ゴダール [ 愛の世紀 ]を観る。
相変わらず、ゴダールに関してはほめ言葉しか出てこないのだろうか。販促用のチラシには、昔からのゴダール好きが相(愛)も変わらずゴダールを神(紙)のように扱う。圧倒的多数にはゴダールなんて存在しないはずなのに。帰りに小料理屋により、どんな映画を観てきたの?」と質問されて、「ゴダールを観てきました」と答えるも、当然というか「?」だった。一応説明として「恐らく前世紀で最も重要な監督5人の中に入ると思う」と答えた。言いながらふとおかしくなったのは、それだけ重要な監督がスピルバーグに比べて全く知られてなさそうこと。彼が第一線を離れた人間だということではなく(いや実際米朝師みたいなもんだというのが正確だとも思う)、いかに映画も有名であること売れることがその価値と結びついているとみなされてしまいそうになるか、ということだろう。例えばスピルバーグの名がもう20年して語られるだろうか?ところで僕が談志だとものの5分で席を立つような所なのに、2回も観てしまった。どうして?分からなければ、それでいて気になるのであれば、分かるまで観ればいい、ということか(2回くらいでは中途半端すぎるけれど)。淀川長治さんは10回観なさいって言ってたっけ。
2回目は、物語の筋を頭に入れて映画館に入った。鈴木清順の映画では要素の配置が、非常に編集的に行われている。初期では時系列について行われていたものが、別のパラメータ(物語や映像の空間的時間的系列)に関しても行われ、[ 大正時代3部作 ]のような説話論的構造(いわゆる蓮実重彦の散々言ってきた言葉だけれど、映画で観ることのできるすべての対象の中から、登場人物の行為のみを抽出したものの言葉による説明、くらいの意味でいいと思う)の理解に関してカオスのごとき作品群が成立している。ゴダールの映画は、それらのように物語は破綻していないと思う。たとえば筋をきちんと読んで映画を観ると、物語の筋の理解から逸脱してしまうようなシークエンスは存在していないから。そこにあるのは、フランス人の対話あり方、感情の表し方、の定型のようなものが理解できていないこと(これはヨーロッパ映画だけでなく、日本映画以外の外国映画を観て例外なく思う共感できない部分の存在)、会話や映像で断片化されて提示される膨大な省察や引用、字幕が追いつけない、もしくはひとつの字幕で処理できない重層する台詞、ぶつ切れし非連携で侵入し立ち切れる映像や音の組み合わせなどで、これらが映画の直感的な感情的な理解という性質を相対化(猛烈な眠気を起こす)させているのかもしれない。
物語のもつある側面とは、人が理解するための情報のフォーマットであり、それは徹底して洗練化(磨耗化、類型化)の運動を経る。たとえばその最も典型的なものは、購買層を広範囲に設定した商業広告や、政治家の選挙ポスターのようなものだ。表面的に毒がなく、無難であり、理解を妨げるようなものでないこと、常識的だと見なされているものとしてみることができる。けれどこれはもとからそうであるのではなく、時間をかけて成立していった膨大な上書きを重ねた複雑な代物である。また物語とは語りのパターンのバリエーションの総称でもあり、新たな物語とは、既存にない組み合わせが提出されたということだと思う。映画にとっての物語とは、上で言った説話論的な構造をのみ指すのではなく、様々な映画を形成している要素の形態であり、その組み合わせが映画の物語のパターンを決定付けている。新たな物語のパターンが出てくれば、それは散々複製され、大量配布され、拡散し、それをもとに類似品粗悪品が作られ類型化する。優れたものかどうか分からないが、確実にあるパターンが残る。
映画を、説話論的な構造、いわゆる言語的な物語であると見なしてしまうのは、我々が言語的な物語にどっぷり浸かってきたからで、ゴダールはそれを意識的に、それだけでなく例えば映画を単に映像と音の組み合わせであると再定義し、それらの組み合わせを物語と見なし、そこから遡って下部要素を組み合わせ、編集し、制作してきた、と言われる。僕は、いわゆる主人公なるものの恋愛の進展や、彼の仕事が上手く行かないことに感情移入することと同時に、この説話論的な構造がいかなる未知の組み合わせとして提出されようとしているのかに対しても感情移入することができる。けれども僕は、ハリウッド映画的な説話論的な物語にのみ主眼を置いた映画にも依然欲望するし、それを引き継いで100年の寿命の半分ほどをやってきて今だその方向も健在なわけで、実際そこに映っている俳優の美しい姿を見れば、それ以外膨大に存在する魅力的な感情移入できる要素がある、ということに気づくことすら難しい。けれど新しいメディアの制作者は、既に説話論的な構造をのみを物語として扱うことをしないだろう。けれどそうした手つきというのは、ゴダールが一般化したことを意味すると思う。そしてそれを受容することからはじめる者達は、僕たちとは違う物語の受容の仕方をする。
受容
- kit clayton [ nek sanalet ]
- bill evans[ solo ]
- moisqe [ life control ]