平成10年1月30日(金)〜

缺けてゆく夜空 その一 間宮

6 櫛田みさ



 
 間宮らの課は、五階では「二課」で通った。
 二課のアルバイトは男女ともいることは前に記した。が、二課の社員の中で女子は、一人だけだった。
 櫛田みさ、という。
 アルバイトの女子は私服に黄色い上着をはおってユニホームとするが、社員の女子は縦青縞の、上着・ベスト・ミニのスカートと揃っていた。上着を取ると、形よいベストと、ふわっとしたブラウスの胸元に赤茶リボンだった。夏はこれが半袖になる。服装のためばかりでなく、櫛田みさはかれんに見えた。背は小さいが、脚がきれいだった。間宮のいる作業室のとなり、座っていつも何か机上で事務をとっている。
 組んでいたりただ閉じていたりすりあわせていたりの脚がわずかながら見える絶妙の位置で作業をしなければならない幸運がめぐってくると、涙が出そうだった。作業中たまに気散じ風のためいきをついて手をやって眼鏡のずれを直した。
 間宮は配属された最初の日から、櫛田みさが気になった。その人は、社員の男たちからちゃん付けで呼ばれ大層かわいがられていた。男たちの視線の焦点で毎日過ごして、自然磨かれるとここまでにもなるものか。おそらく、誰も手をつけられない雰囲気があるのだろう。そして、身分違いである。可能性は、常識的には、微塵もなかろう。この程度のことがその日のうちに思い浮かんだ。
 間宮が当初の数ヶ月バイトを続けられたのは、順応性があるとか頼りにされたとかだけではない。気安く話すことなど許されない人に、一方的な朝の挨拶を心の声でする。目でせめて慰める。こういうこともあったはずだ。間宮はほれっぽい男なのだ。そして、たいていの場合、熱をこもらせていく。
 二三週目に、一対一で仕事を教えてもらう機会があった。一見弱々しそうなおもざしだが、言葉ははっきりとしていた。はにかみのある潤いもあった。でも間宮は、あるかげりを、真剣に文字や数字を指さし、落ち着いた言葉運びで的確に理解させていくその娘に感じた。仕事熱心であること、大人であること、はもちろんあるだろうが、間宮以上の年齢ではない、つまり、若い娘であるにしては、どこかしっかりしすぎている。もう少し言えば、ものうさ、つかれみたいものまでかすかだけれど匂う。
 このいいかげんな職場の中で、唯一まともな側にいる。僕の側の人だった。この人もそぐわなさを抱いている。それをわかるよう教えてあげられないのが、もどかしい、とまで間宮は感じた。
 何かを脇にかかえて彼女の脚が手の届くそこのすみを横切る。特別な足音を聞きつけたときから、目で盗み取るために待ち受けている。バイトの中には、いつも半分眠りながら仕事をしている髪を染めた娘や、毒々しい化粧をしたかわいそうな顔の少女やらがいたが、間宮の目にはほとんど入らなかった。
 ある朝から櫛田みさはいなくなった。休むことがあるのは当たり前と考えたが、そのまま何日と続く。なぜなのか、理由が、事情がわからなかった。社員は知っているのかもしれないと思ったが、それを殊更にアルバイトに発表するわけもない。なんとなく思い出した風にこちらから尋ねるのも危険に思えた。彼らから見れば、学生の歳でもない社会のはずれ者じみたアルバイトが、美しい正社員に気を動かしている図というのは決して気持ちの良いものではないだろうから。
 四五日ぶりで出社してきた。間宮はこころはれる思いがし、いろいろ憶測した理由も事情もどうでもよくなった。それからは休まなかったから、風邪をこじらせたぐらいだろう、と決めた。
 そのうちに間宮は、彼女の裏側に何枚のどのような仮面があるかという仮説、それを探るにはどういう手段がとれるかという思案、こういうことを考え始めた。しだいに、その向こうの終わりにはどうやら、飯を食い、出し、寝て、あるいは、妄想をしゃぶりながら黒い内腔と馴れ合い、肉体と心のむなしみを埋めようとあくせくしている動物がいること、それが見えるようになった。
 ……私はもしかしたら詩人のはずだ。見方を変えても、みさという娘を愛そうとした青年のはずだ。ならば、みさと動物の間にある幾層ものバリエーションに夢を感じなければいけないはずだ。正直にその努力もしてみたのだ。……
 しかし、そのあげくに、間宮は笑ってしまった。これがしつこい笑いで、夜部屋で思う存分、アパート中に鳴り響くほどの大声で一分間、押し殺し断続的に一時間笑っただけでは足りなくて、布団に入ってからも翌日仕事をしながらも、その糸を弾くとぶり返してしまう。みさが視界に入ると、つい、歯の隙間からもれてしまう。たまんないね、とつぶやいて、思い出し笑いをしているふりをするのだが、彼女なら、何か気づいたかもしれない。でもまたそばを通ると、単にみさが席に着いても……
 許してあげてくれ。間宮は毎晩毎晩、奇怪な観念を原稿用紙の中でこねまわしていたのだ。あるいは、下書きから最初の清書、最初の清書から本当の清書という具合に、推敲しては今度こそ終わりだ、このページはあと一行なんだから絶対間違えるなと転記を重ねていた。無数の文字がぶつぶつ言う普通でない心理をそのたび心で反芻しながら。目が乾いたりまぶたがくっつきそうになると顔を洗って。神経に来ると引き裂いて、頭をがりがり持っているもので削った。−−もちろん幼いものだが、間宮なりの文学であり文学的行為だった。昼間まで少々この雰囲気が漏れてしまっただけ、と言ったら、甘えるなと石を投げられるだろうけれど。
 どうか、許してあげてくれ。間宮がここまでひどくなったのは、追い込みの時期、六月の中でもせいぜい一週間だけだったと思う。櫛田みさが間宮の期待した通り敏感な娘なら、何も知らないでかわいそうなと嘲る視線や粘っこいにやつきに気づいたことだろう。が、間宮の心の一部で待っていた反応、例えば声をかけたくなるとか、意外な好青年が身近にいたと気づくとか、そういうのはなかった。さらには、もし、間宮の期待した以上に、繊細な感じやすい娘だったなら、すぐ血が噴き出すという傷ではなくても、何か暗色の不吉な印象とも言えるものを心の処女地に焼きつけてしまったかもしれない。たった一週間でさえ。
 間宮はこういう点では、全く思いやりに欠けていた。心の強度が、こんなにも精妙でガラス細工ほどもろい自分より、弱い人間というのを想像だにしていなかったから、自分のしたそういうことを間もなくすっかり忘れた。
(上の方の「許してあげてくれ」より前のいくらかは間宮の文章からほぼそのまま引いている。だから、表面的には、文章のネタ程度にはそりゃ覚えていたのだろう。自傷の幸福感はあったとしても、他傷の罪としての自覚がなかったから、あっという間に現実界では意味を持たない記憶となってしまった、と言い直そうか)。
 要するに櫛田みさはかれんすぎて、その上、昨年入社の十九歳ということまで判明すると、八歳下の娘に敬語を遣う自分という古風で倒錯した関係が無性にうれしくなった。こっちが社会人を始めた頃にはまだ小学生だったという計算になる。こんな楽しい関係があっていいのか。本の中にしか残っていないと思っていたのに、こんなにも簡単にそこにある。間宮は、次の小説のヒロインにするのだ、そんな計画まで持った。
 これはこの年の投稿が済んでしまうと、まじめな色合いを帯びた。女が一人ではつまらない、と考えた。薬師丸ひろ子にそっくりなあの彼女を思い浮かべ、もう少しいてくれてたらなあ、と悔やんだ。
 投稿の済んだ半月後、七月の中旬にはもうメモを取り始めた。題名も決めた。

 




[6 櫛田みさ 了]




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