平成10年5月30日(土)〜
缺けてゆく夜空 その二 佳子さん
ひきちぎれる雲、間宮はそういう心境を味わうことになる。 八月二十日月曜の朝、佳子さんは胸から腹にかけては毛布を覆いながら、股間は明るい窓に向けあらわにしたまま眠っていた。疲れ切ってだろう。 新聞や牛乳配達の青少年にもろではなかったかと思い、間宮は一晩中そのままだった窓を閉めカーテンを引いた。敷布団にまたからだを横たえ、今日、どうするかを思案した。 すでに六時半頃で、睡眠は、三十分も取れていなかった。仕事を休み、眠りたいだけ寝る、そして回復を待って再び佳子さんを、という気力も、そこまで生活の調子を壊す勇気もなかった。相当つらそうだが、一日我慢して起き続け、夜まで耐えるか、と考えた。佳子さんさえ来なければ、こんなことで悩む必要もなかった、という気もした。 七時を過ぎ、佳子さんの肩を揺すった。 「朝飯食べるか。シチューだけど」 いらない、寝かせて、と言う。 間宮は火を点けたまま布団を上げ、炬燵机を出し、一人で並べて一人で食った。食べると、多少は元気が湧いてきた。仕事行くんだからもう起きな、はやくと佳子さんをせかした。 佳子さんは言われるまま、下着とか、パンストを捜し、前屈みの立ち姿で、鈍い動作で身に付け始めた。待つ間、一分でもからだを休めようと畳に寝そべっていた間宮は、そのシルエットを眺めていた。 散歩しながらきょう会社行くか決める、と佳子さんは言った。 部屋の前の路地で二人は別れた。間宮は職場への最短の道を行き、佳子さんに遠まわりして駅に至るルートを教えた。連れ立って会社に行くのはまずいからね、と口の片端を上げ笑んで見せた。 佳子さんは、髪の毛の陰でうつむき気味に間宮を見た。 一人になると、こういうことを考えたり、呟いた。 我ながら根の明るいひょうきん者だ。 もうけたんじゃないか。 できはしなかったが、まるまる見れたし、指もつっこんだし! しなかったので、妊娠とかのことは皆無だし。 わざとしなかったという形にしても、嫌気さして(乱暴さに? へたさに? あはは)佳子さんを来なくさせる作戦と見えなくもない。 しかし、おもちゃのように扱われた上、されなかったというのは、女にとって屈辱か。 思い出しては、突然うなずいたり、あ、あ、あと喉で笑ったりした。 間宮であれ誰であれ、心が崩れそうになったら、とにかく支えなければならない。あちらこちらから破片はこぼれてしまうだろうが、全体がなんとか立ったままでいればとりあえず、人の側にいられるのだから。心棒を新しく据え直したり、ブロックを積んで隙間を塗り固めたり、そんなことは急の場合にはできはしない。ただもう、崩れるものを支えながら、息を継ぎ、しばらくは途方に暮れるばかりだろう。たいていは、まつごの予感をおしのけながら。 たかだかその程度のことだと自ら思い込もうと必死だった、とも言えるか。いつもの作業を始めても、心は明るく狂っていた。寝不足は、この躁気がだいぶ殺した。 佳子さんが出てきたら、夜ああいうことのあった男にどういう昼間の顔を見せるだろう。何か皮肉を匂わすだろうか。黙っているなら声をかけてあげようか、なんて言おう。ほろっとくるような優しいせりふがいいかな。 間宮はそんなことも考え続け、今か今かと待った。が、何時になっても昼を過ぎても、恋人は姿を現わさなかった。 朝の別れ際を思い出した。されもしなかったのに佳子さんがかわいそうだから、一緒に歩いているのを見られたらまずい、という一人決めで、ああいうことにしたが、と間宮は考えた。多分ほとんど寝かせなかった佳子さんが、ねぼけたまま、全く見知らぬ街路で迷子になり、あちこちふらつくうちに、道端とかベンチとかでへたっているのでは、と心配になってきた。佳子さんの体力を買いかぶりすぎたかもしれない。化け物でもなんでも無い、あれでも女だったじゃないか。 とにかく、佳子さんを一回笑顔にさせてしまえばいいのだ。細かい修復など、時間がやってくれる。ああいうことがあった以上、今までの間柄ではすまないのだから、こんな不安定な状態からは早いところ脱して、新しい形をつけなければ、という欲求が、間宮にはあった。そのためには、最低限、また会わなければならないんだ。佳子さんだって、起きているなら、今、そう思っているはずだ。早く出ておいでよ。早く。と、どこかにいる彼女に呼びかけていた。 (たとえしなくても疲れさせ迷惑をかけたのだから、もう少しいたわってあげるとか、仕事に出ることより佳子さんの気持ちを優先するとか、あるいは不用心だからと追い立てずに自分は行くとしても佳子さんを部屋で寝かせておいてあげるとか−−佳子さんは寝かせておいてと懇願しなかったか−−、どうしてせめてそういう人間らしいことができなかったのか。人間としても男としても奈落に落とされていて余裕がなかった、というのは言い訳にならないだろう。間宮が、このていどの反省であっても審判を下せたのはかなり後になってからだ。そうではなくよくある遊び上のミスと決めつけたかったし、忘れてしまって構わない小さな出来事としたかった。 「身も心も女を愛する資格がない」 などという句は、まだ間宮の心の中に全くなかった。近い何かはあったかもしれないが、奥から浮かび上がって意識の表面にのぼろうとすると、つまり造語作用に乗ろうとすると、強い腕がその頭を押さえ込んだ。そういう思いまたは反省がのさばるなら、国家を護持できない。だから、理不尽な粛正が熾烈に続いていた。体制側は都合の良くないことを粉々にし、かきまぜ、あいまい化し、自らの正当性を看板に掲げたく思い、そして、序盤はかろうじて勝利を続けていた。堂々と悪さをすることに慣れていない若造は、よくそういう国を作る) この日佳子さんは出社しなかった。 夜になると、睡魔にさらわれそうになりながら、ああいうことだけはなかろうと間宮を信じきって、部屋に来た、泊まったのではなかったかという想像がつのってきて、次第にそうしてあげなかったことが悔やまれ、そういう意味のダメオスであったほうが何倍もましだったのに、という思いが膨らみ、こういう意味のダメオスという結果は佳子さんという女なり人間なりを無残にはずかしめたということでしかないのではという弱気がもたげてきた。考え過ぎかもしれないが見ようによっては、まず手痛く裏切り、そして長時間苦しめ、朝だめ押しでていねいに傷つけた、と言えないことはないなあ。あんな魅力的な、本質は無邪気といたずら心だけの女を。 違う、いくらなんでも一方的すぎる。何か見落としている。やっぱり、なにもしなかったよりは何倍もましだったのだ、そうだということがもうちょっとでわかる、と何度も何度も裏返してはあぶり心の目を凝らし些細なことでも思い出せと頭髪をつかんで、納得しようとした。 あのときは、ああしかできなかった。失敗はいつでも、誰にだってあるのさ。済んだことをくよくよするな。今大切なのはあしただけだ。もう寝るんだ。しんじまうよ。 この晩のノートの中のいくつか。
本日未明、佳子さん(昨夜泊まりに来た)をオソウ。
ひどく心配。結局、会社に来ないのなら、なんできのううちに泊まった。
いずれにしろ、願う、生きて、健常であれ!
あんな、あんな、かわいい子、ちょっといないぜ!
八月二十一日火曜。
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[16 人非人(1) 了]