平成10年1月2日(金)〜


筒井筒

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男と女は
堅く気持ちを通わせていました
別の誰かに心惹かれるなど
ありはしませんでした

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そうでしたのに
どうしてなのでしょう
こまごまとしたことに過ぎないはずなのに
そのたびに女は
もう嫌 ああ と
感じるようになりました

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この家を出ていってしまいたいと思い

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次のような歌を心で組み上げたりもし始め

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そしてついには手近にあったものに
この歌を書き付けて
出ていってしまいました

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この家から消えてしまえば
あれほどの若奥さんだったのに
なんと軽い人だったのか
そう噂されるのでしょうね
わたしとあなたのありようは
今までもこれからも
誰にも分からないのに

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男はこの書き置きを見つけ
なぜ
わからない
どうして出て行かねばならないんだ
いつのまにあいつはこんなと
ひどい涙声をもらし
どちらの方へ探しに行けばいいかと
門に立って
あちらかこちらかと見ていました

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だけれども
とりあえずはなにも見当がつかないので
家の中に戻って

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想う甲斐のない間柄だった
この年月を
おざなりな心で契って
私は安穏としていたとでも言うのだろうか

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こう詠んで
放心していました

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ようやく
行方が知れて
男は歌を贈ることができました

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あなたは
どういうおもいで暮らしているのですか
可憐に髪を飾った
あなたの面影を
まぼろしとしてなら目にしていますけれど
(これはいわゆる想われている証ではないのですか)

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かなり経ってからやっと
迷った上でのものらしい
女の返事が来ました

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もうあのことは
そう忘れてしまえる草の種を
あなたの心に
まかせたくはないのですが

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男は返します

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私を忘れるために
忘れ草を植えている
そう寄越してくだされたなら
(忘れようと苦しんで でもできない)
あなたの心を知ることができたのですが

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そして後日
さらに気持ちをこめて
男は贈りました

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別れただけでなく
私を忘れてしまった
そういう疑いが
悲しみをいっそう深くしてしまうものなのですね

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女の返し

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ぽつんと浮かぶ雲が
青空の中に
あとかたもなく消えてしまう
あんなふうに
わたしの身もなってしまいそうです
(どうしたらいいのか迷っています)

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このように
詠みかわしまではしましたけれど

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それぞれ新しい相手ができたので
疎くなってしまいました

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淡い交わりのまま
仲が絶えてしまった
それだからこそなのか
忘れることのできなかった女から

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つらい思い出のはずなのに
あなたとのことが心を離れません
怨みながら
なおも恋しいのです

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こう歌が来ましたので
あいつもだった
男は返しました

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巡り会い
こころひとつになったのです
川島をかわせば
またひとつに戻って
いつまでも流れてゆけるはずです

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返しはしましたが待ちきれず
その夜のうちに女を
訪ねました

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いままでのこと
これからのこと
さまざまを
ふたりは語り合って

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男は詠みました

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秋の夜千夜を一夜と数えて
それが八千夜のあいだ
愛しあえれば
飽きるということもあるのでしょうか
(すこしおおげさかな)

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女の返し

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秋の夜千夜を一夜としても
いつも言葉尽くせないうちに
朝が来て
こんなふうに
鶏が鳴いてしまうのかしら
(ちょっとおおげさね)

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男は
昔よりも
何層倍も誠意を尽くして
女のもとに
通ったそうです

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ある期間田舎に赴任する
そういう役人の
子供たちが
官舎の井戸のまわりで
よく遊んでいました

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でも
大きくなりますと
男も 女も
互いに恥ずかしがって
まともに話もしないようになりました

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けれども
男は
この女をこそ
妻にしたいと思っていました

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女は
この男をこそ夫にと思い
親がいくつか見合いをさせましたが
どれも聞き入れませんでした

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ある日
隣家の男のもとから
歌が届きました

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井戸の囲いに隠れていた
私の背丈も
もうこんなにはみ出てしまいました
久しい間
あなたとちゃんとお話していませんね
(この囲いよりも大きくなったら
あのときのちかいは忘れていません)

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女、返し

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あなたと比べあった
振り分け髪が
肩よりも伸びてしまいました
あなたではない誰のために
この髪上げをするものですか
(わたしも覚えています)

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こうして
いくつも歌をかわしかわしして
とうとう
本意の通り結ばれました

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何年かが経ちました

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女の親が亡くなり
男もまだ若くて
十分な生活の頼りがふたりにはなくなりました

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男は
ふたり揃って
言葉にもできない惨めな暮らしに落ちるくらいなら
そうも考えて
河内の国 高安のこおりに
別の女を作り
そちらでも暮らすようになりました

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そういうことになったのですが
この元の女が
高安のこおりに向かう男を
不機嫌な様子も見せず
送り出しますので

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男は
そうか
こいつも浮気を始めたんだな
そう疑いました

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ある日
あちらへ出かけたふりをしてそっと引き返し
前栽に隠れていました

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見張っていますと
そのうちに
女がいつも通り化粧を整えて
縁に出てきました

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(いよいよか)

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女は
ぼんやり星空を眺めていました
こう歌いました

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風吹けば沖の白波たつた山
そう歌われるあの龍田山
この夜中に
あの人はひとり越えて行くんです

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男はこれを聞いて
声を殺して
涙を流し

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それからは
河内の方へは
ほとんど通わなくなってしまいました

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まれまれにかの高安に来てみると

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初めこそ
心にくいばかり奥にひきこもって
気を引いたあの女が

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今はうちとけすぎるほどで
てづからしゃもじをとり
竹編みの器に飯盛りするなど見て

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胸が悪くなるくらいの不快感がして
それきり
通うことをやめてしまいました

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そういうことになって
かの高安の女は
男(と憎い女)のいる大和の方を見つめて
こう詠みました

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あなたがお住まいの
あの生駒山のほうをいつも眺めていましょう
雲よ 生駒を隠してはなりませんよ
この涙が
雨となって降るとしても

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この祈りが通じたのか
ようやく
大和から男が来ましたよ
そういう知らせが届きました

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でも
それは人違いで
そして
そういうぬかよろこびがたび重なって
もう耐えられず

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あなたがいらっしゃった
そう聞いた夜が
そのたびごとに
過ぎてしまいましたから
もう信じはしませんけれど
恋しさだけはどうにもなりません
泣いてばかりいます

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こう詠んで送りました

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それでも
男は
二度と高安の方へは
通わなかったといいます

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