平成9年12月8日(月)〜

年うつり 第三日



 
 さてと、今日もまた書きましょう。布団から出られたのは昼過ぎでした。暮れだというのに隣の仕上がり近いアパートで朝からとんかんやっていたので、明るくなってからは熟睡はしていませんでした。円筒の陶磁器らしい壺があって、それは灰色でした。机の上にあります。あなたが壊してしまいましたので、粉々に割ってしまいましたので、私が細片を拾い上げてその机の上に元の通り組み上げようとしました。が、底の方ができたぐらいであなたがだだっこのように首を激しく振り白い手で払うのでまた壊れました。私は、これはあなたなのに、あなたのためなのにと頭に来て、もう知るかと背を向けます。そういう映像を思い描いていました。朝刊を終える頃には二時だったので、迷いましたが、思い切ってコインランドリーに洗濯に行きました。そこで待ち時間の間に、読めずにたまっている四冊のマンガ雑誌のうち一番鮮度の古い一冊を読破。帰ってから台所を掃除しましたが、暗くなってきてしまったので食器棚のあたりはやり残しました。来年まわしです。ついでに説明しておきますと、食器棚とは名ばかりで、昔のビールの木箱を二つ重ねた奴です。洗濯物をたたみました。どうしてか、ワイシャツがみんなぐしゃぐしゃ、しわだらけで襟がよれたりしていました。乾燥機が一つしか空かなくて二回に分けてその一つを使ったのですけれど、ワイシャツ類がはいっていたその一回目のあと伸ばしたり広げたりしないでまるめて袋に入れ、二回目の間そして持ち帰るまでの四十分以上そのままだったためかもしれません。部屋に着いて六畳にひろげましたがその時も気づかなかった。あせることはなかったのに。でも、どれも十年ぐらいも着つぶせないでいるワイシャツですし、ぐしゃぐしゃよれよれで着て行ったところで特に困ることもありません。結果としては、たいしたことではないのですが。テレビを見て食事をして、またテレビを見ました。
 昨日、「問題は、ならばどうするかでしょう」と書きましたが、私にとっての問題は「あなたがどうしてそうなってしまったか」ということだったと思います。私には見当がつきませんでした。あなたの少ない言葉や身を固くして押し黙るような全体の様子から読み取らなければ、とわかっているのですが、解くことができません。そのうちにわかるだろうと先延ばししていたのでしょうが、あなたがはっきりと変異を表明したその日に現に立ち合って、私はまだ何も解明していない自分の無能を見つけていました。途方にくれるとはああいうことを言うのです。(あなたにこれは教えておきたいと思います。私はあなたよりも十五歳も年上です。あなたのおしめがとれたかという頃にはもう私は社会で働いていました。おそろしく大人に思えるでしょう。私にだって五十近い人はおそろしく大人に思えます。知識も経験も何倍もあるように思えるでしょう。しかし、どんなに年上でも、わからないことはわからないのです。あなたのわからないことは、私にもほとんどわからない。あなたの知っていること、あなたにはよく見えてあたり前のことも、それがあなた自身やあなたの心の内側に近いことであればあるほど、私にはほとんどわかりません。人の心を察するにも限度があります。確かに比較すればより多い経験を私はしているにちがいありません。でも経験豊かとはどういうことかあなたは知っていますか。一つのことを見て、それに似たことを五つ六つ、十も二十も思い出せるということです。そしてその五つ六つ、十や二十のすべてが似てはいたけれど全部異なった事情や性質を背負っていたということや、全然別の物が同じ色あいをしていただけだとか、まるで違った未来へ変容していったということを知っているということです。新しい経験には発見があり驚きがあり、単なる繰り返しだとたかをくくれば必ずしっぺ返しが来たということを身体が覚えているということです。つまり、経験が重なれば重なるほど、目の前のことが何であるのか、想定は何種類にも豊富にできるようになるけれど、特定はかえって困難になるということです。どういうことでも誰でもいつでもとは言いませんが、こういうことは多いのです。だから、経験豊かだと人に思われている人の効用とは、私はわかっているよという顔をして誰かを安心させるぐらいなんです。当然わかるべきなのにこんな簡単なことなのに、言葉にするまでもないことなのに、全然わかってくれなかったとあなたが私を非難するのなら、私は頭を垂れるのみです)
 仕事に意欲がない。つまらなくて苦しいぐらいで、生命が動かない、眠ってしまう。あなたの表明はそういうことです。私は、あなたのいやがることをさせている、首をつかみ前に突き出し拷問を与えている、いつの間にかもう長いことそうしていたということなのか、と思いました。それならそれでどうしてもっとはっきり、仕事のどこが許せないぐらい退屈なのか大切なことをしている人の役に立っているという実感がなぜそこにはわかないのか私という相方のどこがいけないのか、そういうことでもどういうことでもちゃんと日本語にして言ってくれなかったんだ、と思いました。−−どんなささいなことでも少しでも変だと思ったら、いつでもどんどん質問しなさい。僕には答える義務がある。僕が忙しそうで嫌な顔をしそうでも本当にそうでも、遠慮なんかしないであなたはたずねていいんだよ。−−こういうことを口が疲れるぐらい言い聞かせてきたのに。
 私は丸椅子からようやく離れ、まだ後片付けをしているあなたへ一つだけ歩幅を近づけて、口を開きました。心は途方にくれていました。この時、私の意欲もこぼれ落ちていくようでした。
「佐久間さん、いい。何か悩んでることがあるんならさ、私に限らず、誰にでも相談しなよ。男でも女でも。この係の人たちはみんなほんとにいい人ばかりだから。声をかければ、佐久間さんのことをなんでも聞いてくれると思うよ」
 あなたは位置を変えます。
「大丈夫だとは思うけど、一人でぐちゃぐちゃ考えてるのが一番いけないと、僕は思うんだ」
 あなたはほとんど怒っている横顔だけ私に見せました。見ていられなくて、私はまた丸椅子にすわり、そばの小さな方の製版機の前板をなでました。
「とはいえ、佐久間さんは寮暮らしだからね。寮にはお友だちがいっぱいいるだろうから、大丈夫だとは思うんだけどね」
 あなたはとうとう答えませんでした。私は自分の後片付けを始めました。気配がして横を向くと、席を離れロッカーの方へ歩くあなたの後ろ姿がありました。お先に失礼しますと、その前にあなたは言うはずだったのに。あれはもう二人の間の決まりではなくなっていたのでしょうか。ロッカーから係のフロアの出入口へ向かうとき再び製版の前を通ります。私は声に芯を通して、お疲れ様、とあなたに呼び掛けました。あなたは答えませんでした。
 あなたが帰ってしまった後、製版のすぐそばにある喫煙所でぼうっと煙草を吸っていました。もっとあなたと話したいと思いました。いや、話さなければならない、と思いました。あなたのことがわからないのです。あなたはあれで、どういうメッセージを私に送りたいのかなどと徒に考えていました。メッセージという言葉がふと私に思い起こさせるものがありました。製版をする際、版下を台板に貼るのにはセロテープを使いますね。あのセロテープは指ですぐ汚れるので次々取り替えねばなりません。セロテープはべたつくので、そのままゴミ箱にすてるのはちょっと面倒ですし後で内側にこびりついたりします。かといって机に鼻くそのようになすりつけるのは汚らしく版下や版にくっついてしまったらまずまちがいなく誤りを起こします。だからメモ用紙を一枚机の表に貼っておきます。汚れたセロテープはみんなそのつどこのメモ用紙にくっつけ、一日の終わりにまとめて捨てるようにすると汚れないし便利です。そうあなたに教えました。あなたはその通りにしました。だけれどもたまに見ると、あなたのその四角い白いメモ用紙にはセロテープがくっつけてあるだけでなく、辺とか隅が、青ペンで細かく描かれた大小いくつかの花やつるくさの模様で縁どられていることがあるのです。暇なことしてるなあ。いつこんないたずら書きするんだろう。でも絵柄はやっぱり女の子だなあ。などと苦笑ぎみに思っていました。確かにそのメモ用紙は右手側のちょうど良い位置に貼るものですから、私の場合もペンの出の悪い時の試し書きや、数語の覚え書きなどに使ってしまうことがあります。どうせ捨てるのですし。試し書きが模様に見えたりすると、つい絵にまでしてしまったり、というのはわかります。私は、このメモ用紙を思い起こしました。つい先程、私はあなたにしつこく話し掛けていました。あなたは声では全く答えるつもりがないようでした。でも、文字にして何かメッセージを私に残してくれているかもしれないと思いつきました。それはどんな言葉でしょう。少しだけ希望が光りました。人間、あれだけ親身に話し掛けられて頑として返答しないという不自然をやり通すのは苦し過ぎるはずだ、という勘もしました。私が後片付けを始めてあなたが席を立つまでの短い間でも、走り書き程度ならメッセージを記せたはずだと思いました。私の心が、少しだけおかしくなっていたのです。どんなつまらないことにもすがったでしょう。私はすぐ立って、製版のあなたの机の上を眺めました。大きなよく透き通った硝子板が敷かれ、奥にブックエンド、セロテープ台、筆立てがありますが、余計なものは他に何一つ残してありません。いつもの通りでした。私の教えた後片付けそのままでした。あのメモ用紙もありません。私は表面をひとわたり払いなでてから、傍らにあるゴミ箱のふたをはずしました。手をつっこんで様々な紙屑の中からあなたの今日のあのメモ用紙を探しだそうとしました。かきまわそうとしました。毎日昼一番に掃除をしますから、ここにあるのは今日の午後のゴミです。それはまちがいありません。案外簡単に見つかりました。あなたの青い花模様が見えました。今日、眠くてしようがないときに、心を空っぽにしながら、あなたが丁寧に埋めていった縁どりなんでしょう。それにその二つ折りにして少しつぶした程度の紙屑は、かなり上の方にありました。やはり、最後に捨てたのです。私はつまみ上げて、開いてみました。メッセージなどある訳がないと私の別の心は知っていました。私はあなたの四角いメモ用紙を開いて、長い間みつめていました。そこには、少しななめに二行ぐらいで、黒ペンの文字が次のように書かれていました。縁どりと文字がいくつか重なっています。丸みのない子供っぽい−−それも男の子のもののようなあなたの字です。
 FUZAKENNAI BAKAYARO
 私は一字一字黙って読み、繰り返して、それから、小さな声で細く長くうなりました。しばらくうなっていました。あなたには、私の心の中でどれぐらいのものが崩れ始めたかわかりますか。今でも本当にわかりますか。
 まもなく朝の六時です。日の出はいつ頃でしょう。大みそかは私でも忙しい。眠らなければなりません。

 



[第三日 了]




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