第六章 カストロ暗殺作戦

 

 この章のあつかう範囲は時期的には59年12月からで,これまでの章と重複します.

 カストロ暗殺計画は当初プルータス作戦の一部でした.さらに計画はピッグス湾のあとも継続しむしろ本格化しました.また計画の全貌は70年代の上下院の調査委員会で明らかになり,さらに最近の秘密文書公開によって裏付けられるようになってきました.とくに最近出版されたフリアーティの本は,キューバ側の資料が豊富に使われており興味あるものです.真相解明はなお現在進行中といってもいいでしょう.

 この計画は極秘で進行したところに特徴があります.そしてこの計画の延長線上にケネディ暗殺とウォーターゲート事件がぴったり乗っています.三つの事件を一本の糸で結ぶためには,他の出来事から切り離して流れを見た方が分かりやすいと思います.これが独立した章をもうけた理由です.

 それではカストロ暗殺計画を中心に見ながら,その観点から見た二つの事件の評価という形で振り返ってみましょう.

 

A.プルータス作戦と第一次暗殺計画

(1)暗殺計画の策定

・キング大佐の暗殺作戦

 すでに12章でも触れたようにカストロ暗殺計画はプルータス作戦の本質的な一部です.最初は暗殺計画の方が先行して検討されていました.

 カストロ暗殺を作戦の中心に置くという発想はキングの持論でした.公開された秘密文書によればすでに59年12月彼は下記のような勧告書を提出しています.

 「フィデルの排除に徹底した考慮を払うこと.たとえば弟のラウルにせよ仲間のチェにせよ一般大衆に対してフィデルほどの催眠的な魅力は持っていない.多くの消息通によると,フィデルの失踪(CIA用語で殺害)は現政権の没落を大いに加速させるものと信じられている」

 A.ダレスはこの報告に基づきアイクに対し「カストロ抹殺に十全の配慮をたまわりたい」と要請しています.

 3月のNSCへの報告では内容が変わってきました.キングが作戦成功の鍵を握るものとして強調したのはカストロをふくむ政府要人の暗殺でした.議事録によればキング大佐は「非常な困難をともなうが,フィデル,ラウル,チェをワンパッケージで排除することが必要である」と力説します.「それが出来なければ軍事力を行使する以外にないだろう」とまで言い切ります.

 キングのワンパッケージ提案を受けたNSCはこれを了承します.「フィデルの取り巻きはフィデル以上に悪質」であり,フィデルひとりを暗殺してもかえって状況は悪化するという理屈です.1

 G2(キューバ情報部)の報告によれば,6月には最初の作戦が発動されています.このときはハバナのアセット(資産=工作員の隠語)に対しラウル暗殺を実行するよう指示が出されています.1万ドルの成功報酬が約束されたようですが,結局この計画は未遂に終わりました.この工作員は後に逮捕され計画を自白します.2

 

・マフィアを含む暗殺チームの結成

 カストロを含む要人暗殺計画は,発案者キング大佐が更迭されたことからいったん立ち消えになりました.8月に入ってビッセルは再びこのプランを採り上げました.CIA内に計画推進チームが組織され保安局長エドワーズ大佐がキャップに就任しました.計画の名を「DRライフル」といいます.

 さすがにこのダーティーな仕事に直接CIAが手を下すわけにはいきません.そこでエドワーズはギャングの仕業に見せかけようと思い立ちました.彼は工作支援部長オコンネルに安全器(フィクサー)を探すよう指示.オコンネルはマフィア最大のボスであるジアンカーナと接触するため,エージェントの一人メイヒューに相談を持ちかけます.

 当時メイヒューは私立探偵事務所を開業する一方,悪名高いハワード・ヒューズの個人顧問という肩書きを持っていました.つまりヒューズとCIAとの裏の連絡役を勤めていたわけです.メイヒューにはもう一つの顔がありました.元FBI捜査官で暗黒街に顔が効く彼は,CIAや財界とマフィアとのパイプ役でもあったのです.とにかく得体の知れない人物であることは間違いありません.

 メイヒューはラスベガスを仕切る親分ジョン・ロセリにあたりをつけます.両者の第1回会談はビバリーヒルズのレストラン,ブラウン・ダービーでおこなわれました.ロセリは我が身の安全を保障するため政府の正式代表との会見を要求します.これを受けてロセリとオコンネルがNYのプラザホテルで会見しました.席上オコンネルは任務の公的性格を保障,暗殺の成功報酬として15万ドルを提示します.

 これを受けたロセリはシカゴのジアンカーナと,マイアミのトラフィカンテに声をかけ同意をとりつけます.トラフィカンテといえば革命直後にハバナで逮捕され,ようやくの思いでマイアミに逃げてきた男です.3フィデルに対する恨みは骨髄に達しています.彼は昔なじみのトニー・バローナを計画に巻き込み,真正機構を母体に現地の実行部隊「救援隊」を組織させます.最近,セスナ機撃墜事件で名前の挙がった「兄弟の救援隊」は,この流れを汲むものです.ここに世にも奇怪な実行チームが結成されることになりました.

・マフィアとランスキー

 ここで少しマフィアの内幕について解説します.米国のギャングは第一次大戦後の禁酒法時代に酒の密輸で一挙に肥大化しました.その中心となったのがイタリア人移民で,彼らの秘密結社の名前がマフィアと呼ばれたことから,米国のギャング全体をマフィアと呼ぶようになりました.

 ギャングの二大拠点はシカゴとニューヨークで,それぞれアル・カポネとラッキー・ルチアーノが仕切っていました.ボストンのケネディの父もシカゴ・ギャングと結んで大儲けをした一人でしたが,後に足を洗ってイギリス大使にまで登り詰めます.

 ギャングのなかでもキューバともっとも関係の深いマイヤー・ランスキーについて少し触れておきたいと思います.彼はユダヤ系移民の子として育ち,ルチアーノの知遇を得てその片腕としてニューヨーク・マフィアの「発展」を支えてきました.

 30年代後半バチスタがルチアーノに接触を求めてきます.当時バチスタは権力を悪用してハバナのカジノを接収.もうけを懐に入れようと図っていました.しかしカジノの運営については素人です.そこでプロの派遣を求めたわけです.ハバナに派遣されたランスキーの経営は水際立っていました.彼はハバナを根城として一国一城の主となり,同時にバチスタのルートを通じて政界にも発言権を持つようになっていきます.

 彼の政治的能力が示された事件が二つありました.44年,CIAの前身にあたるOSSと海軍情報部は,沖仲仕を利用して港湾保全に協力させようと計りました.当時米国内の主要港湾の荷役作業はルチアーノのマフィアが仕切っていました.そこでOSSはマイヤー・ランスキーを通じて獄中にあったルチアーノと接触します.ルチアーノは仮出獄を条件にこれに応じました.交渉の結果彼はイタリアに送還されることを条件に釈放されることになります.この取引でギャングは一種の政治的市民権を獲得していくことになります.そしてランスキーが「オモテの社会」に向けてマフィアを代表する窓口となります.

 ランスキーの「権威」を象徴する出来事がもう一つあります.それはルーズベルトの名代としてバチスタと会見し大統領選挙の実施を迫ったことです.バチスタはランスキーの説得を受け入れ44年選挙の実施に動いたといわれます.

 戦後ルチアーノがイタリアに追放になってからは,ランスキーはルチアーノを継ぐニューヨーク・マフィアのボス,コステロの後見役として影響力を維持します.

 第二次大戦直後のハバナ会議は映画「ゴッドファーザー」でもお馴染みです.ランスキーが招請したこの会議は,ヨーロッパからルチアーノが持ち込む麻薬をハバナ=マイアミ経由で全米に捌くルートの開拓を目的としていました.いわゆるフレンチ・コネクションです.

 このネットワークを基礎にランスキーは一種の元締めの地位につきます.折からバチスタが政権に復帰し,これまで以上のビジネスをランスキーにもたらします.政治が堕落すればするほどギャングの仕事はやりやすくなります.ハバナはラスベガスと並ぶ歓楽の巷となっていきます.

 ランスキーの野望はハバナの帝王となることで完了するものではありませんでした.彼は全米のボスを集め全米シンジケート会議を開催します.1954年ニューヨーク近郊のアパランチンで開かれたこの会議は,途中FBIに踏み込まれるなどさんざんな目にあいますが,ともかく全米のギャングを曲がりなりにも統一したという点で一つのエポックとなります.この会議でランスキーは議長に就任します.ユダヤ人で国内にこれといった根城を持たないランスキーがマフィアの頂点に登り詰めたのは,それなりの「人格」とシンジケートの総意を体現できる政治的力量によるものでしょう.4

・ギャングの世界における勢力の消長

 その後ギャングの世界では勢力の消長が続きました.ニューヨークではコステロが死んだあと新たなボスの座をアナスタシアとジェノヴェーゼが争います.一時優位を占めたアナスタシアでしたが,他地区への強引な割り込みが嫌われたのか暗殺されてしまいます.5

 この間シカゴのジアンカーナはラスベガスやロスアンジェルスに進出するなど,全米最大のギャングとしての地位を固めていきます.その力の源泉はチームスターと呼ばれる全米最大の運転手の労組を傘下におさめたことでした.ギャングは労組を通じてとくに民主党を牛耳ることになります.当時シカゴのデイリー市長はギャングの政治代表と呼ばれたくらいです.

 カストロ暗殺計画に最初に登場するロセリは,ジアンカーナの弟分で本名をフィリッポ・サッコといいます.シカゴ・マフィアの西部進出にあたりアンダーボスとして派遣され,当時はラスベガスとロスを縄張りとして羽振りを利かせていました.ついでにいえばジアンカーナ一家のダラス進出への足がかりを作るべく乗り込んだのが,オズワルド殺しの犯人ルービーことルーベンステインでした.

 それまでニューヨークやシカゴの動きから孤立していたニューオリンズのローカル・マフィアが全米規模に成長してきます.ボスのマルセロはニューオリンズを密輸基地として拡充し,これで得た巨利を手にダラスに進出するなど独自の展開を図ります.6

 

(2)カストロ暗殺チームの結成

・ボツリヌス毒素入りカプセル

 CIAとマフィアの合同チームはマイアミのケニルワース・ホテルに作戦本部を設置,かき集めたキューバ人亡命者と協議を開始します.その結果射殺ではなく遅効性の毒薬による毒殺を第一選択とすることで合意しました.

 どちらかといえばトミーガンをぶっぱなして敵を血の海に沈めるというのがギャングの得意技ですが,今度ばかりは敵のただ中で単身闘わなければなりません.ヒットマンが安全に国外逃亡する計画が,殺害計画そのものと同じくらい重要な課題となります.このことを考慮すれば毒殺以外にはありません.幸いなことにイタリアにはボルジア家以来の毒殺の伝統があります.

 CIA技術部長シュレイダーが選んだのはボツリヌス毒素でした.これはボツリヌス菌が産生する毒素です.日本ではイズシの中毒の原因として知られています.口から入って24時間位してからじわじわと効いてきて,最後には重篤な呼吸筋マヒを起こして悶え死ぬというきわめて危険な毒素です.

 技術部がこれを開発したとされていますが,このような毒素は簡単には作成できません.彼の開発したのはボツリヌスをカプセルに詰める技術であって,毒素の供給自体には軍の生物兵器研究所が絡んでいると見るべきでしょう.7

 ところで暗殺計画の対象とされたのはカストロだけではありません.75年上院委員会での証言によれば,アイクは二度にわたって「非友好的な海外指導者の排除のため“処刑能力”を創出せよ」と指示したとのことです.それは具体的にはナセルでありエンクルマでありスカルノでありルムンバでした.

 この年の8月NSCはCIAに対しルムンバ暗殺を指示しています.8技術部長シュレイダーはみずからコンゴにわたり,ボツリヌス・カプセルを現地のCIA責任者に手渡したと証言しています.カストロのみならず世界中の反米有力者をこれで抹殺しようという魂胆です.

・毒薬カプセル,国内へ

 CIA内では(1)LSDを噴霧し錯乱させる,(2)葉巻にボツリヌスをしみこませる,(3)脱毛剤の硫酸タリウムを靴に仕込んでフィデルの髭を脱落させるなどの案が検討されたようです.(3)などいささか滑稽ですが(2)は実際に実行されたようです.翌年2月「挨拶がわり」のつもりでしょうかこの葉巻がカストロのもとに送られました.残念ながらこの葉巻はカストロには味わってもらえなかったようです.

 60年9月,まずシカゴ・ギャングの一味リチャード・ケインなる人物がカストロ暗殺計画を携えハバナ入りします.ケインもギャングであると同時にCIAのエージェントでもあるという謎の人物です.

 いよいよ毒薬カプセルができあがりました.マイアミのホテル・フォンテンブローで行われた会議にはロセリ,メイヒュー,トラフィカンテ,ジアンカーナ,トニー・バローナが出席,メイヒューが毒薬カプセルと1万ドルをバローナに手渡しました.バローナはハバナの「救援隊」幹部に毒薬を託します.

 ピッグス湾侵攻を目前にした4月14日,いよいよ準備がすべて整いました.メイヒューはトニーを通じてカストロ「処刑」を指示します.ここで滑稽な事件がおきます.肝腎のトニーがオパ・ロッカの旧海兵隊兵舎に幽閉されてしまったのです.別のCIA筋が,亡命者評議会幹部を予防拘束するよう指示したためです.それを知らないメイヒューは八方手を尽くしますが,結局連絡が取れずじまいで戦争が終わってしまいました.これが暗殺作戦第一幕の何ともしまりのない幕切れです.

 

B.ピッグス湾事件以後の一連の作戦

(1)パティー作戦とリボリオ作戦

 この二つの作戦はG2側の情報としてフリアーティの著書のなかで初めて明らかになったものです.米国側で対応する資料が出てこない現在,この著書から紹介する以外にありません.

 ピッグス湾の敗北でCIAは手痛い打撃を被りました.彼らは失点を取り返そうとしてさらに凶暴になります.当面侵攻作戦の再現がないとすれば残された作戦は暗殺計画しかありません.CIAはフィリップスを作戦責任者に抜擢し,全力を挙げてこの作戦に取り組むことになりました.これがパティー作戦,キューバ側ではカンデラ作戦と呼ばれた暗殺計画です.

 計画の骨子は7月26日のモンカダ記念式典に出席するフィデルをハバナで,同じくラウルをサンチアゴで同時に暗殺しようとするものでした.さらにこれと並行してエウヘニオ・ディアスにグアンタナモ基地を「襲撃」させる計画も進められました.集会で演説中の人間を暗殺しようとするのですからこれは銃による狙撃以外にありません.暗殺計画の具体化には現地キューバ人のイサギレが当たります.

 キューバ当局は7月はじめにはこの情報をつかみました.慎重な捜査の結果,式典間近の24日イサギレと協力者を一斉逮捕します.これで結局パティー作戦は壊滅することとなりました.

 しかしこれでフィリップスがへこたれることはありませんでした.彼はパティー作戦に代わる新たな暗殺計画を考案します.リボリオ作戦と呼ばれるこの計画は,旧大統領宮殿の近くに潜みカストロが顔を出すところを狙撃しようというものです.フィリップスはこの作戦のためにハバナ時代に育てた子飼いの破壊分子を利用しようと図ります.その対象となったのはライのMRPに属する活動家アントニオ・ベシアーナでした.

 ベシアーナはアベニーダ街のアパートの8階に部屋を借りました.ここから旧大統領宮殿の北テラスまで直線で70メートル,腕のいい狙撃手にとっては目と鼻の先です.当時宮殿前広場は革命広場と改称され多くの大衆集会が開かれる場所になっていました.宮殿の北テラスはカストロが演説するときいつも使うおきまりの場所でした.

 ハバナに派遣されたエージェントがベシアーナと接触,この部屋にバズーカ砲や多数の機関銃,手留弾,民兵の制服など武器を持ち込みます.準備が終わった頃フィリップスがキューバに偽装して潜入します.彼はベシアーナに作戦の目的がカストロの暗殺であることを明らかにしました.協議の結果10月4日開かれるドルティコス大統領の帰国歓迎集会が暗殺計画の実行予定日となります.

 しかしベシアーナらは前日になって実行を断念し,その足で米国に逃亡してしまいます.保安局からマークされていることを知ったためといわれますが,当局がどの程度つかんでいたかは分かりません.ただ狙撃という方法はそのあと逃げる余裕がほとんどなく,犯人側にとってはかなり過酷な条件です.少しでも危険な状況があれば実行を躊躇するのも無理はないでしょう.

 この二つの作戦と並行してCIAは3人からなる刺客団3組を送り込みます.この作戦はマングース作戦と呼ばれました.しかしこれらはいずれも成果を上げることはできませんでした.G2はこのうちトロエジャらのグループを逮捕し計画の全容を知ります.

 

・ケネディ,暗殺計画を非難

 かくしてCIAが起死回生を狙った暗殺計画も次々と挫折していきました.キューバはあいつぐ暗殺計画を国際政治の舞台で暴露していきます.NYタイムスのタド・シュルツ記者と単独会見したカストロは「倫理上の理由からして米国は暗殺に訴えるような状況に立ち至ってはならないと思う」と,この人らしからぬ穏やかな話ぶりで急所を衝いてきます.

 ケネディの右腕バンディ特別補佐官は秘密文書「キューバ緊急対策」を提出し「キューバ政界からカストロを取り除く可能性は低い」と結論します.CIAのお膝元からも公然と異論が出されました.情勢分析を専門とする「国家評価局」は「キューバの現状と展望」なるレポートを提出.このなかで「カストロがいま暗殺か自然死で倒れれば混乱した影響が出るに違いないが,現政権にとって致命的な打撃にならないことはほぼ確実である.生き残った指導部は共通の危機に直面しておそらく一致団結するだろう」と述べます.

 このような情勢の変化を背景にケネディはワシントン大学で演説し「われわれは自由な国家として,敵対国に対してもテロルや暗殺,二枚舌,演出された暴徒,みせかけの危機といった戦術で競うべきではない」と力説します.この演説から2週間後の11月29日ケネディはアレン・ダレス長官を更迭しマコーンを後任に指名するのです.

(2)ハーベイの暗殺計画

・CIAの生き残り策動と暗殺計画 JMウェーブとZRライフル

 アレンが更迭された以上,秘密作戦の最大の責任者ビッセルの首が飛ぶのは時間の問題です.ビッセルは自らの退陣に備え次々に手を打ちます.まず暗殺計画を秘匿するためエドワーズ保安局長を実行部隊からはずしました.保安局からキューバ関連のプロジェクトを取りあげ,これにかわり秘密工作を一手に集中する「機動班W」を新設します.班の責任者にはベルリン・トンネル事件で勇名をはせたウィリアム・ハーベイが任命されました.

 ビッセルが見込んだだけあってハーベイも負けず劣らず精力的でした.彼はまずダミーとしてマイアミにゼニス工学サービス社(暗号名JMウエーブ)を設立,秘密活動の拠点とします.9

 フィリップスもハバナでの経験を買われJMウエイブ本部入りします.この「会社」では400人の係官が3千人のキューバ人情報提供者を管理していました.多数の艦船を抱え「西半球第三の海兵隊」の異名をとるほどの勢いです.その資金を担当したのはブッシュ上院議員を先頭とするテキサスの石油成金たちだといわれます.

 ハーベイは一方で再びZRライフル作戦を組織し始めます.10計画を進めようとする以上どうしてもギャングとよりを戻す必要が出てきました.ハーベイは前任者エドワーズを介しロセリと接触を図りました.エドワーズはマイアミででロセリ,オコンネルと会いキューバ・コネクションの再開を指示します.ロセリはニューヨークに赴きハーベイから武器弾薬を引き渡されます.マイアミに戻ったロセリはそれをマイアミのキューバ人に分配しました.

 ところで理由は分かりませんが,今度はメイヒューとジアンカーナは作戦から外されたようです.トラフィカンテとだけ組んでやるということです.おそらくはハーベイの指示でしょう.たしかに参加者が少ないほど秘密の漏れる恐れも少なくなりますが,ロセリ直系のボスであるジアンカーナがこれを知れば愉快ではなかったはずです.

 暗殺計画が進行し始めたとき,ヘルムズ副長官がロバート・ケネディより状況説明をもとめられます.ロバートといえば反シンジケートの鬼のような人物です.CIAにマフィアが絡んでいるとあっては聞きずてなりません.マコーン長官に問いただしますが要領を得ません.そこでCIAの実質上のトップであるヘルムスを呼び出したというわけです.

ヘルムズはかつてギャングと関係があったことを認めましたが現在は関係が切れていると強調します.これは明らかに嘘です.ロバートは「われわれとの事前協議なしにマフィアといかなる接触も持つべきではない」と釘をさします.

・カストロ,危機一髪

 今度の暗殺計画は一番成功に近かった作戦でした.キューバ国内にカプセルを持ち込む「運び屋」には,買収されたスペイン外交官ベルガーラがあたることになりました.ベルガーラは外交特権を使って警備の網を潜り抜けます.毒薬カプセルが再び持ち込まれました.

 トニーの「救援隊」はまだ健在でした.ベルガーラは救援隊のカソを呼び出しスペイン大使館内でカプセルを渡します.カソはホテル・ハバナ・リブレを暗殺の場に選びました.ハバナ・リブレはキューバ最高のホテルで海外の賓客が宿泊することも多かったのです.館内には接待に赴いたカストロがしばしば立ち寄るビュッフェがありました.カストロはそこでアイスクリームを食べるのが楽しみだったといいます.

 恰好なことにホテルのバーテンダー,サントス・ペレスは救援隊の秘密隊員でした.カソはペレスにカプセルを渡しアイスクリームにこれを混ぜるよう指示しました.ペレスはこれを冷凍庫に隠します.準備万端整いました.あとはカストロが来るのを待つばかりです.

 結局この計画も失敗に終わりました.別に当局に察知されたわけではありません.ペレスをはじめとするハバナ・リブレ内の反革命分子が摘発されたのは,それから2年半も経った64年末のことです.彼らの自白から恐るべき計画が明らかになったのです.

 現にチャンスはあったのです.外国のゲストにあいさつするためホテルを訪れたカストロは,くだんのごとくビュッフェに立ち寄りアイスクリームを注文しました.注文を受けたペレスは冷凍庫の扉を開け,ふるえる手でカプセルを取り出そうとします.ところがなんと容器は冷凍庫のなかで凍結してしまっていたのです.ごりごりこじってもすぐには剥がれそうにもありません.もちろんいつまでそうやって遅くなれば怪しまれます.この瞬間ペレスは実行を断念します.

 こういうことは一度失敗するともうダメなのでしょうか.ペレスたちはすっかり怖じ気付いてしまいカプセルをトイレに流してしまいました.それにしてもピッグス湾のときのトニーの「失踪」とか冷凍庫の失敗とか,カストロ暗殺計画にまつわるさまざまなエピソードにはなにかブラック・ユーモアを感じてしまいます.

 あいつぐ暗殺計画の発覚に怒ったカストロは「われわれは米政府と闘いおなじ方法で対応する用意が出来ている.米政府がテロリストどもを援助してキューバの指導者を排除するつもりなら,彼らの身も安全でないことを考えるべきだ」と発言します.例によってのフィデル節ですがケネディ暗殺事件のときにこの発言が徹底して利用されます.

(3)AM−LASH作戦

・JMウェーブの解散

 11月世界を震撼させたミサイル危機が終結しました.マングース作戦全体の運命については前の章で触れました.

 CIA内のW機動班は規模を縮小され「特別問題スタッフ」と改称しました.もちろんJMウェーブも解散です.ハーベイはなおも暗殺計画を進めようとし,技術サービス部に細菌付きダイビング・スーツの開発を指示します.カストロの趣味がダイビングであることに目をつけたのです.このスーツをつけるとやがて毒薬が体に吸収されカストロはもだえ死ぬというのが目論見です.ハーベイは,ピッグス湾の捕虜釈放のため米国側エージェントとしてキューバにおもむくドノバン弁護士に,ウェットスーツを「カストロへのみやげ」として持たせようとします.しかしどういう訳かこの作戦もうまく行きませんでした.

 タフネスをもってなるハーベイの泣き所がアルコールでした.あいつぐ作戦の挫折からついにアルコール中毒になってしまったハーベイは,作戦責任者のポストを外されローマに転出します.ハーベイはロスでロセリに会い,暗殺計画の中止を指示したあとローマに去っていきます.残された特別問題スタッフ(SAS)は隠密的性格をさらに強化していきます.

 SASはカストロ暗殺計画も新たに作成します.このなかにはそれこそキューブリックが喜びそうなブラック・ユーモアの極致と呼ぶべき珍案,奇案があります.たとえば結核菌をべったり塗ったウェット・スーツとか,カストロが潜る辺りに爆薬入りの貝を仕掛けるなどなど….

・最後の作戦「AM−LASH」

 ピッグス湾からミサイル危機へと情勢が緊迫するにつれ,キューバ国内での反革命取り締まりも厳しくなりました.国内の反革命組織は63年末頃にはほぼ根絶やしになりました.64年6月にはカストロの妹フアナが米国に亡命しました.おそらく最大の大物でしょう.ニューヨークタイムスによれば彼女は60年以来CIAから金を受け取っていたといわれます.

 しかしCIAには未だ切り札が残されていました.それはDR幹部で元大学学生連合委員長のロランド・クベラです.CIAにおける暗号名はAMーLASHでした.彼はカストロともサシで話せる超大物でした.

 彼の経歴について若干触れておきましょう.クベラはハバナ大学在学中FEU作戦部隊の一員としてバチスタ政府要人暗殺にも関わりました.大統領宮殿襲撃事件のあと潜伏中のところをファウレ・チョモンによりリクルートされDRゲリラの一員となりました.58年1月の上陸作戦に参加しエスカンブライで戦闘を開始します.

 やがてゲバラとともにサンタクララ解放を勝ち取ったクベラはハバナに出て大学に復帰します.かれはDRに属しながらMR26の忠実な尖兵として活動,FEUの役選ではキリスト教系の候補を抑え当選を果たします.FEU委員長となったクベラは,今度は平原派と闘いながら学生を革命の側に組織するのに大いに貢献します.その貢献が認められ彼は青年反乱同盟の幹部に登用されます.

 61年2月亡命者部隊の侵攻を前にしてメキシコでキューバ連帯会議が開かれました.これに出席したクベラは,会議はそっちのけソナ・ロッサ(メキシコの歓楽街)で遊興にふけります.市内だけではもの足りずアカプルコで足を延ばしたそうです.行状はキューバ大使館の知るところとなりきびしい批判を受けます.

 この間に彼に接近してきた「友人」がいました.彼はCIAメキシコ支局のフィリップスを紹介,密かに第1回目の会談がもたれます.その後彼はエージェントとして秘密情報を流し始めます.11

・毒薬内蔵型ボールペン

 ケネディが密かにキューバとの接触を図っていた63年10月,SAS班長ブラウンはクベラを使ってカストロ暗殺を実行すべく作戦を策定しました.ブラウンはクベラがパリに出張した際に会見するよう提案しますが,クベラは危険を冒して会うのだから相手もしっかりとした政府の代表でなければ困るといいます.そういわれてもケネディ大統領に隠れてこっそりやっている作戦ですから,そんなことはできるはずがありません.

 頭を抱えたブラウンはヘルムズ副長官に相談します.ヘルムズはマコーン長官に無断でブラウンのパリ派遣を了承します.ブラウンは政府の正式代表になりすましてクベラと面会し暗殺計画を提起します.高圧ジェットの毒薬を内蔵したボールペンが手渡されます.しかしこの武器の詳細は不明です.まさかこれで刺せというのではないでしょうが. 

 こうしてクベラはキューバに戻り計画を開始します.しかしいよいよ秒読みに入ろうとしたとき突然計画は中止されてしまいました.ケネディが暗殺されたためです.しばらくほとぼりが冷めるまではCIAが疑われるような行動は絶対できません.

 それから1年が経ちました.64年12月CIAの代理として派遣されたアルティメがクベラとの接触に成功,カストロ暗殺計画をふたたび検討することになります.しかしこの頃からクベラの行動はG2から疑いの目で見られるようになっていました.翌年6月情報を得たCIAはクベラとの接触を断ちました.66年3月1日G2は1年半にわたる内偵の後クベラらの逮捕に踏み切ります.クベラはカストロを狙撃しようとしたとの罪状で25年の刑を宣告されました.ただしこの時点では計画の背後にCIAが存在することまでは解明できなかったとのことです.

・その後のカストロ暗殺の試み

 AM−LASH作戦をもってCIAによるカストロ暗殺計画は終了しました.ただし亡命者集団の計画は別です.たとえば67年には,フロリダから高速艇で潜入したアルファ66の部隊がその2日後に逮捕されています.彼らは潜入の目的がカストロ暗殺計画の実施にあったと自供しています.

 それから4年がたちました.いまやCIAは70年に成立したチリ民主連合政府の転覆を目指す活動に集中しています.フィリップスの側近となったベシアーナは現地で陰謀の中心人物として活動していました.そこへカストロがやってきたのです.71年11月のことです.訪問の目的は窮地に追い込まれつつあるアジェンデ大統領を励ます一方,分裂活動を繰り返すカストロ派学生を説得し統一戦線を擁護することでした.12

 さっそくベシアーナとヘミングスのあいだで暗殺計画が立てられました.記者会見の席上でカストロを暗殺することになりました.犯人はカメラを偽装した拳銃でカストロを射殺,そこで革命を裏切ったカストロを糾弾するビラをまきます.そしてかつてオズワルドがそうだったようにその場で射殺されてしまいます.これが彼らの計画です.しかしこのプランは結局お流れになりました.オズワルド役になろうと手を挙げる人が誰もいなかったからです.これもまたブラック・ユーモアです.

 


1 12月の意見書とは反対の結論ですがそれだけにこちらの方がリアルです.つまりキューバは一見カストロのカリスマ性だけで支えられた国のようだが,決してそうではなく,革命を支持する幅広い人材が存在しているのだという事実の反映でしょう.

2 キューバの捜査当局はピッグス湾を境に飛躍的に強化されます.内務省の保安局内に破壊分子に対する捜査を専門とする第二課が編成され,ソ連のKGBから対牒活動に関する技術援助を受けたといいます.これは頭文字をとってG2(ヘ・ドス)と呼ばれます.

3 ところでハバナでトラフィカンテ釈放のために奔走したのがルービーです.かれはケネディ暗殺の容疑者オズワルドを暗殺したことで歴史に名をとどめています.そのあと獄中で暗殺についての証言を求めますが,裁判所により拒否されたままガンのため獄死しました.

4 ランスキーは間違いなく悪漢ですがただの荒くれでないことも確かです.ハバナにトラフィカンテやジアンカーナが進出しようとしたときも容認しています.このとき彼はシマの一つや二つで騒ぎ立てることはないのだといっています.逆にキューバ革命のときランスキーは人より早く逃げ出すチャンスがあったにもかかわらず,ホテルの泊まり客が最後に脱出するまで国内にとどまります.

5 これが有名な「理髪店の虐殺」です.ニューヨーク・シエラトンの理髪店で散髪していたアナスタシアは,突然踏み込んだ刺客に銃弾をしこたま撃ち込まれその場で即死しました.ランスキーの指示の下トラフィカンテが実行したものといわれます.

6 これが60年代初頭のマフィアの勢力地図でした.63年ジェノヴェーゼ一家の代貸しヴァラキの上院での証言によれば,全米委員会委員長はランスキー,委員はマルセロ,ジアンカーナ,トラフィカンテ,ガンビーノ,ジェノヴェーゼなどとされています.

7 技術部のシドニー・ゴッドリーブ博士は毒殺「オタク」でした.彼は仲間内から「ストレンジ・ラブ博士」の異名をたまわったそうです.ストレンジ・ラブというのは当時ヒットした映画「博士の異常な愛情」に出てくる殺人狂の名前です.ついでに言えばこの映画を作ったキューブリックも相当の「オタク」です.

8 NSCは独自の秘密活動担当委員会を持っており,当初はその中に対カストロ工作の検討にあたる特別グループを編成していました.この委員会はCIAと三軍の情報担当責任者から構成されており,部屋の番号をとって5412委員会と呼ばれていました.ただこの委員会がどの程度秘密計画に関与していたかは不明です.

9 JMウエーブ責任者の一人シャックリは,のちに防牒部長となりジュディス・キャンベル殺害を指揮した人物です.ジュディスはケネディの愛人兼ジアンカーナの情婦というよく分からない人物で「謎の死」を遂げました.シャックリーはケネディ兄弟の共通の愛人だったマリリン・モンローの「変死」にも関係しているといわれます

10 CIAの暗号名の多さには閉口します.それが引用文献ごとに異なっていたりするともはやお手上げです.CIAとは暗号オタクの集団なり,と達観すればよいのでしょうが,これでは当事者でも憶えきれないのではないでしょうか.

11 彼にしてみればもともと鬱屈した感情があったのでしょうがそれにしても感心しません.飲んで荒れるような酒を飲んではいけません.お酒を召し上がる方は十分ご注意下さい.

12 チリにおけるカストロの一連の発言は一冊の本になっています.その内容たるや実に立派なものです.過去の発言に見られるこけおどしのレトリックや,ときに強引な論理建てはここでは影を潜めています.誰にでも素直に納得させる,それでいて熱情あふれる見事な訴えです.以前デルガド前大使と酒を酌み交わす機会がありました.それまで68年問題で仏頂面だった彼が,この感想を聞いて急に満面笑みを浮かべて,抱きつかんばかりに喜んだのが思い出されます.

 

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