「痴漢冤罪」報道を考える
 
 2002年12月21日に朝日新聞朝刊第3社会面に『「痴漢無罪」粘り強く立証 苦闘2年返らぬ時間』という大島大輔記者の特集記事が掲載された。それによると、迷惑防止条例違反で痴漢として摘発された男性は全国で年間4千人を超え、10年間で5倍に激増したという。
 痴漢行為が増えているという見方もあるが、私はむしろ、一つには被害を受けながら今まで黙っていた女性が、人権意識の高まりの中で、被害を訴える傾向が出て来たこと、もう一つは警察の取り締まりの強化の現れであるように思われる。 
 痴漢行為が被害者の女性に深い心の傷を与える重大な犯罪であることは、被害者の訴えからも明らかであるだけでなく、犯罪性が法的に認められているのだから、そういう行為を犯した人間が正当に罰せられることは当然のことだろう。また、今まで沈黙を守っていた被害者が声を上げるようになったことは新しい時代の証しであり、それ自体はむしろ評価すべきことだと思う。
 だが、数多くの痴漢行為の容疑者が逮捕、起訴される中で、冤罪事件も多く発生し、人間的な誇りから、損得を度外視して無罪を訴えた人々が無罪判決を得た後も、結果的には社会的、経済的に取り返しのつかない大きな打撃を受けている現実にも、もっとメディアは目を向ける必要があるのではないか。

 冤罪裁判への関心の高まり
 痴漢冤罪の問題は、時事通信社を経て現在フリーライターとして活躍している池上正樹氏が『痴漢「冤罪裁判」』(小学館文庫、2000年11月)を刊行した前後から注目を集めるようになり、昨年7月15日には、痴漢冤罪被害者が代表になり、作家佐野洋、立教大学荒木伸怡教授、立正大学浦野広明教授、青山学院庭山英雄(陪審裁判を考える会)らの呼びかけで、「痴漢えん罪被害者ネットワーク」が結成されている。
 同ネットワークによると、1990年から1999年にかけて簡易裁判所で無罪を訴えた人は203名いたが、全員有罪となった。しかし、2000年から2001年にかけて冤罪報道が盛んになるにつれ、無罪判決が急激に増えて8件となり、報道が少し下火になった2001年から2002年にかけても3件の無罪判決が出ているという。朝日の大島記者の記事では、98年から無罪が確定した人は14人にのぼるとしていて、少し数字が異なるが、これは簡易裁判所と地方裁判所の数字を合わせているためかも知れない。
 いわゆる痴漢行為については、東京都など地方の迷惑防止条例の違反に問われるか、刑法176条(強制わいせつ)の罪に問われるかで、刑罰も裁判所も違うからである。
 例えば、東京都の「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」
(迷惑防止条例)の違反では、「6月以下の懲役又は50万円以下の罰金」であるのに対し「強制わいせつ」とされた時は、「6月以上7年以下の懲役」という厳しい刑が科せられるのである。

 注目すべき3つの裁判
 朝日の大島記者の記事は、2000年12月5日、身に覚えのない痴漢容疑で逮捕され、1審で懲役1年2ヶ月の実刑判決を受けた東京都東村山市の会社員(39)の事件を取り上げている。 
 この会社員は起訴後、会社から退職勧告を受けて退職したが、有罪判決後も諦めずに、友人ら70人を動員して電車内を再現するビデオを製作、コンピューター・グラフィックスで、容疑が成り立たないことを映像で明らかにするなどの活動を続け、2002年12月20日、控訴審でかちとった逆転無罪判決が確定した。しかし、2年間の訴訟費用や約600万円に達し、収入も年間750万円から200万円に大幅に下落、住宅ローンなどの支払いは、妻の収入に頼っているという。
 大島記者は、この記事で刑事裁判では本来、検察側に立証責任があり、有罪を立証できなければ無罪であるのに、その「疑わしきは罰せず」という原則が痴漢事件ではまったく逆になっている点について、担当弁護士とともに疑問を投げかけている。 
 この記事以前にも2002年9月3日に、すでに刑事裁判で無罪が確定している事件が東京地裁の民事裁判で、逆転有罪判決を受けた際は、読売、毎日などの新聞やテレビ、週刊誌などが大きく報道した。
 この事件では、痴漢行為を受けたとする女性が5人の被告男性側からの申し入れで99年11月から2001年5月までに、示談金を総計190万円を受け取っていることが明らかにされ、9月12日号の週刊新潮は、「痴漢『常習女子高生』の言い分」を認めた判決として疑問を投げかけた。
 逆転判決では、当日の男性の行動に疑わしい所があり、「犯行をしていないという供述は不自然で信用できない」とされている。
 確かに男性の行動に多少、不自然な点があったかも知れないが、3年間に5人の男性からかなり高額な示談金を受け取っている点も、私には同じくらい不自然であるという印象をぬぐえないのである。
 さらに、この逆転判決の直ぐ後の9月27日には、痴漢えん罪ネットワークの中心メンバーである長崎満氏(45)の上告が、最高裁で棄却され、1,2審どおり、罰金5万円の判決が確定した。
 被告側は、「『すみません』といったことが痴漢をしたことを認めたこととされたり、女性側が『お金で解決したい』といったことが被告側の申し出とされるなど納得できない」としている。

 痴漢逮捕報道に変化
 こういう一連の「痴漢冤罪裁判」の報道がなされた後、痴漢逮捕のメディア報道には明らかに変化がうかがえる。
 たとえば、2003年1月21日の毎日新聞朝刊社会面に「娘に痴漢 父務め休み逮捕=vという記事が掲載されたが、が、ここでは娘の父親が取り押さえた痴漢の容疑者も匿名の扱いになっていた。また、最近、フジテレビで、逃げた痴漢の容疑者を駅員が追いかけて捕まえるシーンを撮影したニュースでも匿名になっていた。
 私はこれまでの日本のメディアの痴漢逮捕時に実名で報道するやり方に疑問を感じて来た一人である。また、重大事件ならいざ知らず、容疑を否認したら、長期にわたって身柄を拘束し、代用監獄で取り調べを行うという警察の姿勢が何とも納得が行かないのである。
 警察が勧めるように、やっていなくても罪を認めて5万円程度の罰金を払えば、釈放されるのに、やっていないといえば、3週間以上も勾留される。こうなると、世間体が悪いということで、会社から、退職勧告を受けて自発退職に追い込まれたり、懲戒解雇ということになる。逮捕がメディアで報道されれば、そういう事態はますます悪化する。その後、不起訴になったり、無罪判決を受けても、復職はまず不可能、取り返しのつかない社会的制裁を受けることになるのである。
 確かに、日本のメディアでは、微罪の場合を除き、犯罪被疑者は逮捕時に実名で報道するのが原則になっている。
 微罪というのは、検事総長通達によると、@窃盗、詐欺、横領などの財産犯のうち、被害額が微々たるもので、被害弁償が行われ、悪質さもあまりなく、被害者が犯人の処罰を希望せず、かつ偶発的な犯行で再犯の恐れのないものA賭博事件のうち、わずかな財物を目的とし、さほど悪質でなく、共犯者全員に再犯の恐れのないもの(読売新聞社編『「人権」報道 書かれる立場 書く立場』2003年)とされている。
 この定義からすると、痴漢行為は、罰金だけでなく場合によって懲役にも当たる犯罪で、微罪とはいえない。
 したがって、微罪でない以上、原則からいえば、逮捕された痴漢行為の被疑者を実名で報道するのもやむを得ないともいえるだろう。
 しかし、この種の犯罪は、通常、通勤ラッシュ時の満員電車内で発生することが多い。身動きができないほど満員で発着時に人が乗り降りするので、現行犯といっても、加害者の特定が困難であるし、財布をすったというような物的な証拠もない。また、第三者の目撃証言なども、ほとんどあり得ない。そもそも、そんな状態なら、加害者が痴漢行為をしないのが普通だからである。したがって、被害者の申し立てが最重要証言になる。
 ところが常習的な痴漢は、他の人がやっているかのように思わせて自分は素早く群衆の中に逃れるといわれる。被害者が犯人はこの人だと思っても人違いということも大いにあり得るのである。
 したがって私は、痴漢行為の容疑者が逮捕された場合も、メディアは、@逮捕された被疑者が悪質な常習者であることが明らかな場合(海外報道機関の東京支局員が再犯で逮捕されたことがある)、A痴漢行為の内容が公然わいせつなどに当たる悪質なもので、逮捕された本人が犯行を認めている場合、B信頼性のある第三者の証言が得られた場合(例えば、空いている電車の中で、泥酔した人物が痴漢行為をしているのを第三者が目撃したような場合)などを除いて、逮捕時には被害者だけでなく、加害者も原則匿名で報道すること、を提言したい。 

 長期勾留は本当に必要か
 もう一つの問題は、警察が痴漢として逮捕された人が、容疑を認め、罰金を支払うというと、すぐ釈放されるのに、容疑を否認すると、2週間以上も勾留される点である。
 逮捕され、2週間勾留されて起訴され、一審で懲役1年9月の判決を受けた鈴木健夫(仮名)氏は、控訴審で無罪判決を得るまでの体験記『痴漢犯人生産システム』(太田出版、2001年)の中で、警察で取り調べの際、罪を認め、5万円支払えば、すぐ釈放するといわれたと書いている。
 実際、朝日新聞が取り上げた東村山市の痴漢冤罪被害者は、12月19日号の『週刊新潮』の記事の中で、無罪判決を受けた後、今度こういう事件に巻き込まれたら、「私はもう、無罪を主張しない。きっと示談金を払うと思う」と述べている。 
 一体これでいいのだろうか。日本には、法の正義は存在しないのだろうか。
 やっていない犯罪を否認すれば、長期にわたって勾留され、起訴され、有罪判決を受ければ、会社は懲戒解雇。さらに裁判で冤罪を晴らそうとすれば、数百万円以上の訴訟費用と多大な手間暇がかかる。 
 自分がやってもいない罪を晴らすという人間の誇りを賭けた当然の行為の代償は余りにも大きいのである。
 こういう弱みにつけ込んで、交通事故でいう当たり屋%Iな新手の女性犯罪が生まれているとテレビなどでも報道されていたが、今後そういう可能性が絶対にないとはいい切れないのではないか。 
 繰り返しになるが、私は痴漢行為が重大な犯罪であることを否定しているのでは決してない。 ただ、「痴漢容疑者を逮捕した」という単発的な事件報道の姿勢では、痴漢行為をなくすことには余り役立たないと考える。

 必要な掘り下げた報道
 私は痴漢問題の報道は、逮捕の報道より、むしろ、この問題が現在どういう状況にあるのか、痴漢行為は増えているのか減っているのか、どうしたら防止できるか、また、痴漢行為によって、どんなに深く女性が心を傷つけられているのか、どうしたら冤罪を防げるのかといった問題として突っ込んだ報道をすべきであると考える。
 朝日の大島記者の記事などもその一つで、一つの問題提起になっていると思う。
 女性専用車両の増発なども確かに有効な対策の一つには違いないが、そんなら男性専用車を作れとか、性差別だという声もある。現在の通勤・通学ラッシュ時の混雑ぶりを思うと、限界があるといわざるを得ない。
 私は、幸い現在は車で通勤しており、通勤ラッシュに耐えなければならない状態ではないが、下痢で、慌てて近くのトイレに飛び込んだら女性専用だったということなどは現実にあるので、痴漢と疑われないように気を付けている。
 それにしても、いくつかの事件の判決を読んで見て、裁判官や検事など司法関係者は本当に通勤ラッシュを体験しているのかと疑問を感じることも多い。
 例えば、痴漢だといわれたら、そうでない場合でも、混雑している状況では、体や鞄などの持ち物が女性の体に接触することは大いにあるわけで、「ごめんなさい」というのはごく普通のことだと思うのだが、それが、痴漢行為をやったことを認めた証拠というのは、何とも納得が行かない。
 池上正樹氏によると、悪質な痴漢常習者は、女性に手を捕まれても、決して黙って駅の事務室には行かないという。腕を振り切って逃げるか、大声で威圧して堂々と退散するそうである。
 現在の痴漢取り締まりのやり方では、常習者をそのままにして、冤罪者を多く作り出す結果になりかねない。
 どんな有効な対策があるか、私自身、わからないのだが、交通機関の担当者、取り締まる側の警察、裁判官や検事の考え方、また、加害者とされる男性、被害者とされる女性がそれぞれの立場から、考える時期を迎えているのではないかと思う。 
 繰り返しになるが、そのために、単発の記事でなく、より掘り下げた報道を望みたい。

2003年2月19日


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