2002/01/

01/31

mp3をアップ。

26日の訂正・・・・西灘の店は[ いごっそ ]ではなく[ 月形屋 ]の間違い。

受容

坂本龍一 [ 御法度 soundtrack ]
安部公正(監) 『デザイン史』

01/26

松尾君と神戸へラーメン行脚。住吉「神助」「しぇからしか」、西灘「いごっそ」。

「神助」はもともと加古川でやっていたが、行ったことはなかった。元フランス料理シェフであった人間がラーメン屋をやっているらしい。化学調味料無添加で素材を厳選している塩ラーメン。主観的な印象としては、非常にものが言いにくい味だった。細部にまで意識が配られていることはすぐに分かるけれども、例えばスープがぎりぎりの薄さで、飲むときは味がしない薄さだと思うけれど、飲み終える頃にはああ複雑な味がしているな、という。何度も首をかしげながら蓮華を口に運んだ。化学調味料にならされた舌には、物足りなく感じるという言い方を掲示板でしていたっけ。ただしもやしは多すぎ。もう一度来たいか?といわれると困りつつ行くと思う。人には面白いラーメンだよ、といいたい。美味いかといわれると困る。

「しぇからしか」は人気のある店で一度仁川の本店に行ったことがある。まずくはないが後味のとんこつの生臭さが気になる。もう一度行きたいかというと微妙だけれど、同じ微妙でも「神助」と同列にするのはつらいものがある。「神助」の微細な意識の行き届きは感じないから。同じような値段で片やアルバイトが調理するチェーン、片やオーダーが通ってから自らが作り始める手間隙がかかったラーメン、というこの在り方は資本主義の悲哀を感じる。最近チェーン店はそれだけでパスしようと思うし。

途中腹休めに栄町のカフェへ。そこでweb、テクノロジー・ミュージック、コンピュータ談義。その後tower record→ virgin → sofmap。名もなき日本人音響系もの、ヘンデルのフルートもの室内楽を購入。良質な歌ものを聴きたいが、分からない。

受容

fukuyama tetsuya compilation [ origin ]
三浦俊彦 『これは餡パンではない』

01/24

受容

brandon labelle/steve roden [ the opening of the field ]
スコット・マククラウド 『マンガ学』
マンガによる形態論・記号論的なマンガの考察、これはすごい、楽しい

01/21

htmlを正確に書きcssでレイアウトを制御するということ。

(ここに書くのは正確な記述ではなくいろんなところで得た知識の僕自身の理解の仕方です)

w3c(the world wide web consortium)の推奨する方式でできるだけすませることができるなら、それに越したことがない。面白いのは、けれどこうしたスタンダードがスタンダードにはなっていないということだ。多くの職業webデザイナーは、推奨されていない物理マークアップや書式としては完全に間違ったtableタグの使い方を多用する傾向があり、それは一般ユーザーや後輩達に影響を与え有力な勢力を形成している。

推奨されるフォーマットを守ることで、環境に左右されず文書を閲覧できるという民主的で合理的な状況がもたらされる。推進派は、できることを知っていてそれをしないことを強制するのはもったいない、という言い方で遵守を呼びかける(中には義務的に語る過激派もいる)。商業webデザイナーがそれを守らないのは、ひとまず正しいcssの能力ではまともなデザインができなかったという理由があったのかもしれない(推進派のデザインはcssを使いたくなさせるようなデザインで満ちあふれている)。ユーザー・エージェントの圧倒的多数を占めるのがmicrsoft internet explorerやnetscape navigatorであり、現実的にはそれらを押さえていれば、種類的に少なくはない少数派を排除してもよいだろうというような判断がこの不正を後押ししたのかもしれない。

加えて皮肉なことに、この不正な立場は多数派の環境(あくまで全てではない)においては、正しい方法よりも安定した見えを実現している。それは大手二社メーカーの派遣争いのための戦略にw3cの仕様が軽視されたことによる。

けれども同時に、文書の視覚的配置を文書の構造から分離するという発想そのものが、cssに制約が多い元凶ではないかと思うのは、暴論だろうか。分離するのなら、もう全然関係ないレベルで要素を扱うことができれば、とか思う。遅かれ早かれwebのコンテンツのメインが文書であるという言い方は相対化されるだろうし(html推進派はユーザビリティのことを考えて、紙メディアから引き継いでいる静的なデザインや制作者の固定的な意図は、動的なマルチメディアでは相対化されるし、するべきだという意見を持っているらしいが、このあたりの議論は難しいと思う)。

この問題は多分倫理的な姿勢と欲望の赴くあり方の対立で生じている。ちなみに僕は、何とか真っ当な方法でデザイン派に近づけないかなと。これは「2ちゃんねる」の [ /*CSSでイケてるデザインサイト!*/ ] というスレッドの心意気に近いと思う。w3cの姿勢に理解を示しつつどうにかして「いけてる」デザインを実現したい、まじめなけれどそれだけじゃあ嫌という人間達の切実な思いがここにはあふれている。2ちゃんねるの対話を見てるとうんざりすることが多くてあまり行かないのだけれど、いやこのスレッドは優良ですよ。カウントも900を超えてまだ続けながら、別題スレッドも同時開設してしまったし。みんなここを大切にしているのがわかってつい、良いスレッドだなあ、とつぶやいたもの。

受容

f.s.blumm [ mondkuchen ]
池波正太郎 『剣客商売』

01/15

web制作支援系サイトをいろいろと物色している。

僕がhtmlのソースをまともに書こうと思って覗きに行った数多くのサイトの中でも、 web kanzakiacademic htmlweb classnext index などは充実したところだと思う。htmlとスタイルシートについて、初心者向けではあるがポイントははずしていなかったり、詳細で包括的な内容になっていたり、レクチャーと演習プログラム付きだったり。

けれどこれらは僕の評価とは裏腹に思ったほどリンクが張られていない。明らかに見た目がおしゃれじゃないデザインだから、教科書的な正攻法的な記述の仕方だから、(挙げた他にあったけれど)htmlをきちんと書かないクズサイトばかりだと嘆いている説教くさいもしくは過激なhtml原理主義者みたいだから、いわゆるオタ系みたいだから、などいろいろな理由からなのかもしれない。

あえて一からhtmlのソースをきちんと書こうと思っている人間は、多分変り種か金のない人間以外、多くはまず最初にソフトウェアの力を借りているわけなんだし、その彼らがhtmlを勉強するなら腰を据えると思う。その意味では実際上の思いなしが事実であることを差し引いても、これらのサイトを知っているとお得だと思う。

もう少し挙げておく。 pc tips は、概念的なhtmlについてのある考え方を知ることができる。過激派急先鋒という感じだけれど抽象的なレベルでも考えたい人が覗いてみるのはいいことだと思う。後 hp-design.net は、いわゆるデザイン系(というよりゲーム系より)という感じであるけれど、そのhtml、スタイルシートに関しての内容は真っ当で包括的であることを目指しているよう。肩肘張っていない書き方に僕は好感を感じた。

僕自身、htmlとスタイルシートを学んでいる途中なので、実感としてえらそうにこういうことが言える。だからjava、cgiについては何も言うこと言いたいことはない。

受容

清水靖晃 & サキソフォネッツ [ cello suites 4・5・6 ]
バッハを音響として聴く仕方として

01/13

nhkで川久保玲とコム・デ・ギャルソンの特集を観た。

学生の頃、ギャルソンの服は単に80年代の黒服の名残というだけでなく、トータルな見えの独自性(コンセプトだとか哲学だとかいう言い方をしてもいいのだけれど)を持つブランドだと非情に興味深く思っていたけれど、忘れて久しい。

日常に着る服としてのギャルソンだとかは、経済的にしんどいし着こなせないしあまり興味がないのだけれど、ジョン・ケージ的、デュシャン的な意味で、彼女の作るコレクション用の服は批評的で相変わらず刺激的だと思った。ここでいう批評的というのは、ファッションという制作領域の中で、その位置を意識して確認するために歴史的にだとか遡行したいと思わせるかどうか、というくらいの意味。

制度的なレベルでみると、アートの範疇に入れられるには機能性、時代性、経済性などの外部要素がデザインの決定の深くまで関わっている分野は排除される。ファッションや映画や漫画、ポルノ等々、要するに新しいメディアという差別化されてきた領域だけれど、川久保がやろうとしているのは、それを抽象化することでその領域に加わろうという作業であるのかもしれない。

映画でも漫画でもそうだけれど、ファッションでも、音楽や絵画のような実体を持つ対象を参照するレベルから抽象的な対象を扱う領域に移行したときのありさまを想像して楽しみたい。

受容

boom boom satellites [ umbra ]
井上雄彦 『slum dunk』

01/07

読まれている希少な方々、今年もお願いします。

tvで ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』を後半だけ観る。

ビットリオ・ストラーロの色彩ゆえにか、同じ大河歴史路線ものともいえる『1900』を彷彿とさせる。ベルトルッチ作品に見られる白人のキャストを東洋人に置きかえたかのような印象を受ける。

映画の最後、文化大革命の時代のシーンで統率された若者達が街をパレードするシークエンスがある。地味な軍隊色の人民服を着た青年が大きな真紅の旗を振り回し、その周りを少女達が合唱しながら回転する。

僕は、ゴダールの『軽蔑』でのカラフルな青、赤、白というような原色の鮮やかさを思い出した(同じように鮮やかではあるけれど『中国女』では思い出さなかった)。周囲の風景や空気のくすんだ色に重なり軍隊色や赤の運動が変化していく。これは鮮やかではあるけれど、古典絵画の流れを汲む複雑な色合いが現れている。同じ鮮やかさでも『軽蔑』の地中海の強烈な日差しの中で現れる三つの原色のグラフィカルなモダンな配置、色合いとは違ったものだ。

ミケランジェロの子孫だと言う(言い張る)ストラーロは、強烈なイタリア・ルネッサンスの色彩を受け継いでいるという責任や自負によって、ベルトルッチのフィルムに毒々とした血を流し込んでいる。ベルトルッチは、人物の行為を描きその情動を表面に現れにくく扱い、それを色彩と音楽によって表現しようとしたのかもしれない。僕には映像が非情に冷たい印象として定着しているのと同時に、それは音楽と共に非情にエロティックに感じる。

受容

stevie wonder [ jungle fever ]
dvorak [ from the new world ]
久保田晃弘(監)『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』