第4章 後戻りできない改革

 この章あたりから話は少しややこしくなってきます.最初に筋立ての説明をしておきます.まず最初は政治の話です.M26プラス中道左派の連合として始まった革命が,中道左派の離反,そしてM26右派との決裂と進んでいったことは前々章で述べました.そのあとに反米・親ソ・親社会主義傾向の強まり,軍事・経済システムとしての「社会主義」体制の採用が続きました.いずれこの傾向は政治的にも決着を付けなければなりません.それがどう決着していくのかがこの章の最初の部分です.

 つぎに米国のキューバ包囲作戦の柱としての「進歩のための同盟」です.「進歩のための同盟」は中南米各国に大きな影響を与えました.それが「進歩」ではなく社会矛盾の激化につながっていったことは歴史が証明しています.しかしその功罪については本書の触れるところではありません.ここで指摘しておきたいのは「進歩のための同盟」が,なによりもキューバ包囲網形成の一環として位置づけられていたということです.ケネディがいかに美辞麗句を連ねようと,それはキューバ経済封鎖とリンクし,その効果を増強するためのものでした.

 第三に,工業化計画の失敗とそのあとの深刻な混乱に触れなければなりません.この混乱は60年代いっぱい続きました.その混乱のなかでゲバラは政治の舞台を去ることになります.この部分は未だに論争のテーマです.その解決法が正しかったのかどうかも,社会主義体制崩壊後の評価と,ただちに結合するだけに,きわめて微妙な問題です.事実関係だけに絞ってみておきたいと思います.

 

A.革命主体の再編成

(1)M26左派とPSPとの関係

・M26のPSPへの接近

 話は61年初頭にさかのぼります.工業化4カ年計画は,社会や経済の仕組みをソ連型の「社会主義」システムに転換する作業と不可分に結びついていました.工業化計画の宣伝と並行して親ソ親社会主義思想が広められていきます.まずPSPに対する非合法化を定めた法律が正式に廃止されました.それまでもPSPは実質的には合法化されており,政府や各種機関の幹部にPSP活動家が登用されていたのですが,今回の決定はそれを法律的にも確定するものとなりました.

 カストロは2月,イタリア共産党機関紙のインタビューに答え「過去の小ブル的偏見と反共主義」を自己批判してみせます.新たに創設された11校の革命教育学校は中堅幹部7百名を集め,親ソ親社会主義思想を吹き込んでいきます.その講師のほとんどはPSPのメンバーが占めていました.

 4月15日の空襲犠牲者追悼集会でのカストロの社会主義発言は前章で紹介しましたが,ヒロンの闘いのあと社会主義化は一気に進行します.フィデルがプラヤ・ヒロンの勝利を宣言したその日,官憲はソリ・マリン元農相を逮捕しました.国内の地下組織に加わり侵攻軍に内通していたことが判明したためです.まもなく労働者戦線指導者のサルバドルも逮捕されます.ソリ・マリンは反逆罪に問われ銃殺刑に処せられます.おそらくずっと前から内通の事実を知りつつ,これまでの経過を配慮し逮捕まで踏み切らずにいたのでしょう.しかしここまで事態が進展してはどうなるものでもありません.この逮捕劇はフィデルの気の短さではなく,逆に根気のよさ,皮肉にいえばM26右派に対する未練の表現なのかも知れません. #1

・革命統一組織(ORI)の結成

 こうして過去に決別したフィデルは,プラヤ・ヒロンの勝利を祝うメーデー集会で「われわれの革命は社会主義革命である」とさらに一歩踏み込みます.そして,この革命を指導するあらたな単一の前衛党結成のため,その予備段階として革命統一機構(ORI)の結成を明らかにします.DRのメンバーをもふくむことで統一性を強調してはいますが,実体としてはM26左派とPSPとの合併ということです.当時ORIのメンバーは公表されませんでしたが,エスカランテがORI第一書記に就任するなど極めてPSP色の強いものでした.

 ほぼメンバーのそろった段階で,カストロは統一革命党(PURS)の結成を宣言します.10月には,M26の青年グループとPSPの青年同盟が合併して反乱青年協会を結成します.ソ連共産党大会に出席したゲバラはまもなく統一党が結成される予定と発言します.

 「社会主義」化路線の決定打となったのが,61年12月のカストロのテレビ演説でした.これは党幹部学校での講義の実況中継という形で放送されました.この中でまずカストロは「キューバ革命においてPSPは労働者を代表しM26は農民を代表しDRは学生を代表していた」と,M26の役割を相対化する総括をおこないます.ついで自らを「いささか理想主義的な,世界の現実を知らない社会改革者であった」と謙遜して見せます.

そして最後は「われわれは革命の過程でその現実,階級闘争のさまざまな表れに直面しなければならなかった.そうなるにつれてマルクス・エンゲルスの著述の真実がそのまま納得されるようになった.そしてレーニンがあたえた科学的社会主義の解明が真に天才的なものとして納得されるようになった」と結びます.それはいささか大仰な回心の告白でした.1

 #1 ソリマリンはすでにマイアミに亡命しており,侵攻計画とあわせ国内に潜入していたとの説もあります.

(2)革命後のPSP

・革命初期の右往左往

 革命末期には,C.R.ロドリゲスたちがシエラ入りしたり,サンタクララにおいてPSPゲリラとカミロとが共闘するなどの動きはありました.しかしエスカランテをトップとするPSP中央は,革命が成功する最後の瞬間までM26の闘争に対して批判的であり,革命が成功してからあわてたというのが率直な経過でした.したがって59年1月の時点で,PSPにはほとんど政治的発言権はありませんでした.

 1933年に続いて二度までも革命に置いてきぼりを食ったわけです.政治的敏感さにかけていたというしかありません.マリネーリョを議長にたてブラス・ロカが書記長,エスカランテとロドリゲスのトロイカ体制は20年このかた変わっていません.世代交代の遅れもあったかも知れません.さらにこの三人が,ロカは親中国,エスカランテは忠実なモスクワ派,ロドリゲスは親ゲリラという具合では,話のまとまりようもありません.

 5月農地改革法施行直後の騒然とした雰囲気のなかPSPが,事実上合法化されます.合法化後,初の全国委員会総会は新政権支持を表明し,現在の革命を「愛国,民主,民族,農業改革,人民進歩」革命と規定します.これだけゴチャゴチャと並べ立てるということは,主体的な規定ができるほどの自主的立場が存在していないことの告白でしょう.

 PSPはまず伝統的な勢力を持つ労働戦線で巻き返しをはかります.バチスタ時代おさえつけられていた労働者の要求をどう実現していくかは切実な問題でした.失業,低賃金,住宅など,どれをとっても緊急に解決を迫られる問題が山積していました.各地でPSPによって指導される労働争議が頻発しました.

 PSPとM26との関係を複雑にしていたのは,労働戦線に影響力を持つ旧平原派の活動家たちでした.フィデルは全国TV放送で「PSPが賃上げを扇動し反革命行為をあおっている」と非難するいっぽう,平原派のサルバドルにM26系活動家を結集するよう指示します.サルバドルは労働ヒューマニスト戦線を結成し議長におさまります.

 まもなく砂糖労働者全国同盟大会が開かれます.砂糖労組はこれまで一貫してPSPの拠点でしたが,役員選挙ではM26が圧勝します.大会終了後,サルバドルは労組員を動員してPSP本部へ反共デモをかけます.その得意たるや思うべしです.2

 一方農村では,PSPとM26左派との協同が着実にすすんでいました.INRAは農地改革後1年で1400の農業協同組合を創設します.さらに農村が必要とする物資を供給するため,2千の「人民の店」を開きます.学校もいっきに1200校が開講します.これらの事業をすすめるためには,それこそ猫の手も借りたいほどです.地主層が陰に陽に妨害を強めるなかでは,現場で古くから抵抗を続けてきたPSP活動家の協力が不可欠でした.そして現場での活動を通じて相互信頼が強まっていくのも自然の成り行きでした.

・M26全面支持路線への転換

 ウルティア辞任後の情勢は大きく変化します.M26内でのラウルやゲバラの発言権が強まり,フィデルの反共発言も姿を消していきます.農業改革に反対する親米右派やその背後にいる米国に配慮する必要がなくなったからでしょう.とりわけラウルが全権を掌握したオリエンテ州では,シエラ・クリスタルでの実験がさらに大規模に展開されます.先の章でも触れたように,ラウルの部隊は正真正銘のPSP党員を含め,左派系活動家の拠点でした.

 この動きを見たエスカランテは,党創立34周年記念式典で「PSPは一貫してカストロの闘争の支持者であった」と強調します.なんと言っていいのか,このヌケヌケぶりには言葉が見つかりません.ただキューバの本では,このエスカランテという男はつねに悪者としてしか登場しませんが,実情はどうだったのでしょう?

 このあと,国外亡命から戻ったブラス・ロカが,ふたたび指導権を掌握します.10月はじめPSP党大会が開催されました.報告に立ったブラス・ロカ書記長は注目すべき予言をします.「今日革命の指導権をにぎっているプチブル急進派のもっとも進歩的な部分は,将来プロレタリアートに進化していき,社会主義的観点を取り上げ,社会主義革命への移行過程のなかでも先進にとどまるであろう」

 これはたんる「予言」ではありません.すでになんらかの確認が出来ており,その事実を前提にして述べているのです.ラウルが国防相に就任するのはその1週間後のことでした.

 ブラス・ロカは続けて「さまざまの民主的,民族解放的諸課題がすでに実現され,その他の課題が進展しつつある以上,党の新しい綱領が必要である」と述べています.つまり民主主義革命の段階は終わり,社会主義への発展をめざす段階に到達したという認識です.

 報告はM26を明確に右派と左派に分け,左派を最後までともにすすむべき同志として規定しています.それは実践的には,目前にせまった左右両派の対決に対し,傍観者としてではなく左派の一員として体を張って関わっていくことを意味します.このことは大会の直後に起こった一連の事件と考えあわせると重大な意味をもちます.

 PSPの方針転換にあたってはソ連共産党からの強力な指導があったと考えられます.マトス事件をあいだにはさんだ10月末,ソ連の密使アレクセーエフがタス通信記者の肩書きで入国します.彼はフィデルやゲバラと秘密裏に会談しミコヤン訪問の根回しをします.

 翌60年の8月,PSP第8回大会が開催されました.この頃になると,すでにPSPとM26左派とは事実上一体のものになっています.大会ではフィデルのめざす方向が「社会主義への歴史的,必然的な移行への道を照らすPSP発展の方向と同一である」とする新綱領が採択されます.報告のなかでブラス・ロカは,あらためて解放闘争に対する態度を自己批判すると同時に,M26に歴史的再評価をくわえます.そして今こそ急進左翼と労働者階級の連合が必要になっているとし,全革命勢力の単一運動への統合を打ち出します.

 

B.経済封鎖と「進歩のための同盟」

(1)「急がば回れ」路線

・中南米の政治的危機とケネディ

 大統領選挙最中の勇ましい言動とは裏腹に,就任直後のケネディは,ただちに直接侵攻とは考えていなかったようです.繰り返しますが,彼は平和愛好家などではありません.ただニクソンやダレスのような反共ヒステリーではなく,もう少しリアルに国際的力関係を見ていただけです.それに46歳という彼にとって,8年の任期は約束されたようなものでした.そのあいだボデーブローを叩き込み続け,最後に必殺パンチを繰り出してキューバをしとめればよいのです.

 最初の議会に臨んだケネディは,一般教書で「進歩のための同盟」政策を推進すると発表,3月の特別教書では中南米開発援助十か年計画を提案します.ついで13日には,ホワイトハウスにキューバ,ドミニカを除くLA各国大使を招き「進歩のための同盟」の概要を説明します.

 当時中米地域を見渡しただけでもグアテマラ,エルサルバドル,ニカラグア,パナマ,ドミニカなどいずれも深刻な政情不安を抱えていました.米国の憂える「共産主義のドミノ(将棋倒し)」が今にも現実のものになりそうな状況にあったのです.しかも政情不安の原因はどれをとってもおなじで,米国資本の経済・政治支配と,これに寄生するかいらい政権の腐敗ぶりが国民の憤激を呼んでいたのです.つまり事情はまったくバチスタ時代のキューバとおなじです.

 「進歩のための同盟」は,究極的にはキューバ打倒を目標としつつ,とりあえず第二,第三のキューバの出現を防ぐこと,キューバに多少とも好意を示すような政府を中南米から排除すること,を狙いとしていました.こうしてキューバという腫瘍を,近隣諸国から十分に剥離すれば,外科的切除ははるかに容易になります.途中ピッグス湾事件で中断はあったものの,その後ケネディはますますこの計画に本腰を入れるようになります.

・経済援助とキューバ断交のセット

 8月プンタ・デル・エステで開催されたOAS経済社会理事会は,「進歩のための同盟」をうたった憲章を採択します.米国は10年間で政府資金110億ドルを含め2百億ドルの援助を約束しました.この「同盟」からは当然キューバは排除されています.さらに援助とセットで,米国はキューバ共同制裁案を提案します.

ところで「進歩のための同盟」には,たんなるキューバ封じ込め政策の一環というにとどまらない重大な内容があります.むしろ米国資本の中南米進出のための露払い,という性格が本質といえるかも知れません.

 例えばブラジルのグラール大統領は,64年,クーデターで逐われる直前のOAS総会で次のように演説しています.「われわれが求めているのは,われわれを際限なく貧困状態に押し下げて行くような,米国の借款という新規の負担ではない.われわれが求めているのは,それでもって発展の新しい段階に進んで行けるような資源である」

 ボリビアのシレス・スアソ大統領は,もっと直截に表現しています.「米国が恵んでくれたのは首吊りにちょうど良い縄のようなものである」

 このような「同盟」の持つ歴史的側面については,これまでもずいぶん分析されてきたし,本論と外れるのでここでは触れません.巻末の参考文献を参照していただければと思います.

 ドルティコス大統領を代表とするキューバ代表団は,「キューバ排除は国連憲章に違反」と非難し席を立ちます.ブラジル,メキシコ,アルゼンチン,チリ,エクアドルの各国が,なお制裁案に反対をつらぬきましたが,もはや大勢は決していました.制裁に反対した国々に対しては,そのあと露骨な政府転覆策動が展開されることになります.

(2)キューバ封鎖への第一歩

・対キューバ全面禁輸の実施

 カサにかかったケネディは対キューバ全面禁輸を指令します.これが現在まで続く「経済封鎖」の原形となります.すなわちこれまでの禁輸に加え,第三国製品であってもキューバ産品を原料とするものは輸入禁止,第三国からキューバへの輸出であっても米国の生産品であれば禁止,そしてキューバを支援する国へは援助を停止する,というものです.3

 これを受けたロストウはNATO特使として西欧諸国を歴訪.キューバ禁輸措置への協力を迫ります.これを受けた英国の返答が傑作です.「我が国がボイコットの対象としていない国に,企業がものを得るのはまったく問題ない.非戦略物資の輸出は米国がソ連に小麦を売るのと変わりない」

 キューバは国連総会にたいし経済封鎖解除をもとめる決議案を提出しますが,否決されます.今日の国連総会を思えば隔日の感があります.当時の国連は,OAS同様,米国の投票機だったのです.

・OAS,キューバを除名

 プンタデルエステでのOAS総会ではキューバ除名提案は否決されましたが,米国もその時は,それ以上深追いしませんでした.喉から手が出るほど資金のほしい各国を相手に,援助のエサでじわじわ締め上げていけばよいからです.案の定まずベネズエラが,ついでコロンビアとペルーが,あいついでキューバとの断交を発表します.そして62年2月のOAS外相会議では,ついにキューバの参加停止決議(除名)と武器禁輸等の制裁が決議されてしまうのです.

これらの国の断交の口実は判で押したように,現地のキューバ大使館が政府転覆の陰謀に援助を与えたというものです.そして証拠として「大使館の発した秘密文書」なるものを提出します.この裏にCIAが一枚からんでいたことが今日明らかになっています.

 キューバはOASに対抗して各国の知名人も集めハバナ人民大会を開きました.大会は2月4日決議を採択します.これがいわゆる「第2次ハバナ宣言」と呼ばれるものです.この決議でOASからの脱退と社会主義の選択が宣言されました.すべてのLA諸国に武装革命路線が呼びかけられます.

 さらにケネディ死後の64年7月に開催された第9回OAS外相会議は,・キューバの行動は侵略である,・加盟国はキューバとの外交関係を断絶する,・人道的理由にもとづく品目以外の貿易を全面禁止とする,・必要な場合には軍事力に訴えた個別的集団的自衛権の行使も可能である,という内容の決議を採択するに至ります.結局最後までキューバとの門戸を閉ざさなかったのは,唯一メキシコのみでした.ことキューバ封じ込めという目標に関する限り「進歩のための同盟」は大成功だったのです.

 

C.工業化計画の挫折

(1)フセプランの展開

・キューバ経済の三重苦

 新たに船出したキューバ経済はその最初から重大な障害を迎えざるを得ませんでした.当初カストロが目指した経済システムは,彼の米国訪問時に表明されたとおりです.とにかく自主・自立ということです.それは米国資本の支配からの脱却であり,植民地的な産業構造の改善であり,農地改革による農業の自立であります.

 しかしその後の米国の干渉,それに対してキューバが断固たる対決姿勢をとった結果として,いくつかの困難が生じてきました.

 革命政府が最初にとりくんだ農地改革に際しては,米国の意を受けた国内の反動=中間層が大量に離反し,経済運営にも大きな影響をもたらしました.このあと旧来の支配層には一切頼らず自力で経済改革をやり抜くぞ,という決意を示したのがフセプランの創設でした.それは明らかにソ連型の計画経済を志向した計画でもありました.

 60年にはいると米国の圧力は一気に強化されました.それは軍事挑発であり,国際的孤立化であり,経済封鎖でした.その結果キューバにもたらされたものは,・市場の喪失,・軍事費の重荷,・生産管理能力の喪失という三重苦でした.それらはたった一つでも致命傷となる経済的欠陥です.

 キューバの指導部は,これらの経済的重荷に耐えながら祖国と革命を防衛しなければならなかったのです.マトス事件以降の経済改革は,米国の軍事的脅威を受けての国内経済の軍事化と,「総動員体制」の確立とみることもできます.対ソ接近も,そもそもは国防上の必要に迫られてのことでした.

・企業の国有化をどうとらえるか

 7月の米国精油会社の接収に始まり,半年足らずのあいだにほとんどの企業が国家に接収されました.国有化自体は別に社会主義的なものではありません.それは米国との丁々発止のやりとりのなかで,いわば副産物として突如大量に生まれたものでした.悪くいえば,後先の考えもなしにその場の勢いでやってしまったものです.その後どうするかまでは考えていませんでした.

 しかし実際に経営陣がいなくなってしまうと,これをどう運営していくかが大問題となります.人材なしでは大工場もただの箱にすぎません.これら企業の経営管理をどうしていくか,二つの方法が考えられます.ひとつは現場に残された労働者に自主的に管理させ,流通に関しても市場原理に任せ,国家としては無政府的にならない程度に緩やかな規制をかけるにとどめるという道です.もうひとつは国家が全面的に介入し,経営の具体的内容までふくめ完全に掌握・統制する道です.この二つの道のうちどちらをとるかで,ずいぶん話が違ってきます.

 しかし実のところ,この選択を巡っては議論の余地はありませんでした.ゲバラによれば,後者の道は「選択」ではなく情勢の必然的な「帰結」だったのです.すでに現場には,生産や販売を管理できるスタッフはいなくなっていました.中央集権といえば聞こえはよいのですが,要は東京の本社が片田舎の出張所の給料計算までしなければならなくなったのです.

 国立銀行総裁ゲバラの命令一下,銀行法が改正され,中央銀行以外のすべての銀行の貸出業務が停止されました.資金の集中的運用のためです.すでに前年10月主要産業がすべて国有化されており,国内の私企業は息の根を止められたも同然です.さらに市中に現金が回らなくなれば,市場経済は崩壊し,配給制度がこれに代わることになります.

・工業化4カ年計画の発足 

 61年2月末,フセプランは工業化4ヵ年計画を発表しました.これがとんでもない代物でした.5年間で10億ペソを投入し重工業を中心とする工業国に変身しようというのです.たとえば発電能力は5年間に2倍に,年産130万トンの製鉄工場建設,2倍のセメント工場,その他自動車コンビナート,工作機械工場,電子工業コンビナートなどです.こうして家電・事務用品に始まって船舶・車両に至るまでのあらゆる工場を全国各地に建設するというのです.4

 こんなことができるわけがないし,無理に実施すれば経済はめちゃめちゃになるでしょう.しかし工業化計画の目的,あるいは計画発表の目的が,計画そのものにあったのではなく,もっと政治的な意図を含んでいたと考えたらどうでしょう.今の時点でこの計画を論評するのではなく,ニューヨーク・タイムスに侵攻計画がでかでかと載り,内戦が秒読み段階に入った,まさにその時点で,この計画は評価されなければなりません.祖国と人民を守るためどんな手段があったのか,そこに議論は集約されるべきでしょう.

 迫り来る敵の足音,祖国を捨て去ろうとする技術者や産業労働者,モーターは止まりボイラーは錆び付き,崩壊の瀬戸際にある鉱業や産業….そういう状況のなかで考えられたのがこの計画なのです.それは計画というより「夢」だったのです.

 革命家には夢を見る権利があります.最期の決戦に臨む塹壕の中で「この戦争が勝利したら…」と.そう思えばこの計画は識字運動と同じく思想動員,政府宣伝の一環として了解できるのではないでしょうか(納得は出来ないにしても).

(2)「所得倍増」計画の破産

・プラヤ・ヒロン後の大風呂敷競争

 プラヤ・ヒロンの闘いはもちろん大勝利です.国内には戦勝気分はそれなりに広がりました.しかしそれはバチスタを追いだしたときの底抜けの喜びとはまったく違います.誰もがこれでは終わらないということを感じていました.まさしく非常時です.

 それは経済に関してもおなじです.いまや米国という最大の市場を失い,しかもその侵略の脅威に備えながら経済運営しなければならない状況に陥りました.したがって新政策の基本は,国民にある程度の犠牲を課さざるを得ない緊縮型運営ということになります.

 いっぽうカストロが社会主義を宣言したことで,戦時統制経済こそが社会主義という「思い違い」がひろがっていきました.無理もありません,当時社会主義といえばソ連=中国型社会主義のことでした.それはスターリン主義であり命令主義,官僚主義であります.まさしくその故にキューバ国民にとってはこれこそが社会主義と映ったのでしょう.

 そこに持ってきて工業化計画です.当時はレーニンの有名な「社会主義=電化」テーゼが時と条件を飛び越えて一般化されていた時代です.工業化を唱えた人々が,いつのまにか,それを社会主義実現のための客観的土台としてではなしに,実現可能な目標と勘違いしても無理からぬところです.依然として「夢」を語らなければならない状況は続いているのですから.結果としては戦時統制経済=社会主義経済=工業化計画という二重の取り違えが流布されていくことになります.

 とはいえ,常識的には統制経済と「所得倍増」計画を結びつけるのは困難です.この点で政府部内には信じられないほどの楽観論が支配していました.たとえばカストロ曰く「革命はいかなる生産の危機にも直面しておらず,生産は拡大の一途をたどっている」,ゲバラ曰く「米国が妨害しなければ,キューバは65年までに生活水準を現在の2倍に押し上げるだろう」,レヒノ・ボティ曰く「4年後にキューバの一人当たり工業生産量はラテンアメリカ最高の水準に達し,電力エネルギー,鉄鋼,セメント,トラクター,石油精製産業ではトップとなるだろう」という具合です.5

・工業化計画の破綻

 この「大砲もバターも」路線は早くも8月には破綻を見せます.全国各地の多くの工場で原料や部品不足のため操業がストップします.はたらけば豊かになるはずだったのが,かえってモノ不足が深刻になっていきます.

 あわてた政府は,経済部門幹部のほぼすべてにあたる3千5百名を召集し,「全国生産会議」を開催しました.会議では現場の意見を無視した計画作成や,簿記や統計技術の低さによる計画自体の欠陥がきびしく批判されました.あげくのはては計画そのものを根本的に再検討する必要があるとの意見まで飛び出します.

 頭にきたゲバラは「我が国の生産に多くの弱点と多くの誤りがあることは明らかであるが,大切なことは,誤りを他者に転嫁し正当化することではなく,そのくり返しを避けることなのである」と厳しく警告します.

 このように,はやくも計画は破綻を見せていたのですが,政府は依然これに固執します.そして62年を「計画の年」と宣言し,いっそうの強化をはかるのです.技術者は「やってられるかよ」とばかりに,つぎつぎと亡命していきます.革命後の三年間で,中間層を中心に25万人が米国に亡命しました.カストロは亡命者を潜在的反革命分子とみなし,出国防止策を採りませんでした.こうして技術者不足,資材不足,部品不足が生産ストップを招き,物資の欠乏に拍車をかけるという悪循環になります.計画は発表後1年にして,みじめな失敗を遂げました.

 当時「キューバ」,「キューバの社会主義」などを著した,米国の在野エコノミストであるヒューバーマンらは,リアルタイムで書いているだけに,「キューバを守る」という目前の大義にしばられざるをえません.どうしても奥歯にもののはさまった表現になっています.いま書ける強みを発揮していえば,この4ヶ年計画は失敗して当然でした.「大砲かバターか」の例えで言えば当面の戦略目標は大砲でなければならなかったし,統制経済はそのための限定された戦略だったはずです.

 革命政権は最初の内部的な危機を迎えます.もとより戦時統制経済ははずすことができません.米国からの軍事的圧力は依然続いているばかりか,さらに強化されています.さりとて,新経済システムで国民に明るい未来を約束することもできなくなりました.革命前に蓄えられていた経済的余力は,この間に使い果たしてしまいました.

 62年3月には食糧が配給制に移行しました.6月にはマタンサスで物不足に抗議する主婦の鍋叩きデモ起きています.ハバナ市近郊のエル・カノでも商店がストを決行します.政府には国民に対し戦闘的精神の高揚をはかるいっぽう,不満分子に対しては強圧策で臨むほかなくなりました.もし政権が資本主義システムをとりつづけていたら,前代未聞の不況と天井知らずのインフレが襲っていたでしょう.

 ただキューバにはソ連といううしろだてがありました.新経済政策の失敗はソ連の援助によって糊塗されることとなりました.こうしてキューバはその意に反して極端な軍事統制経済,ソ連依存型経済,植民地的砂糖モノカルチャー経済という奇形的発展を遂げざるを得なくなっていきます.6

 

1 カストロという人物の偉大さを疑うわけではありませんが,彼はこのような信仰告白をするほどナイーブな人間には思えません.もっとリアルな,悪くいえばオポチュニスティックな傾向の人物だと思います.この発言はソ連に対する精いっぱいのリップサービスと見ておく方が無難でしょう.

2 サルバドルの行動を一貫してながめると,PSPならずとも「労働戦線にまぎれこんだ挑発分子,反共をこととする分裂主義者」のレッテルを貼りたくなります.かつてM26労働戦線を指導したときも労働運動を武装闘争にとって代えようとしました.意識的にPSPの影響下の組合に潜り込んではことを構え,末端活動家の「革命化」をあおりました.彼らが行った「4月ゼネスト」は実態としては蜂起激発戦術でしかなく,言葉通りのゼネストとは程遠いものでした.その事件に責任を負うべき人物がなんの反省もなしに復活してきたのは,M26内部で十分な総括が出来ないままになっていたからでしょう.

3 注意してもらいたいのは,この政策が対キューバ経済封鎖といいながら,内容的にはそれにとどまっていないことです.それは各国へのキューバ敵視政策の押しつけであると同時に,自由貿易の原則へのあからさまな侵害です.自由貿易の旗頭を持って任じる米国にとって,国際協定でもないただの国内法を他国に押しつけるのはどう考えても二律背反ですが,そこに頓着しないのが大国たるゆえんでしょうか.

4 どんなひいき目に見ても「野心的」などという形容はできません.今ある工場や会社でさえ人がいなくて管理できなくなっているのに,どうしてこんな工場を起ち上げて維持することができるのでしょう.もし作れたとしてその製品は販売されなければなりません.何処にどうやって売るのでしょう.

5 この計画は資金のほとんどすべてを社会主義国からの援助に頼っていました.そもそも計画の作成そのものが東欧テクノクラートの支援を受けておこなわれたのです.これらの援助で設備や資材の起ち上げは可能かも知れません.新たな雇用が創出できるかも知れません.しかしそれは一回こっきりです.まずハイパー・インフレがきて,そのあとに過剰生産と破産がやってきます.余剰物資をすべて政府が買い取って破産を防いだとしても,そのあとに残るのは膨大な対外債務です.そのツケを社会主義国のよしみで先延ばしにしたとしても,さすがに再生産に必要な原料・資材はもう売ってはくれないでしょう.生産というのはままごと遊びではありません.生産というのは「再生産」なのです.
 6 3年後の64年10月,ゲバラは経済困難の原因について以下のような自己批判を行っています.「革命当初われわれがこの経済原則を見落としていたのは,帝国主義支配や農村の惨状を砂糖と結びつけて考えずにはいれなかったためである.同時に原材料供給を無視した工業計画も反省されなければならない.われわれは大量の工場を建設し輸入代替産業を振興し都市労働者に雇用を与えることをねらった.しかし間もなくこれらの工場は国際的に見ると技術水準が低すぎることが分かった.輸入代替も原材料が調達できなければ実質的にはたかが知れたものであることが明らかになった」