2001/10/

10/28

音を作っては、使えないとボツにしている。

現在の僕の音楽の作り方というのは、コンピュータをほぼ唯一の道具として、いかに既存の音楽の響きから遠く、しかも複雑で豊かなものを導き出せるかという、ことにあると思う。コンピュータを使うのは、楽器のみでそうしたイメージを獲得した音を作るには、僕が楽器に不慣れであるという経験の問題がある。逆にコンピュータを用いれば、人間と楽器とその音の生み出す即時的な運動の自動性を操作する、という制作をほぼ放棄する(コンピュータを用いた即興的な演奏が登場し始めたけれど、それはまた別で)代わりに、楽器の持つ「発音」という物理的現象が強いられている制約から解放され、楽器演奏という歴史的な音楽行為とは別の形式の制作を可能にする。これは相対的なもので、しかも現行のコンピュータの能力に依存するという意味ではなはだ限界が低いという欠点がある。同時にその利点は、音をこつこつと組立てていくというような、感情を数値で置きかえるような理性的なものとして扱うことができる。

ただしコンピュータを用いるとしても、ソフトウェアとそのマニュアルの導きに従うことや、そのコンピュータのシステムが採用するような、いわゆる真っ当な方法はつまらない結果を生みだすだけで、楽器の演奏が生み出す複雑性には到底適わない。多分ポイントは、これら楽器演奏と同じように制御できない魅力に満ちた運動の自動性を取り込み、高次の視点からそれをうまく把握・制御すること、だと思う。自らのリアルタイムでの演奏によってではないけれど、機械を用いることで生じる自動性の生み出すぶれを孕んだグルーブなどのようなものを、扱うこと。

ここまでの言い方で、僕の音楽に関する姿勢というのはある程度明らかになっている。つまり既存の音楽の聴取の解像度とは違うものをイメージしている。不細工で曖昧で不ぞろいな微細な音の綾の印象を与え、頭の中でイメージがおぼろげにできあがるような音と、その組み合わせを作り出すこと。ポップ・ミュージックというフォーマットに対しても、この姿勢が適用されるべきで、すなわちポップフォーマットを曖昧に揺るがすこと。

むずかしい。

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oval [ you are・here 0.9b ]

10/25

友人に書いたメールから。

「僕のあそこで書いたことは、何も考えずに自動的に運動に関する身体制御を行ってくれるような若く運動神経のいい奴を、いわば笑ってやろうという静かな「しかえし」、でもある。運動神経のよくない僕や、そうでなくとも歳を重ねてしまってから初めてあるスポーツをしようとする人間には、英語のような新しい言語を一から習得するのと同じように、身体が知らずに身につけてくれる自動性をうまく利用することができない。そうなると頼りになるのは、バカみたいな反復練習で、個々の状況での運動のパターンを様々に微妙なずれという情報として仕入れていくことで、その運動を客観的に「知る」という、「身体で覚える方法」と同時に、そうした反復練習を飛躍的に向上させるためのイメージによるその運動の再現や、その運動が含まれる高次の運動の意味などの制作、加えて反復練習とイメージの両者を結びつけるための現場での瞬発的な思考、というものだと思う。すべてものすごく時間がかかるものだと思うけれど、僕は実はこの三つ目というのが一番すべきなのではないか?と思っている。つまり前に挙げた、「運動の最中に瞬時に組立を行う」ための前準備のようなものとして、ストロークを行うためにどう振舞えばいいかと、今まさに球がこちらに飛んでこようとする直前にイメージするという訓練である。イメージを事前に伴った形式の練習というのは、生きたものになるのではないか?同時に鮮明に思い描くことのできないイメージ・トレーニングは意味がないのではないか?と思うのであった」

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hoon

10/21

松尾君と播州ラーメンを食べに行く。

行ったのは、紫川ラーメン、西脇大橋ラーメン。両方とも前から行っていた滝野の大橋ラーメン(同じ大橋でも西脇のとは関係がないらしい)と味の傾向がよく似ている。違いがかなり微妙で、ラーメン・チェーン店のそれぞれの店の味の違いを言うのに近いかもしれない。僕としては、もう一度来たいと思える味である。主観的な印象をあえて言うと、紫川は、西脇大橋に比べて濁ったスープをしていて、かなり甘めだった(甘くて嫌いだという人の気持ちがはじめてわかった気がする)。比べて西脇大橋は、スープを飲んで案外単純な味と少し失望するが、後味が豊かな複雑さを持っている。もう少し麺を工夫して欲しいと思うのは、三者に共通する。インパクトがない変わりに日常的に食べたい味だと言えるかもしれない。それにしてもこの界隈レベルが高いと思う。ラーメン屋は夥しくできているけれど、それなりのラーメンを食べること自体が難しいし。

三つの内どれがいい?といわれると困るということになる。その間がいい、といいたい。これらに加えて加古川のいさちゃん、翁介も同様の傾向の味をしていると思う。そして、これらは昔よく食べた出前してくれる屋台のラーメンの味に近い味ではある。ノスタルジアなのかそれとも本当にそうだったのか、その屋台の味のうまさを越えるものはこの中にはない。

その夜最近よく行く中華料理屋に晩飯を食べに行く。といってもずっと人と話して飲んでばかりいた。最後には、やはりラーメンだったけれど。澄んだ醤油味のスープでオーソドックスな中華料理屋のラーメンという感じ。これも昔食べた市役所近くの天山閣という中華料理屋を思い出す味をしている。

暴飲暴食の秋。

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megashira
polaris
vladislav delay

10/20

先週の続きで精華大の講座を聴きに行く。

今回の講師は、歌人の穂村弘氏。前回の吉増氏と比べて大分いろいろと違う。講義の方も吉増氏が、思いのままに浮かんだことを話して行く「いわばいっちゃってしまっている」講義らしからぬものに対し、かなりきちんとした手続きを踏んでいたし、その話し振りもかなり常識人・生活人という印象だった。実際彼は現在も会社づとめをしているらしい(聞いて驚いたのだけれど、そういう話を忘れていた。詩人や歌人という存在のほとんどは、それだけで食っていくことができない)。講義の内容は、いわば芸術家とそうでない生活人の間をどう行き来するか、という僕自身にもそして穂村氏自身にも密接な、態度のあり方みたいな内容だった。

歌を作ることに集中するということは、その後で運転しようとして信号のランプを、この赤色ってこんな毒々しかったっけと、ふと信号無視してしまうような状態にあったり、仕事で名刺交換するときに、いびつな動きをしてしまい、こいつなんか変な奴だぞ、と相手に思わせてしまうような方に向いた「生きる」運動であるけれど、逆にスムーズに名刺交換ができてしまう事や、それに失敗して屈辱に耐えられず家で名刺の出し方を練習してしまうようなことは、いわば「生き延びる」方向に向かう運動である、というような意味のことを言っていたと思う。でも今書いているのを読むと全然分からない。要は、今生きている常態を遡って意味を問うたり、意味を味わったり、その意味を使って何か制作することなどが「生きる」ということなんだろうか。そして逆に「生き延びる」とは生活の常態を以下にスムーズにやり過ごすための技術を磨いていくことであり、それを用いて常態を効率のよいものにしていくということだろうか。

中也は前者を突き詰めた破滅型の人生を生きたがゆえに、詩人を象徴する存在(実際彼の詩がそれに見合う価値を持つかは別にして)として昔の若者に圧倒的な人気を得た。逆に晩年の斎藤茂吉の「税務署へ届けに行った道で馬に逢った。ああ、その馬の顔」だとか「人間は突然病気になるけど、なおればうれしいし、そうでなかったら困る」だとかいうような意味の歌のような「だからなんなんだ」的な、けれど生き延びることへの様々な執着が込められた姿勢がある。穂村氏は、二つの姿勢の間を行き来する姿勢を採用している。茂吉型の姿勢は「生きる」姿勢のみで生き延びることができない我々にとっては、否応無しに選ぶしかない選択である。これはもちろん中也も逃れられたはずがない。もちろん中也を目指すことはできるけれど。

ところで、ここで挙げた茂吉の歌の「馬の顔」の方だとか、僕は非常に面白いと思った。ここには、僕が頻繁にいうイメージの爆発がある。確かに意味がないように思える。穂村氏は遭遇する突然の現実の出来事に対する新鮮さ、驚き、のようなものを表している、と思う、というような意味のことを言っていた。僕は、似ているのだけれど少し違うことを思った(ただし、本当に茂吉の目の前にいきなり馬の顔が飛びこんできたという事実のもとに作られた歌であれば撤回するけど)。これは、ある普段意識しないのモードの意識に注意が向いていることに気付いたことを表明している歌なのだと思った。つまり茂吉にとっては馬が通りすぎていく、というどうということなく普段意識しない状況に対し、その時何気なくだけれど注意が「「馬が通りすぎていく」ということに何の関心も払っていない」ことに向いていることに気付いた。その時、馬の顔というものが、何かいつもとは違う変なものとして立ち現れてきた。現象学的なんちゃら、ということか。面白いのは、こうした説明しにくい意味の現れ方という題材を歌にしたということだし、型の決められている規制ゆえに選んだ語の、それこそ突然な意味を産み出す配置の仕方が、説明できないが豊かなイメージを喚起するということだ。

僕は、この歌を読んだとき、テイ・トーワの「technova」のビデオクリップで、cgのテイが犬を連れて歩いているシーンを思い出した。このクリップの映像自体意味の脈略のあるものではなく、いくつかのシークエンスが継起するものとなっている。音楽が間奏に入り、映像も今までの流れと切断される。そこでcgテイが一応の主人公であったのが、犬のクローズアップになり、鎖が解かれ犬は自由になって駆ける。そのバックには「free」という文字が浮かび、犬の至福の状態であるという演出がなされる。また、ゴダールの『軽蔑』で、ギリシャ時代(だったかの)をテーマにした詩的な映画をフリッツ・ラングが撮っている試写を、アメリカ人のプロデューサーが観て、全くわけが分からんと部屋にあったフィルムの入った缶を、円盤投げよろしくがんがん投げて怒るシークエンスを思い出した。これはもちろんギリシャがオリンピックの発祥であることと、この映画のテーマをかけての演出ということになる。いずれもその唐突な、けれど前の映像とのなんらかの共通性を利用したアイデアである。僕は両方とも大笑いした。茂吉のこの歌にはこれらのような共通性が馬とそれ以前にはあまりない。だからどうだ。

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fantastic plastic machine
ギターウルフ

10/14

友人に誘われてテニスをする。

ずっと以前から誘われていたが、ようやく暇ができたので旅行の前に一度行っていた。その前は、学生の頃少し遊びでやったくらいで、きちんとやっていた頃から数えると、十数年ぶりぐらいになる。

あまりうまいプレイヤーというわけではなかったこともあってか、どうすればいいかということをよく考えていたことを憶えている。それと同時に失敗に理屈をこねるような奴はだめなんだという、運動できない奴に対するできる奴の無敵の理屈、というのも思い出す。考え込んでしまう人間が運動ができない、という言い方は、結果論的な経験として確かに当たってると思われる。こうしたからかいの言い方は、身体制御に関するイメージを瞬時に行えずに、運動の終わった後反省として行うしか能力のない人間への侮蔑の言葉でもある、と考えると、身体制御のあり方を考えるヒントになるのではないだろうか。考えるとは、実際の事物で制作を行わず表示物を用いた簡便な制作を行うということでもある。問題は別の領域で組立てた制作物をいかに目的の領域にうまく変換するかとなる。スポーツなどの即時的な身体制御には、そういった変換を、イメージの制作物から物理的な身体運動のそれに瞬時に行えることが要求される。

僕は、運動できる人間というのは、イメージとして身体の可動領域を詳細に分節する状態を持っていて、その都度身体がどうあるべきかを瞬時に組立てることができると考えている。それは幼児の頃からの外での友達との体を思い存分使った遊びによって培われたものなのかもしれないし、かなりよくできる人間は遺伝が関係するのかもしれない。そうしたハード面の素養というのと同時に非常に目的意識が明確であることも大切だと考えている。たとえばスポーツでいえば相手に必ず勝つという堅固な決意などの、意思の強さがスムーズな身体制御には強い要因になると思う。

この日は、時間が経つと次第に少しはましなストロークが打てるようになった。けれどもサーブだけは全くしていないにも関わらず、かなりイメージどおりの満足な線で打つことができた。これにはボリス・ベッカーのかつてのコーチであるボブ・ブレッド(だったと思う)のことばがうまく説明してくれると思う。「サービスには才能は必要でなく、単なる毎日の反復練習のみがいいサーブを可能にする。ボリスは毎日200本のサーブを必ず打っていた」、というような意味のことを彼は言っていたと思う。サービスは相手への反応としてではなく、自らが行為を開始できる「ポイントを取る」という制作にとって理想的な環境にある。つまり自分のイメージと実際の身体制御のずれが少なければ、サービスはかなりの確率でサービスコートに入ってくれる。問題はイメージを自動的に身体に反映させることであり、それは「身体に覚えさせる」といった地道で面白みのない習慣が可能にする。そう僕は昔サービスはかなりこの言葉どおりたくさん打っていたのだ。

もちろん、それがポイントにつながるには、別の制作物が必要である。どのようなサービスを打てば確実にポイントがとれるのか、それが返されたときには、どういう対処が必要なのかのか、というようなサービスを打つ以外にも膨大な制作を当然行って行かなければならない。

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com.a

10/13

京都精華大に、「文学表現講座」という公開講座を聴講しに行く。

「詩のリズム歌のリズム」という題で3回続き、その都度講師が変わる。この日の講師は吉増剛造氏だった(この大学は年間を通し様々な公開講座を開いている。おそらくここの学生を含む制作に携わりたいという若者を主な対象とした企画だと思われる。具体的な技術を学ぶ場ではなく、毎回活きのいい制作者(表現者、学者)を連れてきて話しをさせるだけの内容だけれど、制作に関する「態度」のようなものに直接触れることができる稀有な試みだと思う)。9月の洋行に中原中也を持っていくと書いたけれど(実はそれは持って行かずコンピレーションみたいなのを持っていった)、少しずつ詩という存在に興味が強くなっていた。

小さい頃から音楽には親しんできたが、音楽に伴っている歌詞というのには、今一つ馴染むことができずにいた。元々僕の音楽体験は、シンセサイザーの音色に快感を覚えたというのが、それらしい記憶で、それ以来インストルメンタルを基準に音楽を聴いてきたという経緯がある。商業音楽において詩(詞)には、歌うためにメロディに付けなければならない必要悪という位置付けもあるように思える。音楽そのものと詞の内容の関係は、必然ではなく恣意的だとしか思えない。僕の詩(詞)に関する関心というのは、常に音と言葉の関係としてあったと思われる。

歌うことは最上の身体運動の快感の一つだと思われるけれど、歌うには、音と言葉が必要になる。「いつも悩むのは、作ったメロディーにどのような言葉を付けるか」というような職業音楽家の苦労談を雑誌でたまに読むことがあるけれど、こうした発想自体言葉と音の関係を抽象化して捉えた認識なのかもしれない。「うたう」ことの起源についての知識は僕にはないが、言葉を単なる物理的な音声として発することではないか、というような思いつきをひとまずしてみる。つまりメロディーという複雑な音の様々な関係の束が、後に言葉を吟ずることに付随してきた、という安直な推理を働かせるなら、上のような苦労談は、抽象的に音を扱うことができるようになった本末転倒な事態がもたらした出来事なのかもしれない。

日本語を話す僕が洋楽に親しめるのも、詞を無視するからで、そういう態度には否定的な人間も多くいるだろう。日本語版の歌詞カードを見つつ、音楽を聴きながら音楽家が何を歌っているのかを確認しつつ音を聞く、という行為を示したりするのは、なにもそうした人達ではなく、詞を大切にする音楽家自身がすすめたりする。それに関しては、確かに詞を理解しつつ音楽を受容した方が、より楽しめるのかもしれないと考えることもあるが、それは音楽を楽しむことよりも広い領域の制作を楽しむ態度ではないかと思う。もちろんそれを否定するつもりなどなく、僕には音の領域を楽しむことで精一杯だと白状しているわけで。

あまりにも無視してきた領域ゆえに、だんだんそれに対する罪悪感が堆積してきたのか、次第に関心が高まってきたということだろうか。吉増氏の「もっとめちゃくちゃに想像力の世界の方に飛んでいきたい」というような意味の発言はかなり面白かった。そう詩の持つ独特の想像力の世界というのは、僕にはついていくことがためらわれる世界であるという印象も、詩を無視してきた原因なのかもしれない。彼のまさに音楽的なポエトリー・リーディングを聴いたことや、詩(の言葉を)を巻物状の薄く長い銅版に金槌で打ちつけているのをみて、詩と音の関係、詩と文字の関係を、彼に聴いてみた。「非常に難しい。実際に何か作ることをしてみて少し分かってくるのではないか?」というようなことを返してくれた。

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ueno koji trio

10/12

夜、前の職場の同僚達と飲む。

その後姫路のライブ・ハウスにパラダイス・ガラージが来ているらしいので、観に行く。
人は全く来ていなかったが、かなり面白かった。シンプルなエレキギターの弾き語り主体の演奏で、歌詞の内容だけとってみると、昔から生き延びているフォークということになる。メロディーや歌詞に関しては僕は退屈だったということになる。普通の意味ではどうでもいい音楽の部類に入るのかもしれない。

liveではlive-sampling、過剰なエフェクティング、テルミンなど目新しいギター以外の要素を持ちこんでいた。それらが面白さをもたらしたというのは間違いがないけれど、重要なのは、ギターの弾き語りに存在する明確なフォーマットを、この人が採らなかったということに一番の面白さがあったのではないかと思っている。

彼の演奏には、いびつな、不自然な間の取り方というのがあり、それはフォークではなく、なんか別の音楽の解像度に根ざしているような気がする。加えてこの人の歌の歌い方が、カラオケ唱法(ある意味究極の日本のベル・カントみたいなもんかもしれない)の歌い方から遠く離れたところにあるのが気になって仕方なかった。

終わってから、近くのバーに飲みに行く。そこのバーが今度イベントをするらしく、chari chariの井上薫だとか、ufoの矢部などがくるらしい。その詳細を聴こうと思って。実際僕は今あまりクラブjazz系は、それほど関心がないのだけれど、姫路で頑張っている人達がいるのはうれしい。バーのスタッフの一人が、eletronicaあたりをかけるようなのも分かって楽しみ。

受容

cornelius