平成10年2月3日(火)〜

缺けてゆく夜空 その一 間宮

7 ナオ君



 
 課の実績は、売上高で、前年、前月、他部署と比較された。二課は本業であるマッチング作業でこれを稼ぐのだが、しばしば副業もこなして多少でもと上積みをはかる。他部署の応援や全くの飛び込み仕事、多くは似ても似つかない作業ということになる。実際に他部署に出向くこともあれば、資材を二課に引っ張ってきて、ということもあった。間宮には一部理解できないのだが、たとえ利益が薄くてもときにはマイナスであっても、売上欲しさにそういう副業をとにかく請け負ってしまうという場合があった。想像だが、その仕事自体は儲けがなくても後になってまたは他部署で、抱き合わせのうまみある注文が取れる、という構造らしい。当然、部署間の貸し借りがあるのだろうが、全体の利益はずっと上の方で辻褄が合えばよいらしく、部署の成績は、利益ではなく売上を物差しとする、ということになってきたようだ。
 月の数字が足りないということになると、あちこちから副業をかき集め、人海戦術で売上にしていってしまう。人件費を顧慮しないわけではないのだろうが、しのぐためには目をつぶる。強化なんとか月間になって困ったときは、大き過ぎる副業を抱え込んで、本業そっちのけということもあった。
 そんな場合のどれかで、六月頃、多量複雑な仕事が入り、調達される資材のひと種類の如く、アルバイトが急に増えた。短期契約のGパンとスニーカーの若者たちだったが、こういう中で何人か、期限が来ても居残る奴が出てくる。つまり、職場となんとなくウマがあってしまう。こういうところは特にいいかげんだったので、続けたいと言うバイトはまず断わられなかった。
 その二人組はどこにでもいそうな不良少年だった。いつも一緒だった。間宮は初日、二人を食堂まで連れていってあげた。その繁忙はとりあえず過ぎ、一方が辞めてしまうと、残った一人が今度は、間宮に始終くっついてくるようになった。仕事や職場のことを質問してきたり、飯を食ったり、馬鹿話をしたり、どうも離れなくなった。ナオ君という呼び名は、この辞めてしまった彼の相棒が使っていた。
 ナオ君は、じゃれついてくる犬みたいな変なかわいげがあった。よだれの牙は見えるのに、おまえがそうならなぜてやろうか、という気がする。間宮はまだ数ヶ月だったが、二課の中ではもう偉そうな顔をしていたかもしれず、歳も相応に見えて、ナオ君の鼻は課の、少なくともバイトの「ぬし」と嗅ぎ付けた。そういうことだったか。常識人予備軍(つまらない学歴や銘柄にすがるさかしらなばか)という可能性だけはなさそうだったし、間宮は嫌ういわれもなく、ほどほどにと思いながらも、付き合い始めた。間宮を立ててくれ、本当に理解していようとどうだろうと間宮の言葉にいちいちうなずき、決して利口ぶらずに身を低くしていた。そして、
「俺は不良だからもう先が無いんです。平凡な生活さえできればそれでいいんです」
 なんどというくだらない人生観を納得したように言うのを、目いっぱい茶化すのも楽しくて、肩の凝らないちょうどいい心の埋め草になってくれた。
 間宮はそれまで、このバイト先では、腹を割って話をするという奴がいなかった。頼りにされても社員とはもともと距離があるし(身分どうのと間宮の方で壁を高くしていたがそれがまたわきまえているということで好感を与えたらしい)、バイトは皆ずっと年下で遠慮があるしで(彼らから見れば間宮はどういうラベルを貼ればいいのか戸惑う「大人」だったと思う)、作業で力合わせ休み時間には冗談話をする仲間たちではあっても、友人というところまではおそらく行っていなかった。二重生活者なのだからそれでなんら問題もない、昼間の僕は夜の影に過ぎないのだから、と自身思ってはいたが、ナオ君とこれ以降急に親しくなったところなど見ると、やっぱりいくらかは淋しかったのではないか。テレビを買えば解決するというものでもないだろう。
 ナオ君といつも連れ立って行くようになるまで、食堂も一人で行って一人で食べた。と言うか、昼休みの時間がもったいなかったので、ついでに長時間並ぶ行列も避けるために、最初の約三十分は喫煙所のベンチに座って新聞を読んだ。ちらほら人が戻ってくれば、すいた頃合ということで、行って一人で食べた。−−ナオ君は、間宮のこの癖にまで付き合うので、上の三十分の新聞が、三十分のだべりタイムに変わって、続いた。
 ナオ君が背負っているふりをしている暗い過去とか、押しを効かせるための崩れた飾り(髪型や着こなし)とかは、間宮には怖くなかった。敬う気もなかった。そういうことの迫力のためには、どうにもその顔つきや目の表情が少年すぎた。純真と言ってもいいぐらい健康だった。ナオ君ははたちだと言ったが、二三歳は嘘を足していると踏んでいた。
 廊下の床の両脇に、壁にそってずっとタールかペンキ塗装のはげた紫色の角材が敷かれている。ハンドリフトで箱台(リフトの脚を下に差し入れられるよう角材二本で底上げしてあるでかい板。物を置く台となる)を引いて資材が廊下を行き交う際、箱台のふちが壁に当たるのを防ぐ役目がある。休憩時間は(付け加えると昼休みの頭や終盤も)、ここによく座った。長年こすり削られているので丸みがあった。部署によって休憩をずらしてはいるが、資材専用エレベーター前に設けられている喫煙所にはベンチは一つで、たいてい半ケツの隙間もない。必然的に、灰皿のそばでたたずむか、壁ぞいのその角材に尻をのっけるしかない。タバコや缶ジュース、紙コップのコーヒーをやる(間宮はカフェインが苦手でジュースかココアだった)。まるで電線に並ぶ雀で、姿勢もこころもち前傾になるが、慣れれば、酒に車座でやりあう雰囲気に近いし、歩き過ぎる女子を低いところから眺めるのがことのほかよろしく、案外いい。一人では櫛田みさの例にある通り陰々としてしまうことも、ナオ君と並んでいたずらっぽく開けひろげにそうする分には、逆にほがらかで元気という色合いすら生まれた。ナオ君は不思議な奴だったのかもしれない、若者ならそれで当たり前だったのかもしれない。
 ナオ君の年頃との無駄話には、女のことを言っていればじゅうぶん間がもつ(文学や芸術、そんな話が通じる訳もない、ということもあった)。二課の女性や、はげ紫の角材から見上げたり通路ですれちがったり食堂で見かける他部署の美人たちの品定めを二人でよくした。顔がだれそれに似ている、胸がはじけそう、ぺったんこ、腰がね、ストッキングが擦れる音がきこえた、靴の色が合わない、スカートを詰めてるぞ、惜しーい、いい匂い、透けてる、手がかわいらしい、口もとがエッチだ、その他色々、ずいぶん無邪気に検討した。
 ナオ君は、意外と好きなんですねえ、と間宮の顔をみまわしたりする。そういうとき間宮は、白い仮面に戻すのではなく、さらに有色の仮面に付け替える。踏み外しそうになるとバランスをとって戻る、というのがどうも合わない。へっこみがあればもっと掘り返したくなる、でっぱりがあれば何か載せてもっと高くしたくなる。お調子者。あまのじゃくにも似ている。ナオ君と間宮の、女に関する告白的賛辞はしだいに華々しく勇ましくなって、一二度飲むうちに、それぞれ歴戦の性豪ということになった。
 みさのことは誉めちぎった。あれは珍しいくらいの美女だね、人柄もすっとしているし、スタイルも見てるだけで気が狂いそうだ。脚にあるやわらかな張りはちょっとなぜてみたくなるよ、宝石みたいだ。天女か。もったいなくて、ばちが当たるんじゃないか。
 誉めすぎたためか、ナオ君はなんくせを並べた。困った人だという表情をしながら、
「何を言ってるんですか。あれはまるっきりガキですよ。帰り道一緒になって話したことありますが、ほとんど子供みたいな言葉づかいでしたよ」
「会社にいるときは、あんな厚化粧して高いヒールなんかはいてるから大人びて見えるけど、化粧落とすとほんとにちっちゃな中学生ですね。顔もねずみみたいだし」
「それにあの身長であれだけバストが出ているのはおかしい。まず間違いなくパットを重ねてます」
 間宮は大口をあけ喉のひだ震わせて笑った。
 額をさすりながら余韻の中で、確かにそういう見方もあるだろうさ、でもそんな風に言っちゃったらつまらなくないか、と内心嘆いた。間宮の熱も一時ほどではなくなっていた。
「そうか、おれも目が近視だから、今度からはもっとしっかり見るようにしよう」
 ただ、どうもナオ君が避けているらしい、つまり、水を向けても生返事で間宮にだけ言わせ自分は本当の感想を口にしていないらしい娘、そういうのが一人いた。間宮が、なんだどうしたんだ、やけにはぐらかすな、おまえまさか気があるのか、とつっつく。と、ナオ君はそういうんじゃないんですけどね、と真顔になって「あれは相当な不良ですよ」と下の方を見ながら言った。
 さながら、タブーをおそれない冒険家を、言葉少なにいましめる原住民の少年だった。

 カフェインが苦手ということを、ほんの少し補足しておこう。
 間宮は会社勤めの間、一日に三杯から五杯、喫茶店でコーヒーをたしなんだ。モカだとかキリマンジェロだとかうるさいことは言わず、何も入っていないブラックなら満足だった。
 間宮が前年の盛夏、ラジオを聴いていたらある小説家が話していて、ある別の作家の最新作をべたぼめしていた。その気になってすぐ出かけた。で、扇風機もない離れの二階だったので、窓を開け、ヤカンに氷を入れ、ここに本屋の帰りに買った紙パックで一リットルのアイスコーヒーを全部入れ、ヤカンの口からコップに注いでは頁をめくった。
 が、これは純文学でもなんでもなく、ラジオ推奨の「抱腹絶倒」と「ユニークな歴史の批評眼」が、おぞましい最悪の出会いをしており、つまり崩れすぎていて、気分が悪くなるほど嫌な本だった。ああ、どうしてこんなの買ったんだろう、時間がもったいない、夕方までには上げてしまえと、どんどん加速した。扇子をぱたぱたさせた。
 で、数時間で、まだ明るいうちに、千いくらもした本を読み通してしまい、ああ、つまらなかった、と思って椅子から立ち上がった。と、畳の上に大音響とともに転倒した。驚いて何ばかやってるんだ、と思うが、膝をつくのがやっと。心臓がものすごい早打ちをしていることに気づいた。
 部屋でよつんばいになって、気息を整えていると、うれしや下の妹がやってきた。
「おお、助けて。お兄ちゃん、ちょっと変なんだ。コーヒー、飲みすぎかもしんない」
 くちびるも、震えた。たぶん怖くて。
 ヤカンはからになっていた。
「なにゆってるの。だめだよ、今日はちゃんとお風呂の掃除して。早くしないと夜んなっちゃうでしょ」
「それが、ちょっとさ。……わかった、風呂はする。だけど、雨戸は閉めて、頼む」
「いや。いつもそうやって人に押しつけるんだから。お兄ちゃんの役目でしょ。雨戸は半分だけ」
 この鬼娘に叱咤され監視され、風呂場でタイルをごしごしやってから、残っている雨戸を閉めたが、からだは細かく痙攣してるし、心臓はもうお祭り騒ぎだしで、ああ、死ぬんだと思った。
 電話帳で捜しいくつかの病院にカフェイン中毒の応急処置を尋ねたが、どこも本気で相手をしてくれない。親のところにも電話をしたら、ちちははともが、道路を越え、走ってきた。
 ごく最近、両親の知り合いの家で不幸があり、一人息子が心臓発作で逝っていた。それが頭にあった、とあとで聞いた。布団に寝かされ、氷袋を胸におかれて、経過を見る、ということになった。お医者を呼んでほしかったが、彼らがそういう気になるぐらい悪化するなら医者がいてもだめなのだ、とも感じた。先刻以上にひどくなるとしたら、耐え抜ける気がしなかった。
 家族が布団のまわりからぐるっと、こちらを見下ろす。臨終の当人の体験をした。
 そのうち夕食の用意ができた。皆は食卓について、その前の座敷で間宮は寝かされたままだった。テレビもついて、下の妹は笑い声まで立てる。
 九時頃にはすっかり落ち着いて、床から起き、心配かけたと額をつけて感謝した。ただ、氷袋はまた作ってもらって、それを持って離れへ帰った。
 この事件がなかったなら、間宮は京都旅行を秋が来る前に終えており、十月頃には引っ越しを完遂していたかと思う。しばらくの間、健康に自信が持てなかったのだ。
 間宮の教訓。
1.身内でも、どんなにやさしそうな女でも、他人のからだの苦しみは味わえない。ただ、親は別かもしれない。
2.気分が悪くなるほど嫌な本はその場で閉じる。どれほど高価でも、どっか見えないところにしまおう。お前の勘はそうはずれていないから、最後まで読んでも何もない。
3.あいつとあいつの本は一生読まない。
4.コーヒーは断つ。

 




[7 ナオ君 了]




戻る

次へ

目次へ

扉へ