2002/08/

08/29

aesthetics + computation

名の響きは魅力的であるけれど、実際のそれ(プログラミング)によって制作されたものに対して、強烈な焦がれがないかも。僕はたとえばautechreの音のデジタルな鋭角さよりも、ovalらのアナログ的な微粒子のようなはかなさ、微細さ、粘質性にひかれる(両者はアナログ、デジタルの両方の方法を用いる。けれど根本的な発音の制作に前者はプログラミングを、後者がサンプリングを使用しているよう)。では後者の繊細さを前者でなす仕方があるのか?同じように幾何学的線形性的な方向でないプログラミングによる視覚的デザイン(当然動きのデザインも含む)のよき刺激はないのか?と。

受容

nhkドキュメンタリー[ クロサワ ]
handel [ sonaten fur flote und basso continuo ]
autechre [ confield ]
ドストエフスキー[ 白痴 ]

08/22

下の二枚のcdを購入。

雅楽を以前から聴きたいと思っていた。理由は笙の音は音の響きに没入させてくれそうだから。なんかシンセサイザーで作る音に似てる。僕にとってはシンセサイザーの音色の方が原風景だし。このアルバムの一曲目はその僕にぴったりの曲で、複数の高低のある笙の音のドローンは、クセナキスの電子音楽を想起させる。そこに風のような笛の高い音(ね)がコントラストを作る。雅楽という言葉と同時に想起されるtv映像と音のありがちな組み合わせを思い出すこともなく没入できる。単に気持ちのよい音色が複数立ちあがっては消えていくという持続があると聴くことができる。

autechreの新作は新曲3曲とdvd3曲のコンプレックス仕様となっている(dvdを持っていないので当分観れない)。複雑に音が鳴っているけれど、全体の構造をシンプルに把握できるような印象を持つ。充分音楽的であるのは間違いがない。でもそれを構成している要素を挙げようとすると、非常に抽象的なものになってしまう。周期性(ビート)、直感的には指摘はできるが口ずさむことのできないようなまとまったフレーズ、構成の存在。。。。音楽が歌やメロディというような直感的に明確に取り扱うことのできる要素だと考えることもできないし、かといってケージのような構築性(形式性)を取っ払ってしまった、要素の存在性だけでいいともしない。音楽を音の響きとしてのみでも聴かない。彼等の音楽はポップという音楽文法を継承している。けれどもえらく離れてしまっている、という印象は拭い去ることはできない。そして構築への強い意志を感じる。

受容

jvc world sounds [ 雅楽 ]
autechre [ gantz graf ]
坂口安吾「堕落論」

08/15

トップ・ページにスクリプトによるグラフィックを追加。

いくつかの課題。directXの対応の問題か、internet explorerのみでしか見ることができないこと、以前に比べると少し読み込みに時間がかかってしまうこと。後は、もう少し厳密に制御できるようなものにしたいのと、より複雑性を与えること。いわゆる前から言っているjohn maedaの [ design by numbers ] の手習いといったところ。

形式的なレベルでの(プログラミングによる)デザインを組立ることとは、細部を放棄してしまうことを意味する。それはいいかえると、領域外の制作を他者が操作できるような余地を与えるように設計することでもある。ここでの他者とはコンピュータでもあり、それを受容する人間でもある。また「細部を放棄してしまう」とは細部へのこだわりを放棄するのとは違うような気がする。細部の違いが無意味になるような高次のレベルでの組立を設計しておくことかもしれない。決定的な変化すら設計されたものとして提出することが可能になる。ただしそれは単純であるとすぐに飽きられるものになる。その先をどのようにもたらすのか。

受容

vladislav delay [ multila ]
5曲目の[ karha ]をエンドレス。真夏に深海の気分を味わえる。音は落とし目で。

8/12

結局はマイナーチェンジに終わったスタイルの変更。

ただ、表面にあらわれないユーザビリティをある程度確保する、デザイン・サイズの現実的なレベルでの相対指定が行われている。

webの更新は、大幅に変更する場合、かなりの労力を伴う。単に適切に書かれたhtmlを、cssを書き直すことでのみだけでは、その範囲でしか変更が効かない。htmlが論理構造をスタイルシートがプレゼンテーションを担当するという標準化団体とそれを擁護する者達の言い分は効率的でヒューマンでもある。だが、僕の考えでは現行のhtmlでは見栄えを完全に分離し得ない。つまりhtmlで文書の意味的情報を記述し終えたもののデザインをとっかえひっかえ変更するというのではなく、意味的情報の記述自体が、デザインをある程度想定したものとして行わざるを得ない。物理マークアップやtable要素による見栄えのデザインがwebデザイナーの間で行われているのは、誤った方法がそれなりに彼等の欲望をみたすスタンダードとして定着しているということもある。単に正しい仕方を知らないだけではない。彼等は表現方法の拡大と制御性を確保しようとしている。標準規格を守ってまともな、もしくは差異を生み出すデザインができないというのでは、デザイナーは食っていけない。strictなhtmlを書けと声高に叫ぶ論者の中で、スタイルシートを使えばデザイン性のある見栄えを作ることはできる、という者もある。もちろんcssを用いてそれなりのことはできる。ただcssは現在ようやく標準化団体の推奨を企業が採り入れ出したという経緯もあり、加えて実際の所、htmlという技術が研究機関の論文を効率的にネットワークで参照するためという意味合いから発し、その後に見栄えの要請としてスタイルシートが登場した。要するに、スタイルシートは経済的な要請、制約という負荷の強いる環境での表現方法としてはまだまだ不充分であるのかもしれない。そもそも創造性のあるデザインの本質が過剰な逸脱性にあり、標準化団体の推奨する方法では、あまりにも紙媒体で行われていた可能性を大幅に縮減している、という事情もある。機関のやる仕事に期待などしていられないし、自ら様々なテクニックを生み出していった過程もあるのだろうと想像に難くない。

単純に、使えるようなものであれば、現場のデザイナーは真っ先に手を出すだろう。出さないのはデザイン的な要請のみでなく、コントロール不能の部分がまだまだ高いからだ。それと比べてマイノリティに対する意識がないなどと攻撃するのは、現実的ではない。と今回はやけに肩を持つのは、あれから日本のまともなhtmlを書いている連中のサイトを見て回ったのだけれど、それらのデザインが、どうみてもダメすぎるから。本当にいいデザイン(デザイナーと呼ばれる現在のwebがいいデザインかどうかは別として、複雑性を積極的にとり入れようとするデザインというべきだろうか)ができるんであれば、デザイン、コントロール共に管理できる人間のツールとstrictなhtmlがなりうるのであれば、僕は明かにそちらを支持するだろう。ということで、お前達のセンスのなさ、あるいは似かよりすぎなのはもういいと、外国のサイトを漁り出す。数は少ないがだいぶ頑張っているところはあるよう。二兎を胸を張って追おう。ただし、それにしたところでエポックとなるような、つまりflashサイトのインパクトに及ぶようなエッジさは感じられなさそう。

また規格を守れ!という彼等の主張には、固定したデザインへの批判というものがある。つまりデザイナーと呼ばれる人種は、紙媒体という従来のメディアでのデザインの方法論に縛られすぎている。webはユーザーの環境によって与える情報の表現が全く違う可能性を持つ動的でインタラクティブなものだ、というのが彼等の主張だ。だが現在のwebデザイナーの行っている固定的なデザインは単純に古臭い伝統を受け継いだものだとして批判するのは、少しずれてしまう。これも現実的な経験の中では、それなりの妥当性を持つ方法論であると思われるから。いいかえると彼等の方法は、クライアントというものの要請を排除できないという意味でも、いくらflashやjavascriptを用いようが、形式的に静的であり、保守的であらざるをえない。それでも規格派の主張には、僕は前田ジョン的な意味で賛成である。けれどもそれはこれから作られていくべき新しい動的な領域でのデザインという段階になる。先行して参照できるものがそれほどはない、もしくは現象学的な、あるいは記号論的な視線によって獲得されるだろう運動への美的な関心によって可能となる。おそらく映画はその最も大きな先輩となるだろう。その中でもアニメーション、というよりCGを可能にするプログラミング的思考を前提にした運動を美的に制御する姿勢は、参考になると思われる。規格派のこの動的なデザインへの主張は、単にアクセシビリティやユーザビリティの制約の解放というネガティブな観点からしか語られていないように思える。このような解釈として読みかえることで、webデザインはまた新しく刺激的な段階を迎えるのではないか?

受容

javanese court gamelan

08/09

2月に出てたということで今更で、しかも小沢健二の久方のアルバムを聴く。

いろんな意味でよくわからない。おそらく何度もいわれただろう声の低いトーンへの変化だけでなく、ほんとどうでもいい地味なJ-popだ、どうしてr&bしているのか、歌の下手な平井堅のパクリだ、大人になったなあ、じっくり聴きこむことのできる商業主義に流されない傑作、などなど、一体どんなことがいわれてるんだろう?とのぞいてみた2ちゃんねるでのダベリ、もすべてなるほどと思わされるような、はっきりいいにくい作品。ただ、1曲目とブギーバックのセルフ・カバーは単純に素晴らしい。僕はこの1曲目でむむ、よい、と思った。が後は聴きこむと味が出るといういかにもな表現が似合うのかもしれない楽曲群(一聴すると地味でしかもうっとおしい)。といいつつ今わりと繰り返し聞いている。アレンジのシンプルさとその音の鳴りが気持ち良い。確かに小沢健二が地味なj-popしているというのは当たっている。平井堅の下手なイミテーションと言われるのも先入観をなくせばなるほど。ボイストレーニングしたらしいと書いていたが、それは平井堅になるのではなく、唄うことにについての意識化のようなものがあったのではないか?つまり元から唄えてしまう平井堅とは違う、コンポーザーズ・シンギングの発展としてあるのではないか?どちらにせよそれらしき雰囲気のある大人の歌声を想起させるけれど、それは同時に完全にコントロールできているという印象ではなく、あちこちにほころびが見える。それをダメ出しするのか、それとも痕跡とみなして解釈を楽しむのか。j-popさはもともと小沢のソロには見せていたものだと思う。地味と言われる印象の音も、限られた要素の組立がソリッドな印象を与える。全体のプロダクションの完成度は高い。外人の日本語コーラスのヘンさは絶対指摘されてるんだろう。歌詞は、平井堅と比べると可哀想だろう。僕ですら楽しませてもらった。同じようなエフェクトでもベクトルが全く違うような気がする。彼はいびつな自我についてコントロールしようとしては上手く行かない、自問自答しつづけてそれを作品にアウトプットしていく人なのかもしれない。フリッパーズ・ギターの変わりようは実はこの人のあり方だったのかもしれない。ソロのアルバムでの音だけでなしに、音楽家としてのパーソナリティの露出のコントロールしてるなと思わせる(意図的な?)痕跡を見ると。

正直なところ、うーん、それなりによかったのではないですか?というところ。誰か聴いた人がいれば、感想聞かせてください。自分の感想がふわふわして困ってます。

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小沢健二 [ electic ]

08/04

記憶の美化ということではなく、記憶のロボトミー。これは僕の持ち物ではない。もしくは書きかえられている。

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billy holiday [ strange fruit ]

08/03

北野武[仁義なき映画論]を読んで

この中で腑に落ちたところ。今の日本映画を面白いとは思っていなくて、酒飲んで演技論、映画論なんて戦わせている。けど実際の現場では悲しいくらい、今まで通りのパターンで出演してしまう。常にごく常識的、当たり前の映画が量産されていく。というようなところ。実際新しい事をするには、見知らぬ他者が乱入してくる、もしくは決意ある意志を前提にした論理的な飛躍が必要だと思う。使用されていない自動性、形式性を強引に導入するという手もある。[ 勝手にしやがれ ]はそうした形式の偶然を肯定し作品として提出したところに功績がある。今の音楽のエッジな部分は、それで新しいジャンルが次々と生み出されている(それはそれで形式のみの追求で早々と終わり、それは物語に引き継がれ回収される、という側面がある)。

いかに普段ものを考えて仕事をやっていそうで、自分の通ってきた領域の情報を単に複製してきているか、ということがここで指摘されている。個人が新しいものを作っていくとは、この複製の欲望、もしくは自動性にさらされながら、それを変化させたいと望む、複製を超える欲望の意志に魅入られる才能、もしくは意志によっているのかもしれない。

北野はその後で、創造には総合力が必要だ、というようなことを言っている。単に脚本やカメラの職人であるだけではダメで、かといって外部であることもダメで、結局はプロセスの全てを知ってなおかつ頭がよくないとダメ、器量がないとダメ、みたいなことを言っている。うーん。

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夢野久作 「押絵の奇跡」
touch_compilation [ ringtones ]

08/02

マルグリット・デュラス[インディア・ソング]をみて

美についての印象、70年代にフランスの作家が、30年代のインドに滞在したフランス人の非日常的生活を描いた詩的な映像を撮らなければならない理由は何なのだろうか?非常に個性的な映画、詩。僕が見て思ったのは、美学的文化論的記号解釈。こういう映画を形式的にねじれることなく作れる文化に強烈に羨望しつつ、嘲笑う姿勢を併せ持つ意志は失わない。西洋人と大きく括られてしまう、身体的造作、そこから派生する全ての物理的制作物とその洗練の歴史。また70年という現代性の僕の知らない痕跡に気付きもできない、距離の問題。

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hicthcock「海外特派員」
megashira [ at last ]

08/01

物語について、バルト『作者の死』をふと思いながら。

繰り返し読んでいて、何気に読んでいた内容に腑に落ちる感覚を持つことがあった。ここで、その感じとは作者が意図したことなのではないか?と感じた。しかしすぐ思い直した。作者自身本当に意図して私が感じたことを制作したわけでもないかも。もちろんひどく精巧に気配りがなされた展開とも考えられるので、実際作者が腑に落とそうと考えていたと想像するほうがやさしいかもしれない。けれど同時に、作者自身も物語をモジュールとして組み合わせている。それに整合性をつける細かい作業というのが非常に手間が掛かり、その作業を独創といってもいいくらいかもしれない。作者の考えていないレベルで腑に落ちるということはありうるんではないか?そしてそれをもたらすのは、物語という共同で作られてきたフォーマットである、ということ。なんか当たり前の結論だ。僕は僕の言葉なんかしゃべっていない。僕は僕の考えなんか考えていない。僕は他人の言葉をその場その場で人の気の利いた言葉を想起しつぎはぎしてあたかも自分の言葉のように話している、それだけだ。というような感覚。

受容

三原 光尋「真夏のビタミン」
king brothers 1st