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chris cunninghamレトロスペクティブ上映。
これはresfestというユーロ、アメリカ、日本を巡回しているデジタル・フィルム・フェスティバルのプログラムの一つで、autechre、aphex twin、squarepusher、bjrok、leftfieldなどのミュージック・ビデオや自身の[ flex ][ monkey drummer ]未公開作品を一挙上映した。autechreのもの以外すべてはじめて観た。
以前からかねがね名前だけは知っていたけれど、かなりその世界では有名な人のようで。作品の中にみうけられた全体に共通した二つの印象。映像を音(ビート)に編集でできる限り合わせること、映像の素材となるあらゆる要素のテクスチャーを抽象化して提示すること。bjorkの主演した映画[ dancer in the dark ]のミュージカルのシークエンスなどを思い浮かべてもらえばいいと思う。ヒップ・ホップはターンテーブルによって、ドラムンベースはハードディスクレコーダによって可能になったと僕は考えるけれど、両者を違えていたのは、素材をいかに切り刻み圧縮変換をかけ空間内に配置するかという、素材配置の解像度の高さにあると思う。彼の制作は、このドラムンベースの複雑さにどれだけ合わせることができるかで、その独自性を開花したような気がする。また水の中での、髪や身体の動きの緩やかで独特のもったりとした慣性運動を効果的に扱うportisheadの作品、裸の肉体の運動を照明やクロースアップなどによって人体というより一つの肉として扱おうとしているかにみえる[ flex ]などなど、彼の作品は物質が運動によって変化するテクスチャーを抽象的に扱い、物質の持つ現実的な文脈の意味を剥ぎとろうとしている、もしくはテクスチャーの変化そのものが主題になっているかのような印象を受ける。
彼の経歴というのは知らないけれど、cg制作だけでなくautechreやbjorkの作品でみせたような物理的な制作、撮影、編集とトータルの制作工程に関する知識を彼は持っていそうだ、というのがかなり興味深かった。bjorkの作品がいい例で、ここではaiロボット同士が別の制作ロボットによって作られながら愛し合うというような「性的示唆」をみることができる。どの程度か動けるロボット(のようなもの)を実際作ること、ライティング、それらの撮影、bjorkの顔の表情の撮影、その映像とロボットの映像の貼付け、編集など多岐に渡っている。それらすべてを個人的なレベルで実現できる環境が整ってきたことが関係していると思う。そしてそれをもっとも大きく支えているのがcg技術だろう。ポストロックという言い方がtortoiseに使われる。これは演奏以降の編集作業いわゆるポストプロダクションにもかなりの比重をかけた音楽を指している。このことはカニンガムに当てはまる。というより映画の制作工程そのままなんだけれど。ただしポストプロダクションという言い方が適切でなくなっている。というのも下手をすると物理的領域での制作(プロダクション)は単なる要素集めでしかなく、ポストプロダクション自体が主なプロダクションとなってしまっているから。映画における撮影では、編集の前のやりなおしのきかない生演奏というような組立がなされる。その後にそれらの映像の切り貼りという従来の映画の編集が来る。けれども彼のような方法では、生演奏のような厳密な組立だけが求められるわけでもない。コンピュータ上で、これらの素材となる映像の主たる組立や編集が循環的に行われる。
昔[ バットマン ]のメイキングをnhkでやっていたのを観たことがあるのだけれど、バットマンがビルの高いところから飛び降りて着地、普通の人間の格好になってカメラに向かって歩いてくる、というシーンのcg制作の過程を扱っていた。最後の歩くシーンのみを役者に演技させ、残りはcgでいこうという話になっていたらしいが、若干演技のシーンが増えたそうだ。理由は役者の権利関係辺りにあるという。スタントを使わずとも写せるところをあえてcgを用いるのは役者の肖像権に抵触するだとか、なんとかだったような。逆にハリウッド映画がこれでもかとものすごいvfxを用いているけれど、よくできているけれど微妙なところでそれがはっきりと偽物とわかってしまうので萎えてしまう。vfxが目的としているのは役者や自然物質との違和感のない映像をcg技術によって融合させる複製的生成(いかにそれっぽく現実に存在しているようなものを作る)である。カニンガムは、エイフェックス・ツインの作品でリチャード・d・ジェームスの顔を子供や水着姿の女の身体に貼り付けている。いわゆるアイコラとは逆の方向に違和感を際立たせてようとしていて、cgと現実の素材の相対的な混合による組立になると思う。つまりcgは現実の複製を行うために用いられるだけでなく、非現実的な映像的現実を生み出す技術であるという視点をも持ち始めている。主人公に金城武の姿を用いたゲームのようにバットマンの例を積極的に推し進めたものがあるそうで、そうした例がこれから頻繁に出てくるだろう。役者の仕事も変化し、演技だけでなく身体運動、声、表情、肉体の質感という身体的断片を提供することになる。これは人間軽視につながる方向として議論を呼ぶことになると思うけれど、ある意味では小津やキューブリック、北野武のやってきた流れの現在もっとも純粋化した方向でもあると思う。対象を徹底的に操作するために、要素をサンプルし微分化、そして再シンセサイズするという方向。映画の制作プロセスが、舞台の上で物語の中を全的に運動する役者から時空間的に断片的に運動する存在にしてしまったことを考えるとそう簡単にいえないだろう。そして物語の存在そのものがそうした断片化をそもそも要求する本質を持っていることを考えれば。そして物語が現実の要素のみを扱わず、音楽のように抽象的な形態の運動の類型の制作をも含んでいると考えれば。
ところでエイフェックス・ツインの作品はビートの存在が圧倒的で、これでもかといわんばかりに音域もリズムも変化する。カニンガムの映像は、これにぴたりと合うように編集上の単位でもって作られている。音楽と映像が合うこと、というのはどうもこういう強さやメリハリの明確さばかりなんだろうか?ピタリと合う音と映像が気持ちいいのは最初のことで、おそらく飽きてしまうだろう。音と映像の結びつきというのは、それだけではないんじゃないかとも思ったりした。ちょっと受容しつづけるのはしんどい。あとやはりエイフェックス・ツインはあわないかもしれない。音の志向が暴力的に思えてそれが僕にはつらい。大味だという意味ではなくて、暴力的な自動性によって音が制作されている、というような意味だろうか。今回聴いていてかなり面白く聴けたけれども、ヘビーローテーションにはならない。
受容
- 映像 [ special screening: retrospective by chris cunningham ]
- ラーメン [ 醤油ラーメン ] 作の作@宗右衛門町