2001/12/

12/31

htmlソースのほうはほぼ変更し終わる。

中途半端な形でupするのは、事情があるから。スタイルシートのほうの分かりにくい微調整をどうにか解決して、ひとまずはよいということにしたいけれど。

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beck [ mutations ]
食器洗いしながら歌える数少ない歌もの。
jim o'rourke [ halfway to the threeway ]
同上。珠玉のミニアルバム。
rudhy rucker 『思考の道具箱』

12/26

webの色などを少し変更してみた。

けれど根本的なソースはそのままで、それは全くひどい代物だと思う。そういう知識しかなかったので仕方がない。今いろいろ勉強していて近々ソースを大幅に変更する予定。といっても見た目の方はほとんど変えないと思う。

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john fahey [ womblife ]
永井荷風 『あめりか物語』

12/24

好きであるということ、執着するということ。

あるものに対していかに好きであるかどうかのバロメーターを客観的に正確に判定する方法というのはない。でも一つその指標になるとすれば、いかにそれに対して量的に接しているか?ということが一般的によく言われることだと思う。例えばどれだけ金を使っているか?時間を使っているか?どれだけ持っているか?嫌いではこうした労力をかけることはできない。ここでは嫌いということはどうでもいいことを意味する。つまり僕は、好きの反対は嫌いではなく、どうでもいいことだと考えている。

その道の玄人とかいわれる人間が膨大な量を収集しつつその過程でこれまた膨大な知識を得るのは、自分の好きなことがどれだけその領域にあるのか?ということを吟味するために必要な作業なんだろう。こういうふうに自分の好みを分類・体系化する、というような拡張する愛情というのはもちろん理解できるものだけれど、同時に拡張する意志がない(どうでもいいと思える)領域にでも、素朴にそして明確に好きなものというのも持っている。

まったく服には興味はないというおじさんだったとしても、その奥さんが買ってくる服に不満を持ちながら着ていたり、文句を言わずともさりげなくそれを着ず前からある服ばかり着ようとする、という方法で主張しようとする。このおじさんは、服やファッション全般というレベルの領域に興味を持てないのであって、好みのデザインという狭い領域での好みは厳然にあると思う。膨大に情報が存在するそのある領域で、好きなものがどこにあるのか何であるのかを探し出すこと自体非常につらくて面倒すぎて、労力をかける価値あるものに思えない、ということもあるのではないかと思う。本当に好きなものが見つかれば、そして自分の好きなものだけがある領域がどういう性質を持っていてどこにあるのかを知れば、彼は貪欲にそれに殺到しやすくなる(後は美への執着か)。

好きである物や事を浮き彫りにする作業とは、こうした膨大な情報のほとんどが無駄であるときちんと答えを出す徒労をも意味する。それに耐えることができる、もしくは耐えてしまうことが争点とされる。好きであることを極めようとすることはマニアックであることと同義であるようにみなされている。けれどマニアックであることは多分好きであることと直接的には関係がないと思う。それは多分好きであることを見極めるために自然と必要な知識に関係することなのだ。

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j.s.bach [ matthaus-passion ]
milt jackson
北杜夫 『ぼくのおじさん』

12/19

headzのbbsで佐々木敦が小沢健二が復活するらしい、と書いていた。

僕は彼の作品の最初の二枚持っている。彼のソロ初シングルでもある「天気読み」はかなり好きだったのだけれど、次の『life』というアルバムはあまり聴かなかった。多分あの頃の王子様なメディアへの出方が痛々しくて仕方がなかったし、本当はどうだか知らないけれど今の俺の恋愛って最高!的なテンションの高い詞や、前のアルバムから一皮向けた(いいのかわからん)ような独自の歌唱法や音のカラーが苦手だったのだと思う。それとも単にcdのケースの接続部分が割れて、開けるたびに二つ分かれてしまうのを思い出して聴くのが億劫になったのかもしれない。

懐かしくなって聴きなおしてみたのだけれど、僕の持っているこのアルバムがかなりソング・ライティングや音作りの全般に渡って完成度が高いということに気付いた。以前ストリングのアレンジの系譜についていろいろ思ったのだけれど、今回もそれを別のレベルで考えさせられた。彼はアレンジャーを雇っているのだけれど、そのアレンジはフィラデルフィア・ソウル〜ディスコのストリングの系譜で、これは日本の80年代の聖子ちゃんだとかのアイドルのアレンジに盛んに用いられたものだ。ひどくキュルキュルめまぐるしく変化する高速の弦の運動は、カラフルな印象を与える。

僕はこれを高校の時にpsy'sという日本人のポップ・グループのアルバムでほとんど同様のアレンジを聴き、既聴感におそわれた。これは明らかにイメージの組み立てによるフレーズ・サンプリングを行っている。このサイズのメンバーが何のイメージをサンプリングしたのかはよくわからない。フィラデルフィアだとか、ディスコといったけれど、これにしろ元は黄金時代のハリウッドのサントラがあるのだろうし、これらはワグナー、ラヴェルなんかの戦前派のオーケストレーションがあるはずなのだ。

ハリウッドの作曲家たちは、いかにも映画向きの派手なあたりを切り貼りしそつないようデコレーションを施し、それをパクったディスコサウンドのアレンジャーはほんのおいしい部分だけを切り取り反復させ、それを聖子ちゃんのアレンジなどではかなり違うテイストの曲に貼り付けてしまった。小沢はこの軽薄で派手なアイドル歌謡曲のテイストを想起しつつロック的な場にそれを配置した。もしかするとジェフ・ベック的なものがあったのかもしれないが、こんな例は事欠かないのだろうし僕にはお手上げだ。

誰がこの系譜を継起(一度切断し継続する)しようとするのかはわからないが(そして現在の時系列を無効化するようなディスクの聴かれ方は系譜というような伝統的なあり方を破壊するだろう)、いずれにせよある弦のフレーズのイメージが想起され鼻歌でいともたやすく現前される。そうした当人にとっては明確だけれど伝達するには曖昧なイメージの想起も、記譜法という記号群を操作できる技術者によって実現され続ける。ここにあるのは単に力あるフレーズも想起されるごとに価値を強める肥大化する、というものではなく、その都度価値が更新される形骸の伝達のようなことだろうか。

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小沢健二 [ life ] [ 犬は吠えるがキャラバンは進む ]
島田雅彦 『自由死刑』

12/16

僕のことをよく知っている人は、僕がnhkの朝の連ドラのファンであることを知っている。

今やってるのは、『ほんまもん』という大阪を舞台とした親子二代の料理人の話。ところでドラマの脚本って、例えば二時間もののサスペンスドラマでも、毎回片平なぎさの素人探偵だとかによって犯人をつきとめ単身犯人を追っていくところだとか、それって越権行為だし絶対危ないから警察呼んだほうがいいよと思うわけだけれど、そうはせず自ら危機を招き寄せだから言わんこっちゃない、というように強引なところが随所にある。朝の連ドラの展開も毎シリーズよりドラマチックにするため、もしくはドラマそのものを展開させるために、こうした強引さを利用する。

このドラマの強引さは、ようやく自分の腕が認められたもののすぐに舌癌であることがわかった父親が、ひどく不器用だが味覚に関しては父親ゆずりの才能を持っているものの、たかだか一年尼寺で精進料理の修行をした20歳になるかならない娘に、自分の料理の知識をわずか数ヶ月で教え彼女が父親亡き後この店を継ぐ資格がある、かのような展開になりそうなところである。生き残る家族が誰も止めないことに、んなあほな、ほんま悪いこと言わんからやめとけ、と突っ込みが入るわけだけれど、これもドラマやねんからということで済まされる。

あえて生真面目に考えてみる。普通板前は一人前になるには10年掛かるといわれたりする。主人公の女の子は単純に父親の味、精進料理の味をうまいといえる舌を持ち、料理の基本の切る、煮る、焼くという方法をひとまず教わっただけでしかない。不器用な分人の何倍もの努力をする必要がある、というような言い方をよく聞くけれど、彼女がそうした努力をして得られるのは、単に人に追いつくか抜きん出ることくらいのものだ。

料理には遊びからはじまるような好奇心、それを実現する技術に対する知識、実現に必要な精密な技術、など膨大で循環的な実践的知が必要であり、それに掛かる膨大な時間を楽しめる動機がいる。加えてそれを味わうための環境までもマネージメントするできなければならない。それらは味覚の才能ではどうにかなるものではない。問題は単純で、父親の何十年とは言わないが店を任せることができるような経験の量を、彼女の努力の量で複製できるか?ということだろう。大根の皮を数ミリの薄さで切ることができる、といった料理の味にはそれほど無関係に思える技術ひとつにせよ膨大な時間が掛かるのだし(徒弟制というシステムがこうした技術や使い走りというような無駄を強いているという批判は、薄っぺらい)。

父親の料理の複製を行うことは、父親とは別の解像度のより深い制作を行うだろうことを意味する。レシピというものが結局のところ、全体の構造を学ぶためにとりあえず必要な取っ掛かりでしかないある曲に対する譜面のように、血肉化した後には無意味化する。10年なりという修行期間とは、料理というシステムやその個々の要素へのどのようなランダムアクセスをも可能にするような、身体の態勢を制作するのに必要な具体的な目安を意味するのだろう。複製行為が当の制作の領域への知ることの解像度を深め、複製への欲求に疑念を孕ませる可能性を持つ。

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[ bandes originales des films de jean-luc godard ]
skylab [ seashell ]

12/14

髪をばっさりと切ったが、出来に納得できない。

多分思い通りの髪型にならないことって、だれも思い当たることなんだろうと思う。髪を切ることは、かなり個人的な微細な趣味の部分にも関わらず、それを自分以外の専門的な技術者に直接的な選択の責任を委ねるしかない(自分で髪を切ることは本職といえどもリスクを背負っている)、加えてやり直しがきかない、という制約が課せられている。そうなると相手にいかに自分のイメージを適切に伝えるかという表示物レベルの制作(要するにここではニュアンスを主に言語的に伝える技術)が重要となる。

写真を持ってきてくれるとわかりやすい、という言い方を美容師はよくするし実際どういった制作のイメージかの全体を伝えることは、写真が有効であることは間違いがない。問題はヘア・モデルと自分との形態の乖離を、どのように修正するか?の情報は、写真にはない。そしてこの些細に思えることが、実は自分の好みの根本を支えていたりすると思う。これを解決するには、技術者の側が顧客個人のデータを持つことが必要であるし、客自身はコミュニケーションを地道に続けていくしかない(日本人はこれが非常に不得意)のだけれど、こうした微妙なイメージは言葉からすり抜けわかる奴にはわかる、というようなものだと思う。

そういう意味では積極的な人間が自ら髪を切る技術の知識を得ようとすることは効果的ではないかと思う。患者が下手な知識を持つことをあまり好まない医者がいるのと似た話だが、嫌うからといって自分の問題であるし冷静な判断をできるものであれば、技術者にとって(もちろん本人にとって)これほど円滑に制作を進めることができることはないし、知ることはよいことだと思う。それを利用していかに技術者と意思を疎通させるかが問題であるのだし。優れた技術者は相手の言葉の前に自分でイメージと実際のずれを補正する。そうでない者は写真や指示による固定された知識を参照する解像度でしか制作にあたることができない。

でもみんな、たかが髪の毛って思ってるし、お金もかけにくいし、つらいところだ。

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justin bennett [ grassland ]
村上龍 『アウェーで戦うために』

12/07-09 b

東京詣パート2。

「ロボット・ミーム展」は展示されている数が少なかったし、内容もこりゃあすごいというものではなかった。安いわけだ。ホンダのロボットだとかほんとに見たい。子供だとかが見るとほんと驚くんではないだろうか。テレビでその動く映像を見たことがあるけど、それってスターウォーズに出てきたr2d2、それもモーターによって動かしていたんではなく、小人が入って階段とかを降りていたくらいのたどたどしさといったらいいのだろうか。それぐらいスムーズな複製を実現していた。

ところで書いているように、これは「ロボット展」ではない。ロボット、ミーム、この二つの言葉のタッグが重要なわけである。「ミーム(meme)」はリチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で言い出した言葉で「文化的遺伝子」とでも訳すことができるらしい。人類が生み出した様々な文化的情報を伝達する遺伝子というようなことで、それらは歴史だとか科学的な知識などのマクロの情報や、もっと具体的などうやって筆で円を描くかなどといったものを伝える情報なんかを扱うんだと思う。ドーキンスという扇動的なというかレトリカルな物言いを戦略的にかする人物のいうこの用語が、厳密な意味を持つのかを問うことは生産的でないけれど、この考え方は生きる現実の感覚という上で「遺伝子(gene)」よりも直感的に理解しやすい。僕は散々物語だとかいうけれど、この文化的な情報伝達の根底的な形式を物語というモデルで理解している。

ドーキンスかそれともここに出展している藤幡が「ミームが人間にロボットという人間に代わる新たな乗り物を作らせている」というような意味の、『利己的な遺伝子』のミーム・バージョンを仮説していて非常に魅力的な説である。けれど僕としてはアトムを作りたいという強烈な欲求は、かなりうまいものまねタレントの芸を観て狂喜するだとか、実際それで真似の練習をしてしまう日本人と同根なんではないかと、べたに思う。中学生くらいの頃細野晴臣が『源氏物語』という傑作アンビエント・サントラを作った。あまりの地味さ加減に涙しながら愛聴しつづけたけれど、そのアルバムの中にシンセサイザーで笛の音をシミュレートした曲があった。息継ぎとその後にくる音程の変化の減衰の仕方など聴いていて鳥肌が立つようなリアルさを感じた。ただしこれは明らかに偽ものだということを理解していたということが大事だと思う。ポイントだけがつかまれて表現されている。このことが笛の音に関するイメージの圧縮された記憶を認識するのにとって十分だったのではないかと思う。手作りによる、組み立てによる複製の快感。

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jorn of arc [ pleasure isn't simple ]
リリー・フランキー 『日本のみなさんさようなら』

12/07-09 a

東京詣。

展覧会三つ。日本科学未来館「ロボット・ミーム展」、東京大学総合研究博物館「眞贋のはざま」、上野の森美術館「moma アメリカ近代美術館展」。恵比寿にてラーメン二杯「香月」「よってこ屋」、上野精養軒、等。夏純子『不良少女マコ』。

「眞贋のはざま」は新聞で知ってぜひ観たいと思っていた企画展だけれど、予想以上にこのwebでも書いているような複製に関する文章と関心が重なる。プロは解像度も深いね。ある解剖学の大学教授に関する同じ三つの像はなぜ作られなくてはならなかったのか?オリジナルであるはずの像主が持つ小物の頭骨のディテールが正確でないとの指摘に、それを原型にして変更し加えて新たに精度を高めて作り直され、制作者と関係者はそれをオリジナルだとみなすが、すでに披露されたものと取り替えられることはできず、残るひとつは、戦争による金属調達を恐れた関係者がこの真のオリジナルをもとにセメントでレプリカを作らせたものであったという。この例を見るだけでも一般的に流通する社会的意味のレベルでの複製という概念が、いかに流動的なものかがわかる。

他にも、ウォーホールのポートレイトのオリジナル・プリントが、それをデジタル技術によって印刷された無数の中に並べられていたりする。オリジナルには署名が入っていてこれは写真家の認めた多くの焼かれたプリントの中の決定稿ということになる。そのデジタル・コピーがかなりの精度で複製されている。展示はこの見分けの困難(もしかすると当の写真家自身にも?)を示そうとする。署名とは、原理的にはありえないコピーそれぞれが個体差を持つこと、もしくは単に複数プリントを制作できてしまうことに対し、唯一を選択したいことから生じる行為だが、デジタル技術はデスクトップ=概念の世界ではそれを無効化する、完全に違いをなくしてしまう。ただしそれは出力という現実世界への移行によって差異化させられる。この展示を見る僕のような素人にとってこれらの違いを見分けることは、実際多くのプリント間の違いを見つけるよりは難しい。でも当の写真家にとってそれは慣れの問題となるだろう。つまりデジタルカメラやその出力が写真術に浸透する状況でも、オリジナルの決定、署名はなされる。ところで僕の考えでは、写真には厳密に言うとオリジナルらしきものや複製という同階層の相似関係は存在するが、オリジナルとコピーという関係は存在しない。

とまあいくらでも面白い例やそれについて感じることがある。このwebに載せている複製にまつわる文章は、今回の図録と比較して曖昧であると感じている。けれどそれは僕がより原理的に考察しようという意図によって具体性を排除したものであれば問題ないと思う。ただし原理的であることを徹底できていなかったことを考えさせられもした。それらを踏まえて上書きをしたい。いつの日になるのやら。

受容

ego wrapping [ finger ]
cornelius [ point of view point ]
西野嘉章[編] 『眞贋のはざま』

12/04

テニスが楽しい。

週一回とはいえ習慣化してくると昔の感覚が少しずつ戻ってくる。それは良い部分もそうでない部分もということだけれど。たとえば僕のサーブは前にも書いたように割と得意な分野ではある。だからトスのフォームを安定させることができはじめると、フラットの強いサーブがよい確率で入りだす。けれどサービスの確率をトスの固定にだけ頼るような傾向は僕の欠点である。要するに臨機応変でない。自分の身体制御能力の低さを、いかに経験だとか習慣だとか、いわば非リアルタイムな制作によって補おうとするかを考えようとする傾向がある。調子が悪いときにいかにそれをコントロールしてフォームに変化をつけたり、手首で上手く微調整をつけて何とか確実に入れようとするような鹿野のような器用なことは、昔からできない。

思ったより再開し始めたときにかなり苦手に思っていたフォア・ハンドのストロークが安定し始めた。比べて圧倒的に行う機会のないボレーがまずい。いずれにせよひとまずは数を打つことで以前に近い状態まで持っていくことはできるだろう。それからは以前できなかった頭を使うこと、度胸のある球を打つことが課題となる。解像度を深めてテニスを考えること、それをリアルタイムで行えるようなイメージの組立をする訓練をストロークの間際にする習慣をつけること。意志を育てること。

受容

j.s.bach
隆慶一郎 『かくれ里苦界行』