2002/07/

07/20

西洋的なるもの、日本的なるもの。

こういう言い方をすると、日本的なるものなんて言い方は幻想だ、と反論する人間が確実にいる。たとえば日本人として特定できる民族学的な明確な区別というものをしようとしても、様々な血が混じりこみ、これが日本人といわれるような標準さえ特定できないではないか、というようなものだとか、日本文化といわれるもののルーツ自身のほとんどがそもそも外国からきたもので、独自のものはないだとか、西洋文化を明治に輸入してから日本的な同一性などというものは消滅してしまった、というものだとか。実際の所今挙げたようなことはおそらく正しいのだと思う。日本的なるものを確定する根拠というものは、おそらくの所存在しない、もしくは規定しえない。ただし、だからといって「これって日本的なものだよね」と思う感覚を嘘だといいきることはできない。根拠がないからといって、対象を定義付けるような特徴が存在しないことは意味しないだろう。対象をシステムとして見なす視点、つまり観察者としての僕が認めうる他のものとは区分けして切り出されてくる対象があるようにしか思えない感覚、というのは正確でなくとも、リアルであると思う。

現代的な西洋のデザインとして、他と区別して言えるよう明確なものがあると思う。そのキーワードを言い切ってみたいのだけれど、ふと悩んでしまう。たとえば単純に[ modernity ]というのは、抽象的で直感的でない。その言葉を共有していない他人には無意味だろう。もう少し具体的な言葉がないか?と少し考えてみる。けれどすぐに思いつかない。いくつかキーワードを羅列してみる。アルファベット的、建築的、幾何学的、効率的、等。ここに西洋的デザインの色使いに関する言葉を入れたかったのだけれど、それらを言葉にできなかった。日本的な色使い、中国的な色使い、というものがあるのと同じように、西洋的な色使いというものがあるように思える。比較的ビビッドな色のコントラストを用いている、という印象があるけれど、それは空間的な情報の配置と関係していて、単に色の特徴だけでは言えない。無駄ともいわれるような、情報とは関係ない余白の存在、情報とその余白の空間との幾何学的な配置。

いろいろ書いてみても「スカした」「スッとした」という安易な言葉しか浮んでこない。書きながら白人(いくつかの民族がありつつこれで括ってしまうけれど)の典型的な姿形が浮かんでくる。前後に広がるコンパクトな頭の形(日本人はクマと一緒で横広がり的、もしくは顔面に頭がついている、という印象があるけれど、白人は頭に顔がついているという印象がある)、通る鼻筋、彫りの深い立体的ですっきりとした顔立ち、そうした造作から繰り出される、様々な表情、笑い、怒り、話振り、スーツのよく似合う足が長く立体的な全身(というか彼ら自身の体型に合わせて作られた服がスーツだ)。音楽を聞いてもそうだ。メロコアだろうが、音響だろうが、ハウスだろうが全てがスッとしている、スカしている、ように思えてきた。これはおそらく思いこみであるのは分かっている。逆にキーワードが先にあるのかもしれない。西洋的な視覚表現のデザインを模倣した日本のデザインは数多くあるのだけれど、それらがどこかスッとしていないのは、アルファベットを使っていないから、だとか、どうも日本のロックがスカしていないのは、音の構成が演歌的なるねばねばしたものを含んでいるからだとか。

こうして延々書いていることは、西洋的なるものへの憧れと日本的なるものへの憎悪を表現している、というわけではなくて、なんか美しい顔の基準だとか、服の着かたの基準だとか、面白い音楽の基準だとか、なんか西洋的なものは日本でそろそろ相対化されつつあるんじゃない?そしてそれは西洋が世界を牛耳ってだいぶんなるけれど、はじめてのことなんじゃない?という印象が僕の中にあるということだ。去年行ったフランスやイタリア、ドイツで見かけた若い子達の服装は、多くが「スッとしたコンサバティブな服装」(たとえばジージャンにモノトーンのパンツを合わせて足の長さが強調されたスタイルを向こうの女の子はよくしていた)をしていたのを覚えている。このwebで以前そのことを書いたけれど、比べて日本の若い子の服装というのは、ユニセックスでしかもパンツのラインにしても、洋服の持つパンツのオリジナルのラインの美しさを相対化した(汚い服の着方、ラインの意味を無化させた着方)別の意味を生じさせているし、ごちゃごちゃとしたかなり複雑性を持つ服の着方をしている。日本人を逆に持ち上げるということではなく、なんか欲望して行った複製が別の対象を生み出して、それが受容されている場を目撃しているんではないか?という感じだろうか。

よくファッション誌とかのインタヴューで外国のデザイナーがいうのは、東京の子は非常に綺麗に服を着る、ということだけれど、これはほめ言葉というよりも、まだ優越感の表明であると思う。もちろん彼はそうしたことを意識的に語っている訳ではないと思う。僕がそうした記事を読むと思うのは、彼らの文化的な歴史性を背景にした新しいエッジあるものを作り出すスタンスの余裕さ、優雅さ、というものだ。音響系のような音楽を作り出す彼らにはクラッシックと電子楽器を生み出したアカデミズムから派生したポピュラリティを感じるし、街そのもののデザインが、自分達で洗練させてきた石の建築からの遺産を引き継ぎ、モダニティ建築に移行し、それを自然なものとして受容してきた歴史がある。インフラ(形式的)レベルでの定着のもたらす余裕さの中で作り出された服を当たり前のものとして受容し、なおかつそれを意識的に楽しみ、作っている西洋のデザイナーのこの発言は、東京の子達の服装をいわば、面白いけどまだまだ気負いすぎだね、ってことを言いたいんだと思った。そしてこれは日本の若いエッジのあるデザイナー達がまだ、自分の一代で頑張ったところで、10回に1回いい線まで肉薄できるにすぎない状況みたいなもんだろうな、じいちゃんやそのじいちゃんもっと先までの彼らの作り出した土俵でやるかぎり嫉妬は続くんだろうと思った。

流行という呪縛で服を着なければならない、という強迫観念があると思う。ヨーロッパで滞在した時にある種の安堵感を感じた。それは日常という基本的な態勢から抜け出したことがもたらしたのだと思うけれど、こうしたモードのもたらす強迫観念が日本に比べると希薄だと感じたからかもしれない。けれど、それは別の事態をも意味すると思う。おそらく日本は西洋を複製し、作り変え、新たな意味を付加させて受容するというスタイルのモデルを提出している。それは日本というよりは、日本的なものだ。これがもう100年もすれば、そうした受容の歴史を持つ国として歴史に残ることになるだろう。前世紀の情報の遠隔高速輸送によって可能になった受容がもたらした全く異なる文化のハイブリッドをもたらした珍しい例なのだから。アルファベットという視覚的記号を単に意味をもたらすありふれた形態として受容する共同体と、そこに内容的な意味よりもまず形態にかっこよさ、エッジ感という意味を混めるところから受容の体験をはじめ、空虚なその記号を第2の(いや第?番目の)補助記号として機能させ(もしくは機能停止させて保持のみし)、より複雑な記号的体系を生じさせる共同体の違いがここにある。日本がその登録商標となるのではなく、単にその分かりやすいモデルとなるだろう、ということだ。日本的というのは、その意味ではモダニズムという言葉の使われ方に近い。

受容

ビートたけし「仁義なき映画論」
chari chari [ spring to summer ]
iannis xenakis [ persepolis ]
stone free + akaiwa [ hiba ]

07/18

7/13 [ the ドラえもん展 ]@サントリー・ミュージアム。

「あなたのドラえもんを作ってください」という藤子・F・不二雄からの手紙で、ドラえもん世代のいろんな作家達が作品を提供する、という企画展だけれど、イラストレータ、グラフィックデザイナー、ファッションデザイナー、インダストリアルデザイナー、音楽家、フォトグラファー、現代美術家、CGアーティスト、というような肩書きを持つ人間が作品を寄せている。印象としては、アート展というよりかは、この展覧会のオプションでのノベルティ・グッズの販売のほうが重要なんでは?という販売展のように思えなくもなかった。グラフィックデザイナーの割合も多いし。

展示では、作家は作品の横に自分のドラえもん体験をコメントしている。多くは、ピースフルにこのマンガがもたらした子供時代への肯定的な意味での影響があると言及している。典型的なのは、ドラえもんの道具があればなあ、というような子供の願望を代替的に満たしてくれたこのマンガ作品への愛着について、だったりする。それは「今も現役」というようなものではなく、今回の依頼でドラえもんを回顧してみて、そういうような側面があったんだな、という少し距離を置いた回顧的ものだった。明かに夏休みシーズンに開催ということも子供目当てとも思えて、無難なものになったのかもしれない。コメント一つとってみても、「きらいできらいで仕方なかった」というようなものがでてきてもよかったと思う。それが一体どんな作品と並置されるのか?という興味がある。グッズにしにくいようなえげつない作品に出会いたかったという意味で、もっと現代美術の作家や、幅の広い音楽家、それこそ一番思ったのは、マンガ家に何故依頼しないのだろうか?と。

たとえば、ドラえもんの最終回のストーリーにまつわる口伝えでの怖い噂「『ドラえもん』のこれまでのストーリーすべてが、植物人間になっているのび太の夢だった」というものだとか、同人誌での膨大なブラック・パロディなどのリミックスバージョンだとかにも焦点を当てて欲しかったと思う。ミッキーマウス同様、ドラえもんは流通の末数え切れない様々なレベルでのクォンタイズを経、社会的イコンと化した。そのようなオリジナルレベルでの素材(視覚的な造形、言語的な物語)だけでなく、ドラえもんという物語で生じた様々な領域での2次的に生成される物語をも含めた要素、の極端な組換え、破壊、逸脱、変容、もしくは抽出だとかをも扱った作品の選択もあればもっと楽しかったのに。

それでも、この前の岡村靖幸のコンピレーションのように、僕自身が見知った・慣れ親しんだ対象への彼ら自身の接し方を、作品を通して解釈、想像するのは楽しい経験だった。

受容

ウィノグラード、フローレス「コンピュータと認知を理解する」
中上健二「地の果て 至上の時」
russell haswell [ live salvage 1997 → 2000 ]
飾磨[ 長浜ラーメン一番 ]
加古川[ 北海道旭川ラーメン ]

07/12

構造主義関係の本(といっても入門書)を読み直している。

今更構造主義?ということではなくて、今だからでもなくて、今でも構造主義。分かってないこと、気にかかることは勝手にやってようということで。今更音響系、でもいい。僕の構造主義の理解というのは、それこそいろんな本からの断片的な知識によっているわけだけれど、一冊挙げるとすれば、高田明典「構造主義方法論入門」ということになる。

一般的な構造主義の説明というのは、「時代や地域によって、そこに属する人間のもの見方、感じ方、考え方が違っており、それ以外を発想すること自体考え及びもしないように個人は強いられている、とみなす学問上の主義」とでも説明できる。高田の主張はより操作主義的であり、たとえば簡単に言うと、ある男の子が「あの子を好きにさせるにはどうすればいいか」と考えいろいろとその好きな子のことを調べた末に、ムキムキマンになろうと考えるが、それは「あの子はたくましい男が好きだ」と結論を下した、という見たてが元になっているという状況があるとする。この見たてが構造であり、対象を操作しようとする意図(彼女を振り向かせようという気持ち)の元に立てられた対象への認識・理解(見立て)とその操作を実行する立場を構造主義とみなす。ムキムキマンになった男の子のことを好きになってくれたとして、その場合、やはり彼女はたくましい男が好きだったのだ、とその見立てが真実であったと考えることはしない。というのも彼女が彼のことを好きになった理由は、結局の所明確ではないから。たとえ彼女にそう質問して、「たくましい男が好き」といったとしても、である。真実への探求という学問であれば当然とも思える態度を高田の言う構造主義は放棄している。どれだけ対象を操作できるか?への見立てとそれに基づく方法、その結果が大切であり、構造は結果によって「よくできた構造だった」「まずい構造だった」といわれはすれ、「真実」という言葉はいわれることはない。

この高田の考え方には、目から鱗状態であったけれど、それに近いものを最近読んだ内田の本でも感じた。といっても書いていることに関しては、目新しいことがそれほどあるわけではない。僕が感心したのは構造に関する直感的なイメージを与えてくれる部分。たとえば同時多発テロの後のアフガン空爆について、「ブッシュの反テロ戦略にも一理あるが、アフガン市民達の苦しみを思いやることも必要ではないか」というようなことを、街頭でいきなりTV インタビューされた場合に無難に答える状況というのは、両国民の立場に立つ「世界の見え方は、視点が違えば違う」というような発想、を日本人の多くが常識的に思うようになっているからで、このこと自体ほんの数十年前に形成されたものだ、というようなところ。フーコーにせよ、バルトにせよ、レヴィ=ストロースにせよ、ラカンにせよ、個人を強いるなにものかについて考えつづけたのだ。言葉としては、こんなことは誰もがそれこそ現代思想の入門書に書いていた。けれど、僕は内田によってはじめて腑に落ちた気がする。

「個人を強いる構造がある」と言ってしまうことと「人の心を大切にする」というような言い方は同じで、構造もしくは説明概念を実体化したものとなる。時代劇や90年代のトレンディドラマが大切にした「人の心」は、それこそほんの数十年前に生じたこの主義が生み出した副産物である、といえるのかもしれない。いくらそれが間違っていようとも、それが定着してしまい実体化し、それを用いたさまざまな物語が作られていく。このことに歯止めはきかない。

受容

内田樹「寝ながら学べる構造主義」
高田明典「構造主義方法論入門」
ロラン・バルト「零度のエクリチュール」
ジャン・ピアジェ「構造主義」
中上健二「地の果て 至上の時」