pasoliniの『ソドムの市』を観る。
観たいと望んで来た者ばかりのはずにも関わらず、終わった後の会場の雰囲気は凍り付いていた。帰りに同じものを観ていたと思われる前を歩いていた女の子達は、「めちゃくちゃ理不尽で腹立ってきてなあ」「途中トイレに逃げた」とか友達と感想をいろいろ話し合って、どうにか今観てきたものを無害なものにしようとしていたように思えた。僕としては、人と観に行ってたので家族でtvを見ながらご飯を食べているときに、ラブ・シーンだとかになって気まずくなるような気持ちになった。
原作を知っているせいか、作品の内容に理不尽な思いをしたり、逆に権力者の立場に立って奴隷をいたぶる快感に浸る、というような没入感はなかった。様々な原作との比較を思うと、存在しないものに対して映画が実現できないリアリティを言葉の表現力は持っているのかもしれない、だとかぼんやりと思った。
パゾリーニのことのみを扱っているwebに載ってたインタビューで、あまりにも残虐極まりないので、作品を信じないようなスタンスを取る必要がある、とかいうようなことを書いていたと思う。この映画をできるだけ小説に近づけるということは、この小説で起こった出来事を複製(生起)させることを意味する。この『ソドム』で観られる具体的な出来事は、奴隷の男の子女の子達が、裸にされ、中年のおっさんが圧倒的な支配を場に与え、おっさんにキスを強要され、犯され、犯すことを強要され、糞を食い続け、ムチで叩かれ、拷問をされ、殺される、などという本物でない演技の数々である。もちろん映画の撮影は断片からなり、一連の流れを出来事の記憶として感じることはない。しかし、ここは擬似的なソドムであったといえないのだろうか。たとえば、avビデオで本番をしてなくて、モザイクを入れさも本当に性器を挿入しているだとか、女優が絶頂の快感を得ているというような演技をしている、ということは果たして偽物であるのか?限りなく似せようとするために行われる演技に関する行為は、演技者の中では既に本物だとか偽物だとかの境界は曖昧なものになるのではないかと思う。
映画は、裏ビデオになるべきか?という問題である。もちろんパゾリーニは本物であろうとはしなかった。彼は現代の権力とセックスの寓意としてこの映画を撮ったと考えているようで、その意味でこのソドムは、リアルである必要は表現の問題としてあるが、本物であることはない。
僕は『ソドム』に対して、パゾリーニの政治的なスタンスにではなく、性的な制約の問題として興味があるのだと思う。たとえば主人公(何という主人公だ)権力者四人は、徹底して道徳や善であることを否定し、上で言ったような様々な異常と言われる行為を好んで実践していく。けれど少し考えると分かるがこれらは相対的なものでしかない。現在これらのいくつかのものはネットの世界では一つの性のカテゴリーとして定着してしまっている。彼らはこれらがまさに異常であるから、つまり正常であることに対する裏返しの執着があるから、好んでいるにすぎない。そしてその行きつく先は、奴隷達を拷問し殺し尽くす最後の楽しみという単純な結末ではなく、権力者としての自らの立場をも転覆し奴隷となりおおした上での自らの死という選択肢もあったわけだ。もちろん、こんなことを僕がいえるとすれば言葉上の遊びだからこそいえるのであるのだけれど。
他にも書きたいのだけれど、まとまらない。いずれにせよ力あるドキュメンタリーを観たようにガツンとやられた感じ。