2002/11/

11/30

リンク色の変更。

訪れたページと未訪問のページの色を入れ替えました。注意してください。

chris cunninghamレトロスペクティブ上映。

これはresfestというユーロ、アメリカ、日本を巡回しているデジタル・フィルム・フェスティバルのプログラムの一つで、autechre、aphex twin、squarepusher、bjrok、leftfieldなどのミュージック・ビデオや自身の[ flex ][ monkey drummer ]未公開作品を一挙上映した。autechreのもの以外すべてはじめて観た。

以前からかねがね名前だけは知っていたけれど、かなりその世界では有名な人のようで。作品の中にみうけられた全体に共通した二つの印象。映像を音(ビート)に編集でできる限り合わせること、映像の素材となるあらゆる要素のテクスチャーを抽象化して提示すること。bjorkの主演した映画[ dancer in the dark ]のミュージカルのシークエンスなどを思い浮かべてもらえばいいと思う。ヒップ・ホップはターンテーブルによって、ドラムンベースはハードディスクレコーダによって可能になったと僕は考えるけれど、両者を違えていたのは、素材をいかに切り刻み圧縮変換をかけ空間内に配置するかという、素材配置の解像度の高さにあると思う。彼の制作は、このドラムンベースの複雑さにどれだけ合わせることができるかで、その独自性を開花したような気がする。また水の中での、髪や身体の動きの緩やかで独特のもったりとした慣性運動を効果的に扱うportisheadの作品、裸の肉体の運動を照明やクロースアップなどによって人体というより一つの肉として扱おうとしているかにみえる[ flex ]などなど、彼の作品は物質が運動によって変化するテクスチャーを抽象的に扱い、物質の持つ現実的な文脈の意味を剥ぎとろうとしている、もしくはテクスチャーの変化そのものが主題になっているかのような印象を受ける。

彼の経歴というのは知らないけれど、cg制作だけでなくautechreやbjorkの作品でみせたような物理的な制作、撮影、編集とトータルの制作工程に関する知識を彼は持っていそうだ、というのがかなり興味深かった。bjorkの作品がいい例で、ここではaiロボット同士が別の制作ロボットによって作られながら愛し合うというような「性的示唆」をみることができる。どの程度か動けるロボット(のようなもの)を実際作ること、ライティング、それらの撮影、bjorkの顔の表情の撮影、その映像とロボットの映像の貼付け、編集など多岐に渡っている。それらすべてを個人的なレベルで実現できる環境が整ってきたことが関係していると思う。そしてそれをもっとも大きく支えているのがcg技術だろう。ポストロックという言い方がtortoiseに使われる。これは演奏以降の編集作業いわゆるポストプロダクションにもかなりの比重をかけた音楽を指している。このことはカニンガムに当てはまる。というより映画の制作工程そのままなんだけれど。ただしポストプロダクションという言い方が適切でなくなっている。というのも下手をすると物理的領域での制作(プロダクション)は単なる要素集めでしかなく、ポストプロダクション自体が主なプロダクションとなってしまっているから。映画における撮影では、編集の前のやりなおしのきかない生演奏というような組立がなされる。その後にそれらの映像の切り貼りという従来の映画の編集が来る。けれども彼のような方法では、生演奏のような厳密な組立だけが求められるわけでもない。コンピュータ上で、これらの素材となる映像の主たる組立や編集が循環的に行われる。

昔[ バットマン ]のメイキングをnhkでやっていたのを観たことがあるのだけれど、バットマンがビルの高いところから飛び降りて着地、普通の人間の格好になってカメラに向かって歩いてくる、というシーンのcg制作の過程を扱っていた。最後の歩くシーンのみを役者に演技させ、残りはcgでいこうという話になっていたらしいが、若干演技のシーンが増えたそうだ。理由は役者の権利関係辺りにあるという。スタントを使わずとも写せるところをあえてcgを用いるのは役者の肖像権に抵触するだとか、なんとかだったような。逆にハリウッド映画がこれでもかとものすごいvfxを用いているけれど、よくできているけれど微妙なところでそれがはっきりと偽物とわかってしまうので萎えてしまう。vfxが目的としているのは役者や自然物質との違和感のない映像をcg技術によって融合させる複製的生成(いかにそれっぽく現実に存在しているようなものを作る)である。カニンガムは、エイフェックス・ツインの作品でリチャード・d・ジェームスの顔を子供や水着姿の女の身体に貼り付けている。いわゆるアイコラとは逆の方向に違和感を際立たせてようとしていて、cgと現実の素材の相対的な混合による組立になると思う。つまりcgは現実の複製を行うために用いられるだけでなく、非現実的な映像的現実を生み出す技術であるという視点をも持ち始めている。主人公に金城武の姿を用いたゲームのようにバットマンの例を積極的に推し進めたものがあるそうで、そうした例がこれから頻繁に出てくるだろう。役者の仕事も変化し、演技だけでなく身体運動、声、表情、肉体の質感という身体的断片を提供することになる。これは人間軽視につながる方向として議論を呼ぶことになると思うけれど、ある意味では小津やキューブリック、北野武のやってきた流れの現在もっとも純粋化した方向でもあると思う。対象を徹底的に操作するために、要素をサンプルし微分化、そして再シンセサイズするという方向。映画の制作プロセスが、舞台の上で物語の中を全的に運動する役者から時空間的に断片的に運動する存在にしてしまったことを考えるとそう簡単にいえないだろう。そして物語の存在そのものがそうした断片化をそもそも要求する本質を持っていることを考えれば。そして物語が現実の要素のみを扱わず、音楽のように抽象的な形態の運動の類型の制作をも含んでいると考えれば。

ところでエイフェックス・ツインの作品はビートの存在が圧倒的で、これでもかといわんばかりに音域もリズムも変化する。カニンガムの映像は、これにぴたりと合うように編集上の単位でもって作られている。音楽と映像が合うこと、というのはどうもこういう強さやメリハリの明確さばかりなんだろうか?ピタリと合う音と映像が気持ちいいのは最初のことで、おそらく飽きてしまうだろう。音と映像の結びつきというのは、それだけではないんじゃないかとも思ったりした。ちょっと受容しつづけるのはしんどい。あとやはりエイフェックス・ツインはあわないかもしれない。音の志向が暴力的に思えてそれが僕にはつらい。大味だという意味ではなくて、暴力的な自動性によって音が制作されている、というような意味だろうか。今回聴いていてかなり面白く聴けたけれども、ヘビーローテーションにはならない。

受容

映像 [ special screening: retrospective by chris cunningham ]
ラーメン [ 醤油ラーメン ] 作の作@宗右衛門町

11/26

nttからの応答未だなし。

画像要素とアナログ的性質。

たとえば nttのフレッツ・モアのページ などはどこにもテキストデータがなく画像だけが使用されている。これはかなり極端な例で同時にもっとも紙媒体の伝統を受け継いだものだと思う。おそらく真っ当なソースを書くことをモットーにしている規格派の連中からの非難の集中砲火が期待される。これほど極端でなく多くのweb制作者は強調したい部分には画像を使い、それ以外ではテキストデータを用いる。windowsに標準搭載されているmsゴシックという共通するフォントを一般的に指定した方が、無難に多くの環境で再現できる。けれどその方法を取るかぎり他と自らをフォントで視覚的に差別化することが難しい。画像化されたフォントはぼかしがかかって美しいし多様性も圧倒的で楽しい。画像が敬遠されるのは、ファイルが重くなりダウンロードに時間がかかるからだし、画像を使ってもそれを扱えない環境のために制作者が代替テキストを用意しないからでもある。もし両者が解決されれば、それでも画像を用いることは悪なのだろうか?adslやftthが普及してしまえばユーザを待たせることはなくなり、代替テキストを常に用意していれば、音声ブラウザや文字ブラウザでも画像部分の文脈が抜け落ちるということはなくなる。けれどまだ意見が残っている。画像という固定的な要素を扱うことは、そのサイズが多様な環境に関わらず反映されてしまい、全体としての表示が適切になされない、というもの。それらに関しても、はなはだ面倒だけれど一応すべての環境毎にスタイルシートを用意するだとか、スクリプト処理を行うことで、ある程度まで対応できる。これらの上でもなお画像は使わないほうがいいのだろうか?イエス、といわれそうだ。

紙媒体での視覚的デザインがweb制作でも引き継がれているけれど、画像要素はその象徴であり、規格派が批判するのはデジタルではないデータを用いることである。つまり組替えがきかず固定的なデータのことで、これには先ほどからの画像だけでなくflashやjavaアプレットが占める空間もフォントサイズの固定指定も含まれる。これらはあまり使わないほうがいいとか、用いるのに充分な注意が必要だ、とどうも使用に消極的な意見が出る。デジタルで扱えるデータを扱うほうが、より機能的で民主的であり、多くの人間に受容される環境に適している。今の段階ではこれらアナログデータを扱うには、煩雑で面倒で複雑な手続きが必要になる。それよりも主体となるテキストデータをきちんと伝えることのできる、模索されてきたシンプルで美しいスタイルを使用すればいいのではないか。という意見の存在。

すべての作業がそこで完結するポータブルなガジェットにも強烈に焦がれつつ、多様な環境でなぜwebを受容しなくてはならないのだろうか?と思う気持ちも拭えない。映画を映画館でしか観れないのは悪なのだろうか?ビデオを観ることに慣れてしまった身には確かに悪なんだけれど、同時にあの物理的な大きさの違いがもたらす印象の圧倒的な違いは、分かりにくいながらもはっきりと存在する。その特性を最大限に生かした内容よりも、それを抑えてまんべんなく受容的できるもののほうがいいという意見はそれと類似して理解でき、商業web制作者はそれを強要されるしかない。同じ論法で固有のメディアの性質を利用したwebの在り方というのもありだと思う。動的なメディアという意味を、デジタルという側面で捉えすぎているのかもしれない。htmlが論文をネットワークで参照するシステムとして発展してきたようだけれど、画像や音声などはじめからマルチメディアを扱うものとしても構想されてきたようで、そこには固有の形態を持ち変更できない要素が含まれている。画像は圧縮・縮小が可能だけれど、だからといってその受容がナンセンスにになるサイズのリミットというのは存在する。映画用の映像を携帯電話で観ることはできるけれどそれをするべきなのか?というと、せっかくのラストの衝撃も陳腐になるから是非劇場へ、とテレビで観ることを諌める紋切り型の言葉をより、より力強く吐くことになると思う。理屈でいうと動的なwebでは、そのような固有の形態を組替え扱えるものでなければならないことになるようだけれど、現行のhtmlの技術でそれができない。だから一方でその使用を戒めるか代替テキストをすすめ、他方で制限付きの発信を批判する。ここでのデジタルな、だとか動的なという言い方は、どのレベルで、という形容が必要だろう。これらについてはもう少し考えてみたい。

受容

音 [ sleigh ride ] anderson/fiedler

11/19

ようやくadsl(もしくはftth)を吟味し始める。

デザインの可変性、メモ。

円周にそってリンクが配置されているようなナビゲーションを採用しているサイトは、わりとデザインに凝ったものの一つの例でよく見ることができる。今日見かけた ooo はその典型だろう。これを行うには固定的指定をする必要があるので、当然ながら以前から言っているデザインとユーザビリティの対立が生じてくる。広くいえばpc以外の環境での閲覧ができなくなるという問題になり、狭くいえばウィンドウのサイズの強要の問題になる。ただこれだけであるならば解決策は一応はある。前者の問題には、スクリプトやxlsを用いて環境毎にスタイルシートを用意することで、ある程度対応できるだろう。後者でいえば、webデザインの経験則でこれ以上は小さくはしないだろうというウィンドウサイズでレイアウトすることで、固定的な表示指定がされていても極端な不自由は感じないだろう。

という前置きで、ただpcでの閲覧だけを前提にしたアイデア。レイアウトをdomを操作するスクリプトを書き、ウィンドウのサイズによって、円を模したレイアウトで別の形態になる、もしくは円の大きさが相対的に変化するというのはどうだろう?相対指定することで厳密な管理の放棄を積極的な意味で解消できるかも。具体的には最小や最大というウィンドウサイズの制約の中でレイアウトを考えなくてよくなる。

受容

本 [ 古典落語 圓生集 下 ] 三遊亭圓生
音 [ dok ] oval
聞えないくらいまで音を落とすことで、物語性を剥ぎ取る

11/14

引き続き、スタイルの調整。

受容

本 [ エロ事師たち ] 野坂昭如
音 [ eutow ][ drane2 ] autechre

11/13

微妙なスタイルの変更。

受容

interaction design, art, [ elastic space studio ]
真っ当なソースを書いている
web/design [ chris.cassell dot.net ]
上より少し劣るけれども
音 [ as far as the eye can see ] oren ambarchi

11/05

友人のwebを制作し始める。

建築だとか、プロダクトデザイン、デザイン史、辺りの文献を漁ろうと思っている。使用者のためという前提を満たしながら、その形態が使用者を欲望させる刺激的だったり過剰だったりするものでなければならない。画像、スクリプトが使用できない環境も少なからずあるというような、形態そのものが環境によって変化するプロダクトが過去どれだけあったのだろう?

受容

web/text [ personnel ]
厳格な規格派という感じでうっとおしくもあるけれど考えの解像度が高い
web/flash[ joshua davis.com ] joshua davis
こちらは有名なflashデザイン派
本 [ インターネットデザイン ] パトリック・バーゴイン+リズ・ファーバー

11/02

京都へ。

受容

ラーメン [ 醤油ラーメン ] ほそかわ@西京極
オーソドックスな醤油味を少しこってりさせた感じで悪くない
雑誌 [ axis ]
産業製品のデザインを扱う
喫茶 [ ウィンナーコーヒー+ドーナツ ] 六曜社@三条河原町
本 [ インターネットデザイン ] パトリック・バーゴイン+リズ・ファーバー
w3cとwebデザイナーを現実的に調停しようという野心