ベネズエラ年

6000B.C 東部のガイアナ、南部のアマゾン流域、北部のアンティジャスに異なる先住民が定着。

海岸部の先住民はカリベ族やタイノ族で、漁労、狩猟、採集生活を営んでいたが、中には小規模な村落を作り灌漑、棚田などの農耕を営むものもあった。
多くの村落は人食い人種として知られていた。

一方西部のアンデス山地には、Timoto−Cuicaと呼ばれる部族共同体が散在し、インカ帝国ともつながる比較的高度な生活を営んでいた。
彼らは道路を建設し、平野部や海岸部の住民と交易を行っていた。

 

1500年代

ベネズエラ「発見」史については別表参照のこと

 

1500年 スペイン人がマルガリータ島の少し南、 サンティアゴ・デ・クバグア島のヌエバ・カディスに殖民。真珠とりの基地となる。

15年 フランシスコ会士修道士が、ベネズエラ西部クマナ(現スクレ州)に入植。南米の本土に作られた最初の都市となる。先住民による攻撃のために、放棄・再建を繰り返す。

20 ラス・カサスがクマナ付近に布教と先住民教化のための集落設置。

20 このころまでに、ベネズエラのクマナ(パリア半島の西端。現在のスクレ州都)からイスラ・デ・マルガリータにかけての真珠用カキ養殖場は、奴隷狩りによる先住民の減少により廃れる。先住民が山に立てこもり抵抗を続けたため、ベネズエラの開発は遅れる。

21 ゴンサロ・デ・オカンポの率いるスペイン人集団がクバグア半島の南にクマナの街を再建。ベネズエラ北東部海岸へのスペイン人入植が始まる.

23 ハイメ・カスティジョン,ベネズエラ西部のクマナ海岸に植民地を建設.(クマナ入植の経過については情報が錯綜

26.1 今日のベネズエラのほぼ全土がサントドミンゴのアウディエンシアの管轄の下に置かれる。

27 フアン・マルティネス・デ・アンピエス,初代ベネズエラ知事に任命される。内陸探検の基地としてコロの町を建設.その後コロ南方のアンデス山中にもエル・トクヨ(現バルキシメトの南西60キロ)の基地が建設される。

サンタアナ・デ・コロ: ベネズエラ西部ファルコン州の港町。オランダ領アンティル諸島との密貿易を通じて発達。現在ユネスコの世界遺産となっている。

28.3.27 カルロス1世,神聖ローマ皇帝に選出.選挙を応援したヴェルザー(Welser)家にベネズエラの開発権をあたえる.

ベネズエラ開発権: ヴェ ルザー家はドイツ南部バイエルン地方アウグスブルクの金融業者で塩の交易により財を成した。スペイン国王カルロス一世は、神聖ローマ皇帝の座につくことを 狙い、そのための選帝侯の買収資金をヴェルザー家に頼った。その見返りとして、ヴェルザー家に30年を期限とするベネズエラの租借権を与えた。カルロス一 世はベネズエラ全体をサントドミンゴのアウディエンシアに帰属させた上で、ヴェルザー家の租借権をコロを中心とする西部・アンデス地方に限定した。

29.2 ヴェルザー家はアンブロシオ・デ・アルフィンヘル(Ambrose von Alfinger)を知事とし、副官ゲオルグ・デ・スペイエルとともにベネズエラのサンタ・アナ・デ・コロに派遣.砂糖プランテーションで働かせるために4,000人のアフリカ人奴隷が連れてこられた。20年後に開発は挫折.

30 ドイツ人冒険家ニコラウス・フェーデルマン,サンタ・アナ・デ・コロにわたり冒険家仲間に加わる.

31 アルフィンヘル,エルドラドをもとめ内陸探検を開始.マグダレーナ河に達する。住民からXeriraという豊かな地方の存在を知らされる。これは現在のJeridas高原で、当時はチブチャ王国の北端を形成しGuane族が住んでいた。

31 ディエゴ・デ・オルダス,オリノコ川流域を探索.

33 アルフィンヘル,二度目の探検に出発.マグダレーナ河から遡り、エルドラドを目指す.住民の略奪と虐殺を続けた末,先住民に殺される.後任の弁務官にフアン・アレマンが就任.翌年には短期間、ロドリーゴ・デ・バスティダスが知事を務める。

35年 ホルヘ・デ・エスピラ(独名Georg Hoemuth)がウェルザー家の名代として赴任.7年後に死ぬまでベネズエラ先住民から収奪を続ける.エスピラはエル・ドラドの第一報告者として名をはせる.グアヤビータ湖におけるインディオの神事をめぐり「エルドラド」神話がひろがる.

37年12月 フェーデルマン,リャノス探索のためコロを出発.独断でエル・ドラド探検の旅に切り替え.コロンビアに入る.

38年5月 フェーデルマン,ケサダに遅れボゴタ入り。多額の財宝を受け取ることで,ケサダの支配権を認める

40年 ロドリーゴ・デ・バスティダス、エスピラの離任に伴い二度目のベネズエラ知事に就任。

41 ヴェルザー商会のフォン・フッテン,「オマグアの国」をもとめてコロンビア内陸に入り,グアピアレ上流を探検.

41年 真珠貝採取の基地ヌエバ・カディスが、地震と津波により崩壊。

42年 三人目にして最後のドイツ人知事ヘインリッヒ・レンボルトが派遣される。

45 ヴェルザー商会のベネズエラ開発権が期限切れとなる(一説に56年).スペインはベネズエラ東部をサントドミンゴのアウディエンシアのもとに、西部および南部はペルー副王に帰属させ、ベネズエラ総督領とし、フアン・カルバハルを総督に任命する。

46年 ベネズエラに入ったフアン・カルバハル総督は、エル・トクーヨを首都と定め総督府を建設(48年にはカラカスに移設).フアン・デ・ビリェーガス・マルドナルドを指揮官としてつぎつぎ内陸探検に出発.

48 ペドロ・デ・ウルスア,ムソ族の土地を探検.ペドロ・アルバレスはトクーヨを出発しボルブラータに達し,現地を平定する.

1550年

4月 カルロス1世,コロンビア・ベネズエラを含む北アンデスをヌエボ・レイノ・デ・グラナダと命名.ボゴタを首都と定め,サント・ドミン ゴからペルー副王領の管轄に移す.法と秩序をもたらすためレアル・アウディエンシア設置.ベネズエラ一帯はヌエボ・セゴビアと呼ばれるようになる。

53 ヌエボ・セゴビア(現ベネズエラ)のブリア鉱山(現在のバルキシメト市近郊)でミゲルにひきいられた黒人奴隷の反乱.およそ250人の逃亡奴隷が,コミュニティを形成.ミゲルを王とし,「司祭」も選出.2年間にわたり抵抗を続ける.

53年 アリアス・デ・ビリャシンダがベネズエラ総督に任命される。

55 アリアス・デ・ビリャシンダの遠征隊、エル・トクヨから内陸部を東に進み、バレンシアの町を建設。

56年 ヴェルザー家の租借期限が終了。

57 フランシスコ・ファハルド,ベネズエラ沿岸部を探検.

1550年 カラカスの占領

60 フランシスコ・ファハルド,先住民の抵抗を打破しながら、グアイレ渓谷(現カラカスを中心とする盆地)の西部に植民地建設.テケス首長国(現サンホセ・デ・ロス・アルトスを中心とする一帯)で金鉱を発見し採掘を開始。

61年 テケス首長国のグアイカイプーロ首長、スペイン人に対する反乱を開始。

グアイカイプーロ(Guaicaipuro): カラカスをふくむグアイレ渓谷地方で最大の部族であるテケス族の首長。金山の採掘にあたるスペイン人に対し反乱を起こし、鉱夫たちを攻撃し撃退に成功した。
ペドロ・ポンセ総督は反乱鎮圧のためファン・ロドリゲス・スアレスを派遣。スアレスは数回にわたる戦闘の後、グアイカイプーロを支配下におさめる。
反乱鎮圧に成功したスアレスは、三人の息子と鉱夫たちに後を託し総督府バレンシアに戻る。これを見たグアイカイプーロは、ふたたび鉱山を襲撃し、スアレスの息子たちをふくむ鉱夫を皆殺しにした。
バレンシアへの帰途反乱の知らせを聞いたスアレスは、兵士6人を引き連れロペ・デ・アギーレに救援をもとめる。グアイカイプーロはこれを待ち伏せ攻撃しスアレスらを殺害した。
こ の事件により、グアイカイプーロは先住民の英雄となり、グアイレ渓谷連邦の盟主となった。彼の下にすべての部族が結集。ナイグアタ(Naiguata)を 総司令官とし,タマナコ(Tamanaco)、 Guaicamacuto, Chacao, Aramaipuro, Paramaconiらが司令官となった。彼の息子Barutaもテケス族の首長として司令官に名を連ね、スペイン人の反攻に備えた。

62 ルイス・ナルバエスの率いるベネズエラ総督軍、グアイレ渓谷制圧に出動。先住民同盟軍はこれを撃退することに成功。先住民の猛攻撃を受けたスペイン人は、その後の5年間、グアイラ地域に着手せず。

66 ペドロ・ポンセ・デ・レオン(Pedro Ponce de Leon y Riquelme)がベネズエラ総督に任命される。エル・トクヨで兵を編成、グアイレ渓谷の制圧に向け出発.

67.7.25 ペドロ・ポンセ総督,グアイレ渓谷の首長国連邦の征服作戦を発動.ディエゴ・ロサダに指揮を命じる.ロサダはグアイレ渓谷 の中心部にサンチァゴ・デ・レオン・デ・カラカスを建設。フランシスコ・インファンテをカラカス市長に任命。ロサダは先住民の抵抗を撃破し,さらに内陸深 く探検.

ディエゴ・ロサダの探検
ロ サダはマリアナで150人からなる遠征隊を編成.アルバコス族の妨害を越えて進撃しサンチアゴ・デ・レオン・デ・カラカスを建設.テケス族,タルマス族, マリーチェ族などの先住民はグアイカプーロ(Guaycapuro)、ナイグアタ(Naiguata)、らを指揮官として8千の軍勢で対抗.

68 ロサダの命を受けたインファンテ、先住民の手引きでGuaicaipuroの住居を急襲。家に火を放ち、飛び出したGuaicaipuroを殺害する。

69年 Diego Fernandez de Serpaが三度めのクマナ創設。その後も地震によって幾度も破壊された。

69 ケサーダ,ふたたびエルドラドをもとめ,オリノコ上流のグアビアレ河との合流点付近を探検.

69 アロンソ・パチェーコがマラカイボに基地を建設。

70年 Diego de Mazariegosがベネズエラ地方の知事となる。Guaicaipuroの死の後、TamanacoがMarichesとQuiriquiresの指 導者として、スペインの征服に対する抵抗を指導する。Tamanacoは攻撃に備えて自らの部族とTeques and Arbaco族から300人を選抜し迎撃隊を組織。

72 ケサダの探検は失敗に終わる.無一文となったケサダは,皮膚病に苦しんだ末,先住民の反乱により命を失う.

73年 スペイン軍、タマナコに対する本格的な掃討作戦を開始。スペイン本国とドミニカなどの島からスペイン人が作戦に参加する。Pedro Alonso Galeas大尉とFrancisco Calderon中尉が捜索隊を組織。作戦には現地のAricabacuto酋長がガイドを勤める。最初の戦いでは両者ともに決定的な勝利はなし。

73年 Tamanacoはカラカスを攻撃し、退却するスペイン兵をGuaire川の堤まで追い詰める。スペイン軍のエルナンド・デ・ラ・セルダ大尉の率いるスペイン軍部隊は、決戦を挑むが破れ、セルダは戦死する。

73年 スペイン軍騎兵部隊がふたたびカラカスを占領。メンドーサ大尉はタマナコを逮捕し死刑を宣告する。Garci Gonzalez de Silva市長は、絞首刑にする代わりにスペイン軍の“戦闘犬”と闘わせるようにすすめる。タマナコは戦闘犬と闘った後、噛み殺される。カラカスの最も古 いホテルには「タマナコ」の名がつけられている。

77 タマナコに続きパラマコニ、テレパイマなど先住民指導者が死亡。カラカス盆地を中心とするベネズエラ中央部がほぼ平定される。

77 ベネズエラ知事フアン・デ・ピメンテル,州都をコロからカラカスへうつす.ベネズエラはサントドミンゴ副王領の下で、ベネズエラ、クマナ、メリダ、グアイアナ、マルガリータ、トリニダードの6州に編成される。

 

ベネズエラの行政区画

 

80年 ベネズエラ先住民の間に天然痘が流行。人口は激減する。

84 アントニオ・デ・ベリオ,オリノコ地方探検.

86 ドレイク,カルタヘナの町を襲撃.町を焼くと脅迫し一千万ペソの金を受け取る.カルタヘナは16世紀のあいだだけで5回も大規模な海賊の襲撃を受ける.

89 カラカスの外港ラ・グアイラが建設される。

90 ベリオ,第3回目のオリノコ探検.

93 ベリオの部下ドミンゴ・デ・ベラ,エルドラードをもとめオリノコ支流カロニ川流域を探検.

94 カラカスはイギリス海賊の襲撃により壊滅。(日本語版ウィキペディア)

95 ドレイク,500人の兵士を引き連れグアイマクートに上陸.カラカスの町を襲撃.その後翌年にかけてベネズエラからコロンビアの沿岸を荒し回る.

95 ウォルター・ローリー卿がガイアナ地方、オリノコ川を探検。

 

1600

20 ベネズエラでカカオ栽培が拡大。カナリア諸島からの白人移民が相次ぐ。最上層をペニンスラールとクリオージョ、その下にカナリア出身 の白人貧困層、その下に人口の過半数を占めるパルドと呼ばれる混血。その下に黒人奴隷(人口の約2割)。純粋の先住民は10%以下となり、辺境に追いやら れる。

34 ベネズエラのクラサオ島,オランダに占領される.

41年 カラカスは大地震によって壊滅。

76年 カラカスはサント・ドミンゴのアウディエンシアによって統括される。カビルドには大きな自治権が認められた。

1700

13 ユトレヒト条約により,イギリス船に直接貿易の特権があたえられる.ベネズエラは船団貿易のルートから外れていたため,オランダ領クラサオを中継するカカオの密貿易が主たる対外交易ルートとなる.

16 (ベ)フェリペ5世,白人の棄教者が参加していることを理由に,シマネロスの逮捕とクンベス(逃亡奴隷集落)の取り壊しを命令.

17.5.27 ペルー副王領から分離し,ボゴタにヌエバ・グラナダ副王配置,イギリスの侵略に備える.ベネズエラ,コロンビア,パナマを統轄する.

23.5.11 ヌエバ・グラナダ副王領、財政難からいったん閉鎖される。ベネズエラ東半分はサントドミンゴに編入されることとなる。

26.7.15 ふたたびベネズエラ知事領が復活。ディエゴ・ポルタレスが知事に任命される。東半分の司法権はサントドミンゴの手に残される。

28 (ベ)フェリペ5世,カラカス会社(Guipuzcoa)が設立される。

ギプスコアナ王立会社(Real Compañia Guipuzcoana de Caracas)
バスク地方ギプスコアナ州の出資により設立されたことから名づけられる。通称はカラカス会社。
べネズエラ州の輸出入、各種開発を独占。カカオをはじめタバコ,綿花,藍などの生産とスペインへの輸出を促進.
会社の製品買いたたきと,武装警察隊による密輸取り締まりの強化が、密貿易に頼っていたベネズエラ現地の商人に打撃をあたえる.

32.1 (ベ)サンボ出身のアンドレソテ(本名アンドレ・ロペス・ロサリオ),自由黒人を組織し,カラカス市会とオランダの支援を受けスペイン軍に対し反乱.勝利を収める.

33.7 (ベ)アンドレ・ソト軍,白人地主層の裏切りを受け壊滅.多くが処刑される.

39年 カルロス三世、プレシデンシアに代わるものとしてインテンデンシア制度を導入。

39.8.20 スペインは南米防衛のため,再度ヌエバ・グラナダ副王領を再建.ボゴタが首都となる.

42.12.02 ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ領内のプロビンシアとして編入される。しかし司法権はサントドミンゴのアウディエンシアの下に残る。

49 カナリア諸島からの移民で、カカオ栽培者ファン・フランシスコ・デ・レオン、ギプスコア会社の横暴に反対し反乱。クリオージョによる最初の反乱となる.ベネズエラの下層白人がいっせいに蜂起。カラカスのエリートもひそかに反乱を支持。

50年 フェリペ・リカルド准将の率いるサントドミンゴ軍、レオンの反乱を鎮圧。指導者に極刑をもって臨む。

50年 ミランダ(Sebastián Francisco de Miranda y Rodríguez)が、カラカスで生まれる。出身は裕福なクリオージョ家庭で、成長後はスペイン軍に加わり多彩な軍歴を重ねる。

50年 この頃からタバコ産業が衰退。これに代わりカカオの生産が増大。ベラクルス経由でスペインに輸出されたほか、イギリス、フランスとの密貿易が栄える。

51年 フェリペ・リカルド、カラカス知事に就任。

74 スペイン政府,新大陸各植民地間の交易を許可.

77.9.08 それまでエスパニョーラのアウディエンシアの下にあったベネズエラ東部も組み入れ,行政・軍事統帥権を持つカラカス総督領が成立。ヌエバ・グラナダ副王の統括下に置かれる.ヌエバ・アンダルシア、グイアナ、ベネズエラ(カラカス周辺)、メリダ=ラ・グリータ、トリニダード島をふくむ全土がカラカスの支配の下に一体化する。

79 スペイン,米西同盟にもとづき対英参戦.カリブ海岸の防衛のため戦費調達が必要となり植民地に増税を命ずる.

1783年

7.24 ボリーバル(Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar y Palacios),カラカスの裕福なココア農園主の家に生まれる.

83 カラカス出身のフランシスコ・ミランダ大佐,アメリカ独立戦争にスペイン軍兵士として参加.その後LAの独立と共和制をめざす運動開 始.ミランダはミシシッピ川からホーン岬までいたる独立帝国「グラン・コロンビア」を構想した。世襲の皇帝は先住民を考慮して「インカ」と名づけられ、そ の下に二院制の議会が作られることになっていた。

83 ホセ・セレスティーノ・ムティスの指導する植物採集運動は多くの科学者を結集し,この国独自の自然資源のゆたかさに目覚めさせる.

85 ギプスコアナ王立会社が解散。

86.7.31 カラカスにサントドミンゴから独立したアウディエンシアが設置される。これにより、これまで総督領としてもっていた行政・軍事権に加え、司法権も与えられる。

90.6.13 ホセ・アントニオ・パエス、 Curpa, Portuguesaに貧しい牧童の子として生まれる。

90 ミランダ,英国にわたりピット首相に独立支援を要請.当時スペインと友好関係にあった英国は支援を拒否.その後ミランダはフランスにわたり,革命軍に参加.

92年 ビセンテ・エンパラン(Emparan)、ベネズエラのクマナ行政区の知事に就任。1804年に任期を終え、いったんスペイン本国に戻る。

94年10月 (ベ)ホセ・コルテス・デ・マダリアーガ,ミランダの指導を受けカラカスで蜂起.

95 スペインでフランス革命に刺激され,王政打倒をめざすサンブラスの陰謀発覚.ピコルネル,カンポマネスら首謀者はベネズエラのラグアイラ港に流刑となる.

95 (ベ)ハイチの反乱に参加したムラート(サンボ?)のホセ・レオナルド・チリーノスと自由黒人のホセ・カリダド・ゴンサレス,コロで スペイン政府とクリオージョ貴族に対する反乱開始.フランス革命を支持し「フランス共和国」を宣言.期待した海外の支援がえられず敗北に終わる.

1797年

2.18 フランス革命戦争が勃発。イギリスはベネズエラ総督領トリニダード島を占領.初代総督トマス・ピクトン,南米進出の思惑からベネズエラの独立運動を支援.

7.13 (ベ)サンブラス事件の首謀者と接触し影響を受けたマヌエル・グアル,ホセ・マリア・エスパーニャら,反乱を計画するも発覚.グアルはトリニダード島へ逃れる.カラカスではクリオージョ青年リバス、コロではムラートのピアルも陰謀に加わる。

97 ミランダ,フランス革命に革命軍の一員として参加.ミランダの提唱により,革命下のパリでLA政務委員会設置.

98 ミランダ,ふたたび英国にわたり支援を要請するが不調に終わる.

 

1800

00年 この頃カラカスの人口は約4万人に達していた。

02 トリニダード島、英国に割譲される。(97年から英国が占領中)

04年 ハイチ革命の影響を受けた有色人種暴動カスタの反乱が起きた。

04 英国、オランダ領クラサオの占領を目指す。クラサオでは住民が抵抗運動を組織し、英軍の撃退に成功。ピアルもこの戦いに加わる。

05 ミランダ,英国における政治工作を断念.ニューヨークにわたり進攻作戦の準備に着手.独立をめざしイギリスの支援のもとに同志200人を募る.義勇兵の中には、のちに「テキサス共和国臨時大統領」となるダビッドG.バーネットも加わる。

06.2 56歳のミランダ,レアンデル号に乗りニューヨークを出港.その後コロ(La Vela de Coro)の港に入り、三色のベネズエラの旗を初めて揚げる。現地の支持を得られず撤収.地元ではむしろイギリスの干渉に対する反英感情が高揚.

06年 ボリーバル、スペインとフランスでの留学を終え帰国。ただちに独立運動に参加する。

1808年

08年  “カラケーニョス”と呼ばれるベネズエラのクリオージョは王室を支持するフンタを結成.

6 英政府,ベネズエラへの派兵を決定.ウェルズリー将軍(ウェリントン公)麾下1万人の部隊がアイルランドで編成される.

11 ナポレオン,スペインに30万を増派.その後フンタ派は劣勢に追い込まれる.ウェルズリーの軍団はベネズエラ行きを取りやめ、急きょポルトガルに上陸,フンタ支援に走る.

09年 ナポレオン政府によりベネズエラ総督に任命されたビセンテ・エンパラン(Vicente Emparan y Orbe)元クマナ知事がカラカスに赴任。このとき62歳。何度かのクーデターの企てを阻止する。

1810年 第一次独立運動

4.19 (ベ)カラカスの公開参事会(cabildo abierto),「フェルナンド7世擁護評議会」を召集.クリオージョ・エリートが本国の王政派と手を結び,市民軍を組織しビセンテ・エンパラン総督を拘束.

4.20 カラカスのカビルドを中心に、「フェルディナントVII世の王権を擁護する最高評議会」(La Suprema Junta Conservadora de los Derechos de Fernando VII)を組織。ホセ・デ・ラス・リャモサスが議長に就任。エンパランは総督職を辞し米国に亡命。

5月 「フェルナンド7世擁護評議会」、フェルディナント七世の名においてカラカスを支配すると宣言(プロヌンシアメント)。革命評議会と 改称。スペイン領アメリカのすべての都市の参事会に対し独立運動に加わるよう書簡を送る.本国の政府(フンタ)はフェルナンド・ミジャレスを総督に任命し 派遣。

6 ボリーバル,カラカス議会の代表使節の一員としてロンドンに赴き,ミランダに帰国を要請.ミランダはこれを受諾.アンドレス・ベーリョ,革命軍代表として渡英.19年間にわたり活発な文筆活動を展開.

8 (ベ)カラカス議会,黒人輸送と取り引きの禁止を決議.翌年の憲法で奴隷貿易禁止を確認.

12.05 シモン・ボリーバルとミランダがヨーロッパから帰国.

12.21 評議会、ベネズエラ議会を開催し、スペインからの独立を宣言。ミランダを総司令官兼評議会議長に推戴。ベネズエラ憲法が公布され、第一共和国(ベネズエラ諸州連合)がスタートする。

第一次共和国の実体: 混乱と臆病、無能さから後に「愚者の国」(La Patria Boba)と呼ばれるようになる。議会の警戒感からミランダには名誉職程度の権限しかあたえられなかった。一般市民、特にパルド(混血)層はクリオージョ・エリートの支配を好まず、フンタに支持を与えなかった。

10年 ポルトゲサ州でも農場主たちが植民地政府との戦いを開始する。パエス(当時20歳)、農場主の組織した騎兵隊に加わり闘いを始める。

1811年

3.02 (ベ)第一回議会開催.レオン島の評議会はカラカスの独立を認めず,軍を送りカラカス封鎖にでる.独立派は愛国協会を結成し、カラカス市参事会の多数派獲得を目指す。

7.05 (ベ)カラカス市参事会はカラカス封鎖に抗議し、諸都市の連合会議をひらき独立宣言(第1次共和国).60才のミランダを執政官 に選出.合衆国憲法を真似た憲法を制定.ボリーバル,シモン・ロドリゲスの率いる民兵隊の「大佐」に就任.シモン・ロドリゲスは少年時代のボリーバルの家 庭教師だった。

7.23 (ベ)独立軍とスペイン軍のあいだに戦闘開始.ミランダが指揮,ボリーバルはプエルト・カベーリョ要塞の指揮をとる.

7月 コロ、バレンシア、グアヤナでは「王党派」(ロイヤリスト:カディスに忠誠を誓う人々?、ボナパルト派?)が決起し、カラカスに戦いを挑む。

12.21 ベネズエラ、共和国憲法を採択。コロ、マラカイボそして、グアヤナの地方は、ジョセフ・ボナパルテに忠誠を誓いカラカスに反抗。ベネズエラは内戦に移行する。カラカス議会はクリオージョによって指導され、下層階級の支持を獲得することができなかった。

1812年

1月 ファン・ドミンゴ・モンテベルデ(Juan Domingo de Monteverde)将軍の率いるスペイン軍、ベネズエラに上陸。反カラカス勢力を味方につけカラカスを包囲。

3.26 カラカスで大地震.死者2万名を出す.町の90%が破壊される。一方王党派の拠点は無傷のまま残る。

3.28 大地震の被害により、軍の維持困難に.市民権を拒否された黒人やパルドたちはフンタに対し反乱.

5.19 モンテベルデ将軍にひきいられたスペイン軍は、地震の被害に乗じて反攻.カラカスを包囲する。共和国政府はミランダ総司令官に全権を委任。

6月 スペイン本国、モンテベルデ将軍をベネズエラ知事兼総督に任命。

6 (ベ),共和国軍はミランダを指揮官に6回にわたり首都防衛に成功するが,ラ・グアイラのたたかいにやぶれカラカスを放棄.

7.06 ボリーバル大佐の指揮するプエルト・カベーリョ要塞,サンフェリーペ守備隊の裏切りによりスペイン軍に敗北.

7.12 ミランダの率いる独立軍,ラ・ビクトリアで決定的敗北を喫する.

7.25 ミランダ、スペイン軍に降伏。降伏を認めないボリーバルは自ら総司令官就任を宣言。ミランダの降伏を反逆であると断じる。

7.30 (ベ)ボリーバル,ロンドン亡命を望んだミランダを祖国への裏切者として逮捕.マヌエル・マリーア・カサス,ボリーバル軍からミ ランダを奪いかえし,スペイン軍に引き渡す.ミランダは4年後にスペインのカディスで獄死.(一説では、ボリーバルは逃げようとするミランダを捕らえ、ス ペイン軍に引き渡したとされる)

9.01 ボリーバル,最後の拠点プエルトカベヨを、モンテベルデの率いるスペイン軍に包囲され、降伏する。キュラソーに第一回目の亡命.その後キューバにわたり捲土重来を期す。

12.15 ボリーバル,キューバからヌエバ・グラナダ自治政府の統治下にあったカルタヘナにわたり,「ヌエバグラナダ市民に宛てたカラカス人の回想」(カルタヘナ宣言)を発表.内部の不統一と弱体な政府が敗因であると第一次共和制崩壊の原因を分析.

12.24 ボリーバル,カルタヘナ軍をひきいモンポッスとテナリーフェを占領.マグダレーナ川領域に独立派の支配権を確立.

1813年第二次独立運動

2.28 ボリーバル,カルタヘナからベネズエラに反攻開始.ククタのたたかいに勝利

3.01 ベネズエラ領内に進攻したボリーバル,サン・アントニオ・デル・タチラを占領.この後ククタでベネズエラ進攻の準備に入る。

3.12 ボリーバル,ヌエバグラナダ政府の准将となる.

3月 タデオとホセ・グレゴリオのモナガス兄弟が生地マトゥリンで独立を目指す反乱を開始。

5.14 ボリーバル,フランシスコ・パウラ・デ・サンタンデルと共にククタを出発,「すばらしき闘争」(Campaña Admirable)を開始.

5.23 メリダで「解放者」として歓呼の声で迎えられる.

6.15 ボリーバル、トルヒーリョで「戦いか死か」と述べ容赦なきたたかいを宣言.ベネズエラ東部ではサンチアゴ・マリーニョが反乱開始.

8.04 ボリーバル,電撃作戦でカラカス解放に成功.「すばらしき闘争」終結.

8.06 第2次ベネズエラ共和国が成立.ボリーバルはベネズエラ共和国総司令官に復帰。王党派はJose Tomas Bovesの指揮下に東部で抵抗を組織。リャネーロスが部隊に加わり勢いを増す。

8.08 モンテベルデ、ベネズエラ総督を辞しスペインに戻る。

9.11 モナガス軍、カチポ(Cachipo)でボベス軍を打ち破る。

9 ボリーバル軍,モンテベルデ軍最後の拠点プエルトカベヨを包囲.

10.14 カラカス市参事会,公民議会においてボリーバルを最高司令官に任命.「解放者」の称号を授与. 戦時独裁体制を敷く.

12.05 セバーリョス,ヤーニェスにひきいられた王党派、プエルト・カベリョを出て海岸線を進出。反撃に移る。ポルトゥゲサ州アラウレで、共和軍とモンテベルデの率いるスペイン軍が対決。

アラウレの戦い: 戦いは朝早くに始まり約6時間続いた。ホセ・カバーリョスの指揮下の3,500-5,000人を擁する王党派は圧倒的に優勢だった。これに対しボリーバルの軍は、個別の戦闘に勝利し続けた。戦いの後、ボリーバルは部隊の勇気を讃え「ヌマンティアの無敵部隊」と名づける。

12月 その後ボリーバル軍はラ・グアイラ,ラ・ビクトリア,サン・マテオとたたかうが次第に敗勢に.

13年 パエス、農場主の騎兵隊を去り、西部の共和軍に軍曹として加わる。山賊まがいの騎兵隊長として、王党派の略奪を繰り返す。彼の名は「平原児」あるいは「パヤラのエル・レオン」として有名になる。

1814年

1 (ベ)王政派の公認下に,第2共和国発足.指導者はボリーバル.

1月 ボベス,リャノスで王党派カウディージョの騎兵部隊を編成。カラカス奪回を目指す.モラレス(Francisco Tomás Morales)軍がベネズエラに上陸。ボベスに合流。

ホセ・トマス・ボベス(José Tomás Boves: スペイン生まれの冒険家。ベネズエラで海軍士官として勤務 中、賄賂を受け取り収監される。第一次独立戦争では革命軍に加わる。その後王制主義者に加わり、Cagigalのもとに従軍。Cagigal軍敗北のあと は、浮浪者や逃亡者からなるカラボソ連隊500人を率い、ベネズエラ東部を支配するマリーノの独立軍を破る。だまし討ちを得意とし、捕虜全員を虐殺したこ とから「地獄の師団」の悪名を響かせる。

2.12 ラ・ビクトリアの戦い。青年・学生を中心とする独立軍部隊がリバスの指揮の下、ボベス軍を迎え撃つ。リバスは「勝利か死か、それ 以外の選択はない」と叫んだという。共和軍はビセンテ・カンポ・エリアスの増援を得て勝利。王党派軍は敗散。ボベスは負傷し、モラレスが指揮を代わる。ベ ネズエラの市民はいまもこの日を「青年の日」と呼んで祝う。

2 フェルナンド親王,フェルナンド7世として即位.

2月 コロンビアの独立派、連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)に別れ対立。不一致を突かれる形でボゴタを喪失。ナリーニョはスペインに連行され、投獄 される。

4.17 スペイン本国でエリオ将軍のクーデター.12年憲法を無効としフェルナンドを王位に就ける.カディス派は駆逐され、絶対王政が復 活する.LAへの反攻と支配の再確立をめざし派兵.共和派各地で敗北を重ねる.ボゴタ共和国崩壊,ナリーニョは捕えられスペインへ.王党派の巻返し強ま り,中間派クリオーリョの本国への幻想を打ち砕く.

5.28 ボリーバルとマリーニョ,カラボーボでボベスとモラレスの連合軍とのあいだに決戦開始.

6.15 ボベス軍,ラ・プエルタ(アングイタ)の戦いでボリーバル軍を撃破.バレンシアを攻略。このときふたたび捕虜多数を虐殺。

7.07 カラボーボのたたかいでやぶれたボリーバルとマリーニョ,約2千人のカラカス市民を率いて東部に逃れる.

7.16 カラカス,ボベス軍の手に落ちる.スペインはボベスをベネズエラ総督に任命。

8.14 フェルディナントVII世、モリーリョをベネズエラ地方遠征軍司令官兼総督に任命。モリーリョは軍艦18隻と貨物船42隻でスペインを出発、マルガリータ島に上陸する。モリーリョはマルガリータを根拠地としてカラカス、プエルトカベヨ、カルタヘナに遠征。

8.18 アラグアで最後の決戦.独立軍は3千の兵がほぼ玉砕.スペイン軍も、1万のうち2千を失うなど大きな損害.

9.07 ボリーバルとマリーノ,東部の港カルパノでカルパノ宣言を発表.翌日敵の手を逃れカルタヘナへむかう.国内ではリバスの部隊が最後の抵抗を続ける。

12.05 ボベス、ウリカの戦いで戦死。ボベスに代わりモラレスが総督に任命される。戦いは王党派軍の勝利に終わり、独立軍将兵の多くが 虐殺される。その後マツリン(Maturin)で最後の戦い。敗れたリバスは首をはねられ、首は油で揚げられたあとカラカスでさらしものにされる。

12.12 ボリーバル,ボゴタのスペイン軍の降服協定をとりつける.ボゴタ政府成立.

1814年 タデオ・モナガスら残党はバルセロナ、マトゥリンの平野部(リャノス)に向け逃散し、さらに抵抗を続ける。その後の5年間で14回の戦闘を展開。ボリーバルはモナガスを東部第一の槍騎兵とたたえる。

1815年

2 フェルナンド王,パブロ・モリーリョ将軍指揮下の1万の遠征軍をカルタヘナに派遣.

5 モリーリョ,カルタヘナ奪回作戦を開始.ボリーバルが独立軍を指揮する。4ヶ月にわたる激戦となる.

6月 ボリーバル、カルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還。

8.22 モリーリョの率いるスペイン軍、カルタヘナの包囲戦に入る。

8月末 カルタヘナで王政派の反乱が起き,独立派は敗北.戦闘を指導したボリーバルはジャマイカに亡命.

9.06 ボリーバル,亡命先のジャマイカでヌエバグラナダ政府,ジャマイカ総督宛に独立の大義とLAの統一を訴えた手紙をまとめた「ジャマイカからの手紙」を出版.

12.06 カルタヘナ、モリーリョ軍に降伏。スペイン軍がカルタヘナに入城。この闘いで市民6千が飢えや病気のため死亡.その後モリーリョはベネズエラに戻り、独立軍部隊との戦いを続ける。

12.24 ボリーバル,ハイチにわたりペチオン大統領と会見.奴隷制廃止の約束と引き換えに援助を獲得.

15年 モリーリョのひきいるスペイン遠征隊がリャノに入る。タデオ・モナガスの部隊はオリノコ河を渡り、グアヤナに退却するが、ラ・メサの戦いで壊滅。

1816年

3.31 ハイチのペティオン大統領の支援を受けたボリーバル隊,ロスカーヨス港を出港.

5.26 タデオ・モナガス、バルセロナ州に潜入。サンディエゴでフンタを結成。フンタは全会一致でタデオを東部地区最高司令官に指名。

5月 スペイン軍がボゴタを陥落させる。

6.02 ボリーバル,カルパノ港に上陸,グアヤナの中心地アンゴストゥラを占領.タデオ・モナガスら独立派残党を集め,ゲリラの組織を開 始.さらにカウディーリョのひとりベルムーデスを味方につける.この時点ですでに多くのジャネーロスは、ボベスの親王党派戦略が間違いであり、スペインは 民衆の敵であると考えるようになる。

7 フランシスコ・デ・ミランダ、カディスで獄死(66歳)。

8 ボリーバル,奴隷解放を宣言.奴隷所有者の抵抗を押して解放軍内の奴隷を解放.スペイン軍に敗れハイチに亡命するが,黒人やリャネーロスの共感をうることに成功.

8月 LA全土でフェルナンドの支配確立.

9月 ボリーバル軍は、アラクラン、ピリトゥの戦いに連勝。ジャネーロス勢力との合体を目指しグアヤナに向かう。タデオ・モナガスはバルセロナ州知事に任命される。

10月 ジャネーロスの頭目の一人ホセ・アントニオ・パエス将軍(メスティソ)、ヤグアルの戦いでスペイン軍を破りアプレ河地方の支配権を掌握。この時点ではボリーバルとの関係なし。

10月 東部で抵抗を続けていたピアルの有色人部隊、エル・フンカルでフランシスコ・トマス・モラレスの率いるスペイン軍を撃破。その後ピアルはグアヤナに向かって前進。

1817年

1月 マヌエル・カルロス・ピアルの部隊、グアヤナの中心都市サン・フェリクス・デ・アンゴストゥラ(現シウダ・ボリーバル)に対し包囲戦に入る。解放された農園奴隷が次々と結集。

1 ボリーバル軍,イギリス人義勇兵の支援を受けリャノスに再上陸.イギリス兵に軍事訓練を受け、インディオ(リャネーロス)を味方につけるなど戦力を充実.

4.11 アンゴストゥラを守備するスペイン軍(ミゲル・デラトー・イ・パンド司令官)が降伏。ピアルの有色人部隊がアンゴストゥーラを解放,オリノコ川の支配権を確立しボリーバルを呼び寄せる.

5.09 「ベネズエラ合衆国再建運動」がアンゴストゥーラで臨時執行部を創設。ボリーバルが議長に就任。ピアルは総司令官に任命される。リャノスの支配を確立したボリーバルは.土地の再配分を法制化.王党派から接収した土地をリャネーロスに分配する.

6月 ボリーバル、有色人種の同等の地位を要求するピアルから統帥権を剥奪。ピアルは総司令官の地位を辞し、有色人種の政治的代表として独 立軍政府幹部への働きかけを開始。ホセ・フェリクス・リバス、サンチァゴ・マリーノ、ホセ・フランシスコ・ベルムーデスらの将軍が同調の動きを見せる。

9.28 ボリーバル、政府に対する不服従、反抗、陰謀の容疑でピアル逮捕を命令。軍法会議にかける。

10.16 軍法会議で有罪とされたピアル、アンゴストゥラの大聖堂の壁の前で銃殺刑に処せられる.

1818年

1.30 ボリーバル,アプレ河流域を支配するリャーノスのカウディーリョ,ホセ・アントニオ・パエスと会見,支援を取りつける.この時期にスクレ,ウルダネータなどが配下に.西部平原の平定をゆだねられたパエスは、アプレ州サンフェルナンドを攻略。

2.12 ボリーバル,モリーリョのひきいるスペイン軍をカラボソで撃破.その後ボリーバルは一気にカラカス進攻を試みるが失敗.

6 ボリーバル,アルゼンチンに対し南米大陸の全人民の団結を訴える手紙.

6.27 ボリーバル,アンゴストゥーラにオリノコ通信を創設.

1819年

2.15 ボリーバル,アンゴストゥーラを臨時首都としてベネズエラ共和国を再建.3地域の代表者会議,単一の強力な中央集権国家を作ることで合意.「コロンビア共和国」の創設を宣言.ボリーバルを大統領とする.

2 フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル,ボリーバルの命を受けカサナレ地方に潜入.当地に潜伏していた独立派残党を糾合.

2 ボリーバル軍,アンゴストゥーラを出発,アプーレでモリーリョ軍と遭遇.いずれも決定的勝利を得られず消耗戦に移行.タデオ・モナガスは残留部隊を率い、東部平原地帯での勢力拡大に当たる。

4 サンタンデルの部隊,王党派軍を撃破.

4月 パエス、ラス・ケセラス・デル・メディオをふくむ6つの闘いに連勝。

ブエルバン・カラス(逆襲せよ!): ボ リーバルはApure平野のオリノコ川南の支流Arauca川に到達した。そして広大な川の南の岸で野営するパエス将軍の騎兵隊師団と合流した。そこはカ ラカスの約300マイルの南であった。ボリーバルの軍隊とパエスのリャネーロスは、あわせておよそ3,000人を数えた。スペインのパブロ・モリージョ将 軍の軍は川を挟んだLas Queseras del Medio(Queserasはチーズ製造所の意味)に駐屯していた。岸からおよそ1マイルの駐屯地にはスペイン軍6千強が配置されていた。
パエ スはリャネーロス騎兵153人を指揮して河を渡った。場所はMorilloの野営より上流約2マイルであった。対岸は急な堤になっていたが、パエスは部隊 を6小隊に分け堤を越えて広々とした平原に出た。渡河の状況を見届けたモリーリョは隊列を整えた。槍で武装した騎兵800名からなる前衛隊が進み、その後 にカービン銃を持つ200人の騎兵部隊が続いた。これを中央に配置し歩兵と砲兵部隊が続いた。
モリーリョ部隊は突進し、両側を挟み込んでパエス部隊を包囲しようとした。パエス部隊は後退した。そこにはボリーバルの歩兵部隊が待機していた。
パエスは主力を、後方に移動し敵騎兵部隊の包囲から逃れるとともに、一個小隊を逆転させ、中央の敵歩兵部隊を攻撃するよう命令した。これは敵部隊に大混乱を引き起こした。歩兵は後退し騎兵部隊は孤立し、両翼の部隊は一塊となった。
そのとき、パエスは狼狽した敵騎兵隊を攻撃するべく「逆襲せよ!」(Vuelvan Caras!)との有名な命令を与えた。実際のセリフは「引き返せ、こん畜生!」(Vuelvan carajo!)であったが、“carajo”(ガッデム)が嫌われたといわれる。
スペインの騎兵部隊はパニックに陥り、犠牲者を放り出して逃げ去った。スペインの犠牲者は400人に達したが、パエス軍の死者は8人だった。 

5.23 ボリーバル軍の将官が,ベネズエラ領内のセテンタ村で会談。モリーリョ軍との戦闘膠着状態を脱するため,迂回してヌエバ・グラナダ解放を先行させる作戦開始.アンデス越え作戦にとりかかる。

6 ボリーバル軍,ヌエバグラナダのターメでフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルの軍と合流.二千の軍を率いアンデス越え開始.(この後のボリーバル軍の戦いに関しては、しばらくは、コロンビア年表を参照)

12.17 アンゴスツラで革命議会開催.ベネズエラ,クンディナマルカ,キトの三行政州に分かれたグラン・コロンビア共和国を創設.国会は憲法を発しボリーバルを大統領に選出.政府,奴隷から生まれた新生児を解放する政令を発布.

1920年

1.01 カディス近郊の基地カベサス・デ・サン・フアンに集結した新大陸遠征軍の一部が蜂起.背景に,軍兵士の劣悪な待遇.ラファエル・リェーゴ・イ・ヌニェス(Riego y Nunez)少佐が指導.1812年憲法の施行を要求.反乱は全軍に広がり,各地の自由主義者も呼応し,護憲革命が成立.

3.07 フェルナンド7世,「国民の一般意志にしたがい,1812年憲法を守ることを決意する」ことを宣言.新憲法に基づく議会開催.

6月 モリーリョ、植民地人民に対しカディス憲法にしたがえとの勅令を発する。同時にボリーバルの下に人を送り停戦の交渉を開始。

6月 サンタアナの町でモリーリョとボリーバルが会見。「戦争正規化」と呼ばれる休戦協定を結ぶ。休戦協定は最初6ヶ月間、その後さらに延長された。協定締結後、モリーリョは本国に戻る。

20年末 戦闘の一時的な停止のあとも小競り合いは続き、休戦維持は徐々に困難となり、独立軍は次第に追い詰められる。

1821年

4.28 5つの主要な独立軍部隊が、スペイン軍の駆逐を目指し、カラカス方面に進撃を開始。ボリーバルは7千の兵を連れ,ボゴタを出発.

5.06 ククタ近郊のビラ・デル・ロサリオ(サンタンデルの生地)で独立軍の代表者会議.議会そのものは5月6日から,10月14日まで断続的に開催される.エクアドルも含め大コロンビア合衆国建設を決議.サンタフェをボゴタと改称,首都とする.

6月初め 6,500人の共和主義者軍は、3つの師団に分けられる。パエスの率いる第一師団は2,500の人から成り、二つの大隊に編成される。第一大隊は「アプレの勇者」(Bravos de Apure)、第二大隊は「イギリス大隊」(Cazadores Britanicos)と呼ばれる。ほかに7つの騎兵隊連隊から構成される。

6月中旬 ボリーバルとパエスの部隊,スペインとの休戦協定を破棄しカルタヘナを攻撃,ついでマラカイボに進撃.

6.20 三つの師団がカラカス近郊のカラボボ平原からカラボボに集中。王党派軍精鋭はカラボボを最後の拠点と位置づける。

6.21朝 カラボボの闘いが始まる。

カラボボの決戦: パエスは自らの師団から騎兵隊連隊を選抜。北方の高地から平原に降りてスペイン軍と戦う。これに第三師団が続き、第二師団が後方を確保する。スペイン軍のミゲル・デラトーレ司令官は、エリート部隊のブルゴス大隊を北側に進出させる。
パエス軍の第一大隊は激しい戦闘の中で、二度にわたり退却を余儀なくされる。パエスは「イギリス大隊」を送り、スペイン軍を押し返す。このあとスペイン軍も二個大隊が補強され、激戦が続く。
パエスは残る師団に山中を迂回させスペイン軍の側面を高地から攻撃。苦戦するブルゴス大隊を見た増援部隊は、命令を無視し引き返す。この後スペイン軍部隊は総崩れとなり、退却を余儀なくされる。

6.24 王党軍は壊滅しカラカスを明け渡す.その後西部のスペイン軍拠点クマナも落ちる。この戦いでスペイン軍は兵力の65% を失い、残党はPuerto Cabelloに逃げ込む。

6.29 ボリーバル,第3ベネズエラ共和国を宣言.パエスをベネズエラ共和軍の総司令官に任命.10年に及ぶ独立戦争により人口の1/4が失われ国土は荒廃.王党派軍はプエルト・カベーリョにたてこもり,なお2年間にわたり抵抗を続ける.

8 ククタで大コロンビア憲法制定議会が召集される.新共和国憲法を起草.三権分立の下に強力な中央集権政府の設置を憲法に定める.二院制 の国会,大統領府,5人の判事からなる最高裁判所が創設される.奴隷解放(奴隷の子の自由),ミタ制度の廃止を決める.税制度の確立,人権の尊重,出版・ 通信の自由が謳われる.

9月 ボリーバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の 副大統領となり、不在の大統領に代わってヌエバ・グラナダを治める。サンタンデルは3国のゆるやかな連邦制を主張.中央集権主義者と連邦主義者の争いの始まりとなる.

1823年

7.24 スペイン、ベネズエラ奪取を狙い艦隊を送る。マラカイボ湖の闘い。ボリーバル軍のホセ・プルデンシオ・パディージャ提督がスペイン艦隊に勝利。ベネズエラの独立が確定する。ボリーバルはこの後ペルーへ進出。

11.08 ホセ・アントニオ・パエス,プエルト・カベリョで抵抗を続ける最後のスペイン駐屯軍を撃破.ベネズエラの完全解放を成し遂げ る.ボリーバルはパエスをカラカス・バリーナス地区元帥に指名する。これにはカラカス、バルキシメト、バリーナス、アプレの諸州が含まれた。タデオ・モナ ガスは増援部隊を率い、ペルーに向かう。

1824年

1 ボリーバル,結核の悪化のため長期療養を余儀なくされる.

12.07 ボリーバル,リマを解放。ラテンアメリカ各国にパナマ会談への参加をうながす手紙.ラテンアメリカ5原則を提示.@経済,政 治,文化の面で密接な関係に基づく共通のアイデンティティーの確立,A経済,貿易,防衛面での域内の協力,B紛争の平和的解決,C各国の法律を遵守し,国 民によって自由に選出された政府を共同して擁護すること,D外交政策での協力と国際政治が提起する諸課題に共同して交渉に当たること.最低10万からなる 連合軍の創設,外交権の一部委譲,国家間紛争の仲裁などの機能付与を提案.

1826年

26年初め サンタンデル副大統領の率いるボゴタ政権、ベネズエラに兵員のさらなる提供を求める。パエスはこれに反発する。カラカスの政府 担当者はパエスが権限を乱用し、政府命令を妨害していると告発。これを受けたボゴタ議会はパエスの召喚を決定。これをベネズエラに対する侮辱と受け止めた 地元幹部はいっせいに反発。まずバレンシア、ついでカラカスが召喚命令を拒否し、ボゴタとの関係を断絶。パエスを最高司令官に指名。

4月 パエス将軍、サンタンデル副大統領の率いるボゴタ政権に反抗。「La Cosiata」運動を組織し、ベネズエラ独自の政治の実現をはかる。

6.22 パナマでアメリカ大陸諸国会議開催.グラン・コロンビア,中米連合,ペルー,メキシコの4ヵ国が参加.他の諸国はボリーバルに対 する警戒感から参加を拒否.ボリーバルはこの会議を,連合軍および艦隊からなる固有の軍事力を備えた常設機関とし,イスパノアメリカ諸国の「対外的行動を 統一し,共同防衛の調整センターとしての役割を果たす」ようにしようと考えたが,各国の協力をえられず失敗.

7月 サンタンデル、パエスが中央政府に対する公然の反抗を開始したと断定。パエスはボリーバルに、ベネズエラに戻り誤解を解くようもとめる。

11 パエス,ベネズエラ最高統領に就任.サンタンデルが実権を握る中央政府の集権的手法に反発.憲法案の奴隷解放条項に反発し反乱の構 え.カラカス市参事会,グランコロンビアからの分離案を提案.ボリーバルは反乱阻止のため,全権をサンタンデルに委任しベネズエラにむかう.

12月 ボリーバル、ボリビアから戻り、サンタンデルとパエスのあいだの調停を図る。

1827年

1.01 ボリーバル,プエルト・カベーリョにおもむきパエスと会談.ベネズエラの自治を認めパエスをベネズエラの指導者に任命.その後カラカスに入る.

1月 ボリーバル、最終的にはLa Cosiata関係者全員に恩赦を宣言。パエスをベネズエラの最高民間・軍事司令官に任命する。同時に、彼の命令に反する行為は内容のいかんを問わず「国家に対する犯罪」であるとすることで、反論を封じる。ベネズエラのサンタンデル派は排除される。

1829年

8 パエス,独自の国民議会を召集.ボリーバルの権威を否定し,グランコロンビアからの分離を提起.

11 ベネズエラ議会,最高統領としてのパエスの再承認などを決議.パエス,ベネズエラのグランコロンビアからの分離を宣言.

 

 

 1830年

1.03 パエス,コロンビアからの完全独立をもとめ反乱開始.

1.13 ベネズエラ議会が完全独立を宣言。パエスが国家主席に就任。この後の70年間は慢性的な政治不安の連続。初代から30人の大統領のうち22人が将軍、50回のクーデターが行われ、25の憲法が制定された。

4.27 ボリーバル,議会にあて最終的に辞任の意志を表明.後任にスクレを推薦するが,議会に拒否され,ホセ・ドミンゴ・カイセドを指名.

9.22 ベネズエラが,グラン・コロンビアから正式に分離・独立しベネズエラ共和国を結成.この時点での人口は約80万人。これまでの20年間で人口の1/4から1/3の住民が死亡したといわれる。カカオ産業は衰退し、これに代わりコーヒー産業が興隆。

12.17 ボリーバル,チフスによりサンタ・マルタにて死去.ボリーバルは死の直前次のように語ったといわれる.「歴史上三人の偉大な馬鹿がいる.それはイエスとドンキホーテと私だ」

1831年

4.11 国家主席からベネズエラ大統領に名称を変更。

5.22 タデオ・モナガス、パエスの要請を受け東部地区最高司令官に就任。

34 4月10日法成立.金融業者へのあらゆる種類の制限を撤廃.コーヒー生産のための資本投下を奨励.

35.1.20 パエス大統領の任期が満了。その後後継が定まらず、4年間で10人の大統領が入れ替わる。

11.03 タデオ・モナガス、「改革運動」(La Reforma)を組織し政界に乗り出す。その後パエスの説得を受け、政府に恭順の意を表す。

39.2.01 パエス,再びベネズエラ大統領に就任.43年の任期満了後も,47年まで実質上の支配者として君臨.

 

1840年

40 コーヒー生産の拡大とともに国際価格が低下。これに対する対応をめぐり、支配層が内部分裂。商業エリートを基盤とするパエスの保守党に対し,コーヒー生産者を中心とする新興勢力が自由党を結成し対抗.

41 英国,ベネズエラとの暫定境界(Schomburgk Line)を策定.その後,該当地域に金鉱が発見される.

42年 パエスは、シモン・ボリーバルの遺骸を、サンタマルタから本国へ送還してもらうことに成功。盛大な儀式の中でカラカス大聖堂に葬る。

43.1.20 パエスの二期目の任期が満了。その後の4年間、ふたたび多くの短命政権が続くが、政権の実体は引き続きパエスが掌握。

43 保守党内ではホセ・タデオ・モナガス・ブルゴス将軍とその兄弟(ホセ・グレゴリオ)が勢力を伸張.パエス派との間に内紛が続く.モナガスは1784年、マトゥリンの生まれ。パエスより6歳年長で,ボリーバルとともに闘った武将.

46 パエス、党内融和を図りホセ・タデオ・モナガス(当時63歳)を後継者に指名。

46 サモーラ将軍が決起。「土地と自由な人間、農民の尊重」をスローガンに戦い、「主権者国民の将軍」と呼ばれる。

1847年

1 パエス,保守党から大統領に当選.モナガスの抵抗のため就任できずに終わる.ディエゴ・ガルシア・デ・ウルバネハが暫定大統領に就任。パエスは反対派の領袖タデオ・モナガスを大統領に推薦し、政局危機の打開を図る。

3.01 モナガスが自由党と組んで大統領に就任.就任後、まず前政権に死刑を宣告された政治犯29人に恩赦を与える。

48.1.24 タデオ・モナガス大統領、議会の弾劾決議に強権を発動。軍の力により議会を解散させる。一連の騒動により議員4人を含む11人が殺害される。モナガスはパエス派を排除し自由党員を閣僚に登用するなど、パエスの政治権力を削ごうとする.

48年 パエスが決起。まもなく鎮圧される。

49.8.15 パエスがふたたび決起するが敗れ、マカポ・アバホ(Macapo Abajo)で停戦協定が結ばれる。モナガスはこの協定を事実上無視。パエスを捕らえムマナの監獄に送る。タデオ・モナガスはパエスに対するこの不当な措置により、歴史に名を残すことになる。

1850年

50.5 モナガス、パエスを国外に追放し独裁政治を開始.

51.2.05 タデオ・モナガスに代わり,弟のホセ・グレゴリオ・モナガスが大統領に就任.

ホセ・グレゴリオ・モナガスはボリーバルのコロンビア征服に同行し、24年にはペルー解放作戦に大佐として従軍した。戦争終結時、准将に昇進したホセ・グレゴリオは、ボリーバルの死後、職を辞してマトゥリンの農園に引きこもった。

54.3.24 ホセ・グレゴリオ・モナガス大統領,奴隷解放令を発布.

55.1.31 ホセ・タデオ(69歳),再び大統領に就任.奴隷解放を含む新憲法を提示.権力ボケした専制君主の再登場は国民に強い批判を巻き起こす。

57 モナガス兄弟,4年から6年へ大統領任期の延長を認める憲法草案を提出。モナガス王朝の創立を図る.これを期に各地で連邦制を支持する自由党による反モナガスの反乱が相次ぐ.

1858年

1月 タデオ・モナガス政権、保守党と自由党がそれぞれ反乱を起こす中で崩壊.

3.15 フリアン・カストロ・コントレーラスがカラカスを占拠。解放軍最高司令官として政権を担当。タデオは英国公使館に退去。政権放棄に合意する文書に署名した後、国外亡命。

3月 ホセ・グレゴリオ、バルセロナで挙兵するが、兄の退陣を見て降伏。プエルト・カベージョに幽閉された後マラカイボに移送され、その年の末に死去。

7.26 カストロ、暫定国家元首を名乗る。

58年 マルクス、ボリーバルを「このもっとも下劣な、もっとも月並みな、もっとも卑劣なごろつき」と評する。

1859年

1.05 フリアン・カストロ、暫定国家元首を辞任。その後無政府状態となる。その後各地に群雄が割拠し、農民大衆をまきこむ連邦戦争が4年間つづく.
  この連邦戦争の構図については、ちょっと自信がありません。ひょっとすると白黒逆かもしれません。

02.20 自由党(連邦党)は連邦制を宣言.中央集権制を掲げる保守党(中央集権党)とのあいだに「連邦戦争」。ファルコンとサモラが反乱軍を率いる。

8.01 連邦党のファルコン(Juan Crisóstomo Falcón y Zavarce)の率いる反乱軍が、いったん政権を握る。

9.29 中央集権党が政権を奪回。マヌエル・フェリーペ・デ・トバルが大統領に就任。

59 サンタ・イネスの闘い。エゼキエル・サモラの率いる農民軍が、保守党軍を打ち破る。サモラはいったん退却したあと、追討軍を隘路に引き込み包囲し、殲滅したという。

1860年

1月 サモラ、コヘデス州サン・カルロスで「流れ弾によって」死亡。その後連邦戦争は勢いを失う。

エゼキエル・サモラ: 連邦派の領袖として、農地改革などを実行したという。70年代に再評価されるまでは、既存体制に不平を持つ「盗賊」と見られていた。

61.9.10 連邦戦争,連邦党の勝利で終結.政局の安定を図るため,71歳のパエスが呼び戻され,最高執権者(supreme dictator)となる(一説ではパエスは58年にベネズエラに戻っていた).コチェ協定により保守党をふくむ超党派内閣を組織.(一説には保守党の勝利)

1863年

5.22 自由党,強硬策を取るパエスに対し反乱.ふたたび連邦戦争が始まる.

6.17 内戦は連邦派の勝利に終わる.パエスは政治生命を断たれニューヨークに亡命.

7.24 フアン・ファルコンが大統領に就任.反乱を率いたアントニオ・レオカルディオ・グスマン・ブランコは副大統領に就任.

64年 国外亡命から戻ったタデオ・モナガス、東部で反乱を組織。その後政府と和平を結びマトゥリンの農場に戻る。ファルコン政権はモナガスの要求を容れ連邦制を柱とする新憲法を制定。「ベネズエラ合衆国」と改称.

65.6.07 ファルコン、二期目の大統領に就任(政権に就くのは三度目)。ファルコンに国を統率する力はなく、各地に群雄が割拠する事実上の戦国時代に移行。

67年 国内はふたたび内乱状態に移行。

1868年

6.20 1864年憲法を支持するタデオ・モナガス,保守党系の「青色党」を率い反乱。マトゥリンからカラカスに向かう。

6.22 カラカス近郊で、政府軍とモナガス軍の戦闘が始まる。

6.25 モナガス軍、3日間にわたる戦闘の末カラカスの奪取に成功。ファルコンは退陣。

6.27 ホセ・タデオ・モナガスが10年ぶりに暫定政権に就く。

10.04 モナガス、議会により大統領に選出される。ファルコン軍の最後の拠点プエルト・カベージョの包囲に入る。

10.15 モナガス、包囲戦の末プエルト・カベージョを占拠。ファルコン軍を最終的に殲滅。

11.18 戦闘の最中に病を得たホセ・タデオ・モナガス、カラカス近郊のエル・バジェに転送されたあと、大統領に就任しないまま病死。

69.3.08 モナガスの義息ホセ・ルペルト・サトゥルニノ・モナガスが政権を引き継ぐ.

1870年

3.20 自由派「刷新」運動の指導者アントニオ・グスマン・ブランコ,私兵を組織しカラカスを占領.モナガスは退陣。グスマンはベネズエラ自由党創設者の息子で,連邦戦争の自由党軍司令官.

4.27 グスマンが総司令官に就任。各地のカウディージョを武力で排し腹心の自由党員を配置。以後18年にわたりコーヒー収益と外国投資を操作することで実権をにぎる.

7.22 グスマン,「国家再建者」に就任(正式の大統領となったのは73年4月)。カリスマ的独裁者として君臨.国中に銅像が満ち溢れる.ボリーバルの名誉回復もブランコによって積極的に進められた。

グスマン政権時代: 独裁政治の下,カラカスの都市整備を始めとする公共事業の拡大と,教育・交通・金融の改革を推進する.議事堂、ボリーバル広場、国立宮殿、カラカス・バレンシア間の道路、ラ・グアイラープエルト・カベージョ間の鉄道などが建設される。
また1/10税の撤廃、
非宗教教育、民法による誕生・結婚登録制度、修道院の閉鎖など教会からの分離政策が実施される。
カラカスへの中央集権化が進み外資の浸透が強まった一方,国民生活の改善ははかられず.

72 ホセ・グレゴリオ・モナガスの遺体が、マラカイボからカラカスの国立宮殿に移送される。

73.5.06 パエス,亡命先のニューヨークで死去(83歳)

76 国会議長でグスマンの父アントニオ・レオカルディオ・グスマン、息子が「再建者」を名乗ったことに対し。「この国にかつて再建すべきほどのものがあったろうか」と書き記す。

77.2.20 グスマンの任期終了。この後数人の暫定大統領が交代。

79.5.12 グスマンがふたたび大統領に就任。

1880年

81 ホセ・マルティ、カラカスに入り、一時教師を勤める。

84.4 ホアキン・シンフォリアーノ・デ・ヘスス・クレスポが2年間にわたり大統領をつとめる.実態はアントニオ・グスマン・ブランコ洋行中の暫定大統領.

84 英国探検隊が、ロライマ山頂に立つ。

86.9.15 グスマンがみたび大統領に就任。

87 ベネズエラ,国境問題に関連して英国との国交を断絶.米国の支持を求める.クリーブランド大統領の国務長官トーマス・フランシス・バイアードが,仲介に乗り出す.

1888年

6月 グスマンの二度目の海外旅行中に、カラカス大学の学生が真の民政実現をもとめ反乱を起こす。自由党のフアン・パブロ・ロハスがこれに同調。

7.05 パリのグスマン、帰国を断念する.ロハスがグスマンに代わり大統領に就任。

1890年

90 ライムンド・アンドゥエサ・パラシオスが大統領に就任。

90 経済のモノカルチャー化が進む。コーヒー輸出が総輸出の74%に達する.

92.10.07 グスマンのかつての部下ホアキン・クレスポが反乱を起こし,政権を掌握.ふたたび独裁政治が始まる.

94.3.14 クレスポ,二期目の大統領に就任.任期中,ガイアナとの領土問題をめぐり,米英間の論争に振り回される.

1995年

6月 英領ギアナとベネズエラのあいだのグアジャナ・エセキバ地方で国境紛争勃発.ベネズエラ側はエセキボ(Essequibo)河を境界とするよう主張.英国はオリノコ河を主張.イギリスが派兵したため緊張激化する.

95 米国はこの紛争に介入.オルニー国務長官は,イギリス政府宛の文書で「今日,合衆国は事実上この大陸の主権者である.その仲裁は法律である」と宣言.介入の可能性を示唆し停戦調停受入れを迫る.英国のソールズベリー首相は,一部地域について譲渡を認めるが,英国人の定住地については交渉を拒否.

12.17 クリーブランド,議会に教書を提出.ハーグ仲裁裁判所の仲裁案を拒否した英国を非難.「アメリカ合衆国の義務として,境界線を守るためには,いかなる英国の攻撃にも抵抗する」と述べる.議会も大統領の決意を支持.

97.2.02 ベネズエラとイギリスがギアナ国境紛争でアメリカの仲裁に応じ調印。イギリスはオルニー宣言に強く反発したが,南アをめぐる情勢の緊迫により仲裁受入れを強いられる.

98.2.20 自由党内にクレスポ後継をめぐる争い.クレスポは反対派との内戦に敗れ戦死.これに代わりイグナシオ・アンドラーデ・トロコニスが大統領に就任。

1899年

99年前半 アンドラーデ政権、中央集権的な憲法を採択。折からのコーヒー不況を背景に地方の不満分子が反乱。

5.23 アンデス山麓のタチラ州で農民ゲリラの反乱。シプリアノ・カストロ隊長はコロンビア領内で挙兵した後、いくつかの小規模な戦闘に勝利し、カラカスに進軍。

10.20 カストロ、カラカスの支配層との交渉に成功。アンドラーデを追放し政権を掌握。半年の戦闘で3千人が死亡。

10.22 カストロが最高司令官に就任.自らを「自由革命復活のための最高司令官」、あるいは「共和国のモーゼ」と称する。

シプリアノ・カストロ・ルイス:  ベネズエラ史上最悪の独裁者といわれる。アンデス山中タチラ州の牧場主。学校に通ったことはなく文盲。大酒のみで大食家で好色。仲間内からは「アンデスの 獅子」と呼ばれる.その私兵部隊は腐敗し、不正をこととする。彼を批判するものは殺されるか、拘束されるか、追放された。
米国務長官エリヒュー・ルートはカストロを「狂った獣」と評し、歴史家エドウィン・リューエンは「ベネズエラ史上最悪の独裁者」と呼ぶ。

10月 パリで国際司法裁。英国は米国による仲介を受け入れる.米国の提示は,エセキボ河西岸(約11万平方マイル)を英国領とするという著しくベネズエラ側に不利な内容.

 

1900
1901年

2月 新憲法が公布され、カストロが暫定大統領に就任。タチラからカストロに同行したファン・ヴィセンテ・ゴメス・チャコンが副大統領となる.

12.19 マヌエル・アントニオ・マトス将軍、カストロ政権に対する反乱を開始。

1902年

12.9 ベネズエラの債務不払いに業を煮やしたドイツ政府,英,伊の協力を得て武力でベネズエラの港湾を封鎖し,関税収入を押収しようとする.(日本語版ウィキペディアでは「内戦中に受けた被害の賠償を要求した」とされ、ドイツのイニシアチブについては論及されていない)

12.31 イギリス,ドイツ,イタリアの3ヵ国が,5つの港湾と海岸全域を艦隊で封鎖.港湾施設は砲撃され,ベネズエラ軍砲艦は鹵獲される.

1903年

2.13 ベネズエラが,イギリス,ドイツの債務支払を認める議定書に調印.

3月 米国は紛争に介入,欧州列強の干渉を中止させる.以後LAにおける米国の事実上の決定権が確立.カラカスで米国を仲裁者として債務交渉.三国への債務支払いを優先することをめぐり,交渉は決裂.

7.19 政府軍はシウダ・ボリーバルの近くでマトスの反乱軍を殲滅。反乱軍800人、政府軍250人が戦死。内戦開始後の1年半で1万2千人が死亡。

04.4.27 議会が新憲法を承認。

04年 ハーグ国際司法裁判所,三国側に有利な裁決.中南米諸国はこれに対抗し,ドラゴ宣言を発する.ルイス・マリア・ドラゴは時のアルゼンチン外相.

05年6月 カストロが大統領に再選される。対立候補はなし。カストロ独裁の期間中に約3万人が国外に追放される。

06年 米州会議,ドラゴ宣言を採択.

06年 ファン・ヴィセンテ・ゴメスがカストロの後継大統領となる.まもなくカストロは,ゴメスの施策に激しく反対し,ふたたび大統領となる.ゴメスはカラカス連邦地区長官の地位にとどまる。

フアン・ビセンテ・ゴメス・チャコン: ゴメスもカストロ同様に牧童上がりの文盲。しかしカストロと違い働き者で、暴飲・暴食もしなかった。マラカイに農場を持ち、長さ300メートルにわたる御殿を建てる。未婚のまま100人の子を持つ.議会は「功労者」と賞賛するが,反対派は「なまず髭」と呼んで軽蔑.

07年7月 ハーグ国際会議,ドラゴ宣言を改変したホーレス・ポーター案を採択.ベネズエラ債務問題に一定の決着.ベネズエラが列強への債務と賠償金の支払いに応じる。

1908年

5月 米国、カストロの暴政を嫌い、外交的な制裁(外交関係の停止)を決定。

6.23 カストロ大統領,米国の干渉を嫌い国交断絶。

11.24 カストロ大統領、病気療養のためヨーロッパに出発。パリでの滞在が長期となる。ビセンテ・ゴメスが代理大統領となる。

12.13 オランダ、ベネズエラの沿岸警備隊船二隻を拿捕。

12.17 フアン・ビセンテ・ゴメス大統領代理が,米国の支持の下に権力を掌握,カストロはそのままフランスに亡命.

カストロからゴメスへの権力移動に関しては、文書により異同がある。一説によれ ば、カストロは09年8月まで大統領を務めており、ゴメスが09年2月以降、カストロ外遊中の大統領代理を務めている。そして8月11日にカストロの大統 領職を剥奪している。ゴメスは10年4月に一度大統領を降りた後、2ヵ月後に正式に大統領に就任している。06年にゴメスがカストロの後継大統領となった という記載はない。

12.27 米国は軍艦をLa Guairaに送り、ゴメス支持の姿勢を誇示する。

1909年

4.27 ゴメス,暫定大統領に就任.財政の建て直しをはかるため、欧米諸国との経済関係の改善を目指し積極的な外資導入政策。メキシコ革命により投資先を見失っていた英米石油資本を引き付ける。

8月 新憲法が制定される。大統領任期を1期4年に限定する。ゴメスは憲法を6回にわたり制定。カイライ大統領をすげ替えることで,27年の長期にわたり独裁政権を維持.

淫獣ゴメス: ゴメスは人妻を略奪して結婚し、数十人の女性を愛人にして、100人以上の私生児を生ませたといわれ、淫獣のあだ名を奉られた。政務もまじめに勤めたとされる。マメな人物であったことは間違いなさそうである。

1910年

8.27 ビセンテ・ゴメス、新憲法にのっとり大統領に選ばれる。ゴメスはスパイと秘密警察、拷問など恐怖政治をしいたため「アンデスの暴 君」と呼ばれる.石油税の上がりで欧米諸国との賠償問題を解決し,ボールトン(英国系),フォルメル(ドイツ系),スロアガ(バスク系)の三大財閥を育 成.任期中に道路・公衆衛生などのインフラが整備される。

12年 反ゴメス闘争高揚.上流階級出身のグスタボ・マチャド,闘争に加わり逮捕.

13年8月 カストロ前大統領、反乱を開始。

13 ロイアル・ダッチ・シェル,マラカイボ湖東岸でメネ・グランデ油田を発見.試掘開始.

1914年

1月 政府軍、カストロ派の反乱を鎮圧。ゴメスは軍を完全に掌握。タチラ州出身者(tachirense)を要職に配し、反対派を排除。

4.19 ゴメスの任期が終了。これに代わりビクトリーノ・マルケス・ブスティジョスが暫定大統領に就任。実権はゴメスが掌握。

6月 新憲法が公布される。大統領任期は7年に延長され、再選が認められる。(つまり14年間の連続統治が可能)

14 マラカイボ油田の自噴に成功。ロイアル・ダッチ・シェルはキュラソーに精油所を建設。スタンダード石油もゴメス将軍一族とつながり独自の油田開発を開始する。

1915年

5.03 国会、ヴィセンテ・ゴメス将軍を大統領に選出。

16年 マラカイボに最初の精油所建設.本格生産は17年以降.

18年 カリビアン石油会社,マラカイボ湖畔で石油採掘に成功.以後、急速に産油量が拡大.

1920年

20 石油法成立.石油産出に高額の税を義務付ける.この負担増にもかかわらず,石油産出はさらに増大.

1922年

6.24 ゴメスが大統領に連続再選される。第一副大統領には弟のフアン・ゴメス将軍。

12月 シェル石油、マラカイボ湖東北岸のラ・ロサでバロッソ試掘井を発見。1日あたり10 万バレルに達する。

23年 シェルの成功に続き、New Jersey 、Gulf など多数の外資系企業が相次いで石油開発に参入、ベネズエラで熱狂的なオイル・ラッシュが始まった。

22 チャベスによれば,この年、彼の曽祖父ペドロ・ペレス・デルガノ(マイサンタは彼の愛称らしい)はバリナス州サバネタ地方で反乱を起こし、悪名高く冷酷な知事の処刑をおこなう.その後捕らえられ,7年の獄中生活の後獄死.

23年 グスタボ・マチャド、テニスの全国チャンピオンとなる。また野球でもカラカスの有名チームの花形選手となる。いっぽうで反ゴメス運 動にも深入りするようになる。(キューバのアントニオ・メリャとよく似た経歴です。メリャもハバナ大学でバスケットボールの花形選手だったといわれます)

23年7.01 ファン・ゴメス将軍、大統領官邸で暗殺される。

25 石油輸出額,コーヒー輸出を抜き1位となる.累積した対外債務はほぼ清算される.しかし、石油産業は資本集約型であり、雇用を増やさ なかった。激しいインフレの中で、失業者があふれた。農業は大量の輸入農産物に対抗できず、農村は崩壊した。社会は急速に二極化して行く。

24 マチャド、キューバに逃れ、「自由ベネズエラ」紙の執筆者となる。

25 マチャド、ホセマルティ人民大学運動を通じて共産主義に接近。アントニオ・メリャらとともにキューバ共産党の創設に参加。

26 グスタボ・マチャド,キューバ政府の迫害を受けメジャらとともにメキシコに亡命.現地で亡命者を集めベネズエラ革命党結成(共産党の前身).

26年 カラカスの人口は13万人に達する。農村を離れた失業者が、カラカスを取り巻く山腹に巨大なスラムを形成、ランチョと呼ばれるようになる。

27年 マチャド、ニカラグアのサンディーノの弟ソクラテスとともに米国内を行脚。

1928年 反ゴメス闘争の最初の高揚

2 カラカス中央大学生のホビト・ビジャルバ(Jovito Villalba)ら3人、反政府の演説を行ったとの容疑で逮捕される。ロムロ・ベタンクール、ファン・バウティスタ・フエンマヨールを中心とする学生らは、自らも逮捕するようもとめ、大統領宮殿に押し寄せる。

2 ゴメスは学生200人を逮捕することでこれに応じる。大衆の抗議デモに対し、警察は銃剣で弾圧。多数の死傷者を出す。

2月 学生らは、関係のある青年将校の手引きで大統領官邸に乱入。数日間にわたり占拠.ゴメスは大学を閉鎖し学生活動家多数を逮捕。多くが獄中で死亡。彼らは後に「1928年世代」と呼ばれるようになる。

3 ベタンクールは逮捕されたあと国外追放処分を受けクラサオ(キュラソー)に亡命.ラファエル・カルデナ・ロドリゲス、ラウル・レオーニらが行動を共にする。

28 メキシコのグスタボ・マチャドら,コミンテルンの指導の下に反ゴメスの武装闘争をよびかける.マチャドはメキシコから追放されパリに渡る。

28年 学生の影響を受けた反ゴメス勢力が、J. R. Gabaldonを指導者として、ララ州、トルヒージョ州、ポルトゲサ州で反乱を開始。まもなく政府軍により鎮圧される。ほかにいくつかの上陸の試みがあったが、すべて失敗。

28年 ニュージャージー・スタンダードが、マラカイボ湖底で巨大な量の石油を掘り当てる。

29.4.19 ゴメス、二度目の大統領任期を終える。議会はゴメスの三選を推挙するが、ゴメスは辞退。国軍にもどり最高司令官となる。その後2年間は、フアン・バウティスタ・ペレスなど二人の臨時大統領が務める。

29 この年産油量は日産37万B、年間1億3700Bに増加。R.D.Shell、New Jersey 、Gulf の3 社が主導的役割を演じ、1930 年代後半にはこの3社で生産量の90〜95%を占めるようになった。

29年 ベネズエラはメキシコを抜き,世界第2の石油産出国、世界第1の石油輸出国となる.石油はベネズエラの輸出の76%を占め、政府の歳入の半分に達する。

30 マチャド、ニューヨークに入り「ヒスパニック労働者センター」を創設。

1931年

3.05 ベネズエラ革命党を母体として,ベネズエラ共産党が創設される。コミンテルンのコーンフェダーの指導の下に国内に潜入,地下活動開始.初期の指導者はフアン・バウティスタ・フエンマヨール(Wikipediaによる)。他著ではRodolfo Quintero, Juan Bautista Tamayo, and Francisco Jose Delgadoら。ベタンクールらのグループはこれには加わらず。

3.22 バランキージャにわたったベタンクールら,亡命学生を集めマルクス主義的傾向をもつ左翼組織ARDIを結成.指導者はゴンサロ・バリオス、ラウル・レオニ、ルイス・ベルトラン・プリエト・フィゲロアら。

6月 マチャド、政府転覆を企てたとして米国官憲に捕えられる。大衆の抗議によりベネズエラヘの追放を免れ、ソ連に赴く。コミンテルンの職員となる。

7.13 ゴメス、4度目の大統領に就任。

31年 Arevalo Cedeno将軍らが反ゴメスの反乱を起こす。

32 ベタンクール,コスタリカに亡命し現地の共産党結成に参加.

32 マチャド、コミンテルン執行委員会を代表してスペインに入る。カタロニアで鉱山労働者の戦いを組織し、カタロニア共産党の結成に努力する。

32 国内で非合法活動を続けたフエンマヨール、捕らえられ3年の獄中生活に入る。

32年 ベネズエラはペルシャ、アメリカをしのぎ、イギリスへの最大供給国になる。政権交代による資産没収を恐れるスタンダード石油はアルバ島、シェルはキュラソー島(いずれも蘭領)に精油基地を移動。

33 マチャド、スペインで官憲に捕えられ、8ヶ月を獄中で過ごした後脱走に成功。ソ連に戻る。

1935年

35 フエンマヨール、獄中生活の後コロンビアに亡命。石油労働者の組織を指導。共産党の指導の下に最初の石油労働者の組合が結成される。

12.18 ゴメスが78歳で病死。これを機にカラカスとマラカイボで大規模な民衆暴動。商店が破壊され商品が略奪される。ゴメスの家族、協力者は虐殺される。マチャド革命党書記長,国内に潜入(一説によれば41年に帰国を許される).

12月 ホセ・エレアサル・ロペス・コントレラス国防相、軍を動員し暴動を鎮圧。ロペスは日本で言えば薩長閥にあたるタチーラ州出身の軍内エリート(tachirense)だった。

1936年

1月 暴動を鎮圧したエレアサル・ロペス・コントレーラスが、国政支配権を掌握.翼賛議会は、ゴメスの残り任期を務める暫定大統領にロペスを指名。

4.29 ロペス将軍が大統領に就任。権力基盤安定のため、市民的自由と諸派の政治活動を容認。多くの政治犯を釈放し、拷問や暴力を抑制 し、最悪の抑圧機構を解体。労働法が議会で成立し労働運動に一定の保障が与えられる。これに応じ多くの亡命者が帰国し政党の組織を開始する。

4 ベタンクール,共産主義と決別.コスタリカ共産党を離党し帰国.ラウル・レオニら学生運動出身者とともに,「ベネズエラ機構」(Organizacion Venezolana: Orve)を結成。機関紙「ORVE」を発行.一般には「4月ブロック」と称する。

5月 28年世代のもう一人の生き残り、ホビト・ビジャルバが亡命先から帰国。マルクス主義を志向する立場からベネズエラ学生同盟(FEV)を再建。

6月 新たに結成された石油労働組合を中核に、最初のゼネストが成功する。石油労働組合,鉄道労働組合,全国商業従業員労働組合 (ANDE)を中心に全国ベネズエラ労働組合連合(CTV)が結成される.PDNの強力な支持基盤となる.共産党は新憲法でも依然として非合法のままで あったが、多くの党員が亡命から帰国しベネズエラ共産党を再編成する。

7.20 憲法改正。内戦を避けるため、大統領任期は一期5年に短縮される。

10 オルベを母体に左翼諸派が合同し、合法的単一党,民族民主党(PDN)へ改組.新興の工業ブルジョアジーを基盤とし,一部プロレタリアートもまきこむ.書記長にベタンクールが就任.

11月 オルベが選挙登録を申請。ロペス政権はこの申請を拒否。

12月 石油労働者のゼネストは強権をもって弾圧される。

12月 ロペスが大統領選に勝利。

36年 ゴメス死後,石油会社はあいついで本社をマラカイボからカラカスに移転.

1937年

1 ロペスが大統領に就任。教育協会、保険・社会援助局を創設するなど民衆の生活改善の姿勢を示す。スペイン亡命中の国民的文学者ロムロ・ガジェゴス,ロペスの要請を受け教育担当大臣に就任.

2 ロペス,民主化の「行き過ぎ」にブレーキ。昨年合法化された労働組合に対し、「違法な政治的活動に加わった」として非合法化.

2月 ロペス政権、与党以外のすべての政党を禁止する。PDNは非合法化され、幹部はふたたび海外亡命.逮捕を逃れたベタンクールは,3年間にわたり地下活動.学生や組合活動家のなかに組織を拡大.

2月 ロペスは政治活動の自由を禁止する代案として「経済改革」を主張。中央銀行の創設にくわえ、国営の「工業・農業発展銀行」を創設。 「石油を耕せ!」のスローガンの下に新油田の開発、経済・社会インフラストラクチュアの整備を打ち出す。これらの壮大な計画は、結果的には実効ゼロだっ た。

8月 マラカイでベネズエラ共産党の第一回全国大会。書記長にフエンマヨールを選出。会議ではブラウダー主義を唱えるグスタボ・マチャドとの対立が明確となる。

38年 カルデラらカトリック保守派の学生たちが,全国学生同盟(UNE)を創立.後のCOPEIの母体となる.

40年12月 タチレンセの一人、イサイアス・メディナ・アンガリタ国防相が大統領選に出馬.地下のPDNはロムロ・ガジェゴスを候補に選挙戦を闘う.

1941年

4.28 メディナが国民議会の承認を経て大統領に就任。文民政治の復活を目指し、政治活動の自由を認め、PDNなどの合法化に乗り出す.

9.13 PDNが合法化される。PDNは党内から共産主義者を一掃し民主行動党(AD)と改称.特に地方で影響力を拡大.労働運動の主導権も共産党から奪う.

42年 ベネズエラ革命党も共産党と改称し労働者の主要部分を確保.全国学生同盟は「選挙行動」を作り大衆闘争に乗り出す(翌年,国民主義行動と改称).

42年 メディナ政権、ロペス時代を上回る野心的な経済発展計画を提唱。ドイツの潜水艦がベネズエラ石油の輸送タンカーを次々と攻撃したため、計画は不発に終わる。

1943年

1月 議会選挙。ADは地方議会を中心に大幅な進出。

43 石油法(炭化水素法)制定.スタンダード(Standard Oil of New Jersey),シェル,ガルフの三者と政府とのあいだに画期的な「利益折半の原則」をうたい,利権料の引き上げ,国内での原油精製の義務化を規定する.実際には実行されず.

1944年

12月 メディナ、国会議員選挙にあたり自らの政党としてベネズエラ民主党(PDV)を組織。合法的な選挙で勝利する。

44年 共産党の指導するバス運転手のストライキ。当時学生党員だったミキレナは、41年以降、労働者を偽装して労組の書記長となり闘争を指導、逮捕される。

44年 石油法の財源を元に、国内開発が活発化。建設ブームを迎える。初めて所得税が導入され、社会保障法が議会を通過する。

1945年 第一次ベネズエラ革命

6 タチレンセの身内主義とプロ意識の欠如に怒る軍若手将校は、秘密結社「愛国軍人同盟」 (Union Patriotica Militar-UPM)を結成する.UPMはクーデター計画を作成し,ベタンクールに首相就任を要請するが、ADはこれに同意せず.

9 メディナ,11月に予定される大統領選挙に,駐ワシントン大使ディオゲネス・エスカランテを指名.エスカランテがリベラルな傾向を持つ民間人であったことから事態は紛糾.ADはエスカランテ指名を歓迎.ロペス前大統領の指名を期待した右翼は激怒.

9 与党内でロペス派とメディナ派の対立が激化.エスカランテは体調を崩し立候補を断念.メディナ派は危機に陥る.

10.01 メディナ,エスカランテの擁立を断念すると発表.改めて身代わり大統領を擁立しようと図るが、ADとの交渉は不調に終わる.ADはメディナの専断的傾向に反発し,UPMとの協力を決断.

10.18 強硬突破をはかるメディナに対しペレス・ヒメネスらUPMの反乱.政権転覆に成功(十月革命).暫定軍事評議会を立ち上げる。

10.19 暫定軍事評議会,革命評議会を創設しベタンクールを議長に選ぶ.ADから4人,将校から2人,独立派1人がメンバーに指名される.

10.21 革命評議会、ベタンクールを暫定大統領に指名。新政権は石油会社からの利益で経済発展公社を設立.初等教育の充実,農地改革の着手,労働者・農民運動の育成などに取り組む.労働者の権利を認め,労働省を新設.レオニは労相に就任.

10.21 軍事評議会は、軍内の改革に集中。中佐以上の高級将校を退役させる.この結果,カルロス・デルガード・チャルバウド,フリオ・バルガス,マルコス・ペレス・ヒメネスの各少佐が軍トップになる.

10.30 米国、新政府を承認し外交的援助を与える。

46年 エドアルド・マチャドとミキレーナを中心とするグループ、ベタンクール政権の評価をめぐり共産党から離脱。ブラウダー主義に対する闘争を開始。彼らの結成したプロレタリア革命党(PRP)は、二人の名をとり「マチャミキス」と呼ばれる。

1946年

1.13 「国民主義行動」党,キリスト教社会党に再編.正式名称は独立選挙政治組織委員会(Comite de Organizacion Politica Electoral Independiente: COPEI).ラファエル・カルデラ・ロドリゲスが指導,都市の新興ブルジョアジーと教会勢力・軍内保守派を代表.米大使 館や海外の資本もCOPEI支持に回る。

3.12 AD創設メンバーの一人ホビート・ビジャルバ(Jovito Villalba),AD内の反ベタンクール派を糾合し民主共和同盟(URD)を創設.メディナ政権を支持してきた中小企業家,知識層,報道関係者など都 市中間層を基盤とする.他に指導者としてDionisio Lopez Orihuela, Enrique Betancourt Galindezなど。共産党を離脱した Luis Miquelenaも参加する。

3 新選挙法が定められる.女性を含む18歳以上の普通選挙権が実現.全政党が合法化.完全な比例代表制となる.有権者は、国民の5パーセントから36パーセントまで拡大。市議会と州議会から二院制の国会まで自由・直接選挙制となる。

10.27 制憲議会選挙が実施される。ADが137議席を得て圧勝。

1947年

7.05 制憲議会、民主的新憲法草案を承認。「社会正義とより良い労働条件」を謳う。労働者保護政策は内外石油資本家の反発を呼ぶ。さらに公教育の推進と宗教教育の制限は,カトリック教会の反発を呼ぶ.

12.14 ベネズエラ総選挙.79%を獲得したADの圧勝に終わる.大統領には,AD所属で国際的文学者のロムロ・ガリェゴスが当選.(ガリェゴスの正式名はRomulo Angel del Monte Carmelo Gallegos Freire とえらく長い。洗礼名のAngel del Monte Carmeloは通常省略される

47年 旧ベネズエラ革命党を中心に共産主義者の諸潮流が統一してベネズエラ共産党を再編成。選挙ではマチャドを議会に送り出す

47年 ADを支持する大衆組織として労働者同盟,農民同盟,石油労働者同盟がつぎつぎに結成.国内外の経済界には反発が広がる.

1948年 軍事独裁の復活

2.15 ロムロ・ガジェゴスが大統領に就任.国防相にはデルガドが就任.保守派野党を考慮することなく、次々と革新的政策を実施。

2.17 共産党、機関誌「トリブーナ・ポプラール」を創刊。「パン、屋根、土地、民族解放」をスローガンとする。

5月 地方選挙。大統領選挙・議会選挙に引き続きADが73%を獲得して地すべり的圧勝。

10 ガジェゴス,ADの提案した広範囲の農地改革議案に署名.さらに軍事予算の削減と人員整理で軍部を怒らせる.石油法にもとづく利益折半原則の完全実現を迫ったADは,米国の怒りも買う.

11月中頃 UPMは,最後通告を大統領に手渡す.この文書でコペイの政権参加とベタンクールの国外追放を求める.ガジェゴスはこれを拒絶.ガジェゴスに反発したカルロス・デルガド国防相はクーデターの陰謀に加担することになる。

11.24 デルガド国防相をトップとする軍部により無血クーデター.ガリェゴス大統領,ベタンクールらAD幹部が国外追放される.その後ベタンクールは米国,コスタリカなどを転々としながらADの指導にあたる.共産党は当初、反ADの立場からクーデターを支持する。

11.24 デルガド国防相を議長とし,マルコス・ペレス・ヒメネス,ルイス・フェリペ・ジョベラ・パエス、ヘルマン・スアレスによる軍事評議会が発足.デルガドには実権なく,実質的指導者はペレス・ヒメネス大佐.47年憲法の無効および1936年憲法の復活を宣言.

12.05 軍事評議会,国会を解散しADの活動を禁止.石油会社と新たな契約を締結。労働法と農地改革法を破棄し,石油労働者同盟を非合法 化.南欧からの労働者移民を大量に受け入れるとともに,労働運動の弾圧に乗り出す.これにより石油会社は1万人を首切り,生産量を35%増.

49.1.21 ブラジル、パナマに次ぎ米国も軍事政権を承認。

1950年

5.16 軍事政権、共産党(フアン・バウティスタ・フエンマヨル書記長)を非合法化。国家安全保障局(Seguridad Nacional)と呼ばれる秘密警察が活動家を逮捕し強制収容所にぶち込む。残る野党は賄賂と欺瞞、暴力の組み合わせで支配する。

11.13 ペレス・ヒメネスに対する批判を強めたカルロス・デルガド議長,暗殺される.ヘルマン・スアレス・フラネリッチが後継議長に就任。実権はヒメネスの手に。

50 この年、カラカスの人口は50万人に達する。第二次大戦後、50万のヨーロッパ人がベネズエラに移民し、その多くがカラカスにとどまったとされる。

1951年

4月 ポンペヨ・マルケス、グスタボ・マチャドらの主流派が、フエンマヨール政治局員を除名。フエンマヨールはその後政治活動を離れ、大学での研究に専念。

7.05 共産党、政治囚の釈放を求め街頭行動を展開。多くの活動家が逮捕される。

10.13 カラカスでAD,共産党なども加わった軍事反乱の陰謀が摘発される.弾圧により9人が殺害される。その後もADは地方を中心に組織を維持。

1952年

5.11 ペレス・ヒメネス、制憲議員選挙の実施を決定。独立選挙戦線(Frente Electoral Independiente)を結成し、勝利を目指す。URDは党首ビジャルバを押し立て、軍政と対決姿勢を示す。地下のADはURDを全面的に支援。COPEIはカルデラを立起させ、独自の闘い。

9.29 軍事政権に対する反乱計画が摘発される。事件にかかわったとして8人が殺害される。

11.30 制憲議会選挙が行なわれる。FEIが59/104議席を獲得し勝利。国内で政治活動を続けていたURDは29議席を獲得。

一説によれば、選挙ではURDが圧勝。ペレス・ヒメネスは開票を中止させ、自ら大統領を宣言。ほかの評議会メンバーは「休暇」の名目で海外に追い出される。ヒメネスは大規模な反対派弾圧作戦に乗り出し、URDとCOPEIの指導者も海外に追放される。

12.01 選挙の不正に抗議したURDのイグナシオ・アルカヤ議長が逮捕される。労働者は48時間ゼネストで抗議、各地で反乱が起こる.

12.02 ペレス・ヒメネスは大統領就任を宣言し、事実上のクーデターにより軍事独裁体制に移行.ペドロ・エストラダは国家保安警察を率 い,千名近い人々を逮捕.オリノコのジャングルに建てられたグアシナ島強制収容所に送り,虐殺.ベネズエラ労働総連合は解散,カラカス中央大学は閉鎖され る.

52年 サントス・ホルメ共産党書記長,米帝と軍事独裁を非難するとともにベタンクールを厳しく批判.共産党,軍部と非公然の協力関係を結ぶ.多くの活動家は党を離れADに流れる.

1953年

1.10 ペレス・ヒメネス,制憲議会の選出を受け臨時大統領に就任.ヒメネスは「新国家思想」のスローガンを掲げ、「脱政治・物質的文明の発展と物理的環境の征服」をうたう。

2 大統領選挙は間接選挙に切り替えられ,ヘルマン・スアレス・フラネリッチが就任.

4.11 制憲議会、新しい憲法を承認。国民投票を経ないまま14日より実施に移される。

4.19 制憲議会、憲法にもとづきヒメネスを大統領に選出。「6人の大佐」が内閣を支配する,事実上のペレス独裁体制に移行.(ヒメネス独裁時代の情報についてはきわめて錯綜しています。決定的な文献を探索中です)

1954年

3.28 カラカスで第10回米州諸国会議.米提案の反共宣言を採択.ニカラグアが反対.

3月 共産党、米州諸国会議に抗議し無届けデモ。多くの活動家が逮捕される。

6.10 反ヒメネス派のレオン・ドロス・ブランコ中尉,コロンビアのバランキージャで殺害される.ヒメネスの直接指示によるもの.

7.28 チャベス、西部バリナス州のサバネタス・デル・オリノコ川の河畔の村に生まれる。両親は学校教師であった。曽祖父マイサンタはエ ゼキエル・サモラ軍の参謀で、サンタ・イネスの戦法を立案したといわれる。またゴメス独裁に対する武装抵抗運動を指導し、捕らえられた後獄死。

54年 アイゼンハワー米大統領、ペレス・ヒメネスの功績をたたえ、Legion of Merit勲功章を与える。

1957年

5.01 ローマカトリック教会、ペレス・ヒメネスの民主主義蹂躪を公然と非難。

6.11 ADとURD、ヒメネスの再選策動に反対して愛国戦線(RF)を結成することで合意。

7月 ベネズエラがアルゼンチンと国交を断絶。ペロンの亡命を受け入れる。

10 ニューヨークで民主共和同盟(URD)のファブリシオ・オヘダ,ADのベタンクール,COPEIのカルデラの3党首による共同声明発表.共産党は協定から排除される.

10 共産党,武装組織委員会を結成.ダグラス・ブラボ,テオドロ・ペトコフが指導.武装グループの編成を開始。

12.15 ペレス・ヒメネス,さらにもう1期の大統領職を求め,欺瞞的な国民投票を施行.投票終了の2時間後に、有権者の72パーセント(一説に85%)の信任を獲得したと発表。

12月 三党に軍の一部幹部も加え,ペレス・ヒメネス放逐で合意.

 

1958年
 

58年1月 立憲クーデター

1.01 マラカイ(Maracay)空軍基地で、ウーゴ・フエンテス将軍、ヘスス・マリア・カストロ・レオン大佐の指導の下に反乱。モンカダ中佐の率いる反乱部隊の飛行機がカラカスを爆撃して,多くの施設を破壊.各地で呼応した反乱の動きひろがる.

1.02 ペレス・ヒメネス政権,マラカイの反乱を鎮圧.市内の治安を回復.

1.05 エル・シレンシオで共産党武装組織委員会の指導による武装デモ.軍と衝突.

1.09 空軍に続き海軍が反乱を開始.ウォルフガング・ララサバール海軍少将が指導。ララサバールは1月2日に海軍司令官に就任したばかりであり、陰謀に直接加担していた可能性は低い。全国スポーツ協会の会長を務めた経歴などから名望を買われ担ぎ出されたものと思われる。

1.14 カラカス市内で反ヒメネスの街頭デモが始まる。1週間にわたり連日展開されたデモでは、政府軍により市民300人が殺されたといわれる。

1.21 全土でゼネスト入り.百万人が参加.地下統一組織ベネズエラ愛国戦線結成.URD,AD,PCVの他学生連盟,労組代表よりなる.

1.23 カラカス市を中心とする広範な大衆蜂起の中で,ララサバール海軍少将によるクーデター.陸海軍指導者5人からなる軍事評議会,ペレス・ヒメネスを国外追放に処す.

午前3時 ペレス・ヒメネスは飛行機でマイアミに逃亡.その後ドミニカのトルヒーヨの下に亡命.国庫から数百万ドルを持ちだす。

1.24 5人の将軍よりなる軍事評議会が成立。ララサバールが議長に就任。この間の闘いで死者300名、負傷者は1千名以上に達する。

1.24 ゼネスト委員会の要請を受け、軍事評議会に2人の民間人を加えたフンタが結成される。ゼネスト委員会は愛国評議会に発展・改組され る.議長にURDのファブリシオ・オヘダが就任.URD,AD,COPEIのよりあい所帯.一連の事件で300人の死者,千名以上の負傷者.

1.28 米国、暫定軍事政権に外交的承認を提供。政府は5億ドルの対米債務を確認。

4月 PCV中央委員会開催。共産党を排除する愛国評議会に対する評価が議論となる。左翼派の形成をもとめる意見は否定され、評議会の全面支持の方針が承認される。

5.13 ニクソン副大統領,LA各国を訪問.カラカスではデモ隊の投石により車の窓ガラスが破れるなど強烈な洗礼を受ける.グアンタナモの米海軍は「哀れなリチャード」作戦を発動.艦船が領海線上まで進出.

7.22 Jesus Maria Castro Leon国防相、カラカスで軍事クーデターを試みる。

9.07 ホセ・メンドーサ中佐とレグロ・ビバス・ラミレス少佐の率いる陸軍憲兵部隊が反乱を起こし、ミラフローレスの大統領宮殿を占拠。市民は憲兵隊本部を襲撃しこれに対抗。20人の犠牲者を出して、反乱は鎮圧される。

9月 PCVのヘルマン・カレーラ・ダマス、憲兵反乱事件を人民が権力奪取に向け一歩を踏み出したものと評価。PCVはこれを公式見解とせず。

10.31 共産党を除く三大政党が、「プント・フィホ休戦協定」に署名。「1月23日の精神」を貫き、いかなる選挙結果であっても尊重し、政権を各党が共同で担うことで合意。プント・フォホはカリブ海に面したリゾート地で、カルデラの別邸があった。

11.14 ララサバール、軍事評議会を辞し、愛国評議会左派の候補として大統領選挙に臨む。URDとPCVの結成した民主連合が推す。後任の軍事評議会議長にはエドガルド・サナブリアが就任。

11月 三党の経済政策に関する合意が成立。「原則と統治計画に関する宣言」が発表される。厳しい財政事情を抱え、資本主義経済システムを そのまま維持することとなる。このため資本蓄積、私有財産の尊厳を原則とする。国内産業は外国との競争から保護され、ベネズエラ開発公社 (Corporacion Venezolana de Fomento:CVF)を通じて助成金が与えられる。土地資産の権利は尊重され、いかなる収用にあたっても資産価値に見合った十分な補償が行われること となる。

12.07 大統領選.ベタンクールは49%を獲得し,ララサバール将軍を破る.ララサバールは35%を獲得。カラカスを含む都市部では圧勝.COPEIのカルデラは16%。

12.07 国会議員選挙。下院はAD73議席、URD34議席。分裂を克服したPCVは16万票を獲得。上院1,下院6議席を確保(一説に9議席).首都圏の連邦区においては7万票を獲得し第2党となる.

 

1959年

1.23 キューバ革命に成功したカストロ,みずから政府代表団をひきいカラカスに赴き,ベネズエラ国民の支援に感謝を表明する.米国務省はこれをカリブにおける米国の覇権に対する「ナセル流の野心」と警戒.

1.23 シレンシオ広場でカストロ歓迎集会。30万人が参加。カストロの回顧によれば、ベタンクール次期大統領に言及したところ、会場からは巨大な嘲笑が沸き起こり、挨拶がつまづいてしまったという。

1月 ベネズエラ共産党が第19回中央委員会総会。ベタンクール政権を合憲的政権として支持すると声明。

2.13 ベタンクール,2度目の大統領に就任.ベタンクール政権には,プント=フィホ協定(3党連立協定)にもとづきURDからも数人の閣僚が参加.

2月 新労働憲章が制定される。組合結成および団体交渉について政府が権利を保証。

4 カラカス中央大学(UCC)の学生自治会中央組織である大学戦線,4党の共同をうながす声明.

5月 ベタンクール、三党合意を裏切り旧ヒメネス派と和解。独裁時代の人権犯罪を容認し、給料引き上げ、装備の充実などを約束。徴兵制度の継続を保証。

7月 ベタンクール、軍部と支配階級の利益を最大限に保証する新経済政策を発表。国家財政の破綻・膨大な対米債務・原油国際価格の低迷という三重苦の中で、極度の緊縮財政と石油産業を握る米国への屈服を迫られる。

7 URDとPCVとのあいだに共同成立.

8.04 カラカスで新政権の経済政策に対する失業者5千人が抗議デモ。警官隊と衝突。市民1人と警官3人が死亡。学生の街頭反乱あいつぐ.その後3年間の在任中,ベタンクールは徹底した大衆運動の弾圧にあたり,8百人を殺害,1万8千人を逮捕.

11 URDの閣僚は、ベタンクールの財政再建策に抗議し辞任,民主連合は野党に移る.

 

1960年:ゲリラ戦の開始

2月 カラカスの「エル・ムンド」紙、共産党内に中ソ論争の影響が波及と報道。グスタボ・マチャドの率いる主流派は平和共存路線、ポンペヨ・マルケスらは中国よりの路線を主張。

3 農地改革法公布.土地の再分配,農業金融制度の充実,流通面の整備などにより農業人口の定着をはかる。

ベタンクールの農地改革: 地主層の離反を恐れ、微温的な態度に終始したことから、事実上失敗に終わる.公有地とペレス・ヒメネス派の私有地の再分配に留まり、大土地所有制の根本的な解体にまでは至らなかった。土地の交付を受けたのは、その後の十年間で16万家族にとどまる。

3 アルベルト・ドミンゴ・ランヘルらAD左派,農地改革の実施をめぐりベタンクールらと激しく衝突。党から除名される。

4.09 AD左派,コロンビア国境附近のスクレ州でホセ・アントニオ・パエス戦線を結成,ゲリラ戦開始.

4.20 政府は、サンクリストバルの反乱を鎮圧。市民2人と兵士1人が死亡。

4月 AD左派が独自の政治組織として左翼革命運動(MIR)を結成.ベタンクールを「革命の裏切りと米国帝国主義への屈伏」と非難. キューバ革命の影響を受け武装闘争路線をとる.

4 国営石油公社(Corporacion Venezolana de Petroleos:CVP)設立.石油産業への民族資本の参入実現.

6.24 カラカスにおける観兵式の際,路上におかれた自動車が爆発.ベタンクールは火傷を負い,随行員二人が死亡.米州機構総会で「人権侵害」を非難されたトルヒーヨが,報復のため旧ペレス派の支援を行ったことが判明.

6.25 Betancourt大統領、ドミニカ共和国を暗殺未遂事件への関与で非難。

7.01 ベネズエラ政府、暗殺未遂事件を米州機構へ提訴。「右翼であれ左翼であれ、軍事力によって権力を獲得した政権は一切承認しない」とするベタンクール・ドクトリンを発表。

7.08 ベネズエラ政府の提起を受けた米州機構会議、5人のメンバーからなる査問委員会を設立。

8.15 サンホセでOAS外相会議.米州機構査問委員会は、トルヒーヨがベタンクール暗殺未遂事件の黒幕であったことを明らかにする。OASはドミニカとの国交断絶を決議.同じ総会で米国はキューバの権利停止を提案。ベネズエラはこれに同調。

9.14 バグダードで石油輸出国機構(OPEC)設立総会.イラク、イラン、クウェート、サウジアラビアとベネズエラが参加。本部をウィーンに置く。イランのフ アード・ルアニ(Rouhani)が事務局長に就任。ベネズエラのファン・パブロ・ペレス・アルフォンソ石油・鉱山相が政策について指導的役割.国際石油 資本の原油価格操作に反発し価格決定に対する関与を要求.

10.24 カラカスの反政府デモが暴動化。6人が死亡。デモはその後1週間にわたり続く。MIRと共産党はカラカス市内で武装抵抗運動を組織.バリオの撤去と高層アパートの建設に反対する住民が、実力で官憲に抵抗。

10月 ベタンクール、軍を総動員し「マクアレ計画」開始.カラカス市内の反政府派の拠点をすべて摘発.共産党機関誌の発行を停止.大衆闘争の根絶をはかる.

10月 カラカス中央大学の自治会選挙で、共産青年同盟のテオドロ・ペトコフ(当時経済学部在籍)がAD青年同盟候補を破り当選。初の共産党系自治会長が誕生。

テオドロ・ペトコフ: 32 年生まれの共産党活動家。父はブルガリア共産党員として23年の蜂起に参加。母は医師でポーランド出身のユダヤ人。カラカス大学医学部、経済学部を中退 し、軍事独裁政権の下で地下活動に入る。弟のルーベン・ペトコフも、のちに兄の影響を受けFALNに参加、ゲリラ幹部となる。

11月 ベタンクールの反共政策に反発を強めるURDは、閣僚を引き上げ、連立を解消する。

60 この年、カラカスの人口は137万人に達する。地方からカラカスに流れてきた貧民が「ランチョ」(元々は畑小屋の意味)と呼ばれるスラム街を形成。人口の4割を占めるようになる。

 

1961年
 
1.23 「1月23日の精神」をうたう新憲法が成立。大地主制改革、労働者の権利保証など広範囲に社会的権利が認められるが、実態とは大きく乖離。

2 軍の一部による反乱発生.

3 共産党,第3回党大会を開催,武装闘争をふくめた反政府闘争の方針を決定.ヘスス・ファクアを書記長に選出.

6.26 バルセロナとラ・グアイラで陸軍内左派によるクーデターが起きるが失敗.指導者はRuben Masso Perdomo少佐とLuis Alberto Vivas Ramirez大尉。この衝突で17人が死亡。

10月 カラカス中央大学自治会、数千の学生を組織し、議事堂までデモ行進。ADの暴力集団や警察機動部隊と、3週間にわたり街頭での激突を繰り返す。カラカス中心部のルーズベルト街ではデモ隊によりバスが炎上,包囲した軍は発砲で応える.

10月 陸軍のシモン・ボリーバル大隊が中央大学を占拠。このあと全土で大弾圧行動.犠牲者は2百名にのぼる.

11.12 ベタンクール,キューバを暴動の黒幕と断罪し断交.キューバは「ベタンクールは米国に追随し,反政府運動を弾圧する独裁政権と 化した」と応酬.これに反対するAD左派が離党.この結果下院は野党が過半数を握り,議長・副議長のポストを確保.州議会レベルでもマラグア,ララで野党 が多数を握る.

11月 政府、共産党のグスタボ・マチャドとテオドロ・ペトコフ、MIRのアルベルト・ドミンゴ・ランヘルの議員特権を剥奪するよう議会に 要請。議会は、マチャドとランヘルについては要請を拒否するが、ペトコフに関しては武器の輸送を指示した電話の盗聴録音を元に免責特権を剥奪。しかしこの 時点で逮捕には至らず。

11月 PCV軍事委員会、飛行機をハイジャック。飛行機はカラカスの谷を数回、超低空で往復し宣伝ビラをばら撒く。乗っ取り犯はキュラソーに着陸。オランダ官憲に拘束され懲役5年の刑を受けるが、ベネズエラ本国には送還されず。その後MIRも同様の乗っ取り作戦を展開。

12 当年度単独で財政赤字2億4千万ドルに達する.政府はIMF借款を受ける代わりに公務員賃金の1割引き下げなどの「経済安定計画」を呑まされる.

 

1962年

1 アンデス州タチラ(Tachira)で運輸労働者のスト開始.たちまち闘争は全国に拡大し、一部で武装行動に発展.カラカス市内でも暴動続発.18人が死亡。

1月 共産党軍事委員会は、軍内活動家に決起を促す。カラカス・グループ、ラ・グアイラの海軍陸戦隊、カルパノとプエルト・カベーリョの海軍基地など。しかし先陣を切る予定のラ・グアイラは決起をためらい計画が露見。反乱分子200名が一斉摘発される。

2 サンクリストバルで農業労働者のストライキ,その後武装蜂起に発展.参加者はその後ファルコン州のメリダ山地を中心にゲリラを組織.

4 下院,ベタンクールの発した非常事態宣言を無効とし憲法の権利を復活させる動議を採択.ベタンクールはこれに対抗し,混乱を理由に共産党,MIRを非合法化し議員資格を剥奪.

4.01 Humocaro AltoおよびHumocaro Bajoの近郊で政府軍と左翼ゲリラが衝突。9人が死亡。

4月 共産党のダグラス・ブラボ,テオドロ・ペトコフがファルコン州プエブロ・ヌエボ北方のロス・エバンゲリオス農場に入りゲリラ闘争を開始。ララ,ファルコン,ポルトゥゲサ州など6つの州でゲリラ戦が活発化.

テオドロ・ペトコフの回想: ブ ラボ家はもともとこのあたりを支配する一族で、エバンゲリオス農場もブラボ家のものだった。同じ地元有力者エルナンデス一族とのあいだに確執があった。ダ グラスはこれを嫌い、いったんカラカスに戻った。テオドロの弟ルベン・ペトコフはトルヒージョで闘ったが、戦士のほとんどはボコノ山地に住む農民だった。 アルヒミロ・ガバルドンはララ州で、同じように農民を組織した。

5.01 FBI職員が直接関与しメーデーに弾圧.各地に暴動発生.カラカスの代表紙「ウニベルサール」編集長,ベタンクールを「無能無策」と批判したかどで逮捕される.共産党本部は無期限占拠.

5.04 モリナ少佐(Lt. Commander Jesus Teodoro Villegas Molina)に率いられる海兵隊,カルパノ海軍基地で反乱.全市をまきこむ戦いとなる.

5.10 ベタンクール、共産党とMIRの政治活動を禁止する。

6.02 シルバ少佐(Lt. Commander Pedro Medina Silva) と ロドリゲス大尉(Captain Manuel Ponte Rodriguez)に率いられる海兵隊千2百名,カラカス西方2百キロのプエルト・カベリョ海軍基地で反乱.同市を確保(portenazo).マヌエ ル・キハーダの率いる市民義勇軍も合流し、政府軍と3日間にわたり交戦。

6.05 ベタンクールはプエルト・カベーリョ爆撃を指令,百二十名以上が死亡.反乱軍は政治囚を解放し退却後はゲリラに合流.

6月 URDのファブリシオ・オヘダ、国会議員を辞し地下に潜行。愛国会議の議長に就任。

7月 テオドロ・ペトコフ、中央委員会との連絡のためカラカスに戻り、そのまま市内に残留。都市のコマンド部隊を組織する活動に従事する。

11月 ベネズエラは、ゲリラに軍事援助を行なっているとしてキューバを訴える。

12月 PCV中央委員会、民族解放戦線への参加を決議。カルパノとプエルト・ベリョの蜂起に対しては「無責任な冒険主義」と非難。また左翼内部での唯軍事主義、無政府的傾向についても批判。

12 民族解放戦線(FLN)結成.農民連盟,労働者連合,大学センター連合など全左翼勢力が結集.軍事組織として民族解放軍全国司令部(FALN)を設置.URDのオヘダが議長に就任。

62年 ベタンクール、国際石油資本に対し、新たな油田探査の停止をもとめる。

 

1963年

1 反政府闘争高揚.FALNは3千人の兵力を擁し,全国20州の内さきの3州のほかヤラクイ,トルヒーヨ,メリダ,フォルマンの7州で作戦展開.(ペトコフによれば、これは誇張で、ララでは最高時300名、ファルコンでは150名。その8割以上が現地農民だった)

2.08 FALN,闘争目標についての声明を発表.(1)政治犯の釈放と迫害されている政党の活動保障,(2)軍民一体の政府の樹立,(3)外国の干渉から独立した民主政治の実施の3点を明らかにする.

2.19 カラカスで反政府デモが警官隊と衝突。20人が死亡。

2月 FALNコマンド部隊,貨物船アンゾアテギ号(Anzoategui)をシージャック.この他アルゼンチンのサッカー選手デ・ステファーノ誘拐、カラカスのフランス印象派展覧会の絵画の窃取と自発的返却、米大使館つき武官の誘拐など。

3.19 都市コマンドを指揮するテオドロ・ペトコフ、バルータ郊外で、ララのガバルドン司令官と連絡中に捕らえられる。ガバルドンは逃亡に成功。FALNコマンドはペトコフ逮捕に抗議し、米系会社への攻撃を強める.

FALN都市コマンド: この時点でFALN都市コマンドは約500人を擁し、5個旅団(PCV2個、MIR2個)に編成されていた。それぞれの旅団は300ないし400人のフロント組織が支えていた。
最小行動単位は5,6人からなる「協調戦略同盟」(Unidad Tactica de Cooperacion)と呼ばれた。この名称は山村ゲリラを正統とするキューバ革命理論の影響を受けたものである。ペトコフは、都市人口が8割近くを占めるベネズエラでは都市ゲリラこそ本流と主張している。

4 政府軍はファルコン州を中心とするゲリラ軍に対し掃討作戦開始.米軍5百名が指揮をとる.ナパーム弾爆撃をおこなう.この作戦で,ファル コン州以外のゲリラ支配地区は壊滅的な打撃を受ける.(ペトコフによれば、ファルコン以外のゲリラは水ぶくれで、闘える兵士はほとんどいなかった)

5 軍事攻勢による壊滅の後,ララ州(ガバルドンが担当),ポルトゥゲサ州(オヘダが担当)で戦線の再建にとりかかる.

6.12 MIR、シウダ・ボリーバルでベタンクール大統領に対する暗殺未遂事件.MIRグループが一斉逮捕される.

7 FALN,全国で作戦展開.カルバノ海軍基地を攻撃.カラカス市内のラプランタ刑務所を襲撃,政治犯6百名を解放.

8.29 テオドロ・ペトコフが第一回目の脱獄。カラカス陸軍病院の7階から手製のナイロン・ロープで脱出。

8月 FALN、12月の大統領選挙を前に大規模な攻勢を開始。

9.30 FALN、政府兵士5人を殺害。

9.30 政府の要請に応え、軍がカラカス市内のバリオ掃討作戦に参加。PCV、MIRの議員数人を含む数百人を逮捕・拘留。

9 ファルコン州のFALNゲリラ,一連の行動で支配区を拡大.戦線復帰したダグラス・ブラボ、地元出身のドミンゴ・ウルビナが戦線を指導す るようになる。さらにカラカスの党員弁護士イポリト・アコスタ、タチラの陸軍基地を脱走したエリアス・マヌイト大尉などが戦列に加わる。

ドミンゴ・ウルビナ(テオドロの紹介): ウルビナは50年に、カルロス・デルガド暗殺作戦に参加し逮捕される。獄中で左翼思想に触れ革命派となる。カラカスの刑務所を脱獄した後ファルコン山中の洞窟に潜んでいた。FALNとの接触に成功し、戦いに加わる。
エリアス・マヌイト: カルパノ襲撃事件を見て、ゲリラ戦への参加を決意。持ち出した機関銃二挺を携えカラカスの党本部に押しかけたという。

10.04 FALN、カラカス市内で掃討作戦に抵抗。政府軍兵士3人、民間人3人を殺害。

10 政府当局、左翼に対し大弾圧。国家転覆を試みたとしてグスタボ・マチャドら共産党とMIRの国会議員23名を一斉逮捕.事実上FALNのアジトとなっていたカラカス中央大学を無期限閉鎖。

1963年11月 大統領選

11.01 パラグアナ半島の無人の海岸でFALNの武器貯蔵庫が摘発される(公式発表は28日)。携帯兵器3トンが捕獲される。政府は武器がキューバから持ち込まれたものであることを確認。

11.13 ベネズエラとベトナムの解放戦線,ハバナで共同声明.

11 大統領選告示.FLN,FALNはボイコットを共同でよびかける.ベタンクール,FALNの背後でキューバが暗躍と非難.カリブ海の緊張高まる.

11月 ララサバール、選挙に向け「人民民主主義勢力」(FDP)を結成。著名な作家であるArturo Uslar Pietriもこれと別に「民主国民戦線」(FND)を創設。

11.19 カラカス市内でFALNの呼びかけた総選挙反対のゼネスト。街のいたるところに配置されたFALNの狙撃手を恐れ、すべての活動が麻痺する。

11.20 カラカス近郊でFALNと軍との大規模な戦闘。34人が死亡。米国軍事使節団のシュンノート大佐(副団長)が,ゲリラにより誘拐される.

11.28 FALN,36人のコマンドによりアベンサ航空機をハイジャック.

11.30 ベネズエラ、キューバの反乱援助問題を米州機構に提訴。

12.01 大統領選,5万人の軍隊を動員して反対勢力を弾圧,8千人の逮捕者を出す.与党民主行動党のラウル・レオーニが当選.抗議行動は 大衆の結集を図れず、事実上敗北に終わる。この後孤立感を深める都市コマンド部隊は、官憲暗殺や公共設備の爆破などテロ活動に走るようになる。

12.03 米州機構会議、5カ国からなる査問委員会(アルゼンチン、コロンビア、コスタリカ、米国、ウルグアイ)を承認。10人の軍事オブザーバーが1週間にわたりベネズエラで現地調査。

63 共産党の指導下にベネズエラ労働者統一センター(CUTV)が設立される。ADの支配するCTVに対抗、最大時5万人を組織したとされる。

 

1964年

2.18 米州機構査問委員会、キューバに対するベネズエラの訴えが実証されたと発表。

3.11 レオニ大統領就任.和解政策を提唱。共産党とMIRを合法化すると発表.これに反対するCOPEIは連立を拒否。

3月 共産党中央委員会、政治的議論と科学的評価がおろそかにされ、「FALN型即決主義」が横行することについて自己批判。また人民を盾と する都市ゲリラ戦術が民衆の離反を招き、党の力を弱めていることについても反省。レオーニの呼びかけに応じゲリラ戦放棄を決議.ダグラス・ブラボらゲリラ 戦指導部はこれにしたがわず.

3月 獄中のMIR指導者ランヘル,武装闘争のための本質的な条件は存在しないとし合法闘争への復帰を主張.現場の指導者の多くはこれに従わず。

3月 FALN,軍委員会を州単位ごとに結成,各地で軍事攻勢.ツルジロ州ボコノでは政府軍50人を殺害.

5 FALN,ポルトゲサ州で軍事行動.2郡を一時占拠.

6.27 ファブリシオ・オヘーダ、獄中のポンペヨ・マルケス(PCV中国派指導者)に書簡。「ベネズエラの状況は不変であり、依然として ゲリラ戦争は権力を獲得するための最高の方法である」と述べる。さらに毛沢東を引用し、「強力な武装した前衛を持たない大衆の闘いは真の歴史にはありえな い」とする。

7.16 アメリコ・チャコンMIR書記長、タス通信のインタビューに答え、「武装闘争の真の条件は当面存在しない」と語り、ランヘルに同調する。

7.22 MIR指導者のエクトル・ペレス・マルカーノ、キューバ紙のインタビューに答え、民族解放運動の内部で二つの潮流が指導権争いをしていると認める。同時に「PCVにおいてもMIRにおいても、戦闘をあきらめようとした人々は圧倒的に打ち破られた」と述べる。

7.11 全国野党戦線が結成される。MIRとURD左派の「民族主義人民前衛」(Vanguardia Popular Nacionalista)が中心となる。ホセ・エレーラ・オロペサを議長に選任。エレーラは、「民族解放闘争におけるフルシチョフの平和共存政策の重要性」を強調し、「平和闘争に専念する」と宣言。

7.23 MIRのペレス・マルカーノ、共産党指導部は全員がFALNに結集していると強調。

8月 人民前衛党,MIR,共産党などが参加し,民族戦線綱領を発表.MIRランヘル派は武装闘争を放棄,共産党も次第に合法活動に比重をうつす.

8月 PCVのエドアルド・ガジェゴス・マンセーラ国際問題担当書記が、中国、ソ連と東ヨーロッパへの2ヵ月の訪問を開始。中国では毛沢東と会談。ガジェゴスはPCV内の戦闘継続派に属していたとされる。

9.18 タス通信、PCV代表団ヘルマン・ライレ中央委員の中国批判発言を報道。

9.26 ガジェゴス書記、モスクワでブレジネフ及びポノマリョフと会談。タス通信は会談の経過には触れず、PCVが「可能なら平和の道をとるよう努力を続ける」ことを強調する。

8月 FALN,FLNにかわりみずから組織委員会を設置.

8月 海軍蜂起の指導者ロドリゲス大佐,とらえられ獄死.

9月 PCV中央委員会、与党ADの党大会に対し書簡。「我々の基本的目的は、あなたがたに、民主主義的方法によって国の平定を達成する可能性を納得させることである。それはベネズエラを血に浸すのではなく平静にさせるためのものである」

書簡を報道したチェコのポリティカ誌は、以下のように背景を説明している。
「大衆はFALNの武装闘争による長期の不安定にうんざりしていた。農民はゲリラに広範な支持を与えていなかった。左翼はこの戦術により大衆から孤立を深めていた。一方で武装闘争は政府をますます右方向=軍隊とアメリカへの依存の方向に押しやっていた。

10月 レオーニ政権が内閣を改造。COPEIと袂を分かち、URDと国民民主戦線(FND)のメンバーを入閣させ、和解の態度を強調する。FNDは著名な作家で社会活動家のArturo Uslar Pietriを指導者とし、財界人を基盤とする政党。

10月 FLNが和平のアピールを発表。「我々、民族解放戦線、左翼革命的運動とベネズエラ共産党は暴力の崇拝者ではない。平和的な闘いがすすめられる条件が確立されるならば、我々は活発にそのような闘いに参加するだろう」と述べる。

11.06 フランスの共産党「France Nouvelle」にFLNの平和アピールが転載される。全国野党戦線のホセ・エレーラ事務局長が、ベネズエラ議会でコピーを配布。

11 政府軍,ララ,ファルコン州のFALN基地に対する集中攻撃を開始.

11 LA共産党大会,ハバナで開催.ベネズエラ,コロンビア,グアテマラ,ホンジュラス,ハイチにおける武装闘争を正規の路線として承認.

12 FALN,東部山地でもあらたに作戦を展開(モナガス州のマヌエル・ポンテ戦線).この他,ポルトゲーサ州のアントニオ・パエス戦線,ファルコン州のホセ・レオナルド戦線,ララ州のシモン・ボリーバル戦線,ミランダ州のエゼキエル・サモラ戦線が戦闘を継続と発表.

 

1965年

2 ダグラス・ブラボ,党からの独立を宣言.パブロ・メディーナらはこれに従わずPCVへの忠誠を表明.FALNは二派に分裂.(パブロ・メディーナはのちにカウサ−Rの指導者となる)

3 FALN,反攻に転じ,ファルコン州を中心に各戦線で戦術的勝利をおさめる.

4月 PCV指導部は合法闘争へ軸足を移すことを決定。武装闘争からの脱却を図る。FALNのダグラス・ブラボ政治局員やルベン・ペトコフ らはこれに従わず武装闘争を継続。MIRの内部でも同様の分裂が起こる。サエンス・メリダの率いるバチジェル戦線が戦闘を継続。めりだの捕らえられた後は アメリコ・マルティンが戦線を指揮。

12 共産党,FALNより正式に撤退.ダグラス・ブラボがFALN指導者に就任,党とFLNの指導に抵抗.レオニ政権,ゲリラに対する掃討作戦を展開.FALNの実効的支配区は消滅と声明.

65年 この年GDP成長率は8%に達する。一方でカラカス市民150万のうち、少なくとも30%が「ランチョ」と呼ばれるスラムに居住。住民の40%が水道なしの生活を送る。

 

1966年
 
1月 ハバナで三大陸人民連帯会議。FALNのパブロ・メディーナ・シルバがラテンアメリカを代表する共同議長となる。

3月 ダグラス・ブラボはFALN外しに対抗し、ベネズエラ革命党(PRV)を結成。 FALN指導部は,共産党の指導を受けないまま部隊を再編成.主なメンバーとして、グレゴリオ・ルナル・マルケス、フレディ・カルテス、フランシスコ・ブラダら。

4 テオドロ・ペトコフ,ポンペヨ・マルケス、フレディー・ムニョスらPCV政治局は,パルチザンと蜂起の結合路線を主張し,フォコ路線に忠実なダ グラス・ブラボと対決.FALN指導部を党の要職からはずす.オヘダによればこの決定は中央委員会の支持を受けていたわけではないとされる。

5月 FLN、共産党の指導を離れ新たに指導部を編成。政治指導をオヘダが、軍事指導をブラボが担当することとなる。また書記長のポストを設け、MIR指導者の受け入れを図る。

6 カラカス市内潜伏中のオヘダFLN議長,密告により捕えられ,拷問のすえ虐殺.かわってマヌイト少佐が議長に就任.カストロはオヘダ逮捕をベネズエラ共産党の裏切りによるものと見る. 

6 ゲリラの最終的壊滅を狙う「ロート作戦」開始.ファルコン州全域で戦闘状態となる.

7.24 ルベン・ペトコフの率いるFALN部隊,キューバからファルコン州に上陸作戦敢行.イラカラ山系のゲリラ部隊との合流に成功(シモン・ボリーバル作戦).壊滅作戦の失敗によりFALNの権威再確立.

8月 FALN、共産党と分離して独自の政治機構を確立.キューバはチェ・ゲバラの派遣を提案するが,PCVは拒否.ミランダ州で独自の戦いを続けていた「エセキエル・サモラ戦線」もFALNに結集.

10 レオーニの親左翼傾向を嫌う軍内右翼が、首都近郊のラモ・ベルデ基地を根拠地としてクーデター未遂事件を起こす.首謀者はいち早く捕らえられ、軍法会議にかけられる。

11 カラカス市内でゲリラ活動ふたたび活発化.

12月 レオ−ニ、軍に命じ、カラカス中央大学に立ち入り捜査。

 

1967年

2.06 共産党指導部のテオドロ・ペトコフ、ポンペヨ・マルケスとギジェルモ・ガルシア・ポンセが、カラカス市内のカンカルロス刑務所からトンネルを掘り脱走に成功。

3.01 FALN、フリオ・イリバーレン・ボルヘス元社会保障庁長官を誘拐・殺害。イリバーレンはAD右派の論客で、10月のクーデター未遂事件にも関係していたといわれる。

3.04 イリバーレンの遺体がカラカス郊外で発見される。政府は憲法の一時停止を宣言。

3.04 共産党中央委員でカラカス中央大学教授のエクトル・ムヒカ、イリバーレン殺害を革命とは無関係の犯罪と非難。遺族に哀悼の意を表明。

3.05 逃亡中のポンペヨ・マルケス、ギジェルモ・ガルシア・ポンセ、テオドロ・ペトコフが、連名でイリバーレン暗殺を非難する声明。「無政府主義テロであり、革命にとって有害」とする。

3.06 FALNのエリアス・マヌイト・カメロ司令官、グランマ紙上で、犯罪者イリバーレンを処刑したことを明らかにする。

3.07 Reginaldo Leandro Mora内相、誘拐・殺害事件はキューバの差し金と非難。OASへの提訴も検討すると発表。

3.09 エクトル・ムヒカ、ベネズエラ共産党を代表し、「FALNの名においてイリバーレン殺害を命じたエリアス・マヌイトとの関係を断絶する」と発表。またマヌイトの声明を掲載したグランマ紙にも遺憾の意を表明。

3.11 前海軍大尉で一時FALNの司令官を務めたペドロ・メディナ・シルバ、「我々の戦闘組織の名を悪用する人々は、敵の共犯者である。イリバーレン殺害者には人民の正義が適用されるだろう」との声明を発表。共同署名者にGerman Claidet, Tirso Pinto, Pedro Vegas Castillonらゲリラ指導者が名を連ねる。

3.13 カストロ,ベネズエラ共産党の武装闘争中止の方針に対し、「革命を裏切った」として公然と批判.ベネズエラ共産党は7項目にわたる反論を発表.

4 官憲,カラカス中央大学に侵入.学生連盟と銃撃戦のすえチェコ製対空機関砲などトラック3台分の武器弾薬を押収.

4.22 マチャド,エクトル・ムシカの率いるベネズエラ共産党中央委員会,武装闘争停止を決定.ダグラス・ブラボを除名.カラカス中央大学はマチャドの義子ブルガルが実権を掌握.

5.08 キューバを出発したモイセス・モレイロを先頭とする12人のゲリラ部隊,ミランダ州のMachurucutoに上陸し戦闘開始.作戦参謀としてレオポルド・シンケ・フリーアスらキューバ軍将校4人も参加.多くは捕らえられた後獄内で自殺.

5.15 ベネズエラ、キューバを米州機構にふたたび提訴。

5.18 キューバ、FALN兵士を訓練し軍事援助を提供したことを認める。

5 ペトコフ,ポンセ,マルケスらPCV軍事幹部5人が、カラカス市内のサンカルロス陸軍基地刑務所からトンネルを掘り、脱獄に成功.ブラボに対抗してPCV派のゲリラ組織を再建.ララとファルコンで作戦展開。

6 軍による平定作戦「カラカス作戦」開始.

7.26 米州機構査問委員会、キューバがベネズエラの反乱軍を支援し訓練したと報告。これを受けOAS理事会はキューバ非難決議を採択。米国は100年間に100回も海兵隊を他国領土に送り込んだが、一度も非難されたことはなかった。

7 石油法(炭化水素法)改正.新規の利権はCVPに独占的に帰属することとなる.既存の石油産業も83年を以てすべて国有化すると宣言.

7 LA連帯機構(OLAS)第1回大会,ハバナで開催.「武装闘争が,LAにおける革命の基本」と宣言.

8.10 カストロ、OLASの閉会演説で「ゲリラを都市から指導しようとすることは愚かであるばかりでなく犯罪でさえある」と発言,ベネズエラ共産党指導部を「えせ革命家のマフィア」と酷評、その路線を日和見主義ときめつける.

7月 ペトコフらのPCVゲリラ、カストロ演説に接し総括を開始。武装闘争を放棄し、都市での活動に復帰。

7月 カラカスを強い地震が襲う。死者300人、負傷者2千人を数える。

10.9 ゲバラ,捕えられ射殺.

12 AD、翌年の大統領選を前に内紛.党内左派を代表するJesus Angel Paz Galarraga書記長の出馬に対し、影響力の保持を狙うベタンクール派が異議を唱える(憲法上の規定ではベタンクールはその次の大統領選挙に出馬可能となる)。

12月 AD党内でゴンサロ・バリオスを指名しようとするベタンクール派が優勢となる。これに反対するパス派は党を離れ、人民選挙運動(MEP)を組織.ルイス・ベルトラン・プリエトを候補に立てる。

12月 与党分裂の結果勝利の可能性が出たCOPEIは、これまでのカトリック原理主義の立場を捨て、リベラルな政策を打ち出す。

12月 党勢の衰えたURDはララサバールの人民民主主義勢力(FDP)、ピエトリの民主国民戦線(FND)と共同。選挙登録政党として「勝利戦線」を形成。ララサバールを党首にすえる。大統領選にはミゲル・アンヘル・ブレリ・リバス(Burelli)を擁立。

67年 CIAに雇われた亡命キューバ人ルイス・ポサダ・カリーレス、ベネズエラに入り「左翼組織抑圧のための傭兵部隊」の顧問に就任。

67年 ヤノマニ先住民の村で麻疹が大流行。少なくとも30人が死亡。別のウィルスに対するワクチン接種が原因と見られる。またブラジル領内のヤノマニ居留地に金採掘者が侵入。彼らのもたらした感染症によりヤノマニ族の過半数が死亡したといわれる。

 

1968年

5月 ベネズエラ共産党のグスタボ・マチャドら、56ヶ月ぶりに釈放される。マチャドが新たに共産党書記長に就任。

6.19 ベネズエラ共産党のグスタボ・マチャド書記長、ベオグラード紙のインタビューに答え、新しい政治路線と戦術を語る。

マチャドの発言要旨: カストロは、ラテンアメリカの全ての革命勢力と共産党が前進しようとするとき、これを混乱と無秩序に陥れようとした。ベネズエラ共産党は過去において親カストロの立場に立ち行動をとった。このことを自己批判しなければならない。
  まず第一に、武力革命が必然的だとする理論は間違っていた。ベネズエラにおいてゲリラ戦争、とくに農民ゲリラ戦争の戦略は非現実的で不合理で誤りである。 カストロは、我々がアルジェリアの解放闘争に類似した闘いを行うよう迫った。しかし、アルジェリア人は外国人であるフランス軍を敵に戦った。
 ではベネズエラのゲリラは誰と戦ったのか? 我々の場合は民族解放戦争ではなく、キューバ革命と連帯するという国際的な特徴を持った革命闘争であった。
  今日ベネズエラの革命闘争にとってもっとも必要なことは、武装闘争ではない。全ての進歩的な勢力による反帝・愛国の人民戦線の形成である。その目標は護 憲・独立の民主連合政府である。人民戦線の下に全国民的な民主主義運動が展開されなければ、これらの目標を達成することは不可能である。
 第二 に、「革命運動には共産党の存在が決定的に重要である」という認識が欠如していたことである。ハバナがレーニン主義の政党の存在を否定し、その廃止を目ざ していたことは明らかである。彼らはスターリン主義の方法と政党を支持した。彼らはカウディージョによって率いられる政党を作ろうとしていた。革命運動に 軍服を着せたがっていた。それは、人々の利益と一致しなかった。
 我々は民主集中制に基づいて、集団的指導制の原則に導かれ、党の新たな発展に乗 り出そうとしている。ベネズエラの共産主義者はカストロの道は間違っていると理解した。いま我々はカストロとともにいるのではなく、我々の国民のもとに行 かなければならない。これが、現在我々がカストロ支持者によって猛烈に攻撃されている理由である。
 我々は、確信を持って国際労働者運動の団結を 支持し、その隊列に加わっている。しかし北京の指導者が提起するような新しい共産主義インターナショナルの試みに対しては、それがいかなる形をとろうとも 反対する。我々は、全ての政党の自主独立と平等を支持する。いまや国際協力の新たな方法を捜し求めることが必要である。このことを前提にしたうえで、我々 はモスクワで開かれる世界共産党会議への出席要請を受け入れることにした。

7.26 カストロ、FALNへの軍事援助を停止したと発表。

8.20 チェコ事件発生.多くのLA諸国共産党がソ連を支持したのに対し,メキシコとドミニカの共産党は干渉反対の態度を示す.ベネズエラ共産党はチェコ事件の評価をめぐり紛糾.党員の半数以上が離党。

12.01 大統領選挙。COPEIのラファエル・カルデラが31,000票の僅差で勝利をおさめる.カルデラは4度目の挑戦で初勝利。 URD=FNDは約20%、MEPのプリエトも20%近くを獲得。前独裁者マルコス・ペレス・ヒメネスも「国家主義市民十字軍」(CCN)を結成し国会議 席の約1割を確保。

68 ベネズエラ共産党のヘスス・ファリア書記長、数年にわたりモスクワ滞在。ポンペヨ・マルケスが書記長代理を務める。テオドロ・ペトコ フは共産党主流派におさまり、立憲民主主義を基調とする平和革命を主張するようになる。ギジェルモ・ガルシア・ポンセを先頭とする古参幹部は、ペトコフ路 線を厳しく批判。

68 MIRのシモン・メリダ議長とアメリコ・マルチン書記長が逮捕される.モイセス・モレイロがこれにかわり書記長に就任.

アメリコ・マルティンは現在、左翼的なポーズでチャベスを攻撃する評論家の一人となっている。娘はなかなか有名な俳優のようである(Sept.2007)

68 フォーブズ・バーナムに反対するガイアナ人グループがEssequibo地域で反乱。ベネズエラ軍が武器を与え訓練したといわれる。一説では、ベネズエラ軍が,エセキボ地方の領有を主張し,ガイアナに軍を侵入させたとされる.

1969年

1月 AD党大会。ベタンクールの秘蔵っ子といわれたカルロス・アンドレス・ペレス前内相を党首にすえ、戦列の立て直しを図る。

3.11 カルデラ,大統領に就任.農地改革と農業生産性の増大、教育・社会福祉の充実、産業の拡大と多様化、石油産業への統制を目指す政策。外交面ではベタンクールの孤立主義を排し、社会主義圏や中南米の軍事独裁国とも関係を結ぶ「多元的連帯」論を打ち出す。

3.26 カルデラ政権、ADの強圧政策を修正し,キンテーロ枢機卿を調停役にゲリラとの和解をはかる.PCVと他の左翼党を合法化し、ゲリラに恩赦を与える。MIRモレイラ派は交渉に応じ武装地下活動を中止.FALNは和解を拒否するが戦士の多くは投降.

5.22 カラカス市内で学生のデモ隊と警官隊が衝突。

6.09 FALN、Barinas州で攻撃作戦。11日にはファルコン州アクリタを襲撃。これを最後にFALNの大規模な作戦はなくなる。一連の作戦で千人が殺される。

69 テオドロ・ペトコフ前政治局員(39歳)、ソ連などによるチェコスロバキア侵入を非難する論文を発表。ベネズエラ共産党はこの論文の 出版に暗黙の了解。ポンペヨ・マルケス書記長代理は、ペトコフの偶像破壊主義に批判的であったが、ペトコフの理論活動そのものは容認し、党内における議論 の自由を維持する。原則派からの攻撃が強まるにつれ、マルケスはペトコフと行動を共にするようになり、後にMASの書記長に納まる。

69 アメリコ・シルバ戦線,MIRより分裂.カルロス・ベタンクールとガブリエル・プエルタが指導し武装闘争を継続.バンデラ・ロハ(赤旗)と改称.コロンビアのELNと連係してゲリラ活動を開始.

1970年

1 キューバ,ソ連の圧力を受けFALNへの援助を中止.FALNとバンデラ・ロハとのあいだに革命統合委員会設置.キューバの方針転換をめぐりFALNで内部分裂,ブラボ,フランシスコ・プラダら主流派はキューバの路線転換への批判を開始,

1.13 ダグラス・ブラボ、ナシオナル紙との会見に応じ、キューバ共産党指導部の変節を激しく攻撃。中国との関係を強化.党の指導性を強調するブラボのドブレ批判はLA全土に広まる.フォコ路線に依拠し農村ゲリラに徹する路線をとるルーベン・ペトコフ副官らと分裂.

2月 ベネズエラ共産党の中央委員会が開催される。ファリア書記長、ペドロ・オルテガ・ディアス、ギジェルモ・ガルシア・ポンセ、エドアル ドとグスタボのマチャド兄弟ら古参幹部は、テオドロ・ペトコフを「トロツキズム、反ソビエト、反党主義」と非難し、除名を迫る。これに対し共産青年同盟を 中心とするペトコフ派、マルケスら中間派が対抗。議論は3週間に及ぶ。

4月 テオドロ・ペトコフ、PCVの根本的な変換をもとめる論文「チェコスロバキア」を発表。ペトコフの著作はラテンアメリカ全土に流布する。

論文の概要: 「人間の顔をした社会主義」、「多元的な社会主義社 会」のためにすべての左翼勢力との「ヘゲモニーを問わない同盟」を提示する。そして政治のみならず文化・芸術などの生活概念における一切の独善主義を排除 するよう呼びかける。古参幹部を「動脈硬化に陥り、国際情勢に対する独自の観点を展開する権利を自ら放棄した」と非難。一切の妥協を拒否し、ソ連共産党を 批判する。

7月 10年ぶりとなるベネズエラ共産党の第4回大会、過去の総括とチェコ問題評価をめぐりまとまらず、10月に延期される。10月にはさらに2ヶ月間延期される。

10.20 ソ連のプラウダ紙、ペトコフの「変節した信条」を攻撃するA.モシネフ名の長大論文を掲載。また「Voprosi Filosofi(哲学の諸問題)」誌は、M. I. MokhnachevとS. S. Romanovの「ベネズエラの社会主義」に対する厳しい論評を発表。これらの論文はペトコフに対し、「社会主義国ととりわけソ連を誹謗し、反共・反ソビ エトの敵対的姿勢に貫かれている」と非難。「社会主義国における複数政党制、出版の自由、国家に対する共産党の指導的役割などについて、マルクス主義とは まったく無縁の超階級的・日和見主義的アプローチに基づいている」などと並び立てる。

10月末 グスタボ・マチャドが、プラウダ論文を支持しペトコフを批判する論文を発表。当時マチャドはPCVの週刊誌「トリブーナ・ポプラール」の編集長の地位にあった。

12.01 ベネズエラ共産党の第4回大会、ペトコフ論文に対する態度をめぐり紛糾。いったん延期となる。共産党中央はペトコフ除名に動くが、青年層の反対に押された中間派の抵抗により果たせず。

12.14 ベネズエラ共産党のペトコフ派政治局員5人が共同声明。若手活動家が大量離党。

70年 カルデラ、相次ぐ学生運動の高揚を前に、ADとの連立を余儀なくされる。

70年 この年の産油量、371 万B/D と過去最大を達成。

1971年

4.22 政府、カラカス大学を閉鎖。

8月 チェコ事件評価をめぐり離党したペトコフらが「社会主義運動」(Movimiento al Socialismo-MAS)を結成.ソ連からの自立、選挙を通じての政権獲得を掲げ、ユーロコミュニズムに接近。

12 大統領選に備え,人民選挙運動を中心に,共産党も参加する民族主義人民戦線「新しい力」を結成.石油,天然ガス,鉄などの資源,公共サービスの国有化などを軸とする綱領を作成.

71年 カルデラ政権、「炭化水素復帰法」を改正。すべての石油会社の在ベネズエラ資産は、協定の期限切れを待って国有化する(国家の下に復帰する)ことを制定。これとともに、石油会社の税率は70%に引き上げられる。

71年 ダグラス・ブラボとアリ・ロドリゲス(チャベス政権下でPDVSA総裁)を中心とする旧FALNグループ、ベネズエラ革命党(PRV)を結成。ゲリラ活動の維持を図る一方、軍内での地下活動に勢力を集中。

エル・クラリン: ホセ・ビセンテ・ランヘルとミキレーナが70年代に出した新聞。公式には武装闘争に反対するが、実質的には左翼ゲリラのメガフォンとなっていたといわれる。公安情報では外国からゲリラへの援助の窓口だったとされる。

71年 MAS結党大会に参加したアルフレード・マネイロ(元ゲリラ司令官)は、社会主義運動の穏健路線に飽き足らず、あらたに急進正義党(La Causa Radical:LCR)を結成。マネイロは、「前衛は自ら宣言するものではなく、決められた綱領を理解することでもない。下から人民によって建設されるものだ」として、これまでの党組織形態を破棄するよう主張。(一説に73年)

71年 パブロ・メディーナらを指導者とする東部の労働者党員がカウサRに合流する。グアイアナ州の新興鉄鋼産業地帯で、無党派急進層や未組織労働者を中心に「マタンセロス運動」を組織し、勢力を拡大。

71年 この年国勢調査。人口10,721,522人。およそ77パーセントが都市に集中。カラカス大都市圏のみで200万人。その1/3がランチョと呼ばれるスラムに居住。都市人口は30年で5倍に増加。

1972年

9.5 ペレス・ヒメネスが大統領在任中にブランコ中尉暗殺を指示したことが明らかになる.当局はスペイン亡命中のペレス・ヒメネスに対し逮捕状を発行.

72 バンデラ・ロハ,カラカスの資産家カルロス・チャベス誘拐により百万ドルを獲得.

1973年

5月 議会、前の独裁者ヒメネスの大統領選出馬を禁止する憲法修正条項を承認

10月 アラブ・イスラエル戦争が始まる。

10.17 OPEC閣僚会議が石油生産の削減と原油公示価格70%値上げを決定。原油価格は4倍に高騰。ベネズエラは予期せぬブームに沸く。

12 大統領選に13人の候補が立起。ADは第二世代への交代を完了。ベタンクール政権で内相を務めたカルロス・アンドレス・ペレスを候補に擁立。COPEIはロレンソ・フェルナンデス現内相を擁立。

12月 左傾化したMEPは、前回の大統領候補だったプリエトを排除。PCVと組み人民連合 (Unidad Popular)を結成。ヘスス・アンヘル・パスを候補に擁立する。URDは当初UPに加わるが、のちに離れ老ビジャルバを独自に擁立。事実上プリエトの 私党となった民族主義人民戦線はプリエトを,MASはMIRとともに無党派のホセ・ビセンテ・ランヘル下院議員を候補に立て闘うがいずれも惨敗.ガルシ ア・マルケスはMAS支持を表明し,財政支援.(このランヘルはMIR派ゲリラの指導者ランヘルとは別人物)

左翼の無惨な分裂: FALNを形成した三つの政党は73年大統領選挙を機に粉々に分裂した。
共産党は本家のほかにMAS、CRが分かれ、さらに大統領候補をCOPEIに集中すべしというマチャド、ギジェルモ・ガルシア・ポンセら長老が離れ、共産主義前衛党(Vanguardia) を結成した。MIRランヘル派はMASと連合することで生き残りを図った。武闘派(バンデラ・ロハ)はゲリラ闘争を継続した。FALN武闘派はブラボら反カストロ派とルベン・ペトコフ派に割れ、ブラボらは事実上ゲリラ闘争を断念した。

12.09 大統領選挙。投票率は97%に達する。地方票の掘り起こしに成功したペレスは48.8%を獲得し勝利。ADは議会でも過半数を 獲得。人民連合のパスは5.1%、MASのランヘルは4.2%にとどまる。URDは3.1%で政治的影響力を喪失。大衆基盤を失い、この選挙を最後に事実 上消滅した。

73 バンデラ・ロハのプエルタとベタンクール,あいついで逮捕.

73年 鉄鉱石の鉱山が有償国有化される。

73 ベネズエラ、リマ合意に署名。アンコムに加盟。一方でカリブ開発銀行への投資を拡大。

73年 この年、チャベスは士官学校で知り合ったホセ・ビセンテ・ランヘルの息子から社会主義の影響を受ける。またパナマのトリホスやペルーのベラスコなどの民族主義路線に共感を抱く。

ウーゴ・チャベス: 当初はペルーのベラスコやパナマのトリホスに憧れる国家主義者であったが、70年代にゲリラ掃討作戦に加わったことから左翼思想に共感するようになり、元MIRでその後ベネズエラ革命党(PRV)の活動家となった兄アダン・チャベスの影響を受けたといわれる。

1974年

3.12 ADのカルロス・アンドレス・ペレス,大統領に就任.チリ軍事政権を敵視しキューバと接近する。「グラン・ベネズエラ・プロジェクト」を発表.左派の要求を取り入れ外資系石油会社の国有化を宣言.

3.16 ペレス大統領,石油産業の国有化委員会設置を発表.石油危機による大幅な利益を利用し,賃金の25%引き上げ,物価の統制などを実施.輸入代替工業化の深化,非伝統的輸出品目の増加,収入再配分による国内市場の拡張を進める.

9.25 ペレス大統領,『The New York Times』の全面広告でフォード米大統領の産油国批判に反論.

12 エチェベリア前メキシコ大統領の提唱した「国家間経済権利義務憲章」,国連総会で確認.資源ナショナリズムの高揚.LA諸国のバナナ輸出協定成立.バナナひと箱につき1ドルを課税することで合意.

74年 原油高から60億ドルに上る歳入増加。これによりインフレ圧力が強まる。政府は新たにベネズエラ投資ファンド(Fondo de Inversiones de Venezuela-- FIV)を創設。米州開発銀行などを通じ、中米・カリブ・アンデス諸国に増収分の35%を投資。

74年 不当解雇法が制定される。労働者の解雇の条件が厳しくされ、解雇者に対する失業手当も手厚く配分される。

1975年

1 ペレス大統領,ベツレヘム・スチール,USスチールの所有するガイアナ高地の鉄鉱山を1億ドルで有償国有化.鉱山の管理は引き続き両社にゆだねられる。

3.17 ペレス大統領メキシコ訪問.共同でSELA設立会議の設立を提唱.

7月 チャベス、士官学校を卒業し任官。

8 ペレス大統領,石油資産国有化法を公布.ロイヤル・ダッチ・シェル、エクソン、モービル石油など130の米英多国籍企業が所有する 11,000の油井、11の精油所と14台のオイルタンカー、パイプライン、港ターミナルとオフィスビルを全面接収.あらたに設けられた国営のPDVSA に吸収.買収総額は10億ドルに達する。

PDVSAの実態  国有化とは名ばかりで,OPECの協定を破り増産に走るなどメジャーの隠れ蓑となる.経営方針や利益運用について政府の介入を許さず,事実上「国家の中の国家」となる.

75 ベネズエラとメキシコのイニシアチブでSELA(Sistema Economico Latinoamericano)創設.23カ国が加入し、カラカスに本部を置く。「新国際経済秩序」構想を推進。

75年 この年ベネズエラのGNPは134億ドルに達する。

75 バンデラ・ロハのベタンクールとプエルタ,脱獄に成功.ゲリラ闘争を再開.

1976年

1.01 すべての石油関連産業,鉄鉱山を国有化。石油会社は4つの経営に統合された上で、持ち株会社「ベネズエラ石油公社」(Petroleos de Venezuela, S.A.-PDVSA)の管理の下に置かれる。ラファエル・アルフォンソ将軍が会長に就任。

11.26 ペレス大統領,ソ連を訪問.共同声明で,南北間の対話を支持し途上国の立場に立つことを確認.両国間の石油融通協定に調印.

76年 石油ブームにより貧富の差が拡大。依然として人口の40%が食料不足と低栄養に悩む。

76年 バンデラ・ロハ、米会社のベネズエラ支店長ウィリアム・ニーハウスを誘拐。3年後に身代金を払い解放される。

1977年

4.21 ペレス大統領,ドーハ入り.OPEC内部の対立解消で調停工作を開始.

77 ベタンクール,ふたたび逮捕されたあと合法闘争への転換を声明.バンデラ・ロハはベタンクールを追放,プエルタが指導権をにぎる.MIRとの再統一をはかりつつ武装中核部隊としてアメリコ・シルバ戦線を維持.ベタンクールはバンデラ・ロハ・ML派を創設.

77年 第五次国家計画がスタート。500億ドルを投じ、ハイテク産業の育成に力を注ぐ。国営企業や公的機関の予算規模は国家予算の1.5倍に達する。

77年 グアイアナ高地のシウダ・グアイアナに、製鉄工場を中核とする巨大コンビナートが出現。人口は30万人に達する。オリノコ盆地には、水力発電を基礎に、大規模なアルミニウムとボーキサイト精練所を建設。

77年 ジェフ・ブッシュ(ブッシュ大統領の弟で現フロリダ州知事)が、ベネズエラにCommerce Bankの代表として就任。この銀行の社長はジェイムズ・ベーカー(後の国務長官)。この年、父ブッシュはCIA長官に任命される。

77年 チャベス、五人の仲間とともに秘密サークル「ベネズエラ人民ボリーバル軍」を結成。「社会科学」の研究を始める。民族主義に偽装するため自らを「ボリーバル派」と名乗る。

ボリーバル主義(Bolivarianismo): マ ルクス主義歴史家フェデリコ・ブリト・フィゲロアの唱えた解釈。FALNの公式理論とされる。ボリーバルは「総司令官」、Ezequiel Zamoraは「戦士」、Simon "Robinson" Rodriguez(19世紀ベネズエラのルソー主義者)は「教師」とされ、これら3人が「MBR-200という木の根をつくる」とされる。(どちらかと いえばユニバーサルというよりは土着的、歴史“オタク”的、カルト的議論のように思えます。SS)

1978年

12.03 大統領選.ペレスの金持ち優先政治に批判が集まる。COPEIのルイス・エレーラ・カンピンスが、ADのルイス・ピネロア・オルダスを僅差で抑え当選.MIRからはアメリコ・マルチンが立起.1%の得票.MASは前回に引き続きランヘルを擁立。

12.03 国会議員選挙。PSCとADが86議席を獲得し並ぶ。MIRは全国第4位の規模の政党となる.

78年 共産主義前衛党、新代案党と改称。影響力は限りなくゼロに近づく。

78年 ダグラス・ブラボ,ゲリラ闘争を離脱.中国派のベネズエラ革命党(PRV)に参加.

78年 公務員数はペレス任期中に倍化。75万人に達する。失業率の減少と労働者の不足から、コロンビア・ブラジルからの不法入国労働者(indocumentados)が増加。

78年 各国の油田開発により、国際原油価格が低下を始める。ベネズエラ政府は、収入の低下をオイルダラーの導入で補い、さらに開発を推進。公共部門対外債務は、4年間に5倍化し120億ドルに達する。

78年 チャベス、マラカイで急進大義党の創始者アルフレド・マネイロと秘密裏に接触。80年には当時帰国したダグラス・ブラボとも会談を持ったといわれる。

1979年

2.12 エレーラ,大統領に正式就任.「ウィスキーと石油を湯水のごとく消費する国に未来はない」と警告。消費者助成金を含め公的な出費をカット、金利を引き上げて景気過熱を避ける。

6月 地方自治体選挙。MAS, MEP, PCV, MIRが選挙協定を結び、18.5%の得票。

10月 公務員賃金の大幅引き上げ。

79 MIR,ふたたびモレイロ派とアメリコ・シルバ戦線派に分裂.モレイロ派はマルクス・レーニン主義の立場を堅持し指導部を掌握.学生層はマルクス主義派を形成,全国指導部の退陣を求める.

79 バンデラ・ロハ・MLのベタンクール,記者会見中に警官に踏み込まれ射殺される.後継者のパブロ・エルナンデスはアルバニア派の主張を受け入れ、あらたに10月28日運動を組織.

1980年

9.22 イラン・イラク戦争が発生。第二次オイルショック。原油価格は1バレル17ドルから28ドルに高騰。

80年 石油価格の高騰を見たエレーラ政権は積極財政に転じる。Zulia州に巨大な石炭と鋼のコンビナートを建設。さらに1,000キロ メートルのパイプラインを持つ天然ガスプラント、カラカスから海岸への新しい鉄道、カリブ海のイスラ・デ・マルガリータと本土を結ぶ橋にも着手。エレーラ 政権発足後の財政赤字は80億ドル対外債務は300億ドルに達する。価格統制の撤廃により激しいインフレが襲う。

80年 ダグラス・ブラボ、亡命先のパリから帰国。軍内に革命党のシンパを形成しようと動く。

80年 チャベス、陸軍士官学校の講師となる。農民の貧困を救うための変革を呼びかける。ボリーバルの歴史的影響を論じては、「カラカス陸軍士官学校のカリスマ講師であった」といわれる。このときの教え子が92年の反乱に参加し、ボリーバル運動の中心となった。

80 MIRモレイロ派からさらにプロレタリア派が分裂.アルベルト・フランセッシが指導.

1981年

7 メキシコ連邦治安警察(PES),訪問中の元FALN指導者ダグラス・ブラボを逮捕,拷問.

9.28 ベタンクール元大統領、ニューヨーク市内の病院で死亡。レーガン大統領は弔文を発表。「ベタンクールはベネズエラの愛国者であり、米国の特に親しい友人であった。彼は左右の独裁と闘い、自由と正義の原則に命をささげた」と賛辞を送る。

11 バンデラ・ロハが活動を活発化。ガリコ州の政府軍基地を襲撃.武器多数を奪取.

12.07 バンデラ・ロハ,国内線のトリプル航空機をハイジャック.身代金と政治犯の釈放を要求.

12.08 バンデラ・ロハのハイジャック犯,ハバナ空港に飛んだあと投降.「ベネズエラの人々にエルサルバドルで起こっていることを知らせるため」の行動と説明する。

81年 19才のベネズエラ人イレーネ・サエンス・コンデがミス・ユニバースに優勝.鈴田氏によれば,「美に対する価値観は人それぞれ多様であるが,美貌と感じられる」とのこと.

81年 チャベスによれば、この年軍内に権力獲得を目指す秘密結社を結成。彼らの秘密結社は少佐、大尉クラスを中心としていたため"Comacates"(コマンダンテ・イ・カピタン)と呼ばれた。

81年 ベネズエラの対外債務、286億ドルに達する。海外への資本逃避は5年間の総計で250億ドルに上る。

1982年

4月 バンデラ・ロハ,カラカス郊外の本拠を襲撃され25人が射殺される.

5月 バンデラ・ロハの指導者ガブリエル・プエルタ・アポンテが逮捕され、アスドルーバル・コルデロがかわって指揮をとる.

12.17 「コマンダンテ・イ・カピタン」を中核に「12月17日運動」を組織。「現在の悲惨、貧困からして、ボリーバルが今も必要だ」 と訴える。中核メンバーはフェリペ・アコスタ・カルレとヘスス・ウルダネタ・エルナンデス。のちにラウル・バドゥエル、フランシスコ・アリアス・カルデナ スも参加する。

82年 チャベスの証言によれば、この年チャベスとダグラス・ブラボが会見。会見は物別れに終わったという。

82年 チャベス、陸軍大尉に昇任。士官学校講師のまま空挺部隊の第二連隊長となり、さらに情報局の将校を兼務.

82 空軍のウィリアム・イサラ中尉、「現役将校の革命同盟」を結成。イサラ(Izzara)はハーバードで学んだエリートでトロツキズムの影響を受けていた。

82年 カウサRの指導者アルフレード・マネイロ、心臓発作で死亡。製鉄工場の労組指導者アンドレス・ベラスケスが後任の党首に就任する。

82年 石油ブームが去り、GDPは70年代の6%から、マイナス1.2%に低下。コンビナートの相次ぐ建設にもかかわらず、工業化は進まず。失業率は20%に達する。平価切下げのうわさに、国内・海外の資本がいっせいに逃避。6年間で250億ドルが流出したと言われる。

1983年

2月末 政府、外貨取引の管理と三段階為替システムを発表。公共部門はこれまでの交換比率で取引され、民間部門はそれより低く設定され、海外の観光旅行やぜいたく品輸入については変動相場制が適用される。同時に価格統制制度が導入され、物価上昇率は6.3%まで低下。

6月 バンデラ・ロハの秘密細胞が摘発される。メンバー24人が逮捕され、壊滅的打撃を受ける。

7.24 チャベスら,市民・先住民もふくめた秘密組織「ボリーバル革命運動」(Movimiento Bolivariano Revolucionario:MBR-200)を結成.200はボリーバル生誕200年を記念したもので7月24日が誕生日。

9月 中銀、対外債務返済のため政府所有のPDVSA収益45億ドルを接収。経営に対する政府の介入が強化され、ラバルド会長は更迭され、エネルギー担当大臣のウンベルト・カルデロン・ベルティと交代。

12.04 大統領選挙.候補の一本化に成功したADが圧勝.ハイメ・ルシンチがCOPEIのカルデラ元大統領を破り当選.エレーラ大統領はカルデラ支持を拒否。ランヘルはMASを離れ、MEPの大統領候補として三回目の大統領選挙を戦う。

83 バンデラ・ロハ指導者のコルデロ,マラカイボでコロンビアのELNと連絡行動中逮捕.残党はELNに合流.この後のバンデラ・ロハは右翼勢力の手先・左翼の挑発者に変身。

1984年

2.03 ルシンチの大統領就任式に出席したニカラグア・コロンビア・アルゼンチンなど7ヵ国元首・大統領,コンタドーラ・グループの和平工作を支持する共同声明.

2月 新政権は緊縮政策を採るが,失業とインフレが続く.内外の非難に応えラバルドをPDVSA総裁に復帰させる。

9.16 バンデラ・ロハ、ラジオ局と新聞社を襲撃。声明文の発表を要求。

12.17 ルシンチ大統領、「国家改革に関する大統領委員会」(COPRE)の創設を発表。

1985年

8.18 CANF,ベネズエラのフアン・デ・ロス・モロス重刑務所からポサダ・カリレスを救出.カリレスはエルサルに渡り,イラン・コントラゲート作戦に関わるようになる.NSCの直接指示の下,ニカラグアへの武器の配布に従事したとされる.

11月 趙紫陽首相がベネズエラを訪問、石油開発協定等に調印する。

12.17 リオ・グループが結成され中南米の紛争解決で相互協力を約す。

86年 反共右翼の亡命キューバ人オットー・ライヒ(Otto Reich),民主党の反対を押し切り,カラカス駐在米大使に任命される.

86年 いわゆる逆オイルショックが発生。北海ブレント、ドバイが一時的にバレル10 ドルを割り込む。外貨準備が前年比39億ドル減の98億5千万となり、対外債務は総計320億ドルに達する。国民一人あたりの所得は4,000 ドルから3,000 ドルに低下する一方で、国民の間の所得格差が顕在化。

1987年

1月 2ケタ台のインフレがつづく。政府は最低賃金を引き上げ、低所得層対策とする。

2月 ルシンチ大統領がスラム地域の環境改善計画を発表

6 コロンビアのELN,ベネズエラ国境地帯の石油パイプラインに攻撃集中.

10.11 民主行動党の次期大統領候補者にペレス元大統領が決まる.

10.18 サルネイ・ブラジル大統領,ベネズエラを訪問.債務問題での中南米諸国の共同歩調を呼びかけ.

87年 Sierra de Perija(コロンビア国境地帯)のGuasare鉱山で石炭採掘が開始される。その後、国営会社Carbozuliaと多くの多国籍企業がコンソーシアムを作り、多くの鉱山を開発。

1988年

1月 オルランド・ボッシュ、ベネズエラの刑務所から脱走に成功。オットー・ライヒが発行したビザにより米国に違法出国。

5.30 アリアス・コスタリカ大統領,グアテマラのセレソ大統領とペレス元ベネズエラ大統領にパナマ問題打開で調停要請.

10.29 コロンビア国境ぞい,アラウカ河支流の町アル・アンパロで,軍が漁民16人を射殺.当初,犠牲者はコロンビアのゲリラと発表されたが,後に誤認事件であったことが明らかになる.

12.04 大統領選.民主行動党のペレスが53%の得票を得て二度目の大統領に当選.国会議員選挙ではMASが10%を獲得し前進。

12.31 ルシンチ大統領, 1989年1月17日から国際債権団への債務返済停止と発表.

88 コペイ党大会.大統領候補選出をめぐり分裂.エドワルド・フェルナンデス書記長が候補に選出され,カルデラは除名される. カルデラ派は党を離れ別党を結成.

1989年 

2.02 ペレス,大統領就任。大転換(El gran Viraje)を提唱。対外債務解決のための債務国共同行動をよびかける一方,IMF勧告を受入れ緊縮政策(El Paquete)をとる.国営企業の民営化、助成金の廃止、通貨の切り下げなどのパッケージ。

2.05 ペレス大統領就任式出席の20ヵ国首脳,アルフォンシン・アルゼンチン政権支援の特別声明に署名.

2.15 ペレス政権が金利自由化・財政赤字削減製作を発表。

2.25 緊縮政策の第一弾となるガソリン価格の二倍引き上げと引続くバス運賃の30%値上げ、学割(半額)の廃止に抗議して,学生の抗議運動が高まる。

2月17日 カラカソ

2.27(月曜) 午前5時00分 政府の緊縮政策(El Gocho)に抗議するバリオの住民が大挙して街頭に現れ始める。

朝6時、民間バスの運転手が運賃の100%引き上げを要求し就業を拒否。交通が麻痺し、バス・ターミナルを起点に混乱が始まる。

2.27午前 数十万のスラム住民が街頭に出現。一部が暴徒と化し商店の略奪を開始。国内五大都市で、瞬く間に100万人を巻き込む騒乱状態となる。首都警察は政府と軍に緊急援助を要請。

暴動の経済的背景: GDPは80年代を通じ平均マイナス1.4%。国民一人当たり年間所得は10年間で4000ドルから2500ドルに低下。貧困世帯の割合は22%から34%に増大。うち極貧世帯は12%に達する。

2月28日

2.28 ペレス大統領、7日間の非常事態を宣言。軍と国家警備隊に首都警察の行動支援を指示。軍は対暴動作戦「プラン・アビラ」を発動。地方軍をカラカスに集中し、鎮圧行動に参加。

カラカソの実体: カラカソの規模がどのようなものだったのかは、いまだに不分明である。しかし当初考えられていたよりはるかに大規模なものであったこと、暴動の背後に組織化された住民組織があったこと、その故に犠牲者の数も深刻なものであったことは間違いない。光州事件を想起せよ。政府の公式発表では死者277人とされているが、現在この数字を信じるものはいない。しかし死者数は2000人から多いもので1万人とされ、かなりの差がある。

2.28 米国政府、ベネズエラ危機にあたり5億ドルの緊急援助を決定.

2.28 バリオの住民は軍と警察の弾圧作戦に頑強に抵抗。とくに「1月23日」地区と「トゥパマロス部隊」は、多くの犠牲を払いながら数回にわたり軍の突撃を跳ね返す。軍はバリオを虱つぶしに捜索し、動くものは何でも撃ち落としたという。

2月 MASは民衆暴動とは距離を置く姿勢を強調。一方、PCVからの左派分派カウサ-Rは、カラカソへの共感を示す。ソ連・東欧の崩壊を機に本家共産党は活動を停止し、事実上消滅する。

3.19 ベネズエラが民間債権銀行団と債務削減で合意。

8.26 ペレス大統領,内閣を一部改造.

9.01 ベネズエラ全国インディオ評議会 (CONIVE)が設立される。23以上の先住民種族が結集し、先住民の土地と権利を守り、固有文化を承認することをもとめる。WayuuとYanomami族の指導者は政治的独立を求めたため紛糾する。

10.11 リオ・グループ第3回首脳会談開会.パナマを除く7ヵ国の大統領が出席.麻薬取締まり強化などを謳った共同声明採択。

12.03 大統領による任命制を改め、初めて直接投票による地方選挙が行われる.ADは大敗.知事ポスト20のうち11州を制するが、 Aragua, Carabobo, Bolivar, Merida, Miranda, and Zuliaなど重要州ではことごとく敗北。MIRと合併したMASがカウサRと選挙協定を結び18%を獲得し躍進。カウサRのアンドレス・ベラスケスがボ リーバル州の知事に当選。政治に対する不信が強く、棄権率は5割を越える。

12月 チャベス、ベラスケスとの協力関係を疑われ、軍当局により一時拘留される。

89年 チャベスら将校40人が「カンターニョ」で秘密会議。政治運動の方向について議論し、幹部を投票で選出。

1990年

1.14 パナマ元大統領代行ソリスの亡命申請確認.

3月 ベネズエラとコロンビアが国境協定に調印

6 ふたたび食糧暴動起こる.商店掠奪が全都市に拡大.物価上昇率は80%にたっし、全世帯の1/3が貧困線以下に落ち込む。極貧層は12%に達し、さらに増加の勢い。

90年 二大政党にふくまれない進歩的勢力が愛国戦線(Frente Patriotico)を結成。現在の両院制に代え、制憲議会を立ち上げることを提案。これに対しCOPEIのカルデラは、両院制を維持し、憲法の修正により改革可能と主張。

90年 PDVSA再建のため、民間からピエトリ(Pietri)が総裁に起用される。ピエトリは「現在250 万B/D の原油生産能力を2000 年までに400 万B/D まで引き上げる」という大拡張計画を提唱。

油田の老朽化: ベネズエラのおよそ240 もの油田のうちその大半は1940〜1950 年代に開発された老朽油田であり、また開発の重要な役割を担っていた外資が撤退し開発が遅れたこともあり、その多くの油田が1990 年代初めには年率22〜23%の生産量減少に見舞われていた。

90年 ピエトリの再建計画を受けた政府は、「石油開放政策」(Apertura Petrolera)を採用。能力拡張計画には外資の導入が不可欠であり、高い税負担の変更や安価に抑えられている国内製品価格の適正化が必要だとする。OPEC の原油生産割り当て政策を支持する石油鉱物省は、増産政策に抵抗するが押し切られる。

1991年

4.02 メキシコ、ベネズエラ、コロンビアの旧コンタドーラ・グループが自由貿易圏創設で基本合意。

5.18 カラカスでペルー・ボリビア・エクアドル・ベネズエラ・コロンビアのアンデス5ヵ国首脳会談.来年1月1日からの域内貿易輸入関税原則撤廃を確認.

8月 ペレス大統領、南ジャングルに32,000平方マイルのOrinoco-Casiquiare国家保留地を設定。農業・林業・鉱山開発事業などを禁止する。Yanomami and Ye'kwana族の保護と、環境保全を目的とする。住民への改宗活動(proselytizing)も禁止される。

8月 チャベス、中佐に昇進。マラカイのパラシュート部隊の指揮官となる。ほかのMBR-200メンバーも軍の中級幹部に昇進。第一次クーデターの時点では、軍の10%がMBR-200に忠誠を示していたとされる。

11.07 労働総同盟,構造調整政策の労働者への影響を考慮することを要求し,全国規模のスト.政府は中学および高校の授業閉鎖をおこない,運動を弾圧.その後の1ヶ月で学生ら7人が死亡.教会は,社会状況は爆発寸前であると警告.

11 チャベス、カウサRと革命党にクーデターの計画を通報。カウサRの主流派は選挙勝利の可能性があることから蜂起に反対。革命党のダグ ラス・ブラボは、まず最初に市民蜂起がなければ、広範な市民の参加は期待できないと批判。これに対しチャベスは、市民の喝采は望むが、市民の参加は望まな い、と反論したという。

 

1992年

1月 ベネズエラ軍部隊、ブラジルの金鉱山主が所有する飛行機を撃墜。さらに金鉱山の滑走路を破壊し、100人以上のブラジルの鉱夫を逮捕、ブラジルへ強制送還する。鉱山主は生き残ったパイロットと乗客が軍により射殺されたと主張。

1月 チャベス、クーデターへの参加をカウサ-Rに持ちかける。この他チャベスと個人的に接触した人物として、ロベルト・エルナンデス(後のPCV委員長)、Eustoquio Contreras(人民選挙運動(MEP)の青年部議長)などがあげられている。

カウサ-Rのパブロ・メディナ委員長が、99年に証言した内容によれば、カウサ-Rは、軍の蜂起にあわせゼネストを打つこととし、4月あるいは5月に蜂起を設定するよう提案。しかし計画の漏れることを恐れたチャベスは、予定を早めたという。

1月 反乱軍の政府綱領の骨子を作成。憲法第250条「憲法の基本基準が侵犯されている場合、あらゆる市民は憲法の合法性を回復する義務が ある」という規定に従ったものであると主張。「第4共和国の寿命はつきた。これに代わるあらたな国家が再建されなければならない」とし、民族政府、国会の 廃棄、地方自治体の再編成、新民主主義の確立をあげる。元ゲリラ指導者クレベル・ラミレスが起草。

2月3日 第一次クーデター

2.03深夜 カラカス近郊のマラカイ空軍基地で,ウーゴ・チャペス陸軍中佐に率いられた空挺部隊の反乱.数百人の士官、数千人の兵士が決 起する。基地を占拠した反乱部隊は,カラカスに進出.ラ・プラニシエ歴史博物館の敷地内に司令部を設営し,大統領府を襲撃.別の反乱部隊はマラカイボを占 領する.

第一次クーデターの首謀者: チャベスのほかJose Acosta Chirinos, Francisco Arias Cardenas, Jesus Urdaneta, and Jesus Ortiz Contreras。このうちMBR-200に残ったのはチャベスのみ。

午後 大規模な大衆蜂起がなく、空軍内のMBRが起ち上がらないため、チャベスはクーデターの継続を断念。バレンシアでは学生が決起。軍の武器庫を襲い、警察署を制圧したあと、街の中心部を武装デモ。

夕方 外遊先からカラカスに戻ったペレス大統領,官邸に向かう.その後国営テレビを通じ,国民に訴え.反乱はその二時間後に鎮圧される.チャベスは降伏の条件として、残党に降伏を促すため60秒間のテレビ演説を要求.

2月4日

2.04 午前9時、チャベスが国営テレビで1分間の演説。「“現時点では”、目的は達成されなかった。事件の全責任は自分にある」とし、支持者に降伏するようもとめる。テレビに出たチャベスは,落下傘部隊の赤いベレー帽をかぶり,中佐の階級章をつけたままであった.

2.04  ペレス大統領,国軍が反乱鎮圧と発表.この事件で市民ら120人が死亡.「ボリーバル革命運動」(MBR-200)グループを中心に,将校133人をふくむ1,100人が反逆罪で逮捕される.反乱軍の将校と兵士の一部は航空機で脱出.モンテシノスの計らいでペルーに亡命.

2.04 クーデター事件でヒーローとなったチャベスは、ヤレ(Yale)刑務所に収監後も政治的影響力を発揮し続ける。刑務所の周りには毎日多くの信奉者が結集。

2.27 ダグラス・ブラボの率いる「第三の道」運動,チャベスのクーデターに荷担したとしてDISIPにより追及される.ブラボはその後あらたに第五共和制運動=Movimiento Quinta Republica (MVR) を結成.

3.01 Raul Alvarez Bracamontes大尉、軍事施設から武器を盗み出し、MBR-200の秘密のメンバーに配布。チャベスは急進正義党 (Causa R)のパブロ・メディナに武器を手渡すよう指示したと言う。

3.02 「エル・ナシオナル」紙、チャベスとの獄中インタビューを一面すべてを使って報道。チャベスは「(クーデターは)民衆の闘いの始まりである。我々はそれを開始した。民衆にはそれを継続する義務がある」と述べる。

3.10 ペレス大統領,野党キリスト教社会党のウンベルト・カルデロン・ベルティの外相起用などによる初の与野党連立内閣成立を発表.

3月 PDVSA のピエトリ総裁、石油鉱物省との意見対立から退任。後任にはグスタボ・ローセン(Gustavo Roosen)教育相が就任。

4.15 ペレス大統領,フジモリの非常措置に抗議し,ペルーとの外交関係停止を発表.

9月 対ドルレートは68ボリーバルまで低下。83年には4.3ボリーバルだったので、10年間で16分の1に低下したことになる。ウニベルサル紙、国民の80%が貧困層、そのうち44%が絶対貧困層であると報道。

11 カティア刑務所で囚人の暴動.鎮圧作戦の中で多くの囚人が虐殺される.

11.27 2月に続き二度目の軍部反乱.空軍の一部が国営テレビと空軍基地を占拠.戦闘機が大統領官邸を爆撃.一部はチャベスが収容されているジャレ(Yare)刑務所を襲う。アラグア州ではルゴ・ロペス大佐が反乱を起こす。

11.27 大統領支持派が首都を確保するが,反乱軍の二つの拠点をめぐる攻防は半日以上にわたる.この反乱で民間人を含む240人が逮捕される.反乱部隊は60年代のゲリラ掃討作戦への参加を誇り、左翼との連携を否定。

11.27 バンデラ・ロハ、クーデターに連動して行動。公安関係者数人を「処刑」する。(このあたりからすでに陰謀団体の匂い)

12月 地方選でCOPEIが進出。

92年 司法改革を求める市民団体「正義第一」(Primero Justicia)が設立される.「市民的」で反左翼的な都市中間層を基盤にする.

 

1993年

5.14 政府,ペレス大統領の内務省機密費の不正使用疑惑に関する裁判所の決定を前に首都カラカスに非常事態を宣言.

5.20 最高裁,公金1700万ドルの横領と,公金不正使用疑惑のうたがいでペレス大統領に対する弾劾審理開始を決定.

5.21 最高裁決定を上院が全会一致で承認.これによりペレスの大統領職務は停止される.AD反ペレス派による宮廷クーデターと呼ばれる。

6.05 議会の承認を経てラモン・ホセ・ベラスケス副大統領が暫定大統領に就任.

8.31 上下両院合同会議,公金横領で起訴され職務停止中のペレス大統領が,無罪になっても復職を不可能にする決議を可決.

9月 カルデラ元大統領(当時77才)が,自ら創設したCOPEIをはなれ「国民統一」(Convergencia)から立起。腐敗追放と、低・中所得者層に配慮する社会政策を唱える。「国民統一」にはカルデラの「社会主義運動」のほかMIR,PCV,MASなどが参加.

10 10%の付加価値税を導入.インフレは40%を越える.

11月 獄中のチャベス、「制憲議会を召集すべきだ」として、大統領選挙の積極的ボイコットを呼びかける。これに応じ、市民の自発的な選挙ボイコット運動が始まる。チャベスと会見する定期のテレビ、ラジオ番組があったといわれる。

12.3 総選挙妨害を計画したとして少なくとも6人の軍幹部を逮捕.棄権を呼びかけるチャベスの訴えが浸透する。

12.05 大統領選.貧困と汚職の追放を掲げたカルデラ元大統領が,ADのクラウディオ・エロイ・フェルミン・マルドナード(リベルタドール市長),コペイのアルバレス・パスを破り当選.得票率は30%。投票率は前回の75%から60%にまで低下。

チャベスとカウサRの確執: 選挙ではカウサRのアンドレス・ベラスケス(ボリーバル州知事)が勝利したが、開票の不正操作により敗退(公式発表では22%)。ベラスケスの呼びかけで抗議の街頭行進が行われる。パブロ・メディナら党内多数派は抗議行動を拒否。ベラスケスは党内多数派と、ボイコットを呼びかけたチャベスを強く批判。後に 02年のクーデターのときは野党を支持することになる。

12.05 国会議員選挙.民主行動党とCOPEIの投票合計が93%から47%まで低下。東部ボリーバル州を基盤とする労働者政党の急進正義党(カウサR)が,二大政党への批判票を吸収して躍進,議席の4分の1を獲得し第三党となる.

12 ペレスに対する弾劾裁判開始.

93 原住民ヤノマミ族の土地闘争.軍の介入により多数の死者を出す.

93年 PDVSA、「核心的分野である原油以外」を扱う事業において「戦略的提携協定」を導入することに成功。LNG 輸出計画やオリノコ・タールを利用した合成原油計画の具体化が始まる。75年の国有化法が生きているため、新規開発には国の代表者としてのPDVSAが全 面関与。このためPDVSAが政府機関をしのぐほどに巨大化する。

 

1994年

1 ベネズエラ第二の市中銀行バンコ・ラティノが倒産。ほか七つの金融機関が不良債権の累積で経営悪化.中央銀行が介入する.

2.02 第二次カルデラ政権が発足.MASからペトコフが計画調整大臣に,マルケスが国境担当大臣に就任.付加価値税を廃止するなど開放路線に一定の手直し.緊縮財政政策を批判し、IMF との政策調整を離れ、為替管理の再導入や物価統制など自由化路線の修正を探る。

2月 カルデラ、憲法顧問にRicardo Combellasを指名。国家改革委員会に憲法改正をゆだねる。この改革はADとCOPEIの支配する議会の強力な抵抗にあい挫折。この後、少数与党の カルデラ政権はADの支持を取り付けることで政局運営。このため二大政党制がそのまま復活する。

3月 ペトコフ、経済調整計画(Cordiplan)を立案。ネオリベラルの方向に沿って行政簡素化、インフレ抑制と通貨維持、「母と子供」活動など貧困者の安全ネット作りに取り組む。

3.27 チャベスが政権交代にともなう恩赦により、軍籍離脱を条件として解放される。テレビ・キャスターのホセ・ビセンテ・ランヘル、アルフレド・ペーニャがあいついで自らの番組にチャベスを招聘。チャベスのフィクサーとなったルイス・ミキレーナの人脈によるといわれる。

チャベスは精力的に全国を遊説し民衆に語りかけた。運動資金は支持者の寄付に頼っ た。車の運転は叔父のヒルベルト・ロンバノが受け持った。ガソリン代を払う金にも不自由したという。その後チャベスはキューバ、コロンビア、パナマ、アル ゼンチン、チリ、ウルグアイ、スペイン、フランスにも訪問している。

5.18 最高裁がペレスと元閣僚2人の逮捕を決定。任期の満了を待って逮捕,収監される.

5.20 大統領選挙敗北を受けたAD大会,ペレスを除名.全国執行委員会(CEN)からペレス=フェルミン派を排除.その後右派党員1万人あまりを除名.ペレスは「開放」党を結成し再起を目指す.

6.27 バンコ・ラティノが倒産。これをきっかけに、八つの銀行が倒産するなど空前の金融危機を迎える。大量の資本が海外へ逃避し、さらに外貨準備高の急激な減少が続く。カルデラ,経済政治緊急事態を宣言.為替・物価を統制.憲法で定められた各種の権利を大幅に制限.

6.30 金融緊急事態評議会設立.金融システム全体を国家管理下におく.この年、銀行救済のため国家予算の75%にあたる85億ドルがつぎ込まれる。通貨は1ドル200ボリーバルを越えて下落。インフレ率は年間90%に達する.

7.23 カルデラ大統領,テレビ演説で憲法上の人権保障を一部停止すると発表.

7月 バンコ・ラティノ銀行の経営者リカルド・シスネロス(グスタボの弟)に対し、身内への大規模な不正融資の疑いで逮捕状。リカルドはそのまま国外逃亡。

8.14 ベネズエラ生まれのテロリスト,「カルロス」ことイリッチ・ラミレス・サンチェス(44)がスーダン国内で逮捕.

8月 13の銀行が国有化される。投機とインフレ抑制のため権利制限。

11.26 チャベス、Argentina, Chile, Uruguayを訪問。ブエノスアイレスでは左派将校のRaul de Sagastizabal退役少佐、元モントネーロスのNorberto Ceresoleと会見。

12.13 チャベスがキューバを初訪問。カストロは空港まで自ら出迎えるなど、国家元首並みの扱いで迎えた。「シモン・ボリーバルの家」での記者会見には、カストロとFSLNのダニエル・オルテガが列席する。

12.16 チャベス、ハバナからコロンビアのサンタマルタに向かう。情報筋によればFARCのリーダーに迎えられたとされる。

94年 ルイス・ギウスティがPDVSA社長に就任。米国の意向を受け、「主権だの愛国心だのという概念が振りかざされるのは、もうたくさんだ」と述べ、民営化を目指す。

 

1995年

1月 チャベスMBR-200を再建。本拠地をコロンビア国境のアプレ州エル・アンパロにおき武装闘争を目指す。当時アンパロは、事実上ELNの国境を越えた兵站基地となっていた。

2.20 チャベス4人の同志のハンストを支援するためエル・アンパロに入る。このときチャベスはELN指導者と会見したという。

2.26 ELN、アプレ州カララボの海軍駐屯地を襲撃。水夫8名を殺害。

2月 アンデスグループ5カ国が域外共通関税をスタート。

5月 チャベス、元モントネーロスの Norberto Ceresoleを招く。政府は内政干渉を行ったとしてCeresoleを国外追放。

6 パナマ政府、チャベスの再入国を禁止すると発表。チャベスはボリーバルにあやかって南北アメリカの革命勢力のパナマ会議を開催しようと準備していた。

7.06 経済非常事態宣言が1年ぶりに解除される。ここまでに当時の銀行のほぼ3分の1にあたる16銀行が政府に接収される。

95年 チャベス、MBR-200と同時に首都カラカスでの闘いのためにMBR-civilを結成。Maigualida Barreraを代表にすえる。MBR-civilを中核としてボリーバル民族戦線を結成。国家の発展を目指すボリーバル・オールタナティブ計画を作成。制憲議会の創設をスローガンに掲げる。青年組織として革命青年同盟 (UJR)も結成される。スラム住民の組織「人民民主運動」 (MDP)とも連携を強める。

指導部の構成:
 
Manuel Quijada、Luis Miquelena、Freddy Bernal Rosales(首都警察の特殊作戦支援部隊の前司令官)、Luis Davila Garcia退役大佐、Jesus Aguilarte Gomez退役大尉、Carlos Luis Duarte退役大尉、Ismael Perez Sira退役大尉、Miguel Madriz Bustamante退役大尉、Leticia Barrios、Adina Bastidas(ベネズエラ中央大学教官)、(MBR-civil代表)、Nelson Morentes教授、Guillermo Gavidia弁護士。

95年 92年反乱でチャベスの右腕となったフランシスコ・アリアス・カルデナス、チャベスとの個人的見解の相違からMBR-200を離れ、カウサ-Rの候補としてスリア州知事に当選。

95年 カルデラ政権を離れた共産党のヌニェス・テノリオ、MBRの思想・政治部長に就任。チャベスの運動を理論的に支える。(大統領選挙の直前に急死)

 

1996年

3月 カルデラ政権、IMF 等からの融資を受けることで合意。緊縮措置と一部国営企業の売却を発表。MASはカルデラの経済運営を不満とし,連立与党から離脱.

3月 アンデス共同市場(ANCOM)、アンデス共同体に改組。

4月 カルデラ政権は国営企業の民営化・外資導入など市場経済改革の計画(Agenda Venezuela)を策定。金利の自由化、為替取引きの自由化、ガソリン価格の引き上げなどの諸施策を実施することで、経済再建に取り組む。

5.29 最高裁が,ペレス前大統領に2年4ヵ月の自宅軟禁の有罪判決を下す.

7.12 ベネズエラ、原油価格下落で財政危機に陥る。IMFがベネズエラに14億ドルの包括的信用供与。

7 チャベスの非公認政治グループ「ボリバル革命運動200」(MBR200),合法的政権獲得へと方針変更。フロント組織として「第五共和国運動」(MVR)を結成.チャベスは、選挙は第五共和国を実現するための「戦術」だと宣言。

「第五共和国」の由来: 1811年の共和国を第一、13年の共和国を第二、グランコロンビアを第三、30年のベネズエラ分離独立以降を第4と数える。チャベスは第4共和国を「ボリーバルとスクレの遺骨の上に打ち立てられたオリガルキーと銀行家の独裁」と非難。

12.8 米情報筋,ベネズエラの海軍基地が米国およびヨーロッパへのコカイン密輸の巨大中継基地となっているとリーク.

96年 チャベス元中佐のインタビュー。「今日の政治モデルはすでに死んでいる。これに代えて直接民主主義が打建てられなければならない」と述べる。大統領選挙への参加の意向を示唆。

96年 カウサ-R、緊縮政策をめぐり事実上の分裂。ベラスケスら執行部とパブロ・メディナ(元ゲリラ)ら左派が対立。

96年 ベネズエラ共産党が再建大会。古参党員が中心となり、ソ連への盲従路線を自己批判し、ベネズエラの独自の社会主義への道を追求することで意思統一。ペドロ・エウセを書記長に、ペドロ・オルテガを議長に選出。この時点で党員数は1000名を割る。

 

1997年

1.14 チャベス,政府の経済政策は耐えられないものとなっていると非難.緊縮政策による不況の下でインフレが再燃。物価上昇率は100%に達する。

2.03 クリントン,チャベスはナルコやテロリストと深い関係を持っていると非難.

3.13 一部報道でカルデラ死亡説が流れる.

3.27 FARC,MBR200との連帯関係を明らかにする.コロンビア国境地帯は事実上内戦状態となる.

4.10 MBR200がバレンシアで大会を開催。選挙による合法的政権獲得を「戦術」ではなく基本路線として承認。MBR200を解消し、第五共和国運動(Movimiento para la Quinta Republica)と改称。MVRを中核に「愛国極」(Polo Patriotico)を結成.広範な国民の結集を促す。(鈴田氏によれば、政府がMBR200への嫌がらせとして、政党名にボリーバルの名を冠するのを禁止する法律を制定したためとされる)

4.11 チャベス,大統領選立起の意向を発表し,対外債務のモラトリアムを提起.共産党(PCV),人民選挙運動(MEP)などが結集.

4月 急進正義党(カウサR)内の左翼,「みんなの祖国」(Patria Para Todos :PPT)を結成.パブロ・メディナが委員長に就任し,PPに結集.

4.19 MBR200,カラカス市内の工場に爆弾.(これほんとうだろうか?)

5.06 DIM/ DISIP(国家政治公安警察),テロ活動の容疑でMBR200のメンバー20人を逮捕.

6月 第五共和国運動、各地での選挙キャンペーンと住民対話を開始。

7.15 アイルランド資本の農場で土地占拠.乱闘で4人が負傷,100人が逮捕される.

11.27 モービルなど石油大手がベネズエラ超重質油の開発に共同出資することで合意。

11.29 大統領選はイレーネ・サエンスとクラウディオ・フェルミン(AD)との一騎うちの様相.カウサR、イレネ支持の方針を確 認.MASはイレネがコペイと離れるなら彼女を支持すると発表.両党は、「サッチャー元英首相を公然と賞賛する」イレネを候補に推したことから、大衆の幻 滅を生む。

97年末 MAS党内で民営化路線を推進するペトコフらに対する反感が強まる.ムヒカ党首やプチ書記長ら党組織は、左翼運動への復帰を目指し、チャベス支持に結集の構え.

97年 ベネズエラにおける中間層人口は31%に減少(75年には57%)。この時点で約5千の大地主が全農地の46%を所有。

 

1998年

1.16 チャベス,選挙登録.二大政党の40年におよぶ無策と腐敗を強烈に批判。2月4日のクーデター6周年にはカラカスの広場を埋めて見せると豪語.その後,爆発的な支持の拡大.

1月 MAS選出のララ州知事オルランド・フェルナンデス・メディナ,MASを離脱し「多数勢力組織」(OFM)を組織.チャベス支持の旗色を明確にする.

2.04 クーデター6周年記念集会。チャベスの言葉通り、カラカスの広場に多数に市民が結集。これを機にチャベス・ブームが巻き起こる。

2.20 OPEC総会開催。サウジは生産枠順守を要請するが、ベネズエラ、カタールなどが減産を拒否、

3.03 コペイ幹部のカンピンス元大統領,チャベスが大統領となることはありえないと発言.

3月 世論調査でチャベスの支持率が17%に上昇。サエスを抜いて1位となる。これを見た共産党は「チャベス司令官を支持する」との声明。急進正義党内のパブロ・メディナらチャベス支持派は,「皆のための祖国」(PPT)を結成し党を離れる.

4.28 ベネズエラとコロンビア,米州機構へのキューバ復帰を支持すると声明.

4月 カルロス・アンドレス・ペレス(76)夫妻が起訴される。任期中に得た所得をはるかに上回る預金を米国の銀行に預けていることが明らかになる。

5.09 元ゲリラグループの代表,チャベスはジキルとハイドだとして支持を拒否.(誰のことかわからない。バンデラ・ロハ?)

5.14 「イレネ運動」,急進正義党などが選挙組織「変革勢力」を結成.世論調査でサエンスがチャベスをおさえる.3日後に行われた別の調査ではチャベスが優勢.

5.20 米連邦検察当局、麻薬カルテルの資金ローンダリングに関わったとして、ベネズエラ人銀行家エスペランサ・デ・サアドとマルコ・トゥリオ・エンリケスを起訴。

5.30 ADを除名されたペレス元大統領,「開放」(Apertura)を結成.同じくADを追放された「刷新」のフェルミンを大統領候補に推す.結局共闘を拒否され自派のロドリゲスを候補に立てる.

6.04 メキシコ、サウジアラビア、ベネズエラの三国、石油価格の低迷を前に減産と価格調整で合意。

6.15 コペイ党大会,チャベスにつく候補は応援しないと発表.党内選挙ではイレネが976票、フェルナンデスが540票で、イレネがコペイの候補となる.

6.25 イレネ,コペイの支持を受け入れる.コペイはイレネ・サエンスこそ国家の危機を乗り切るにふさわしい人物と評価.イレネを支持してきた急進正義党は空中分解.イレネの支持率も急低下.

6月 MAS党大会,ムヒカ(Felipe Mujica)議長派とプチ(Leopoldo Putchi)書記長派が中心となりチャベス支持を決定.MVR・PPTとともに愛国極(Polo Patriotico)を結成.

6月 PPT党大会、チャベス支持を決定。パブロ・メディナ書記長はチャベス不支持をもとめるが、否定され、党を離れる。メディナは一時チャベス派に復帰するが、02年のクーデターでは野党を支持。その後野党CDの幹部となり反革命運動をになう。

6月末 最終的に愛国極に結集する政党はMVR、MAS主流派、PPT主流派、PCVとなる。このほかMEPなど小政党5党が結集。

98年7月

7.01 世論調査でチャベスが一位に.サエンスは3位に後退.イレネに代わり、COPEI系無所属の富豪政治家でカラボボ知事のエンリケ・サラス・ロメロが二位に浮上。 

7.02 元国防相,チャベスが大統領になれば内戦が引き起こされる可能性があると警告.

7.15 サエンス,「私は平和派の候補」とし人権擁護の立場を打ち出す.

7.29 麻薬撲滅委員会,チャベスを含むどの候補も麻薬業者との関係を示す証拠はないと発言.

7.30 AD,フェルミンを大統領候補から下ろし,古参幹部のルイス・アルファロ・ウセーロが出馬.チャベスに勝てる候補としてサエンスに も色目を使う.イレネ運動,カラカスでコペイ・民主行動と選挙協力の協議に入る.急進大義党はイレネ支持を取り消し,自党のラモスを候補に立てる.

7月 MAS創設者のペトコフ、党のチャベス支持を不満とし脱党、民主左翼(ID)を結成。マルケスは不満を表明しつつもMASに残留.そのごペトコフはエルムンド紙の編集長を経て、自らの新聞「Tal Cual」を創刊。

98年8月

8.11 サエンスでは勝てないと見たコペイ,サエンスに出馬を辞退しADのアルファロに票を集中するよう呼びかける.「刷新」党のアルファロは出馬を断念.

8.18 チャベス,ADが12月選挙の中止を狙っていると非難.

8.20 通貨ボリーバル切り下げのうわさが広がる。株価は9.5%の暴落。

8.27 ベネズエラ議会,社会・経済危機の回避のため,大統領の非常事態特権を含む権限強化法を採択.

8.31 カラカス市の医師会,医師の解雇を含む緊急政策に抗議しストライキに入る.

9.02 コペイ,ベネズエラの経済困難はチャベスの支持率が下がれば改善すると主張.

98年9月

9.04 政府,経済非常事態法に基づき緊急対策を提示.この時点で財政赤字はGDP比4.5%に達する.

9.06 カラカス医師会のスト,治療手後れで19人が死亡するなど深刻な事態に.政府はスト幹部医師300人を解雇.これに抗議する医師の闘争は全国に拡大.約2万4千人の医師がスト入りする.

9.08 コペイ,チャベスは民主主義の衣を着たファシストと非難.サラス・ロメル候補は「羊の皮を着た狼」とする.ADのアルファロは,「チャベス筋からかけられている脅迫に負けず,最後まで大統領選を戦う」と発言.

9.08 チャベス,大統領になったらPDVSAのルイス・ギウスティを追放すると発言.

9.09 英国の信用調査機関,ベネズエラの為替レートを押し下げているのは,経済状況よりむしろ政治的不安定と発言.

9.11 カトリック教会,人権活動家のカムナス神父に国外退去を命じる.

9.16 エンリケ・サラス・ロメル元カラボボ州知事とプロジェクト・ベネスエラ,彼らとチャベスの一騎打ちを宣言.

9.18 メリル・リンチ社,大統領選にはチャベスが勝利し,ベネズエラの経済はますます悪化するだろうと予測.

9.18 カラカスを訪問した米海軍高官,動乱が起きればどこにでも我々は干渉すると発言.現地で議論を呼ぶ.

9.21 スリア州知事アリアス・カルデナス,クーデターのときチャベスらが発した宣言は共感できると発言.

9.22 DISIP,都市ゲリラ5人を摘発.爆弾騒ぎは収まらず.

10.28 米州開発銀行、石油価格低迷に苦しむベネズエラに、4億ドルの融資を承認。経済改革を迫る。

98年11月

11.08 大統領選に先立ち議会選挙.愛国極連合が下院70/189議席を占めADに次ぐ第二党に進出.うちチャベスの第五共和制運動 (MVR)が46議席。MASは9.5%,「みんなの祖国」(PPT)は6.3%を獲得.カルデラの急進正義党は惨敗.(PPが過半数を制したと記載する 文献もあるが間違いであろう)

11.08 同時に行われた地方選挙ではADとCOPEIがほぼすべての知事を確保。

11.08 贈収賄容疑のかかるカルロス・アンドレス・ペレスは、タチラから上院議員に立起し当選。議員特権により逮捕を免れる。

11.15 MVR委員長のルイス・アルフォンソ・アビラ大佐が上院議長に就任.下院議長には26歳の弁護士エンリケ・カプリレス(無所属)が就任.ADは「議会がパラミリタリーの手に落ちた」と非難.(第二党が議長を出すというのが分からないが…)

11月末 議会選敗北を受けたAD執行部,アルファロの支持を取り下げ,サラス支持を表明.アルファロは立候補取り下げを拒絶し,党から除名される.コペイもこれにならって,イレネからサラスへ乗り換え.(敗北といっても第一党は維持したはずだが…)

11月 マクロ経済安定化基金(Fondo de Inversion para la Estabilizacion Macroeconomica:FIEM)が設立される。基金の運用は中央銀行が外貨準備管理と同じ政策・ガイドラインに従って行うこととなる。

98年12月

12.01 大統領選を前にチャベスの優勢が明らかになる.

既成勢力のチャベス当選阻止工作
ADとCOPEIはチャベス優位を覆すため共同.それぞれの大統領候補者の公認指名を取り消し,独立系候補のエンリケ・サラス元カラボボ州知事の支持にまわる.サラスは実業家で元キリスト教社会党員.「プロジェクト・ベネズエラ」党を組織)に相乗り公認.
ADのルイス・アルファロ候補は辞退を拒否したため除名処分に.COPEIはイレネ・サエス候補(1981年度ミスユニバース)の公認を取り消すが,サエスは独自に活動継続.
ADやCOPEIはチャベスを「潜在的な独裁者」と呼び,私的財産や自由が制限されるとのデマ.選挙前には銀行預金の引き出しやスーパーからは品物が消える騒動も起きた.チャベスを嫌う多くの富裕層は,チャベス当選後マイアミに向け転居を始める.

12.06 ウーゴ・チャベス(44)が史上最高の得票率56.5%(360万票)で大勝.チャベスはベネズエラ史上,最も若い大統領となる.独立系候補でありながら二大既成政党に支持されたエンリケ・サラスは40%(260万票)、サエスは3%弱と惨敗.

12.07 米国政府,大統領選が民主的に行われたと声明.民主的選挙の結果としてチャベス当選を祝福.これまで拒否していたチャベスに対する入国ビザを発給.OAS使節団も選挙が free and fairだったと報告。

実際には,当選直後からチャベス打倒に動いてきた.年間87万ドルにのぼる「民主主義のための国家基金」(NED)がベネズエラに投入された.主な送り先はベネズエラ石油労組(オルテガ議長)などAD系組織.
NEDは83年にレーガン政権により設立.旧東欧諸国の反政府勢力など,米政府が公然と援助できないような組織を支援してきた.

12月 原油価格は10ドル前後まで低下。累積対外債務は374億ドルに達する。資本の海外逃避に歯止めかからず。実質賃金は9年前の57%にまで低下。生活水準が貧困ライン以下の人口比率は,10年前の46%から68%に増大.

12月末 チャベス、国営石油会社PDVSA を「国家の中の国家」と非難。「OPEC 生産枠の侵害が石油供給過剰と価格崩壊の一因となっている」とし、OPEC 生産協定に従うことを約束する。

12月 バンデラ・ロハも当初はチャベス政権を支持。ニーハウス誘拐作戦の指揮官カルロス・ランス・ロドリゲスが教育省の重要ポストにつく。その後、バンデラ・ロハはチャベス政権と距離を置くようになり、2001年からは明確に反チャベスの立場に立つ。

 

1999

99年1月

1.19 チャベス次期大統領,公約の憲法改正のための手続きを提案。国民投票によって憲法制定会議設置を決定し、これに憲法改正の全権を与えるという方式を提唱.

1.20 最高裁,国民投票実施のために憲法を改正する必要はないとの見解を示し,制憲議会を招集するための国民投票の実施を支持する判断.チャベスは「歴史的判決」と称える.野党は「国民投票」は憲法にはなく、国民投票実施のためには憲法改正が必要と主張していた。

1.21 チャベス,経団連(フェデカマラス)で講演.「市場経済政策を継続する」と表明して経済界や外国投資家に支持を訴える.

チャベス講演の要旨: 産 業政策は国民の大多数の支持によって決められなければならないが,その原則は人にやさしいということである.それは開かれた市場を基礎としており,共産主 義でも自由主義でもなく,その中間的なものである.輸出の70%が原油であり,また国家予算の半分を原油収入に頼っている.石油一辺倒のモノカルチャー経 済により農業は荒廃し,他産業も立ち後れた.貧困により子供が飢え死にする情況は変更されなくてはならない。

99年2月

2.02  チャベス新政権が発足.80才台の老活動家ルイス・ミキレナ(URD)が内相に就任.同じく左派評論家のアルフレド・ペーニャは大統領府長官(首相格)に,ホセ・ビセンテ・ランヘルが外相に、ホルヘ・ジョルダーニが経済企画相に、アリ・ロドリゲスが鉱山エネルギー相に任命される.この時点で対外債務は200億ドル,年間物価上昇は30%,公式失業率は15%.

主な左翼活動家の経歴: 
Jose Vicente Rangel 左翼勢力の大統領候補として、過去三回の大統領選挙を闘った。
Ali Rodriguez Araque 元FALN戦士。ブラボとともにベネズエラ革命党、「第三の道」を結成。その後Causa Rに移り、分裂時にPPTの指導者となる。
Luis Miquilena 1940年代にバス運転手組合の共産党活動家。48年に獄中で離党。その後無党派左翼の指導者。カラカソのあと結成されたリベラル市 民の連合組織「愛国戦線」の議長を務めた。チャベス選挙では財政部長を務め選挙を支えた。
Jorge Giordani MASの経済顧問。
Teodoro Petkoff MAS指導者。社会民主主義の立場からチャベスに反対。MASを離れる。
Douglas Bravo ベネズエラ革命党(PRV)の指導者。80年代にチャベスを指導した。その後「第三の道」運動を組織し、極左の立場からチャベスを批判。
William Izarra 元空軍中佐でチャベスの同僚。選挙への参加をめぐりチャベスと対立。トロツキスト系の「直接民主主義運動」を指導。

2.15 チャベスは憲法改正を提案.90日以内に制憲会議の招集の是非を国民投票で問うとする.憲法改正の柱は、@連邦国家とし,A単一議会制とする.B強力な首相を置くこと,C大統領の任期を連続二期まで延長すること.D抜本的な経済社会改革のために大統領令によって政策決定ができる大権を認めること.

2.18 選挙管理委員会,制憲議会召集の是非を問う国民投票を4月25日に行うと発表.ADは憲法違反として大統領令の無効を最高裁に訴えるが、最高裁は合憲との判断を下す。

2.22 チャベス大統領,軍人7000人および公務員7万人,一般市民20万人が参加して,道路の建設・修復工事や学校・病院建設などをお こなう「ボリバル2000計画」を発表.第一段階(Pro-Pais):4万人の兵士を動員し、労働者と農民と結びつけ、教育・医療・インフラ整備に取り 組む。第二段階(Pro-Patria):軍と住民が協力し、地域問題の解決に当たる。第三段階(Pro-Nacion):国家経済の持続的発展のなか で、64%に達した食物輸入問題を解決する。

地域活動計画の例: 先 住民が住む僻地では、「カシアキレ2000計画」が実施され、医師や薬を積んだ小舟が巡回診療に当たる。漁村では「漁業計画2000」が実施され、冷凍庫 の整備などを実施。他に、安価な住宅を提供する「アビスパ」計画、スペインからの資金で教育を充実させる計画、郡の建設した診療所でボランティア医師が無 料診療を行う計画などが立案される。

2.26 通貨ボリーバルは1ドルに対し578まで下落。

2.27 チャベス、憲法改正のため131人からなる憲法制定会議の創設を提案。

2月 チャベス、石油メジャーの代理人と言われたキスティ(Luis Guisti)総裁と12人の取締役全員を解任。新しい総裁に、反開放政策派のマンディニ(RobaerMandini)を任命。さらにその数ヵ月後には、シャバルディニ(Hector Ciavaldini)を総裁に任命し、取締役を6人に削減。

2月 土地占拠行動が全国で続発.2年間に120箇所の農牧場に土地なし農民が侵入.ナバス=オフェラ農業畜産副大臣,「民間から有償で土 地を収用し国家が改良費用を負担する方式」を提唱.さらに公有地の開発,土地登記の法整備を行う考えを明らかにする.さらに全国農業庁と全国土地庁を解 体・統合して総合農政機関を設立する構想も明らかにする.

2月 Datanalisis の世論調査.チャベスは91.9%という驚異的支持率を獲得.

99年3月

3.12 ホセ・ビセンテ・ランヘル外相「ベネズエラは外国に石油輸出国であり,政治的目的ではなく純粋にビジネスとしてなら,キューバにも売れない理由はない」と語る.

3.14 ヌエバ=エスパルタ州(マルガリータ島)知事に立候補したイレネ・サエンス,コペイの支援を拒否し第五共和国運動の支持を得て当選.

3.27 議会,チャベスが要求した大統領特別権限について審議.大統領令の拡大を認めた「権限法」(ley habilitante)を採択.

3月 石油輸出国機構(OPEC)の第107回総会,ベネズエラはそれまでのOPEC協定の常習的な違反を改め、生産枠を遵守し、石油市場 を支える方向に石油政策を転換。ベネズエラが同調したことで171.6万バレルの協調減産に合意.この後わずか1年余りで原油価格は10ドルから30ドル に3倍化する。

99年4月

4.07 チャベス、特別権限法を不充分として議会に差し戻す.さらに任期を5年から10年に延ばすと提案。受け入れられないときは議会と最高裁判所を解散する構えを示す。

4.08 チャベス,議会が法案変更に応じなければ「99%の確率で経済非常事態宣言」を行うと語り,議会と対立しても経済再建策を強行する意向を示す.

4.11 チャベス、92年のクーデターに参加した元兵士37人を復職させる。

4.12 カルロス・カナチェAD総裁,「われわれは,クーデターの待ち合い室にいる」と述べ,チャベスの自主クーデターを危惧していることを表明し,米州機構の介入を要請.

4.16 ケレル・イ・アソシアードス社が実施した世論調査で,チャベス政権の誕生に83%が「満足」と答え,「不満」は13%だった.ダタナリシス社の調査では支持率が90.3%に達する.

4.22 議会、チャベスに屈服。今後6ヶ月間にわたり、経済問題に関してチャベスが大統領令で専断することを可能にする。

4.25 制憲議会の召集の是非を問う国民投票が実施される.投票率は38%と低かったが,賛成87%、反対7%の圧倒多数で制憲議会の召集が認められる.

制憲議会: 新憲法 を制定するという目的のための従来の議会とは別の専門の議会。国会と同様に国民の直接投票により議員が選ばれ、議会と同様の権限を持つこととなる。表面的 には憲法草案の作成に特化した審議会的組織だが、立法、司法、防衛などの基本に関わることから、潜在的には三権を超越した権限も持つ。

5.20 マクロ経済安定化基金(Fondo de Inversion para la Estabilizacion Macroeconomica:FIEM)の運用規則が改正される。大統領の裁量で取り崩しが可能になり、社会開発の資金として運用される。(原油価格が上がれば積み立て額も上がるため、その後の原油高騰により充足率40%と、大幅な積み立て不足を生じている。基準額を上げれば済む話ではあるが…)

6月 制憲議会選挙が告示される.政党からの立候補は与党連合「愛国極」(PP)からだけにとどまる.MASのムヒカ党首が労働家庭大臣を辞任して憲法制定会議議員に立候補.愛国極は立起に際して事前承認がなかったことから,ムヒカ擁立を認めず.

99年7月

7.01 チャベス、Maritza Izaguirre 蔵相(60)に代え Jose Rojas (35) 大蔵次官を昇格させる。

7.10 チャベス,制憲議会選挙応援のため,カラカス南東6百キロのシウダ・グァヤナ入り.演説の数時間前,会場に近いホテル駐車場で高性能のライフル銃などを所持した殺し屋が逮捕される.

7.25 制憲議会選挙が実施される.投票率は50%を下回る。PPが128議席中121(全国区24議席中20、地方区104議席中101)で地すべり的圧勝をかちとる.ADは20議席、COPEIはほぼ全滅。(計算が合わないのは、複数の文章を寄せ集めたためです)

他党の動向: 
COPEIのエレラ党首・ラミレス書記長ら執行部が敗北の責任をとって総退陣.ADを除名されたペレス元大統領も、「刷新」党から立候補するが落選し,政治生命を絶たれる.
MAS のムヒカ議長,愛国極の支持を得ないまま閣僚を辞任し立候補するが惨敗.チャベスへの不信を強めたエスクルピ下院議員、デパオラ上院議員らが,「民主左 翼」を作って分離.急進大義党は大敗。党発祥の地ボリバル州の票は「皆のための祖国」に奪われて議席ゼロ、州知事選でも創設以来の党指導者ベラスケスが3 位落選。 

7.26 Washington Post紙、チャベスを「左翼扇動家」と批判。New York Times紙は、ミキレナら制憲議会チャベス派の手法を「ジャコバン」流と評す。

7月 チャベス、新刑法を議会に提出。速やかな裁判を受ける権利と、有罪が確定するまでの推定無罪を保障するもの。さらに恩赦を施行し、過密な刑務所から7,000人以上の収容者を釈放する。

7月 チャベス,9億ドルの公共事業計画を組むと発表.実施を軍の管轄下に置き,失業対策に正面から取り組む姿勢を明確にする.経済界は財政の無駄遣いと厳しく非難.

99年8月

8.03 憲法制定国民会議が発足.議長には、与党第五共和国運動ルイス・ミキレナ前内務大臣が選ばれる.PP議員団長にはMVRのアルフレド・ペーニャ.与党は「制定権力全能説」にもとづき,議会・最高裁を解散できるとする.最高裁はそこまでは認められないという見解.

制定権力全能説: 簡単に言えば、<憲法は人民が制定するものであり、人民の主権は具体的には憲法制定会議を通じて行使される。ゆえに、古い憲法や法律が統治形態や憲法の改正手続きについてどんな規定を定めていようと、憲法制定会議は拘束されない。
行政・立法・司法の三権は「制定される権力」であり、これらは「制定する権力」たる憲法制定会議の下にあるのである> というもの.日本ではごく少数だが、歴史上しきりと憲法をとりかえてきた欧州大陸では有力な議論であるらしい.(鈴田さんによる)

8.12 憲法制定国民会議,「公権力全機関再組織令」を発して、国と地方の全機関の直接改革を行う権限を自らに与える.

8.19 憲法制定国民会議,「司法府に対する非常事態宣言」を発し,7人のメンバーからなる「司法非常事態委員会」を組織.裁判官の罷免を含む改革を制定会議が直接実施するというもの.最高裁長官ソサ=ゴメスは,憲法制定会議は直接統治にあたる機関ではないとして反対.

8.20 ミキレナ議長,制定会議の「始源的」性格(制定会議は国民主権の体現者として全権・全能を持つという考え)を強調.最高裁に検討を促す.

8.21 ニューヨーク・タイムズ,制憲議会をジャコバン党と呼び,大統領への過度の権力の集中を批判.

8.24 司法最高裁,8対6で「司法非常事態」を受け入れる.最高裁内部で少数派となった最高裁長官ソサ・ゴメスは、「司法の独立に対す る干渉を許した」と抗議の辞任.制定会議は、「司法制度機能再構築委員会(Comisión de Funcionamiento y Reestructureación del Sistema Judicial)」を指名して司法改革を開始した。裁判官の45%が汚職や職務不適確を理由に罷免.さらに 87人の裁判官が、審査への出席を拒み罷免される.

再構築委員会の報告要旨: 裁判官1200人の半数が腐敗しているか無能力である。この10年間で判事と検察官に対する抗議が400件以上に上り、国家司法評議会はファイルを秘匿していた。また囚人のうち23,000人が、裁判を受けないまま拘留されていた。

8.24 野党が過半数を占める議会が、「司法非常事態」を討議するための臨時議会を開く.

8.25 憲法制定会議は議会の会期を停止。「立法非常事態」を発して、立法権限の一部分を憲法制定会議に移すことを宣言.議会関連の一切の集会を禁止する。議会が宣言を無視したため,憲法制定会議と議会の並立状態になる.

8.27 下院議員メンバーが、政府の禁止命令を無視し議会を開催しようとするが、警官隊に阻まれる。

8.28 議員有志、制憲議会のための基金支出を承認しない、チャベスが国を去る許可を与える権限を保持すると声明。

8.30 制憲議会、反対派の支配する国会の活動を最終的に押さえ込む。

8月末 憲法制定国民会議,行政府と各州政府,全国選挙委員会に行政権の譲渡(形式的)を求める.一方で州知事を対象にして不正調査を開始し、何人かの首を飛ばして愛国極の知事をおく。野党系の知事はこれを拒否.

8月 AD党大会.首都圏のリベルタード市長レデスマが,党書記長に名乗りをあげて現執行部の退陣を要求.ペレス書記長は責任をとって退陣し,後任にザンブラノを推して選挙を避ける.レデスマは党を離れ「勇敢民衆同盟」を作るが,続く地方選挙で惨敗し影響力を消失.

99年9月

9.01 ベネズエラ制憲議会が上下両院を事実上閉鎖、国会の権限が完全に喪失。

9.09 制憲議会、カトリック教会の調停を受け入れ、国会閉鎖の命令を撤回することに合意。国会が正常な活動をする限り通常活動を認める。

9.16 ベネズエラでコロンビア政府代表とFARCが和平のための予備会談を開催。

9.22 ベネズエラ人の8人グループ,米国報道機関が歪んだベネズエラ報道をしていると抗議.AP通信カラカス支局を占拠.

9.23 チャベス大統領,国連総会で演説.ベネズエラ政府が,国際社会で不当に批判されていると抗議.

9月 憲法制定国民会議,他権力の介入を排除し,新憲法の実質審議を開始.

9月 新刑法の実施の遅れに対し、囚人が抗議の暴動。チャベスは「刑務所非常事態」を宣言。判事・検事・人権活動家・聖職者が最悪とされる4つの刑務所に立ち入り、状況を調査し、速やかに審理を開始するよう訴える。

9月 連合パートナーの人民党(PPT) ,議会が「自立的で集中的でない」司法システムを作るよう呼びかける.

99年10月

10.08 ベネズエラ当局、裁判官122人を腐敗、もしくは無能力と評価し解雇する。

10.13 ベネズエラ商工会議所連合(Fedecamaras)のビセンテ・ブリト会長,「チャベス政権の経済の舵取りの失敗」を厳しく 非難.「トンネルの抜け道すらわからない状態」と語る.この年のGDP成長率はマイナス7.2%.失業率は18%に達する.フェデカマラによれば,ベネズ エラの装置産業の65〜80%が稼動していないという.

10.21  汚職の疑いで2人の前大統領、カルロス・アンドレス・ペレスとハイメ・ルシンチに対する公判が再開される。

10.26 「ダタナリシス」が1000人を対象に世論調査.84.6%がチャベス政権を支持.

10月 チャベスが日本を訪問.始球式でロベルト・ペタジーニ選手を相手に投球.

10月 女性機会均等法が成立。これに基づき全国女性庁(INAMUJER)が設立される。また01年には、女性の起業を促すため「女性の発展のための銀行」が創設される。

10月 教育相,公共教育を充実させるとともに,私立学校が教育基本法にのっとり教育をおこなうよう警告.

99年11月

11.05 チャベス大統領 次期大統領選挙への出馬を宣言.ボリバリアニスムと呼ばれる社会運動を提唱.

11.10 制憲議会議長ルイス・ミキレーナ,新憲法案を12月15日に国民投票にかけると発表.野党は採択そのものをボイコット.

11.16 制定会議,新憲法案を採択.大統領の任期を5年から6年に延長し、再選も可能とする。その代わりに就任後3年以上となれば、任期途中でのリコール権を与える。

11.16 ウゴ・チャベス大統領,第9回イベロアメリカ首脳会議に出席.NATOに対抗するラテンアメリカ集団安全保障条約機構(OTAL)の創設を提案.

99年12月

12.11 北部9州で集中豪雨が始まる.死者5万人,行方不明者7千人,被災者33万人以上に達し,べネズエラ史上最悪の災害となる.中心となったバルガス州では2万から5万(推定)が死亡,10万戸が被害を受ける.

12.16 ベネズエラ,368条からなる新憲法草案に対する国民投票.投票率は低かったが、賛成票が71%にのぼる.

新憲法の特徴: 国名を「ベネスエラ・ボリバリアーナ共和国」と改称.大統領権限の強化,再選禁止条項の削除を盛り込む.大統領任期は5年から6年に延長され,連続二期12年まで継続可能となる.ただし政権任期半ばで信認を問う国民投票の実施が可能とされる.大統領に国軍上級将校任命権を授与.国軍・警察要員に選挙権を授与.
石油公社の民営化の禁止、社会保障制度の民営化の禁止、大土地所有制度の廃止、協同生産の重視、先住民の権利や労働組合活動の自由等をうたう.他に完全な男女同権,医療費の無料化,大学まで含めた学費の無料化が謳われる.

12.16 憲法の国民投票と同時に行われた国民投票で、新憲法に基づく国会議員選挙が行われるまで、行政委員会・司法委員会が立法と司法の機能を担うことが決められる。行政委員会には制憲会議の中核部分が引き続き残留。

12.22 ホセ・ロハス蔵相,水害の復興開発の信託基金を創設すると発表.

12.25 キューバ航空のヤク42型機カラボボに着陸しようとして墜落。乗客・乗組員22人全員が死亡。

12.30 新憲法が発効.議会は解散。制定会議が議員を指名した暫定議会「全国立法委員会」が発足.引き続きミキレナが議長を務める.ミキレナは第五共和国運動の幹事長も兼任したため,権限が集中.

12月 洪水救援に入った部隊のうち,国家警察,政治警察,軍情報部の部隊が著しい人権侵害.州人権擁護委員会によれば60人が即決で処刑 されたという.チャベスはこの情報を反政府派のデマとして否定。(その後の情報では公安部隊が略奪を行った群衆を鎮圧。その際数十人を殺害したといわれ る)

99年 国家財政赤字はGDPの8%に達する。経済危機により60万人が失業、犯罪の増加をもたらす。

99年 スリア州知事アリアスが連合党を結成。反チャベスの旗色を明確にする。急進正義党がこれを支持。MVR全国委員でアリアスの右腕といわれたJoel Acosta Chirinosもアリアスと行動を共にする。

フランシスコ・アリアス・カルデナス: 元陸軍中佐.92年のクーデター計画にも参加したチャベスの盟友.98年の大統領選挙ではスリア州知事としてチャベスを支持した.その後チャベスの中央集権主義に反発し袂を分った.実際には二人の意見はすでに獄中時代から異なっていたという。

 

2000年

00年1月

1.07 「災害現地で軍による人権侵害」との報道に接したチャベス大統領は「無責任な報道」と反論.

1.29 ピーター・ロメロ中南米担当国務次官補,ベネズエラ政府の行過ぎた経済介入に警告.

1月 憲法制定会議,新憲法体制までの移行体制として「全国立法委員会」(暫定議会)を作り解散.暫定議会の委員長には制定会議の議長ミキレナが横滑りし、その他の委員も制定会議が指名.

00年2月

2.01 愛国極所属の無党派議員で、憲法問題専門家のRicardo Combellas、民間人のチェックが不十分なまま軍人に投票権を与えれば、軍国主義を助長する危険があると批判。また議会解散からメガ選挙までの期間 が長すぎ、その間政府を統制する機能がなくなることに警戒感を表明。

2.02 チャベス政権,初の経済政策を発表.経済再活性化を目指す.付加価値税の1%引き下げ,GDP目標2.2%,為替バンド制の維 持,政府財政赤字1.5〜2.0%,失業率を16%にまで下げることなどが柱となる.これに伴い,新規投資に対する減税、対農業部門・中小企業融資の促 進、銀行預金金利の上方誘導が施行される.

2.04 アリアス・カルデナス、ウルダネタ・エルナンデス(政治警察長官)、ヨエル・アコスタ・シリノス(MVR全国調整官)の元同志三 人が、チャベス政権の高官を批判する文書を発表。ホセ・ビセンテ・ランヘル、イグナシオ・アルカジャ、ルイス・ミキレナらに矛先が向けられる。チャベスは 元同志を「待ち伏せ攻撃を行った」と批判し、たもとを分かつ。

2月 首都区の市長が連名で、「犯罪緊急事態」を宣言。大統領に即時行動を起こすよう要請する。殺人事件発生率が1日につき約20件、車は10分に1台の割で盗難にあう。

00年3月

3.10 アリアス・カルデナス、ウルダネタ・エルナンデス、ヨエル・アコスタ・シリノスがマラカイ宣言を発表。アリアスは7月のメガ選挙に大統領候補として立起すると表明。

フランシスコ・アリアス・カルデナス: 恩 赦で解放された直後からチャベスとは別行動をとり、カウサRの支持を受けてスリア州知事となっていた。アリアスはチャベスの親キューバ路線に反対し、企 業、とくに外国企業の資産保護を要求した。また彼は、土地占拠運動の取り締まりを要求した。軍に投票権を与えるという新憲法の330条に反対した。これは 高級将校のひそかな支持を得た。

3月 政治警察と地方立法委員会、全国立法委員会は野党知事に対して汚職捜査の波状攻撃.キャンペーンは3ヶ月にわたる.野党系の知事はほぼ全員が州立法委員会か検察の告発や政治警察の立ち入り捜査を受ける.不正が認められた州には中央政府からの資金供給が停止される.

4 チャベス大統領,ケベックで開かれた米州自由貿易地域(FTAA)首脳会議に出席.2005年のFTAA設立について,34人の首脳の中でただ1人「保留」を表明.

00年5月

5.05 反チャベス派のアリアス候補,演説中にチャベス支持者に石やトマトをなげられる.アリアスはこれをチャベスの攻撃的発言がそそのかした事件だと非難.

5.23 最高裁、コンピューター集計システムに不備あるとの市民団体の申し立てを認め、選挙の延期を決定.選挙委員会の指導部は全員辞任.

5 ガイアナ政府,Beal Aerospace Technologies Inc.がエセキボ地域に商業用衛星打ち上げ基地を建設する契約を締結.ベネズエラ政府はガイアナ,米国の両国政府に契約無効を申し立て.

6月 国家警備隊の一大尉がチャベス辞任を要求する怪ビデオを流す.この大尉は数日後に逮捕される.

00年7月

7.03 チャベス,混合経済を主張.週44時間労働制を導入.賃金の20%増大を決定.企業は大規模なレイオフで報復.

7.30 ベネズエラで大統領・国会・地方自治体の「メガ選挙」が行われる.投票率は56%。大統領選挙では,ウーゴ・チャベスが370万票(59.4%)で圧勝.対立候補のフランシスコ・アリアス・カルデナス(急進大義党)は250万票(37.8%)にとどまる.

7.30 議会選挙では,チャベス「第5共和国運動」(MVR)が165議席中76を獲得。友党である「社会主義運動」(MAS)が21を獲得.合わせて過半数を確保する。

7.30 州知事選挙では23州中16がチャベス派となる.カラカス都知事にはMVR議員団長のアルフレド・ペー ニャが当選.カラカスの都心部を構成するリベルタドール市長にはチャベスの懐刀と呼ばれたフレディ・ベルナールが当選。カラカス首都圏では保守的中間層を 基盤とする「正義第一」が躍進.東部のチャカオ市ではレオポルド・ロペスが,バルタ市ではエンリケ・カプリレスが市長に当選.

カラカス首都区(Distrito Metropolitano de Caracas): カラカス市という市は行政区分上はなく、政府庁舎などが並ぶカラカス中心部が首都地区(Distrito Capital)を構成する。リベルタドール市(人口200万)がこれに当たる。このためリベルタード市長がカラカス市長と呼ばれることもある.
これにミランダ州内のチャカオ市、スークレ市、バルータ市、エル・アティージョ市を加え首都区を構成.東京で言うと23区の旧東京市が首都地区、三多摩も含めた東京都が首都区に相当する。首都区長は都知事に相当する。

7月 メルカンティル・サンタンデル銀行,今年上半期,資本流出額が石油収入を上回ったと発表.

00年8月

8.01 メリダ州で敗北を認めようとしないAD支持者とMVR支持者が衝突.1人が死亡,9人が負傷.軍は400人の部隊を派遣.

8.06 チャベス大統領,OPEC議長国元首として加盟10ヶ国を歴訪.国連による制裁中のイラクも含まれていることから米国は「利敵行為」と非難.

8.07 米国務省のバウチャー報道官,「チャベス大統領はイラクを訪問すべきではない」と発言.

8.08 ホセ・ビセンテ・ランヘル外相,アメリカがチャベス大統領のイラク訪問を非難したことについて,「主権国の国家元首による主権的行動であ る.ベネズエラは一貫してOPECの団結を重視している.イラク訪問もOPEC首脳会議への参加を要請するため.ベネズエラは参加要請にあたって,特定の 国を差別するようなことはしない」と反論.さらに「世界には『国際警察』は存在せず,ベネズエラは強権政治を受け入れることはできない」と強調.

8.10 チャベス大統領,バグダッド入りしフセイン大統領と会見.石油輸出国機構(OPEC)の役割を強化し,世界の石油価格を安定させ,産油国 と消費国の利益を調整しバランスをとることで合意.両国は文化協力と人員往来の強化などで覚書に調印.チャベスは9月にカラカスで開かれるOPEC首脳会 議への出席を要請.

8.10 チャベス,会談後の記者会見でアメリカの干渉について「ベネズエラは一つの独立国家であり,内政に対する干渉は許されない.米国はまず自国の問題に対処するべきであり,他国の内政に干渉しないようもとめたい」と述べる.

8.13 チャベス、リビアでカダフィと、ナイジェリアでオバサンジョとそれぞれ会談。

8.18 政府軍部隊、5トンのコカインを押収。数日後には「Doble Uno」農場でも5トンを摘発。これはDEAの資金援助を受けた「オリノコ2000」作戦の一環として取り組まれた。

8.19 チャベス,二期目の大統領に就任.就任後一年半で経済成長率はプラスに転換,賃金は44%上昇,失業率は14%台から13%台に低下.

8.26 マラカイボの少年野球チームが、テキサスのチームを3対2で破り、「ワールドシリーズ」の王者となる。

8.30 報道では、チャベスの経済政策を嫌い、多くの専門家や企業家が国外に移ったとされる。

8月 新政府,400人の腐敗判事や政府高官を追放,税制改革により脱税や不正を規制,税収は大幅に増える.

8月 新政府には憲法166条に基づいて公共政策調整・計画協議会が設けられ,住民組織,NGO,農民運動,女性団体,知識人,ボリバル革 命運動などの代表が参加.行政や議員などと共に,すべての政策やプロジェクトについて政策立案,予算の配分,その実施とモニターなどにかかわることとな る.

00年9月

9.22 チャベス、第一次予算案を提示。総額は21億ドル。内訳は基盤整備に8.2億ドル、社会計画に7.6億ドル、残りが経済振興、技術開発、防衛にあてられる。

9.22 「ボリーバル2000計画」が発表される.国際市場における原油価格の高騰を背景に,教育予算が二倍化されるなど,百万人以上の 児童があらたに教育を受けることができるようになる.給食は無料化される.インフォーマル経済の規制にも着手し,貧困者の権利を保護する.

ボリーバル計画の柱:  @農地改革、A労働者地区での持ち家政策、Bバリオ・アデントロ計画(キューバから8千人の医師の協力を得てスラム街や僻地で行われた保健医療)、Cロビ ンソン計画(100万人規模の識字教育キャンペーン)とリバス計画(中学で中退せざるを得なかった人たちが対象)、Dメルカル計画(市場より安い価格での 生活必需品の販売網)、Eマイクロクレジットの実施(2001年から2003年にかけて、人民銀行と女性銀行を通じて総額5000万ドルを融資)など

9.28 ベネズエラでOPEC首脳会議が開かれる.ベネズエラ石油相のアリ・ロドリゲスがOPEC事務局長に就任.

00年10月

10.11 1万人以上の石油労働者が賃上げを求めストライキ。

10.15 チャヴェスはPDVSA のシャバルディニ総裁を解任し、その後任にラメダ(Guaicaipuro LamedaMontero)将軍を任命。副社長にはマルチネス(Cipriano Martinez)将軍、オクラホマを本拠地とするPDVSA の米国子会社Citgo社長にはコントレラス(Oswaldo Contreras)将軍を任命。これらの将軍はいずれも軍テクノクラートで、チャベスとは陸軍学校以来の関係。

10.19 ベネズエラと中米・カリブ域内諸国とのあいだに、原油供給協力をうたう「カラカス・エネルギー協定」が締結される.80,000バレルの原油・石油製品が低利融資で供給される事となる。積極的な独自外交を展開するチャベスの影響力が広がる.

10.19 カストロ議長がベネズエラを公式訪問。チャベスは原油53,000B/D を、生産物やサービスとのバーターで供給する協定を締結。

10 チャベス大統領が来日.小渕首相との昼食会には、ヤクルト・スワローズのホームラン王ペタジーニも参加.

00年11月

11.07 権能付与法(Enabling Law)が成立.チャベス大統領が,経済社会、財政・金融、行政近代化分野に関して,国会審議なしに法律を制定できる”大権”を付与される.期限は1年間とされる.

11月 検事総長、最高裁判事、会計検査院長らの任命手続きを定めた「任命法」が成立。15人の国会議員と6人の民間人が「特別評価委員会」を設置。対話委員会が提出した候補者リストから候補者を判定。国会がこれを任命することとなる。

11月 政府、国内外債務の借り換えのため、20億ドルに上る国債を発行。これにより債務は倍増する。

00年12月

12.03 市議会を中心とする地方選挙。チャベス派が圧勝。

12.03 労働運動のあり方を問う国民投票が実施される。具体的には、「CTVなど労働組合センター(CTV)の役員選挙を180日間延 期し、その間、現役員の職務を停止する」という政府提案の是非を問う国民投票。64%の賛成で可決される.ただし投票率は22%にとどまる.(要するに労 働運動に巣食うダラ幹を追放しようというのが狙い。同時に労組を基盤とする既成政党の息の根を止めることも狙う)

12.24 チャベス、司法長官にイサイアス・ロドリゲスを指名。また副大統領にアディナ・バスティダスを任命する。

00年 ホセ・ビセンテ・ランヘル外相,チャベス殺害計画の存在を明らかにする.

00年 この年、公共投資は42%の増加.失業率は18%から13%に減少.乳児死亡率は21%から17%に減少.

本間は上記記載と相反する見方をしている。極貧層は40%と代わらず、失業率は17〜18%のままだった。GDPの27%、輸出の84%、歳入の66%を占める石油の価格は21ドルから15ドルまで下落する。ただし、これは01年以降の内容をふくんでいるようである。

00年 カウサRに続き「みなのための祖国」(PPT)も野党に転じる。マネイロの創設の精神を引く親チャベス派は、ポデモスを結成し与党に残留。マリア・クリスティナ・イグレシアス、ウラジミル・ビジェガス、アリストブロ・イストゥリス、ホセ・アルボルノスら約20人。

00年 AUCがベネズエラ領内での越境行動を開始。コロンビアのゲリラを助けたとして民間人に暴行・脅迫を加える。

 

2001年

01年01月

1.01 アリ・ロドリゲス石油相がOPEC事務局長に就任。後任の石油相にはアルバロ・シルバ(Alvaro Silva Calderon)が就任。シルバ(71歳)は、70 年代の石油国有化法の起草者で、OPECの熱烈な信奉者。

1月 チャベスによりPDVSA総裁に指名されたグアイカイプロ・ラメダ将軍、炭化水素法に関しチャベスを批判。石油企業の権益保護とPDVSAの独自性維持を主張。

1月 労働者ボリバル勢力(FBT),組合対話会議を脱退.全国選挙委員会は、国民投票の線で組合の再選挙を実施する準備を開始.CTVは、自主的選挙に選挙委員会の協力をあおぐという形式での妥協をはかる.

01年02月

2月 内閣の一部改造。ランヘル外相がイスマエル・ウルダド将軍にかわり国防相に就任。史上初の民間人国防相となる。

2.23 チャベス、グアイカイプロ・ラメダPDVSA総裁を汚職の疑いで罷免.後任には左翼系エコノミストのガストン・パラが就任.米国をバックとする軍や経済界の保守派と,政府との緊張が一気に高まる.

3月 「女性銀行」が創設。会長にはベネズエラ中央大学のカスタネーダ教授が就任。清掃協同組合からファッションデザイン事業や美容院や菓子製造業などの起業を支援。

4月 カナダのケベックでFTAA首脳会議が開かれる.チャベスは貧困や飢餓、社会差別をなくすため、「米州社会憲章」草案を提示。2005年のFTAA設立に関してはチャベスのみが保留に回る.ケベック市内では3万人が激しい抗議デモを展開.

01年05月

5.14 チャベス、第2回OPEC首脳会議を前にロシア、イラン、インド、バングラデシュ、中国、マレーシア、インドネシアを訪問。

5.27 OPEC・石油輸出機構第2回首脳会議,カラカスで開催.エネルギー・鉱業相ロドリゲスは,「会議の第1の目標はOPEC内部の 各加盟国の団結を強め,世界にOPECの重要性を示すことにある.今回の首脳会議では,石油の価格と生産上の具体的問題については討議を行なわない」と表 明.また石油価格の高騰に関して,「その根本的原因は,供給と需要のアンバランスにあるのではなく,石油市場での投機活動と石油消費国の定めた高額な燃料 税収にある」とし,「価格高騰のすべての責任をオペックが負うというのは公平ではない」と言明.

5 「シルクロ・ボリバリアーノ」(CB=ボリーバル主義サークル)が創設される.キューバの革命防衛委 員会(CDR)を範とし,政権防衛組織の性格を持つ.副大統領ディオスダード・カベジョが責任者となり,全国3万の単位組織が作られ,カラカス都内のリベ ルタドール市など低所得者居住地域の住民を中心に,50万人が組織される.

01年06月

6.24 ウーゴ・チャベス大統領,アンデス諸国首脳会議の席上,カラカス市内でモンテシノスを逮捕したと発表.ペルーに強制送還すると述べる。

6月 元米海軍情報将校のウェイン・マドセンによれば,ジェームズ・ロジャーズ中佐(現在カラカスの米国大使館付副武官)が担当者としてカラカス入り.ベネスェラ軍の要人と連絡をとり,クーデタの可能性を検討開始.交渉には「麻薬撲滅作戦担当の機関員数人も関与.

7 ペドロ・カルモナ,経団連の会長に就任.反チャベスの姿勢を明確にする.

8月 オリノコ・ベルト地帯における超重質原油の開発がすすむ。外国との合弁企業PetrozuataとCerro Negro社が本格操業を開始。

8月 この頃から通貨ボリーバルの値下がりが続く.政府は、大量の外貨準備高を為替市場に投入し、金利を大幅に引き上げる等の措置.マクロ諸指標を改善させないままの為替操作は,ボリバルの過剰評価を招く.

01年9月

9.05 ランヘル国防相,1951年以来の米国との相互軍事援助協定を延長しないと声明.国防省本部からの米軍事代表団の退去を要請.

9.13 BarquisimetoのPromar TV局に火炎瓶が投げつけられる.放送局長には死の脅迫が送られる.

9月 政策の不一致や人事のもつれなどを契機に愛国極(PP)からMASが離脱.MVR内でも, チャビスタ将校団と文民左翼集団,文民左翼集団内の急進派と穏健派の対立が表面化.軍内部では,陸軍主体のチャビスタ将校団と,陸軍内保守派将校団および 他の3軍が対立.さらにチャビスタ将校団からも穏健派が離脱する.チャベスは非常事態発動の可能性を示唆.

9月 一部のMAS議員と知事は党指導部に従わず与党を支持.自らが本当のMAS(MASマス)だと称する.アラグア州・スクレ州知事,マラカイボ市長などのポストを押さえる.フェルナンデス・メディナの多数勢力組織(OFM)は連立に残る.

01年10月

10.25 ベネズエラ最大の労働組合連合(CTV)が役員選挙.AD派の労働者単一戦線(Frente Unico de Trabajadores :FUT) が62%を獲得し過半数を維持,カルロス・オルテガが議長に選出される.チャベス派のボリーバル労働者勢力(Fuerza Bolivariana de Trabajadores :FBT)が推したアリストブロ・イストゥリス候補は16%の得票にとどまる.全国選挙評議会(CNE)は選挙に不正があったとして結果を承認することを拒否.

10.29 チャベス,テレビ演説.アフガン介入に反対し,「テロへの戦いを支持するが,テロに対しテロで対抗するのは間違っている.こん なやり方は容認できない」とし,爆撃の犠牲者となった子供たちの写真を掲げる.そして「事実はこの通りだ.無実の人々が殺されている.“誤爆”はいつまで 続くのか」と糾弾.

こんにちは、大統領: 毎週日曜日午前11時から午後五時まで、チャベスが出ずっぱりの生番組。かつてのルーズベルトの「炉辺談話」に相当する。国営放送でも屈指の視聴率を誇る。多くの重要演説はこの番組を通じて行なわれている。

10月 政府人権オンブズマン,報告を発表.ポルトゲサ州で警察の覆面組織「処刑グループ」が犯罪者105人を違法処刑したと報告.同様の 報告はファルコン,ヤラクイ,ボーバル,ミランダ,アラグア,スリア州からも上がっている.地方商店主らが資金提供しており,判事は裁判をサボり,犠牲者 の家族や弁護士,警務監視官まで死の脅迫を受けているという.

10 新たな亡命者基本法が発効する.亡命者保護適用の採否決定までの強制送還が禁止される.

01年11月

11.01 ブッシュ大統領,「チャベス氏に反駁しなかった」として,カラカス駐在のリナック米国大使を本国へ召還.アフガニスタン爆撃へのチャベス大統領の批判に対する不快感を示す.

11.02 米国国防省のリーカー報道官,「チャベス大統領は全く不適切と考慮される解説をした」と反論.パウエルは,「チャベスの行動と民主主義に対する考え方に疑問を抱いている.チャベスは民主主義の何たるかについての考えを正すべきだ」と警告.

11.05 米国家安全保障会議,国務省,ペンタゴンによる3日間の合同会議.「ベネズエラ問題」を 集中討議.国務省はチャベスがコロンビア,ボリビア,エクアドルのテロリストを支持していると非難.民主主義援助資金(NED)100万ドルを野党勢力に 供与する決定.(12.29のサンフランシスコ・エグザミナー紙による)

11.14 チャベス,権能付与法の有効期限最終日に,農地改革法,炭化水素法など一連の経済規制法案(全部で49件)を発表.国会審議や産業界との協議はまったくなし.

11.23 49件の規制法が一挙に公布される.なかでも経済規制三法と呼ばれる三つの法律が、経済団体や地方大地主のあいだに憤激を呼ぶ.海外資本の引き揚げが相次ぎ,折からの不況に拍車をかける.

経済規制三法
@ 土地法(土地および農業開発法) 民間所有土地の最高面積を5,000ヘクタールとし,土地所有の証明を義務付ける.不完全に利用されている農地は政府が 接収・再割り当てするか,所有者に十分な利用を強制することができる.この法律は成立後ただちに,オリノコ川流域の土地10万ヘクタールに適用された.
A炭化水素法 油田地域で稼動している外国企業の税金(ロイヤリティ)を16.7%から30%に引き上げる.この税収は国家収入の50%を占めている.またこれらの企業の資本の過半を政府が持つことも義務付けられる.
B漁業権法 海岸線から500メートル以内での,トロール船など大型漁船の操業禁止.零細漁民の組合設立を促進.小規模漁民の保護と環境保全を狙ったもの.

11.23 首都カラカスでAD支持者約6,000人が「チャベスはタリバンだ,アフガンへ行け」と叫んでデモ行進.第5共和国運動の1,000人と衝突.首都警察が出動し,放水車,催涙弾,こん棒で鎮圧.

11.30 ベネズエラ会議所連盟Fedecamara,「政府は社会の誰に相談もなく,49法を公布した」と反対の声明.12月10日に抗議のゼネストを決行すると発表.最大の労働センターCTVもこれに支持を表明.

11月 カラカスの日刊紙,「IMFはチャベスを辞任させようとする人々に融資する意思がある」と報道.

11月 MASのプチ書記長、12月ストに臨んで、「チャベス相手には交渉などできない。街頭行動で早期選挙をおしつける」と述べる。

01年12月

12.08 グアイカイプーロの「墓」が国家宮殿に移葬される。ミランダ州西部の地区はグアイカイプーロ郡と名づけられ、ボリーバル計画の柱のひとつ、先住民保護計画には「ミシオン・グアイカイプーロ」の名がつけられる。

12.09 カラカス首都区長アルフレド・ペーニャ,ワシントンを訪問し,国務省や世銀幹部と会談.チャベスにとって代わるものとしての実 力を誇示.ペーニャは第5共和国運動の幹部で、チャベスの懐刀として大カラカス市長に送り込まれた。ニューヨークタイムスは米国政府の反チャベスの姿勢を 示すものと論評.国内ではカラカス首都区と接するミランダ州のエンリケ・メンドサ知事が反チャベス派の期待を集める.

12.09 カラカスの地下鉄労働者,「ゼネストは事実上財界の主導であり,現政府を弱体化させ,政治を不安定にするものである」と非難.ストへの不参加を決める.

12.10 反チャベス派が全国24時間ゼネストを打つ.野党側によれば100万人が罷業、国内経済活動の90%が停止.事実上はストの形 をとった会議所連盟(Fedecamara)のロックアウト.チャベス政権打倒の動きが具体的に開始される.極左派のバンデラ・ロハも資本家と呼応して反 チャベスの破壊活動を展開.

12.10 チャベスは空軍の記念式典に赤いベレーと軍服姿で現れ,「革命は本日から開始された.我々は準備し,組織する」と演説.

12.10 サンアントニオ地区のランチョに最初の「人民の店」が開店。資本家ストに対抗し、協同組合方式による商品供給を目指す。チャベス政権は低利の融資で後援。

12.17 チャベス、MVRの住民組織ボリーバル主義サークル(Circulos Bolivarianos)の拡大・強化を呼びかける。1ヶ月以内に登録数が150万人に達する。チャベス支持の草の根キャンペーンを展開.右翼はボリーバル・サークルが武装革命をたくらんでいるとキャンペーン。

12.18 銀行協会は再割り当て地に入植する零細農民には資金を貸さないと声明.これに対しチャベスは非協力銀行の国有化も示唆する.

12.13 レベリオン誌によれば,1%足らずの所有者が土地の60%を所有する.労働者の51%が闇市場で働いており,国民の80%が貧困線以下の生活を送る.国民生産の40%は対外債務の支払いに消えていく.

12.28 サンフランシスコ・エグザミナー紙、国家安全保障会議・国務省・国防総省によるベネズエラ問題対策会議の内容を報道。「米国が ベネズエラでクーデターを計画している」可能性について言及。同時にチャベス政権が4%の経済成長を達成し、教育の充実を図っている実績を紹介。

12.31 カラカス街頭の物売りが、カラ鍋を叩き続ける「騒音CD」(cacerolazes)を販売。チャベスの長ぁーい演説を聴かないようにするためのアイテムとして人気を博す。

12月 チャベスの支持率は35.5%にまで低下。ただしこれはベネズエラのメディアによる世論調査。このあと世論調査はまったく信用できなくなる.

12月 新土地法(Ley de Tierras)に基づき、サモラ計画が発足。国のための「食料安全保障」を確保することが大義名分となる。未使用地に対する課税、未使用地の有償接収。接収した土地を相続可能、転売不能の条件で小農と協同組合に譲渡。

12月 米国政府、チャールズ・シャピロをカラカス大使に任命。シャピロは内戦中にエルサル大使を務め、その後99年からキューバ問題担当局長を務めていた。

12月 原油価格が暴落。8月末の1バレル21ドルから15ドルに低下。これにともない、外貨準備高は1年で10%以上減少。米格付け会社はPDVSAの格下げを発表する。

01年 この年のPDVSA石油収入のうち国庫に入ったのは20%にとどまる(76年には80%)。これに伴い、国庫収入のうち石油からのものは4%に低下(91年には18%)。