旅行での印象的だった出来事。
ヨーロッパに着いての初めての駅が、フランクフルトだったが、そこのチケット事務所に入ったとき驚いた。近代的な美術館のように洗練されたデザインの内装であったから。西洋では事物のデザインにおいて、形態の機能と美しさは一つのもので同時に成立するものだと考えられている、という話を聴いたことがある。ふと考えると、デザインとは機能に形を与えるものだともいえる。つまり日本ではそう考えられていないと思う。美は機能を阻害すると見なされている。けれど機能と美の両方を満たすデザインというのは矛盾しないはずだ。単に機能から乖離した美優先のデザインはありうるけれど。最近の日本の役所のような所でも、なんか頑張って美の方向も追求しなければならないと思っているみたいだが、本当にそれでいいのかい?、というものに結局落ち着いているみたいだ(といってこのフランクフルトの例がそれほど一般的でもなかったというも後で分かる)。
オーストリアのアウグスティン教会でmozartのミサ曲を聴くことができた。弦が先導する小気味よいオーケストラの音群の運動にコーラスのそれらが素早く重なる、というパターンが変化しつつ反復されていく。膨大な音群を一つの音色として聴かせるよう意図した、この作曲家の頭にはどのようなイメージが浮かんだのだろう。現在ではこれらの音楽は紋切型としては新鮮さを感じることは難しかったりするが、このとき僕はイメージの爆発を感じた。記譜法は、音楽を制約する限定であると僕自身批判的であるが、このような複雑で豊かなイメージを僕にもたらしてくれる過去の音楽を、ひとまず現代に再現できる方法であることを考えると(もちろん言語化されずに受け継がれてきた伝統による情報の伝達というものの比重もかなりのものだと思われるが)。。。。
ローマ男性のスーツ姿の着こなしは、ダンディという形容がふさわしい。日本のオヤジどもには死んでもできない洗練さと鋭さを併せ持っている。さすがはやたらめったら古い文化を持つ都市だけのことはあるのか。同時に、それはお洒落ということとは少し違うように思った。学生服をいかに他のやつより「シブく」着るかの選択や工夫、という80年代の(それしか知らない)日本の中学・高校生の発想のハイパー版という感じだろうか。洗練さと鋭さ、と書いたように、基本的にトラディショナル、オーソドックスなラインは崩されたり疑われることのない堅固な前提であるように見える。これは男女の服装が、明確に区別されているのこととも関係があるように思われた。これに比べると日本の若者のファッションは、かなりユニセックス化しているように見える。
美術館の宝庫であるパリでも、オルセーにある絵がかなり気に入った。monetの「londres le parlement〜」だとかいう有名な絵は、不明瞭ながら運動し時折像を結ぶというovalやfenneszなどの電子音楽のイメージをもたらしてくれた(そういえば以前印象派の絵画とovalをespressoの赤坂君は結び付けていたっけ)。ゴッホの生の分厚くかつグルーヴする筆致にはまた立ちくらみを起こした。電子音楽といえば、バスティーユ界隈にこの手の音楽(踊ることなど頭にない電子音楽)ばかり集めたcdショップを発見し、滞在中偶然宿近くのクラブでovalのライブがあったりと、かなりエレクトロニカのイベントが盛んに行われていたよう。これらの作り手はドイツに多いのに、本国の首都ベルリンでは、こういう音楽にあまり接することができず、パリではたまたまかしらないが、頻繁に出会った、というのは面白い。
ベルリンという街は広い。というよりだだっ広い。それはもちろん先の戦争が関わっているのだろう。イタリアやフランスの古くに形が固定された都市とは違うのだなと思う。面白い場所というのは歩いていれば自然に臭ってくる、という経験知はここでは通用しにくい。歩いてはだめなのだ。ということで移動は自転車やバイクがいいと思う。北側が面白いというhackescher marktの南側には一面広場が続くが、夜中そこを通るとTV塔やベルリン大聖堂など、ライトアップされた巨大な建築物がじわじわと視界に入ってきては消えていく。戦後何もないので仕方なく、ボンっボンっ、と埋まるはずもないけれどせめていくつか置いてみた、という感じがする。それを(僕のような)小人のような視線で眺めるとき、絵に描いたようなsf未来都市に来ているような不思議で崇高な感覚に陥る。