第二章 親ソ反米政策の展開

 

A.ソ連との接近

(1)ミコヤンのキューバ訪問

・米国からの自立は軍備の自立から

 この章では革命が急進化してからキューバと米国の関係が決定的に決裂するまでの経過を見ていくことになります.

 フィデルは59年9月の演説では「単一の産品である砂糖,単一の市場である米国への依存という構造を変え,経済と市場を多様化する正しい政策をとらなければならない」と発言,明らかに米国の経済支配からの離脱という点に革命の方向を据えるようになってきます.

 しかし実は経済の以前にカタをつけなければならないものがあったのです.それは軍備の自立です.米国と対決する覚悟で革命を進めるというのに,軍備が米国流でその補給を米国に仰がなくてはならないとしたら,たちまち防衛は無力化します.

 その後も反革命グループによる襲撃は続いています.それどころかいっそう激しさを増してきます.10月はじめにはピナル・デルリオとカマグエイに3回にわたり空襲がありました.マイアミから侵入してくる反革命軍を阻止するためには,どうしても制空権の確保が必要です.

 米玖関係が悪化するのには二つの伏線がありました.まずひとつは米国の露骨な干渉です.ラウル国防相は英国とジェット戦闘機購入計画を結びました.ところがこの計画が明らかになるや,米政府は売却を中止するよう英国に強硬にねじこみます.恐れをなした英国は契約を撤回してしまいます.

 もう一つはあるソ連人記者が入国したことです.10月,国内がマトス事件で騒然とするさなかのことでした.彼の名はアレクセーエフ,タス通信の記者を名乗っていました.しかしその前職はアルゼンチン駐在一等書記官です.外交官が新聞記者になるというのも変な話です.おそらくその実体はKGB幹部なのでしょう.フィデル,ゲバラらキューバ政府幹部と接触した彼は,両国の関係強化で合意します.キューバにしてみれば隠し玉が1個できたわけでその分強気です.

・米政府の反共アレルギー

 心配されていた危険は,はやくも現実のものとなりました.12月10日,ハーター米国務長官はマトス裁判に関連して次のように発言します.「もしキューバが静かな状態にならなければ,キューバ糖の割り当てについてなんらかの行動をとるかもしれない」

 いよいよ米国が伝家の宝刀を抜いて,キューバ革命に干渉してくる事態になりました.これに対してキューバは二つの対抗策を用意します.まず一つは,米国に代えてヨーロッパ諸国との関係を強化することです.第二次大戦前アルゼンチンが対英貿易の強化によって経済苦境を乗り切った例もあり,これは大いに有望かと思われました.

政府はINRA代表をヨーロッパ諸国に歴訪させますが,米国はこれらの国に片っ端から圧力をかけ商談をつぶしていきます.マーシャル・プランによってようやく戦後復興を成し遂げたばかりのヨーロッパ諸国には,もはや米国と対抗してまで貿易を拡大するほどの力は残っていません.ましてキューバは米国の裏庭の小国です.米国を刺激する危険は余りに大きく危険を犯すメリットは余りに小さいのです.

 二つ目はソ連です.もし米国が経済制裁を加えるのならキューバはソ連につくぞ,そうすれば米国は国防上も困ったことになるぞ,というブラフで妥協を引出せる可能性があります.こちらには隠し玉アレクセーエフがあります.

 もうひとつの対抗策もありました.これは犠牲がけた違いに大きく辛い選択ですが,米国が経済封鎖を強化するたびに米企業を接収していき,ケンカがお互いにとって得にならないことを示していく方法です.

 米国にとって,キューバが民族主義をあおるだけならまだ許せるとあっても,ソ連との関係が強化されるのは我慢ならないことです.それはモンロー宣言以来築き上げてきた「西半球における覇権」を根本から揺るがすものだからです.かれらのイデオロギーからすれば,キューバはもはや「第二のグアテマラ」ではなく,ソ連が柔らかな下腹部につきつけたアイクチのようなものです.

これはフィデルのハッタリだったのでしょうか.もしそうだとしたら,それはかなり高いものにつく危険があります.米政府はキューバの態度に激怒します.

 明けて60年1月1日,革命政府は60年を「農地革命の年」とすると宣言します.手始めに米砂糖会社所有の土地7万エーカーが接収されました.うち半分はオリエンテ州にユナイテッド・フルーツ社が所有していた牧草地および森林です.ユ社はこのほかにも島内に,あわせて23万エーカーの土地を保有していました.ユ社が最初に接収されたことは,グアテマラの反革命を支えたのがユ社であったこととあわせ象徴的な意味を持っています.

 アイクは議会一部から出されたキューバとの関係修復提案を断固として拒否します.そしてキューバ産砂糖の輸入割当てを大幅削減するよう逆提案,3月議会に新砂糖法案を上程します.この法案は,直接的には大統領に各国の糖輸入割当て量を変更する権限を与えるというだけのものですが,これが通ればアイクはキューバからの砂糖輸入を自由に制限できることになります.いざとなればゼロまでも.米国務省はアイクに呼応して「第一次キューバ白書」を提出,キューバにおける「米国人資産の不当な接収の実態」を明らかにします.

 フィデルはこれに対抗して「われわれは孤立してたたかっている小国であり,闘争を通じてこの現実から脱却しなければならない」と演説し,社会主義国との接触強化を示唆します.もはやこの時点でフィデルは,それを米国との取り引きの札ではなく革命が進むべき必然的な道だと決意したようです.

・ソ連見本市

 話は少し戻ります.11月,アレクセーエフとの秘密会談のあと,M26の機関紙「レボルシオン」は,その社説で,ソ連との貿易拡大を提起します.政府は折からメキシコ訪問中のミコヤンにキューバ来訪を招請します.#1 話はとんとん拍子に進みました.はやくも12月には,ソ連博準備のため関係者が入国しはじめます.

 12月12日キューバ政府は,まもなくハバナでソ連博が開催されると発表しました.さらに16日,カストロは「もし米国が砂糖の輸入割り当てを停止すれば,キューバは産業の国有化をおこなうだろう」と警告します.

 明けて1960年2月4日,いよいよハバナでソ連産業貿易展が開始されました.おりから訪米中のソ連第一副首相ミコヤンは,開会式出席のためと称し,突如キューバを訪問します.そのわずか10日後には,ミコヤンとカストロのあいだに最初の通商協定が調印されます.協定はキューバの年間原油必要量の3〜5割をソ連が引き受けることを確認するものでした.おそらくはすべてが打ち合せずみのことだったのでしょう.米政府はただちに果実輸入禁止を打ち出すことで,この発表にこたえます.

(2)ソ連との関係強化

・フセプランの発足と軍事政権化

 ソ連博のあとは一瀉千里でした.二月中に中央計画委員会(JUCEPLAN)が発足します.議長にはレヒノ・ボティ経済相が就任,委員にはフィデル,ゲバラも加わりました.そのほか蔵相,商工相,公共事業相,INRA代表という顔ぶれです.委員会の作業グループにはチェコの経済学者も加わり,工業化4ヵ年計画を作成することになりました.当然,この計画は社会主義的な色彩の強いものになります.

 M26右派でありながら,最後までフィデルと行動をともにしたルフォ・ロペス蔵相が,ここに至ってついにたもとを分かちます.そしてまもなく米国へ亡命していきます.これに代わり新蔵相にはロランド・ディアス海軍少佐が就任しました.これにより政権は完全にM26左派の手中に握られることになります.

今回の人事については,もう一つの側面もみておくべきでしょう.新しい政治の主人公たちは左派ではありますが,同時に軍人でもあったわけです.したがってこの政権は,本人たちの思いは別にして,まごうことなき軍事政権です.半年にわたる一連の政変は,民族独立の課題から見れば革命的ですが,権力移動の形態から見れば,一種の軍事クーデターです.

 いまや新生キューバは米国という最大の市場を失いました.しかも,その米国による侵略の脅威に備えながら経済運営しなければならない状況に陥りました.したがって新政策の基本は,国民にある程度の犠牲を課さざるを得ない緊縮型運営,一言でいえば戦時統制経済ということになりますが,この頃の指導部にはどうもその辺の深刻感が欠けていたようです.

 カストロはキューバ労働総同盟でフセプランについて説明しています.・所得の増大には工業化が必要である,・工業化には資本が必要だがこれを外国からに頼ることはできない,・工業化のためには労働者の自発的熱意,拠出,犠牲的精神が必要である,というのが骨子です.ようするにカストロは(そしてゲバラも)新政策を国家防衛のため強いられた統制経済というよりは,工業化の原資を生み出すための計画と考えていたのです.

 この新政策がいかに破綻していったか,それが国内外の政策にいかに反映していったかは,章をあらためて検討したいと思います.

 

・ラ・クーブル号事件

 3月4日ハバナ港内に停泊していたフランス船「ラ・クーブル」号で爆発事件が起こります.船荷はベルギーから購入した武器を満載していました.これが爆発したのですからたまりません.船はたちまち沈没し75人が死亡,負傷者は2百人を越えました.この時国籍不明の飛行機がハバナ上空を旋回していたといわれます.1

 百万人が参加した抗議集会でカストロはCIAが犯人だと激しく非難します.この演説のなかで「祖国か死か」というスローガンがはじめて叫ばれ,やがてそれはLA全土で唱えられるようになります.

 この間CIAは本格的にキューバ人亡命者の軍事訓練を開始しました.キューバはまもなくCIAの陰謀に感づいたようです.元々が全米各地に強力なM26の組織を持っているところへ,亡命者組織のなかにも多くの情報員を潜入させていますから,ほとんど最高機密も筒抜けになっていたのではないでしょうか.カストロはメーデー演説で早くも「グアテマラで上陸部隊の訓練がおこなわれており,近日中に計画が実施にうつされるだろう」と予言しています.「キューバ・シー,ヤンキー・ノー」のスローガンが打ち出されたのもこの演説がはじめてです.

・ソ連=キューバ関係の確立

 5月ミコヤンはキューバを再訪問しました.1回目のときのような隠密行動ではなく堂々と正面玄関からです.この大型使節団は,キューバ・ソ連間の一連のやりとりを確認し,両国関係を地固めするうえで決定的な役割をはたしました.実務者をふくむ使節団は包括的な協定を作り上げました.

 締結された協定では,ソ連は今後5年間に5百万トンの砂糖を買い付けるとともに,総額1億ドルの借款を供与することになりました.さらにキューバが喉から手が出るほど欲しがっていた原油が,国際価格の2/3で提供されることになりました.

 ミコヤン訪問中,ソ連とキューバの国交が樹立されました.これを機にLAの各国共産党はキューバ擁護のキャンペーンを一斉に展開することになります. 

 さらにだいじなことは武器供与についても合意が成立したことです.「武器供与の合意」とは武器を使いこなす組織や補給の体制,反対派の破壊活動に対する作戦等もふくめ,全面的にソ連型軍事システムへの移行が合意されたものと解釈されます.

 これと前後してラウル国防相がチェコを訪問し武器購入で合意しました.ついにキューバは正規の武器購入ルートを確保することに成功したわけです.米国は武器禁輸措置で対抗します.これは重大です.現在の軍の装備は備蓄分を使い果たせばまったくガラクタと化するからです.

 #1 ミコヤンはソ連の第一副首相.フルシチョフが権力を集中する上で懐刀となった人物です.事実上,当時のナンバー2と考えてよいでしょう.後に,ミサイル危機の収束においても,重要な役割を果たします.

 

B.非難と報復措置の応酬

 

(1)ソ連産原油輸入の顛末

・精油会社の原油精製拒否

 ソ連博の開催に対抗して米国が砂糖輸入枠の削減を打ち出したことから,両国による応酬合戦が開始されます.3月財務省はキューバから出された農業用ヘリ購入申請を拒否します.キューバはこれに対抗してユナイテッド・フルーツ社の土地20万エーカーを接収します.米国は一切の技術援助を打ち切ります.

 5月末いよいよソ連からの原油がハバナに到着することになりました.キューバ政府はテキサコ,エッソ,シェルなど外国資本の石油会社にソ連からの原油の精製を打診します.現地各社はいったん受入れの意向を表明しますが,本社からの指令は断固として拒否せよというものでした.

 1ヶ月にわたるきびしい交渉が続いたあとついに両者は決裂します.6月29日キューバ政府はテキサコを無償接収すると発表,数日のあいだにほかの石油会社もすべて接収されます.

 米議会はいっきに態度を硬化させます.27日には下院で7月3日には上院で砂糖法修正案が可決されました.待ち構えていたアイクはただちに大統領権限を発動します.95%削減といいますから事実上輸入停止といっていいでしょう.キューバ政府は新砂糖法適用への報復処置として全ての米国企業および財産を接収すると発表します.これら米企業の資産は総額10億ドルに達したといわれます.

 カストロは「キューバ糖の割り当てが1ポンド削減されるごとに1工場を接収する.われわれは砂糖の輸入割り当てを失うかもしれないが,彼らもまたこれまで投下したその資本を失うのだ.砂糖の輸入割り当てと資本設備の交換ならわれわれにとって不足はない」と大見得を切ります.

・「アンデスをシエラマエストラに!」

 ついに両国は全面対決にむけて最後の一歩を踏み出しました.ラウルがただちにソ連に飛び,緊急対応策について協議します.フルシチョフは「ソ連は米国が拒否した砂糖70万トンをすべて引き受ける.それだけでなく,もし必要とあらば,ソ連はロケットを使ってでも友人を守る」とかまします.続いて中国も貿易・科学技術・文化諸協定に調印.今後5年間毎年50万トンの砂糖を買いつけることで合意します.

 ソ連など社会主義諸国の支持を取りつけたキューバは反米路線を鮮明にうちだします.ハシャギ過ぎといっていいくらいの勢いです.国連総会ではロア外相が「我が国が侵略されるようなことがあれば,ソ連の好意を受け取る以外の道はなくなるだろう」と演説しますが,これなどまだおとなしいものです.ゲバラは10日の演説で「キューバは史上最大の強国が所有するロケットで守られた,カリブ海にある栄光に満ちた島である」と言ってのけます.

 そしてついに7月26日のモンカダ記念集会では,カストロが「アンデスをシエラマエストラに」とアジるにいたります.これはキューバがLAの武力解放を望むことを公然と表明したのとおなじです.ほかのLA諸国がこの発言にどういう反応をしめすか,考えていたのでしょうか?

 8月6日カストロは第1回LA青年大会において演説,砂糖禁輸に対する報復措置として米系製糖会社の36工場,キューバ電力会社,国際電話会社を完全接収すると発表しました.また反革命分子の破壊活動に対抗して民兵に武器を供与することも明らかにしました.これに続いてゲバラも演説します.「われわれの革命はカストロ主義的方法によってマルクスが志向した道を見出した」と.

 スペイン大使からモスクワ駐在代表(当時ソ連との国交なし)となっていたカルドナは,この時ハバナ滞在中でした.ついに堪忍袋の緒が切れたのでしょうか,彼はアルゼンチン大使館に飛びこみ亡命を求めます.そしてフィデルに率いられた革命との絶縁を宣言します.

・経過の小括と評価

 この節は著者の主観がかなり入っています.面倒くさい人は読み飛ばして下さい.

 ここまで見てくると,59年1月のキューバ解放までを第一革命として,その後社会主義体制の確立にいたる第二革命が1年半あまりのあいだに進行したと見ることができるでしょう.それはいくつかの小段階の積み重ねとしてありました.その小段階を革命の課題の変化,革命主体の変化の両面からみるとつぎのようにいえます.

まず第一段階は農業改革法施行にはじまり,右派の抵抗と辞任をへてフィデルの支配権確立にいたる段階です.ここでは革命の課題が反バチスタ独裁と一般民主主義から,農民を中心とした貧困者にスタンスをおく改革に踏み込んでいきます.

 この段階で,富裕層に政治的基盤をおく真正党・正統党など旧来の政治家が改革から脱落していきました.彼らとつながるM26右派の一部も脱落します.残った政治勢力は農民・労働者層と中間層の大部分でした.それぞれはM26の左派と右派とに代表されていました.両派のバランスのうえにフィデルがカリスマ的な権威を持ちはじめました.

 経済政策的には労働者の賃上げ攻勢を抑えつつ,農業改革で生産と輸出を確保し,輸入代替工業の発展をはかるというECLAの伝統的手法を踏襲しています.かなり怪しいものとはなっていますが,この時点でも依然親米反共の対外的スタンスは変えていません.

 第二段階はラウルの国防相就任からマトス事件を経て,ファウスティノとマヌエル・ライの辞任にいたる一連の流れです.

 これはさらに民族自決の問題まで改革を推し進めるかどうかが争点になってきます.農地改革を進めれば土地の大部分を所有する米国との対立は目に見えているからです.農地改革が直接反米闘争とならざるを得ないという点は,かつてグアテマラやメキシコが直面したよりもはるかに困難な問題です.農民や農業労働者は断固として改革を支持しますが,労働者のなかでも米系企業や大企業の労働者のなかでは意見が分かれます.中間層は全体として米国とことを構えるのには躊躇します.

 これにシエラ派と平原派との遺恨がからんできた結果,M26内の左右両派の激突という形態をとったのです.この激突はフィデル以外に解決ができない性格を持っています.そしてフィデルははっきりと左派にスタンスを移します.最終場面ではフィデルが直接カマグエイにおもむいてマトスに降服をうながすことにより決着がつくことになります.

 この時期になるとさすがにもう親米でも反共でもありません.しかし米国の機嫌を損ねても改革は断行するぞ,という覚悟はできたとしても,だからといって米国と好き好んで喧嘩したいわけではありません.対外政策上は極めてニュートラルな状態にあったといえるでしょう.

 第三段階は,翌年2月のミコヤンの突然の訪問から4月の通商条約締結にいたる時期です.

 この時期の最大の課題は反革命と闘いながら,いかに国土を防衛するかでした.すでにこの頃,米国は改革に対し敵意をむき出しにしています.いまや米国の雇い兵となった反革命分子は,連日爆撃や破壊工作をくりひろげています.彼らから身を守るためには武器をとる以外にありません.ではその武器はどこから手に入れるか? そう考えるとソ連との接触は革命の必然的な帰結であり,ほかに選択の余地はなかったといってよいでしょう.

 とはいえ親ソ親社会主義の立場にスタンスを移すことには大きな心理的抵抗があったと思われます.米国の作り出した文化の奔流の下で暮らしてきたキューバ国民にしてみれば「鬼より怖い共産主義者がこの国に進出してくる」事態は想像を絶しています.

 第四段階は,6月末の石油会社接収と米国の砂糖輸入中止に始まる両者のはなばなしい応酬です.この過程を通じて反米親ソのスタンスが完成します.それと同時に対米衝突の事態に向けての思想動員が図られます.このキャンペーンのなかで「革命の輸出」をふくむLA全土の解放や,第三世界との連帯が視野に入れられるようになります.

 

(2)フィデル,国連で大暴れ

・OAS外相会議とハバナ宣言

 60年8月16日,コスタリカのサンホセで第6回OAS外相会議が開会しました.米国は「中南米における共産主義浸透増大とその対策」に関する討議を提起し,これが最大のテーマとなりました.事務局は,「米州諸国の政治・経済・社会的状況を利用して侵略を図るソ連・中国のたくらみ」を非難する「サンホセ宣言」を提案します.

 米国はさらに,「キューバは中南米全域に共産主義革命を拡大させるためゲリラ部隊を訓練している」と名指し批判.「中南米諸国はこの脅威を放置すべきではない」とし,OASの集団的措置の対象としようと画策します.米上院は総会に圧力をかけるべく,「カストロに軍事経済援助をあたえた国には米国の援助を打切る」と決議をあげます.

 これに対しキューバのロア外相は,「ソ連と友好関係を維持したからといってキューバの主権が損われることはない.キューバは米国と紛争解決のために話し合う用意がある」と反論しました.
 メキシコなど8ヶ国は米提案をキューバの受入れ可能な決議に変えるよう要求,さらに民主制の確立,内政不干渉の原則も折り込むべきと主張しました.討論の結果「サンホセ宣言」は採択されたものの,名指しのキューバ非難決議は採択できませんでした.キューバ代表団は「宣言」採択を前に退席します.

 キューバはサンホセ宣言に対抗して全国人民大会を開催,第1次ハバナ宣言を採択します.この宣言は「人間による人間の搾取と帝国主義金融資本による低開発国の搾取」を強く非難.ヤンキー帝国主義に対するLA革命の不可避性,キューバとLAの革命条件の同一性を強調します.フィデルはソ連との経済関係強化,中国との国交樹立などを発表します.そしてあいさつの最中に52年の相互援助条約書を持ち出しこれを破り捨てるというパフォーマンスを演じて見せます.

 この大会の直後政府は正規軍のほかに20万の民兵隊を組織しはじめました.さらにエスカンブライの反革命ゲリラに対する掃討作戦も開始されます.

 

・フィデル,国連に乗り込む

 パフォーマンスといえば,9月18日から10日間にわたりニューヨークを訪れたときの度肝を抜くような言動はいまだに語り草になっています.この訪問は最初から波乱含みでした.まず代表団到着を前にした14日米国務省はフィデル在米中の行動範囲をマンハッタン島内に限ると通告,先制パンチを浴びせます.キューバも負けじと国連総会のあいだ駐ハバナ米大使の行動範囲を大使館周辺に限定すると通告します.

 

 19日ニューヨークに到着したフィデルらは数千の民衆の出迎えを受けました.代表団は国連ビルに近いシェルボーン・ホテルに入りますが,ここで早くも大騒動が持ち上がります.亡命者らによる騒動を懸念したホテルは代表団に対し「もしもの際の保証金」を要求しました.代表団はこの「不当かつ受理不可能な金銭的要求」に激怒します.ホテルを飛び出した代表団はなんと国連本部前の芝生にテントを張ってしまうのです.結局深夜になって支援団体の紹介を受けた代表団はハーレムのホテル・テレサに移動します.ひげ面の若者たちによるこのパフォーマンスには,さすがのニューヨークっ子も度肝を抜かれました.

 続いての騒動は翌日早朝にフルシチョフがホテルテレサを訪問したことです.米国と並ぶ大国の指導者が突然ウラ寂れた下町に入ったのですから大変です.そのあともホテルテレサにはナセル大統領,ネルー首相など各国首脳がきびすを接するように訪れます.いうまでもなく黒人も大喜びです.ラングストン・ヒューズやマルコムXなど黒人運動の指導者があいついで訪問します.もう大変なお祭り騒ぎとなります.警備のスタッフも振り回されます.この騒動をキューバの若者たちに好意をもって描いたジャック・レモンのコメディー映画も製作されました.

 カストロはソ連代表部を答礼しフルシチョフと会見,4時間半にわたり懇談します.会談後フルシチョフは「カストロは共産主義者ではない.しかし米国の圧力のおかげで二年後にはそうなるに違いない」と予言しましたが,半分はあたり半分は外れました.確かに彼は共産主義者になりましたがそれはわずか1年足らずの後だったのです.

 

 第三のハプニングは22日に起きました.アイクはLA各国首脳を招き昼食会を開きます.キューバだけが招待されませんでした.露骨な当てこすりというか子どものいじめに近い幼稚さです.カストロの奇想天外ぶりが発揮されたのはこの時です.彼はみずから昼食会を開きます.招待されたのはなんとホテル・テレサの従業員でした.もう市民はヤンヤの喝采です.アイクの苦虫を噛みつぶしたような顔が目に浮かぶようです.

 このようなジャブの応酬のあと,26日にカストロは国連総会で延々4時間半にわたる演説をぶちます.かれは8月のサンホセ宣言に対し「現に空と海から襲撃をかけている米国ではなく,いまだ一度も攻撃をかけたことのないソ連を非難するという欺マンで成り立っている」と反撃.最後に「帝国主義的金融資本は売春婦であるが,いまやわれわれを誘惑することができなくなった」と捨てゼリフを残します.2

 ハプニングはこれで終わったわけではありません.27日代表団が帰国の途につこうとしたとき,米国はイチャモンをつけてキューバ航空機を差し押さえてしまいます.またもや一騒動?と思ったときソ連がさっと現れてイリューシン18機を提供します.代表団はこれに乗り意気揚々とニューヨークをあとにするのです.いやはや大変な1週間でした.

 

C.米玖断交と総動員態勢

 

(1)思想・経済統制の強化

・革命防衛委員会の成立

 帰国したフィデルはさっそく革命広場に大衆を集め長広舌をふるいますが,その最中に会場で4発の時限爆弾が爆発します.フィデルはその場で即座に町内会単位の革命防衛委員会(CDS)の設立を提案し,満場の拍手で確認されます.日本で戦時中に組織された隣組とおなじです.3

 名役者です.すべての国民をCDSに組織する仕事というのはいってみれば国家総動員体制そのものです.やろうと思ってそう簡単にできるものではありません.それを敵の攻撃を「利用して」いっきに世論作りしてしまうのは,なまじっかの人間にはできるものではありません.

 

・国家統制経済への移行

 10月中旬あいついで三つの重要な決定がなされます.第一に基幹産業国有化法制定です.この法律により105の製糖工場をふくむ382の大企業と全民間市中銀行,貿易会社が国有化されることになりました.大規模な工場,店舗はすべて国のものとなりました.

 第二が都市改革法です.都市部の不動産売買は政府の管理下におかれることになり,賃貸を目的とする家屋の所有が禁止されました.会社所有の不動産もすべて国有化されました.これは都市における住宅不足の解決が表向きの口実ですが,国内反革命分子の最大の資金源となっていた家賃収入を断つのが真の狙いでした.

 第三に,マトス事件以来凍結していた農地改革法の実施を再開したことです.こうして62年末までに40ヘクタール以上の農地の接収を完了,カストロは「革命の第1段階は完了した」と宣言するにいたります.

 これに対抗して米国は食料,医薬品などを除く対キュ−バ輸出の全面禁止を決定します.医薬品についても商務省の特許状が必要となりました.これがいまも続く非人道的な経済制裁のはじまりです.さらに米国はカナダ政府に対し米製品をカナダ経由でキューバに輸出しないよう申入れますが,カナダは「いかなるキューバ禁輸措置も支持しない」とこれをはねのけます.

 おりから米大統領選は最終コーナーにさしかかっています.民主党の大統領候補ケネディは共和党以上のタカ派ぶりを演出します.かれは演説のなかで「共産主義がフロリダの海岸からジェット機で8分のところまで来るのを許した」とアイクを批判.「自由の戦士」である亡命キューバ人を賞賛しキューバの在米資産の凍結,カリブに於ける共産主義の脅威に対し米国,LA諸国,ヨーロッパの同盟国の一致した行動を訴えます.

・識字運動キャンペーン

 明けて1月,政府は61年を「教育の年」とすると宣言します.こうして「民衆が民衆を教える」「知らないものは学べ,知るものは教えろ」を合い言葉に全国で識字運動が開始されました.この運動のためすべての学校が一時閉鎖されました.延べ26万8千名のボランティアが運動に参加したといわれます.こうして百万人の文盲に対し識字教育がほどこされ文盲率は23.6%から3.9%に減少したといわれます.

 やや皮肉っぽい見方になるかも知れませんがこの運動はむしろ一種の「下放運動」と考えた方が良さそうです.教育というのはそんな一時の熱情で獲得できるようなものではありません.もし字を憶えたとしても,今まで通り文字を必要としない環境の下で暮らす限り,すぐに忘却の彼方に消えていきます.現にその後の統計でもキューバの識字率は低下の一途をたどります.63年5月に勤労者百万人を対象にしたテストが実施されました.その結果は惨憺たるものでした.55%が小学2年生程度,28%が3年ないし6年程度の学力,中学生の水準に達していたのは5.5%に過ぎませんでした.それが上向きになるのは60年代後半の経済危機を脱してからです.

 しかしこの運動を通じて都市の若者が農村の実態を肌で知り,ゲリラの思いを追体験することで革命の意義を理解するようになれば,それはそれで一種の文化革命です.おまけにこの連中の中に潜む反革命分子を都市から遠ざける上でも好都合ですが,そこまで政府が考えていたかどうかは分かりません.PSPのブラス・ロカはこんな経済困難の状況で識字運動をやるのは無茶だと批判しますが,以上のような狙いからすれば,むしろ彼のほうがピンボケだということになるでしょう. 

 

(2)反革命活動の強化

・山岳ゲリラの活発化

 11月グアテマラでおきた反乱はキューバ国民に深刻な衝撃を与えました.千名からなる部隊がキューバ上陸を狙い着々と準備を重ねていることがはっきりしたからです(事件については次の章で記載).

 このニュースは国内に潜伏する反革命派には大きな力づけとなりました.ハバナなど都市部では潜入した反革命ゲリラの破壊活動が活発に展開されます.しかしこのような小規模な攻撃では革命政権打倒の動きとはならずかえって一般市民の反感を買うだけです.そこでかつてフィデルが展開したのとおなじやり方で,つまり山岳部でのゲリラ作戦を展開することが当面する最大の目標となりました.さいわいエスカンブライには牛食いメノヨの残党が残っており,ドミニカのトルヒーヨと連絡を取りながら細々とゲリラ活動を続けていました.

 9月に入るとCIAの大規模なテコ入れを受けエスカンブライのゲリラが息を吹き返してきました.現地で組織された民兵隊がゲリラ活動を食い止めようとして掃討作戦を開始します.民兵隊は10月はじめ米国籍機から投下された兵器を受け取ろうと出てきたゲリラを待ち伏せ,百名以上を逮捕することに成功します.しかしこの逮捕者の数は逆にゲリラの戦力がただならぬものであることを実感させました.

 11月に入るとバチスタ軍の元大尉リンダがピナル・デル・リオ州のオルガノス山地にたてこもりゲリラ活動を開始します.名前こそリンダ(美人)ですが,ひどいアバタ面で仲間もおそれる殺人狂だったとのことです.

 

・ピーターパン作戦

 同じ時期ハバナ市内では反革命テロ部隊の編成が進んでいました.革命前M26の都市戦線を指導していたマヌエル・ライは,閣僚を辞任したあとテロ部隊の指揮にあたります.10月彼の「第五中隊」のメンバー17名が逮捕されます.メンバーの自白から,ダイナマイトを詰めたタバコ箱を商店や劇場に投げ込もうとしていたことがあきらかになりました.その直後ハバナの百貨店「ラ・エポカ」が爆弾により全壊したことでその威力は確認されました.マヌエル・ライは手入れから逃げおおせマイアミに亡命します.

 これらのサボタージュを影から支えたのがカトリック教会でした.教会はみずから公然たる反政府運動にも乗り出します.国内教会勢力のトップ,ウォルシュ枢機卿はみずからのアイデアに基づきピーターパン作戦を展開します.これはかなり手の込んだ計画で,・まずキューバ政府が親から子供を取り上げ,シベリア送りにするというデマを流し,・ハバナの教会幹部も巻き込んで子供をフロリダに亡命させ,・フロリダで反カストロ宣伝に利用する一方,・両親を,子どもを人質に陰謀に協力させるというものです.

この計画は米国務省の全面的な支援を受け大規模に実行されました.ウォルシュ自身の証言によれば二年間で1万五千の子供が親元を離れてフロリダに亡命したそうです.その大半はふたたび親と巡りあうことはありませんでした.とても神の愛を説く人間にはできない作戦です.4

 政府側も教会に対する圧力を強める一方,反革命を挑発する報道に規制を加えることで絞めつけで対抗します.この時期に旧バチスタ系の「ディアリオ・デ・ラ・マリーナ」紙が閉鎖され,ニュースキャスターのルイス・コンテも追放されました.コンテといえばクーデター以来のカストロの親友です.モンカダに参加しようとしたとき「君は残れ」といわれ,その後カストロの救援活動では中心的な役割を担って来ました.その彼も革命後の動きには批判を強めていたのです.

(3)米玖,ついに断交

・アイク,断交を声明

 年が明け61年を迎えました.ハバナで行われた革命記念パレードは世界の度肝を抜きました.それはまさに戦車,臼砲をはじめとするソ連製最新兵器のオンパレードでした.演説したカストロは「米大使館員の8割はスパイ活動に従事している」と米国非難のトーンを上げます.そして駐ハバナ大使館の館員156名を11人に削減するよう通告しました.11人というのはワシントンのキューバ大使館の館員と同じ数です.

 フィデルにはときとしてやりすぎの傾向があります.気持ちは分かりますがここはもう少し隠忍自重すべきだったのではないでしょうか.アイクの堪忍袋の緒がついに切れました.3日記者会見したアイクは「米国の自尊心と忍耐にも限界がある」としキューバとの国交断絶を宣言します.こちらも二週間後に退陣を控えた人間としてはかなり常識を外れた振る舞いです.ケネディもこの措置を支持すると声明せざるを得ません.米国はハバナのスイス大使館を米国の利益代表部に指名,キューバもワシントンのチェコ大使館を利益代表部に指名します.

 国交断絶にはLAの6ヵ国も同調しましたがなお多くの中南米諸国が外交関係維持を表明します.米国はこれらの国に対し陰に陽に攻撃をかけ始めます.

・ケネディへの呼びかけ

 国交断絶と言えば宣戦布告と紙一重です.キューバはただちに「ヤンキーの侵攻」にたいして軍事的警戒態勢に入ります.18日のケネディの大統領就任式の前日はとくに危険とみて24時間厳戒体制をしきます.

 いっぽうでキューバ側は何とか和解の糸口を見つけようと懸命の努力を行います.ケネディが当選した直後「ルック」誌と会見したゲバラは「農業改革以外のすべての急進的措置は好きこのんでなされたものではない.米国がキューバに加えた圧迫が革命の“急進化”を迫ったのだ」と,しおらしい台詞をはきます.

 ケネディ就任の当日カストロは「われわれは平和を求めたい」と述べ,米国が関係改善のイニシアチブをとれば外交関係を「新たに開く」用意があることを示しました.ゲバラも「新大統領が対キューバ断交の決定に加わっていないことは重要である」と新大統領に期待を寄せます.政府は誠意の表れとして,外交断絶後続けていた20万の民兵動員を解除,侵略の疑いで逮捕した米人6人の裁判を無期延期しました.

 しかしケネディは最初の記者会見でキューバとの国交回復を拒否する態度を明らかにします.いまさらここまで来てどうするもないでしょう.なにをするにももう少し時期をみなくてはなりません.

 

 

1 ハバナ港に沿った道を南に下っていくと道端のちょっとした広場に碑が建っています.「キューバ最初の公園」なんだそうです.それだけです.そこをもう少し進むと大きな船のスクリューが置かれています.これがラ・クーブル号の残骸です.ついでにメイン号の記念碑みたいなものはないかと聞いたところ,メイン号は港の沖合で沈んだのだとのことでした.たしか本にのっていた「沈没の場面」の絵は港の中のようでしたが,どちらがほんとうなのでしょう.

2 ところで売春婦などという言葉はお世辞にも上品な言葉とはいえませんが,これはかつてニカラグアの独裁者ソモサを指してルーズベルトが語った言葉「かれは売春婦の息子(サナバビッチ)ではあるが売春婦たる私たちの息子だ」を受けての発言であり,西半球ではそれなりに歴史的重みを持った一種の国際政治用語であることを付け加えておきます.

3 ところでCDSは,悪くいえば相互監視と密告を奨励するシステムです.「あれこれめんどう,味噌,しょうゆ」とセットになっているだけに,思想信条の自由とは深刻な矛盾を来さざるを得ません.しかし破壊分子が自由にのさばって至るところでテロ活動を繰り返している状況の中では,どうしても必要な制度でもあります.あまり「革命の推進力」などと積極的な意義づけはせず,限定的に必要悪として承認するのが妥当な立場ではないでしょうか.

4 ラテンアメリカでカトリック教会が左傾化し始めるのは,60年代後半に入ってからです.そのおおもとは62年に法王ヨハネ23世が主催した第二次バチカン公会議にあります.「解放の神学」や中米諸国などでの神父たちの活躍を見慣れているわれわれには信じられないような話ですが,当時はカトリック=保守反動というのが常識でした.