デザインの可変性、その1。
現在の多数のwebが紙媒体の伝統を引き継ぐかのように固定的なデザインを採用しているのは、同一的な環境でwebが受容されているという事情が前提にある。この状況では異なった環境に対応する必要がなかった(もしくは少数の例外への対応を無視しえた)からである。けれどもwebを受容する環境はより拡散し携帯電話、pda、web tv、音声ブラウザ、点字ブラウザ(、そしておそらく将来的にカーナビ)、などが対応しはじめている。同じようにデザインを固定したければ、これまでのようなinternet explorerを主体にnetscapeになんとか対応すればよいということはあり得ず、個々の環境に一々対応する必要がある。最初に確認しておいた方がよいのは、現在のようにブラウザ間で同じ見た目を再現することは、形式的に不可能である、ということ。商業webデザイナーが苦労して築き上げてきた技術は、いずれ通用しなくなる日がくる。
たとえば、携帯はpcに比べモニターサイズが圧倒的に小さい。つまり画像や映像を同じサイズで観ることは当然できない。圧縮をかけモニターに収まるようにしたとしても、それは観るに耐えるものでなくなっている。web tvといわれる存在はtvの延長線上として扱われると思われ、カウチする距離でもってwebを楽しむことになる。このことは、今僕らが机に座って30センチの距離で見ている小さな文字を読むことはできない、ことを意味する。つまり文字はpcよりもかなり大きなものとして表示される。上の携帯電話の例では、文字は同じような大きさで表示することはできるけれど、画像などと同じようにpc上で想定したレイアウトは断念するしかない。音声ブラウザの前では、そもそも視覚的情報は無意味となる。同じレイアウトやデザインをどうにか変更を加えて再現するということも手間をかけると可能だとは思う。ただし、これは視覚系のブラウザについてという限定付きだし、大まかなところでのみ可能で、厳密に制御するのは不可能だ。画像・音声・映像等の要素のことを考えると、多様なweb環境では、同じ内容を発信することをそもそも放棄せざるを得ないのが現実的だと思う。いいかえると環境ごとの内容を用意する、もしくはある内容を規則に則って用意することでそれぞれの環境が自ら情報を選択できるものをのみ受け入れる、ということになる。このようなメディアの形式上のありかたをした制作は過去どれほど存在しただろうか?
形式上手続き(適切なhtml文書を書くなどの)を踏めば、対応する環境でwebを受容することができる、となっている。このことを踏まえてせっかく情報を発信する立場にあるのだから、そうした手続きを踏まないことはもったいないだとか、しなければならないというような義務のような言い方をする人間がいる。また苦労したwebのデザインも、ユーザーによって変更することができるようになっている。制作者は、自らの制作したものを意図するように管理する欲望を持っているけれど、受容者は受容者で形式的に制作者の意図ははなから無視してしまえる。コンセプトで一杯のアルバムとしてのcdをどんどんスキップして聴くなどはいい例だと思うのだけれど、webの受容環境はよりその傾向を強めているかにみえる。問題は厳密に制作者の意図を通すことと、すべての人間にwebが受容できるようにすること、が対立する問題となっていることにあると思う。現在のwebでもはなから受容に条件をつけたサイトも多々ある。いわゆる差別化であるのだけれど、こうした態度は反民主的としてますます批判される方向にある。けれど僕は彼らの姿勢はありだと思っている。上で言ったwebでのこの形式的全的な受容可能性とは、要するに文字情報に関してものであって、それが共通して表示可能ゆえに形式が違うと思える環境が並存しえている。つまり、webの内容とはhtml文書のことなのだ。これはwebの歴史を考えてみれば当然なことだ。けれども現在の通信環境や受容技術の発達などを考えると、すでにwebはまさにマルチメディアを扱えるものとなりつつある。そうした動きと想定されたものとして現在の多様な環境は発達しているわけではない。現在は、文字を表示することだけ想定して、諸技術が対応した乱立状態なのではないだろうか?文字を単純に表示すること以外の要素を扱うことに関して形式的に可能ではないのだ。それに対して手続きを踏めば全的に可能なんだから、という論法はずれているような気がする。映像で言うべきことを文字では言えない。
ただ、あえてこうした未知の状況でのwebのデザイン・制御とはどんなものとなるのだろうかと考えてみたくなる。それはそれで新たな場が作り出されようとしているのかもしれない。
webデザインの固定的なものとは、上で書いたように紙媒体を主な表現の場としてきたグラフィック・デザインから継承されてきていると考えられる。これと対立する相対的なものは、webの本質的なウィンドウや文字の可変性、ブラウザ間での表示の違い、複数のメディアでの性質の違い、を見越し模索されていく(これからの話)。これらを調停するもしくはより理解するための考え方としては、たとえばプログラミングによる制作が参考になるのではないか?と思う。一部の音楽家やグラフィック・デザイナーはソフトウェアやプログラミングを自ら制作する者が出てきている。使用者の自由や作品の多様性を確保する構造のレベルでの設計こそが制作である、という姿勢だと思う。これと近いものが即興演奏の作品の記譜を残す音楽家、舞台作家、スポーツにおける監督のあり方、ミクスト・メディアといわれる作品展開のプロデューサー、かもしれない。機能的もしくは美的な制御を高次のレベルで行う方法についての具体的な例が、ここにあるのではないだろうか。
機能的であること、もしくは規則に正確であること、このことを受け入れた上で、なおかつ美的だとか気持ちがよいとか複雑な方へ向けるには、具体的にどうすべきなのか。今現在標準化団体の呼びかけている正しいweb、ユーザビリティ、アクセシビリティという考え方を守っていては、面白そうなものはできないという確信がある。これが展開することで技術的な可能性が生まれてくることは当然期待できる。けれど現段階で間違った方法(本人達にはそれなりの理由があってなのだけれど)で、より複雑な制作を実現してきている、というもう一つの歴史がある。現時点での標準化の動きはこれをひとまず殺してしまう可能性がある。もちろん技術を捨て去ること、後戻りすることはできない。それは記憶を消してしまえることと同義だろう。