A.シエラ攻防戦後の政治路線と軍事戦略
(1)カストロの新路線
・カラカス宣言で全政治勢力を結集
国内外の雰囲気はいっきに変わりました.反政府勢力内でのM26の権威は揺るぎないものとなりました.闘いの真っ最中の7月20日カラカスで反バチスタ各派の会議が開催されます.M26のほか真正行動(プリオ派),真正党反乱派(バローナ派),DRおよびFEU,市民抵抗,労働統一,モンテクリスティ・グループ,独立民主党などPSPを除く反バチスタの8党派全てが結集しました.
会議はカストロの支持を受けバローナの起草したカラカス宣言を採択します.「宣言」はシエラ以外のたたかいも評価する一方、武装蜂起を唯一究極の戦略として承認します.そしてキューバ解放後は自由選挙により民主的政府を樹立すること,共同候補としてウルティアを推薦することで合意しました.
7月26日ラジオ・レベルデは臨時革命政府の綱領を発表します.その政策上の柱はカラカス宣言とほぼ同様の内容です.注目されたのは,文民支配の原則を尊重しゲリラ自らは政権に就かないとあらためて表明したことでした.
要するにM26の武闘路線支持を交換条件に思い切った穏健・中道よりのスタンスをとったわけです.反米的な主張はまったく見られません.革命勝利の決定的な鍵は米国の中立を,少なくとも不干渉を保障することだという視点があったのでしょう.メイン号の二の舞はまっぴらです.武闘路線の断固たる主張は,軍部が「バチスタなきバチスタ体制」を狙って「予防クーデター」を実行することがもっとも危険と考えたからです.
経済,農業政策などの具体化が進まなかったのは,もちろん戦闘が山場を迎えてそんなことを考えている暇などなかったのが最大の理由でした.しかしゲリラ内部での意見の対立,具体的には左派の影響力増大とフィデル自身の左翼化にともなう両者の軋轢が関係していました.
シエラの激戦を影になりひなたになり支えていたのは,サンチアゴの青年たちだけではありませんでした.むしろシエラに住み続け,苦難の生活を強いられ続け,フィデルらのたたかいに未来を見出し,命をかけて戦闘に参加してきた農民たちこそゲリラの真の支えでした.農民たちの生活を変え,搾取と収奪の社会構造を根本的に変えること以外に革命の勝利の展望は生まれません.そもそもこの革命の意義がなくなってしまいます.そのことが一人ひとりのゲリラ隊員に骨身にしみて感じられるようになりました.
農民に依拠する姿勢が貫かれた典型が東部第二戦線です.シエラ・クリスタルは社会主義の一種の実験場でした.ラウルは支配区内で町ごとの農民委員会を作りました.委員会には多くの社会主義者が参加し,学校や病院の建設,道路や電話線の敷設など地域変革に取り組み始めます.この農民委員会を基礎に「武装農民会議」が創設されます.こうしてシエラクリスタルでは50万人の住む1万2千平方キロの地域にゲリラの実効支配が確立されていきます.
・攻防戦後の軍事的力関係の変化
シエラ攻防戦を境に力関係はどのように変わったのでしょうか.軍事的関係は大きな変化はありません.もともとゲリラを叩きつぶそうとしたバチスタ軍がそれに失敗してもとの陣地に戻っただけのことです.ゲリラにこれを追撃する力などありようもありません.しかし政治的な力関係は一挙に変わりました.ゲリラは世界に対し胸をはって「内戦状態」を宣言できるようになりました.バチスタは「裸の王様」となりその権威は一気に地に落ちました.
これまでバチスタを支持していた層のなかからも,抜け目なく「ポスト・バチスタ」を狙う勢力が登場しはじめます.たとえば「モンテクリスティ」のバリリョはCIAに接近し、ピノス島収監中のバルキン脱出作戦を提示します.ほかにも現職の農相が米国に軍部による予防クーデターを進言するなど,米国への忠誠を訴える連中が続発します.この国の資本家階級の骨の髄までしみこんだ売国精神を見せつけられる思いです.
・全土武力解放と軍解体の戦略確定
闘いが勝利に終わったあとシエラでは2週間をかけて新しい戦略が検討されます.
反乱軍にとって明確なことが一つありました.それは敵はバチスタ個人ではなくそれを支えた軍隊,警察,準軍事組織など暴力装置そのものだということです.バチスタの持つ権力機構のトータルな破壊こそが最終目標とならなければなりません.そこには平和的なあるいは妥協的な路線が入り込む余地はありません.
戦術的にはいずれ政府軍と真っ向から正規戦を挑むことになります.都市ゲリラによる武装蜂起やゼネストの路線などさまざまな戦術的オプションのなかで,それはもっともきびしい犠牲を自らに強いるものです.
しかしその路線はM26がライバルの勢力に対して優位に立ち,統一的に指導していくためにとりうる唯一可能な戦略でもありました.そして結果的には,最大の同盟部隊となるべきPSPを武装共闘に巻き込んでいくための最良のオプションともなりました.
オリエンテのPSP党員や活動家はM26につぎつぎと合流したたかい始めました.オリエンテとならぶPSP第二の拠点ラスビリャスでは,ナルシサの製糖労働者がトレスのもとマキシモ・ゴメス部隊を組織します.彼らは州北東部のバンブラナオ山地に拠点を構えゲリラ戦を開始します.州北部の労働者はパネーケの指揮のもとマルセロ・サラド北部戦線を結成します.
・ゲバラとカミロ,西へ
伝令マルセロ・フェルナンデスを迎えるフィデル。
フィデルの左はシロ・レドンド。右はカミロ・シエンフエゴス。
シエラから敵を駆逐したからといって喜んでばかりはいられません.今こそ急速に戦線を平原へそして全国に拡げなければなりません.その形態もゲリラ戦にとどまらず状況によっては正規戦を組み合わせたものとなるでしょう.フィデルは8月18日から19日にかけ連続十時間にわたり戦闘の総括と今後の展望について演説,農村から都市を包囲する戦略を打ち出しました.彼は「ゲリラ戦争の時代は終わり,陣地戦と機動戦に移らなければならない」とし「攻勢に移れ」と演説を結びます.
農村から都市を包囲するためにはオリエンテ以外の州の決起がキーポイントとなります.もう一つのゲリラ戦線が活動するラスビリャスに当面の目標がすえられました.・州内でで敵を撹乱しマヒさせる,・西部からオリエンテに向かう一切の交通を遮断することことを目標とするラスビリャス作戦が立てられ,ゲバラにその実行が委ねられます.またアントニオ・マセオの偉業に倣いピナルデルリオまで国土を縦断する作戦を立て,これをカミロに託します.
8月21日ゲバラのシロ・レドンド第8進攻部隊150名と,カミロのアントニオ・マセオ部隊65名がオリエンテ州から西に向け潜行を開始しました.カミロの部隊はピナル・デル・リオのゲリラとの合流を最終目標としつつ,当面はゲバラの部隊を援護しつつ前進することになっていました.
サンクティ・スピリトゥス南方でカミロと分かれたゲバラ部隊はひそかに南部沼沢地帯を進み,カミロは撹乱作戦によりゲバラを後方支援しつつ北部を進軍します.1
・オリエンテ各地への進出
オリエンテでは闘いは次の段階に移っていました.カストロはサンチアゴ制圧作戦は時期尚早と判断し当面の目標をバヤモ平原制圧におきました.ホセ・マルティ第一戦線はシエラを基点にしながらギサ,コントラ・マエストラなどシエラ北方の平野部であいついで機動戦をしかけます.部隊の先峯はサンチアゴ市への北からの入口にあたるパルマ・ソリアノまで達します.
9月末セロ・プラドで起きた夜戦は,複数の部隊の統合したはじめての大規模作戦となりました.野営中の一個師団相当の政府軍に対し,先頭部隊が口火を切ったあと砲兵隊が砲弾を撃ち込みシモン・ボリーバル名称第12部隊が切り込みます.もうどちらが正規軍か分かりません.この戦闘ではマリアナ・グラハレス名称女性部隊も直接戦闘に参加,初陣を飾っています.
アルメイダの第三部隊はふたたびエル・コブレに進出します.部隊は奇襲攻撃により1個師団をせん滅,師団長を捕虜とします.安定した支配区を確立した第三部隊はあらたに三つの部隊を編成,第二戦線に続きマリオ・ムニョス名称東部第三戦線を名乗ることになります.2第三戦線はサンチアゴへの圧力を強めるいっぽう市内のあらゆるルート通じ武器弾薬を買い集めます.
さらに北方オルギンからラストゥナスの線から海岸線までの地域に活動を拡げるため,オチョアを司令官とするボリーバル名称東部第4戦線が新たに創設されています.こうしてオリエンテの多くの村や町で昼は政府軍,夜は反乱軍が支配するという二重権力状態にはいりました.
この頃カマグエイではビクトル・モーラがカマグエイ戦線を,西部のピナル・デル・リオでもエスカローナにひきいられたゲリラが活動を開始しています.
(2)昏迷を深める支配層
・茶番と化した大統領選挙
こうなると政府軍は完全に浮き足立ってきます.とくに米国内でのバチスタ独裁批判の世論がなんともこたえます.出自の正統性を持たず徹頭徹尾米国のかいらい政権でしかないバチスタにとって,米国からの支持を失うことは即政治的死を意味します.軍事的にはまだ圧倒的なバランスを保っていても政治は軍事ではありません.
この時期米政府内の政策オプションはいくつかに分裂します.国務省内の中南米局を中心とする外交プロパーはすでにバチスタに見切りをつけていました.できるだけ早くフィデル以外なら誰でもよいとするまで切迫感を持っていました.おなじ焦るにしても国防相内のタカ派は焦り方が違います.彼らは予防クーデターをやって直接介入することを真剣に考えていました.
二つの省はその方法をめぐっては重大な意見の違いはあるものの,全体としてアイクとダレス兄弟というトロイカ体制のなかで統禦され,ポスト・バチスタへ向け動き出していました.これに対しバチスタのもっとも有力な後見人スミス米大使は,バチスタはまだ国政の支配力をうしなっておらず,バチスタへの軍事的・財政的援助を強めることによって現在の危機は回避できると確信していました.
スミスは国務省の支持を得ようと必死の策動を続けます.彼が国務省に送った通信のなかには「ラウルはホモだという確実な情報を入手した」てなものまであるくらいです.もう終わっていますね.
結局スミスが政治的苦境を乗切るべく打ち出したのはまたもや「大統領選挙」です.どうもこの人の政治音痴ぶりには苦笑させられます.たしかに当初3月に選挙が提案されたときはPSPもふくめた野党も選挙参加の姿勢をとりました.しかしことここに至ってこのような見えすいた茶番に誰が乗ろうとするでしょうか.
11月3日,すべての反バチスタ派(バチスタに買収された老グラウを除く)がボイコットを呼びかけるなかで大統領選が実施されました.バチスタ派は懸命になって投票に市民を狩り出しました.したがって誰が当選するかではなく投票率がどこまで達するかが政治的焦点となりました.ラジオ・レベルデは選挙ボイコットを訴えます.「誰も選挙には参加できないだろう.敢えてやろうとする者は撃たれるであろう」
大統領選の前日,反乱軍はサンチアゴ郊外で活発なゲリラ活動を展開し事実上町を包囲します.唯一包囲を突破しようとした一個中隊はエル・クリストで第9部隊の手により集中砲火を浴びます.2時間にわたる戦闘のすえ装甲車を含むほとんどの車両がゲリラ軍に奪取されてしまいました.
選挙当日カストロは総攻撃を指示,全国でサボタージュと武装蜂起があいつぎます.バヤモ,マンサニーリョ,オルギンなどで兵営が襲撃されました.兵士は次々と戦線を離脱しゲリラに参加してきます.交通網はずたずたに寸断されますがこれに対し政府軍は手も足も出せません.
投票の結果バチスタの身代わり候補リベロが大統領に「当選」します.しかし投票率はハバナでは25%,サンチアゴではわずか2%にとどまりました.こうして選挙というマヌーバーそのものが国民の総ボイコットにより破綻しました.バチスタの正統性を示そうとしておこなわれた選挙は,皮肉なことにバチスタの国民からの離反ぶりを示す格好の材料となってしまいました.
盲目的な反共冷戦思想で政策選択の幅を自ら狭めてきたアイク=ダレス外交は,ここにいたって完全な手詰まりにおちいりました.
・M26の農地改革法
この時期シエラのゲリラは注目すべき発表をします.第一次独立戦争開始90周年を記念した10月10日の農地改革法です.ソリ・マリンの起草になる反乱軍法令第3号はこれまでのM26のどの声明とも異なったものでした.そしてこれ以後革命成功までのあいだにもこのような政策提起はなされていません.
57年12月のフィデル声明や7月に出された臨時政府綱領は,いずれも「自由と民主主義」を抽象的にうたうのみで具体的な政策については踏み込んでいませんでした.
全勢力の団結し得る耳ざわりのよい言葉ではなく反対者も多い農地問題を,どうしてこの時期に唐突に提起したのでしょうか? さらに「M26は解放後の政治には関わらず」とするカラカス宣言に抵触しかねない政策をどうして打ち出したのでしょう? 米国はこれまで農地改革に対しては過敏といってもよいほどの反応を示してきました.グアテマラのアルベンス政権はなんら共産主義的な傾向を持たなかったにもかかわらず,農地問題に手を出しただけで米国の逆鱗にふれ打ち倒されています.わずか4年前のことです.いま米国との関係がもっとも微妙な時期にさしかかっているというのに,なぜ米国をことさらに刺激するようなことを言うのでしょうか?
この「法律」は「土地を耕す者へ」の原則をうたってはいるものの具体的内容はかなり微温的なものです.それにもかかわらず,以上に述べたような周囲の環境を考えればこの「法律」の与える衝撃は相当なものです.「これだけは!」という異常なまでの反乱軍の決意が伝わってきます.その意味は革命後まもなく明らかになっていきます.農地解放こそが革命と反革命を分ける分水嶺となっていくのです.
(3)最終攻勢への準備
・ゲバラ,エスカンブライに到着
第八部隊司令官のチェ・ゲバラ
ゲバラの第8部隊は昼は沼沢地帯にひそみ夜間に強行軍を繰り返す苦難の日を重ねます.パラグア付近の沼沢地帯では敵に包囲され絶体絶命の危機に陥りますが奇跡的に脱出に成功します.
当時エスカンブライ南部にはエスカンブライ第二戦線とDRの二つのゲリラ部隊が存在していました.第二戦線のメノヨはゲバラ部隊の接近に対し疑心暗鬼に陥りました.その真意をただすためM26シンパのボルドンをシエラに派遣しますが,カストロと会談したボルドンはたちまち運動に共鳴してしまい,みずからの一派を率いて独自活動を開始しようとします.
メノヨは態度を硬化させボルドンを「反逆者」として逮捕します.さらにゲバラに対し文書を送りエスカンブライへの参加を拒否します.すでにメノヨの良からぬ噂を耳にしていたゲバラはこの文書を黙殺し兵を進めます.
こうして10月16日4百キロも歩き抜いたすえ部隊はエスカンブライに到達しました.ゲバラは第二戦線など気にもとめずただちに戦闘を開始.エスカンブライ山中に配置されたミランダ兵営を襲撃しバチスタ軍を撃退してしまいます.これがゲバラのあいさつ代わりの返事でした.3
現地の「複雑な状況」を知ったフィデルはカミロにラスビリャスにとどまるよう指示します.エスカンブライに圧力をかけ続けるためです.ゲバラはとりあえずDRのチョモーンと会見します.彼らとても決してM26に好意を寄せていたわけではありませんが,曲がりなりにもカラカス会議で共闘の合意はできています.両派は共闘の意思を確認するとともにメノヨらを山賊とみなすことで一致します.
ゲリラ勢力の統一を任務とするゲバラはそれにもかかわらずメノヨらとの接触を開始しますが,11月早々には「統一」の努力を断念,よほど頭にきたのでしょう「メノヨらの勢力を将来にわたって交渉の相手としない」と宣言します.ただしこの「儀式」はDRの共感を引きつけるための高等戦術だったという説もあります.
このあとDRとの交渉が始まります.ゲバラは農業改革法を提示して政治路線についての立場を示しながら農業改革,軍事協力についての合意をめざします.カストロはカミロの中部戦線に対し交渉に呼応して道路・橋梁の破壊工作を強化するよう指示します.「君らがやらないのなら僕らだけでやるよ」というジェスチャーでしょう.
それにしてもDRにとってこの交渉は苦痛でした.ゲバラの提起が単なる共闘ではなくM26の指揮下に入るべしというものだったからです.DRといえばかつてはM26と肩を並べる革命組織.革命の性格づけや戦略,戦術などもことごとく異なっていました.それがカストロの子分のそのまた子分になるというのは屈辱的です.しかしことここに至ってはゲバラのイニシアチブを受け入れる以外道は残されていませんでした.2週間にわたる激しい議論の末,ゲバラとDR代表クベラのあいだにペドレーロ協定が結ばれました.DRはチョモンもふくめゲバラの指揮を受け入れることになります.協定受け入れをいさぎよしとしないグループはハバナでの組織再建を求め山を去っていきました.
ところでメノヨの第二戦線も結局11月末にはゲリラ戦への合流を受け入れます.プリオ派との連携を重視するカストロの工作によるものです.しかしこれが本当によかったかどうかは疑問です.フィデル自身,後日「あのような牛食い野郎たちを戦列に加えたことは間違いだったかもしれない」と反省しています.
・カミロ,ラスビリャス北部に戦線を開く
北部を進んでいたカミロの部隊はチェより一足はやくラスビリャス州に入ります.国土の中央に位置するこの州は,北にサンタクララ南にシエンフエゴスという二つの都市を抱え,昔からオリエンテとならんで抵抗運動のさかんなところです.小戦争のとき最後まで抵抗を続けたのもこの州ですし,第二次独立戦争のとき反乱軍が上陸したのもオリエンテとこの州です.さらに共産党に指導された砂糖労働者が30年代にもっとも果敢にたたかったのもオリエンテとこの州です.
カミロの部隊は9月末にはパネーケの指揮するマルセロ・サラド北部M26部隊と合流,バンブラナオ山地に向かいました.カミロの到着を首を長くして待っていたトレスのPSP部隊は,10月8日にホボ・ロサドという小さな村で接触に成功します.カミロはかれらと協力しながら,武装労働者と農民からなるラス・ビリャス北部戦線を編成して行きます.農民評議会が開かれ砂糖キビの自主的な取り入れ,農地の共同使用などを決議しました.この決議は各地で武装宣伝隊により宣伝されます.その効果は目覚ましいものでした.中央高速道路から北部海岸までの広大な地域で反乱軍支持の声がつぎつぎにあがります.部隊は幹線道路・橋梁をつぎつぎと破壊,東西の交通を断ち切ってしまいます.
(3)フィデル,最終攻勢を開始
・ホセマルティ名称東部第一戦線
さていよいよたたかいは最終盤を迎えることになります.
11月17日フィデルは「最終攻勢」の開始を指示します.この「攻勢」の主要な戦略目標はオリエンテの完全制圧とラスビリャスでの国土分断にあります.
フィデルは三百の兵からなるホセマルティ名称東部第一戦線をあらたに編成し,自らが司令官となって「サンチアゴ作戦」を開始します.ラプラタの本部は閉鎖され主力が平原部に進出します.めざすゴールはサンチアゴです.
サンチアゴの街はカリブ海から深く切れこんだ港を囲むように発達しています.街のほとんど四方が山で囲尭されています.日本でいえば鎌倉,すこし古い話をすれば旅順です.難攻不落の典型みたいなものです.陸路から大攻撃を仕掛けようとするならアクセスはただひとつ,北の平野からシエラの山波を切り通して入る国道1号線のみです.この国道をどちらが確保するかがサンチアゴの支配者を決める決定的な鍵となります.
・ギサ兵営の包囲
サンタクララの闘いに比べるとあまり知られていませんが,11月20日から10日間にわたって続いたギサの闘いこそは革命の勝利を決定づける決戦でした.4
20日フィデル部隊は国道1号線の確保をめざしバヤモ近郊に進出,シエラ山麓の要衝ギサの兵営を襲います.ここに駐留する部隊は4個師団規模で当時政府軍最精鋭といわれていました.
ゲリラは兵営周辺に潜伏したあとパトロール隊に狙撃を加え挑発します.支援部隊が兵営を出てくるとこれを地雷を敷設した道路に誘い込みます. Tー17戦車や兵員輸送のトラックがつぎつぎと触雷,政府軍は甚大な被害を受け兵営に退散します.緒戦はゲリラ側の大勝利に終わりました.
翌21日バヤモからシャーマン戦車に護衛された部隊が進撃してきました.シャーマン戦車にはゲリラの地雷は無効でした.反乱軍は今度は徹底的に蹴散らされます.バヤモの部隊はギサまでの道路を確保した上兵営まで到達しました.しかしすでに政府軍はこの生命線すら維持できないほどに弱体化していたのです.22日態勢を立て直したゲリラは再び道路を襲撃し遮断します.政府軍は別ルートの確保を試みますがこれもゲリラの攻撃にあい失敗に終わります.
すでにギサ兵営の包囲は5日に及んでいました.糧食も底を尽きました.25日バヤモの司令部はなんと歩兵1個師団をギサに向け出発させます.数を頼んで強行突破を図ろうというのです.Tー17戦車に守られた14台のトラックが街道を進んできました.ゲリラは先頭の戦車を地雷で破壊したあと,道路両側より戦列に攻撃を加えます.ここにギサ兵営より出動した1個師団も加わり大乱戦となります.
夕方になるとさすがの激戦も優劣がはっきりしてきました.政府軍はすべてのトラックを放棄し2台の戦車の周りに円陣を作り防御態勢に入りました.こうなると戦車の火力がものをいいます.夜に向けて戦闘は膠着状態に入りました.夜10時になってゲリラが動き始めます.円陣を取り囲むように周囲に塹壕を掘りはじめたのです.これをアクセスとして戦車に近づき地雷をかまそうというのです.さらにこの溝により戦車は行動不能となりただの大砲と同じことになりました.
26日に入って午前2時ついにゲリラの1個中隊が敵陣内に切り込みます.まさに白兵戦です.映画「第7騎兵隊の最期」という雰囲気です.違ったのはちょうどこのときバヤモからシャーマン戦車に先導された2個師団が新たに到着したことです.
この当時ゲリラ側にはまだシャーマンに対する戦術がなかったようです.それまでの闘いで消耗していたところに数百の敵軍が新たに登場したのですから,ここでは撤退する以外にはありませんでした.政府軍はふたたび道路の確保に成功しトラック部隊を救出することができました.
しかしゲリラのしつこさは尋常ではありません.ひそかに部隊を追撃したゲリラは,ハイウエイとの合流点で再び待ち伏せ攻撃をかけ敵多数に被害を与えます.29日すでに闘いは10日目を迎えました.ギサの兵営はいぜんゲリラに包囲されたままです.兵営内には飢えとともに絶望的な気分が広がっていきました.サンチアゴの軍令部はバヤモの他マンサニーリョ,ヤラ,エストラーダ・パルマ,バイレなどの部隊を総動員しギサ救出に向かいます.これらの部隊は三つのルートから同時にギサ入りをめざし進軍を開始しますした.しかしマンサニーリョ方面隊はあっけなく敗退,東部から侵入しようとした部隊もゲリラの抵抗にあいいったん撤退します.結局バヤモからの部隊だけが進撃を続けギサから2キロの地点まで迫りました.しかしそれから先はゲリラの攻撃にさらされ前進できません.
一方ゲリラは敵の遺棄した戦車を修復し,これを先頭にして2個小隊がギサ兵営に強行突入を図ります.このときは政府軍の斉射にあい戦車を遺棄して逃走しますが,兵士たちに与えた心理的影響は絶大なものがありました.
30日午後4時,増援部隊とのあいだに激戦を続けていたゲリラには予想外の事態が起きました.ギサの部隊が兵営確保の使命を放棄して,密かに遁走してしまったのです.ゲリラの斥候が敵軍の逃亡を知ったのは午後9時のことでした.これだけの激戦にしては何ともしまりのない決着ですが,ゲリラ側の大勝利には違いありません.政府軍はこの戦闘で116人の死者80人の負傷者を出しました.これに対し反乱軍は戦車1台,大砲3門,バズーカ砲1門,トラック14台を獲得します.
・サンチアゴ包囲網の完成
ギサを落としたフィデルの部隊は勢いを駆って11月末にはバイレを奪取,広大なバヤモ平原が反乱軍の支配下に入りました.12月に入ってからはコントラマエストラ周辺で激戦が展開されます.政府軍は19日にはついにコントラマエストラを断念,サンチアゴへ通じる峠を後ろに控えたパルマ・ソリアーノに最後の防衛線を張ります.
23日から4日間続いた戦闘はまさに両者が力を尽くしての総力戦となりました.ラウルの第二戦線,アルメイダの第三戦線もこの闘いに結集し,背水の陣を敷いた政府軍と激戦を繰り返します.しかしすでに勝敗の帰趨はいずれの目にも明らかでした.ついに政府軍は壊滅し残党は雪崩をうってサンチアゴ方面に逃散します.5
こうしてサンチアゴの本格的包囲が完了します.フィデルはここに東部戦線のすべての兵力を結集させます.そして最後の闘いサンチアゴ攻略に向けて準備を開始します.
B.バチスタ政権の最期
(1)バチスタ退陣の目論見
・ポーリー特使の退陣勧告
ことここに至ればたたかいの勢いは火を見るより明らかです.バチスタ政権の崩壊は時間の問題となりました.軍事的に見ればいまだバチスタと反乱軍の力の差は圧倒的ですが,なによりも政府軍には士気が喪失しています.要するになんのためにたたかっているのか分らなくなってしまったのです.
この形勢を見た米政府はついにバチスタを見限ります.早くしなければ容共派のフィデルにこの国を乗っとられてしまいます.ダレス国務長官は「大統領の旧友」という怪しげな触れ込みのポーリーなる人物をキューバ特使に仕立て上げます.彼の任務はバチスタに詰め腹を切らせることです.ダレスはバチスタのかわりにピノス島監獄に収監中のバルキンを頭とする臨時政府をつくる計画を立てます.CIAはこれに呼応してバルキン脱獄計画の検討を始めます.
12月9日特使ポーリーは密かにハバナ入りしさっそくバチスタと会見します.ポーリーははっきりと退陣をせまりデイトナへの亡命を勧めました.しかしバチスタは「私と私の家族が生きてこの島を出ることなどありえない」とこれを拒否してしまうのです.
翌日バチスタはその決意を実際のおこないによって示します.バチスタなきあとの臨時政府の陰謀を企てたとして,ディアス・タマヨら米国の息のかかった軍幹部を根こそぎ逮捕してしまうのです.ポーリーの計画はここで完全に破綻しました.
逮捕されたタマヨの自白によってポーリーの策動は白日のもとに晒されました.ラジオ・レベルデは「キューバ人は自ら問題を解決する力を持っており,外国の干渉は許せない」との声明を発表します.米政府は自らの提案を拒否されただけでなく満天下に恥をさらす破目になりました.
国務省ではもうひとつの計画も非公式ながら進行します.これはプリオのもとで首相を勤めたアントニオ・バローナ,通称トニーの作戦です.なかなかの切れ者でカラカス宣言を起草したのも彼です.その作戦にはプリオ,ミロ・カルドナも関わっており,国務省トップも密かにこの計画を支持したといわれます.
トニーの計画では,彼がみずから飛行機に乗り込みカマグエイに潜入することになっていました.もともとカマグエイの軍はクーデターのときプリオが頼ろうとしたところで,反バチスタ色の強いところです.そこで反バチスタ派軍人を糾合して「反バチスタ反フィデルの第三勢力」の結成を宣言,蜂起を開始しようというものです.ただこの計画ではそれで政権をとれる保障がないというのが難点です.一つ間違えば米国の武力干渉と非難されることにもなりかねません.
・スミスとタベルニーリャの陰謀
ポーリーによる工作が失敗した米政府はバチスタを一貫して支持してきたスミス大使に最後の望みを託します.ワシントンの訓令を受けたスミスはバチスタと会見,自らが強制した選挙で「当選」したアグエロの大統領就任は認められないとの国務省見解を伝えます.
帰任したスミスを待ち受けていたのは軍最高首脳のタベルニリャ将軍でした.彼はバチスタの命運はつきたとして,サンチアゴ軍管区司令官カンティーヨ将軍を長とするフンタの創設を提案,米国の支持をもとめます.タベルニリャの構想するフンタは・カンティーヨ・ウルティア・バルキン・カストロの推薦する民間人2人でした.
スミスもさすがにこの時点ではもはやバチスタに見切りをつけています.スミスはカストロの権力獲得を防ぐには,バチスタが国を去りあらたな中道政権が結成される以外にないと説得します.ポーリーの無責任で高飛車な態度にくらべて,長年盟友関係を結んできたスミスの説得だけに迫力があります.問題は,バチスタ辞任後の「中道フンタ」が人民の闘争の高揚を持ちこたえることが出来るだろうか,という点に移ってきます.バチスタは,軍の支持なしにフンタは維持できず軍は彼が国を去れば崩壊すると主張します.たしかにその通りだと思います.そして軍が崩壊すれば中道政府も何もあったものではありません.これに対してスミスはどう反論したのでしょう.
(2)サンタクララの決戦
・ゲバラ,ラスビリャスへ進出
サンタクララの闘いはこのような状況の中で始まったのでした.闘いが始まったとき,当事者もふくめ誰もこの闘いがこれほどの勝利に終わるとは考えなかったし,ましてこれがバチスタ政権を最終的に崩壊させるきっかけになろうとは考えてもいませんでした.この闘いには最初から最後まで巡り合わせとしかいいようのない運命がつきまとっていたのです.
ようようにしてDRもふくめての作戦準備ができあがったゲバラは,山を下りてサンタクララ東方へ回りこみます.12月14日サンタクララの東17キロのファルコン橋とカラバサス鉄道橋が爆弾で落とされました.6政府軍の西からの追撃の恐れはこれで断たれました.ここからゲバラ部隊は東方をめざして進みます.カミロ部隊との合流さらにはオリエンテから進軍を開始した東部戦線の増援部隊との接触が目標です.
部隊は16日にはフォメント要塞を抜きます.破竹の勢いのゲバラはさらにカバイグアンとグアヨスの要塞を同時攻撃するという離れ業を演じ,一気にサンクティ・スピリトゥスまで達します.カミロ軍もプラセタス,レメディオス,カイバリエンを次々と制圧したあとサンクティ・スピリトゥスに向かいます.
さらさらと書きましたが,実際にはこれはとてつもない広さです.ファルコンからサンクティ・スピリトゥスまでとってもおそらく100キロはくだらないでしょう.車でパレードするならともかく歩いて踏破するとなると脅威的なスピードです.ましてや敵の出方をうかがいながらとなると不可能な距離です.実際の戦闘などほとんどなかったとしか考えられません.
・サンタクララの蜂起
ここまでの攻略法はサンタクララ東方の線で敵の連絡を断ち切って,島の東半分を一気にゲリラ側の支配下におこうとするものです.この時点でただちに軍の要衝サンタクララを攻略しようという考えは,ゲバラの頭にはありませんでした.
いっぽうで政府軍も農村部の拠点確保をすでに断念していました.そのかわり全兵力を州都サンタクララ防衛に集中させます.こうしてその数6千という大軍がサンタクララ市内にたてこもることになります.7
12月28日午前5時サンタクララに対する攻撃が開始されました.といっても特攻隊二個小隊が市内に潜入しただけなのですが,これに呼応したサンタクララの市民が自然発生的に蜂起してしまったのです.それは政府軍にとってもゲリラ側にとっても予想外の事態でした.かれらは反乱軍から武器の供給を受け街路にバリケードを築きます.鎮圧に向かった政府軍に対してはモロトフ・カクテル(火炎ビン)による待ち伏せ攻撃で撹乱に出ます.これと似た光景は20年後にニカラグアのモニンボやエステリなどでお目にかかります.
ゲバラは逡巡とは無縁の人でした.彼はただちに全兵力を挙げサンタクララに向かいます.29日早朝から反乱軍の総攻撃が開始されました.サンタクララ郊外の要塞が次々と陥落していきます.ラスビリャス大学ではFEUが蜂起し大学を占拠.ゲバラは大学を司令部として包囲戦に入りました.同時に3百のコマンド部隊が市内に突入,市民の支持を得ながら中心部の制圧に成功します.8
・政府軍,全面敗北
バチスタ軍は市内に対し無差別爆撃を開始.とくに貧民街ではB26がナパーム弾攻撃をかけ市民3千人が犠牲になったといわれます.コマンド部隊は爆撃を避けいったん市内各所に潜伏します.これをみた米国のマスコミはゲリラが敗走と報道しますが決してそうではありませんでした.事実は制空権が辛うじて確保されただけであらゆるところに潜む狙撃兵が依然として市内を確保していたのです.
バチスタ軍最大にして最後の拠点カピロはサンタクララの駅から東に2キロ,高さ50メートルほどの岡ひとつがそのまま要塞になっています.守備隊は鉄道で引き込まれた装甲列車19両と最新兵器,将兵400で激しく応戦します.ここが抜けない限り本隊は市内に突入できません.尋常な手段では突破できないと考えたゲバラは陽動作戦をとります.オトリ部隊を使って駅方面から攻撃を仕掛けたのです.この挑発にのり要塞から移動してきた列車はレールを外され立ち往生します.そこに本隊が待ちかまえバズーカ砲で側面攻撃します.闘いは数時間に及びましたがついにバチスタ軍の敗北に終わります.カピロ陥落はさらに一日後のことでした.9
ハバナの参謀本部はこの事態に恐慌を来たします.このたたかいに敗れるようなことがあればもう政府の命脈は尽きたも同然です.とにかく今すぐかき集められるだけの兵力をすべて投入するしかありません.こうして30日,4百人の兵士と百万ドル相当の武器弾薬,装甲車を積載した17輛の装甲列車が編成され,サンタクララに出発します.しかしもはや軍は軍のテイをなしていません.なんと列車の指揮を預かった司令官自身が,恐怖のあまり任務を放棄してヨットでマイアミに逃亡してしまうのです.
とにかく支援の装甲列車はサンタクララに到着しました.これが政府軍に合流すれば大変な脅威です.ゲバラは列車に対して待ち伏せ攻撃を命じました.駅の近くにきた列車は,ゲリラのポイント操作により彼らの待つ引き込み線に誘導されていきます.線路にしかけられた爆弾により列車は操作不能となります.その瞬間ゲリラの一斉攻撃がかけられ列車は難なくゲリラに乗っ取られてしまいました.なんのことはない軍当局のやったことはゲリラに大量の武器弾薬を贈ったにひとしい行為です.10
・ヤグアハイの闘い
いっぽうヤグアハイのカミロ部隊は意外な苦戦を強いられます.チョン大尉を指揮官とする守備隊はカミロの包囲戦を敢然と受けて立ちました.彼らの執幼な抵抗にカミロは手を焼きます.かといってこれを放置したままサンタクララに向かったのでは,いずれ背後を突かれ逃げ道を失うことにもなりかねません.
10日間ものあいだカミロ部隊はヤグアハイに釘付けになります.政府軍機の爆撃が散発的に続きそのたびにカミロ部隊に大きな犠牲が生まれます.しかし守備隊の弾薬も食料もついに底を尽きました.ここに至りようやくチョン隊長も降服します.こうしてヤグアハイを抜いたカミロがサンタクララに到着したのは年も明けた1月2日のことでした.11
ところでカミロお馴染みのスタイルはテンガロン・ハット.キューバ人のあいだではベレー帽のゲバラと同格に扱われるほど敬愛されているようです.しかし日本ではゲバラの本は沢山あってもカミロについては殆ど知られていません.ここでちょっとカミロの紹介をしておきたいと思います.
カミロ・シエンフエゴスはハバナ生まれで,有産階級出身のカストロやゲバラとは違いごく普通の市民の出身です.学資を得るためニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルでボーイをしていたこともあります.画家を志して勉強していましたが,博物館の展示を見る限りどうもさほどの才能はなかったようです.
カミロの両親はスペイン戦争で共和派として闘ったあとハバナに亡命してきました.革新的かつ戦闘的な思想の持ち主だったようです.カミロがメキシコのカストロ部隊に参加するときは,父母の大きな励ましを受けたということです.兄のオスマニはPSP系青年組織の中心的な活動家で,革命後は大臣を歴任しプラヤ・ヒロンの闘いでは司令官として活躍しました.現在も国家最高幹部の一人です.
(3)バチスタ辞任とカンティーヨの策動
・カンティーヨ将軍の「友好訪問」
さておなじ頃サンチアゴではとんでもない事態が持ち上がります.サンチアゴ軍管区司令官で次期参謀総長と目されたカンティーヨ将軍が,突如フィデルのもとを「友好訪問」したのです.29日軍用ヘリに乗ったカンティーヨはフィデルが陣を張るパルマ・ソリアーノの製糖工場に降り立ちます.さらに驚くべきことに彼はバチスタと軍幹部の腐敗ぶりをなじり,みずからもM26に加わり闘いに参加したいと申し出るのです.
彼の提案はこうです.自分はM26の指揮下に「軍部革命運動」を創設する.もし許されるならただちにハバナにとんで,軍幹部内の憂国の士にバチスタ退陣とM26のもとでの和平内閣の実現を訴えたいというのです.
さすがのフィデルもこれには面食らったと思います.カンティーヨといえばシエラ攻撃の総司令官でありすくなくともこれまでは不倶載天の敵です.にわかに信じられるものではありません.
半信半疑のフィデルはとりあえず・バチスタを逮捕すること,・カンティーヨが他の将軍や米大使との関係を断つこと,・反乱軍に相談なしにクーデターをおこなわないことの三条件を提示します.そしてこれらの条件と引き換えにサンチアゴ攻撃の一時停止についてのみ承諾することになります.実はこの「時間」こそが決定的だったのです.軍の機構温存をねらう連中が最後の切り札を切るためにこの数日間は貴重なものでした.この連中の黒幕となっていたのは軍最高の権力者であるタベルニーリャ将軍その人でした.
21日バチスタ=スミス会談が不調に終った時点でタベルニーリャはバチスタに見切りをつけます.彼にとってはもうバチスタがどうなろうと関係ありません.問題は彼の力の源である軍組織をどう維持するかにあります.
23日のスミス大使との密談は先に述べたとおりです.この密談と前後してタベルニーリャはハバナのM26地下組織とも接触します.バチスタもタベルニーリャの動きを察知していたようですが,もはや彼を逮捕するだけの力は残っていませんでした.
このような事態の進展こそフィデルのもっとも恐れるところでした.一方において米国の影響力の温存,一方において軍部の温存….これではなんのために血を流したのかわかりません.フィデルはラジオレベルデを通じ演説します.「我が国のことに干渉したりOASに解決を依頼するなどの策動はもはや無意味となった.独裁者の暴力に無関心だったものが今頃心配してもおかど違いだ」
今まで慎重に国務省批判を避けてきたカストロですが,この期に及んでついに間接的ながら米国批判の口火を切ったのです.さてカンティーヨはフィデルと会ったその足でハバナに飛びます.まず米大使スミスと会談した彼は,この計画が軍の総意にもとづくものであると強調して支持をとりつけます.さらに軍幹部を集め計画を説明します.そのあといよいよバチスタとの直接会見におもむきます.
会談の詳しい内容はわかりません.しかし結果としてバチスタはカンティーヨの説得を容れ亡命を決意することになります.そして亡命にあたりカンティーヨを政府軍総司令官に任命します.もはやこれまでと観念したのでしょう,バチスタは軍に脱出用の飛行機の調達を指示します.
これら一連の事態はまさに軍最高幹部によるクーデターとしか言いようがありません.M26のたたかいに加わるというカンティーヨの発言は恥知らずの大嘘でしかありませんでした.
・バチスタ,ドミニカへ
カンティーヨの計画は追い詰められた人間が考えついた一種の奇策です.これに疑いを向けたのはフィデルばかりではありません.米軍事顧問団はカンティーヨの信頼性に疑義をはさみます.国務省はカンティーヨが政権を握ったとしてもしょせんバチスタ亜流に過ぎず,政権の維持は不可能と考えます.
当時の国務省とCIAとは各々の長官がダレス兄弟ですからツーカーの間柄です.これまで進めてきたモンテクリスティ派のバルキン首班のシナリオをあくまで追求します.まずモンテクリスティに対してはピノス島の看守を買収しバルキン脱出を図るよう提案,そのための資金として10万ドルを手渡します.
彼らはバローナの線も捨てていません.これをモンテクリスティの臨時政府と結合させようと図ります.国務省はバローナに,メノヨの第二戦線と接触したうえカストロの機先を制してハバナを占拠するよう指示します.CIAは国務省の黙認を得てB26機をエスカンブライへ派遣,武器・兵員を補給します.バローナはただちにカマグエイに飛び現地政府軍勢力との接触を図ります.
12月31日恒例の大統領主催ニューイヤー・イブ・パーティーが開かれます.パーティーの場はコロンビア兵営,バチスタが25年前初めて権力への階段を昇りはじめた思い出の場所です.宴が始まってまもなくバチスタは突然辞任の意を表明します.そして午前0時を期して飛行機で出国すると発表します.会場はそれこそ驚天動地,上を下への大騒ぎとなります.予定の時間をすこし過ぎやがて払暁という頃,3機の軍用機一杯に財産を詰め込んで,バチスタはもう一人のカリブの独裁者トルヒーヨの待つドミニカへ向け飛び立っていきます.この劇的な場面が映画「ゴッドファーザー・」に描かれています.
注
1 二つの部隊が別れた場所は国道沿いの見渡す限りの砂糖キビ畑の真中です.ちょうど日本の社(やしろ)のようにそこだけ木立がかたまり涼しい風が流れます.そこにはコテージ風のカフェテリアがあって長距離ドライブの人が休んでいました.ラジカセのボリュームを上げて米国のラブソングをガナるのはいささか興ざめでした.
2 マリオ・ムニョスはクーデター直後にフィデルと出会った例の無線好きの医者です.モンカダ襲撃では市民病院班に参加,軍の手により虐殺されました.
3 ミランダはサンタクララから南に2時間,マニカラグアの町からさらに山中深く入ったところです.私たちは逆のトリニダーから山越えでミランダに入りました.一応補装はされているもののかなりの悪路で,所々では橋が墜ちたり道路が決壊したりしています.いくつかの峠を越えた頃ガイドが山のひとつを指差します.「あの山がチェが潜んでいたところだ.行ってみるかい?」
「行く」といっても歩いて登るほかありません.小一時間はかかりそうです.さすがに遠慮させていただきました.4 ギサの戦場はバヤモから南に10キロの街道沿いにあります.壊れた政府軍の戦車が置かれただけの一郭です.この街道をさらに南に進んでいくとトゥルキノ山にいたります.石コロだらけの海岸部にくらべ緑ゆたかな光景が静かに広がっているのが印象的でした.
5 まさにパルマ・ソリアーノこそは要衝の名にふさわしい町です.町の真中に一際高くそびえる煙突の製糖工場はこれまで見てきたどの工場よりも大きく,町にも活気を感じます.ここでハバナから来た国道1号線とハイウエイが合流します.町を過ぎると国道は大きく右にカーブしサンチアゴへ向かいます.そこを曲がらずにまっすぐ東をめざせばグアンタナモに至ります.私たちがしたように左に進路をとると,バラグアを経てオルギンへ達する国道が伸びていきます.オリエンテを一人の人間に例えるなら,頭はサンチアゴでありパルマソリアーノはそれを支える首根っこということになるでしょう.
6 ファルコン橋に着いたのはとうに日も沈み夕闇が迫るころでした.意外に深く切れこんだ谷の上に建つりっぱな橋をみつけて、「これだ」と思い車を止めました.橋のたもとの広場にはお年寄りが涼をもとめて憩っています.「ここがゲバラの落としたファルコン橋ですか」と聞くとみんな集まってきます.その内の何人かは14日の当日現場に居合わせたそうです.真夜中に若者がやってきて橋脚にダイナマイトを仕掛けドンとやると,みごとに橋げたは崩れ落ちましたと.
7 サンタクララはゲバラの町です.街を見下ろす革命記念広場にはゲバラの大きな像が建てられ,その下が記念博物館になっています.その脇にはりっぱなスタジアムが建設されています.
8 サンタクララの街はエスカンブライに発する川の谷間に沿って広がっています.坂が多くてなんとなくゴミゴミしてやたらと人の多い街だなというのが印象です.中央公園をとりかこむ一角に放送局のビルがあります.ここにゲリラの狙撃兵が立てこもったとのことで壁にはいまも生々しい弾痕が残されています.
9 サンタクララの駅はゲバラの記念公園からダラダラ坂を下りきったところにあります.駅舎にまわるとちょうど列車が入ってきます.くたびれた感じの列車にはかなりの乗客が乗っていました.モンカダ襲撃の前日,こういう汽車に乗ってこの駅を通ってラウルたちはサンチアゴに向かったんだなぁと,しばし感慨にふけりました.
10 駅の東、踏み切りの脇に列車の残骸がそのまま残されている一劃があります.貨車のなかは展示場になっていて、当時の模様を伝える写真が貼ってあります.この中に入るのにも入場料をとるというので止めました.
11 ヤグアハイはサンタクララから北東に約百キロ,途中豊かな田園風景が広がります.いくつか通り過ぎる町々もこじんまりとまとまって,なんとなくほっとするような親近感を感じます.ヤグアハイの革命公園にはサンタクララのゲバラ像の向こうを張るような大きなカミロの像がそびえています.ムセオの説明員もゲバラとの比較になると説明に熱が入ります.見学者もおおぜいいましたが殆どキューバ人のようでした.
街頭には物売りが立ちパンやジュース,アイスクリームなどを売っています.ひとつ40ペソのロースト・サンドも1ペソ(2円くらい)の揚げバナナもなかなかの味でした.本当はツーリストはその10倍くらい払わなければならないのですが、ガイドさんの買ったのを分けてもらいました。
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