平成10年6月8日(月)〜

缺けてゆく夜空 その二 佳子さん

17 人非人(2)



 
 八月二十二日水曜。
 昼前、実家に帰り着くと、留守番役らしい上の妹が居間でうたた寝をしていた。他は皆、出仕していた。ショルダーバッグを置いた。
 道路を越えた。塀沿いを歩いた。
 本殿で、賽銭を投げかしわでを打った。
 社務所に顔を出すと、母親がいた。約束通り来たことは、これで証明できた。午後七時が宮入りと確認し、何か手伝わされるのが嫌なので、また来ると言って逃げた。
 煎じ詰めれば生身の肉親に挨拶することより社(やしろ)に参りさえすれば、間宮の家に育ったものとしての帰省関連公式行事は終わりである。面倒がないといえばない。それに夏祭りの最終日であり、てすきは誰一人おらず、だからこそ、お客さん化した野郎がへたに動いても邪魔なだけだろうとおもんぱかった。
 そのまま隣の公園を横切り、ブラジルフィアンセの家の呼び鈴を押した。
 友人は在宅だった。聞くと、塾の講師になっており仕事は夕方からとのことだった。新しいコレクションが豊富にあるとのことで、違法ビデオの鑑賞会となり、数時間を過ごした。こんなことがあっていいのかという、末期的様相だった。淫らがどうのよりもう、動物実験の臨場に近い。嘆声を発しては、頭をかかえるしかなかった。
「じゃ、そのうちな」
 ブラジルフィアンセの友人と別れ、間宮が再び社務所に寄ると、姉がいて、甥たちが机や人の隙間を走り回っていた。
 たまたま装束をつけていない(祭司なので日中は大半、正装だったはずだが)、袴姿の父親が通りかかった。元気でいるか、ああまるで元気、あと二言程度を交わした。
 実家に戻り、上の妹に何かあるかと尋ね、炊飯器から御飯をよそい、ごま塩と味噌汁で食べた。下の妹(この日は巫女役をしていたらしい)の蔵書から漫画を選び、残してあるステレオの自分のレコードを聴いていたら、上の妹がたこ焼きとお好み焼きを買ってきてくれた。この妹はおよそしおらしいことをしないのだが、半年ぶりということだからのようだ。そのうち日が落ちた。
 賑わいが近づいてきたので、通りに出て待った。空にはまだ色が残っていた。
 あとは、首を伸ばしながら流れに乗った。
 尻ぱしょりしたおやじの扇子に合わせ幾百のあえぎが揉み回す。おひねりを投げる沿道をじれさせながら念入りに蛇行を繰り返す。
 そして間宮は、一足早く境内へ急ぎ、ひとごみに分け入って奥へ向かった。
 燦々と揺れる金色に群がる担ぎ手のかたまりが、取り巻きはばむ人波の核となってななめやよこ前に後ろに時にかたぶきながら圧し合い、叫喚に包まれて、大鳥居をくぐった。七日間続いた祭礼が終局を迎える。
 提灯の並ぶこの夏の夜、肩を接して浮き立つ衆生の中から、極まって天へ地へとあらぶる神輿を観ていた。
 どこかの板が破れる宮入り。
 続いて居合わせた総員による手締め。
 静謐。
 緊張がほぐれ、酔漢らの声がゆき交い、安堵とすずやかさが流れて、そして、老若男女の無数の足も露店などひやかしながらしだいしだい境内を後にしだす。
 子供の頃、鎮まりはじめる漆黒の空を見上げ、ああ夏休みももうわずかなんだ、と、胸せつない気持ちが生まれた。その感じを間宮は思い出していた。
 戻ると、誰もいなかった。なおらいでてんてこまいなのだろう。帰るという書き置きを残して、間宮は実家の門の輪環をかけ、駅に向かった。
 さすがに冷たすぎると思われたらしく、後日母親からやんわり非難する電話があった。

 八月二十三日木曜日の朝食は、前夜乗り換えの西船橋駅で買った寿司だった。
 朝、職場でタイムカードを見て、佳子さんが昨二十二日の午後零時四十分から六時半まで出勤してるのを確認した。生きていた、と思い、まずは一安心だった。間宮は、予想通り給料日だから、と思った。
 ナオ君に尋ねると、昨日佳子さんは、細長いスカートにバッグ、靴とすべて黒ずくめで、怖いぐらいの雰囲気だった、と言う。
 午前十一時前に、彼女が来た。この日も、ナオ君の話にあった通りの装いだった。佳子さんなりの鎧かと思い、目にしたはじめは心が騒いだが、そんなものに負けるかと間宮は思い返した。佳子さんは、間宮が昨日休むことを知らなかった。あれ以来初めての再会のために、そういうメッセージを着たのだ。
 月曜日は、あの後どうしたのか。自動車に轢かれたかと、心底心配した。あの晩か次の晩、猫がやけに鳴いて、呪いかと思った。だって、連絡したくても手段がなく、生きてるかどうかもわからない。朝、タイムカード見て、ほっとして、気が抜けたよ。だから、電話番号か住所、教えなさい。
 という組み立てでこっそり話そうと考えたが、あしたの方がいいかと取りやめた。
 怒っているらしく、間宮を無視してナオ君とばかり話そうとする様子にも、負けまい、ちくしょう、という感じで耐えた。
 一週間ほど前から、バレーボールの部署対抗戦が昼休みを使って続いており、ナオ君は二課の選手にされていた。その第二回戦だったが屋上に応援に行った。
 済んで部屋に戻ると佳子さんが一人で座っていた。間宮は、バレーボール負けたことを知らせがてら、ボーリングに誘った。
「今日はだめ」
 明日かあさっては、と知らん顔で続けると、ノーではなかった。おや、と思った。その時二人しかいなかったのに。
 午後からはいくらか話ができるようになった。怒っていたのではなく、恥ずかしがっていただけなのか、とちょっと分からなくなってきた。
 三時二十分からの休憩のとき、あのバイトの娘(こ)たちに声かけたの、と間宮は訊かれた。
 バイトの娘たちとは短大生の鳥海さん高橋さんのことで、二人は前日二十二日付でこのアルバイトをもう辞めてしまっていた。彼女らには、ナオ君がついに申し込みをできなかったので、最初に間宮、次に佳子さんを通して誘ったのだが、いずれも断わられた。片方がボーリング恐怖症であるためと、遊ぶときはもっと早めに計画立てて欲しい、という理由でだった。それを辞める前の月火、佳子さんが休みの間に進展させたのか、という問いかけだった。
「せっかく、わたしも話したのにさ、根性ないんだから」
 と言うので、
「月曜になって、明日ボーリングと言うのは計画性ないし、昨日はおれ休みだし。それにもう辞めちゃったし、どうしようもないよ」
 と言うと、
「来週の水曜日給料とりに来るから、その日に言えば?」
 と言う。
「だって、当日じゃあだめだろう」
「ううん、水曜日までに計画立てといて、何日何時にと言えばいいでしょ」
 と言う。
「……うん、そうか、頭いい」
 と佳子さんを指さした。
 が、間宮は内心、あの二人のことなど問題外だった。最初も男だけのボーリングはつまらないから誘おうということになったに過ぎない。今はなおさら、僕には君しか見えない。口にはしなかった。
 だからこの会話は意味薄い内容ではあったけれど、佳子さんから話しかけてくれ、間宮にも微笑みかけてくれるらしいのが分かって、それだけでうれしかった。
 この日は五時だった。
 帰り際、遅れぎみの針がまだ時間を指していなかったため待つ間、佳子さんが間宮に「ボーリング行くの」と言う。間宮はナオ君に「元気あるか」と振った。彼は風邪気味で昼の試合もその後も、生気がなかった。「元気ありますよう」と言って、針も動いたので、機械に差したまま置いていた佳子さんのタイムカードを押し、彼自身のを押した。それで、作業室を出ていった。が、佳子さんのは退ではなく出で押されてしまった。朝のままになっていたのだ。
 佳子さんは行ってしまったナオ君を、
「こらー」
 と叱った。
 訂正して計良班長に見せていた。間宮はそれを横目に、正しく押して出た。ちらっとナオ君のを見ると彼のも朝と今のが重ね打ちだった。故意ではなかったようだ。
 すぐ後ろを佳子さんが歩いていた。男子ロッカーの所で間宮は曲がり、逆の、階段の降り口の方へ行く彼女の背に、さよならと言ったが、反応はなかった。
 着替えながらナオ君に「ほんとにやるのか」と確かめると「やるって言うんなら、いくらでもつきあいますよう」という言い方なので中止とした。佳子さんが参加なら、間宮もナオ君も当然決行だったろうが。
 間宮ノートではこう続く。

 六時の予定が仕事切れて、五時で終わったことと考え合わせると、彼女の「ボーリング行くの」は、やっぱりやりたくなったということだったのか。それとも、ボーリングしないのなら、僕、あるいはナオ君に話があるということなのか。
 筆者は僕なので、ナオ君はダシのように書いていたかもしれないが、彼女にとってみたらナオ君のほうが本命ということも十分ある。さっきのタイムカードをめぐるやり取りなど見せられると特に。とはいえ、彼女の広い交際の中で、ここのバイトの中の男たちの中にしてみたら、ということだが。

 ボーリングしないなら今日は洗濯です、と言うナオ君と南門で別れ、間宮は部屋に帰った。
 銭湯から戻り、夕食を作り、食べ、夕刊を読み、明日の予定を立て、そして、佳子さんが生きていたことを書くため、ノートを開いた。間宮が五六行記したところで、一回り上の思慮深い先輩から電話があった。一昨日の留守にした電話の返しだった。
 三十分弱話した。上高地に女の子たちと(透き通る肌の気さくな女性、純で芯のしっかりした心を持つ女性、ちょっとやせてる人なつこい笑顔の女性、つまり退職者グループで)行くのでと、間宮も誘ってくれた。
 が間宮は、今、好いたはれたで一寸先が見えないと告白した。相手は口を開けてだろう驚いていた。その他の話もしたが、先輩は来週、電話してからまた遊びに行くよ、と言った。間宮は歓迎を伝えたが、ただし、生活状態(バイトたちとの夜遊び、溜り場、ざこ寝等)を教えておいた。その夜どうなるかは保証できない、と冗談まじりに。
 さて、間宮が、佳子さんまたは佳子さん事件について話してしまったのはこれで四人目ということになる。
 まさか尊属殺の友人、耳にやさしい声の女性については前述の通りである。
 ブラジルフィアンセの友人にだけは、骨子を、包み隠さず月曜未明のことまで打ち明けた。ただ実名は出さなかった。感想は、だらしねー、次はしっかりしろよ、程度だったか。ブラジルフィアンセの友人は、性病にならない秘法を教えてくれた。そのあとトイレで、もう一度出せばいいのだ、と彼はのたまった。(どうか真に受けないでください)
 一回り上の思慮深い先輩には、佳子さんの魅力的なところを理解してもらおうとした。共通の知り合いに似た女性はいなかった。
 こういうことも言った。
「二十七歳になって二十歳前後のと付き合ってると、昔の僕もこうだったかな、という気がしますよ」
 つまり、先輩との関係の引き写しのようですという意味。年齢差はもっとあるが。
 里帰りも話した。
「母に二回十分。父に五分。会ったのはこれのみです。うちはたとえ全然会わなくてもいいんです。神様に挨拶すればあとは付け足しですから」
「若者たちは金持ってないので、そっちの付き合いは楽ですよ。でも、体力の付き合いは大変です、こたえます」
「単純な三角関係がなつかしい」
 と、意味不明なことも言っている。上品なそれがなつかしいと言いたかったのか。
「本や映画の重みも捨てがたいですけど、現実の重みにもあらためて気づきました。なんて言うか、魅力の広さ、重さ、なんか。あそこは仕事は単純ですけど、人間関係の楽しさ、辛さ、がたまらなくおもしろいんです。毎日がおもしろいんです」
 電話のあとノートを続けている途中で間宮は、佳子さんがこの日、給料をもらっていたことを思い出した。前日、印鑑を忘れたのだ。(前日休んだ間宮はこの日計良班長から給料をもらった。その時佳子さんも呼ばれた)

 給料日だからこそ出勤したはずなのに、忘れるとは。
 とは? やはり、彼女、変調なのか。ロングドレスや黒いバッグも……。
 と言っても、確か、先々週も、ハンコ忘れてたが。

 間宮っていうのはなんてヤツなの、幻滅だわね。という純なお嬢さんもいるだろう。
 いやいや、若造には浮き沈みがつきもの、長い目で見て上げましょうや、という賢くもあったかな方もいよう。
 筆者は断わっておく。
 このままずーっと、この調子が続く。
 心臓の弱い方はいないか。いきどおりで手がさわっているものやモニターを痛めつけるだけではすまないかもしれない。
 まだ遅くない、閉じるなら今のうちだよ。

 




[17 人非人(2) 了]




戻る

次へ

目次へ

扉へ