第一章 ニカラグアの発見から独立まで

この章では先史時代から1839年の独立までの期間を超スピードで眺めて行きます.

 

第一節 ニカラグアの原住民

ニカラグアの国土は大まかに言って三つに分かれます.ひとつは太平洋岸の熱帯サバンナです.この部分が昔からいちばん人口稠密なところでした.二つ目は国土の中央北から南に向けて緩やかに高度を下げる山岳地帯です.この地帯は交通は不便で社会からは孤立していましたが,気候が温和なせいもあり,かなりの人口が住んでいたようです.国土の東半分,カリブ海岸沿いには広大な熱帯雨林が広がり,文化が広がるところではありませんでした.現在も原住民と逃亡黒人奴隷の混血したミスキート族がわずかに住んでいるだけで,依然として未開の地域となっています.

中米どこの国でもそうですが,火山が至る所にあり,噴火や地震は年中行事のようなものです.ニカラグア最古の人類も,火山とおおいに関係があります.今から三千年ほど前のものと見られる人間の足跡が見つかっています.この人物は火山の噴火のあと振りかかる灰の中を懸命に逃げていたようです.ぬかるみに足をとられて,転んでしまったのかもしれません.これがニカラグア最古の考古資料です.

 

第二節 スペイン人による征服

そのあとずっと話は飛んで,コロンブスの新大陸「発見」前後の時代まで下ります.当時ニカラグアを支配していたのはメキシコ地方から下ってきたアステカ系の人たちだったようです.太平洋岸伝いに南下してきた彼らは,パナマを経由して南米のインカ帝国,チプチャ王国などと交易をしていたといわれます.いわばアステカ王国の南方最前線というところでしょう.もっと昔からこの地域に住んでいた人々は,彼らに追いやられ,山岳地帯に散らばっていました.

コロンブスは1492年にバハマ諸島のひとつに上陸,その後キューバとエスパニョーラ島を発見しています.しかし大陸そのもに接岸したのは,彼の第3次航海,1600年が初めてでした.ニカラグア海岸に上陸した彼は,おりからの暴風雨を免れたことから「神に感謝」岬と名づけます.

やがてパナマにスペインの基地が作られ,そこから太平洋伝いに数次の遠征隊が派遣されることになりました.最初は1522年のゴンサレス・ヒルの遠征隊です.当初ヒルはものめずらしさもあってか,現地の人から大歓迎されました.しかし彼の目当ては金銀財宝です.彼は現地の人たちから金を強奪するようになりました.友好的だった原住民も,ヒルの暴行・略奪に怒りを爆発,彼を追い出してしまいます.この戦いの主力になったのが,リバス近くに住んでいたニカラオ族です.その首長ディリアンヘンは現在ニカラグアの英雄の一人となっています.

しかしこの抵抗も,24年のコルドバの遠征隊により打ち砕かれます.彼はコスタリカ方面から侵入.ニカラグア湖畔のグラナダに最初の根拠地を建設したあと平原沿いに北上,レオンまで進んでここに第二の基地を作ります.なぜレオンまできてコルドバは止まったか?,その先のエルサルバドルやホンジュラスにはすでにメキシコからの遠征隊が進出してきていたからです.中米地帯の征服はこのときすでに終わったのです.

コルドバは,パナマ総督ペドラリアスの指示を受けてニカラグアに遠征してきました.しかしメキシコの支配者となっていたコルテスは,コルドバに味方につくよう持ち掛けます.両方を天秤にかけたコルドバはコルテスの側につきます.ニカラグアこそパナマの最大の領土と考えたペドラリアスは,コルドバ討伐隊を送り殺してしまいます.コルドバの名は,今もニカラグアの通貨単位に残されています.

1530年,ペドラリアスはパナマを引き揚げレオンに移ってきました.当時のパナマは何のとりえもないただ暑いだけの町でした.それからわずか3年,ピサロがインカ帝国を征服し,莫大な財産がパナマを通ってヨーロッパに送られるようになるまでは,です.

 

第三節 ラス・カサスの告発

ホンジュラスの川からは砂金がとれたものの,ニカラグアには金銀財宝はありません.当初ゴンサレス・ヒルが報告したエメラルドや金銀は,ここで採れたのではなく,はるか南のコロンビアやエクアドルから渡ってきたものでした.ペドラリアスに付き従ってきたものは,次々とペルーに向け旅立っていきます.

ペドラリアスとその娘婿ロドリゴ・デ・コントレラスは,この地域の唯一の資源,原住民を全米各地に送り出すことで儲けをたくらみました.奴隷狩りです. ちょうどその頃エスパニョーラ島の原住民が絶滅してしまいます.コロンブスの発見からわずか40年のことです.労働力不足に悩むイスパニョーラやペルーの征服者は,本国に働きかけ,パナマとグアテマラに限りインディオの奴隷化を認めるという決定を引き出すことに成功しました.

この当時百万人居た原住民は,その後の10年で半分がペルー,パナマへ奴隷として売られました.残りの多くも疫病で死亡,生き残ったものわずか8千人といわれます.

そこへやってきたのが,征服者をきびしく告発したことでその名も高いラス・カサス神父でした.1513年の回心以来,原住民の苦境に心を痛めていたラス・カサスにとって,ニカラグアにおける奴隷狩りは信じがたいおこないでした.

ラス・カサスはペドラリアス亡き後ニカラグア総督となっていたコントレーラスを厳しく非難します.結局彼の意見は入れられず,逆に暗殺の脅しを受け,36年8月にはレオンを去ります.彼の派遣したバルディビエソ司教も,50年には暗殺されてしまいます.このときのいきさつを中心に書き記したのが岩波文庫で出ている「インディアスの破壊についての簡潔な報告」です.ニカラグアについての記載はまさに「簡潔」かつ「完璧」です.

 

第四節 海賊の来襲

ここから独立までは,あまり書くことはありません.人口は激減し,他に資源もない国が辺境化するのは当然でしょう.国の帰属もめまぐるしく変わります.パナマがペルー副王領の一部となるに及び,ニカラグアはこれと切り離され,メキシコ副王領の一部グアテマラ総督領に編入されます.そのあと一時パナマにアウディエンシアが開かれたときはパナマ領に戻りますが,パナマが海賊の来襲により荒廃すると,再びグアテマラ総督領に戻ります.要するにどうでもよい地域なのです.

こんな辺境の地にも律儀に海賊は来てくれました.ドレイク船長,デービス船長と一通り名の通った海賊は一度は襲撃しています.なかでも名高いのが1666年のモルガン船長です.

キューバを襲い戦果を上げたモルガンは,今度は大陸を目指しました.まずホンジュラスを襲うと,今度はその足でニカラグアに攻め入ります.カリブ海岸の南端サンフアン・デル・ノルテからサンフアン河をさかのぼった一行は,ニカラグア湖を横断してグラナダの町を襲います.街は略奪されたあと焼かれ,灰燼に帰しました.意気揚揚と引き揚げたモルガンはそのあとパナマの町も襲い,破壊し尽くすのです.

有名な話ですが,モルガンはパナマから奪った金銀財宝を独り占めし,持ち逃げしてしまうのです.それを英国政府に献上したモルガンは,なんとジャマイカ副総督の地位にまで登り詰めてしまいました.そしてかつての仲間を今度は取り締まる側に回りました.まさに仁義なき戦いです.

 

第五節 ミスキート王国

ラテンアメリカでは17世紀,つまり1600年代と空白の百年と呼びます.スペイン人が収奪し尽くした結果,ぺんぺん草も生えない状態です.それが1700年代に入ってようよう,再建の兆しを見せるのですが,ニカラグアではあいかわらず空白の時代が続きます.

このときを狙って英国はニカラグア本土への進出を画策します.カリブ海岸に生える黒檀を採伐する英国人の一隊が,ジャマイカからやってきます.彼らは身の安全を守るために原住民を利用しようとたくらみます.いかにも英国人らしい狡猾な考えです.そこにはジャマイカから逃げ出してきた逃亡黒人奴隷(マルーン)がいました.彼らは元々の原住民と通婚しミスキート族と呼ばれる一族を形成していました.勇猛な彼らは,しばしばジャングルを越えニカラグア中央部に進出,海賊ならぬ山賊行為を働いていました.彼らなら英語も通じるし,武器を与えればスペイン人たちとも戦います.

ジャマイカ総督はミスキート族の中から「国王」を選ばせ,英国流の教育を施しました.国王にはジェレミ一世というご大層な名をつけられ,1687年にはジャマイカで厳かに戴冠式が執り行われました.こうしてニカラグアからホンジュラスにかけて「ミスキティア連合王国」が形成され,英国の保護領となったのです.

ただ計算高い英国のことですから,保護に見合うだけの見返りがなければ,領土に固執するつもりもありません.そんなわけで,この中途半端な国は20世紀初頭には消失しニカラグアの中の一県となったのです.そしてミスキート族は,80年代には革命に反対するコントラの有力な部隊となったのです.

 

第六節 中米連邦の独立

1808年,ナポレオンがスペイン本国に侵入しました.彼は国王フェルナンドを退位させ,自分の弟をスペイン国王につけます.これに反対して南部で抵抗を続けた旧政府は,やがて共和制を宣言し革命的になっていきます.当時新大陸にいたスペイン人の大半は,フェルナンドを支持して本国政府およびナポレオン政府への忠誠を拒否します.グアテマラ総督領では総督自らが本国に対する中立を宣言します.

しかし,ナポレオンが敗北してフェルナンドが復位するまでの4年間に,情勢は大きく変わりました.大陸ではすでに米国が英国から独立し,強国への道を歩みはじめていました.本国からの独立と共和政府こそが,自らの国の明日を照らし出す唯一の道,という考えが急速に広がっていきました.メキシコにおけるイダルゴ神父の戦い,南米におけるボリーバルの戦いは,こうした考えをおおいに力づけました.

この時期ニカラグアで最初に立ち上がったのは原住民でした.マサヤのオオランの反乱のほか,スブティアバでも数千人の参加する蜂起が発生しています.この反乱はまもなく総督軍により鎮圧されますが,今度はクリオージョが立ち上がります.反乱派はサンカルロスの要塞に立てこもり,ニカラグア大僧正を独立派総督に押し立て,ニカラグア独立を宣言します.

今度は総督軍は,名誉ある投降を勧めますが,それに応じたものはすべて厳しい処罰を受けることになります.

本国の共和革命,地方での反乱をみた総督とアウディエンシア幹部は,1821年9月,みずから独立を宣言することで反乱の矛先をかわそうとします.ただ変わっているのは中米総督領といっても,結局メキシコ副王国の一地方に過ぎないということです.メキシコでホセ・イトゥルビデによる独立が達成されると,中米諸国はメキシコへの編入を迫られます.

グアテマラの主流派はどちらかといえば編入派でした.しかしエルサルバドルの自由党は,みずからメキシコ皇帝を僭称するイトゥルビデには従うことはできませんでした.メキシコ軍がエルサルバドルに侵入し,激しい戦いが始まりました.エルサルバドル軍は圧倒的なメキシコ軍の前に苦戦を強いられます.

そのときメキシコで内戦が発生しました.イトゥルビデを嫌う共和主義者が革命を起こしたのです.イトゥルビデは国を追われ,中米に平和が戻ってきました.こうして1823年,あらためて中米諸国は独立を宣言したのです.

なおこのとき,中米を構成していたチアパスはメキシコの下にとどまることになりました.この選択がよかったかどうかは分かりません.チアパスは今もなおメキシコ国内最貧の州として知られ,サパティスタ民族解放戦線がゲリラ活動を展開しています.

 

第七節 中米連邦の崩壊と中米五か国の出現.

本国スペインでも共和主義革命が起こり,いまや君主制は過去のものになったように見えました.しかしヨーロッパを覆うメッテルニヒ反動はスペインにもやがて襲ってきます.このあとスペインは短い周期で共和制と君主制が繰り返され,政治的不安定と政治的不寛容の世界が広がっていきます.

さすがにラテンアメリカではブラジルを除いて君主制に戻ることはありませんでしたが,王党派の流れを汲む保守党と共和派の自由党の争いがどこの国でも深刻でした.中米でもホンジュラス出身のモラサン将軍を担ぐエルサルバドルと,保守党の牛耳るグアテマラのあいだに激しい戦いが続きました.

一時はモラサンが全土を掌握し,米国を真似た連邦制度を採り入れましたが,英国の支援を受けたグアテマラ保守党が激しい抵抗をおこない.ついにはモラサンを放逐してしまいます.エルサルバドルから出撃したモラサンが最終的な敗北を蒙ったのは1839年のことでした.まずグアテマラが独立を宣言,結局他の4か国もそれぞれに独自の道を歩むことになりました.

ニカラグアではリバス出身の共和派地主セルダが初代州統領となりますが,その独裁的傾向を嫌われ,やがて暗殺されます.その後は各都市ごとに軍隊を持ち,互いに争うという状態が続くことになります.

ここまでが,ニカラグア独立までの道のりです.

 

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