2001/11/

11/29

27日分の訂正。

3パラグラフ目の二つ目、彼らの音というのは、〜拒否した、音楽である。というところ。

拒否した音楽、というものではない。に訂正。シェーンベルグやケージ以降のポスト音楽以降の音楽ではない、ということ。といってもそんなもの登場するわけないか、とも思うけれど。いずれにせよ彼らは連綿と続くバッハ以降のポップ音楽の子孫ではある(ケージたちがそうでないということではないにせよ)。けれどそこには断絶も存在する。彼らの音楽に複雑性がない、といいたいわけではない。けれどバッハなどが持つ展開という概念が変化していると思う。変化という言葉を単純に放棄だとか縮減だとかいうことはいうことはできるけれど。どうも一括りに比較するのは乱暴だと思う。

11/27

風邪のまま、再び精華大へbernhard gunterとsteve rodenを聴きに。

これまで僕はギュンターのことをほとんど聞こえない微かな音を少しだけ使う作品を作る作家だと思っていた。彼の友人でもある同じような微音系のfrancisco ropezは、彼はギュンターのことをコンセプチュアルではないといっていた。ほんとに鳴っているかどうかということを聴かせること自体コンセプチュアルだと思うわけで、どうしてその彼がコンセプチュアルではないんだろう?と。今回の講義を聴いてロペスのいうことが少し分かった気がする。微音を用いた作品というのは彼の一側面でしかなく(これはロペスにも当てはまった)、彼の音の作り方とはある意味行き当たりばったりで、与えられた素材に作品の性質が決定的に影響される。一つの長さを持った音を、強いる処理の方法に従って長く複雑なある持続へ変換していく作業、いわばこれが彼にとっての作曲作業だといえるかもしれない。

今回彼らの音を聴いて強く思うのは、音楽にとっての物語ということである。彼らの音というのは、音楽のデュシャンともいわれるシェーンベルグやそれこそケージ以降の音楽以降の音楽、形式を内容に持ちこんだ非直感的な、もしくは習慣の確率性による類型性の生産という意味での物語を用いることを拒否した、音楽である。つまり比喩的な意味でいうと、彼らの音は後戻りして調性音楽的である。これは現在ほとんどすべての音楽がそうであるのだけれど。けれどもギュンターやロダンの音楽は、たとえば近い音響系という括りで比べると、ovalやfeneeszに比べると音楽というよりも音に近いという印象もあるのも間違いがない。彼らは池田亮司やnotoより物語的でなく、pitaよりは音楽的かもしれない。つまり彼らは既存の音楽的な物語をより排してはいる、ということを意味する。この物語的であるということは、芸術的であるということとどう関係するのだろう。このwebでも物語については、考えようとしたまま中途の形で掲載しているけれど、強く興味がある。

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4hero [ conceptions ]
島田雅彦『彼岸先生』

11/22

坂本龍一と天童荒太の対談集『少年とアフリカ』を読んで。

以前tv化ドラマ化された『永遠の仔』の原作者とそのサントラの作曲家というつながりによってできた本だけれど、その中でそのサントラや最近の作風についてのwebでの坂本の深いファンと称する人間からの「さらっと書いた、昼メロみたいな音楽だ」という無理解について嘆いている。彼は、人を救うことはできないけれどその悲しみや辛さは届いています、というようなこの作品のテーマやプロセスをいかに言葉を使わずに音だけで表現できるかに相当苦心したと言っている。けれどそうした部分が伝わらずに、バカ売れした[ energy flow ]やオーケストラなどのクラシカルなアプローチをのみみて、またピアノかよ、だとか、坂本は分かりやすい方向に走ってる、だとか逆にこの辺り少し音響系ね、というふうに坂本は老いたとか見なされたり、表面的な理解しか示してくれないのがかなり頭に来たらしい。

ところで自分のスタンスを明かにすると、結果的には僕は彼からまさにその怒りを買うような以前のファンだということになる。[ energy flow ]ってどうしてあんな曲になったんだろうと当時不思議に思ったし、地雷キャンペーンの番組を見たとき、番組の内容そのものよりもまずあの曲が面白くなさすぎた。最近の彼の音楽への姿勢は相変わらず刺激的だけれど、その内容があまり面白いと思えない。

僕の知る坂本のピアノというのは、常に彼の最新のテクノロジーを用いた音楽との対比として聴かれるように巧みに配置されており、シンセサイザーの音色に引き裂かれたいびつなピアノらしからぬ音色を奏でる独自性があると僕は考えている。彼はピアノだろうがシンセサイザーだろうが、記譜法だろうがコンピュータだろうが、超絶技巧だろうがたどたどしい人差し指でのメロディだろうが、平等に音楽に用いることのできるものをテクノロジーとして見なすという面白い視点を持ち、次々に新しいテクノロジーを取りいれ現行の生楽器とフィードバックさせてきた。多分、彼がベルトルッチとの『ラスト・エンペラー』などで聴かせてくれたオーケストラの響きは、彼を好きだと称するファンからすれば(というより僕は)、未知なる新型シンセサイザーの音色として聴いていたのだと思う。そしてそれは『戦場のメリークリスマス』という独創的に過激なサントラを想起させたと思う。彼はdjとして、オーケストラという古典的で瀕死状態にあるシステムをサンプリング・ミュージックの時代のコンテクストにはめ込んで、記譜法をサンプラーのごとくみなすことで、相対的であるけれども新たな価値を生み出した。

彼の表現とは、もしかすると音楽のテクノロジーに関するコンテクストの在り方の提示にあったのかもしれない。そして現在の彼はそれを放棄し、音楽というテクノロジーのコンテクストの外部にも存在する様々なテクストの錯綜という領域で、表現を行おうとしているのかもしれないし、本当に単純に音楽の持つ既存の伝統的な記号体系と、言語的やもしくはもっと広大な記号体系と名付けられるようなものとの結合という伝統的な物語をいかに生起的に複製するか?に関心があるのかもしれない。彼の現在の作品を面白くないという彼の本格的なファンは、彼のこの移動を老いだとか、表面的な理解だとしか見なすことができないと思う。記譜法を新たなテクノロジーと見なす彼の方法が多分現在も継続されてるんだろうと考えるのは、そう悪くない推理だと思うのだけれど。

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bill evans [ ...his last concert in germany ]

11/21

logicがとんでしまって早5日。

もともと安定性が低いショップ・オーダー製コンピュータを使っていることもあり、内部のパーツの相性の問題もあると考えられる。それにこの音楽ソフトとデバイスを組み込んでいるわけだけれど、プラグイン・エフェクトの使い方によって突然に落ちてしまう。多分メモリにかなりの負担を掛けたのか、ソフトかosのシステムを破壊してしまったのだろう。

めげてしまうのは、自分でまだ行けると思ってエフェクトを掛けたのが、単なるその場限りの強制終了を招くだけでなく、同じような作業をしようとすると何度でも落ち、ただ一度の操作がいっそosの初期化をしたほうが早いだろうという極端な事態になってしまうことだ。

妹に話のネタとして振るとボロカスいわれる。最初っから壊れたとか言ってたやんもっとちゃんとしたん買っとけばよかってん、いやコストやとかこっちの細かい希望にそぐうもんっていうんは服でいう既製品とオーダーメイドの関係と一緒で結局メーカーの出来合いもんではなくてオーダーが一番いいと判断した、オーダーメイドの服は壊れるようなことないやん、う、コンピュータはパーツがいろんなメーカーのもので出来てて全体の整合性をつけて安定させるのはメーカー製のものはきちんとされてるけどオーダーものはむずかしいし、しょっちゅう壊れとったら意味ないやん初めて自分で買うねんからもう一回前とおんなじマックにするとかもっと初心者らしいもん買ったらいいねん、しかしメーカーもんを買ってたら身につかんかったスキルが確実に、確かに壊れたコンピュータなんかよう自分で直すわ、そうやろ、けどそんなん負け犬の遠吠えにしか聞こえへんしだいたい本末転倒やんか、・・・・たとえば選択肢にあったマックを買ったとしても使おうとしてるソフトの性質からすると同じようになったはずやと思う、マックっていうたら最初爆弾マーク見たときびっくりしたわこわーって、うんサッドマックってマックが泣いてるやつも一緒に出たことある、で戻るけどそんじゃあもっとちゃんとしたソフト買ったらええやん、そもそも多目的なパーソナルコンピュータでは本格的な音楽ソフトはデリケートな反応になってしまう、音楽なんかやらんでいいやんインターネットで満足しとき、、、、、、。

ということで現在データのバック・アップが終わり、初期化の準備。

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高橋悠治 [ 翳り ]
marquis de sade『ソドムの120日』(佐藤晴夫の完訳もの)

11/15

相変わらずつんく先生ぶっとんだ仕事してます。

以前「真夏の光線」だとか好きだなと思う曲があって、思わず自分の出番の前に夜中のコンビニに買いに行って掛けたことがある。その後くらいから後藤真希が加入した辺りだったと思うけど「恋のダンス・サイト」の節操のなさすぎなメロディー、アレンジ、踊り、だとかにただただ呆然としてしまう今の路線が始まったんだと思っている。その後は怖いものなしの破竹の勢い。プッチモニ。のモンドなアレンジもびっくりしたけど、き〜ら〜い〜なぎゅ〜う〜にゅ〜う〜飲むのだピョ〜ン、だとか、ミニモニ。です、ミニモニ。です、ジャンケンポン、という説明不用ミニモニ。のいっちゃてる楽曲には目から鱗はがされた。

娘。の人気は、アイドルがいいだけじゃなくて、音楽もめちゃくちゃで勢いある(と僕は信じてる)からだろう。音楽の大味で節操の無いところやアイドル使ってる分のインパクトではbeckなんか目じゃない。旅行から帰ってきてますますテレビを観なくなって音楽事情に疎いけれど、安部なつみ好きの友人が新曲を聞かせてくれた。今度は男装と語りも入ってるビッグバンドのヅカ風。

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vladislav delay [ multila ]

11/11

pasoliniの『ソドムの市』を観る。

観たいと望んで来た者ばかりのはずにも関わらず、終わった後の会場の雰囲気は凍り付いていた。帰りに同じものを観ていたと思われる前を歩いていた女の子達は、「めちゃくちゃ理不尽で腹立ってきてなあ」「途中トイレに逃げた」とか友達と感想をいろいろ話し合って、どうにか今観てきたものを無害なものにしようとしていたように思えた。僕としては、人と観に行ってたので家族でtvを見ながらご飯を食べているときに、ラブ・シーンだとかになって気まずくなるような気持ちになった。

原作を知っているせいか、作品の内容に理不尽な思いをしたり、逆に権力者の立場に立って奴隷をいたぶる快感に浸る、というような没入感はなかった。様々な原作との比較を思うと、存在しないものに対して映画が実現できないリアリティを言葉の表現力は持っているのかもしれない、だとかぼんやりと思った。

パゾリーニのことのみを扱っているwebに載ってたインタビューで、あまりにも残虐極まりないので、作品を信じないようなスタンスを取る必要がある、とかいうようなことを書いていたと思う。この映画をできるだけ小説に近づけるということは、この小説で起こった出来事を複製(生起)させることを意味する。この『ソドム』で観られる具体的な出来事は、奴隷の男の子女の子達が、裸にされ、中年のおっさんが圧倒的な支配を場に与え、おっさんにキスを強要され、犯され、犯すことを強要され、糞を食い続け、ムチで叩かれ、拷問をされ、殺される、などという本物でない演技の数々である。もちろん映画の撮影は断片からなり、一連の流れを出来事の記憶として感じることはない。しかし、ここは擬似的なソドムであったといえないのだろうか。たとえば、avビデオで本番をしてなくて、モザイクを入れさも本当に性器を挿入しているだとか、女優が絶頂の快感を得ているというような演技をしている、ということは果たして偽物であるのか?限りなく似せようとするために行われる演技に関する行為は、演技者の中では既に本物だとか偽物だとかの境界は曖昧なものになるのではないかと思う。

映画は、裏ビデオになるべきか?という問題である。もちろんパゾリーニは本物であろうとはしなかった。彼は現代の権力とセックスの寓意としてこの映画を撮ったと考えているようで、その意味でこのソドムは、リアルである必要は表現の問題としてあるが、本物であることはない。

僕は『ソドム』に対して、パゾリーニの政治的なスタンスにではなく、性的な制約の問題として興味があるのだと思う。たとえば主人公(何という主人公だ)権力者四人は、徹底して道徳や善であることを否定し、上で言ったような様々な異常と言われる行為を好んで実践していく。けれど少し考えると分かるがこれらは相対的なものでしかない。現在これらのいくつかのものはネットの世界では一つの性のカテゴリーとして定着してしまっている。彼らはこれらがまさに異常であるから、つまり正常であることに対する裏返しの執着があるから、好んでいるにすぎない。そしてその行きつく先は、奴隷達を拷問し殺し尽くす最後の楽しみという単純な結末ではなく、権力者としての自らの立場をも転覆し奴隷となりおおした上での自らの死という選択肢もあったわけだ。もちろん、こんなことを僕がいえるとすれば言葉上の遊びだからこそいえるのであるのだけれど。

他にも書きたいのだけれど、まとまらない。いずれにせよ力あるドキュメンタリーを観たようにガツンとやられた感じ。

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pole [ r ]
成田美名子 『cipher』

11/9

またまた精華大にcarl stoneの講演とライブを観に行く。

ストーンの講演は、彼の簡単な音楽でのバイオグラフィの紹介と、彼の作品をかけることとその説明という内容で、物足りなかった。僕としては、「サンプリングは、バッハやブラームスの時代から行われていた技法だが、デジタル技術の発達がそれを一般化したにすぎない」という公開講座の紹介文の辺りの話を是非とも聴きたかったのだけれど。今回彼の音を初めて聴けたのがせめてもの救い。彼の音楽は実験的ではあるけれどいわゆる音楽的な構造を放棄するにまで至っていない。こういう言い方は非常に主観的な価値に左右され説明が難しいけれど、いわば何かしらの反復を持っているということになるだろうか。特にライブで聴いた和楽器を加工したサウンド・ファイルを使ったものが気に入った。

dspによる音楽制作では、単純なサンプリングが持てなかったかなり自由度の高い制御を手に入れるが、それと引き換えに生の音(録音されたという程度の意味だけれど)のテクスチャー破壊されることを、僕は好きではない、ということを聞いてみた。彼はすべての制作は劣化によるサンプリングであるから、と言うことを答えたと思う。この言い方は抽象的な制作論に関するもので、それは上で言ったように聞きたかったことに関係するけれど。

要は前から僕が言っているデジタルとアナログの処理の併用ということが頭にあって、現在のdspのアルゴリズムをだけ用いてできるものは割と単純で面白くない、ということだ。新たなメディアを用いることで別の領域の制作に移り、旧来用いられたある素材は別の仕方で処理されそれに関して肯定や否定がなされる。ストーンが言ったことはこういうことだけれど、これは当然のことだと思う。単にデジタルの処理による効果を確保しながらも、アナログのテクスチャーを失わないような方法という、デジタルなメディアが排除してしまう領域の制作を持ちこみ、豊かな結果をもたらすこともできる。逆にいえばデジタルでの領域の可能性を少しおろそかにすることでもある。こういうことで話を聞きたかったのだけれど、タイム・アップ。

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silicom @club garden
中ザワヒデキ『西洋画人列伝』

11/8

サッカー日本代表とイタリアが対戦して、引き分けに終わった。

サッカーを観ることにほとんど興味がなく、それほど金にものをいわせて格上にみせたいのだろうか、といつも思ってしまう。だって下から数えた方がいいようなレベルのチームの国が、同じレベルのアジアの隣国と共同開催という仕方でワールド・カップを開催しようという、かなり無理が重なる状況を実現しようというのだし。村上龍がエッセイで同じようなことを言ってたのを読んで、ブンブン頭を振ったものだ。

妹はjリーグが面白くないとよく言っていた(今は既に試合中継さえまともにしない)けれど、それは単に下手でみてられないから、という。これはいわゆるベタな意見だけれど、的を得ていると思う。以前に比べて確実にレベルは上がっているのは、素人の僕でも思うけれど、今日のように比べると断然違うのが分かる。トラップをしてドリブルやら次の動作に移る速度、パスの精度、ドリブルからのエッジのあるパス、などみていてかなり見劣りする。特に皆が言うゴールの決定力のなさは、致命的だと思う。がっついてないなあと。

サッカーのプレイをよくイマジネーションある、という言い方をする。それは個人が行うプレイが身体制御というレベルの領域を前提にした、高次の諸行為を組立てなければならないことと関係すると思う。全速力で走りつつ、パスをもらうためのポジショニングを味方や相手の動きを把握しつつ決定し、パスをもらってからはどのようなアクションを起こすか、可能か、の判断を再び走りながら変更しつづけ、いずれかの時に行為の実現という形で決定を下す。以前城という選手が、世界のプレイヤーを評価して速い、上手い、荒い、というような言い方で表現していた。今上で言ったようなプレイヤーの行為は、常に相手側の最も近いプレイヤーの、見つからなければ何でもありのえげつないプレッシャーを受けながらなされる。野球のようにスタティックではない、というような侮蔑的な言い方がされるのは、そういう理由もあるのだろう。その意味ではサッカーは白兵戦に似ていて、スポーツが代理する戦争の形態に非常に近い。

村上は、同じところでサッカーを観に行くということは、奇跡を観に行くことだ、というようなことを言っていた。いかに優秀な才能を持ったチームでも、点を入れるということには多くの、パスやシュートなどの諸行為の地道な積み重ねや、偶然的な要素が左右し、困難を伴うということを指摘したのだろう。そこに居合わせた人間は、奇跡のもたらされる瞬間を待ち望み強度の没入状態にあり、ゴールを見た瞬間まさに会場は爆発的に揺れる。同時に一瞬前のシュートが放たれる瞬間の観客の覚醒、選手の没入しつつ覚醒した状態など、非常に興味ある。

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the silent poets [ red eyes tribe ]
中ザワヒデキ 『西洋画人列伝』

11/3

たとえば、音響系とそのcgジャケットについて。

現在のcgによるデザインの領域では、アルゴリズムを利用した結果を取り込み高次の操作を行うという方法が、浸透してきているようだ。前に前田ジョンについて書いたところでもいったけれど、僕はこのようなデザインはあまり面白いと思えない。

こうした表現はいわゆるmaxを使ったような音楽と同じだと思う。maxを使ったことはないけれど、それを使った音楽を聞いているとあまり面白くない。autechreなどが使うとすごく刺激的な音楽になるのだけれど。この違いは、maxを使うだけではなく、maxのパッチが吐き出してきた結果をオーディオ・データとして、それを再度加工していったりするからなんだろう。アルゴリズムには、どのように複雑な非線型の演算式を用いようとも、読み取れる線形的なラインというのがその結果にはあると思う。基準となる解像度に則った間隔を前提にして、暫時的にというかディジットに複雑な曲線を表現しようとする。

アルゴリズムとは、演算法だとかいう訳語が当てはまるけれどあえてそう呼ばれるものは、計算式を用いてその中で定義付けた事象(ここではデザインの形態、といことになる)をランダムに発生させる方法だと僕は思っている。その意味では陶芸での、釜で焼くことでとんでもないランダムネスを持った豊かな結果を、高次のレベルで制御しようという制作への取りこみの意思と同型であるといえる。人間が自ら作り出すランダムネスがあまりに面白くないため、他力本願でデザインに複雑性を与えたいという欲望が、両者には共通して存在する(もちろん陶芸は焼くという不可欠な方法をとらざるを得ない)。問題は機械と自然のランダムネスには、あまりにその変換群の量が違うのか、その結果に圧倒的に質的な差が出てしまっている、と言うことだろう。機械のはじき出す結果は、今のところ目新しいのかもしれないが、僕にとっては予定調和的で面白くない。

ところで上であげたautechreにせよ、ovalやfenneszなど、僕が面白いと思う音響系のクリエータ達が作る音楽には、コンピュータを使いつつ有機的である。彼らは、ソフトウェアを用いるということでは、最低限のアルゴリズムは利用している。にも関わらずそこにアルゴリズムを利用したデザインに見られる単調さを免れている、と僕には思える。それは彼らがアナログという方法を戦略的に用いているからだろう。アナログ人間だとか、一発録音のバンドサウンドだとか、単にデジットなものに適応できない人間の回顧趣味にはうんざりしてしまうが、それでも彼らのいうことが真っ当なのは、それが圧倒的な情報量を含む制作を習慣的な手つきで可能にするということだろう。autechre達は、このアナログの持つ運動の自動性の持つ複雑性を取り込み、ディジットな処理を加え、再びアナログの自動性に定着させ、という循環的な方法を採用している。それが彼らの作品を、焼き物が獲得している驚くべき複雑性にも迫る有機性をもたらすのではないだろうか。けれどこの方法は非常に安易である。多分前田達は、このような有機性をも、アルゴリズムで達成したいと考えるのだろうか。

音響系の作品のジャケットには、いわゆるアルゴリズムを用いた『design by numbers』なデザインがよく用いられる。双方がコンピュータを用いたソフトウェアによる最新の流行の制作物であることが、大きく関係しているのだと思う。けれどこうしたコンピュータ・グラフィクスの領域は、まだこうした音楽に追いついていない。道具の性能が問題なのではなく、発想と実行の問題に過ぎないのだと思うのだけれど。

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jim o'rourke [ insignificance ]

11/1

最近知り合いになった小料理屋の店主とよく飲みに行っている。

料理人が行く行き付けの店(飲み屋)というのは、きちんとしたものを出すのかもしれない。ということで最近そういう店をいくつか知った。

ところで彼自身の店はそれほど儲かってはいないと挨拶代わりによくいう。実際店に行くと店主一人で早速飲んでいるという場面に出くわすことも度々で、本気にしてしまいそうになる。決してまずくないどころか、なかなか美味いものを出す店だと思うのだけれど。それでもは客が入らないのは(店主の言葉どおり儲かっていないかは別として)、料理のデザインというものがそのパッケージングまでも含んだ制作である、という現代では当たり前のことが関係しているのではとも思う。外装というパッケージングは、それ自体広告塔の機能を持つし。後はそれを実現する店主のやる気(本人が手を抜いていると常々グラスを片手に自慢しているので)なんだろうか。いずれにせよ食うに困ってはいなさそうだし、そのまま行きそう。

知り合いになってから少しして、その店は中華蕎麦(ラーメンというと怒る)を始めた。本職でないいわば人間が作るラーメンということになるけれど、そこは才能のある和食の職人が作る料理、一風変わった和風味の丁寧な仕事になっている。

一度その店主に批評してもらいたくて、僕が近くでましと思っている姫路のラーメン屋に誘った。彼は厳しい形相で、何度もスープを飲み麺をすすりあっという間に食い終わり、後は店の中で聞こえるかなど気にもせず、スープがひりひりするだとか、白菜入れようと思っていた俺のアイデア使いやがって、酒飲みのために背脂大目に入れてやがらだとか、散々悪態をついていた。そのラーメンより絶対うまいものを作っているという自信があるのに、この店がえらく繁盛しているのが気に食わなかったのだろう。人間の味覚がかなり相対的なものだと僕自身日々思い知らされつつ、料理という制作と金儲けという制作は同じではないということでもあるしなあ、この店は僕自身紹介したこともあって売れる真っ当な理由を持ってると思うとか言って、その後議論になった。

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lionel hampton [ midnight sun ]
向田邦子 『無名仮名人名簿』