2002/03/

03/30

david lynch[ mulholland drive]を観る。

彼独特のシークエンスの断片化がより進んでいるという印象。個々のシークエンスがとても魅力的。かといってそれはカオスではない。結合がゆるやかになされていて全体的には有機的に見える印象。

前作とはうって変わって、再びリンチワールドへという観方はどうなのかわからない。どこかで最高傑作だとか書いていたけれど、確かに今までの要素が色々と出てきている。バダラメンティの安っぽいシンセオーケストレーションに低音のインダストリアルノイズが乗っかるサントラは気持ちがいい。

もう一度観たい。

受容

『web designing』
john fahey [ womblife ]

03/27

振る舞い、身体運動の形式性と類型(物語)性。

島田珠代という吉本新喜劇の女優が小堺一機のバラエティに出ていた。彼女は吉本でみせるのと変わらない大げさで最大公約数的な動きを見せていた。「最大公約数的な動き」というのが説明しにくい。彼女の動きを見ていると思い出すのは、同じ吉本では、新喜劇出身の藤井隆や、海原やすよ・ともこの太った姉の方だろうか。他にもいくらでもいて、TIMのゴルゴでも、コロッケの物まねでもいいだろう。別の言い方でいうと、演劇で見られるような過剰な身振りということになるだろうか。例えば白人がマスメディアに露出する際見せる振る舞いというのは、露出しなれていない素人でもこれと共通するものを見出すことができる。もっと分かりやすい例があった。営業マンのクライアントへの振る舞いなんかだ。

僕が何を言いたいのかというと、他者を徹底的に意識した身体表現の類型性を、島田などに象徴的に見ることができる、ということだ。彼らに一様に類似するのは、それが身体という制約された形式の点で類似しており、そこから繰り出される身体の各部位の運動の軌跡やパターンは類似してしまうということではないかと思う。「演劇で見られるような過剰な身振り」という言い方をしたけれど、似ているのは「過剰」なことという点にではなく、身体の可能な限りの運動領域を使おうとしているということ、その上で物理運動の法則に従った運動の自動性に従わざるを得ないこと(潔く従っていること)、それを利用した独特のタメを作り出していることだと思う。

白人のメディアで見られる露出の仕方の印象は一様に(事件の取材などでの一般人のコメントの仕方)作っているように見えるが、それどころではなく彼らは強固に作りこまねばならないと思っている。アメリカ人の、その友人や仕事仲間、そして自分自身へのコメントを聞くと歯の浮くような賛辞に終始するのをよく耳にする。これを僕は本当は思ってもないくせになどと思って、日本人が何を考えているのかよく分からない、というお前たちこそ表裏あるじゃん何考えてやがると思いたくなってしまう。でもおそらくこの理解は浅はかな文化的理解なのだろう。こうした言葉でのコメントだけでなく、身体の表現の仕方まで含めた情報の伝達ということを、彼らは自分の言葉(意志)を理解できない他者に向けて開発してきた伝統があるし、子供たちはそれを物心ついたときから教育されている、ということではないかと思う。

これらの振る舞いとは、全く理解できない宇宙人のような存在に、明確な意図を伝え、我々の間にはコミュニケーションが成立している、ということを積極的に示すこと。いかに分かりやすい親しみやすいなものにするか、ということに敏感であることがもたらした結果の身体表現の形の辿りついた類型性ではないかと思う。いいかえると恐怖に対するリスクマネージメントとして始まった生物的な判断ではなかっただろうか。

営業マンの接し方やハリウッドの映画で見られるコミュニケーションの仕方、ハリウッド映画の映画文法そのもの、が胡散臭い安易なもの大げさなものになっていって、見ていてイタイ気持ちになるからできるだけそれは避けようとしてしまう。けれど同時に島田や藤井、海原ともこなどの動きも、そういう感じねと覚めて見つつ僕は割りと好きだ。これらの振る舞いは形式の普遍性から逃れられない。またその類型性(物語性)が身体の制約と直接的な関係にあるとはいえないが、それは何かしらマンガだったり、人間の筆跡だったり、記号化のプロセスの非常に根本的なものを含んでいると思う。これについて面白い、ありきたりだと思ってしまうのは、物語の消費の問題ではないか?と思う。

受容

フレデリック・l・ショット 『 ニッポンマンガ論 』
池波正太郎 『 銀座日記 』
彼がいかに銀座という街が、食、酒が好きか、よく分かる。でも今は彼も当時の銀座も存在しない。
tortoise [ a digest compendium of the tortoise's world ]
トータスは今一つ好きになれないけれど、このリミックス盤はよいかも。
cymbals [ mr.noone special ]
シングルのいくつかの王道さかげん、ポップさかげんに弱い

03/23

節操のなさ。

節操とは「信念をかたく守って変えないこと」(広辞苑)となっている。例えば音響系あたりでいえば、ovalやnoto、池田亮司には節操がある。fenneszにはない。ということになるだろうか?beckやつんくもないだろう。山下達郎は節操をファンにも拡大し(押しつけ)ようとしている。

jim o'rourkeの音楽が「ユリイカ」あたりから断絶するくらい急変した。このことで、それを境にファン層が全く違ったものとなっているだろうことが予想できるだとか、佐々木敦がどこかで書いていた。実際その音楽を聞くと全くジャンル的な分類では違うものになる。聴けば単純にアルバム単位で好き嫌いが出てしまうのかもしれない。

オルークの姿勢を節操がないとはいえない。好きなことに忠実にやったということでは節操がある。それじゃあみんな節操があるという話になる。そうだよ。となると節操があるというのは、打ち出した方針がどうであろうが、パブリックに出した限りは、それを納得いく形で終えない限り、自分の中で納得いかない限り、やめないということを意味するんだろうか?

オルークって、緻密さと遊びが同居している。風貌だとかカエルや友沢ミミヨの抜けたジャケの力加減をみるとチャーミングだけれど、音の方ではポップな領域での仕事はそれほどキャリアはないはずなのに、たとえば去年新譜が日本でほぼ同時だった同世代のコーネリアスと比べると、明らかにソングライティングの力もあるし、アレンジの密度も高く、洗練もされていて(コーネリアスの新譜に入っていたシングルカットは素晴らしかったけれど、それ以外はいつもの調子)、風格さえ感じる。これはべた褒めということじゃなく、信頼できる職業音楽家というぐらいの意味。電子音楽、実験音楽の方面での仕事はというと、瞬発力と緻密な構成力と魅力的な荒削りさが同居している。

僕は、彼を見ていると細野晴臣を思い出す。でもオルークの方が実験的な領域を志向していて緻密で節操がきちんとあるといえる。細野は音楽王の名に恥じず節操という観念がないように見えポップそのもの。貪欲な猛毒のようなものだ。

受容

永井荷風 『 腕くらべ 』
古内東子 [ 大丈夫 ]
dennis bovell and the dub band [ audio active ]

03/12

webでの入門サイトの見分け方。

javascriptをwebの入門サイトで独習中。今だ輪郭を掴めていない。まともなサイトがないということにも原因はある。htmlやcssには少ないながらも良質のサイトがあった。今回もhtml同様かなりのサイトを探したけれど、これというものがない。htmlがいわばこれからのコンピュータ時代の読み書き能力の基本のようなものであるのに比べ、腐ってもプログラミング言語ということもあって少しは難しく間口が狭いのか、きちんと教えようという気概のあるボランティア(もしくは趣味)のサイトも少ないのかもしれない。

僕は今のところ金を払って教則本などを買おうということをしていない。本屋に行くのが面倒くさくて膨大にある関連本を選ぶのに立ち読みする気力がないから。比べて入門webサイトでは見つけたのならいくらでもタダ同然で手元に置いて試すことができるし、webサイトなら本を横において本が閉じてしまったり、項を繰る気を使う必要がない。

僕が求める入門サイトへの要求は以下の通り。

  • 網羅的であること
  • 他者(初心者)を想定した教え方(インストラクション)であること
  • (初心者を相手にしているからといって、)安易でなく根本的・原理的であろうとすること
  • (知識を血肉化するための)有機的な演習を数多く用意していること、等。。。

チェックする項目は次のようになる。

  • 膨大な内容(ページ)を持っているか
  • 正しいhtmlを意識的に書こうとしているか
  • デザインに一貫性を感じるか
  • tips集やサンプル集を主な内容にしていないか、等。。。

「帯に短し襷に〜」というものが多いのは仕方がない。これは僕という個人の望みからいつもずれてしまう既製品に関する不満と同じだから。よっていかにうまく複数を選択するかになる。その総体が僕にとっての教科書となる。webの場合すぐにアクセスできるため、コンピュータ内に自分用のスクラップブックを持っていることと同じになる。

コンピュータを初めて買って、マニュアルを読みたくとも既に知っている人間でないと理解できない仕方でしか書かれていない、という状況が多いのは、著者がいかに学ぶ者が何を分からないのか、それを克服するために必要な方法は何か?について意識的でないからだと思う。「サルでも分かる〜」類を欲している初心者の気持ちはよく分かるし、そんな本あればと常に思うけれど、実際その手の本は学び終わるまでの座右の書にはなり得ないものが多い。学ぶことは難しいのに決まっている。けれどそれはモチベーションによって、サスペンスへと変わり得る。語り方の問題は、その意味で切実に重要となる。

後、冒頭で「原因は」と言ったように自分にも問題はかなりある。まず自分の作りたいものを作るというモチベーションはhtmlとcssを学ぶ領域である程度満足できている。これ以降の興味はphotoshop、illustlatorを用いた画像処理を加えたデザインでの領域になってくる。始める前からうすうす思っていたのだけれど、javascriptは今の僕個人のサイトにはほとんど使い道がなさそうだ。それでもやってるのは、自分のサイトを作るだけの目的ではないから。入門サイトの多くが膨大なサンプルを置いている。その中身はインタラクティブ性や動的性質をwebに与えるものだが、これらはフォームを用いた情報の送受信に関係することではじめてjavascriptの重要な用途になると思われる。サンプルの多くは単に趣味として自分のページを装飾する手段でしかないように見える。僕にはこれらはほとんどガラクタにしか思えない。

全体を俯瞰できる初心者を終えた状況で、この言語を使ってどう面白いことができるのか?また従来どおりの使い方をするとして、どう工夫すれば自分が面白がれるのか?早くその位置までやる気が失せる前に行かなくては。

受容

フランツ・カフカ 『全集3』
daryl ann [ happy traum ]

03/04

松岡正剛氏の編集学校というインターネット講座を受講し始めた。

編集といっても本の編集をのみ意味するのではなくて、人間の行為すべてを対象としたものだ。つまり編集とは行為する時に見られる脳の動きを制御することだと言ってもいいかもしれない。このwebの関心にもかなりつながっている。そもそも松岡氏は僕の恩師である吉岡先生と面識があって、二人は共通した関心を扱ってもいる。先生の影響下にある僕にはなじみやすい。

この学校では、日常的な事柄を用いた創造性を引き出す訓練を行うよう。例えば自分の部屋の中に何があるのか?を部屋の中身を見ずに行うという宿題、部屋の中で笑えるものは何か?好きな人に見せるのは何か?などなど、考えることのないようなものを意識化し、それを即興的に表現していくことで自動筆記の状態を生み出させ、またその結果を意識化してその結果から別のパラメータに変更することでどう結果が出てくるか?。。。。という地道な訓練を循環を行っていくのだと思う。その意味ではスポーツのトレーニングとやっていることは同じだ。ただそれは肉体を使用しないという違いがあるけれど。

意識の動きについて意識化を徹底させることは現象学のやってきたことであるけれど、その方法論を具体的に利用して、行為をそれが前提している手法のパターンの表現であると理解するように持っていく。脳の動きを見つめる意識の動きを制御できるようになると、次には普段行っている行為とは違うものを生み出すためには、どのような別の手法を用いることが必要なのか?という領域へ向かうのではないか?と思う。それが創発へつながるのではないかということだろう。

受容

松岡正剛 『知の編集術』
the high llamas [ snowbug ][ hawaii ]