2001/08/

08/31

日曜からヨーロッパへ旅行する

今回が初の欧州で一月ほどの滞在予定。オーストリアでars electronicaの世界最大のメディア・アート・フェスティバルを見物し、イタリアに下りフィレンツェ、ローマ、ヴァチカン宗教美術詣をし、麺好きトマト好きにはたまらないパスタへの欲情をボローニャ辺りで果たし、フランスの片田舎でのんびり読書三昧、内省三昧し、パリに移ってからは散歩の鬼となる。ドイツ・ベルリンでは電子音楽の最新事情に触れ、怖いけれどもクラビングとしけこみたい。

むこうで読む本をどれにするかずっと考えていたのだけれど、ひとまず2冊にしようと思う。一冊は中原中也、もう一冊は三浦俊彦の『論理学入門』というラインナップ。じっくり味わえるものに。

webの更新はできるかもしれないけれど、こういう機会には日常と接続されない環境を維持した方がいいのではないかとも考える。まあ気分次第。

旅は、今継続する日常の価値を見定めるためにある、というふうなことを言っていた人間がいる。つまり継続される価値なし、とその旅によって結論が出れば、旅行者はそれを日常でなくする行動に出る、ということだ。僕のヨーロッパはどうだろう。

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j.s.bach
oval

08/27

昼大阪に出て、旅行のためのグッズを見てまわり、夜久しぶりに前原君と会って食事をする。

彼はコンピュータ技術を使ってクレイ・アニメーションのようなものを作ろうとしていて、いろいろものづくりについて話が弾む。ある時知的所有権が話題になって、彼が面白いことを言った。料理の著作権だとかというのはどうなっているのだろうか、と。もちろんきちんと調べていないので、ここからは推測での物言いとなる。

音楽では頻繁に盗作やらサンプリングの問題で訴訟が起こされていると聞くが、料理で弟子のアイデアを師匠が盗み問題になった、というのはあまり聞かない。知らないだけという可能性が高いが、もしそうしたことがあまりないのであれば、料理という制作に関する性質が著作権等の法制化をしにくくしているのかもしれないと想像する。

隠し味というのは決して明かされることはないし、non-noお料理ブックのように文章化されているレシピ以外、料理の勉強とは師匠の制作を目で盗むことである、だとか下手なドキュメントやマンガに描いてあったりするし。それに著作権等の権利を主張するには、著作物やそれに対応した表示物が知覚できる形あるものとして固定できなければならないが、料理はすぐさま食べられなくなるものであるし、また実際の作られた料理が著作権等を侵害しているという判定が、非常に主観的だったり、物理的に再現が困難であったり、という困難を伴う。レシピを残すことはおいしさの秘密を明かさなくてはならないというジレンマを意味する。

なかなか面白そうなので、少し調べてみようかしら。突き詰めていくと笑い方の表情とか身体運動の知的所有権なんてのも出てくるかもしれない。

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duke ellington

08/17-20 a

東京から帰ってくる。

今回の上京は、展覧会二つ、クラブイベント一つ、例によってラーメン巡り、友人に会うこと、等。

icc「johnMaeda: post digital」、ラフォーレミュージアム「岩井俊雄 photon〜光の音楽」という二つの展覧会は、「制作」を考察するこのwebの関心と交わり、かなり刺激的だった。

研究者でもある前田は、コンピュータを用いることを歴史的、原理的に考察しようとする姿勢を持っているようだ。彼は既存のデザインという概念は、あたかも現行の紙とペンというメディアによって形成された歴史的なものであり、それはコンピュータなどの新しいメディアがもたらすデザインにより変容を強いられる、と考えているように思える。彼の今回の作品の多くが、コンピュータのデータの変形容易な性質を利用したインタラクティブなものであったということは、その現れだともいえる。

岩井の作品に直に接するのは初めてだったが、彼の作品も当然かのごとくインタラクティブなものであった。光を音へという、質の違うものへ変換された(知覚)情報を作品の要素とし、その配置を受容者が随意に編集することで、作品が都度完成される。机の上の無数の穴をビー球のような石でふさいでいくと音の綾が作られ音楽になる、といった、この展覧会で出されていた作品の多くは、子供がものすごく喜びそうなおもちゃにすぐにでもなりそう、という印象を抱かされた。しかし逆にいえば、決められた領域の中ので自由な編集性が認められている程度の複雑性しかないということでもある。そしてこれを子供のおもちゃにするのも問題があるな、とか思う。このことは時間的経済的な制約があることを考えるとまっとうなのかもしれないが、それよりもデモンストレーション可能なつまり再現可能な複雑性をあえて選択したというのが、正しいと思えてしまう。

岩井の作品のこの複雑性に関しては、前田にも当てはまる。けれど両者は違う理由をもってそこに至ったように思える。

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高橋悠治
フリストフォル・ラダノフ・アンサンブル

08/13

広島で雑多なイベントがあったので行く。

ラインナップには宅八郎、ジーコ内山、大阪のエレクトロ高西知泰、最近webを知った電子音響、テクノなどのrakasu project、関西中国九州のインディーズバンド、パフォーマンス、踊り、ストリップ、盛りだくさん。こういう異種格闘技戦というのは、客はそれぞれ固定客がいてるようで、贔屓の演者以外は勝手に友人達と話してたりする。こういうのは非常に健全だし面白い。そこにものすごく面白い演者がいれば、一気に彼彼女達をひきつけてしまう可能性はあるのだから。

ついでに広島現代美術館でやってたヒッチコックをテーマにした展覧会にも行く。彼の作品が現代の視覚の態勢に与えている影響を分析したものが作品として提出されている、と言っていいかもしれない。かなり面白かった。

たとえば「24時間サイコ」。これはホラー映画の古典だとも言われる『サイコ』の有名ないくつかのシーンを、巨大なスクリーンにコマ送りで延々映しつづける。ヒロイン、ジャネット・リーの顔が延々に微細な変化をしていくというようなことなのだが、僕の態度は、彼女の顔がいつよく知られた、あの恐怖にゆがむ顔に変化するのか?というオリジナル作品の参照を前提したものになり、実際のレベルとは違う意味のサスペンスを味わうことになる。サスペンスというものの構造を直感させてくれる仕掛けになっているとも読み取ることができる。

「フェニックステープ」という作品も面白い。これは彼の各作品の特定のショット、シークエンスを意味別に分類併置編集したもので、個々の似たショットが時間的に配置され、彼特有の一つのシークエンスが成立したりする。建物、群集の視線、移動する列車などの構図の扱い。シークエンスが突如としてサスペンスとして機能する銃やロープなどの凶器の扱われ方、グレス・ケリー、イングリッド・バーグマンなどヒッチ的女優のロマンティックなキスから恐怖にゆがむ顔への身体の移行、など明確な傾向が浮かび上がり、ヒッチコックの作品を使ったサンプリングシネマの夢想が膨らむ。

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bernard herrmann

08/08

髪を切りに行く。

髪の毛にしろファッションにしろ、ある流行がすたれ、別の流行にとって変わられる。それまでのファッションに適応していたものを突如放りだし、次の日から別のものに乗りかえる。女性はそういうのに何のこだわりも見せず、素晴らしい適応を見せる、という言い方がされる。けれどそれも若いうちで、やっぱり若いときに強い影響を受けたスタイルにイメージとして固執することになる。人はこのイメージから時々の流行のアイテムを取りこんでいる、と思う。どう考えてもファッションに興味がないとしか思えないおじさんにせよ、店から買って来るものは何がしかの文脈があり、それを全体の中から選んでいる。

今の僕の問題(あえて「問題」といってみる)は、服にしろファッションにしろ、自分で描いているスタイルが何ら出力されていない、ということだ。以前影響を受けたファッションからどのように今流行っているスタイルに頭を切り替えるか?そのすりあわせにうんざりし、一時期から全くファッションに金をかけないようになった。それが最近再びファッションに興味を持ち始めている。一番しなければならない(いやしたいんだけどね)のは、たとえば結局服を習慣的に買いつづけるだとかといったことだと思う。

僕が求めるのは、流行りのシャギー(そろそろ死に体ですか)のバリエーションを単に客に押しつけ量産してしまうことに無意識な美容師ではなく、こうしたねじれを理解し流行のスタイルからではなく、僕個人のイメージからどうシャギーという技術を用いるかを考えてくれるような、自分自身の身体の制作を補助してくれる都合のいい技術者だ。

といって金をかけるべきところはファッション以外にいくらでもあるし、結局おなざりになるだろうけど。

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k.d.lang

08/06

fenneszの「endless summer」をまた聴いている。

素晴らしい。ガタガタした揺れる音色がovalの魅力であるとするなら、これは時折焦点の定まらなくなる曖昧な音色が魅力だと思っている。ovalの作品がポップでありながら音楽的でないと思うとすれば、このfenneszというような比較対象を想定するからだろう。確かに彼はギターを弾くし、シンセを使ったりしているようだ。もちろんギターやシンセを使おうが関係がない。つまりコード感を持つ楽器の使い方、それらのサウンド・ファイルをどのように作品の中で構成するかという音楽文法的な問題、などが関係している。

僕自身のイメージとしては、アンサンブルとしての音色とでもいおうか。個々の音が発音するに従い、全体として時折像が結ぶかに思え消える、そういう音色。これはfenneszの方法に近いが、彼のは音色の数が少なく、より明確な像を結んでいると思う。

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fennesz

08/05

全くテレビを観ない生活が長くなっていたのだけれど、最近土曜の週末の夜だけは見る習慣がついた。某国営放送局の「○笑オンエア・バト○」とその後に続く「二人は最高、ダー○&○レッグ」だ。

「爆○オ○エア・バトル」の方は国営放送だけあって、全国のお笑い芸人を連れてくる。こうした平行軸の平等性を確保しつつも、年齢という垂直軸、もしくは芸の種類というどれか分からん軸、の平等性はさりげなく隠されてはいる。

これをみようと思うのは、関西の芸人が相対化されているから。関西の若手レベルは他に比べて確かに高いのかもしれないけれど、間のはずし方、ネタの傾向、ボケ方、突っ込み方、どれもに関西のお笑いが築いてきたフォーマット(この中で松本人志の存在はかなり大きいと思う)が垣間見えて、今の僕には食傷気味。

といって海原やすよともこはだいぶ好き。最近お姉の方が、結婚して少しおとなしくなったのか、面白くないのが残念。

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cymbals

08/04

前田ジョン(ある人は犬の名前みたいだといってたが)著『design by numbers』をネットで購入してから一度も開けていなかったが、ようやく暇ができてきたので、パラパラページを繰り始める。

これは菅俊一というコンピューティング・デザインで音楽なんかをやっている慶應大生のページで話題になってたのだけれど、その趣旨はデジタル・メディアとかコンピュータの本質を簡単なグラフィック・プログラミング・ソフトを教材に使って学んでいく、というものだそうだ。

具体的なレッスンが大半を占めているということもあって、冒頭の部分だけでも著者の考えというのは、ある程度理解できると思う。そこには三つのポイントがあると思う。つまり、直感的な手で紙とペンを使ったデザインと、事前の明確なイメージが不可欠の非直感的なコンピューティングによるデザインは全く違う、ということ。次に、ソフトウェアの能力によって、これまでの職人的な努力によって可能となっていた高度な技術は知識の問題に移し替えられた、ということ。最後に、これらの作品の多くはコンピュータが体裁を整えてくれたに過ぎない安易なものが多いが、プログラミング・知識の鍛錬により「デジタル・メディアの核心を具現化」したデジタル・アートが可能であり、本書はそのガイドとなりたいということ。

菅という若者がこの本を話題にするのは、専攻と本の内容が重なっている最もな理由からだろう。たとえば彼らの音楽制作の方法論とは、音を物理的状態として言語的に記述していく、シンセイサイズの方法を基礎としたdspによるコンピュータ・プログラミングという、従来の直感的な音楽制作の方法から断絶したアプローチを取っている。

僕の感想はこうだ。感覚的なものを言語的なものに置き換えていく作業というものの億劫さといったらない。そして現在用いられているコンピュータを用いた、数式計算のスクエアとも潔癖ともいえる結果を新鮮な衝撃としてそのまま作品の素材とするのが、もはや面白い時代でもない。ovalの面白さは、シーケンサーやお決まりのプラグイン・エフェクターを使いつも、小奇麗でなくいびつでガタガタの揺れる音色を聞かせてくれたことにある。つまりコンピュータを用いた制作は、それをまともに道具として認め、解像度を一段階上げた領域に移行しようとしている。けれどプログラミングという方法を取る取らないを関係なしに、僕達はプログラミングの結果と関わらざるをえない。

その意味でこの本はよい教科書だと思う。前田という人は非常に簡潔で分かりやすい本を書いたと思う。

受容

pita