平成15年4月13日(日)〜
続短断長 平成15年 | |
4 月 |
5:25 2003/04/26 あとからあとから思いつきが浮かぶ。斬新で奇抜、しかも愉快な。 つぎつぎ試してみる。皆が舌を巻く、賞賛、嫉妬まで。 しかし、始めるはじから放棄、忘却していく。あまりにも淡泊。 なんかあきちゃうんだよね。 型ができているものなら着実に引き継ぐ。 磨きを入れ日々高めていく。満足しない。気の遠くなるような努力を間断なく注ぎ込む。 しかし、種がないとなにも始められない。待つだけ。 遊んで飲んで寝ころんで腐っていくだけ。 こういう二人が組めば、いいではないか、という気がしますよね。 一人が芽吹かせ、一人が喜々として育てる。 ところが私にはこの二人の要素が共存するんです。 すぐ飽き飽きする。待ちくらして腐っていく。この辺り。 4:37 2003/04/20 いきなり暑いですな。 なにもすることがなくて死にそう、退屈。 という状況が、遠くなつかしいこのごろです。 というか、そんな日々があったんだろうかとすでに懐疑的。 あったような気もしますし、実は一日たりともそんな日はなかったような気もしますし。 一番こういうせりふが似合うのは、入院中でしょうか。 が、私、頑健なものですから、人の見舞いに病院に行ったことはしばしばあっても自分がベッドに横たわって看護婦さんの世話を受けたということが皆無です。 あと少し頑張れば、あと少し暇になって、このあと少しを重ねていけばついには大きな暇が得られる。ひろびろとして、無制限な自由。 という実は根拠の乏しい見通しでやってきているような。 まあ、確実に言えるのは、ついにはこの世から引退してほんとに自由には成れるわけですが、それもねえ。 こういう毎日の目的が、それ? (笑) 考え方が根本的におかしいのかもしれません。 暇とか自由とかは、人間本来のものではなかった。 食べ物を狩ったり栽培したり、敵を倒したりひれふして許しを請うたり、子づくりに励んだりしつけたりぶったり、などと忙しく前進している状態がまっとうな生態で、怪我をしたり不調だったりで伏せっているときや弱ってほんとにあと少ししか生きられないときだけ、なにもしない、できない状態になる。 進めなくなったら終わり。 ほんとうは、進めない、進まないことを本能的に怖れるはず。 では、暇とか自由とかを好むのは死に向かう姿勢かというと、「再生」という便利な言い回しがあるわけで。「リフレッシュ」とも言いますか。 でもそれは、約束された確実なものではないはず。 「再生」できるかもしれない可能性に賭ける、ということでしょう。 当然、賭けに敗れるという結果もあり。 それがもし、敗れることのありえない賭けならそれは賭けではなく、「再生」でもない。 という前提は欲しいです。 もしかしたらではなく、本当に稼がなくなればそうなのですが、死に向かう姿勢=暇とか自由がなぜ好きなんだろうな、私。 自由にあこがれる、ということは、生の重さやしがらみから逃れたいという願望。 ううむ。 若さにあこがれる、幼児返り、などという方向だとしてもその極限値は、受精卵以前、つまり未生=死なわけで。 進むも退くも死あるのみ。 無理やりな否定はしないでおきますか。 とりあえずは、やっぱり、ふうふう言いながら生きているかぎりは、異世界あるいは大元の姿とか天然にあこがれる、なつかしいってことで。 5:53 2003/04/13 100パーセント、勇〜気♪ という歌があります。 いいフレーズだな。 調べましたら、アニメ『忍たま乱太郎』の主題歌ですか。 怖さが身にしみてわかっている大人が、あえて挑むとき、明るく歌ってみたいです。 言いかえれば、捨て身か。 われわれ凡人にはそうまでしないと立ち向かえないことがあります。 優秀なみなさんには無縁でしょうが。 21:56 2003/04/05 行動の口火はなにか、といえば、その機会であり、機会の典型は「ついで」があるということですよね。 どのような行動であれ、あまり気の進まないものであれ、二つ以上のことが一つの行動で、つまり「ついで」でこなせる機会が巡ってきたら、逃したくない、もうけたと感じるのが人情でしょう。 ふむふむ。 これは、人を動かすこと一般、少なくとも私による私自身の操縦に有用ですな。 17:53 2003/04/01 すこしおかしいかな。 春だからかな。 花も咲きました。 |
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