臨終の信者をお浄土に迎えるため、阿弥陀様が雲に乗って菩薩を従えて来迎された姿を描いたものです。
来迎図としては珍しく正面向きであることが特徴です。
福井県における国宝第1号で、現在は重要文化財に指定替されています。(福井市立郷土歴史博物館 寄託)
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この図は、無量寿経の説くところに従って、念仏行者の臨終に阿弥陀如来が多くの菩薩聖衆をしたがえて来迎する様を描いたものであるが、諸像を描く描線や隈取り、衣裳の文様などには古い手法がみられ、普通斜め下方に向って飛来する姿に描かれている中尊の阿弥陀は、この図では真正面向きで、しかも上品中生印
(転法輪印の 様にもみえる)のもとに結跏に趺坐をなし、また通常合掌印をなす勢至菩薩も幢幡を持って立つなど、この図は古様をとどめているところが多く、図の成立は、平安末を降らぬ古いものであるとみられている。(但し上部半分は後補のものである)
我が国には来迎仏を描いた図は多く遺存しているが、その中でも特に優れたものとして明治33年文部省より国宝に指定されたものである。(現在は重要文化財に指定替されています)
「福井市の文化財(発行:福井市教育委員会)」より抜粋
大数珠を 巨大な滑車に取り付けたもので、数珠を下にひっぱることでカーン、カーンと数珠が鳴り、その一音一音に観音様の功徳がこめられています。
「み佛の 心のままに 蝶の飛ぶ」
高浜虚子に師事し、『花鳥』を創刊主宰された伊藤柏翠(はくすい)氏の句碑です。
同氏が主宰された句会「さざれ会」が今でも当山にて催されています。
「山神へ 湧き水供え 疎林明けの春」
福井県における自由律の第一人者である、牧田雨煙樹(うえんじゅ)氏の句碑です。
元々は月見町にあった東雲寺境内に安置されていた石碑で、東雲寺をこちらに移設した際に同じく移設されました。
松尾芭蕉が東雲寺を訪れたことにあやかり句会が開かれ、それを記念してこの石碑をたてたといわれています。
隣にある碑は句会の参加者達の霊を供養するために建てられたお墓といわれています。
柴田勝家公が半石半木の九十九橋をかけた際に使用した礎石です。
橋の改修の折に掘り起こしたものが当山に寄進されました。
もともとは福井新聞社付近に立てられていた西野藤助氏の銅像および台座でしたが、戦時中に銅像が供出されたため、台座だけが残されていました。
その後、西野藤助氏のお墓が当山に祀られていたご縁で、当山境内に移され、西野藤助氏ゆかりの方々の手によって、あらたに観音様がまつられました。
もと東郷赤坂に在りましたが、寛文12年(1672)、安養寺十四世澄空泰存上人の弟子泰佐上人が当時の藩主松平光通公に願い出て月見町赤坂に敷地を賜り、天柔山東雲寺として再建いたしました。
移転する最中、大仏様を船に乗せて、足羽川を下っていたところ、船が沈み、大仏様も沈まれて浮かび上がらなかったそうです。住職は困り果てましたが、その夜、夢枕に仏様が現れ、「赴く地を『赤坂』と名づけよ。」といわれ、早速、住職は城主に申し出て、『月見町赤坂』と名づけられましたところ、大仏様が浮かび上がり、無事に安置されたとのことです。
戦後の福井大震災で堂宇が損壊し、大仏様も台座・光背が破損し、お首から落ちて頭に怪我をされました。
昭和56年の豪雪で本堂が大破し再建不能となったため、昭和58年安養寺境内の一画に移転されました。
東雲寺にまつられているご本尊は県の文化財に指定されており、木像の丈六の阿弥陀如来坐像です。
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