2002/12/

12/31

変換の可能性について。

年末ほとんど初めてまともにnhk紅白歌合戦を通して観た。こうやってすべて観てみるといろいろと気付いて面白かった。ここではアイドルと演歌歌手の伴奏について書こうと思う。出ていた浜崎あゆみでもモーニング娘。でもケミストリーでもいいわけだけれど、彼等は自分の歌のオケに独自の音源を確保している。浜崎はゴージャスに大人数の弦楽セットと自分のバックバンドを用意していたし、ケミストリーと娘。はおそらくカラオケだった。これに対してサブちゃんなどの往年の演歌歌手はnhkのオーケストラに演奏をしてもらっていた。このことは現在だとなかなかめずらしいもしくは懐かしい光景なんだろう。

オーケストラの存在は昔の音楽番組だと自然なものだったわけで、80年代人気があった若者向けのザ・ベストテンという歌番組では松田聖子や田原俊彦なんかのアイドルの多くも演歌歌手と同様にオーケストラ(もしくはそこに含まれる軽音楽スタイルのセット)をバックに歌っていた。そこに新しい流れとしてロックバンドなんかが自分で演奏して歌うという形を取っていた。それが現在、唯一の存在の歌う主役と取替えのきく演奏する脇役という分業制が崩れてしまっている。これは鳴っている音にも当てはまり、代替される緩やかな複製される音から唯一性を求められる全的に複製される音への移行でもある。これは音楽産業での制作と販売の形態に大きな変化があったことを示している。興行のスタイル、効率化、新たなテクノロジー、音楽受容者の趣味の多様化、等の因子が具体的に大きく変化したことの理由でもある。

僕が興味深かったのは、鳴る音が舞台ごとに違うということで、これは昔なら当たり前のことだったのだろう。たとえばnhkの懐メロ番組でも、この前あったブライアン・ウィルソンのpet soundツアーでもいいわけだけれど、全く同じ音として演奏することはしない、できない。つまり編曲を変えて複製を行っている。けれども現在の音楽番組で鳴っている若者の音が、懐メロとして20年経って再演される時は、どのようになされるのだろう。同じカラオケを使うのだろうか。それともアレンジしなおしスタジオミュージシャンによって代替的に複製されるのだろうか。まあおそらく編曲をしなおして再演されるのだろう。けれどヒップ・ポップなどはどうなんだろう。音響派は?つまり何がオリジナルか?もしくは用いられた音源は?ということでもある。歌がオリジナルだと考えられている音楽については装飾する伴奏の音が変化しようが、歌声が変化していなければ複製できると考えるけれど、音そのものがオリジナルだと考えるならば、音そのものを複製しなければならない。また楽器ならばまだしも代替する音源を持つ楽器を用意すればいいけれど、楽器音を要素としたコンテクストレベルの音としてのサンプル、もしくは音そのものをエディットした周波数音としか定義できない微細な音を、再現・複製するには、カラオケにするか別の方法論を持ちこむしかない。

逆にとてもひかれるのは、かの楽譜による制作とその再現もしくは再解釈という在り方。場によって鳴る音が変わるという魅力はどうだろうと思う。クラシックのような解釈というよりもより大きな変更を意味する編曲・アレンジの存在が経済的時間的な制約によって日々練りなおされていた。これは演劇やジャズの演奏と同じくクラシックの演奏などよりもっと価値ないものとして記憶にさえ残らない忘れ去るものなんだろうけれど、これでなくてはダメという厳密さとは違い、おおらかさ、幅、遊び、揺れがここにはある。ここにも音楽の本質はあるのだと思う。

受容

音 [ i nt erst i ces ] therre thaemiltz
テレビ [ nhk紅白歌合戦 ]

12/28

ジャポニズム。

たとえばフランス人が浮世絵に魅力を強く感じ、それを大量に受容し研究を行ったり、画風に大きな影響を受けた印象派がいた。現代では村上隆だとかアニメーション、ゲームだとかのスーパーフラットと呼ばれるあたり潮流がそれにあたるのかもしれない。だからといってそれがやっぱり日本てすごいだとか、世界の村上だとか、日本もようやく文化的にも一流だとか、思うのはもちろんナンセンスで彼等には相変わらず日本など存在しない。彼等には浮世絵や村上の美しさや存在そのものが立ち上がってきている彼等の解釈の方法こそが重要なのだろう。どうです日本文化は奥深いでしょうと言うコーディネータの顔はどうしてこんなに醜いんだろうかと蔑みながら、目の前の北斎にとろけてしまっている図なんかが適当だと思う。

フランスやドイツの兄ちゃんが、自分のおじいさんや父親の代のデザインを比べることで、あああいつ等は全然ダサイわ、クソだなとか思うことがあるとしたら、いったいどういった感覚なんだろう?その感覚って日本での同じ状況とはだいぶ事態が違うと思う。裕次郎を時代の圧倒的なインパクトを持った革新として語る親の横で、その映像などの記録を見ると全くダメだと思う自分がいる。音も造形も全く醜いと。ここには西洋の世代間の感じる断絶とは異質なものがあるような気がする。たとえば日本で言えば今の子供は、80年代の銀蝿だとかのヤンキールックを含む当時のファッションの流行が、確実にエッジ感を持っていたことをどう受け取っているんだろう。今、[ めちゃイケ ]で岡村たちがそれをパロディにしてるけれど。あのリーゼントやえげつない色合わせのジャージー、サングラス、特攻服、漢字の刺繍のまとまりは、今見るとひどくインパクトがある。当時の僕にはダサすぎて完全に彼等の存在を含めて消去していたんだけれど、どこか日本的なといわれるアイテムや感覚を西洋のアイテムと組み合わせたことでこれらのものができあがっている。これらをダサイと思うのは、単純には僕の価値観が西洋にシフトしてしまっているはずなのに、身の回りのものがまだまだ日本的な従来のデザインを引き続いていて、その境界の曖昧さに苛立っているという説明が可能かもしれない。

日本酒や缶ビールの、電車の吊り広告の、デザインを見ているとこれらの境界に気付かされる。日本的な色使いや書体を使った日本酒の壜ラベルや包装紙と実は根強く日本酒だとか日本的なデザインの影響を引き継いでいるビール缶などのデザインの微妙な違い、下世話な週刊誌の圧倒的なフォントと文字の配置やどぎつい配色とデザイン学校やファッション誌なんかの情報量の少なさややわらかいパステル調の配色や小さな文字などの違い。日本酒の包装紙やラベルには西洋とは全く別の文化の制作が育ってきたことを垣間見ることができて切なくなる。ビールは存在そのものが輸入されたものでありパッケージのデザインもそれっぽくあるようで、実はというかかなり日本的なデザインによって融和されている。週刊誌のデザインは暴力的で異物が身体に浸入してくる犯されている気分になる。比べてもう一方の西洋の複製から来ているデザインは入ってこない。小奇麗だけれど主体的にこちらから意味を汲み取ろうとしない限り、何も言ってこない感じがする。嫌悪感をもよおそうが、週刊誌のデザインはこちらに入ってくる力を持っている。商売として考えた場合このやり方が明らかにノウハウとして参考になる。ごり押し、ミナミの帝王という言葉と容易に接続可能なイメージを思い浮かべる。それがこの日本的というものそのものではなく一部のはずだけれど、西洋ではこのようなイメージを体現した表現というのは、どういったものなんだろうか。アダルトサイトをみてみればそれは大体明らかになるだろうけれど。そもそもこの週刊誌的なデザインが吉岡洋が言うような自己植民地化のメカニズムにおいて獲得したものだという推理もあながち間違っていないかもしれない。

受容

音 [ e[ ] ] kozo inada
音 [ the roots from the ground up ] the roots
音 [ meme000cd ] compilation

12/22

京都近代美術館にて [ クッションから都市計画まで ヘルマン・ムテジウスとドイツ工作連盟:ドイツ近代デザインの諸相 ]展を観る。

僕の興味は二つ。つまり二つの衝突について、これらがどういった方向を示したのかということ。一つは美的デザインと機能的デザインの衝突について。もう一つは創造性における自由と制約の衝突について。この連盟は近代の工業化にともなって、芸術と産業を融合させる意図で結成され、現代の産業デザインに圧倒的な影響力を持つバウハウスの基盤を地ならしした。バウハウに関しても当然そうなのだけれど、より原初的な状況において彼等の軌跡を知ることに興味があった。

美的側面におけるデザインとは、表面的な装飾(オルナメント)、もしく機能に根本的に関係する形態(フォルム)のどちらを扱うものであるのか?この連盟においては、美的デザインとは後者を扱うとしている。いわば合目的的であること、つまり存在として生起する領域での形態をデザインする方向を選択している。また規格論争と呼ばれる対立がこの連盟において存在したらしい。要するに製品の形態が大量生産のために規格化されることで美的デザインの一部が統一されることになる。それに対するデザイナーの賛否に関する論争ということになるだろう。それは製品の制作が工業化されることで生じた問題であったわけだけれど、ムテジウスはこれを受け入れる。このことによって彼は連盟の若手から糾弾され彼の活動がそこでは取り上げられることはなくなっていったらしいけれど、実際歴史としては規格化への流れは止められるものではなくそれが自明のものとなっていったのは、僕達が知るとおりだ。

受容

音 [ cassette ] makesnd
音 [ matthaus-passion ] bach/gardiner

12/19

受容

ラーメン [ 唐来めん ] 唐来屋@大久保
もう一度行きたいと思える醤油とんこつ味
全く別人のような味に取って代わられていた(3年2月)
音 [ 雨音 ] キセル

12/1?

マリリン・モンロー・ノー・リターン。

深夜にやっていた映画にイヴ・モンタンのすっきりとした顔が映ったので、そのまま腰を据える。一種のミュージカル映画となる。そこにはマリリン・モンローの姿があった。観ていて彼女の顔と身体の組合せに違和を感じた。彼女の存在はアメリカの歴史的なセックス・シンボルとしてイコンと化している。顔から下は肉感的でその性質をまさに象徴している。けれどもそこで見た顔の表情には性的な記号が表れていないように思えたし、様々に変化する表情が読み取れてただただ魅力的だった。まあこちらの勝手な先入観が壊されたという話か。

ミュージカル映画というのは面白いジャンルだと思う。映画の最初期の、舞台を定点固定したカメラに収める、というのとは当然違う。かといって断絶してしまったわけでもない。踊り、歌、歌の歌詞、表情の作り方などミュージカルを成立させるものの存在が、どういった制作なのか、どう制作者は考えているのかを考えさせてくれる。そういう制作の内部のほころびがみえるジャンルじゃないかと思う。

受容

映画 [ 恋をしましょう ]

12/15

受容

ラーメン [ 塩 ] ジャパンラーメン@飾磨
家屋兼店舗など胡散臭いところ一杯だけれど味はなかなかよい
音 [ two months off ] underworld

12/05

sketch showライブに行く。

冒頭、開演前にモンド音響的なdjプレイを若手にさせていたり、伝統的な舞台エンターテイメントのパロディみたいに挨拶をしたり、ymoの曲を思いがけずアコースティックでモンド・スタンダード調にカバーしていたりと、まさにショーとしてのバラエティさを充分楽しめた。今回、細野氏とコーネリアスの共演にも関心があったけれど、肩透かしするように、ただバンドの一メンバーとして寡黙に演奏していたのも意図だとしたら憎らしかった。テクノポップ・イズ・バックともいえる[ turn turn ]の音のかわいさや細野晴臣のスタンダード好みが出た[ theme from a summer place ]の今までにきっとないアレンジを聴けてよかった。

ただし不満もあった。音の選択について、ちょっとその音は今は違うんじゃないの?といったこと。特に後半のクラブトラックものは、強いだけのビートを欲していないこととあいまって、彼等おなじみシーケンスパターンやごりごりの揺れのないごりごりなビートだとか。それは前半でも感じていて、vjで参加した高木正勝的な粒子のようなテクスチャーを持つ電子音を全編に配していたけれど、それは今もってテクノに埋没した耳で嗅覚が自然と選択されたものというより、マーケティングによって取って付けたようなものに思え、もう少し咀嚼できなかったのでしょうか?と。もはやテクノという言葉は、ロックという言葉と同じく恥ずかしいもののなってるわけだし。

受容

ライブ [ wild sketch show ] sketch show@なんばhatch