結局はマイナーチェンジに終わったスタイルの変更。
ただ、表面にあらわれないユーザビリティをある程度確保する、デザイン・サイズの現実的なレベルでの相対指定が行われている。
webの更新は、大幅に変更する場合、かなりの労力を伴う。単に適切に書かれたhtmlを、cssを書き直すことでのみだけでは、その範囲でしか変更が効かない。htmlが論理構造をスタイルシートがプレゼンテーションを担当するという標準化団体とそれを擁護する者達の言い分は効率的でヒューマンでもある。だが、僕の考えでは現行のhtmlでは見栄えを完全に分離し得ない。つまりhtmlで文書の意味的情報を記述し終えたもののデザインをとっかえひっかえ変更するというのではなく、意味的情報の記述自体が、デザインをある程度想定したものとして行わざるを得ない。物理マークアップやtable要素による見栄えのデザインがwebデザイナーの間で行われているのは、誤った方法がそれなりに彼等の欲望をみたすスタンダードとして定着しているということもある。単に正しい仕方を知らないだけではない。彼等は表現方法の拡大と制御性を確保しようとしている。標準規格を守ってまともな、もしくは差異を生み出すデザインができないというのでは、デザイナーは食っていけない。strictなhtmlを書けと声高に叫ぶ論者の中で、スタイルシートを使えばデザイン性のある見栄えを作ることはできる、という者もある。もちろんcssを用いてそれなりのことはできる。ただcssは現在ようやく標準化団体の推奨を企業が採り入れ出したという経緯もあり、加えて実際の所、htmlという技術が研究機関の論文を効率的にネットワークで参照するためという意味合いから発し、その後に見栄えの要請としてスタイルシートが登場した。要するに、スタイルシートは経済的な要請、制約という負荷の強いる環境での表現方法としてはまだまだ不充分であるのかもしれない。そもそも創造性のあるデザインの本質が過剰な逸脱性にあり、標準化団体の推奨する方法では、あまりにも紙媒体で行われていた可能性を大幅に縮減している、という事情もある。機関のやる仕事に期待などしていられないし、自ら様々なテクニックを生み出していった過程もあるのだろうと想像に難くない。
単純に、使えるようなものであれば、現場のデザイナーは真っ先に手を出すだろう。出さないのはデザイン的な要請のみでなく、コントロール不能の部分がまだまだ高いからだ。それと比べてマイノリティに対する意識がないなどと攻撃するのは、現実的ではない。と今回はやけに肩を持つのは、あれから日本のまともなhtmlを書いている連中のサイトを見て回ったのだけれど、それらのデザインが、どうみてもダメすぎるから。本当にいいデザイン(デザイナーと呼ばれる現在のwebがいいデザインかどうかは別として、複雑性を積極的にとり入れようとするデザインというべきだろうか)ができるんであれば、デザイン、コントロール共に管理できる人間のツールとstrictなhtmlがなりうるのであれば、僕は明かにそちらを支持するだろう。ということで、お前達のセンスのなさ、あるいは似かよりすぎなのはもういいと、外国のサイトを漁り出す。数は少ないがだいぶ頑張っているところはあるよう。二兎を胸を張って追おう。ただし、それにしたところでエポックとなるような、つまりflashサイトのインパクトに及ぶようなエッジさは感じられなさそう。
また規格を守れ!という彼等の主張には、固定したデザインへの批判というものがある。つまりデザイナーと呼ばれる人種は、紙媒体という従来のメディアでのデザインの方法論に縛られすぎている。webはユーザーの環境によって与える情報の表現が全く違う可能性を持つ動的でインタラクティブなものだ、というのが彼等の主張だ。だが現在のwebデザイナーの行っている固定的なデザインは単純に古臭い伝統を受け継いだものだとして批判するのは、少しずれてしまう。これも現実的な経験の中では、それなりの妥当性を持つ方法論であると思われるから。いいかえると彼等の方法は、クライアントというものの要請を排除できないという意味でも、いくらflashやjavascriptを用いようが、形式的に静的であり、保守的であらざるをえない。それでも規格派の主張には、僕は前田ジョン的な意味で賛成である。けれどもそれはこれから作られていくべき新しい動的な領域でのデザインという段階になる。先行して参照できるものがそれほどはない、もしくは現象学的な、あるいは記号論的な視線によって獲得されるだろう運動への美的な関心によって可能となる。おそらく映画はその最も大きな先輩となるだろう。その中でもアニメーション、というよりCGを可能にするプログラミング的思考を前提にした運動を美的に制御する姿勢は、参考になると思われる。規格派のこの動的なデザインへの主張は、単にアクセシビリティやユーザビリティの制約の解放というネガティブな観点からしか語られていないように思える。このような解釈として読みかえることで、webデザインはまた新しく刺激的な段階を迎えるのではないか?