平成10年1月18日(日)〜

缺けてゆく夜空 その一 間宮

4 バイト



 
 いいかげん、始めなければならない。これからは余分なことは極力はぶこう。

 アルバイト間宮は、三部屋で一つの課を成す作業場に配属された。右は事務関連の執務室、真ん中は主たる作業場、左が倉庫になっていた。三部屋は行き来できる。倉庫以外の二室には廊下への出入り口があったが、ともにIDカードがなければ外から扉を開けられない。ビルの五階だったが、三部屋とも窓はなかった。
 台紙と薄い樹脂製品を照合して、製品を台紙に挟み留める、という仕事だった。このセット作業にはマッチングという名前がついていた。台紙には顧客の住所などが印字され、製品には顧客別の凸文字が打刻されている。各顧客に郵送するところまでこの課は面倒をみた。
 打刻とマッチングを同時にやってしまうおおがかりな機械がちゃんと据えられていた。顧客別の数列やアルファベットを打刻すると同時に台紙にも必要事項を印字し、しかも互いを誤りなくセットする。銃器連射みたい音をたてて頑張っていた。アルバイトはいじらせてもらえないので詳しい仕組みはわからない。
 封入機というのもその横に並んでいた。空気吸い取りホースが幾本もからみ巡っている一見骨組みだけの機械で、マッチング済み台紙と、一緒に封入したい何種ものパンフレット類を一種一件ずつ吸い出して、性急な二拍子で移動していくラインの上に重ねていく。全種重なったものをそのまま封筒に押し込み封緘するまでこいつはやってしまう。
 機械のオペレーター(=操作者)以外まるで人手が要らないみたいだが、さにあらず。マッチング機械は無謬ではなかった。悲劇的な音がして止まるとそれは製品が壊れたか台紙が破れたかしており、そうするとその時通過していた前後数百件ときには千件以上のマッチングの検品が必要になる。各個人のものであり特別な価値のあるものなので他人に送られるとそれは大問題となりここの職場は今後仕事を引き上げられる(これは脅しでも方便でもなかった)。といって納期も決まっており、限られた人数では対応し切れない、ということがまず一つ。
 封入機でいえば社員のオペレーターが一人ついているが、マッチング機械からどんどん流れてくる台紙、刻々減っていく何種ものパンフレットや封筒、これらをすべて補充していかなければならず、機械の油差しやら封緘のための水差しやらこまごましたこともあってどうしてもあと一人二人の補助が必要だった。
 そしてもっと大事な点は、機械で対処できる様式は代表的な数種の製品に過ぎないということだった。逆に、これらは量は多いので機械にも存在意義があった、とも言える。一方、一つ一つは大量ではないのだけれどほかの大部分の種類は、機械では全くだめか十分な役に立てなかった。つまり、人が目で確認しながらマッチングしていかなければならない。しかも、間違いは一切許されず(もちろん盗難などもってのほかであるという理由もあり)、必ず二人が組んでマッチングするという取り決めになっていた。一人が製品と台紙を取り一致を確かめて机の上を滑らせ、隣のもう一人が再び確かめて挟み留める。これらは封筒もまちまちでたいてい手封入となる。
 そこで少ないときでも四五名、多いときは十名以上のアルバイトがこの課だけで雇われていた。皆、IDカードを持たされる。辞めるときに当然返す。仕事の性質上、バイトは男女とも採用されたが、比率でいうとやや女性が多かったかもしれない。また、配属前に、彼、彼女たちの人品判定など、間宮にはよくわからないがなされたとは思う。この職場なりの見識で。
 時給は六百円。給料は週払い。週末じめの翌週水曜日払い。土日祭日は休みで、月最後の土曜日だけは出勤日。定時は午前八時から午後五時だった。
 前の会社は八時四十五分が始業だったので、これでは起床時間にほぼ差はなく近さの利が発揮できなかったけれど、午後五時に解放されるなら数えれば間違いなく八時間労働で、つまりは夕方に時間を作れるのだからと納得した。
 が、実態は、例えば間宮の給料袋から三月分を集計してみると、退社五時六日、五時半二日、六時六日、七時四日、七時半二日、八時二日、休日出勤一日、計二十三日というぐあい。
 四月になると、五時二日、六時六日、六時半二日、七時五日、八時六日、計二十一日。
 前の会社はサービス残業ばかりだったから、比べればきっちり払ってくれるだけマシだったが、こちらにも事情があり、間宮は、五時になると必ず「もう帰っていいですか」と尋ねる、この抵抗だけは続けた。社員の人にはこれが「もう仕事はないのですか」と聞こえるらしく、その通り処遇された。アルバイトはお金がもうかるなら嬉しいだろう、という思いやりまで感じられた。
 この「前の会社は」という思考だが、間宮はさすがに言葉にせず、以前どういうことをしていた人間か世間話に訊かれても「つまんない事務屋でした」ぐらいのはぐらかした答えをしていた。だけれども、この職場の欠点である「いいかげんさ」が目につくたび、心の中で比較して悪態をついていた。しばしば喉まで来る。数合わせの基本が社員たちでさえできていない。つまり縦横検算をまずしない。だから後になって間違いが出たとき、長い長い後戻りをすることになる。掛け算割り算はいざ知らず、加算減算に電卓を使うな。いらいらして「算盤は?」と持ってこさせたくなる。バイトは遅刻してもまず叱られないし、社員だってなんか片手をあげるだけで済んでしまうみたいだ。上司が力抜けるまでのダジャレ好き。職場というのはもっと良い意味でぴりぴりして緊張感に支配されているべきではないのか。どの一人であれ打てば響くという態勢でチームを形づくっているべきだ。求められているものは相当に厳しいレベルなのだから。それに部署が多く人がいすぎて、しかも暴走族かやくざもんみたいな社員やバイトが昼休みになると廊下にあふれる。床に座ってタバコを吸う。時にはガンを飛ばされる。で、黙り通した間宮は、前記の世話好きで清明な女性らとの飲み会で腹にためていた文句を吐き出し自分の考えを述べ同意を求めて、平衡を得ることになったりする。
 比べればいいかげんなことは確かだった。が、いいかげんであると言い切るには、前の会社が本当に標準的かどうかということの証明がなされなければいけないだろう。間宮もここでの時間をふたつきみつきと重ねるうち、そういうことに気づいていった。もしかしたら、こっちのほうが普通の、人が人らしく働く場所なのかもしれない、というふうに。少なくも、人それぞれであるのと同じく、職場もそれぞれ、「がら」というものがあるらしい。よく考えれば、どれかお手本を決めつけるよりもその方が自然だった。−−欠点は欠点だろうが、残業代がちゃんと出るところなど、乱れた言葉遣いをしていてもあったかい声をしていることなど、どぶから這い出てきた如く汚れているけどどうやら目の光からして誰にも負けない技能を持つ職人さんであるらしいことなど、ほんの少し角度をずらすだけで結構良いところも見える職場であり、好意的に言い換えれば、多様性も活気もある工場であったのだ。
 また、そういうわけで、間宮は非常に真面目な人間と思われたらしく、とにかく正確でしっかりしているということになった。そこでますます、他のバイトは帰しても間宮だけは残されるという類いのうれしいようなかなしいような事態が増えた。が、頼りにされるというのはどういう場合でも、決して悪い気はしないもので、彼らは妙にお世辞もうまくて、そのうちに間宮は書き物が続けられないということにならない程度なら、そのぐらいまでなら、と内心思い、ほだされ、応えてしまうようになる。拳を青い空に振りひとこえ発し力強く踏み出して朝出勤するなどという、大方針からいけば堕落とも言うべき日常も生まれてしまうことになる。
 若かったのだろう、そうしながら、夜の原稿も着実に進んでいたのだから、これはもうむしろ「しあわせもの」と呼んであげていいのではないか。あの手紙を忘れていないなら孝行息子にもなる。こんなことしてたらいけないんだけどなあ、そんな愚痴を自分に言っている奴だったが。
 あと付け加えると、間宮は「新参のバイトということは最下層民である」と考え、同じ部署の人とすれ違うときは軽く会釈し、他部署のまるで顔を知らない人でも必ずめだたない目礼をした。社員とバイトはユニホームでその別がわかるので、はじめは年下のバイトにまでこれはやりすぎかと思ったが、先輩ならしょうがないとしばらく続けた(バイト連中の寿命は意外に短く、古参のバイトとは顔なじみになってくるので、時間とともに「後輩のバイト」を見分けられるようになる。社員は後輩であれ年下であれ冒すべきでない身分と考えた)。それから、食堂で食べる前と後で手を静かに二度叩き、合わせた。全く意識せず、子供の頃からの習慣に過ぎなかった。意識していないといえば眼鏡をかけていることもそうだったか。これだけのことが、間宮を多少有名人にしていた。変人、だったかもしれない。
 何棟か複合している工場であり、建物の構造やどこにどういう部署がありどういう仕事をしているのかについてはだいぶ後になるまでよくわからないでいた。五階の間宮の職場、食堂、連絡や出入りのための経路、これ以外はほとんど足を踏み入れることがなく、上からも無用な所をうろつくなと言われていた。
 次々に入れ替わるアルバイトはみな若く、高校生、予備校生、大学生、就職浪人といった青年たちで、中には得体の知れない不良っぽいだけの男女もいた。いったん話が通じてしまえば、彼らとの付き合いはたいてい年上となる間宮にとってずいぶんと楽しいものだった。もう役目が固まり都会のいたるところでくすんでいる大人たちとは違う。どこへでも流れて行けそうな、老いつつある子供たちの、一つの吹き溜まりとでも言いたい雰囲気があった。輝きと、開放感が違う。間宮は当然、後者の仲間のつもり。

 四月五日木曜、前の会社の送別会に、間宮は呼ばれ出席している。というのは、あの会社の若い連中の間では、会社を一種の学校に見立てており、間宮はOBという位置づけになっていた。間宮が現役のときもそういう場合、本人と親しかった卒業生を一人二人招いていた。辞めたのは、異常なほど有能で、これほど説得力のある静かな話しぶりはそれまでもそれからも経験がないという娘だった。そう思っていた。一歩一歩前に行く人でもあった。もしかしたら三十年ぐらいしたらこの娘がこの会社の社長をしている、悪くないじゃないか、と思えるまで間宮の理想に近いけなげな仕事人だった。残念ながらチャーミングでもあって、このあと専業主婦になってしまった。仕事だけがすべてではないから、とは思うが、やはり残念である。
 五月十九日土曜、会合があった。細身で一回り上の思慮深い先輩が指を立てたらしい、ちょっとやせてる人なつこい笑顔の女性、透き通る肌の気さくな女性、純で芯のしっかりした心を持つ女性、それと間宮。五人は皆あの会社の退職者で、こちらはOB会というところか。昼間は食事をしたり喫茶店でだべり、たまに競馬のラジオを聴いた。夜は有志でパチンコをした。
 間宮は螺旋針金でとじてある天文写真集も兼ねた冊子様のカレンダーに、一週ごとに簡単な計画を立てていた。また、何を食べたか誰と会ったかなどを書き加えていた。この昭和五十九年五月の欄外に次のメモがある。

 ◎TVを買うとしたら、オリンピックと正月のため。
 ◎TVを買うとしたら、ヘッドホンで聴けるもの。
 ◎TVを買うとしたら、まず、カタログを。
 ◎しかし、TVで時間つぶしするくらいなら、よい本を読みたい!

 たぶん、投稿が済んだら自分へのご褒美とする、そういうつもりで書いて慰めたのだろう。
 六月二日土曜の夕食、焼肉。フライパンが燃える。
 六月二十三日土曜の夜は徹夜。
 六月二十五日月曜、投稿、済。平日なので、昼休みに工場近くの郵便局に行ったと思われる。
 六月二十七日水曜、ダジャレ好きの上司の送別会があった。転勤である。バイトは参加費不要。
 彼の部下だった計良(けら)班長がこれ以降間宮の直接の上司ということになった。ほぼ同年齢だったが、もちろん間宮君と言われ、計良さん、班長と呼んだ。
 ダジャレ好きの上司にはしばしば「まっちゃん」と言われていた。

 




[4 バイト 了]




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