第三部

民族自決をもとめて


第一章 革命の急進化

 

A.革命の完了

(1)反革命,最後の試み

・カストロのゼネスト提起

 これで革命が完了したわけではありません.バチスタはいなくなっても軍部は健在で,依然国土の半分以上を支配しています.この時点でもゲリラの戦力はわずか千人といわれています.年が明けてからフィデルがハバナに凱旋するまでの1週間にさまざまな出来事が起きています.そしてその1週間が革命政権の性格を決めるのにかなり重要な意味をもっています.

 1月1日午前2時,カンティーヨは「暫定政府」樹立を宣言しピエドラ最高裁長官を臨時大統領に指名しました.かねて打ちあわせ済みのスミス大使はただちに「暫定政府」支持のジェスチャーを示します.しかし肝腎の国務省は「暫定政府」承認に煮え切らない態度をとり続けます.

 翌朝カストロはバチスタの亡命とカンティリョの臨時政府樹立を知りました.彼は機を逸さず矢継ぎ早に指令を出します.まずラジオ・レベルデで「サンチアゴ市民への宣言」を発表.「夕方6時までに軍は降伏せよ.6時以降の外出を全面禁止する」と指令します.ついで全キューバ人民に対して軍部支配地域での戦闘の継続と陰謀を打ち砕くためのゼネストを呼びかける「全将兵と国民への指示」を発しました.

 彼は語ります.「ハバナでクーデターがあったようだが、この動きはM26とは関係ない.混乱や思惑は許されない.95年革命の屈辱を繰り返してはならない.バチスタやムハールが国を去っても,あなたの息子たちを殺した犯人が武装したまま街を自由に歩いているあいだは戦争は終わっていない.革命シー!軍政ノー!」

 

・ハバナ,暴動状態に

 これと相前後してカストロは,カミロに直ちにハバナに向かいコロンビア兵営を確保するよう命じます.ゲバラにはマタンサスの要塞を占領した後ハバナに進撃し,カバーニャ要塞に陣取る軍幹部と停戦交渉にはいるよう指令します.

 ほかカマグエイのモーラには全州を支配下におき中央ハイウエイ,カマグエイとサンタクルス・デル・スル,ヌエビタスを結ぶ幹線を封鎖すること,カスティーリャにはマヤリ攻略を,ラウルにはグアンタナモ攻略を,サルディーニャスにはオルギン攻略を,ゴメス・オチョアにはラス・トゥナス攻略を指令します.

 一連の指示を出したあと,フィデルはただちにサンチアゴに向け進軍を開始しました.

 ハバナの政府軍はなだれを打って潰走します.市内は無政府状態となります.高級将校や政府関係者は先を争って各国大使館へ逃げ込みます.不安と恐怖のなかでハバナ市民はひっそりと息を潜めています.

 午前11時ついにM26活動家が街へ飛び出しました.彼らが革命支持のデモを始めると、これをきっかけに一気に市民の抑えられていた感情が爆発します.全市がヒステリー発作を起こし狂乱状態におちいります.商店の掠奪,焼打ちや官憲の手先に対するリンチがあいつぎます.鉄道,航空,港湾などの労働者はただちにゼネスト体制に入りました.

 午後3時ワシントンのキューバ大使館にM26代表が入り大使館の革命政府への引き渡しを要求します.ニューヨーク総領事館,マイアミ領事館,メキシコ大使館でも「革命政府代表」が建物を接収してしまいます.米政府はこの行動に対しなんらの手も打てず、なすがままにさせました.

 

・サンチアゴ陥落

 実はすでに30日以来、カストロはサンチアゴ駐留の政府軍に決起を督促していたのでした。しかし司令官ルビド大佐は動きません.この時点でフィデルはカンティリョの裏切りに気づいていたのです.

 サンチアゴ攻撃軍は第一戦線と第三戦線の連合軍でした.作戦司令官を務めるのは空輸作戦で有名なウベルト・マトスです.攻撃軍は夕刻にはサンチアゴ市街を見下ろすエスカンダルの丘に陣取り最終攻撃態勢に入ります.ハバナのカンティーヨはルビドに対し停戦を指示しました.夜の10時ついに5千のバチスタ軍が無条件降服します.ただちに反乱軍がモンカダ兵営に入り武装解除の作業を開始しました.

 フィデルは前年のラウルによる米人誘拐事件を通じて,ウォーラム米領事とはいわば「なじみの関係」になっています.彼はこれまでキューバの指導者がやってきたのと同じように,まっすぐサンチアゴ領事館に向かいます.ウォーラムと会見したフィデルは「米国と革命政府とのあいだにはなんの困難も生じないだろう」と請け合ったといわれます.

 日付が変わった2日の深夜1時フィデルはモンカダ兵営に入ります.フィデルはサンチアゴ中心部の庁舎で群衆を前に演説「カンティーヨの作ろうとしている暫定政権は絶対認められない」と叫びます.そしてカラカス宣言に則って臨時革命政府の成立を発表し大統領にあらためてウルティアを指名します.1

 2日最後まで抵抗を続けていたサンタクララのレオンシオ・ビダル兵営が降服.ヤグアハイでの敵の抵抗にてこずっていたカミロ軍もようやくサンタクララに到着します.カミロとチェは、勝利を喜び合ういとまもなくそのままハバナに進攻を開始します.

 

・まぼろしのバルキン政権

 フィデルの暫定政権拒否の報を聞いたカンティーヨは最後の賭けに出ます.ピノス島収監中のバルキンを議長に据えて軍民評議会を作るというものです.米軍事顧問団の賛同を得たカンティーヨは飛行機をピノス島に飛ばします.バルキンは囚人服を着がえる間もなく飛行機に乗り込み昼過ぎにはコロンビア兵営に降り立ちます.

 バルキンはただちにフスト・バリリョ,腹心のボルボネト大佐,M26のアルマンド・アルトらと協議に入ります.とにかく時間がありません.彼はただちにカストロに和解を申し入れるいっぽう,カンティーヨを含む軍・警察・SIM幹部の逮捕を指示します.

 カンティーヨがこの提案を受入れみずから縄につくでしょうか.だれがSIMや軍の幹部を逮捕するのでしょうか.おなじコロンビア兵営のなかで緊張が走ります.お互いの顔色をうかがいながら首をすくめたままやがて夕方を迎えます.兵営全体が指揮系統も何もなくなって右往左往しているところへ髭面の若者がヌッと顔を出しました.カミロです.

 これはほとんど漫画の世界です.誰も銃を向けるのでもなく笑顔で歓迎するのでもなく「あんた,誰?」みたいな顔されると,カミロがいちばん「ウッ!」と困ってしまうのではないでしょうか.

 まさか今日カミロがコロンビアまでやってくるとは誰も思わなかったのです.サンタクララの戦いは今朝まで続いていました.どんなに急いでも首都進攻のための陣列を整えるのにはあと1週間はかかると見るのが常識でしょう.しかしそれにしてもその気になればサンタクララとハバナのあいだはわずか3百キロ,片側3車線のハイウエイを飛ばせば3時間の距離です.それなりの防御線を敷いて敵の出方をうかがう体制くらいは作っておくのもそれ以上に常識です.それがカミロがノコノコ兵営に入ってくるまで気づかないとはなんたることでしょう.

 カミロはバルキンと会見し、彼の「軍民評議会」なるものはおよそ考慮の対象にすらならないと通告します.そして速やかに兵営を明け渡すよう迫ります.しかし結局うやむやのうちにその日は終ります.同床異夢とはよくいう言葉ですが,この夜はなんと三つの派がそれぞれの思いを胸にひとつ屋根をともにしたことになります.

 翌3日ゲバラがこの「難題」に決着をつけます.カバーニャ要塞に入った彼は旧軍代表のエルナンデス大佐と交渉し投降を認めさせます.その交換条件として5万ペソとマイアミ行のセスナ機が提供されました.これによって「軍」は消滅しました.こうなればもうバルキンなどXのようなものです.結局彼の「天下」は半日も続かないで終了することとなりました.

 カンティーヨはのちに革命政府により15年の懲役判決を受けることになります.彼の打つ手はことごとく裏目に出て結果として革命の成就を早めてしまいました.しかしその果敢な行動は敵ながらあっぱれという感じもしないではありません.

 

(2)革命政権の成立へ

・ゲバラ,市内の治安を回復

 

 

 ハバナに向かうフィデルとカミロ

 

 それは締まらないことおびただしい,「ヤッタァ!」という達成感の持てない散文的な勝利でした.街頭では相変わらず掠奪騒ぎが続いていました.ハバナ大学に本部をおくDRは57年3月の「思い出のために」大統領官邸を占拠します.そして「革命を継続せよ」との檄を飛ばす一方、大統領官邸をDR本部とすべく居座りを図ります.CIAからM26に先んじてハバナを占拠せよという秘密命令を受けたメノヨの第二戦線は,結局のところM26に遅れてハバナ入りしました.いかにも「牛食い野郎」らしく彼らはホテル・ナシオナル,カプリなどの豪華ホテルを占拠,はやくも酒池肉林の振る舞いです.

 親分のフィデルといえば気楽なものです.サンチアゴを出発したのはいいものの,飛行機ならハバナまで1時間足らず,車をとばしても10数時間もあれば着けるこの島を,あえて5日もかけて縦断するのです.たしかにそれは,行く先々で民衆の決起をうながし革命の成功を確実なものとするためには必要なことかも知れません.しかし住民の「熱烈歓迎」を受け勝利の余韻をたっぷりと楽しむのは,ハバナの先発隊の苦労にくらべればあまりにも贅沢というものです.

 4日ついにゲバラの堪忍袋の尾が切れました.チェはDRの跳ね上がりを許さず実力で大統領官邸を奪取します.フィデルはゲバラの行動を支持し,チョーモンを「つねに運動に反対し続けたオポチュニストでありデマゴーグである」と非難します.

 フィデルはゼネストの中止を指令します.これを受けたゲバラは全市に完全武装の戦士を出動させます.掠奪を続けたり兵士に挑発を試みる「市民」には遠慮なく暴力が加えられます.ゼネストを口実に仕事をサボっていた労働者には銃の台尻が押しつけられます.

 ハバナ空港が再開されました.ハバナ港で足留めを食らっていたキーウェスト行きのフェリーが,2千名近い米国人を乗せ出港します.これをみた米軍は緊急出動体制を解きます.キューバ領海間近に配置していた米艦船は撤収していきます.

 同時にバチスタの手先として犯罪行為に手を貸していた連中の一斉摘発が始まります.ゲバラはこの連中に対し寛大な態度でのぞむ気は更々ありませんでした.しかし彼らを街に置いておけば市民のリンチによる殺害がさらに続いたでしょう.ゲバラとしてはこれ以上リンチが横行するのを許しておくことができなかったのです.

 

ウルティア政権の成立

 5日いよいよウルティアが大統領官邸に入り執務を開始します.彼は最初の命令としてフィデルを軍最高司令官に任命したあと閣僚名簿を発表します.

 8日民衆の歓呼の声に迎えられフィデルがハバナに凱旋します.ここに第一次独立戦争以来百年近くを経てついにキューバ革命が成立したのです.

  ウルティアが発表した閣僚名簿をみてみましょう.首相はミロ・カルドナです.彼は58年3月ハバナ弁護士会長として命がけで反バチスタの共同声明を発表した責任者でした.外相は52年選挙時の正統党大統領候補アグラモンテです.内相はL.O.ロドリゲス,反政府派の新聞社の社主です.教育相はアルマンド・アルト,M26のハバナ市における地下指導部の一員です.ピノス島からバルキンとともに出獄し,軍民評議会設立の協議に加わるなど,モンテクリスティ・グループと太いパイプを持っています.農相には農地改革法案を起草したソリ・マリンが就任します.

 M26からの入閣は三名にとどまりますが、「力仕事」が必要な権力の中枢部を確保します.警察長官は東部第二戦線副司令官アメヘイラスが勤めます.国防相はM26のマルティネス.ただしフィデルが軍の全権を握っている状況のもとではほとんど意味のないポストです.不正蓄財者財産回収相にはファウスティノ,閣僚級のギャンブル対策担当官には米国人フランク・スタージスが指名されます.

 注目の経済閣僚は親米派テクノクラートで占められます.蔵相はルフォ・ロペス,国立銀行総裁はフェリペ・パソスが就任します.彼らはいずれも人格高潔な人物であり熱烈な民主主義者でした.しかしなによりも資本家の利益を擁護し対米従属の経済路線を金科玉条と考える人物でもありました.

 モンテクリスティ派からはカリリョが産業開発銀行総裁に就任しますが,プリオ派,DR,メノヨ派,PSPは政権から排除されました.

 米国は親米派を中心とした新政権の顔ぶれを見て胸をなでおろします.アイクは7日にはキューバ新政権を承認します.これが革命成功の最終的ステップとなりました.米国の顔色をうかがっていたLA諸国もあいついで革命政権を承認していきます.

 

・戦犯裁判と反米攻撃

 59年1月はすべてが熱狂の内に過ぎていきます.フィデルもDRの跳ね上がりこそ非難したものの民衆の暴走ぶりにはほとんど手が出せない有様でした.それほどまでに民衆の積もり積もった憤怒にはすさまじいものがありました.

 「真実報道作戦」は15日の戦争犯罪人糾弾ハバナ集会で頂点に達します.この集会には百万人というとんでもない数の人々が参加したといいます.彼らは市民を脅し連れ去り拷問し殺害し,死体を凌辱し遺棄した連中,これに加担して市民を売り渡したスパイや裏切者たちの処罰を要求します.もし新政府がこれを拒否すれば犯罪人どもをリンチにかけかねない勢いでした.数千人が逮捕され公開裁判にまわされました.そして6月までに悪質なもの550人が死刑を執行されました.

 民主化の波がすべての機構を襲いました.官僚の半分,最高裁判事40名のうち36名が公職を追放されます.FEUはハバナ大学全体を占拠,バチスタ派教授を追放し講義の民主化に着手しました.委員長に就任したクベラは学園内の「大掃除」を宣言します.

 戦況が怪しくなるや真っ先にマイアミに逃げ去ったものたちこそ,もっとも悪質な戦争犯罪者でした.カストロは米国に対しバチスタ派の「戦犯」の送還と彼らが国庫から奪った財産の返還を要求します.

 米国内ではテレビを通じて戦犯裁判の生々しい場面が恣意的に選択され報道されました.CIAは早くもこれを利用して革命に対する中傷キャンペーンを開始します.21日米国の中傷に対抗して政府を支持する80万人の集会が開催されます.カストロはこの集会で注目すべき演説をおこないます.

 「米国人は暴虐の政治を小説や映画の中のことのようにしか見ていないのではないか?これまで米国人がバチスタの犯罪に嫌な顔をするのを見たことがあったろうか? その彼らが、なぜ今、合法的な裁判に嫌な顔をするのだろうか」

 彼はこのように米国の内政干渉を非難するだけではありません.演説の最後にはこう言い放つのです.

 「敵はわれわれに対する侵略の下準備をしている.中傷の目的はつぎの行動のための地ならしだ.しかし米国が侵略してくれば20万のグリンゴ(中南米で米国人を指す蔑称)が殺されることになるだろう」

 これまでの米国に対する慎重な発言はここではもはや影を潜めています.米政府もこのような激しい言葉に冷静ではいられません.アレン・ダレスCIA長官は、「カストロがもっと協調的姿勢を示さないと議会は砂糖割り当てを削減することになる.そうなるとカストロは困ったことになろう」と脅迫じみた発言をおこないます.

 

(3)フィデル,首相に

・ミロ,首相の座をカストロに譲る

 出来あがった政府は,結局はウルティアのものでもなくミロ・カルドナのものでもなくフィデルと反乱軍のものでした.カストロの人気たるやすさまじいものがありました.ハバナ駐在の英大使はカストロを「ホセ・マルティとロビン・フッドとガリバルディとキリストをすべて足したような人物」と表現したそうです.

 利口なミロ・カルドナはさっさとフィデルに首相の座を明け渡します.そして政府が用意したスペイン大使のポストに移りキューバを飛び立っていきます.周囲の圧力に屈したフィデルは政治に関与しないという最初の公約を破り首相に就任します.

 この時点でフィデルを支えるM26の内部勢力はどんな配置となっていたのでしょうか?
 まず軍・警察など権力機構をにぎるフィデルとそのコマンダンテ(司令官)たちがいます.彼らの目標は当初は民主主義の実現のみに留まっていました.しかし闘争の過程を通じて,この国にある著しい貧富の差をなくさないことには革命は成就できないと考えるようになります.彼らは政治の分野にも必要な範囲で進出する意志をかためつつありました.

 コマンダンテのなかで左派を構成するのはゲバラとラウルでした.とくにゲバラはグアテマラ時代の経験から,いずれ必ず米国と対決しなければならない日の来ることを鋭く予想していました.またラウルはシエラクリスタルの経験から,この革命を真の革命として推進するためには組織された農民,労働者の力が不可欠なことを実感していました.

 しかし軍と人民の支持をにぎっていたとはいえ,M26内部における左派の影響力はけっして強力なものではありませんでした.そもそもM26は思想的,政策的には真正党の流れを受け継ぐ組織です.チバスは「正統な」真正党であることを主張し、カストロは真のチバス主義を主張してきたのです.
 真正党ともつながるM26右派はグラウの時代へもう一度戻ることしか念頭にありません.マイアミにいる有象無象の旧政権時代の政治家とつながることもいといませんでした.ところがマイアミの背後にはCIAやシカゴのギャングまでが控えていたのでした.

 勝利した革命がまず行わなければならない貧困者の生活改善,そのためには経済の殆どを押さえている米国資本との対決が避けられません.まさにその点をめぐりM26は真っ二つに割れる運命を背負っていたのです.問題はフィデルがどちらの立場をとるか、その決断はいつ行われるかということにかかっていきます.

 

・カストロの経済政策

 フィデルは首相に就任した2月、労働組合を相手にあいついで重要な演説を行っています.まずMR26右派の拠点といわれたシェル石油労働組合の集会で新政府の経済課題に触れます.ここではスト戦術をもてあそぶ革命騒ぎを戒め重要かつ緊急な課題となっている農業改革への支持を訴えます.具体的には・貧農や事実上の農業奴隷を農業改革によって救済,・農村から都市への失業者の大量流入の防止,・農村の購買力向上による国内消費市場の開発,・関税制度の改革による国内工業の保護とドル流出の防止を提起します.そして労働者階級にとっても農業改革が最大の課題であることを強調しています.

 ついでフィデルはPSPの拠点である全国砂糖労働者組合で演説.砂糖生産の確保と農業改革とが革命成功のためさし迫った課題であることを強調します.さらに2月末サンチアゴに凱旋したフィデルは,革命政府が農民のための包括的な土地改革法の準備をしていると演説します.

 これらの演説により新政府の農業政策が明らかになってきました.経済政策そのものは輸入代替化というECLA理論を忠実に踏襲すること,労働問題や国有化問題などには当面手を着けないこと,最優先課題としてとにかくサフラを成功させる,そのためにも農業改革は早期に開始しなければならない,というのが政策の柱だと考えてよさそうです.

 

・家賃法と有産階級の反発

 都市住民の生活を守るためにも次々と手が打たれます.生活必需品の価格統制を実施,バチスタ派の私財を没収し公務員に対するヤミ手当や幽霊公団を廃止します.さらにITTの子会社であるキューバ電話会社を政府の管理下におき,電話料の23%引下げを実施します.

 米国人しか入れなかったバーや専用海岸が一般国民へ開放されるようになりました.このときカジノもいったん閉鎖されたのですが,観光会社の圧力に妥協しふたたびカジノ再開が認められました.ただし売り上げに対しては重い課税がかけられ「片腕の海賊」やスロットマシンは禁止され,係員や出入りの米国人は米大使館から「善人」であることの証明書を貰うことなど厳しい条件がつけられたのですが.

 家賃を最高5割引き下げる家賃法制定は有産階級の強い反発を呼びました.住宅が慢性的に不足しているハバナでは貸家業は有産階級の大きな収入源だったからです.真正党首トニー・バローナは「チャンス到来」とばかり家賃法を非難し,法秩序の「復活」と60日以内の総選挙を訴えます.ここに革命後最初の亀裂が発生しました.彼はのちにCIAが反革命陰謀を開始したときその先頭に立つようになります.

 注意しなければならないのは,これらの政策が真正党によって激しく攻撃されたからといってすごく「革命的な政策」というわけではないことです.これらの政策は本来は33年のギテラスのものであり中間層をふくめ国民の圧倒的多数が支持し得るものです.

 たとえばグラウ元大統領は,記者会見で米国にグアンタナモを返還せよと要求するくらい革新的であったし,フィデルは自分は反共主義者であるとテレビで公言するくらい保守的でもあったし,ウルティアはカジノ再開の決定に抗議して辞表を提出するほど潔癖でした.2月から3月にかけての一連の改革はそういうニュアンスで見ておくべきでしょう.

 

・カストロの米国訪問

 4月フィデルは米新聞編集者協会の招きで米国を訪問します.各地で髭面の若者に対するフィーバーが巻き起こります.わずか10日間のあいだに数え切れないくらいの演説やスピーチが行われますが,それらはいずれも革命キューバの外交政策の基本を表明したものとなっていきます.

 まず上院外交委員会では「両国の完全な平等のうえに初めて友好関係が実現するだろう」と発言します.これまでのカリブのカイライ政権首脳とまったく異なる誇り高い姿勢は米国民を驚かせます.

 経済協力についても自主的な姿勢を崩そうとしません.

 「キューバ経済の健康を回復するため民間資本の受入れには慎重に対処する.なぜなら民間資本に頼るのはガンを治すのに赤チンを塗るようなものだからだ」と発言します.ルフォ・ロペス蔵相,フェリペ・パソス国立銀行総裁,レヒノ・ボティ経済相など経済閣僚を同行したにも関わらず,「援助」の要請は彼の口からはついに一度も発せられませんでした.

 ニューヨークに赴いたカストロは国連関係者との会見で「キューバ革命は”輸出向け”ではない」と国際平和路線を強調します.

 国務省は自らの承認を得ないカストロの勝手な言動に不快感を表明しました.アイクはジョージアにゴルフにでかけ、あからさまに対面を回避します.これにかわるニクソン副大統領との会見で、カストロは「われわれは共産主義者ではなく共産主義に賛同もしていない」と自らの政治的スタンスを明らかにします.それと同時に「飢えと失業と不正義をなくすことなしに民主主義は実現しない」とも発言,即時選挙実施の要求をかわす一方で、きたるべき農地改革への決意を表明します.

 ニクソンは会談後カストロを「きわめて危険な容共派」と断定,次の選挙で大統領に就任した暁にはキューバ政府を転覆しようと決意を固めます.ペプシ,スタンダード石油,フォード自動車,ユナイテッド・フルーツ社などの多国籍企業もニクソンの立場に密かに支持を与えたといわれます.このニクソンの計画がピッグス湾やカストロ暗殺計画の源流となっていくのです.

 

B.農地改革と政権の内部分裂

(1)第一次農地改革の開始

・INRAの強硬姿勢

 5月17日フィデルは農地改革法に調印,ここに第一次農地改革が開始されました.この法律により個人による土地の所有は最大四百ヘクタールに制限され,外国人の農場経営は禁止されました.このとき国土はどういう状態にあったのでしょうか.じつに可耕地の3/4が外国人の手中にあったのです.とりわけ米国の5大砂糖会社が全土で最良の土地を保有していました.

 しかしこの時点ではまだ米国も国内の地主たちもタカをくくっていました.これまでLA諸国で数限りない土地改革が行われてきました.中にはもっと急進的な内容の法律もありました.どちらかといえばキューバの農地改革法は穏やかな方だといってもいいでしょう.

 しかし問題は個々の法文にあるのではありません.これまでは実施の過程で無数の抜け穴が作られ結局ザル法になってしまうのが通例だったのです.地主や軍部さらに背後で糸を引く米国の妨害を排除する力がないかぎり,農地改革法は絵に描いたモチでしかありません.

 キューバの場合そこが違っていました.フィデルを総裁とする農業改革局(INRA)が設置され農地改革の実施にあたることになりますが,その実行主体になったのはゲバラを先頭とする軍左派でした.内容は穏健でしたがその実施要綱ではいっさいの抜け道がみごとに塞がれていました.彼らは改革法の内容をほとんど機械的といっていいほどに忠実に実行していきます.

 この結果全農地の4割が接収されます.その土地は10万の土地なし農民に分与されます.これによりわずか一年で半封建的な大土地所有制度が消滅してしまったといいますから,いかにドラスティックな改革だったかが分ります.もちろんこの間に米国資本の米砂糖会社の所有地260万ヘクタールも接収されています.

 

・政権が真っ二つに

 たちまち各方面で恐慌が起こりました.米上院でははやくも「キューバ糖への輸入割り当てを削減すべきだ」という意見が表明されるようになります.

 M26内部でさえも意見の対立が公然化します.反対派は折からPSPの合法化措置がとられたことをとらえ,「フィデルは共産主義に寝返ったのではないか」というウワサを流します.フィデルはこのうわさを打ち消すため「われわれの革命は資本主義的なものでも共産主義的なものでもない」と弁解にまわったり,「PSPが賃上げを扇動し,反革命行為をあおっている」と非難したりとおお忙しです.それほど農地改革と共産主義を結びつけるイデオロギー攻撃は根深いものでした.

 サンタクララの英雄ゲバラがサンチアゴで農地改革を推進する演説をうつ一方,サンチアゴ解放軍の司令官マトスは共産主義者の浸透に警告を発します.ウルティアも共産主義者ラウルを権力から遠ざけるよう進言します.

 国内はさらに騒然としてきます.6月12日前日の米国政府の農地改革法に対する正式な抗議を受けてソリ・マリン農相が辞表を提出します.ソリ・マリンといえばあの農地改革をうたった歴史的な政令第3号の起草者です.その彼が辞任するというのですから大変なことです.彼についでアグラモンテ外相など5人の閣僚がつぎつぎと辞表を提出します.アグラモンテは正統党幹部で、クーデターがなければ大統領になっていたはずの人物です.さらに衝撃的だったのは三軍の一角をしめる空軍司令官ディアス・ランスまでが辞任したことでした.いまや誰の目にもM26の権力の中枢部までまきこんで分裂が広がっていることが明らかになりました.

 ことここに至っては重大事態といわなければなりません.統一をだいじにして農地改革にブレーキをかけるかそれとも右派を切り捨ててもこのまま突っ走るのか,すべてはフィデルの決断ひとつにかかってきます.カストロは反共演説をうったり最強硬派のゲバラを三ヶ月にわたる外遊に出すなど右派に対し懸命の懐柔策を続けます.

 その矢先の6月29日ディアス・ランスがヨットでマイアミに亡命します.彼はゲリラに対する秘密空輸作戦にあたったパイロットでもともとプリオの流れをくむ人間です.ハバナのCIAとも浅からぬ因縁を持っていました.米上院の国家安全保障小委員会に証人として出頭したディアス・ランスは「カストロは共産主義者であり国の支配のすべてを共産主義に委ねてしまった」と攻撃します.

 

・フィデルとウルティアの対決

 左右の対立はウルティア大統領がM26左派を公然と批判することで頂点に達しました.ウルティアはPSPとの絶縁とラウル,ゲバラなど左派の排除を迫ります.一連の揺さぶりの背後に米国がいることは明らかです.いまもとめられていることは米国と対決してでも革命の原点を貫く決断です.第二のグアテマラとなる恐れがあってもつき進む決断です.

 7月16日フィデルは大きな賭けに出ます.M26の機関紙「レボルシオン」で首相辞任の意志を表明したのです.その夜全国民が見守るテレビ放送で「ウルティアが革命を裏切りディアス・ランスと接触している!」と叫びます.これが演説のすべてでした.

 演説を聞いた市民は一斉に街頭に出てフィデル万歳,革命万歳のデモを開始します.翌日になってデモはさらにふくれ上がります.すべての仕事が放棄されそのままゼネストに移行します.その日のうちにウルティアは辞表を提出します.2

 ウルティア辞任後の後任大統領人事をめぐり若干の議論がありました.フィデルは前任の首相で現在ヨーロッパ在任中のミロ・カルドナを考えていたようですが,ラウルとゲバラは別の人物を推薦しました.シエンフエゴスの弁護士ドルティコスです.

 同じ弁護士でもミロとドルティコスは大分違います.ミロはハバナ弁護士会会長の肩書きがしめすとおり功なり名遂げた人物であり,良心的ではあっても革命的な立場に立っているわけではありません.これに対しドルティコスはあの9月海軍蜂起に参加して捕らえられ,釈放後はM26のシエンフエゴスにおける合法活動の責任者としてエスカンブライ戦線の後方支援にあたった経歴を持つレッキとした闘士です.3

 半年前ならいざ知らずいまとなってはミロのような人物を大統領にと考えるのは未練というものでしょう.案の定ミロはその後まもなく亡命し反革命の指導者となっていくのです.

 米政府のフィデルに対する態度は革命前からせいぜい良くても「コシャクな若僧」という程度でした.それが2月にフィデルが首相に就任してからははっきりとした敵対的態度にかわります.ただ最初は隠然とした行動であったというだけです.

 

(2)フィデル,旗幟を明確に

・ドミニカとの対決

 キューバ革命の成立とともにハバナは一躍中南米解放運動のセンターとなりました.各国を追われた政治家や「革命家」が続々とハバナに集まってきます.カストロはもともとドミニカ遠征軍に加わったりボゴタソに参加した経歴を持つ血の気の多い人間ですから,こういう連中は大歓迎です.

 60年代前半に中南米各地で盛り上がった民族解放闘争は,革命キューバの存在を抜きにしては語れないでしょう.これについては多くの成書があります.巻末の参考文献一覧をご参照下さい.

 カストロ政権の登場に対してもっとも危機感を持ったのがドミニカの独裁者トルヒーヨです.彼は早くも3月に「カリブ海諸国のもとめに応じていつでも派遣できる」反共特殊部隊構想を公表します.かつてトルヒーヨ打倒をめざす義勇軍に参加したフィデルが黙っていられるわけがありません.早速やり返します.いわく「トルヒーヨ打倒のために義勇軍を募れば誰ひとりキューバの島にとどまろうとするものはいないだろう」

 両者の対決が言葉の上にとどまらず,実際の戦闘行動にまで発展したのは,ドミニカ側の責任です.メノヨのエスカンブライ戦線は革命後の政府の処遇に恨みを抱き反乱を起こそうと狙っていました.そこに目をつけたCIAがトルヒーヨを隠れみのに軍事援助を始めたのです.

 キューバ側の対応もかなり乱暴でした.6月14日亡命ドミニカ人56人の乗った飛行機がトルヒーヨの別荘近くに強行着陸します.これは最初から見破られており空港に降りたとたんに戦闘が始まります.ゲリラは山中に入り武力抵抗を続けたものの2日後には全員逮捕されてしまいます.つづいて舟艇部隊約250名がドミニカ北部海岸に上陸しますが,これも待ちかまえたドミニカ軍の餌食となり5名の捕虜を残して全滅してしまいます.

 今度は8月13日トルヒーヨがお返しの行動に出ました.この日一機の大型機がエスカンブライ山中に着陸します.この飛行機はマイアミで武器・弾薬を積んだあとドミニカにまわり雇い兵を搭載しきたものです.民兵の報告を受けた政府軍がただちにかけつけ激しい戦闘となりました.戦闘終了後の調査で,彼らがバチスタ派の将兵やトルヒーヨの募集したスペイン人傭兵であることが明らかになりました.

 思わぬ急襲に危機感を感じた政府は急速に国土防衛の体制を強化します.

 

・十月内閣改造とM26左派による権力の掌握

 反革命派の逆襲は徐々に強化されていきました.ドミニカのキューバ大使館が暴徒により襲撃され館員二人が負傷しました.ハイチではキューバ大使の公用車に機銃掃射が浴びせられました.サンチアゴで爆弾テロが発生しその後ハバナ,カマグエイへと拡大していきます.ピナル・デルリオとカマグエイに3回にわたり空襲があり砂糖キビ畑に被害が出ました.ウルティア辞任をめぐり動揺した国内世論も,このような内外の動向の中で反対派の正体を見抜くことになります.たとえば9月に中立系の「ボヘミア」紙が実行した世論調査では,国民の90%が革命を支持すると答え革命反対は1.3%にとどまっています.

 国内での活動に見切りをつけたプリオ,バローナなど真正党幹部は相次いで米国に去っていきます.彼らとともに革命時に逃げ損ねたおおぜいの旧体制派が米国に亡命していきました.やがてマイアミに反カストロのセンターが形成されることになります.

 フィデルは世論の支持に自信を持ったのか10月に入ると空席となった閣僚ポストの補充に着手,思い切った内閣改造を実施します.その焦点がラウルの国防相就任です.国防相というポストは特別な重みをもちます.とくにこれから国防が国家の最重要課題になろうという時期ですからなおさらです.

 そのベビーフェイスが損をしているのはまことに気の毒というほかないのですが,ラウルがM26右派から蛇蝎のごとく嫌われていたのはそれだけの理由ではありません.最大の理由はラウルは元々がPSP党員であり,シエラクリスタルでいちはやく農地改革を実施した左派の代表人物だからです.

 おなじ月外遊から帰ったゲバラがINRA工業部長に就任します.この二人が名実ともにトップ入りすることで,フィデルは農地改革を決して後戻りさせないという決意をあらためて示しました.しかし周囲にしてみれば二人とも共産主義者です.フィデルは10年来ともにチバス主義のためにたたかってきた仲間を裏切って,共産主義者の側に寝返ったというわけです.

 

・PSPの公認

 ここでM26のPSPにたいする態度について振り返っておきたいと思います.5月末農地改革法施行と前後してPSPが合法化されます.この時点でPSP党員数は公称1万8千人です.日本に当てはめれば20万人強です.最盛時に比べれば数分の一に減っていますが,非合法化されきびしい弾圧を受けるなかでなおかつこれだけの組織を維持できた力も無視できないものです.

 このあともマトス事件の決着に至るまでフィデルの共産主義およびPSPに対する態度は微妙な揺れを続けます.もちろん一連の発言がすべて彼の本音を表していたかといえばそうではありません.彼が反共的な言辞を連ねるときは,なにか急進的な課題を提起してそれが共産主義的なものではないと強調するために語られることがほとんどでした.

 フィデルはその政治的キャリアの最初から一貫して頑なな反共主義の立場はとりませんでした.実践を何よりも尊ぶ彼にとってはそもそもイデオロギーなどどうでも良いことだったのです.何を語るかではなくいかに行動するかが彼の評価基準でした.そういうフィデルにあえてレッテルを貼れば「容共」主義者ということになるのでしょうか.

 それでは揺れ動く発言の中で彼のホンネはどこにあったのか….ウルティア大統領のM26攻撃に反論した演説の中の言葉が,フィデルの当時のPSP観を表しているようです.「共産主義を容認するものではないが共産主義者も革命の同盟者である」

 なぜならPSPは間違いなくサンタクララをともにたたかったし,シエラクリスタルでは農民運動の先進となったからです.

 

(3)平原派との対決・マトスの反乱未遂事件

 10月19日はなばなしい空輸作戦で名をあげ,サンチアゴ包囲作戦の司令官の任を果たし,いまはカマグエイ州の軍司令官となっていたマトスが辞表を提出します.マトスに同調した部下数十人も行動をともにします.「ラウルの国防相就任に納得が行かない」というのが理由です.

 彼はおそらく右派と呼ばれるのを嫌うでしょう.自分はディアス・ランスのような革命を裏切った右派とは違う.自分はM26の正統派でありしかるがゆえにM26の大義を裏切るようなフィデルの行動に反対しているのだと.

 マトスは辞表を出すとまもなく「公然たる反乱」を組織し始めます.カマグエイ州の将校のほとんどはマトス支持です.サルバドルを指導者とする労働者ヒューマニスト戦線がマトス支持に回ります.M26機関紙「レボルシオン」の編集長フランキもこれに加わります.カマグエイの学生組織は21日にマトス支持集会を設定し人々の結集をよびかけはじめます.いまやカマグエイは旧平原派の梁山泊の様相を呈します.10月21日が決起の合い言葉になります.

 フィデルはマトスらの動きに対し力で押さえ込む路線をとることを決意します.21日早朝カミロがカマグエイに急派されました.カミロは現地の民兵を動員しカマグエイ軍の本部を包囲します.10時にはフィデルが到着,武装した農民に「兵営を攻撃せよ」と呼びかけます.そしてその先頭となって市内に突入します.

 ちょうど正午マトスは無抵抗のまま降服します.武装農民はマトス派の将校ら38名を逮捕します.ここにマトスとM26右派の抵抗は終結します.4

 おなじ日の午後,ディアス・ランスはマトスの決起に呼応しB25爆撃機でハバナ市街に空襲をかけます.第一波ではビラを撒き第二波では道路を機銃掃射,第三波で群衆めがけて手りゅう弾を落とします.この空襲で市民二人が死亡し45人が負傷しました.のちにディアス・ランスはFBIの捜査に対し「ビラをまいただけ」と強弁していますが,真相はこのようなものだったのです.ディアス・ランスとマトスとは内通していたとされますが真相は明らかではありません.

 翌日にはラスビリャスで走行中の旅客列車を飛行機が機銃掃射,さらに26日にはフロリダに基地をもつ飛行機が数次にわたりハバナを爆撃します.これら一連の攻撃で30名が死亡50名が負傷します.カストロは百万人を集めた抗議集会で事態を放任する米政府を激しく非難します.27日にはカミロを乗せたセスナ機がカマグエイからの帰路行方不明となります.5

 

・カストロとCTC幹部の公然たる対立

 マトス事件の余波はその後も続きます.11月中旬革命後初の大会となる第10回労働者総同盟大会が開催されました.実質的な指導権はすでにPSPに譲り渡していたものの依然多数派を占めていた「ムハール主義者」がこれを機に一掃されます.ここまでは順調でした.つぎに給料の4%を経済発展のため拠出する決議案が提出されました.大激論の末この決議案も採択されます.執行委員会の選挙では全員がM26メンバーで占められPSPは全員が落選の憂き目にあいます.

 問題はM26内の左右両派の割合です.マトス事件においてサルバドル派は明確にマトス側に立ちました.彼らがどの程度労働者に影響を与えているかを占ううえで役員選挙は決定的な意味を持ちます.結果はフィデル派がわずか7名にとどまり残りの20人はサルバドル派がしめます.この結果サルバドルが書記長に就任することとなったのです.

 あいさつに立ったフィデルには右派代議員から「裏切者」の野次が集中しフィデルは壇上で立ち往生します.フィデルは「慎重さも団結もなにも立証しなかった…労組幹部の利己主義と革命への無関心」に危機感を強めます.

 マトス事件への対処をめぐり11月末開かれた政府閣僚会議で,M26の分裂はもはや修復不可能なものとなります.ファウスティノとマヌエル・ライがマトスに対する措置の承認を拒否したのです.こうしてかつての平原派の三本柱ファウスティノ,サルバドル,マヌエル・ライが反左派,反フィデルの立場を明らかにしていくことになります(ファウスティノはキューバにとどまり後に復活).社会主義路線が明確になると同時に十万人を越えるキューバ人がマイアミに亡命していきます.

 マヌエル・ライは翌年には秘密組織を結成し人民革命活動(MRR)を名乗ります.彼はCIAと連絡をとりながら反革命の破壊活動を開始しました.そして活動が行き詰まると結局米国へ亡命していきます.

 同じ頃オリエンテでは,マヌエル・アルティメがシエラマエストラにたてこもり反カストロ闘争に立ち上がりました.アルティメは元PSP党員を父に持つ精神科医で農民運動に関わる中でM26に加わりました.革命後はオリエンテ州農地改革委員会の議長を勤めた大物ですが,カマグエイ事件をきっかけに反革命に走っていきます.結局彼はハバナのイエズス派教会に駆け込んだあとCIAの手引きで密かに米国に脱出していきます.のちにピッグス湾侵攻部隊の司令官として戦闘に参加,捕らえられ懲役20年の刑を受けることになります.

 

・社会主義志向の表面化

 12月マトスにたいする公開裁判が開始されます.5日後には判決が出るという超スピード裁判でマトスは懲役20年の刑に処せられます.これでマトス事件は後味の悪さを残しながらも一段落します.

 カストロは間髪をおかずゲバラを国立銀行総裁に指名しました.フェリペ・パソス前総裁はスペイン大使に転出しますが,まもなく米国に亡命していきます.総裁に就任したゲバラがまず行ったことは,米国フォートノックスに保管された金を売却しスイスとカナダの銀行にあらためて預金する措置でした.後で考えるといかにこの措置がグッドタイミングだったか痛感します.この時を逃せばおそらくこの金は凍結されていたに違いありません.さすが3カ月の外遊は無駄ではなかったなという感じです.

 さらに政府は新石油法を公布します.この法律により従来ザルのようなものだった石油精製会社への統制がいちやく強化されました.政府へのロイアリティーは10%から60%に引き上げられました.前後して新鉱業法も公布されます.こちらは米系鉱山会社を有償接収するというもので米政府は一気に態度を硬化させます.

 

 

 

1 わたしたちがサンチアゴ中央公園に訪れたときはすっかり夜のとばりが降りていました.93年11月,キューバ最悪の時です.一般家庭は電気が止められていて,あたりは街の中心部とは思えないくらい薄暗いものでした.公園の街灯だけはアカアカと点いています.光がこんなに有難いものとは….まるで光に群がる虫のように,途方もない数のひとが涼をもとめて集まっていました.
キューバのうれしいところはこんな夜に町中をゆったり気分で歩けることです.貧しいかもしれないけれど人々の目は決してとんがってはいません.きっと心が貧しくなっていないからでしょう.もうあと1年か2年したらこんなまなざしは見られなくなってしまうのかもしれません.もうハバナではなくなりかけているのですから.
「あそこのバルコニーにカストロが立って,火を吹くような演説をしたんだ」といわれてそちらを見てみると,石造りのガッシリした建物が薄暗い闇を透かして見えます.おそらく元日の真夜中にあそこに目もくらむような照明があてられて,オリーブ・グリーンの軍服を着た若き髭面たちがその中に浮び上がったんだろうな!

2 カストロがこのような非常手段をとった背景には中米諸国の政治システムがあります.これらの国の憲法では大統領が直接選挙により選ばれ強大な権限を持ちます.反対に首相は大統領により指名され大統領を補佐する役割に限定されています.キューバでは40年憲法の前にはそもそも首相などというポストなどなく,内務相が首相の役割を果たしていました.

3 シエンフエゴスは美しく活気ある街です.海軍蜂起のことを知りたくて町のムセオを訪れましたが,残念ながら改装中で見ることができませんでした.「ドルティコスの家を見にいこう」ということになって,市内をぐるぐる回った末やっとたどり着きました.海沿いのおそらく革命前は高級住宅地と思われる一角にその家はありました.家の前には国旗とM26の旗が掲げられいかにもそれらしい雰囲気ですが,中に入っても彼の写真1枚ありません.不審に思って聞いてみると,そこは故オズワルド・ドルティコス元大統領の家ではなくそのお兄さんの家だったのだそうです.兄ドルティコスはここで医院を開業しており,同じようにM26の協力者だったそうです.結局弟ドルティコスの家は聞いても分かりませんでした.

4 カマグエイの軍司令部はオフィス街の真中にありました.三階建ての大きなビルですが,表札もなくシャッターも降りたままで,一見したのではなんの建物か分かりません.いまでは軍以外の用途で使われているみたいです.この事件はカマグエイにとってあまり名誉な話ではありません.道行く人に尋ねてもあまり関わりたくないようで,これ以上の追究はあきらめました.

5 カミロ失踪事件はおそらく事故によるものでしょう.反革命側から「カストロの陰謀」とする情報がいろいろ出ていますが,いずれもカストロがカミロを排除すべき理由が明示されていません.