ハイチ年表 第一部

(1600年まではスペイン領カリブの年表に一括.1900年以降はハイチ年表第二部,1995年以降はハイチ年表第三部へ)

 フランスによるハイチ占領   フランス革命と武装闘争の開始  革命政府と農園主の離反

 トゥーサンの実権掌握  ナポレオン軍とのたたかい  独立ハイチの衰退  

    

フランスによるハイチ占領

1600

00 St. Christopher ,St. Kitts, Nevis, Barbados, Antigua, Montserratなどの島を根城に放浪者・逃亡者などが住みつくようになる.

05 エスパニョーラ島西部のスペイン人,フランスやオランダととの密交易を活発化.サントドミンゴ総督はこれらの島民に島の東部に移住するよう強制.結果的に西部は無人の野となり,海賊たちの聖域と化す.

25年頃 イギリス人,フランス人の逃亡者がトルトゥ-ガ島に住みつく.ときに徒党を組んでスペイン戦を攻撃するなど海賊行為を働くようになる.他にオランダ人はモル・サンニコラス,フランスはゴナイーヴ,イギリスは東部のサマナを根城としていた.

28.9 ピート・ハイン提督のひきいる31隻のオランダ艦隊,キューバのマタンサス沖合いでスペイン船団を襲撃.30隻まるごと拿捕する.1500万グルデンを獲得.この後,十年間に800隻・67千人が私掠船となってカリブ海を荒らしまわる.

29 トルテュー島の南岸に,ハンターと海賊の交易場所が形成される.英・仏・蘭が国籍の関係なく利用.

29 海賊の一部が,密林で牛やイノシシ(野生化した豚)を捕獲し燻製にして,近くを通過する船団に売って生計を立てるようになる.現地語で燻製をブーカネと読んだことから,彼らはブカネア(仏語でブカニエboucanier,英語でバッカニアbuccaneer)と呼ばれるようになる.

一説には,食人種カリブ族には人肉を干し肉にして食べる習慣があり,カリブ族が干し人肉をブカンと呼んだことから,スペイン人が彼らをこう称するようになったという. また一説には,燻製を作るための焼き網のこととも言う.これらの野生動物は本来自生していたのではなく,スペイン人入植者が遺棄したもの.一説によれば野生の牛を捕らえるハンターだけがブカネアと呼ばれ,もっぱらイノシシを追うハンターと区別されたという.彼ら自身は,ブカネアと呼ばれるのを好まず,冒険者を意味するオランダ語源のフィリバスターと称していた.フィリバスター(filibuster)は海賊の乗る快速艇(英語でfly-boats)に由来する.

29 スペイン軍,ネーヴィス島の英植民地を破壊.アンソニー・ヒルトンら農民兼海賊は,新たな植民地を求めてカリブ海を放浪.

31初め サントドミンゴのスペイン軍,トルトゥーガ島に住むバッカニアを掃討.25人の兵士を常駐させ海賊の帰還を阻止.

31 アンソニー・ヒルトンら,プロビデンス会社を結成しTortugaに植民.アソシエーション島と名づける.ヒルトンは初代知事に任命される.トルテュー島は英仏の私掠船基地として発展.セント・クリストフ島・セント・キッツ島・バルバドス島などでの厳しい労働から逃れた多くの年期奉公人(indentured servants)が流入する.

31 セント・クリストフ島から逃れたフランス人年期奉公人,トルトゥーガ島の対岸ポール・ド・ペ(Port de Paix)近くのエスパニョーラ本島に植民.

1633年

33 フランス人,ふたたびトルトゥーガに植民.島の北側は岩だらけの不毛の地.南側はCayona港を中心とする低地地区,タバコを栽培する中部農場地区,西部のRingot地区,山岳地区の四つに分けられた.

33 トルテュー島を根城にするフランス人海賊ロジョノワ(L'Ollonois),ピナル・デル・リオ(キューバ西部の州)のデ・ロス・カヨスを襲撃.支援のためハバナから来たフリゲート船を掠奪し,乗員をみな殺しにする.最後はニカラグアで原住民に捕らえられ,生きながら八つ裂きにされる.

33 サントドミンゴのアウディエンシア,トルテュー島の海賊一掃を決議.決議は諸般の事情から実行されず.トルテュー島での主導権をめぐり英仏無法者が紛争を繰り返す.

34 イスパニョーラ島西部にフランス植民地.Compagnie des Isles d'Ameriqueと名づけられる.フランス人海賊の一部が,セントキッツ島から移る.

1635年

35 フランス,マルティニクとグアドループへの植民開始.マルティニクのフォル・ド・フランスに総督を配置.

35 フランス人海賊ピエール・ルグラン,スペイン船を拿捕.

35 トルテュー島の英仏植民者の抗争が内戦状態に発展.これを見たスペインは,二回目の海賊掃討作戦を開始.英総督は居合わせた船に乗りいち早く脱走.英国人植民者600人の多くは無抵抗のまま捕らえられる.スペインは逮捕者全員を処刑し,女性はすべて奴隷とする.フランス人は全財産を提供する見返りに残留を希望するが,スペインは強制退去の命令.

フランス人の回天作戦: この時フランス人のとった作戦は見事なものでした.彼らはいったん島を離れたあと,対岸のポール・ド・ペに逃げこみ,ゲリラとなって密林に潜みました.本島のスペイン人後続部隊は,潜伏したフランス人ゲリラのため,トルテュー島に向かわず包囲線を敷くことになります.
戦いが膠着したため,トルテュー島のスペイン部隊が,支援のため本島に出撃しました.フランス人はこの時を待っていたのです.スペイン部隊がポール・ド・ペに着いたたのと入れ替わりに,フランス人たちは森を出てトルテュー島に向かい,島に残ったスペイン守備隊を撃破したのです. いかにも海賊らしい大胆さと機敏さ,それに不屈の戦闘性が称えられます.

トルテュー島のフランス人,スペインの襲撃に備え守りを固める一方セント・クリストフ島に救援を要請.セント・クリストフ島の総督はFrancois Le Vasseurを派遣部隊の司令官に指名.初代トルトゥーガ総督の資格を与える.レヴァッスウは52年死亡まで20年にわたり知事を務める.

35 海賊バルトロメ・ポルトゲス,カボ・デ・サンアントニオ沖合でスペイン船の襲撃に成功.後に捕らえられるが脱獄に成功.

38 スペイン軍800名,フランス人の手薄な時期を狙い,トルテュー島に侵入.島の主要部を占領し山頂部に本拠を構える.フランス人は夜襲をかけスペイン軍を殲滅.

44 カイマン諸島のフランス人海賊,エスパニョーラ島西端を隠れ家兼補給所とする.

1650年 エスパニョーラ島の人口はおよそ3万人.うち半数が白人と自由黒人,半数が黒人奴隷.また2千人の逃亡奴隷が山中に暮らす.

52 イギリス・オランダが海上覇権をめぐり第一次英蘭戦争.3年間にわたる.このころからトルトゥーガ島のフランス人海賊がエスパニョーラ島西部に移動.

53 トルトゥーガ島,レヴァッスウの死亡にともない「マルタ騎士団」の所有となる.(64年まで)野生の牛が乱獲により激減.これに伴い島民の数も減少.多くが対岸に移住し狩猟を続ける.

54.1 スペイン人がみたびトルトゥーガ島を奪還.フランス人海賊を駆逐.残党はエスパニョーラ島西部に逃げ込む.

55 イギリス人がトルトゥーガ島を占領.

59 フランス人がトルトゥーガ島に植民.

1660年

60 スペイン軍,四回目のトルトゥーガ掃討作戦.婦女子をふくむみな殺し作戦を展開.トルトゥーガの残党は,西インド会社の私兵団となりスペイン船を襲撃.本島側のポ-ル・ド・ぺを占拠.

60 フランス人,マルティニクに残存するカリブ族殲滅作戦を開始.結局,抵抗を押さえることができず,和平を結ぶ.カリブ族はドミニカ島,サンバンサン島での居住を認められる.

60 ピレネー条約締結.西仏戦争終結.トルチュー島住民の海賊行為は止まらず.

1664年

64 フランス,エスパニョーラ島西部(サンドマング)に対する領有権を主張.コルベール蔵相はフランス西インド会社を設立し,トルトゥガ島にドジェロン(Bertrand D'Ogeron)を総督として派遣.植民地化を目指す.

ここまでのトルトゥ-ガ島およびエイスパニョーラ島北岸の領有をめぐる記載は,ほとんど信頼できません.文献によってあまりにも違いすぎます.恐らくスペイン側史料とフランス側史料の違いに基づくものと思われますが,権威ある文献でもう少し確定したいものだと思います.

65 フランス,黒人法を制定.自由黒人に同等の権利を認める.さらに奴隷にも人道的対処を定める.

65 初代Tortuga 島知事としてドジェロン総督を任命.正規のフランス領トルトゥーガ植民地が発足する.この時の住民は白人450人,奴隷60人,年期奉公人が数人だった.このほか対岸の本島海岸に,700~800人のフランス人が隠れ住んでいた.

サンドマング開発の先覚者ドジェロン: ドジェロンは住民にフランス本国への服従を説くが,住民はオランダなどとの密貿易が禁止されること,海賊行為が宣言され,農牧業への専業化が強制されることなどに反発.
ドジェロンは本島のフランス人をトルテュー島に強制移住させ,拠点としての守りを固める.さらに本国から大量の移民を募り,Port de Paix, Port Margot, Leogane,Petit Goaveなどに開拓地を建設.またポートロワイアルをはじめ西インド各地からフランス人海賊を集め,保護する.

67 トルチュー島のフランス海賊フランソア・ロロノア,マラカイボを襲撃.

68 ドジェロンの説得に促され,西インド諸島の仏植民地から2000名以上のプランターと黒人奴隷が移住.彼らを中心にサンドマングでの本格的農業が始まる.(http://www.discoverhaiti.com/history00_8_1.htm

70 ルイ14世,フランスによるサンドマングへの奴隷貿易を認可.主としてダホメ(Dahoumey)王国から輸入される.奴隷労働に支えられて砂糖,コーヒー,カカオ,インディゴ,綿などの栽培がさかんとなる.17世紀末までに7万4500人の奴隷が輸入される.

71 サンドマングの黒人奴隷,最初の反乱.

74 フランス西インド会社への特許廃止.国王直轄植民地となる.その後,奴隷制砂糖プランテーションが急速に拡大.

80 Dageronと交替したPouancey総督, サントドミンゴのスペイン軍を撃退し全植民地の支配権を維持.

85 スペイン,黒人法(CODE NOIR)制定.すべての黒人をカトリックに入信させ,ブードゥー教を禁止.プランテーションからの外出,奴隷主の許可のない結婚,私有財産の保有が禁止される.フランスもスペインをまねた黒人法典を制定.

85 Cussyが仏領植民地の総督となる.スペイン軍の攻撃の前に支配地のほとんどを失う.

87 フランス,エスパニョーラ島の東1/3の領有を主張.「サンドマング」と名づける.この時点で最大の輸出作物はタバコだった.

90 サンドマングを根城とする海賊,公然活動を停止.

91 新総督に任命されたDucasse,支配地を復活しさらに西海岸まで進出.

91 エスパニョーラ島全域にわたり,71年に続く大規模な黒人反乱発生.この年4,336人の白人,に対し23,120人の奴隷がサンドマングに居住.

97.9 Rystwik/Ryswick(リュウイック/ライスウェイク)条約締結.リュウイックは条約の結ばれたオランダの村の名前.スペインはエスパニョーラ島西半をフランスに割譲.サン・ドマング(ハイチ)となる.サンドマング会社が統治.フランスの支配を嫌うスペイン人はキューバに移住.条約に基づき,各国政府は海賊に対する取り締まりを強化.すべての港から海賊を締め出したため,以後海賊は急速に衰退.

 

1700

05 サンドマング北部カプ・フランソア周辺で大規模な砂糖生産が始まる(一説に1713年).肥沃な土壌と豊かな雨量に支えられ,急速に発展.

23 仏領マルティニク島にコーヒー移植成功,以後LA全体にひろがる.

24 サンドマング,インド会社の手を離れ王室直轄地となる.

40 サンドマングの砂糖生産,4万トンを越える.英領植民地すべてを合わせた量をしのぐまでに発展.

43 トゥーサン,北部のブレダ農園に奴隷として生まれる.祖先はベニンの出身と言われる。77年に解放され結婚(34歳).

49 フランス人入植者がポルトープランス建設.逃亡奴隷集団(マルーン)が各地で発生し,大きなものでは数千の規模に達する.彼らは逃亡した農園近くの山に潜み,農園襲撃をくり返す.

50 ハイチでコーヒーの生産が盛んとなる.世界の総生産量の半分をハイチが占めるようになる.

51 逃亡奴隷(マルーン)でモスレムの医術師フランソワ・マッカンダル(Mackandal),白人を駆逐し独立した「アフリカ王国」を建設しようとして反乱.カプフランソア周辺を中心に,抵抗は7年間にわたる.

55 英仏間でアメリカ植民地をめぐるフレンチ・インディアン戦争開始.8年間にわたる.

57 マッカンダルが逮捕される.反乱終了.死者は6千を数える.

60 18世紀初めからの黒人奴隷輸入総数は30万8700人に達する.このあとの50年でさらに48万人が輸入される.

61 マッカンダル,カプフランソアで焚刑に処せられる.その後もマッカンダル生存説がブードゥーのあいだで語り継がれる.その後農園主は忠実な黒人を守備兵(gens de couleur)とし,マルーンの攻撃を撃退.

61 サンドマング,イギリス人により占領.

63.2 パリ条約締結.7年戦争終結.イギリスはハバナをスペインに,サンドマングと小アンティル諸島のグアドループ,マルティニク,セントルシアをフランスに返還.代りにカナダ・フロリダとドミニカ,グレナダ,セントヴィンセントなどを獲得.

64 サンドマングからイエズス会が追放される.

66 サンドマングの砂糖生産量,6万トンを超える.フランス人技師による灌漑設備の整備が進む.

70 カプ・フランソアに代わりポルトープランスが首都となる.この年,自由な有色人6,000人,白人18,000人.このあとヨーロッパからの移民が解禁され,フランスから一攫千金を夢見るフランス人が続々と移民.地主層(グラン・ブラン)に対しプティブランと呼ばれる.

77 エスパニョーラ島の西仏境界線確定.

79 西仏,アメリカ独立戦争に介入.北米独立軍支援の仏領西インド諸島部隊がジョージア植民地サバンナに上陸.当時12歳のアンリ・クリストフをふくむハイチの黒人兵は,フランス軍の前面で活躍.帰国後,独立運動の主流となる.

82 フランス,ギアナにロンシャン基地建設.後に英領となりジョージタウンと改称.

83 サンドマング,低価格により英領産砂糖を圧倒し世界最大の砂糖生産地となる.英仏で消費される砂糖の4割がサンドマング産となる.貿易額はフランスの国際貿易の4割を占める.コーヒーも世界のコーヒー生産の半分以上を占め,金額で砂糖に匹敵する輸出量を誇る.当時の人口52万のうち黒人奴隷は45万人(87%)を占める.

87.5 トーマス・クラークソン,奴隷貿易制限委員会を結成.ブリソー(Brissot)は,クラークソンに学び,パリで奴隷制反対協会(Les Amis des Noirs)を結成.ラファイエット,ミラボー,ロベスピエールが加わり,人種差別の撤廃を目指す.

87 カプ・フランソアとポルトープランスを結ぶ道路が開通.

87 カプの高等評議会が解散され,ポルトープランスの高等評議会が「サンドマング高等評議会」となる.白人有力者はClub Massaic()を結成し,コロニアル議会の設立に向け動く.

 

1788年

2月 ルイ16世,国民公会の召集を約束.サンドマングの地主たちは,議員を国民公会に送る権利を請願.

7月 フランス在住の不在地主たちが植民地委員会(救世主クラブ)を結成.グランブランの利害を代表し,「黒人の友」に対抗.(救世主クラブというのはClub Massaicと同じものでしょうか? Club Massaicというのは,メンバーが集まったホテルの名前と記載されていましたが…)

9月 植民地委員会,国民公会に代表を送る権利を要求.

12月  サンドマングの栽培者,自治の拡大を求める.

88 Le Jeune裁判.14人の黒人奴隷が白人栽培者に対して虐待のかどで告発.白人を刺激することを恐れた裁判所は公訴を棄却.

88 ハイチの砂糖栽培,最盛期を迎える.全土に793の砂糖プランテーション、3,117のコーヒー・プランテーション、789の綿のプランテーションそして182のラム酒製造工場.砂糖の年間輸出量は7万トンを越え,欧州市場の約半分を独占.人口は,白人30,831.黒人奴隷437,429.自由有色人24,848.総計 490,108人.黒人奴隷の数は実際はこの1.5倍と推定される.自由有色人のうち半分は白人支配者とのあいだに生まれたムラート.(一説に1790年の人口統計として,総人口555,825,白人27,717,自由有色人21,800,黒人奴隷495,528人)

 

1789年

1月 サンドマングの有色人,完全な権利を求める要請書.

6月 ポルトープランスなどサンドマング各地で植民地委員会が活動開始.

7.14 テニスコートの誓い.植民地委員会も第三公会に加わる.

8.26 フランス大革命がはじまる.国民公会(Estates General),「人権宣言」(市民に対する権利の宣言)を採択.「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」と宣言.

9月 「人権宣言」の実施をめぐり,黒人や有色人の人権が問題となる.仏領西インドの白人農園主は,革命に反対し母国からの自治を主張.

9月 国民議会,サンドマングにコロニアル議会の創設を承認.

10月 ムラート,国庫に600万フランを寄贈.さらに国債の抵当に彼らの資産の5分の1を提供すると提案.ムラート代表のバンサン・オジェ(Vincent Oge)は,フランス議会に対し完全な人権の実現を要求.パリで有色人種の人権承認に奔走する.バンサン・オジェはカプ・フランソアの裕福な肉屋の息子.

11月 ラモー(Lamoth)は「私はサンドマングで指折りの富豪であるが,正義と博愛のためにすべてを犠牲にする覚悟がある.私の目標は植民地評議会への参加と黒人の解放である」と宣言.

11月 サンドマングで植民地議会による自由有色人への弾圧が始まる.

ラモスの宣言に対する白人の反応はすさまじかった.カプ・ラコーム(Cap.Lacombe)では黒人が人権を主張する嘆願書に署名しただけの理由で処刑された.プティゴーヴのムラートは西部州の選挙評議会に,条件改善を求める要請書を提出したが,署名者全員が拘置され,指導者Ferrand de Baudiereはただちに処刑される.植民地政府は助命に動くが,現地勢力に拒絶された.

12月 フランス議会は,自由有色人の人権要求を拒否.

 

フランス革命と黒人闘争の開始

1790年

2月 革命議会,サントドマングにおいて一定の所得資格を満たす25歳以上のすべての人間に,植民地議会への選挙権を与えることを認める.所得制限の内容(豊かなムラートと貧しい白人の扱い)は不透明なまま残される.

3.08 革命議会決議の内容が,サンドマングに知らされる.ティブランを基盤とする植民地委員会の部隊が,旧体制に近いフランス軍二個連隊に対し反乱.ポルトープランスを制圧.白人内の平等を求める白人中間層~下層勢力に有色人も参加.サン・マルクで植民地議会を開催する.

3月 サン・マルク議会は,ポルトープランスの上級評議会の権威を否定し,自らを唯一の正当な立法機関とする.「総督は本国を代表し承認する」だけの存在に限定される.北部地方評議会とともに自衛/自立の手段をとるとする.

4.15 フランス軍と農園主たちは,サンマルクに対抗し,カプ・フランソワで別の植民地議会を招集.

4月 カプの植民地議会,本国議会の三月決議を受け「憲法の基礎」を発表.無産白人は排除され,ムラートの参加も認めず.革命の精神は骨抜きにされる.革命前にルイ16世の名の下で任命選出された植民地議会代表は,「すべての白人は,私生児どもや堕落した種族と政治的権利を分け合うくらいなら死を選ぶあろう」と宣言.

4 バンサン・オジェ,三月議会での有色人種の人権承認に失敗.革命議会から追い出される.その後イギリスで奴隷制廃止論者のトマス・クラークソンと会見.Prince of LimbourgからPoissac中佐,order of the Lionの爵位を買う.

5.15 フランス議会,黒人奴隷の一部解放を宣言.地主階級は一斉に反発.

5.28 カプの植民地会議,「サンドマングの農園主は国王にのみ忠誠を誓う」と宣言.革命政府への不服従と,事実上の分離・独立を主張.サンマルク議会と植民地当局をふくめて三つの権力が鼎立する事態を迎える.さらに自由有色人は武装反乱を狙うなど情勢は混乱.

8月 ハイチ駐留のフランス政府軍,植民地議会を強制解散させる.

10.12 フランス政府は,公式にコロニアル議会の解散を決定.

10.17 バンサン・オジェ,米国で武器弾薬を購入した後サンドマングに戻る.カプ・フランソアに戻ったオジェは,同じムラートのジャン・バプティスト・シャバンヌ(Chavanne)と語らい,武装部隊の編成に乗り出す.

10.28 バンサン・オジェとシャバンヌ,300の部隊とともにドンドンで武装蜂起.グラン・リビエールに陣地を構築.北部地方評議会に対し,ムラートと解放奴隷2万8千人に白人3万人と対等の市民権を与えるよう要求する.計画ではカプ・フランソワに武装デモをしかけ,彼らの人権を認めさせることとなっていた.この計画に黒人奴隷は参加せず.

11月 評議会は600人の部隊を編成し,オジェの陣地を襲う撃退される.ついで白人は1500人の軍勢を組織し攻撃.部隊は壊滅し,二人はサントドミンゴに逃れる.サントドミンゴ官憲は二人を逮捕し強制送還.

 

1791年

3.09 カプフランソワの当局,捕らえた反乱軍兵士全員を絞首刑.オジェとシャバンヌは公共広場で撲殺され,その死体はバラバラにされる.

3月 フランス軍,ムラートの反乱に備え増強される.軍には白人入植者も加入.

5.15 本国議会,五月宣言を発す.自由人を両親にもつ有色人は植民地および本国の議会に参加できると指示.農園主はこの宣言を無視し,有色者活動家に対するテロをくり返す.この時点では黒人奴隷48万には影響なし.

91年8月

8.09 新植民地議会が開催される.議会は本国議会の五月宣言を拒否.

8.14 北部グロモルヌ近郊の「ワニの森」(Bois-Cayman)で,ペトヴォ・ブードゥー(Petwo Voodoo)の儀式.ジャマイカ生まれのマルーンで呪術師(houngan)のドゥッティ・ブウクマン(Boukman)が主催.黒人奴隷の代表者2百名が結集.反乱開始を決議.攻撃開始は21日と定められる.

折からの嵐の中,戦神オグウンの化身となった巫女が,黒い豚を生け贄に捧げた後,奴隷・マルーン部隊の指導者を指名したという.
指名された指導者はブウクマンの他にジャン・フランソワ,ジョルジュ・ビアッスウ,ジャノー(Jeannot)の4人.

8.22 黒人蜂起開始.北部のプランテーションで数千人が決起し,農場を次々に焼き討ち.農園主は殺され,女は犯された後殺され,子供もみな殺しとなる.トゥーサンは,最初の黒人蜂起の際は元の奴隷主の農場を暴動から守る先頭に立った.

8.24 植民地議会,フランスへの支援要請を拒否.英国の保護の下に自衛策をとることを決議.ジャマイカ総督Lord Effinghamに密書を送る.Effinghamは500のマスケット銃と弾薬を送る.

8 ムラートも白人と離反,「南部平等軍団」を組織し南部や西部で反乱を開始.ミレバライスではムラートが黒人奴隷と連合して決起.ポルトープランスから派遣された白人部隊を撃破.ポルトープランスの包囲に入る.指導者はアンドレ・リゴー,アレクサンドル・ペションなど.

アンドレ・リゴー 父が白人で母が黒人.ルカイエで生まれ,ボルドーで教育を受け,サバンナとグアドループで貿易の仕事につく.ルカイエで民兵隊に加入し,「南部平等軍団」司令官となる.

91年9月

9.01 黒人奴隷の反乱はアクール,リンベ,フラビーユ,ルノルマンなど北部一帯に及ぶ.5万人の黒人奴隷が決起.1ヶ月以内にコーヒー園1200,砂糖キビ農場161が焼打ちされ,白人千人以上が殺される.奴隷1万人も,農園主たちとともに殺される.残された白人は,事実上カプフランソワに幽閉された状況に陥る.3万の白人のうち1万が米国,キューバなどに亡命.

9.11 奴隷制の維持を狙うリゴー,ペションら南部ムラート有力者は,黒人を裏切り白人との宥和を選ぶ.ポルトープランスの白人支配層は,ムラート有力者たちとダミアン休戦協定を結ぶ.

9.20 カプ・フランソワの植民地議会,パリ議会の3月宣言および5月宣言を承認.さらに一歩進み,財産と関係なく自由有色人すべてに市民権を認める.黒人とムラートの離間を図ったもの.これを機に,奴隷制維持を狙う有産有色人は白人の側に立って闘うようになる.

9.23 本国議会,五月宣言が反乱を誘発したと見てこれを撤回.1万8千の兵とともに三人の執政官を現地に送り,奴隷制を維持する方向で事態の解決を図ることとなる.

9 ブウクマンが死亡.ジャン・フランソワが総司令官,ビアッスウが次席となる.ジャン-フランソアは上級提督,次席のビアッスウは大将(Generalissimo)を名乗り,フランス国王に忠誠を誓う.ジャノーはあまりの凶暴ぶりにより非難され,トゥーサンの進言により内部粛清される.黒人奴隷が国王支持を打ち出した背景には,サントドミンゴのスペイン王党派による指導があったとされる.

9月 この頃ピエール・トゥーサン・ドミニクが軍医として反乱軍に参加.すでにトゥウサンは40歳を越えていたが,まもなく軍人としての才能が認められビアッスウの副官に任命される.

ジャン-フランソア パピヨン農場から脱走し,逃亡奴隷の集団に加わり頭角をあらわす.反乱軍の中では穏健派と目されていた. ビアッソウ Fathers of Charity結社に属していた.酒好きで好色で野心的で過激派で疑い深く,しばしば報復に走った. ジャノー 殺人狂で,その手を白人の血の中に浸すことが無常の喜びだった.

91年10月

10月 ジャン・フランソア,ブランシェランド(Blanchelande)総督の喚問に対して返答.「我々は国王に対してのみ忠誠を誓う.総督は我々のところに来て国王の正統な代表であることを証明せよ」と応える.さらに「我々は決してあなたが考えるほど残酷ではない.我々は心から平和を望んでいる.しかしそのためにはすべての平野と山から,ただひとつの例外もなく,すべての白人が立ち去ることを求める.我々の欲するのはただ自由のみ.そのために我々の血の最後の一滴まで捧げる.自由か死か」と述べる

10 カプフランソワの白人農園主,押し寄せる反乱軍を激戦の末撃退.黒人1万が死亡,白人側にも2千の死者を出す.これを機に戦況は一転.劣勢を盛り返した白人農場主は,黒人皆殺し作戦を展開.さらにBeauvaisの率いるムラート部隊を襲撃.17人を即決裁判で処刑.

91年11月

11.21 ポルトー・プランスでも下層白人が黒人反乱軍を押し返し,主導権を握る.ポルトープランスと南部の白人勢力は,ムラートとの同盟を破棄し権力より排除.

11.29 五月宣言破棄の本国決定を受けた本国からの執政官(Mirbeck, Roume, Saint Leger),ル・カプに到着.派遣兵力は結局6千にとどまる.ミルベックのみが本国代表で,Roumeはグレナダのクレオール,トバゴ島執政官からの横滑り.セリンジャーはトバゴ島の医者で奴隷主.

91年12月

12 劣勢に追い込まれた黒人奴隷反乱軍は,指導者の放免を条件に和平を申入れる.執政官は黒人の処刑を停止し恩赦を提案するが,植民地議会は拒否.ジャン・フランソワ,ビアッソウが残存部隊の指揮を執り,西領サントドミンゴ領内に移動.スペインの庇護を求める.

12 ポルトープランスでプティ・ブランが有色人を大虐殺.ムラート軍はいったん南方に撤退.クロワ・ド・ブウケ(Croix-des-Bouquet)に結集し,プティブランとの闘いを再構築.ムラート部隊には白人農園主も数多く加わる.

 

革命政府と農園主の離反

1792年

3 南部ムラートと白人農園主の連合軍,黒人兵を率い反撃.プティブランの支配するポルトープランスを包囲.

3.28 フランス革命議会,派遣部隊単独では黒人奴隷の反乱は平定不可能であり,有色人との連合が不可避と判断.91年5月の決議を回復.

4.04 パリの国民公会,91年5月宣言をさらに進め,すべての自由有色人に完全な市民権を認める「4月宣言」を採択.カプフランソアの植民地議会決議にそったもの.

5月 スペイン,フランスに対し宣戦布告.これに伴い西領サントドミンゴもサンドマングとの戦闘を開始.

6.02 国民公会,第二次使節団をサンドマングに送り,4月宣言の実施を推進することを決定.使節団はレジェ・フェリシテ・ソントナ(Sonthonax)を首席とし三名から構成される.

7.05 白人革命支持派とムラートの連合軍,ポルトープランスを制圧.

8月 一連の混乱の原因は本国政府にあると見たプティブランとグランブランの一部は,フランスからの分離・独立運動を本格化.一時的にイギリスの支配下に入ることを条件に,ジャマイカのイギリス軍と援助協定を結ぶ.

9.18 国民公会からの全権統治委員ソントナ,6千の兵とともに現地入り.王党派将軍のデパーブらを本国に召還.内乱鎮圧にあたる一方,有色人代表と会見し,4月宣言の内容を伝える.

10.12 ソントナ,植民地議会を解散.サンドマングを直接統治下におく.ムラートはフランス軍に加わり,独立派白人と闘うこと,奴隷制を維持することで合意.サンドマング内戦の布陣は政府=ムラート軍対独立派白人との対立に移行.

12.02 独立派白人とフランス・ムラート連合軍とのあいだで戦闘が始まる.スペインもハイチ内乱を好機とみてサント・ドミンゴよりハイチ領内に侵入.

 

1793年

93年1月

1.02 ロシャンボーの出発.(どこへ?)ラボー将軍は北部での黒人反乱軍との戦闘を指揮.

1.21 国外逃亡を図ったルイ16世,捕らえられギロチンにかけられる.

1 執政官の停戦提案に植民地議会も同意.兵士をふたたび農場に戻すことと引き替えに,約三百の反乱軍将校に恩赦を与えるというもの.Raynal(ムラート) and Duplessy(解放奴隷)が黒人拠点グラン・リヴィエールに赴き停戦を訴える.要求が完全に無視されたことから黒人側は態度を硬化,このときビアッスウは白人捕虜の皆殺しを命じるが,トゥーサンにより慰留されたという.

1月 ジャン・フランソアが出席し,La Petite Anseで政府・議会との停戦交渉.フランソアはコミッショナーとの交渉で,白人50人の解放,捕虜の交換,奴隷の労働への復帰を約束.フランソアは,まず植民地議会議長ブレットに鞭でうたれたという.

93年2月

2.01 フランスは英国と宣戦布告.政府軍司令官のエティエンヌ・ラヴォー将軍,列強との開戦により本国に召還される.本国からの供給線は有力な英海軍により途絶.

2 本国軍とムラートの連合軍,黒人反乱をほぼ平定.グランブラン内の王制派の策動も押さえ込む.グランブラン独立派は英国の支援を背景に反乱に傾斜する.

2 ルイ16世の処刑を知ったトゥーサンら黒人反乱軍の将校は,政府側に不信を抱き,和平を拒否.ソントナとの交渉の席でトゥーサンは「王のいない国は信用できず,その国の代表であるあなたも信用できない」と言ったという.

2月 プランターはコミッショナーの指示に従わず,黒人への攻撃を繰り返す.停戦合意は反故になり,戦闘が再開される.

2月 黒人反乱軍はサントドミンゴ領内に赴きスペインと同盟を結ぶ.ジャン・フランソアは中将,ビアッスウとトゥーサンは准将のタイトルを授与される.

93年3月

3月 ジャン・フランソアとBiassouの関係が決裂し,別行動をとるようになる.ビアッスウの副官トゥーサンは,フランソアと行動をともにする.二人のボスが仲間を奴隷としてサントドミンゴのスペイン人に売り飛ばすなどの無軌道を重ねたため,トゥーサンが党派を超えて人望を集めるようになる.

4 スペイン軍がドミニカから国境を越え侵入.主体はトゥーサンを指揮官とする黒人反乱軍.侵攻途上で多くの黒人奴隷が参加,軍勢は1.4万人に膨れ上がる.

4月 ソントナらは,スペイン=黒人軍の攻撃を受け,ポルトープランス防衛に全力を集中.西部・南部の各地で勝利の鍵となったムラート軍将校を,白人に代わり司令官につける.

5.06 ガルボウ将軍,カプ・フランソアに上陸.不在のソントナに代わり全権を掌握.プランターと手を組み,旧体制の復活を図る.

93年6月

6月初め ジェレミーの白人プランター,行政当局に敵対.ルカイエに避難していた有色人を追い出す.ソントナはリゴーを南部に派遣し,ムラートの安全を保証させる.英国のCourt of St. James,ジャマイカ知事ウィリアムソンに対し,白人プランターへの援助を指示.グランダンセの資産家たちはジャマイカに闘争資金を拠出.

6.07 ソントナ,自由有色人部隊(Chanlatte司令官)とともにカプ・フランソアに戻る.ソントナはガルボウに本国への帰還を承諾させる.ガルボウは密かにフランス兵3千名を巻き込み,政府に対する反乱を計画.市内に残留した弟が反コミッショナー暴動を煽る.

6.17 リゴー軍,Petit Trouからジェレミーに向かう.プランター部隊は,Desrivaux農場に五門のカノン砲と500人の兵士で迎撃.リゴー軍は3次にわたる総攻撃をかけるが敗退.4時間後に甚大な被害を受け引き返す.

6.20 ガルボ―の組織した白人反乱部隊,停泊中の囚人船を襲撃し,1200人を解放.総督官邸に進む.官邸を守る有色人部隊とのあいだで市街戦となる.正規軍は基地で様子眺め.

6.21 一進一退の攻防戦が続く.正規軍がコミッショナー側に立って行動を開始,ソントナは監獄の黒人軍捕虜を解放し,自由の付与を条件に戦闘に参加させる.

6.22 ソントナはすべての白人を反革命分子と認識.ルカプ近郊の黒人奴隷1万5千に対し,「共和国のために闘う」ことを条件に市民権を与えると宣言.ポール・フランソアに駐留するビアッスウ部隊の司令官ピエルロ(Pierrot and Macaya)がこれに応じ参戦.

6.23 ソントナ軍,ガルボウ軍を撃破.ガルボ―は船で逃亡.ガルボ―の弟は,のちに白人1万人を船に載せ米国に亡命.この戦いで街の大半が消失.街を悪疫と飢饉が襲う.コミッショナーは近隣の高地に居を構え,防衛線を強化.

93年7月

7月初め スペインの側で戦う黒人部隊が,カプ・フランソアへの攻撃を強化.カプの南方地帯グランリビエール、Dondon、Marmeladeに影響力を広げる.

7.14 ルカイエの革命記念祝典に出席したリゴー,白国家警備隊のBandollet司令官に狙撃されるが難を逃れる.

7.20 トゥーサン軍,西部につながる要衝Dondonを制圧.マルメラードの包囲に入る.ムラートのヴェルネを司令官とする守備隊は,浮き足立つ.

7.27 トゥーサンは、Marmeladeへの総攻撃.夕方までに陥落.その後ヴェルネはトゥーサンの部隊に加わり幹部に昇進.

7月末 ポルトープランスの共和主義者Desfournaux中佐,部隊を組織しSaint Michelまで前進.トゥーサン軍に完敗.トゥーサン軍はEnneryまで前進.ゴナイーヴの住民に降伏することを勧告.ゴナイーヴのプランターは反乱を企てるが敗北.指導者は海外に逃亡.

7 国民公会,奴隷貿易を廃止.

7月 ソントナは共和国の立場で戦う黒人兵の妻子も解放すると宣言.黒人の帰順を呼びかける.ジャン・フランソア,ビアッスウ,トゥーサンは,「我々はスペインの王によって尊ばれている.もし帰順を求めるなら,代わりの王を見つけて欲しい」と応える.

93年8月

8月初め Chanlatteが率いるカプの総督軍,Plaisanceまで進出.背後をつかれることを恐れたトゥーサンは,ゴナイーヴ攻略を断念し,マルメラードまで撤退.

8月 政府軍はトゥーサン掃討作戦に出るが,逆にMarmeladeで包囲される.黒人軍に内通した副官のPacotが,撤退命令を密告.トゥーサンは待ち伏せ作戦により部隊を撃滅し,Brandicourt司令官をふくむすべての将校を捕らえる.

8.23 ソントナ,カプフランソアの闘いに参加した黒人兵士の家族にもフランス市民権を与える.これにより解放された奴隷の数は3万から4万に達する.

8.29 ソントナ,すべての奴隷を解放すると一方的に発表.Polverelは、ポルトープランスで宣言を繰り返す.同時に解放された奴隷たちに,元のプランテーションに戻るようよびかける.西部,南部のムラート支配地域でも奴隷解放が宣言されたため,白人だけでなく奴隷制維持を望む有色人も反ソントナに回る.

8月 トゥーサン,自らの支配地で生産復興に乗り出す.サントドミンゴに逃げた白人プランターに帰郷を呼びかける.「我々は復讐をすでに行った。望んでいるのは島の隅々までゆきわたる自由である」とのアピールを発表する。

93年9月

9.03 南部の白人王党派,英国の庇護とハイチ参戦を要望.資金提供と勝利のあとの英国への帰属を申し出る.

9.09 ジャマイカのウィリアムズ知事,ホワイトロック大佐の部隊をハイチに送る.部隊はジェレミーに上陸.

9.19 カイラー将軍の指揮する英国軍,ジャマイカから南西部のジェレミーに上陸.密かに英国と通じていた白人農園主は上陸軍を歓迎.カイラー将軍は本国政府に「西インド諸島における我々の成功について,まったく不安はない」と保障する.

9.22 別の艦隊がモル・サンニコラス港を占領下に置く.その後サンマルク,Leogane, Le Grand Goave,が英国の支配下に入り,イギリス軍は西南部の大半を制圧.フランス軍の統治はカプとポルトープランスを残すのみとなる.

10月 英国艦隊,ポルトープランスを封鎖.降伏を迫る.執政官ポルベレールはジャクメルに避難する.行政当局メンバーは捕らえられ,L'Esperance号に収容される.パリは英国への徹底抗戦を指示.

10月 英国はスペインとサンドマング分割で合意.南部・西部を英国が取り,北部はスペインの支配域とする.この後,英支配地区に米国亡命中の白人コロニストが帰国をはじめる.

10月 リゴーのムラート軍,La Grande Anseで英軍へのレジスタンスを展開.Leogane とTiburonを奪還するなどの活躍.

11月 英軍のホワイトロック司令官,Laveauxに対し,降伏すれば暫定的な知事として黙認すると提案.ラボーは「私の敵であるからといって私にそのような侮辱を当てる権利はない」と拒否.カプは防御困難と判断.ポール・ド・ペに本拠を移す.英国による海上封鎖とスペイン軍による包囲の中,半年の間持ちこたえる.

12 スペイン軍と手を結んだトゥーサン,ジャン・フランソア,ビアッスウらの黒人奴隷軍が,カプ・フランソワを除く北部と中部高原全域を制圧.トゥーサン軍は神出鬼没(ubiquitous)の闘いで知られるようになる.ジャン・フランソア軍はFort Dauphinに入り,白人住民を皆殺しにする.

 

1794年

1月 イギリス艦隊,マルティニク,グアドループ,サンリュシアなどを制圧.

2.04 ロベスピエールと本国の国民議会,現地の決定を追認する形で奴隷の解放を認め,黒人奴隷解放令を布告.同時にソントナを全権統治委員の任から更迭.この決定は現地には知らされず.

2.05 白人と自由有色人からなるサンドマング代表団がパリ国民公会の席に着く.

3月 ジャン・フランソアとビアッスウとが,激しい指導権争い.フランソアはビアッスウとの関係を疑いトゥーサンを監禁.ビアッスウのとりなしにより解放される.

5.04 奴隷解放令を受けたトゥーサン,ソントナと協定.スペインの統制を離れフランスの麾下にはいる.北部の全支配域で黒人の自由を宣言.その後,他の黒人部隊や有色人部隊もソントナの下に結集するようになる.

トゥーサン変心の理由:
当時の戦闘相手だったラボー将軍の説得によるとされる.またスペインが強国でもなく,進歩的でもないことに気づいたからだともいわれる.さらに同僚のジャン・フランソア,ビアッスウとの関係を絶ち彼らを打ち負かそうと考えたからだともいわれる.それらすべてかもしれない.

5.24 リゴー,レオガーヌ攻略に成功.捕獲した小麦粉をポール・ラ・ペのラボーの下に送る.奴隷解放令に敵意を抱いたムラート層も,英国と結びついた白人支配層がムラート排除と旧体制復帰を目指していることを知り,政府軍支持の立場に復帰.

94年6月

6.04 イギリス軍,ポルトープランスを制圧.セントニコラスからジェレミーまでの海岸線が英国の支配下にはいる.しかし英仏戦争の影響で本国からの補給がストップし,兵士が次々に黄熱病に倒れる中,士気は次第に低下する.

6月 フランス軍准将となったトゥーサン,ジャン・フランソアからすべての権限を剥奪し北部山地(La Montaigne Noire)に放逐し北部を制圧.兵士の多くはトゥーサン軍に合流.

6月 対英抵抗闘争はトゥーサン軍とムラートのアンドレ・リゴー軍(南部),ビヤット軍(カプ)に委ねられる.

6 フランス軍,グアドループに上陸.イギリス占領軍との戦闘を開始.

7月 トゥーサン,アルティボニト海岸まで進出.サンマルク包囲戦に入る.事故で左腕を負傷,サンマルク攻略を断念しマルメラードに撤退.

10.09 トゥーサン,5千の兵を率いサンミゲル攻略に成功.デサリーヌをサンミゲル地区の司令官に指名.またDumenilをPlaisance地区司令官とする.本隊の3大隊司令官にはDesrouleaux, Clerveaux, Maurepasが就任.

10月 ジャマイカ知事ウィリアムソン,サンドマングの英占領地区の総督に任命される.

11月 ブリズベーン司令官の率いるイギリス軍,サンマルクからアルティボニート流域に進出.トゥーサン軍の拠点Les Verettesを制圧.

11月 フランス軍,黒人の支援を得てグアドループを制圧.イギリスに協力した白人農園主1200人をギロチンにかける.マルティニクは王制派農園主が抵抗を続ける.

12月初旬 トゥーサン軍,夜襲と待ち伏せ攻撃によりイギリス軍に甚大な被害を与える.ジャン・フランソアの部隊が英国軍に加わったため,陣地を維持できず,トゥーサンはふたたび撤退.

12.31 Marmeladeにもどったトゥーサン,ただちにLa Grande Riviereのジャン・フランソア部隊残党の掃討作戦に着手.4日間にBarmby要塞をはじめ28の駐屯地を破壊.ジャン・フランソアは包囲を破りスペイン軍への脱走に成功.

 

1795年

1.07 トゥーサン,フランソア軍掃討作戦を完了.ドンドンを新たな本拠とする.トゥーサンの勢力範囲は,東はLa Grande Riviereから西はアルティボニート平野のLa Salineまで広がる.Saint Raphael, Saint Miguel, Dondon, Marmelade, and Gonaivesに大隊がおかれる.

7.22 スペイン本国がフランスに敗れる.バーゼル条約により,フランスのサントドミンゴ支配が承認される.スペインは,サンドマング干渉を終了.スペイン総督ドン・ホアキン・ガルシア・イ・モレノとスペイン人入植者は引き続き残留を認められる.

8 トゥーサン,東部進撃を開始.サントドミンゴ領内に入り,反政府軍を制圧.王党派のフランス人はトリニダードに亡命.ジャン・フランソワはスペインへ,ビアッソウはフロリダへ亡命.トゥーサンの平定後もフランス本国の意を受けたスペイン軍はサントドミンゴに駐留.サントドミンゴ全権委員にはロウム(Roume)が任命される.

8月 西仏和約を見たイギリスは,General Howeのもと3000の兵を送りこみ,最後の努力を試みる.Admiral Parkerの艦隊も新たに派遣される.

10 ジャマイカで第二次マルーン戦争発生.ポルトープランスの英国軍は,守備隊のみを残してジャマイカへ移る.このあと白人勢力は力を失い,支配権はムラートとトゥーサンのあいだで争われることとなる.

 

トゥーサンの実権掌握

1796年

3.20 ラヴォー総督,ルカプでムラート軍のビヤット将軍(Villate)の裏切りに会い,捕らえられる.計画では同じムラートのリゴー将軍(南部)と反トゥーサン反フランスで共謀.ラヴォーを放逐した後にリゴーが総督となる予定.(Affaire du 30 Ventose)

3.20 ゴナイーブ駐在中のトゥーサン,ただちに1万の兵を引き連れカプフランソワに向かう.

3.22 ルカプのビヤットはルベルトゥールに降伏.ラヴォーを解放した後亡命.

4.01 ラヴォー,トゥーサンを副総督に任命.「黒人のスパルタクス」と讃え「今後は、何ごとも彼と協力し,彼の助言なしに何事も試みられるべきでない」とのべる.トゥーサンは実質的に現地の最高実力者となる.リゴーはこれを不満とし,ティブロンに引きこもる.

4.10 ソントナ,第三次使節団代表としてハイチに復帰.トゥーサンの影響力を弱めるべく動く.これに対抗しトゥーサンは,国民議会選挙を演出.ラボーとソントナをハイチ選出議員として送り出すべく策動する.

5月 ブリズベーン大佐の率いるイギリス軍,La Petite Riviereに侵入.トゥーサン軍の拠点サリーヌ奪取を狙う.さらに英艦隊はゴナイーヴへの上陸をうかがう.トゥーサンはGuildiveで英軍を迎撃.騎兵隊の奇襲により英軍は混乱,ブリスベーンは戦死.

5月南部ではリゴーがルカイエを確保.ポルトープランス奪還に向け行動開始.Markham大佐の率いる千名の英軍部隊を撃破.

10.13 ハイチ選出の議員となったラヴォー,本国に帰る.ソントナは本国帰還を拒否.

10月 英国軍の総司令官にSimcoeが就任.

96 仏西同盟成立,スペインはイギリスに対し宣戦布告.英海軍,全てのスペイン植民地を海上封鎖.トリニダード島を占拠.フランスがオランダを占領したため,オランダに代り全ギアナを領有.

 

1797年

1月 ソントナ,白人とムラートの支持獲得を断念.トゥーサンにリゴー軍の討伐を命じる.討伐隊は敗退するが,結局リゴーはソントナに反対せずとの意思を表明し許される.このときリゴーはトゥーサンにソントナ追放への密かな支持を与える.

2月 グラン・リビエールで白人王党派の反乱.アンリ・クリストフ大佐の率いる「La Vendee of Saint Domingo」部隊が制圧.Desfourneauxでは,フランス軍とアンリ・クリストフのが,Valliere高地の戦闘を制する.

2月 トゥーサン,サンマルクを攻撃.三度の総攻撃に失敗し撤退.この後山間部に向かい転戦,スペイン人の確保するMirebalais,St. Louisを攻略.

2月 イギリス軍ミレバレイスを奪還.フランス人移民Count De Brugesを司令官に据え,2千のイギリス軍と多数の民兵を組織.

3.24 トゥーサン軍副官Morney,ミレバレイスにつながる道路を封鎖.Block-haus du Gros Figuieで,ミレバレイスに向かうMontalembertの部隊を襲撃.二門の大砲を持つ700人の部隊を殲滅.

3.25 トゥーサン,ミレバレイスへの総攻撃を命令.2週間にわたる激戦が展開される.

3月 本国議会選挙.復古派が大量に当選.

4.09 トゥーサン軍,英国軍とフランス民兵を一掃し,ミレバレイスを解放.ソントナクスはトゥーサンをラボーの後任としてフランス軍総司令官に任命.

4.27 ソントナ,対米密貿易を禁止.貿易業者は親米姿勢をとるトゥーサンの側につく.

8.27 トゥーサンは武力を用いソントナに退陣を迫る.権力争いに敗れたソントナは本国帰還.トゥーサンは総督兼最高司令官となり,名実ともに権力を掌握.

10.25 トゥーサンの支配するハイチ北部,西部がフランス領の県として編入される.しかし実際には施行されず.南部はジャクメルを本拠とするムラート軍が支配.

11.05 トゥーサン,息子たちを人質としてフランスに送ることに同意する.

 

1798年

1 トゥーサン,ミルバレに駐留するイギリス軍に大攻勢をかける.英軍のネビット総司令官は撤退し,マデイラで病死.

3.21 英国,ネビットに代わりトーマス・メイトランド将軍を送り込む.メイトランドはモル・サンニコラに戦線を開く.

3.27 本国議会はソントナに代わる全権委員長としてセオドル・エドウビイユ将軍(Hedouville)を指名.トゥーサンの独立志向に憂慮し権力弱体化を図る.

4.21 エドウビイユ,カプ・フランソワに到着.密かにリゴーと連絡をとり内戦を起こすよう提案.

4月 イギリス軍,「名誉ある撤退」に乗り出す.サンドマングがフランスから独立しジャマイカに干渉しなければ,自由貿易や軍備強化に協力すると提案.

8.31 イギリス軍,トゥーサンとのあいだに秘密休戦協定を結ぶ.メイトランド軍は北部モレから撤退.

98年10月

10.22 トゥーサンはカプフランソワの民衆を扇動し,エドウビイユの本国帰還を求める暴動を起こす.エドウビイユは本国帰還を余儀なくされる.

10.23 トゥーサン,カプ・フランソアに入る.完全独立を求めず,サントドミンゴ全権委員のロウム(Roume)に委員長にサンドマング統治を兼任させ,フランスの宗主権を認める.

10 イギリス軍,西部からも全面撤退.5年間で2万人の英国兵が送りこまれ,その60%がそこで死んだ.グアドループでも黒人軍の力でイギリス軍を排除.

1799年

1.12 Roumeがカプに着任.平和、団結、共和国に対する愛情そして献身を訴える.トゥーサンを「哲学者であり,法律家であり,将軍であり,善良な市民である」と賛美.

1 プティ&グラン・ゴウヴの帰属をめぐりトゥーサンとリゴーのあいだに争い.ロウムはトゥーサンの支配権を認める.この決定に怒ったリゴーは席を立つ.トゥーサンとリゴーにひきいられた南部のムラートゲリラのあいだに抗争開始.

3月 米国の初代総領事としてEdward Stevensが指名される.トマス・ピカリング国務長官のメモ,フランスがサンドマングを拠点にして周囲に脅威を与えるよりは,黒人が支配していたほうが安全であると述べる.

5.22 トゥーサン,米国・英国との間に三国条約調印.スティーブンス総領事は秘密報告の中で,フランスがジャマイカおよび米国南部諸州への侵攻作戦を準備中とし,その防護役としてトゥーサンへの支援を訴える.

5月 南部のCorail村で政府に対するムラートの反乱が勃発.ナイフ戦争が始まる.

6.13 トゥーサン,英国とのあいだに友好条約調印.これには武器供与の秘密協定も含まれる.

6.16 リゴー,プティ・ゴウベを攻撃.白人プランターを虐殺.さらにGrand Goaveに進出.ロウム,トゥーサンの圧力を受けリゴーを反乱者と非難.リゴーが住民を剣で殺しまくったことから「ナイフ戦争」と呼ばれる.両派の血生臭い殺し合いが数ケ月にわたり続く.

9月 ロウム,ジャマイカ遠征を企画.ベーゼ提督に計画を委ねる.白人とムラートの密使が派遣されるが捕らえられ処刑される.イギリスはハイチの哨戒艇を撃沈.これを機にRoumeとトゥーサンとの関係が決裂.

11 トゥーサン,デサリーヌとアンリ・クリストフに五万五千の兵を与え,南部のリゴー派攻撃を命じる.またアジェ将軍をサントドミンゴに送り,解放を目指す.サンドマング正規軍は,リゴーの「南部政府」を中心とする抵抗勢力を撃破.

11 リゴー派の拠点であるジャクメル攻防戦が始まる.攻撃隊長はデサリーヌ,守備隊長はアレクサンダー・ペション.

11.09 ナポレオン,ブルメール(霧月)のクーデターにより権力を掌握.第一統領に就任.サンドマングを重要資源として重視,砂糖農園主の意向に沿った再建を目指す.

12.02 ナポレオン,サンドマングに関する公聴会を開催.トゥーサン,リゴー派の代表者も招かれる.

 

1800年

3.11 ジャクメル陥落.その後もムラートの抵抗が続く.デサリーヌはムラートみな殺し作戦を展開.

5月 トゥーサン,ロウムを通じてサントドミンゴ駐留のスペイン軍に施政権委譲を求める.条約締結後も,サント・ドミンゴを実効支配していたスペイン総督ガルシア・イ・モレノは,黒人国家への施政権返還を拒否し抵抗の構え.

5月 トゥーサンはロウムと会見.サントドミンゴのガルシア総督に同調の動きを見せたロウムを,「植民地の敵,黒人解放の敵」と非難.ロウムはフランスに戻り本国当局と協議することを要求.トゥーサンは「フランスへの不誠実」を理由にロウムを逮捕し,数ヶ月にわたりドンドンに収監.

7月 トゥーサン,リゴー派を含む全面的な恩赦を発表.ルカイエは抵抗を止め,執政官の訪問を受け入れる.リゴーは抵抗を断念しフランス亡命.ペションらが伴う.

8.01 トゥーサン,サンドマング全土に支配権を確立.ムラート軍最後の拠点ルカイエに入る.ムラート軍は1万5千の死者を出し壊滅.リゴーとペションはフランスに亡命.

8月 ナポレオン,ルイジアナのスペインからの割譲を求め秘密交渉を開始.米国はフランスのルイジアナ進出と,カリブ海における私掠船の活動を抑えるため,トゥーサン軍に援助を与える.

9 ロウムが釈放される.米国を経由してフランスに戻る.

9.30 フランスと米国,二年間にわたる戦争状態を終結させる条約に調印.ナポレオンはこの条約により英国の孤立化を狙う.

10.01 フランスとスペインが秘密条約を締結.フランスはルイジアナを獲得.

10.07 ナポレオン,サンドマング制圧作戦の検討を開始.

10 トゥーサン,ヒスパニオラ全島で強制的労働の政策を宣言.戦争で疲弊した砂糖生産の回復を目指す.

12 ヴァンサン、レイモンド,ミシェルがあらたな執政官として任命される.トゥーサンの総司令官のポストが再確認される.

12.25 ジャクメル平定を完了したトゥーサン,奴隷貿易の拠点となっている旧スペイン領サントドミンゴの制圧作戦準備に入る.

 

1801年

1.02 トゥーサン,1万の兵を率いサントドミンゴに入る.ドン・ガルシア(知事)は、彼に都市のキーを手渡す.現地の抵抗は皆無.その後トゥーサンはサントドミンゴ各地を回り忠誠をとりつける.

1.26 トゥーサン,イスパニョーラ総督を名乗り,奴隷制度の廃止を宣言.トゥーサンの弟ポールが旧西領サントドミンゴの総司令官となる.

4.28 米総領事,ジェファーソンの大統領就任にともない,Edward Stevens(Federalist)からトビアス・リアに交替.

5.19 トゥーサン,9人からなる制憲評議会を召集.8人は白人,残り一人がムラートの構成.議長にはポルトープランス市長のボルゲリャが選出される.

7.26 サンドマング議会,「仏領植民地サンドマング憲法」を公布.ナポレオン政府への事前承認は行わず.

新憲法の柱: 
トゥーサンを終身総督に指名.フランス植民地の市民としての忠誠を誓う.奴隷解放を明文化するが,プランテーション維持のため,「自由な黒人」の輸入を認める.民兵制度を敷き,14歳から55歳までのすべての男性に兵役義務を課す.カトリックを「唯一の表明された宗教」と規定.フランスへの忠誠を誓うとともに,サンドマングの未来の範をフランスに求める.

8月 トゥーサンがハイチ終身総督に就任.砂糖産業を国の経済の支柱に据え,荒廃した農園を再興するため,黒人たちを強制的に復帰させ,軍の強制力の下に労働に従事させる.さらに白人やムラート農園主の帰国を許す.

8月 ナポレオン,トゥーサンを「金ぴかのアフリカ人」と非難.イギリスとの戦争中のため,サンドマングに干渉できず.

9月 トゥーサンの甥Moyse将軍,トゥーサンの対仏宥和策と事実上の奴隷制復活に抗議し反乱.黒人の多数がモアセを支持して決起する.トゥーサンはデサリーヌを送り反乱を鎮圧.

10.01 フランスと英国,アミアン停戦協定に調印.ナポレオンは仏領西インドにおける自国の貿易独占と,奴隷制復活を画策.トゥーサン打倒の計画を義弟のシャルル・ルクレール将軍に託す.

ナポレオンの秘密計画: 平定を三段階に分け,①まずトゥーサン派指導者を排除し,フランスへの忠誠を確立.②黒人の武装解除と政治的権利の剥奪.③奴隷制復活とフランスの直接・全面統治.

11.25 トゥーサン,厳格な軍事独裁を宣言.Moyseの反乱参加者を公開処刑.

12月 ルクレール将軍の率いる86隻の艦隊,約2万の軍勢,Brestを出港.フランス軍にはムラートの指導者アンドレ・リゴーやアレクサンダー・ペションも加わる.

ルクレール軍団: 当時フランスの最精鋭といわれた.Rochambeau, Boudet, Duga, Hardy, Kerveseau, Desfourneaux, Pamphile de Lacroixの各師団長,Villaret-Joyeuse提督・Latouche-Treville退役提督はいずれも名将とうたわれた.

12.31 カプ・フランソア駐在米総領事リア,ルクレール軍の一部はルイジアナに派遣される可能性があるが,実際はサンドマングで手一杯となるだろうと報告.

 

ナポレオン軍とのたたかい

1802年

1.29 ルクレール将軍の部隊が,北部のサマナ湾など数箇所に上陸.これに白人植民者,リゴー,ペションのムラート軍が合流.

2.01 ル・カプの守備隊長アンリ・クリストフ(Henri Christophe),ルクレールに対する上陸許可の発行を拒否.もし上陸を強行すればカプ・フランソアに火を放つと警告.

2.02 ルクレール将軍の艦隊,ル・カプに上陸.クリストフは町を焼き払い撤退.「新世界のパリ」とうたわれたカプ・フランソアは灰燼に帰す.ポルトープランスのデサリーヌも,北部に移動を開始.

2.06 トゥーサンも山間部に向かい退却.その後ルクレール軍が進出するにしたがい,黒人軍は次々に町を焼き山に入る.

仏駐留軍2000名は,当然ながらルクレールの指揮下に入った,トゥーサンに従うものは,副司令官DessalinesのほかHenri Christophe, Maurepasなど黒人部隊約6千名のみ.

3月初め カプのアンリ・クリストフは戦線を後退させ,アルティボニートから北部にかけての山間部に押し込められる.モーレパの部隊は連絡を絶たれ壊滅.

3.24 デサリーヌの部隊,クレタ・ピエルロ(Crete-a-Pierrot)でフランス軍に決戦を挑む.1200名の独立軍が1万6千のフランス軍に包囲される.デサリーヌは降伏を拒否,初の本格的な要塞戦を挑む.

クレタ・ピエルロ ゴナイーブとサンマルクのあいだ.アルティボニート河畔のプティ・リヴィエール町にある小山.英軍占領期に小規模な要塞が建てられた.デサリーヌの副官ラマルティニエール(Lamartiniere)は,フランス軍の砲撃をしのぎながら白兵戦を展開.数日間にわたり攻撃を撃退したあと,血路を開き脱出に成功した.
この戦いは黒人軍を大いに励まし,「クレタ・ピエルロのように戦おう」が合言葉となった.

フランス軍が突撃戦を展開.要塞内で白兵戦となる.2000人の犠牲者を出し撤退.デサリーヌ軍も400人の犠牲.このあとルクレールは包囲・砲撃戦に転換.要塞には砲弾・糧秣が尽き,兵員も600名まで減少する.

ラマルティニエールは撤退を決断.包囲網のなかから山側を選び突破作戦.3000の敵兵と銃剣で戦いながら血路を切り開く.この行動で兵の半分を失う.最終的に撤退に成功したのは作戦開始時の1/4.しかし圧倒的な装備のフランス軍に,その二倍の被害を与えるという驚異的な戦果.その後デサリーヌはカオス(Cahos)山地に入りゲリラ戦に専念.「殺し尽くし焼き尽くす」をモットーに,白人へのゲリラ攻撃を続ける.

4.26 クリストフの部隊などが,あいついでルクレール軍に降伏.トゥーサンは降伏を拒否.この時点でフランス軍の死者は5000人に迫り,巨額の資産が焼失する.

4.30 クリストフらの降伏を知ったトゥーサン,ルクレールに降伏を申し入れる.デサリーヌは徹底抗戦を主張するが,最終的にトゥーサンの説得を受け入れる.ルクレールは停戦の条件として,トゥーサンを初めとする幹部への全般的恩赦,デサリーヌら軍幹部の現職残留を受け入れる.

5.01 サンマルクでデサリーヌとの会見.最後の対面となる.トゥーサンは公職を引退し,アルティボニートのEnnery(Energy?)農園に引込む.

5.12 フランスと英国が戦争を再開.

5 ナポレオン,94年の国民公会宣言を破棄し,奴隷制と黒人貿易の復活を布告.マルティニクとグアドループでは,いちはやく奴隷制が復活される.

02年6月

6.07 ルクレール腹心のブルーネ(Brunet)将軍,ゴナイーブ近郊の農園にトゥーサンを誘い出したうえ逮捕.フランスに送還.その後ルクレールはデサリーヌを味方につけ,黒人の武装解除を強行.黒人は一斉に武装抵抗を再開.デサリーヌとクリストフらは,反乱軍指導者を次々に殺害し黒人内部での優位を確立.

6月 雨期に入り,ルクレール軍のあいだに黄熱病が大流行.軍内に病死があいつぎ疲弊.のちにルクレール自らも罹患.

7月 「フランスがグアドループで奴隷制度を復活」との知らせがサンドマングに届く.ナポレオンの狙いが明らかになったことから,ムラート層の中に動揺が広がる.

10.13 奴隷制度の再開を見たペションとクレルボウ(Clairveaux),フランス軍に対する反乱を開始.数日後,クリストフとデサリーヌもこれに続く.デサリーヌ(文盲で元奴隷)とペション,オードゥカプで会談.対仏抵抗で合意に達する.数日の内にカプ・フランソワ,ポルトープランス(Port-Republicain),ルカイエを残してほぼ全土が反乱軍の手に落ちる.

02年11月

11.02 ペションの拠点サンマルク近郊のアルカイエ(Arcahaye)で,反乱軍指導者の会談.デサリーヌが最高司令官に選ばれる.三色旗から白を取り除いた赤青の二色旗を旗印とする.

一説に,会議の席上デサリーヌが,三色旗の白いところを裂きとり,白人を追い出す決意を披露したとあるが,いささか出来すぎの感がある.白の帯は真中にあり,とったあと両端をつなぎ合わせなくてはならない.ちなみに三色旗のと青は,もともとパリの市旗だった.ラファイエットが,その中間にブルボン王家をあらわす白をはさんで革命派の象徴としたとされる.
これに限らず,ハイチ国旗をめぐるいきさつには異説が多く,それ自体がLegendと化している.

11.02 ルクレール将軍,黄熱病のため客死.これに代わりドナティエン・ロシャンボウ将軍が指揮を執る.

11.15 ポーランド兵,スイス兵を含む1万人の増援部隊が到着.フランス軍は態勢を立て直す.各地でジェノサイド作戦を展開.

 

1803年

1 グアダルーペの黒人反乱を鎮圧したフランス,さらに増援部隊1万5千を送り込む.ムラートと黒人軍は協力して抵抗戦を展開.逃亡奴隷の部隊も,組織的戦闘に加わるようになる.独立軍には米国が武器弾薬を供給.

4.27 トゥーサン,スイス国境近くのジュラ山中フォート・ド・ジュウ(Fort de Joux)監獄にて獄死.

4 戦費捻出に苦しむボナパルテは,米国へのルイジアナ売却条約に署名.

5.18 ふたたび英仏間の戦争開始.英国はカプフランソアを封鎖する一方,デサリーヌ軍への援助を開始.逆にフランス軍への物資補給は停滞.

10 フランス軍はルカプに押し込まれ,飢餓状態となる.

11.18 独立軍,カプフランソア近郊3キロのベルティェール(Vertieres)で最後の決戦を挑む.

11.19 黒人による報復・虐殺を恐れるロシャンボウ将軍,10日間の猶予を申し入れ,ジャマイカへ逃亡.現地の英国軍に投降.

11.30 フランス軍,ハイチから撤退.結局2年間で5万8千の兵を投入し,うち2万人(一説に5万人)以上が戦病死するという悲惨な結末を迎える.とくにポーランド人部隊は,5,280 人中 4000人が戦病死.ヨーロッパに戻れたのはわずか200名足らずという.一方13年間にわたる独立のたたかいで,ハイチ人10万人(奴隷と自由民の1/3,白人の2/3)が殺害される.サントドミンゴにはフェランド将軍のフランス軍部隊が残留.

12 デサリーヌの呼びかけで,クリストフ,クレルヴォら独立戦争の英雄がゴナイーブに結集.「新世界のアフリカ人およびその子孫たちの祖国」とする「フランスを正式に放棄する宣言」を発する.

 

 付録  ハイチの歴代総督・知事

どうでも良いようなものですが,何となく捨てるのももったいないので載せておきます.

トルトゥーガ知事

1631 - 1635

Anthony Hilton

1635

Nicholas Riskinner (d. 1635)

1633 -Jul 1652

Francois Levassuer (d. 1652)

1652 -Jan 1654

Timolen Hotman de Fontenay, chevalier de Fontenay

サンドマング知事

1656 - 1662

Jeremie Deschamps du Moussac et du Rausset

1662 -Jun 1665

Frederick Deschamps de la Place (acting)

Jun 1665 - 1668

Bertrand d'Ogeron de la Bouere (1st time)

 1668 - Jun 1669

Jacques Nepveu de Pouancay, (d. 1683) sieur de Pouancay (1st time)  (acting)

Jun 1669 - Feb 1673

Bertrand d'Ogeron de la Bouere (2nd time)

Apr 1673

Jerome du Sarrat de la Perriere (acting)

Apr 1673 - Sep 1675

Bertrand d'Ogeron de la Bouere (3rd time)

Sep 1675 - 1676

Pierre-Paul Tarin de Cussy (d.1691) (1st time) (acting)

1676 - 1683

Jacques Nepveu de Pouancay, (s.a.) sieur de Pouancay (2nd time)  

1683 - Apr 1684

Francois Depardieu de Franquesnay (acting)

Apr 1684 - Jan 1691

Pierre-Paul Tarin de Cussy (s.a.) (2nd time) (acting)

Jan 1691 - Oct 1691

Dumas (acting)

1 Oct 1691 - May 1697

Jean-Baptiste Ducasse (1st time) (b.1646-d.1715)

Mar 1697 - May 1697

Jacques Yvon, sieur Deslandes (acting)

May 1697 - Jun 1697

comte de Boissyraime (acting)

Jun 1697 - Jul 1700

Jean-Baptiste Ducasse (2nd time) (s.a.)

Jul 1700 - 16 Dec 1703

Joseph d'Honon de Gallifet (d.1706) (acting)

16 Dec 1703 - 13 Feb 1705

Charles Auger (b. c.1640 - d. 1705)

13 Oct 1705 - 28 Dec 1707

Jean-Pierre de Charitte (1st time) (d.1723) (acting)

28 Dec 1707 - 1710

Francois-Joseph, comte de Choiseul-Beaupres (d. 1711)

1710 -7 Feb 1711

Jean-Pierre de Charitte (2nd time) (s.a.)

7 Feb 1711 - 24 May 1711

Laurent de Valernod (d. 1711)

24 May 1711 - 29 Aug 1712

Nicolas de Gabaret (d. 1712)

29 Aug 1712 - 1713

Paul-Francois de La Grange, comte d'Arquian (d. 1745)

1713 -1714

Louis de Courbon, comte de Blenac Governors-general

1714 -11 Jan 1717

Louis de Courbon, comte de Blenac

11 Jan 1717 - 10 Jul 1719

Charles Joubert de la Bastide, marquis de Chateaumorand

10 Jul 1719 - 6 Dec 1723

Leon, marquis de Sorel (d. 1743)

6 Dec 1723 - 8 Oct 1731

Gaspard-Charles de Gousse, chevalier de La Rochalar

8 Oct 1731 - 4 Feb 1732

Antoine-Gabriel, marquis de Vienne de Busserolles (d. 1732)

4 Feb 1732 - 8 Oct 1732

Etienne Cochard de Chastenoy (1st time) (acting)

8 Oct 1732 - Jul 1737

Pierre, marquis de Fayet (d. 1737)

Jul 1737 - 11 Nov 1737

Etienne Cochard de Chastenoy (2nd time)  (acting)

11 Nov 1737 - 19 Nov 1746

Charles de Brunier, marquis de Larnage (d. 1746)

19 Nov 1746 - 12 Aug 1748

Etienne Cochard de Chastenoy (3rd time) (acting)

12 Aug 1748 - 29 Mar 1751

comte de Conflans Hubert de Brienne-Conflans, (b. 1690 - d. 1777)

29 Mar 1751 - 31 May 1753

Emmanuel-Auguste de Cahideux du Bois de Lamothe (b. 1683 - d. 1764)

31 May 1753 - 24 Mar 1757

Joseph-Hyacinthe de Rigaud, marquis de Vaudreuil

24 Mar 1757 - 30 Jul 1762

Philippe-Francois Bart (b. 1706 - d. 1784)

30 Jul 1762 - 7 Mar 1763

Gabriel de Bory de Saint-Vincent (b. 1720 - d. 1801)

7 Mar 1763 - 4 Aug 1763

Armand, vicomte de Belzunce (d. 1763)

4 Aug 1763 - 23 Apr 1764

Pierre-Andre de Gohin, comte (b. 1722 - d. af.1781) de Montreuil (acting)

23 Apr 1764 - 1 Jul 1766

Jean-Baptiste-Charles-Henri, (b. 1729 - d. 1794) comte d'Estaing

1 Jul 1766 - 10 Feb 1769

Louis-Armand-Constantin de Rohan, (b. 1730 - d. 1794) prince de Montbazon

10 Feb 1769 - 15 Jan 1772

Pierre-Gedeon, comte de Nolivos (b. 1715 - d. 17..)

15 Jan 1772 - 30 Apr 1772

De la Ferronays (acting)

30 Apr 1772 - 15 Apr 1775

Louis-Florent, marquis de Valiere (b. 1719 - d. 1775)

12 May 1775 - 16 Aug 1775

Jean-Francois, comte de Reynaud de Villeverd (1st time) (acting)

16 Aug 1775 - 13 Dec 1776

Victor-Therese Charpentier, comte d'Ennery (b. 1731 - d. 1776)

28 Dec 1776 - 22 May 1777

Jean-Baptiste de Taste de Lilancour (1st time) (acting)

22 May 1777 - 7 Mar 1780

Robert, comte d'Argout (d. 1780)

7 Mar 1780 - 25 Apr 1780

Jean-Baptiste de Taste de Lilancour (2nd time) (acting)

25 Apr 1780 - 28 Jul 1781

Jean-Francois, comte de Reynaud de Villeverd (2nd time)

28 Jul 1781 - 14 Feb 1782

Jean-Baptiste de Taste de Lilancour (3rd time) (acting)

14 Feb 1782 - 3 Jul 1785

Guillaume-Leonard de Bellecombe, (b. 1728 - d. 1792) seigneur de Teirac

3 Jul 1785 - 27 Apr 1786

Gui-Pierre de Coustard (acting)

27 Apr 1786 - Nov 1787

Cesar-Henri, comte de La Luzerne (b. 1737 - d. 1799)

Nov 1787 - 22 Dec 1788

Alexandre de Vincent de Mazade (1st time) (acting)

22 Dec 1788 - 1789

Marie-Charles, marquis du Chilleau (b. 1734 - d. 1794)

1789

Alexandre de Vincent de Mazade (2nd time) (acting)

19 Aug 1789 - Nov 1790

Louis-Antoine Thomassin, (d. 1790) comte de Peynier

9 Nov 1790 - 1792

Philibert-Francois Rouxel de (b. 1735 - d. 1793) Blanchelande

29 Nov 1791 - 1 Apr 1792

Frederic de Mirbeck -Commissioner

29 Nov 1791 - 18 Sep 1792

Philippe Roume de Saint- Laurent -Commissioner (1st time)

1792

Adrien-Nicolas, marquis de la (b. 1735 - d. 1816) Salle, comte d'Offemont

Jun 1792 - 21 Oct 1792

Jean-Jacques d'Esparbes de Lussan (b. 1720 - d. 1810)

21 Oct 1792 - 2 Jan 1793

Donatien-Marie-Joseph de Vimeur, (b. 1755 - d. 1813) comte de Rochambeau (1st time)

2 Jan 1793 - 19 Jun 1793

Leger-Felicite Sonthonax (b. 1763 - d. 1813) (1st time) -Commissioner

19 Jun 1793 - Oct 1793

Francois Galbaud du Four

Oct 1793 - 11 May 1796

Etienne-Maynaud-Bitfranc Laveaux

11 May 1796 - 24 Aug 1797

Leger-Felicite Sonthonax (s.a.) (2nd time) -Commissioner

1 Apr 1797 - 5 May 1802

Pierre-Francois-Dominique (b. 1743? - d. 1803) Toussaint-Louverture

27 Mar 1798 - 23 Oct 1798

Gabriel-Marie-Theodore-Joseph (b. 1755 - d. 1825) Hedouville -Commissioner

Oct 1798 - Nov 1800

Philippe Roume de Saint- Laurent -Commissioner (2nd time)

14 Jan 1801 - 180.

Lequoy-Mongiraud (Prefect)

5 Feb 1802 - 2 Nov 1802

Charles-Victor-Emmanuel Leclerc (b. 1772 - d. 1802)

2 Nov 1802 - 30 Nov 1803

Donatien-Marie-Joseph de Vimeur, comte de Rochambeau (2nd time) (s.a.)

30 Nov 1803 - 31 Dec 1803

Jean-Jacques Dessalines (b. 1758 - d. 1806)

 英占領軍総督

20 Sep 1793 - Oct 1794

John Whitelock (b. 1757 - d. 1833) Military Governors

Oct 1794 - May 1795

Adam Williamson (b. 1736 - d. 1798) Governors

May 1795 - Oct 1796

Adam Williamson (s.a.)

Oct 1796 - Jan 1797

John Graves Simcoe (b. 1752 - d. 1806)

Jan 1797 - Mar 1797

Nesbit (d. 1797)

Mar 1797 - Oct 1798

Thomas Maitland (b. 1759 - d. 1824) 

 

独立ハイチとその衰退

1804年

1.01 デサリーヌが終身大統領に就任,ゴナイーヴで独立宣言.国名を先住民アラワクの呼称を受け継ぎ,ハイチ(高い山の島)とあらためる.国旗は赤と黒の二色旗に変更される.サント・ドミンゴはフランスに占領されたままの状態にとどまる.

1 デサリーヌ,3ヶ月のあいだに,残留し抵抗を続ける白人大虐殺.2万人が殺され,他はキューバに逃げ出す.ハイチ国内から白人が一掃される.

5月 ナポレオン,フランス共和国の「皇帝」に指名される.(即位式は12月)

9.22 ハイチ軍,ナポレオンをまね帝国を名乗る.デサリーヌを皇帝に推挙.位階制は導入せず.

10.08 デサリーヌ,ハイチ皇帝に即位.ジャン・ジャック1世を名乗る.シタデユ・ラ・フェリール要塞を築き,首都を内陸のマルシャン(現デサリーヌ)に移転するなどフランスの再侵略に備える.

04 バーゼル条約以来フランスの統治下にあった西領サントドミンゴも独立を宣言.実態は依然としてフランスの保護下に.

1805年

2 2万5千のハイチ軍,フランス軍の介入に応戦し,サント・ドミンゴに侵入.フランス守備隊を打ち破り北部一帯を制圧.白人植民者多数を殺害.

5 デサリーヌ軍,首都サントドミンゴに迫るが,仏海軍接近の報を受け撤退.

5.20 独立国家としてはじめてのハイチ憲法制定.ハイチを「すべてのアフリカ人およびその子孫のための祖国」と規定.奴隷制の永久廃止,白人による土地購入の禁止,フランス人の全財産の没収を決める.デサリーヌは中央集権体制の下に、強制労働によりプランテーションの再建を目指すが,ムラートは財産権を主張しデサリーヌに抵抗.

7月 クリストフ,最高司令官に任命される.

05年 デサリーヌ,ムラートとの絆を強めるため,自らの娘とペションとの結婚を提案.ペションは直ちに拒否.

05年 フランス外相シャルル・タレイラン(Charles Talleyrand),米国務長官ジェームス・メイソンに手紙.黒人武装国家の存在は恐ろしい犯罪の土壌となり,すべての白人国家にとって脅威であると訴える.

05年 ベネズエラのミランダ,デサリーヌに対し解放運動への支援を訴える.

1806年

2月 フランスの要請を受けた米国議会,ハイチとの貿易を禁止.09年まで毎年更新される.

10.17 南部のムラート支配地域で,デサリーヌの暴政に対する反発が強まる.デサリーヌは南部へ兵を進めるが,途中ポン・ルージュで待ち伏せ攻撃を受け暗殺される.クリストフが後任の司令官に就任.(一説では『皇帝』を宣言したデサリーヌに反発したクリストフが、暗殺を指示したとされる)

11 陸軍将校,自由黒人,ムラート地主らの代表が集まり,憲法制定会議を創設.クリストフを大統領に,ペション(Petion)を国会議長に選出することで妥協.実態はムラートのペションが権力を握り,解放奴隷のクリストフは飾り物とされる.

12.27 ペションの意を受けた第三憲法制定.クリストフ大統領の権限はほとんど無力になり,議会に権限が集中.

1807年

1.27 アンリ・クリストフ,大統領の職を辞し,北部の地盤に戻る.クリストフに代わりブルーノ・ブランシェ(Bruno Blanchet)が暫定大統領に就任.実際に執務することはなかった.

1 米国,フランスとスペインに追随しハイチを経済封鎖.疲弊した経済に追い打ちを掛ける.

2.17 アンリ・クリストフ,ムラート支配に対し反乱.ポルトー・プランスを攻撃するが,火力を誇るムラート軍の前に敗退.アルティボニテ河の北岸に退き,「ハイチ国」成立を宣言.カプ・フランソアを首都とし北部に支配を確立する.自ら大統領に就任し軍事独裁体制をしく.

3.09 アンネ・アレクサンドル・サーブ(Anne-Alexandre Sabes)がブランシェに代わり共和国大統領に就任.事実上のペション体制.中南部を支配.対外的には専守防衛,国内では放任経済システムをとる.フランス革命の思想と奴隷解放の旗をかかげ,ボリーバルの闘争を支持.

4月 ペシヨン,サトウキビ農場を分割。土地売買の下限面積を12ヘクタールまで引き下げる.農民に土地を与えることにより、政治基盤を強化し、クリストフに対抗する狙いがあったといわれる。

12.13 サントドミンゴがスペインに返還される.しかし統治の実体はなし.Espana Boba(馬鹿なスペイン)と呼ばれる.ハイチの内紛と弱体化を見たサントドミンゴの旧地主達は,フランスの保護の下に帰島を開始.

12月 英国議会,ハイチ共和国との貿易に対する規制を解除.

1809年

4月 リゴー亡命先のフランスから帰国.ペションはリゴーを南部県の知事に任命.

6月 (ド)イギリスの支援を受けたサントドミンゴのスペイン系クリオージョ,フランス軍に叛旗をひるがえす.フランスは支配継続を断念し撤退.クリオージョはいったん独立共和国を宣言するが,まもなくスペイン帰属を求める.

11月 フランス軍,サントドミンゴ北部のサマナを撤退.首都サントドミンゴにわずかな守備隊を残すのみとなる.

09年 ペション,農地改革を開始.大規模土地所有を廃止し,ミニフンディオに分割.退役将兵に対する小規模な土地の譲与を開始.南部では1818年までに15万ヘクタールの土地が分配され,総人口の8~9割が土地を持つ小農制度が確立する.コーヒーの仲買にあたる都市のムラートは富を蓄積し,黒人零細農は自給自足経済に戻る.ハイチ農民は「ラテンアメリカ諸国の中で最高の生活水準を享受」(フルタード)するようになる.

1810年

5月 クリストフ,英商船クラウン号の積荷を没収.

7月 カプ・フランソア,カプ・アンリと改称.

7月 フランス軍,サントドミンゴから全面撤退.

11.03 アンドレ・リゴーがペションに対し反乱.南部諸県を共和国から分離.総司令官につく.

12月 クリストフ,共和国に対する封鎖宣言.

1811年

1.09 南部諸県,評議会を結成.リゴーが議長に就任.

2月 ゴナイーブで英国人船員3人が殺される.

3.10 サーブが,二期目の大統領に就任.実権は依然ペションの手に.ペション,国旗を赤と青の二色旗に戻す.さらに白色、ヤシの木そして弾薬を加え,ロゴで「 L'Union fait la force」(団結は力)を書きこむ.

3.26 クリストフ,ハイチ王国の成立を宣言.自らアンリ1世を名乗る.カパイシアン近郊ミロー村に豪華な「サンスーシー宮殿」を建設.砂糖生産を革命前の75%にまで立て直す一方,クリストフの厳しい統治を嫌う多くの農民が南部へ脱走.

6.02 クリストフ,さらに標高千メートルのラ・フェリエール山頂に13年がかりで巨大な要塞「シテダル」を建設.延べ20万人を投じ,工事中に2万人が死亡.

9.18 リゴーが死亡.ジェローム-Maximilien Borgellaが議長に就任.

1812年

3月 リゴーの死により求心力を失った南部諸県,ハイチへの再統合を決定.

3月 クリストフ,南部進攻作戦を開始.

6月 クリストフ軍,サンマルクまで進出.1年後にもとの境界線まで後退.

1814年

6月 フランス王に復位したルイ18世,ハイチの再占領と奴隷制復活をもくろむ.

9月 フランス人外交官ラバヤセ(Lavayasse),ハイチを訪れペション,クリストフと会談.フランスの宗主権承認を迫る.両者はともにこの提案を拒否.

11月 クリストフは,メディナをスパイとして逮捕し裁判にかける.

12月 ラバヤセ,成果を得ないままポルトープランスを去る.

14 パリ条約.トリニダード・トバコ,セントルシアがイギリス領に.ギアナの三国分割が確定.イギリスの了解を受けたスペインはサント・ドミンゴの共和派を打ち破り支配を再確立.

1815年

2月 クリストフは,共和国をハイチ王国に併合すると提案.

3.10 サーブが,三期目の大統領に就任.実権は依然ペションの手に.

15年 ナポレオンが復帰.ハイチ両政府はフランスとの連合をあらためて拒否.

15 ボリーバル,ハイチのペションを訪れ軍事的支援を要請.

15 ペション,南西部の半島地帯(ル・カイエス)で起きたゴマーンの反乱を鎮圧.

1816年

1月 英国商人デーヴィソン,カプアンリで逮捕され拷問を受ける.

3月 ボリーバル,ペションから兵員,金銭,武器・弾薬などの援助を受け,南米に向かう.ペションは援助の見返りとして,ボリーバルが所有する1500人の黒人奴隷の解放を要求.

6.02 ハイチ共和国,新憲法を制定.ペションが終身議長に就任.無償教育を採用.ふたたびフランス王になったルイ18世はハイチの獲得に動く.

10月 フォンタンジュ(Fontanges)の率いるフランス使節団がポルトープランスを訪問.クリストフは「我らの揺るぎ無い回答は,自由と独立のうちに生きるか,死かである」との王勅を発する.

1817年

5月 ペション,共和国でメソジスト学校を開く許可を与える.

1818年

3.29 終身議長ペション,後継者を指名せずに死亡.これにともないサーブ大統領も辞任.

3.30 共和国議会は大統領護衛隊司令官のジャンピエル・ボワイエを後継大統領に指名.クリストフは南との和解を提起するが,ムラートは黒人リーダーへの服従を拒絶.

ジャンピエル・ボワイエ(Jean-Pierre Boyer-Bazelais): 最初、自由なムラートとしてトゥーサンの下で戦うが、リゴーの反乱に加わり敗北し亡命。1802年にルクレール軍の一員として島に戻るが、ペチオンの軍に加わる。

1819年

7月 クリストフ,軍縮を実行.退役兵士に土地を与える.

11月 クリストフ,フランスとの条約の可能性を探るよう,英国人Clarksonに依頼.

11 サント・ドミンゴ副総督のホセ・ヌニェス・デ・カセレスら,スペインからの独立をくわだてる.

1820年

2月 クリストフ,ボアイェとの和解を勧めるPopham提督の調停を受け入れる.

4月 ボアイェは,調停を拒絶する.

8月 クリストフ,ラ・フェリエールに城砦建設中,Limonadeで脳卒中となる.

10.02 サンマルクの第八連隊が反乱を起こす.

10.13 軍の統制力を失ったクリストフは,部下の反乱にあい自殺.一族は皆殺しとなる.

10.26 ボワイエ,Cap Haitienで北部軍指導者と会見.再統一を訴え受け入れられる.国内統一達成.ボワイエは,北部においてはクリストフの政策を踏襲し,国有地の分譲を停止.農業労働者の自作農化を阻止し,プランテーションの維持をはかる.

21.11.30 スペイン政府の副知事ホセ・ヌニェス・デ・カセレス,スペインからの独立と「ハイチ・スペイン人共和国」の樹立を宣言.グラン・コロンビアへの加入を求める.その後独立派と王党派の内乱状態となる.

1822年

1 ボワイエ,内戦の続くサントドミンゴに侵入.

2.09 ハイチ軍が首都サントドミンゴを制圧.スペイン系クリオージョの自治を保障することで,エスパニョーラ島全土を統合.その後20年間にわたり独裁を敷く.

1824 ハイチ人口,935,335人に達する.北部が367,721人,南部が506,146,旧西領サントドミンゴが 61,468人.人種別には黒人が819,000人,カラードが105,000人,先住民が1,500人,白人が500人,外国人が10,000人.急激に増加したというより,未登録人口がカウントされるようになったこと,近隣諸国からの黒人流入が増加したためと思われる.

1825年

4.17 14隻のフランス艦隊がポルトープランスを包囲する中,ハイチとの和平交渉.フランス王シャルル10世は,白人農園主がその財産である黒人奴隷を失ったことに対し法外な賠償金を要求.

7.11 和平交渉が成立.フランスは,6年間で総額1億5千万フランの賠償金を受け取ることを条件に,ハイチの独立を承認.ハイチ政府はフランス民間銀行から2400万フランを借りて,支払いにあてる.この借入金の元利返済は,米軍占領まで100年近くに及ぶ.

1826年

5.01 賠償金の捻出に苦しむボワイエ,農村法(Code Rural)を改定し全土に適用.農民の土地離散と自由な移動を禁止,年貢制の再開と,農民のプランターへの無条件服従を強制する.事実上の奴隷制の復活.

26 ボリーバル,パナマ会議を召集.黒人国家ハイチも招聘されるが,米国の圧力を受け異端として排除.

27 賠償金が払えないハイチはフランスと再交渉.9千万フラン(6千万ドル)に減額.

33 イギリス,ハイチを承認.

38.6.09 ハイチとフランス,最終的な和平条約を締結.フランスはハイチの完全独立を承認.

1843年 ボワイエ政権崩壊

1.27 南部の黒人シャルル・リビエール・エラール(Charles Herard aine, dit Riviere),独裁と腐敗,経済停滞に抗議し反ボワイエ蜂起を開始.ムラート中間層もこれを支持したため全土に拡大.

2.13 ボワイエ,ジャマイカを経由しフランスに亡命.エラールが暫定政府を組織,議長に就任.

3.13 暫定政府,新しい自由主義的憲法を起草.

4.05 エラールが大統領に就任.その後ドミニカ独立や農民による反乱が続き,2年間に4人の大統領が交代.

43年 B. Ardouin,11巻からなる「ハイチ史」を発表.

1844年 サントドミンゴ独立

1.04 エラール,暫定政府議長を辞任.大統領職には残留.

1 パリの労働者,国民議会に奴隷制の即時廃止を要求.

2.27 (ド)ラモン・マティアス・メーリャ,フランシスコ・デル・ロサリオ・サンチェスら,「独立記念日」を期して蜂起.首都のオサマ(Ozama)要塞を攻略.ドゥアルテはキュラソーで熱病に倒れ参加できず.

3.02 ハイチ軍,サントドミンゴより潰走.サントドミンゴにメジャを議長とする臨時政府評議会成立.ドミニカ共和国を宣言.奴隷制度を廃止.

3.10 エラール,ドミニカ反攻を試みるが,ドミニカ側の強い抵抗にあい断念.

3.14 病い癒えたドゥアルテがサントドミンゴに帰還.「自由の使徒」と称され住民の歓呼に迎えられる.

4月 南部のPiquetで元将校アカオー(Louis Jean-Jacques Acaau)の率いるArmee Souffranteが反乱.

5.03 ムラートの反乱グループ,エラールを追放.フィリップ・ゲリエ(Guerrier, Philippe)を大統領にすえる.ゲリエはクリストフの「王国」で要職を勤めた元軍人で当時すでに87歳.名目的な黒人大統領とムラートの実質支配という「二重政治」の開始.

44 のルイ・ジャン・ジャック・アカオウ(Acaau),南部で農民反乱を組織.ムラート支配の終了と黒人大統領の選出を訴える.2年にわたり全土を巻き込む.兵士はぼろをまとい,武器も食料もなく竹槍で武装しただけのため「苦痛軍」と呼ばれる.

45.4.15 ゲリエ,わずか在任11カ月で病死.後継者はこれも84歳のジャン・ルイ・ピエルロ(Pierrot, Jean Louis)男爵.

1846年

1月 ムラートによる事実上の奴隷制に反対する農民の反乱,ルイーズ・ニコラスの指揮の下,内戦に発展.

3.01 70歳のジャン・バプティスト・リシェ(Riche, Jean Baptiste),クーデターにより権力を掌握.

1847年

2.27 リシェ大統領が病死.

3.01 議会は黒人のファウスティン・エリ・スウルーク(Soulouque, Faustin)65歳を大統領に指名.

47.3 エリー・スウルーク,内戦を制圧.長期独裁体制をしく.

48.4.16 スウルークの指示により,ポルトー・プランス市民の大虐殺.

1849年

3 スウルウク,第一回目のドミニカ侵攻.サントドミンゴまで達せずに失敗.

8.20 スウルーク,ハイチ第二代皇帝フォースティン一世を名乗る.軍幹部を更迭し「ジングリン」と呼ばれる秘密警察権力を確立.暴力と抑圧,腐敗の10年が始まる.

1850年

50 スウルーク,二回目の侵攻を試みるがさらに惨めな失敗に終わる.

50 ボワイエ元大統領,亡命先のフランスで74歳で死亡.

52 (ド)イギリスの干渉により,米国の保護を離れさらにふたたびスペイン領に.

52年 ファウスティン・スウルーク皇帝,フランスに対する賠償金の支払いを拒否.

53年 ドゥケーヌ(Duquesne)提督の率いるフランス艦隊,ポルトープランス港を封鎖.賠償金支払いの再開を要求.

55 スウルーク,三度ドミニカに侵入.ペドロ・サンタナ将軍が反抗を組織する.この闘いにはゴメスも参加.サントメの闘いでドミニカ側が勝利し,ハイチ軍は引き上げる.翌年にも第4回目の侵攻作戦.

58.12.23 度重なる愚行に怒るムラート支配層は,ファーブル・ニコラス・ジェフラール(Geffrard, Fabre Nicholas)を議長に革命委員会を結成し,ファウルークへの反乱を開始.

1859年

1.15 革命委員会,スウルウクを追放し「ハイチ共和国」を宣言.自ら政局運営に乗り出す.

1.18 ジェフラールを大統領にいだく国民党寡頭制へと移行.ペションの16年憲法に基づく新憲法を公布.交通の改善,教育の普及などを推進.

60.3.28 ジェフラール政権,バチカンと和解.カトリックが国教となる.外国人聖職者の活動や教会立学校の設立を認可.

61.7 ハイチ政権,スペインからの独立を目指すドミニカのカブラル,サンチェス両将軍を支援.ルバルカバ提督の率いるスペイン艦隊はハイチを攻撃.ジェフラール大統領から賠償金20万ドルと砲門21を獲得.

62.6.05 米国のリンカーン大統領,独立以来初めてハイチを承認.南北戦争中の南部に対抗し,黒人の支持を獲得するため.

63.5 国民党支配に反対する自由党(ムラート)のシルバイン・サルナーブ(Salnave, Sylvain)将軍,最初の反乱.

64 米国とハイチ,友好・通商・航海条約を締結.

65 ドミニカ,スペインからの独立を達成.

1867年

3.13 相次ぐ反乱を前にジェフラール政権が崩壊.資本家層や北部黒人層の支持を得た国家評議会が全権を掌握,顧問評議会を組織.実権はサルナーブが掌握.

3.20 暫定政権が発足.Jean Nicholas Nissage-Sagetが大統領に就任.

5.04 共和国守護官サルナーブを大統領に選出.

6.14 サルナーブ,大統領に就任.

1868年

4.25 サルナーブ政権からの分離・独立を目指し北部共和国が建設される.Nissage-Saget前大統領が暫定議長に就任.

5.08 ハイチ南部共和国が創立される.マイケルDomingueが暫定大統領に就任.ハイチで2つの反乱が並立して発生(サルナーヴ戦争あるいはカコ戦争).

69.12.18 サルナーブに反対するゴナイーブ周辺山間部地帯の農民はふたたび反乱開始.みずからをカコと呼ぶ.

12.27 サルナーブ,大統領を辞任.Jean Nicholas Nissage-Sagetが暫定大統領となる.北部・南部の共和国が廃止される.

1870年

1.15 カコ軍,大統領宮殿を爆破.逃走しようとしたサルナーブは,ドミニカ国境付近でカコに捕らえられ処刑される.

3.20 暫定大統領のNissage-Sagetがそのまま大統領に就任.その後の十年間,黒人とムラートの主導権争いをめぐり,政府の統制力が弱体化.事実上支配者不在の状況が続く.

70年 米艦ディクテイタ号,ハイチにたいする砲艦外交を展開.

1872年

2.09 大統領宮殿が戦火により焼失.

6.11 ドイツ,ハイチに対し1.5万ドルの債務履行を要求,砲艦外交を展開.ポルトープランス停泊中のハイチ艦船を拿捕.ドイツ人はハイチ国旗に放尿し陵辱.ハイチのNissage Saget政府は補償金3千ポンドを支払う.

74.6.12 任期満了となったNissage-Sagetに代わりDomingue, Michelが大統領に就任.この年も大規模な黒人の反乱が発生するが鎮圧される.

75.1.20 ドミニカとハイチ,国交関係を樹立.平和友好条約を締結.

1876年

4.15 国内反乱が激化.黒人自由党のボアスロン・カナル(Pierre Theoma Boisrond-Canal)将軍が,クーデターによりMichel Domingue政権を打倒.暫定政府議長に就任.

7.17 ボアスロン・カナルが大統領に就任.

1877年

3 フランス砲艦が補償金支払いの再開をもとめハイチに圧力.フランスは,この時点で残金二千万フランと評価.

12月 スペインの砲艦,ハイチがキューバの独立軍を支援しているとし,ハイチへの攻撃を繰り返す.

1879年

7.17 国民党によるクーデター.ボアスロン・カナル政権を打倒し,中央公安委員会を創設.ジョセフ・ラモス(Joseph Lamothe)が議長に就任.

10.02 国民党のルイ・エティエンヌ・リシウ・フェリシテ(Louis Etienne Lysius Felicite)が大統領に就任.十年間にわたる内戦がほぼ終結.リシウ・フェリシテは黒人資産家で,エラールに追放された後長年フランスで暮らした.9年間の在任中に輸出商品作物の生産を中心とする農業の再建,電信事業の開始,公教育の拡大など一連の近代化を行う.

他の文献ではSalomon, dit Lysius Salomonと書かれています.これがLouis Etienne Lysius Felicite同一人物なのか,よく分りません.

1880年

80 フランスの出資により国立銀行創設.海外資本を導入し財政近代化を試みる.小農の没落と土地の集中が進み,列強への経済的従属が深刻化.この時期ドイツもポルトー・プランスを中心に進出.

1883年

3.23 ボワイエ・バズレ(Jean-Pierre Boyer-Bazelais)の率いる反乱部隊がMirogoaneに上陸.中央革命委員会を設立し執行委員長となる.これを機にハイチはふたたび内戦に入る.

8月 ポルトープランス市内で民衆暴動が発生.英・仏・独・西・蘭・ベルギー・ノルウェイ・スエーデンの外交代表は,サロモン大統領に最後通告.辞任しなければ国家宮殿を砲撃すると脅迫.

9.23 流血の1週間.サロモン大統領,バズレの指導する反乱派の拠点となっていたポルトー・プランスを焼打ち.

1884年

1.08 バズレ派最後の拠点Mirogoaneが政府軍の手に落ちる.バズレは戦死.

84年 セント・ジョン・スペンサー元英総領事,ハイチを紹介する文章を発表.「この黒人共和国は人食いの習慣を実践するブードゥーの島だ」と述べる.

1888年

8.10 自由党のボアスロン・カナルが反乱に成功.ムラートを基盤とする.サロモンはフランスに亡命.ボアスロン・カナルが革命委員会議長に就任.

11.27 北部共和国建設.フロルビル・イポリット(Louis Mondestin Florvil Hyppolite)が暫定大統領に就任.

12.16 レギティメ(Francois Denys Legitime)が大統領に就任.ギヨーム・サム将軍が実権を握る.

1889年

8.22 レギティメが辞任.国家評議会が暫定権力を握る.自由党反レギティメ派の事実上のクーデター.

10.17 北部共和国のフロルビル・イポリットが大統領に就任.これに伴い北部共和国は廃止される.

90 黒人解放運動の指導者フレデリック・ダグラスがハイチ大使となる.米国はウィンドワード海峡に面するMole St. Nicholasを海軍基地として提供するよう要求.イポリット大統領は,憲法を盾にこれを拒否.

91 米海兵隊,ナバッサに上陸.保守党による反政府行動を鎮圧することを口実とする.

96.3.24 イポリット,現職のまま病死.シモン・サム(Tiresias Antoine Auguste Simon-Sam)が後継大統領に就任.

97 ノル・アレクシ(Nord, Alexi)が武装蜂起.政府軍のアンテノル・フィルマンと武装衝突.ドイツはアレクシを支持.

97.12.06 Luders事件.Ludersというドイツ人が暴行殴打事件を起こし逮捕される.シモン・サム大統領は国外追放を命令.ドイツ政府は2万ドルの損害賠償を要求.二隻の軍艦シャルロッテ号とシュタイン号がポルトープランスに入港.ハイチ政府はこの要求を受け入れる.(一説に98年12月)

 

ハイチ年表 第二部へ