平成10年4月13日(月)〜
缺けてゆく夜空 その二 佳子さん
間宮は、何度も死に損なったことを、佳子さんに話した。 会社員の頃、深夜、酔って、終点のプラットホームを歩いていたら、前方から駅員さんが二人来た。一人はゴミ籠を紐で引いていた。よけてあげるつもりがあったらしい。ホームから落ちた。気がつくとレールを枕に寝ていた。駅員さんがカンテラをかざし、大丈夫ですかと言った。押されてあとは自力で上がり、しゃがんだまま頭をなでていた。そこで動かないで待っていてくださいと駅員さんがどこかへ行ってしまってからすぐ、貨物列車が通過した。風圧がすごく、後頭部だったからやばいかもしれない、などと思い、戻ってくる前に逃げた。 自転車に乗って気持ちよく右折しようとすると、それは横道ではなくてどこかの門だった。放り出されて、後続の車のナンバープレート辺が目前までやってくるのを見ていた。 小学生のいつか、昼寝から醒め台所に行くと、物置の扉がくすぶっていた。家にはあと祖母だけがいてやはり昼寝していた。起こして燃えてると教え、父母にも燃えてるみたいと電話して、また昼寝していた部屋に戻った。祖母が水をかけていたが、ちらっと見ただけだった。(風呂のかまの灰を箱にとって扉の下に置いておいたものが、熱を持った。間宮の家には父方と母方の祖母が二人おり、これは父方のおっとりした祖母で、孫等の世話のため実家から呼ばれていた。このあと間宮は昼寝をしたのか、初めて見る祖母の必死の表情に事態を把握できたのか、よくわからない。しばらくしてかまはガスになった) かなり小さい時の記憶で、家族団欒のただ中で首つりしそうになった。これはやや誇張して二人に話した。 小学一年頃、二つ上のお姉ちゃんと並んで書道塾の帰りだった。雨で、二人は傘をさしていた。大通りの十字路で信号が青になり、お姉ちゃんは一歩を踏み出した。段差の下に小さな水たまりがあり、お姉ちゃんは長靴を履いていた。間宮は運動靴なので、数秒躊躇した。左折してきた赤縞の路線バスが傘に当たり、お姉ちゃんは吹っ飛んだ。−−通りかかったタクシーが彼女を拾い上げ行ってしまった。間宮は涙ぐみながら家に帰った。(この間宮の姉は、長じて子を四人も産んだから、後遺症はなかったようだ) 昨夏のアイスコーヒー死にかけ事件。 夢想好きのため信号無視。 夢想好きということに関連して、玄関に水の入っているバケツがあったのを見て、これを頭からかぶったことなど。風呂に入っているときを想像したから。 間宮は、次の如き理屈を言った。 人間いつもは十個ぐらいの引き出しすべてで考えているが、あるとき、そのうち三個ぐらいが取り残される。そういうとき、血の色はテレビのような色じゃないはずと他人か自分を刺してみたり、青信号を見ているつもりで渡ったりする。見えているのは赤なのに。 そして、僕は、そういう危難のときに、とにかく立ち止まり、自分を殺そうとするものをただ見ていたりする。逃げようとせず。死のことをその時はあまり考えていない。そして、そういうあわてなさ過ぎのおかげでかえって死がすり抜けていったのかもしれない。 パラレルワールドのことを話した。 ここは間宮君の次元であって、僕は絶対に死なない。僕が死にそうになったとき、僕が本当に死んだのは、佳子さんやナオ君の次元で、間宮君の次元で間宮君は永久に不死だから、そしてそれは、何百年経つうちに、はっきりとわかるのだけれど、死は当然、間宮君をすり抜ける。よけていく。他人が死ぬのを見て、自分も死ぬと思うのは推測に過ぎない。 こういうことも言った。 将来、何になりたい、と先生に聞かれたとき、小学校低学年では「不老不死」、高学年では「安らぎ」と答えた。 殺人のテーマで。 酒飲んで、記憶なくしてるときに人殺したかもしれないが、僕は知らない。あるいは、いつか、殺しているかもしれないが、恐ろし過ぎることのために、自分で自分に忘れさせている、のかも。 喧嘩は、だいぶ作った。 カッターナイフ持ち出したこととか、間宮の覚えにあったような気もするが、とっさの作り話だった。ボクシング型、レスリング型、とか知ったようなことも言い、眼鏡かけてからしなくなったとありがちな事情。眼鏡壊されるのが怖い、眼鏡外したら相手が見えぬ、とか、相当、創作。 ナオ君は、両手で持つぐらいの石を倒れている相手の頭に撃ちおろした経験を話した。 「僕は鼻を攻撃されるのが嫌です。とにかくさわられるのも嫌ですね、鼻は」 それでは人殺しではないかと思ったが、間宮はナオ君の虚言をことさら指摘はしなかった。 自殺の話題になると、(上にある通り)間宮は首つりの経験ありと半分嘘をついた。が、小さい頃あったことで、ただ、この紐に首をかけたらどうなるかなという、引き出し一個分ぐらいの考えでやり、紐は切れ、家族が驚いた、ということ。話は本当だが、彼らにはもっと大げさに聞こえたかもしれない。そういう計算あったにはあったが。 許すまじき悪さをした上の妹をピンタして部屋のすみに追い詰めたこと。 逃げる妹二人に冗談のつもりで石をいくつも投げて、ガラスが割れてやっと我に返ったこと。 怖いのは良い人だということも話した。良い人は、良いのだが、悪い所が発散されていない。そこで、突然爆発したりする。爆発させるために引き出しをいくつかわざと取り残す、奥のものが。悪い人なら警戒するが、良い人は油断するのでかえって怖い。 なぜ大学に行かなかったのか。家のこと、継ぐかどうか。自分で金出してまで、大学行くべきか。行きたいか。したくない勉強をせず、したいものをやるためには、一人で十分。 勉強の仕方、を知ることが勉強。暗記したり試験問題を解いたりするのは、低次の勉強。要するに、テストの答えとなるべきものをいくら覚えていてもほとんど何の役にも立たない。学校とは、そういうかりそめの目的に向かって皆を競わせ、脳細胞の訓練をしているだけ。
佳子さんに感激してるつもりで、どうやら、心の中の大きな過去のいくつかを次から次へぶちまけたようだ。それだったか。
と、この日の夕方間宮はノートに記している。
佳子さんに強烈な印象を受けたつもりだが、一日たった今、はっきりしない。女の子は思い出の中でこそ、本当に見え、本当が見え、感じられるのか。
八月五日日曜、間宮はノートの上で、いたずら書き程度の会話劇を創作している。
男の台詞。
同じ日付で、長い髪を一本、セロテープ三ヶ所でノートに留めている。ルーペで根元を見てみると、切れたのではなく抜けたものらしい。先端近くは、かぼそく薄茶色になっている。部屋に落ちていた佳子さんの髪である。
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[11 八月三日(2) 了]