2002/02/

02/24

cgによって実写映画がそもそもアニメーションであるという再定義化がより進行する。

宮崎駿がベルリン映画祭で金熊賞を取ったらしいが、これはそのための映画祭側の駆け引きであると思えた。cgアニメーションによって、実写といわゆるアニメーションの垣根は溶解してしまった。セル画やクレイによる従来の方法によるアニメーションと実写の間には、水と油として交じり合わない表現上の問題があったが、cgの写実的な表現力によって、例えば日本人はアニメーションというとセル画で書かれた目の大きい女の子がロボットに乗って荒唐無稽なsf物語の中で活躍する、子供か大人になれないオタク達の商品というような既成概念を持っているが、それが強引に壊されてしまうと思う。

アニメーションとは無から有を生み出すという欲望をさしているとよくいわれる。大いに売れた『matrix』のキアヌ・リーブスがのけぞって糸を引いた弾丸をよけるだとか、ロールプレイング・ゲームそのままのようなシーンは、あくまでも日本のセル画アニメーションやゲームを大好きな監督達の趣味が実写に変換されたイメージとして定着している。そこにはセルアニメという地域的に育ってきた特殊な性質が普遍としてみなされてしまう危険がある。同時にそこには実写の自動性による写実性や複雑性という性質を持ちつつ、cgアニメーションの技術のおかげで制御困難であった自由なイメージの組立の可能性を見せてくれたと思う。cfなどで『matrix』以降模倣されまくった、映像(というか対象)の一時停止とその後に続く並行パンなどは非常に表面的な技術でしかない。もちろんそれは含まれるのだけれど要は押井守の言うような、実写というテクノロジーもアニメーションの一形態である、という視点をもたらした認識の変化だと思う。

実写の自動性がもたらす情報量は、従来のアニメーションより圧倒的に膨大だ。実写の俳優の演技やフレームに収まっている様々な対象の表情などを、アニメーションは到底複製的に組み立てることができない。けれども『ブレードランナー』が古典として認められる理由である世界観の構築、一貫した映画のムード、のようなものをアニメーションはたやすく表現できている。実写ではそれに苦労しているにもかかわらず。それは多分実写映画には多くの決定事項への判断が、監督以前に様々な人間の手に為されすぎているし、加えてコントロールするには情報が膨大すぎて単に優秀な監督の手にも負えない。

現在3dcgアニメーションの手法は実写に用いられ、フルアニメーション作品というものも出てきている。けれど僕自身3dやコンピュータ制御のみの作品に面白みを感じない。midi音楽のようなもので早晩飽きられると思う。また現在の実写へcgが用いられるという言い方があるが、実写がアニメーション(cg)に用いられるという言い方は、ほとんど聞いた事がない。ゲームのキャラクターの下絵にアイドルや俳優の姿はいくらでもパクられているが、そうでなくてサンプリングされて徹底的に加工されたものとして彼らにお金を払い、それを素材に使うというようなことは聞いた事がない。実写も従来のディズニーや日本のアニメーションも、それに影響を受けた3dcgも現実的な形態にとらわれすぎてアニメーションという発想に制約をかけている。クレイ作品を見ていると最もアニメーション的なのかもしれない。

もっともっとどろどろになりますように。

受容

silent poets [ red eyes tribe ]

02/23

著名人が母校を訪ねるというnhkの番組に大リーグ投手長谷川滋利が出ていた。

この番組は、芸術家だとかスポーツ選手だとかの著名人が母校の小学校を訪ね、自分の技術を利用して後輩にワークショップという形で、何かを学んでもらうという内容らしい。長谷川は日本人としてはじめて大リーグのコーチになるだろうといわれているが、彼は今回後輩達にメンタルトレーニングを扱った。

冒頭から彼の教授(インストラクション)は優れていると思った。そこでは座って身体を前傾させできるだけすばやく反復呼吸させることで心拍数を上昇させたり、逆に椅子にゆったりともたれさせ、大きな呼吸をさせることで心拍数を落とす、また手に力を集中させ(彼は「念を送る」と胡散臭くも分かりやすい言い方をしていた)手の温度を上昇させる、という具体的な例を出して身体のコントロールを意識的にできることを子供達に教えていた。彼はここで、物理的な身体の制御は精神な状態を反映するが、その状態自体物理的に制御できるということを教えたのだと思う。

彼はソフトボールを使った的当てを教材に選んでいた。予備知識なしにソフトボールを投げさせ、その後レクチャーし深呼吸の大切さを教え、次にそれを常に意識するようにして再び投げさせ、当たったかどうかの変化を数字として記録して見せる。だんだん彼はチーム対抗ゲームにするだとかわざと緊張する場面を作っていき、最後の仕上げに全校生徒の前で選手紹介のナレーション付きでそれをさせた。緊張して身体能力を発揮できないような状況でいかにできるように持っていくか?を彼は主眼としていたんだと思う。

深呼吸で大リーグ投手にはなれん、と突っ込みをいれたけれど。

受容

パット・ハケット『ウォーホール日記』

02/20

携帯のメールはコミュニケーションを反芻させる。

コンピュータによるメールと携帯のメールでは同じメールでも違う使われ方をしている。携帯のメールに近いのはチャットで、擬似的なリアルタイムな対話を志向している。それを即しているのは携帯の文字数の制約なのかもしれないし、経済的な問題から使用者はメールを代替コミュニケーションのツールとして「発見した」のかもしれない。

妹が携帯メールのもどかしさを嘆いていたことがある。これは伝えようとする内容が文字数の制限だけではなく、あの使いにくいインターフェースによって、不自由この上ないことがあるのだろう。僕はこれに対して、若い子達がものすごい速さでインターフェースを使うのを思い出して、どんな状況にでも人は慣れてしまうもんで、今思っている不自由さが無意味になるような別の形式を彼女達は獲得している(それともいずれ)んだろう、と悟りすました人間を決めこんだ。

けれどこのもどかしさは現実的に理解できる。これは、制約を意識してそれをいかに解消するようにコミュニケーションを取ろうとするか?という意識がもたらしている(というよりコミュニケーションという言葉自体そういうことだろう)。携帯では敬語や主語など、形式に収まらない冗長な情報は無駄なものとしてどんどん省かれてしまう傾向にある。そこにあるのはベンヤミンが言った、新聞や雑誌など時空間的制約を強いられたメディアによって生じてきた純粋に近づく情報である。けれど上で言ったようにそこに豊かな可能性を生み出すこともされる方向は確実に生み出される。携帯のメールを自然として使う人間はそれに対する技術を単純な打ち込みの速さだとか、もしくは一つの記号でいかに様々なニュアンスを伝えるというような別の形式として開発しているのだと思う。その意味では、僕らが感じるもどかしさというのはひとまずは世代間の問題ということにもなる。ただしこれは年代だとかというよりも、メディアという基準での世代だといえるけれど。

リアルタイムという概念は、複製技術とテレコミュニケーションの技術によって大幅に変容を強いられてきている。その最近の身近な例が携帯でのメールだろう。同じ例として常々音響系のラップトップpcによるライブを考えていた。普通生身では一挙に扱えないような多層に広がる情報群をいかに統括的にしかも柔軟に変化するようコントロールするか?ということが問題となっている。これはまたいずれ。

受容

oren ambarchi [ suspension ]
ジョン・サッカラ(編) 『モダニズム以降のデザイン』

02/18

今更ながら五輪、そこでのスポーツ選手の身体運動のイメージについて。

スポーツを見るとき、僕は競技そのものよりもその動きを抽象的なイメージとして捉えて、その美しさを味わうことくらいしかしないのかもしれない。モーグルの予選を10人分ほど見たのだけれど、ジャンプしてからだ一杯にひねったり、足を思い切り開いたり、回転したり様々な空中演技を見せる。その中で上村愛子の見せた演技は会場を大きく沸かせるようなものだったし、僕自身も少し鳥肌モノで、見ていて分かりやすく美しいものだった。

フィギュア・スケートを見ていて思うのは、ダンスと違い技を繰り出すまでの必要なすべりというものが不可欠になり、それはこの種目の形式的な制約でもあるということだ。上位の選手はそれをいかに解消するかに神経を届かせて、ジャンプの余韻としての優雅さとして解釈させようとしているのかもしれない。ここでも美しさというものは、正確に動作を行うだけではなく、明確にジャンプをしているだとかの動作をしているという記号を発生させているかが重要に思える。

フィギュア・スケートはジャンプの難しさゆえ、全体の組立をほぼ固定した作品として提示する。その中でジャンプを一回転跳び切れなかったりすることが起きる。予定以外のものを見せることは、敢えて変えたのではなく失敗を意味することが多いように思える(変えられないのかもしれない)。最も大きな見せ場こそ最も危険度が高く、それ以降の演技は、いかに失敗をしないかにかかってくる。それだけ失敗からの動揺も大きい。モーグルではエアで見せる演目はその場その場で変更が利くようだけれど、それはフィギュア・スケートよりも全体とエア(ジャンプ)の連携性が低くいということだろう。フィギュアはまさにベルクソンのいう優雅さが必要であり、モーグルにはそれがしたくてもできない、ということだろうか。

こうしたスポーツ選手の動きを線や色などの抽象的なものに置き換えてみると、物理法則とそれに拮抗しようとする生物の動きのシミュレーションとしてのアニメーション(3dcg、flash、セル、クレイ)を思い出す。特にディズニーアニメやハリウッドで流行っているコンピュータ・アルゴリズムを利用したこれらの動きは小気味いい。僕はけれど、このような動きはすでにみんな面白くないのではないか?と思っている。それは簡単にできることだし、驚きですむ状況はすぎたし。生身のアスリート達がものすごいトレーニングをつんでやるのが感動的であって、彼らがリアルタイムで再現している物理的な運動のイメージというものは、これらのアルゴリズムと変わりはしない。ただ連続した非離散的なものということで比較できない複雑さではあるけれど。flashなどが飽きられないように、動きのパターンのバリエーション(物語の型)が考えられるだろうが、モデルはこのようにいくらでも存在する。逆にモデルの存在しない動きには人間はそれほど関心を寄せないのではないかと思う。

また前にも言っているけれど、これら映像での流行はテクノロジーの発展によって、いずれ音楽を後追いすることになると思う。つまりアルゴリズムでの結果やそれにエラーを引き起こした効果を取り込み、よりいびつで微細な有機的ともいえる動きを達成するのではないか、と。

受容

[ snoig comp. ]
duke ellington [ mood indigo ]
リチャード・ワーマン 『理解の秘密』

02/14

ルノワールの[ムーラン・デ・ラ・ギャレット]という有名な絵がある。

印象派は光線を画面に定着させようとしたと言われるが、それはそれまで絵画がしてこなかったということではなく、印象派によって明確な対象として意識的に扱われ出したということだと思う。彼らは光が対象(それまでの絵画の画面に埋められるべき題材)というキャンバスに定着している様を写し取りたかったのかもしれない。しかしそれはカメラなどのような複製機器によって満足されるような行為ではない。

象徴派は彼らを現実の世界の写実だとして非難した。上で挙げたルノワールの絵は、僕がモネのいくつかの絵とともに最も印象派的な絵だと思う。印象派の画家たちは、確かに彼らに見える光のあり方をいわばコピーしようとしたのは間違いがないが、ルノワールやモネの作品にはそれを逸脱して光というイメージの自由な組立にまでなんとか到達しようとしているからだ。そこには複製を超えたいわゆる創造があり、僕はそこにイメージの爆発を感じた。そしてそれが強いた認識の態勢の変容は絶大なものだったと思う。

僕が印象派に興味を持つのは、認識を変容させるようなほど光という対象が、曖昧で移ろいやすく不安定なものであるからであり、それを定着させようとはじめられたのかもしれない新しい流れの中で独自の表現を獲得し、抽象的な色の形態が既存の意味の形態(被写体)の中で配置されているからだと思う。

音響派といわれる中でも、ovalやfenneszは印象派がやった仕事を音楽の世界で発展的に引き継いで行っている。そういう類似性を僕は感じている。ovalらの音楽は、まず既存のcdからのサンプリングや自ら弾いた楽器のフレーズを素材とし、それに徹底的な加工を施す。加工された音は原型をとどめないようなものになってしまう。それらはデジタルノイズを多く含むものであり、極端な周波数分布を伴ったひずみを持ったものもあり、雑音であるといわれるような種類のものであるが、そこに時折元の素材の何らかのパターン(音程であったり、音色であったり、持続であったり)が聞こえ隠れする。そうしたサウンドファイルを多数作り配置する。彼らの曲に共通するのは、明瞭と不明瞭な部分を持つ要素の複数がいびつにからみあい連続する様である。僕はこれらの印象を点描法と類似すると感じている。

聞こえ隠れする明瞭な要素とは、印象派での被写体などの要するに目の前の目に見える対象である。彼らの曲はポップな構造を持っているがそれを既成の認識の態勢と考えるとすると、世界の模倣という印象派と似ている。ただし彼らがそこから抽象的な光のイメージを描くためのキャンバスとみなしていると僕には思えるような地点に、ovalらははじめからいたのかもしれない。

受容

herbie hancock [ maiden voyage ]
池波正太郎 『剣客商売』
リチャード・ワーマン 『理解の秘密』

02/09,10

一枚一テクスチャー主義。

ovalの[ dok ]にはずば抜けた曲はないが、そのディスコグラフィの中で一枚選ぶならこれにしようと思う。今一つこのアルバムは評価がよくないらしいのは、これがあまりにも聴きやすい、もしくはアンビエント的だからかもしれない。このアルバム全体の音のテクスチャー肌触りは、[ systemisch ]を除けてどのアルバムよりも一貫しているし、強い没入性を持っていると僕は思う。またそれが本当のアンビエント的な要素、できるだけ意味を廃した音もしくは音響によってもたらされることを思い知らせてくれる点で評価する。

[ systemisch ]では、今作からボーカルを廃し、後にovalの代名詞となるcdの針飛びの様々な実験を全面的に行ったのだけれど、それがアルバム全体ののテクスチャー肌触りになっている。ポップでありつつ実験的。このアルバムはまさにマーカス・ポップが言っていたこの言葉の具現化だと思う。ただし音そのものへ関心が行くには作品の構造が魅力的でありすぎる。

[ dok ]は一枚一テクスチャー主義の系譜に属すると思う。これは完成度が高いアルバムという言い方とは少し違う。それは様々な楽曲がありつつそれを統一する意図によって制御されているという印象がある。一枚一テクスチャー主義とは、僕が勝手に作った言葉である。これは一つの音色がアルバムを貫いていることを指す。言葉上の意味にはないが、それを聴くことで没入性がもたらされることを加えたい。この時の音色とは一つの楽器から出るねいろ(音の色)を指さずに、曲を聴く時に頭の中で鳴る全体的なイメージの色のようなものだといえるかもしれない。自然、アンビエントもの(本当の意味での、もしくは三浦俊彦の言う?)と重なってくるし、また別にアンビエントとは、そういう固定的なジャンルのことだけを指さないし、聴き方にもよってくる。

ある目安として、リピートをかけて1日中延々流せるかどうか?というのがある。例えば僕の場合グレゴリアン・チャントなんてもろそうだし、ピアノ作品なんかでもバッハだとか特にポリフォニックなものならばほとんどこの例に入ってしまうかもしれない。池田亮司の[ +/- ]も入る(そういえば明石のtowerでは、池田やnotoがヒーリングコーナーに入っていた)。民族音楽の中では本当に数多くあり、韓国のソムルノリやアフリカの親指ピアノもの、ガムランなどいくらでもある。

受容

oval [ dok ]
池波正太郎 『食卓の情景』
伸たまき 『the palm』
paul auster [ lulu on the bridge ]

02/0?

デザインについて。

デザインとは、素材に形を与える行為であるという意味では制作という概念とかなり近いものかもしれない。もう少し具体的な話では、日常用いる道具に機能と形態を与えることを意味するのだと思う。加えて現在では一般的にデザインとは、機能から乖離した見た目の美しさを指されることが多い。また機能にいかに効率よくナビゲートするかにこうした形態のデザインが求められるのであろうし、その発展系としていかに機能へ誘惑するか?へのナビゲーションでもあると考えることができる。

webを見ていると、flashというアニメーション・ソフトを使った図形、数字や英文などが高速で小気味よい幾何学的な運動をし消えていくものがある。これらは今までになかった動的なデザインで画期的なものだが、目的の情報の提示とはかけ離れた感が強いものも多い。もしくはそういったものが(前田ジョンの言う)新たなメディアでのデザインの形式であるとも言える。上で言った機能のナビゲーションのより積極的な形と考えるならこれらは新しい可能性を秘めている。

ただしこれらは工芸品としてのデザインとして極端に乖離しているが、かといってそれで独自の快感をもたらしてくれるという程のものではなく、ソフトウェアの能力を引き出しているにすぎないのではないか(マーカス・ポップのソフトウェアへの批判)、というようにデザインに紋切り型を感じる。要するにデザインとしては過剰もしくは無意味だし、芸術アートとしてはそれ独自で力がない。

デザインは美術(絵画)ではない、というような言い方は理解しやすい。美的快楽を自己目的化し、そのためにより循環的で複雑化することに制約のないデザイン。これがいわゆる芸術といわれるようなものなのかもしれない。それに比べてデザインは原則的に、あくまで機能という経済的制約によりフォルムは機能に沿ったものであり、シンプルであることを要求される。

デジタルコンテンツといわれるこれらの先端の領域では、道具的デザインと芸術的制作が交わりを見せつつある、というような意見がもしあるとしても、この経済原則が存在する限り交わることは考えられない。ただあるのは、ソフトウェアによって圧倒的な効率的でデザインを行うことが可能になりつつあることで、その制約の上限が低くなってきているのかもしれない。もしくは誘惑的ナビゲーションという考え方が、機能とは直接的に関わる必要をなくしてきていることがあるかもしれない。

受容

compilation - merzbow,f.x.randomiz,kid606,lesser,etc [ one word one sound ]
- 久々!randomiz。でも彼らしくない。
小林昌廣 『臨床する芸術学』