平成11年12月5日(日)〜

テーマ「万能」






 その小会合は行き詰まっていた。
 床の間を背にした老人が、手酌で注ごうとしてやめた。
 くぐもった声あるいは吐息を、長く漏らす。
 みなを見回した。
「報告の通りならば、手はあることはあるんだが・・」
 再び、思案げに天井を見上げる。うなる。





 山辺が、激務を忘れることができるのは、日曜の将棋道場でのひとときだけだった。
 将棋好きの集まる、たいして広くも綺麗でもない、ビルの一室。街の旦那衆や、サラリーマン、学生らが、空調で清浄しきれない煙の中で終日ほぼ無言、渋面で盤を挟んでいる。同好外の者にはとうてい近寄りがたい「サロン」と言えた。
 席主は、奨励会崩れという噂だったが、すでに初老だった。
 足かけ五年は通っているのだが、ここでは上位の段持ちではあるが、たいして進歩はしていない。勝っても負けても軽く一礼し、短い感想を交わす程度だ。もっと強くなりたい、あたらしい友人が欲しい、そういう希望は山辺にはなかった。
 この街の、ある意味、平安で凡庸なその一隅に、ささやかな異変が起こったのは二ヶ月ほど前からだった。
 中年男たちは「むらさきさん」とあだ名した。
 土曜、日曜と週末にだけ現われる。
 とにもかくにも、誰かの娘だとか、無理矢理付き合わせた彼女だとか、そういう理由の無い純然とした「女性客」というのは、あまりに珍事であった。しかも、かなり指す。
「・・負けました。いや、お強い。高校生ですか」
 と、最初のころ誰かがさぐりを入れた。
 相手は、握った片手を鼻のあたりに近づけて、吹き出した。
「つふふっ、違いますよ。もう大学は出ています」
 対局カードに書いてあるので「一条さん」という名はすぐ知れた。
 対局がついて礼を済ますと、手にした扇子にもう片方の手を添えて一折りごとに広げる。これが、あでやかな赤紫の女扇子だった。彼女がこれを使うと、淡く染まるようなどこかへ連れてゆかれそうな香りがいっとき、ただよう。
 山辺も訊いてみた。
「将棋はどうやって覚えられたんです」
「やっぱり珍しいですか。わたし、高校のとき選手だったんです」
「ほう、それは・・」
「団体で全国大会まで行きました。準決勝で負け。女子の選手自体が少ないので、それほどのことはありませんでしたよ」
 席主は、禁煙にしようか、とか、模様替えしたほうが、とかそんなことまで悩みだしていた。


 それまで山辺は、日曜といっても必ずというわけではなかった。疲れてしまってというときや、それどころではないときも多い。
 が、日曜だけでなく、むらさきさんが来るかもしれない土曜の午後まで、都合がつけば顔を出すようになっていた。
 この道場でかつてあったのかと思えるが、週末、満席ということまで起きた。
 むらさきさんは、名を読み上げられて山辺と対局がつくと、嬉しげだった。いや、そのように瞳や頬のあたりの輝きがどうしても見えてしまった。山辺との対局中の口数も、次第に増えてきたように思える。単に、打ち解けてきたから。古参といえるし好敵手でもある山辺に、親近感や安心があるから。だろうけれど。しかし、でも・・
「おじさま。うーん、渋い手です。この前もこういう手でいつのまにか逆転されちゃった」
「ははは。考えすぎなければ、どうってことはないと思うよ」
 それから、他に聞こえないようひそめて、
「一条さん。おじさまってのは、ひどい。これでも三十代」
「えー、ほんとに。失礼いたしました、おじさま」
 扇子で隠して、くっくっと声をもらして、しずくの弾けるような眼で見つめる。
 山辺は、一応は愛想を返すが、すぐ盤のほうに目線を逸らすしかなかった。


 ある日曜の夕暮れだった。見回すともうむらさきさんは帰っていて、いなかった。
 またも一週間、やりがいはあるが、嫌いなわけではないが、色気もなんもありはしないあの過酷な業務に埋もれるのだ。そんな憂愁を感じながら、階段を下りた。
 すると、階段の踊り場にある化粧室からちょうど彼女が出てきた。
 おお、と挨拶し、彼女も帰るところだというので、連れだって外へ出た。
「なにか食べていかないか」
 自然な流れで言えた。
 駅前の中華料理だったけれど。
 むらさきさんのことはあまりきけなかった。
 山辺がまだ独身であることは、伝えることができた。
 彼女を知ってから、三ヶ月目、のこと。


 それから、帰るときが同じ、ほとんど同じ、ということが普通になっていった。
 道場のあるビルの外に出て辺りを捜していると、後ろからぽんと叩かれる。
 そういう仲にまでなれた。





「将棋で知り合ったあたしたちです。賭けてみませんか」
 生涯で二度は言えそうにない思いつめた申し出を伝えると、逆にそう言われた。
 もしその勝負に勝てば、受け入れるという。
 空咳を一二度、繰り返した。
「一条さん。いいのですか。あなたと私はほぼ互角の腕だと思うが、たかが将棋なんかであなたの、その・・」
「されど将棋、でしょ。・・それから、あたしのこと、ちづるって呼んでください。前にもお願いしてましたよ、山辺さん。・・あたしはまだ若いので、男の人のこと、内面まではよく分かりません。まして、将来のことなんてね。占いって言うと遊びのように取られるかもしれませんが、全力で闘った結果なら神様の言うことだって信じられる。・・将棋の、神様でしょうけど」
 場所と時刻は連絡します。
 と、白い手を見せて、さみしげに振る。
 背を向け、彼女はいつものように夜闇にまぎれていく。





 一条ちづるが、その和室で待っていたのは、ある老舗の料亭だった。
 保守党筋や高官たちが、謀議を巡らしたりの伝説がまつわっている。
 実は、山辺も、全く知らないという種類の場所ではなかった。
「この盤は、名人戦でも使われたって言います」
「そうですか。しかし、なんというか、ここは・・」
「さ、振り駒をしてください」
 やや薄暗い電灯の下、縁が金糸飾りの畳に放ると、「と金」が二枚。
 山辺の先手だった。
「お料理はじきに来ます。時間無制限、夜は長いわ」
 硝子障子の外には、泉水があった。
 鯉でもいるのか、水紋が、もれた灯に揺らいでいた。


「あたしたち素人でも、真剣に指せば、この盤も嬉しいでしょうね」
「たしかに。・・ちづるさん。勝負の途中だけれど、たくさんのことが訊きたい」
「分かっています。まずは、あたしの素性でしょ。地検の、山辺さん」
「知っていたのか。・・」
「とてもやり手だそうですね。東京地検の『鬼辺』でしたっけ。銀行をもう二つも潰している」
「そうか。あなたは、ならば、あのコンツェルンにゆかりの方か」
「ええ。あたしの祖父は、一条庸介です」
 上半身が短く一度痙攣した。鳥肌だったかもしれない。
 膳のグラスを取って、口に持っていったが空だった。
 ちづるが立って心持ち回り道をして隣に来ると、どうぞ、と麦酒を注いだ。
 それから同じ経路をなぞって、盤の前に戻る。
 半分まで、一気に飲んだ。グラスを置いた勢いで、小鉢が跳ねた。
 それからしばらく、山辺の指し手が止まった。
 盤面はすでに難解な中盤であったが、それだけでなく、この一連の裏筋を読み解こうと彼の頭脳は必死だった。こぎれいな顔をして、こんなうぶそうで、と思うと泣けそうだった。
 急に胸が締め付けられるようで、駒を触ると汗ですべった。
「苦しそうね。山辺さん。・・女は、でも単純なのよ。あたし、一つも悩んでないもの。この隣の部屋にはお布団が敷いてあります。約束は守りますから」


 山辺はあぐらだった。
 ちづるも正座は崩して、片手をついている。ほつれ毛をあの扇子であおいで、時たまふうふうと息をしていた。祖母の形見だと、ぽつり言う。
 山辺の大駒が前後して敵陣に成り込んで、炎が上がっていたけれど、ちづるは手堅く駒を打ちつけて防御し、動ずる様子はない。表情からは形勢判断は読めなかった。
 彼の攻めは鋭利かつ峻烈であったが、ちづるの玉を追いつめていったが、彼女の駒台には彼が攻めに遣ったそれが次々溜まっていく。ここで逃したら、逆襲をしのぎきれないと思われた。
 午前零時をとっくに回っていた。


 まれに塀の外を車がゆく。
 通り過ぎてしまうと、繁華街の喧噪が遠くかすかにあるだけだった。
 こんな若い娘と、おれはいったいここで何をしているのか。


 未明。屋内は全く寝静まっていた。
 勝負がついた。
「負けた。
 ・・残念だ。
 ああ、でも、いい将棋だった。ほんとに」
 絹地のように見える赤紫を閉じると、ちづるはことんと頭を垂れた。礼のつもりらしい。
「ちづるさん、だいじょうぶか」
「・・平気」
 山辺は最後の一本を点け、煙草を味わった。
 負けたけれど、くやしいという思いは、染み込んでいって消えてゆく。湧いてくるのは、ほっとしたようなしんみりするような気分だった。
「厳しいようだけど、言っておく。・・これはこれ、あれはあれだよ。・・私は職務を遂行するだけだ。あとひと月で、本捜査にはいる。内偵はほぼ終えてしまった」
「お好きなように。おじいさまはたくさん悪いことをしていますから、どんどん吊し上げて」
「いいのか。一族だってただでは済まないかもしれない」
「・・男の人って、どうしてそうなのかな」
 なぜ、わざとでも負けようとしなかった。
「これで、さよならだ」
 ちづるはそれを賭けた。おれは何を賭けた。
 こたえが、見えない。
「あたしも、残念でした。さようなら、山辺さん」
 足が萎えているのか、ふらついて音を立てた。
 上着を拾い上げた。
「最後に教えてくれよ。・・君は、真剣だったのか」
 相手のもう赤い眼を、じっと見据えながら返事を聴いた。
「もちろん、神様に誓って。あたしは、処女です。あなたが、その人かなと思いました」





 一条庸介は、喜色満面、本当に小躍りして孫娘を迎えた。
「でかしたぞ、ちづる。お前は一族の守り神だ。ははは、こりゃ、小遣いをはずまんとな。好きな褒美を言うがいい。車だろうが別荘だろうがなんだろうが、おめかしがしたいなら小振りのブランドごと買い占めてやってもいいぞ」
 座布団におさまると、手首と手首を打ち、じぁっと振って、形見の扇子を半ば開く。紋様をただ眺めるよう遊びつつ小首をかしげていた。
「では、うまくいきましたの。おじいさま」
「おお、行き過ぎなくらいだ」
「ふうん・・」
「小者共は、金と女、さもなくばギャンブル絡みでみんな落とせたんだが、あの鬼辺だけは、だめだった。わしにも誰にも手に負えんかった。・・それがどうだ、あいつが率先して知らぬふりとくる。さすがに潔白とは言ってくれなかったが、立件せずだからな。立件せず。もともと信用のあったあいつが、黒とは言えないと保証したわけだ。どういう薬をかがせたんだか、のう。わしの会社は当分安泰が決まったようなものさね」
「よろしゅうございました。・・それから、おじいさま。株式会社なんですから、『わしの』は言い過ぎですよ」
「身内だ。また堅いことを、かはは。
 ・・しかしなあ、それほど堅くて将棋なんどという趣味を持っておってどうなることかいと思っていたが、・・いやはや、お前の女ぶりもいつのまにかだったのう、結果としては」
 苦笑いをしながら、孫娘の様々な美しい部分に視線を巡らしていたが、彼女が、えへんと一息いれた。
「では、ご褒美を。・・お許しください、おじいさま。わたし、あの鬼辺こと、山辺さんと結婚するって決めました」
「・・え、何を言ってる。敵だぞ、あいつは」
「さっきまでは。でも、思うんです。お気持ちをいただいたのですから、応えてあげなくてはって・・」
「・・ということは、したのか、ちづる」
「なにも。いやだわ。・・下の下の策でしょう。あの程度で売るなんて」
「なら、なぜだ」
「山辺さんの立場も考えてあげてください。きっと、とっても苦しんでます、今このときも。・・命の次に大切だったはずの、ご自分の仕事を裏切ったんですもの。このままではだめになってしまう、あの人。・・せっかくなんですから、取り込んでしまいましょうよ。てごわい敵も味方にしてしまえば、これほどお買い得なことはないと思います」
「惚れたのか・・?」
「ね、おじいさま。席を用意してあげてね。あと十年か二十年くらいで社長や会長に成れるくらいのをね」
「そんな簡単には、行かんよ、ちづる」
「これは、お願いというよりも、取引になりますわ、おじいさま。・・おじいさまは婿でしたよね。おばあさまが亡くなられてからですわ、無茶を始めたのは。そろそろ、花道ってことかしら」
「うう。何を言うか。・・じいに向かって」
 祖父を見つめる。
「花道って言ったでしょ。悪いようにはいたしません。
 あの方は、黙っているだけで、もうみんなおじいさまやお友達連中の旧悪をご存じよ。わたしがお願いすれば、それをどうにでも料理できる。このこと、過小評価はしてくださいますな」
 扇子を、顔の前で閉じる。
 指先をついて丁寧な辞儀をし、後じさり、そしてすくっと立ち上がったのは、一条家の相貌の女だった。
 何度もおしめを替えてやった。物陰に隠れてみてると、わしを呼んで泣きだした。あの赤ん坊が・・
 女は、退室した。
 よいお返事を、そう言い残して。















(了)



記録日 09/16(木)00:27 (平成11年)




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