平成9年12月16日(火)〜


… 休息 …  業平の帰還

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 お話は京に戻りました。しかも、かの男の姿が見え隠れしているようです。
 男はあづまへ旅立ったはずです。ですが、男はいつからなのか都に戻っている。なにくわぬようすで、というのか、あたりまえの貴族の一員として宮仕えも(姫君たちとの交渉も)始めているらしいのです。
 これは「歳月」ということなのでしょうか。
 もう若いころのようなあんな冒険は、という。

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 こうも考えられます。
 異郷への怖れまたはあこがれ、自身ある程度は短い旅もしていたのでしょう、友らの経験、伝え聞いた話、そういうものが彼の中である混沌の渦をなしていく。
 過去の政変で傍流におしやられた血筋とはいえ彼は天皇の孫にあたります。これほどの高貴が、あづまの草深いどこかの婿におさまるなどという、そんなことは、少々病んだ夢の世界でしか実現しない。そういう気がします。

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 あづまに下る「往」の際にはあれほどの心の乱気流があったのに、「京に帰還してくる」という「復」の際には、ああこれで戻れるとか、道々こういう出来事がありましたとか、ついに戻って友らとささやかながら再会の宴を催してとか、そういう歌もまつわるお話というものもありません。
 行き止まりといえるみちの国で、栗原のあねはの松の娘に執心されたり、しのぶ山の人妻の心奥底をきわめたいと願ったり、そのあげくに、「さるさがなきえびす心を見てはいかがはせむは(こんな土臭い女のえびす心を見つけたとして、何になるのか)」と、切って捨てます。
 ひとことの断わりもなく、直後の段は、「むかし、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝に仕うまつりて……」と、京またはその周辺のものと思われるお話で始まるのです。
 この跳躍の間に、「ほとほとえびすは嫌になりました、察してください」という言い訳は読みとれます。あねはの松、しのぶ山の二つの段で、帰還のための動機が述べられた。それはいいでしょう。しかし、実際の帰還は、いくつもの山河を越えねばかなわぬはずです。
 京に戻る際には、まるで、空想を断ち切って我に返っただけのような、そんな戻り方ではありませんか。

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 東くだりとは、かの男の物憂いこころ、または廃園願望のようなもの、そういう妄想がつむぎだしたすべてはお話。
 そうであったのかもしれません。

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