2002/09/

09/24

pcの復旧。

win2000に移行。operaを試用し始める。

受容

bill evans [ walts for debby ]
川原泉 [ 笑う大天使 ]
町田康 [ 人間の屑 ]

09/21

久しぶりに神戸へ。

神戸[ トロワ ]というラーメン屋と元町[ zonne ]。

その後、家にてnhkのbs、キューブリックのドキュメンタリーを観る。

久しぶりにキューブリックを思い出させられた。それ以降ふとした瞬間に彼のこと、彼の映画のことを思い浮かべる。キューブリックは、映画というメディアでの芸術家として歴史に残る、というロマンチックな想起と予感がした。 たとえばゴダールは映画史の中で特別な位置を占めることになると思う。それはおそらくキューブリックよりも重要な位置としてかもしれない。ただ僕にはゴダールは映画人という印象が希薄で、言葉や記号を扱う芸術家、作家、研究者という印象が強い。キューブリックはそうではなく狭義での映像と音と言葉の結合による情動の刺激に関心の焦点が合っていたように思う。映画的記号がもたらすイメージの挑発、というか。[ 2001年 ]のお猿さんがツァラトゥストラを背景に骨をぶっ叩くその構図と音の結合、あの神経質そうな白に真っ赤なソファーの色と形態のバランス、[ 博士の異常な愛情 ]で「総統立てました!」って物語に無関係な叫びと、その後連続する原爆の美しい爆破シーンのカットの間のdj的タイミング、と[ また会いましょう ]と名のつくオールド・ポップソングによる意味の生成、[ 時計じかけのオレンジ ]「あいむ、すぃっーーん、っぎにん、ざ、っれーーん」ボカっ、[ フル・メタル・ジャケット ]で戸田奈津子が翻訳が上品過ぎるとクビになるようなあまりに汚くも爽快な言葉の暴力の数々、[ アイズ・ワイド・シャット ]での初老の全然枯れてない男がキッドマンをソフトでいて生々しい口調でナンパするシークエンス・・・。[ 映像的現実 ]という言葉でキューブリックが映画の事を捉えていた、という証言は、かなり膝を打った。記憶にのみ再現することのできる知覚体験が、複製され操作できるものとして扱われることで、それらが現実から乖離し断絶と結合がもたらす新たな意味が生成される。そこにあるのは現実の複製ではない。映像での現実という新たな領域がそこにあるのだ。

受容

autechre [ con field ]
nhkドキュメンタリー [ stanley kublick ]
隆慶一郎[ 死ぬことと見つけたり ]
黒澤明 [ 七人の侍 ]
やはり面白くない

09/19

sketch show(細野晴臣+高橋幸宏)を観る。

音の方は、さすがこなれていた。音がすかすかで、ゲイト系のアナログ音色を用い、リバーブ・デッドなシンプル音場にモンドと音響的ノイズを加え、そこにポップソングを乗せる。細野氏がスタンダードのカバーでボーカルをとっていたが、相変わらずいい声、そして英語の発音はめちゃめちゃうまいというわけではないけれど、うまく聞こえるし心地よい。こんなポップ音楽を作る50半ばのおじさんが果たして世界中探しているだろうか?いないだろ。日本だからこんな音楽のリスニング環境が可能になるわけだし。敬礼。

ただし、物足りなかったこともあった。もはや僕の中ではキーボード(ピアノではなく)を使用するというのは、ちょっと耐えられない。ドラムンベースや音響を通過することで耳は、単に鍵を押すことでスイッチとして鳴るインターフェースにはうんざりしている。それがどれほど発展しようが形態的な制約から逃れることができない。代用品や効率の要請としての楽器としてのキーボードはいらないとさえ思ってしまう。

silicomの高木正勝のvjに目が行ってしまって、という人も多かったんじゃないだろうか?僕はそうだった。ハイテックなようで、おそらくソフトウェアを使いつつもめちゃめちゃアナログな方法だと思う。プログラミングであれをやろうとするとどれくらい面倒なんだろう。

受容

sketch show on tv

09/06

dumb type [ voyage ]を観る。

初めてのダム・タイプで、そのスタイルに興味を持つ。演劇ではなく、パフォーマンスというか、物語の介在しない、もしくは物語として類型化されない物語、もしくは言語が全体を支配しないいくつかの非言語的要素との交わりで組み立てられた物語なのかも。この公演で僕が読み取ったことは限定的だと思う。それは、この作品の主軸とは、池田亮司の音と、撮影されただけでなく取り込まれ編集・加工された映像、コンピュータ制御(?)の照明、との同期、が一つであり、もう一つは、それらと身体性の乖離もしくは結合の試み、というものだった。スパッと断ち切れる音と映像に比べ身体はそれについていくことができない。この同期に注視するものは、そのずれというか鋭さとやわらかさ(不正確さ)に違和感を感じたのではないだろうか?最初の区切りでは、重低音と照明の運動とともに、タイツ姿のバレリーナのような人物が静かにだがすばやく反復しつつ変化していくように舞った。徐々に彼女の動きに魅せられた。それがただ機械制御の音と照明に同期するものとして提示されてるように見えた。もちろん彼女をコンピュータ・グラフィックスとして映像化し、三つの要素を正確に同期させることは容易だろう。僕の読みとはそれをしないことを見せるということだ。

受容

dumb type [ voyage ]@theater drama city

09/04

形式化以降の絵画、音楽の制作。

デュシャンやケージは絵画や音楽が成立するリミットを示した。これ以降何が作られようと、鑑賞者は超越的な視点を持ってしまうことになる。つまり何を作ろうが「ああ、これもありよね」というように物語に回収されてしまうような新しい一つのスタイルでしかなく、制作によって作家は、特権的な位置を確保できるという思いこみを持つことができなくなる。「作るのが馬鹿馬鹿しいような」状況の中で、どのような制作が可能となるのか。もちろんそれは、彼ら以降の制作者や、メディア、批評のあり方を見ればそれは表れている。制作者はデュシャンやケージの存在を忘却する、もしくははじめから知らない、という立場しか取ることができない。そして制作を継続し新しい形式を求め続ける者は、いずれ彼らの存在を知らずにはいられない。つまり結局のところ忘却するしかなく、知ってしまえば頭のどこかで彼らの主張が膜のようにこびりつく。画家、音楽家とはそれを押しのける、制作の最中に忘却し得るモチベーションを持った者を意味する。デュシャンやケージのことをいう人間は、批評家や野次馬であって制作者ではない。

受容

中村としまる [ no-input mixing board 2 ]
こういう即物的なループからなるドローンが気分
farmers manual [ no backup ]
nhk特集 [ ビーチボーイズ・フォーエバー ]
ナボコフ[ ヨーロッパ文学講義 ]

09/01

更新 - リスト要素のスタイルの修正。

受容

黒澤明 [ 影武者 ][ 虎の尾を踏む男達 ][ 天国と地獄 ]
町山広美 [ イヤモスキー ]
ゲルニカ
上野耕路はオーケストレーションによってオーケストラの響きを複製しようとした