人のあらゆる行為を、複製とその組み合わせからなる制作物と考える視点を取ってみる。複製の要素になるのは、最基底においてそれ以上分節し得ない自然であり、循環的に複製した加工された要素を組み合わせていくことでより複雑な結果を生み出していく。反復可能な経済的で形式的な行為(制作物)を量産する一方、本人でさえ再度複製することのできない人工自然ともいえる行為を生み出す者もいる。ここでは制作の原理的考察を、それを成立たせる複製、組立という諸行為から行う。
2006-01-02T08:40:00+09:00更新
人のあらゆる行為を、複製とその組み合わせからなる制作物と考える視点を取ってみる。複製の要素になるのは、最基底においてそれ以上分節し得ない自然であり、循環的に複製した加工された要素を組み合わせていくことでより複雑な結果を生み出していく。反復可能な経済的で形式的な行為(制作物)を量産する一方、本人でさえ再度複製することのできない人工自然ともいえる行為を生み出す者もいる。ここでは制作の原理的考察を、それを成立たせる複製、組立という諸行為から行う。
知識は物語によって可能になり、我々の思考・イメージは物語によって制約づけられている。また物語とは新たに生じる膨大な出来事を次々と類型化していく運動でもある。言語の人工自然的なカオス的運動をここでいう「物語」と呼んでもいいのかもしれない。この断片のメモで意図されているのは、こうした言語の運動としての物語を、制作の際用いられるフォーマット、情報論的な組織化のモデルである、と言い換えることであった。「物語」という語自体再定義されなければならないようなメタファーである。この論考はほとんどのメディアに物語が存在することに素直に驚くことから始まっている。
「即興」という言葉を聞くと否定的なイメージを持つが、行為は即時的であるしかない。という意味で「即興」という言葉自体「作品」という言葉によって貶められることで作り出されたのではないか。作品という概念は、事物を時間の領域として制御しようとする意志から生じたと考えることができる。文章、記譜法による音楽、絵画、などを固定した形に仕上げ、だから私の作品は時間から逃れることができると安堵することもできない。武道やスポーツなどの身体制御への意志もこれと同じである。物語が「起承転結」的な静的なフォーマットとみなされるのは、おそらくこの作品概念、もしくは文字の登場によっている。物語は実はこの即興と切っても切れない存在であるにも関わらず。
道具と機械の境界についての考察。人間との共動についてのシステムとしての技術のあり方。自然的ということ。
ピアノの鍵を一音叩いてみる。そこには鍵を叩く運動と対応した発音が約束されている。ピアノ・フォルテというテクノロジーはそれ以前にありえない発音の音色・強さ・持続をもたらしたが、それと対応するように、シンセサイザーは音色を自在に編集する環境をもたらした。現行のdspによる音響編集技術は、それまでの自然的な発音のナイーブなありかたを破壊してしまった。これ以降の音の聴取はより解像度を上げた微細な前提を取りうる。つまり楽器演奏はこの前提によって変容させられる。ここには技術と音楽美学の交差する問題がある。今までの音楽も結局はテクノロジーの制約によって可能になった一つの表現系でしかない。
コンピュータという統一的なプラットフォームによって、同じ言語によって複数の領域の制作者が対話をすることができる。様々な行為を一つの制作として抽象化する視点はメディア論の歴史を均一化する議論がもたらしたものだが、メディア論はコンピュータの土台となった記号論的思考やサイバネティックスの副産物のようなものではないか。