平成11年8月15日(日)〜

缺けてゆく夜空 その四 ノート

36 専心



 

 六月二十九日土曜、まさか尊属殺の友人宛に、間宮は葉書を書いた。

 黴天の候、いかがお過ごしでしょうか。とはいえ、夜明け前、忘れたころに落ちる軒溜の音というのもなかなかのものです。
 さて、色々御心配をおかけしました投稿作(?)、ついに脱了。小包四百円で局に放ってまいりました。頭は真白、気分爽快となるはずでしたが、どうも違うのです。最後にもう一度読み直して間もなく、「ああ、これは違うな」と感じました。ぼんやりしていますとしだいに、僕の向こう十年あるいは五十年がずわずわと開け見えてまいりました。 …で、今は、バイト再開をやめて七月からも書くことに決めました。健康・若さ・居場所・金・時間そういうものがこれだけ豊かにある時は、もうない、そんなおもいです。
 という訳で、ずいぶん踏みはずれてまいりましたので、どうぞお暇なときにまたいつでもお電話下さい。たまには飲みましょうよ、ね。
 それでは、どうか健康にお気を付けて。
 昭和六十年六月二十九日、寝醒めの鳥の歌声とともに。

 文にある通り、早朝にこれをしたため、間宮はひとねむりした。
 午後一時十分、電話で起こされた。声は、これから便りを送ろうとした相手だった。誘われて渋谷。ぶらついてからある大学の演劇を観に行った。まさか尊属殺の友人の所にいる男子アルバイトが、その大学の演劇部員で、チケットを買わされたのだそうだ。
 会場は小さかった。けれど、ヒロインが素晴らしかった。こういう、間近にナマで味わう演技というのもやけに新鮮だった。くしくもだが、その大学は、間宮が神主になるのなら通ったはずの学校だった。
 という訳で、本人に会えたため、引用した葉書は投函されず、ノートにセロテープで留められた。
 「キリキリしぼりこむような『集中』」と間宮が書いたのは二月十二日火曜だが、調べると二月二日土曜には創作ノートが始まっており、二月十六日土曜に本文も書き出している。バイトを辞めてからはほぼ連日取り組んで、六月二日日曜に下書きが完了。それから二度書き直して六月二十八日金曜「局に放って」きている。
 そして七月一日月曜から次の作の創作ノートなどが始まり、あんまり暗すぎると本文が一旦中断したのが八月二十五日日曜頃(中断というのは名ばかりで再開しなかった)。
 めげずに九月二十四日火曜、新作のノートが始まり、これは十二月十九日木曜に下書きを終えるまで行った。
 元気は認めるが、どれもこれも、今となってはためいきである。涙が出そうだ。
 妙な資料を紹介する。
 間宮は昭和五十九年二月東京に転入後、当初は一人暮らしの健康を考えてだろう、銭湯に行くたび体重を計り、冊子カレンダーにメモしている。ただし、行っても計るのを忘れたり計っても数値を忘れた日にはその通り「わすれた」とある。付け加えれば、たぶんいつしか(他の場合同様)この記載行動自体が目的化していったのだろうが。
 それらから拾って月の最低体重と最高体重を並べてみる。


《昭和五十九年 大まかな体重変動》
 
《昭和六十年 大まかな体重変動》
 
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
 
56.3 〜 58.0
55.4 〜 56.6
55.0 〜 56.6
54.8 〜 56.1
54.3 〜 55.0
54.2 〜 56.0
53.4 〜 56.5
54.5 〜 56.5
55.3 〜 57.0
56.0 〜 57.4
56.4 〜 58.0
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
57.8 〜 58.3
57.8 〜 59.0
57.7 〜 59.0
58.4 〜 59.6
58.8 〜 60.2
59.2 〜 60.0
59.4 〜 60.9
60.2 〜 61.7
59.9 〜 62.1
60.6 〜 62.6
62.3 〜 64.0
62.9 〜 64.2

 仕事先がありそれなりに規則的で体調も安定していたと思う昭和五十九年の数値からいくと、間宮は暑いときに痩せ寒いときに多少太る人であるらしい。昭和六十年四月一杯でそのバイト先を辞める。ところが、その後痩せるはずの夏場になって逆に増え、ご覧の通り、次の冬期には前年よりも相当重くなっている。(60、61kg 辺のときにしばしば数字に添えて「ショック!」とか「NANTOYUUKOTODA」という文字が見えるので、これを望まず、減らそうと努めていたに違いない。それでもこれである)。机にかじりついていたためだろうか。バイトの仕事があまりにきつかったという証明だろうか。こういう一面的な数字から言うのは危険だと思うけれども、昭和六十年五月からの、文芸至上、修行専心の日々とは、かくも肥え太るものだったのか、という気がどうしてもする。
 俗に、何かを得るためには何かを捨てなければいけない、という。しかし、捨てたからといって必ず得られるとは限らないのも、現実である。
 昭和六十年晩秋、間宮ノートにこうある。

11/25 一項のみ
 あり、がみえてしまった。
 ねる前、ドアのとってしらべるとき、ドアのしまる枠の金具のへりの90度になった所の、銀に反射する中に、ありがみえて、それは1ミリより小さく、そのへりを、細かい細かいわたの一本のような足とか触覚を動めかしながら、1ミリぐらいのぼったり、1ミリぐらいおりたりしている。
 爪先でこすった。指を離しても同じ。つまり、ありは2次元の生き物。要するに汚れだった。指でこすって確認し、はっきり、納得した。なのに、目でみると、これは絶対まちがいなくあり、または、(見たことないが)しらみのような小さな虫で、動めいている。
 爪でこすっては、見、こすっては見をくり返したが、ついに目では、ただの汚れと認めることができない。
 酒などのんでおらん。煙草も、室内ですうのをやめ、もう1、2ヶ月守っている。
 今日ひさしぶりに、茶っぱをとりかえたことと、数日ぶりにハッカあめなめてること、2:04AMで、本よんで目疲れてるかもしれないこと、とりあえず具体的な原因はこのくらいしか思いつかぬ。
 大昔にもみたような気、するが、最近では初めて。



 思慮深い先輩、まさか尊属殺の友人、世話好きさん、耳にやさしいさんら、間宮が最初に勤めた会社の仲間たちとの、−−あるいは、ブラジルフィアンセや五浪の友人との、腐れ縁は、それぞれ多少の濃淡は持ちながらも切れずに続く。十一年たって、例えば今あげた七人のうち、結婚できたのはブラジルフィアンセのみ。定職に落ち着けなかったのは五浪と間宮。総じて言えば、加齢とともに、しだい、しだい、疎遠となった。
 ただし、登場したすべての人たちについて、一人としてこの世とさよならしたという報は聞いていない。

 




[36 専心 了]




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