大昔のこと、大きな鳥が左の翼にふたつの卵を抱え、右の翼にひとつの卵を抱えて、雲の彼方から飛んできて、羽前(山形)と羽後(秋田)にまたがる鳥海山の頂に飛び降りました。
そこに巣をつくると、三つの卵をあたためはじめました。
ときおり叫ぶその声は、みちのくの果てまで響き、野を駆ける獣たちを怯えさせました。
やがて卵は三つともかえり、左の翼に抱えてきた卵からは鳥海・月山両大菩薩が生まれ、右の翼に抱えてきた卵からは丸子親王が生まれました。
そしてこの巨大な鳥は、いつか人の姿となり、この地方の先祖となりました。
それから幾年か過ぎました。人々は荒れ地を耕して五穀を集め、貧しいながらも平和に暮らしておりました。
その様子を見ていた巨大な鳥から変わったその人は、ある日のこと、また元の姿にかえって羽音も鋭く飛び立ったかと思うと、北の峰の大きな池に沈んでしまいました。
その池は山の中にあり、「鳥の海」と呼ばれるようになりました。
それからこの地に住む人達は、けっして鳥を口にしないようになり、また丸子親王の子孫は鳥の姿を組み合わせて「家紋」としました。
裾野を長くひいて、荒波しぶく日本海にその影を映す鳥海山は、白い雲をいただきながら平和な日々を送り迎えている人達を、やさしくいつまでも見つめていました。
昔のことです。この山に手長(てなが)、足長(あしなが)という恐ろしい毒蛇が住んで居ました。
そして、この山を通る旅人たちに襲いかかっては危害を加えていたのです。
これを知った神様たちは、
「これは可哀想だ、なんとかして毒蛇に襲われないようにする手だてはないものか」と、話し合われました。
一人の神様は、
「よいことがある、山に見張りをおいて、毒蛇がいるのを知らせるのだ」と、言いました。
それから神様たちは、山の木の梢に鳥を住まわせました。
毒蛇がいると、
「有耶(うや)」
と鳴きたて、いない時には
「無耶(むや)」
と鳴いて、旅人たちに知らせることになりました。
それから旅人たちも安心して通れるようになり、その所をいつの間にか「有耶無耶の関」と呼ぶようになりました。
今でも、秋田・山形県境にその跡があります。(鳥海山誌より)