和香
なのはなさん ☆
率直に、書いておきます。
くやしいと思ったら、歯を食いしばってね。
《絵と詩》
『表紙』
シンプルで、印象的。
タイトル画に、なのはな色が、残っていますね。
手書きの文字(マウスでと思いますが)は、どうしてこうイイ味が出るのでしょう。お客様を招き入れるにふさわしいと思います。
「あんしんして」と呼びかけられているみたいです。
そして、最後にもう一度見直せば、このHPすべてを表わしているようにも・・・
『天使』
わからない。ピンときません。
心の中の男性が、女性に話しかけている。
女性は、寂しい。慰めて、連れていってくれる異性が今欲しい。
「神様の国」とは何か。
怖くない、何もない、心配いらない、・・・あまりにうつろでは?
逃げていきたい、ただあったまっていたい、・・・母胎?
赤ちゃんのころに、まっさらの命に戻りたい・・・?
謎多き、一編です。
『手』
韻が、すごい。リズムを超えて、焦燥、エネルギー、業が迫ります。
あなたが気付く
ぎりぎりのところまで
私がんばってる
勝手だけど、ほだされてしまう愛。
激しい片想い。
絵が、ちぎり絵を思い出します。
純朴さの中に力。詩との相乗で、命を持っています。
(他の絵にも言えるのですが、日本画の風味。装飾性があって、様式美があって)
『HERE』
ことばがでないほど。
流れていく、日常の雰囲気が、かなしいぐらいです。
忘れがたいということでは、これでしょうか。絵も含めて。
『はんたいほうこう』
これもいいのう。
1直線だから、どうなのか、というと、なんでもないみたいだけど。
言葉の簡明さに、納得させられてしまう、不思議があります。
『あたしのほしいもの』
女の子らしいけど、甘い。
朗読または演じたら、いいかも、と思いました。
絵とのひびきあいが、REIさんの紹介もあって、楽しいです。
◎ なのはなさんの姿と魂に墨を塗って、魚拓ならぬ人拓をとったみたいな、・・・誰にでもできそうでできない、ささやかだけれど、「奇跡」。
◎ 詩集ですね、
なのはなの部屋、その3、その4と創っていくうちにいつか夢をつかめると思います。まちがいなく。
ただし、夢というのは移り変わるものでしょうから、つかんだときの夢がどういうものかは、今のなのはなさんにもわからないと思いますけれど。(もちろん、私にも)
《小説》
完結していないものをとやかく書くのは、むごいことだと思います。
でも、書いちゃいます。ごめん。
要点だけ。
『緑の月 金の月』
1)
△引っかかる:「通勤帰りの人達で」→「勤め帰りの人達で」か。
△引っかかる:「何を話すまでもなく、何を食べるまでもなく」
→「何を話すでもなく、何を食べるでもなく」か。
●調子について:
これがあの詩を書いた人のものだろうか、と思うほど、冗長さを感じる。
なのはなさんの罪ではなく、散文の罪、かもしれないけど。
(また、詩集の直後にあるためかもしれないけど)
△疑問:「そこは展望台のように開放された場所で」
→ 「そこは展望台のように誰にでも開放された場所で」などと補った方がよくはないか。このままでは、物理的に、屋根がないとか、そういうことを想像してしまう。
○人物:「僕はたまたま先輩に食事に誘われて、そこで待ち合わせしていた。時間にルーズな先輩を待っていた僕は、何気なく彼女に目を向けた。」
→ これが、ハヤト君?
◎波乱:「機械でできた人形みたいでしょ、私」
やや、波乱の予感。光ってきてる。
2)
△ストーリー: 結局、これはデートの後半だった。
が、人物紹介のための、ただそれだけの二章だったのか。
この日、このデートが、何かしらと意味が重ならなければ、冒頭に置くには、薄すぎる気がする。
◎不快:早くも、マサルに不快感。(作者の仕組んだ「不快」ではありましょうが)
何をしている、こいつは。どうにも、柔弱な男よのう。
3)
○ リンコ:きれい
ミナ:かわいい
→ いいんだけど、類型的な言葉遣いによる描写は、安易。
地道な言葉さがしは、ときには必要。どれほど感性の人であっても。
4)
△優柔不断:「結局午後の講義もさぼり、僕は帰ることにした。一人になるのが怖かったから学校に来てみたのだが、いたずらに周りの人間を心配させるなら一人で家に居た方がマシだろう。ミナは僕を心配して自分も講義をさぼると言ったのだが、断わった。「もう少し一人で考えたいんだ」それでようやく納得してもらえたが…… 」
→ 結局こいつの憂いは、ほれたはれたしかないのか?
もう一つ、この疑問に答えてくれていない感じ。
5)
●いやだ:「フローラルの香りが鼻の奥をくすぐり、僕は現実感を失った。 」
→ 香水(?)の名前を知っている男っていうのが、どうも生理的にだめだなあ。
△おかしい:マサルはますますおかしい。
今までどういういきさつがあったかは知らないが、いきなり抱きしめるか。妄想しながら。
そういう個性と言われれば、それまでなのだけれど。
6)
●言えない、私には。:
「先輩の心が痛いのが伝わってきた気がして。私も痛くなっちゃって」
→ 現実として、こういう言葉、吐けるでしょうか。文字ではなく、声で。
ミナちゃんは自分に酔うタイプ? または演じてしまえる?
相当に怖い娘なのかも、実は。
◎人物:
「汚くないじゃないですか。この間私ハヤト先輩のところへ行ったんですけど、すごかったですよ」
「ああ、比べて欲しくないね。ハヤトさんのとこはゴミタメ」
→ やっとまともな男が登場しそうじゃ。ミナとハヤトの関係にも興味。
◎巧み:「コーヒーを持ってきた僕の台詞に、彼女は大笑いした。さっきのことは無かったかのような、和んだ空気ができつつあった。」
→ 別に「大笑い」するほどではない。ミナは「つくって」いるのでしょうな。でも、それでも空気は和む。
7)
●誤植:「先輩……先輩が言いたがらないみたいだったから聞かなかったんですけど、あの人のこと考えてるんで すよね?」
→ 「ですよね」だよね。
「彼女に言われた 言葉を思い返すと自分の気持ちが解らなくなったんだ。過去の気持ちも、今の・・・」
→ ではこちらも「言われた言葉を」か?
8)
△疑問:「ミナに気を使わせまいと小さくゴメン」
→ 「気を遣わせまいと」か。
心を働かせる場合は「遣う」が普通。
△謎:「行こうぜ。帰りの運転手、一人足りねえんだ」
→ 行きと帰りでメンバーが違うのか? なにゆえ?
△疑問:「ミナにしてみれば、ようやく僕の心の隙間に、リンコのこと以外のことを組み込まれた、と思えたのだろう。 」
→ なんか日本語が変だよね。
「リンコのこと以外が組み込まれた」かなあ。
○醒めてる、大人びてる:
「さっき何を言いかけたのかはあえて聞かなかった。
言いたいのなら彼女から言ってくるだろう。
ミナには悪いが、彼女にまで気を使う余裕はもうなかった。 」
→ 元気がない上に、ややずるい感じもするなあ。
こういう男が、もてるものかなあ。
1)〜8)
優柔不断でどうしようもない男を、主人公に据えるというのは、日本文学の一つの伝統ではあるのですが、それにしても、マサル君は生理的に好きなれないですねぇ。感情移入、しづらい。(ミナちゃんの献身が、感心させられてしまうほど)
気質的に似ているリンコさんに惹かれ、合わせ鏡のような状態に耐えられなくなって、・・・という流れかと想像します。
元気さで救いのミナちゃんや、壊し屋かと思えるハヤト先輩に期待です。
※ 私は見出しに「◎」とか「●」とか使っていますが、好悪ということであって、読み込む程度、物語の進展によっては逆転・再逆転もありえる印です。
☆ どこかで話者の転換もおもしろいかなあ、という気がします。
→ でも、長編になっていくでしょうね。これやっていくと。はたして、作者の根気が続くか。というところが不安です。
☆
めりはり。
登場人物の「めりはり」が欲しいと思うのです。
四人みんなが、同年代であり、学生である。
同じ四人でも、父さん、母さん、姉貴、俺という四人と比べてみてください。
それぞれの個性(差異)を表現するために、後者の方がはるかに少ない言葉で済ますことができるはずです。
つまり、なのはなさんは、自ら大変厳しい条件を課している、ということになります。条件が厳しいのですから、めりはりのためには、いろいろと工夫が欲しいところです。
これが映画やドラマなら、たとえ境遇の似ている四人でも、俳優が違うわけですから、顔も背丈も体つきも、声も仕草も違います。差異は明白です。
しかし、文字のみで表現する小説の場合、名前が違うというだけでは、明白なめりはりは無理です。
キャラクターにはっきりとした差異がないのなら、誰がどういうせりふを言っていても、みんな同じに聞こえてきてしまいます。つまり一人の人=作者のつぶやき集となってしまうのです。
それはそれで味のあるものもあるでしょうが、それなら一人、限度は二人かと思います。
たくさん登場させる以上、少なくとも作者の頭の中ではちゃんと差異があるものと思います。演じ分けているはずです。これを、他の人にも最大限感じてもらう工夫(または仕掛け)が大切です。
あの詩集に注いだエネルギーの半分程度でも。
それともなのはなさんは、「小説」というのを特別に考えすぎて、力みが入っているのかも。
私は、文芸の神髄は「詩」にあると考えています。世の中は「小説」や散文や長編をもてはやしているようですが、長い目で見れば、まぼろしですよ。
◇
おまけです。
《小説について》
私は、人生の峠を歩いているのかな、という思いがこのごろ浮かびます。
登ってきた方を見渡すことも、下ってゆく方を眺めることもできる。
もう十分堪能したとさみしく笑ったり、まだまだあんなにもと気合いを込めたりします。
そういう奴ですから、以下の考え方は、ふうふう登っている年代の人には合わない、参考にならない、そういうことがあると思います。むしろ害毒である場合もあるはずです。
ただ、これらをそういう年代の人のために翻訳するには、かなりの技能を駆使しなければならない。力不足でやむなく、ただ正直に述べるだけです。
作者−作品−読者 という回路のどこかが切れているものは、偽物です。
新人でも、相当な熟達者でも、「にせもの」、「ほんもの」、どちらも書くと思います。偽物になるか、本物になるか、その瀬戸際が、いつの場合でも、書く人のすぐそばにあります。淵からこぼれ落ちないよう、自らと自らの作品を律することは、つらいし、むずかしいし、そして、たのしい。
つまらないと思った本は、途中でも閉じる。
心が通っていないと思った作品は、途中でも、書くのをやめる。
閉じる勇気、やめる勇気。
以前は、こういうことは逃避としか思っていなかったのですが。
時間が惜しくなったのかもしれません。
急激に伸びている人が書く作品は、初めの辺りを書いているころより、半ばを書いているころの方がだいぶ成長してしまっていて、初めの辺りが不満だらけとなっているはずです。ではと、初めからもう一度書き直しても、半ばまできたところで、また初めのころがもう不満になっているでしょう。
これではきりがないと、二三回目に最後まで書き通してみても、やはり初めのころ、半ばが不満。初め、半ばと書き直しても、今度は終わりが不満。
こうやって、何度も何度も、手を加えていくうちに、作品は、育って行くはずです。「あるべき姿に近づいていく」はずです。
しゃくに障ることに、そうまでしても結局不満なら、放り投げてしまいましょう。
十層ぐらい下にあるフォルダに「ダメ」と名前を付けて、埋めてしまう。
一年、二年、三年、もしかしたら十年ぐらいしたら、発酵して、妙なお酒になっているかもしれません。そういうことも無いとは言えません。
長くなればなるほど、書き込む濃度、描写が淡いと(あからさまに言えば薄弱だと)、進めなくなります。
といって、書き込むということは制約を増やしていくことでもあるので、油断すれば、すぐ、整合性が崩れます。
制約がベビーストーリーを産んでいきます。
小説には、毒のあるもの、個性の強すぎるものがあります。
ですから、ある作家や傾向ばかりを読むのではなく、これを中和するようなものも読んでいった方がいいと思います。
といって、一時間これを読んだから、次の一時間はこっちというような、学校の時間割みたいなあわただしいことを言いたいのではなく、ここ二三年はこっちだったからそろそろあっちに移ってみようかな、というぐらいのゆったりした流れとしてです。
こうして、渦を巻くように、いろいろな小説を読んでいくうちに、虚ろな隙間が見えてくると思います。
つまり、こういう作品が読みたいけれど見つからない、書いてくれる作家がいないという不満、これが次第にはっきりとしてきます。
しょうがない、私が書こう。
これが、最も自然な、小説を書くための動機ではないでしょうか。
私も、とにかく自分を表現したい、誰かにわかって欲しい、と思いました。小説をそのために書きました。それによって、人生を歩いていくのだとまで志しました。
が、あまりに力及ばず、気持ちだけ先走って、実質はほとんど何もという状態だったと思います。書くものも、恥ずかしいものばかりでした。
技巧が稚拙なのはまだ許せるのです。
動機が不純。テーマがありきたり。にせもの。・・・ここらが壁を殴って拳を血だらけにしても、気持ちがすっきりしなかった理由でしょう。・・・要するに、自分を正しく見ることができなかった。
運命とか才能とかは、このへんをクリアするためにあるのかもしれませんね。
本家のまねをもし書くだけなら、ときに本家をしのぐほどのものまで書けるかもしれませんが、それでもただの「にせもの」でしょう。
本家のものなら、本家がいれば十分です。単純な追随者はそのスペースがもったいない、とまで言えます。スペースとはここでは、例えば、文芸誌のページ、本屋の棚、紙資源、それらを言います。(電網界のスペースは、今のところ無限に思えて、同じには言えないでしょうが)
偽物を座らせるスペースがあるくらいなら、本物に座ってもらった方が、みんなが幸せです。
その人だけにある味わい、忘れがたい手触り、輝きだした幼星、終焉を前に爆発散華する老星、これらを読書界、文芸界は求め歓迎するでしょう。電網界も、欲して行くでしょう。
二番煎じは、こと文芸に関しては、無価値です。
オリジナル作品の同一大量複製ができるのですから、同様作家の大量生成は無駄です、余計です。
延々とえらそうなことを書いてきましたが、ことここに至っても私は、「ほんもの」が書けたと思えるのは十に一つもないぐらいです。十に一つでも(他の人たちから見れば百に一つであっても)、「ほんもの」を書くためならば、あとの「にせもの」も必要なのかもしれない、そういう気もしています。無用の用ということでしょうか。
そしてあるいは、私の無数の「にせもの」が多少でも刺激となって、どなたかが、「ほんもの」を産み落としてくれる。そういうことでもいいかな、とまでこのごろは思っています。
よって、まだまだ行きます!
恥ずかしげも無く。