- 起床は一時半でした。だんだん夜昼が逆転していくみたいで、これはよろしくないと思います。三時に閉まってしまいますのでまず銀行に行き、通帳記入をすませました。帰りに正月用の食糧の買い出しをしました。やっと四時ぐらいから十二月の決算、そして今年の決算に入りましたが(私個人の家計簿のしめのことです。でもちゃんと損益計算書や貸借対照表までつくります)、あまり遅くなってからラーメンをつくったり風呂に入ったりするのは集合住宅ではまずいので、半分あたりで中断しました。これらのあとテレビを見てしまったので、決算も来年まわしです。今年のことは今年のうちに、いやなことは片付けるなり忘れるなりして、新しい気持ちで新年を生きる、というのは理想ですけれど、無理して押し込めることまではすることありませんよね。あなたへのこの手紙、もうあなたに本当に渡せるものかどうかも、こんなに長くなってあんなことまで書いてしまって、我ながらかなり不安です。いつまでも終わらないような気がするし、結論がでるのかしらとも思うし。これがラブレターだと言ったらあなたは笑っちゃうでしょう。どうやらこれも来年へ積み残し。……
- ……新年です。十秒ほどペンを止めていただけですけれども。明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。どうか私を見捨てないで下さい。
- 私は、あなたに乗り越えられるという夢をこういうことになってしまってもまだ捨てられませんでした。その前まで夢想というに等しかったものを、はじめて地上に引きおろして現実の目標にしてしまったのです。あなたを拷問しつづけているのではない、あなたのためにとしているのだと、自分に言い聞かせるためだったのでしょうか。私はまだあなたのそれがよくある女の子のきまぐれかもしれないという希望を持っていました。ある日、ひょっこりあなたの気持ちが戻ってくる、そうなれば前と同じだ、そうなればいずれ私が辞めるのだろうがそれまではまたあなたのやわらかな汚れない心の隣にすわっていられる。じいさまの色ぼけじみていますが、今でもそういう未来は十分ありえたという気がしてなりません。
- あなたはそれでもその大きな製版機に取り組んでいました。私の説明にたがうことなく、私の望んだ通りの版をつくり出します。それは驚異でした。私が何か話しかけてもそれが今の目の前の仕事に関わりなければあなたは決して答えようとしません。耳が聞こえないのとそっくりです。わからないことをあなたは少し甲高い声でしたが確実に私に質問し、私の答えを必要なだけ聞き取るともう私の声はいらないという態度になり、反応をやめました。意地でしつこく余計なことを言うと、顔をあげ上体をそらして、うるさそうに表情をしかめます。私がそのために言葉を詰まらせたことが数度ありました。そして、ふと気づくと、居眠りをしています。私はあなたが半気違いになってしまったかと疑いました。製版のいくつかの難しい種類には、初めてそれをする人がほとんどかかってしまう罠が随所に隠れています。いいかげんな人とか能力のまだ劣っている人がそれをするなら、おもしろいように不思議なぐらい同じ罠にかかって私の注意を受けるのです。それが格好の教材ともなります。しかし、すでに前述の通り情動が不良社員の典型のように見えたあなたが、なぜかこの罠に全くはまらないのです。その製版は、生まれて初めてしているのに完璧なのです。最初から私以上かと思うできばえなのです。この頃のあなたは、なんだか怖かったのを覚えています。信じられなくて、気違いが私にまで移るような気分にもなりました。あなたは、大きな製版機について覚えるべきことを修了するのが間近でした。九割までは行っていました。小さな製版機が十割だったとするなら、もう製版という仕事の九割五分はあなたに移っていたのです。
- 私があなたのメモ用紙をゴミ箱から拾ったのが八月三十一日でした。あなたの気違いぶりが(一面、天才ぶりが)特にひどくなったのは次の週です。指を洗いに行ったのもその九月六日でした。ところで、係長はこの頃、喉の病気のため十日ほど入院していましたが、職場復帰したのがそのまた次の週です。復帰して二三日目に私が呼ばれました。佐久間さんに冊物をやらせるというのです。冊物は大橋さんと笹川さんが担当でしたが、大橋さんがTPMのため係をはずれることが本決まりになったので「佐久間に補助をやらせる」と言います。そうですね、色々覚えた方がいいですから、と答えました。私の後に準備の長の倉本さんが呼ばれ、次にあなたでした。終わりに遅刻して来た笹川さんが係長と話しているのが見えました。まだ次月分の請求書が来ていないのでつまり冊物の仕事はなく、二三日してからだろうと私は思っていましたが、笹川さんがあなたに話しかけ、あなたが私に言いました。とがった声でした。「区切りがついたら来て下さいと言われましたけど、どこまでやればいいんですか。これ全部ですか」。どうしてあたしが、わざわざこれを訊かなければならないのですか、と言っている口ぶりでした。残っているその製版の仕事はあなたの力でまだ三四日分ありました。でもそれをしてしまえれば、あなたは十割を修了できます。私は笹川さんと話し合いました。「まだ仕事はないけれど、基本的なことで色々説明しておきたいから、時間はつながると思うの。つながらなくなったら検査をしてもらってもいいし」。私は、「じゃあ二三日。つながらなくて仕事なくなったら、また製版をしてもらってもいいよ」と約束しました。女の子同士ですから、あなたもいくらか気が楽だろうとちょっと思いました。戻って(といっても数歩ですが)あなたに言いました。「善は急げだ。今しているのがあと二三版で終わるね。それで終わりにして」
- 係長の説明では、製版が多忙となる一ヶ月の三分の一は、あなたを戻してくれる、ということでした。あの人はよく嘘を言います。そのつもりがなくても、結果として嘘になってしまうことを約束してしまうことが多いようです。私はだからそれほどのことではないと考えていました。数週間離れて、互いに頭なり感情なりを冷やせるというのはむしろ良いタイミングだろうという気がしました。十月になって、本当に忙しくてたまらなくなった頃、当時コピー機を操作していたあなたを製版に戻して下さいと、係長に頼みに行きました。今はまだまずい。コピーも急ぎなんだ、と言います。その後でも、二度、係長に同じことを頼みに行きました。ともに係長には理由があって、だめでした。いいようにだまされていたのか、という怒りがわきました。事情が変わってしまったというのが真相なのでしょう。初めからこういうことになるかもしれないことが、あなた(係長)にわかっていたなら、どっちつかずのことを言って変に期待をもたせるような(人の心の弱みをあやつるような)ことは言わないで欲しかった。だめならだめとはじめから言って下さいよ。あるいは、三度も足を運ばせないで、わかった時点でそう言って下さいよ。ぶっちゃけた話し、私が製版に責任がある以上、その可能性があれば計算に入れあてにしなければいけませんし戻して欲しいと言わねばならない立場なんですから。係長のそういう役目もよくわかりますけどね。そういう文句を言いました。
- つまり、その日、あなたが初めて笹川さんから冊物の指導を受けた日が、最後でした。あなたと私の四ヶ月が終わっていたのです。年の終わりまでついにあなたは戻りませんでした。係長の意向にそれがないことがわかった時、これで私がポジションを追われることだけは助かったのか、と思いました。
- やはり不自然だったのでしょうか。私の三つの幸せも、最上のものを二つながら持つというあなたも。そして、以降、あなたの才能にもう水を与える人がいません。あなたにはずっと日の光が注がれていない風に見受けられます。あなた自身、あなたに水を与えていますか。あなたの心は、発熱していないのではないですか。あなたは美しくなりました。すごい美しさです。いつか秋の終わり頃、居眠りから醒めてぼんやりとすわっているあなたを見ました。赤い口をしどけなくあけて、髪のかかるうるんだ眼はうつろでした。あなたを無視しているまわりの従業員たちの中で、異なった川岸に心があそんでいたのでしょう。私は、見てはならないものを見てしまった竹取の翁でした。すごすぎるのです。毒がまじっている美しさなのです。今はまだあなたには、自分の姿のことがわからないと思いますけれど、あまりにもあやういのです。
- ようやく終わりでしょうか。明日、もう少し付け足せば大丈夫でしょう。
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