2002/06/

06/28

ゴダール [ 愛の世紀 ]を観る。

相変わらず、ゴダールに関してはほめ言葉しか出てこないのだろうか。販促用のチラシには、昔からのゴダール好きが相(愛)も変わらずゴダールを神(紙)のように扱う。圧倒的多数にはゴダールなんて存在しないはずなのに。帰りに小料理屋により、どんな映画を観てきたの?」と質問されて、「ゴダールを観てきました」と答えるも、当然というか「?」だった。一応説明として「恐らく前世紀で最も重要な監督5人の中に入ると思う」と答えた。言いながらふとおかしくなったのは、それだけ重要な監督がスピルバーグに比べて全く知られてなさそうこと。彼が第一線を離れた人間だということではなく(いや実際米朝師みたいなもんだというのが正確だとも思う)、いかに映画も有名であること売れることがその価値と結びついているとみなされてしまいそうになるか、ということだろう。例えばスピルバーグの名がもう20年して語られるだろうか?ところで僕が談志だとものの5分で席を立つような所なのに、2回も観てしまった。どうして?分からなければ、それでいて気になるのであれば、分かるまで観ればいい、ということか(2回くらいでは中途半端すぎるけれど)。淀川長治さんは10回観なさいって言ってたっけ。

2回目は、物語の筋を頭に入れて映画館に入った。鈴木清順の映画では要素の配置が、非常に編集的に行われている。初期では時系列について行われていたものが、別のパラメータ(物語や映像の空間的時間的系列)に関しても行われ、[ 大正時代3部作 ]のような説話論的構造(いわゆる蓮実重彦の散々言ってきた言葉だけれど、映画で観ることのできるすべての対象の中から、登場人物の行為のみを抽出したものの言葉による説明、くらいの意味でいいと思う)の理解に関してカオスのごとき作品群が成立している。ゴダールの映画は、それらのように物語は破綻していないと思う。たとえば筋をきちんと読んで映画を観ると、物語の筋の理解から逸脱してしまうようなシークエンスは存在していないから。そこにあるのは、フランス人の対話あり方、感情の表し方、の定型のようなものが理解できていないこと(これはヨーロッパ映画だけでなく、日本映画以外の外国映画を観て例外なく思う共感できない部分の存在)、会話や映像で断片化されて提示される膨大な省察や引用、字幕が追いつけない、もしくはひとつの字幕で処理できない重層する台詞、ぶつ切れし非連携で侵入し立ち切れる映像や音の組み合わせなどで、これらが映画の直感的な感情的な理解という性質を相対化(猛烈な眠気を起こす)させているのかもしれない。

物語のもつある側面とは、人が理解するための情報のフォーマットであり、それは徹底して洗練化(磨耗化、類型化)の運動を経る。たとえばその最も典型的なものは、購買層を広範囲に設定した商業広告や、政治家の選挙ポスターのようなものだ。表面的に毒がなく、無難であり、理解を妨げるようなものでないこと、常識的だと見なされているものとしてみることができる。けれどこれはもとからそうであるのではなく、時間をかけて成立していった膨大な上書きを重ねた複雑な代物である。また物語とは語りのパターンのバリエーションの総称でもあり、新たな物語とは、既存にない組み合わせが提出されたということだと思う。映画にとっての物語とは、上で言った説話論的な構造をのみ指すのではなく、様々な映画を形成している要素の形態であり、その組み合わせが映画の物語のパターンを決定付けている。新たな物語のパターンが出てくれば、それは散々複製され、大量配布され、拡散し、それをもとに類似品粗悪品が作られ類型化する。優れたものかどうか分からないが、確実にあるパターンが残る。

映画を、説話論的な構造、いわゆる言語的な物語であると見なしてしまうのは、我々が言語的な物語にどっぷり浸かってきたからで、ゴダールはそれを意識的に、それだけでなく例えば映画を単に映像と音の組み合わせであると再定義し、それらの組み合わせを物語と見なし、そこから遡って下部要素を組み合わせ、編集し、制作してきた、と言われる。僕は、いわゆる主人公なるものの恋愛の進展や、彼の仕事が上手く行かないことに感情移入することと同時に、この説話論的な構造がいかなる未知の組み合わせとして提出されようとしているのかに対しても感情移入することができる。けれども僕は、ハリウッド映画的な説話論的な物語にのみ主眼を置いた映画にも依然欲望するし、それを引き継いで100年の寿命の半分ほどをやってきて今だその方向も健在なわけで、実際そこに映っている俳優の美しい姿を見れば、それ以外膨大に存在する魅力的な感情移入できる要素がある、ということに気づくことすら難しい。けれど新しいメディアの制作者は、既に説話論的な構造をのみを物語として扱うことをしないだろう。けれどそうした手つきというのは、ゴダールが一般化したことを意味すると思う。そしてそれを受容することからはじめる者達は、僕たちとは違う物語の受容の仕方をする。

受容

kit clayton [ nek sanalet ]
bill evans[ solo ]
moisqe [ life control ]

06/21

友人に[ どんなものでも君にかないやしない 岡村靖幸トリビュート ]を借りる。

いい。なんか皆自分なりの崩し方、咀嚼の仕方をしている。ライブに行ってアルバムのまんま再現するのって多いけれど、僕はそういうのにはほとんど嫌悪すら感じる。同じ曲に全く違った新しい出会いをさせて欲しい、と思う。これと同じでカバーするにも変えないながら変えて欲しい。くるり、harco、flex life、イルリメ、直江政広、朝日美穂は気に入った。

岡村ちゃんが、天才かどうかは別にしても、彼は芸術家という人種の典型だと僕は思っている。思い強すぎ。痛すぎ。言葉面白すぎ、来すぎ。Jラッパーは、日本人の格好のお手本があることを理解せよ。音魅力的すぎ。

僕は、彼の音楽がほんとに独学で既存の音楽の物語文法を吸収していく経過に魅力を感じていた。今ではDJが当たり前にするサンプルの強引な並置による新鮮なコードを作り出すようなことも、彼は演奏のレベルで(図らずも)行っていたし、既存の物語(コード)文法を自分なりの記憶を頼りに様々にごった煮の要素を持ち込んで再構築する感じだとか(様々な非軽音楽的な、非バンド的な要素、ヴァイブだとか、子供のコーラスだとか、ミュートトランペットだとか、ティンパニだとか、マーチだとか、ルンバだとか)、結果的に思いきりずれることになってそうした文法自体の批評になってしまっていることだとか。僕の耳には耳慣れた響きを垣間見る気持ちよさと、それが崩されている気持ち悪さが同居する。自分でマックを使うようになってから、どんどんデブくなってオスカルパーマになって孤独なマニュピレートをするようになって、音がショボくなるかわりに、そのような音色や細部へのこだわりのなさや機械を使っていることが何の負い目にならない、複雑なアンサンブルやグルーブをもたらしているし、全然クラブ系でもゲームMIDI系でもない脳系とも言えそうな無茶でモデルがないような思いこみだけによる使い方をしてるし。音楽への肉体的で愚鈍で経験主義的で猛毒のように過剰なアプローチの仕方は音楽王、細野晴臣のテイストと似ているところもある。

岡村ちゃんの音楽って、僕にとって僕の考える音響系の定義とかなり重なるところがある。最近ではパラダイス・ガレージに感じたようなことだけれど。音の良さだとか木目が揃っていることだとか、商売のルートが安定していることだとか、音楽とは密接に関係するけれど、それは音とは関係ない。僕は音を楽しみたい。「たどたどしく弾こうが、流麗なアレンジを施したシンセバージョンだろうが、「戦メリ」の美しさは変わらない」というようなことを坂本龍一がどこかで言った。既存の音楽産業はよりノイズレスで効率的に耳もしくは脳に直接届けよう発達していったのだけれど、僕が最近ずっと関心があるのは、たどたどしくピアノを弾く、というような仕方で聴いたり作ったりする音楽の方だ。

受容

jean-luc godard [ eloge de l'amour ]
[ どんなものでも君にかないやしない 岡村靖幸トリビュート ]

06/14

高橋悠治のイベントを逃がして悔しい。

ミスプリントをしてそのままにしていた精華大が悪い。書いていて腹が立ってきた。13日に終わったというんだもの。ということで、振り上げた拳の行き所を探し、神戸へ。

神戸で、サンパル近くのラーメン屋[ 風火山 ]を試す。どうでもよくてさっさと席を立ち、そのままアサヒシネマで15日からはじまるゴダールの新作の前売りを買ってしまう。その足で灘に新しくできた県立美術館の特別展を観る。赤瀬川源平、ドガなどが記憶に残る。ドガはかなりすきかもしれない。安藤忠雄が設計した美術館そのものも鑑賞対象となる。西洋の美術館と比べてしまうのは、明らかにこれまで美術館と思っていたものが、どうも小さくて、貧相で、取って付けた感じ、がすると思い知らされたからだ。安藤の設計は一体どこまで入りこんでいるのだろう。

ふたたび神戸へ戻り、喫茶店でケーキを頬張りながらウーロンチャイなる飲み物をすすり、河本英夫を少し読み、疲れが一段落してから、ヴァージン・メガストアへ

cfなどで10秒ほどの間だけ耳に入る音楽にひどく魅入られることがある。実際探して聴いてみると、がっかりしたり悪くないけれど思ったほどでもない、ということがままある。これはどうしたことだろう、と思う。おそらく鳴っている音の構成が、自分の聴きたい音を誘発し、脳内で勝手にイメージを構築してしまうのかもしれない。そこで鳴っている音は既存の音を利用して、ずらし、とばし、強調し、ひずませ、というような様々な編集を加えられている。もしかすると音楽を聴きつづけるという行為は、こうしたイメージの天国である脳内音楽を聞くためのガイドとしてあるのかもしれない、なんて観念論を吐きたくなる。

ヴァージンで買ったオレンジ・ペコーをcfで聴いた時の嬉しさったらなかったのだけれど、実際きちんと聴くと非常に手の込んだ打ち込み風ビッグバンドアレンジの聴きなれた音楽だった。ただし、アレンジャーの長岡成貢のストリングスアレンジはすさまじい。

受容

orange pekoe [ happy valley ]
bernhard gunter [ jeph jerman, buddha with the sun face/ buddha with the moon face ]
bill evans [ alone ]
chet baker [ sings ]
john of arc [ the gap ]
パラダイス・ガレージ best [ かっこいいということはなんてかっこいいんだろう ]

06/07

[ piano, strings & editing ]

ハラカミ・レイの音楽を聴いていると、安直に上のようなキーワードで音楽を作ってみようという気になる。彼の音楽は非常にシンプルな素材からなっているように聞こえる。エレピ、ピアノ、ストリングス、その逆回転、ドラミング。鍵盤のついたシンセサイザーにデフォルトで入っているような音色を、手でパラパラって弾いたり、打ち込んだりしたものを波形編集によって、潰しながら再構築していく。なんかそういう印象がある。何枚かのアルバムを聴いたことになると思うのだけれど、そこで技術的な洗練はありながら素材だとか方法論というものはほとんど変わっていないように思える。

彼の音楽を聴いていると、john of arcを思い出す。これはリズムに関する聞こえの印象が似ているのからかもしれない。原神の音楽をはじめて聴いたのは京都のクラブでだったけれど、その時は音響というか波形編集を通過してはいるけれど、しっかりビートを4つに刻んでもいるテクノという感じだった。でも元々彼のリズムへの志向は定常的で反復的なものではないのかもしれない。[ glim glim ]だとかで聴くことのできるドラミングは、邦楽でいう合いの手のようにしか聞こえない。john of arcも本当にそう。oasisと同じ4ピースのロックバンド、と括るのはあまり意味がないんじゃないか?むしろ原神と括った方が腑に落ちる。

深いリバーブの効いたエレピ、シミュレーションされたアナログ系の音色、逆回転された音色のピッチシフトによる小気味よい暫時的な変化、音響系とは違ってノイズのないすかすかしたクリアな音空間、夏の夜に一人(車で?)散歩するにはぴったり。

受容

久保晃弘編[ post techno(logy) music ]
jim o'rourke[ insignificance ][ initial gesture protraction ]

06/01

セルフカット。

適当にすき鋏でざくざく鋏を髪に入れていく。すき鋏だと適当にやっても失敗はしにくい。ただし元の一番長い部分の長さは保たれることになるので、「髪を整えて元の姿を維持する」ということにはならない。もちろんこの長いところも、数回かすき鋏が入れられることで切られる確率は十分ある。けれどもそれをすり抜けた元の一番長いところが残る確率も同様にあり、それを切らないとどんどん長くなっていく。あえてリスクを犯してもいいやと思えるほど綿密な計画を立てて実行するのも面白いのだけれど、もう少し上手くなってから。

受容

therre thaemlitz [ love for sale ]
marcos valle [ the essential marcos valle ]
梅田 [ 瓢亭 ]