2002/10/

10/22

奥田民生の音、イメージのサンプリングとコラージュの方法。

beckや岡村靖幸と比べること。彼らには共通点が多い。彼らは現在のポップ・ミュージックの権化のよう。奥田民生をよく知らずにものを申すのもなんなのだけれど、前からシングルだとか人に書いている曲などを聴いて思っていたこと。いびつで貪欲なる音色快楽主義者よ。新しい曲の最後から8小節位の二つの音色の微妙な動きに注意すること。同じフレーズのコードの移動のようでいながら、実はそうでなくそれぞれ別のところからサンプルされてきたような印象を拭えない。

受容

キリンジ [ グッデイ・グッバイ ]
上の彼らとは対照的かも。
squarepusher [ squarepusher theme ]
久しぶりに聴く。前半1分ほどが相変わらず素晴らしい。

10/21

デザインの可変性、その1。

現在の多数のwebが紙媒体の伝統を引き継ぐかのように固定的なデザインを採用しているのは、同一的な環境でwebが受容されているという事情が前提にある。この状況では異なった環境に対応する必要がなかった(もしくは少数の例外への対応を無視しえた)からである。けれどもwebを受容する環境はより拡散し携帯電話、pda、web tv、音声ブラウザ、点字ブラウザ(、そしておそらく将来的にカーナビ)、などが対応しはじめている。同じようにデザインを固定したければ、これまでのようなinternet explorerを主体にnetscapeになんとか対応すればよいということはあり得ず、個々の環境に一々対応する必要がある。最初に確認しておいた方がよいのは、現在のようにブラウザ間で同じ見た目を再現することは、形式的に不可能である、ということ。商業webデザイナーが苦労して築き上げてきた技術は、いずれ通用しなくなる日がくる。

たとえば、携帯はpcに比べモニターサイズが圧倒的に小さい。つまり画像や映像を同じサイズで観ることは当然できない。圧縮をかけモニターに収まるようにしたとしても、それは観るに耐えるものでなくなっている。web tvといわれる存在はtvの延長線上として扱われると思われ、カウチする距離でもってwebを楽しむことになる。このことは、今僕らが机に座って30センチの距離で見ている小さな文字を読むことはできない、ことを意味する。つまり文字はpcよりもかなり大きなものとして表示される。上の携帯電話の例では、文字は同じような大きさで表示することはできるけれど、画像などと同じようにpc上で想定したレイアウトは断念するしかない。音声ブラウザの前では、そもそも視覚的情報は無意味となる。同じレイアウトやデザインをどうにか変更を加えて再現するということも手間をかけると可能だとは思う。ただし、これは視覚系のブラウザについてという限定付きだし、大まかなところでのみ可能で、厳密に制御するのは不可能だ。画像・音声・映像等の要素のことを考えると、多様なweb環境では、同じ内容を発信することをそもそも放棄せざるを得ないのが現実的だと思う。いいかえると環境ごとの内容を用意する、もしくはある内容を規則に則って用意することでそれぞれの環境が自ら情報を選択できるものをのみ受け入れる、ということになる。このようなメディアの形式上のありかたをした制作は過去どれほど存在しただろうか?

形式上手続き(適切なhtml文書を書くなどの)を踏めば、対応する環境でwebを受容することができる、となっている。このことを踏まえてせっかく情報を発信する立場にあるのだから、そうした手続きを踏まないことはもったいないだとか、しなければならないというような義務のような言い方をする人間がいる。また苦労したwebのデザインも、ユーザーによって変更することができるようになっている。制作者は、自らの制作したものを意図するように管理する欲望を持っているけれど、受容者は受容者で形式的に制作者の意図ははなから無視してしまえる。コンセプトで一杯のアルバムとしてのcdをどんどんスキップして聴くなどはいい例だと思うのだけれど、webの受容環境はよりその傾向を強めているかにみえる。問題は厳密に制作者の意図を通すことと、すべての人間にwebが受容できるようにすること、が対立する問題となっていることにあると思う。現在のwebでもはなから受容に条件をつけたサイトも多々ある。いわゆる差別化であるのだけれど、こうした態度は反民主的としてますます批判される方向にある。けれど僕は彼らの姿勢はありだと思っている。上で言ったwebでのこの形式的全的な受容可能性とは、要するに文字情報に関してものであって、それが共通して表示可能ゆえに形式が違うと思える環境が並存しえている。つまり、webの内容とはhtml文書のことなのだ。これはwebの歴史を考えてみれば当然なことだ。けれども現在の通信環境や受容技術の発達などを考えると、すでにwebはまさにマルチメディアを扱えるものとなりつつある。そうした動きと想定されたものとして現在の多様な環境は発達しているわけではない。現在は、文字を表示することだけ想定して、諸技術が対応した乱立状態なのではないだろうか?文字を単純に表示すること以外の要素を扱うことに関して形式的に可能ではないのだ。それに対して手続きを踏めば全的に可能なんだから、という論法はずれているような気がする。映像で言うべきことを文字では言えない。

ただ、あえてこうした未知の状況でのwebのデザイン・制御とはどんなものとなるのだろうかと考えてみたくなる。それはそれで新たな場が作り出されようとしているのかもしれない。

webデザインの固定的なものとは、上で書いたように紙媒体を主な表現の場としてきたグラフィック・デザインから継承されてきていると考えられる。これと対立する相対的なものは、webの本質的なウィンドウや文字の可変性、ブラウザ間での表示の違い、複数のメディアでの性質の違い、を見越し模索されていく(これからの話)。これらを調停するもしくはより理解するための考え方としては、たとえばプログラミングによる制作が参考になるのではないか?と思う。一部の音楽家やグラフィック・デザイナーはソフトウェアやプログラミングを自ら制作する者が出てきている。使用者の自由や作品の多様性を確保する構造のレベルでの設計こそが制作である、という姿勢だと思う。これと近いものが即興演奏の作品の記譜を残す音楽家、舞台作家、スポーツにおける監督のあり方、ミクスト・メディアといわれる作品展開のプロデューサー、かもしれない。機能的もしくは美的な制御を高次のレベルで行う方法についての具体的な例が、ここにあるのではないだろうか。

機能的であること、もしくは規則に正確であること、このことを受け入れた上で、なおかつ美的だとか気持ちがよいとか複雑な方へ向けるには、具体的にどうすべきなのか。今現在標準化団体の呼びかけている正しいweb、ユーザビリティ、アクセシビリティという考え方を守っていては、面白そうなものはできないという確信がある。これが展開することで技術的な可能性が生まれてくることは当然期待できる。けれど現段階で間違った方法(本人達にはそれなりの理由があってなのだけれど)で、より複雑な制作を実現してきている、というもう一つの歴史がある。現時点での標準化の動きはこれをひとまず殺してしまう可能性がある。もちろん技術を捨て去ること、後戻りすることはできない。それは記憶を消してしまえることと同義だろう。

受容

gustav leonhardt [ franzosischer cembalomusik ]

10/19

dbnファイルおよびアプレット関連のファイルをいったん削除。

今のところieのjava環境を持つものでしか動作しなさそう。またローカル環境でもブラウザによって、みれたりみれなかったりするが、その基準がわからない。要するに制御できていない。webに訪れる人間の環境に被害を与える可能性もありうるので、ある程度確実だと思える時点まで、削除。お騒がせしました。

受容

compilation [ 電子雑音 ]
compilation [ after hours ]

10/17

北野武の詩性。

彼の最新作[ dolls ]を観た。客は、言葉少なに劇場を出て行った。劇場の空気が寒い。退屈、辛い、映画を観るた時の反応の典型的なもの、ということになるだろうか。黒澤の[ 夢 ]を観たときの客の反応(そういえば海外の映画祭でもそういった指摘をされていたらしい。別の意味でだとは思うけれど)や、彼自身の[ みんなー、やってるか ]のそれに酷似している。僕自身面白くなかったかというと、実際退屈だった。でも同時にいろいろと頭の中で考えることが多すぎて忙しかった。映画でなくともそうなのだけど、映画という名や同じフォーマットが採用されているから、それらは映画として括られるけれど、似ていないテイストに出会えばたちどころにこれらは本当に同じ映画なんだろうか?という感想を持つに違いないほど、映画という領域は多様性を持っている。北野武の映画は詩である。けれどタルコフスキーと比べると似ているところを指摘できない。東映マンガ祭りとゴダールは同じ映画だ。というようなことを言いたいのだけれど。北野武を観る人がよく挙げるのは、静寂とそれを突き破る暴力、死、それを包み込むユーモア、微笑みの表情、というような言葉かもしれない。彼は頻繁に絵葉書のような映像を批判してきた。それは自分にはできない、性にあわない、というところから出てきたものかもしれない。「絵葉書のような映像」というのは、構成要素が形作る色彩、構図などで成立する単位映像が写真のような静的固定的なもののことだと思う。彼の作品で観られる映像を構成する要素は、即物的で、ありあわせのもので、現実らしさを出すための機能を持ち、こだわらないことが基準にあるようにみえる(国産車、量産店でみられるような安っぽい服、ぼかしをかけない撮影、久石譲への音楽の依頼など)。僕はあの静寂と鋭利さの往復運動が、ではなくて、それらとこのぶっきらぼうさの組み合わが、詩を生み出していると考えている。それは彼のユーモア、笑いの制作にも通底している。彼の作品には共通して、シリアスな物語の進行にはさまれる、箸休めのような複数の他愛のない人間のお茶目な振る舞いが反復的に挿入される。これらが物語全体のトーンを壊す余計なものだという見方もできるのだけれど、これは実は彼の映画の本質的なトーンだと思う。今回の[ dolls ]を観て改めて思った。ここでの笑いはぶっきらぼうさ、即物性と同じようなものとして機能している。笑いは下世話で現実的な存在であり、詩からもっとも遠い存在だと考えられているのかもしれない。確かに当たっていると思う。笑いは高次の視線、領域をはずしてみる視線、冷酷な視線を持ち、詩を嘲笑うように機能する。熱愛中のカップルや疑うことを知らない盲信する者の主観状態に、膝かっくんさせ、暴き立てる。笑いが批判に力を与えてしまう。笑いは詩を嘲笑うために機能する、といってもいいのかもしれない。彼の即物的な映像の要素は、彼の詩的な要素を嘲笑い、そのまま詩性を強化している。山本耀司の服が異様に映るのは、即物的な服と同居させられてしまっているからだ。服という構成要素の中にも齟齬が起きている、というか起こさせている。山本の服が詩性を持っているのではなく、それが配置される仕方が詩性を生んでいる。彼の多くの作品の最後がいつも死を迎えることをいくつかの作品を観た人間なら、思いつくはずで、今回は文楽の[ 冥土への飛脚 ]から想を得たということで、やはり死を迎える。今回は詩性を補完するラストの死さえ、その描き方や過去の作品の履歴への想起によって、キッチュで笑えない宙吊りの状態に情動は追いやられた。ところで、この映画にはいくつもの首をかしげる物語上の展開があった。それは心中ものを現代に配置しなおすことで生じた変換の不具合なのかもしれない。それはキューブリックの遺作でも見られたのと類似するものだと思う。たとえば顔を怪我したアイドルの追っかけが相手を思うあまり自らの目をつぶす、昔の約束を信じて数十年経っても当時の恋人との約束を守り待ちつづける、相手を心ならずも裏切ったがために相手が狂いそれを知ったがために相手に死ぬまで添いつづける、といったようなことだ。これはけれどキューブリックの場合と違い、これが現代ではナンセンスだとは思わなかった。物語の持つ賞味期限に意識が飛びつつも、同時に彼は愚鈍にその普遍性をみせつけようとしたのではないか、と思わされたから。

受容

ベルグソン [ 時間と自由 ]
oren ambarchi [ wednesday ]
三谷幸喜 [ hr ]

10/14

dbnファイルをトップに貼付け。

javascriptでの描画をいったんやめ、java上で動くdbn(design by numbers)ファイルに変更する。java環境は今のところお手上げ。なんとか動作を確認できたけれど、これさえほかの環境で動くかどうかはわからない。きちんと動いていればメール下さい。おそらく最低限[ java vm ]がインストールされていないとみることができない(基本的にはこれはインストールされているはず)。なおかつ各プラットフォームとスクリプトの対応関係でみることができないというような細かい話も出てくるはず。ファイル制作とそれを表現する環境に対する経験をも含めた習作というところ。

うまく白抜き四角が出てくれば、その内をクリック。

受容

pan sonic [ aaltopiiri ]
tommy february6 [ tommy february6 ]
はまってしまっている。

10/12

友人が書いた小説を読むことで刺激された、別のレベルでの感想のようなもの。

その内容は、sf+歴史+超常現象というようなジャンルに入るのかもしれない。いわば[ パラサイト・イブ ][ リング ]、それから夢枕獏のような感じかも。でもそれらを詳しく読んだことがないのでよくはわからない。ただ彼の書くものはジャンル小説に属するものだと思う。僕自身はジャンル小説という存在に関してはそれほど興味を感じない。ジャンル小説とは、推理小説、ホラー小説、恋愛小説、冒険小説、スポ魂漫画といったように明確な快感の対象(目的)が決定されていて、それを刺激するために逆算的に構成が設計される。つまりそれは形式的にどのような仕掛けも高次の視点によって「ああその手ね」と受容されてしまう。こうしたジャンル小説のよさは少なからずある。たとえばその雰囲気の持つ閉鎖的な世界観がもたらす胎内感覚というようなものでもあるし、論理的展開のもたらすロジカル・ハイともいえる情動の強度の没入効果であり、物語の消費衝動の消尽作用であり。。。これらの効果を引き出し受容者を操作しようとする制作者の意図に気づき、作品の高次のレベルに立つ視点を持てば、物語そのものをうかつに楽しむことが難しくなる。よくできた作品というのは、そうした視点を持たせないようなできる限り論理的に破綻のない設計がなされており、それはいかに矛盾を複雑に取り込めているかというような一見矛盾した体裁を取るのかもしれない。

あまり小説を読まないこともあってか、僕は小説とは何なのだろうかという問いが読書に際して付きまとうことになり、こうした快楽に没入する快感を得つつ、充分没入しきれていないとも感じる。その評価の基準となるのは、これまで親しんできた音楽、映画のようなメディアでの僕が気に入ってきた作品群へのそれになる。僕にとってのよくできたジャンル小説というのは、上で言ったように徹底的に論理的である方向とは逆に(もちろんそれらを併せ持つという離れ業はいつも夢見ている)、ジャンルを突き破ってしまったようないわば憑かれた感じが露出してしまったかのような部分を内包しているかどうかにあるのかもしれない。グルーヴ。間。亀裂。揺れ。のような形容の言葉が適当と思われるような部分があること。

受容

limb [ subconcious piano ]
piano electronica
tommy february6 [ tommy february6 ]
これも今更であるけれど、前から聴きたくて仕方なかった。よし。

10/03

日記の項を再編集。

過去分を過去日記として文章の項へ移動。

受容

the beach boys [ smiley smile ]