滑走路もその半分が使用不能になる。また4キロ離れたケサンの市街も北ベトナム軍により陥落。(ボー・グエン・ザップが自ら指揮を執ったとされるが、真偽は目下のところ不明)
1.22 この時点でケサン基地内の備蓄は30日分(一日あたり185トン)で、備蓄維持のため1日15便のC130による輸送が必要とされる。アメリカ軍は77日間の戦闘期間中に1,120回にも及ぶ物資の空輸を行い、基地を維持する。
1.22 ウエストモーランド司令官はケサンの徹底死守を決定。防衛の切り札として準備したナイアガラU作戦を発動する。米国内ではケサンが第2のディエン・ビエン・フーになるとの観測が広がる。
ナイアガラ作戦: 戦術空軍、戦略空軍、海軍・海兵隊航空部隊が協力し、B52爆撃機から政府軍のプロペラ機A1まで2000機以上を投入。2ヶ月で11万トンの爆弾を、 16×26kmの地域とその周辺に投下。計算すると100メートル四方に3トンづつというとんでもない爆弾。ナイアガラの滝も真っ青です。北ベトナム軍は猛爆により5千ないし8千の兵を失う(一説に1万5千人)。
1.22 米情報収集艦「プエブロ」号、北朝鮮に捕獲される。
1.25 ジョンソン大統領、ベトナムの情勢が有利に働いていることを強調。予備役を招集しベトナムに投入すると声明。
1.28 中部海岸の町Qui Nhonで解放戦線ゲリラ11人が逮捕される。彼らの任務は放送局を占拠して、二本の録音テープを流すことだった。テープにはサイゴン、フエ、ダナンが解放勢力によって確保されたと語り、市民の蜂起を促すものであった。ゲリラは尋問に対し、攻撃がテト入りを期して開始されることを明らかにする。またサイゴンでも突入時のガイド役を務めるゲリラ2人が逮捕される。
1.29 ウェストモーランド、ワシントン宛の電報で、「敵はテト休戦のあいだ戦闘を継続する可能性がある」と明らかにする。
1.29 午後6時 南ベトナム軍、停戦に入る。将兵の半分が休暇に入る。チュウ大統領は海岸の町に休暇に出かける。
1.30 午前0時 テト攻勢の開始は24時間遅らされる。これを知らなかったいくつかの解放戦線部隊が攻撃を開始。皮肉にも、この間違いは、米軍と南ベトナム軍を欺く効果を発揮した。
1.30 午後11時15分 解放戦線、テト休戦の発効45分前に撤回。解放軍と人民に対し南ベトナム全土における一斉攻撃を命令。解放軍司令部は、「アメリカ軍とカイライ軍を殲滅する総攻撃」を呼びかけるアピールを発表。
1.30 南ベトナムのグエン・バンチュウ大統領、テト休戦を取り消し臨戦態勢に入ると宣言。
1.31 カンボジアのソンサン内閣が総辞職。ペンヌートを首班とする新内閣が成立する。
1.31日午前0時 大規模な一斉攻撃(テト攻勢)が開始される。6万人を動員し、44ヶ所の省都のうち36ヶ所、41ヶ所の大規模基地のうち23ヶ所を同時襲撃。35旅団規模の解放勢力が米軍など50旅団規模の守備軍と対峙。地方ではダナンをはじめ10ヶ所以上の省都が解放戦線の攻撃にさらされる。ダナン攻撃についてはフエ攻撃を前にした陽動作戦の可能性あり。
この攻勢は北は17度線から、南はカマウ岬に至る140の市や町で同時に実施された。主要な侵入方向は、南から@タイニン、Aロクニンからアンロク、Bバンメトート、Cクイニョン、Dダクト、Eケサン、Fクアンチの7つである。
6万人の兵により、南ベトナムの省都40、郡庁所在地100が占領された。解放戦線は近代的な輸送・通信の手段もなしに、すべてを人の手によって成し遂げたのである。(バーチェット)1.31午前2時 解放戦線の「C-10」決死隊20名が、アメリカ大使館の壁に穴を開け突入。警備の海兵隊員MP5人を殺害し、建物のうち5階までを占拠。約6時間にわたり確保する。狙撃が起こったとき4人の南ベトナムの警備警官は逃げたという。エリスワース・バンカー米大使と駐ベトナム軍総司令官ウェストモーランド将軍は危うく難を逃れる。
大使館は2年の工期をかけて67年に竣工したばかりだった、7階建ての建物自体が一つの要塞となっている。屋上にヘリ発着設備を持つ窓なしビルで、周囲は電子装置の警戒網と憲兵に取り囲まれていた。
午前9時 米軍は大使館屋上にヘリで海兵隊員45名を送り込む。館内で激しい戦闘の末、決死隊の19名が戦死。海兵隊にも十数名の死傷者を出す。
1.31 米軍放送局も決死隊7名により占拠される。決死隊は包囲したアメリカ軍、南ベトナム軍の降伏勧告を無視し、放送局もろとも用意した爆薬で自爆。そのほか、南ベトナム政府の大統領官邸、空軍参謀本部などにも攻撃が加えられる。
フエ市街戦の顛末(詳細は未確定)
フエの地図(日本語で助かります)
1月31日
02:33分 解放勢力の師団サイズの勢力が、フエ市街への攻撃を開始。
攻撃の主力となったのは北ベトナム正規軍の第6連隊とされる。このうち800大隊と802大隊が旧市内へ進入。806大隊は旧市街北西に配備され、サイゴン軍支援部隊の迎撃に備える。第4連隊第804大隊は新市街北部マンカ区域の米軍司令部(MACV)を攻撃。南方からのサイゴン軍支援部隊に備え解放戦線部隊が配備される。
1.31未明 800大隊と802d大隊あわせて約2千名が西側城門より旧市内に進入。802d大隊は旧市街北部の南ベトナム軍第一師団司令部を攻撃。800大隊はタイロク飛行場から東南に進み、旧王宮の制圧を目指す。804大隊はMACVへ砲火を集中。
解放戦線部隊はフエの15キロ南東のフバイの海兵隊基地を襲撃。滑走路にロケット砲を打ち込む。
08:00 北ベトナム軍800大隊の先進部隊が、旧王宮の国旗掲揚塔に解放戦線旗を掲げる。主力はタイロク飛行場を守る精鋭の黒豹中隊との戦闘となる。マンカ区域ではTruong将軍の率いる司令部防衛隊が抵抗を続ける。
午前 米国海兵隊の三個大隊、フエの15キロ南東のフーバイ空軍基地を出発。フエ反撃に向かう。
午前 フエ北方8キロの政府軍第一師団基地から、第一空挺機動軍の第7旅団が増派される。(部隊名については異同あり)
1.31午後 北ベトナム軍806大隊、城壁から400メートルの地点で政府軍増援部隊を待ち伏せ攻撃。増援部隊は死者40人、負傷者131人を出し、後退を余儀なくされる。
1.31夕方 フエ、政府軍第7機甲連隊が壊滅。新市街をふくむ全市がほぼ陥落。旧王宮に解放戦線旗が翻る。
2.01 ダナンの第一海兵師団は第一旅団から一個大隊をフエに派遣。フエ南方で解放戦線のK4C大隊とのあいだに交戦が始まる。解放戦線の激しい抵抗により前進を阻まれ、100人近い死傷者を出す。
2.02 第一海兵師団から第一旅団(Task Force X-Ray)三個大隊、陸軍から6個大隊、第101空挺師団から2個大隊、南ベトナム軍11個大隊などがフエ奪還作戦に投入される。海上からは巡洋艦が砲撃支援。
2.02 新市街南部のアンケー橋の南方に集結した海兵隊第一旅団が渡橋を試みるが、M48s重戦車の渡橋は不可能と分かる。M24軽戦車のベトナム人操縦士は前進を拒否したという。戦車の防衛なしに渡橋した海兵隊に対し、解放勢力は家屋からの狙撃で進攻を妨害。(ご存知、フルメタル・ジャケットの名場面です)
2.02 午後8時 第一旅団、香河南岸MACVの近くまで進出し、防御体制をとる。この日だけで海兵隊員10名が戦死、56名が負傷する。
2.03午前 海兵隊は解放勢力の狙撃により1ブロック進出したのみ。戦車が57ミリ無反動ライフルにより破壊されるなど苦戦を強いられる。南ベトナム政府軍第一師団も城内に進出できないまま,こう着状態を続ける。
無反動ライフル: 主に対戦車用や重陣地攻撃用の軽量火砲。発射ガスの一部を後方へ噴射させ発射時の反動を無くす特殊な構造をしている。兵員の肩または地上/車上の簡易な三脚架から直接照準で発射出来、軽量(57ミリ砲で 20キロ)で操作も簡易なため、歩兵が携行出来る「火砲」として広く普及した。
2.03午前 政府軍第二空挺旅団が到着し北方から侵入。北ベトナム防御線を突破し、タイロク飛行場を確保。さらに一部がマンカ地域に進出。師団司令部内の守備隊と合流する。
2.03午後 タイロク飛行場にドンハからのヘリが着陸。南ベトナム政府軍第二師団第4旅団の兵員が戦闘に入る。海兵隊第一旅団がMACVの確保に成功。さらにフエ大学のキャンパスも占領。
2.03午後 米軍が本格的反抗を開始。戦車と機甲輸送車を先頭に、海兵隊の8個大隊がアンクウ橋から新市街に入る。解放勢力はなおも頑強に狙撃を続ける。
2.03 南ベトナム政府軍の第3師団第31連隊第二、第三大隊が、フエ南西部の自陣から香河の北岸に沿って進攻。目標は鉄道橋を渡った新市街の中央警察本部に立てこもる警察部隊の救出だったといわれる。北ベトナムの防御戦の前に後退を余儀なくされ、城壁の外側に陣を構える。(この項、不正確。31日の行動だったという情報もある)
2.06 米軍、フエ中心部を完全奪回したと発表。その後も2週間にわたり、ドア・ツー・ドア、ブロック・ツー・ブロックの市街戦が展開される
2.12 グエン・バン・チュー大統領、フエでの重火器の制限を撤廃。スカイレーダーをはじめとする対地支援機が爆撃を開始する。
2.14 UPI、米軍の砲爆撃により建物の80%が破壊され、多くの犠牲者が出ていると報道。
2.14 フエの独立・民主・平和勢力連合が緊急救国会議を招集。「トアティエン・フエ人民革命委員会を創設。「人民に対する指導」の役割をになうこととなる。すでに解放勢力は城内の一部を支配するに過ぎず、散在した狙撃兵が孤立した戦いを続けていた。ダグラスA−4スカイホーク艦上攻撃機が爆弾とナパームを大量に投下し、町のほとんどが瓦礫の山と化していた。
フエ事件: 解放戦線は南ベトナム政府の役人や警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などを虐殺したとされる。その数2千人(一説に3千人)以上とされるが、死傷者全体の数から見て過大に思える。英語版ウィキペディアでは、南ベトナム軍による虐殺もかなりふくまれているとされる。この「定説」に対しては説得力のある反論がある。ぜひ参照されたい。
2.24 南ベトナム軍第1師団の第2連隊第2大隊がフエの王宮に突入。解放戦線守備隊を殲滅する。解放戦線はこの戦闘で1千5百名の戦死者を出す(米軍の推計。南ベトナム軍は3千と主張。5千人、8千人という数字もある)。海兵隊の戦死者は142名、陸軍は74名。南ベトナム軍は384名。民間人の犠牲者は1200人以上を数える。
フエ事態の実相: 米空軍次官タウンゼント・フープスは1968年3月のメモに米軍のユエ攻撃の結果を次のように記した。
残されたのは「めちゃめちゃにされ、ぺしゃんこになった市街だった。建物の80%が瓦礫と化し、破壊されたあとの残骸の中に一般市民2千人の遺体が横たわっていた。市民の4分の3が家を失い、略奪が横行した。南ベトナム軍たちが最悪の犯人だった」
1.31 テト攻勢は、一部始終がアメリカ全土で生中継され、政治的には戦争の行方を決定するほどの大きな影響を与えた。ウォルター・クロンカイトは「いったいどうなったのだ。我々は戦争に勝っていると思ったのに」と語る。AFPは、テト攻勢は「戦略的、心理的観点からみて解放勢力の大勝利」と報道する。
1.31 サイゴンで都市中間層と学生を中心に「独立・平和勢力連合」が結成される。フエでも仏教徒が加わり、「独立・民主・平和勢力連合」が結成される。議長にはサイゴンおよびフエ大学の教授であるレ・バン・ハオが選ばれる。このほかクアンチ、クアンガイ、クアンナム、ミトなど8つの省にも同様の組織が結成される。これらは5月に「南ベトナム民族・民主・平和勢力連合」に一本化される。
1.31 米国の作家・ジャーナリストがニューヨーク・タイムス紙にベトナム反戦の声明を発表。
68年2月
2.01 タンソニェット空港を解放戦線が攻撃。ロケット砲と迫撃砲による攻撃の後、工兵大隊が鉄条網を破壊。正規軍部隊の4個大隊1200名が突入する。航空機の多くが掩体壕に収容されていたため、破壊されたのは11機にとどまる(一説に50機)。戦闘は24時間続き、逃げ道を失った突入部隊は962人が戦死するなど壊滅。米軍はタンソニェット襲撃を予想し、待ち構えていたといわれる。
2.02 ジョンソン大統領、テト攻勢は軍事的にも心理的にも「完全な失敗に終わった」と宣言。
2.02 テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流される。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。
グエン・ゴク・ロアン ジュネーブ協定時に南部に移住。空軍副司令官を経て65年に軍治安局長、66年からは国家警察長官を兼任する。同年6月に麻薬取引の疑惑で解任される。ゆすり・タカリの常習犯であり、チュウ政権内部でも札付きの悪である。
ウィキペディアは、「レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていた」とロアンに同情するが、現職の警察長官が裁判もせずに、サイゴンの路上で、衆人環視の目前で容疑者を射殺するという行為は、時の政府・権力の精神的荒廃の象徴である。解放戦線を貶めるためには、このような人物までも弁護するウィキペディア氏の根性もなかなか見上げたものである。2.03 米軍、サイゴン地区でクェト・タン作戦(ベトナム語で勝利の確信)を開始。
2.03 アプ・チョ(Ap Cho)の戦い。解放戦線支配区内の米軍橋頭堡アプチョに解放戦線が攻撃を集中。10日間の激戦の末、米軍が奪還に成功。
2.04 解放戦線、テト攻勢が大きな勝利を得たとの特別コミュニケを発表。「3日までに43の都市などで攻撃が行われた。敵部隊5万人が戦闘不能に陥り、機甲連隊3個、29大隊が壊滅した」とする。
2.04 フエを除く各作戦区で戦闘終結に向かう。チョロン地区では20日まで、メコンデルタの町ベンチェも7日まで解放勢力の抵抗が続く。米軍はチョロン、ミト、カントーなど都市部の人口密集地域に無差別爆撃を加え、多くの市民を巻き添えにする。
ケサン攻防戦の顛末
2.01 ウィーラー将軍は、統合参謀本部を代表し現地司令官ウェストモーランドに「極秘」電報を打った。「その地域に核攻撃に適する標的はあるか。有事核攻撃計画は整っているか」 これに対しウェストモーランドは「現状においては核兵器の使用は必要ではない」と応える。(後日、ウェストモーランドは回顧録の中で、攻囲突破に戦術核兵器を使わなかったことを悔やんでいる)
2.05 北ベトナム軍がケサンに一斉攻撃。861高地の一部を確保し、ダナンにつながる国道9号線を抑える。アメリカ軍はC130輸送機延べ455機の空輸作戦で補給を維持しつつ、解放勢力の作戦地域に対する猛爆で対抗。
海兵隊研究及びファンサイト「The Leatherneck Fan」より
2.06 北ベトナム軍第304師団、ラオス領内を通りケサン南西方に回りこむ。10台のPT76軽戦車とともにケサン南西4キロのランベイ・キャンプを襲撃。南ベトナム特殊部隊を殲滅する。この戦闘でアメリカ人特殊部隊員10名が戦死する。
2.09 ラスク国務長官、フルブライト上院議員の質問に対し、ベトナムにおける核兵器使用計画の存在と核兵器の貯蔵を否定する。
2.09 ホワイトハウス、「ベトナムにおける核兵器使用については一切勧告されていない」との報道声明。
2.10 ワシントン・ポスト紙、ウィーラー将軍の発言を報道。「包囲されている6千名の海兵隊を守るのに不可欠であると考えるに至れば、戦術核兵器の使用を勧告する」
2.11 国防総省、ウェストモーランド司令官の要請に応じ、1万5千を急派。南ベトナム政府は新たに6万5千人の徴兵を決定。
2.12 北ベトナム側の攻撃によりケサン基地の滑走路が使用不能となる。輸送機は輸送物資を空中投下に切り替える。
2.15 米国政府当局者、ベトナムで核兵器は使用しないと言明。
2.16 ジョンソン、「核兵器配備については、私に対して何の勧告もなされてはいない。そうである以上、この件についての論議は終らせるべきであろう」と述べる。
2.23 ケサン最大の攻防戦が行われる。北ベトナム軍が1307回の砲撃を加える。アメリカのメディアは、「第二のディエンビエンフー」と書き立てる。地上米軍は2045回の砲撃を行う。1120回の空輸を行い1万トンの物資を補給。輸送機4機・ヘリコプター17機が撃墜され、35機が損壊する。
2.23 米軍は、戦闘爆撃機を延べ2万5000機・B52を延べ2700機出撃させ、延べ11万4000トンの爆弾、ロケット弾、ナパーム弾(広島型原爆のおよそ6発分)を投下する。
北ベトナム兵士ホアイ・フォンが書き遺した日記: 包囲攻撃が始まって15日になるが、事態はこれまでにないほどひどい。60日ものあいだ、B52はこの地域を攻撃し続けている。激しさは増す一方で、「爆弾の嵐」が昼夜を問わず続く。
3.06 北ベトナム軍、ケサン周囲のジャングルへいったん撤退。体制の再編を行う。次の3週間は比較的平静に経過する。
3.18 北ベトナム軍、ケサン基地にふたたび攻勢をかける。アメリカ空軍はB-52爆撃機を大量に投入し、425波におよぶ支援爆撃を行う。
3.22 北ベトナム軍がふたたびケサンに砲撃。1時間あたり100発、合計1千発以上の砲弾が基地内に命中する。その後北ベトナム軍は一斉攻撃をかけるが、米軍の猛爆の前に撤退。
3.24 ケサンの北ベトナム軍、多大の死者(約1万5千人とされる)を出し、ひそかに非武装地帯へ撤退を開始。(3月初めにはすでに攻略を断念していたとも言われる)
68年2月(続き)
2.07 第一軍区の将兵の一部が「サイゴンと袂を分かった第一師団将校・兵士の会」を結成する。
2.07 AP通信、ベンチェの戦闘を取材。インタビューに答えた米軍一少佐は、「この街を救うためには、この街を破壊することが必要になった」と語る。この言葉は米国内の報道で繰り返され、ますます多くの人々が、この戦争に疑いを持つようになった。
2.08 アメリカ、ハノイとハイフォンへの爆撃を再開。
2.08 R.ケネディ、「我々は国民の支持を失い、米国の支えがなければ一日も存続できないような政府を支持している。このような腐敗した特権階級を守るために、なぜ米国人が死ななければならないのか」と批判。
2.09 タンソンニャットで国際線旅客機の運行が一部再開される。中央郵便局も再開される。
2.11 サイゴンの米軍司令部、「共産軍は6万人を投入し、同盟軍はそのうち3万人(一説に4万5千人)を殺害し5千人を捕虜にした。同盟軍の死者は3千人、負傷者1万人あまりであった」と発表。北ベトナムの「ニャンザン」紙は、「2週間でカイライ軍の3分の1以上が戦闘能力を失った」と発表。
解放戦線は壊滅したか: 解放戦線にとって、テト攻勢は大きな犠牲を強いられた戦いだった。とくにチョロンなど都市で挑んだ正面戦は、住民もろとも米軍による砲爆撃の餌食となった。クチから出撃したゲリラ戦士もその大半が戦死したという。
ただしテト攻勢の失敗により解放戦線は壊滅したという意見があるが、その後の戦闘の性格が変化したため、北ベトナム正規軍が戦闘の正面を担うようになったと見るのが正確であろう。その後クチをふくむロンアン省には解放戦線が再建された。75年の最終攻勢時には4個連隊が組織され、政府軍を釘付けにした。2.11 解放戦線、サイゴンなどであらたな攻勢をかける。
2.11 クアンナム省ディエンバン県ディエンチュン村チュンザン部落で米軍による集団虐殺。米軍は数日間にわたって村を爆撃した後、11日の午後部落に侵入。地下壕に隠れていた村民を引き出し、このうち男性18人を連行し、射殺した。殺されたもののうち最高齢者は85歳だった。ディエンバン県では、当時の県の人口(約10万人)の三割近くにのぼる28,362人が死亡し、11,469人が負傷した。
2.14 サイゴンの米軍司令部、テト攻勢の「敵の戦死者は3万3千、味方は1,100人」と発表。
2.15 米国家安全保障会議、熟練労働者と大学院学生の徴兵猶予規定の廃止を決定。
2.18 解放勢力が新たな攻勢を開始。30都市47軍事施設を襲撃。ファンチエンでは市街戦となる。サイゴン市内では南ベトナム国家警察本部、米大使館など47の目標に砲撃を加える。
2.18 第82空挺師団第三旅団が第二軍管区に配備される。
2.18 チャン・ヴァン・ドン上院議員、グェン・スァン・オァン元副首相ら、民間反共政治家が救国国民大会を開き、「国家救済委員会」なる民間組織を結成する。委員会は「救国戦線」を自称する。フアン・カク・スー元国家元首、チャン・ヴァン・フォン元首相ら有力ボスは当初参加する構えを見せたが、最終的にはたもとを分かつ。
2.18 ハーバード大学で学部長5人、教授338人、学生4千人がジョンソンあて請願書に署名。戦線縮小・解放戦線の承認・交渉開始をもとめる。
2.20 解放勢力、サイゴン空港に連続砲撃。
2.21 米軍機、ハノイ放送局や港湾施設に対する爆撃を開始。
2.23 ホイーラー米統合参謀本部議長、軍事情勢再評価のためサイゴン入り。現地の増派要請について検討。年末までに陸海空合計20万6千の増派が必要と判断する。
2.24 米軍と南ベトナム政府軍、解放戦線が占拠した11の市の奪還を完了。
2.24 ウタント国連事務総長、「米国が無条件で北爆を停止すれば、交渉は開始される」と述べる。
2.25 バンディ国務次官補、「北ベトナムが北爆停止を軍事的に利用しないとの了解のもとに、停止後ただちに交渉が開かれるとの北ベトナムの確認を待つ」と声明。ウ・タント国連事務総長の要請に応えたもの。しかし「ウタント発言は米国の和平条件を満たすものではない」とし、「共産側の誠意」を否定。
2.26 ニューズウィーク、米軍発表の戦果は水増しと批判。3万人は過大評価で実際は7千程度に過ぎないとする。
2.27 南ベトナムを視察したホイーラー統合参謀本部議長、ジョンソンへの報告を提出。「敵の攻勢はアメリカの同盟国にとっても実に危ういところであった」と述べる。
2.27 CBSのウォルター・クロンカイト、サイゴン取材を終え帰国。「ベトナムの流血は解決の展望がない」と語る。これを聞いたジョンソンは、「私はアメリカ国民に見放された」と慨嘆したという。
2.28 マクナマラ、テイラー、ロストウらが委員となり、次期国防長官のクラーク・クリフォードが座長を勤める。「情勢は手詰まりの状態にある」とし、戦争の「非米化」をふくむ新戦略を模索するが、軍部の圧力に押され流産。
2.29 クリフォード次期国防長官、ジョンソンの要請を受け政府内にベトナム特別検討委員会を設置。マクナマラ、テイラー、ニッツ(国防長官代理)、ロストウ、バンディ、ハビブ、ファウラー財務長官などが参加。会議では3週間にわたり軍指導部と背広組のあいだに激論が交わされる。
2.28 ウェストモーランド将軍、ホイーラー議長を通じ、ジョンソンに20万人の増派と予備役の招集を求める。
2月 テト攻勢後の世論調査。ジョンソンへの支持率は36%に低下。ベトナム戦争政策への支持は26%まで激減。
68年3月
3.01 クラーク・クリフォードが、米国国防長官に就任。クリフォードはワシントンの有名な弁護士で、ジョンソン大統領の旧友。クリフォードは集中的な情報収集により、ワシントンには戦争に勝利するための何の概念も、全体的な計画もないことを発見。「米国はもはや戦争を拡大するべきでない」とジョンソンに報告。
3.02 米陸軍兵士48人、タンソンニュット空港で解放戦線ゲリラの襲撃を受け死亡。
3.04 ベトナム特別検討委員会、2万5千の増派だけを認める報告書を提出。
3.04 解放戦線が第三次攻勢。米軍基地12カ所、省都4カ所をふくむ37ヶ所をロケット砲攻撃。米軍最大の補給基地カムラン湾にも砲撃が加えられる。
労働党指導部は総攻撃・総蜂起という目標にこだわって、大都市の選挙を狙う第二は、第三派の攻撃を命じた。テト攻勢はサイゴン政権の崩壊という目標を達成できないまま終結、革命組織は、南の土着の組織の破壊と士気の低下という重大な困難に直面し、南の軍事的力関係は攻勢以前よりも悪化した(古田)。
3.08 ウェストモーランド、ジョンソンあてに親書。68年末までに20万人を増派するよう重ねて求める。ホイーラー統合参謀本部議長は、ウェストモーランドに増援部隊の派遣の見通しが困難であると告げる。
ニャンザン3月11日号より「爆弾を乗り越え、最後まで敵を撃つ」
3.10 解放勢力、ダナンの米軍燃料貯蔵所を砲撃。
3.10 ニューヨークタイムズ、リーク情報に基づき、「ウェストモーランドが20万人増派を要請した」と報道。ホワイトハウスはこの記事を否定。
3.10 ラスク国務長官、上院外交委員会の公開聴聞会に出席。2日間にわたりテレビカメラの前で、増派要請の有無、ベトナム戦略の有効性について質問を浴びせられる。
3.11 「Quyet Thang」作戦が始まる。米・南ベトナム軍33個旅団が参加し、1ヶ月にわたりサイゴン周辺の農村地帯で、解放戦線に対する大規模な残党狩りがおこなわれる。
3.11 パテート・ラーオ、プーパティのレーダー基地を一時占拠する。
3.12 ニューハンプシャー州で民主党予備選挙。ジョンソンは過半数に届かず、マッカーシー上院議員が42%を獲得し、ジョンソンに300票差にまで肉薄。米国内の世論調査でベトナム戦争反対の声が50%を越える。
3.14 ロバートF.ケネディ上院議員が、ジョンソン大統領に秘密提案をおこなう。ジョンソンがこれまでのベトナム戦略を棄て、ボブ・ケネディをふくむ委員会で新戦略を練り直すなら、大統領選への立候補を見送るとする。ジョンソンはこの提案を拒否。
3.14 フープス米空軍次官、クリフォード国防長官に「ベトナムでの軍事的勝利は不可能」と結論した覚書を提出する。
3.15 サイゴンの米軍司令部、大索敵計画を発表。都市に潜む解放勢力ゲリラを根絶やしにすることを目指す。
3.15 ゴールドパーク米国連大使、ジョンソン米大統領に北爆全面停止を勧告する。
3.16 ロバートF.ケネディ、大統領選挙への立候補を発表。「JFKの過去の誤りは、その政策を続けることの言い訳にはならない」と述べ、政策の根本的転換を明らかにする。
ソンミ村虐殺事件
3.16 ソンミの虐殺事件が発生。米国ではミライの虐殺と呼ばれることが多い。(この件ではさすがにネット・デマは少ない)
ソンミ(山美)村はサイゴン政権期につけられた地名、現在は以前のティンケ村に戻されている。クアンガイ市北東13キロ、チャ・クク川が南シナ海に注ぐ河口の北側を占める。村は大きく4っつの地区に分かれ、その一つがミライ地区。
虐殺が起きたのはトゥクン地区のミライ第4区、地元ではトゥアン・イェンと呼ばれる部落、もう一ヶ所がミライ地区のミライ第2区、地元でミ・ホイと呼ばれる部落である。
虐殺の経過: 第23歩兵師団(アメリカル)/第11軽歩兵旅団/バーカー機動部隊(寄せ集め部隊)に所属する第20歩兵連隊/第1大隊/C中隊(アーネスト・メディナ大尉)/第一小隊(ウィリアム・カリー中尉)の105名は、ゲリラ掃討作戦のためクアンガイ省北部のチューライ米軍基地を9機のヘリに分乗し出発。
05:30 武装ヘリによる空からの援護のもとに、ソンミ村に展開する。米軍はいくつかのグループに分かれ、民家、退避壕の中を捜索。ゲリラを見つけ出せなったことから見える限りの民間人を虐殺し始める。
虐殺は4時間に及んだ。民家から逃げ出てきたものは射殺され、退避壕には手榴弾が投げ込まれ、また米兵たちに輪姦され殺害された女性もいた。247戸の家屋は焼かれ水牛、豚、家禽類までも殺された。
小隊はトゥアン・イェンで400人を殺害した後、3キロ離れたミーホイ部落でさらに100人を殺害。生存者はわずか20人にとどまる。殺されたものの内訳は、60歳以上の老人60人、中年89人、乳児56人をふくむ子供173人、妊婦17人をふくむ女性182人
虐殺は第一小隊だけではなく、C中隊に属するすべての小隊が行った。メディナ中隊長が虐殺を命令したとされるが、裁判では証拠不十分で無罪となった。
ソンミ村(当時)の地図(吉川さんのページより転載)
3.16早朝 支援ヘリを操縦するヒュー・トンプソン、ミライ地区で米軍兵が地元市民を虐殺している場面に遭遇。米軍と住民の間にヘリを着陸させる。射撃手ローレンス・コルバーンは米軍の地上部隊へ銃を向ける。トンプソンはコルバーンとグレン・アンドレオッタ隊長の援護の下に指揮官に近づき、虐殺を止めさせるため説得。さらに民間人避難を誘導する。
3.16夕方 バーカー機動部隊、サイゴン向けのニュースを送る。「米軍はミライ村において一つの作戦を行なった。戦闘は正午過ぎまで継続した。敵兵の戦死者128名、砲3門を捕獲」
3.18 米議会下院で、「東南アジア政策の即時再検討」を求める決議が提出される。提案者は共和党98人、民主党41人の計139人。ジョンソン米大統領はこれに対し、「われわれは勝とうとしている、引き返してはならない」と言明。
3.18 ラオス青年協力隊の日本人がパテトラオ軍に連行される。パテトラオは、「いわゆる平和部隊は、日本の特務機関員と軍事要員をラオスに送り込むための手段にすぎない」と警告していた。
3.19 愛国戦線のスファヌボン議長、サムヌアで演説。「愛国戦線と北ベトナムは緊密な関係にあり、両国の革命運動が相互関係にある」と語る。米国を背景とするプーマ政権との全面対決の姿勢を明らかにし、愛国中立派との政治協商会議を開催するなど、独自の政権作りに乗り出す。
3.21 クリフォード委員会、ジョンソンあての答申を作成。北爆を拡大するか縮小するかについて結論を出せないまま、2万2千人の増派についてのみ合意。
3.22 ジョンソン、ウェストモーランド司令官を召還。陸軍参謀総長に任命。後任にはクレイトン・エイプラムズ将軍が就任。
3.23 フィリピンでホイーラー統合参謀本部議長とウェストモーランド将軍が会見。ホイーラーはウェストモーランドの増援要請に対してジョンソンが1万3千のみの増派を承認したことを伝達する。そして南ベトナム人が自らの防衛努力を強化するよう訴えることをもとめる。
3.25 ジョンソン大統領がベトナム戦争に関する高級非公式諮問グループ会議を招請。アチソン元国務長官やオマー・ブラッドリー将軍など元軍・政幹部14人が参加。メンバーのほとんどがタカ派と見られていた。
3.25 ホク・モン(Hoc Mon)の戦い。クチ北方のホクモン橋で米軍1個小隊が解放戦線に攻撃を受け壊滅する。
3.26 賢人会議、ベトナム政策の根本的転換が必要との意見で一致。参加者の多くがベトナムからの米軍撤退を指示する。
3.28 国家救済委員会とは別に、より幅広い政治勢力の結集をねらった「自由民主勢力」が結成される。
3.28 ミライ事件参加者の最初の報告が提出される。ゲリラ69人を殺害したとされるが、民間人への言及はなし。
誤解を恐れずに言えば、この手の戦争犯罪はおぞましいが、あらゆる戦争につきものの犯罪である。ベトナム戦争における最大の人道的犯罪は大量無差別の北爆であり、枯葉剤散布である。そして最大の過ちは、ベトナム民族への主権侵害であり、統一と独立の妨害である。
3.31 ジョンソン大統領、テレビ放送で重大演説。「軍に対し北ベトナムに攻撃を加えないよう命令した。我々はただちに交渉を通じて和平に向け準備を開始する。交渉はまもなく始まるだろう」と発表。@次期大統領選挙に立候補しないことを明らかにする。A北爆の部分的中止を発表し、B和平会談の開始を提案。
68年4月
4.01 米軍第一騎兵師団、ケサン基地に対し地上からの救援作戦(ペガサス作戦)を開始。
4.02 米国防総省、ジョンソン演説で北緯20度以南の北ベトナム爆撃は禁止されていないと声明。事実上、北爆の続行を宣言。
4.03 ハノイ放送、「米国の真意を確かめるため」、和平予備会談に応じると発表。事実上ジョンソン提案を受諾。ジョンソンは北ベトナムがケサンの包囲を解けば、北爆全面停止の用意があると声明。ソ連はただちに全面支持の声明。
4.04 マーティン・ルーサー・キングがメンフィスで暗殺される。全米80都市で抗議の黒人暴動が発生。
4.05 解放戦線、北ベトナムの和平会談受諾を支持すると表明。チュー南ベトナム大統領は、頭越しの協議開始に反対と言明。
4.06 北ベトナム軍、70日間にわたったケサン包囲を解くと発表。
4.08 ペガサス作戦が完了。77日間の戦闘の末、国道9号線の確保とケサン周辺の征圧に成功。
4.11 クリフォード米国防長官、予備役2万4千人を召集すると発表。ウェストモーランド将軍に20万人増派の可能性はないと通告。
4.14 米地上軍がケサンに到達。ケサンの戦いが終了。米軍の死者は1500人、北ベトナム軍の死者は8000人にのぼる。(一説では米海兵隊199人死亡、830人が負傷。北ベトナム軍の死者は1万5千人。救援に向かった第一騎兵師団も92人が死亡、629人が負傷)
4.15 『人民日報』、米の北爆部分停止はペテンと非難。
4.20 テト攻勢のあいだに結成された各種委員会の統一組織として「ベトナム民族・民主・平和勢力連合」が樹立される。解放戦線との連合政権樹立のため共同行動を行うことを決定。
4.21 アメリカで全国動員委員会のよぴかけによる「抗議と抵抗のための10日閻」はじまる。
4.23 コロンビア大学では学生が5つの建物を占拠。
4.30 非武装地帯のダイ・ドに北ベトナム軍が進攻。地上の海兵隊と空からの攻撃により、1568人の死者を出し撤退。海兵隊の死者は29人にとどまる。北ベトナムはこの惨敗の後、ほぼ4年にわたり大規模兵力での作戦を断念。
68年5月
5.03 北ベトナムは、和平会談の会場にパリを提案。ジョンソンはこの提案を受諾したと声明。北ベトナムはスアン・トイ元外相、米国はハリマンが首席代表、バンスが次席代表となる。
5.05 解放戦線、和平会談の開始を前に、南ベトナム122ヵ所で「ミニ・テト攻勢」をかける。サイゴンでは大市街戦を展開。米軍はナパーム弾と高性能爆弾による空襲で対応。
5.08 ホーチミン、反米救国闘争の堅持を呼びかける。
5.10 北ベトナム軍一個旅団が、ラオス国境沿いのカムドク(Kham Duc)で特殊部隊駐屯地を襲撃。駐屯部隊はC-130輸送機により避難を余儀なくされる。
5.13 パリのクレベール国際会議センターにおいて、第1回和平交渉が開始される。当初はハノイとワシントンの二者会談。米国側は北ベトナム軍の撤退を要求、北ベトナム側は解放戦線の政権参加を要求し、当初より対立。
5.17 イエズス会神父のダニエル・ペリガンら、メリーランド州ケイトンズヴィル市の徴兵事務所に侵入し書類を焼く。「人殺しこそ不法行為であり、生命・優しさ・共同体・利他心こそが唯一の秩序である。その秩序のためなら、我々は自分の自由や名声を賭けるつもりだ」と述べる。
ケイトンズヴィル事件の九人(Catonsville Nine): ダニエル・ベリガン、その兄弟で同じく司祭のフィリップ・ベリガン、修道士のデイビッド・ダースト、ジョン・ホーガン。芸術家のトム・ルイス。マージョリー・ブラッドフォード・メルヴィルと、その夫トーマス・メルヴィル。ジョージ・ミシュ。元修道女のメアリー・モイラン。
ベリガン自身が書いた戯曲に基づき、1972年にはグレゴリー・ペックによって映画が製作されている。また同年、有吉佐和子が邦訳している。5.18 南ベトナム政府のグエン・バン・ロク内閣が総辞職、チャン・バン・フォンが首相に就任する。
5.27 ファン・バン・ドン北べトナム首相、国会で南北一体の戦う権利を主張。
5.27 タイ政府、ヴェトナムにさらに5,000人の軍隊を急送すると発表。
5月 フランスで学生らによる「五月革命」が起こる。チェコスロバキアでは「プラハの春」が高揚。
68年6月
6.02 解放戦線が全土で一斉攻撃。サイゴン市内では東京銀行の支店にも直撃弾が命中。ジョンソン大統領、北が和平にふさわしい行動をとらなければ、北爆を停止しないと警告。
6.05 ロバート・ケネディ、カリフォルニア州で遊説中に暗殺される。
6.11 解放戦線がサイゴン中心部を砲撃。
6.13 解放戦線、今後100日にわたりサイゴン砲撃を続けると予告。
6.13 和平交渉が暗礁に乗り上げる。ハノイはソ連の勧めを容れ、レ・ドク・ト政治局員を送り、水面下の交渉を展開。公式協議の具体的進展はなかったが、ソ連のゾーリン駐仏大使が水面下で仲裁しすり合わせが進む。
6.15 南ベトナム上下両院が合同会議を開催し、総動員法を可決。政府軍は100万を越える兵力を保持するに至る。
6.19 ワシントンでベトナム反戦の10万人集会。黒人は「貧者の行進」を展開。政府は非常事態を宣言し、不測の事態に対応。
6.27 ウェストモーランド将軍、ケサン基地の放棄と破壊を承認する。「非常に高い機動性を獲得したため、たんなる防御のための基地はもはや不要になった」と発表。
68年7月
7.01 クレイトン・エイブラムス将軍、サイゴンでウェストモーランド将軍から駐留軍司令官の任務を引き継ぐ。
7.01 CIAの主導の下にフェニックス計画が発動。南ベトナムにおける解放戦線の秘密基盤(Viet Cong infrastructure)破壊のための秘密活動を開始する。
フェニックス計画: テト攻勢の直後から、「テロにはテロで対抗する」という理念に基づき、CIAが立案。米軍とCIAが南ベトナムの警察・情報・軍当局と共同で開始。ポスターやパンフレットなどメディアを利用してベトコン協力者の潜伏場所の密告を奨励。
特殊部隊(SOG)の志願者によりチームを編成。ベトコン転向者による「地方偵察隊」(PRU)が収集した情報にもとづき、各農村などでベトコン容疑者のブラックリストを作成。解放戦線地下組織の幹部の誘拐、脅迫、暗殺など多くの非合法作戦を行った。マスコミに漏洩するまでの2年間で、元CIA工作員の推定では「4千人(一説に4万人)以上のベトコン及び関係者を殺害した」とされる。7.03 北ベトナム政府、米国人捕虜3人を釈放すると発表。
7.04 アメリカの南ベトナム派遣軍は、53万7000人となる。
7.05 サイゴンの米軍司令部、ケサン基地からの撤退を完了したと発表。
7.18 ジョンソン大統領、ホノルルでチュー南ベトナム大統領と会談。南ベトナム政府への援助継続を確認する。
7.19 解放戦線、全土で徹底抗戦を続けると声明。戦線の再編に入る。ホーチミンは抗米の戦いを推進せよとアピール。
7.22 愛国戦線、ラオス人民による問題解決を要求
7.30 ラスク国務長官、北爆の全面停止は出来ないと声明。
7月 米議会、ベトナム戦費調達のため10%の収入税増税案を可決。
68年8月
8.01 ベトナムの米軍、史上最大の54万人に達する。
8.08 ニクソンが共和党の大統領候補に選ばれる。「ベトナム戦争の名誉ある終結」を公約に掲げる。
8.09 愛国戦線中央委員会拡大会議開催。抗米闘争の強化を訴える。
8.18 解放戦線が本格的な戦闘を再開。タイニンなど18ヶ所を同時攻撃。その後タイニンは解放される。
8.21 ソ連などがチェコに侵攻。北ベトナムは消極的ながらソ連への支持を表明。(同時に、チェコ侵略反対を唱える日本共産党との連帯を強めることで、間接的に民族の大義を強調する)
8.22 日本経済新聞の酒井辰夫記者(33)、事務所で就寝中に解放戦線の砲弾を受け死亡。
8.26 民主党の党大会が行われていたシカゴ市内で、学生を中心に1万人の反戦デモが行われる。ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、市警官隊と州兵2万6千が出動。徹底的な弾圧により800人が負傷、多数が逮捕される。
8.29 サイゴン北方ロンビン営倉で黒人を中心とした700人以上のGIの大規模な反乱。
68年9月
9.01 毛沢東、ベトナム戦争を抗米愛国闘争と規定した上で、これを支持すると表明。戦争を続けることが勝利につながると強調。
9.02 ベトナム独立記念日。労働党首脳は毛沢東の人民戦争理論を批判する演説。
9.05 米政府、米軍被害が戦死者2万7千人を含む20万人に達したと発表。駐留米兵の40%を徴兵による兵士が占めるようになる。
9.07 愛国戦線と愛国中立派による第3回政治協商会議開催。
9.08 レ・ドク・トとハリマンとの「私的会談」が軌道に乗り始める。議題の中心は、北ベトナムとアメリカとの軍事問題から、南ベトナムの軍事問題および政治問題へと移行。
双方の妥協点: @北ベトナムは非武装地帯の尊重,都市攻撃の停止を暗黙裡に了解。A米国は北爆を全面的に停止。B双方が南ベトナム政府と解放戦線の会議への出席を承認。
9.16 ベトナムから帰休中に脱走した米兵が、べ平連に保護されたことが明らかになる。(脱走したのは米国滞在中の日本人で、除隊後の特典に惹かれ志願したが、現地で戦争を体験したあと脱走を決意したもの)
9.18 ディエンバン県ズイチャウ村の市場などに、米軍がナパーム弾を投下。村民104人が殺害される。
9.30 戦艦ニュージャージがベトナム戦争に参加。非武装地帯の軍事目標を砲撃する。
9.30 北ベトナム上空で撃墜された米軍機が延べ900機に達する。
68年10月
10.05 タイに亡命していたドン・バン・ミン将軍が帰国。グエン・バン・チュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。
10.13 スアン・トイ首席代表、「相互主義はまやかしだ。北ベトナムは米国を爆撃していない」と批判。
10.21 米軍、北ベトナム捕虜14人を釈放する。
10.24 愛国戦線放送、プーマの和平意向はアメリカの侵略を覆い隠すペテンと非難。
10.25 愛国戦線、第3回臨時全国大会を開催し12 項目からなる政治綱領を採択
10.25 クリフォード国防長官、北ベトナム軍3万ないし4万が南ベトナムから撤退したと発表。
10.27 ロンドンでベトナム反戦集会に5万人が結集する。
10.31 ジョンソン大統領、「北ベトナムに対する一切の軍事攻撃を停止する」とし、ローリング・サンダー作戦(北爆)の無条件・全面停止を発表。さらにパリ会談への南ベトナム解放民族戦線・サイゴン政権の参加合意を発表.この提案は米,北ベトナム間に何らかの了解があることを示唆していたが、サイゴン政権の承諾を受けていなかった。
ローリング・サンダー作戦中の被害: 3年半にわたった作戦期間中に、900機以上の米軍機が墜落する。818人の操縦士が死亡、または行方不明となり、数百人が捕虜となる。米側の推計では18万人の北ベトナム市民が殺害され、中国人義勇兵2万人も犠牲となる。
10月 シーロード作戦が開始される。1200隻の砲艦、快速艇が、カンボジアからメコン・デルタに広がる解放勢力供給路の遮断を目指す。
10月 中国共産党、年内にベトナム派遣要員の40%を引き揚げると決定。
68年11月
11.02 北ベトナム、南の二つの政府を含めた4者で会談を開くと発表。米大統領選に配慮した判断とされる。
11.03 臨時革命政府、代表団主席にグエン・チ・ビンを指名。平和五原則を発表。
11.03 拡大パリ会談への臨時革命政府の参加をめぐり、米国と南ベトナム間の意見の相違が表面化する。チュウ政権は会談への参加を拒否。
11.05 大統領選挙。「名誉ある平和」と「法と秩序」を訴えた共和党のリチャード・ニクソンが勝利。
11.05 脱走兵ジェラルド・メイヤーズ、弟子屈町に潜伏中を警察に逮捕される。脱走兵のおとりスパイ(ラッシュ・ジョンソン)が侵入したため。新聞各紙は「べ平連の脱走ルート、根室と判明」と大きく報道。(個人的には、ロビンフッド的行為を是認は出来ない。組織としては許せない冒険行為である)
11.10 北ベトナム軍、非武装地帯から米軍陣地を攻撃。
11.27 南ベトナム政府、パリ会談への参加を表明。(一説に23日)
11.27 ハーヴァード教授ヘンリー・キッシンジャー、安全保障担当の大統領補佐官就任を受諾。
11月 コーマーがCORDS責任者を辞任。ウィリアムE.コルビー(後のCIA長官)がこれに代わる。71年、コルビーCIA長官は議会で喚問を受け、「フェニックス・プログラムは、暗殺のプログラムではなく、全般的な平定計画の一部であった」と証言。2万人以上がこの計画により殺害されたことを認める。
68年12月
12.08 グエン・カオキ副大統領を団長とする南ベトナム政府代表団がパリに入る。
12.10 北ベトナム、米機がゲアン、クアンビン、ハチンの各省で爆撃を続けていると非難。
12.12 解放戦線、中央委員会のチャン・ブー・キエム対外連絡委員長を主席とするパリ代表団を編成。
12月 ワン・パオ軍、プーパティーを奪還
68年末 日本のベトナム特需は総計15億ドルに達し、輸出総額の10%を占める。
1968年末での数字: 米軍は54万1千500、同盟国軍は7万2千に達する。米兵の38%を招集兵が占める。このうち12%が大学卒業生であった。死者数はアメリカ軍1万4546人・南ベトナム軍1万7486人・西側援助軍3400人、解放戦線・北ベトナム軍死者はテト攻勢のため19万1387人と膨れ上がる。
69年1月
1.01 ホー・チ・ミン大統領の新年メッセージ。「1968年はわが南北ベトナムの輝かしい勝利の年であった。南ベトナム同胞と戦士らは連続的に蜂起し進攻した。今年も前線で必ず大きく勝利することだろう。独立,自由のため,米軍とかいらいどもが崩壊するまで戦おう」
1.06 タオ平和連合議長,平和内閣の樹立を呼びかける。
1.06 パテト・ラオは覚え書を発表。アメリカが11月以来,ラオス解放区にたいする爆撃を強化していると非難する。
1.10 スエーデン政府、西側諸国として初めて北ベトナムを承認。南ベトナム政府との関係は事実上断絶。
1.14 ビェンチャン郊外で,政府軍の弾薬庫がパテト・ラオ部隊によって攻撃され大爆発。備蓄の1/3が破壊される。別働隊はビェンチャン北東ムオンカン地区のアメリカ広報センターを奇襲,破壊する。さらにラオス南部のタテンにも攻撃を加える。
1.16 ラオス政府,パテト・ラオ代表部のビェンチャンからの退去を要請。「ペトラン代表およびその部下を民衆のデモから保護することはできない」と述べる。その後建物を封鎖、外界との接触を断つ。代表部は居座りの意思を表明。
1.16 南ベトナム政府がパリ会談予備会談に出席することを発表。4者会談の予備会談が開始される。本会議は25日より。
1.20 ニクソンが大統領に就任。「対決の時代の後、我々は話し合いの時代に入ろうとしている。我々は“名誉ある平和”を達成する」と演説。
1.22 ダクロン渓谷で「デューイ渓谷」作戦が開始される。海兵隊による最後の主要な戦闘となる。(ダクロンはクアンチ省の一県でケサン近くの渓谷に位置する。国道9号線沿いにはダクロン橋がある)
1.24 サイゴンの米軍司令部、北爆停止以来の北ベトナムの経済再建の状況を発表。
再建状況: 補給能力は強化され,道路網は整備され,南への浸透ルートでも軍需品の蓄積がみられるが,その量は大規模な軍事攻勢を示唆するようなものではない。産業再建は石炭,繊維,水力発電所から始まっているが、修理施設や資材の破壊のため,大きな制約をうけている。ハノイ,ハイフォン周辺の食糧はじゅうぶん供給されているが,配給機構などの欠陥から,一部物質の不足をきたしている。
1.25 ベトナム政府が米政府の説得を受け、和平会談への出席を了承。パリ会談は、南ベトナム解放民族戦線と南ベトナム政府とを加えた「四者」会談へと拡大される。
1.27 アメリカ軍,ダクト基地を撤収。
1.30 第一回拡大パリ会談が開催される。北ベトナムと解放戦線は、南北ベトナム間に非武装地帯の再設定をもとめるアメリカの提案を拒否。
1.30 南ベトナム政府、加速平定計画運動(APC)を終え、民間防衛隊の組織化を開始。和平後に備える。
1.30 南ベトナム軍、中部海岸バタンガン半島での掃討作戦を開始する。
1.31 ミニン駐ラオスソ連大使、プーマ首相の親書を携えハノイからサムヌワに入る。
1月 パテトラオ、プーパティーを再度奪還。ワン・パオ軍を撃退する。
69年2月
2.01 チュウ大統領の顧問グエン・バン・ヒエン少将、テロ攻撃を受け重傷。チュウは和平支持者への弾圧に乗り出す。統一仏教会の指導者チエン・ミン師が逮捕される。
2.01 アメリカ軍,これまで使用していた爆撃機60機と哨戒艇25隻などを南ベトナム軍に供与。
2.03 グェン・バン・ダオ国家計画委員会副委員長が69年度国家計画を説明。@抵抗戦争の要求に適確に迅速に応える。A前線と後方との運輸通信手段の保全強化。B農業に奉仕する工業の発展、などを重点とする。
2.04 沖縄でB52の撤去を求める県民統一行動。5万人の県民が参加する。
2.11 パテト・ラオ、王都ルアン・プラバンの飛行場を攻撃し,T-28型飛行機18機を破壊する。
2.12 プーマ首相、米国機がラオス領内の北ベトナム軍集結地域を爆撃していることを初めて公式に確認する。
2.15 解放戦線がテト停戦に入る。米軍,サイゴン軍も24時間の停戦。
2.17 フエ西方のトゥアティエン省アシャウ渓谷での戦闘が開始される。
2.18 ニヤンザン紙の社説。「労働者と農民は増産,建設活動の積極化,責任感の向上,浪費,腐敗,不正行為,投機との戦い,経営技術の改善などの面で競争せよ」と呼びかける。
2.19 テト休戦中も米軍は爆撃を続行。休戦中30機のB-52は10回出撃し,さらに300〜400機の戦闘爆撃機が参加。
2.23 解放戦線がテト明けに攻勢。軍拠点、都市、空港115ヶ所を同時攻撃。戦闘は3月末まで続き、米兵1千名以上が戦死する。その後米軍の反撃を前に、解放勢力は弱体化。多くの地域で半ば壊滅状態に陥る。
2.25 北ベトナム軍が非武装地帯近くの海兵隊駐屯地を急襲。米兵36人が死亡する。
2月 ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官、ニクソンの命を受け、北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始。
69年3月
3.01 北ベトナム軍174 連隊の2個大隊と148 連隊の3個大隊、ナカンから約60 q南西にあるワン・パオ軍の拠点を攻撃。
3.02 南ベトナムの3500の町村で町村長選挙が開始される。解放戦線は妨害工作を集中する。
3.02 ビェンチャン北東約530キロの政府軍拠点サムネワ省ナ・カンが,パテトラオにより占領される。行政,軍事責任者フアン・シハラート中佐も戦死。
3.04 ニクソン、海兵隊員殺害への報復として北爆再開を示唆する。
3.04 キューバのラウル・バルデス・ビボ大使が解放区に着任,解放戦線議長へ信任状を呈出する。( ビボは77年アンゴラ大使となり、 「アンゴラの白い雇い兵」(後藤政子訳)を著したことでも有名)
3.05 南ベトナム政府のフォン首相が狙撃される。
3.06 南ベトナム駐留米軍がこの時点でピークの54万4500人に達する。(一説には4月末にピークの543,400人)
3.07 レアード米国防長官がサイゴンを訪問。
3.11 パテトラオがルアンプラバン空港を襲撃。飛行機3機が破壊される。
3.12 フォン内閣が改造。平定計画省,対議会連絡省,戦後経済計画省の三つが新たに創設された。
3.14 フルブライト上院議員,進まない和平の動きに失望。「ニクソン政権のベトナム政策に失望している」と批判。
3.15 海兵隊、非武装地帯へ侵入。
3.16 統一仏教会のチエン・ミン師、15年の重労働刑を宣告される。
3.17 ニクソン、B52によるカンボジア領内のベトナム解放勢力への爆撃を許可する(一説に2月)。これは議会の規制する秘密作戦で「メニュー」作戦と呼ばれた。次の4年にわたって、アメリカ軍は、カンボジアで50万トン以上の爆弾を投下する。
3.19 南ベトナム視察を終えたメルビン・レアード米国防長官、上院軍事委員会で証言。戦争の「ベトナム化」を唱える。同時に、平定計画は大幅に停滞しており、現状では米軍撤退は不可能と証言。南ベトナム軍の増強計画に1億5600万ドルの追加支出を要請。
3.20 レアード国防長官,非武装地帯南側でのマクナマラ・ライン構築を中止したと言明。
3.23 米軍が第2次反攻作戦を実施。ユエ・ダナンへの解放戦線の浸透路をたたく。
3.25 グエン・バン・チュウ大統領、解放戦線との個別会談を提案。ニクソン大統領も,和平交渉は秘密交渉で行なうべきであると述べる。解放戦線はただちにこれを拒否。
3.26 米下院議員16人がベトナム早期終結を要求。「ハト派」と呼ばれる。
3.27 解放戦線中央委員会は声明を発表し,サイゴン政権提唱の「個別会談」を拒否する。
3.27 ロッジ米首席代表は「少なくとも4万人の北ベトナム軍がラオスに展開し、カンボジアの領土主権を侵犯している」と述べる。
3.28 パテトラオ、ラオス南部および中央部で大攻勢を開始。南部ではサラバン,アトップおよびボロベン高原のラオス政府軍基地に対して砲撃を行なったのち,歩兵部隊による地上攻撃を加える。中部では政府軍第2軍管区司令部の所在地であるサムトン東方25キロのコソムの陣地に,85ミリ,100ミリ砲300発以上を撃ちこむ。
3月 サイゴン北西部タイニン省への枯葉剤投下が本格化。半年間で8千トンの枯葉剤が散布されたという。
69年4月
4.05 ニクソン就任後、初の大規模な反戦デモ。
4.06 チュウ南ベトナム大統領が6項目提案を発表。@南ベトナム軍以外のすべての軍隊の相互撤退、A国際機関の監視下で自由選挙を主張。
4.07 サイゴンの米軍司令部、ベトナム参戦後の米軍戦死者が3万3千人を越えたと発表。この時点で、朝鮮戦争時の戦死者を上回る。
4.09 ハーバード大学で反戦学生300人が大学本部ビルディングを占拠。理事8人を追い出し立てこもる。
4.18 「ダーちゃん」事件が発生。クアンガイ省ハンティン村に米軍のヘリが着陸。村人60人ほどが集められ,機銃掃射により虐殺される。トラン・ティー・ダーさん(当時11歳)は村人の死体の下で失神していたため助かった。彼女は解放軍に保護され,その後世界各地で米軍の蛮行を訴えた。早乙女勝元さんは彼女を知り、『ベトナムのダーちゃん』を書いた。
4.19 ハノイ放送、米軍がリャンビン地区でボール爆弾を使用したと発表。
4.20 南ベトナムで反共野党の「進歩民族主義運動」(PNM)が発足する。書記長に民間人のグエン・ゴク・フィが就任する。
4.20 プーマ首相,北ベトナム軍がラオス領にいる限り,爆撃を停止するわけにはいかないと言明。
4.21 平和連合、創立1周年に際して声明。「平和内閣」の樹立を主張する。
4.24 メオ族のバン・パオ(Vang Pao)将軍にひきいられたラオス政府軍は,1964年以来パテト・ラオの支配下にあった,シエン・クワンを奪回する。
4.24 ビエンチャンからサバナケットにたる13号道路が寸断され、タケクが孤立する。ラオス政府はタケクへの補給に関してタイ政府に協力を要請。
4.26 ニヤンザン紙、中国共産党第9回全国代表大会を報道。「中国人民全体に毛思想が普及され,文化大革命は発展して行くだろう」と称賛。毛沢東主席の肖像を第1面に掲載する。
4.29 ソ連国営航空会社、北京経由ハノイ行き航路を廃止。タシケント=カラチ=カルカッタ経由の新空路を開設する。
4月 愛国中立派が第1回全国大会を開催。
69年5月
5.01 サイゴンの労働組合,メーデーに際し平和要求宣言を採択。
5.02 カンボジア政府、米軍ヘリ2機を撃墜したと発表。この頃から米軍のカンボジア領内への秘密攻撃が開始される。
5.03 ラオス政府軍、ジャール平原のムオンガンおよびムオンフアンをパテト・ラオの手から奪回する。
5.08 解放戦線、和平のための10項目からなる計画を、第16回パリ和平会議に提出。北ベトナム政府もこれを支持。
10項目提案: @民族自決権の尊重、A米軍の撤退、B自由選挙による制憲議会、C三者からなる臨時政府、D非同盟、E捕虜の釈放とアメリカの損害賠償など。68年11月の五項目提案を具体化したもの。
@南ベトナムに存在するベトナム人の軍隊については「ベトナム人当事者間で解決」するよう主張する。A現南ベトナム政府は解体し、あらゆる政治勢力の参加する臨時連立政府、ついで選挙を経て正式の連立政府を樹立という路線を主張。(率直に言ってかなり分かりづらい)5.04 パテト・ラオが春季大攻勢。北部ラオスで25ヵ所の陣地を攻略し、サムネワ省のほぼ全土を制圧。またベン渓谷を占領し、メコン河に戦略的要地を獲得。政府軍は首都北西50キロのボリカン高地,ビェンチヤン平原を失う。またビェンチャンと南部ラオスの諸省とを結ぶ,13号道路が全面的に使用不能になり,サラバンとアトプが包囲され孤立する。
5.10 米101空挺師団がアシャウ渓谷に乗り込み、「アパッチ・スノー」作戦を開始する。
映画「ハンバーガー・ヒル」: 第187連隊第3大隊のブラボー中隊は、ドン・アプ・ビア山(937高地)を確保するため北ベトナム正規軍と衝突。10日間の激戦の末、高地の確保に成功するが、600名の兵の内46人が死亡、400人が負傷する。激戦が人間の肉をミンチにしたことから、ハンバーガーヒルと呼ばれた
その後軍司令部は937高地の放棄を命令。北ベトナム軍が奪還する。この無意味な戦闘は米国内タカ派にも深刻な議論を巻き起こし、その後大規模な戦闘は不可能となる。米兵内にも厭戦気分が蔓延し、およそ半分がマリファナ、アヘンまたはヘロインを用いるようになる。5.11 解放戦線、サイゴン、タンソニェット空港、ダナンなど159ヵを砲撃。
5.12 ホーチミン、ラオスのバッタナ国王にメッセージ。「北ベトナムは1962年のジュネーブ協定を尊重し,平和,中立,国民融和の政策を全面的に支持する」と述べる。
5.14 ニクソン、解放戦線に対抗して8項目の和平計画を提案。ベトナム政策を始めて明らかにする。戦争終結への決意を表明するとともに,1年以内にすべての外国軍(北ベトナムをふくむ)が戦線を離脱し、その後南ベトナムから撤退することをもとめる。また国際監視下の自由選挙の線を強く打ち出すとともに,和平交渉と並行してベトナム化計画を推進する。
5.15 ベトナム戦後復興計画に関する米=南ベトナム合同報告書(リリエンソール報告書)がニクソン大統領に提出される。
5.15 ロジャーズ米国務長官,チュー大統領と会見。チューは会談後の記者会見で、「米軍の一方的撤退は認めない」と強調する。
5.17 ニヤンザン編集長,ニクソン米大統領の8項目提案を批判。@米軍の無条件全面撤退、A南ベトナム内政問題への不干渉、B「外国の銃剣の下での総選挙」に反対する、ことなどを明らかにする。
5.20 プーマ首相、北ベトナム軍が撤退すれば爆撃を停止し,南ベトナム解放民族戦線の10項目提案も支持すると言明。
5.20 エドワード・ケネディ上院議員,アシャウ作戦は無意味と軍部を批判。
5.22 ベトナム参戦国会議が開催される。
5.23 ホーチミン、79歳の誕生日にアピール。「わが軍民は米侵略軍を1人残らず打倒し,売国奴を打倒し,南ベトナムを完全に解放する。そのことによって,はじめてわが人民は真の平和と自由を享受できるのである」と述べる。
5.25 チュウ南ベトナム大統領、既存の与党政治勢力を糾合して「民主社会国民戦線」を結成。政治基盤の強化を図る。
5.25 パテト・ラオ,ジャール平原の中心シエン・クワンを奪回。その後1ヶ月にわたりシェンクアンを巡る激闘が続く。
5.27 チュウ南ベトナム大統領が韓国を訪問。朴大統領と会見。その後台湾に赴き蒋介石総統と会談。
5.30 サイゴン・ショロン地区人民革命委員会結成大会が開催される。
5月末 ニューヨークタイムズ、カンボジアにおける米軍の秘密爆撃を暴露する。ニクソンはFBIに4人のジャーナリストの電話盗聴を命じる。またニュース漏洩の源を知るため、政府幹部職員13人の盗聴も開始。
5月 ビエンチャン駐在のレ・ヴァン・ヒエン(Le Van Hien)北ベトナム大使がプーマ首相と会談。アメリカによるホー・チ・ミンルート爆撃への承認を取り下げるなら、ラオス北部の攻撃を停止し、軍の一部を撤退させると提案したとされる。
69年6月
6.04 サイゴンで「進歩的民族主義勢力」の準備委員会成立。知識人グループ(指導者チャン・ゴク・リエン)が「和解政府」樹立を目指すと声明。上院は「連合政府」を目指す一切の運動を認めないとする声明。
6.04 ニヤンザン紙,南ベトナム問題解決の基本条件は米軍完全撤退と,連合政府樹立であると強調する。また、総選挙はアメリカの侵略戦争停止,アメリカ軍などの完全撤退後に初めて条件が生まれるとする。
6.06 解放戦線と「民族民主平和連盟」が共催し、3日間にわたり人民代表大会を開催。(一説では「民族民主平和連盟」ではなく「平和勢力連合」となっている)
6.08 南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立される。行動綱領が採択され、首相にフイン・タン・ファット解放戦線中央委員会書記長が就任。
6.08 ニクソン、グエン・バン・チュウとミッドウェーで会談。戦争の「ベトナム化」(Vietnamization)を提案。パリ会議の進展,南ベトナムの戦況を考慮しつつ撤退計画を推進する旨を声明。8月末までに米軍2万5千人を撤退させることを明らかにする。
6.10深夜 ハノイ放送を通じて「南ベトナム臨時共和国革命政府」が樹立されたことが公式発表される。ソ連・中国・その他の社会主義国など25カ国が相次いで臨時革命政府を承認。
6.11 臨時革命政府,12項目からなる行動計画を発表。
6.11 ラオス愛国中立勢力が独自の行動綱領を発表。「アメリカとその手先の特殊戦争を完全に失敗させ,独立した平和な中立のラオスを実現するため,民族的和合と国の統一を実現するため,中立勢力は愛国戦線と協力して奮闘する」と述べ、プーマ首相らの「中立勢力」を国と人民の裏切者であると非難する。
6.12 北ベトナム政府、臨時革命政府の樹立にあたり“平和的統一”へ向け共闘するようアピール。
6.12 プーマ首相、米軍機が,ラオス領内で爆撃を行なっていることを認め,北ベトナムがラオス領内の基地と浸透ルートを使用するかぎり,爆撃は続けられると語る。
6.13 南ベトナム上院,新聞綱領法案を可決。臨時革命政府に関するいっさいの報道を禁止する。
6.14 米国、ラオス政府の要請を受け、M16型ライフル銃4000挺の供与を決定。
6.16 南ベトナム政府、輸入平衡税を引上げる。下院は政府に対する信任投票の実施を要求。また米軍撤退を認めるミッドウエー会談の合意を批判する。
6.18 南ベトナム政府当局、「進歩的民族主義勢力」の指導者に対し出頭を命令。
6.18 バイニング夫人(66)、ベトナム反戦運動に参加し逮捕される。
エリザベス・グレイ・バイニング: 1946 年10月に来日し、5年間にわたり皇太子(現平成天皇)の英語の家庭教師を勤めた(マッカーサー元帥の妻だったという情報もあるが、真偽不明。たぶん嘘でしょう)。クエーカー教徒でベトナム戦争に反対していた。彼女をふくむ16人の信者は、ワシントンの国会議事堂階段で、ベトナム戦争の戦死者の名前を読み上げていたところを逮捕された。
6.18 空からの援助を受けた政府軍,タ・トムを1年半ぶりに奪回。
6.19 ニクソン大統領が記者会見でミッドウェイ会談について説明。年内に10万人以上をベトナムから撤退させると発表。
6.22 フルブライト議員,ミッドウェイ会談を非難。チュー政権との絶縁を主張する。
6.27 パテート・ラーオ、王国政府中立派のジャール平原での拠点ムアン・スイを占拠。
6.27 ライフ誌、最近の週にベトナムで戦死した242人の兵士の生前写真を掲載。この中にはハンバーガー・ヒルで戦死した46人も含まれていた。死者たちの微笑んでいる若い顔は、全アメリカ人へ衝撃的な影響を与える。
6.30 臨時革命政府のファット首相がカンボジアを訪問。シアヌーク元首と会談。
6.30 解放戦線、ベンヘトの制圧を断念し撤退。
6月末 解放勢力、サイゴン周辺を中心に102ヶ所を同時攻撃。アメリカはこれに対応して北爆を再開。
6月 米軍と南ベトナム政府軍の武装スパイ部隊が,北ベトナムの北部のハジヤン省山岳地帯にパラシュートで降下。かく乱作戦を展開するが捕らえられる。
6月 カンボジア政府、アメリカとの外交関係を回復。領内の解放戦線への秘密爆撃を事実上黙認。一方で南ベトナム臨時革命政府もいち早く承認するなど、シアヌーク流のバルカン外交。
6月 ニクソンとキッシンジャーは極秘で「ダックフック作戦」の検討を開始。ハイフォン湾への地雷敷設、ハノイ爆撃、北ベトナムの堤防破壊、北ベトナム侵攻、ベトナムをそれぞれ中ソと結ぶ鉄道を壊滅させる軍事行動で、核攻撃の可能性も含まれる。(ダックフックとは、ゴルフでコースを大きく外れるショットのこと)
69年7月
7.01 サイゴン市内で政府軍の若い兵士が平和を訴えて焼身自殺する。
7.01 ニヤンザン紙,中国共産党創立48周年記念日に当り賛辞を送る。「両国は唇歯のような緊密な関係にある。中国7億人民はベトナム人民の後方勢力であり,中国の広大な領土はベトナム人民の強力な後方である」との毛沢東の言葉を引用する。
7.01 アグニュー米副大統領、「一方的撤退はありえない。南ベトナム国民が外部からの圧力によらず,自決できる状態を確保できるまで,アメリカは南ベトナムにとどまるだろう」と述べる。
7.02 南ベトナム下院のジャン・チェン(民進)派議員93人が、フォン内閣不信任書簡を大統領に提出。
7.02 マクガバン上院議員,和平の前進のため@米軍全部の撤退開始,Aチュー・キ政権支援の中止の二つが不可欠であると主張。
7.04 カンボジア政府,臨時革命政府の承認にともない、解放戦線の捕虜30人を釈放する。
7.06 解放戦線、44ヶ所を一斉砲撃。
7.07 ニクソンは、交渉か戦場のどちらかで戦争に勝利すると述べる。ニクソンは「どっちにしろあの雑魚どもを爆撃してやる」とキッシンジャーに伝えたという。
7.08 最初の米軍撤退が実施される。第9歩兵師団の814名が帰国。ケサンを戦った米海兵隊第三師団も沖縄への撤退を開始。その後、二年間で14回にわたる段階的撤兵が実施される。
7.11 チュー大統領,自由選挙について6原則を提案。@解放戦線を含む全政党,団体が参加した「選挙委員会」を設ける,A選挙を行なう形式と時間表を,相手側と討論する用意があるなどを柱とする。
7.11 ラオス愛国戦線中央委員会、「現ピェンチャン政権はラオスにおけるアメリカの特殊戦争の道具であり,プーマ首相は国と人民を裏切りアメリカの道具となった」と非難する。
7.11 キッシンジャー、ソ連・フランス・ルーマニアなどのルートを通じて「11月1日まで、北ベトナムがパリで協力しなければニクソンは“もう一つの手段”を取る」と脅迫。
7.12 解放放送,チュー提案を「新しい陰謀」と論評。チャン・バン・ドン上院議員,「現在のサイゴン政権のもとでは,どのような平和提案も無駄であり、新政府の樹立が必要」と発言。チャン・ゴク・リエンも,「自由選挙による解決はチュー政権では不可能である」と批判。(チャン・バン・ドン将軍はスオン・バン・ミンと並ぶ63年クーデターの立役者。副首相も勤めた。国家救済委員会(救国戦線ともいう)の設立に動く。チャン・ゴク・リエンがどのような人物であるかは、現在のところ不明)
7.13 カトリック反動派,チュー提案の自由選挙は憲法違反と批判。解放戦線に対し毅然たる態度をもとめる。
7.15 北ベトナム代表団が特別声明を発表,チュー提案を正式に拒否する。
7.15 キ副大統領,「パリ会談は不要」とし参加を拒否する言明。
7.15 キッシンジャーはホー・チ・ミンに手紙。「戦争を終わらせるための交渉を再度申し入れたものであって、新たな和平条件を提示したものではなかった」とされる。
7.17 上院,チュー提案批判決議。解放戦線は民族主義を偽装した共産主義組織であり、チュー提案はこれまでの国会両院の決議に反すると批判。
7.17 サイゴン大学の学生が軍事訓練を拒否。警察隊がサイゴン大学を封鎖する。
7.17 ムオンスイ奪回に向かった政府軍降下部隊400人、60台余のソ連製PT-6型戦車をともなった1500人の北ベトナム軍の反撃を受ける。米アメリカの戦闘爆撃機2機,ヘリコプター2機が撃墜されるなどの被害を出し撤退。
7.17 ロジャース国務長官、ハノイにおける米兵捕虜の取り扱いが非人道的だと非難。
7.18 南ベトナム政府,北ベトナム当局に対し,国際監視下の総選挙を通じた南北統一を提案する。
7.19 ジュネーブ協定調印15周年。ホー・チ・ミンがアピールを発表。
アピールの要旨: 今春以来,情勢は急速に有利となった。南ベトナム国土の5分の4、人口の4分の3が解放された。ニクソンは南部で侵略戦争を引き続き強化し,B52爆撃機と有毒薬品による攻撃を激化させている。またかいらい軍を利用して非米化の陰謀を推進している。わが軍民数百万は一体となって革命的英雄主義を堅持し,犠牲と困難を恐れず南を解放し,北を防衛し,国家の再統一に向かって前進するため,抵抗戦争を継続する決意である。
7.19 臨時革命政府は声明を発表,「ニクソン政府はベトナム南部から米軍2万5000名を引き揚げると宣言したが,それは人をあざむくための手口にすぎない。ベトナム南部人民は平和をこのうえなく熱愛しているが,この平和は独立と自由を基礎としたものでなければならない」と述べる。
7.20 ホイラー米統合参謀本部議長が南ベトナムを訪問。「現在は戦闘が小康状態にあるが、これが共産側の和平のきざしとは思わない」と言明。
7.20 アポロ11号が月面に着陸。
7.21 サムヌアで愛国戦線と愛国中立派による大衆会議開催。
7.23 南ベトナム下院議員団53人,政府に「これ以上譲歩しないよう」勧告する声明を発表。
7.24 スアン・トイ首席代表、「ラオスには米軍部隊1万2千人が常駐している」と言明。
7.25 ニクソン、「グアム・ドクトリン」を発表。ベトナム戦争の「地上のベトナム化」を提唱。共産主義の浸透に対するアジア諸国の自主防衛努力の強化と、米国の負担削減を宣言。いかなる場合もベトナム型の地上戦争はありえないと強調。
7.25 プーマ首相、スアン・トイ発言に反論。ラオス領内に米軍はいないとした上で、「ハノイは6万の戦闘部隊を駐留させ、ラオスを植民地化し,衛星国にしようとしている」と非難する。
7.26 ダナン南方のクアンナム省ケソン渓谷で激戦が続く。
7.26 チュー大統領、「解放戦線が選挙提案を拒否し続けるならば,残る道は戦闘だけだ」と言明。
7.30 ニクソン、ベトナムを訪問し米軍司令部および南ベトナム政府首脳と会談。ニクソンはチューに「北ベトナム政府を“異例の方法で警告”するつもりである」と述べ、「ダックフック作戦」の実施を示唆する。
7.31 日本製オートバイ(ホンダ・スーパーカブ)の輸入が急増.政府は乗用車とオートバイの輸入を一時停止する。
7月 ニクソン、フランス特使を通じてホーチミンに密書を送る。和平を提案する一方、10月末までに和平が進展しなければ北爆を再開すると脅迫。北ベトナムは南ベトナム連合政権への解放戦線の参加を主張して譲らず。
69年8月
8.02 チュー大統領の前政治顧問フェン・バン・チョン氏を含むサイゴン政府要人や政府軍指導者が、共産側スパイとして逮捕される。
8.04 キッシンジャー、パリでスアン・トゥイ代表と最初の秘密会談。
8.05 シアヌーク元首,財政危機に対処するための緊急国民議会を招集。@密輸,Aかんばつ,B外国援助の停止が三つの原因だとし、とくに密輸取締りの強化をうったえる。またフランスで病気療養中のペンヌート首相に代わりロンノル将軍を首相に指名。
8.06 ニャンザン紙、安保破棄のための日本国民の戦いを紹介。
8.07 解放戦線がカムラン湾の米軍基地を攻撃。
8.07 パリの臨時革命政府代表団、「他の政治団体との間に臨時連合政権の結成に向け交渉を開始した」と発表。
8.08 民族社会民主戦線,フォン首相の更迭を要求。
8.09 ホーチミン、自ら手を加えた農業生産合作社の新条令の実施を指示。「合作社を強化し農村の団結を強化し,生産を発展させ,農民の生活の安定向上を促進する」ことを目的とする。農業の臨戦体制化がさらに進行する。
8.09 ワン・パオ将軍率いるモン族勢力がジャール平原の一部を奪還。
8.10 米国防総省,北爆停止以来ラオスを集中的に爆撃していることを明らかにする。昨年末以来、爆撃回数は1ヶ月に1万回を越えている。
8.10 政府軍,ビエンチャン北方150キロのシエン・デット(Xieng-Det)駐屯地を放棄。シエン・デットは陥落したムオン・スイ基地から南西30キロ、政府軍の新たな拠点バン・ビエンへの途中にある。一個大隊で防備されていたが、6月末よりパテト・ラオ部隊に包囲されていた。(バン・ビエンはラオスの桂林と呼ばれる景勝の地らしい)
8.10 ビエンチャン政府、駐ラオス・北ベトナム大使館員ら6人を「交通事故」の加害者として逮捕した上、国外退去命令。ベトナム民主共和国外務省は即時釈放を求める。
8.11 解放戦線、全国的規模で第三次攻勢を開始。フエなど128ヵ所を砲撃する。解放戦線の中央委幹部会は、アメリカ軍の完全撤退とチュウ政権の打倒まで軍事・政治・外交の全分野で攻撃を続けると声明、総攻撃をよびかける。
8.13 チュー大統領とフォン首相、内閣改造について合意。
8.15 米国の初代の駐カンボジア代理大使としてロイド・M・リブスがプノンペンに着任。
8月半ば レアード国防長官、ベトナムにおけるアメリカの目的は北ベトナムを倒すことではなく、ニクソン・ドクトリンに沿って、南ベトナムの「北ベトナムの攻撃を撃退する力」を強化することだと述べる。
8.16 ティン・ジン・タオ議長を団長とする民族民主平和連合の代表団が、北ベトナムを訪問。
8.18 解放戦線、42省に人民革命委員会が成立したと発表。
8.19 解放戦線がダナン西方で米軍に攻撃を加える。
8.21 サイゴン郊外のチュードク監獄で、政府軍が婦女子政治犯1,400人に残虐行為をはたらく。
8.22 南べトナムのチャン・バン・フォン内閣が総辞職。政権内部の矛盾により、「文民内閣」の見せ掛けが維持できなくなる。
8.23 チュウ大統領、チャン・バン・フォンに代わりキエムを首相に指名。
8.24 ソンチャン渓谷に駐屯中の米第196軽歩兵旅団第3大隊で、兵士の集団抗命事件が発生。
8.27 米地上兵力のうち、第一陣となる第9歩兵師団第三旅団の2万5千名が撤退を完了する。米国務省は、北からの浸透は減少していると弁明。
8.30 米軍、非武装地帯ジョリンの北東10キロの北ベトナム軍基地を砲撃。巡洋艦がこれを支援。
8月 国家安全保障会議、「ハノイ市内および周辺の軍事・経済標的の爆撃、ハイフォンなど港への機雷敷設、北ベトナム北東部の通信ラインおよび中国国境にある小道・橋の空爆、その他の標的の陸および空からの攻撃」のための計画を策定する。
計画策定メンバーのロジャー・モリスによれば、この作戦は最低二発の低出力核兵器による攻撃を予定しており、うち一発は中国との国境から2キロの地点に投下することになっていた。キッシンジャーは「核使用が中国への通路を封鎖する唯一の手段であるようなら、そのために核爆弾を使用する可能性を除外しないこと」を指示したとされる。モリスは「北ベトナムを屈服させるために絶え間なく残酷な攻撃を加えることが作戦の核心だった」と証言している。
69年9月
9.01 前内閣の副首相チャン・チェン・キェム(Tran Thien Khiem)中将を首班とする新内閣が発足。フォン首相は大統領顧問へ横滑りする。
9.01 米軍,メコン・デルタのドンタム基地を撤退。ベトナム政府軍に引渡す。
9.01 毛沢東党主席,林彪党副主席および周恩来首相が、ベトナムの独立24周年記念に当り連名で祝電。「ソ連修正主義裏切り者集団は米帝国主義と一つ穴のむじなであり,ベトナム人民と全世界人民の共同の敵である。ソ連は米国と世界を再分割するため最近ますます米帝との結託を強めている。ソ連のベトナム支持は偽物であり,本当はベトナムを売り渡すものである。われわれはベトナム人民が持久戦争を堅持し,独立自主を守り,自力更生を続けて必ず米帝国主義をベトナムから追い出すことができると信じている」
9.02 ホーチミン、心臓発作のためハノイの病院で死亡。享年79歳。コスイギン、周恩来らが弔問に訪れる。解放戦線は、南の全土で72時間停戦を発表。米国もB-52による南爆を一時停止。
9月2日はベトナムの独立記念日です。当初は、独立記念日と建国の父であるホー・チ・ミンの死去日が同じでは不吉だということで、死去日を一日遅い9月3日としていました。 9.03 ホーチミンの遺書が発表される。「われわれの山と河と人民はいつまでも残る。アメリカの侵略者が敗北したあとで十倍もより美しい国土を再建しよう」と訴える。また中ソの「兄弟党間の団結回復」を呼びかける。
9.05 解放戦線中央委員会,民族民主平和勢力連合中央委員会,臨時革命政府諮問評議会がホー主席の逝去にあたってアピールを発表。
アピールの要旨: われわれ南部軍民はホー主席がわれわれと永遠の別れをつげるまえわれわれに提起した任務をだんこ遂行し,心を一つにし,革命的英雄主義を発揚し,犠牲をおそれず,困難にめげず,抗戦を堅持し大いに促進し,決戦決勝し,アメリカ軍がのこらず,きれいに撤退し,かいらい軍とかいらい政権が完全につぶれるまでたたかいつづけて,南部を解放し,北部を防衛し,さらに祖国を平和的に統一する決意である。
9.05 ソンミの虐殺の実行犯ウィリアム・カリー大尉、陸軍の軍事法廷から殺人容疑で起訴される。
9.06 解放戦線,ダナンの米軍基地を砲撃。
9.06 北ベトナム、大統領にドン・ドク・タン副大統領、副大統領にグエン・ルオン・バン労働党中央委員を選出。集団指導制をとり米軍撤退まで戦うと声明。党主席は空位となり、レ・ズアン第一書記が党首の職務を継承。
9.06 ニヤンザン,ホックタプが共同社説。集団指導制をホーチミンの遺産として強調。
社説の概要: ホーチミンは革命活動の中で,集団主義を高く掲げ,個人主義を一掃した。実際的なことを愛し,幻想的なやり方をきらった。偉大な革命の指導者であったが,非常に謙虚で質素であった。
「独立と自由ほど尊いものはない」というホー大統領の教えを心に深く刻んで,われわれは必ず米国を追い出し,かいらい政権を打倒する。9.07 南ベトナム政府,ホーチミンの服喪停戦を拒否。実際には「暗黙停戦」に入る。
9.07 シアヌーク元首を団長とするカンボジア王国代表団が故ホー・チ・ミン大統領の葬儀に参列。
9.08 南ベトナム軍の兵士が反乱。米軍事顧問2人を射殺する。
9.08 ラオス政府軍、サワンナケート東部Muang Phineを占領。(ラオス語の発音は相当難しいようです。ムアン・ピンとの表記のほかムオン・フィンというのもありました)
9.11 解放戦線、服喪明けの軍事攻勢を開始。
9.12 米軍、南ベトナムの解放区に対するB52の爆撃(いわゆる南爆)を36時間にわたり停止する。
9.12 アメリカの支援を受けた王国政府軍が北部侵攻作戦を展開。ジャール平原を全面制圧する。愛国戦線はプーマ政権をカイライ政権と呼び厳しく非難。
9.12 米政府と軍の首脳が,ベトナムに関する最高戦略会議を開催。撤退後の展望と南ベトナム軍支援の戦略について議論。
9.13 海軍兵力3万5千のうち3万人が、70年6月までに撤退することとなる。
9.15 グエン・カオ・キ副大統領が記者会見。「アメリカは70年末までに15万ないし20万人の米兵を撤退させる。南ベトナム軍がこれに肩代わりする。いかなる連合政府がつくられても,10日以内にクーデターで打倒する」と語る。
9.16 ニクソン、第二次撤退計画を発表。「12月15日までに駐留米軍3万5千人を撤退させる」とする。世論調査ではニクソンの段階的撤退計画を71%が支持。北ベトナムと南ベトナム臨時革命政府は、「撤兵計画はごまかし」と非難。
9.17 アメリカ上院、ラオスへの軍事援助を物質的,技術的なものに限定した決議案を採択する。
9.20 南ベトナムで旅客機と米軍機が空中衝突。64人が死亡。
9.23 ベトナム民主共和国第5期国会第5回会議、トン・ドク・タン副大統領(81歳)を大統領に指名。
トン・ドクタン(Ton duc Thang): メコンデルタの中農の家に生まれる。フランス海軍従軍中に反戦活動を開始。1930年に逮捕された後16年間獄中生活。日本敗戦後釈放,南部でベトミンに参加する。
9.26 ニクソン米大統領、国際監視下の選挙で「南ベトナムに共産政権が生まれても米国と南ベトナム国民は認める」と言明。
9.27 ラオス政府軍、中部のムオンフィン,北部シェンクワン省のカンカイ,ジャール平原,フォンサバン,シェンクワンなどを占領。
9.30 スウェーデン政府,北ベトナムに4000万ドルの経済援助。
69年10月
10.01 ニクソンが軍の警戒状態を最大臨戦態勢の「デフコン1」にするよう命じる。B52 爆撃機が144 機、B58 爆撃機が32 機、KC135 給油機が189 機、核攻撃に備えて待機状態に入る。以後29日間にわたり「デフコン1」が維持される。
10.01 ファン・バンドンを団長とする代表団が中国国慶節に初参加する。カンボジアからは首相ロン・ノル中将を団長とする代表団が参列。周恩来首相は、すべての米侵略者が南ベトナムから追放されるまで,ベトナム人民を援助する覚悟だと表明。
10.02 愛国戦線報道官、ヴィエンチャンのプーマ政府は正統な政府ではないと繰り返し発表。
10.06 ラオス政府軍、アメリカ空軍の援護を受けて中部ラオスで戦闘。サラバン北方60キロのバン・ツムラン、ムオン・フィン南方20キロのバン・サンを再占領する。
10.08 ウェストモーランド陸軍参謀長が米下院歳出小委員会の秘密聴聞会で証言。「北ベトナムは疲れはてつつある」,「アメリカは敵の力を過少評価し,南ベトナムの能力を過大評価していた。戦闘はなお長期間続き,米軍のベトナム駐留は今後数年間必要とされるだろう」と述べる。
10.08 シカゴで大規模な反戦デモ。再び各地で反戦デモが盛り上がる。
10.11 サイゴン地区内の米軍戦闘部隊がすべて撤退。これに代わり、政府軍50個大隊が防衛にあたることになる。
10.12 ニクソン大統領,南爆を10%削減するよう指示。ニャチャン空軍基地が政府軍に引き渡される。米兵1千名が顧問として残留。
10.14 北ベトナムのファン・バンドン首相は、初めてベトナム反戦集会にメッセージを送る。
ファン・バンドンのメッセージ(なかなか良いものです): 親愛なアメリカの友人の皆さん、あなたがた進歩的人民は,今日までベトナムの侵略戦争に反対して闘ってきました。そしてベトナム侵略戦争をやめさせるため,全国で広範な強力な運動を再びはじめました。あなたがたの運動は、アメリカの名誉を救うという正当かつ緊急な要求を雄弁に反映しています。ベトナムと世界の人民は、あなたがたの闘争を完全に是認し,熱烈に歓呼しています。ベトナム人民は深く平和を愛しています。しかしそれは自由と独立の中の平和です。米政府がベトナム侵略戦争をやめないなら,わたしたちは民族的権利を守るため,ねばり強く戦いつづけます。わたしたちは、両国人民の団結と勇気,世界の平和愛好人民の共感によって,この闘争が,全面的な勝利に終ると確信しています。あなたがたの「秋季攻勢」が輝かしい成功を収めるよう祈ります。
10.15 全米各地で空前の規模の「ベトナム・モラトリアム」行動が行われる。反戦デモや「平和の祈り」行動などに数百万人の市民が参加。ワシントンでは13万人がろうそくデモ。下院議員50人も行動に加わる。
10.15 ベトナム現地では一部兵士が喪章をつけてパトロールに参加する。またサイゴン在住の米人20人が,米大使館前でデモ。
10.15 ケネディ議員は「アメリカは1年以内に全地上部隊,72年末までに残りの全部隊を撤退させるべきである」と反戦デー支持の演説。
10.15 グエン・フー・ト革命政府評議会議長が、国慶節に参加するため中国を訪問。周恩来総理と会談する。
共同コミュニケ: グエン・フー・トは「ベトナム南部の問題を解決するための基礎は,解放戦線と革命政府の10項目の全面的解決案である」と強調。周恩来は「ベトナム南部人民が解放戦線と革命政府の指導のもとに,ホー主席の決戦決勝の旗じるしを高くかかげて,持久戦争を堅持すれば,かならず抗米救国戦争の完全な勝利をかちとることができると確信する」と述べる。これまで中国は徹底抗戦を堅持するよう主張。パリ会談を無視してきたが、このコムニケにより、臨時革命政府の10項目提案を間接的な表現ながら是認する。
10.15 モートン米共和党議員ら15人の議員は,即時北爆再開などのベトナム戦争を拡大する措置を,ニクソン大統領に要請。タカ派と呼ばれる。
10.16 レアード米国防長官,戦闘終了後も常駐兵力を残すことを考慮していると言明。
10.17 ウィーラー統合参謀本部議長は総司令官らに、核攻撃の可能性に備え臨戦態勢をさらに強化するよう命じる。「11 月最後通牒」に向けて準備が進む。戦略空軍総司令部などの米軍部隊が、「高度だが通告なしの警戒態勢」に置かれる。B-52 爆撃機をはじめとする核搭載航空機が、「完全武装し燃料満タンの出動態勢」で米国全土の滑走路に配備される。
10.20 ファンバンドン首相がモスクワ訪問。援助協定を締結。ソ連は10億ドル相当の食糧,石油製品,輸送施設,鉄および非鉄金属,化学肥料,武器,弾薬など防衛力増強,経済開発に必要な物資を北ベトナムに提供することとなる。
10.22 プーミ・ボンビチット愛国戦線党書記長、ラオスに対するアメリカ帝国主義の介入が強まっていることを非難。
10.24 南ベトナム政府、ガソリン消費税を新設。ガソリン価格が2.2倍に引き上げられる。増税発表で物価騰貴,ホンダのオートバイの販売価格も2.2倍となる。
10.27 ニクソンは「ジャイアント・ランス」(巨大な槍)作戦の実施を指令。4 日間連続で、アラスカからベーリング海までソ連国境上に核搭載爆撃機を飛ばす。
10.26 チャフィー米海軍長官、「われわれはベトナム化計画の最終段階に着手している。全部の海軍戦闘部隊を,明年6月までに撤退することができるかもしれない」と語る。
10.27 フーロイ駐留の米化学部隊が解体される。
10.29 米軍,「南ベトナム軍の近代化計画に当てる全装備の85%をすでに供与した。残り15%の引渡しもほぼ6ヵ月以内に完了する予定」と発表。
10.29 南ベトナム政府,チエン・ミン師を釈放。解放戦線の捕虜88人も釈放される。
10.29 フルブライト米上院外交委員長、「米国は3万6000人のラオス政府軍に年間約1億5000万ドルを使っている。またタイの基地から,大規模な支援活動を行なっている」と述べる。
10.29 ラオス人民解放軍、将兵の守るべき8つの規律を発表する。
8つの規律: @上級の命には絶対に従う、A財産を取ってはならない、Bあらゆるものを清潔に、Cすべての人に対して丁寧に、D人民からは針一本,糸一筋といえども奪ってはならない、E人民に宣伝・教育をおこなう、F慣習伝統を尊重する、G軍の秘密を守ること。
この程度の軍では到底アメリカ相手には闘えない。おそらく戦闘の大半はベトナム兵が担っていたのであろう。10.30 最高警戒態勢が解除される。ニクソン回顧録によれば、「平和運動は戦争を終らせるためにわずかに残っていたかも知れぬ可能性をぶち壊した。私は最後通牒が失敗したことを確信した」ためとされる。
10.30 北原日本大使,「対南ベトナム援助は休戦をまたずに始めるべき」と語る。
10.31 チュー大統領,革命記念日にあたり演説。増税および耐乏政策を認めねば大統領辞任も考慮していると述べる。
69年11月
11.01 CIAが北爆による被害状況を推定。「3万5000の建物が破壊され,北ベトナムの工業力は1954年の水準にまで落ちた。しかし主要道路の橋はすべて修復され、ハノイ・中国間の北東幹線鉄道も完全に修復された。ホーチミン・ルートはトラック輸送用に再修理され,多数のバイパスも建設された。電力供給は全能力の60%まで、石炭の生産は1965年の75%程度まで回復した」
11.02 解放勢力がブブランの特殊部隊基地を攻撃。戦闘は2ヶ月にわたる。(実に不思議な戦闘で、きわめて大規模な作戦であるにもかかわらず、一文献にしか記録されていない)
11.03 ニクソンがテレビで「声なき大多数」演説。反戦運動に反感をもつ「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に行動を呼びかける。一方で戦争の「ベトナム化」を強調する。
ニクソン演説の骨子: ベトナム戦争の経緯,意義および政府の平和探求の努力を説明し、解決の鍵はベトナム化計画以外にないと強調。「南ベトナムは強力になりつつあり,米軍の戦闘責任を肩代わりできるようになっている」とし、日程は公表できないが、すべての米軍部隊を引き揚げる計画を練っていると述べる。同時にアメリカが不用意に撤退すれば「大量虐殺」と抑圧は避けられないだろうとし、これを阻止するために自分を支持してほしいと訴える。
11.05 一方アグニュー副大統領は反戦派を“an effete corps of impudent snobs who characterize themselves as intellectuals”(ただの軟弱な集団、お高くとまった生意気な連中で、自分のことを「知識人」などとぬかしている)と非難する。各地で白人保守派層が反戦団体とぶつかり合う。
11.05 米下院の民主党ハト派議員10名,ベトナム駐留米軍の全面撤退決議案を提出。
11.05 南ベトナム下院、「政府の増税措置を白紙撤回する」との決議案を可決。与党の一部も賛成に回る。
11.06 ベトナム政府はニクソン演説に対する声明を発表。ニクソンの「政策の転換」は,戦争を激化し,ベトナム人同士を戦わせ,南ベトナムにしがみつき,パリ会談の正しい解決を拒否することを意味する。
11.06 解放勢力,ニャチャン飛行場,タイニン米軍基地,ニャベ石油施設,ブドップ特殊部隊基地などに砲撃を加える。8日にも37ヶ所に砲撃。
11.07 解放戦線の小部隊がサイゴン市内の警察を襲撃。
11.07 臨時革命政府がニクソン演説について反論。「ニクソン政策は,ベトナムに平和的解決策をもたらすうえでの唯一の障害である」と非難する。
11.08 北京放送、ニクソン演説に対する北ベトナムと臨時革命政府の反駁声明を報道。この中で初めてパリ会談の内容に触れる。
11.08 パリの解放戦線筋,ミン政権が成立すれば交渉に応じると示唆する。
11.08 カンボジア独立16周年。周恩来首相はシアヌーク元首に祝電を送り、「中国は厳正中立を守るカンボジアの偉大な後方になる」と述べる。
11.10 解放戦線の工兵隊がバンメトート基地に侵入。
11.11 ビェンチャンのパテト・ラオ代表部、158人以上のアメリカ人パイロットが,パテト・ラオに捕えられていると語る。他にタイ人,南ベトナム人,国府系中国人,フィリピン人など。
11.13 ミン将軍,チュー政権は住民投票などの方法で国民に信を問うべきであると声明。
11.13 クメール派の仏教徒約300人が,徴兵に抗議して大統領府前にすわり込み。
11.13 AFPがハノイの現地ルポ。「ハノイでは街灯が再び明るく輝き,電力制限も廃止された。劇場や映画館は完全に再開され,爆撃中閉鎖されていた多くのレストランも店を開いている。鉄道・道路も修復され正常な輸送を開始している」と報道。
11.13 アメリカで第2次ベトナム反戦行動が始まる。
11.15 ワシントンで、「全米兵をただちに帰還させる大行進」に史上最大の30万人が参加。集会が呼びかけた「モラトリアム」(職場放棄)に150万人が応える。世界各国でも統一行動が行われる。
11.16 解放戦線がアンケの米基地に突入,ヘリコプター20機を爆破。
11.16 ソンミ村の虐殺事件が、ニューヨーク・タイムス紙の報道により明るみに出る。米軍当局はウィリアム・カリー(Calley)中尉を軍法会議にかけると発表。
11.18 ロジャーズ国務長官、米上院外交委員会の秘密聴聞会で証言。「南ベトナムの自由選挙は現サイゴン政権ではなく,国際監視機関により実施される」と述べる。
11.19 パテト・ラオ,ムオン・フィンとシェンクワンをふたたび奪取。トム・ファリン,バン・タレオにも攻撃。
11.20 「タイム」「ライフ」「ニューズウィーク」がいっせいに「ミライの虐殺」を報道。
11.20 パリ和平会談のロッジ米代表が辞任。
11.22 スアンロックで米軍ロケットが政府軍に命中し33人が死傷。
11.22 ラオス愛国戦線中央委員会、タイ当局がアメリカに追随し,ラオス空爆の基地となり、5000の戦闘部隊を送り,ビェンチャンの軍隊とともに解放区の掃討戦に参加させていると非難する。
11.23 サイゴンの米軍司令部、共産側の戦力増強に備え,ラオス領内の北ベトナム補給に新たな爆撃を加える。
11.23 政府軍,デルタ北部で死傷100人をこえる大損害。
11.24 革命政府がソンミ事件について声明。事件は無数の血なまぐさい犯罪の一つにすぎず,虐殺者は他に4000人が虐殺されていると述べる。
11.25 ブプラン,ドクラプの闘いがこう着状態に入る。政府軍を支援するため,米軍戦闘部隊が出動。
11.26 米第7騎兵師団の兵たん基地が解放戦線により奇襲を受ける。弾薬庫が爆破される。
11.27 プレーク基地で野戦病院の米兵100名と医師、看護婦らが反戦断食。
11.27 スウェーデンヘの亡命を認められた米軍脱走兵が325人に達する。
11.29 ミトの海軍基地が、米軍から南ベトナム軍に引き渡される。
11.29 ブブランの南ベトナム軍・米軍が危機に陥る。基地付近でヘリ4機が撃墜される。アメリカはB52による猛爆を加える。
11.30 第3海兵隊師団が、ヴェトナムから撤退する。10日後には第82空挺師団第3旅団もベトナムを離れる。
11月 ソ連と戦略兵器削減交渉の予備会談。デタントの時代に入る。
69年12月
12.01 アンクアン派が全国仏教信徒大会を開催。「いかなる外部勢力にもくみせず、独自の立場で国民を戦争から解放する」との決議案を発表。
12.01 第二次世界大戦以来、最初のドラフト・ロッタリーが、ニューヨークで実施される。
12.02 米下院本会議,ニクソン支持決議を採択。@公正な和平、A国際監視下の自由選挙、の方針を確認。
12.03 解放戦線,全国58ヵ所を一斉砲撃。
12.04 南ベトナム上院軍事委員長(元副首相)のチャン・バン・ドン、「現地調査の結果,ソンミ虐殺は実際にあったことが確認された」としたうえで、「韓国軍は1年前,クワンガイ省で,ソンミ事件以上のひどい虐殺をやった」と述べる。
12.04 カンボジア政府,ベトナム国境のダクダム高地での米軍誤爆事件を非難。カンボジアに関する国際監視委員会(ICC)の活動停止をもとめる。
12.06 ダクト北西で作戦視察のヘリが撃墜され,政府軍のコンツム・プレイク地区司令官ら11人が戦死。
12.06 タイ政府、「中国軍2個師団がラオス北部に侵入,中国国境から36キロのフォンサリに向っている」と発表。
12.06 国営ベトナム航空労働組合(従業員300人)は,政府のストライキ禁止令を無視して,50%の賃上げ要求スト。バス運転手組合(600人)は,“不当解雇”に対する抗議スト。
12.06 南ベトナム政府、ソンミ事件に関する一切の報道を禁止する。
12.07 解放戦線、撤退の決まったフィリピン部隊に対し撤兵終了まで攻撃を停止するよう指令。
12.07 解放戦線,ダラトの国家警察の野戦警官訓練所を攻撃,38人が死傷する。
12.08 解放戦線、サイゴン市内をロケット砲で攻撃。
12.08 革命政府代表団、「アメリカが米軍および衛星国軍を全面撤兵させると宣言すれば,撤兵時の安全を保証する」と発表。
12.08 パリ会談のロッジ米首席代表、交渉の見通しに自信がもてないとし辞任。
12.09 チュー大統領が“容共”3議員を非難する演説。議会が容認するなら、「国民および軍隊がはっきりした態度をとることになろう」と脅迫。3日後の講演では、連合政権・中立の提唱者を“憶病者,敗北主義者”と非難する。
12.11 ゴコン省解放戦線委員会,政府軍捕虜23人を釈放。
12.12 米空輸騎兵師団がサイゴン北方の解放勢力に攻撃、激戦となる。
12.13 仏教徒学生100人がサイゴンで反戦集会を開く。クメール系仏教徒は市内で警官と衝突する。
12.13 プーマ首相は,ラオス北部に中国軍4ないし5個大隊がいると発言。「二個師団は大げさだ」と否定。
12.14 第二次撤兵計画が完了。南ベトナム駐留米軍の公式兵力は,48万4000人まで減少。
12.14 レアード米国防長官がテレビ会見。「ベトナム化は順調に進んでおり、駐留米軍は“ゼロの水準”まで削減される。第2段階は兵たん支援についても南ベトナム軍が引き受けることである。アメリカはこのために必要な諸装備を供給する」と語る。
12.14 カリフォルニア州のオーシャンサイドで米海兵隊員が反戦デモ。
12.15 ニクソン大統領、5万人の第三次撤兵計画を発表。さらに翌年4月までに撤兵を完了させる計画を明らかにする。また撤退計画は和平交渉の進展に規制されないと述べる。
この時点で相互撤兵問題は実質的にご破算になった。北ベトナム側はただ米軍撤退を待っていれば良いということになった。後は連立政権問題で北ベトナム側がどれだけ妥協するかに交渉の成否がかかることとなった。その際の米国側のカードは北爆のみとなった。
12.15 米上院秘密会、次年度予算採決にあたり付帯決議としてラオスとタイでの戦闘禁止を可決する。
12.16 サイゴンのチン・ルアン紙の社屋が爆破される。
12.17 米国防省当局者、「今秋現在の南ベトナム内の共産兵力は,少なくとも24万とみられる」と述べる。解放勢力側の死者は68年に続き15万人以上(米軍推定)と大きな出血を強いられる。解放勢力はゲリラ戦を全面に展開しつつ、北ベトナム軍の投入により組織の再建・強化を行う。
12.17 シアヌーク元首,ベトナム解放勢力による国境侵犯が続けば,ハノイ政府および解放戦線との断交もありうると言明。
12.18 ボー・グェン・ザプ国防相,建軍25周年の記念論文「党の軍事路線一ベトナムにおける人民戦争の無敵の旗」を発表。「党の軍事路線は人民戦争路線であり,それは党の政治路線から生まれ,規定されたものである」と述べる。
12.18 米議会、230億ドルのベトナム戦争予算を承認。付帯決議として、米軍のラオス・タイでの活動を制限する法案を可決。戦闘部隊の両国への導入が禁止される。
12.19 解放戦線結成9周年。「勝利は近づいており,記念日を祝って断固,前進,ほう起しよう」と訴える。
12.19 解放戦線部隊がタンソニュット空港を砲撃。解放放送は、「政府軍第7,第21,第25師団の部隊との間に,戦闘停止の取決めができている」と報道。
12.19 パテト・ラオがジャール平原の政府軍駐屯地13ヵ所に夜襲。ライプオト,プーンペットの基地にも突入する。パテト・ラオの発表で将校をふくめ69人を無力化,大量の兵器資材を破壊する。
12.19 中国の毛主席,林副主席,周首相が連名で解放戦線に祝電。「持久戦争を堅持し,独立自主,自力更生を堅持すれば、抗米救国戦争の全面的な勝利をかちとることができる」と述べる。
12.19 ファン・バンドン首相、「米国は軍隊を南ベトナムから引き揚げても間接的に,すなわちサイゴン政府への援助を通じて戦争を継続しようとしている。わたしたちは、さらに2年以上戦争が続くとして計画を立てている」と語る。
12.20 パリ平和会談は撤兵問題と連立政府問題で歩み寄りがみられないまま、完全に暗礁に乗り上げる。ヘンリー・カボート・ロッジ首席代表は、交渉の不調に失望し辞任。米政府は後任を任命せず。
12.21 南ベトナム上院国防委員会,国防費の8分の1を削減するよう勧告。正規軍20万人増員案にも反対する。
12.21 サイゴンで反共主義者5000人のデモが行われる。一部は国会に乱入。チュウによる脅しの一つと見られる。
12.21 ニヤンザン紙はスターリン生誕90周年記念日にあたって,スターリンを再評価する社説を掲載。中国側の意向に沿ったものと見られる。
12.24 解放戦線,3日間のクリスマス停戦入り,政府軍,米軍は24時間の停戦。
12.24 北ベトナムのホァン・ミン・ザム文化相,米国民にメッセージ。「このばかげた,不正な戦争から脱却したいというあなたたちの希望が,来年こそは実現されることを確信する」と述べる。
12.24 カンボジア、民営銀行開設や外国銀行の支店設置など経済を自由化。貿易も重要品目を除き民間に移される。自由化に抵抗する工業相、農業相、情報相などが更迭される。
12.25 グェン・ズイ・チン外相、「日米共同声明は米帝国主義と,日本反動政府の間の結合の強化を示すものだ,日本は米国にたよりながら,戦前の大東亜共栄圏の再現を夢みている」と強く批判。
12.27 解放勢力、ブブランの包囲を解き撤退。この戦闘で政府軍死傷1561人(死亡785,負傷776),米軍死傷111人(うち死亡24),解放戦線側の死者1519人。
12.29 サイラス・イートンがハノイを訪問。訪問後の記者会見で、「全米軍の引き揚げに同意すれば,ベトナム戦争を終わらせることができよう」と語る。
サイラス・イートン: ロックフェラーの秘書からスタートし投資家として成功、親ソ派の大金持ちとして名をはせる。ノヴァ・スコシア州パグウォッシュ村の別荘を開放して、ラッセルらの平和会議(1957年)を支援。日本語のブログには「朝鮮半島、ヴェトナム戦争で武器を売りまくり、巨万の富をつくった男」と書かれているが、英語版ウィキペディアにはそのような記載はない。息子と混同しているか?
12.30 ニヤンザン紙は「総選挙での日本共産党の勝利」を歓迎する掲載。「社会党の敗北は統一戦線の結成を拒否した結果である」と論評。
12月 この時点で、ホー・チ・ミンルートを2万5000 台のトラックが往来していたという。
12月 タイ軍1個師団が南ベトナム撤退を発表。
12月 アーヴィン上院議員、イリノイ州において800人の市民が、国内情報組織により監視されていると発表。この中にはアドレー・スティーブンソン上院議員、アブナー・ミクア下院議員、オットー・ケルナー巡回判事もふくまれるとする。
12月 セイモア・ハーシュ記者、雑誌『ニューヨーカー』にミライの虐殺の真相を掲載。ハーシュ記者は事件報道によりピューリッア賞を受賞。
12月末 この時点で駐留米兵は47万人(内陸軍33万、海兵隊5万、空軍5万)。ピーク時より6万8千人減少。これに対し南ベトナム政府軍の兵力は50万人を超える。69年の戦死者は9,300人で昨年の14万592人に比べ約35%減となる。通算の戦死者は4万人を越える。
69年 オレンジ剤に含まれる化学成分が、実験動物に先天性奇形を生じさせることが、複数のデータにより証明される。
70年1月
1.01 ベトナム米軍放送局(AFVN)のニュースキャスターをつとめるロバート・ローレンス3等特技軍曹、自らの番組内で検閲の廃止・言論の自由を主張。米軍はローレンスを告発。(のちに映画「グッドモーニング・ベトナム」のモデルとなる)
1.04 解放戦線、北部の軍基地と都市20ヶ所に、少なくとも245発のロケット砲,迫撃砲,銃弾を撃ち込み,うち2カ所で地上攻撃を行う。6日には37カ所を砲撃し,ダナン近くの米軍基地,プレイク市には地上攻撃を加える。さらに7日には米軍基地・施設に対し43件の砲撃。10日には18カ所を砲撃し,米軍83人が死傷。
1.05 南ベトナムの上院「ソンミ虐殺事件」調査委員会、事件は真実であるとし、チュー政権を非難する報告書を発表。
1.07 サイゴンでバス会社の倒産・解雇に抗議して24時間のスト。実際に参加したのは約2万人と推定される。
1.08 チュー大統領、「南ベトナム政府は国民の97%を支配下においている。共産側はすでに弱体化しており,70年中に新たな全面攻勢をかけてくることはあるまい」と述べる。
1.08 南ベトナム上院特別委員会,昨年12月の国会乱入デモ事件の責任はサイゴン市当局とチュー政府にあると報告。
1.09 チュー大統領、アメリカ軍戦闘部隊の早期撤兵に反対。同時に「中立主義あるいは連合政権を主張する素朴な民族主義者たちは,共産主義者かその同類である」と非難する。
1.09 サイゴンの米軍司令部、米軍用機の損害は,ヘリコプターを含む6304機(163億ドル)で,内訳はヘリコプター3321機,有翼機2983機と発表。
1.10 ニューヨーク・タイムズ紙,韓国軍がベトナムで数百人の民間人を虐殺したと報道。
1.11 ニクソン大統領、5万人の第三次撤兵を発表。
1.12 パテト・ラオ,フ・フェン(Phu Pheng)を再攻撃。
1.14 統一仏教会のアンタワン寺派、約1500人を集めて平和祈願集会を開く。国寺派の最高指導者の一人チック・チェン・ツオン師が集会に参加,国寺派は事実上分裂する。国家警察はアンクアン寺派の弾圧に乗り出す。
1.14 B52戦略爆撃機,カンボジア国境の共産軍集結地,陣地,砲陣地を9波にわたり爆撃,1500トンの爆弾を投下する。
1.15 レアード米国防長官、6月末までに米軍を5万人削減し30万まで減らすと発表。内訳は陸軍2万9500人,海兵隊1万2900人,空軍5600人,海軍2000人。
1.15 臨時革命政府パリ代表,独自の調査をもとに、ソンミ事件の犠牲者は97家族242人と発表。
1.16 チャン・バン・ドン将軍は,16人の上院議員とともに野党「人民ブロック」を結成。
1.17 解放放送,都市のゲリラ活動を強化せよと呼びかける。20日にはサイゴンのダイナム劇場が爆破される。30日にはサイゴンの中心地にある映画館レックスでプラスチック爆弾が爆発,数人が負傷。
1.17 B52がクアンチ省フォンホア郡フォンラップ村を爆撃。フォンラップは非武装地帯北側に位置し、金山があることで知られる。
1.18 中部のクイニョン=アンケ間で、解放戦線が韓国軍輸送隊を待ち伏せ攻撃。5人が死傷し、トラック5台が破壊される。
1.19 陸軍士官学校で解放戦線の地雷が爆発して死亡18人,負傷35人を出す。
1.20 ハノイの新聞、「南ベトナム各地に米軍が散布した化学性毒薬によって28万5000人が中毒にかかり,500人が死亡,90万5000ヘクタールの水田と畑が破壊された」と報道。
1.21 解放戦線、55カ所を砲撃。
1.22 1個大隊規模の解放戦線部隊が、チュオンチエン省(サイゴン西南145キロ)の政府軍海兵第2旅団の基地を攻撃。
1.22 ニクソン大統領の年頭一般教書演説。ベトナム政策の既定方針を重ねて再確認する。
1.24 労働党機関紙ニヤンザン,パリ会談1周年を迎えるに当たり評論員の論文を発表。@交渉の基礎はベトナム人民の基本的,民族的権利の尊重,南ベトナム人民の自決権の保証である。会談の行詰まりは完全に米国の責任である。
1.25 沖縄から発進したB-52爆撃機が、ラオス・カンボジアの国境地帯を爆撃。26日にはアシャワ渓谷付近の北ベトナム軍に大規模な爆撃。60機のB52が約2千トンの爆弾を投下する。29日にはカンボジア国境沿いにB52の爆撃。約1000トンの爆弾を投下。北ベトナムは、ホーチミン・ルート沿いに迎撃用ミサイルを配備。
1.26 解放戦線,サイゴンから11キロの地点で米輸送隊を襲撃。
1.26 南ベトナム政府、解放戦線との連立政権はありえないと否定。
1.28 米軍、第三次撤兵を開始する。
1月 Washington Monthly Magazine誌、「全国に1千人の私服調査者の情報網があり、200の事務所がこれを統率し、“すべての抗議活動”について情報を収集している」と暴露。米軍にとって厄介な人物・グループについて情報を流していると抗議する。
70年2月
2.01 解放戦線、テト休戦を前に全土で攻勢。48カ所を砲撃,うち10余カ所で地上攻撃。3日には30カ所を砲撃,サイゴン近辺でも地上攻撃。
2.02 レ・ジュアン第1書記が演説。「今後さらに何年でもたたかう準備をしなければならない」と述べる。
2.02 ニクソン、予算教書を議会に提出。国防費は大幅に削減される。
2.03 カオダイ教指導者で臨時革命政府顧問のフィン・タン・ムン、ハノイで死亡。
2.03 米軍がジャール平原への攻撃を準備。ラオス政府は北ベトナムにジャール平原の中立化を提案。パテト・ラオは提案を非難。北ベトナムも提案を拒否する。ジャール平原に住む2万3000人の住民は、アメリカの指示により南方に向かっての避難を開始する。
2.04 米軍の武装ヘリコプターが味方を誤射。政府軍39人が死傷する。
2.05 ダナン近くの米海兵隊司令部の下士官兵クラブで手投げ弾が爆発し,63人が死傷。
2.05 解放戦線,4日間のテト停戦。政府軍は24時間。
2.06 タス通信,ソ連の航空技師団が援助のためハノイに到着したと報道。
2.07 米軍が攻撃を再開。B52が,カンボジア国境とビントイ省を爆撃。
2.08 解放戦線,サイゴンのプレスセンターを爆破。
2.09 パテト・ラオ,ジャール平原での大規模な攻勢を開始。パクベン西方8キロのモカチョクの政府軍駐屯地を占拠する。
2.09 米民主党政策委員会、@すべての米軍を18カ月以内にベトナムから撤退させる,A現在空席のパリ会談首席代表を直ちに任命する,Bサイゴン政権をもっと広範な勢力を代表したものに改造することをニクソン大統領に要求。
2.12 解放戦線,ユエを砲撃。
2.13 レアード国防長官,ベトナム訪問を終え記者会見。「ベトナム化計画は現実的な評価としては進んでいない」と認める。
2.13 北ベトナム,パテト・ラオ軍、ジヤール平原において攻勢を開始。ラオス戦線が激化する。米軍は400機がラオス領内のホーチミン・ルートを爆撃するなど、ラオスでの秘密戦争を強化。
2.14 タイニン省のカンボジア国境で米軍と北ベトナム正規軍とが約3時間にわたる激戦。米軍は戦死7人,負傷27人の損害を受ける。
2.15 ハノイ放送、パテト・ラオがラオス北部ルアンプラバン,ウドムサイ,フォンサリ各省に接する広大な地域を奪回したと報道。
2.16 ファム・バン・ドン首相,ビンリン地区を訪問し演説。1970年は最後の勝利へ向かっての前進のため、きわめて偉大な勝利の年となろう」と述べる。
2.16 パテト・ラオ,パタセ飛行場を攻撃,飛行機3機に損害。プーマ首相,ジャール平原の死守を指示。
2.18 パテト・ラオ,ロンチェンおよびジャール平原地区を攻撃,政府軍数百人に損害を与え,政府軍用機12機を撃破したと発表。
2.18 ビエンホア米軍基地で政府軍の誤射により23人死傷。
2.19 B52爆撃機が,メコン・デルタ地域を爆撃。
2.19 ロン・ノル首相,「病気療養」を終えパリから帰国。この間にアメリカとのあいだでクーデター計画を作成したものと思われる。
2.19 南ベトナム臨時革命政府、米軍が化学兵器の使用を強化していると発表。
2.19 解放放送,北部クアンナム省で,米・韓国軍が1969年11月から12月にかけて2000人の民間人を虐殺したと報道。
2.19 サイゴンの米軍司令部、過去10年間の米軍戦死者が4万人に達したと発表。この発表によれば、北ベトナム軍・解放戦線軍の戦死者は60万1千315人とされる。
2.20 解放戦線のゲリラ2個中隊は,クアンチン省沿岸部の米偵察車および装甲輸送車隊を攻撃し,米側に死者14人,負傷者29人の損害を与える。
2.21 大統領委員会、徴兵制を廃止し、すべてを志願兵によりまかなうよう勧告。
2.21 キッシンジャー、パリでレ・ドク・ト首席代表との秘密交渉を開始。
2.21 パテト・ラオ,シェンクアン飛行場を占拠。
2.22 レアード米国務長官、ラオスでの地上戦争を拡大しないと言明。
2.23 米国防省,ラオス領内で行方不明または捕虜となった米兵の数は193人と発表。ニクソン米大統領はラオス情勢に関する国家安全保障会議を召集。
2.24 政府軍,ムオンスイ飛行場を放棄。
2.24 パテトラオ軍、ジャール平原を完全制圧。北部のワンパオ軍を駆逐する。プーマ首相はジャール平原の中立化を呼びかける。
2.26 解放戦線,29カ所を砲撃。27日には35カ所を砲撃。この攻撃で米側は航空機3機に損害を受け,米兵16人と政府軍兵士5人が死亡。
2.26 南ベトナム下院議員で野党指導者のチャン・ゴク・チャウが逮捕される。3月には重労働10年の判決が言い渡される。
2.26 パテト・ラオ、2週間の戦闘で1千人以上の敵部隊をせん滅,ジャール平原,シェンクァン地区全体,ムオンスイ,フーコウト地区を奪回する。政府軍はジャール平原の山間部を放棄。
2.26 レアード米国防長官が記者会見。「ラオス介入」の目的は,共産勢力と闘うラオス政府軍の支援ではなく,ベトナムの立場を守ることだけにある。ラオス政策は基本的に変っていない。地上兵力がラオスで戦っている事実はない。
2.27 ショロンの中国人街に潜入した解放戦線部隊が警察部隊と銃撃戦。サイゴンのフーラム地区でも政府軍と交戦。ほか市内2カ所でテロ攻撃。
2.28 愛国戦線党中央委員会,ジャール平原=シェンクワン地区を全面的に奪回したシェンクワン州軍民の大勝利を称賛する声明を発表。
2月 米上院、軍の国内情報活動に対する聴聞会を開催。レアード国防長官は国内情報活動の停止を命令。
70年3月
3.04 ダニエル・デ・ルースAP特派員が第一報。ハイフォン港は再建用機械を満載した外国船で埋まっている。製造国と輸送国はソ連,中国,東欧諸国が多い。
3.05 周恩来総理がハノイを訪問。共同声明で「最大の民族的犠牲を払うのを惜しまず全力をあげて支援する」意向を表明する。
3.06 ラオス愛国戦線,スファヌボン議長のプーマ宛てメッセージとして、5項目の政治解決案を提案。米軍の完全撤退,臨時連合政府の樹立と総選挙施行などを柱とする。北ベトナム政府はこれを全面支持。米政府も提案を原則的に支持する。プーマはこれを拒否。このあと具体的会談は行なわれず,書簡往復による接触にとどまる。
3.06 ニクソン大統領,ラオスについて声明を発表,北べトナムがジュネープ協定に違反しラオスに侵攻していると非難。米空軍がラオスの戦闘に参加していることを明らかにする。ニクソンは「ジュネーブ協定の共同議長団である英ソ両国首相に書簡を送り,ラオスの中立平和を確立するための努力を要請した」と発表する。
3.06 キッシンジャー大統領補佐官、「ニクソンが第1期の大統領任期を終了する前に、ベトナム和平を達成する」と言明。「我々にはベトナム化と交渉という2つの道があるが、交渉のほうを進めたい。そのほうがより早く,より信頼できる方法だからである」と語る。
3.07 サイゴン紙、“南ベトナム共産党中央本部”が南ベトナム全土を解放する戦略をきめた「第13号決議」を採択したと報道。
3.07 サイゴンの新聞行動委員会,新聞用紙値上に抗議し取材拒否に突入。3日後に政府は値上げ案を撤回する。
3.10 サイゴンの国立「カオタン工業学校」の学生約2000人、授業料有料化に抗議して市内各所で座り込み。
3.11 ズン・バン・ミン将軍、平和再建のためあらゆる宗教団体の団結を呼びかける。
3.16 ダナン空軍基地で米大型偵察機が墜落し,乗員22人が死亡。
3.16 サイゴン警察、解放戦線の秘密学生組織を摘発,フィン・タン・ナムサイゴン学生連合議長代理ら学生39人を逮捕。この組織は「首都解放学生グループ」と呼ばれ、サイゴン学生連合の運営を握り、チュー政権打倒を目指していたとされる。21日には別の組織を摘発し、解放戦線スパイ14人を逮捕。
3.17 ソンミ村虐殺事件に対する軍事法廷が開かれ、関与した兵士14人が殺人罪で起訴される。
3.18 ラオス政府軍,サムトンを撤退。
3.20 パテト・ラオ特使,プラジト・チャンパン(Pradith Thiangpang)大佐,ICC機でビエンチャンに到着する。
3.21 サイゴンの米軍司令部,過去11日間に米軍機7機がラオス上空で撃墜されたと発表。
3.21 タイ軍、2個大隊をロンチェンに増派する。愛国戦線党中央委員会はタイ軍の介入を非難する声明を発表。
3.22 サイゴン北西方11キロの仏教寺院で、手投げ弾が投げ込まれ,14人が死亡。
3.24 サイゴン大学医学,薬学両学部の学生約4000人は多数の学生の逮捕に抗議して,3日間のストに入る。教育・理学・史学3学部の学生約7000人もストに参加する。
3.26 海兵隊第五師団がベトナムを撤退。4月には第一歩兵師団も撤退。
3.26 米軍機,ロンチェンを攻撃。
3.26 プーマ首相がスファヌボン議長にメッセージ。米軍によるラオス全土の爆撃停止要求を拒否。
3.27 ラオス政府軍,サムトン基地から16キロのプーファサイ駐屯地を奪回する。バン・パオ将軍のメオ族ゲリラ部隊はサムトン基地を一望におさめる多数の丘陵を奪取。
ロン・ノルによるクーデターとカンボジア侵攻作戦
3.08 シリク・マヌク首相代理,南ベトナム解放民族戦線に米などの農産物を多量に売却したと公表。発表そのものが解放戦線に対する反感をあおる目的と思われる。
3.11 プノンペンで、政府に動員された数千人のデモ隊が北ベトナム、臨時革命政府大使館を襲撃。内部に侵入する。
3.11 シアヌーク元首は,「カンボジアの国益と評判をそこない非常になげかわしい事件。社会主義諸国との友好関係を破壊し,外部の資本主義,帝国主義勢力に祖国を売ろうとした連中の組織的工作だ」と非難。
3.12 シリク・マタク第1副首相,ベトナム解放勢力を激しく非難する声明を発表。
シリク・マタク発言の要旨: 襲撃事件は解放戦線に対する民衆の正当な怒りの発露である。両大使館に遺憾の意を表明したが,同時にカンボジアを尊重するようもとめた。南ベトナムの解放戦線との通商協定は一時停止する。カンボジアは中立を保持するが、脅威に対しては自衛する決意である。このため地上軍を10万人に増員する。
3.12 シアヌーク元首、「政府や国会の内部にいる者」が事件を操っていると非難。ソ連・中国に中立政策への支持を訴える。
シアヌーク発言の要旨: @極右指導者たちはカンボジアを第2のタイ,南ベトナム,あるいはラオスにしたいと望んでいる。A共産主義者は極右が権力を握る口実を与えるべきではない。北ベトナムや解放戦線はカンボジアから出ていくべきだ。B予定を早めて帰国する。極右と私自身との対決は十分ありうる。クーデターも起こりうる。
3.13 国民議会と王室議会は、デモ隊の行動を支持する決議を採択。
3.13 カンボジア政府、北ベトナムと南ベトナム臨時革命政府に、兵力の撤退を要求。
3.14 シアヌーク元首,モスクワでコスイギンソ連首相と会談。中立政策への支持を求める。ソ連は冷たいあしらい。
3.15 クーデターが発生する。暫定指導部はチエンヘン国民議会議長(元首代行),ロン・ノル首相兼国防相,シリク・マタク第一副首相の3人で構成される。
3.18 カンボジア領内の聖域保全が不可能とみた北ベトナムは,北京滞在中のシハヌーク殿下を支持し、実力により聖域・補給路を確保する方向をとる。
3.18 ロン・ノルの圧力を受けた国会は、シアヌーク国家元首の解任と王制廃止、共和制施行を議決。ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立と「クメール共和国」への改名を宣言する。北ベトナム、臨時革命政府大使館は閉鎖される。
3.19 米国、カンボジアの新政権を承認。
3.19 シアヌーク殿下、モスクワから北京に到着する。
3.19 北京放送、カンボジア政変は無効であると声明。「アメリカのラオス・カンボジアへの介入を座視しない」と宣言。
3.20 ロンノル、領内の北ベトナム軍とクメールルージュへの攻撃を開始する。
3.20 米国と日本の両政府、カンボジア新政権を承認することを示唆する。
3.20 米国、ラオスでの戦闘にタイ軍が参加していることを初めて認める。
3.21 チエンヘン国会議長が公式に国家元首に就任。コンッチ前陸軍情報局長とチンホアン議員がそれぞれ国家保安相と情報相に就任。
3.22 新政府,シアヌーク派の入国を禁止する。入国を禁止された人物はシアヌーク殿下夫妻 ペンヌート元首顧問(前首相) ニエク・チュ・ロン前王国軍総司令官 ズオン・サム・オン前軍総監(元国防相)など。
3.23 シアヌークは北京でFUNK(カンボディア民族統一戦線)の結成を発表。
3.23 北京を訪れた北ベトナムのフアン・バン・ドン首相がシアヌークと会見し、支援を表明する。
3.23 シアヌーク殿下、北京で国民向けアピールを発表。@王国憲法に違反したロン・ノル政府と2つの議会を認めない。A新しい民族団結政府を成立させ、カンボジア社会各界の代表からなる臨時協商会議を召集する。B「カンボジア民族統一戦線」を結成し、民族解放軍を創設する。Cインドシナ人民とともにアメリカ帝国主義とたたかう。
3.24 新政府,18カ国駐在公館を維持確保したと発表。
3.26 南ベトナム臨時革命政府は,シアヌーク殿下が23日に明らかにした救国闘争を全面的に支持する声明。
3.26 北ベトナムと革命政府の両大使館員,プノンペンから引き揚げ。駐プノンペン中国大使はサムバウル新外相との会見を拒否する。
3.27 米国務省,米軍がカンボジア国境を越え戦闘を拡大することに反対すると表明。実際にはすでにカンボジア領内で作戦を開始していた。
3.27 米軍と南ベトナム軍、ロンノルの許可を得てカンボジアに侵攻。カンボジア領内の解放戦線の根拠地を襲撃する。(本格的な侵攻は5月以降)
3.28 クメール・ルージュにシアヌーク派民兵が加わり、ロンノル政権への反撃を開始。はやくもロンノル政権は窮地に追い込まれる。
3.28 ジーグラー米大統領報道官、南ベトナムの米軍は,必要ならば米地上軍を両国内に進攻させることが出来ると語る。
3.29 解放戦線,タイニン省の米第1空輸機甲師団第1旅団の火砲陣地(カンボジア国境から6キロ)を攻撃。米軍によると米軍の死傷43人、解放勢力の死者は74人に達する。
70年4月
4.03 新政府,中国がシアヌーク前国家元首を支援し、カンボジアの内政に干渉していると非難する。
4.06 ウタント国連事務総長,カンボジア新政府代表を国連代表とみなすと表明。
4.07 周恩来、シハヌーク支持を言明。
4.09 ベトナム解放勢力がスバイリエン州の国境地帯でカンボジア新政府軍を攻撃。新政府軍は国境地帯から撤退する。(当初の実体はベトナム人部隊そのものと思われる。後にポルポトのクメール・ルージュも比重を高め、プノンペン包囲戦では主体となる)
4.09 カンボジア政府軍、ベトナム系住民90人を収容所内で虐殺。15日にはメコン川に400人のベトナム系住民の死体が浮かぶ。
4.14 南ベトナム政府軍とロン・ノル軍がカンボジア領内で共同作戦。このあと南ベトナム政府軍の越境侵入が日常化する。
4.15 ロン・ノル首相,「1840年にクメール人が一斉に決起し,数千人のベトナム人支配者を殺し,国を解放したときのように、ベトナム人を追い出そう」と放送する。
4.15 米政府,政府軍部隊の越境攻撃を見合わせるよう南ベトナム政府に警告する。
4.16 政府軍,タケオ州の5陣地を放棄し全面撤退。
4.17 ロンノル軍によるベトナム人集団虐殺が明らかになる。ショロン地区で数百人が抗議のデモ。アンクワン寺派の学生200人も別個にデモ。
4.18 軍当局,「カンプチア統一戦線」(ベトナム解放勢力)がタケオ州の首都を包囲したと発表。一部はプノンペンまで35キロの地点に進撃する。
4.18 政府軍機甲部隊1万人が,「オウムのクチバシ」地区でカンボジアに越境し攻撃を開始する。2日後にはさらに5千が、メコンデルタ西部のホング、ツエンビンから侵入。
4.21 レズアン書記長、インドシナ統一戦線の構築を発表。
4.22 カンプチア統一戦線,各地で政府軍兵士に対してパンフレットを配布。個人の利益を一時犠牲にして,カンプチア統一戦線に参加するよう要請する。
4.22 ニクソン米大統領,カンボジア情勢に対処するため国家安全保障会議を招集。
4.24 サイゴンで大学生約300人が,ベトナム人虐殺に抗議し旧カンボジア大使館を占拠。
4.24 中国の提唱でインドシナ人民首脳会議が開催される。会議は「中越国境地帯の某所」で持たれ、「国家の解放と防衛はその国の人民の問題である」という原則、要請に従って相互支援を行うことで合意。
4.24 ジーグラー米大統領報道官,「カンボジア領内での北ベトナムおよび解放戦線の活動は,中立国に対する国外からの侵入であり,いかなる意味においても内戦とは認められない」と言明。カンボジア侵入作戦の合理化を図る。
4.25 インドシナ人民首脳会議開催
4.26 南ベトナム政府使節団,プノンペンに到着。
4.26 ニクソン、カンボジア領内での作戦開始を命令。ロン・ノル新政権はこれを黙認。
4.29 南ベトナム軍、これに引き続きアメリカ軍がカンボジア領内に侵攻。「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断をめざす。
カンボジア侵攻計画の柱: アメリカ軍3万5千人と南ベトナム軍2万5千人が、四方向からカンボジアに進攻。@サイゴン西方の「オウムのくちばし」(Parrot's Beak)地区には南ベトナム軍を主力に1万5千名、Aアンロク北部の「釣り針」(Fish Hook)地区には第一騎兵師団を中心にアメリカ軍約2万名と南ベトナム軍5千人、B中間にあたる「聖域」地区には南・アメリカ軍合計6千名、Cさらに上流のカンボジア領内には南ベトナム軍を主体に3万人。これに加え、南政府軍の舟艇隊とMRFが400隻の軍用艇を投入してメコン川を遡行。解放戦線の拠点を攻撃。
4.30 ニクソン、「カンボジア領内の共産側聖域攻撃のため、越境攻撃を命令した」と発表。カンボジア侵攻声明は抗議運動に火をつける。街頭行動は燃え広がり、下院でも議論が沸騰する。
70年5月
5.01 南ベトナム軍に続き米軍三個師団が侵攻。60日間続いたビンタイ(西部平定)作戦で、北ベトナムの補給基地が摘発され、3万の大型兵器、1千600万発の銃弾、食料などが押収される。解放勢力の兵士は多くがメコンをわたり逃亡するが、1万人以上が殺される。
5.01 シアヌーク殿下,中国の毛沢東,林彪両首脳と会見。
5.01 フランス,カナダ,スウエーデン、インド各政府,米軍のカンボジア進攻について遺憾の意を表明。コスイギン・ソ連首相,米国のカンボジア進攻と北爆再開を非難。
5.03 米軍,ミモト(Memot)に基地建設。
5.04 米軍特殊部隊所属のカンボジア人部隊2千人以上がプノンペンへ到着。
5.04 カンボジア解放軍,メコン川東部全域を制圧。
5.04 「カンプチア民族統一戦線」と「王国民族連合政府」が樹立される。シアヌークが政府議長、シアヌーク側近のペン・ヌートが民族統一戦線議長と政府首相を兼ねる。クメール・ルージュを代表するキュー・サムファンが国防相に就任。
主な幹部の顔ぶれ: 民族統一戦線の政治局員はチャウ・セン、フー・ニム、フー・ユオン、チア・サン、ズオン・サム・オル少将、サリン・チャク、フート・サンバート、チャン・ヨーランらの名前が挙げられている。このうちフー・ニム、フー・ユオンはクメール・ルージュ。チャウ・センは一時共産主義に近かったが、クメール・ルージュではないと思われる。ポルポト、イエン・サリらカンボジア共産党の幹部は、この時点では表に顔を出していない。
5.04 シアヌークが「カンボジア王国民族連合政府」(GRUNK)の成立を宣言。中華人民共和国は直ちにこれを承認。カンボジア北西部では、シアヌーク派を傘下におさめたクメール・ルージュが急速に勢力を拡大。
5.05 ニクソン米大統領,米軍はカンボジア国境から30キロないし35キロ以上には進攻しない,また現在越境作戦に従事している米軍は6月末までに撤退させると言明。
5.06 南ベトナム軍とアメリカ軍、放棄されたベトナム人民軍の訓練キャンプを発見。大量の補給品を捕獲する。人民軍B3戦線司令部は直接戦闘を避ける指令。
5.06 南ベトナム政府,プノンペンに常駐代表部を開設
5.06 南ベトナム臨時革命政府,カンボジア王国民族連合政府を承認。
5.07 カンボジア領内の解放区で、民族統一戦線の指導の下に人民団結抗戦運動の代表者会議が開かれる。キュー・サム・フアンが東部代表兼愛国武装勢力代表として指導。他に西北部代表としてフー・ユオン,西南部代表としてフー・ニムが参加。他に人民派代表、農会代表、労働組合代表、民主青年同盟代表、民主婦人協会代表、知識人・教授・教師代表、タイ族など少数民族代表、仏教界代表などが参加する。
5.07 新政府,駐カンボジア中国大使と大使館全員の出国を拒否。
5.08 米軍と南ベトナム軍、カンボジア領内に侵攻。圧倒的な兵力を背景に機動作戦を展開。解放戦線拠点に甚大な損害を与える。ニクソンは、派兵は短期にとどまり早期に撤兵すると表明するが、実際は60日に及ぶ長期の作戦となる。
カンボジア侵攻作戦の結果: 米・南ベトナム連合軍は、2万8千点以上の各種兵器、1600万以上の弾薬、6千トンを超す食料、その他1万1千トンの軍需品を押収する。
北ベトナム軍と解放戦線の戦死者は10,721名、捕虜は1,216名にのぼる。大量の武器・軍需品を奪われた解放戦線の正規軍4個師団は、直接戦闘が不可能となる。これに対してアメリカ軍は戦死243名、負傷者931名、南政府軍は戦死575名、負傷者2,367名にとどまる。
ただしベトナム戦争末期には米国側の発表も誇大となっている。一説(捕虜の証言)では、解放勢力はサイゴンのスパイから攻撃の情報を受けており、主力は脱出に成功したといわれる。5.08 カンボジア解放軍,プレイベン州都を包囲。(プレイベンはオウムのくちばし地区とプノンペンを結ぶ中間に位置する平原地帯で解放戦線の勢力範囲)
5.08 チュー大統領が記者会見。「ベトコン基地を撃破するためカンボジア進攻を命令した。カンボジアに無期限にとどまる考えはないが,撤退の期限を定めてはいない」と述べる。
5.12 シアヌーク殿下,カンボジア民族解放軍に特別メッセージ。スバイリエン,プレイベン,タケオなど多数の州,都市部に政治組織が創設された。解放軍はプノンペンを包囲,いつでもこれを奪取できる状態にある。私は現地でゲリラ活動を指導中のキュー・サムフアン国防相,フー・ヨーン内相,フーニム情報相にカンボジアのすべての行政を委任した。
5.12 コスイギン首相,カンボジアの愛国勢力の解放闘争への支持を表明。ソ連は闘争の進行を前に態度変更を迫られる。
5.14 米・南ベトナム軍が西部平定作戦の第二次行動。武器と数トンの弾薬、医療補給品を発見。人民軍との直接交戦はなし。
5.14 南ベトナム政府軍スポークスマン,クーデターの2日後にカンボジア進攻作戦を開始していたことを明らかにする。(このような事情があるため、報道の日時と実際の日時がずれていたり、重複している可能性があります)
5.16 クリフォード前米国防長官。ライフ誌上でカンボジア進攻を批判。マンスフィールド上院議員,米軍の進攻は失敗と語る。
5.18 プラウダ論文、中国の人民戦線方式はアジア・アフリカ諸国での革命運動に大きい損失をもたらしたと非難する
5.19 カンボジア解放軍,北部ストンチエン市を完全に制圧。
5.19 ペンヌート民族連合政府首相,国土の4分の3を解放したと言明。
5.20 西部平定作戦の第三段階が開始される。米1千トン以上を破壊するが、人的損傷を与えることは不可能のまま終わる。
5.21 キ副大統領、「米軍がカンボジアから撤退すれば,南ベトナム軍も撤退すると考えるのは間違いである」と演説。
5.20 毛沢東、カンボジアに対し長期自力抗戦を呼びかけるメッセージを発表。
5.22 カンボジア民族解放軍が戦果を発表。数百のゲリラ組織を結成し、米軍約2000人を含む2万4000人の敵部隊を掃討,解体,1万以上の武器,数百台の軍用車,600トンに及ぶ弾薬,軍需品を捕獲した。また,全土で40以上の郡都を解放した。
5.22 レアード米国防長官,米軍がカンボジア領内から引き揚げたあと,南ベトナム政府軍がカンボジアに残るかどうかは拘束すべきでないと言明。
5.24 シアヌーク殿下、ハノイを訪問。
5.27 南ベトナム政府軍1万,カンボジアのタケオ付近で新作戦を開始。タケオはプノンペンの南方100キロ、ベトナム国境近くのメコン河沿いの町。
5.28 南ベトナムとカンボジアが国交を回復。共同コミュニケでベトナム軍は任務完了までカンボジアに残留することを明らかにする。
5月末 ソ連、カンプチア民族統一戦線への支持を表明。カンボディア駐在大使を帰国させる。ロン・ノル政権との外交関係は維持。
70年4月
4.01 解放戦線,4日間にわたりベトナム全土49ヶ所で一斉攻勢。解放戦線は、この時点で主力軍12個師団と2個の予備師団を編成していたとされる。
4.02 解放戦線,前日に引き続き77カ所を砲撃。
4.02 レアード米国防長官は,北側が米軍攻撃を強化すれば,北爆再開ありうると言明。
4.02 マサチューセッツ州で“反戦法”が成立。同州出身の兵士たちは、戦闘任務につくのを拒否することが出来るとされる。
4.03 解放戦線,メコン・デルタ北部およびカンボジア国境付近の政府軍,米軍陣地60カ所を砲撃。
4.03 解放戦線,北東部沿岸のタムキから約17キロの政府軍陣地2カ所を奪取。
4.03 ビエンチャン政府側がパテトラオに対抗して和平提案。
4.04 ワシントンでベトナム戦争を支持する1万5000人のデモ。
4.05 プレイクで、米軍ヘリコプターが政府軍部隊をロケット機関銃で誤爆。兵士10人が死亡,30人が負傷する。
4.06 解放戦線はラオスとの国境にある米軍特殊部隊基地を包囲。緊急補給物資を投下しようとした米軍輸送機3機を撃墜する。
4.06 サイゴンの米軍司令部,米海軍の戦闘爆撃機2機がラオス南部上空で撃墜されたと発表。
4.07 プーマ首相,タイ人が志願兵としてラオス戦争に加わっていることを認める。
4.10 北ベトナム軍、非武装地帯の南16キロの米軍特殊部隊基地マイロクを攻撃。米軍6人,山岳部族兵21人が死亡する。
4.10 米輸送機C−130がビエンチャン北方100キロの山上に墜落。
4.11 パテト・ラオ,サバナケット東方100キロのタンバイ飛行場を攻撃し一時占拠。
4.12 解放戦線,全土にわたって42カ所を砲撃,ラオス国境のダクペク特殊部隊基地に攻撃。
4.13 解放戦線、サイゴン市内を砲撃。一発が劇場に命中し41人が死傷。
4.13 解放戦線,プレーク北方8キロの政府軍レインジャー部隊の家族キャンプを奇襲,83人が死傷する。
4.13 第3次撤退計画が完了。米軍兵力は41万9200人となる。
4.13 米国知識人からなる代表団がハノイを訪問。メンバーはノーム・チョムスキー、ダグラス・ダウド(コーネル大学経済学教授)など4人。
4.13 政府軍、パテト・ラオの攻撃を受けムオン・ファランから撤退。
4.15 ニューヨークの反戦デモに2万人が参加。
4.16 解放戦線ゲリラが,南ベトナム大統領の官邸をロケット砲撃。
4.19 米議会のラオス聴聞会証言記録が発表され、以下の点が明らかになる。@64年以来,米大使が事実上共同軍司令官の役割をはたし,爆撃作戦,軍事援助などを一手に握ってきた。Aラオス在住の米軍関係者は数万にのぼり、ニクソン大統領が発表した約1千人よりもはるかに多い。
4.20 ニクソン、第4次撤兵計画を発表。この1年間でさらに15万人を撤退、撤退計画が完了すれば駐留米軍は28万人にまで縮小されるだろうと述べる。
4.20 臨時革命政府のビン外相,フランスが提案したジュネーブ会議案を拒否。
4.20 民族民主平和勢力連合が結成2周年にあたりアピールを発表。サイゴン政権の打倒と平和内閣の樹立のため,すべての愛国的,民主的人士と共同行動をとると声明。
4.21 レ・ジュアン第1書記、モスクワのレーニン生誕百年祭に出席。「反帝闘争を成功裡に遂行するためには,社会主義諸国および兄弟党が団結と統一を回復し強化することが必要である」と訴える。
4.22 北ベトナム、フランスのインドシナ問題に関する国際会議の提案を拒否。
4.22 パテトラオ通信が米軍の爆撃について報道。B52を含む米空軍機が過去1ヶ月で1万8616回にわたって出撃,ナパーム弾,ボール爆弾などを大量に投下,多数の住民を殺傷した。
4.23 ラオス領内およびラオス・カンボジア国境近くの2カ所で,共産軍により米機6機が撃墜される。
4.26 解放戦線特攻隊,サイゴン北方約50キロの米砲兵陣地を爆破。米兵16人が死傷。
4.30 ベトナム解放勢力、南部ラオスのアトプーを占拠。カンボジアへの補給路の強化をめざす。
4.30 パテト・ラオ,アトプーを占領。
70年5月
5.01 米軍機が1年半ぶりに北爆を再開。3日間で120機が参加。レアード国防長官は、北ベトナムが非武装地帯を攻撃するなら、北爆を本格的に再開すると述べる。
5.01 ニクソン大統領、反戦学生を「キャンパスを汚す浮浪者」と呼ぶ。これは全国の学園闘争に火をつける。
5.02 米軍機約100機,非武装地帯北側を激しく爆撃。
5.02 ベトナム民主共和国政府声明。「米国が,ベトナム,ラオス,カンボジアを侵略するならば、3国人民はインドシナ人民首脳会議の歴史的な呼びかけを実行して,完全な勝利をかちとるまで断固として戦闘を推し進めるだろう」と述べる。
5.02 レアード米国防長官,北軍の浸透激化すれば北爆全面再開ありうると警告。
5.02 マクガバン、ハットフィールドら上院議員4人が、インドシナへの戦費支出を停止する「戦争終結法案」の提出を目指す。
5.04 オハイオ州の州立ケント大学で学生がベトナム反戦デモ。学内に侵入した州兵の発砲により、女性をふくむ学生4人が射殺され、9人が負傷する。抗議の動きが強まる中、全米で230の大学(一説に400以上)が一時閉鎖される。
5.04 レアード米国防長官、米下院軍事支出分科委員会で証言。米軍が数回にわたりラオスに越境し,89時間程度北ベトナム軍と交戦したことを明らかにする。戦況で米軍の安全がかかっている場合は,米軍の損害を予防するという“防衛的対応”方針に従うとする。しかしラオス領内の敵の聖域を破壊することについては議会の禁止決議がある以上,議論の対象になる。
5.05 解放戦線,ダナン西北180キロのヘンダーソン米砲兵基地を砲撃。米兵29人が死亡,31人が負傷する。8日にはダナンを砲撃,死傷25人。
5.05 アンクワン寺派と国寺派約700人が、ショロン地区で衝突。死者6人を出す。
5.06 サイゴンで解放戦線による砲撃が頻発。1週間で450人の民間人が死亡する。
5.07 解放戦線,プレークの米軍基地を連続砲撃。将校クラブなどが破壊される。
5.09 ワシントンでカンボジア侵攻に反対し、ケント州立大学生射殺に抗議する集会。十人の議員をふくむ8万人が参加する。参加者はリンカーン記念堂を中心に政府系ビルを取り囲み座り込みに入る。このほかシカゴで1万5000人、ロンドンで1万人、西ベルリンで8千人が集会とデモ。
5.09 ホワイトハウス高官筋,「米国は北ベトナムの侵攻に対しては断固として対抗措置をとるが,いかなる場合でも核兵器を使うようなことはない」と言明する。
5.10 解放戦線,ホー大統領の第80回の誕生日を機に、「5月を堂々たる勝利の月とするため,全戦線で攻撃を強化せよ」との呼びかけを発表。
5.10 レ・ジュアン第1書記、ソ連訪問の帰途北京を公式訪問。毛,林をはじめ中国の党と政府首脳と会見。
5.10 パリで20万人が,ベトナム戦争と米軍のカンボジア侵入に抗議してデモ。
5.11 解放戦線,ダラトの警察訓練センターをロケット砲撃、23人が死亡。中部高原コンツム省のダクペク特殊部隊基地を攻撃。
5.12 解放戦線,大統領官邸を砲撃。
5.12 パテト・ラオ,ボロベン高原の4つの政府軍駐屯地を占領。サラバンに迫る。サラバンの軍人,官吏,政治家の家族2400名は米軍輸送機に乗り撤退。2万人に及ぶ一般住民はそのまま留まる。
5.13 陸軍工兵隊司令官ジョン・A・B・ジラード少将を乗せたヘリコプターが,プレーク南西16キロの上空で解放戦線の対空砲火で撃墜される。ジラードほか乗員全員が死亡。
5.15 ミシシッピ州のジャクソン州立大で、ベトナム戦に黒人ばかり派遣される事に反対するデモ。警察が発砲し黒人学生2人が射殺される。(これは知りませんでした。J.メレディスの入学事件で有名なミシシッピ大学はオクスフォードにあり、これとは別の大学です。他にもミシシッピ州立大学があり、大変紛らわしい)
5.18 南ベトナム政府のラム外相,政府軍地上部隊がラオス領内のホー・ルートを攻撃していることを明らかにする。
5.18 中国共産党,ホー大統領生誕80周年記念に祝電。「中国人民はわれわれの偉大な指導者毛主席の教えを守り,ベトナム,カンボジア,ラオス人民の強固な後ろだてとなることを誓う」と表明。
5.19 解放戦線,61カ所を砲撃。
5.21 チュー大統領,国会に対して「経済,財政に関する非常権限法案」を提出。5カ月間にかぎり一定の経済政策の立案を法律によらず政令で実施出来るようするもの。
5.24 B52爆撃機、5日間にわたり非武装地帯を集中爆撃。
5.24 パテト・ラオ通信、米のラオス爆撃が1日3千トンに達したと報道。
5.25 中国と北ベトナム、新軍事援助協定に調印。
5.25 ハリマン元パリ会談米首席代表,米下院外交委員会で証言。ベトナム化政策は戦争を長びかすだけである。米軍の全面撤退の時刻表を作るべきだと述べる。
5.26 レアード国防長官、南ベトナムからの第4次米軍撤退は,少なくとも7月までは開始しないと語る。
5.26 B52をふくむ米軍機の大編隊が、非武装地帯の北側の村落を激しく爆撃する。
5.27 解放戦線奇襲部隊,サイゴン市内で警官隊と交戦,警官3人が負傷。
5.29 サイゴンで学生数千人が反政府デモ。
5.30 解放戦線がダラト市に進入。政府軍とのあいだで市街戦となる。24時間後に撤退。
5.31 急進派の仏教徒2千人が、ベトナム戦争の拡大に抗議して全国でハンスト。
5.31 ニクソン大統領,インドシナ情勢について軍首脳と協議。エイブラムズ司令官も参加。
70年6月
6.01 カンボジア全土に戒厳令が施行される。
6.03 ニクソン、カンボジア作戦が勝利に終わったと声明。カンボジアからの月内撤退を確認。北ベトナム軍、カンボジア領内から撤退。南ベトナム国境地帯から追われた解放勢力は、プノンペンに向け進攻を開始する。
6.03 北ベトナム軍がクアンチ省の政府軍基地を攻撃,政府軍は死者36人,負傷者54人を出す。
6.04 解放戦線,71カ所を砲撃。
6.05 革命政府樹立1周年。解放通信は,これまで42の省と都市,150の県と省都,1500以上の村に人民革命権力を樹立し,また同政府は47カ国と関係を樹立したと発表する。
6.07 カンボジア解放軍,シエムリエプの空港を一時占領する。
6.07 ハンナAID(米国際開発局)長官、ラオス援助計画がCIAのラオスでの活動をカムフラージュするのに使われていることを認める。
6.08 ウタント国連事務総長,アンコールワット遺跡の保護を呼びかけ。政府軍は,アンコール・ワット遺跡周辺を,“無防備地区”と宣言。事実上カンボジア解放軍の聖域となる。
6.08 パテト・ラオとラオス愛国中立派がサムネワで特別会議を開く。スファヌボン議長が政治報告。
6.09 パテト・ラオ,一個大隊でサラバンを攻撃。住民や政府軍数個部隊の反乱を得て奪取に成功。サラバンは政府軍がラオス南東部で確保していた最後の州都だった。
6.09 パテトラオと北ベトナム軍、ラオス南部のサラワンを占拠。メコン川へのアクセスを確保する。
6.10 カンボジア解放軍、国道4号線を初めて攻撃する。4号線は一時通行不能となる。
6.11 解放戦線,クアンナム省のホイアン南西10キロの政府軍基地を攻撃,ほか43カ所を砲撃。
6.11 アンクワン寺派のチェン・ラト師,政府の政策に抗議するとともにベトナム和平を訴えて焼身自殺。
6.12 南ベトナム政府軍、この5週間に,政府軍の戦死者3326人,負傷者8500人,米軍の戦死者811人,負傷者4970人であったと発表。共産側に与えた損失は死者1万7952人となっている。(えらく素直な発表ですね)
6.12 スファヌボン議長がプーマ首相あてのメッセージ。3月に示した5項目提案を再確認し、米軍による爆撃が停止されれば,関係各党派と会談する用意があると表明。
6.13 パテト・ラオ,南部の政府軍拠点ムンラパモック(Mounlapamok)を占領。
6.14 ラオス政府軍,ビエンチャン北西約290キロのメコン河岸のパクコプ(Pakkhop)を奪回。
6.15 カンボジア解放軍、国道4号線に続いて5号線も遮断。プノンペンへの主要ルートを実質的に遮断。
6.15 サイゴンの学生約600人,政府の学生弾圧に抗議して警官隊と衝突。
6.22 米軍、ジャングル地帯での枯葉剤の使用を停止する。
6.22 政府軍はラオス南部サラバン地区で保持していた最後の拠点ノンブア(サラバン東方15キロ)を放棄する。この結果,サラバン,アトプー両州はほぼパテトラオの制圧下に入る。
6.23 米海軍,273隻の戦闘用舟艇をベトナム海軍に引渡す。
6.23 南ベトナムおよびアメリカ軍が西方作戦からの撤退に入る。分散した兵士の集結と救出作戦が展開される。
6.24 米上院,トンキン湾決議の廃棄を可決。
6.25 サイゴン・ショロン地区の労働組合連合,「経済,財政に関する非常権限法案」の強行採決と労働者の解雇に抗議して無期限ストに突入。124組合,約4万人の労働者が参加する。
6.25 カンボジア政府、18歳から60歳までの男女に総動員令、兵役または奉仕を課す。
6.26 ラオス政府軍,ホーチミン・ルートを見下す位置にあるプーカラ山を奪回。プーカラ山はサラバンから東南10キロ、米軍のレーダー・ステーションがありラオス南部で最も重要な戦略拠点の一つ。
6.27 カンボジア政府軍,北東部のラタナキリ,モンドルキリ,クラチエ,ストンチエンなど4州を放棄する。
6.27 チュー大統領,政府軍は米軍のカンボジア撤退後も残留すると言明。
6.28 南ベトナム政府軍と解放戦線,カンボジアのプレイベン=コンポンチャム間で衝突。
6.28 ロン・ノル首相が記者会見。「カンボジア軍は依然として強化途上にあるが兵器の不足に悩んでいる。引き続き米軍の爆撃による支援、場合によっては再介入も希望する」
6.29 民族連合政府の国防省が、全解放武装勢力に「プノンペン政権の基地,中枢センター、交通路に全面攻撃をかけるよう」指令。
6.29 アメリカ軍、カンボジア領内からの撤退を完了。この作戦で米兵35人が戦死。一説ではカンボジア侵攻から2ヶ月で、米軍の戦死者339人,南ベトナム軍の戦死者866人に達した。米軍は解放勢力に対する空爆作戦を強化。
6.30 ラオス国会、プーマ首相の「中立政策」に対する信任投票を行なう。信任25,不信任5,棄権8。17議員は抗議のためボイコット。
6.30 米上院、64年のトンキン湾決議を廃棄。米軍のカンボジア介入を禁止するクーパー・チャーチ決議を採択。ニクソン米大統領、カンボジア作戦の正当性と成果を強調し、空軍による支援は続けると言明。
70年7月
7.01 ニクソン大統領、半年のあいだ空席となっていたパリ和平会談の新首席代表にブルースを任命。
7.01 カンボジア軍兵士1万人をベトナムで軍事訓練する計画が開始される。
7.01 ロンノル政権、青年・インテリ層,軍部の支持の下に内閣改造をおこなう。
7.02 解放戦線,ユエ北部の米101空てい師団の前線基地を攻撃,米軍側は8人の死者,4人の負傷者を出した。
7.02 プーマ首相、スファヌボン愛国戦線議長に返書。ビエンチャン北東約180キロのカンカイ(ジャール平原)で交渉を開始するよう提案する。
7.02 ポンピドー・フランス大統領、「諸大国はインドシナの不幸な人民を関係のない抗争に巻き込むことをやめるべきだ」と述べ,米軍の全面撤退と中国を含む関係国による国際会議を主張する。また「フランスはシアヌーク殿下との関係を維持している」ことを明らかにする。
7.03 シアヌーク殿下、「われわれは交渉解決に応じるつもりはない。カンボジアのいかなる分割をも拒否する。われわれはベトナムの例にはならいたくない。数カ月以内に乾期が来た時,抵抗運動が本当に爆発するだろう」と述べる。
7.03 民族連合政府のチヤウセン無任所相がインタビュー。「プノンペンを占領するつもりはない。マヒさせれば十分」と語る。
7.03 南ベトナムが軍制改革。地方兵,民兵各20万が正規軍に編入される。
7.04 ロジャーズ国務長官がチューと会談。連立政権について話し合うが物別かれに終わる。
7.04 米政府,南ベトナム軍への援助を発表。肉,魚貝類などのかん詰め食糧4万7300トン(兵士1人当たり月43キロ)を今後1年間に供与し、軍人用住宅10万戸(1億ドル)を今後5年間にわたり建設,供与することとなる。
7.04 北ベトナムの米軍犯罪調査委員会,1970年の上半期に米軍機がおこなった爆撃の内容を発表。
7.05 北ベトナム、本格的に和平交渉にはいるための基本的な3つの条件を提示。@米軍撤退の期日を示すこと、Aチュー政権への支持を撤回すること、B連立政府樹立の原則を認めること。
7.05 カンボジア特別軍事法廷、シアヌーク前国家元首に対して国家反逆罪による死刑を判決。解放戦線,北ベトナム,パテト・ラオ軍の破壊活動を許し、共産軍による領土占領を指導したとされる。
7.06 パテト・ラオ,対空防御が困難なジャール平原より撤退。
7.07 カンボジア駐在の日本大使、「日本人全員の引揚げを検討しなければならない時期に近づいた」とし、退去命令の発動権授与を要請。
7.07 米下院議員調査団により、コンソン島の政治犯収容所「トラのおり」の存在が暴露される。
7.07 ヘルムズCIA長官、米上院外交委員会の秘密聴聞会で証言。「共産軍がカンボジアの大きな部分を支配下に置いている」ことを確認する。(アメリカはカンボジア統治のことなど何も考えていなかった。ベトナム国境からプノンペンまでのあいだの解放戦線の「聖域」を制圧・確保できれば十分と考えていたと思われる)
7.09 米上下両院議員約100人が反戦会議を開催。「明確なベトナム撤兵の時間表を公表することが,撤退を成功させる最善の方法である」と主張する。
7.10 サイゴンの米軍司令部,カンボジア軍訓練のために,100万ドルから200万ドルをあてると発表。
7.11 サイゴン大学で,米,オーストラリア,オランダ,ニュージーランドの代表もまじえて数千人の学生が,ベトナムの平和と米軍の撤退を要求する集会を開催し,警官と衝突。
7.12 アンクワン寺派のチェン・ミン師,@停戦と国際監視下の自由選挙,A人民集会,B民意尊重の3項目からなる和平構想を発表。
7.13 コンソン島政治犯収容所(トラの檻)の存在が明らかになる。米下院の政府活動委員会は,収容所での虐待についての調査を開始。
7.15 ロジャーズ米国務長官,「カンボジア作戦は成功した。共産側は真剣に交渉に応じるようになるだろう」と述べる。
7.15 ケアト・チョン前カンボジア工業相(コンポチャム大学総長),世銀の借款交渉からの帰途,パリでシアヌーク派と会見しシアヌーク派につく。
7.18 約1万の政府軍および米軍が,ダナン南方50〜80キロの山岳地帯で大作戦を展開。解放勢力の駆逐を図る。
7.19 フォンジン省長兼カントー市長のグエン・バン・クオン大佐,解放戦線により射殺される。
7.19 解放放送,「米侵略者との戦争を耐え抜き,勝利への確信を深めよう」と題する論評を発表。
7.19 チュー大統領,「1971年末には,南ベトナム軍は地上戦闘の全責任を持ちうるが,5万人以上の米軍による戦闘支援が必要だろう」と語った。
7.19 クメール・ルージュはバタムバンの東南65キロ,プノンペンに向かう鉄道浴いにあるスウエイドンケプ村を占領。
7.20 ニクソン大統領、「ラオス領内のホー・ルートをはばむ目的で米地上部隊を使用することはない」と言明する。
7.20 解放戦線,サイゴン,ビンロン,クアンチなど16カ所を砲撃。
7.20 パテト・ラオ,会談場所としてカンカイ(ジャール平原)を拒否。
7.21 キエム首相,“トラのおり”廃止令に署名。
7.22 臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相,「連合政府を作る場合,現在の南ベトナム政府関係者を加えてもよい。しかしグエン・バン・チュー大統領,グエン・カオ・キ副大統領は参加させない」と語る。
7.22 ラオス政府、情勢悪化のため南部6省に非常事態宣言を布告。
7.23 米軍、ユエ西方約40キロの砲兵陣地を放棄。
7.23 解放戦線20カ所を砲撃。
7.26 米国紙,政府軍兵士の脱走率が過去3カ月間に急増したと報道。昨年の月平均脱走者数は約8000人であったが,今年5月には1万2000人となる。
7.28 B52爆撃機60機が,ラオス国境地域を爆撃,6000発以上の弾を投下。
7.28 タイ軍2個大隊,ビエンチャン郊外に到着。
7.28 クメール・ルージュ、キリロムを占領。(キロリムはプノンペンからおよそ11キロの高原地帯。避暑地として国立公園となっている)
7.31 チュー大統領、「停戦を含むあらゆる問題で北ベトナム側との交渉に入る用意がある」と言明。
7月 ベトナム解放勢力はカンボジアでの根拠地と補給物資を喪失し、雨期の到来もあり,4カ月間にわたり戦線再構築を迫られる。
70年8月
8.01 カンボジア駐留南ベトナム軍とカンボジア政府軍との間に衝突事件。
8.02 クメール・ルージュ,国道7号と6号の分岐点スターンを占領。
8.03 米空軍,キリロム高原と国道4号線沿いのクメール・ルージュ陣地を爆撃。
8.03 パテト・ラオ特使のスーク・ボンサク殿下、ビエンチャンに入り、プーマ首相と会談。スファヌボン議長からの親書をプーマ首相に手渡す。
8.03 プーマとボンサク、和平交渉の開始で合意。会談場所はカンカイとされ,ビエンチャン側のペン・ポンサワン内相、パテトラオ側がブーン・シプラスート中央委員が交渉団代表となる。
8.03 南ベトナム政府閣僚が,あいついで平価切り下げを主張。
8.04 コンソン島から護送中の囚人300人が、船上で反乱を起こす。
8.05 政府軍の第1,第2歩兵師団と海兵旅団の数千人のからなる部隊が,ラオス国境沿いでいくつかの作戦を平行して展開する。
8.08 解放戦線,25カ所を砲撃,米軍陣地2カ所に地上攻撃。
8.10 シハヌーク派の外交官と留学生がウインとプラハのカンボティア大使館事務所を占拠する。
8.11 南ベトナム国境地帯の防衛活動が、米軍から政府軍の手に引き継がれる。
8.12 南ベトナムでクーデター計画が発覚。空軍副司令官ボー・スアン・ラン准将,機甲部隊司令官ルオン・ブイ・ソン大佐ら野戦将校がクーデター容疑で取調べを受ける。
8.12 カンボジア軍第2軍管区(カムポート州)の軍事裁判所は,大隊長のトム・ラバン中佐に容共罪により死刑を判決。軍幹部まで含め新政府への不服従が広がる。
8.13 南ベトナム政府軍、ラオス領内の解放戦線に越境攻撃。
8.13 ラオス政府の和平交渉代表団の団長にフェン・フォンサバン内相が任命される。プーマ首相は,話合いはきわめて近い将来開始されるだろうと述べる。
8.14 パテト・ラオ,カンカイを会談地とすることに同意。その後交渉はふたたび中断される。
8.15 臨時革命政府のフアト首相が,全土で攻勢を強めるようアピール。
8.17 サイゴンで食堂が爆破され,機動隊員ら17人が負傷。
8.17 パテト・ラオ,米・南ベトナム軍部隊のサバナケット進入についてラオス政府に抗議。
8.18 ラオス政府は,8月上半期の戦況を発表。共産側の死者は250名、ほか92名が帰順。また政府支配地区に6千名の避難民が押し寄せる。
8.20 オーストラリア,南ベトナム駐留の歩兵大隊とその支援部隊を11月上旬に撤退させると発表した。
8.20 米政府,カンボジアに対し5千万ドルの新軍事援助を決定。
8.20 ケンダール州とタケオ州の130村のうち80の村に王国連合政府の委員会が成立。
8.21 カンボジア政府,食糧不足に備え,プノンペン市民に,食糧自給体制を呼びかけ。
8.22 民族連合政府はキュー・サムファン国防相を副首相に任命。クメール・ルージュが支配権を握る。
8.23 カンボジア解放軍、シャム湾のコーコン島に上陸し占領。
8.24 ペンヌート団結政府首相が統一戦線中央委員会に政治軍事報告。「領土の3分の2以上,人口280万を解放した。中央委員会は解放区レジスタンを指導する人々に多くの権限を与える。キュサムファン国防相を副首相に任命,その他数名の次官を任命した」
8.24 B52による非武装地帯への爆撃が行われる。
8.26 米上院,ベトナム戦争での枯葉剤使用を禁じた修正案を62対22で否決する。
8.26 クアンチ省のタムキ南西50キロの砲兵基地で米陸軍のヘリが対空砲火で撃墜される。32人が死亡・行方不明となる。
8.27 プラハ市警察当局,カンボジア大使館を占拠した書記官と学生を実力で排除。
8.28 解放戦線、サイゴン南西約77キロのメコン・デルタで政府軍を攻撃。
8.30 サイゴン,ユエ,ダラト各大学の学生約500人,強制軍事訓練とカンボジア援助に反対してデモ,逮捕者約100人。
8.30 解放戦線,全土で62カ所を砲撃。
8.30 解放戦線,全土で77カ所を地上攻撃,40カ所を砲撃。
8月 ラオス国内で和平への動きが強まる。愛国戦線特使がスファヌボンの親書をプーマに手交。両勢力が交渉代表団を決定。
70年9月
9.01 解放戦線,ダナンの米軍基地を砲撃,輸送機1機と軍用トラック6台を破壊。
9.01 71年末までに米軍の全面撤退をもとめる「マクガバン・ハットフィールド修正」、上院で否決される。
9.02 米軍司令部は,沿岸パトロールの任務を全面的に南ベトナム海軍に引きつぐ。
9.02 スファヌボン議長,交渉団の全権代表として,中央委員のプーン・シパスート将軍を任命。
9.03 労働党中央委員会、ホー・チ・ミンの廟を建設し遺体を永久保存することを決定。
9.03 タイ陸軍,南ベトナムから1万2000人の兵力の撤退を決定。
9.03 カンボジア解放軍、プノンペンへの送電線施設を破壊。
9.04 解放戦線,全土で31カ所を砲撃,ビンヂン省では民間防衛隊訓練センターを地上攻撃し,死者14,負傷者26の損害を与えた。
9.04 アンクワン寺派,71年の大統領選にミン将軍を擁立することを決定。
9.05 最後の米軍による攻勢となる「ジェファーソン・グレン作戦」が、トアティエン省を中心に開始される。
9.08 解放戦線,ダナン南方の政府軍地区司令部を地上攻撃。政府軍34人が死亡,42人が負傷。
9.11 ラオス政府軍,アトプー再突入。
9.15 サイゴン南西約270キロのアンスエン省で米軍ヘリ10機が解放軍によって撃墜された
9.15 カンボジア解放軍,国道6号線付近で政府軍約4000人を包囲。
9.17 第84回パリ和平会議。9カ月ぶりに4首席代表が顔を揃える。
9.17 南ベトナム臨時革命政府のビン代表、「10項目提案の若干の解明」として8項目の和平提案を提示。ニクソンの5月提案に対する回答としての意味を持つ。
8項目提案: 米軍・連合外国軍が撤退を宣言すれば、撤退期間中の安全保障及び捕虜釈放の問題につき検討すると発言。またチュウ,キィ,キエム3首脳を除いた現南ベトナム政権と話合いの用意があると述べる。
9.17 カンボジア北部で米軍のF100戦闘機が撃墜される。
9.23 サイゴン紙,韓国軍がクアンチ省のビンズオン村で100人をこす村民を虐殺と報道。
9.25 カンボジア解放軍,国道4号線,5号線を遮断。
9.27 チュー政権与党が連合。@大越革命党,Aベトナム自由民主勢力,B大団結勢力,Cベトナム仏教民主社会勢力,D民社革命党,E興国党,F統一国民党。
9月 南ベトナム政府軍の総兵力、100万に達する。1年間で25万人の増強となる。
9月 米軍がラオス、北ベトナムなどでサリン爆弾を使用。(CNNテレビによる暴露報道は、1998年6月)
70年10月
10.03 解放戦線、デルタ地帯で一斉攻撃。省都,郡都などに砲撃を加える。中部海岸ではカムラン基地を砲撃。
10.03 カンボジア解放軍,国道1号線を再封鎖。
10.04 解放戦線,アンケ・クイニヨンの米軍基地を砲撃。
10.05 国民議会上下両院合同会議、王制を廃止し共和制移行と「クメール共和国」への国名変更を宣言する。また総選挙は現情勢では不可能とし、議員の任期(10月15日に満了)を1年延長。共和制移行の式典に出席した大使は米国,南ベトナム,韓国,ファリピンおよび日本。ソ連・東欧諸国,インドおよびフランスの大使は欠席する。
10.07 ニクソン、テレビ・ラジオ演説でベトナム和平に向けた5項目提案を発表。インドシナ全域における停戦と和平会議の開催,米軍撤退のタイムテーブル、南ベトナム国民の意思を反映した政治的解決,捕虜の即時無条件釈放を骨子とする。相互撤退方式については譲歩するが、チュウ政権の維持と臨時革命政府の解体については固執。南ベトナム政府はただちに同意の声明。
10.08 ホー・ルートに集中爆撃が開始。クリスマスまで続く。B52延べ2500機が出撃,16万6000トンの爆弾を投下。
10.08 解放放送,ニクソン提案は平和回復にも,パリ会談の進展にも寄与しないと論評。北ベトナムは提案を黙殺する。
10.08 シアヌーク殿下、「クメール共和国」宣言を非難。@新共和制は憲法に違反しており不法である。A新共和国は米帝国主義に養われる反動グループでしかない。
10.10 南ベトナム政府軍、ユエ西方のコクバイ地区から撤退。解放勢力が全面制圧する。
10.11 第9歩兵師団第三旅団がベトナムを離れる。
10.12 パテトラオ,ムオンスイから撤退。
10.15 米軍,第3次撤兵計画を完了。5万人が新たに撤退。
10.16 チユー大統領「北側との連合政権は絶対に受け入れられない」と演説。
10.18 コンソン島刑務所の政治犯300人が暴動を起こす。
10.18 政府軍特殊部隊が,ビエンチャン北方約170キロの戦略拠点バンナを奪回する。
10.20 ラオス外務省,北ベトナムのジュネーブ協定侵犯に関する白書を発表。
10.21 プーマがワシントンを訪問。ニクソン大統領はプーマ首相にラオスの支持を保証。
10.24 南ベトナム政府軍、カンボジアへの新たな侵攻作戦を開始。
10.29 ピューリツァ賞カメラマンの沢田教一、ブノンペン南方の国道二号線で銃弾を受け死亡。
10.31 チュー大統領が上下両院合同会議で演説。@今や政府は人口の99.1%を支配しており,来年2月末までに100%を政府支配下に置くだろう。A共産側とのいかなる連立政権も受け入れない。Bカンボジア軍の訓練と武器供与は続ける。
70年11月
11.01 解放戦線,カマウのオンドック川河口にある政府軍水上基地を奇襲,17隻の艦艇を沈める。
11.02 解放戦線,サイゴンを砲撃,25人死傷。
11.04 ドクラプ,ベンヘト基地,政府軍に引渡される。これで米特殊部隊の役割終了。
11.06 南ベトナム政府軍6000人はカンボジア国境に突入し,カンボジア政府軍の協力で地上作戦を開始。
11.07 プノンペン映画館で爆破,14人が死亡,18人が負傷。
11.07 ジンジン省ゴクフォン寺で「平和のための人民戦線」結成、各界の代表500人が参加し、米軍撒退を要求。
11.09 政府軍サイゴン北方の防衛を米軍から引きつぐ。
11.10 解放軍はプノンペン北西約70キロにある主要道路の交差点を占拠。
11.11 米軍機は政府軍を支援するため,北部のカンボジア解放軍補給路を爆撃。
11.12 解放軍は首都プノンペンを囲む防衛線を攻撃した。またプノンペンの南西24キロの政府軍司令部を攻撃。
11.13 レアード米国防長官,北爆再開を警告。ニャンザン紙は「適時かつ適確に反撃するという回答があるのみ」と反論。
11.14 解放戦線,ユエ,ダナン地域で攻勢。
11.14 マリファナ特別調査の委員長のマツフ海軍中将、「駐留米軍の約50%がマリファナ経験者である」とし、これを防止するには米軍撤退以外にないと強調。
11.15 ビエンホア省タンヒエプ収容所で女囚500人が待遇改善を要求してハンスト。
11.15 カンボジア解放軍、コンポンチャムの西北7キロの政府軍重要拠点を攻撃,政府軍守備隊は1時間の抵抗の後,撤退する。
11.15 東ドイツ駐在大使シソワト・メタビ殿下(マタク副首相の実弟),カンプチア民族統一戦線に参加。
11.17 解放戦線,サイゴン周囲での活動を強化。ビエンホア空軍基地を砲撃。連日数十箇所に砲撃を加える。
11.18 キ副大統領、「米軍は71年末までに完全撤兵が可能となるだろう」と発言。
11.19 CIAはニクソン大統領に「解放戦線のスパイはサイゴン政府の中枢部まで浸透している」との報告書を提出(ニューヨーク・タイムス)。
11.19 ダナン南方でヘリ墜落,米海兵隊員15死亡。
11.19 プノンペンの目抜き通りで一連の爆発事件。軍事輸送車1台,セダン2台が破損,兵士2人と通行人7人が負傷する。
11.20 北ベトナム上空で米軍機6機を撃墜。
11.20 ソンミ事件のミッチェル軍曹無罪。
11.20 レアード米国防長官、「米軍捕虜を救出するため特別部隊がハノイから30キロのソンタイ省の収容所に強行着陸したが、作戦は失敗した」と発表した。報道によれば、米軍特殊部隊53名が、ハノイ近郊50キロのソンタイ捕虜収容所に侵入。アメリカ軍将兵の「救出」作戦を展開するが、捕虜は折からの水害に備えすでにハノイ・ヒルトンに移動済みだった。
11.21 米軍、北緯19度以南に限定して北爆を再開。レアード米国防長官は、「防御的反撃措置」と述べる。限定といっても200機以上が参加する大規模なもの。
11.21 カンボジア解放軍、国道4号線沿いの政府軍陣地を攻撃。またプノンペン郊外の政府軍最大の火薬庫が解放軍のロケット弾で爆破され,少なくとも20人が死亡,80人以上が負傷した。
11.23 アンクアン寺派のチエン・ホワ師、「北爆は和平提案がいつわりの声明であったことを示した」と非難。「平和のための人民戦線」も北爆を激しく非難。
11.24 パテトラオ,政府軍の7拠点を攻撃。
11.24 プーマ首相,パテトラオのボンサク特使と和平準備会談。ボンサク特使は、サムネワからカンカイに赴くスファヌボン殿下の安全を保証するため,会見前後の10日間、米軍とビエンチャン政府軍などの飛行機がシェンクァン,サムネワ両州に対する爆撃を停止することをもとめる。
11.26 解放戦線,サイゴン周辺の政府軍守備陣地3カ所を攻撃。この1週間で米軍の戦死者は65人、負傷者は335人に達する。政府軍はサイゴン・ジアジン地区の兵士全員に夜間禁足令。
11.26 ニャンザン紙、捕虜救出作戦は重大な戦争行為であり、「向こう見ずな行為を犯した米侵略者は、米軍捕虜の人命に全責任を負うことになる」と警告。
11.27 シエムリエプの政府軍3万人が孤立する。シエムリエプはカンボジア北西部の町でアンコールワット観光の拠点。
11.29 解放戦線23カ所を砲撃。
11.29 解放戦線,フオクトイ省の政府軍陣地を攻撃,政府軍民兵5人と民間人1人が死亡,民兵6人が行方不明,10人が負傷。
11.30 ロン・ノル軍、米軍の計画にしたがいラオス南部に1000人の戦闘部隊を進攻させる。
11月末 南ベトナム政府、支配地域は約94.3%に達すると発表。
70年12月
12.01 政府軍7500,ウーミンの森へ進攻。
12.01 プノンペンの米大使館爆破。
12.02 ジーグラー米大統領報道官、「米軍捕虜に対して報復手段が加えられた場合は,懲罰として北ベトナムの指導者を捕らえ抑留する」と発言。(アンダーソン記者の報道)
12.03 解放戦線,中部高原で攻勢を開始。
12.03 米上院歳出委員会は軍事支出法案を意見書をつけて可決。意見書は「この法案に基づく支出は,米地上戦闘部隊をラオス,タイ,カンボジアに派遣するために使用しないものとする」と条件をつける。
12.05 政府軍首脳部、防衛線を大幅に後退させ,新しい防衛ライン“ロン・ノル線”を策定する。これは北西部のバタムバンからトンレサップ湖の南を通り,東に曲がってコンポチャムに達するもの。
12.06 ビンロン省で「平和のための人民戦線」委員会結成。
12.07 クイニョンで米兵が男子中学生を射殺。クイニョン市民が抗議デモ。サイゴンの米軍司令部は、射殺事件について公式に謝罪する。9日にはクイニヨンに外出禁止令。
12.07 第4歩兵師団、第25歩兵師団と第一補給司令部、第44衛生医療旅団がベトナムを離れる。
12.07 パテトラオ,ルアンプラバン空港10キロまで進出。
12.07 米情報関係筋,北ベトナム軍が,ラオス南部のセブーンとアトプー地区に大規模な陣地を構築していることを明らかにする。
12.07 米下院本会議、米軍捕虜の救出作戦を支持する決議案を可決。北ベトナムはアメリカによる先制攻撃の危険を指摘する。
12.08 パリ会談北ベトナム代表団,捕虜問題について@捕虜は戦争犯罪人として扱うが,非人道的な扱いはしない。Aわが国は貧しい小国で,30年も戦いつづけているために物資は不足している。しかし捕虜の待遇は私(代表団員)よりよい。B全捕虜は家族との文通を許され、家族からの郵便物もみとめられている。Cニクソン政権は撤兵宣言を引き延ばすために、これらの事実を故意にかくしている。
12.09 クメール語の新聞ノコルトム(偉大な国)紙は社説で「カンボジア領内の南ベトナム政府軍の行動を非難し,同軍隊の退去を要求する」と述べる。政府は,反南ベトナムの論調を押さえるため新聞の検閲を実施。
12.10 ニクソン米大統領、「北側が撤退を続ける米軍を危険にさらすなら北爆も辞さない」と強い決意を表明。北側の浸透が増すようなら北爆を再開すると述べる。
12.10 サイゴンで学生約600人が,米兵による少年殺害事件に抗議してデモ。翌日も学生800人が警官隊と衝突。
12.10 北ベトナム、党・政府が共同で抗米アピールを発表。長期戦を戦う覚悟を訴える。@戦争の長期化に備え南での兵力温存をはかる、A南への支援と北の国内建設を並行して進める、ことを訴える。
12.10 サバナケットの右派青年将校グループによる軍事クーデター計画が発覚する。指導者のブルルート・ファイコフィ元大佐は、ノサバンの側近で,サバナケットの第3軍区司令部の右派将校と連絡し,ノサバン復活のための武装ほう起を計画した。
12.11 北ベトナム外務省,米空軍がこの50日間で6万5000トンの爆弾をラオス領内に投下したと非難。またカンボジア政府軍6個大隊,タイ人部隊12大隊がラオス領内に送りこまれ、さらに南ベトナム軍がラオス侵攻を準備していると述べる。
12.11 プーマ首相,北東のサムネワからジャール平原近接のカンカイにかけて幅15キロの中立地帯を設置することを提案。この周辺に対して,政府軍が爆撃を中止する用意があることを示唆する。
12.11 レアード国防長官は、北側との了解事項が破棄されれば北爆を再開するとの見解を表明。革命政府代表団は,「ニクソン大統領はいまや自分の好きなとき,北爆ができるようにあらゆる口実を懸命になってでっち上げようとしている」と反論。
12.12 サイゴンの米軍司令部、最高機密の装備がなされたB52キャンベラが,ラオス南部のホーチミン・ルート地区で北ベトナム軍の対空砲火により撃墜されたと発表。この10年間に7379機がインドシナで撃墜された。
12.12 クメール・ルージュ,国道7号線上の拠点に対して猛攻を加える。
12.13 カオダイ教派,平和のための人民戦線に参加を決定。
12.14 サイゴン地区の米兵に外出制限令。
12.14 米軍,サイゴン地区防衛のため,ヘリ旅団を編成。
12.14 サイゴン学生連盟,実力行動を決議。サイゴン大学理学部,無期限のストを宣言。
12.14 解放戦線,「米の冒険を粉砕せよ」と全軍にアピール。
12.15 サイゴンの米軍宿舎レキドン・ホテル爆破。
12.15 政府軍3000人がコンポンチャムに空輸される。
12.17 南ベトナム上院調査団,カンボジア駐留軍の略奪行為は事実と報告。
12.19 サイゴンで住民100人が米兵を襲う。
12.19 ト議長、解放戦線10周年にあたり,「戦力を増強し,抗米救国戦争を辛抱強く推し進め,平定計画とベトナム化の陰謀を打ち破ろう」と呼びかける。
12.21 解放戦線,国道1号線上で米軍輸送隊を待伏せ攻撃。
12.22 ザップ国防相,「北ベトナムは,どのような型の米機がわが領空を侵犯しようともこれを監視し,撃墜する権利を持っている」と強調する。
12.22 ケネディ民主党上院議員,パリで北ベトナム代表から368人の米将兵の名簿を手渡されたと発表する。
12.22 米政府の国防支出法案が可決される。法案採択に際し、クーパー・チャーチ修正が付帯決議として採択される。この決議は、ラオスまたはカンボジアでいかなる米国地上軍の行動も禁止するもの。カンボジア領内での米軍機の行動を禁止する決議案も提出されるが、不採択に終わる。
12.24 ユエの米軍誤射で18人死傷。
12.24 国警と憲兵,反米闘争の学生261人を検挙。
12.26 ベトナムの米軍,来春までに枯葉剤の使用を停止すると発表。
12.27 解放戦線,カマウ半島の海軍基地を砲撃。
12.28 パテトラオ,ジャール平原とボロベン高原の政府軍陣地5カ所を占領。
12.29 サイゴンの学生100人,米陸軍のバスに放火。
12.29 米上下両院協議会,国防調達法を承認。米のカンボジア派兵を無条件に禁止する条件をつける。
12.30 米海軍,艦船計650隻を引き渡してベトナム化を完了。
70年末 ベトナム駐留米兵の数は33万名となる(一説に28万名)。1年前に比べ20万人減少。
70年末 米国防総省、南ベトナム駐留米軍兵士の40%が麻薬に侵されていることを明らかにする。サイゴンの米軍司令部によれば、1年間に6万人の兵士がドラッグを体験した。軍病院は戦傷者ではなく麻薬中毒者で溢れる。麻薬の売買には南ベトナム軍高官が絡んでいたとされる。部隊内の人種紛争が相次ぎ、兵士は気に入らない将校に手榴弾を投げつけるなど戦意は大幅に低下する。
70年 北ベトナム、合作社農家の食糧供出ノルマの5年間すえおき、食糧買い上げ価格の大幅引き上げ(5倍増)、ノルマ達成後の余剰食糧の自由処分権を認めるなどの物質的刺激政策を実施する。この路線は、文化大革命が進行中の中国を強く刺激する。