cgによって実写映画がそもそもアニメーションであるという再定義化がより進行する。
宮崎駿がベルリン映画祭で金熊賞を取ったらしいが、これはそのための映画祭側の駆け引きであると思えた。cgアニメーションによって、実写といわゆるアニメーションの垣根は溶解してしまった。セル画やクレイによる従来の方法によるアニメーションと実写の間には、水と油として交じり合わない表現上の問題があったが、cgの写実的な表現力によって、例えば日本人はアニメーションというとセル画で書かれた目の大きい女の子がロボットに乗って荒唐無稽なsf物語の中で活躍する、子供か大人になれないオタク達の商品というような既成概念を持っているが、それが強引に壊されてしまうと思う。
アニメーションとは無から有を生み出すという欲望をさしているとよくいわれる。大いに売れた『matrix』のキアヌ・リーブスがのけぞって糸を引いた弾丸をよけるだとか、ロールプレイング・ゲームそのままのようなシーンは、あくまでも日本のセル画アニメーションやゲームを大好きな監督達の趣味が実写に変換されたイメージとして定着している。そこにはセルアニメという地域的に育ってきた特殊な性質が普遍としてみなされてしまう危険がある。同時にそこには実写の自動性による写実性や複雑性という性質を持ちつつ、cgアニメーションの技術のおかげで制御困難であった自由なイメージの組立の可能性を見せてくれたと思う。cfなどで『matrix』以降模倣されまくった、映像(というか対象)の一時停止とその後に続く並行パンなどは非常に表面的な技術でしかない。もちろんそれは含まれるのだけれど要は押井守の言うような、実写というテクノロジーもアニメーションの一形態である、という視点をもたらした認識の変化だと思う。
実写の自動性がもたらす情報量は、従来のアニメーションより圧倒的に膨大だ。実写の俳優の演技やフレームに収まっている様々な対象の表情などを、アニメーションは到底複製的に組み立てることができない。けれども『ブレードランナー』が古典として認められる理由である世界観の構築、一貫した映画のムード、のようなものをアニメーションはたやすく表現できている。実写ではそれに苦労しているにもかかわらず。それは多分実写映画には多くの決定事項への判断が、監督以前に様々な人間の手に為されすぎているし、加えてコントロールするには情報が膨大すぎて単に優秀な監督の手にも負えない。
現在3dcgアニメーションの手法は実写に用いられ、フルアニメーション作品というものも出てきている。けれど僕自身3dやコンピュータ制御のみの作品に面白みを感じない。midi音楽のようなもので早晩飽きられると思う。また現在の実写へcgが用いられるという言い方があるが、実写がアニメーション(cg)に用いられるという言い方は、ほとんど聞いた事がない。ゲームのキャラクターの下絵にアイドルや俳優の姿はいくらでもパクられているが、そうでなくてサンプリングされて徹底的に加工されたものとして彼らにお金を払い、それを素材に使うというようなことは聞いた事がない。実写も従来のディズニーや日本のアニメーションも、それに影響を受けた3dcgも現実的な形態にとらわれすぎてアニメーションという発想に制約をかけている。クレイ作品を見ていると最もアニメーション的なのかもしれない。
もっともっとどろどろになりますように。
受容
- silent poets [ red eyes tribe ]