若者の友人関係と携帯電話利用
−関係希薄化論から選択的関係論へ−
松田 美佐
Misa Matsuda
1 はじめに
近年、次のような若者の友人関係と携帯電話(1)利用を結びつけた「評論」をしばしば目にする.
最近の若者の友人関係は「広いが浅い」.友人がいないのではない.常に一緒に過ごす友人の数は多いが,議論や悩みごとの相談はせず,深入りしないようにつきあっているため,孤独感を感じている.このような若者の「必需品」となっているのが携帯電話である.深いつながりがないため,常に連絡を取りあっていないと「友人関係」が確認できない.だから,携帯電話を使って始終取るに足らない話をしている.
しかし,若者の友人関係は本当に希薄化しているのであろうか.それは「今日」の「若者」だけにあてはまることであり,携帯電話の爆発的な普及と何らかの関係があるのであろうか.
本論文では,まず「若者の友人関係一般」に限って,実際に「広く浅く」なっているのか検討した論文を考察しながら,「若者の友人関係一般」を「広く浅く」ではなく,「選択的」と捉える見方を紹介する.その上で,そのような「選択的な友人関係」が携帯電話利用においても実際に見られるのかどうか,『移動体メディア研究会』が1999年5月から6月にかけておこなった調査結果(以下,「大学生調査」とする)を中心に若者の携帯電話利用の特徴をまとめる(2).しかし,「選択的な人間関係」を中心に据えると,このような関係性の増大は「若者」に限るものではなく,むしろ「日常的に接触可能な人口」の増加に起因する「都市的な問題」であると考えられる.ならば,「携帯電話を通じた若者の友人関係」は,「携帯電話」や「若者」という視座からだけではなく,「日常的に接触可能な人口」の増加という,より広い文脈に位置づけることが可能なのではないかとの仮説を提起し,今後の検証課題とする.
2 「広いが浅い,若者の友人関係」論の妥当性
本節と次節では「携帯電話」という軸を一旦外し,「若者の友人関係一般」が「広く浅く」なっているのか検討する.これについては,すでに橋元(1998)や辻(1999)が,NHKと総理府によってそれぞれ継続的におこなわれてきた社会調査結果を検討し,否定的な結論を導いた上で,それぞれ考察を加えている.
それらによれば,まず,広さに関してだが,「若者」の友人・親友の数は一貫して増加する傾向にある.NHKが中高生を対象におこなっている「青少年の生活と意識に関する基本調査」によれば,1982年から1987年,1992年へと一貫して「親友の数」は増加している(謝名元,1994:NHK放送文化研究所世論調査部編,1995)(3).同様に,総理府青少年対策本部が5年ごとおこなっている「青少年の連帯感などに関する調査」によれば(対象15-23歳),「心をうちあけて話せる友人がいますか」との質問に対して,1970年から1995年まで一貫して肯定的な答えが増加しており,その数を尋ねるようになった1980年以降を見ても,一貫して「親友」の数は増加している(総務庁青少年対策本部編,1992;1996)(4).
では,その友人や親友とのつき合い方はどのように変化しているのか.調査データの推移からは友人関係が浅くなっているとは言えず,むしろ友人関係がより重要視されている傾向さえ見いだすことができる.
たとえば,先に紹介したNHKの「青少年の生活と意識に関する基本調査」によれば,1982年から1992年にかけて,高校生の「親友」とのつきあい方は「なんのかくしだてもなくつきあう」が60%台後半,「心の深いところはださないでつきあう」が20%台前半で大きな変化はない(表1参照).あるいは,総理府の「青少年の連帯感などに関する調査」では,「悩みごとの相談相手」として「近所や学校の友だち」があげられるのは,1970年には「母」に続いて2番目であったものの,1975年以降常にトップであり,しかもその割合は一貫して増加傾向にある.また,「どんなときに,生きがいを感じますか」との質問に対する「友達や仲間といるとき」との回答は,1980年以降「スポーツや趣味に打ち込んでいるとき」を抜いてトップであり,その割合も1970年には38.8%であったのが,1995年には63.2%となっている(総務庁青少年対策本部編,1992;1996).
つまり,「今日の若者」に特有の友人関係として「広いが浅い」と評されることが多いが,少なくとも調査データからは裏付けられないのである(5).さらに,なぜこのような印象が「今日の若者」の友人関係を形容する際に現れるのであろうか.
3 若者の友人関係はなぜ浅く見えるのか
前節で紹介したデータ分析をおこなった橋元(1998)は,若者の対人関係希薄化論(6)の原因として,@コホート効果と年齢層効果の混同,A「分析データ」の偏り,Bマスメディアの影響が考えられると述べている.
コホート効果と年齢層効果の混同とは,すでに若者ではなくなっている論者が,加齢により変化したが,かつては自分たちも同じような意識や行動様式を示していたことに気づかず,若者の友人関係を評している場合である.たとえば,友人関係に関しては年齢があがるほど深いつき合いを好む傾向があるため(表1参照),深いつき合いを好むようになった年齢層から見れば,若者は常に浅い友人関係なのである(7).次に,「分析データ」の偏りとは,若者論の多くが大学の研究者であり,大学生の観察をもとに若者論が論じられていることに原因を求めるものである.大学進学率の変化などによる学生の質の変化や学生と研究者との関わり方の変化などが「浅く見える」ことにつながっているという.最後に,マスメディアの影響であるが,これはマスメディアにおける若者論の論調が一貫して「若者の対人関係が希薄化している」であることに原因があるという.
また,辻(1999)は橋元(1998)同様のデータ分析により,若者の友人関係が不活発化していないことを示した上で,友人以外との関係(たとえば,親や先生・上司との関係)についても不活発化する傾向がないことを明らかにし,さらに,橋元とは別の角度から若者の対人関係希薄化論の原因を探っている.
彼が注目するのは,90年代以降の若者ことばである.「〜っていうか」「〜とか」「〜みたいな」といった意味論的に無内容な若者ことばは90年代以前にはなく,しかも語用論的には対人関係への参与を弱める働きを持っているという.だからといって,これらは対人関係の希薄化を意味するのではなく,対人関係の持つ拘束力を弱めるはたらきをしているのではないかと考察する.そして,「対人関係を取り結ぶ回線の容量(太い細い)ではなく,回線のスイッチの固さ(オンオフの容易さ)がかわったのではないか(辻,1999:20)」と述べ,対人関係にも「フリッパー」志向が強まっているとの仮説を提起し,大学生を対象とした調査により検証を試みている.
さらに,辻は,回線を常に開いたままの全面的対人関係に対し,場面に応じて回線を切り替えられる対人関係を部分的とし,このような部分的な対人関係は,心の内奥を閉ざしたままの表層的な対人関係なのではという疑念に対して,前提となる自我構造に違いがあるのではないかと考察する.つまり,同心円状の自我構造を前提にした場合には,「全面的で親密な対人関係」か「部分的で表層的な対人関係」しかありえない.しかし,自我が複数の中心を持つならば,「部分的だが表層的でない対人関係」も考えられるというのだ(図2参照).
同様に若者の友人関係に「状況志向」が見られることを調査データをもとに明らかにし,その自我構造を論じた上で,それがなぜ「浅く」見えるのか,より詳細に論じているのは,浅野(1999)である.浅野を含む『青少年研究会』が1992年から1993年に杉並区と神戸市の16歳から30歳を対象におこなった調査では,友人関係のパターンに以下の三つの因子が取り出せたという.
1.遠心志向因子
・少数の友人より,多方面の友人といろいろ交流する方だ
・ひとりの友人との深いつきあいを大事にするというよりは,浅く広くつきあう方
・友人の数は比較的多い
2.求心志向因子
・友人関係はあっさりしていて,お互い深入りしない
・友人といるより,ひとりでいる方が気持ちが落ち着く
・友人と一緒にいても,別々のことをしていることが多い
3.状況志向因子
・つきあいの程度に応じて,友人と話す内容は違うことが多い
・いろいろな友人とつきあいがあるので,その友人同士はお互いに知り合いではない
・ある事柄について,我を忘れて熱中して友人と話すことがよくある
第一の因子が高い人は「外向的」な人,第二の因子が高い人を「内向的」な人とすれば,第三の因子の高い人は,つき合いに応じて異なる顔を見せ,友人関係は広いが,その友人関係は重なり合っておらず,だからといって,常に相手と距離を取るのではなく,熱中して話をすることも多いといった友人関係をとる人となる(8).これをもとに彼は,「親密さについて考える際にこれまでの通説が前提としてきたのは,『内面』の『深み』に秘められた『本当の自分』を中心に置いて,これをどの程度共有できるかによってつきあいを<浅い―深い>という軸の上に位置づけるという図式」であり,この図式をもとに,第三の因子の高いタイプの人の人間関係を見ると,「誰に対しても『本当の自分』を見せることのない,実に表面的で浅いものに見えるだろう」と述べる.
「今日の若者の友人関係が「浅い」ものに見えるとしたら,それは要するに「深さ」という次元を想定して見るから(その尺度の内部では)「浅く」見えるということだけだ.そこで見落とされているのは,「浅さ」といい「深さ」といい,いずれも人がものを見るときの視点のとり方がもたらす効果にすぎないということだ.」(浅野,1999:48)
このように捉えた上で浅野は,このような「親密性」の変容の原因を,親密な関係が取り結ばれる場の変化に求める.すなわち,これまで親密な関係は,家族や夫婦など生活の広範な文脈を共有する,その意味で包括的な関係の場に限られており,そのような関係性からは離脱することが困難であった.それゆえ,各人が一貫性した同一性をもつことが要求され,「深さ」の図式が自然なものとされていた.しかし,このような関係は少しずつ解体しつつあり,かわって,参入・離脱の比較的容易な関係において,生活の文脈を限定的・選択的にのみ共有するような親密性が生まれてきたと述べている.
辻や浅野に共通するのは,近年の若者の友人関係が変化しているとした上で,その「新たな」関係を「浅い―深い」とは異なる軸で捉えようとしていることだ.その「新しさ」とは,若者が状況に応じて友人関係を選択することであり,このような関係性は「部分的で浅い」と見えるが,あえて「浅い―深い」を使って表現するならば,「部分的でかつ深い」関係と捉えるべきであるとする.このような理解は,若者の友人関係に関する調査の経年的比較からは見いだすことのできない,友人関係の「質」の変化,および,それと密接に関連する自我構造の変化の可能性を示唆するものとして興味深い.
さて,このような友人関係が今日の若者の間にみられるとして,それが携帯電話利用とどのように関わっているのであろうか.携帯電話やインターネットを初めとしたコミュニケーション・メディアはそのオン・オフの気楽さから,それを用いたコミュニケーションや人間関係の参入・離脱の自在性がしばしば語られる.しかし,メディアに対する構成主義的なアプローチが明らかにしてきたように,メディアが持っている技術的特性がそこでのコミュニケーションや人間関係に常に影響を与えるとは限らない(9).それらのメディアが実際にどのように使われているのかという視点からの検討も不可欠なのである(Fischer,1992).このような問題意識から,次節では若者の携帯電話利用の特徴とそれが友人関係にもたらした影響について検討したい.
4 若者の携帯電話利用と友人関係
若者の携帯電話利用の第一の特徴は(10),それが友人や家族とのコミュニケーションを増やすところにある.ただし,これを「用もないのに携帯電話を使っている」と片づけると重要な点を見落とすこととなる.なぜなら,少なくとも本人たちの意識の中で利用のきっかけとして上位をしめるのは,「待ち合わせに便利だから」「非常時や緊急時に役立つと思ったから」などであり,実際の利用も何らかの必要性があるケースが多い.通話料が高いだけでなく,家庭の電話とは異なり,通信費を自分で払うことが多い携帯電話の場合,「大した用もないのに長電話をする」といったコンサマトリーな利用はあまり多くない.
もっとも,携帯電話は「用件の質」を変容させる(11).携帯電話で伝達の必要がある「用件」自体の緊急度は下がり,「全く不要ではないが,一刻を争うような用件でもない」,いわば「気楽な用件」が携帯電話では交わされている.携帯電話を利用するようになって感じることを尋ねると,「ちょっとした用件で連絡を取りあうことが増えた」「人との連絡やコミュニケーションの回数が増えた」「夜間・深夜に連絡を取ることが増えた」といった項目で8割前後の若者が肯定的に回答している.また,家族とのコミュニケーションに限っても,男性の28%,女性の40%を超える人が「家に連絡を入れたり,家族とコミュニケーションをとることが増えた」に肯定的な回答をしている.
また,携帯電話は待ち合わせに使われることが多いが,これも「待ち合わせ方」の変化の観点から捉えるのが適当である.というのも,以前なら正確に待ち合わせ時間と場所を決めて会っていたが,携帯電話を利用するようになると,時間や場所は事前には大まかにしか決めず,その時になって連絡を取りながら待ち合わせるのである.確かに,携帯電話は待ち合わせのために必要とされているが,このような「待ち合わせ方」自体は携帯電話を持つことによって初めて生まれたものであろう.これを待ち合わせがルーズになったと見ることも可能だが,むしろ「約束の拡大」と位置づけておきたい.すなわち,このような「待ち合わせ方」は,「偶然たまり場で会う」や「一方的に会いに出かける」のではなく,大まかであっても必ず「連絡」の上で,いいかえれば,お互いに了解し「約束」して会うといった傾向の拡大につながっていると考えられるのだ(仲島ほか,1999)(12).
さて,携帯電話を持つことによって生み出された必要性であるにしても,若者たちの間では携帯電話は何らかの「必要性」があって利用されており,友人や家族とのコミュニケーションは少なくとも量的には増加している.このようにコミュニケーションの量が増加したのは,持ち歩いているため常に電話が利用可能であるからだけではない.若者にとっての携帯電話は,portable(=携帯)電話やmobile(=移動)電話であるだけでなく,あるいはそれ以上に,personal(=個人の)電話である.
携帯電話は外出先で連絡を取ることを可能にするメディアと位置づけられてきた.ほとんどの家庭には家族共有の固定電話があり,携帯電話のコストが割高であるため,外出時には携帯電話を用いても,家庭では家の共有の電話を用いる傾向があったからだ.しかし,今日の若者は家にいても携帯電話を利用する.それも家族との共有スペースではなく,自分の部屋で利用する傾向がある(13).
これは,携帯電話の爆発的な普及にともなう低価格化が動因となってはいるが,家庭における電話利用場所の変遷という前史を踏まえて理解しておく必要がある.すなわち,家庭の電話は,初期には近所の人との電話の貸し借りが可能なように玄関や廊下におかれ,続いて家族の共有スペースのリビングにおかれるようになり,さらには,各人が個室に持ち込んで話ができるよう,そのコードが長くなった.そして,コードレスフォンが普及する.また,80年代ごろから,郊外の住宅地の公衆電話ボックスは,家では話しにくい電話をかける場所として若者に利用されるようになっていた(吉見ほか,1992).つまり,パーソナル・メディアである電話はその利用形態も次第に個人化してきたのである.携帯電話はその延長上にある「自分専用の電話」なのである(14).
最後に,若者の携帯電話利用の特徴として表示画面の活用をあげておきたい.これには二つのポイントがある.一つは,「番通(ばんつう)」と略される発信番号表示である.携帯電話では,一般加入電話よりも早く1994年頃から発信電話番号表示が始まっており,すでに一般的なサービスとして定着している.若者はこの「番通」でかけてきた相手を確認し,応答するかどうか決める.今話したくない相手や知らない人の場合,電話に出ないという選択も少なくない(15).電話に出る場合でも,あらかじめ誰からであるかを確認し,「心の準備」をする.電話は発信者は好きなときにコミュニケーションを開始できるが,受信者側は電話に出るまで相手が誰だかわからない.「電話嫌い」の一つの原因ともなってきたこの電話の「暴力性」が,携帯電話では弱められている.
もう一つの表示画面利用は文字通信である.携帯電話の普及につれてポケベルの加入数が減少した理由としてしばしば,ポケベルが「いつでもどこでも連絡を取りあうこと」において携帯電話に劣ることが指摘される.この指摘の前提には,ポケベルは携帯電話が普及するまでの過渡的なメディアであるとの認識があるが,すでに松田ら(1998)が指摘したように,ポケベルには携帯電話では代替できない独自の「文字通信の楽しみ」があった.そして,これは現在もなお携帯電話を通じて「楽しまれて」いる.というのも,携帯電話が文字表示機能を備えることで,直接通話の便利さと文字通信の「楽しみ」の双方を兼ね備えたメディアとなってきたからだ.とりたてて急ぐ用件ではない場合,あるいは用件のない挨拶やご機嫌伺いなどのメッセージは文字で送信される.「大学生調査」では携帯電話利用者の75.8%が文字通信をおこなっているほどである(16).その意味では,今日では「携帯電話=音声メディア,ポケベル=文字メディア」という構図はもはやあてはまらない.携帯電話は音声のみが交わされる「電話」というよりむしろ,音声も文字も交換できる,ある種のマルチメディア情報端末となっているのである(松田,1999).
では,このような若者の携帯電話利用は,彼ら/彼女らの友人関係にどのように影響を及ぼしているのか(17).「広いが浅い」論の観点から検討しよう.
実際,携帯電話を使ったコミュニケーションは友人関係を広くする傾向がある.96年の夏から98年夏にかけて『移動体メディア研究会』が渋谷などの繁華街で若者を対象におこなった調査では,「親友の数は10人,友達の数は数えられない」「携帯電話の番号を交換したら,それでもう友達」「家の電話は教えられないけど,携帯の番号はすぐ教える」といった答えを頻繁に耳にした.「大学生調査」においても,複数回答で「自分の携帯電話の番号を教えたくないと思う人」を尋ねたところ,「初めて会った異性の人」40.2%,「初めて会った年の離れている人」38.1%に続き,「そんな人はいない」との回答が27.2%みられた.すなわち,4人に1人は,相手が誰であれ,自分の携帯電話の番号を教えることに抵抗感がないというのである.
では,「浅い関係」についてはどうだろう.確かに,「番通」や文字通信の活用は,それぞれ「人から迷惑をかけられたくない」「相手に迷惑をかけない」ふるまいであり,その意味では「深入りしない」つきあいかたである.しかし,携帯電話によって連絡の頻度は増しており,直接会う機会も減少してはいない.携帯電話の利用動機として「友達が利用しているから」が上位にあげられるなど,「友人」「親友」といった人間関係は重視されており,携帯電話はその関係を保つ上での必需品として位置づけられている.「大学生調査」では,携帯電話所有による行動の変化として「携帯電話やPHSを持っている人との結びつきが強くなった」と「携帯電話やPHSを持っていない人に連絡を取ることが減った」のいずれもが50%を越す肯定率を示しており(18),携帯電話利用と若者の「浅い関係」との関連は直接は見いだすことができない.
むしろ逆に,携帯電話によって結ばれている友人関係は「深く狭い」との見方をとることさえ可能である.たしかに,自宅の電話番号と比べると携帯電話の番号は気楽に誰にでも教える傾向がある(岡田・富田,1999).しかし,実際には誰とでも携帯電話を通じてつきあっているのではなく,特に親しい相手との間でもっともよく利用されている(仲島ほか,1999).また,「『番通』で相手を確認し,電話に応答するかどうか決める」「たまり場で誰かが通りかかるのを待つのではなく,携帯電話で『連絡』をとって会う」といった行動は,連絡をとる相手や直接会う相手の「選択」である.「いつでもどこでも連絡がとれる」「個人専用」の携帯電話で,今いる場所や現在所属している集団にとらわれず「好きな相手」「気の合う相手」とつながるのである(19).このような関係性は,「広い―狭い」「深い―浅い」という軸で捉えるより,「選択的」と捉えた方が適当である.
若者の携帯電話利用の特徴とそれを用いてつながる友人関係からも,3節で示したような「選択的な人間関係」を確かに見いだすことができた.さて,次に考察するのは,このような人間関係が,果たして「若者」特有の現象であるのかという点である.
5 選択的な人間関係
調査データの経年比較にもう一度戻ってみよう.辻(1999)も紹介するように,1973年から5年ごとにNHKがおこなってきた「日本人の意識」調査は,人間関係について興味深いデータを提供している.それは,1973年からの20年間にどの世代においても親せき・近隣・職場とのつき合い方として<全面的>関係を望む人が減少し,<部分的>関係あるいは<形式的>関係を望む人が増加する傾向があるというのだ(秋山,1998)(20).一方,大谷(1995a)の1989年の調査によれば,有意な差は見られなかったものの,「友人とは親しくはしたいがあまり深入りしたくない」「友人とは心をわって深くかかわりたい」のどちらかを選ぶ項目においては,人口規模が大きくなるほど「深入りしたくない」との回答が増える傾向が見られるという.もちろん,これらは友人と「実際に」どのような関係にあるか否かを尋ねるものではなく,あくまでもどのような関係性を「志向するか」に対する答えではある.しかし,少なくとも「全面的な深い人間関係」よりむしろ「選択的な人間関係」を望む傾向は「今日の若者」特有の現象としてではなく,どの世代にもあてはまる現象,「時代の経過」やそれにともない進行した「都市化」といったより広い文脈で検討すべき現象であることを示していると考えられる(21).
実際,参入・離脱が自由で拘束性がない人間関係は,拘束的で,しばしば制度化され組織化された関係との対比で,すでに複数の研究者により名前を与えられ,検討されている.たとえば,上野(1994)は「血縁」「地縁」「社縁」といった人間関係概念を「選べない縁」と特徴づけ,それに対してお互いに相手を選びあう自由で多元的な人間関係として「選択縁」という概念を提出している(22).彼女の議論のうち,ここで注目したいのは,次の二点である.第一に,「選択縁」の例として挙げられているのが,都市の主婦層であるように,このような関係性は「若者特有」と見なされているのではない.第二に,このような関係性を「都市化社会が産み出した新しい人間関係」としていることだ.
フィッシャーは北カリフォルニアでの調査を通じて,アーバニズムが人間関係に及ぼす影響についていくつかの仮説を提起している(Fischer, 1976=1996; 1982).それによれば,アーバニズムは友人関係を損なうというよりもむしろ逆で,都市住民の方が「友人」の数は多く,接触頻度も村落住民と大差ない.違いがあるとすれば,都市住民の方が職場の同僚や隣人などではない友人(彼はこれを「純粋な友人」と呼ぶ)の数が多く,「あらゆる特定の社会的文脈の外に,『自由に浮動する』友人関係とでもいえるようなより多くの社会的絆をもっている」ことである.
この仮説は日本においても検討されている.たとえば,大谷(1995a)が中国・四国地方の都市に住む20歳以上の男女を対象におこなった調査によれば,「たいていの場合同じ友人と行動をともにすることが多い」と「それぞれの場合に応じていろいろな友人とつきあう」のいずれかを選ぶ項目で,後者を選ぶ回答者の比率は地方小都市に比べると地方中核都市で有意に高かったという.あるいは,同じく大谷(1995b)による大学生を対象とした調査によれば,地方都市の大学生よりも大都市の大学生の方が状況的に多くの人づきあいの選択肢を保有しており,また,地方都市の大学生が同じ人とさまざまな場面でつきあう傾向があるのに対し,大都市の大学生が異なる目的に応じてそれぞれ異なる人とつきあう傾向が見られたという.すなわち,日本においても都市に住む人ほど人間関係を選択的に築いているとの知見が得られているのである.
ところで,フィッシャーは調査にあたって「都市」を「人々の居住地,およびその近傍における人口量」から定義しているが,パーソナル・ネットワークの観点からこの点を検討した松本(1992)は,単純な人口量ではなく「ある場所における,日常的に接触可能な人口量」から定義するのが適当であるとする.
この松本の定義に従うならば,人との連絡頻度を増やすだけでなく,「4人に1人が抵抗なく誰にでも番号を教える」ことに象徴されるような若者の携帯電話利用は,「日常的に接触可能な人口量」を増やしているのであり,ここで言う「都市的な人間関係」を実践していると考えられる.ならば,若者の携帯電話利用から「選択的な友人関係」が見いだせることはむしろ,「フィッシャー=松本」仮説を裏付ける結果と見なすことができるのではなかろうか.つまり,若者の携帯電話利用から見いだせた「選択的な友人関係」は,「若者」や「携帯電話」固有の問題というより,「接触可能な人の増大」に起因するものと考えることが可能となるのである.
6 おわりに
とはいえ,もちろん,携帯電話が増やす「日常的に接触可能な人」と都市的な環境がもたらす「日常的に接触可能な人」を同じ次元で扱うことが果たして適当であるのかについては,議論の余地がかなりある(23).加えて,「若者の携帯電話利用から見いだせた『選択的な友人関係』は,『接触可能な人の増大』に起因するものではないか」との結論はあくまで仮説にすぎず,今後実証的に検討していく必要がある.たとえば,本稿では「若者の携帯電話利用」のみの調査から「選択的な人間関係」の増加を見いだしたが,同様の傾向が他の年齢層の携帯電話利用から見いだせないとすれば,この仮説はあてはまらないこととなる.
しかし,本稿は,石田(1998)が「『青年論』と『メディア論』の不幸な結婚」と述べているような事態――青年もメディアもある社会に対する「新しさ」という文脈の中で論じられ,両者がお互いに対して説明の根拠となっているような事態――が,今日の「若者と携帯電話」という問題設定においても多く見られる中で,それを社会的ネットワーク論や都市論などと結びつける契機を探ることによって,これらの議論の視座を広げた点において価値があると考える.もし先述の仮説=「若者の携帯電話利用から見いだせた『選択的な友人関係』は,『接触可能な人の増大』に起因する」が検証されれば,若者の携帯電話利用からみえる人間関係の「新しさ」は,『接触可能な人の増大』=「都市化」に起因することとなり,携帯電話という「新しい」メディア独自のメディア特性や若者の世代としての「新しさ」は直接の原因から外れる.そうすることで,「新しさ」の文脈においてお互いに相手を説明づけている携帯電話と若者を切り離すこと――「不幸な結婚」の解消――が可能となるだけでなく,もしあるとするならば(このこと自体検討が必要であるが)それぞれの「本当の新しさ」――携帯電話にしかないメディア特性や「今日の若者」にしかない特性――について,それぞれ別個に検討を加えることが可能となる.さらには,メディアと若者が「不幸な結婚」を強いられていた「新しさ」という文脈についても,批判的に検討する道が開かれることと思われる.
また,「新しさ」に着目し,従来のコミュニケーションや人間関係との断続面にのみ焦点をあてるのではなく,「接触可能な人の増大」という項によってメディアを通じたコミュニケーションや人間関係を,対面状況との連続性において捉える視点は,同様に「選択的な人間関係」をもたらすとの観点から注目を集めている電子ネットワークを通じたコミュニケーション(24)を検討していく上にも適用しうる「発展性」を秘めているものと考えるのである.
[註]
(1)以下,携帯電話をPHS(簡易型携帯電話)を含む語とする.携帯電話に比べるとPHSの方が所持年齢層が若干低いが,若者の間での利用状況にほとんど差は見られない.
(2)この調査の概要は以下の通り.関東と関西の大学それぞれ2校で,授業中に質問紙を配布,自記入式で回答.有効回答数は590.詳細については,岡田・松田・羽渕(1999)を参照のこと.
大学生を対象とした調査結果を中心に,若者全体の携帯電話利用の傾向を探ることの妥当性については問題も多い.しかし,2章で検討する各種調査においても具体的に「若者」とされる年齢層・社会的属性はさまざまであり,「若者」の語でどのような集団を指すのかについては,別途詳細な検討を要する問題であると考える(例えば,藤田,1988:山村・北澤,1992を参照).本稿では便宜的に中学生から30歳程度までを「若者」とし,以下で「若者の携帯電話利用の傾向」を示すが,これらは『移動体メディア研究会(代表:富田英典佛教大学教授)』が,96年から98年にかけて東京の渋谷・原宿と大阪のアメリカ村といった繁華街で,若者を対象におこなったフィールド調査(松田ほか,1998:岡田・富田,1999)や携帯電話利用に関する他の質問紙調査(阿部,1997:仲島ほか,1999)と比べた上でも,大学生のみに当てはまるというよりむしろ,広く「若者」に当てはまる傾向である.
(3)ただし,1998年の調査結果では若干「1人」「2〜3人」の回答が増加しているようであるが(白石,1999),中学生と高校生にわけたデータではないため,単純比較には適していない.なぜなら,後で述べるように年齢があがるにつれて,より「狭く深い」友人関係を求める傾向があるからである.
(4)ただし,1995年の調査では「とても仲の良い友達が何人ぐらいいますか」と質問文が変わっており,厳密には同じ扱いはできない.
(5)「近年の若者は孤独である」という「評論」についても同様のアプローチにより検討する必要があると考える.というのも,この「評論」は,「若者の友人関係が浅い」といった「評論」以上に「若者」を特徴づける際に常に現れる捉え方だからである.
(6)本論文では「友人関係」/「人間関係」に統一し表記しているが,橋元(1998)や辻(1999)では「友人関係」/「対人関係」が使われているため,その紹介に限り「対人関係」を用いる.
(7)総務庁青少年対策本部(1991)による中高生調査やくもん子ども研究所(1995)による小中高生調査など,同様の傾向が報告されている調査データは多い.また,友人の数については,年齢が低いほど多く答える傾向がある(謝名元,1994:総務庁青少年対策本部,1996).しかし,加齢とともに友人関係の輪が狭まるが,その密度が高まるとは必ずしもいえないとの調査結果もある(牛島,1995).
(8)ちなみに,それぞれ,一つの因子のポイントが他の二つの因子のポイントに比べて高い者をカウントしたところ,回答者はほぼ三等分されたという.
(9)たとえば,電話に関しては,「いつでも切ることができる」という技術的特性からは「不安定な人間関係や自分勝手な人間関係がもたらされる」という言説がある一方で,「二者間のみでコミュニケーションが交わされ,第三者の介入を受ける可能性が低い」という技術的特性からは「親密な人間関係がもたらされる」との言説もあり,相矛盾する言説が共存している.どちらがあてはまるのか,あるいはどちらもある程度あてはまるのかは,電話が実際にどのように利用されているかという視点から検討せざるを得ない.
(10)「大学生調査」においては,携帯電話利用者/非利用者と月のお小遣いの間に関連が見られたほか,性別・友達の数・親友の有無・恋人の有無・ポケベル経験などとも関連が見られる一方で,年齢や学年,一人暮らしか否かとは関連が見られなかった.
(11)携帯電話利用による「用件の変容」自体は,松田(1996)が1995年に20代から40代を対象におこなったインタビュー調査から見いだした知見であるように,「若者」特有の現象ではない.また,金光(1965)が昭和30年代の公衆電話について同様の指摘をおこなっていることからも,「用件の変容」は携帯電話のみが引き起こしうる影響ではなく,パーソナルなコミュニケーション手段の普及一般にあてはまることであると考えられる.
(12)この「『連絡』の上で人と会うといった傾向の拡大」も携帯電話のみに当てはまることではない.たとえば,かつて家庭への来客は突然現れるものであったが,家庭の電話が普及することで文字通りの意味での「突然の来客」はなくなり,常になんらかの連絡の上でやってくるものとなっている.
(13)たとえば,郵政省(1999)によれば,携帯電話利用者に複数回答でその主な利用場所を尋ねたところ,一人暮らしをのぞいた15~19歳の42.1%,20代の44.6%が「自分の部屋」を挙げたという.
(14)「大学生調査」において携帯電話の利用場所を尋ねたところ,男女では「自宅」を選択する割合に有意な差が見られた.この結果や携帯電話の所持の動機・携帯電話所持による行動・意識の変化などの男女差から,携帯電話が大学生の男性にはより「自分専用のメディア」とされているのに対し,女性にはより「安心のメディア」と位置づけられている傾向があることを報告するものとして,岡田・松田・羽渕(1999).また,自宅の電話と携帯電話の使い分け状況については,岡田・富田(1999)を参照.
(15)もっとも「大学生調査」においては,「発信者を確認して出なかったことがある」「知らない相手からだと電話に出なかったことがある」と答えたのは,それぞれ57.2%,48.3%であり,若者に一般的な行動であるとは言えない.しかし,「相手を確認して電話に出る」という行動が広がりつつあることを示す事例と考える.また,ヘビーユーザーほど,上記の行動をおこなう傾向が見られたことも興味深い.岡田・富田(1999)も参照.
(16)「大学生調査」において携帯電話の文字送信機能利用の動機を尋ねたところ,もっとも多い回答は「通信費用が安くてすむから」であり,「友達が利用しているから」「相手を電話口に呼び出さなくてもいいから」「おもしろそうなので」と続いており,携帯電話において文字送信機能が積極的に選ばれているとは言い難い.しかし,男女別に見ると女子に利用者が多く,ポケベルや交換日記といった文字コミュニケーションの延長上にあることが推察される.岡田・富田(1999)も参照.
(17)もちろん,携帯電話が一方的に若者の友人関係を変えたわけではない.携帯電話が可能とするようなコミュニケーションの取り方や友人関係を受け入れる「素地」が若者たちの間にすでにあったからこそ,携帯電話が広く利用されている面もあるからだ.
(18)ヘビーユーザーほど「夜間・深夜に連絡を取ることが増えた」「ちょっとした用件で連絡を取りあうことが増えた」と同時に,「携帯電話やPHSを持っていない人に連絡を取ることが減った」傾向が見られたことも興味深い.
(19)このような状況は「中友(中学のときの友達)」「ジモ友(地元の友達)」といった言葉の浸透からもうかがい知ることができる.
(20)たとえば,親せきとの人間関係について用意された選択肢は次の通り.1.一応の礼儀を尽くす程度のつき合い,2.気軽に行き来できるようなつき合い,3.なにかにつけ相談したり,たすけ合えるようなつき合い.秋山(1998)は,1を<形式的>,2を<部分的>,3を<全面的>と名づけている.
(21)また,吉田・荒井(1982)が「親しい友人の数」が都市規模と関連傾向にあることから,広い関係志向は「若者特有」というよりむしろ「都会的な現象」であることうかがわれると述べていることも示唆的である.
(22)同様の関係性についての考察として,上野が望月照彦の「知縁」,栗田靖之の「情(報)縁」,樋口恵子の「志縁」を紹介しているほか,奥野(1987)の「情縁」や藤田(1991)の「趣味縁」もこのような非制度的・非組織的人間関係を指している.井上(1987)も参照.
(23)現代都市に特徴的な技術的与件として,交通メディアとマス・メディアを取り上げ,この点について検討しているものとして,松本(1991).
(24)たとえば,パソコン通信やインターネットの電子会議室には居住地や年齢,性別,職業などの違いからこれまで知り合うことのなかった共通の趣味・嗜好を持つ人々が集い,新たな人間関係を築いていることがしばしば肯定的に報告されている.しかし,このような場への参与,その場で知り合った人とのコミュニケーションや人間関係の維持が,選択的におこなわれることはいうまでもなく,電子ネットワークが新たにもたらす人間関係は良くて「同好の士の集まり」,しばしば「閉鎖的なタコツボ」と批判されることも多い.このことに関しては,池田編(1997)の特に2章や5章での整理がわかりやすい.
[引用文献]
阿部由貴子(1997):『現代青年層の移動体通信ライフ』ライフデザイン研究所
秋山登代子(1998):「生活目標と生き方」 NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造第4版』NHKブックス
浅野智彦(1999):「親密性の新しい形へ」富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣
Fischer, Claude S. (1976): The Urban Experi-ence. Harcourt Brace & Company. = (1996):松本康・前田尚子訳『都市的体験』未来社
Fischer, Claude S. (1982): To Dwell Among Friends: Personal Networks in Town and City. The University of Chicago Press.
Fischer, Claude S. (1992): America Calling: A Social History of the Telephone to 1940. The University of California Press.
藤田英典(1988):「青年期への社会学的接近」西平直喜・久世敏雄編『青年心理学ハンドブック』福村出版
藤田英典(1991):「学校化・情報化と人間形成空間の変容」『現代社会学研究』第4巻
橋元良明(1998):「パーソナル・メディアとコミュニケーション行動」竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著『メディア・コミュニケーション論』北樹出版
池田謙一編(1997):『ネットワーキング・コミュニティ』東京大学出版会
井上忠司(1987):「社縁の人間関係」栗田靖之編『日本人の人間関係』ドメス出版
石田佐恵子(1998):『有名性という文化装置』勁草書房
金光昭(1965):『赤電話・青電話』中公新書
くもん子ども研究所(1995):『別冊からざREPORT 第4回くもん子ども調査 友達をめぐるコミュニケーション』
松田美佐(1996):「移動電話利用のケース・スタディ」『東京大学社会情報研究所調査研究紀要』第7号
松田美佐(1999):「変容する移動体メディアとその可能性」『東京大学情報メディア研究資料センターニュース』第11号
松田美佐・富田英典・藤本憲一・羽淵一代・岡田朋之(1998):「移動体メディアの普及と変容」『東京大学社会情報研究所紀要』第56号
松本康(1991):「都市文化」吉田民人編『社会学の理論でとく現代のしくみ』新曜社
松本康(1992):「都市は何を生みだすか―アーバニズム理論の革新」森岡清志・松本康編『都市社会学のフロンティア2 生活・関係・文化』日本評論社
仲島一朗・姫野桂一・吉井博明(1999):「移動電話の普及とその社会的意味」『情報通信学会誌』Vol.16 No.3
NHK放送文化研究所世論調査部編(1995):『現代中学生・高校生の生活と意識 第2版』明治図書
大谷信介(1995a):『現代都市住民のパーソナル・ネットワーク』ミネルヴァ書房
大谷信介(1995b):「<都市的状況>と友人ネットワーク」松本康編『増殖するネットワーク』勁草書房
岡田朋之・松田美佐・羽渕一代(2000):「移動電話利用におけるメディア特性と対人関係――大学生を対象とした調査事例より――」『平成11年度情報通信学会年報』掲載決定
岡田朋之・富田英典(1999):「資料:移動電話に関する街頭調査の記録(抜粋)」関西大学経済・政治研究所『研究双書』第112冊『組織とネットワークの研究』
奥野卓司(1987):「情報社会の人間関係」栗田靖之編『日本人の人間関係』ドメス出版
謝名元慶福(1994):「現代中学生・高校生像」『NHK放送文化調査研究年報 39』
白石信子(1999):「高まるテレビの有用性」『放送研究と調査』1999年4月号
総務庁青少年対策本部編(1991):『青少年の友人関係』大蔵省印刷局
総務庁青少年対策本部編(1992):『現代の青少年』大蔵省印刷局
総務庁青少年対策本部(1996):『日本の青少年の生活と意識』大蔵省印刷局
辻大介(1999):「若者のコミュニケーションの変容と新しいメディア」橋元良明・船津衛編『子ども・青少年とコミュニケーション』北樹出版
上野千鶴子(1994):『近代家族の成立と終焉』岩波書店
牛島千尋(1995):「青年期の友人・親友関係の変化と核的人間関係の形成」高橋勇悦監修『都市青年の意識と行動』恒星社厚生閣
山村賢明・北沢毅(1992):「子ども・青年研究の展開」『教育社会学研究第50集』
吉田潤・荒井宏祐(1982):「青年の意識―1972-1981―」『NHK放送文化研究年報27』日本放送出版協会
吉見俊哉・若林幹夫・水越伸(1992):『メディアとしての電話』弘文堂
郵政省(1999):『通信白書』平成11年度
研究活動に戻る 表紙に戻る