2002/05/

05/24

音楽の聴取の仕方

が最近少し変わってきて、音量を極力聞こえないくらいまで落とすようにして聴くようにしている。こうなると同じ曲でも今までの音量で聞いていた印象とは変わってしまう。時折聞こえてくる音に耳がなんとなく反応しているというような感じ。こういうのをアンビエント・ミュージックとでもいうのだろうか。もしくはバーナード・ギュンターなどの微音系のようなコンセプトに共鳴しているのだろうか?なんとなしに違うように思う。そこにそこはかとなくたまに聞こえる録音された楽音に耳は非常な集中をしている。その態勢は、普段聴いている音量での印象を復元しようというものではない。聞こえてくる音というのは、ほんの一握りの高音や低音で、それらは何らかの反復を持っている。音楽というものが反復からなっているのか?それともたまたま主流なのがそうであるからだけなのか?は分からないけれど、ひたひたと聞こえてくる楽音にあきらかにグルーヴを感じ、僕はそれを楽しんでいる。単なるアンビエント・ミュージックへの傾倒ではないと思う理由はここにある。僕はいわばダンスミュージックを聴いているのと同じで踊りたいわけではないけれど、気持ちはひっそりとけれど昂揚している。この体験は耳を変えてくれるような気もする。傘に当たる雨音とそれらの競演も楽しい。かといって交じり合いつつ、分離しつつという変な具合で、それは意識のフォーカスが対象の地と図の区別の判断に混乱しているからなのかもしれない。

受容

いろんな音源

05/16

眉毛の変遷と同一性の継起

彼女が世間的にはいい女の一人として言われているのは知っているが、とりあえず飯島直子の顔はどうしても許せない。後、彼女が癒し系だとか言われるのにも納得がいかない。バブル時代彼女はレースクイーンをやっていたようで、もんのすごい水着を着たフェロモン系イケイケギャル(死語だな)だったはずで、今でも昔ほどでなくなったけれど依然挑発系であるはず。どうしてその反対ともいえるような癒し系になるんだろう?という疑問は拭えない。

と個人攻撃に走ってしまったけれど、ここでいいたいのは、彼女の眉毛が象徴しているものについて。当時のメイクって眉毛をどれだけ濃く見せるか?とかファンデーションをいかに人工的に塗ってますといような仕方にするとか、頬紅を派手にするだとか、ということが標準規格だったと思う(詳しくは分からないので、当時のことを覚えている女性の方具体的な解説してください)。その反動でか少し前まで極端な細い眉毛が幅を利かせていた。

かつてよく知った、ある人の、ある道具の、ある組織の・・・、僕はある対象の以前の姿を思い浮かべようとすると、昔そうであったものとして想起することができない。たとえば僕は小さい頃から祖母や叔父の顔を見慣れてきているけれど、20年前の叔父の顔は現在の顔としてしか思い出せない。つまりこれは思い出せていない。現在見慣れている顔というものを元に記憶は過去のものまで更新してしまっている。会社などでのある人間の指揮下で組織されていた体制も、彼が去った後別の体制で継続されていくが、その状況も当初は混乱を招き昔の方がよかったと愚痴をこぼしたりするが、一年も経てば現状に適応し過去の体制を想起できなくなる、もしくは現在の体制を過去の体制に当てはめてしまう。

味や印象というような形に残らない記憶については、よりその傾向が強いのだろうか。美味いと思っていた味は、言葉として継続される。僕が思っていた「美味い味」「良い曲」がその面影を残しつつそれほどのものではないものに変貌していることに呆然とする。僕が見なしたこの評価は一体なんだったのか?単にと切り捨てるには恐ろしいけれど、僕も店の味も、それらを取り巻くコンテクストも刻々と変化していく、ということなのだろうか。

そうしたことを強引に思い出させてくれる一番強力なものは、写真だろう。叔父の顔が現在をどれだけ変わっているかを写真はまざまざと教えてくれる(いや祖母はそうだけれど、叔父はあまり変わっていなかった)。このようなことを飯島直子の眉毛は写真の存在抜きにしかと実感させてくれる。他のバブル時代を活躍した女優は卒なく適応してしまい何気ないそぶりを見せている。もちろん飯島も適応し得ていると安堵しているのだろう。けれど、僕には当時のメイクで書かれた人工的な眉ではなく、彼女の自前の毛虫が乗っかっているかのようなものすごい眉毛を彼女を見るたびに思い出す。

受容

andreas berthling [ tiny little white ones ]
あたり
francois de roubaix [ le plus belles musiques de films de francois de roubaix vol.2 ]

05/06

だんだんこのwebのデザインが当り障りなくなってゆく。

実際シンプルなのは飽きがこないし、白orパステル系小フォントのサイトが蔓延するのも無理がないと擁護したくもなる。ただしtable要素で全て括る飛び道具と画像フォントを禁じ手にし、メモ帳でhtml4.01strictとcss2に則ってやるという制約を付けたのが違うところで、これらだけでも、それっぽいところまで近づくことができそうだ。

後はflashでも導入して、動きバンバン入りまくりのページになれば、この方向での目的は達成されるのだろうか。flashもjavascriptもスクリプトをある程度書けるところまで行くつもりだけれど、その使い方は極力簡素で地味な枯淡の境地を目指したい。

今は地味なjsの使い方を探すべくサーフィンしているという状況で、ふと思い浮かべるのはたとえばhtmlのみのサイトでは、リンクから飛ぼうとするとき画面が切り替わる様がぎこちないというようなこと。これを是正するために利用できないかと考えている。「パッ」ではなくて「サラッ」てページが動くというしたい。サイトの動きに静けさと優雅さを出すように使えればいいなと思う。

個人サイトって、スピードとフレキシブルさ、気軽さが大事かな思う。自分がしようと思うことを素早く実現できるメディアという持ち味こそ個人webをやる意味がある。どれだけサクッと訪問者を苛立たせずにそして飽きずに通いたくさせるか?というようなユーザビリティも派手で目を引く動きもあるデザインも訪問者のことを考えている点では同じだと思う。もちろんそれは必要なことで、サイトの利用方法をどう考えているかによって、この度合いは決まるだろう。今のところ、僕は自分のしたい気持ちを大事にした方がいいと思う。サイト作りが本来の目的にとって変わられるという「ミイラ捕りが〜」にはなりたくない。でもそれらを分離できるかどうかというくらい微妙な問題がここにある。

受容

rei harakami [ glim glim ]
1日中ループ。他の曲がよくないのとこれだけいいから。
pasolini [ il vangelo secondo matteo ]

05/04

食べることの風景について。

池波正太郎の小説や随筆を好んで読むのは、食べることに関する記述が楽しいから。彼はいくつもの食べ物に関する随筆を残しているし、小説では食べることに関する記述が頻繁に出てくる。

「銀座日記」「食卓の情景」などではどこそこが美味かった、という記述がおびただしく出てくる。けれどそれだけでなくたとえば茶漬けで四杯食べただとか、いう風にどれだけ食べたということも書かれてあって面白い。味にのみ関心がある人は普通量についていうことはないのではないかだろうか。それは恐らくいやしいと考えられているからだと思う(僕にもそういう傾向がある)。だからか読んでいて彼が食通であるという印象を受けはしない。彼は食べることの喜びと生活が結びつく領域として食に大きな関心があったのではないか?と僕は思っている。

中嶋らもが蕎麦ついてのエッセイで内田百閧竰r波正太郎について書いていたりする。その内田には『御馳走帖』という随筆ある(彼の「サラサーテの盤」を原作にした鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』には、食に関する情景であふれている)。僕自身食べることに対してそれほどの関心がないけれど、恐らく食の風景というものに強く関心があるのだ。

昔いろんな映画のビデオからダビングした、食事の風景のシーンばかりを集めたビデオテープというのを作ったことがある。たとえば子供が嫌気をさしながら、一人で寂しく豆入りスープをすする東欧の映画のワンシーンなんかでもいいのだけれど、食事のシーンというのは登場人物の何気ない日常がそこに表れていること、またそれがより食事をおいしそうに思わせること、などいつも強く僕の心を引くし、美しいと思わせる。

受容

sly and the family stone [ fresh ]