キューバ 歴史と革命

第一章 独立戦争前史

 

A.キューバの征服と,そして再生

(1)キューバの征服

・コロンブスのキューバ発見

 キューバ征服の歴史はコロンブスが上陸した1492年10月27日をもって始まります.(1) それは彼が新大陸を発見した日からわずか2週間目のことでした.コロンブスがキューバに上陸したときの日誌には「人間の目が見たもっとも美しい土地」と記載されています.彼が島の人たちに「ここはなんというのか」とたずねたところ,「コルバ」と答えたのが国名の由来ということです.(2)

 ここを目指すジパングと考えたコロンブスは,現地の人がクバナカンと呼んでいた内陸部の王国に使節を派遣します.そこは現在のオルギンあたりと想像されますが,王国とは名ばかり30戸ほどの堀っ立て小屋がならんでいる程度の部落でした.原住民の未開ぶりを見て「ここは目指すジパングではない」と悟ったコロンブスは,キューバを離れエスパニョーラ島に向かいます.これがキューバとスペイン人の最初の出会いでした.

  スペインに戻ったコロンブスは国民の熱狂的な期待を背にふたたびジパングを目指します.エスパニョーラ島に拠点を構えたコロンブスは,キューバこそアジアにつながる大陸の端だと思い込み島の南岸を西に向かい進みます.しかしどこまで行っても文明の兆しすら感じられず空しく戻っていきます.この後しばらくキューバ島は見捨てられた存在となります.(3)

  ところでこの島の原住民ですが,もっとも古くからの原住民はシボネイ族といいます.彼らは採集生活のみに頼る原始的な部族でした.その後部分的に農耕もいとなむタイノ族が侵入したため島の西部に追いやられます.さらに食人種として名高いカリブ族も住んでいたといわれます.(4)

 

・アトゥエイの抵抗

 1511年キューバに金鉱が発見されたというニュースが伝わります.(5)当時中米北岸からアマゾン河口にいたる広範な地域が探検されていました.しかし探検の二つの目的,すなわちアジアにいたるルートの発見と金銀財宝の獲得にはことごとく失敗していました.おまけに新大陸探検の拠点エスパニョーラ島では原住民が早くも絶滅の危機に至ります.コロンブス上陸時20〜30万人いたとされる人口が20年後には5万足らずとなり,1530年にはほぼ絶滅してしまうのです.

 新天地開拓を狙う征服軍の指揮官にはベラスケスが任命されました.原住民虐殺で名をはせたベラスケスはエスパニョーラ島でもっとも無慈悲な男といわれていました.彼は6ヶ月にわたる準備のうえ三百名の兵をひきつれ出発します.

 キューバ島東端のバラコアという海岸に上陸した征服者たちは,思わぬ人物の手荒い歓迎を受けることになります.

 話はいきなり変わりますが,皆さんがキューバに着いてホテルでホッとしたとき,まず最初に何をするでしょうか? わたしならまずビールでしょう.その時出てくるビールの名前がキューバ・ブランドの「アトゥエイ」です.このアトゥエイこそはキューバで最初の決然たる反逆者の名前です. (6)

 彼はもともとキューバではなくエスパニョーラ島の出身です.原住民の酋長としてスペイン軍に対する抵抗運動をおこなっていました.しかし情勢利あらずと見て密かに島を脱出,再起をめざしキューバに潜入します.彼はキューバの同胞に来たるべき試練に備え団結しようと説いて回りました.

 スペイン軍が上陸するとさっそくアトゥエイの抵抗運動が開始されました.彼の戦法は,スペイン軍をジャングル内深く誘い込み弓矢等で奇襲を掛けるというもので,いまでいうゲリラ戦です.巧妙なアトゥエイの抵抗に悩まされたスペイン軍はバラコアに3ヶ月ものあいだ釘付けにされました.

 そのアトゥエイもやがてスペイン軍に捕らえられます.アトゥエイはベラスケスにより焚刑に処せられるのですが,いまはの際の悔教師との会話は有名です.悔教師は「悔い改めキリスト教に改宗すれば天国に行ける」と諭します.アトゥエイはたずねます.「それで,天国にはどんな人がいるのかね?」

 「キリスト教徒ならだれでも行ける」「それではお前たちもみんないるのかね,そんなところに死んでまで行かなければならないとしたら,おれはキリスト教徒になりたいとは思わないね」

 ベラスケスはアトゥエイの抵抗を押し潰したあとサンチアゴに基地を建設,さらに西に向かいます.彼の征服の物語は現地の人々の血でまみれています.なかでもカオナオの大虐殺は征服に参加した僧ラス・カサスの告発で知られています.残された原住民もその多くがみずから死を選びます.彼らは集団自殺することで征服者に対する抗議の意思を示したのです.こうして14年1月に征服が終了したあと,わずか数十年のあいだに,30万といわれる原住民が地上から抹殺されてしまいました.

 

・空白の百年とハバナ

 征服者ベラスケスは総督に任命されます.彼が首都としたサンチアゴの街にはグリハルバ,コルテス,アルバラド,デ・ソトなどのちに有名となる征服者たちが結集します.ナルバエスは島の西側にハバナの町を建設します.(7)

 まもなくキューバを基地とする奴隷狩の一隊がメキシコを発見しました.彼らはメキシコの奥地に高度な文明を持つ帝国があるとの情報を持ち帰ります.ベラスケスはサンチアゴのコルテスに征服を命じました.コルテスの一行が山並みを越えて達したのはメキシコ高原のアステカ帝国でした.アステカ帝国は当時1千万を越える人口を擁し,キューバとは比較にならない高度な文明社会でした.首都テノチティトラン(現在のメキシコ市)は金銀財宝で溢れていました.コルテスはときには奸計を用いときには正面から闘いを挑み,ついにこの帝国を手に入れます.

 そもそも征服者たちというのは一攫千金の夢を抱えた失業軍人の集団です.キューバのようなセコい所に一刻もとどまる必要はありません.本国政府のメキシコ移住禁止令もものかは,人々は続々とメキシコに移っていきます.細々と採掘が続けられていた金鉱も黒人奴隷の反乱を機に放棄されます.この頃のキューバ在住スペイン人は270世帯,千2百人.原住民も2千人ほどと言われます.キューバはほとんど無人の島と化してしまったのです.

 キューバやエスパニョーラ島だけではありません.スペイン人による殺し尽くし奪い尽くす統治の結果,ラテンアメリカ全体で数千万人いたといわれる原住民はあいついで絶滅していきます.1600年頃までこの過程が進行します.それからの百年は「空白の百年」と呼ばれています.人がいなくなれば歴史と呼ぶほどの出来事もなくなってしまうからです.キューバはそれに先立つこと50年ではやくも歴史の空白に突入していきます.

 わずかにハバナの港だけが,メキシコと本国とを結ぶ貿易の中継地として命脈を保ちます.地図をみれば分かるように,これほどの地理的条件にめぐまれた港はめったにありません.ユカタン半島に発するメキシコ暖流は,キューバ北岸を進みフロリダ海峡を経て大西洋に出ます.この海流は大西洋を北東に進みイベリア半島まで一気に到達します.風と海流に頼るほかなかった当時の航海にとってこれは決定的なポイントです.

 港そのものも素晴らしい条件を備えています.単純な水路で周辺に浅瀬や岩礁などの危険がありません.これなら幼稚な航海技術の時代でもアクセスが容易だったでしょう.モロとプンタの二つの岬に守られた狭い開口部と広くて喫水の深い港内,平坦で広範な後背地など良港の条件をすべて備えています.

 1543年スペインはフロータス制度を開始します.年に1回,軍艦に守られたフロータスと呼ばれる大船団を組んで,本国を新大陸とのあいだを往復するというシステムです.これはカリブ一帯で猛威を振るい始めた海賊に対し貿易船団を守るためのものです.春になるとこの船団がスペインからサント・ドミンゴに向かいます.そこで船団はメキシコ行き(フロータ)と南米行き(ガレオン)の二手に分かれて出発します.帰りはこれらの船団がハバナに集結しメキシコ海流にのってヨーロッパを目指すことになります.(8)

 まもなく首都もサンチアゴからハバナに移されました.以後ハバナは名実ともにキューバの中心として発展することになります.(9)

 

・海賊とのたたかい

 これだけの重要な拠点ですから侵略の脅威も重大でした.1537年,最初のフランス海賊によるハバナ襲撃があり,教会や役所が破壊されました.当時の総督デ・ソトは,これを機にハバナの要塞化に着手します.途中黄熱病の大流行に苦しめられながらも,16世紀末までにハバナを取り囲む石の城壁がほぼ完成しました.(10)いまも残るこの城壁は珊瑚礁を切り出したもので,近寄ってみると貝殻などが混入しているのが分かります.

 フランス人海賊はその後も44年,55年とハバナ襲撃を繰り返し,54年には一ケ月にわたりサンチアゴを占領するほどの勢いを見せます.彼らはもともとカトリックの権威に従わないユグノー教の信徒で,本国政府や教会の弾圧を逃れフロリダに入植してきたものです.カトリックの盟主を自認するスペインにとっては,いわば異教徒のようなもので,その存在自体が認められないのです.それが乱暴狼藉を働くのですから,ますますのこと許せるものではありません.

 頭に来たスペイン政府は,ユグノー教徒の巣窟となっているフロリダを直轄地とし,海賊絶滅に乗り出しました.1565年,ハバナ総督の命を受けたメネンデスはフロリダに上陸,フランス人入植者全員を虐殺してしまいます.(11)

 フランス人に代わってこんどはイギリス人海賊の来襲です.86年海賊ドレイクがハバナを襲撃します.(12) ドレイクはもとはピナルデルリオの海岸に居を構え,通過する船舶を相手に肉や穀物などを売る小商いをしていた人物です.それがホーキンス船長の知遇を得て海賊になっていくのです.パナマ襲撃や無敵艦隊との対決で男を上げたドレイクは,その後海賊行為を続けながら世界一周に成功し,英国にばく大な富をもたらしたといいます.このハバナを含むカリブ各地への攻撃はその後の話で,彼の最後の闘いとなります.

 結局ドレイクのハバナ襲撃は失敗に終わったのですが,それは英国によるカリブ海荒らしの最初の一こまに過ぎません.17世紀に入ってからもイギリス海賊のしつような襲撃が続きます.なかでも有名なのがモルガン船長のカマグエイ襲撃です.

 1668年のこと,英政府から使命を受けたモルガンは,手下750名を引き連れ,キューバ中部カマグエイの町を攻撃します.守備隊をなんなく打ち破ったモルガンは,住民を教会に閉じ込め,その間に財産を掠奪して逃げ去ります.(13)

 もうひとつの有名な事件が,ピット・ヘインの略奪事件です.当時スペインと戦争状態にあったオランダは,ヘイン提督に命じ,私掠船隊を組織しました.かれはマタンサス沖でフロータ船団を待ち伏せ,一気に金銀財宝を満載した船を奪取します.

 これに続く17世紀の後半は,とにかくひたすら,どこの町が海賊に襲われたという記録しかありません.イギリス人,フランス人,オランダ人,とにかくみんなやってきます.

 なかでもモルガン船長は向かうところ敵なしの勢いで,ニカラグアやパナマを襲っては莫大な財宝を持ち帰ります.モルガンら海賊に絶好の基地を提供したのがジャマイカです.1655年イギリスがジャマイカを占領したのち,首都キングストンは海賊の拠点となりました.英国王室は彼らに「私掠船」の免許を与え,海賊行為を奨励したといわれます.モルガン船長は海賊としての功績を讃えられ,なんとジャマイカ副総督に任命されます.

 キューバを旅するといたるところで要塞が目につきます.大はハバナのモロ要塞から小は今は名もなく崩れ落ちているようなものまで要塞だらけです.(15) これだけの要塞を建設し維持するだけでも莫大な費用です.それが植民地の人達の肩にかかってくるとすればそれだけで大変な経済的重圧でしょう.

 

 

1 コロンブスが最初に上陸したサンサルバドル島は,バハマ諸島の一つサンサルバドル島というのが定説になっていました.この島はもともとワットリング島といっていたのをわざわざ改名したくらいです.ところが最近この説は否定されるようになりました.どこかバハマ諸島の一つであって,しかもワットリング島ではないというのが現在の説になっています.

2 コロンブスが上陸したのは,キューバ北岸のバリアイ湾.そこに住んでいたバヤティキル一族がみずからの土地をコルバと呼んでいたのがキューバの語源になっているといわれます.しかしこれには異論もあるようです.

3 ほぼ島を一周し,キューバが大陸の一部ではなく細長い島であることを確認したのはセバスチャン・オカンポ,1509年のことです.

シボネイ族をグアナウアテベイ族,タイノ族をアラワク族と呼ぶこともある.

1510年,オヘダがシエンフエゴス付近からマンサニージョ付近まで探検.この時,エスカンブライ山地に金鉱を発見しました.

 アトゥエイのほかにもスペイン人に対する抵抗を組織したカシーケたちがいました.中でも有名なのがグアマとカシグアヤの夫婦です.

 最初のハバナは島の南側でした.正式名称はラ・ビリャ・デ・サンクリストバル・デ・ラ・ハバナです.ハバナというのは現地を仕切っていた酋長の名前です.現在のハバナはカレナスと呼ばれていました.このほかトリニダー,サンクティ・スピリトゥス,プエルト・プリンシペ(現カマグエイ)などの町が相次いで建設されます.

フロータス制度については,開始の年,構成など異説が多く,全貌を把握できません.一説によれば,軍艦の護衛つきの商船隊が組織されたのが43年で,年に一回,大艦隊とともに航海するフロータス制は50年代に入ってからのことのようです.この文献によれば,船団はカナリア諸島から一気に大西洋を横断しマルガリータ島付近に到着.その後カラカス,マラカイボなどに行く船が分かれながら,いったんカルタヘナに集結します.その後,パナマ北岸の港プエルト・ベーリョに入り,ペルーからの金銀財宝を積み込みます.その後カリブ海沿いにベラクルスまで進み,メキシコの財宝を積み込んでハバナに集結したようです.つまりカルタヘナとハバナがこの航海のキーポイントにあたる港になっていたと考えられます.

ハバナの町には百軒の料理屋と50の売春宿が軒を連ね,250人の売春婦が水夫を相手に生活していたといいます.

10 モロ要塞の建築に着手したのは,さらにこの後の話です.完成は1598年.その堅固さは,さすがのモルガン船長も手を出さなかったといわれます.

11 その後も,フランス人海賊の来襲はなくなったわけではありません.10年後の74年から数年にわたり,トリニダー,バラコア,レメディオス,バヤモの町が相次ぎ海賊に襲われています.

12 キューバを襲撃した最初のイギリス人海賊はリチャード船長といいます.82年マンサニージョを襲撃しますが,後に捕らえられ殺されます.

13 この頃カマグエイはプリンシペ港と呼ばれていました.海岸から80キロも入った奥地にどうして港なのかといえば,当時の港はひたすら海賊を避けるため不便を耐えて内陸に作ったのだといいます.ふつうラテンアメリカの街といえば碁盤目で,真ん中に公園とカテドラルがあるのですが,カマグエイは海賊の襲撃に備え,わざと道を曲がりくねらせて作ってあるのだそうです.たしかにアグラモンテ記念館のあたりは,ふつうの街と比べるとごみごみした印象です.

14 世の中には悪いやつがいるもので,レメディオ村の司祭は悪魔が村を襲うと託宣.村人たちが逃げ出した後残された村を自分のものにしてしまいます.逃げ出した人たちが内陸部に新たに作った町が,現在のサンタクララになりました.

15 中でも一番のお勧めはサンチアゴのモロ要塞です.確か最近,世界遺産に登録されたはずです.見所たっぷりで景色も抜群です.近くの船着き場から船に乗って出かける小島には,新鮮なエビや魚を食べさせるレストランがあり,海越しに要塞を眺めながらの食事もいい雰囲気です.

 

(2)停滞からの脱出と反抗への芽生え

・タバコ栽培業者の反乱

  話はとんで1717年,本国政府はあいつぐ戦争で疲弊した国家財政を建て直すため,タバコ栽培を国営に一本化し,販売についても専売制に移行します.その受け皿となったのがハバナ王立商会でした.この会社はイギリスの奴隷商人と結託し,黒人輸入も独占.キューバ人の怨嗟の的となりました.

  当時ハバナ南方で栽培されるタバコは砂糖とならんでキューバの最大の輸出(といってもほとんどがイギリス相手の密貿易)産品でした.(1) 多くの人の生活を支えるタバコ生産を取り上げようというのですから当然現地の人は猛反対です.ついにクリオージョと呼ばれる現地生まれのスペイン人5百人が反乱を起こしました.これがキューバで最初の反植民地闘争となります.(2)それはおそらく原住民の抵抗を除けばラテンアメリカで最初の公然たる闘争といえるでしょう.

 最初は反乱者の勢いが上回っていました.彼らはハバナを制圧し,本国の官僚どもを牢獄にぶちこみます.やがて本国から応援軍が到着すると,叛徒たちはいったん鎮圧されます.しかしその一部は20年,23年にも反乱を繰り返します.

 6年間続いた抵抗もついに終局を迎えます.反乱に対する弾圧は苛酷をきわめました.反乱者たちは虐殺されただけではありません.その死体はさらに見せしめのために晒しものにされます.ハバナからタバコ栽培地帯にいたる街道沿いには,彼らの死体がズラッと並べられたということです.(3)

 逆にいえば,本国政府のキューバに対する力の入れかたにはそれだけ並々ならぬものがあったといえるでしょう.スペインが新大陸から収奪を強めようとするかぎり,その通商路の結節点にあたるハバナは,どうしても守らなくてはならない戦略的拠点だったからです.こうしてハバナは新大陸貿易の拠点としてメキシコ,リマにつぐ新大陸第三の都市に成長していきます.ハバナ大学が創立されるのもこの頃のことです.

 

・ジェンキンスの耳戦争

 スペイン王室というのはよくよく戦争好きのところです.しかも18世紀中はほとんど負け続きです.ちょっと世界史のおさらいをしておきましょう.

 1701年スペイン・ハプスブルグ家最後の王カルロス2世が死去しました.彼の遺言によりブルボン家からルイ14世の孫が迎えられ,フェリペ5世として王位を継ぐことになります.オーストリア・ハプスブルグ家への継承を主張するイギリス,オーストリア,オランダはブルボン朝に対抗して連合,ここに王位継承戦争がはじまります.

 この戦争は,英仏間のカナダ領有をめぐるアン王女戦争も併発しながら十年以上続きますが,結局連合国側の勝利に終わります.英国はアフリカと中南米を結ぶ黒人奴隷貿易の権利を一手にし,カリブの海をわがもの顔に走りまわるようになります.

 27年からも3年間にわたる英西戦争が闘われスペインは惨めな敗北を喫します.英国は斜陽のスペイン帝国に追い打ちをかけるように無理難題をふっかけます.これが「ジェンキンスの耳」戦争と呼ばれるものです.

 39年,カリブ海を航行中のイギリス密輸船がスペイン艦隊に捕らえられ,船長ジェンキンスが耳をそがれるという事件がありました.これを口実として英国首相ウォルポールはスペインに宣戦布告します.バーノン提督のひきいる5千名の将兵,56隻の軍艦,130隻の輸送艦がパナマとサンチアゴ・デ・クーバを一時占領しました.ハバナ沖での両国艦隊の衝突も英国側の圧勝に終わります.勢いに乗るバーノンはさらにカルタヘナを攻撃しますが,これには失敗します.

 航海中の危険があまりにも大きいことから,スペインは200年続いたフロータスを一時中止せざるを得なくなりました.しかしそれは本国の勝手です.自由貿易を禁じられながら,本国との貿易もできないというのでは,植民地は干上がってしまいます.十年間の闘いに敗れたスペインは,植民地の抗議の前に,制限つきながら植民地の自由交易を認めざるをえなくなりました.

 

・七年戦争とハバナ占領

 1754年、現在の米国南部に当たるルイジアナの領有をめぐり英仏間に戦闘が始まりました.フレンチ・インディアン戦争です.これが両国の全面対決,七年戦争に発展します.英国との戦争にこりごりのスペインは,当初中立を打ち出しました.しかしその後即位したカルロス3世は,フランスと密約を結び英国に宣戦布告します.勝利の暁にはルイジアナはスペインに譲渡される約束でした.

 イギリスはアルベマール提督指揮下の大軍を送り,ハバナ攻略に乗り出します.その数二百隻,兵二万人といわれます.ハバナはこの攻撃を二ケ月にわたりよく持ちこたえますがついに落城の憂き目にあいます.(4) ハバナ攻防戦をふくむ七年戦争の結果,イギリスはカリブ海の制海権を確立するにいたり,スペインの没落に拍車がかかります.

 闘いに敗れたスペインは,停戦条約でフロリダの東半分をイギリスに譲ることになります.(5) そしてそれと引き換えにハバナを返してもらいます.それほどまでにスペインにとってハバナは「虎の子」の植民地だったのです.

 こうしてふたたびハバナはスペイン領となりますが,それにもかかわらず,イギリスのハバナに対する影響力はますます増大していきます.とくにハバナが自由貿易港として開かれたこと,奴隷貿易の権利をイギリスが確保したのは大きな変化でした.

 大西洋を挟んでアフリカと新大陸,新大陸とヨーロッパを結ぶ貿易は,三角貿易と呼ばれました.アフリカからは黒人が送られ,新大陸からは銀や砂糖やラム酒がヨーロッパに向け送られるという図式です.

 ハバナはその拠点になろうとしていました.ハバナ港は大規模な整備改良をほどこされました.そしてその後の10年間でハバナからの輸出量は2倍に伸びました.メインストリートには街灯が点されるようになりました.人口は白人10万人,黒人・混血あわせ7万人という七年戦争当時の水準から,わずか20年後の18世紀末には30万人にまで増加したのです.その多くは奴隷貿易「自由化」によりドッと流れ込んだ黒人でした.

 カルロス三世の植民地行政改革もキューバの発展に大きな影響を与えました.財政の慢性不足に悩むスペイン王室は,植民地の貿易を自由化することで生産力を上げ,これにより税収の増加を図ったのです.まずこれまでカディス港のみに制限されていた新大陸貿易がスペイン全土に開放されました.

 ついでハバナへ一定の自治権が付与されることになりました.これにともないキューバの行政機構は複雑なものとなります.これまでハバナ総督は本国からではなくメキシコ副王領から送り込まれていました.今度は本国から直接派遣されることになります.この総督は名目的にはキューバ全土に対する権限をそのまま維持します.しかし実質的な行政範囲は,ハバナを首都とする西部(ベルタ・アバホ)に限定されることになりました.東部(ベルタ・アリバ)は,サンチアゴを本拠とする軍令部の管轄の下に置かれることになります.これにともないサンチアゴにも大司教区が開かれます.いわばキューバが東西二つの国に分割されたようなものです.(6)

 

・ハイチ独立戦争の影響

 18世紀末から19世紀初めにかけてキューバをとりまく情勢が一気に変貌を遂げました.
 まず砂糖産業の導入による国内経済の飛躍的発展があります.その契機はハイチからの砂糖農園主の大量流入です.これにはハイチ(当時はサンドマングと呼ばれていた)の独立が大きく関係しています.少し横道にそれますがここでハイチ独立戦争に触れておきます.

 エスパニョーラ島はコロンブスが発見して以来しばらくのあいだ新大陸経営の拠点になっていました.しかしアステカ帝国やインカ帝国が征服されると多くのスペイン人は島を去って行きます.原住民も死に絶えたエスパニョーラ島,とくにその西部はキューバと同じように荒れ果てた半ば無人の島と化してしまいます.やがてこの島の西半分にはバッカニアと呼ばれるフランス人が住み着くようになります. (7)

 当時彼らは牛や羊を放牧し,それを干し肉にして暮らしていました.時折はそれを通りかかる船に売ったり,気が向けばスペイン人の町を襲ったりという生活だったようです.先ほどのドレイクと同じです.彼らはいったんスペイン軍の手により駆逐され,北岸のトルトゥーガ島に逃げ込みますが,やがてフランス軍の進出とともに,ふたたびエスパニョーラ島に戻り,島の支配権をめぐって争うようになります.

 この闘いは,結局フランス側の勝利に終わりました.1697年にリュウィック条約が結ばれます.当時フランスを治める太陽王ルイ14世は,サンドマングを国の直轄地とし,砂糖生産を振興しました.サンドマングは世界随一の砂糖生産国となりました.

 砂糖キビ生産には大量の労働力が必要です.農園主たちはそれをアフリカから輸入した黒人奴隷に頼っていました.

 1792年その黒人奴隷たちが反乱を起こしたのです.反乱の指導者トゥーサン・ルベルトゥールはフランス革命直後の本国の混乱を利用して,極めて巧妙な戦略のもとにみごと反乱を成功に導いていきます.

 フランス大革命であらたに権力の地位についた共和派ですが,ハイチにおいては王党派農園主の反抗に手を焼きました.最初ドミニカ(当時サント・ドミンゴ)のスペイン軍と組んだ黒人反乱軍は,この矛盾を見抜いて共和派と手を結びます.王党派はこれに対抗してジャマイカの英国軍と同盟を結び政権転覆の兵をあげます.

 いまやサンドマングにおける政府軍の主力となった黒人勢力は,数年にわたる激戦の末イギリスの大軍をみごとに駆逐します.黒人軍は返す刀でエスパニョーラ島東半のスペイン軍をも駆逐し全島に支配権を確立します.トゥーサンは革命政府から総督に任命されます.

 その直後,本国にテルミドールの政変が発生,革命政府は倒されナポレオンが登場します.革命の大義を裏切り帝政を宣言し,みずから皇帝となったナポレオンは,5万の軍隊を送り黒人共和国をつぶそうとします.

 近代的装備の大軍を前に反乱軍は非勢に追い込まれ,トゥーサンも逮捕されてしまいます.しかしさしもの精鋭も熱帯の気候には勝てません.数万の将兵が黄熱病でバタバタと倒れてしまいます.ついには指揮官ルクレール本人も帰らぬ人となります.ここに至りナポレオンはサンドマング制圧を断念せざるをえなくなります.

 こうしてサンドマングは「ハイチ」黒人共和国として独立することになりました.しかし前後20年に及ぶ戦争でハイチの農業は疲弊し切ってしまいます.黒人支配を嫌う数千ものフランス人農園主は,対岸のキューバに亡命していきます.

 これがハイチ独立事件の顛末です.これを機に,キューバでは砂糖キビ農業が急速に発展することになりました.特にサンチアゴ周辺には数千といわれるハイチからの農園主が移入.彼らは水力による砂糖キビ圧搾などの技術的優位,プランテーションの経営管理に関するノウハウ,これまで海外に開拓してきた販路などを通じて大きく発展します.その財力を元にサンチアゴの一等地ロマ・ウェカにチボリ劇場を建設するなど,経済・文化の担い手として君臨するようになります.こうしてサンチアゴは小パリとまで称されるようになりました. (8)

 スペインはこれを好機とばかりに奴隷貿易を完全自由化,その後一世紀の間に70万人の黒人奴隷が「輸入」されることになります. (9)

 

 

1 輸出といっても密輸です.英国との密貿易は当時の中南米諸国にとって公然の秘密でした.

 植民地社会の最上級を形成していたのが本国生まれのペニンスラール(半島人)です.これに対し現地で代を重ねたスペイン人はクリオーリョと呼ばれます.この下にメスティソとインディオが続きます.黒人は奴隷の身を脱した自由黒人と奴隷に分かれますが,いずれにしてもその下層として隷属します.
注意すべきはこの分類が「純人類学」上のものではなく歴史的なものですらないということです.それは分類ではなく差別の体系にしか過ぎません.インディオという言葉はカンペシーノ(水飲み百姓)という言葉と同義です.
あなたが塀で囲まれたお屋敷に住む裕福な白人だと想像してみて下さい.あなたから見て塀の外で泥まみれになって働いている貧しい白人がクリオーリョであり,あなたと同じように優雅に暮らす白人の旦那達がペニンスラールです.その旦那方の指令の下に働いている原住民はメスティソあるいはラディーノです.彼の妻や子は,まち場で生活しているあいだはメスティソですが,彼らの田舎にある実家の両親や兄弟は純粋なインディオとよばれます.

 反乱の拠点はアルマンダレス河流域だったとのことです.私は行ったことはありませんが,情報をお持ちの方はお知らせください.

 このときキューバ人はスペイン側について戦いました.ペペ・アントニオが組織した現地人部隊は,ハバナ近郊グアナバコアで英国軍を相手に大奮闘します.

当時のフロリダは半島部のほかアラバマ,ミシシッピまで含む広い地域でした.

この部分に関しては複数の文書で確認されていません.正誤に関するご意見をお寄せください.

7 ブッカニアというのは先住民の言葉で干し肉を作る人のことのようです.

8 サンチアゴは坂の町です.港から長い石段を上がっていくと,正面に大聖堂が見えます.そこを右に曲がると,昔は路面電車が通っていたという狭い繁華街に出ます.このあたりいかにも小パリといった感じです.

 黒人はアフリカから直接ではなく,ジャマイカから購入されていました.一人あたり420ドルというのが相場だったそうです.

 
 
 
  B.抵抗から独立へ  

(1)独立への模索

・独立を目指す動き

 当時ラテンアメリカ全土を覆った独立の気運は,キューバにおいても例外ではありませんでした.この動きはフランス革命や米国の独立宣言の影響を受け共和主義思想と結びついていきました.1795年にはバヤモの自由黒人モラレスが,人種差別の撤廃と重税廃止,農地の解放を実現するため「黒人と白人農民が団結して反乱を起こせ」と訴えています.(1)

 新大陸植民地の独立運動に決定的なインパクトを与えたのは本国における一連の政治的変化でした.1808年ナポレオンの大軍がスペインに侵入します.彼はスペイン王を幽閉し自分の弟をあらたなスペイン王にすえました.ナポレオン統治を嫌う旧政府の閣僚はカディスに逃れ暫定政府(フンタ)を結成,新大陸各地にフンタ支持の訴えを発します.ところがこのフンタがどんどん急進化して,共和主義者のたまり場の様相を呈するようになります.

 こうなると新大陸の人達はこれまでの支配層もふくめて困惑してしまいます.ナポレオンにつくべきか,幽閉されたフェルナンド王につくべきか,はたまたカディスの共和主義者のキビに付すべきか,とにかく態度を決めなければなりません.

 当時のキューバ総督ソメルエロス侯は旧王政の復古を目指し,ナポレオンに宣戦布告します.ナポレオンの派遣した特使は到着まもなく処刑されてしまいます.

 いっぽう現地生まれのクリオージョにとっては,我が身の安泰もさることながら,これを機会に独立して欧州列強と自由に貿易を発展させたいのが本音です.この本音にそれぞれの派閥,それぞれの大義名分がつきますからずいぶんと複雑です.ともかくさまざまな思惑をもちながら新大陸全土でクリオージョの反乱があいつぎます.

 18世紀末から19世紀はじめにかけて,キューバでも数え切れないほどの反乱や独立計画が発生しています.まずクリオージョたちは,弁護士インファンテを中心に独立運動を起こします.その意志を継いだ農園主ロマン・デラ・ルスは,スペイン軍に対して反乱を企てますが失敗に終わります.(2)12年,バヤモで起きた自由黒人アポンテの陰謀は,ハイチの黒人政府と連絡を取りながら計画が進められたという点で特筆されます.

José Antonio Aponte

 16年にナポレオンが失脚し,本国が王政復古すると,いったん闘いは衰退します.ハバナでは王党派が参事会を握り,中南米の解放運動に対する反動派の出撃基地となりました.

 しかし20年代に入ると,メキシコや南米での解放運動勝利を受け,ふたたび運動が高揚します.21年には,レムスらの独立をめざす秘密結社「ボリーバルの太陽と光」が反乱を起こします.さらに数年後,ボリーバルの支援を受けた「黒鷲大隊」がベネズエラから進攻し,独立戦争の開始を図ります.(3) しかしカマグエイ南方に上陸した部隊は,まもなく捕捉され,結局スペイン軍の餌食となってしまいました.

 南米全土を解放した英雄シモン・ボリーバルは,新大陸諸国が団結してスペイン支配の最後の砦キューバを解放するよう,各国に呼びかけます.しかしもう一方の雄であるメキシコはこれに賛同せず,結局キューバにおける独立運動は尻すぼみに終わります.

 

・独立なき経済改革

 かくしてキューバは,ラテンアメリカをおおいつくした独立運動の嵐から取り残されてしまいました.その最大の理由は,キューバがラテンアメリカの独立を抑えようとするスペイン軍の出撃基地となり,強力な軍が駐留していたことです.同時にペニンスラールであろうとクリオーリョであろうと,国内支配層が奴隷制維持の立場では一致していたこともあげられるでしょう.

 中南米諸国の独立運動の旗には,例外なく奴隷制廃止のスローガンが書き込まれていました.しかしハバナやサンチアゴの富裕層の最大の収入源は奴隷貿易であり,地方の農園主は大量の奴隷を必要としていました.彼らの最大の関心は奴隷制の維持にあり,最大の恐怖は奴隷が国政の主人公となった隣の島,ハイチにありました.

 キューバでは独立運動の代わりに,むしろ富裕層を抱き込んだ総督府による「上からの改革」が主流となりました.18世紀末ハバナの富裕なクリオージョ,アランゴは欧州歴訪の結果,国内の産業奨励の必要を痛感します.帰国したアランゴはさっそく仲間を集め「祖国の友」経済協会を設立,当時最先端の蒸気機関を輸入してサトウキビ圧縮への応用を試みるなど経済発展に尽くします.

 1810年,ハバナ総督府はタバコの専売制を廃止し,ハバナを完全自由貿易港とするなど一連の経済改革を打ち出しました.現在の中国のようなもので民主化なき自由化です.本国の自由主義的憲法のキューバへの適用は拒否され,奴隷貿易はますます拡大しました.これを批判した英国領事は国外に追放されました.

 砂糖産業の大規模化が急速に進みました.土地所有に対する制限が撤廃され,大規模な砂糖農場が出現します.従来ハバナ中心であった砂糖農場は,中部や東部へ拡大していきます.(4) 全土に2千の砂糖プランテーションが形成され,55万の奴隷労働により世界の砂糖の1/4が生産されるようになります.

 砂糖輸送のためラテンアメリカ最初の鉄道が敷設されました.なんと本国スペインより10年も早い1837年のことでした.米国向けの輸出が急増しキューバの総輸出の8割が砂糖で占められるようになりました.

 

・経済発展と階級分化

 砂糖農業の発展は三つの階層を生み出しました.ひとつは砂糖貴族と呼ばれる強力な富裕農園主層です.彼らは奴隷制を維持しようとする考えでは一致していましたが,そのためにこれまで通りスペインについて行ったほうがよいのか,米国に乗り換えたほうがよいのかについては意見が分かれました.当時スペインは英国の圧力を受け,徐々に奴隷制度廃止の方向に動き出していたからです.

 その点米国,とくに南部諸州は奴隷制度の堅固な支持者でした.米国につくことでスペインの圧制を逃れ,ついでに奴隷制も維持してもらおうという立場をとるものたちは併合主義者とよばれました.(5)

 スペイン本国の没落が加速されるのにつれて,その結果本国の税金や金利が苛酷なものとなるにつれて,いっぽうで米国への貿易依存が高まるにつれて,併合主義者が勢いをまして行くことになります.併合主義については次の章でふれます.

 第二の階層は,経営の大規模化にともない,競争に敗れ没落していく小農層です.とくにコーヒーや煙草の製造業者は,米国の保護貿易の影響をまともに食らって崩壊の憂き目にあいます.彼らの一部は伝来の土地を離れハバナに出て労働者となり,富裕層のサービスをつとめたり小商工業者に転進したりしました.またかなりの人たちが米国,とくにフロリダに移民しています.彼らはその後長年にわたり独立運動の揺るぎない支持者となっていきました.

 この階層を代表する知識人としてバレーラ神父があげられます.本国の自由主義革命に影響を受けたバレーラは,サンカルロス神学校に憲法講座を開き,奴隷制廃止など共和思想の啓蒙に勤めます.フェルナンドが復位したスペインはバレーラに死刑を宣告,刺客を送り込みます.かれは米国に逃れ,フィラデルフィアで独立を訴える新聞「エル・アバネーロ」を発行します.

 第三の階層は当時人口の半分を占めるといわれる黒人層です.彼らはもともと奴隷として連れてこられたのですが,その一部は解放奴隷や自由黒人となり,黒人解放の運動の先頭に立つようになるのです.

 黒人のたたかいとして歴史に残るのが,1843年11月マタンサスにおける蜂起です.新奴隷法に反対して立ち上がったかれらのスローガンは,奴隷制廃止と人種差別の撤廃でした.このたたかいの主体は自由黒人であり,それを中心に黒人奴隷と一部白人をまじえたものでした.

 スペイン政府はこの反乱に血の弾圧でこたえました.数百人が殺害され4千名が逮捕されました.事件の容疑者はハシゴに結わえられ鞭打ちで自白を強要されました.このことから反乱はのちにハシゴ(La Escalera)事件とよばれるようになりました.マタンサス(虐殺)という物騒な地名は恐怖と悲劇の象徴となりました.(6) 一部の黒人は山に逃げ込みパレンケと呼ばれる閉鎖社会を作っていきます.

 おなじような黒人の反乱は実は新大陸全土で巻き起こっていたのです.たとえばジャマイカではおなじ時期に,黒人1万人が2年にわたり抵抗を続けたモンテゴ・ベイの反乱が発生しています.米国でも奴隷制廃止の声が高まるなかで,南部から北部へ黒人奴隷を逃亡させる「地下鉄道」とよばれる秘密ルートが確立しつつありました.ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」が発表されたのもこの頃のことです.

 なおマタンサスの反乱の先頭に立ってたたかい死亡した女性カルロタの名は,のちにアンゴラでのたたかいにふたたび登場します.キューバ軍は南ア軍との最大の決戦を「カルロタ作戦」と命名し彼女の英雄的行動に敬意を表したのです.

 


 

その前,1790年にはロサリオ鉱山で黒人奴隷の大規模な反乱が発生しています.鉱山主は首謀者12名を処刑し,その首を晒しました.

デラ・ルスに資金を提供したのは,ナポレオンを支持するフランス人地主だったといいます.

キューバが60年代にベネズエラにゲリラ部隊を派遣したのも,140年前の「黒鷲大隊」とおなじ心理機転でしょう.ベネズエラとキューバの「一衣帯水」ぶりも認識しておく必要があります.なにせベネズエラ北岸とキューバ南岸は直線距離で500キロ,東京=博多よりも近いのです.

元々砂糖生産は16世紀半ばからオリエンテで開始されました.しかし大量の黒人奴隷を使う大規模な砂糖生産は,18世紀後半に入ってハバナを中心に急速に発展したものです.

併合主義者の代表がアランゴであり「祖国の友」協会でした.

マタンサスはハバナから東へ50キロ,映画「公園の午後」の舞台にもなった風光明媚な港町です.昔ブタの屠殺場があったことからこの名がつけられたようです.
 

 

(2)米国の南方進出

・モンロー宣言と「熟れたリンゴ」

 この時を待っていたのが米国です.あい闘ういずれの側も勝たせることなく両者を徹底的に疲弊させよう,そして漁夫の利をしめよう,あわよくば併合してしまえ,というのが米国の戦略でした.

 そもそも米国のキューバ獲得の狙いは,19世紀はじめ以来ずっと一貫しています.米国は独立をかちとるやいなや膨張政策を開始しました.1803年には戦費捻出に苦しむナポレオンから134万平方キロにおよぶルイジアナ植民地を買収します.そこはアパラチア山脈からミシシッピ川までの広大な土地で,独立当時の13州を合わせた広さに匹敵します.

 これに勢いを得た米国は,つぎに南方のフロリダを虎視眈眈と狙いはじめました.当時のフロリダは半島部だけでなく,ミシシッピ河口におよぶメキシコ湾岸一帯をふくむ広範なものでした.1810年10月時の大統領マディソンはそのフロリダの西部を併合すると一方的に宣言します.

 まずハリソン将軍が西フロリダを制圧,さらにアンドルー・ジャクソン将軍がクリーク,セミノール族をつぎつぎと撃破していきます.斜陽のスペインには,新興資本主義国米国に対抗してフロリダを守る力はもう残っていません.米国の傍若無人な侵入を指をくわえてみているだけでした.その挙げ句19年にはついにフロリダ全土を米国に割譲する破目に追い込まれます.

 しかしほんとうに米国が欲しかったのはキューバです.すでに1805年ジェファーソン大統領は次のように発言しています.「もしスペインと戦争をするようになれば,米国はキューバも手中におさめるだろう.この島はメキシコ湾の要所に位置しておりその確保は決定的に必要である」

 彼はスペインにキューバ割譲をもとめますが,スペインが首を縦に振るわけなどありません.

 米国も,フロリダを奪った上さらに海をわたってキューバまで,というのはさすがにエゲツないとみたのでしょう,「熟れたリンゴ」政策なるものをもちだします.当時の国務長官クインシー・”ニュートン”・アダムスはこう語ります.「キューバが米国に帰属しないのは,熟れたリンゴが落ちないのと同様に自然の法則に反している.機が熟せば自然に米国領となるだろう」と.

 実はこの話しには裏があります.前の年キューバの密使「サンチェス氏」が訪米しモンロー大統領と会見したという記録があります.「サンチェス氏」の背後には米国との併合で経済を発展させようとする併合主義者がいました.(1) 彼らには,独立した場合単独では黒人奴隷の反抗を抑えきれず,ハイチのようになってしまうのではないかという強い不安がありました.

 キューバ人自身が米国への併合を望んでいるのですから,米国にとってこれほど好都合なことはありません.とはいえ米国もただ黙って待とうというのではありません.世の中さほど甘くはありません.米国にとって強力なライバルは英国です.アダムスの意味深長な発言は実は英国に対する牽制なのです.先ほどの発言に続けてアダムスはこう述べています.「キューバが英国の掌中に帰するならそれは合衆国の利益にまったく反する.必要とあれば武力に訴えてでもこれを拒否する権利と力がわれわれにはある」

 

・明白な運命

 併合主義の背景を探るには,いささか回り道ですが米国の南方進出の全体像を見ておくことが必要です.1835年,メキシコ領テハスに入植した米国人が「独立」を求めて反乱を起こします.反乱の直接のきっかけはメキシコ政府が奴隷制廃止を打ち出したことにありました.黒人奴隷による綿花プランテーションを展開していた米国人には,この決定は受け入れられません.この反乱は有名なアラモの闘いなどを含んでテハス側の勝利に終わります.テハスはいったんテキサス共和国として独立しますが,やがて米国と合併することになります.

 勢いに乗る米国はメキシコに戦争を挑発,46年にはメキシコ市を占領するなど大勝利をおさめます.こうしてメキシコの領土の実に半分強を割譲させますが,あらたに領有することとなったカリフォルニアから,金の大鉱脈が発見され「ゴールド・ラッシュ」が出現します.

 これに力を得た米国,とくに南部の農園主はさらに南方進出に力を入れるようになります.彼らの狙いはカリブ海を我が庭として奴隷制に基づく大帝国を築くことにありました.このような考えを煽ったのがオサリバンというジャーナリストです.彼は「明白な運命(Manifest Destiny)」という言葉を生み出しました.この言葉は,米国には新大陸のすべてをみずからの支配下におくべき運命が天から負わされている,という意味で用いられます.
 
 
 

(3)併合主義者による運動

・ハバナ・クラブとロペスの策動

 マタンサスの暴動は農園主のあいだに「ハイチ化」の恐怖を煽る結果となりました.奴隷の暴動から我が身を守ってくれる「より強い政府」を作るため,米国との併合を望む声が強まります.ハバナでは併合主義者の秘密結社ハバナクラブ(Club de la Havana)が結成されました.フィクサーとなったのは「明白な運命」を信じるキューバ在住の米国人たちでした.

 ハバナクラブは先ほどの排外主義者オサリバンを例会に招請,オサリバンは「明白な運命」に関する持論をとくとくと語ります.帰国後大統領と面会したオサリバンは「キューバの富裕層は奴隷の反乱を恐れており,これを抑えつけるために独立よりも米国との併合を望んでいる.彼らは米国がキューバを購入するなら,そのための資金1億ドルを供出する用意がある」と報告します.この報告に色めき立ったイエロー・ジャナリズムは「キューバはわれわれのものだ,キューバをよこせ,そうすればわれわれは完全になる」と扇動します.

 烈火のごとく怒った総督府は,併合主義者に対して過酷な弾圧を開始します.このためハバナクラブの活動家は亡命を余儀なくされますが相変わらず意気軒昂です.48年はじめ,ベタンクールらを中心とする亡命キューバ人は,ニューヨークに評議会(フンタ)を結成,メキシコ戦争の「英雄」ワース将軍に部下5千人とともにキューバに侵攻するよう要請します.

 フンタが発行した「真実」紙創刊号は宣言します.「キューバ人は米国が力強くわれわれを守ってくれることを知っている.そして親密なる米国の手にとびこむ用意が出来ている」と.さらに「5万の米国人が白人救出のためにキューバに上陸してくる」というデマ宣伝まで披露します.

 併合主義の高揚は一人の「梟勇」を生み出しました.ナルシソ・ロペスです.彼はもともとがベネズエラの生まれで,独立戦争のときは王党派に加わり独立軍とたたかった経歴の持ち主です.王党派軍敗北の後キューバに移り住んだロペスは,資産家の仲間に入り併合主義者の一員となっていました.

 徹底的な保守主義者のロペスは、黒人奴隷たちの起こしたマタンサス暴動に強い衝撃を受けました.こうして彼はエスカンブライ山中に所有するロサ鉱山を根城に反乱をくわだてます.彼の組織はマタンサス,ラスビリャス州一帯に拡大しシエンフエゴスで蜂起することになりました.ロペスの陰謀を知ったハバナクラブはワースの侵攻作戦との合体をはかります.

 この計画を知った米政府は「成功の見込みのない蜂起はキューバ併合を遅らせるだけ」と判断,計画を密かにキューバ総督に通報します.汚いといえば汚い話しです.米政府はこれを手みやげに密使をマドリードに派遣,1億ドルを上限としてキューバ購入の交渉に当たります.しかしこの交渉は米国の新聞にすっぱ抜かれ流産してしまいます.

 ロペスは危うく難を逃れ米国亡命に成功します.しかし今度は肝腎のワースが死亡してしまいました.すべてが終わりかと思われましたが,このくらいではロペスはへこたれません.今度はキューバの「ハイチ化」を恐れる南部諸州の援助を受け,みずからの部隊を組織しはじめます.

 スペインはこの計画を察知し米政府に抗議します.これを受けた米政府はニューヨーク停泊中の二隻の船を押収,ロペスにとって二回目の反乱計画は失敗に終わります.

 ニューヨークでの活動は危険とみたロペスは,南部を代表する大物でミシシッピ州知事のキットマンを頼り南部に拠点を移します.キットマンは奴隷制支持の膨脹主義者で,テキサス「独立」戦争とメキシコ戦争に参加,メキシコ占領軍の司令官も勤めた人物です.(2)

 

・ロペスとキットマン

 今度はうまく行きました.キットマンの支援を受けたロペスは,三隻の船に米人雇い兵6百名を乗せニューオリンズを出航します.このとき部隊が掲げた旗は現在もキューバ国旗として用いられています.旗に描かれた星はいずれ米国旗の星の一つとなるはずでした.

 50年5月部隊はカルデナスに上陸します.しかしそこにはスペイン軍が待ちかまえていました.激しい反撃に遭ったロペスはわずか数時間後でふたたび船に戻りキーウェストに撤退します.米官憲は帰還したロペスを中立法違反で逮捕してしまいます.

 失敗に終わったとはいえ,初めて「キューバ国旗」を掲げてたたかったロペスの行動は,キューバにも米国にも大きな反響を呼びました.南部の農園主達はロペスに熱狂的な支持を与えます.キューバ国内でもこの行動に呼応してグアイマロやトリニダで小規模な蜂起が起きます.(3)

 すっかり時の人となったロペスは彼にとって4度目の反乱計画を立てました.そしてこれが最後の作戦となります.前回を上回る部隊を編成したロペスは,51年8月,今度はハバナの西方バイア・オンダに上陸しました.ここで陣を整えたロペスはハバナに向け進軍を開始しますが,はやくも翌日にはスペイン軍の待ち伏せに遭い一網打尽となってしまいます.ハバナに連行されたロペスはまもなく刑場の露と消えます.

 併合主義者の策動はこれで終わったわけではありません.彼のあと第2第3のロペスが侵入作戦を繰り返します.なかで一番の大物はキットマンその人です.

 53年,ニューヨークのフンタはキットマンに侵攻作戦を直接指導するよう要請します.成功の暁には彼を軍民両面にわたる指導者にすえるという条件です.キットマンはフンタの要請をよろこんで受諾しました.その背景には折から深刻となった米国内の南北対決があります.彼は「もし北部が併合を拒否すれば南部はキューバとともに新たな国家を作るだろう」とまで発言します .

 キットマン将軍が侵攻を準備しているというだけでもスペインにとっては強烈な脅威でした.逆に国内外の併合主義者にとっては大きな励ましです.

 このときハバナに入港した米国の船が積み荷を没収されるという事件が発生しました.ピアース大統領は「米国の名誉と安全にたいする重大な侵害であり,非平和的手段による解決も辞せず」と洞喝します.

 ときのキューバ総督コンチャはこれに対抗して準軍事組織「ボルンタリオ」を結成します.英語で言えば「ボランティア(義勇兵)」です.これにはハバナの商業資本家をはじめスペインに忠誠を誓う有力者が結集します.

 やがてピアース大統領も南北戦争前夜の緊張から,キットマンの野望に警戒感を強めるようになります.その計画を牽制するため「米国内での外国に敵対する軍事的活動を禁止する」とわざわざ声明.「平和的方法で」キューバを獲得する方針を確認します.

 その背景には英仏両国の圧力がありました.両国は「将来にわたって誰もキューバ領有を目指さない」という三国協定案を提示します.ピアースはこの提案を退けたものの,武力侵入について強い足かせをはめられることになりました.

 55年2月,キューバ国内にキットマンとつながる二月蜂起計画が発覚しました.コンチャ総督はただちに戒厳令を敷き,国内のフンタ代表を摘発し,首謀者を死刑に処します.1年がかりで積み上げてきた計画がこれでご破算になりました.ピアース大統領はこれを機にキットマンが冒険から手を引くよう説得します.キットマンはついに侵攻計画を断念,フンタに計画からの完全撤退を通告します.目標を失ったフンタは解散します.これで一応併合主義者のおおがかりな運動は終焉を迎えます.

 

・併合主義がもたらしたもの

 併合主義が清算されたのは,侵攻作戦の失敗によるというよりも国際環境の変化によるものでした.最大の変化は米国の本性が誰の目にも明らかになったことです.それがオステンド宣言です.54年英,仏,西駐在の米国大使がベルギーのオステンドに会合,キューバの「ハイチ化」を警告するとともに「合衆国は人間ならびに神の名によるすべての法律によって,キューバを実力で手に入れる権利を持っている」と宣言します.

 本来オステンドを待つまでもなく米墨戦争,「明白な運命」論などで米国の侵略的本質は明らかではあったのですが,惚れた欲目というかキューバの人たちにはどうしても米国人は悪人とは思えなかったのです.

 しかしさすがに今度は違います.米国内ですら「宣言」が発表されるとこれは「強盗宣言」でしかないと強い批判を浴びる始末です.もはやどんな楽天的な人の目にも,米国を西部劇で最後に助けに来る騎兵隊のようにとらえるフィクションは通用しなくなりました.

 もう一つは,キューバの解放はキューバ人民が責任を持つ以外ないということです.米国に正義の味方キットマンおじさんがいて,自分たちをキット解放してくれるというのは幻想に過ぎません.少なくとも自分たちが血と汗を流して戦わない限り,外国からの援助も連帯もないのです.だとすればその闘いは誰かと併合するためではなく,まずもってスペインから独立するための闘いでなくてはなりません.まずみずからの力で独立して,そのあと米国の一部となるか独自の道を歩むかは自主的に決めましょう,ということです.ここに併合主義から独立運動へのブレイクスルーがあります.

 

・併合主義者のその後

 度重なる挫折にもかかわらず残った併合主義者は,三つの流れに分裂していきます.併合主義者のもっとも良質な一人サコは「キューバと米国との共同」を発表,米国との協調は「それがキューバに政治的自由をもたらす」限りにおいてであると主張します.それは多くのキューバ人の共感を獲得し次の世代に受け継がれていきます.彼を継ぐものたちは,スペインからの独立と奴隷制の廃止を実現したあかつきに,その土台の上にキューバ共和国を設立するよう主張するようになります.

 もう一つはもっとも悪質な流れです.奴隷制を擁護する農園主たちはハバナ駐在のロバートソン米領事と会見,一刻も早く米国がキューバに侵攻し断固として奴隷制を擁護するよう要請します.

 三つ目はあくまでも併合主義本来の思想を貫こうとする集団です.その代表がゴイクリアでした.彼は56年米国人ウォーカーと会いキューバ侵攻を依頼します.その見返りとして20万ドルを提示します.「七人の侍」で村の庄屋が悪人をやっつける用心棒を雇うようなものでしょうか.ウォーカーはこの提案を快諾しました.ゴイクリアは手兵250人を引き連れウォーカーの私兵団に参加することになります.

 ところで,このウォーカーというのはとんでもない男で,中米史上に名を残す悪漢です.主題とは外れますが少し触れておきます.

 彼の戦争ヤクザとしての経歴は米墨戦争中に始まります.戦争のどさくさにまぎれて大儲けをねらうウォーカーは,私兵団を組織しカリフォルニア半島に侵入,バハ・カリフォルニア共和国なるものをでっち上げます.結局メキシコ軍に追い払われ国に帰りますが,今度はニカラグアの内紛に乗じて私兵団を繰り出し,国家そのものを乗っ取ってしまうのです.

 みずからニカラグア大統領となったウォーカーは,奴隷制度を復活させ米国人を頂点とする独裁国家を建設しようとします.ゴイクリアはウォーカーの実態を見届け戦線を離脱していきます.なおウォーカーはまもなく中米諸国連合軍により放逐されますが,ロペス同様成功の味が忘れられず,二度三度と侵入を試みます.とどの挙げ句は中米軍に捕らえられ処刑されています.

 併合主義の評価には難しいところがあります.彼らの言うところをそのままに受け取るならばとんでもない反動的な運動です.今日のわれわれが見れば,米国に寄せる信頼感もばかばかしいほどウブなものです.にもかかわらず併合主義運動は後に続く独立運動の源流となったのです.

 この運動に併合主義というレッテルを貼るのが正確かどうかも微妙なところです.彼らの思想は米国への併合というよりは「反スペイン」と「分離主義」という点で民衆の支持を受けていました.政治的,階級的に未分化な時点ではこの運動は革命的でさえあったのです.たとえばロペスが進攻にあたって掲げた旗印は今日のキューバ国旗の原形となっています.ベタンクールはのちに独立戦争に参加していますし,彼の一族に属するシスネロスは反乱軍政府の大統領までつとめています.

 われわれはこの運動を,彼らの実際にやったことだけではなく「主観的な思い」からも評価しなければなりません.かなり強引ではありますが「歴史的に見た併合主義」とは米国の助けを借りての一種の独立運動であった,少なくともそういう一面を持っていたと評価すべきではないでしょうか.

 

この頃併合主義者が最初の秘密結社「ハバナ党」を結成,政府転覆の陰謀を巡らせたとされています.

2 米国南部の保守層には環カリブ構想ともいうべき地政学的発想があるようです.ニカラグアを支配したウォーカーも環カリブ奴隷帝国を提唱しています.のちに「カリブ殺人会社」を築き上げることになるCIAにもこの思いがあったのではないでしょうか.

3  ロペスは当時のキューバ人には「独立の志士」と映っていたようです.たとえばロペスに呼応してグァイマロで立ち上がったアグェーロは,当地の奴隷解放協会の指導者だったといわれます.

 

(4) 独立戦争前夜

・リンカーンの大統領就任

 併合主義の背後にはキューバ併合をねらう米政府がありました.しかし60年に併合主義反対のリンカーンが大統領に当選すると,米国内の支持を失った運動は急速に消滅していきます.

 このとき米国内に南北戦争が勃発します.この「内戦」は両軍あわせて60万人が戦死するという歴史上類をみないほどの大戦争となりました.このため米国の対外進出は一時ストップがかかります.さらにこの戦争により南部の奴隷制支持派が壊滅したこともあり,しばらくのあいだは新大陸全体に一定の進歩的,共和主義的な政治思想が席捲することになります.メキシコのファレスにとどまらずグアテマラ,ベネズエラ,コロンビアなどでも自由主義者による支配が始まります.

 併合主義が衰えたのは,キューバ総督府が融和主義的態度で臨むようになったことにも原因があります.有産階級は改革主義クラブを設立,スペインの支配を認めつつその枠内で自治の確立,軍民分離を要求するようになります.併合主義に代わって改革主義が主流を占めるようになりました.

 地主層はかつて奴隷制擁護論者であり,その故に併合主義者でした.しかしいまやますます奴隷制の廃止を要求する国際的圧力は強まります.自由貿易をすすめ砂糖輸出を拡大するために奴隷制は桎梏となってきました.今の日本でいう「外圧」です.  

 黒人奴隷の値段はべらぼうに騰貴し,いっぽうで奴隷に代えて導入されるようになった自由労働者や契約労働者は,はるかに勤勉で高い生産性を示しました.しかも「自由な労働者」であるが故に使い捨て自由という利点を持っていました.奴隷制を擁護すべき現実的根拠が失われてきたのです.

 奴隷制こそは遅れた社会の象徴であり,奴隷制を廃止しなければ近代化は達成できず,やがてみずからの没落も免れえない,これが改革主義者の結論となりました.(1)
 

・最初の生産恐慌

 57年,米国はキューバ産タバコにたいする関税を引き上げました.これが米国内の恐慌と重なりキューバの産業は壊滅的危機に陥ります.その影響はとくに中小零細農家を基盤とするタバコ産業に深刻でした.当時タバコ労働者1万5千の内1/3が失業したといわれます.彼らの多くはフロリダなど米国に移住して行きました.残った労働者は身を守るため自主的組織を結成します.なかでも有名なのがサトゥルニオ・マルティネスです.彼はタバコ労働者を対象とする週刊誌「アウロラ」を発行,全キューバ労働者の団結を訴えます.以後タバコ労働者はキューバの中でも外でも,肌の色を問わずもっとも戦闘的な伝統を守り続けました.

 60年代にはいると今度は砂糖産業が構造不況の時期を迎えます.欧州各国で甜菜生産が奨励されキューバ産砂糖は排除されるようになりました.アジアやアフリカなど多くの国で砂糖が栽培されるようになり,競争は激しさをましてきました.砂糖の国際価格は着実に下がり続けていました.この競争に打ち勝つためには経営を大規模化し,蒸気圧搾機など技術導入によりコストを削減しなければなりません.さらに輸送機関や貯蔵施設などへの投資,その金利返済なども大変な重荷です.奴隷労働の上にあぐらをかいていた農園主は次々と没落していきます.トリニダーの成金達もこの時期に零落していきます.(2)

 かつて世界でも一二の生産量を誇ったコーヒー産業も同様の運命をたどります.打ち捨てられた畑は鋤き返され砂糖農場に転換されていきます.(3)

 

・レルスンディの反動政治

 67年不況の立役者は超保守主義者の新総督レルスンディです.この年始め着任したレルスンディは税制を抜本改悪,徴税対象を大幅に拡大しました.さらに12%までの税率引き上げを打出します.そこへ追い打ちをかけるように57年を上回るような不況がやってきました.南北戦争により米国の購買力が伸び悩んだこと,さらに戦後米政府が保護貿易主義をとったことから生産過剰を起こしたためです.

 それまでの十年間ほどは比較的おちついた時代が続いていました.本国政府もキューバの政治的安定に心を用い,改革主義者や労働運動に対しても寛容な姿勢を見せていました.(4)ところがレルスンディはキューバ人に認められた権利をすべて否定,自由主義者を弾圧し労働運動指導者を一斉逮捕します. (5)

 レルスンディには密かな狙いがありました.彼は亡命中の女王を押し立てスペインに王政を復古させようとしたのです.キューバからの収奪はそのための資金とされました.彼は併合主義者の侵入に備え結成された准軍事組織「ボルンタリオ」を基盤に,王政支持を誓う「純粋スペイン党」を結成します. (6) 改革主義の影響が強まるにつれ危機感を持っていた奴隷制維持勢力は,レルスンディと結託するようになります.

 改革主義者はレルスンディを更迭しようと植民地省と交渉しますが,保守派の抵抗を恐れる本国政府は煮えきらない姿勢に終始します.

 王党派と改革派の対立は抜き差しならないものとなりました.もはや独立以外にキューバ国民の要求を実現することは不可能になりました.いっぽう奴隷解放をもとめる黒人たちは命がけで農園主に抵抗をくりかえします.改革ではなく独立を,そして奴隷制の即時廃止をスローガンとして闘いが開始されるためには地主層の急進化が鍵となります.

 前の章でも触れましたが,ハバナを中心とする西半分は鉄道が敷かれ大規模な砂糖プランテーションが続出,飛躍的な発展を遂げていました.これに対し東半分は経済発展に遅れをとっていました.そこでは依然として半封建的経済システムの下で本国政府の支配が貫徹されていました.二つの地方を結ぶ鉄道が開通したのはなんと第二次独立戦争の終わった1898年のことです.

 しかし60年代に入ると急速に東部にも開発の手が入るようになります.インヘニオと呼ばれる伝統的な砂糖農場,コーヒー農園や牧場,それを取り囲む広大な森林地帯がつぶされ,プランテーションに変貌していきます.米国と結びついた新興プランターが肩で風を切って歩くようになり,古い格式を誇る農園主たちは片隅に追いやられることになります.

 恐慌の影響は経済構造の激変期にあった東部にいっそう厳しいものとなります.東部の人々は地域の支配層もふくめ強い危機感を持つようになります.そこでは黒人や中小農民だけではなく地域の根こそぎ抵抗が組織されていきます.そしてそれが起爆剤となって,全土を巻きこむ反権力の運動が高揚していくことになります.

 

・ビセンテ・アギレーラとセスペデスの陰謀

 67年4月バヤモの有力者ビセンテ・アギレーラは,オリエンテ各地の有力者を集め,独立をめざす戦闘部隊結成を画策します.計画に呼応する有力者40人,その中にはマンサニーリョ近郊の農園主セスペデスもいました.セスペデスはスペイン留学中革命運動に参加し投獄された経験も持つベテラン,その経験を買われ反乱軍の軍事指導者に指名されました.

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 オリエンテ最大の都市サンチアゴも動きはじめます.(7)

 ここのフリーメーソン組織はサンチアゴの有力者を網羅し,改革党の牙城となっていました.若きアントニオ・マセオも参加していました.上層部はバヤモからの呼び掛けに対し優柔不断な態度を続けますが,マルモールらの急進派はボス連中の思惑など関係なく,どんどん計画を進めていきます.オルギンではカリスト・ガルシア,カマグエイではベタンクール,シスネロスらが行動を開始します.こうしてオリエンテ全土で武装蜂起の準備が重ねられていったのです.7月,オリエンテの有力者が秘密裏に会合,12月を一斉蜂起の日と決めます.

 折からスペイン本国では国王を打倒する「栄光革命」が勃発,保守派の黒幕イサベラ女王はフランスに亡命します.レルスンディは革命に公然と反対,これまで以上に改革主義者への弾圧を強化します.

 もう一つ大きな事件が起こりました.9月23日,独立運動をともに進めてきたプエルトリコの活動家が,一足早く「ラレスの宣言」を発し反乱を開始したのです.この反乱は実際にはそれほどのものではなかったようです.プエルトリコ南部の町ラレスを数百の独立派部隊が攻撃.これに呼応して市内の労働者や黒人奴隷も決起しました.この蜂起はただちに鎮圧されてしまうのですが,「プエルトリコが反乱を開始した」というまさにその事実が,衝撃となってキューバ全土を駆けめぐりました.(8)

 

   

 改革主義者は63年,改革党を結成.「世紀(El Siglo)」という出版物を出したことからシグリスタとも呼ばれます.改革推進に理解を示すセラーノ前総督を窓口に,本国議会へのロビー活動を強めました.

30年代からキューバ中部に砂糖栽培が広がり,その中心となったトリニダーにはホープ,アウダシアス,ギャンブル,コンフィデンスなど大農園主が栄華を誇りました.家の床には金が敷き詰められたということです.まさに成り金趣味です.これら4大財閥と言われた砂糖成金は20年足らずで没落,現在のトリニダーは観光以外にはこれと言った産業もない田舎町になり果てています.交通が不便ですが,それだけに黄色に塗られた豪華な家並みが残され,世界遺産に指定されるほどの観光スポットです.余裕のある方にはぜひ一見をお勧めします.

 現在もキューバのコーヒー,とくにクリスタル・マウンテンなどはコーヒー通のあいだでは高い評価を受けています.AALAでも扱っていますので,ぜひ一度お試しください.

 セラーノ前総督が,キューバの地位向上に奔走.これを承けたスペイン政府は,保守派の反対を押しきりキューバに16議席,プエルトリコに4議席を与える決定を下しました.選出された議員の大半は改革主義者でした.

5 スペイン本国で改革派の内閣が倒れ,保守派の政権に変わってから,すべての動きが逆転し始めました.

6 これに対して改革主義者は雑誌「世紀」に拠っていたため世紀派(シグリスタ)と呼ばれました.

 サンチアゴの反中央の精神はすごいものです.サンチアゴで現地の人と飲む機会がありました.有名なラム酒で「ハバナクラブ」というのがあります.このラム酒の工場はハバナとサンチアゴとにありラベルの隅に小さくそれが印刷されています.そこに指を立てて彼はまくしたてます.「酒を買うときにゃここを見ないとだめだよ.サンチアゴの5年物はハバナの7年物に相当するんだ.どうだい!」 そういって私の顔をのぞきこみます.飲んでみるとたしかに香りが強く味も違います.そういったときの彼のうれしそうな顔,それからえんえんとサンチアゴ自慢が始まりました.大阪や京都の反中央精神も相当なものですが,サンチアゴの比ではないようです.

 この反乱は,ドミニカ亡命中の独立運動家ベタンセスの呼び掛けに応え,ラレス在住のマヌエル・ロハスらが組織したもの.

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